| 「世界史」の流れを26のピースに輪切りし、地域別に定点観測してみたら、新しい世界史の教科書ができました。[共通テスト対応版]: 時代別「輪切り」と 地域別「定点観測」で学ぶ | |
| World History Lecture | |
| (2019) | |
はじめに
本書は,世界史を「とことん極める」ことを目的に,700万年前から現代にいたる世界史を26段階に
「
輪切
り
」すると同時に
,
地域ごとに分
解
して再構成した講義形式のテキストです。
同じ地域を時代別に読み飛ばすもよし,同じ時代のさまざまな地域を比較するもよし。縦横無尽に活用ができるよう工夫しました。
大学入試での活用にも対応し,大学入
試
センター試
験
に出題されたことのある箇所を本文中に示しています。頻繁に問われてきた語句は何なのか,どのようなひっかけ問題がつくられるのか確認することもできます。
また
,
文化
史
も本文中に入れ込み,各時代の出来事や時代と関連付けて説明してありますので,別々に学習しがちな文化史も,世界史の流れの中での理解を目指します。
さらに,アマゾン川流域やアフリカ各地,シベリア,北アメリカ,オセアニアの人々など,世界史学習で
は
スポットの当たりにくい地
域
も取り扱っています。
● 約 70 0 万年前~ 前 1200 0 年の世界 人類の出現
●前 1200 0 年~ 前 350 0 年の世界 人類の生態の多様 化 ①
●前 1200 0 年~ 前 350 0 年の中央ユーラシア
●前 350 0 年~ 前 200 0 年の世界 人類の生態の多様 化 ②
●前 200 0 年~ 前 120 0 年の世界 生態系をこえる交 流 ①
●前 120 0 年~ 前 80 0 年の世界 生態系をこえる交 流 ②
●前 80 0 年~ 前 60 0 年の世界 生態系をこえる交 流 ③
●前 60 0 年~ 前 40 0 年の世界 生態系をこえる交 流 ④
●前
40
0
年~
前
20
0
年の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合の広域
化
①
南北アメリカ:都市文明の発達
●前
20
0
年~紀元前後の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合の広域
化
②
南北アメリカ:各地の政治的統
合
Ⅰ-①
●
紀元前後
~
20
0
年の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合の広域
化
③
南北アメリカ:各地の政治的統
合
Ⅰ-②
●20
0
年
~
40
0
年の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合の広域
化
④
南北アメリカ:各地の政治的統
合
Ⅰ-③
●40
0
年
~
60
0
年の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合をこえる交
流
②
南北アメリカ:政治的統合をこえる交
流
①
●60
0
年
~
80
0
年の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合をこえる交
流
③
南北アメリカ:政治的統合をこえる交
流
②
●80
0
年
~
120
0
年の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合をこえる交
流
④
南北アメリカ:政治的統合をこえる交
流
③
●120
0
年
~
150
0
年の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合をこえる交
流
⑤
南北アメリカ:政治的統合をこえる交
流
④
●150
0
年
~
165
0
年の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合をこえる交
流
⑥
(
沿海部への重心移
動
)
南北アメリカ:欧米の植民地
化
①
●
165
0
年
~
176
0
年の世界
ユーラシア・アフリカ:欧米の発
展
①
(
沿海部への重心移
動
)
南北アメリカ:欧米の植民地
化
②
●
176
0
年
~
181
5
年の世界
ユーラシア・アフリカ:欧米の発
展
②
(
沿海部への重心移
動
)
南北アメリカ:欧米の植民地
化
③
●181
5
年
~
184
8
年の世界
ユーラシア・アフリカ:欧米の発
展
③
(
沿海部への重心移
動
)
南北アメリカ:独
立
①
●184
8
年
~
187
0
年の世界
ユーラシア・アフリカ:欧米の発
展
④
(
沿海部への重心移
動
)
南北アメリカ:独
立
②
●187 0 年 ~ 192 0 年の世界 世界の一体 化① :帝国の拡 大 Ⅰ
●192 0 年 ~ 192 9 年の世界 世界の一体 化② :帝国の拡 大 Ⅱ
●192 9 年 ~ 194 5 年の世界 世界の一体 化③ :帝国の動 揺 Ⅰ
●194 5 年 ~ 195 3 年の世界 世界の一体 化④ :帝国の動 揺 Ⅱ
●195 3 年 ~ 197 9 年の世界 世界の一体 化⑤ :帝国の再 編 Ⅰ
●197 9 年~現在の世界 世界の一体 化⑥ :帝国の再 編 Ⅱ
表記について
1.読み方
なるべく現地語主義をとっていますが,万全を期すものではありません。慣例の表記がないと理解しにくいものについては〔 〕や( )で囲み併記しました。外国語の転写の方法は,『角川世界史事典』等を参照しました。
(例)コロン〔コロンブス〕
2.人名
人名は,地名など他の語句と混同しないように〈 〉で囲みました。
3.生没年・在位年・在任年
(1) 人名の後の( )には,よみがなや生没・在位・在任年などを付しました。
(2) 宰相・首相・大統領・閣僚などは在「任」としました。
(3) 国王・皇帝などは在「位」としました。
(4) 何も書いていない場合は,生没年を表します。異説がある場合は併記しました。
まったく不詳の場合には「生没年不詳」と表記しました。
4.その他の語句
(1) 読みにくい言葉の後には,( )を付け,よみがなを付けました。
(2) 異称がある場合は,「;」を用いて併記しました。
5.年代
(1) 「紀元前」は「前」と表記,「紀元後」の年号はおおむね省略していますが,紀元をまたぐ場合には表記しました。
(2) 「年」を省略して「1453」のように表記してあることもあります。
(3) 明らかではない年代には数字の後に「?」を付け,異説がある場合は併記しました。
6.参考資料・史料
(1) 書籍名には『』を,その他の作品名には「」を用いました。
(2) 史料・資料に基づいた引用には「」とともに出典を(注)に示しました。
(3) セリフ調の説明,例えた言葉やくだけた表現,通称には" "や「 」を用いています。
7.地域
(1
)
大
地
域
各時代において,アメリカ→オセアニア→アジア・中央ユーラシア→アフリカ→ヨーロッパの順に解説しています。
(2
)
中
地域 各大地域において,おおむね東→南→西→北→中央の順番に述べています。
(3
)
小
地域 現在の国家所在地を基本単位とし,各小地域において東→南→西→北→中央の順番に解説しています。
わたしたちは「世界史」をどのようにまとめることができるのでしょうか。
ここでは「時間」,「環境」,「地域」の3つの観点から考えていきましょう。
お急ぎの方は,読み飛ばしていただいても構いません。
◆
世界史はいつからはじまるのか
インド古来の伝説によると,神様がミルクの海をぐるぐるとかき混ぜると,そこから太陽や月,牛や人間など,あらゆるものが生まれたのだといいます。この
「
乳海攪
拌
」の光景は,世界遺産アンコール・ワットの第一回廊のレリーフの劇的に再現されています。
一方,現代の科学者たちは,この宇宙の世界の始まりには「乳海攪拌」ではなく,「ビッグバン」が起こったのだと考えています。それは現在か
ら
約
13
7
億年
前
のことであるとされ,宇宙
しかし,ひとまずわれわれは,「世界史」
を
人類の誕
生
からまとめていこうと思います。それは,今か
ら
約
70
0
万年
前
にさかのぼります。
文字に残された記録が現れるのは,だいたい今から約5000年前のこと。過去にあったこと
を
文
字
情報をもとに復元できるのは,それ以降のことになりますし,常に文字の資料が十分にのこされているとは限りませんので,関連する遺骨・遺物や地層の状態などの"状況証拠"をもとに,過去を復元することも必要となります。
◆
どこで時代を区切るべきか
とはいえ,それでも「約700万年」というのは長大です。いっぺんに取り掛かるのは無論,無謀です
(注
)
。
じゃあ,どこかで区切ればいいじゃないか,ということになる。
でも,今度はどこで区切るべきかが問題です。
どのよう
な
観
点
や
指
標
に基づくかによって,区切り方はただ一つに定まるわけではありません。
例えば,子供の成長を区切る方法を考えてみましょう。
①誕生~,②こども園児時代,③小学生時代,④中学校時代...のように時期区分することができるかもしれません。
でも,②こども園から,③小学校に上がると,何から何まで全部が劇的に変わってしまうのかというと,そういうわけではありませんね。
通う場所や目的,交友関係や活動範囲は変わるかもしれませんが,子どもの中身が「別人」のようになってしまうわけではありません。それは,③から④にかけての変化でも同じことです。
そうなると,交友関係の広がりに応じて,時期を区切ることも可能かもしれません。発達心理学の考え方を用いて,認知的な発達の度合いに応じて時期を区切ることも可能でしょう。
大切なことは,「時代区分」というのは,ある一定の基準や指標に基づいて区切られるものであるがゆえに,すべてをカバーする区切り方というのはとてもむずかしい。でも,区切ったほうが,区切らないよりも,その時期の特徴を取り出して議論することができるようになります。
そういう意味で,時期区分というのはあくまで便宜的なものに過ぎないということです。
先の例でいえば,われわれは②こども園児時代から③小学生に豹変するのではなく,②の自分
を
抱えなが
ら
③の時代に入り込んでいくのです。
それが,世界史の「時代区分」となると,さまざまな地域のさまざまな人間が関わってくるわけですから,全員が
「
せーの
!
」で一斉に「中世!」とか「いまから近代!」のようになるわけはありません。すべての地域が一律の"お手本"に従い,段階的に"進化"していくように見えることもあるかもしれませんが,現在ではそのような一般法則
(
発展段階
説
)は認められていないのです。
とはいえ,世界史を眺めてみると,要所要所に,多くの地域を巻き込むようなインパクトを持
つ
共時
的
な変化に出くわすことがあります。
そのような変化を駆動する
もちろん,全世界的
(
グローバ
ル
)に,ほぼ同時にわれわれの社会が変化するということは,たとえ,21世紀の現在であっても,そんなに簡単なことではありません。学びやすさも考慮し,あくまで便宜的に切り分けたものだと考えてください。
◆
2
6
のパーツには,大きな3つの節目がある
26のパーツには,さら
に
3
つ
の重要な節目があります。
第
一
の節目は,今か
ら
約1万年
前
。
人間が動物を飼いならし,植物の生育をコントロールするようになっていく時期です。
第
二
の節目は
,
西
暦
80
0
年
頃
。
気候が比較的温暖になり,人間の活動範囲が拡大していく時期にあたります。
第
三
の節目は
,
西
暦
176
0
年
頃
。
蒸気機
関
が発明され,人間が莫大な力を持つパワーを手にしてからの時代。
この時代区分はもちろん便宜的なものですが,「世界史」に取り組む上での一つの
(注1)デヴィッド・クリスチャン他『ビッグヒストリー われわれはどこから来て,どこへ行くのか――宇宙開闢から138億年の「人間」史』明石書店,2016。
(注2)そもそも,「世界史がわかる」とか「●時間でわかる世界史」などという触れ込みが,到底不可能な代物であるということは,自明です。「わかる」のではなく,「わかった気になる」といったほうが正確です。学校教育には様々な科目が用意されていますが,「世界史」ほど得体の知れない科目はありません。ともすれば,"苦役の道"をたどり,重箱の隅をつつくように用語をたくさん詰め込めば「わかった」ことにされがちな落とし穴を抱えています(小川幸司「苦役への道は世界史教師の善意でしきつめられている」『歴史学研究』 (859),青木書店,2009年10月号,p.191-200。
◆
世界の舞台はどこにあるのか
世界史の舞台は,もっとも大きなスケールで考えると,われわれの地球を
われわれ
の
地
球
は,われわれの銀河系の中の,われわれが「太陽」と呼ぶ恒星を周回する惑星です。
地球という惑星
は
水
と
大
気
が豊富で,自らの情報を複製・継承することのでき
る
生
命
(細菌,古細菌,真核生物
(動物・菌類・植物)
)
で満ちあふれ,複雑に絡み合っ
た
生態
系
(エコシステム)を形成しています。
太
陽
のもたらす莫大なエネルギーは,生命の活動の源であり,水や大気の循環にも影響し,地球内部のエネルギーとともに
,
気
候
や
地
形
に変化を与え続けています。
◆
人類の生態にはどのようなパターンがあるのか
われわれ人類も,そんな舞台で活動する動物の一種
(
ホ
モ=
サピエン
ス
)であり,生態系の一員。
その発達した知能と情報共有能力を駆使し,各地の気候や地形に合わせ,他の生物と共生・競合しながら,みずからを環境
に
適
応
させていった点が,人類という動物の持つ大きな特徴です。
◆
「定住
」(
動かない暮ら
し)
と,「遊動
」(
動く暮ら
し
)
多くの動物同様,初期の人類は動物や植物を獲得することで食料を得ていました
。
狩猟・採
集
生活です。魚介類をつかまえること
は
漁
労
〔
一方,今から約1万年前を過ぎたころ,地球の気候が各地で変動する中で,人類は動物や植物を管理し繁殖・収穫させる技術を獲得していきます
。
農
耕
・
牧
畜
の開始です。
牧畜をするにはある程度の広い土地が必要ですし,狩猟・採集と組み合わせるケースもありましたから,農耕・牧畜イコール
「
定
住
」というわけではありません。熱帯地域では
このように「移動」の観点から人類の生態をみると,
「
定
住
」と
「
遊
動
」の2つのパターンの組合せが選択肢として考えられます。「動かない」と「動く」の違いというよりはむしろ,
「
あまり動けな
い
」と
「
動かざるをえな
い
」といったほうがいいかもしれませんね。種を一度植えてしまったらみんなで面倒をみなければいけませんし,雨が降らず家畜に与える餌がなくなれば移動せざるをえないですから。
◆
「遊牧」という選択肢
人類は各地の気候に合わせ,それぞれ
の
生態系の一員とし
て
,狩猟・採集・漁撈や,農耕・牧畜を組み合わせ
た
生
態
を営んでいきます。
しかし,今から約3000年ほど前になると,新しいタイプの生活スタイルをとる人類が現れます。
「
遊
牧
」です。
これも,生活スタイルを「とる」というよりは,「とらざるを得なかった」といったほうがよいでしょう。
世界各地に分布する沙漠の一歩手前の気候であ
る
ステップ気
候
。降水量が少ないために,まばらな草原が広がるばかりで,水場でなければ定住・農耕は難しい地帯です。
その地で家畜の群れをコントロールしながら,季節ごとに草原地帯を廻りながら生活する形態が「遊牧」です
(
遊
んでいるわけではありません)。
◆
異なる生態を営む人類どうしの「共生」と「競合」
「遊牧」を営まざるをえない地域は
,
乾
燥
している地域のうち,あとちょっとで沙漠になりかねない草原
(
ステッ
プ
)地帯です。
世界地図をみてみると,アフリカの北部や,ユーラシア大陸の沙漠の周辺部に分布していることがわかります。
遊牧民にとって家畜(livestock)は生きている資産(stock)です。家畜が死なないように,草原と水場を求めて遊動します。
季節によって農耕を営むケースもありますが,基本的に彼らは家畜からつくられたモノ(肉,皮,毛,乳製品など)を,別の生態を営む定住農牧エリアの人々の生み出したモノ(農産物や手工業製品など)
と
交
換
することで生活を成り立たせています。
遊牧民は家畜にまたがって戦うことを得意とし
,
軍事
力
の面でも定住農牧民に優っていました。
一方
,
経済
力
の面では,収穫物を蓄えることのできる定住農牧民のほうに軍配が上がります。
両者は,互いに足りないものを補い合う
「
共
生
」関係をとることもあれば,相争う
「
競
合
」関係に入ることもあります。
同様に
,
海
を活動範囲とする人々
(
海
民
)の間にも,海獣の狩猟や漁撈,海産物の採集などを営んだり,沿岸や島で農耕を行ったりする者がいて,互いに足りないモノを補い合ったり,陸を活動範囲とする人々と関係を結ぶケースもみられます。
また
,
森
を活動範囲とする人々も,狩猟・採集で得たモノを,異なる生態を営む人々との間と交換していました。
このように,人類はそれぞれの環境に適応し異なる生態を営むことができたからこそ,様々な
「
交
流
」が生まれ,しだい
に
情
報
や
技
術
が地域
を
またい
で
拡大し,各地に特色あ
る
広域エリ
ア
が生まれていくことになるのです。
さらに,人類
の
群
れ
が,親族グループのような顔見知り
の
集
団
を超え,ある一定規模にまで達するようになると,これまた地域ごとに特色ある政治機構
(
国
家
)と,それを支える組織化された思想
(
宗教組
織
)が発達していくことになります。
◆
環境は有限である
人類は誕生以来,平均気温のアップダウンや気圧配置の変化といっ
た
気候変
動
や,地球内部の活動にともな
う
地
震
や
噴
火
も,人類に計り知れない影響を与えてきました。
また,過剰な開発により環境に対し
て
負
荷
をかけすぎたために,持続することができなくなった人類集団の事例は,世界史の中に数多く見られます。
特に1760年以降
,
人
類
は自らの活動範囲を生物圏(動植物の世界に)に対して飛躍的に拡大し,大気や海洋,土壌(石炭などの鉱産資源)といった生態系そのものに,取り返しの付かないような影響力を発揮していくようになりました。
人類の個体数(人口)は,理論的には倍に倍に増えていく傾向がありますが,ふつう食料の確保はそれに追いつくことができません。無理やり確保しようとすれば,乱開発を生
み
持続可能
性
を失います(これを
「
マルサスの
罠
」とよびます)。
テクノロジーの進歩により,われわれ人類は「マルサスの罠」を抜け出したように見えますが,21世紀に入った現在,棚上げにされてきた様々な問題が,じわじわと目を覚まそうとしているように思われます。
人の名前や国の名前をいたずらに覚えるのが世界史ではありません。
人類の歩んだ道のりを,生態系の一員としてとらえ,多種多様な人類の営み
の
相互関
係
に注目をすることが,世界史理解のカギを握っているのです。
【補足】 環
境
(Environment
)
のとらえ方
◆
人類を生活様式によって分ける方法もある
移動か定住か,獲得か生産か
また,人類を生活様式によって分けることもあります。
まず
,
狩
猟
・
採
集
・
漁
労
など,自然にあるものを獲得して生活するタイプ。この場合,よほど豊富に獲得できる所出ない限り
,
移動生
活
が基本となります。
一方,狩猟・採集・漁労できるほどに環境が豊かでない場所では,工夫しなければ食べ物は手に入りません。こういったところでは,食べられる植物を他の動物に食べられたり枯れないように一定の場所で管理したり,おとなしい動物を一定の場所で管理する行為がみられるようになります。
初期
の
ホ
モ=
サピエン
ス
は今までのホモ属と同じように旧石器をつくり
,
狩猟採
集
生活をおこなっていました。この時期の社会は血縁によるつながりでまとまっていて,非常に小規模なものです
。
血縁社
会
は仲間意識が強いことが特徴です。
完新世の初期のヨーロッパで1人が狩猟採集生活をおくるには,1人あたり10平方キロメートルの土地が必要だったと考えられています。人口が増えすぎると生活ができなくなってしまうので,選択的な子殺し
(注
)
や高齢者を死なせる風習が必要とされました。
(注)障碍を持つ子ども,双子,女児などが対象でした。クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.44。現在も世界各地で狩猟採集生活を送る人々はいますが,彼らの生活は長い歴史の間に外部との接触がゼロではない場合も多く,先史時代の狩猟採集生活のあり方をそのまま保存しているとは限りませんが,示唆を与える点は少なくありません。
オーストラリア北部のギジンガリ
=
アボリジ
ニ
は季節ごとに規則的な移動をともない,雨季には沼沢地が満水となるためスイレンの一種を食用とし,乾季にはヤムイモの採れる地域に移動し,次には湿地で渡り鳥を狩猟し女性はカヤツリグサの塊茎を採集。乾季の最終局面になるとソテツの実を採集し,主食用としたり,儀式や宗教,社会的行事のために集まる大勢に供給されます。また,カナダのハドソン湾北部・西部のナチリク
=
イヌイッ
ト
も,季節に応じて集団の人数を変えて移動しながらトナカイ〔カリブー〕やアザラシ猟に従事します。
参照 上掲,pp.42-43。
◆
農耕は栽培植物との共生,牧畜は家畜との共生
各地の気候に合わせ,人類は生態系の一部となる
すべての植物が管理しやすいわけではないですし,おいしく食べられるわけではありませんが,管理しやすく,食べやすく,貯蔵しやすい特性をもつ植物も中にはあります。これを選び抜いて,さらに利用しやすく品種改良していったものを
「
栽培植
物
」といい,その多く
が
炭水化物・タンパク質・脂
質
を摂るために栽培される穀類・豆類・根菜類です。
また,管理しやすく,おとなしく,荷物を運ばせたり毛皮をとったり,また乳や肉の利用ができる動物を選び抜き,利用しやすく血統を管理していった動物を
「
家
畜
」といいます。
農耕も牧畜も,スタートするのは氷期が終了してからのこと。いずれも自然に働きかけ,人為的にその資源を利用する営みです。
ただ,牧畜といっても季節的に家畜のエサ場を移動する
「
遊
牧
」という生活様式もありますし,焼き畑農耕のように移動しながら行う農耕もあります。
同じ民族集団でも,環境や季節に応じて生活様式を変えたり,複数の生活様式を採用したりしていることもあります。
ですから,農牧民の〇〇人,牧畜民
●●
人,狩猟民◎◎人のように特定の民族を分類する方法は,生活様式を固定的にとらえることになり,その集団の実態を正確にとらえているとは限らないのです。
なお,海域に暮らす人々は,漁労だけでなく,沿岸の海棲生物(アザラシやコンブ)を狩猟・採集する生活を送っている場合もあります。
◆
異なる生態を送るグループが,互いに棲み分けと役割分担をしている
定住民と遊動民は,持ちつ持たれつの関係を結ぶ
人類の特徴は,異なる気候に合わせて生活技術を工夫し,それぞれに適応した生活様式を採用して住み分ける点にあります。
遊動
民
と
定住
民
は,それぞれが適応する環境において
"棲(す)
み分
け
"
をしているとみることもできるでしょう
(注
)
。
また,それぞれの活動範囲の中でも,遊動民と定住民が持ちつ持たれつの
"
役割分
担
"
をしているケースもみられます。8世紀の中央ユーラシア東部
で
ウイグ
ル
という遊牧民の国家が発達するのですが,757年~758年頃に草原地帯に建設された都市バイ=バリクには,多くの定住民も生活をしていました。住民は「略取・投降・勧誘」など様々な理由によって遊牧国家にやって来たのだと考えられますが,史料によると「ソグド人と中国人の
(
(注)藤川繁彦『中央ユーラシアの考古学』同成社,1999,p.308。
ある意味人類は,地球上の多様な自然環境に適応して,他の動植物・細菌の生物圏,大気・土壌・海洋などととも
に
生態
系
(
エコシステ
ム
)
の一部を構成しているといえます。
しかし,次第に人類の総数が増加し,環境負荷を超えるほどに自然環境を改変する技術を発展させていったときに,生物圏に対するきわめて大きな影響を与えることとなります(18世紀後半以降を「人生代」(アントロポシーン;Anthropocene)という地質学的な時期区分も使用されはじめています)。
◆
人種と民族のほかに,言語によって集団を分ける方法もある
人種・民族・語族は絶対的な区分ではない
生態が異なれば,日々の暮らしぶりや自然との関わりも違うわけですから,振る舞いや考え方にも違いが生まれていきます。
人類は
,
群
れ
をつくって生活をする動物です。
群れを成り立たせるためには,自分たちの結束を高めることで,外部の他の群れや自然との関係を築いていく必要がありました。
人間は言葉を用いて,さまざまな形で「群れ意識」を表現するようになっていきます。
例えば,体に入れ墨をほどこしたり,歯を削ったりする人々もいます。また,現在でも,同じ集団であることを示すために羊の毛の刈り方に独特な意味を持たせる風習のある遊牧民もいます。
おな
じ
種
であるにもかかわらず,人類は「群れ意識」
(
民
族
意識)を共有していったことで,その互いの対抗関係や共生関係を通して,目には見えない考え方を複雑に発達させ,みずからの群れや自然環境そのものを,自分たちの考え方に
こんなことをする動物は,われわれをおいて,ほかにいません。
世界史には,さまざま
な
民
族
意識を持つ集団(
=
民
族
)が登場します。生活の結びつき
(注
)
を通して,共通の仲間意識を持った人々のことを
「
民
族
」といいます。民族は普通「○○人」の形で呼びます。ただ,同じ「民族」が,必ずしも同じ属性をもつ人々によって構成されているわけではありません。
外見(生物学)的特徴によ
る
ホ
モ=
サピエン
ス
の分類
を
人
種
といい,見た目による主従関係や偏見・差別・迫害などは,世界史の中におびただしい事例が残されています。ただ,見た目が同じも支配する/される関係が生まれる例も多くありますし,逆に見た目が違っても同じ仲間として理念を共有するケースもままあります。
歴史上の人種・民族の区分は絶対的な区分ではなく,複数の民族意識を持つ者や,複数の言語を使い分けることのできる者もいました。また,自分と「同じ」人種なのか「違う」人種なのかも,考え方や基準によって揺れ動く概念であり,ハッキリと白黒がつけられるものではないのです。
なお,近年ではミトコンドリアDNAの解析によりハプログループに区分し,特定の地域の集団がどのようなルーツをもつのか推定することができるようになっています。
なお,民族の名前に
は
自
称
と
他
称
があります。例えば,日本は自称,ジャパンは英語による他称です。さまざまな言語がある以上,民族にはさまざまな呼び名があるのは普通です。しかし最近では,「なるべくその民族が,そう呼んでほしい呼び名で呼んだほうがいい」「差別的な意味合いがある呼び方は,その民族の意見も聞いた上で,避けたほうがよい」と考える人が増えています。
また,「民族」意識は固定的なものとは限らず,自分が所属していると考える集団は状況によって変化し,複数の所属意識を持つことは珍しいことではありません。
また,人種・民族の他に,言語の種類によって人々の集団
を
語
族
に分ける方法があります。語族とはずばり「言葉の親戚関係」を表したもので,英語とドイツ語とインドのヒンディー語は,インド=ヨーロッパ語族という"言語ファミリー"の中にあることがわかっています。
語
族
は,古代の歴史や,手がかりが少ない地域の歴史を説明するときによく使用されますが。史料が少なかったり,移動生活を送っていたりするために,"つかみどころのない"民族を研究する際にも,史料に現れる「言語」を頼りにすれば,どの集団とどの集団が同じグループに属していたかを推定し,歴史を復元することができると考えられるからです。
例えば,A地点で使われていた言語から枝分かれしてできたとされる言語が,遠く離れたB地点(A地点の遺跡よりも数百年後の地層)でも発見された場合,A地点の人々が数百年後にB地点に移動したと推測できる可能性があるわけです。「言語」が似ているということは,その「文化」にも共通点が多い可能性があります。ちなみに語族よりも小さなくくり
に
語
派
があります。○○語族と言わずに,○○系という場合もあります。ただ,語族によって民族を分類する方法には不備も多く,あくまで分類法の一つと考えておいたほうがよいでしょう。
さて,人類の活動場所は具体的に
は
陸
と
海
にあります。
これらを地域ごとに切り分ける方法
(
地域区
分
)も時期区分と同じく様々ですが,漏れなくダブりなく全世界を区分するためには,21世紀現在の各国家の国境線にのっとっるのが簡便です。
現在の国家の国境線を
特に,海を舞台にして,無意識のうちにわれわれが当たり前だと思いこんでいる「国境」を縦横無尽に越え出る動きが存在することにも,気付かされることでしょう。
(注)生態への注目については,梅棹忠夫『文明の生態史観』中央公論社,1967,高谷好一『多文明世界の構図』1997,中公新書,川勝平太『文明の海洋史観』中央公論社,1997,松田壽男『アジアの歴史―東西交渉からみた前近代の世界像』岩波書店,2006,岡本隆司『歴史序説』中央公論新社,2018などを参照。
◆
陸
陸は,大陸と島に分かれます。
大陸には南北アメリカ大陸,オーストラリア大陸,ユーラシア大陸,アフリカ大陸,南極大陸があります。
陸地には,大きく分ける
と
乾
燥
気候エリア(雨が降らない(少ない))
と
湿
潤
気候エリア(雨が降る(多い))があります
(注
)
。乾燥エリアでは草原地帯で家畜を連れ
た
遊
動
生活(遊牧や狩猟・採集)を営んだり,灌漑やオアシスを利用し
て
定
住
生活を行う集団もあります。
高緯度地域に
は
寒
冷
エリア
(
寒
い
)が分布し,赤道周辺に
は
熱
帯
エリア
(
暑
い
)が分布します。
寒冷エリアは,氷雪地帯・ツンドラ地帯・森林地帯に分かれ,それぞれにおいて狩猟・採集・漁撈
(暖かい地域・時期には農耕・牧畜も)
などによ
る
定
住
また
は
遊
動
生活が主流です。
ユーラシア大陸東南部一帯は熱帯エリアとも重なり,季節風(モンスーン)の影響を受け,多くの降雨がもたらされるエリアです。雨季・乾季のあるサバナ地帯や森林地帯で,気候に合わせた農耕・牧畜・狩猟・採集が営まれています。
また,動物や植物,細菌の分布も,地域により異なります。
例えば,ユーラシア大陸やアフリカ大陸では家畜の候補となる大型動物が豊富に分布していましたが,南北アメリカ大陸には分布していませんでした
(氷期に馬が分布していたが狩猟により絶滅していました)
。また,栽培が可能な植物は,ユーラシア大陸・アフリカ大陸に麦類,南北アメリカ大陸にトウモロコシやジャガイモが分布していましたが,オーストラリアは候補がわずかでした。
このように人類は,各地の地形や周辺環境に応じて異なる生態を送り,互いに足りないもの
を
交
易
により補って相互に関係し合うことになります。
(注)〈高谷好一〉(1934~2016)は,陸地を「野」(草原),「沙漠」,「森」に分け,世界史における諸生態の俯瞰を試みました(高谷好一『世界単位論』京都大学学術出版会,2010)。
◆
海
人類は早くか
ら
船
を発明し,多くの陸上動物の成しえなかった海上移動を可能にしました。
海は,海流や陸地や島々の分布によって,いくつかの海域に分けることができます。
人類の移動がもっとも活発となるのはユーラシア南岸の諸海域で,インド洋から太平洋にかけていくつもの海域が"数珠つなぎ"になっています。
漁撈・採集によって海で生活をするのに長け
た
海
民
も,世界各地に分布しています。農耕・牧畜を合わせておこなったり,沿岸の農耕・牧畜民と物やサービスの交換
(
交
易
)を通じて関係を結ぶこともしばしば見られます。
◆
陸と海
異なる生態の人間集団どうしが活発化すると,両者の間にはしばしば「競合」関係や「共生」関係が生まれます。
例えば,下の5つのエリアの相互関係について,考えてみましょう。
【★寒冷エリア(寒帯または冷帯)】
【△乾燥草原エリア(乾燥帯)】
【∴乾燥沙漠エリア(乾燥帯)】
【●湿潤エリア(熱帯,温帯または冷帯)】
【§海洋エリア】
例えば,【★寒冷エリア】の狩猟採集民は,毛皮や海産物を内陸の【△乾燥草原エリア】の遊牧民の畜産物と交換します。
【△乾燥草原エリア】の遊牧民は畜産物を,【∴乾燥沙漠エリア】に住む定住民との間に交換します。定住民は家畜の管理を遊牧民に
一方,【△∴乾燥エリア】の中でも大河などの水場を擁するエリアでは,大規模な都市が発達。この都市も,内陸の【∴乾燥沙漠エリア】のオアシス集落に市場を求めてしばしば進出し,【△乾燥草原エリア】の遊牧民との間に利害関係をめぐっての対立が起きます。
【∴乾燥沙漠エリア】に隣接する【●湿潤エリア】は,生産性が高く経済力に優れ,沿岸の港市では,【§海洋エリア】の海民との間で交易活動も行われます。
◆
異なる「高度」間の交易
最後に,高山エリアにおける特色あるやり取りについても触れておきます。
南アメリカのアンデス山脈の太平洋岸は,平地が少なく,後背には高山がそびえ立っている地域です。
ここでは,低地の海岸と,より高度の高い山岳地帯との間で交易が行われ,谷あいの集落が発達していきます。高度によって生産する家畜・植物にバリエーションがあり,いわ
ば
異なる高度間の交
易
がおこなわれていたのです。
◆
地域区分の一覧
ここでは最後に,これから取り組んでいく世界の地域区分について具体的にお示ししておきます。
地域は前述の通り現在の国家を基本単位(小地域)とし,その上位に中地域,5つの大地域を設定しました。
中央ユーラシアの動向は世界史理解において肝要であるため,アジアの大地域に併記する取扱いとしています
(注
)
。
(注)中央ユーラシアの地域概念は研究者によっても一致していませんが,V.リーバーマンの区分「黒海の北方・東方,ヒマラヤ山脈や朝鮮の北,現代イランの大部分,中国本土(チャイナ=プロパー)の北方・西方,ツンドラ地帯やシベリアの森林帯の南方」をおおむね採用しています(Victor Liberman, "Strange Parallels: Volume 2, Mainland Mirrors: Europe, Japan, China, South Asia, and the Islands: Southeast Asia in Global Context, c.800--1830", Cambridge University Press, 2009,p.97)。中央ユーラシアの地域概念をめぐる問題については,秋田茂他編『「世界史」の世界史』ミネルヴァ書房,2016も参照。
(1
)
大地域
各時代において,アメリカ→オセアニア→アジア・中央ユーラシア→アフリカ→ヨーロッパの順に解説しています。
アメリカからヨーロッパに至るまで,「W」の字を描くように,想像上の飛行機で世界を一周するイメージを持ってください。
(例)
●200年~400年のアメリカ
(2
)
中地域
各大地域において,おおむね東→南→西→北→中央の順番に述べています。
東からぐるっと時計回りに一周をするイメージです。
(例)
○20
0
年
~
40
0
年のアメリカ 北アメリカ
(3
)
小地域
現在の国家所在地を基本単位とし,各中地域において東→南→西→北→中央の順番に解説しています。こちらも時計回りに一周するイメージを持ってください。
(例)
・
20
0
年
~
40
0
年のアメリカ 北アメリカ 現①アメリカ合衆国
●
アメリカ
○
北アメリ
カ
...現在の①カナダ ②アメリカ合衆国
○ 中央アメリ カ ...現在の①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ
○ カリブ 海( 諸国・地 域 ) ...現在の①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島
○ 南アメリ カ ...現在の①ブラジル,②パラグアイ,③ウルグアイ,④アルゼンチン,⑤チリ,⑥ボリビア,⑦ペルー,⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネズエラ,⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ
●
オセアニア
○ ポリネシ ア ...現在の①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島,フランス領ポリネシア,③クック諸島,④ニウエ,⑤ニュージーランド,⑥トンガ,⑦アメリカ領サモア,サモア,⑧ニュージーランド領トケラウ,⑨ツバル,⑩アメリカ領ハワイ
○ オーストラリ ア ...現在のオーストラリア
○ メラネシ ア ...現在の①フィジー,②フランス領のニューカレドニア,③バヌアツ,④ソロモン諸島,⑤パプアニューギニア
○ ミクロネシ ア ...現在の①マーシャル諸島,②キリバス,③ナウル,④ミクロネシア連邦,⑤パラオ,⑥アメリカ合衆国領の北マリアナ諸島・グアム
●
アジア
○
東アジ
ア
...現在の①日本,②台湾(注),③中華人民共和国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国
※台湾と外交関係のある国は19カ国(ツバル,ソロモン諸島,マーシャル諸島共和国,パラオ共和国,キリバス共和国,ナウル共和国,バチカン,グアテマラ,エルサルバドル,パラグアイ,ホンジュラス,ハイチ,ベリーズ,セントビンセント,セントクリストファー=ネーヴィス,ニカラグア,セントルシア,スワジランド,ブルキナファソ)
○
東南アジ
ア
...現在の①ヴェトナム,②フィリピン,③ブルネイ,④東ティモール,⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア,⑧カンボジア,⑨ラオス,⑩タイ,⑪ミャンマー
①・⑦の一部(マレー半島側)・⑧・⑨・⑩・⑪を
「
大陸
部
」,それ以外(⑦の一部(ボルネオ島側)を含む)を
「
島しょ
部
〔島嶼部〕」に分類することもあります。
○ 南アジ ア ...現在の①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール
○
中央アジ
ア
...①キルギス,②タジキスタン,③ウズベキスタン,④トルクメニスタン,⑤カザフスタン,⑥中華人民共和国の新疆ウイグル自治区
「中央アジア」は,ソ連によって国境が確定される20世紀までは,「中央ユーラシア」の項に分類しています。これらの諸国が
○
西アジ
ア
...現在の①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ(注),⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
(注)パレスチナを国として承認している国連加盟国は136カ国。
● アフリカ
○ 東アフリ カ ...現在の①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ
○ 西アフリ カ ...現在の①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ
○ 南アフリ カ ...現在の①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ
○ 中央アフリ カ ...現在の①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン
○ 西アフリ カ ...現在の①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ
○ 北アフリ カ ...現在の①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア
●
ヨーロッパ
○ 東ヨーロッ パ ...現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
冷戦中に「東ヨーロッパ」といえば,ソ連を中心とする東側諸国を指しました。ここでは以下の現在の国々を範囲に含めます 。 バルカン半 島 と , 中央ヨーロッ パ の諸国は別の項目を立てています。
○
中央ヨーロッ
パ
...現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
どこがヨーロッパの「中央」なのかをめぐっては,歴史的に様々な見方が存在しました。
○ バルカン半 島 ...現在の①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア
○ イベリア半 島 ...現在の①スペイン,②ポルトガル
○ 西ヨーロッ パ ...現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
○ 北ヨーロッ パ ...現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン
●
南極
●約700万年前~約12000年の世界
人類の誕生
ホモ=サピエンスが氷期を生き抜き,南北アメリカ大陸を除く世界各地に広がる。
◆南ルート
ホ
モ=
サピエンスは陸続きのオーストラリアに達する
南ルー
ト
をとったホモ=サピエンスがオセアニアに到達した約6万年前~約5万年前の期間は,地球上の気温が一時的に上昇した時期にあたります。
オセアニアとは,ポリネシアとメラネシア,それにミクロネシアという3つの地域から構成されます。
ニュージーランドとハワイ諸島・イースター島を三角形で結んだ範囲
の
ポリネシ
ア
。ニューギニアからニュージーランド北部までの赤道以南の地域であ
る
メラネシ
ア
。フィリピンの東にあるグアムやサイパンなど,だいたい赤道以北の島々が分布す
る
ミクロネシ
ア
。
南ルートで移動し
て
オーストラロイ
ド
という人種に分類される人々は,当時陸続きだったニューギニア島からオーストラリア大陸
,
タスマニア
島
にかけて移住したとみられます。今よりも海面は80メートルも低かった時期ですが,ジャワ島の東側からニューギニア島までは,丸木船で島を点々とホップして海を渡る必要がありました。丸木船は,はじめ
は
アウトリガーカヌ
ー
という船体の片方の横に浮きをつけて安定させたものが,遠洋航海には船体を横に2つ連結させ
た
双胴
船
(
ダブルカヌ
ー
)いう大きな船が用いられました。アフリカから拡散した人類は,ここで初めて海を渡る大規模な移動をおこなったのです。オーストラリア西南部の内陸にある遺跡からは,エミューの卵とともに貝殻が発掘されています。
かつて,ニューギニア島とオーストラリアは一体化して,
「
サフル大
陸
」という大陸を形成していました。 ボルネオ島やジャワ島などは,ユーラシア大陸と合体していました(スンダ陸棚)。ニューギニア島とオーストラリアもくっついています(サフル大陸)。スンダ陸棚とサフル大陸の間には100キロメートルの海域があったため,現在でもサルはスンダ側にはいますがサフル側にはいませんし,カンガルーなどの有袋類はサフル側にはいますがスンダ側にはいません。
しかし人類は,約3万5000年前頃までには,この海域
を
船
で移住することに成功したのです。
その後の海面上昇によって前8000年~前6000年頃にニューギニアと切り離されると,オーストラリア大陸にいた人類は外界から取り残され,その後長期にわたって狩猟採集文化を維持しました。
一方,ニューギニア島では前7000年~前5000年頃にタロイモやサトウキビの農耕をおこなっていた形跡も残されています。
しかし,人類の移動
は
ソロモン諸
島
(ニューギニア島のさらに東に位置する島々)で一旦ストップします。これより東にいくと島がまばらになり,航海が困難になったためです。ここまでを「ニアーオセアニア」,ソロモン諸島よりも東を「リモートオセアニア」と呼ぶことがあります。
◆東ルートをとった人類は,寒冷地域にも進出する
ホ
モ=
サピエンスは寒冷地域にも適応していく
そのうち
,
東ルー
ト
をとっ
た
モンゴロイ
ド
人種は,ユーラシア大陸東部に広がっていきました。
日本の沖縄県では前16,000年前の新人であ
る
港川
人
が発見されています。日本列島で
は
縄文
人
が縄文文化を発達させていました。港川人と縄文人との関係はわかっていませんが,南方の東南アジアとの関係性も指摘されています。
この地域の人々が次に向かったのは,寒冷な地域です。3万5000年前までにはロシア,2万年前までにはシベリアに到達しています。
ところで,3万年前頃に地球は,再び寒冷で乾燥した気候に逆戻りしています。
このとき,沙漠が拡大し,森林が減少しました。2万1000年前から1万7000年前の間がピークだったとみられ,人類は一番寒い時期に寒さに立ち向かっていたのです。
(注)ジェレミー・ブラック,牧人舎訳『世界史アトラス』集英社,2001,p.14
◆
北アメリカ大陸とユーラシア大陸は,ベーリング地峡によってつながっている
南北アメリカ大陸に人類は,まだいない
北アメリカ大
陸
の大部分は,太平洋岸のコルディエラ氷床,北東部のローレンタイド氷床という厚い氷のカタマリに覆われていました。
現在はベーリン
グ
海
峡で分かれていたユーラシア大陸と北アメリカ大陸の間も,当時はベーリン
グ
地
峡によってつながっていました。
北アメリカに
は
馬
が生息していたほか
,
マンモ
ス
と
マストド
ン
のような大型哺乳類も分布していました
(注
)
。
南アメリカ大
陸
は,昔から現在のように熱帯雨林が生い茂る地ではありませんでした。
寒冷・乾燥な気候と,温暖・湿潤な気候を繰り返し,前20000年~前12000年に最後の寒冷・乾燥期(ヴュルム氷期の最盛期)を迎え,それ以降,再度温暖化・湿潤化して,森林地帯が復活したと考えられています。
(注)巨大なナマケモノ...その名もオオナマケモノや,巨大なビーバーのカストロイデスなども生息していました。
アメリカ大陸からオセアニアに目を移しましょう。
南半球に
は
オーストラリア大
陸
があります。ここに人類がわたったのは約6万年前のことです。
最終氷期には東南アジア方面から陸橋(りくきょう)がつながっていましたが,完全に陸続きではなかったため移動に
は
船
も用いられたとみられます。
南部のウィランドラ湖地域(約20000年前に干上がった湖の跡地)からは,新人の遺跡やアボリジナル(アボリジニー)の祖先の岩絵が見つかっています(◆世界複合遺産「ウィランドラ湖地域」,1981)。
オーストラリア北部は,熱帯からサバナまで多様な自然環境がみられる地域。ここでは,まるでレントゲンで透視したかのように骨格や内臓を浮き出したに動物・人間の岩絵(
X
線画
法
と呼ばれます)が見つかっています(◆世界複合遺産「カカドゥ国立公園」,1981(1987,1992範囲拡大,2011範囲変更))。
この時期に人類は
,
ニューギニア
島
か
ら
ソロモン諸
島
にまで移動しています。
ニュージーラン
ド
や,南太平洋・東太平洋にあた
る
ポリネシ
ア
の大部分には,まだ人類は到達していません。
東アジアには,現在の北京郊外の周口店に新人段階
の
周口店上洞
人
(しゅうこうてんじょうどうじん)の化石が発見されています。ここからさらに北に進んでベーリング今日を越えていく集団もいました。また,朝鮮半島を経由して前4万年前には現在
の
日本列
島
にも移住する集団が現れます。
南アジアには前6万年頃に最初の移住があったとみられます。
これらの地域では海産物が重視され,海岸付近や河口付近に住む場合が多く見られました。
西アジアには10万年前に最古の埋葬跡がみられます(イスラエルのカフゼー洞窟)。また,イスラエルのナトフ谷で
は
自生する穀物の集中管理・貯
蔵
が行われていました。まだ農業とはいえませんが,やがてこの地で史上初の農業がはじまりを告げます。前12000年
(注
)
に
は
石
臼
(いしうす)の使用が西アジアで始まっています。
(注)ジェレミー・ブラック,牧人舎訳『世界史アトラス』集英社,2001,p.15
アフリカ人は現生人類の揺籃(ようらん)の地です。
アフリカ南部に移動した集団は,12万年前頃から集落を残し,前42000年にはライオン洞窟で体に塗りつける赤い顔料(赭土)が出土,アポロⅡ遺跡にはアフリカ最古の岩絵(26000年前
(注
)
)を残しています。
なお,この頃のサハラ地方は比較的雨の多い気候であり,チャド湖も現在の数十倍の面積でした
(
大チャド
湖
)。
(注)ジェレミー・ブラック,牧人舎訳『世界史アトラス』集英社,2001,p.14
●
約
70
0
万年前~
前
1200
0
年のヨーロッパ
人類は前35000年ころまでにヨーロッパに移動していますが,このころはまだ氷床が大部分を覆っている状態。もともとネアンデルタール人が居住していましたが,現生人類に圧倒され,イベリア半島で前27000年に最後のネアンデルタール人が絶滅しました
(注
)
。
(注)ジェレミー・ブラック,牧人舎訳『世界史アトラス』集英社,2001,p.14
このように,ネアンデルタール人を駆逐して,全世界の環境に広がったホモ=サピエンスは,発達し
た
大脳新皮
質
をコンピューターのように駆使し,感覚・運動・知覚・感情・記憶・思考などのさまざまな情報を処理する能力に長けていました。もちろん,ネアンデルタール人にも言語はありましたが,複数の情報をもとにアタマの中で考えたことを,仲間で共有する能力は,ホモ=サピエンスに軍配が上がります。この飛躍的な情報処理能力の発達を
"
認知革
命
"ともいい,今後ホモ=サピエンスがさまざまな分野で活躍していく前提条件ともいえます。
動物であれば
,
情
報
が世代を超えて受け継がれることはありません。
しかし,人類は情報を言葉で伝えたり共有したりすることで,次の世代に伝えることができます。
どうすれば寒さがしのげるか。服を縫うには何が必要か。家を立てるには,狩りをするにはどうすればよいか。これらはみな,当時の人類が積み重ねていった情報の結晶といえます。
さらに人類は,目には見えない抽象的なイメージを
,
歌
や言葉でストーリー
(
物
語
)に発展させたり
,
踊
り
,
絵
画
や
彫
刻
などの形に残し,他の人と共有したりすることができるようになっていました。
狩猟採集を通して自然の恵みと猛威を直接うけていた人類が,自分自身や自然に対してどのような思いを抱いていたのかは定かではありませんが,4万年前頃からオーストラリアでみられ
る
アボリジナ
ル
(アボリジニ)
【本試験H27】
の洞穴壁画に登場する神話のような絵,3万年以上前のフランス
の
ショーヴ
ェ
洞穴壁画,2万年前頃から描かれたフランス
の
ラスコー洞穴壁
画
【本試験H5図版「ウマの像」。「フランスで発見された」とある】
【本試験H17】
や,1万8000年前頃から描かれたスペイン
【本試験H31】
の
アルタミ
ラ
(アルタミーラ)
【本試験H5ラスコーとのひっかけ】
【本試験H17ラスコーとのひっかけ,H31ラスコーではない】
【追H20】
【立命館H30記】
洞穴壁画では,人類と動物
【追H20「動物の絵が見られる」か問う】
との間の生き生きとした交流が描かれています。ショーヴェ洞窟にはふさふさの毛をもつサイの仲間であるケサイ,ラスコー壁画には牛の祖先の野生種オーロックスの姿が描かれています。南ヨーロッパが現在よりも寒冷であったことが推測できます(◆世界文化遺産「ヴェゼール渓谷の先史的景観と装飾洞窟群」,1979
(注
)
)。
(注)ラスコーは現在は立入禁止となっていますが,精巧に復元された近くのラスコーⅡが一般公開されています。
手を壁に当て,絵の具を口からブッと吹きつけて残した手形(ロックアート)も,世界各地でみられます(◆世界文化遺産「ピントゥラス川のクエバ=デ=ラス=マノス」,1999。現在のアルゼンチン南部のパタゴニア地方に残る800以上の手形)。
2万5000年前頃からユーラシア大陸では,現在のオーストリアのヴィレンドルフ
【立教文H28アルタミラ,グリマルディ,ネアンデルタールではない】
などで
「
ヴィーナ
ス
」と呼ばれる女性の裸像が多く見つかっており,こちらは土地の神(地母神)への信仰と関係があるのではないかという見方もあります。「死」という限界が今よりも格段にリアルだった当時の人類にとって,豊かな恵みと厳しい脅威を与える「自然」に対する信仰は,自然に生まれていったのでしょう。また,「人はなぜ生まれたのか?死んだらどうなるのか?」という問いも,世界各地の人類によって,だんだんと独自に説明されるようになっていきました。
このように人類は,目には見えない"不思議な力"やこの世界の成り立ちを仲間で共有し,共通の活動や儀式をおこなうことで,自分たち
が
生まれてきた意
味
や
死んでいく意
味
を納得しようとしたわけです。こうした人類特有の世界観やそれに基づく行為を
「
宗
教
」といいます
(注
)
。
当時のホモ=サピエンスは,現代のわれわれよりも「自分が自然の中の一員なのだ」という思いを切実に感じていたはずです。例えば,ある動物を一族の守護神として大切にす
る
トーテミズ
ム
。「自分たちの仲間の祖先はライオンで,ライオンをまつることで自分たちにもパワーが宿る」と考えるわけです。また
,
聖
霊
(アニマ)が自然界の動植物や無生物に宿っていると考え
る
アニミズ
ム
。これらは想像上の世界であるわけなのですが,"目には見えない"世界について語り,共有することによって,互いに仲間意識を強めていくことができたのです。
(注)「世界には日常の体験によっては証明不可能な秩序が存在し,人間は神あるいは法則という象徴を媒介としてこれを理解し,その秩序を根拠として人間の生活の目標とそれを取り巻く状況の意味と価値が普遍的,永続的に説明できるという信念の体系」(『日本大百科事典』「宗教の項」)。
また,「...宗教の世界の概念は,生活がなされ,演技がなされ,何かが体現される世界である。それは,いつも神に祈る,肉体から遊離した精神だけの世界ではない。......より全体的な見通しに立てば,宗教的な人々は,膨大な行動様式の多様性の中に聖なるものを表現する演技者である。宗教の世界は,教義の歴史や宗教哲学の中にだけ体現されているのではなく,祭りや記念祭,通過儀礼,暦,修行の諸形態,家内の聖なるもの,塑像や絵画,特別の衣服や象徴的な事物,病気治療と祈禱の技術,聖歌と宗教音楽,そして無数の各地の家族や国民の習慣など,あらゆる行動や状況の中に体現されている。」 (阿部美哉『比較宗教学』(大法輪閣,2014年),pp.49-50)
かつて人間は,食料の源を強く意識せねばならない環境下にありました。そこでは,人間と自然はいわば渾然一体に近い関係にありました。熊が山から贈られてくるという考えから,熊の神に祈念する狩猟民もいます。その過程で,人類は自然の背後にあって,様々な恵みと災いを贈与する存在に対して,さまざまな考えと行動を生み出してきました。
自然は,恵みを与えてくれるだけでなく,同時に
宗教的な実践神聖な対象に対する「行為が定式化されて,非日常的な神聖な行為として宗教儀礼,祭礼」の形がとられることがあります(『日本大百科事典』)。儀礼(反復される形式的行動)は,国家をはじめとする権力とも結びついてきました。ビザンツ帝国の皇帝が,コンスタンティノープル総主教によって戴冠される際に人民からあがる叫びや歓呼も様式化されたものであったことが分かっています(尚樹啓太郎『ビザンツ帝国の政治制度 (東海大学文学部叢書)』東海大学出版会,2005年,pp.11-12)。
「形式的行動は視覚化されるために,儀礼は,抽象的な権力を目に見えるかたちに換え,知識の共有(という観念)を人々に可能にする(「人々がその事を知っている」ということを皆が知っているということを可能にする。これは人々の対立を緩和させる)。》(p.206)...(中略)...「国家は儀礼と通して表現される。それ以外に国家を全的に表現する手段はない」(青木保『儀礼の象徴性』東京・岩波書店,1984年),「儀礼の執行を通して国家が作り出される」(山下晋司『儀礼の政治学―インドネシア・トラジャの動態的民族誌』東京・弘文堂,1997年)という考えがある。人々は,儀礼行為を通じて,支配されているという感覚をもつことなく,権力の生成に自ら参加する。あるいは,人が主体的に動いているようにみえて,実は権力の枠組によって動かされる状況を,儀礼行為は比較的容易につくることができる。...(中略)...儀礼は,伝統的・恒常的である,という観念を創り上げることで,実際におきている変化を正統化/正当化する文化装置ともいえる。」(妹尾達彦「前近代中国王都論」中央大学人文科学研究所研究叢書『アジア史における社会と国家』中央大学出版部,2005年,pp.206-207)
われわれが歴史上の宗教について理解するには,歴史上の人びとが,何に対して権威を感じていたのかということを推し量りつつ,彼らがいかなる儀礼的な行為を社会の中で共有し,現実的に利益を感じていたのかということに注目することが必要です。
そのような"理想"や"願い"を実現するため,自然に手を加えたり形を変えたりする方法
を
技
術
といいます。人間は,知能を働かせて,自然に対して積極的にイメージ通りに手を加え,特定の技術に関す
る
情
報
を,世代を越えて受け継ぐことができる存在となったのです。そうすれば,石器を作るにも,いちいちゼロから考えずに済みますし,情報が人伝いに拡大するに従い,世代を経るに従って技術がだんだん進歩していくというわけです。
しかし,一方で人間はライオンに比べ圧倒的にか弱い存在です。時間は有限であること,自分自身に限界があることを理解したホモ=サピエンスは,ときにそれに逆らいながらも,どうしたら豊かな人生を送ることができるのか"理想"を描き,それを仲間と共有する中で地域ごとに特色のあ
る
文
化
が生み出されていきました。
文化は,その土地土地の自然や気候と密接な関わりがあるといわれています。一年中常夏の地域と,四季の移ろいのある地域とでは,人々の共有する感性に違いが出てくるわけです。「自分がどういう人間なのか」「どんなふうに生活するべきなのか」を気づかせ,影響を与えるような自然環境のことを,哲学者〈和辻哲郎〉(1889~1960)は
「
風
土
」と呼びました。
ホモ=サピエンスは初め,多くの動物と同じよう
に
狩猟・採
集
を中心とする生活を送っていました。自然にあるものを獲り交換・分配・消費する仕組み
を
獲得経
済
と呼びます。
しかし,地球が温暖化に向かうと,やがて世界の多くの地域で植物の栽培,さらに家畜の飼育が始まりました。自然に積極的に働きかけ,自然を作り変えることで価値ある物を生み出す営み
を
生産経
済
といいます。
ただし獲得経済にせよ生産経済にせよ,資源には必ず限りがあります。これらをどのように分配していくかということが問題となります。
限りあるもの(目に見える物や,目に見えない労働力も含む)を人々の間で交換したり,取り合ったりすること
を
交
易
といいます。交易がうまくいかないと
,
飢
え
や
戦
争
(
略
奪
)に発展することもあります
(注
)
。
(注)「交易」という言葉を広い意味でとらえると,次のように考えることもできます。「人間は自然と関係するとき,肉体を動かすだけではなく,呪術・宗教・「理論的」表象のなかで観念的に交流し交通しながら,その観念的表象に合わせて自然から材料を切り取り(「略奪」「搾取」とも言えるが),切り取られた材料を,一つの空間から他方の空間に移動させるし,特定の時間から他の時間へと移動させながら,一方では材料を観念のなかで加工し,他方では物質的・身体的な行動のなかで変形する。人間が生産し労働することも,十全なる権利をもって
,
交
易
とみなすことができる。」今村仁司『交易する人間(ホモ・コムニカンス)――贈与と交換の人間学』講談社選書メチエ,2000年,p.54
人間はライオンのような鋭いきばや爪もない弱い存在ですが,道具を用いれば他人の命も奪うことも可能です。たしかに,暴力を使えば短期的には相手集団もいうことを聞くかもしれません。しかし戦いは"敵"と"味方"を生み出し,次の世代にも爪あとを残すかもしれません。長い目でみると,お互いが納得のいく仕組みをつくったほうが,お互いにとっても合理的な場合は少なくありません。ホモ=サピエンスは長い歴史の中で,より多くの人々が納得できるような様々な"しくみ"
(
制
度
)を考え出していきます。世界史は,ホモ=サピエンスによるその試行錯誤の歴史でもあります。「もうこれ以上はよくならない」「今のままで問題ない」と立ち止まるのではなく,われわれの先祖の"しくじり"に接することで,未来を考える。それが,世界史を学ぶ意義の一つです
(注
)
。
(注)世界史を学習すると,人間は競争がすべてで弱肉強食から生き残った者が勝つのだという"社会闘争"的な印象を抱きがちです。たしかに,そのような局面もあったかもしれませんが,人間は平和によりよく生きていくために,よりよい社会制度を産み出そうとしてきたのです。さもなくば,戦いに明け暮れる戦争だらけの歴史観に陥り,「昔の人は好戦的で愚かだったのだ」「民衆はいつでも支配者と闘争し"普遍的価値"を勝ち取ってきたのだ」という白か黒かの評価を与えかねません(小川幸司『世界史との対話――70時間の歴史批評(中)』地歴社,2012年,p.4)。事態はもっと動態的で,多層的なのです。
温暖化にともない狩猟・採集とともに農耕・牧畜が始まるが,再寒冷化にともない前3千年紀の中央ユーラシアで民族大移動がおきる。
(注)「最寒冷化」はヤンガードリアス期と呼ばれます。
時代のまとめ
(1)
地球が温暖化し気候区分・植生が変化する
この時期に,大型哺乳類の多くが絶滅する
紀元前12000年頃から地球は温暖化に向かい,地質学的
に
後氷
期
(
完新
世
)と呼ばれる時期が始まります
【本試験H19時期を問う】
。北アメリカやヨーロッパの大部分を覆っていた氷河が減少し,森林地帯や草原地帯が広がっていきます。
それとともに,ユーラシア大陸のマンモス,ヘラジカやオーストラリアの有袋類,北アメリカ大陸のマストドン,オオナマケモノ,オオアルマジロ(グリプトドン)
,
ウ
マ
(エウクス)などの大型哺乳類・鳥類・爬虫類が次々に絶滅していきます
(注
)
。
代わってウサギ,イノシシやシカといった小型の哺乳類が分布するようになりました。すばしっこくピョンピョン跳ねる小型動物を仕留めるため,弓矢の先端に取り付けたり,皮を剥ぎ肉を切ったりするため
の
細石
器
(さいせっき)が発明されました。
また
,
根
菜
や種を付ける植物
(
種子植
物
)も食用とされるようになっていきます。
ウ
マ
は原住地である北アメリカ大陸から姿を消し,のちにユーラシア大陸での生き残りが家畜化されることになります。もしアメリカ大陸にウマが生き残っていたら,当然その後の歴史はまったく違ったものになっていたはずです
(
アメリカ大陸におけるウマの絶
滅
)。
(注)これらの絶滅は気候変動だけでは説明がつかず
,
人類による狩猟の影
響
があったと考える研究者もいます。
(2)
各地の気候に合わせ,狩猟・採集・漁撈のほか,農耕・牧畜が導入される
狩猟・採集・漁撈のほか,農耕・牧畜が導入される
紀元前
【本試験H6 B.C.とは「Before Centuryの略」ではない】
12500年には,ホモ=サピエンス(人類)は南アメリカに到達し,前9000年にはその南端に到達していました。
こうして南極大陸以外のすべての大陸に広がった人類
は
完新
世
に入り地球
が
温暖
化
すると,地域によっては細石器を製作する中石器時代を経て,新石器時代
に
磨製石
器
【追H27旧石器時代ではない】
という新たな道具を製作す
る
技
術
を生み出す集団も現れます。
温暖化にともない陸地を覆っていた氷河が縮小し,大型哺乳類も減少する
と,各地の人々はその営みを環境の変化に適応させていきます。
各地で家畜や栽培植物の集中管理
(
農
耕
・
牧
畜
【本試験H4時期が新石器時代か問う】
)
(
注
1
)
も始まり,人類は狩猟・採集による獲得経済だけではな
く
生産経
済
へと生存の基盤を変化させます。
人類は積極的に生態系を作りかえ,食料や道具の材料となる動植物をコントロール下に置くことを可能にしていったわけです
(注
2)
。
人類はもともと遊動生活(一定の場所に長期間とどまらない生活)を送っていましたが,この時期以降,各地
に
定住集
落
も出現します。
しかし,定住集落が必ずしも農耕・牧畜に基づいていたわけではなく,狩猟・採集・漁撈に基づく定住集落もありますし,いくつかの生業を組み合わせたり,共同体の内外での物資
の
交
換
もおこなわれていました。
共同体の中にいるメンバー間の格差はまだそれほど大きくありませんが,共同体の置かれた環境によっては経済格差が広がり
,
経済資源・軍事・思想をコントロールする勢
力
が現れるようになっていきます。
自然との密接なつながりを持っていた当時の人類は,自然との関係の中で,みずからの生命の限界や人生の意味,死後の世界と新たな生命の誕生について,さまざま
な
思
想
を膨らませていきました。
世界の始まりと生命の起源,人間の理想と自然の意志,祭りの祝詞や生活の知恵,人生の喜びと死の悲しみ,目にはみえない幻想的なイメージや恐怖を鎮める呪術(じゅじゅつ),集団の系譜や出来事などが,歌・舞踊・楽器の演奏や,身体の装飾,薬物や生贄(いけにえ)などを用いた儀式を通じて人々の間に共有され,受け継がれていきます。
かつてはユーラシア大陸とつながっていた南北アメリカ大陸でも,この時期には中央アメリカや南アメリカのアンデス地方で農耕・牧畜が導入されていきます。ベーリング海峡によって隔てられたため,アメリカ大陸はユーラシア大陸・アフリカ大陸とは独自の歩みをたどることになります
(注
3)
。
オセアニアでは,すでにニューギニアの高地で,前8000年前にまでさかのぼるバナナやヤムイモの初期農耕の遺跡が発見されています
(注
4)
。
(
注
1
)
牧畜についての補足。「天水のみでは栽培食物が育たないという地域で,人間が消化できない雑草(セルロースが主成分)を飼い慣らした草食動物に食べさせて,乳や肉を利用することで,不安定な狩猟にかわって資本として動物をストックする術を得ました。人類は家畜(生きる資本=livestock)群を連れ,可耕地の外の原野に出て行くことができるようになったのです。これが牧畜の成立です(もっとも松井健は,放牧地のなかの可耕地が農業に特化した人たちの定住地になった可能性も否定していません。
したがって,「農耕・牧畜の開始によって,人類は定住生活を開始した」という説明は,少々粗っぽいということになります。逆に「定住の開始にともなって,農耕・牧畜を開始した」という説明も,牧畜民が可耕地から出て行った可能性を排除してしまいます(注2も参照)。松井健『遊牧という文化――移動の生活戦略』(歴史文化ライブラリー)吉川弘文館,2001年,p.9
(注
2)
これを「新石器革命」とか「農業革命」とも呼びます。この時期の革命を第一次農業革命,第一次産業革命(工業化)の前提になったとされる17~19世紀のイギリスにおける革新を第二次農業革命
【東京H19[1]指定語句】
,1930~60年代の品種改良などの革新を第三次農業革命と呼ぶことがあります。
ただ,考古学者〈G.チャイルド〉(1892~1957)により唱えられた
「
新石器革
命
」(食料生産が可能になったことで定住生活が始まったとする説)が,世界のどの地域においてもみられる普遍的なパターンであったという考え方は,現在では問い直されています。
豊かな漁場や猟場,植物採集が可能な地域では,農耕・牧畜に基づかなくても定住が可能だったからです(遊動生活を基本としていた人類が,農耕・牧畜を中心とする生活へと移行したのに,定住の開始が大きな影響を与えている点については,西田正規『人類史のなかの定住革命』講談社学術文庫,2007年も参照)。「農耕・牧畜→定住」という図式は,全ての集団に当てはまるわけではないのです。なお,狩猟・採集民も,畑地をつくり火を入れ,野生植物を移植して種をまき,草を取り小規模の灌漑をほどこすなど,ある種の栽培は行っていました(参考 クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.67。)。
(注
3)
増田義郎はラテンアメリカのことを「世界史の孤児」と表しましたが,あくまでユーラシア大陸・アフリカ大陸との接触が疎遠だったという点に注目しての表現です。ユーラシア大陸・アフリカ大陸における人類史の道のりが「正統」で,ラテンアメリカの文明が「異端」とか「特殊」であったという見方は一面的です。「世界史のなかのラテン・アメリカ」増田義郎・山田睦男編『ラテン・アメリカ史Ⅰ メキシコ・中央アメリカ・カリブ海』山川出版社,1999,p.8。
(注
4)
ニューギニア島の南部山岳州(◆世界遺産「クックの初期農業遺跡」,2008)。
◆
南北アメリカには、ユーラシア大陸から人類が移住
陸続きであった時期には、長い時間をかけていくつもの集団が
ユーラシア大陸から
【追H24】
アメリカ大陸に移住しました。
しかし、前12000年頃から始まる温暖化によりベーリング地峡
が
ベーリング海
峡
になります。これによりユーラシア大陸との交流は断たれ
た
南北アメリカ大陸は,基本的
に
150
0
年前後まではユーラシア大陸・アフリカ大陸とは独立した歩みをたどっていくこととなるので
す
(注:11世紀初めに北ヨーロッパのヴァイキングが北アメリカ北西岸に到達。また,オセアニア東部のポリネシア人も,南アメリカ大陸に到達していた可能性があります)
。前11500年頃,北アメリカの人々は
南北アメリカ大陸で早くに農耕がおこった地域は
,
中央アメリ
カ
(
メソアメリ
カ
)と南アメリカ
の
アンデス地
方
です。両者をあわせて「核アメリカ」と呼ぶことがあります。
中央アメリカのメキシコやグアテマラでは,テオシントというイネ科の野生植物が,次第に現在のトウモロコシに改良されていきました
(注
1)
。現在のトウモロコシとは似ても似つかないような小さなサイズをしています。
南アメリカ
の
アンデス地
方
の高地では,数千メートルの高度差・季節ごとの気候差を利用した狩猟・採集のほか,前8000年頃にはインゲンマメ,リマビーンズ,トウモガラシなどの作物栽培も導入されていくようになります
(注
2)
。
どちらの地域でも,人々は農耕のみを生活の基盤としていたわけではなく,狩猟・採集や漁撈を組み合わせる生業が営まれていました。
特にアンデス地方中央部では,海岸近くには沙漠があって沖合には豊富な漁場が分布しています。そこに流れ込む川をさかのぼると,一気にアンデス山脈の高地にたどり着きます。海岸から山地まで多彩な気候のバリエーションに富むアンデス地方では,河川の流域や高度別の谷などを基本単位にし,さまざまな人々が気候に適応した生活を送っていたのです。
南北アメリカ大
陸
には,アフリカやユーラシアのように,牛,豚,鶏,羊,山羊,馬といった家畜になりうる中型の哺乳類は分布していません。ですから,動物
に
犂
(すき)を引かせて耕したり,物を運ばせたり車輪を引かせて戦車にしたりといった発想は実現化されていません。
家畜化された動物は少なく,中央アメリカ・カリブ海地域の家畜
は
シチメンチョ
ウ
(七面鳥)
,
イ
ヌ
くらいで,南アメリカではラクダ科
の
ラ
マ
や
アルパ
カ
の原種とみられる動物,小型のテンジクネズミ
(
モルモッ
ト
)がいるくらいです。
もともと北アメリカ大陸に
も
馬
【本試験H7馬はアメリカ大陸の「固有種」ではない。アメリカ大陸に分布していた種は絶滅した。ただ,「固有種」という用語を広義にとると,この問題は解答不能となる】
などの大型哺乳類は分布していたのですが,乱獲あるいは気候変動で絶滅したとみられます。そのことが,アメリカ大陸の文化の特徴をつくっていくわけです。
馬は,肩当て付きの荷車があれば1トンの荷物を運ぶことができましたが,ラマの場合は30キロほどしか運ぶことができません。これでは高山地帯の人類が運ぶことのできる20キロほどと,あまり変わりません。マヤ文明でジャガー付きの玩具が見つかっていることから
,
車
輪
の発想がなかったわけではありません。しかし,家畜の力と組み合わせて運搬用に応用されることはありませんでした。
すでに前6000年頃には狩猟の対象が鹿から,野生のラクダ科動物へ変化していました。山へぴょんぴょん逃げていってしまう鹿の狩猟よりも,群れで生活し移動性の低いラクダ科の動物のほうが狩猟の対象に適していたのです。おとなしい個体が選別され,やがて前2500年頃には
,
リャ
マ
や
アルパ
カ
といった飼育種が登場します
(注
3)
。
(注1)山本紀夫「植物の栽培化と農耕の誕生」『アメリカ大陸の自然誌3:新大陸文明の盛衰』岩波書店,1993。
(注2)関雄二「アンデス文明概説」,増田義郎,島田泉,ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS,2000,p.175。
(注3)関雄二「アンデス文明概説」,増田義郎,島田泉,ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS,2000,p.175。
○前
1200
0
年~
前
350
0
年のアメリカ 北アメリカ
◆
氷
床(
ひょうしょ
う)
の合間を縫うように,モンゴロイド人種が北アメリカ大陸に到達する
人類は大型哺乳類を追って北米に入る
地球の温暖化にともない,北極圏の氷床が融けていくのに従い,人類は当時はまだ陸地であっ
た
ベーリング陸
峡
(ベーリンジア)をわたって
ユーラシア大陸
【追H24】
から現在の北アメリカに到達。この一団
を
パレ
オ=
インディア
ン
(古インディアン)と呼びます。
彼ら
は
マンモ
ス
や
マストド
ン
などの大型哺乳類を追い,氷床(ひょうしょう)が融けている部分
(注
1)
を通って南へ南へ移動していくことになります。
北アメリカに石器を尖らせてクローヴィス尖頭器(せんとうき)と呼ばれる槍を製作し
た
クローヴィス
人
が現れるのは,前10000年以降とみられています
(注
2)
。彼らの盛んな狩猟活動が,北米の大型哺乳類の多くを絶滅に至らしめたという説もあります
(注
3)
。
もともと北アメリカに
は
馬
が分布していましたが,前9000年までには絶滅。気候変動によるものという説もありますが,大型哺乳類の狩猟生活を基盤としてい
た
クローヴィス
人
は衰退していきます。
クローヴィス
人
に代わって,長い角を持つ大型の野生牛を狩
る
フォルサム
人
が台頭し,前7000年までには南米のフエゴ岬に到達していたとみられます
(注
2)
。
フォルサム人はクローヴィス人の文化を継承しつつ,前7500年~前4500年まで中小型動物を狩猟を営みます。
一方,前9000年には別のモンゴロイド人種のグループが,ベーリン
グ
地
峡を越えて現在の北アメリカ大陸にわたっています
(注
3)
。
・アラスカからユーラシア大陸に向かって突き出るアリューシャン諸島にわたったグループは,現在
の
アリュート
人
の祖。
・極北に分布したグループは,現在
の
イヌイ
ト
(イヌイット;エスキモー)の祖です。
このように,人類は3~4度に分けて大規模に北アメリカ大陸に進出したことがわかっています。
初めに進出したクローヴィス人やフォルサム人などのグループの歯の裏側は"シャベル"のような凹型になっているのが特徴で,これは現在のアメリカのインディアンにも連なる特徴ということです。
(注1)ローレンタイド氷床と太平洋岸のコルディエラ氷床の間にできた狭い"通路"があったという説(フィオレンツォ・ファッキーニ,片山 一道訳『人類の起源』同朋社,1993)。この通路(マッケンジー回廊といいます)は存在しなかったという異説もあります。
(注2)クローヴィスというのは,アメリカ合衆国の南部ニューメキシコ州の地名で,ここを拠点とした尖頭器を用いる文化をクローヴィス文化といいます。彼らの活動年代については多説ありますが,前10000年というのが有力です(綾部恒雄・富田虎男(『講座世界の先住民族 ファースト・ピープルズの現在 北米』明石書店,2005,p.17)。なお,フォルサムはニューメキシコ州の地名です。なお,ジェレミー・ブラック(同,牧人舎訳『世界史アトラス』集英社,2001,p.14)は,やや早い年代(前11000年)を採用しています。
(注3)こちらも多説あり。
○前
1200
0
年~
前
350
0
年のアメリカ 中央アメリカ
中央アメリカで農耕・牧畜が導入される
中央アメリ
カ
ではメキシコ南西部の太平洋沿岸に,ハマグリなどの貝塚が残されています(チャントゥト文化)。
太平洋岸に比べて豊かな自然環境を持つユカタン半島
の
マヤ地
域
南部の高地(高地マヤ)の人々は,こうした先行する文化の影響を受けつつ,前8000年~前2000年にかけ
て
古
期
に区分される文化を生み出しています。
前8000年に
は
ヒョウタ
ン
がすでに栽培されていた痕跡があります
(注
)
。ほかに中央アメリカ原産の栽培植物は
,
トウガラ
シ
,
アボガ
ド
,
カカ
オ
。南アメリカでも栽培されていたもの
に
カボチ
ャ
,
インゲンマ
メ
があります。
「
栽
培
」といっても,まだこの時期には「採集」(自然)と「農耕」(人間の管理)のあいだのようなもの
(
初期農
耕
)。
「トルティーヤ」の生地など,いまや中央アメリカに欠かせな
い
トウモロコ
シ
の栽培化も始まりますが,前5000年の時点で実の部分はわずか2.5cmにすぎなかったといわれています。
中央アメリカ原産の家畜
は
七面
鳥
のみ。南アメリカ原産
の
リャ
マ
,
アルパ
カ
の原種とみられるラクダ科の動物
(
ビクーニ
ャ
や
グアナ
コ
)も中央アメリカに進出します。イヌも分布されていて,中央アメリカの犬種はチワワやメキシカン・ヘアレス・ドッグが有名です。
(注)ここで注目すべきは,ヒョウタンはアフリカ原産であるとされるのに,なぜこんなに古い時代の北アメリカで栽培されていたのか?という問いです(しかもアフリカでの栽培化よりも早い!)。
アフリカからの漂着説もありますが,ヒョウタンのDNA分析によるとアジアの品種に近いとのこと。人類によってベーリング地峡を陸路で移動したのではないかともいわれています。考古学的な証拠の年代を考慮し
,
船で北アメリカを南下した人類がいたので
は
と考える研究者さえいます(湯浅浩史「ヒョウタンと古代の海洋移住」,笹川平和財団,https://www.spf.org/opri-j/projects/information/newsletter/backnumber/2013/306_3.html)。
○前
1200
0
年~
前
350
0
年のアメリカ 南アメリカ
南アメリカで農耕・牧畜が導入される
南アメリカ大
陸
は,昔から現在のように熱帯雨林が生い茂る地ではありませんでした。
寒冷・乾燥な気候と,温暖・湿潤な気候を繰り返し,前20000年~前12000年に最後の寒冷・乾燥期(ヴュルム氷期の最盛期)を迎え,それ以降,再度温暖化・湿潤化して,森林地帯が復活したと考えられています
(注
1)
。
中央アメリカ原産の家畜
は
七面
鳥
のみ。南アメリカ原産
の
リャ
マ
,
アルパ
カ
の原種とみられるラクダ科の動物
(
ビクーニ
ャ
や
グアナ
コ
)も分布しています(家畜化は前2500年以降
(注
2)
)。
(注1) 実松克義『衝撃の古代アマゾン文明』講談社,2004。Jonathan Adamsの研究による。
(注2)増田義郎,島田泉,ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS,2000。
○前
1200
0
年~
前
350
0
年の中央アメリカ
中央アメリ
カ
ではカリブ海にせり出す
この地方の住民はウサギやシカなどの小型の動物を狩猟し,木の実・豆,野生のイネ科種子,トウモロコシ,カボチャ類を採集しつつ,移動生活を送っていました。
前8000年前後から,トウガラシ,アボカド,パパイヤ,グアバ,カボチャ,ヒョウタン,豆類などの栽培が始まりました
(注
)
。
トウモロコ
シ
(前5000年に頃にはすでに栽培されていましたが,主食としての収量があがるのは前2000年頃からです),豆,トウガラシ,カボチャを主食とし,農耕に関連する神話を持ち記念建造物と人身御供の儀式,交易ネットワーク,1年365日の正確な太陽暦と短期暦(1年260日),象形文字といった共通点を備えています。
家畜
は
シチメンチ
ョ
ウ
や
イ
ヌ
くらいで,アンデス地方のようなリャマやアルパカなどのラクダ科の動物はいませんでした。
(注)増田義郎「世界史のなかのラテン・アメリカ」増田義郎・山田睦男編『ラテン・アメリカ史Ⅰ メキシコ・中央アメリカ・カリブ海』山川出版社,1999,p.37
。
トウモロコ
シ
はイネ科の野生植物「テオシンテ」から栽培されたとされています。最古のものは穂軸が1.9ないし2.5センチほどしかなく,実も36ないし72粒ほどしかなかったそうです。ポンティングは,トウガラシ,アボカド,パパイヤ,グアバ,カボチャ,ヒョウタン,豆類のうち早いものは前7000年頃に栽培されていたとし,トウモロコシは前5000年頃にはすでに栽培されていたとします(クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.88
。
トウガラ
シ
も前7000年ころには利用されていました(山本紀夫『トウガラシの世界史』中公新書,2016,p.5)。
○前
1200
0
年~
前
350
0
年の南アメリカ
アンデス地方
アンデス地
方
中央部でも農業が発達していきます。アメリカ大陸における最初の植物栽培に関する考古学的な証拠はペルーの中部山岳地帯の前8000~前7500年頃とされています。トウガラシその頃には利用されています
(注
)
。
(注)山本紀夫『トウガラシの世界史』中公新書,2016,p.8。
ジャガイ
モ
も栽培化(正確な年代は不明)され,高山でも育つ作物として重要でした。一般に根菜作物は保存が難しいので蓄積することができず,強大な王権が発展しにくいといわれますが,アンデス山脈から太平洋沿岸にかけたダイナミックな標高差を活かし,各高度の気候・地形に合わせた様々な交易ネットワーク
(
高い所と低い所の間の交
易
)を束ねる権力が生まれていったのだと論じる研究者もいます
(一方,南北アメリカ大陸では南北間の交易は,ユーラシア大陸に比べると大規模に発展することはありませんでした)
(
注
1
)
。
しかし,栽培可能な植物や飼育可能な大型動物の少なさもあって,アメリカで大陸で農耕文明が発達するスピードは,アフリカ大陸やユーラシア大陸に比べるとゆっくりとしたものになっていきました。
アマゾン流域
南アメリカのアマゾン川流域(アマゾニア)では,前5000年にはすでにキャッサバ(マニオク),サツマイモ,カボチャ
(
注
2
)
,クズウコンとおそらくナンキン豆
(注
3)
が栽培されていた可能性があります。
(注1)山本紀夫『国立民族学博物館調査報告 No.117 中央アンデス農耕文化論――とくに高地部を中心として』国立民族学博物館,2014年
(注2)デヴィッド・クリスチャン,長沼毅監修『ビッグヒストリー われわれはどこから来て,どこへ行くのか――宇宙開闢から138億年の「人間」史』明石書店,2016年,p.240。
(注3)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.90
狩猟・漁労・採集が主流の地域も多い
北極圏周辺で
は
アザラ
シ
などの狩猟採集生活,太平洋岸では漁労を中心とした生活,南西部の乾燥地帯では遊牧生活,さらにロッキー山脈(北アメリカの太平洋岸近くを南北に走る険しい山脈)の東側に広が
る
グレートプレーン
ズ
という乾燥草原(短い草原が広がる)地帯では
,
バイソ
ン
の狩猟や採集を基盤とした生活が主流でした。
一方,アルゼンチンの大平原やアマゾン川上流域では狩猟採集民が生活していました。
○前
1200
0
年~
前
350
0
年のオセアニア オーストラリア
この時期に人類は
,
ニューギニア
島
か
ら
ソロモン諸
島
にまで移動していきます。
ニュージーラン
ド
や,南太平洋・東太平洋にあた
る
ポリネシ
ア
の大部分には,まだ人類は足を踏み入れていません。
またこの期間には
,
ニューギニア
島
の高地
で
タロイ
モ
や
バナ
ナ
の栽培があったことが確認されています(◆世界文化遺産「クックの初期農業遺跡」,2008)。
○前
1200
0
年~
前
350
0
年のオセアニア オーストラリア
オーストラリアでは,オーストラロイド人種
の
アボリジナ
ル
が,引き続き狩猟採集文化を送っています。
タスマニア島はもともとオーストラリア大陸本土とつながっていましたが,気候の温暖化の影響で前6000年頃に分離。オーストラロイド人種
の
タスマニア
人
はオーストラリア本土のアボリジナルとの交流を,まったく失うことになります。
◆
中央ユーラシアでは牧畜を主体とする文化が営まれるようになる
ウクライナで馬が家畜化される
前4000年頃には黒海北岸
の
ウクライ
ナ
の草原地帯の人々が
,
馬
の家畜化に成功したとみられます。ウクライナのドニエプル川下流のデレイフカ遺跡の集落跡で見つかった雄馬の臼歯(きゅうし)の化石が斜めにすり減っていることから,はみ
(馬銜)という馬具を噛ませていたと推測されていいます
(注
1)
。
馬にまたがって載ることも試みられてはいましたが,当時はまだ一般的ではありません
(注
2)
。
こうし
て
牛
・
馬
・
豚
・
山
羊
・
羊
・
ラク
ダ
など,ユーラシア大陸の主要な中型の家畜が出揃いました
(注
3)
。
◆前
350
0
年~
前
20
0
年の寒冷・乾燥期に,中央ユーラシアの住民が南方に民族移動する
農耕よりも牧畜を主体とした生活が適する地域は,アフリカ東部のサバンナ地帯,西アジアの沙漠地帯,ユーラシア大陸の草原(ステップ)地帯などがありますが,とくにユーラシア大陸に東西8000kmにわたり広が
る
草原地
帯
は,
前3500年頃から前200年にかけて地球の気候が乾燥・寒冷化。ユーラシア大陸中央部~北部の人々の暮らしに,壊滅的な打撃を与えます
。中央ユーラシアの人々は危機的な状況の中で,従来のように狩猟・採集をおこなうのではなく,計画的に家畜を飼育・管理する技法を洗練させていったのです。
彼らは前3000年紀(前3000~前2001年)にユーラシア大陸各地を南下。これが中央ユーラシアからの民族移動の第一波です。
一方,ユーラシア大陸北部の針葉樹林帯(タイガ)やツンドラ(夏の間だけ短期間コケの生える地帯)では,古シベリア諸語を話す人々などが寒冷な気候に適応し,アザラシなど
の
海
獣
の狩猟や採集による生活を送っていました。
(注1)藤川繁彦『中央ユーラシアの考古学』同成社,1999,p.46。
(注2)藤川繁彦『中央ユーラシアの考古学』同成社,1999,p.27。
(注3)家畜の多くは野生種のころと比べ骨格が変化することが多いのですが,馬はあまり変化していないことから「家畜化」の証拠をつかむのは容易ではありません。
○前
1200
0
年~
前
350
0
年の東北アジア
新石器時代のユーラシア大陸北部の森林地帯には,南ロシアからモンゴル高原,朝鮮半島までの広い範囲
に
櫛目
文
(くしめもん
)
土
器
が分布しています。ユーラシア大陸を東西に結ぶ交流があったことを物語ります。
○前
1200
0
年~
前
350
0
年の東アジア 日本
日本列島の人々は,世界最古級の土器であ
る
縄文土
器
を製作す
る
縄文文
化
を生み出し,狩猟採集生活や漁労を行っていました。
縄文土器には地域的特徴が大きく,各地域で特定の文化を共有するグループが生まれていたことを表しています。
縄文土器を特徴とする縄文時代は,現在では以下の6つの時期に区分されるのが一般的です。
・草創期(前13000~前10000年)
・早期(前10000~前5000年)
・前期(前5000~前3500年)
・中期(前3500~前2500年)
・後期(前2500~前1300年)
・晩期(前1300~前800年)
約前5300年頃に九州南方
の
鬼
界(
きか
い)
カルデ
ラ
が爆発的な噴火(大量のマグマが一気に地上に噴出する壊滅的な噴火
(注
)
)が起こったとされ,この影響で縄文時代の文化は一旦途絶したともされています
。
縄文土器には,ユーラシア大陸で出土する土器とも関連があるのではないかともいわれています(新石器時代のユーラシア大陸各地では
,
櫛目
文
(くしめもん
)
土
器
という様式の土器がフィンランドから朝鮮半島までの広範囲で出土しています)。
また,日本列島各地の特徴を持つ土器が縄文時代前期の末期か
ら
八丈
島
(はちじょうじま)からも見つかるようになっています
。
神津
島
(こうづしま)産
の
黒曜
石
(こくようせき)という特殊な石も本州各地で発見されていることから,日本列島全域をカバーする交易ネットワークがすでに縄文時代早期に形成され始めていたと考えられています。
なお,青森県の三内丸山遺跡から
は
ク
リ
の栽培種も見つかっていますが,縄文時代に農耕が行われていたかどうかについては議論が続いています。
縄文時代早期と前期の境目の時期には,九州南方の鬼界カルデラが大噴火を起こし,日本列島全域に火山灰が降り積もるなどの被害がもたらされました。
沖縄諸島では,前4600年頃に九州方面から移住した縄文人によって
,
貝塚文
化
が栄えました。貝塚文化の栄えた時代を貝塚時代,または縄文時代と呼びます。
(注)「巨大溶岩ドーム 鹿児島沖で確認 世界最大級直径10キロ」,毎日新聞,2018.2.9(https://mainichi.jp/articles/20180210/k00/00m/040/110000c)。橋口尚武『黒潮の考古学 (ものが語る歴史シリーズ)』同成社,2001,p.55。鬼界カルデラの噴火によって南九州周辺は特に壊滅的被害を受けました。
○前
1200
0
年~
前
350
0
年のアジア・ヨーロッパ 東アジア
中国の黄河流域ではキビ,長江流域では水
稲(
初めは陸
稲)
の灌漑農耕が始まった
黄河
【本試験H29地図が問われる】
流域の人々は前6000年頃に
は
キ
ビ
(黍)などの雑穀の栽培に成功します。炭水化物源の穀物のほかに,タンパク源
の
大
豆
(だいず)の栽培も始まっていました。西アジアとは異なり小麦(導入は前1300年頃),大麦(小麦よりやや後に導入)の
前5000年紀に
は
黄
河
(こうが,ホアンハー
)
中流
域
で彩文土器(さいもんどき
,
彩
陶
【本試験H24唐三彩のひっかけ】
【追H19】
)を特徴とす
る
黄河の下流域では,前4100年頃~前2600年頃に山東半島を中心に大汶口(だいぶんこう)文化が栄え,これがのち
の
黄河流域と同時期
の
長
江
(ちょうこう,チャン=チアン
)
の中・下流
域
では
,
稲
作
【追H27新石器時代か問う】
を中心とした集落が出現します。稲の原種はインドのヒマラヤ地方からタイ北部,中国南部にかけての地方に複数のルーツを持つと考えられています。現在の長江下流
【追H27新石器時代に稲作が行われていたことを問う】
,黄シナ海をのぞむ
また,朝鮮半島に近い遼河でも,前4500年~前3000年に紅山文化が発展しています。
(注1)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.83
○前
1200
0
年~
前
350
0
年の東南アジア
東南アジ
ア
の人々は
,
大陸
部
(ユーラシア大陸側の東南アジア)では,狩猟採集生活を送っていました。島しょ部で
は
オーストロネシア語
族
の人々が狩猟採集生活や漁労を行っています。
東南アジアの大陸部には内陸からいくつかの河川が流れています。
現在のミャンマー(ビルマ)には
,
イラワ
ジ(
エーヤワディ
ー)川
【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30地図上の位置】
現在のミャンマーとタイの国境を流れるサルウィン川(怒江)
現在のタイに
は
チャオプラヤー
川
【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30地図上の位置】
現在のラオスからカンボジアを通り,ヴェトナム南部に注
ぐ
メコン
川
【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30地図上の位置】
現在のヴェトナム北部のハノイに注
ぐ
ホン
川
(
紅
河
)です
【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】
○前
1200
0
年~
前
350
0
年の南アジア
南アジ
ア
の新石器文化は,イラン高原からインダス川流域にかけて前7000~前6000年頃に始まりました。人々は日干しレンガで住戸をつくり,大麦,小麦,ナツメ,ナツメヤシを栽培していました。その他の地域の人々は,狩猟採集生活を送っていました。
前6000年頃に
は
サトウキ
ビ
【本試験H11南北アメリカ原産か問う(原産地はニューギニア島周辺)】
が伝わっています。
○前
1200
0
年~
前
350
0
年の西アジア
かつては人類初の農耕・牧畜がはじまった場所は,大河流域であったと考えられていました。
ですから,大河で灌漑農耕をやっていた文明を4つ集めて
「
四大文
明
」などと呼んでいたわけです。
でも実はこの言葉には「日
本
三
景」とか「世
界
七
不思議」のように,べつだん大きな意味があるわけではありません。意味がないどころか,インダス文明のように,そもそも大河の灌漑農耕により強大な指導者が生まれてなどいなかったり,メソアメリカ文明,アンデス文明のようにそもそも大河の灌漑農耕がなくとも文明が生まれていたことがわかってきています。
しかしながら,そのようなことも念頭に置きながら西アジアの文明をみてみると,それでもやはり歴史は古い。
前7300年頃には,すでに農耕・牧畜をやっていて
,
都
市
を形成したチャタル=ヒュユクというところもあります
(注
)
。
(注)現在のトルコ共和国中南部には,前7300年頃に定住が始まった世界最古級の都
市
チャタ
ル=
ヒュユ
ク
が代表的で,密集した都市や女性をかたどっ
た
神
像
など現在でも日本を含む調査団による発掘が進められています(◆世界文化遺産「チャタルヒュユクの新石器時代の遺跡」2012)。
ではこのチャタル=ヒュユクは大河流域にあるかというと,現在のトルコ共和国の中南部の内陸部の山麓地帯なのです。
たまた
ま
羊
や
山
羊
の野生種にあたる動物が分布していたことや,小麦のご先祖にあたる植物が分布し,適当な降雨もあったことが幸いしました。
前
800
0
年頃に山羊,羊,豚,
前
600
0
年頃に牛が家畜化される
人類による動物の飼育と利用が始まった
前8000年頃にはトルコ東南部に接するシリア北部
で
山
羊
(ヤギ)
,
羊
,
豚
が家畜化されました。
西アジア・南アジアでは前6000年頃に
は
牛
が家畜化されました
(ヨーロッパが原産で西南アジアに逆輸入されたともいう説もあります
(注
1)
)
。
初めのうちは,家畜が大きくなったらすぐに殺して食べていたと考えられますが,途中から肉や皮だけでなく
,
毛
からは繊維をとり糸を紡いで編め
ば
衣
服
に,糞は畑にまけ
ば
肥
料
に,それに人や荷物も運べますし
,
犂
(すき)をひかせて畑を耕せば強力な動力になることに気づきました。
なお,
各地域で徐々に農業生産性を上げていった人類は,前1万年頃に1000万人だったのが,前4000年頃には人口が5000万人に増加していたと考えられています。多くの場合狩猟・採集も合わせておこなわれていましたが,多くの人口を養うためには農耕・牧畜が欠かせなくなりました。
前7000~前6000年の西南アジアの農業人口は主に高地に分布していましたが,その後の人口増加に対応することができなくなり,天水農耕では対応できなくなっていったのです。
前5500年には現イラン南西部のフーゼスターン
で
灌
漑
(かんがい)が始まります
(注
2)
。水路をもうけて,畑に水を注ぐためのシステムです。前5000年から前3000年にかけて導入される地域が増加。
灌漑の導入直後は多くの収穫が見込めますが,長期に渡り水路を利用するには維持・管理が必要です。集団をまとめあげる組織や管理の必要性から,社会が次第に階層化に向かう一因となります。
前
550
0
年~
前
400
0
年 ウバイド文化
西アジア
の
ティグリス
川
・
ユーフラテス
川
の下流域では,前5500~前3500年に灌漑農耕を基盤とす
る
ウバイド文
化
が栄え,高い生産性により集落の人口密度が上昇していきました
。
神
殿
を中心
に
しかし,前4000年から前3000年にかけ,ユーラシア大陸からアフリカ大陸にかけてさら
に
乾燥
化
が進むと,従来は自然の降水(
前
400
0
年~
前
310
0
年 ウルク文化
ウバイド文化は前4000年頃に崩壊し,担い手
が
ウルク文
化
に交代します。
この時期,メソポタミア南部に都
市
ウル
ク
が建設されました。
ついに,西アジア
に
都市文
明
が生まれたのです。
都市には多数の人口が居住し,大河の灌漑と穀物管理を通じて指導者が現れ,その支配を正当化す
る
祭祀センタ
ー
(
神
殿
)が人々の信仰の的となり,生活の支柱となります
(注
3)
。
豊富なモノが内外から祭祀センターにもたらされ,余るほど集まった食料を背景に,農作業に従事せずに様々な衣食住に関する道具をつく
る
手工業
者
が
,
物質文
化
を支えました。
交易ルートの支配や財産を守るために,防御施設
(
農耕民の富をめぐっては,周辺の乾燥草原地帯から遊動生活を送る牧畜民が侵入することもありましたが,遊牧民にとっては農耕民と持ちつ持たれつの関係を築くことも生きていくためには重要。畜産物や軍事力を農耕民に提供し,見返りに農耕民の食料・工芸品を得ることもおこなわれました。これを「交易」といいます
。
銅
,
金
,
銀
製品が出土するのはこの時期からです。つまり,地域外の乾燥地帯から物品をはるばる運んでくることのできる牧畜民の存在や,輸送ルートが存在したことを物語っています
(注
4)
。
このように,都市の経済力
や
物質文
化
(
=
文
明
)の刺激を受けつつ,異なる生態系にある人間集団
が
交
易
を通して密接に絡み合い,相互に影響し合うようになっていくわけです。
(注1)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.80。
(注2)上掲,p.95。
(注3)祭祀センターの出現は
,
都
市
=
文
明
の出現の前提条件というわけではありません。また同様に,定住農耕
が
都
市
=
文
明
の前提情景というわけでもありません。ここでは少なくとも,前4000年紀行のウルク文化の時期の経緯について述べているだけですから,これをもって「人類の世界史の法則」を打ち立てることなどできません。
(注4)後藤健『メソポタミアとインダスのあいだ─知られざる海洋の古代文明』筑摩書房,2015,p.32。
◆
アフリカ大陸のサハラ沙漠は現在よりもはるかに湿潤で,草原や森林も分布していた
この時期には「緑のサハラ」で農耕・牧畜も営まれる
西アフリカでは,サハラ砂漠(現在のアルジェリア)にこの時期の岩絵群が残されています。
狩猟や牧畜の様子が描かれており,当時のサハラ砂漠一帯が緑に覆われていたことがうかがえます(◆世界複合遺産
「
タッシ
リ=
ナジェー
ル
」,1982。
当時のサハラを
「
緑のサハ
ラ
」といいます)
。
北アフリカのナイル川流域には,灌漑農耕を営む集落が出現し,前5000年~前4000年の先王朝時代,前4000年~前3500年
の
ナカダ文
化
Ⅰ期には政治的な統合もすすんでいきます
(注
)
。
(注)エイダン・ドドソン,ディアン・ヒルトン,池田裕訳『全系図付エジプト歴代王朝史』東洋書林,2012,p.44による。古代エジプトの年代については諸説あります。
◆ヨーロッパでも農耕・牧畜が始まり、狩猟・採集・漁労から少しずつ移行する
農耕・牧畜が伝わり、新石器時代に入る
○前12000年~前3500年のヨーロッパ 地中海沿岸
農耕・牧畜は,西アジアか
ら
地中
海
東岸
(西南アジアと気候があまり変わらないのでスムーズに受け入れられました)
・
前6000年期には、打製石器に代わって磨製石器が登場し、新石器時代に突入。鎌、石臼などの農具や土器もつくられるようになります。
前6000年紀(前6000~前5001年)には、地中海沿岸地域で
羊
の家畜化が始まり、野生の牛・鹿・ウサギの狩猟とともに食料確保の方法として用いられるようになります
(注1)
。
前5000年紀(前5000~前4001年)には、牛も飼育されるようになり、飼育地は内陸部から大西洋沿岸部にまで拡大します
(注2)
。
地中海沿岸で
は
オリー
ヴ
,
ブド
ウ
,
イチジ
ク
の栽培も始まります。
新石器時代のマルタ島とゴゾ島には,巨石神殿の遺跡が残されています(ゴゾ島のジュガンティーヤと,マルタ島の5つの神殿)(世界文化遺産「マルタの巨石神像群」,1980,1992範囲拡大,2005範囲変更)。
○前12000年~前3500年のヨーロッパ 中央ヨーロッパ、東ヨーロッパ
気候が
帯状文様土器を特徴とするにドナウ文化は、焼畑・輪作による定住農耕が特徴で、牛の飼育に優れていました。
○前12000年~前3500年のヨーロッパ 北ヨーロッパ、西ヨーロッパ
新石器文化の時期にあたるこの頃の西ヨーロッパでは、巨大な石の構造物を建設する
巨石文化
が出現します。
石を建てたものをメンヒル(立石)といいますが、フランスのブルターニュ地方のカルナックには、メンヒル3000本が11列に4kmにわたって連なる大規模な構造物があります。一部の人のお墓に豪華なものがそなえられていることから、富や身分の差があったとみられます。
これだけのものをつくるには、組織された複雑な農耕社会があったはずです
(注3)
。
北極圏の周辺では,中石器時代が続き,狩猟採集生活を送る人々が生活しています。
され、農業が伝わるのはもっと後のことでした。前3000~前2000年に北西ヨーロッパ,さらに1000年遅れることデンマーク,スウェーデン南部に伝わります。作物としてはオート麦やライ麦が栽培されました。
(注1) 福井憲彦『新版世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年、p.24。
(注2) 福井憲彦『新版世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年、p.24。
(注2) 福井憲彦『新版世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年、p.25。
ユーラシア大陸・アフリカ大陸では,乾燥地帯で灌漑農業が始まり,定住集落が大規模化する
(
古代文明の成
立
)。乾燥草原地帯では,牧畜遊動民のエリアが拡大する。
南北アメリカ大陸では,中央アメリカや南アメリカのアンデスで狩猟採集のほかに農耕・牧畜の導入も始まる。
時代のまとめ
(1
)
ユーラシア
ユーラシア大陸やアフリカ大陸北部では,農耕・牧畜が広い範囲に広まり,経済的な基盤となる。
経済的資源をコントロールしようとした指導者が,軍事組織と信仰組織とも関係することで,地方では集落が都市に発展して政治的な統一がすすむ。
内陸部の乾燥草原地帯では,馬を利用した牧畜文化が拡大する。中央ユーラシア西部にはヤムナヤ文化に次いでカタコンブナヤ文化,中部~東部にはアファナシェヴォ文化に次いでアンドロノヴォ文化が栄える。この時期の終わりまで
に
青銅
器
を受け入れ
,
車
輪
も使用していた。
一方
,
大河の流
域
では都市国家群が栄える。
例えば,前3150年?~前2584年?の間にエジプトでは初期王朝時代を迎え
,
古王
国
(前2584?~前2117?)の時代には大規模
な
記念建造
物
(ピラミッド)が建設される。
東アジアでは,黄河流域
で
竜山文
化
(前3000年紀)という農耕を基盤とする文化が栄える。モンスーンの影響を受ける湿潤な長江流域にも農耕文化が栄える。
南アジアでは,インド亜大陸の北西部のインダス川流域
に
インダス文
明
(前2500年~前1700年)が栄える。交易ネットワークの中心として栄えた都市国家群であったとみられる。
西アジアのメソポタミアでは
,
ウルク
期
か
ら
アッカド帝
国
の時期にあたり,農耕を基盤とする都市国家群が栄える。
(2
)
南北アメリカ
南北アメリカ大陸では狩猟・採集・漁撈に加えて,中央アメリカや南アジアのアンデス地方で農耕・牧畜も導入される。
○前
350
0
年~
前
200
0
年の北アメリカ
北アメリカ
の
北極圏周
辺
には,カリブー
(
トナカ
イ
)を狩猟する人々が生活しています。
北極圏よりも南の北アメリカ一帯には
,
インディアンの諸民
族
が,各地の気候に合わせて生活をしていました。
北アメリカ東部には狩猟・採集民,太平洋岸には狩猟・漁労・採集民,南西部の乾燥地帯には狩猟採集民が生活しています。
前3000年には,北アメリカ
の
中部の大平原地
帯
の人々は
,
バイソ
ン
(バッファロー)の狩猟文化を生み出しています。バッファローの皮を使っ
た
ティーピ
ー
という円錐形のテント,同じく皮で作ったモカシン靴という履物,盾や日用品などが,バッファローの骨から作られていました
。
アルゴンキン
人
,
アサパスカン
人
,
スー
人
の3つの語族が分布しています。
○前
350
0
年~
前
200
0
年の中央アメリカ,カリブ海
◆
中央アメリカやカリブ海では狩猟・採集・漁撈による生活が営まれ,農耕・牧畜も導入される
中米では狩猟・採集・漁撈に加え農耕・牧畜も
前3400年頃には栽培種のトウモロコシが,ようやく5~7cmにまで大きくなっています。でも30cm前後になる現在のトウモロコシに比べると,まだまだです。
中央アメリカではメキシコ南西部の太平洋沿岸に,ハマグリなどの貝塚が残されています(チャントゥト文化)。太平洋岸に比べて,豊かな自然環境を持
つ
マヤ地
域
の高地(高地マヤ)の人々は,こうした先行する文化の影響を受けつつ,前8000年~前2000年にかけて古期に区分される文化を生み出しています。
○前
350
0
年~
前
200
0
年のアメリカ 南アメリカ
アンデス地方に神殿が建設されはじめる
南アメリカ大陸の太平洋側には,南北
に
アンデス山
脈
が走ります(最高峰はアコンカグア山の6961メートル)。
海岸からほど近いところに大山脈があるために平地が少なく,熱帯雨林気候,乾季のある熱帯気候,乾燥気候など,さまざまな気候がおおむ
ね
高度
別
に分布しているのも特徴です。
アンデス地方中央部沿岸はすぐれた漁場を有し,海岸付近の人々
は
カタクチイワ
シ
(アンチョビー)などの漁労にも従事していました。ウミドリの糞であるグアノも,古くから人々に利用されていた痕跡もみつかっています
(⇒187
0~
192
0
年の南アメリカ
1
9
世紀後半にはペルーを中心に輸出向けの開発が進展することになりま
す
)
。漁獲量は沿岸の海水温に左右されます。
海水温が暖かくな
る
エ
ル=
ニーニ
ョ
や冷たくな
る
ラ=
ニーニ
ャ
現象と呼ばれ,この付近にとどまらぬ地球規模の海流や気圧の変動メカニズムによるものとされています
。
沿岸部を流れる海流は南極方面から北上す
る
寒
流
であるため,沿岸部には乾燥した偏西風が吹きつける影響で
,
沙漠気
候
となります。
沿岸部の気候と高山部の気候にはズレがありますから,高山部で降った雨が川となって沙漠に恵みをもたらします。また,沿岸部や山の斜面に発生する霧(ロマスと呼ばれます)も,野生の動植物の繁殖を助けます。
海産物は基本的に季節に左右されませんから,人々はまず沿岸に定住して,カニとか貝などの海産物を漁撈・採集しました。
やがて,山地で開発されていた農耕技術を,平地の河川地域に適応しようとする人々がやってきて,生態をこえた密接なつながりが形成されていくことになります
(注
1)
。
ペルー沿岸
こんなプロセスをたどって,前2500年頃以降,アンデス中央部の山地~沿岸部
に
公共建造
物
が出現します。
公共建造
物
は,なんらかの
「
正
義
」を表現することで,人々を巻き込んで動かそうとした勢力によって建てられるものです。ですから,公共建造物が出現したということは,ある程度,食べ物が安定して獲得・生産されるようになって,その備蓄・分配・生産をコントロールしようとする人々が出現していたことの現れともいえます。
現在のペルーの太平洋岸近く
の
カラ
ル=
ス
ペ
(◆世界文化遺産「聖都カラル=スーペ」,2009)からは,前3000~前1800年頃までの都市遺跡が残されています。広場とともに基壇(ピラミッド)状の構造物があって,農産物だけではなく海産物も発見されています。すでに情報伝達手段である
現在のペルーの北部山地
の
コトシ
ュ
では「コトシュ宗教伝統」と呼ばれる神殿遺跡がみつかっています。ここでは神殿が建てられては壊され,また建てられては壊されるという
「
神殿更
新
」の形跡がみとめられています。同様の習慣は日本の伊勢神宮(三重県)で20年毎に営まれる「式年遷宮」(しきねんせんぐう)にもみられますね。立て直しのたびに労力や物資が必要になりますから,次第に神殿が大規模になるに従い,その刺激を受けて生産規模・集落規模も拡大していったとみられています。
アマゾン川流域
南アメリカ
の
アマゾン川流
域
(アマゾニア)の熱帯雨林地帯には,狩猟・採集民が分布しています。前2000年にはすでに小規模な農村がつくられていました
(注
2)
。主食
は
マニオ
ク
(キャッサバ)の根っこです。
乾季をもつ熱帯(サバナ気候)や,現在のアルゼンチンに広がる乾燥地帯の草原でも,狩猟民が生活をしていました。
(注1)関雄二「アンデス文明概説」
,
増田義郎,島田泉,ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS,2000,p.175。
(注2)デヴィッド・クリスチャン,長沼毅監修『ビッグヒストリー われわれはどこから来て,どこへ行くのか――宇宙開闢から138億年の「人間」史』明石書店,2016年,p.240。
○前
350
0
年~
前
200
0
年のオセアニア ポリネシア,メラネシア,ミクロネシア
◆
オーストロネシア語族が台湾から東南アジアに向けて移動を開始し,ラピタ文化を生み出す
オーストロネシア語族が台湾からオセアニアに南下へ
前4000年頃に台湾から南に移動を開始し
た
オーストロネシア語
族
の人々(人種的にはモンゴロイド人種)は,東南アジア方面に向けて前1500年頃までに島伝いに移動をしていきました。
前3000年頃にフィリピンからインドネシア方面に東西二手に分かれて南下し,前2000年頃にさらに東西に分かれ,東に向かった集団
は
ニューギニア
島
北岸か
ら
ビスマルク諸
島
に進んでいきました。
彼らは船の航行にすぐれ,犬・豚・鶏を家畜とし,漁労を営
み
○前
120
0
年~
前
80
0
年のオセアニア オーストラリア
オーストラリアでは,オーストラロイド人種の先住民
(
アボリジナ
ル
)が,引き続き狩猟採集文化を送っています。
◆牧畜の文化は
,
ウクライ
ナ
からカザフスタンの乾燥草原地帯
(
カザ
フ=
ステッ
プ
)の方面に広がる
ユーラシアが牧畜エリアと農耕エリアに分かれる
前4000年頃には,人類ではじめ
て
ウクライ
ナ
の乾燥草原
(
ステッ
プ
)地帯
で
馬が家畜
化
されていました。定住生活を営む集団が主で,農業と牧畜を組み合わせた生活もしていたようです。
この生活様式は前3000年紀末に気候が寒冷化・乾燥化するに従い
(注
)
,ユーラシア
,
ウクライ
ナ
からカザフスタンの乾燥草原地帯
(
カザ
フ=
ステッ
プ
)を通って東方に広がっていきました。
(注)植生については時代による変化もあることに注意が必要です。例えば黒海に注ぐドン川流域では7000年紀~3000年紀まで森林が広がっていましたが,前2200年~前2000年にかけて森林が交替し,乾燥草原となります(甲元眞之「気候変動と考古学」『文学部論叢』97,2008年,p.1~p.52(http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/7901/1/BR0097_001-052.pdf))
。
西のヤムナ文化,東のアファナシェヴォ文化
まず,ウクライナからドン川とヴォルガ川流域に広がる中央ユーラシア西部をみてみましょう。
前3600年頃~前2200年頃に
,
竪穴
墓(
ヤームナヤ;ヤム
ナ)
文
化
が,黒海北岸からカスピ海北岸にかけて栄えます。
銅製品を製作する銅器時代(金石併用時代)にあたります。
すでに車輪が製作されていて,牛車が使用されていました。文化的には
一方,中央ユーラシア中部~東部のカザフ=ステップ方面の文化
を
アファナシェヴォ文
化
といいます。前3500年頃から前2500年頃に栄えました。
牧畜のほかに狩猟もおこなわれていて,銅器時代から青銅器時代にかけての文化にあたります。
これらの文化は,先行する同地域の文化も含め
て
クルガ
ン
(高い塚(墳丘)という意味
)
文
化
とも呼ばれ,ユーラシア大陸各地に広がったインド=ヨーロッパ語族の現住地であるとみる研究者もいますが,論争に決着はついていません。
クルガン文化の担い手の一部は,前3000年紀にはバルカン半島に広がっていたとみられます。
◆
気候の寒冷化・乾燥化にともない,青銅器を受け入れた遊牧文化が変化する
西のカタコンブナヤ文化,東のアンドロノヴォ文化
前2600年頃から前2000年頃まで,黒海北岸で
は
地下式墳
穴
(
カタコンブナ
ヤ)
文
化
が発達し,前2000年頃には南シベリアから中央アジア
の
カザフ草
原
にかけ,青銅器文化であ
る
アンドロノヴォ文
化
が発展します。
この東西2つの文化圏では,馬の引くことのできるスポークを付けた車輪や,馬具が発見されています。アンドロノヴォ文化の担い手は,のちにユーラシア大陸西部~中部に拡散していっ
た
イン
ド=
ヨーロッパ語
族
のう
ち
イン
ド
や
イラ
ン
系の人々につながるのではないかという説もありますが,詳細は不明です。
前2000年頃になると,アンドロノヴォ文化の特徴と似ている青銅器が,東アジアの草原地帯(モンゴル)でも見つかっていることから,この時期に草原地帯を伝わって,モンゴル経由
で
馬
,
戦
車
,
青銅
器
が中国に伝わったとも考えられています。
アム
川
や
シル
川
の周辺などの内陸
の
オアシ
ス
地帯では,灌漑設備を利用して農耕を行う,定住集落が見られました。しかし前2000年紀になると,草原地帯から青銅器や馬を利用する民族
(
イン
ド=
ヨーロッパ語
族
)が南下を初め,衰退することになります。
○前
350
0
年~
前
200
0
年のアジア 東アジア
・
前
350
0
年~
前
200
0
年のアジア 東アジア
現①
日本
日本列島の人々は,世界最古級の土器であ
る
縄文土
器
を製作す
る
縄文文
化
を生み出し,狩猟採集生活や漁労を中心とした生活を営んでいました。
縄文土器には地域的特徴が大きく,各地域で特定の文化を共有するグループが生まれていたことを表しています。
縄文土器を特徴とする縄文時代は,現在では以下の6つの時期に区分されるのが一般的です。
・草創期(前13000~前10000年)
・早期(前10000~前5000年)
・前期(前5000~前3500年)
・中期(前3500~前2500年)
・後期(前2500~前1300年)
・晩期(前1300~前800年)
日本列島各地の特徴を持つ土器
が
八丈
島
(はちじょうじま)からも見つかり
,
神津
島
(こうづしま)産
の
黒曜
石
(こくようせき)という特殊な石も本州各地で発見されていることから,日本列島全域をカバーする交易ネットワークがすでに縄文時代早期に形成され始め,前期~前後期にかけて拡大していたと考えられています
(注
)
。
(注)橋口尚武『黒潮の考古学 (ものが語る歴史シリーズ)』同成社,2001,p.92。
・
前
350
0
年~
前
200
0
年のアジア 東アジア
現③
中国
前3000年紀になると,黄河中・下流域を中心に,黒色磨研土器
(
黒
陶
【本試験H24唐三彩のひっかけ】
)を特徴とす
る
竜山文
化
(りゅうざん,ロンシャン)
【追H25ドンソン文化とのひっかけ】
が栄えました。竜山というのは,1930年にはじめて遺跡の見つかった竜山鎮にちなみます。前5000年紀の仰韶文化に比べると,集落の内部の階層化が進む例が多く見られるようになります。日用品としては灰陶が用いられました
。
都
市
が出現するのもこの頃で,山東省の城子崖遺跡(じょうしがい)のように城壁で囲まれた集落が見つかっています。
この頃になると土器づくりには,ロクロが使われるようになります。土をのせた台座をくるくる回しながら,指の微妙な加減によって形をつくっていくこの作業には,熟練のわざが必要です。山東省の丁公遺跡の陶器のかけらに,11個の符号が書かれているものが発見されていて
,
文
字
ではないかという説もあります。
人々
は
麻
から繊維をとって服にしていましたが,前2700年頃からカイコガの幼虫
(
蚕
(かいこ))のサナギの繭を煮詰めて生糸にし,よりあわせて太くした絹糸か
ら
絹
布
(
シル
ク
)を製作するようになっていたようです。
前2500年~前2000年の気候変動を受け,社会の構造がだんだんと複雑化していきました。この時期の遺跡から武器や傷跡のある人骨,城壁や巨大な墓が見つかっており,政治権力が強大化していったとみられます。黄河の中・下流域の竜山文化は,やが
て
二里頭文
化
(にりとうぶんか)に発展していったのではとも考えられています。
前2000年頃になると,中央ユーラシアの農耕牧畜文化のものとよく似た特徴をもつ青銅器が,東アジアの草原地帯(内モンゴルの東部)でも見つかっていることから,この時期に草原地帯を伝わって,モンゴル経由
で
馬
,
戦
車
,
青銅
器
が中国に伝わったとも考えられま
す
。
○前
350
0
年~
前
200
0
年のアジア 東南アジア
前3000年頃から,大陸からモンゴロイド人種が台湾からフィリピン経由で東南アジアの島しょ部に移動したと考えられています。
彼らによって東南アジア
は
土
器
と
磨製石
器
を持つ,新石器文化に移行しました。彼ら
の
語
族
(人類を言語により分類した集団のこと)は
,
オーストロネシア語
族
(マレー=ポリネシア語族ともいいます)です。彼らはおそら
く
イ
モ
や
バナ
ナ
を食料としており,前2000年頃から
,
稲
作
水耕が始まります。
前2000年紀末から,東南アジアの人々は金属器を使用した文化を生み出すようになります。特に,ヴェトナム北部では中国との関係が深く,青銅器の使用が増えていきます。
◯前
350
0
年~
前
200
0
年のアジア 南アジア
◆
インダス文明は大河と権力が結びついた文明ではなく,交易ネットワークにより発展した都市群
インダス川流域に交易ネットワークが発達する
前2500年~前1700年の間に,インド亜大陸の北西部のインダス川流域では
,
インダス文
明
【追H9バラモン教の信仰,ヴァルナ制度はない】
【本試験H17ヴァルナ制は発展していない】
が発展します。
インダス川流域は,沙漠や乾燥草原が分布する乾燥地帯。代表的な遺跡モエンジョ=ダーロの年降水量はなんと
10
0
mm程
度
です
(注
1)
。
彼らは西方の西アジアの文明の影響を受け
て
青銅
器
を製作しています。
完全に残っている遺跡が少ないことと,文字が未解読であることから,詳細はわかっていませんが,現在南インドに分布す
る
タミル
語
【本試験H23ウルドゥー語ではない,本試験H24ヒンディー語,アッカド語ではない】
など
の
ドラヴィダ
系
の言語を話す人々
(
ドラヴィダ
人
)
【追H9アーリヤ人ではない】
が担い手であったとみられます。
従来は,インダス文明を,大河川の治水・灌漑の必要により発展したエジプト,メソポタミア,黄河の文明と同一視し
「
四大文
明
」の一つに数えることが普通でした。
しかし,そもそも大規模な王宮や記念建築物が存在しない
(注
2)
ことや,遺跡の地域差
(インダス川流域の上流部にある都市遺
跡
ハラッパ
ー
【本試験H2,本試験H5ラスコーとのひっかけ】
【本試験H30地図】
と下流域
の
モエンジ
ョ=
ダー
ロ
(モヘンジョ=ダロ)
【追H26インダス川流域か問う】
【本試験H17,本試験H20ガンジス流域ではない】
(注
3)
(世界文化遺産,1980)が有名ですが,近年ではベンガル湾に臨むロータルやドーラビーラの遺跡も注目されています) が大きいことから,王権の発達する他の文明と同列に考えることは疑問視されています。
未解読
【本試験H15,本試験H24解読されていない】
の
インダス文
字
【追H28】
【本試験H15,本試験H21図版】
は,おそらくドラヴィダ系の文字と見られ,神聖視されていたであろ
う
コブ
牛
の像などとともに,四角形の印章(いんしょう)
【追H28】
に刻まれていました。コブ牛は前6000年頃の南インドで,アジアのオーロックス(牛の原種)が独自に家畜化されたものとみられます。
インダス文字の印章は,数は少ないもののメソポタミアでも見つかっており,代わりにインドでもメソポタミアの印章や,丸型のペルシアの印象
(注
4)
も見つかっていることから,
域
外
の世界との間に相互に活発な交易があったことが認められます。
当時は,季節風
(
モンスー
ン
)
【本試験H30】
を用いた貿易はまだ発達しておらず,沿岸を伝ってペルシア湾沿岸部の港町まで船で行き来していたとみられます。インダス文明の遺跡は,当時の海岸線(現在よりも2メートル海水面が高かった)に沿って分布しており,香辛料,綿織物,象牙,宝石が輸出され,かわりに鉱物や穀物が輸入されていたと推定されます
(注
5)
。
輸出品や生活物資は船
や
牛
車
によりインド各地から遊牧民によって輸送されました
(注
6)
。インダス文字は
域
内
の異なる文化圏の人々のコミュニケーションとしても役立ったと考えられます。冬小麦が中心のインダス川周辺の人々は,モンスーンの降雨に恵まれ小麦の夏作が中心のガンジス川周辺の人々と,異な
る
生
態
を超えた交流を持っていたのです。
南アジアは現在でも多様性がきわめて高い地域ですが,そのような共存の発祥が,インダスの交易ネットワークのあり方から浮かび上がります
(注
7)
。
インダス文明は前2000年から衰退を始めます。
古くに唱えられていた「アーリヤ人進出説」は,インダス文明を単一の王権と考えたことによる誤りです。
・インダス川のほかに存在したもう一つの大河であるサラスヴァティー川が消滅した
・気候が変動した
・界面が変動しメソポタミアとの貿易が停止した
このような自然の変化にインダス川周辺の大都市群が衰退した原因を求める説もありますが,「1つだけでは無理がある」
(注
8)
と考えられています。有力なシナリオは,衰退にあたる時期にモンスーンの活動が強化され,インダス川周辺で洪水が多発。これに悩まされていた人々が,東部のガンジス川流域に移動したというものです
(注
9)
。
なお,インド南部からスリランカにかけて,皮膚の色の濃
い
オーストラロイド人
種
に属するとみられ
る
ヴェッドイ
ド
と呼ばれる人種も分布しています。彼らはユーラシア大陸から南ルートをとったホモ=サピエンスの子孫とみられ,オーストラリアのアボリジナル(アボリジニ)
【本試験H27】
と同型とみられます。
(注1)降水量,長田俊樹編『インダス―南アジア基層世界を探る』京都大学学術出版会,2013年,p.421。
(注2)記念建築物なし。長田俊樹編『インダス―南アジア基層世界を探る』京都大学学術出版会,2013年,p.412。
(注3) モエンジョ=ダーロは整然とした計画都市
【追H9】
で,日干しレンガが積まれた建造物には,下水の側溝が整備され,道路も舗装され,都市の中心には神殿があって,深さ2.5メートルの沐浴場
【本試験H17】
もあります。土器をつくるのにロクロが作られ,木綿の布を織って衣服にしていました。
ここに「穀物倉」が存在したという〈ウィーラー〉の説(M.ウィーラー『インダス文明の流れ』創元社,1971)は,現在では否定されています。長田俊樹編『インダス―南アジア基層世界を探る』京都大学学術出版会,2013年,p.405。
(注4)丸型,長田俊樹編『インダス―南アジア基層世界を探る』京都大学学術出版会,2013年,p.413。
(注5)2m,長田俊樹編『インダス―南アジア基層世界を探る』京都大学学術出版会,2013年,p.413。
(注6)長田俊樹『インダス文明の謎: 古代文明神話を見直す』京都大学学術出版会,2003,p.274。
(注7)悪弊として指摘されるカースト制度にも,元来は,異なる生態を送る人々が「お互いを支えながら共存するための社会システム」という側面がありました。長田俊樹編『インダス―南アジア基層世界を探る』京都大学学術出版会,2013年,p.418,p.420。
(注8)長田俊樹編『インダス―南アジア基層世界を探る』京都大学学術出版会,2013年,p.410,p.421。
(注9)サラスヴァティー川は,インダス文明の時代には大河ではなかったとする説もあります。長田俊樹編『インダス―南アジア基層世界を探る』京都大学学術出版会,2013年,p.129,p.422。乾燥地帯で洪水が起こるのかと思われるかもしれませんが,2010年7~8月に現在のパキスタンを史上最悪のモンスーンに起因する洪水が襲い,1984年に死者を出しています(防災研究フォーラム「2010年7月末からのパキスタン洪水災害」,2011,http://whrm-kamoto.com/assets/files/Indus%20Flood%20in%20Pakistan%202010%20in%20Japanese.pdf)。
○前
350
0
年~
前
200
0
年のアジア 西アジア
西アジア
...現①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
灌漑農耕が余剰生産物を生み、都市が出現する
西アジア
の
メソポタミア地
方
(ペルシア湾に注
ぐ
ティグリス
川
と
ユーフラテス
川
に囲まれた低地)の下流域には,前5500年~前3500年の間
に
灌漑農
耕
を特色とする集落が出現しました。
狩猟・採集から本格的に農耕・牧畜を中心とする生活様式に転換していくと,余剰生産物(食べずにとっておくことのできる収穫物)が残せる余裕も出ていきます。
以前から場所によっては狩猟・採集や初期的な農耕に頼りながら定住生活を営むことも可能だったわけですが,この時期のメソポタミア地方には,内部に農耕に従事しない階層を含む大規模化な定住集落(
=
都
市
)も現れるようになっていきます
(
注
1
)
。
こうしていくつもの都市が出現し,支配層の組織が複雑化し
て
国
家
が成立していったのです。王号を表す粘土板に書かれ
た
文
字
がみられることから
,
王
権
の存在が確認できます。このような国家は,広大な領域を支配する現代の国家とは異な
り
都市国
家
といいます。
ヒトコブラクダの家畜化により、遊牧民が出現する
なお、野生の
ヒトコブラクダが家畜化
されたのは、前3000年紀のアラビア半島においてだったと考えられています。当初は乳や肉の食用目的で、運搬・移動目的ではありませんでしたが、ラクダ遊牧の成立により、羊・山羊では踏み込めない砂漠地帯での生活が可能となりました。
(注1) 蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018、p.4。
(注2) 灌漑農耕の普及にともなう大規模な定住集落(=都市)の誕生に注目し,この現象を「都市革命」という研究者もいます。しかし,「定住農耕」→「都市=文明の誕生」という図式が,他地域にも当てはまるパターンというわけではありません。
メソポタミア地方を中心とする考古学的な区分に従って、西アジアの様子を確認していきましょう。
都市には多数の人口が居住し,大河の灌漑と穀物管理を通じて指導者が現れ,その支配を正当化す
る
祭祀センタ
ー
(
神
殿
)が人々の信仰の的となり,生活の支柱となります
(注
3)
。
豊富なモノが内外から祭祀センターにもたらされ,余るほど集まった食料を背景に,農作業に従事せずに様々な衣食住に関する道具をつく
る
手工業
者
が
,
物質文
化
を支えました。
交易ルートの支配や財産を守るために,防御施設
(
農耕民の富をめぐっては,周辺の乾燥草原地帯から遊動生活を送る牧畜民が侵入することもありましたが,遊牧民にとっては農耕民と持ちつ持たれつの関係を築くことも生きていくためには重要。畜産物や軍事力を農耕民に提供し,見返りに農耕民の食料・工芸品を得ることもおこなわれました。これを「交易」といいます
。
銅
,
金
,
銀
製品が出土するのはこの時期からです。つまり,地域外の乾燥地帯から物品をはるばる運んでくることのできる牧畜民の存在や,輸送ルートが存在したことを物語っています
(注
4)
。
このように,都市の経済力
や
物質文
化
(
=
文
明
)の刺激を受けつつ,異なる生態系にある人間集団
が
交
易
を通して密接に絡み合い,相互に影響し合うようになっていくわけです。
(注1)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.80。
(注2)上掲,p.95。
(注3)祭祀センターの出現は
,
都
市
=
文
明
の出現の前提条件というわけではありません。また同様に,定住農耕
が
都
市
=
文
明
の前提情景というわけでもありません。ここでは少なくとも,前4000年紀行のウルク文化の時期の経緯について述べているだけですから,これをもって「人類の世界史の法則」を打ち立てることなどできません。
(注4)後藤健『メソポタミアとインダスのあいだ─知られざる海洋の古代文明』筑摩書房,2015,p.32。
都
市
ウル
ク
は現在のバグダードの南240kmに位置し,王が都市の神をまつり政治と軍事の実権をにぎって人々を支配するしくみを編み出しましていました。
「シュメールの都市支配者や王に課せられた義務は,外からの攻撃に対する防衛と,支配領域内の豊穣と平安を確たるものにすること」であり,王の正統性の源は,都市や神殿にかかわる人々の生命・財産の安全保障にありました
(注
1)
。前3500年の人口は約1万人,前2000年の人口は8万人とも推定される当
時
世界最大の都
市
です。
ジッグラ
ト
(聖塔)
【追H25王墓ではない・古代メソポタミアか問う(「聖塔ジッグラト」の表記),H30メンフィスに建てられていない】
と呼ばれる巨大な神殿(祭祀センター)も建てられました。これは『旧約聖書』に現れ
る
バベルの
塔
のモデルではないかともいわれています。
神殿には都市の守り神
(
守護
神
)呼び込まれ,神官によって収穫を祈る儀式や政治的な儀礼,交易
(
注
2
)
が行われたと考えられています
【本試験H12「シュメール人の都市国家では,神官が政治的にも大きな力を持っていた」かどうかを問う】
。古代メソポタミアでは各人に個人の守護神があると信じられていて,王にもその守護神がありまし
た
(
注3)
。
ほかに,キシュ
や
ウ
ル
【追H28アッカド人の都市ではない】
【本試験H2シュメール人の都市か問う】
【本試験H16シュメール人が建設したか問う】
という都市国家も,シュメール人によって建設されました。
(注
1)
前田徹『メソポタミアの王・神・世界観――シュメールの王権観』山川出版社,2003年,p90
(注
2)
例えば,古代メソポタミアでは租税・貢納品・戦利品を集中させた王およびそれと結んだ集団に権力が集中し,遠隔地交易の発注者となっていきました。例えばアッカドのナラームスィーン[ナラムシン]〔B.C.2155?~B.C.2119?,アッカド王国の王〕は諸国の富を潤沢に集めたといいます。しかしその後のメソポタミアの歴史をみると,遠隔地交易を管理しようとする宮廷により委託受けた商人だけでなく,利益動機にもとづき私経済を回そうとする商人たちも登場するようになります。商人の中には収益を事実上の租税として神殿に納める者もいたようです(ホルスト=クレンゲル著,江上波夫他訳『古代オリエント商人の世界』山川出版社,1983年,pp.38-39,pp.64-68)。「広汎な商業に資金を提供し,倉庫に大量の品物を貯え,宮廷付属の工場で輸入原料を加工させたり,あるいは輸出用の品物を作らせたりする――これに必要な資力と能力は,実に宮廷こそが手にしていた。こうして王室経済は次第に交換目当てに行なわれるようになった生産の中心であり,商品経済,貨幣経済はその市場圏内で強力に飛躍した
。
私的商
人
たちにとってもこの発展は有利であった。とくに宮廷と結んで,少なくとも取引の一部分を宮廷から委託されたときには,かれらも利益を得ることができた。...」。このような商人を王が管理下に置き,法典により社会秩序を築こうとしたのは,彼らが貸付業・高利貸し業に進出し,労働者と兵士としての価値がある小生産者たちを没落させてしまうことを恐れたからであった。(ホルスト=クレンゲル著,江上波夫他訳『古代オリエント商人の世界』山川出版社,1983年,p.238,pp110-111)。
(注
3)
歴史学研究会編『世界史史料1―古代のオリエントと地中海世界』岩波書店,p.9。
シュメール人
【共通一次 平1】
【追H30】
は
,
初めは絵文字(象形文字)でしたが,のちに表音文字(音をあらわす)としても使われるようになりました。粘土板は乾燥するとカチンコチンになるおかげで,われわれは彼らの記録を読むことができるのです。彼らの信仰したさまざまな神の存在も,それら文字史料からわかりますが,記録のほとんどは神殿に蓄えられた収穫物や家畜の数などを表した会計簿です。記録は,専門家(
楔形文字による記録方法は,メソポタミアを中心に西アジアに広まりました
【共通一次 平1:「ハム系(ママ)の諸民族に広まった」わけではない→出題当時は,「ハム系」=「エジプト人」と考えられていた
】
(
注2)
。
(
注1)
歴史学研究会編『世界史史料1―古代のオリエントと地中海世界』岩波書店,p.5。
(
注2)
古拙文字は,それに先行するブッラとトークンから発達します。以下にその詳細を説明します。
古拙文字のうち最古のものは前3000年~前2900年頃にウルクでドイツの調査隊により1928~1931年に発見された約800枚のウルク古拙(っこせつ)文書。その後の発見により,断片も含めると3000枚。古拙文字(絵文字)の数は1000,うち200の表語文字が楔形文字の原形となります。ほとんどが会計簿で,シュメール語かどうかは意見がわかれます。
その後1970年代以降にアメリカ人考古学者が,古拙文字に先行する段階の「表現方法」を発見しました。物資や家畜を管理するため
の
ブッ
ラ
や
トーク
ン
と呼ばれるものです。ブッラとは内部が空洞の土でできた球体のことで,中にトークンという穀物や家畜の種類を示す物体を入れ,外側にスタンプ(印章)を渡すことで,物資・家畜の取引・契約の証拠としました。のちに,穀物や家畜の種類を示す印はブッラの外側に押され,またとがった筆で刻むようになると,それがやがてウルク古拙文字(楔形文字)に発達していったのではないかと考えられています。歴史学研究会編『世界史史料1―古代のオリエントと地中海世界』岩波書店,pp.4-5。
また
,
六十進
法
【本試験H2 10進法ではない】
で数値を記録し,1週間
を
7
日
とするなど,現代にも影響をのこしています。六十という数字が選ばれたのは,それが11個もの約数を持っているため,分割に便利だからでしょう。また,農耕に使用するために,また,19年に7回閏月(うるうづき)をお
く
太陰太陽暦
(月の満ち欠けによる1年354日の暦を,1年365日となるように修正したもの)が用いられていました。暦の作成のために天体の動きが研究されて,バビロン第一王朝の頃から始ま
る
占星
術
(せんせいじゅつ。人間界の出来事を天体の運行により説明・予言する技術)へと発展しました
【本試験H2また,シュメール人はゼロの観念を発見していない】
。
文字が使われるようになったことで,人類はその短い一生を越えて,その知恵や知識を口伝えよりも確かな形で後世にのこすことができるようになりました。また,先人の成功に学び,他人の失敗を教訓とすることができるようになり,何から何までゼロから考える必要がなくなりました。
取引する品物が未開封であることを証明するために
,
円筒印
章
なるものが発明されました。開封部分に粘土を貼り付けて,そこに楔形文字や図の彫られた筒型のハンコをゴロゴロと転がします。乾燥気候のメソポタミアでは,すぐに乾いてカチコチになる。その商品を受取るべき人以外が開けると,バレてしまうというわけです。
また,ウルクでは
『
ギルガメシュ叙事
詩
』
【本試験H30】
という物語が発見されています。第5代ウルク王とされる〈ギルガメシュ〉が,友人〈エンキドゥ〉とともに永遠の命を求める冒険ストーリーです。その中に語られる洪水と復興のエピソードは,のちの『旧約聖書』のノアの方舟(はこぶね)のモチーフではないかとも考えられています。なお,叙事詩の中には現在のバーレーンが産地であった真珠
(
アコヤガ
イ
)採りを思わせる部分が含まれています
(注
1)
。当時から真珠はシュメール人らの交易品の一つでした。
ウルクのシュメール人の都市文明は「メソポタミア南部」という地域を越え,交易ネットワークを確立していたという説があります。
・イランのペルシア湾岸
の
エラ
ム
に植民
・ティグリス,ユーフラテス川の上流を開発
・シリアやアナトリア半島(現在のトルコ共和国)に植民
・北メソポタミアや南西イランを拠点に,各地の物産の輸送ルートを確保
このような順序でネットワークを形成していったのだというものです
(注
2)
。
(注1) 『旧約聖書』によるとこのとき〈ノア〉は「清い動物」は七つがいずつ、清くない動物は一つがいずつを載せました(「創世記」7:3)。
(注2) 山田篤美『真珠の世界史』中公新書,2013,p.48。
(注3) ギレルモ=アルガゼの「ウルク=ワールド=システム論」。後藤健『メソポタミアとインダスのあいだ─知られざる海洋の古代文明』筑摩書房,2015,p.32~p.33。
前
310
0
~
前
280
0
年 ジェムデ
ト=
ナスル期
しかしウルクの交易ネットワークは前3100年に崩壊。
前3100年からは別のシュメール人の担い手による装飾的な土器を特徴とするジェムデト=ナスル期となります。
これと連動して,ウルクの交易ネットワークに組み込まれていたイラン高原の人々が,自分たち主導の物流を確保しようとしていきました。これ
を
原エラム文
明
といいます
(注
1)
。
彼らはアフガニスタンでとれる宝
石
ラピスラズ
リ
を,イラン高原の沙漠や乾燥草原の都市を結んでメソポタミア東方
の
スー
サ
〔スサ〕にまで輸送し,ここで食糧や工芸品と交換しました。
この物流の流れを,後藤健は次のように表現しています。
「イラン高原の交易ネットワークを経てスーサに集められた物資を,適正価格で買い取ることは初期のメソポタミア文明にとってどうしても必要な活動だった。また,その対価であるメソポタミアの農産物を得ることは,世界有数の乾燥地が中心に位置するイラン高原にとっては,どうしても必要な活動だった。
二つの隣接地は,自然環境の違いから,都合よく相互補完の関係にあり,資源の交換は両者にとって宿命であった。」
(注
2)
後藤が「宿命」と表現したこの関係を打破しようと,原エラム文明
は
インダス文
明
に接近。さらにペルシア湾岸
の
オマー
ン
に移住して
,
銅
鉱山の開発に着手。これらの物資をメソポタミアに運び込んでいたのは,ペルシア湾岸
の
海洋
民
(ハリージーと呼ばれます)であったとみられます。
(注1) ギレルモ=アルガゼの「ウルク=ワールド=システム論」。後藤健『メソポタミアとインダスのあいだ─知られざる海洋の古代文明』筑摩書房,2015,p.42~p.43。
(注2) ギレルモ=アルガゼの「ウルク=ワールド=システム論」。後藤健『メソポタミアとインダスのあいだ─知られざる海洋の古代文明』筑摩書房,2015,p.67。
前
280
0
~
前
235
0
年 初期王朝時代
(
注1
)
さらに担い手が代わって,彩文装飾土器が増えるシュメル初期王朝時代に入ります。
この時代のことがどうしてわかるかというと,各都市の伝承をもとにした王の名前の記録(「シュメール王名表」)が残されているからです。
(注1) 歴史学研究会編『世界史史料1』によれば,前2900年~前2335年。
(注2) 歴史学研究会編『世界史史料1』,2012年,p.7。「洪水」をはさんで2つのパートに分かれており,後半部にウルク第一王朝,ウル第一王朝が現れる。「王朝」といっても,一時期に1つの王朝がバビロニアを支配していたわけではなく,複数の王が併存していたと考えられます。
前24世紀頃に
は
ウル
ク
の〈エンシャクシュアンナ〉王(紀元前24世紀頃)が都市国家キシュを滅ぼし,都市国家の枠を越えた称号である「国土の王」を名乗りました。
ラガシュでは前24世紀前半に最後の王〈ウルカギナ〉が即位一年後に,王位を奪った〈ルガルアンダ〉時代の悪行を糾弾し,減税や奪われた土地を弱者に返すなどの改革をしたことが史料から明らかになっていま
す
(
注1)
。この時代にはすでにそのような社会改革がおこなわれていたことがわかるわけです。
また,初め都市国家ウンマを拠点としていた〈ルガルザゲシ〉王(位前2375頃~2350
頃
(
注2)
)は,隣接都市
の
ウル
ク
に拠点を移してシュメール人の諸都市国家を統一しました。
アッカド人の帝国
しかしそんな中,乾燥化の影響からメソポタミアにはアラビア半島からアフロ=アジア語族セム語派の人々が移動してくるようになります。
ウル
ク
を含むシュメール人の都市国家は,前24世紀後半に
〈
サルゴ
ン
〉(位前2334~前2279)
【立教文H28記】
を王とするアフロ=アジア語族
セム語派
【本試験H5インド=ヨーロッパ語族ではない】
【本試験H29インド=ヨーロッパ語系ではない】
の
アッカド
人
【京都H22[2]】
によって滅ぼされます。
「滅ぼす
」というのは,史料の中では「町を征服し,城壁を破壊した」というように表現されます。支配というのはこの時代にはすなわち「都市の支配」であったのです。
その支配領域はメソポタミアからシリアに及びましたが,首都アッカドの位置はわかっていません。広範囲を支配した〈サルゴン〉は「全土の王」を名乗りました。
その後の第4代〈ナラム=シン〉は現代のオマーンにまで遠征し,地中海(「上の海」)からペルシア湾(「下の海
」
(
注3)
)に至るまでの最大領域を実現。
「
四方世界の
王
」を称して,最高神エンリルの権威を利用し自らを「アッカドの神
」
(
注4)
と称し
て
王の神格
化
を図りました。
アッカド人が支配権を持ち,都市国家マリとエラムも屈服。一方,ウルクに滅ぼされていたキシュ市を復興させ,かつての住民を保護しまし
た
(
注5)
。交易も盛んで,南アジア
の
インダス文
明
(⇒前3500~前2000の南アジア)
の産品(インダス文字の刻まれた印章)も発見されています。
アッカド人の王朝は前23年紀後半に滅亡しました。〈ナラム=シン〉の後継の王も,自身
を
神格
化
するようなことはありませんでし
た
(
注6)
。
その原因は,23世紀中頃の大干ばつや塩害
(注7)
であるという説もあります。都市に定住するようになったヒトにとっての最大のネックは,不作によ
る
飢
え
です。同じところに長く住み続けるわけですから,食料が安定的に得られるうち
は
人口も増えま
す
し
,
環境破
壊
も進行します。灌漑農業にもリスクはあって,土地に水を注ぎすぎると,地下水位が上昇してしまい,水が地下にしみこむ前に蒸発し,地中に塩分が残されてしまいます。これにより農業に影響が出
る
塩
害
がおきることもしばしばでした。前20世紀頃にかけ,シュメールの土地はますます農業に不適となり,衰退の一途を辿っていきます。
アッカド人の王朝には,西方のシリア方面からセム語派
の
アムル
人
,東方から
は
エラム
人
やグティ人が進出して混乱しますが,メソポタミア(ティグリス川とユーフラテス川に挟まれた地域)の南部では,ウルクの王〈ウトゥヘガル〉につかえていた将軍
〈
ウルナン
ム
〉
が
ウル第三王
朝
(前2100~前2000)
【立教文H28記】
を始めました。これはシュメール人最後の王朝で,地中海沿岸からイラン高原にかけての広範囲を支配しました。2代〈シュルギ〉王は,かつてアッカド人の使用した「四方世界の王」称号を使用し
て
王の神格
化
を図り,官僚制度を整備し,度量衡や暦を統一するなどの政策を行いました。
しかし,5代〈イッビシン〉王のときに東方
の
エラム
人
による攻撃を受けると衰退し,ウル第三王朝で傭兵として採用されていた西方
の
アムル
人
がエラム人を追放してイシンとラルサに王朝を建国しました(イシン=ラルサ時代,前2003~前1763)。
(注1) 歴史学研究会編『世界史史料1』,2012年,p.12。〈ウルギカナ〉の改革碑文はフランスのルーブル美術館にある。
(注2) ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典。
(注3) 「上の海」と「下の海」というのはあくまで慣用句であり,実際の支配領域と一致するとは限りません。歴史学研究会編『世界史史料1』,2012年,p.13。
(注4) 歴史学研究会編『世界史史料1』,2012年,p.15。
(注5) 歴史学研究会編『世界史史料1』,2012年,p.13。
(注6) 歴史学研究会編『世界史史料1』,2012年,p.16。
(注7)
塩害
とは、灌漑農耕をしているときに排水不足で起きる現象。高温のため水分が蒸発し、土壌中の
炭酸カルシウム
と
水
が反応し
水酸化カルシウム
という塩が土壌を覆ってしまうものです。
なおメソポタミア史の前川和也によると、ヘロドトスが『歴史』で収穫量は平均して播種量の200倍、最大で300倍と述べたのは誇張で、ラガシュの初期王朝末期(前24世紀中頃)で76.1倍、ウル第3王朝(前22~前21)で30倍というように収穫量は逓減していったと試算されます(神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.5)。逆に、毎年定期的に氾濫が起きていたナイル川では、地力維持と塩害防止が可能となりました(鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.35)。
○前
350
0
年~
前
200
0
年のアフリカ 中央アフリカ
現在のナイジェリア東部からカメルーンにかけての地域に,現在ではサハラ沙漠以南のアフリカに広範囲に分布す
る
バントゥー
語
の起源となる言語を話す人々が分布していたとみられます。
○前
350
0
年~
前
200
0
年のアフリカ 西アフリカ
前4000年頃から前3000年頃のアフリカ大陸からユーラシア大陸の気候は,乾燥化が進みました
。
サハラ沙
漠
でも,前2500年頃からふたたび乾燥化がすすみ,人々は草原地帯からナイル川沿岸
や
チャド
湖
などに,南下していくようになりました。この気候変動によって,家畜や人類が感染すると
「
眠り
病
」という死に至る病原体を媒介す
る
ツェツェバ
エ
という蝿の生息範囲が変わったことも,サハラの人々の南下に関わっているとみられます。
なお,地中海沿岸からサハラ沙漠を超えるルートは,紀元前後まではほとんど
サハラ沙漠を流れるニジェール川下流の熱帯雨林地帯では,前3000~前2000年にかけてヤムイモ,アブラヤシ,コーヒー(
【本試験H11】原産地はアメリカ大陸ではない
),ヒョウタンなどの植物が栽培されるようになりました。サハラ沙漠の先住民
は
ベルベル
人
で,現在は地中海沿岸のモーリタニア,モロッコ,アルジェリア,チュニジア,リビア(いわゆ
る
マグリブ諸
国
(注
)
)に多く分布しています。
山岳地帯にはベルベル系のトゥアレグ人が分布しています。
(注)この地方が「マグリブ」と呼ばれるようになるのは,アラブ人の大征服によってイスラーム教が広められて以降のことです。
○前
350
0
年~
前
200
0
年のアフリカ 北アフリカ
ナイル川上流のヌビア
ナイル
川
をさかのぼっていくと,6か所の急流があり,そこを船で乗り越えて航行することができません。ナイル川の第2急流よりも上流地域
を
ヌビ
ア
といいます。ヌブ(金)が取れる地ということで,のちにローマ人がそう呼んだのです。下流にエジプト
に
第1王
朝
(前3100年?~前2890年?)が成立していたころ
,
ネグロイ
ド
(黒色
)
人
種
の
ヌビア
人
により第3急流のすぐ南のケルマを都
に
王
国
が現れました(ケルマ王国)。エジプト
が
中王
国
時代(前2040年?~前18世紀)に南下を始めると,ヌビアの勢力はいったん衰えました。
ナイル川下流のエジプト
ナイル川の第1急流(アスワン)よりも下流の地域のこと
を
エジプ
ト
といいます。住民はアフロ=アジア語族
の
古代エジプト
語
を話していました
(アフロ=アジア語族は,セム語派を含む語族です。古くは古代エジプトの言語は"ハム語派"に分類されていましたが,キリスト教の価値観の影響を受けた分類法で実態を反映したものと言えず,現在では用いられていません)
。
「
エジプトはナイルのたまも
の
」
【追H26】
【東京H13[1]指定語句「ナイル川」】
という言葉があります(ギリシア人の歴史家
〈
ヘロドト
ス
〉
(前485?~前420?)によるもの)
【追H26】
【東京H22[3]】
【共通一次 平1:トゥキディデスとのひっかけ(主著『ペルシア戦争史』を書いたのはトゥキディデス)】
【本試験H31】
【慶文H30】【同志社H30記】
(注1)
。
定期的な氾
濫
が,上流から栄養分をたっぷり含む土(ナイル=シルト)を運んだことを表したものです。土は流域の窪地(くぼち,ベイスン)に溜まり,定期的に増減水してくれるため塩害も起きにくく,その窪地が耕作地に利用されました(ベイスン灌漑)
(
注
2
)
。
メソポタミアは塩害により衰えましたが,エジプトは1年に一度塩分をドバっと流してくれるので,その心配もありません。同時にナイル川を下っていけば,交易の盛んな地中海に出れますし,年中南向きの風が吹いているので,上流へとさかのぼるのも簡単です。ただし6箇所の急流ポイントでは,一度船を降りなければなりません。
さて、すでにエジプトのナイル川沿岸では、下流(
下エジプト
)にメリムダ文化(前5500年頃~)、上流(
上エジプト
)にパダリ文化(前5000年~)がありました。両者は別系統の起源と考えられています
(注3)
。
このうち上エジプトのパダリ文化から、前4000年頃になるとナカダ文化が発展します
(注4)
。
前3500年~前3150年
は
ナカダ文
化
Ⅱ期に区分されます。
前3150年~前3000年はナカダ文化Ⅲ期となり、内容的には大きな変化はありませんが、上エジプト北部に大型墓地が出現したことから、北への人口移動、浸透がみられるようになったと考えられています
(注5)
。
(注1) じつは〈ヘロドトス〉の先輩である〈ヘカタイオス〉(前550~前476)がすでにそのエジプト史に使用したフレーズだといいます。また、ここでいう「エジプト」とは、ナイル川河口の「
デルタ
(三角州)」地域のことを指します。ヘロドトス、松平千秋訳『歴史(上)』岩波文庫、1971年、p.395。
(注2)「農地を畦で囲み,犁でその地表面を撹拌しておく。洪水季になると,堤の一部を開き,ナイル川のシルト(泥土)を含んだ氾濫水を耕地に引き,湛水させた。...その後,畦を開き,隣の耕地に排水した。」 古代オリエント学会編『古代オリエント事典』(岩波書店,2004年,p.429「灌漑」,pp.423-429。
(注3)神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.7。
(注4)上掲書、p.7。
(注5)上掲書、p.7。屋形禎亮「古代エジプト」『岩波講座世界史』2、1998年を引いて。屋形氏は、上エジプトに「原王国」群があって、そのうちティニスの首長が「上エジプト王国」を統合し、そして有力な「原王国」群のなかった下エジプトを各個撃破し征服したとしています(大貫良夫他編『人類の起源と古代オリエント』(『世界の歴史』1)中央公論社、1998年)。
前
315
0年?
~
前
258
4年?
初期王朝時
代
(注
)
(注)エイダン・ドドソン,ディアン・ヒルトン,池田裕訳『全系図付エジプト歴代王朝史』東洋書林,2012,p.44による。古代エジプトの年代については諸説あります。
沿岸にいくつもの都市国家がうまれますが,
前3500年以降,ナイル川上流の雨量が減少して乾燥化が進むと
,限られた資源をめぐる争いが激化しました。
一方,エジプトでは前3100年~前3000年頃に,下エジプト(下流の三角州(デルタ)の地帯)と上エジプト(デルタから第一急流まで)にあった小規模な都市国家群
(
注
1
)
を
,
上エジプ
ト
の王
〈
メネ
ス
〉(ナルメル?,前3125?~前3062?)
(
注
2
)
が統一しました。
上エジプトの政治勢力が,下エジプトに軍事的に進出して政治的に統一したとみられ,両者の境界付近にあるナイル川の下流
の
メンフィ
ス
【追H30ジッグラトは築かれていない】
を都に定めたとされています。
なお,彼の時代には象形文字
【共通一次 平1】
であ
る
ヒエログリ
フ
(神聖文字)
【東京H10[3],H23[3]】
【共通一次 平1】
が用いられました。ヒエログリフは碑文や墓などの岩石
【共通一次 平1】
に刻まれたほか,パピルス紙に記録されました
【共通一次 平1:「主に碑文や墓に刻まれた」か問う。「あれ?パピルスでは?」と一瞬迷っちゃうかもしれない】
。パピルス紙は,ナイル川の川辺に分布す
る
パピル
ス
草(カミガヤツリ)を薄く剥(は)いた繊維を縦横に並べて圧力をかけ,その上にさらに縦横に並べた繊維に圧力をかけることを繰り返して作った「紙」です。葦(あし)でできたペンを,煤(すす)とアラビアゴムを混ぜたインクに付けて記入しました。
(注1)この小規模な都市国家のことを,ギリシア人の歴史家は「ノモス」と呼びならわしました。
(注2)前3世紀のプトレマイオス朝エジプトの神官〈マネトー〉の『エジプト史』では〈メネス〉が初代の王という記述があり,現在ではこの〈メネス〉が〈ナルメル〉と同一人物ではないかと考える説が有力です。
エジプト
【本試験H16ヒッタイトではない】
では王
は
ファラ
オ
とよばれ,自らを神として政治をおこない,ナイル川の治水を指導しつつ,住民に租税・労働を課して指導しました。洪水というと危険な災害というイメージがあるかもしれませんが,「洪水があるからこそ,小麦を栽培することができる。洪水が起きるのは,神である王がちゃんと支配をしてくれているからだ」。人々はそのよう
に
納
得
をしていたのです。とはいえ,多くの住民は生産物や労働によって税を納める不自由な農民でした。
ナイル川の氾濫により破壊された耕地を復元するために
,
測地
術
(測量)
【本試験H2フェニキア人の考案ではない】
が発達し,のち
の
ピタゴラスの定
理
の元となる面積の公式は,すでに使われていました。また暦として正確
な
太陽
暦
【本試験H2ユリウス暦のもとになったか問う】
が用いられていました。
エジプトでは,長期間に渡っていくつもの王朝が成立と断絶を繰り返していきます。
王の系譜の断片的な情報をもとに系図を推測し,比較的連続性のある王朝をいくつかセットにした区分が用いられています。
古王
国
(前2584?~前2117?):第3王朝~第6王朝
...ピラミッドが建設された時期はここ。
第一中間期(?~2066?):第7王朝~第11王朝前期
中王
国
(前2066?~前1650?):第11王朝後期~第13王朝
...南部の勢力による政治的統合です。
第二中間期(前1650?~前1558?):第14王朝~前17王朝前期
...ヒクソスの政権となった時期(王位継承についての定説はありません)
新王
国
(前1558?~前1154?):第17王朝後期~第20王朝
...最大版図となる時期。〈ツタンカーメン〉はこの時期。
第三中間期(前1073?~前656):第21王朝~第25王朝
...各地の君侯が自立する時期。
サイス朝(前664~前525):第26王朝
...下流のサイスを治めていた君侯が,進出してきたアッシリア側について政権を掌握。
末期王朝(前525~前332):第27王朝~第31王朝
...第27,31王朝はペルシア人の王朝。最後はアケメネス朝の〈ダレイオス3世〉の支配です。
ヘレニズム時代(前332~前30):マケドニア王朝(〈アレクサンドロス〉)~プトレマイオス王朝(〈クレオパトラ7世〉まで)
(注)エイダン・ドドソン,ディアン・ヒルトン,池田裕訳『全系図付エジプト歴代王朝史』東洋書林,2012,p.44による。古代エジプトの年代については諸説あります。
◆
古王
国(前
2584
?
~
前
2117?
)
:第3王朝~第6王朝
古王国はピラミッド時代
古王
国
【本試験H2都はテーベではない】
は第3王朝から第6王朝の時期の政治勢力で,ナイル川下流
の
メンフィ
ス
【本試験H2テーベではない】
を都としました。この時代は,巨大なピラミッド(王墓であったかどうかは不明)が建設された時期にあたります。
第3王朝の初代ファラオ〈ジョセル〉(ネチェルイリケト;ネチェリケト)は,サッカーラに最古のピラミッド(階段ピラミッド)を建設させました。すでに王を神聖視する思想があったようです。テーベ北部のナイル川東岸に
は
カルナック神
殿
は第12王朝時代に創建されました。西岸にはネクロポリス(死者の都)と呼ばれる墓地遺跡群が残されています(◆世界文化遺産「古代都市テーベと墓地遺跡」1979)。
その後,ピラミッドは一気に巨大化し,カイロ近郊
の
ギザにある三大ピラミッ
ド
(〈クフ〉,〈カフラー〉,〈メンカウラー〉のピラミッド)
【本試験H20セレウコス朝の遺跡ではない,H31時期(新王国時代ではない)】
が生まれました。
・〈クフ〉王...第一ピラミッド 現在146.5m
・〈カフラー王〉...第二ピラミッド 現在144m
・〈メンカウラー王〉...第三ピラミッド 現在66.5m
ピラミッドは,古代ギリシアの歴史家〈ヘロドトス〉の『歴史』などをもとに,かつては「王の墓」であるといわれてきましたが,王(ファラオ)の権力を象徴
【本試験H31「ファラオの権力を象徴」】
させるとともに,ピラミッド内部で王が再生するための施設なのではないかという説もあります。
いずれにせよ,最大の
〈
ク
フ
〉王(前2589~前2566)
【追H27クノッソス宮殿を建てていない】
のピラミッドは,なんと230万個(1個の平均は2.3トン!) の石灰岩が使用されておち,当時の技術を考えると,8万4000人の労働者を1年に80日×20年間働かせるだけの権力が必要です。
ピラミッドの建設は,ファラオの支配下にあった人々を,農作業の忙しくない時期(農閑期)に働かせる公共事業だったのではないかという説もあります。
スフィンクス
像
も,前2500年頃〈カフラー〉王によって建造が命じられたと伝えられます。
〈クフ王〉のピラミッドの東西には,貴人の墓である多数のマスタバ墳(長方形)も見られます。古王国で
は
太陽神ラ
ー
【追H27】
【本試験H11インカ帝国で信仰されていない】
【本試験H21時代を問う,H31古代インドではない】
への信仰もさかんで,オベリスクという塔には王の偉業が刻まれました。ヘリオポリスという都市には太陽をまつる神官がおり,太陽信仰の中心地でした。神殿に
は
列
柱
が建てられ,のちに地中海のエーゲ海周辺
の
エーゲ文
明
や
ギリシア文
明
に取り入れられました。
古王国は前2120年に滅びました。
すると,従来の太陽神をまつる信仰にも変化が起こります。
あの世(幽界)の王であ
る
オシリス
神
をまつり,「人は死んだら
"
あの
世"
で復
活
できる」と考える新しい信仰の成立です。
オシリス神はもともと農耕神で,ヌトという神とゲブという神の間に生まれたとされます。しかし,オシリス神は弟であるセト神に殺害されましたが,妹でありながら妻となったイシスがシリアに流れ着いた遺体を発見し,エジプトに持ち帰ったところ,セト神はイシスからその遺体をまた奪い,バラバラにした挙げ句エジプト中にばらまきます。これをイシスが拾い集め,布でぐるぐると巻いたところ
(
ミイ
ラ
の由来),オシリスは"あの世で"復活。それ以来,オシリス神は幽界(あの世)の王となったといいます。なお,オシリス神の子であるホルス神は,父のかたきを討ってセトを破ったそうです。
この思想は,古王国の崩壊後,下エジプトと上エジプトの抗争により起こった社会の混乱を背景としているとみられます。結果的に上エジプト
の
テー
ベ
(ナイル中流域)
【本試験H2古王国の首都ではない】
【本試験H30ニネヴェとのひっかけ】
の勢力が上下エジプトを再統一し,新たに第11王朝を立ち上げました。次の第12王朝(前1991年?~前1782?)まで
を
中王
国
の時期として区分します。都は後にファイユームに遷都しています。
◆
中王
国(前
2066
?
~
前
1650?
)
:
第
1
1
王朝後期~
第
1
3
王朝
中王国とはマネトの王命表によると第11王朝、第12王朝、それに異論もありますが第13王朝のことを指します
(注1)
。
第11王朝の第4代〈メンチュヘテプ2世〉が前2040年頃に国土を再統一したのが中王国の始まりとされます。性急な中央集権化に反発した地方豪族の支持により、宰相〈アメンエムハト〉がクーデタをおこし、第12王朝を建てました。〈アメンエムハト3世〉の死後第12王朝は衰え、短命な王が交替する第13王朝となりました
(注2)
。
中王国は,パレスチナやヌビア(ヌビアは金の産地です)にも進出するなど,古王国よりも広い領域を支配しました。シリアでもエジプトのファラオの名入りの品が発見されています。また,地中海はエーゲ海
の
クレタ文
明
〔ミノア文明〕とも交易をしています。
中王国の時代には古代エジプト語(古典語)で文学も数多く記されました。『雄弁な農夫の物語』や『シヌへの物語』といった物語文学が代表的です。
この時期には,北シリアからエジプト
【追H30】
に,騎馬に優れた遊牧民
(
ヒクソ
ス
【追H30】
【中央文H27記】
と呼ばれました)が傭兵が導入され,エジプト人女性と結婚して移住し,ファラオにつかえる者も現れます。
ヒクソスは馬、戦車(戦闘用二輪馬車)、複合弓、小札鎧(こざねよろい)などの新兵器をエジプトにもたらし次第に政治にも干渉し,第13(前1782?~前1650?)・14王朝(前1725?~前1650?)には政権が混乱します
(注3)
。
第14王朝はナイル川のデルタにおこり、第13王朝と並立していました
(注4)
。
第15(前1663?~ 前1555?)・16王朝(前17世紀~前16世紀)ではヒクソスが下エジプトを支配する状況に至ります。
上エジプトで,ヒクソスに対抗したエジプト人が政権を建てた第17王朝(前1663年?~前1570?)を合わせ,中王国滅亡後の時期を第二中間期と区分します。
(注1) 神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.9。
(注2) 上掲書、p.9。
(注3) なお古代エジプト史研究の屋形禎亮氏は、この頃にデルタ東部国境が空白地帯となったことが、パレスチナのバアル神を信仰する人々の移住を可能にし、彼らこそが「ヒクソス」と考えられるとしています。上掲書、p.10。
(注4) 上掲書、p.10。
(注) この項目全般について、古代エジプト史の年代については,諸説あり。
○前3500年~前2000年のヨーロッパ バルカン半島
東ヨーロッパ
...①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
バルカン半島
...①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア
中央ヨーロッパ
...①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
バルカン半島と小アジア(アナトリア半島)の間に位置す
る
エーゲ
海
周辺では,オリエントの文明の影響を受けて青銅器文明が栄えました。これ
を
エーゲ文
明
と総称します。
バルカン半
島
には,黒海北岸から沿岸部を通って中央ユーラシアの遊牧民
(
⇒
クルガン文
化
:前3500~前2000の中央ユーラシア)
が進出しやすく,また西方のアルプス山脈以北の地域や東方の西アジアの小アジア(アナトリア半島)との交流も盛んでした。
○
前
350
0
年~
前
200
0
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
西ヨーロッパ
...①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ
前3000年紀(前3000~前2001年)の半ば頃には、現在のフランスで金属(
銅
)の製造が始まっています
(注1)
。
西ヨーロッパで青銅がつくられるようになるのは前2000年前後のことです。青銅をつくるにはスズ(錫)が必要ですので、広範囲の資源の交易ネットワークも構築されていきます
(注2)
。
またこの時期、西ヨーロッパを中心とする地域では、巨石建造物が建造されています(注:巨石文化)。
数個の巨石の上に巨石を載せ
た
ドルメ
ン
(支石墓(しせきぼ)),巨石を直立させ
た
メンヒ
ル
(モノリス),列状に巨石を並べたアリニュマン,輪の形に並べ
た
ストー
ン=
サーク
ル
(ウェールズ語ではクロムレック)と呼ばれます。
ストーン=サークルとして有名なのは,ロンドンの西200kmに残され
た
ストー
ン=
ヘン
ジ
です。前2500年~前2000年頃に建てられたと考えられています。夏至になると,中心の石と立石
(
メンヒ
ル
)を結んだ直線上に太陽が昇る構造になっています。夏至や冬至がわかることから,農業の広まりと関係しているとみられます
(◆世界文化遺産「ストーンヘンジ,エイヴベリーの巨石遺跡と関連遺産群」1986,2008範囲変更)
。
(注1)福井憲彦『新版世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年、p.25。
(注2)福井憲彦『新版世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年、p.26。
○
前
350
0
年~
前
200
0
年のヨーロッパ イベリア半島
イベリア半島
...①スペイン,②ポルトガル
ユーラシア大陸西端で,北アフリカに突き出てい
る
イベリア半
島
には,前3000年紀には民族系統不明のイベリア〔イベル〕人が生活していました。彼らの文化には,エジプト文明やクレタ文明〔ミノア文明〕の影響がみられます。
○前3500年~前2000年のヨーロッパ 北ヨーロッパ
北ヨーロッパ
...①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン
前3300年頃には,ユーラシア大陸北西部のフィンランドで
,
櫛目
文
(くしめもん)土器をもちいる人々が現れます。櫛目文土器は,新石器時代のユーラシア大陸の広い範囲に分布する土器です。フィンランド南部にはウラル語族の言語を話
す
フィン
人
,北部にトナカイの遊牧生活を行う同じくウラル語族
の
サーミ
人
の祖先が分布していました。
ユーラシア大陸では,前17世紀頃から中央ユーラシアの遊牧民の民族大移動が起き,乾燥地帯の大河流域の古代文明が影響を受ける。
南北アメリカ大陸では,中央アメリカと南アメリカのアンデスに定住農耕民エリアが広がる。
時代のまとめ
(1
)
ユーラシア
中央ユーラシアには遊牧を基本とする文化が拡大している。青銅器の普及によっ
て
騎馬遊牧
民
となり,軍事的なリーダーも現れる。定住農耕民エリアと相互に関係を結んでいる。
東アジアから東南アジア,南アジアにかけての地域は,季節風(モンスーン)の影響を強く受けるため降雨に恵まれ
,
イ
ネ
などの穀物や焼畑農耕が営まれている。
西アジアや北アフリカのエジプトなどの乾燥地帯の大河の流域では,灌漑農業によって生産性が向上し,経済的な資源をコントロールしようとする勢力が,軍事組織・宗教組織を政治的にまとめ上げようとしている
(
古代文
明
)。
ヨーロッパには西アジアから青銅器や農耕・牧畜が伝わる。
(2
)
アフリカ
アフリカ大陸ではサハラ砂漠で遊牧民が活動している。
西アフリカでヤムイモの農耕が導入されているほかは,狩猟・採集・漁撈が生業の基本となっている。
(3
)
南北アメリカ
中央アメリカのメキシコ湾岸
(
オルメカ文
化
)やユカタン半島のマヤ地方
(
マヤ文
明
),南アメリカのアンデス地方には,農耕を導入した定住集落が出現し,神殿の建設も始まる。
(4
)
オセアニア
オーストラリアでは狩猟・採集生活が続けられたが,ニューギニアではタロイモやヤムイモの農耕をする人々も現れる。熱帯の島々に適応した農耕・牧畜・漁撈を基本とす
る
ラピタ文
化
が,船によってメラネシア方面に拡大していく。
○前
200
0
年~
前
120
0
年のアメリカ 北アメリカ
北アメリカ東部のミシシッピ川下流域には,この地に住む狩猟採集民により同心円状の巨大なに土塁(マウンド)が残されていますが,詳細はわかっていません。最大規模のものには,外径が1kmにおよぶポヴァティ=ポイントが知られています(◆世界文化遺産「ポヴァティ=ポイントの記念碑的土塁群」,2014)。
○前
200
0
年~
前
120
0
年のアメリカ 中央アメリカ,カリブ海
中央アメリカではカリブ海にせり出
す
ユカタン半
島
(現在
の
グアテマ
ラ
,
ベリー
ズ
の周辺
)
マ
ヤ
地域
【本試験H11地図:位置を問う】
や
メキシコ高
原
中央部で,多数の人口を養うことのできる農耕を基盤とする都市文明が生まれます。
トウモロコシ,豆,トウガラシ,カボチャを主食とし,農耕に関連する神話を持ち記念建造物と人身御供の儀式,交易ネットワーク,1年365日の正確な太陽暦と短期暦(1年260日),象形文字といった共通点を備えています。
◆
メキシコ湾岸地方にオルメカ文化がおこる
オルメカ文化がおこる
前1600年頃から
,
メキシコ盆
地
(標高2000mの台地にある)で,火山灰の土を利用した農耕が行われ,やがて文明に発展していきます。
前1400年頃にメキシコ南部のメキシコ湾岸地帯の人々は
,
オルメカ文
化
(前1500?前1400?~前400?前300?)を生み出しました。
ネコ科の猛
獣
ジャガ
ー
を信仰す
る
オルメカ文
化
の影響は中央アメリカ全域に及び,同時期に南アメリカのアンデス地方中央部のチャビン=デ=ワンタルにもジャガーのモチーフが確認されることから,交易などによる関連性も指摘されています。
オルメカ文化の諸都市には多くの階段型ピラミッドをはじめとす
る
公共建造物〔記念建造物
〕
が建てられ,玄武岩からドッシリとした巨大な人間の頭部像
(
巨石人頭
像
。大きいものは重さ18トンを超える!)が,おそらく前1400~前400年の間につくられました。
都
市
ラ=
ベン
タ
には玉座や,豪華な副葬品をともなう墓が発見されています。これだけの物がつくられたということは強力な権力を持つ者がいたと思われますが,その社会統合がどれくらいのレベルであったのか詳しいことはまだわかっていません。正確な暦が制作され,絵文字や数字も使用されましたが,前300年には衰退します。
◆
ユカタン半島の高地マヤ地域に文明がおこる
ユカタン半島にマヤ文明が形成される
ユカタン半島
の
マヤ地
域
【本試験H11地図:位置を問う】
【追H25中央アンデスではない】
の高地(マヤ高地)では,前2000年には農耕の
マヤ地域は熱帯雨林から雨季と乾季のあるサバナ気候,高山気候にいたるまで多様性のある気候をもつ地域で,各地域の特産物が交易によって集まる都市が形成されていきました。
マヤ地域にはユーラシア大陸のような大河はありませんが,特
に
高地マ
ヤ
(現在のグアテマラのキチェー地方からメキシコのチアパス地方にかけて)の自然環境は沿岸よりもずっと豊かで,農耕により人口を増やした都市が交易ルートを掌握し,文明を発展していったとみられます。
マヤ文明の担い手は
,
マヤ語
族
の言語を話す人々(現在はキチェーやツォツィルなど約30の集団に分かれています)です。
後代に記録されたものとはいえ,マヤ文明における思想をよく表しているとみられる神話に
『
ポポ
ル=
ヴ
フ
』があります(11世紀以降のキチェー人の王国で記録されたものです
(注
)
)。
これによるとマヤの信仰は多神教で,水の中の支配者であるグクマッツ(ケツァルコアトルに通じる)やテペウが,天の心(フラカン。ハリケーンの語源といわれます)と話し合って,大地・動物を創造。しかし,泥で人間を作ったところ失敗。木で作り直したがこれも失敗し,洪水を起こしてリセット。洪水後も生き残ったのがサルになりました。さらに神々はトウモロコシで4人の人間をつくったところ,神と同等の能力を備えた完璧人間ができてしまったことから,目を曇らせて近くのもののみ見えるようにしました。これがキチェー人になったということです
。
トウモロコ
シ
でつくったというところが,なんとも中央アメリカらしいですね。
なお,この時期のマヤ文明は古期に区分されます(前8000年~前2000年)。マヤ文明にオルメカ文明の影響が及ぶようになるのは,少なくとも前1400年以降のことです
(注
2)
。
(注1)キリスト教の聖書の影響も指摘されています
。
篠原愛人監修『ラテンアメリカの歴史―史料から読み解く植民地時代』世界思想社,2005,p.8。芝崎みゆき『古代マヤ・アステカ不可思議大全』草思社,2010も参照。
(注2)実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館,2016,p.235~p.238。
○前
200
0
年~
前
120
0
年のアメリカ 南アメリカ
アンデス地方
沿岸部には,農耕・海産物の採集・漁撈を中心とした定住集落があって,神殿が建設されていました。
しかし前1800年頃から,内陸の河川地域の神殿が放棄され,内陸の河川流域に集落が移動してきます。神殿のデザインには,ジャガー,ヘビ,猛禽類など,新たなシンボルが登場。異なる思想によって人々をまとめようとしたリーダー層の存在が考えられます。
山地では,コトシュ宗教伝統が衰退し,別の大きな神殿が建てられ始めます
(注
)
。
(注)関雄二「アンデス文明概説」,増田義郎,島田泉,ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS,2000,p.175。
アマゾン川流域
アマゾン川流
域
(アマゾニア)には,カボチャ,サツマイモ,マニオック
を
移動しながら焼畑農
耕
する人々がいました。
当時のアマゾン川流域は、前4000年頃から始まる低温下・乾燥化にともない、森林の点在する草原地帯で、森はわずかとなっていました
(注1)
。
前2000年頃には,小さな農村がつくられるようになラマゾン川の流れに沿って,地域間の交易が盛んになっていきました
(
注
2
)
。交易された産物は
,
淡水
魚
やマニオックの根
(
キャッサ
バ
)です。
ラプラタ川流域
前2000年頃、現在のパラグアイの地には、のちにグアラニー人と呼ばれることになる民族はいませんでした。
アマゾン川流域の乾燥化・森林の減少にともない、この後1500年のスパンにわたって、アマゾン川流域から
グアラニー人
が小規模な集団を組んで、ゆっくりと大移動していくことになります
(注3)
。
グアラニー人は、ラプラタ川周辺で旧石器文化を送る先住民と対立し、グアラニー人はしだいにパラグアイ川以東を居住権とし、先住民をパラグアイ川以西の乾燥地帯に追いやったり、自らの社会取り込んでいくことになります
(注4)
。
(注1) 田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、p.31。
(注2) デヴィッド・クリスチャン,長沼毅監修『ビッグヒストリー われわれはどこから来て,どこへ行くのか――宇宙開闢から138億年の「人間」史』明石書店,2016年,p.240。
(注3) 田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、p.32。
(注4) 田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、p.33-34。
オセアニアでは,オーストラリアやニューギニア島などで,人種的にはオーストラロイド系の人々による旧石器文化が栄えていました。オーストラリアでは狩猟・採集生活が続けられましたが,ニューギニアではタロイモやヤムイモの農耕をする人々も現れます。
○前
200
0
年~
前
120
0
年のオセアニア ポリネシ
ア
しかし,前1500年頃から東南アジアか
ら
新石器文
化
に属し,人種的にはモンゴロイド人種系,言語的に
は
オーストロネシア語
族
の人々が,オセアニア南西部に南下をはじめます。彼ら
は
ラピタ土
器
という幾何学的な模様のある丸みを帯びた薄手の土器をつくったため,彼ら
は
ラピタ
人
,彼らの文化
を
ラピタ文
化
と呼びます。ラピタというのは,この土器の発掘されたニューカレドニア島の地名です。
彼ら
は
アウトリガーカヌ
ー
(船を安定させるための舷外浮材付きのカヌー)を製作し,天文学の知識を基に高い航海能力を生かし,人類として初めて船に乗って南太平洋への移動を開始しました。
島から島へ数千キロも離れた距離を移動し,東南アジアを起源とするタロイモ(日本のサトイモのような芋),ヤムイモ(日本のヤムイモのような芋)の農耕や,ココヤシ,パンノキ,バナナなどの果樹の栽培,イヌ,ニワトリ,ブタの牧畜を行っていました。ヤシの樹皮を敷物や帆に使う布として加工したり,入れ墨をほどこしたりする文化も特徴的です。ディズニー映画の「モアナと伝説の海」に登場するキャラクターにも,ニワトリやブタがいますね。一見"楽園"のように見える"南の島"の生活は,実は過酷です。
特にサンゴ礁によってできた島では土がやせていて農業が難しく,水の確保も大変です。一方,火山でできた島では,集約的な灌漑農業によって人口が増加し社会が階層化し,のち
に
トン
ガ
や
ハワ
イ
のように首長国や王国の成立する地域もありました。しかし島の面積には限りがありますから,ユーラシア大陸の農牧民を支配した国家のような強大な王権が生まれることはありませんでした。
○前
200
0
年~
前
120
0
年のオセアニア メラネシア
メラネシアでは
,
オーストロネシア語
族
から分かれた人々が,島々で旧石器文化(ラピタ文化)を持
つ
オーストラロイ
ド
と混血して,ポリネシアとは違った文化が形成されました。資源の豊富な島と資源があまりない島との間では,「クラの交換」という儀式の形をとった交易を行っていた人々もいました
(注
)
。
(注
)
ク
ラ
とは,トロブリアンド諸島における儀礼的な交換行為であり,マリノフスキ(1884~1942,ポーランド出身の文化人類学者)の研究が代表的です。クラとは,この島々をカヌーによって環状に結んで行われるメラネシア人の交易であり,時計の反対周りに白い貝の腕輪(ムワリ),時計回りに赤色の貝の首飾り(ソウラヴァ)儀礼的に贈答されます。これに合わせて必需品の交易も行われますが,義務や名誉の呪術的・伝統的な観念と複雑に結びついており,単純に経済的な交易・交換とみなすことはできません(ブロニスワフ・マリノフスキ,増田義郎訳『西太平洋の遠洋航海者』(講談社学術文庫,2010年)。
○前
200
0
年~
前
120
0
年のオセアニア ミクロネシア
ミクロネシアには前1500年前後に,フィリピン周辺か
ら
マリアナ諸
島
に,インドネシア系の言語を話す集団が移動します。土器や,貝でできたアクセサリーが特徴です。根菜の農業と,ニワトリの飼育を行っていたとみられますが,詳しいことはまだわかっていません
。
ラッ
テ
という巨石建造物も見つかっています。
○前
120
0
年~
前
80
0
年のオセアニア オーストラリア
オーストラリアでは,オーストラロイド人種の先住民
(
アボリジナ
ル
)が,引き続き狩猟採集文化を送っています。
◆前
200
0
年
紀(前
200
0
~
前
1001
)
末にかけて,遊動する牧
畜(
遊
牧)
の文化は,黒海北岸の現・ウクライナから現・カザフスタンの乾燥草原地
帯(
カザ
フ=
ステッ
プ)
をつらぬいて,東方に広がっていく
遊牧文化の東方拡大
前3000年紀から
,
アム
川
や
シル
川
の周辺などの内陸
の
オアシ
ス
地帯では,灌漑設備を利用して農耕・牧畜を行う定住集落が見られました。
しかし,前2000年紀になると,草原地帯から青銅器や馬を利用する遊牧民
(
イン
ド=
ヨーロッパ語
族
)が新たに進出して来たため,衰退していきます。
馬
が史上初めて家畜化されたとみられるウクライナから,ドン川とヴォルガ川流域に広がる地域には
,
クルガ
ン
(高い塚(墳丘)という意味)の建設を特徴とする複数の文化が合わさった文化圏があったと見られます(中央ユーラシア西方のヤムナヤ(竪穴墳),カタコムブナヤ(地下式墳穴)
,
スルブナ
ヤ
(木槨墳)文化。中央ユーラシア中部方面のアファナシェヴォ文化,アンドロノヴォ文化
,
カラスク文
化
など)。
この地域をユーラシア大陸各地に広がったインド=ヨーロッパ語族の現住地であるとみる研究者もいます。
前2000年頃になると,中央ユーラシアの農耕牧畜文化のものとよく似た特徴をもつ青銅器が,東アジアの草原地帯(内モンゴルの東部)でも見つかっていることから,この時期に草原地帯を伝わって,モンゴル経由
で
馬
,
戦
車
,
青銅
器
が中国に伝わったとも考えられます。
ユーラシア大陸の草原地帯は,幅8000kmにわたる壮大なスケールをもっていますが,馬に乗る技術の発展により,東西を結びつける"道"の役割を果たすようになります。中央ユーラシアとれる翡翠
(
ヒス
イ
)という緑色の宝石は,中国では「玉(ぎょく)」と呼ばれて支配階級に珍重されるようになります。
○前
200
0
年~
前
120
0
年の中央ユーラシア 西部
中央ユーラシアの遊牧民の一部はメソポタミア北部,シリア北部に南下し,前2000年紀前半に
は
ミタンニ王
国
(前16~前14世紀)を建国し最盛期にはアッシリア王国を支配下に置いています。
○前
200
0
年~
前
120
0
年の中央ユーラシア 中央部
インドへ
また,別の一派は前3000年紀末までにイラン東部のマルギアナや,アム川上流のバクトリアに南下して,インダス川上流部の北インドに進入しました(インド=アーリア人,また
は
アーリア
人
)。
イランへ
そのまた別の一派は,イラン高原方面に南下しました(イラン=アーリア人
,
イラン語
群
の人々)。西アジアから,カスピ海,アム川・シル川流域にかけて,イラン語群の言語が広がることになります。
こうしてみると,インド人とイラン人は,ざっくり言えば共通の祖先を持っているということになるわけです。
○前
200
0
年~
前
120
0
年の中央ユーラシア 東部
前13~前12世紀頃からは,南シベリアやモンゴル高原で,新たな集団
が
カラスク文
化
という青銅器文化を生み出しました。彼らは山羊や馬,鹿を青銅器にデザインしています。中国の殷の終わりから西周の文化とも関係しているようです。
○前
200
0
年~
前
120
0
年のアジア 東アジア
・
前
200
0
年~
前
120
0
年のアジア 東アジア
現①
日本
日本列島の人々は,世界最古級の土器であ
る
縄文土
器
を製作す
る
縄文文
化
を生み出し,狩猟採集生活や漁労を中心とした生活を営んでいました。
縄文土器には地域的特徴が大きく,各地域で特定の文化を共有するグループが生まれていたことを表しています。
縄文土器を特徴とする縄文時代は,現在では以下の6つの時期に区分されるのが一般的です。
・草創期(前13000~前10000年)
・早期(前10000~前5000年)
・前期(前5000~前3500年)
・中期(前3500~前2500年)
・後期(前2500~前1300年)
・晩期(前1300~前800年)
日本列島各地の特徴を持つ土器
が
八丈
島
(はちじょうじま)からも見つかり
,
神津
島
(こうづしま)産
の
黒曜
石
(こくようせき)という特殊な石も本州各地で発見されていることから,日本列島全域をカバーする交易ネットワークがすでに縄文時代早期に形成され始め,前期~前後期にかけて拡大し,晩期の中頃には完成していたと考えられています
(注
)
。
(注)橋口尚武『黒潮の考古学 (ものが語る歴史シリーズ)』同成社,2001,p.92。
・
前
200
0
年~
前
120
0
年のアジア 東アジア
現③
中国
青銅器時代の中国には複数の王権があった
中国で夏 (? )・殷・周 の3 勢力が発展する
前2500年~前2000年の中国は気候が大きく変動し,温暖な気候から冷涼・乾燥な気候帯が拡大していました。そこで,前3000年~前2000年にかけて人々は水を求めて大河の流域へ移動を開始します。
前2000年頃には,メソポタミア方面か
ら
小
麦
や
大
麦
が伝わって,栽培されるようになります。
黄河は,上流地帯の黄土といわれる土を大量に運んで来るため,下流の川底はすぐに浅くなります。
だから黄河は頻繁に氾濫を起こすのです。
「ドラゴンボール」に登場するような龍は,中国では聖なる生き物とされていますが,龍は氾濫する暴れ川を表しているんです。龍のいうことを聞かせ,洪水を抑えることができた指導者こそ,その資格があるというわけです。
従来の社会構造が崩れ,各地で政治権力が特定の上層階級に集まっていく動きが見られました。
前2000年頃
に黄河中流域(河南省偃師(えんし)市)で成立し
た
二里頭文
化
(にりとうぶんか)は,竜山文化を受け継ぐものとされています。二里頭遺跡は洛陽(らくよう)の東方にあり,1957年に青銅でできた最古の爵(しゃく。三足になっている酒器)が発見されたことで注目されました
中国の学者の多くは,前
1900年頃
に
夏
(か,シア)
【H27京都[2]】
という王朝がおこったと考えています。考古学者はこ
の
二里
頭
遺跡が首都だったとしているのです
(注)
。
たしかに,特徴的な土器が中国のほぼ全土から出土していることからも,広い範囲に影響を及ぼしていたとは見られますが,その存在は日本の歴史学界では否定されています。日中の見解の違いは,一つには歴史学のアプローチの違いによるものです。中国では,発掘された遺跡とともに『詩経』などの記述を合わせて判断し(二重証拠法といいます),前1500年頃におき
た
商
王朝
(
殷
王朝)は,この夏を滅ぼして発展した王朝だったのではないかと考えられています。
中国古代の伝説上の王に,堯(ぎょう)・舜(しゅん)・禹(う)がいますが,最後の禹は,黄河の水をおさめた人物であると言われ,彼が王位を譲ったことで,伝説上の王朝
「
夏
(か)」が建国されたとされているのです。
(注)神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.79。
◆
商では神権政治がおこなわれ,象形文字の甲骨文字が発達する
長江上流域にも「巴蜀」文明があった
なぜ「夏」にそこまでこだわるかというと,その後の中国の支配者が「自分の支配のルーツの古さ」を誇るときに,文献の上で「有った」と記されている「夏」との繋がりを強調しようとしたからです。
じゃあ,当時の中国には,黄河流域の「夏」にしか強大な王権がなかったかというと,そんなわけはありません。
長江上流域の四川(しせん)という盆地に,三星堆(さんせいたい)遺跡という大規模な遺跡が見つかっているのです。ここで出土した青銅器は,ぜひ一度見てみてください。黄河で見つかった青銅器とは似ても似つかぬ異様な容貌の謎の生物をかたどった仮面に驚くはずです。
見た目は変わっていますが,青銅器の製法は北方のそれと変わらぬもので,原材料のとれる鉱山も同じところであったことがわかっています
(注)
。
(注)小田中直樹他『世界史/いま,ここから』山川出版社,2017,P.61。
◆
商では神権政治がおこなわれ,象形文字の甲骨文字が発達する
黄河流域では殷が青銅器文明を発展させ
る
おなじ頃黄河流域では,前1600年頃
(注)
に登場し
た
商
王朝
(
殷
(いん)王朝)
【本試験H3】
【追H19】
が栄えていました。
商王朝は何度も遷都をおこなっていますが
,
殷
は王
〈
盤
庚
〉(ばんこう)により前1300年頃に遷都されたとされる都のことで,遺跡としては河南省の安陽
【東京H8[3]】
の郊外にある
王
【本試験H6皇帝ではない】
は神として君臨し,その地位は世襲され,多くの都市国家の貴族を従えることで成り立っていました。西方のタリム盆地方面のインド=ヨーロッパ語族か
ら
青銅
器
【追H27鉄製農具の使用は始まっていない】
【共通一次 平1「周代に入ってはじめて作られるようになった」わけではない】
を獲得したとみられ,戦車や武器に用いられました。
城壁のある都市国家がみられるようになるのは,黄河の中・下流域です。まずは小規模な地区の統一がおこなわれ,それらが統合されて広域的な国家となっていきました。
商(殷)
【セA H30】
では
,
甲骨文
字
【東京H10[3]】
【名古屋H31】
【共通一次 平1:甲骨文字,満州文字,西夏文字との判別】【本試験H11インカ帝国のものではない】
【本試験H21図版】
【追H19】
【セA H30】
という文字が使用されていました。
占いの儀式に基づいて,王が多くの氏族集団(共通の祖先をもつと考えているグループのこと)
の
邑
(ゆう,都市国家)
【本試験H2】
をまとめて支配していたと考えられます
【本試験H21郷挙里選は行っていない】
。
甲骨文字は,亀の腹甲(ふっこう。背中の甲羅ではありません)や動物の肩甲骨などに穴を開け,質問をしてから火であぶって現れた割れ目を見て,王が吉凶を判断しミゾを彫ってその結果を表したのです
【名古屋H31用途を問う】
。やがて甲骨文字は、形によって事物を表現する
甲骨文字発見のエピソードとして「清朝末期に〈王懿栄〉(おういえい)がマラリアの持病を治すために北京の達人堂(たつじんどう)という薬局から「龍骨」と呼ばれる漢方薬を購入すると、そこに文字らしいものが書かれており、食客の学者〈劉鶚〉(りゅうがく)とともに研究に励むようになった」というものがあります。しかし、これはいささか正確ではなく、〈王懿栄〉は骨董として買い求めたらしく、甲骨文字自体も古くから「文字」と認識されていたようです
(注)
。
(注) 佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』講談社、2018年pp.3-5。
殷
で
は
祖
先
の崇拝がおこなわれていました
【本試験H23仏教は殷代にはない】
。人の魂は死んでしまうと"あの世"に行きますが,子孫が祈れば,子孫のために良いことをもたらしてくれると考えられ,規模の大きい家族(拡大家族)は,共通の祖先を崇拝していました。一族で一番の長老が,儀式をとりおこなえばいいので,聖職者のような階級はみられなかってようです。
すで
に
青銅
器
【追H27鉄器ではない】
が使用され,商の支配階級はこれを独占していました。王宮のある殷墟では王の墓とともにおびただしい数の殉死者が葬られており,その支配の強さがうかがえます。中国の西部に西方・北方の中央ユーラシア世界か
ら
戦
車
が伝わったことが
,
戦
争
を激化させることになりました。
商には東シナ海・南シナ海・インド洋から,貨幣としてもちいられた子安貝
(
タカラガ
イ
)の貝殻などを運び込まれていました。
タカラガイを求めて南西諸島の宮古島にも殷人がやってきて,そこから稲が"海上の道"北上して九州に伝わったのだと,民俗学者の〈柳田國男〉(やなぎたくにお,1875~1962)は考えましたが,柳田説は現在では否定されています
。
中央ユーラシアとも盛んに交易をし,中国では特に価値の高いものとされ
た
ヒス
イ
をはじめとする産物を手に入れていました(台湾の故宮博物院にあるヒスイでできた白菜(翠玉白菜(すいぎょくはくさい))が有名です)。
殷の勢力は前1600年ころから前1000年ころまで続き,黄河中流域の農業に適した中原(ちゅうげん)を支配して栄えます。
しかし,青銅器の増産は資源の枯渇を招き、これが殷の衰退の背景となりました。より豊かな銅の鉱山を獲得した西方の周(しゅう)の勢力が,殷に代わって黄河流域の支配権を獲得することとなるのです
(注)
。
(注1) 佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』講談社、2018年p.22。
(注2)小田中直樹他『世界史/いま,ここから』山川出版社,2017年,p.62。
・
前
200
0
年~
前
120
0
年のアジア 東アジア 朝鮮半島
朝鮮半島には新石器文化の担い手が居住し,
○前
200
0
年~
前
120
0
年のアジア 東南アジア
前2000年紀に,中国か
ら
稲
作
が伝わると,大陸部の山地に農牧民が生まれました。前1000年紀には,諸島部でも稲作が始まりました。熱帯雨林では焼畑による稲作が,ジャワ島の中・東部では火山の裾野に水を引き水稲栽培が行われました。
前2000年紀末から,東南アジアの人々は金属器を使用した文化を生み出すようになります。特に,ヴェトナム北部では中国との関係が深く,青銅器の使用が増えていきます。のち
の
ドンソン文
化
(前4世紀以降)の源流です。
○前
200
0
年~
前
120
0
年のアジア 南アジア
インダス文明は前2000年頃から衰退を始め,地域ごとに差はありますが,前1700年頃にはほぼ滅びました。
その原因には,前2200年頃からの気候変動や,サラスヴァティー川の消滅,森林伐採や塩害などの環境破壊説,外民族進入説など諸説あります。メソポタミアやエジプトの文明と異なるのは,大規模な軍隊の存在がうかがえる遺物が見つかっていないことです。発掘が進んでいないということもありますが,メソポタミアやエジプトの文明に比べると,平和的な文明だったとみられています。
さて,インドへに進入するには,アフガニスタンの東部からカイバル峠を通ってヒンドゥークシュ山脈へ,東南部からボーラーン峠を通ってスライマン山脈に入る経路があります。
中央ユーラシアの草原で遊牧をしてい
た
イン
ド=
ヨーロッパ語
族
の
アーリア
人
は,インダス川上流のパンジャーブ地方
【追H30】
に前1500年に進入しました
(
イン
ド=
アーリア
人
【追H30「アーリヤ人」】
)。彼らは先住
の
ドラヴィダ
人
を征服しながら,農耕を取り入れつつ牧畜中心の生活を営みました。ガンダーリー,ケーカヤ,マドラ,プール,ヤドゥ,バラタなどの部族に分かれていました。彼らの言語は,現在
の
ヒンディー
語
【本試験H24タミル語,アッカド語ではない】
などにつながります。
前1500年~前1000年
を
前期ヴェーダ時
代
といいます。なぜ「ヴェーダ時代」というかというと,バラモン(司祭階級)
【東京H6[3]】
の聖
典
『リ
グ=
ヴェーダ
』
【追H28神々への讃歌の集成か問う】
【本試験H7「インド神話の古い形」が現れるか問う】
が,この時代について知る唯一といっていい史料だからです。
神々への賛歌(リグ)が収められた聖典で,雷神インドラに関するものが全体の4分の1を占めます。賛歌の知識を持ち,祭祀をとりおこなったのはバラモン
【本試験H9ウラマーとのひっかけ】
と呼ばれる聖職者階級。この信仰を
「
バラモン
教
」と呼んでいます
【追H9】
。彼らにとって最も重要な財産が牛であったことは,戦争(カヴィシュティ)という単語「牛を欲すること」という意味からもわかります。二頭または四頭立ての戦車が使用され,青銅器を使用しました。自らを「高貴な者」(アーリヤ)と呼び,先住民のドラヴィダ系の人々を「黒い肌をした者」と呼びました。
なお,前1000年頃に中央ユーラシアから西アジアに南下したアーリヤ人を
「
イラン
人
」と呼びます。
○前
200
0
年~
前
120
0
年のアジア 西アジア
西アジア
...現①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
◆
メソポタミアのシュメール人の都市国家群を,セム系アムル人がバビロン第一王朝として統一
バビロン第一王朝が都市国家群を統一する
一方,メソポタミアでは,前18世紀中頃にセム語派のアムル人が,中流域
の
バビロ
ン
(ユーフラテス川の中流域)
【京都H22[2]地名・地図上の位置】
に都をおき
,
バビロン第一王
朝
(いわゆる「古バビロニア王国」
(注
)
)を建てました
【本試験H16エジプトを含むオリエントは統一していない,本試験H28バビロンは「世界の半分」ではない】
(前1763~前1595)。シュメール人の都市国家群のあった地域よりも上流にあたる地域を拠点とします。
(注1)時代区分として「古バビロニア期」という言い方はありますが,この時期のバビロニアにおける王朝は他にも存在したので,近年は正確を期して「バビロニア王国」と呼ばない傾向となっています。
前18世紀頃には,
〈
ハンムラビ王
〉
【本試験H9[16]】
【本試験H17アケメネス朝ではない】
【追H20アッバース朝ではない】
が,「世界四方の王」と称し,メソポタミア全域を支配下に起きました。バビロニア地方には運河を建設して,交易を活発化させます。
彼は広大な領域を支配するために,前1776年頃
に
ハンムラビ法
典
【追H27神聖文字が記されていない】
【本試験H9図版[16]アッカド人により滅ぼされた王国の法典ではない】
【本試験H15各ヴァルナの義務が示されているわけではない】
【追H30】
を発布しました。ハンムラビ法典
は
この法典は1902年
に
ス
サ
でフランスの調査隊によって発見されたため,現在はフランス・パリ
の
ルーブル美術
館
(1793年開館)にあります。法典の上部にはバビロンの主神マルドゥクが〈ハンムラビ〉王に「都市と神殿を守れ」と任命するレリーフが彫られています。ちなみにマルドゥクは,天の神アヌと神々の王エンリルが,バビロンの支配権を授けた神ということになっています。
メソポタミア北部ではアッシリアの〈シャムシアダド1世〉が強大化しており,〈ハンムラビ〉王は初め同盟関係を結んで様子を見ていましたが,アッシリア王の死後にアッシリアの首都アッシュルを攻撃しました。これ以降,アッシリア人の勢力は一時弱まります(この頃までのアッシリアを「古アッシリア」と呼ぶことがあります)。
◆
バビロン第一王朝の滅亡後,海の国,カッシート,ミタンニ,アッシリア,ヒッタイトなどが台頭する
ヒッタイトがバビロンを占領し,「国際化」の時代に
しかし〈ハンムラビ〉王の死後には,諸都市国家が自立に向かいます。
前1700年頃からメソポタミア南部では,バビロン第一王朝から自立し
た
海国第一王
朝
といわれる王朝が海上交易で栄えていました(バビロン第二王朝ともいわれます)。
それと並行してペルシア湾のエラム人主導による,その植民先であるオマーン(マガン国)や,バーレーン(ディルムン国)とメソポタミアやインダス川流域を結ぶ交易ネットワークは前18世紀に崩壊。
しかし,メソポタミア南部には民族系統不明
(注1)
のカッシト
(
カッシー
ト
)
人
【本試験H6エトルリア人とのひっかけ】
の進出が始まっていました。メソポタミアではシュメール人による反乱も起き,バビロン第一王朝の支配はバビロン周辺のみに縮小する中,新興勢力であるアナトリア半島
の
ヒッタイト王
国
の〈ムルシリ1世〉(?~前1530?)がバビロンを占領。
その後混乱の中でカッシートは
(
カッシー
ト
)
朝
(前15世紀頃~前1155年;バビロン
第
三
王朝)
(
注
2
)
を建国し,前1475年には海国第一王朝を打倒しました。それ以降はペルシア湾岸へのカッシートの影響が強まっていくことになります。
この混乱期にメソポタミア北部のアッシュル
(
アッシリ
ア
)が成長。西方のアナトリア半島とメソポタミアとの間で商品(メソポタミアの織物や,地中海東部のキプロス島の銅)を取引をする中継貿易で栄えました。
このように様々な主体が覇権を争う「国際化」と呼ばれる状況となっているこの時期(前16世紀のヒッタイトによるバビロン占領からアッシリアの台頭する前1000年頃まで)を「中期バビロニア時代」と区分します
(注3)
。
(注1)記録がアッカド(バビロニア)語で残されているためカッシト語の実態がわからないためです。当時のオリエントでは,楔形文字で記録されたアッカド(バビロニア)語が際語として使われていました。
(注2)ギレルモ=アルガゼの「ウルク=ワールド=システム論」。後藤健『メソポタミアとインダスのあいだ─知られざる海洋の古代文明』筑摩書房,2015,p.42~p.43。
(注3) 「国際関係の時代」ともいいます。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.13。
◆
ヒッタイト人が組織的に製鉄をおこなって強大化し,バビロン第一王朝を滅ぼした
馬の戦車と鉄の力で,ヒッタイトが強大化する
古気候の研究によると,前3000年頃から地球は寒冷化に向かったとされます。
寒冷化の影響を受け,ユーラシア大陸の内陸乾燥地帯
(
中央ユーラシ
ア
)から,遊牧民が生き延びるためにいろんな方向に移動したことがわかっています。
彼らのルーツの元をたどると,ある特定の言語Xに行き着くと推定されています。ヨーロッパからインドかけての幅広い範囲の言語が,この言語Xをルーツにもつ"言葉の家族"の一員であることが立証されているからです。この"言葉の家族"(語族)をインド=ヨーロッパ語族といいます
(注
)
。
(注
)
18世紀の末,ヨーロッパの言語学者が,サンスクリット語とラテン語やギリシア語がの文法や単語が,偶然とはいえないほど似ていることを発見しました。たとえば「母」という単語は英語では「mother」だが,オランダ語では「moeder」,スペイン語では「madre」,ロシア語でが「mat」,ギリシア語では「mitera」,インドのヒンディー語なら「mam」というような共通点があります。ヨーロッパからインドまでの様々な言語の共通点を整理しながら昔にさかのぼっていくと,現在の中央ユーラシアに"先祖"となる言語Xがあったのではないかとの結論にいたりました。この祖先となる言語Xは現在は消滅していますが,"インド=ヨーロッパ祖語"と仮定されていますが詳しいことはいまだに推定の域を出ていません。
前2000年頃,インド=ヨーロッパ語族は西アジア方面に断続的な移動を開始。
その一派が,現在のトルコ共和国(歴史的には「
古来、ヒッタイトの製鉄技術は「世界最古」とされてきましたが、近年の研究ではカフカース地方(黒海とカスピ海の間の山岳地帯)などで発達し,それが小アジアに伝わったのではないかという説が有力。研究の進歩の成果です。
前16世紀初めになる
と
ヒッタイト
人
【本試験H29アッカド人ではない】
の
ヒッタイト王
国
【本試験H5ホスロー1世はヒッタイトの最盛期の王ではない】
【東京H26[3]】
【本試験H16王はファラオではない】
が
鉄
器
の製造を組織的に行っていたことがわかっています。ヒッタイト王国ははじ
め
アナトリア半
島
(小アジア)
【本試験H27モンゴル高原ではない】
を支配し,バビロン第一王朝を滅ぼし,のちにエジプトとも戦いました。
現在のトルコ共和国中央部,ボアズカレ地方には,ヒッタイトの首
都
ハットゥシ
ャ
の遺跡が広範囲にわたり残されています。ヤズルカヤ神殿やスフィンクス門,地下道,貯蔵庫,王宮などの遺跡のほか,大城塞から
は
楔形文
字
を記した粘土板が2万点以上発見されています(◆世界文化遺産「ヒッタイトの首都ハットゥシャ」1986)。
彼らは馬に二輪車を引かせる技術も改良しています。車輪の中心部(ハブ(こしき(轂))と言う部分)は鉄製で,中心部から外側にスポークが放射状に伸びる構造となっています。現在では当たり前の「車輪」の構造は,ヒッタイト人が改良したのです。また,ウマの調教文書(マニュアル)も発見されており,戦馬の訓練所もあったと考えられます。
ヒッタイト王国の崩壊後も鉄器はオリエント全土に普及せず,しばらくは青銅器が使用されていたとみられます。
◆
北メソポタミアのミタンニ,小アジアのヒッタイト,エジプトの新王国による国際関係が生まれた
アマルナ文書に当時の国際関係が記される
この頃のオリエントでは,メソポタミア北部にインド=ヨーロッパ語族とみられ
る
ミタンニ人の王
国
(住民の大部分はフルリ人?
(注1)
),アナトリア半島を拠点とし
た
ヒッタイト人の王
国
,エジプトに
は
新王
国
が強大化し,国際関係が複雑化していきます。
前15世紀にはヒッタイトと新王国が結び,ミタンニと新王国がシリアの支配権をめぐり対立。
前14世紀にはヒッタイトと新王国がシリアの支配権をめぐり直接対立しました。のちにヒッタイトの〈ムワタリ〉王と,エジプト新王国
【追H26古王国ではない】
の〈ラメセス2世〉との間には1286年にカデシュの戦いが起きています。ミタンニは新王国側につきましたが,ヒッタイト
【追H26】
によって滅ぼされます。
こうした国際関係の実態は,エジプトで出土した新王国時代
の
アマルナ文
書
によって明らかになっています。
ミタンニがヒッタイトにより滅ぼされると,ミタンニの支配下に置かれてい
た
アッシリ
ア
【本試験H2「バビロン捕囚」をおこなっていない】
が強大化(これ以降,領土拡大期までの時期を
「
中期アッシリア時
代
」といいます)
(注2)
。アッシリアは、
中継貿易
の拠点でもある都市アッシュルの神アッシュルに対する強い信仰のもとで統合されていました
(注3)
。
前13世紀になると,ヒッタイトと新王国
は
カデシュの戦
い
(1286)以降は和平に転じ,ともにアッシリアの強大化に対抗する動きをみせるようになりました。
(注1) ミタンニを「インド=ヨーロッパ系」に分類していた時代もありましたが、その背景には「ヨーロッパ人のご先祖」である「インド=ヨーロッパ系」の「遊牧民」はすごかったんだぞ! と言いわんとするがための意図もありました。断片的な史料のみでミタンニの人々を「インド=ヨーロッパ系」と断定するのは無理がありますが、支配階級はインド=ヨーロッパ系の民族、住民の大部分は
民族系統不明
のフルリ人であったという見解に落ち着いています。『最新世界史図説タペストリー 十七訂版』(帝国書院、2019年)では、ミタンニ王国は民族系統不明と表示されています。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.13。
(注2) アッシリアに「残虐」「野蛮」なイメージがつきものなのは、時代による使用言語のばらつき、文書の出土状況の不均衡などが背景にあります。たとえば、前3千年紀末には古アッカド語、前2千年紀前半に古アッシリア語、前2千年紀後半に中期アッシリア語、前1千年紀前半に新アッシリア語のように移り変わっています。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.11。月本昭男「前二千年紀西アジアの局外者たち」『岩波講座世界歴史』2(岩波書店、1998年)を挙げて。
(注3)
アッシリア商人
は、古アッシリア時代から東方のスズ(錫)と、南のバビロニアからの織物などの羊毛製品を小アジアに運び、アナトリアで銀・金を得ました。取引の文書は古アッシリア語で書かれています。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.13。
◯前
200
0
年~
前
120
0
年のアフリカ 東アフリカ
東アフリ
カ
...現在の①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ
アフリカ大陸の東部に出っ張っている
"
アフリカの
角
"には,標高4000m級
の
エチオピア高
原
があります。ナイル川は,上流部で二つの川が合流して北に注ぐのですが,エチオピア高原から雨をあつめて流れるの
が
青ナイ
ル
です。一方,南方の赤道近くのウガンダ方面から流れ込むのは「白ナイル」といいます。
伝説では,前1000年頃にアラビア半島の〈シバの女王〉が,パレスチナの
〈
ソロモ
ン
〉王を訪問したということですが,その息子〈メネリク1世〉(生没年不詳)がエチオピア高原にひらいたのが,エチオピアの王朝の始まりなのだという建国伝説が残されています。
エチオピア高原は北側の紅海の交易ルートをおさえ,アラビア半島との交易に従事していたとみられます。そのため
,
ユダヤ
教
の文化がこの地に伝播していたのです
◯前
200
0
年~
前
120
0
年のアフリカ 南アフリカ
南アフリカ...現在の①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ
アフリカ大陸の南部では
,
コイサン
人
が狩猟・採集生活を送っています。
◯前
200
0
年~
前
120
0
年のアフリカ 西アフリカ
西アフリ
カ
...現在の①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ
ニジェール川はサハラ沙漠の乾燥地帯を貫く外来河川(雨の降る地方から,雨の降らない地方に流れて来る川のこと)です。
中流域の乾燥地帯のオアシスでは集落の遺跡が発見されており,前2000年~1500年頃
に
雑
穀
が栽培されていた証拠が発見されています。雑穀は,アフリカの乾燥地帯で典型的に栽培されていたもので,雨季と乾季のあ
る
サバナ気
候
のエリアで盛んです。
前2500年頃に始まるサハラ沙漠の乾燥化にともない,もともとサバナ気候だったところが沙漠や乾燥草原(ステップ)に変貌していく地域も出てくると,南縁
の
サヘ
ル
と呼ばれる地域に,人々が水場(オアシスや河川)を求めて南下していったとみられます。
アフリカ大陸は「┓」のような形をしていますが,左下(南西)部分の海域のこと
を
ギニア
湾
といいます。
ギニア湾沿岸には,熱帯雨林とよばれる熱帯の森林が生い茂るエリアや,雨季と乾季のあるサバナ気候のエリアが広がり
,
ヤムイ
モ
を栽培する農牧民が分布しています。
○前
200
0
年~
前
120
0
年のアフリカ 北アフリカ
◆
第二中間
期(前
1650
?
~
前
1558?
)
:
第
1
4
王朝~
前
1
7
王朝前期
ヒクソスの政権となった時期(王位継承についての定説はありません)
◆
新王
国(前
1558
?
~
前
1154?
)
:
第
1
7
王朝後期~
第
2
0
王朝
...最大版図となる時期。〈ツタンカーメン〉はこの時期。
エジプ
ト
では,中王国時代に傭兵として導入されていた北シリアから騎馬に優れた遊牧民
(
ヒクソ
ス
と呼ばれました)が次第に政治にも干渉し,第13王朝(前1782?~前1650?)・14王朝(前1725?~前1650?)には政権が混乱し,第15王朝(前1663?~ 前1555?)・16王朝(前17世紀~前16世紀)ではヒクソスが下エジプトを支配する状況に至っていました。上エジプトで,ヒクソスに対抗したエジプト人が政権を建てた第17王朝(前1663年?~前1570?)を合わせ,中王国滅亡後の時期を第二中間期と区分します。
(注)
古代エジプト史の年代については,諸説あり。
エジプトを支配してい
た
ヒクソ
ス
の王朝は,〈イアフメス1世〉(位前1550~前1525)により追放されました。
彼を始祖とす
る
第
1
8
王
朝
から第20王朝まで
を
新王
国
と区分します。王朝の拠点はメンフィスとテーベの2箇所です
。
メンフィ
ス
はユーラシア大陸への進出基地として重要視されました
。
テー
ベ
はヌビアへの進出基地であるとともに,王家の出身地であ
り
太陽神ラ
ー
【本試験H11インカ帝国で信仰されていない】
【本試験H31古代インドではない】
と同一視されて信仰されたアメン神(テーベの都市神)の中心とし
て
テー
ベ
も重視されました。テーベには多数の巨大記念建築物が建造され,王の権威を高め人々を動員させる役割を果たしました。
〈トトメス1世〉のときに「王家の谷」に初の王墓が築かれ,シリアにも遠征しています。その娘
〈
ハトシェプス
ト
〉(前1479?~前1458?)は,次王となる〈トトメス3世〉が幼少であったため,ファラオと称して実権を握りました。
〈
トトメス3
世
〉(前1479?~前1425?)のときには,スーダン南部
の
ヌビ
ア
や紅海沿岸に進出したほか,シリアへの17回の遠征をおこなった記録もあり,最大領域を実現しています。
そこでヌビア人は,紀元前900年頃,今までの都であるケルマよりも南 (上(かみ)ヌビアといい,現在のスーダン北部に位置します)に移動し
,
ナパ
タ
(第4急流のやや下流側)
で
クシュ王
国
【本試験H9[24]地図上の位置を問う】
を建てました。クシュ王国は,エジプト
の
ヒクソスの王
朝
と友好関係を結び,テーベのエジプト人によ
る
第
1
7
王
朝
を"挟み撃ち"にして対立します。
しかし,次第にテーベのアメン=ラーをまつる神官団が政治への介入を始めると,これを嫌った
〈
アメンホテプ4
世
〉
(位前1349~前1333)
(注
)
【追H26クレオパトラではない】
【本試験H12】
【本試験H27クレオパトラではない】
【立教文H28記】
は彼らの力を排除し,王自らを神格化させるために拠点をテーベとメンフィスのほぼ真ん中に位置するアケト=アテン(遺跡の名称はテル=エル=アマルナ)
【京都H22[2]地図上の位置】
【本試験H27】
にうつし,唯一の太陽
神
アト
ン
【中央文H27記】
のみを信仰させる宗教改革を断行しました。アメン=ラーをはじめとする従来の多神教を廃止し,唯一の太陽
神
アテ
ン
〔アトン〕信の仰を強制。みずからをアクエンアテン
(
イクナート
ン(
アクエンアテ
ン
)
,アトン神に有益な者)と称しましす(都のアケトアテンは,アテンの地平線という意味)。
彼の時代には,従来の宗教的な縛りがなくなったため,写実的なアマルナ様式の美術
(
アマルナ美
術
【京都H22[2]】
【本試験H29クフ王の時ではない】
【中央文H27記】
)も栄えます。
しかし,改革はたったの1代で失敗
【本試験H12アトン信仰は〈イクナートン〉の死後も長く信じられていない】
。彼の子〈トゥトアン
ク
アテ
ン
〉は〈トゥトアン
ク
アメ
ン
〉(位前1333~前1324)
(注
)
と改名し,都もメンフィスにうつされました。1922年イギリスの〈カーナヴォン卿〉に支援された考古学者〈ハワード=カーター〉が黄金のマスクを発見し,いわゆる"ツタンカーメン"として知られています。"発掘関係者が早死にした"とか"ツタンカーメン暗殺説"など,古代のミステリーとしてしばしば取り上げられるファラオでもあります。彼の死後,王朝は混乱に向かいました。
なお,「〈アメンホテプ4世〉が人類初の一神教の創設者で,これがのちにユダヤ教に伝わっていった」というストーリーは,精神分析学者の〈フロイト〉(1856~1939)のものなどが有名ですが,確証はありません。
第19王朝
【追H26古王国時代ではない】
の
〈
ラムセス2
世
〉(位前1279~前1212)
(注
)
【中央文H27記】
はシリア
の
カデシ
ュ
で
ヒッタイト王
国
【追H26】
と戦いましたが,勝敗のつかぬまま条約が結ばれました。このときヒッタイト王〈ハットゥシリス3世〉(前1275~前1250)は,エジプトのファラオと,シリアの領有権について取り決め,「相互不可侵」を約束しています。さらに,ヒッタイト王は2人の娘を〈ラムセス2世〉に嫁がせることで,平和を確保しました。〈ラムセス2世〉はエジプト最南端のアスワンに4体の巨大な石像で有名
な
アブシンベル神
殿
の建設や,テーベ(テーバイ)北部のカルナック神殿
の
オベリス
ク
などを建立しています。アブシンベル神殿は,アスワンハイダムによる水没を防ぐために,1960年代に国連教育科学文化機関
(
ユネス
コ
,UNESCO)
【本試験H10 1944年のブレトン=ウッズ会議で設立が決められたわけではない】
が移築させています。
第20王朝の〈ラムセス3世〉(位前1186~前1154)のとき,地中海方面からヒッタイトも滅ぼしたとみられ
る
「海の民
」
(シー=ピープ
ル
ズ
)の進出を受けました。彼はこれを撃退しますが,王朝はその後分裂して衰えていきます。「海の民」はサルディニア島,シチリア島を拠点とする人々やギリシアのアカイア人,イタリア半島のエトルリア人の混成集団ではないかと考えられています。
(注)エイダン・ドドソン,ディアン・ヒルトン,池田裕訳『全系図付エジプト歴代王朝史』東洋書林,2012。古代エジプトの年代については諸説あります。
古代エジプトの文字
は
パピル
ス
(水辺に生えるカミガヤツリという植物の一種)
【本試験H15】
に書かれました。パピルスに適した書体として,前2800~前2600年頃
,
ヒエログリ
フ
(神聖文字)
【東京H11[3]】
【共通一次 平1】
が考案されました。これを崩したのがヒエラティック(神官文字)
【東京H11[3]】
,さらに崩したものがデモティック(民衆文字)です。ヒエログリフが解読されるのは,この文字が刻まれた碑文を,1824年に〈ナポレオン〉(1769~1821)の遠征隊が発見したときのことです。冥界の
王
オシリ
ス
の裁判
【本試験H21・H24】
に備え,死者を埋葬するときに棺に一緒に入れられた
『
死者の
書
』
【本試験H9[18]図版ファラオの遠征,太陽暦,新王国時代の王の婚礼を描いたものではない】
【本試験H15】
の多くは,ヒエログリフ
【本試験H15アラム語ではない】
でパピルス
【追H28竹簡ではない】
【本試験H15】
に書かれています。
文字の誕生によって,ヒトは「目にはみえない考え」を文字にすることができるようになり,文字を生み出している"自分"という存在に目を向け,さらに生み出された文字によって逆に"自分"自身の考えをも豊かにしていくようになっていきます。例えば,名言などの言葉によって励まされたり,自分の考えを整理したりということもできるようになっていきます。また,"考え方"を他のヒトと共有することで,結束を深めたり,先祖代々の知識を仲間とともに積み上げていったりといったこともできるようになっていくのです。ただし圧倒的多くの人々には文字を読む力
(
識字能
力
)はなく,専門の教育機関で書字・読字を学ん
だ
書
記
に限られていました。
また,エジプトで
は
太陽
暦
【セA H30】
が用いられています。
◆ヨーロッパが鉄器時代に突入する
ヨーロッパにイン
ド=
ヨーロッパ語系の人々が到来
○前
200
0
年~
前
120
0
年の東・中央・西・北ヨーロッパ,イベリア半島
東ヨーロッ
パ
...現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッ
パ
...現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
イベリア半
島
...現在の①スペイン,②ポルトガル
西ヨーロッ
パ
...現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
北ヨーロッ
パ
...現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン
前2600年~前1900年にかけ,ヨーロッパに初の青銅器文化(ビーカー文化)が生まれました。
紀元前2000年頃には,インド=ヨーロッパ語族のバルト=スラヴ語派に属する,バルト語派の言語を話
す
バルト
人
が,バルト海東岸部に定住しています。現在
の
ラトビア
語
,
リトアニア
語
がバルト語派にあたり,インド=ヨーロッパ語族の古い時代の特徴を残している言語で
,
スラヴ語
派
とも近い関係にあります。
地理的に「辺境」(へんきょう)にあたる北ヨーロッパに青銅器文化がみられるようになるのは前1800年頃のことです。
○前
200
0
年~
前
120
0
年のヨーロッパ バルカン半島
バルカン半
島
...現在の①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア
◆
地中海北岸には交易で栄える小規模な都市国家が成立していく
古代には,地中海を中心に一つの文化圏が生まれました。沿岸部を中心に都市が生まれましたが,大きな川がないので平野にめぐまれず,気候も乾燥しておりブドウやオリーブなどの果樹栽培や山羊などの牧畜が主流です。ブドウからは早くか
ら
ワイ
ン
が作られ,オリーブからはオリーブ油が製造されていました(ワインは水で割って飲んでいたようです)。したがってオリエントのように治水に必要となる強力な権力は生まれませんでした。農耕・牧畜を営むためには降水量も少なく土地も狭いため,地中海に繰り出して沿岸のオリエントの穀倉地帯から必要な物資を得るのは生きるために必要なことでした。
◆
青銅器段階のクレタ文明が栄えたが,火山の噴火や資源の枯渇により滅ぶ
クレタ島が東部地中海交易の中心地として栄える
前3000年紀からエーゲ海周辺には青銅器文明
(
エーゲ文
明
)が栄えていましたが,前2000年頃からバルカン半島と小アジアの中間地点に位置す
る
クレタ
島
【本試験H16地図】
で,おそらくインド=ヨーロッパ語系ではない
人々(民族系統不明)が
,
クレタ文
明
〔ミノア文明;ミノス文明〕を生み出しました
【本試験H16ミケーネ文明を滅ぼして成立したわけではない】
(クレタ文明を「エーゲ文明」の中に含めることもあります)。
彼らは伝説的な王
〈
ミノ
ア
〉王にちなん
で
ミノア
人
と呼ばれ,オリエントやバルカン半島南部(ギリシア)を結ぶ中継交易の利をもとに各地の港を王が支配し,巨大で複雑な宮殿が各地に建設されました。
このう
ち
クノッソ
ス
にある宮殿
【追H27クフ王が建てたのではない】
【本試験H20ヒッタイトの遺跡ではない】
は王の住居で,広場にある貯蔵庫には各地から生産物
が
貢
納
されており,集められた生産物は再度各地に再分配されていました
。
線文字
A
(ミノア文字)など
の
絵文
字
【本試験H16文字がなかったわけではない】
が使われていたということは,これらの出し入れが記録されていたのではないかと考えられます(ただし未解読です)
。
青銅
器
文明であり,鉄器はまだ使用されていません
【本試験H16鉄器は未使用】
。
遺跡がありますが城壁がない
【本試験H5堅固な城塞はない】
ことから,王は宗教的な権威によって支配していたとみられ,のちのミケーネ文明に比べると平和な文明であったと考えられます。
クノッソス宮殿の王宮の壁画
【本試験H5】
(フレスコ画)や陶器の絵
【本試験H5】
には,明るいタッチ
で
イル
カ
【本試験H5海の生物】
の絵が描かれています。発掘したのはイギリスの
〈
エヴァン
ズ
〉
(1851~1941)
【本試験H5シュリーマンではない】
【本試験H16クレタ文明を発掘した人物】
で,後述の実業家〈シュリーマン〉
【本試験H5エヴァンズとのひっかけ】
の発見に刺激されて1900年に王宮を発見しています。
◆
アカイア人により,ギリシャに青銅器段階のミケーネ文明が形成された
城壁をともなうミケーネ文明が栄えた
バルカン半島南部のギリシアも,中央ユーラシアからのインド=ヨーロッパ語族の民族移動の影響を受けます。
前2000年頃に北方から移住してきたインド=ヨーロッパ語族
の
古代ギリシア
人
(
アカイア
人
【セ試行ドーリア人ではない】
)によって,前1600年以降にギリシア本土
(
注
1
)
に
ミケー
ネ
(ミュケナイ)
,
ティリン
ス
,
ピュロ
ス
などの都市国家が建設されました。これ
を
ミケーネ〔ミュケナイ〕文
明
【セ試行,本試験H8文字はある】
といいます。
開放的なクレタ文明とは対照的に堅牢な城壁付きの王宮もみられ,地中海をまたいだ西アジアや北アフリカのオリエントの専制国家の影響を受けているとみられます
(
⇒
新王
国
(前1567~1085?)/前2000~前1200北アフリカ)
。
発掘したのは19世紀ドイツの実業家
〈
シュリーマ
ン
〉(1822~90)です。前15世紀にクレタ島に進入して,これをを支配し,さらに小アジア
の
トロイ
ア
(トロヤ)にも勢力圏を広げました。クレタ文明の線文字Aをもとにして作られた
,
線文字
B
【本試験H8文字がなかったわけではない】
(イギリスの建築家
〈
ヴェントリ
ス
〉(1922~56)が,第二次世界大戦時の暗号解読技術を駆使して解読しました)を用いていました。
前1530年頃には,クレタ島の北にあ
る
テ
ラ
〔
サントリー
ニ
〕
島で火山が大爆
発
しました
。
この火山噴火がによりクレタ文明は甚大な被害を受け,衰退に向かいました
(
注
2
)
。のちに古代文明が海底に沈んだとされる「アトランティス伝説」のモチーフになったともいわれます(のちに〈プラトン〉の著作がモチーフにしていますが,内容は史実に基づくものではありません)。
◆
アカイア人の一派はイオニア人と呼ばれてアテネを建設することになる
エーゲ海沿岸でトロイア戦争が起きたと伝えられる
なお,アカイア人の一部
は
イオニア
人
と呼ばれるようになり,のち
に
アテ
ネ
(アテーナイ
(
注
3
)
)という都市国家を形成していきます。
また
,
アイオリス
人
【セ試行 スパルタを建設していない】
もバルカン半島北部から南下し,紀元前2000年頃にはギリシア中部からエーゲ海のレスボス島,さらに小アジア(アナトリア半島)西部に植民していきました。のち
に
テー
ベ
(テーバイ)という都市国家を形成していきます。
のちに吟遊詩人
〈
ホメロ
ス
〉(前8世紀末?)
【共通一次 平1:〈アリストファネス〉ではない】
【追H21『神統記』の著者ではない】
が叙事詩『イーリアス〔イリアス〕』
【共通一次 平1】
,『オデュッセイア』で伝え
る
トロイア戦
争
は,ミケーネが小アジア
の
トロイ
ア
(英語でトロイ)に対して起こした戦争がモチーフになっているといわれますが確かな証拠は今のところありません。一説には前1250年頃の戦争がモデルではないかともいわれています。物語に登場する「トロイアの木馬」は現在トロイア遺跡に復元されていて中にも入れます。
前2000年紀には,バルカン半島か
ら
トラキア
人
,
フリュギア
人
が小アジア(アナトリア半島)に移動します。
トラキア人はアナトリア半島
の
トロイア文
化
の担い手の一部ではないかともいわれています
[芝1998:35]
。
(注1)ギリシア本土とは,エーゲ海の島々や小アジア(アナトリア半島)を除いた,バルカン半島南部のギリシア人の世界を指します。
(注2) クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.20。ミケーネ文明滅亡の原因として、森林の消滅による環境破壊や耕地面積の消滅といった説もあります。以前言われていたような「
ドーリア人
」のや
「海の民
」の侵入による滅亡という説は否定されています。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.26。
(注3)古代ギリシア語では都市を複数形で呼ぶので,複数形の"アテーナイ"となります。現在の英語でもアテネはAthens(アス(θ)ィンズ)となり複数形です。
ユーラシア大陸では,前2000年紀末から中央ユーラシア遊牧民の大規模な民族移動が起き,乾燥地帯の大河流域の古代文明が再編される。
南北アメリカ大陸では,中央アメリカと南アメリカのアンデス地方に定住農耕民エリアが広がる。
◆
メキシコ中央高原には定住農耕集落が栄える
この時代のメキシコ中央高原には,狩猟・採集に加え
,
トウモロコ
シ
農耕を基盤とするに定住農耕集落が栄えています。
○前
120
0
年~
前
80
0
年のアメリカ カリブ海
1492年にスペインに派遣された探検家・事業家〈コロン〉(コロンブス)が,バハマ諸島で出会ったアラワク語族
の
タイノ
人
は,まだカリブ海はいません。
彼らの祖先にあたる人々(アラワク語族
の
アラワク
人
)は南アメリカ北部のベネズエラ,オリノコ川下流に分布していまし
た
(注)
。
(注)
アーヴィン
グ=
ラウス,杉野目康子訳『タイノ
人―
コロンブスが出会ったカリブの民』法政大学出版局
,
200
4,
p.6
3
。
○前
120
0
年~
前
80
0
年のアメリカ 南アメリカ
南アメリカ...現在の①ブラジル,②パラグアイ,③ウルグアイ,④アルゼンチン,⑤チリ,⑥ボリビア,⑦ペルー,⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネズエラ,⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ
◆
アンデス地方では,地域ごとに農耕を導入した都市が栄える
チャビ
ン=デ=
ワンタルの神々への信仰広まる
アンデス地方中央部の山地では,前1000年頃に標高3000メートル級
の
チャビ
ン=デ=
ワンタ
ル
(3150m)に都市が生まれました。
内部に水路のある基壇状の構造物や石彫が特徴で,発掘したのは〈フーリオ=C=テーヨ〉です。柱の上
に
ジャガ
ー
の頭をかたどった像(半分人間で半分ジャガーの"ジャガー人間")が付けられたものや蛇の像が見られ,農業に必要
な
水の神への信
仰
だとも考えられます。
この都市の文化と同じような様式の土器が各地でも発見されたため,
「
チャビン文
化
の担い手が,前1000年頃に南アメリカ一帯を統合した」とされたこともあります。
しかし調査の進展により,チャビン=デ=ワンタルには,この時期以前に建設された神殿の遺構もあることや,「チャビン文化」とされてきたアンデス地方各地の文化にも多様性があることがわかってきました。
例えば,この時期のアンデス地方中央部の北部沿岸の文化は,チャビン文化と考えられていましたが,それとは別のクピスニケ文化であることがわかっています。
一般にイモは保存に向かないので,食料の蓄積が進まず,国家のような大きな組織はなかなか生まれにくいとされます。しかし,高地で栽培されたジャガイモは,寒さを利用して「チューニョ」と呼ばれるフリーズドライの状態にすると半永久的に保存することができます。また,トウモロコシは段々畑に灌漑水路を整備すれば高地でも十分栽培可能です。またアンデスの高地と沿岸の低地との間に魚介類と各地の農産物を交換する交易ネットワークも生まれています
(南北アメリカ大陸では,ユーラシア大陸の東西ネットワークように南北間の交易ネットワークは大規模化しませんでしたが,高い所と低い所の間の交易は発達していったのです)
。
(注)
大河は都市国家の文明が成立する必要条件ではありますが,十分条件ではありません。パミラ・カイル・クロスリ
ー
(195
5
~,近代中国史
家)
が述べるように,《東アフリカや,南米のアンデス山脈のように,大河川が前提となっていないものもいる
》(
パミラ・カイル・クロスリー『グローバル・ヒストリーとは何か』岩波書店
,
201
2
年
,
p.79
◆
アマゾン川流域にも定住集落ができるようになった
グアラニー人の南下が続く
アマゾン川流域
アマゾン川流域(アマゾニア)にも定住集落ができるようになりました。階層化した社会が生まれますが徴税制度はなく,ユーラシア大陸における農牧民を支配する都市国家のようには発展していませ
ん
(
注
1)
。
ラプラタ川流域
前4000年頃からのアマゾン川流域の乾燥化・森林の減少にともない、前2000年頃から前500年頃ににわたって、アマゾン川流域から
グアラニー人
が小規模な集団を組んで、ゆっくりと大移動していくことになります
(注2)
。
グアラニー人は、ラプラタ川周辺で旧石器文化を送る先住民と対立し、グアラニー人はしだいにパラグアイ川以東を居住権とし、先住民をパラグアイ川以西の乾燥地帯に追いやったり、自らの社会取り込んでいくことになります
(注3)
。
(注1) デヴィッド・クリスチャン,長沼毅監修『ビッグヒストリー われわれはどこから来て,どこへ行くのか――宇宙開闢から138億年の「人間」史』明石書店,2016年,p.240。
(注2) 田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、p.32。
(注3) 田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、p.33-34。
○前
120
0
年~
前
80
0
年のオセアニア ポリネシア,メラネシア,ミクロネシア
人種的にはモンゴロイド人種系,言語的にはオーストロネシア語族の人々は,前1300年~前1200年頃にビスマルク諸島から,島伝いに東へ移動していきました。
彼らのこと
を
ラピタ
人
と呼びます。
彼らは過酷な島の環境を知っています。気まぐれな移動ではなく
,
ブ
タ
や
タロイ
モ
を船に乗せた計画的な植民でした。
前1200年頃にはソロモン諸島の東部,前1100年頃(前1000年頃)に
は
ニューカレドニア
島
,前1000年頃(前1100年頃)に
は
バヌア
ツ
,前900年頃にはフィジー,前850年頃(前900年頃)に
は
トン
ガ
,前750年頃(前800年頃)に
は
サモ
ア
にまで広がります
(注
)
。約4000キロの距離をこれだけの短期間で移動したのは驚くべきことです。
(注)( )内の年代は,1960年代頃の移動仮説を再検討した結果を踏まえた,印東道子『島に住む島に住む人類―オセアニアの楽園創世記』臨川書店,2017,p.21~p.23による。
彼らは島の気候に適応し,次第
に
ポリネシア
人
としての文化を形成するようになります。
20世紀に観光が資本主義と結びつき,「南の島」には"楽園"のイメージが結び付けられていきました。しかし,まわりが海で囲まれていて,作物の育つ土もわずかなさんご礁の島は,実は"沙漠"のような環境なのです。
南太平洋の主食はイモです。湿潤な環境を好
む
タロイ
モ
と,乾燥を好
む
ヤムイ
モ
。それに,豚・犬・ニワトリの家畜の飼育が盛んです。ヤムが実ると収穫祭が行われ,ヤムが無いときに
は
パンノ
キ
や
バナ
ナ
を食べます。パンノキは果樹なのですが,ふかしてココナッツミルクで煮ると,お芋のような食感です。調理には土器を使わず,石で蒸し焼きするのが普通です。半分に切った竹で,葉にくるんだ食物の上に焼けた石を載せて熱します。しかし,サンゴ礁でできた島には十分に土がないので,ココヤシとかパンノキを栽培することが多いです。パンノキは発酵させて,食物不足に備えます。
南太平洋の気候で新たな文化を生み出し
た
ポリネシア
人
の拡散は,サモアで一旦ストップします。
この時点では,ニュージーランド,ハワイ,イースター島には,まだ到達していません。
○前
120
0
年~
前
80
0
年のオセアニア オーストラリア
オーストラリアでは,オーストラロイド人種の先住民
(
アボリジナ
ル
)が,引き続き狩猟採集文化を送っています。
◆
中央ユーラシアは
前
100
0
年紀初頭から初期鉄器時代に入る
初期鉄器時代に入り,騎馬遊牧文化が花開く
この時期にまでには中央ユーラシアの広い範囲の遊牧民たちは,似通った特徴を持つ文化を共有するようになっています。
前9世紀~前8世紀にかけて,黒海北岸からカフカス山脈
(黒海とカスピ海の間を横切るけわしい山脈)
の北部にいた人々が,武装して馬にまたが
る
騎馬遊牧民文
化
を生み出します。
痩せた土地,極寒の冬。
草原や水場だけが頼りの環境で,彼らは考えます。
「農業できないなら,馬飼えばいいじゃん」
馬からは肉や乳は食用に,さらに骨と毛皮(毛皮からはフェルトが作られました)は移動に適した組立て式住居や衣服として有効活用されました。組立て式の家屋はいっけん粗末のようですが,保温に優れ,室内は過ごしやすいのです。
もっとも古い時代の騎馬遊牧民は,前8世紀頃に南ロシア
【追H25】
で国家を築い
た
スキタイ
人
【京都H19[2]】
【本試験H7騎馬技術を発展させた初期の遊牧民か問う,本試験H12その騎馬文化が匈奴に影響を与えたか問う】
【本試験H19時期】
【追H25,H30中国東北部ではない】
です。
○前
120
0
年~
前
80
0
年の中央ユーラシア 中央部・東部
スキタイ人と同じような機能・デザインの馬具・武器を持ち
,
鹿
石
(しかいし)という石のモニュメント立てる儀式を持った文化が中央ユーラシア全域に見られるようになります。
中国北方では1000年紀初めに本格的な遊牧がはじまっており,黄河が湾曲している地域のオルドスや夏家店上層文化に,初期遊牧民文化の痕跡がのこされています。例えば,西周の頃の中国北部の青銅器には,カフカス山脈北部でも発見されている青銅器の釜(ふく(金へんに复)という容器)と同じ特徴があります。
○前
120
0
年~
前
80
0
年の中央ユーラシア 北部
なお,主
に
狩猟
民
として生活する道を選んだ人々も,中央ユーラシア北方の森林地帯には多くいました。狩猟と農耕・牧畜を組み合わせるスタイルもみられます。
ユーラシア大陸では,中央ユーラシアの遊牧民の影響を受け,定住農牧民との交流が発展する。
南北アメリカ大陸では,中央アメリカと南アメリカのアンデスに神殿をともなう都市群が栄える。
時代のまとめ
(1
)
ユーラシア
中央ユーラシアの騎馬遊牧民勢力が台頭し,黒海北岸
の
スキタ
イ
(前8~前3世紀)遊牧国家のように,経済的資源をコントロール下に置き,軍事組織・宗教組織を含めて政治的に統一する勢力も出現する。
東アジアでは,黄河流域
に
周
(西周(前1046?~前771))が都市国家群を軍事的・宗教的に従えて,政治的な統合を進める。周辺の遊牧民とは,協力・競合関係にあった。
南アジアでは
,
イン
ド=
アーリヤ
人
がガンジス川流域に政治的統合をすすめ
,
バラモン
教
を支配原理としていた。
西アジアでは,メソポタミア北部
の
アッシリ
ア
が軍事的に強大化し,一時的に西アジアからエジプトにかけての広域を統一する。
ヨーロッパでは地中海周辺に,局地的に政治的な統合が進んでいる。
(2
)
アフリカ
アフリカのナイル川流域にはエジプ
ト
新王
国
(前1558?~前1154?)が栄える。
アフリカ大陸ではサハラ砂漠で遊牧民が活動している。
西アフリカでヤムイモの農耕が導入されているほかは,狩猟・採集・漁撈が生業の基本となっている。
バンツー
系
の人々は中央アフリカ,東アフリカ方面に移動を始めている。
(3
)
南北アメリカ
中央アメリカのメキシコ湾岸
(
オルメカ文
化
)やユカタン半島のマヤ地方
(
マヤ文
明
),南アメリカのアンデス地方
(
チャビ
ン
=デ=ワンタルなど)には,農耕を導入した定住都市が栄える。
(4
)
オセアニア
ラピタ人の移動は,サモア周辺で一旦止まる。
○前
80
0
年~
前
60
0
年のアメリカ 北アメリカ
○前
80
0
年~
前
60
0
年のアメリカ 中央アメリカ
◆
メキシコ湾岸にオルメカ文化が栄える
オルメカ文化の影響は中央アメリカ各地に広がる
メキシコ湾岸地帯
の
オルメカ文
化
(前1500?前1400?~前400?前300?)では,ラ=ベンタ(前900頃~前400頃)などに大都市が栄えています。
◆
ユカタン半島にマヤ文
明
【H18アステカ帝国ではない
】
が発達する
この時期,ユカタン半島
の
マヤ地
域
【本試験H11】
【追H30ロゼッタ=ストーンとは無関係】
の文明は先古典期の中期にあたります
(注
)
。
神殿ピラミッドは,前700年~前400年頃から建造され始めています。
(注
)
この時期のマヤ文明は,先古典期に区分され(前2000年~前250),さらに以下のように細かく分けられます。
・先古典期
前
期
:前2000年~前1000 メキシコ~グアテマラの太平洋岸ソコヌスコからグアテマラ北部のペテン地域~ベリーズにかけて,小規模な祭祀センターや都市が形成。
・先古典期
中
期
:前1000年~前300年:祭祀センターや都市が大規模化
・先古典期
後
期
:前300年~後250年:先古典期の「ピーク
」
(注
)
(実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館,2016,p.23)
◆
メキシコ南部のオアハカ盆地にサポテカ人の文明が栄える
オアハカ盆地には,サポテカ人の文明が栄えています。
◆
メキシコ中央高原には農耕定住集落が栄える
メキシコ中央高原には農耕定住集落が栄えています。
○前
80
0
年~
前
60
0
年のアメリカ 南アメリカ
◆
アンデス地方では各地に神殿をともなう文化が栄える
農耕を基盤に,神殿をともなう都市が栄える
南アメリカ大陸では,アンデス中央部の高地で都
市
チャビ
ン=デ=
ワンタ
ル
が栄えています。経済の基盤はトウモロコシやジャガイモの農耕です。
アンデスの北部沿岸ではクピスニケ文化が栄えています。経済の基盤は沿岸部での海産物の採集・漁撈から,河川流域での灌漑農耕に比重をうつしています
◆
アマゾン川流域でも定住が営まれている
グアラニー人の南下が続く
アマゾン川流域
アマゾン川流域(アマゾニア)にも定住集落が営まれています。階層化した社会が生まれますが徴税制度はなく,ユーラシア大陸における農牧民を支配する都市国家のようには発展していませ
ん
(
注
1)
。
ラプラタ川流域
前4000年頃からのアマゾン川流域の乾燥化・森林の減少にともない、前2000年頃から前500年頃ににわたって、アマゾン川流域から
グアラニー人
が小規模な集団を組んで、ゆっくりと大移動していくことになります
(注2)
。
グアラニー人は、ラプラタ川周辺で旧石器文化を送る先住民と対立し、グアラニー人はしだいにパラグアイ川以東を居住権とし、先住民をパラグアイ川以西の乾燥地帯に追いやったり、自らの社会取り込んでいくことになります
(注3)
。
(注1) デヴィッド・クリスチャン,長沼毅監修『ビッグヒストリー われわれはどこから来て,どこへ行くのか――宇宙開闢から138億年の「人間」史』明石書店,2016年,pp.240-241。
(注2) 田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、p.32。
(注3) 田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、p.33-34。
○前
80
0
年~
前
60
0
年のオセアニア ポリネシア,メラネシア,ミクロネシア
前2500年頃,台湾から南下を始めたモンゴロイド系の人々
(
ラピタ
人
)の移動は,前750年頃に
は
サモ
ア
にまで到達しました。ラピタ文化を共有していた地域は,ニューギニア島北東のビスマルク諸島から,西へソロモン諸島~バヌアツとニューカレドニア~フィジー~トンガとサモアまでです。彼らは
,
メラネシ
ア
地域にあるニューギニア島の北岸から
,
ポリネシ
ア
地域にかけ
て
ラピタ土
器
を残しました。一番古いものは,紀元前1350年~前750年の期間にビスマルク諸島で製作されたものです。
ラピタ人の拡大は,サモア付近で一旦ストップしますが,南太平洋の島の気候に適応し,現
在
ポリネシア
人
として知られる民族につながる文化を生み出していくようになります。
○前
80
0
年~
前
60
0
年のオセアニア オーストラリア
オーストラリアでは,オーストラロイド人種の先住民
(
アボリジナ
ル
)が,引き続き狩猟採集文化を送っています。
○前
80
0
年~
前
60
0
年の中央ユーラシア 西部
前9~前8世紀にかけて,中央ユーラシアの遊牧民は,青銅器製の馬具や武器を用いた文化を発展させていました。
前7世紀にはいよいよ,黒海北岸(南ロシア)
【追H25,H30中国東北部ではない】
で
スキタイ
人
【京都H19[2]】
【本試験H12その騎馬文化が匈奴に影響を与えたか問う】
【追H25】
が騎馬遊牧文化を発展させました。言語的にはイラン系です。
騎馬遊牧民
は
機動性が高
く
,戦闘が不利になった場合には騎乗をしない農牧民と違ってすぐさま退却することが可能でした。また,圧倒的な軍事力を背景に各地で商工業・農耕を営む人々をしばしば傘下(さんか)に入れ,お互いが利益となるような提携関係を結んだり,提携が破綻すれば激しく攻撃したりしました。それゆえ騎馬遊牧民の支配領域では,服属下に置いた他の騎馬遊牧民集団や,さまざまなバックグラウンドを持つ民族をも含み持
つ
混成的な社
会
が生まれました。
スキタイ人の動きは
〈
ヘロドト
ス
〉
【東京H22[3]】
【本試験H31】
【追H21】
の『歴史』
【追H21神統記ではない】
や,当時のアッシリア王国の粘土板文書によって明らかになっています。彼にとっては,農業をせずに家を運びながら生活するスキタイ人の生活は目からうろこでした。
『歴史』によれば,マッサゲタイ人に攻撃されたため,ヴォルガ川を渡り黒海北岸に移動し,先住
の
キンメリア
人
を打倒しました。キンメリア人の残存勢力がカフカス山脈からイランに南下すると,スキタイ人もそれを追ってイランに進入しました。
当時,西アジアを統一していた農牧民の建て
た
アッシリア帝
国
は,北方のウラルトゥ王国やキンメリア人の勢力を恐れ,スキタイと同盟を組みました。アッシリア王の〈エサルハッドン〉(位前680~前669)は,スキタイの娘と結婚しています。アッシリアに限らず,西アジアの農牧民による諸国家は,遊牧民の戦闘能力を買って,さかんに傭兵として招き入れていました。
スキタイ人はいくつかのグループに分かれていたとされ,一部はやがて東ヨーロッパやバルカン半島にも移動することにな
る
スラヴ
人
の祖先ではないかとも考えられています。
スキタイ人
は
動物文
様
が有名で,馬具や武器に見られます。これらは,スキタイ人が中央ユーラシアの東部から受け入れたのではないかともされています。動物文様を持つ金製の装飾品も有名です。
○前
80
0
年~
前
60
0
年の中央ユーラシア 中央部・東部
スキタイ人と同じような,草原を舞台にする騎馬遊牧民文化は,中央ユーラシア全域に広まっていました
【本試験H12その騎馬文化が匈奴に影響を与えたか問う】
。現在のカザフスタンあたりまで
は
イラン
系
が広がっており,それよりも東のモンゴル高原・中国の北部に
は
テュルク
系
・
モンゴル
系
の民族が分布していました。
連行されたヘブライ人たちの中には,異国の地で教会
(
シナゴー
グ
)をつくって団結を続けた者もいました。「いまは辛い目にあっているが,きっと救世主
(
メシ
ア
、ヘブライ語で「油をつけられた者」
(注)
という意味)
【本試験H3】
が現れて,ヘブライ人だけを救ってくれるはずだ」とい
う
選民思
想
【本試験H3「選ばれた民族」】
【H29共通テスト試行 ゾロアスター教の特徴ではない】
を抱き,彼らは唯一神ヤハウェへの信仰を保とうとします。
新バビロニアの滅亡後,彼らはイェルサレムに帰還しますが,一神教の信仰を維持することは容易ではありませんでした。その後,一神教を信仰する集団によって,前515年にヤハウェのための神殿が再建され,ヘブライ人の思想や習慣は
『
旧約聖
書
』
【追H19マヌ法典ではない】
にまとめました。
"旧約"(神との古い契約)という呼び名は,のちのキリスト教徒がイエスの言葉(福音)を
"
新
約
"(神との新しい契約)と考えることによります。つまり,キリスト教徒側の呼び方です。
『旧約聖書』のうち,ユダヤ教で重視されるのは『モーセ五書(トーラー)』で,『創世記』・『出エジプト記』・『レビ記』・『民数記』・『申命記』までが含まれ,神のことば(律法)が文章に表されたものです
。
天地創
造
から前331年までのヘブライ人(人類)の歴史を,前1000年頃~前100年代にかけて著され,ヘブライ語(部分的にアラム語)で記されました。『トーラー』に記された神の言葉は難解です。「安息日
(
サバ
ト
)にやっていいことと悪いことは何か」「食べてもいいものと悪いものは何か」「結婚式はどのように執り行うべきか」などなどが,長い年月をかけて現実の生活に合わせた解釈がなされてきました。この解釈の集大成を
『
タルムー
ド
』といい,『口伝律法(くでんりっぽう,ミシュナ)』やその解釈などから構成され,ユダヤ教徒の生活規範となっています[関[2003]]。
さて,ヘブライ人はイェルサレムへの帰還以降,ヘブライ人ではなく
「
ユダヤ
人
」と呼ばれることが多くなります。ユダヤというのは主要部族である「ユダ部族の土地」という意味です。
(注)CATHOLIC ENCYCLOPEDIA: Messiahより(http://www.newadvent.org/cathen/10212c.htm)。
◆
フェニキア人は地中海に外から物を送り届け,表音文字を生み出した
フェニキア人,アルファベットを発明する
フェニキア
人
は,シリアの沿岸部,現在
の
レバノ
ン
という国の南部を拠点として,レバノン山脈のレバノン杉の海上交易で栄えました
。
シド
ン
や
ティル
ス
【本試験H18地図】
といった海港都市から,地中海はおろか,イギリスのブリテン島(青銅器の材料にな
る
ス
ズ
が産出されます)や,北欧のバルト海(木材
や
琥
珀
(こはく)がとれます),またはアフリカ方面まで航海し,各地の貴重な物産を持ち帰り取引したといわれています。地中海沿岸には植民市が建設され,ティルスを母市とす
る
カルタ
ゴ
【東京H10[3]公用語を答える(フェニキア語)】
【セ試行】
【本試験H18地図、H24ヴェトナムではない】【H30共通テスト試行 「共和政ローマ」とカルタゴが接触した可能性があったか問う】
【追H24 3回のポエニ戦争でローマに敗れたか問う】
が,地中海のど真ん中,現在のチュニジアにあって栄えました。レバノン杉は,エジプトでミイラをおさめる棺の木材となり,船の建造にも用いられましたが,森林伐採が進み,現在ではほとんど残っていません。
平
民
は
プレブ
ス
【本試験H29】
と呼ばれる農民で,要職につくことはできず
【本試験H29要職を独占していたわけではない】
,貴族と平民の間の結婚も禁止されていました。
ちなみに
,
執政
官
(
コンス
ル
)
【本試験H9】
【立教文H28記】
は任期1年の最高官職で,貴族から2名が選ばれました。コンスルとは,元老院と「相談」する人という意味なので,英語の「コンサルタント」などの語源となっています。
また,国の一大事など緊急事態にあっては,2名がいると舵取りが難しいことから,任期半年で,すべての権利を握ることができ
る
独裁
官
(
ディクタート
ル
)という官職が認められていたことも特色です。ディクタトルは英語の独裁者(ディクテイター)の語源です。
一方,ローマで
は
フォ
ロ=
ロマー
ノ
と呼ばれる広
場
フォル
ム
(英語ではフォーラム。後ろにローマが付くと格変化して"フォロ"になる)が,前624年頃から前579年頃にかけて整備されていきました。
○前
80
0
年~
前
60
0
年のヨーロッパ バルカン半島
バルカン半
島
...現在の①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア
◆
ギリシアでは都市国家が建設されたが,同時期のオリエント的な強大な権力は現れなかった
オリエントの辺境にギリシア人の集落ができる
前8世紀になると,ギリシア人各地
に
ポリ
ス
【本試験H18アゴラとのひっかけ】
が建設されるようになります。
ポリスは,有力な貴族の指導のもと
,
集
住
(
シノイキスモ
ス
;シュノイキスモス)によって成立した都市国家のことです。ポリスに
は
アクロポリ
ス
(城山)
【本試験H18アゴラとのひっかけ】
という城砦があって,敵の進入を確認するとともに,ポリスの神々をまつる神殿が置かれ,祭祀(さいし)がおこなわれたり,公金を管理したりする場所でもありました。アテネ(アテーナイ)の場合,麓(ふもと)に向けてパンアテナイア通りがのびて,近く
の
アゴ
ラ
(広場)
【本試験H18アクロポリス・フォルム・ポリスではない】
【慶文H29】
は政治や市場の中心でもあり,民衆裁判所や評議会議場が隣接していました。
スパル
タ
は
,
テー
ベ(
テーバ
イ
)
というボリスを支配下におさめた後,バルカン半島南西部
の
ペロポネソス半
島
の先住民を,第一次メッセニア戦争(前743~前724)で撃退し,ポリスを形成しました。獲得した土地は,貴族と平民からなる市民
(
スパルティアタ
イ
)
に
平
等
に分配されました。
前685年には,先住のメッセニアが反乱を起こしましたが,第二次メッセニア戦争(前685~前668)で鎮圧されました。
戦後のスパルタは,貴族と平民は皆平等に兵士(平等者(ホモイオイ)と呼ばれました)となり,征服地の住民(戦争奴隷)
【本試験H25】
からなる奴隷
(
ヘイロータ
イ
(英語はヘロット))
【追H24非自由民の呼称か問う、H28交易に従事していない】
【本試験H2アテネではない,本試験H10】
【立教文H28記】
の反乱をおさえるために,軍国主義的な支配体制をつくっていきました。彼らは幼い頃から男女別に共同生活・共同食事をともなう訓練が行われ("スパルタ教育"の語源です),市民の団結のために格差が生まれないように貴金属貨幣を禁止し,鎖国政策が取られます。スパルタ
【本試験H2アテネではない】
の国内には,商工業に従事する周辺民
(
ペリオイコ
イ
【追H26奴隷身分ではない】
【本試験H2アテネにおける呼称ではない】
【東京H26[3]】
)が居住していました。 スパルタのあるラコニア地方では穀物の自給が可能であるため,鎖国することも可能だったのです。政治は,軍事指揮権のみをもつ2人の名目な王と,選挙で選ばれた5人の監督官(エフォロイ)と長老会が王を監視する体制がとられ,実質的には貴族政でした。
一方,バルカン半島東南部
の
アテ
ネ(
アテーナ
イ
)
は
イオニア
系
のギリシア人のポリスで,アッティカ半島を拠点とします。人口の3分の1
が
奴
隷
【本試験H13奴隷制は廃止されていない】
で,家内奴隷・農業奴隷や鉱山での採掘労働に使われました。奴隷ではない自由民は,貴族と平民に分かれていて,平民は参政権を持たず,財産にも格差がありました。
アテネ(アテーナイ)の家族は,子供数名と夫婦からなる核家族が普通だったようです。男の結婚年齢は30歳くらい(女は15歳前後)と高く,一夫一婦制が基本で家族の人数は少なかったようです。
◆
ギリシア人による地中海・黒海の植民市建設がさかんになった
貧しいギリシアは交易に活路を見出す
しかし,社会が安定するとしだいに人口が増えて土地不足が問題となり,前750年頃から約2世紀にわたりギリシア人は植民活動を活発化させました。ギリシア人は武装して船舶に乗り込み,地中海からボスフォラス海峡・ダーダネルス海峡を通って北上し,黒海沿岸に至るま
で
植民
市
を建設していきます
(
ギリシア
人
【東京H18[3]
】
の植民活
動
)。植民市は,栽培した穀物
【本試験H6】
を輸出し,各地からオリーブ油
【本試験H6】
やブドウ酒
【本試験H6】
を輸入して栄えます。
ドーリア人のポリスであるメガラの植民者は
,
ビュザンティオ
ン
(ビザンティオン)
【東京H14[3]位置を問う,H18[3]】
を建設しました。のち
に
ビザンティウ
ム
→
コンスタンティノープ
ル
【追H30 6世紀ではない】
→
イスタンブ
ル
と支配者や名称が変わっていきながらも,2500年以上の長きにわたり東西交流の中心として繁栄していくことになる歴史ある都市です。
同じくドーリア人によりバルカン半島南西部のペロポネソス半島とギリシア本土を結ぶ交通の要衝(ようしょう。重要な地点のこと)に,商業都
市
コリン
ト
(コリントス)が建設されました。
イオニア人は小アジア(アナトリア半島)沿岸
の
ミレト
ス
【本試験H6アリストテレスの活動地ではない】
や,黒海沿岸を中心に植民しました。
植民に当たって
は
デルフォイの神
託
に従い植民者の指導者や地域が決められました。母市(メトロポリス)のポリスの団結意識を表す「共通のかまど」から聖火を分け,植民市(アポイキア;娘市)のかまどに移す儀式が行われましたが,母市・娘市は政治的には独立していました。植民市の中には,早かれ遅かれ母市からの独立意識を強める所も現れます。
ほかには,地中海と黒海の間に位置するビザンティオン
【本試験H6】
【東京H14[3]位置を問う】
,シチリア島のシラクサ
【東京H14[3]】
,イタリア半島の南部(タレントゥムなどを拠点とするマグナ=グレキア),フランス南部
の
マッサリ
ア
(現・マルセイユ)
【本試験H6】
【東京H14[3]位置を問う】
などが建設されていきました。
彼らは,当時盛んに地中海交易をおこなっていたフェニキア人の文字に刺激され,ギリシア語のアルファベット(表音文字)がつくられ,商業活動で使われました
(
ギリシア文
字
)。また,前8世紀に,盲目の詩人
〈
ホメロ
ス
〉(生没年不詳)
【共通一次 平1】
が
『
イリア
ス
(イーリアス)』
【共通一次 平1:『神統記』ではない】
【本試験H30】
や
『
オデュッセイ
ア
』などのギリシア語の詩を残し,ギリシア人独自の文化も深まっていきました(ホメロスの実在を疑う説もあります)。
前700年頃には,
〈
ヘシオド
ス
〉
(生没年不詳)
【共通一次 平1:ホメロスではない】
【本試験H7】
【本試験H17ローマのウェルギリウスではない,本試験H31政治を風刺する喜劇作家ではない】
【追H21ヘロドトスとのひっかけ、H29ペルシア戦争について叙述していない(それはヘロドトス)】
が神々の系譜を
『
神統
記
』
【本試験H7神々の系譜が書かれているか問う】
【追H21、H24ホメロスの作品ではない,H25】
に,植民市での農作業の様子などを
『
仕
事
〔労働
〕
と日
々
』
【共通一次 平1】
【本試験H15ラテン語ではない,本試験H17】
に著しています。
ほか,前612年生まれの女性詩人
〈
サッフォ
ー
〉(生没年不詳)は乙女への愛ををうたった抒情詩を多く歌っています。少女に対する愛情をうたったことから,彼女の活動したレスボス島(ミティリニ島)が,近代になるとに女性同性愛者(レズビアン)を意味するようになっていきました。
交易が盛んになり鋳造貨幣も流通し
【本試験H10時期を問う(図「4ドラクマ銀貨」をみて答える)】
,平民の中には農産物を自分で売り,富裕な平民となる者があらわれ,自分で武器を買って戦争に参加する者も現れました。当時,兵士としてポリスを守ることができるものには,政治に参加する権利が与えられましたが,兵士になるための武具は自分で調達する必要があったのです。交易がさかんになると,商工業の発展にともない武具の価格が下がったことも,平民に幸いしました。平民は鎧(よろい)を着て,馬に乗ることができなくても
,
青銅
器
でできた兜(かぶと),胸当て,よろい,すね当て,それに盾と
,
鉄
器
の槍を持っ
て
密集隊
形
(ファランクス)を組めば,馬を凌駕(りょうが)するほどの立派な戦力となります。
このような部隊
を
重装歩
兵
【本試験H2】
部隊(ホプリタイ)といい,商工業に従事し国防を担(にな)う富裕な平民が貴族と対立し
【本試験H10】
富裕な平民が参政権を主張するきっかけとなっていきます
【本試験H2貴族の権力が強化されていったわけではない】
。
◆
ギリシア人による自然哲学が盛んになった
万物の根源を問う論証が積み上げられた
さて,前7世紀頃の社会の変動期に現れた,新しい考え方が
「
イオニア自然哲
学
」
【追H25スコラ学ではない】
です。イオニア地方
【本試験H10〈タレース〉はシチリアのシラクサ出身ではない】
というのは,現在のトルコがあるアナトリア半島(小アジアとも呼ばれる地方)の,エーゲ海に面している地方のことで,このころ盛んに各地で交易をしていたギリシア人の拠点であり,合理的に物事を考える習慣がついていたのでしょう。また,ギリシアはオリエントの文明と違い,強大な権力を持つ宗教指導者や王がいません。ですから,自由に物事を考える気風や,説得力ある弁舌や論理的な説明が重んじられる傾向がありました。例えば,
〈
タレ
ス
〉
(タレース,前624?~前546?)
【追H9ソクラテスではない、H25】
【セ試行 イオニアの自然哲学者か問う】【本試験H10】
【本試験H13】
【追H20】
は,万物の根源(アルケー)
【追H9ソクラテスと無関係、H25】
【本試験H17ストア派ではない】
を
水
【本試験H29】
【追H25】
と考え,この世界の成り立ちを合理的にとらえようとした自然哲学者
【本試験H13】
の一人で,
"
哲学の
父
"と呼ばれます。西洋哲学の流れの中では「ソクラテス以前の思想家」として分類されることが多いです
。
哲
学
とは,答えのない(カンタンには出ない)問いを,自分の頭をつかって徹底的に考えることです。のちに成立す
る
ヨーロッパ世
界
や,のちにイスラーム教が広まる世界
(
イスラーム世
界
)では,彼以降現れたギリシアの思想家の影響を強く受けることになります。
◆
アテネでは都市国家の政治参加者数が拡大され,法・政治制度が確立されていった
交易の発展を背景に,部族制が崩れる
交易が発展して財力を得る平民も現れると,自ら武器を装備し,ポリスのために重装歩兵として戦うことで貢献するようになった平民の中から,政治に参加する権利を要求する声もあがります
【本試験H6交易の発展の結果,もっぱら貴族の手中に富が集まり,諸ポリスに貴族制が確立したわけではない】
。
前7世紀に
〈
ドラコ
ン
〉
【本試験H25スパルタではない】
が,貴族の独占してい
た
慣習法を成文
化
し,平民にもルールがハッキリと示されるようになりました。内容は主に刑法で,刑罰にはかなり残酷で厳しいものもありました。
前6世紀初めには
〈
ソロ
ン
〉
(前640頃~前560)
【本試験H18時期】
【早・政経H31アテネ最古の成文法を制定していない】
が,参政権をめぐる争いを財産によって参政権を定める,いわゆ
る
財産政
治
(ティモクラティア)
【H30共通テスト試行 アテネが「最高度の輝きを放った」時期において禁止されたか問う】
によって解決しようとしました。こうして富裕な平民には参政権が与えられました。役人は上位3ランクからのみ選ばれるという内容です。
また,アテネ(アテーナイ)の発展とともに問題となっていたのは
,
債務奴
隷
【H30共通テスト試行 アテネが「最高度の輝きを放った」時期(民主制の完成期と類推する)において禁止されたか問う】
です。このころの農民は,生産物の1/6を富裕な者におさめなければならず,支払えなければ"カタ"として債務奴隷
(
ヘクテモロ
イ
)にされてしまうことが問題になっていました。〈ソロン〉はこれを禁止し,貧しい平民が増えて社会の秩序が乱れることを防ぎます。ちなみに〈ソロン〉は,〈ドラコン〉の法のうち,殺人に関するもの以外を廃止しています。
しかし,こうした貧しい平民の支持を集め,クーデタ(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること)によって政権を奪う政治家が現れます。その背景には民衆を巻き込んだ貴族間の激しい抗争がありました
(注)
。
混乱をおさめるため
、
僭
主
(せんしゅ)
【本試験H18】
【H30共通テスト試行 ポリュビオスがローマの国制のうち「元老院」について、「僭主」的であるとは表現していない(「貴族的」が正しい)】
による一人支配が求められたのです。
前6世紀中頃に
〈
ペイシストラト
ス
〉
(?~前527)
【本試験H18】
が,隣国のメガラとの戦争で活躍し,中小農民の支持を受け,前561年以降断続的に独裁をおこなったのが有名です。独裁とはいえ,〈ペイシストラトス〉のように,人々の意見をちゃんと反映していたとプラスの評価がされる者もおり,僭主が一概に「暴君(タイラント。僭主を意味するギリシア語「テュランノス」が語源です)」というわけではありませんでした。
神殿建築を造営したり,お祭り(パンアテナイア祭やディオニュシア祭
【本試験H31リード文(アテネ南麓の劇場は酒神ディオニュソスを祀る国家的祝祭の舞台だった)】
など)を積極的に運営したりして,アテネ(アテーナイ)市民の団結感を高めました。なお,この時期(前8世紀~前6世紀)につくられた像は,目は笑ってないのに口だけ微笑んでいる「アルカイック=スマイルという特徴を持り
,
アルカイック
期
と呼ばれます。
また,彼
は
中小農民を保
護
し
て
自作
農
を育成したため,彼らがのちの民主政の支持基盤となっていくことになりました。
前508年には,
〈
クレイステネ
ス
〉(生没年不詳)
【東京H28[3]】
【本試験H15】
【追H21】
は僭主が現れないようにするため
,
陶片追
放
(オストラキスモス)
【東京H8[3]】
【本試験H9[17]】
【本試験H15】
【追H21, H30スパルタではない】
の制度をつくります。当時はまだ紙がありませんでしたから(紙が実用化されるのは後漢時代の中国),記録するのに陶器のかけら(陶片(オストラコン)
【追H28】
【本試験H15】
)
【本試験H21図版。甲骨文字,インダス文字ではない】
を削ったわけです。人気が加熱しすぎた政治家を,「僭主になるおそれがある者」
【追H28】
としてアテネ(アテーナイ)から追放できるようにしたものです
【本試験H9[17]評議員・執政官や将軍を選出したわけではない】
。「僭主になる恐れのある人物
【本試験H9[17]党派ではない】
」が投票され,6000票以上の得票者のうちの最多得票者が追放されたものとみられます。
彼はまた,従来の伝統的な4部族制(血縁に基づく)が社会の実態に合っていないと考え,血縁を考慮しない地理的な区割り
(
デーモ
ス
【立教文H28記】
)を考え,それを組み合わせて人工的に10部族をつくりました。こうすることで,人々が自分の部族のことばかりを考えるのではなく,ポリス全体のことを考えることをねらったのです。ちなみにこのデーモスは,デモクラシー(democracy,民主政)という英語の語源となりました。デーモスからは,人口比例で選ばれ
る
五百人評議
会
を作りました。
(注)神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.17。
ユーラシア大陸では,中央ユーラシアの遊牧民の影響を受け,定住農牧民との交流が発展。乾燥草原の遊牧民も,乾燥地帯の大河流域の定住民も,国家の支配地域を拡大させる。
南北アメリカ大陸では,中央アメリカと南アメリカのアンデスに神殿をともなう都市群が栄える。
時代のまとめ
(1
)
ユーラシア
騎馬遊牧民の活動が,ユーラシア大陸各地の定住民エリアに影響を与える。
東アジアでは,周王朝に服属する
南アジアではガンジス川流域に,〈アジャータシャトル〉(位494~462?)
の
マガダ
国
などの諸国が経済開発を進める。
西アジアではペルシア人
の
アケメネス
朝
〔ハカーマニシュ朝〕が,広域を統一する。最盛期の〈ダレイオス1世〉(位前522~前486)は,北方の遊牧民スキタイに敗北している。
ヨーロッパでは,地中海沿岸
に
カルタ
ゴ
(前9世紀後半~前146)
や
ギリシア
人
の諸都市が交易活動で栄える。
社会の変動に合わせ,東アジア
に
諸子百
家
,南アジアに
〈
マハーヴィー
ラ
〉(前6世紀頃~前5世紀後半)や
〈
ガウタ
マ=
シッダール
タ
〉(前6世紀頃?),西アジアに
〈
ゾロアスタ
ー
〉(前10世紀説もある),ギリシアに
〈
ピュタゴラ
ス
〉(前582~前496)など,様々な新思想が生まれます。
(2
)
アフリカ
アフリカのナイル川流域にはエジプ
ト
新王
国
(前1558?~前1154?)が栄える。
アフリカ大陸ではサハラ砂漠で遊牧民が活動している。
西アフリカでヤムイモの農耕が導入されているほかは,狩猟・採集・漁撈が生業の基本となっている。
バンツー
系
の人々は中央アフリカ,東アフリカ方面に移動を始めている。
(3
)
南北アメリカ
中央アメリカ
の
オルメカ文
化
の諸都市が放棄され,代わってメキシコ高原南部
の
サポテカ文
化
が成長する。
南アメリカのアンデス地方中央部では高地
の
チャビン文
化
のほかに,沿岸部の定住集落も盛んになる。
(4
)
オセアニア
ラピタ人の移動は,サモア周辺で一旦止まっている。
○
前
60
0
年~
前
40
0
年のアジア 西アジア
西アジア
...現①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
・前600年~前400年のアジア 西アジア 現①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
◆アケメネス朝がエジプトからインダス川流域に至る広大な領域を支配する
分立時代を終結させたペルシア人の帝国が拡大
アッシリア帝国が滅んだ後,オリエント
は
四国分立時
代
になります。
その後,オリエントを再統一することになるのは
,
イラン高
原
南西部
の
パール
ス
(現在のペルシア語ではファールスと発音します)地方の人々でした。パールスというのは「馬に乗る者」という意味があるように,名馬の産地として知られていました。
現在のイラン中央部に位置す
る
イラン高
原
は年降水量が200mm程度の乾燥帯に分類され,夏場は高温になるために,農業のために灌漑施設が必須です。地表に水が湧き出ても蒸発してしまうため,地下を流れる水を組み上げる井戸(カナート(ガナート)やカーレーズ)の整備をめぐって,人々をまとめる権力者が登場します。また,南部には険し
い
ザグロス山
脈
という山脈が,メソポタミア方面からペルシア湾と並行に,イランの南の縁を横切るようにのびています。
それに比べ,イラン高原の北部のほうにある,世界最大
の
カスピ
海
の南岸地方は
,
エルブールズ山
脈
によって,イラン高原と区切られています。カスピ海から吹く風が山脈にぶつかって雨が降るため,農業もさかんです。
パールス地方においてすぐれた騎馬戦法を発展させ
た
アケメネス
家
〔ハカーマニシュ〕が強大化し
,
アケメネス
朝
【京都H22[2]】
【本試験H17ハンムラビ王は無関係】
〔ハカーマニシュ朝〕を建国しました
(注)
。
建国者は
〈
キュロス2
世
〉(位前559~前530)
【追H21出エジプトの指導者ではない】
で
,
メディ
ア
王国
と
リディ
ア
王国を征服し,さらに前539年にはバビロンに入城。さらに前538年には"バビロン捕囚"をうけていたユダヤ人を解放しました。〈キュロス2世〉は,北方のスキタイ人(ペルシア語の史料では「サカ人」)も討伐しています。
王位を継承したのは長男
〈
カンビュセス2
世
〉(?~前522)で,前525年にエジプトを征服し,第26王朝を滅ぼして,なんと自身がファラオに即位しています。しかし,彼はペルシアに帰る途中,病死あるいは暗殺されました。
これをチャンスとみた,アケメネス家の〈ダレイオス〉は,ペルシアの有力貴族に支持されて,王の弟を暗殺し,キュロスの家系から王位を奪います。
こうして王位についた第3代
〈
ダレイオス1
世
〉(ダーラヤワウ1世
(注2)
,位522~前486)
【本試験H6】
【本試験H27アルシャク(アルサケス)朝パルティアの王ではない】
【追H30】
は,黒海沿岸から北インド(インダス川上流部)にかけて遠征し,エーゲ海の東部やエジプトを含む広大な領土を支配することに成功します。
アム川上流部のバクトリアや,その西のマルギアナも支配下に置いています。
彼により建設されたザグロス山脈(イラン高原南部をペルシア湾と並行に走る山脈)の中央の新
都
ペルセポリ
ス
【本試験H17ギリシアではない,本試験H27コロッセウムはない】
にあるレリーフ(浮き彫り)には,インド人が牛を連れている姿や,バクトリア人がフタコブラクダを連れている様子も刻まれています。楔形文字を使用した碑文も各地に残っています
。
スー
サ
王宮建設碑文(ペルシア語・エラム語・アッカド語)や,即位宣言が,ゾロアスター教の善神アフラ=マズダから王位を与えられるレリーフとともに刻まれているビーストゥーン
(
ベヒストゥー
ン
)
碑
文
が知られています
【本試験H15楔形文字は碑文にも刻まれた例があるかを問う】
。
広大な領土から,効率よく情報や税金を集めるために,公用語とし
て
アラム
語
・
アラム文
字
が使用されました。また,アラム語の影響を受けてソグド文字が,イラン系のソグド語の表記に用いられるようにもなりました
【本試験H6ダレイオス1世は,シルク=ロードを通して東西交易に力を注ぎ,中国へ使節を送ったわけではない】
。
広大な領土を支配するために,帝国を行政区に分割して,土地の広さや実態に応じて,金または銀を納めさせました。従来は,各地の民族が王に対して献上品(贈り物)を不定期
に
貢
納
するのが普通でしたが,これを定期的な物の徴収に改め,しかも各地区ごとに額を設定したことは革新的でした。広大な領域
を
州に区
画
し,納税額を設定し
て
徴
税
する方法は,今後周辺の世界にも受け継がれていきました。
ペルシア人の王族・貴族
は
サトラッ
プ
(サトラプ,太守)
【追H24非自由民の呼称ではない、H30】
に選ばれ,各行政区を軍事的に間接支配させました。行政区は21の行政区(サトラピー)に分割されていました
(注3)
。
サトラップは徴税の責任者であり、銀あるいは金で定められた超税額を国庫に納入させました。
ただ不正をはたらく心配もあるため,
「
王の
目
」
「
王の
耳
」という監察官が不正防止のために派遣されます。こうした統治方法は,のち
の
ローマ帝
国
にも受け継がれていきました。
よくよく考えると、これって畜産管理の方式を人間に転用したともいえるでしょう。多数の人を効率よく管理するにはどうすればいいか、過去の方式を継承しつつさらにパワーアップさせていったわけです
(注4)
。
さて
〈
ダレイオス1
世
〉は,税をおさめ,兵を出すなどの言うことを聞いている限り,基本的には征服地
に
ペルシア
語
【本試験H5インド=ヨーロッパ語族か問う】
・ゾロアスター教やペルシア人の法を押し付けることはありませんでしたし,征服地の支配者も,サトラップの言うことを聞いている限りは,その身分は保障されました。"アケメネス朝は支配地域に対し
て
寛
容
だった"と,よく説明されますが,ようするにそのほうが,支配にかかるコストがかからないわけです。
ただ,これだけ広い地域を支配するには,「情報」や「物資」の伝達が不可欠です。例えば,地方で反乱が起きたときには,その情報をいちはやくつかみ,兵や食糧を迅速に輸送する必要があります。
そこで,首都スーサ
【東京H20[3]】
から小アジアのサルディスまで
「
王の
道
」
【本試験H4地図(王の道のルートと,道を整備した国の名称(アケメネス朝ペルシア)を答える),本試験H6シルク=ロードではない】
が整備されました。ギリシアの歴史家
〈
ヘロドト
ス
〉(前484?~前425?) は,全行程約2400kmで,所要日数は90日だったと伝えていますが,通常は3ヶ月かかったと考えられています。馬や使者が各地に用意され、リレー方式でスサ~サルディス間を約1週間で走破できたようです
【本試験H4『歴史』の史料が転用される。「「王の道」と呼ばれるその街道には,王の宿駅や立派な旅宿が随所にある。リディアとフリギアの区間は94パラサンゲス半(注*約520km)の距離だが,宿駅は20にのぼる。その先ハリス川の地点には関所と,それを守る衛所とがある。宿駅の総数は111。サルデスから都スサまでの間にこれだけの数の宿泊所があったことになる。」】
(注5)
。
アケメネス朝では,前1000年頃に創始され
た
ゾロアスター
教
が信仰されていました。〈ダレイオス1世〉は
,
ペルセポリ
ス
という都を建設しましたが,新年祭の儀式をとり行う場であったと考えられています。〈アレクサンドロス大王〉(位 前336~前323)に破壊され,現在は廃墟となっています。
(注1) ハカーマニシュはペルシア語、アカイメネスはギリシア語。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.17。
(注2) 上掲書、p.17。ダレイオスはギリシア語、ダーラヤワウはペルシア語。
(注3) ギリシアの歴史家〈ヘロドトス〉によればアカイメネス家発祥のペルシスには免税特権地区でありましたが、必ずしもペルシスが課税対象外であったわけでないから、21行政区と考えるのが妥当です。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.18。
(注4) 神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.18。
(注5)川瀬豊子によれば、全長2400kmで、20~30km間隔に111の宿泊施設が設けられていたとのこと。エラム語粘土板文書群(城砦文書)によると各駅では1日分の食糧が支給されたことから、111日かかったとみるのが妥当で、スサ~ペルセポリス間だけでなく、ペルセポリス~メディア、またはアレイア・バクトリア・インド方面にまでも同じような宿駅があり、一部の路面は切石・砂利・砕石により敷き詰められていたことが示唆されるとしています。「リレー方式でスサ~サルディス間を約1週間で走破できた」というのも川瀬による推定。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.18。
○前
60
0
年~
前
40
0
年のアフリカ 東アフリカ
東アフリカで
は
コイサン
人
が狩猟採集生活を送っています。
○前
60
0
年~
前
40
0
年のアフリカ 南アフリカ
南アフリカで
は
コイサン
人
が狩猟採集生活を送っています。
○前
60
0
年~
前
40
0
年のアフリカ 西アフリカ
◆
西アフリカで鉄器の製造が始まる
この時代にも,現在のカメルーン周辺を現住地とす
る
バントゥー
系
の住民の中央アフリカ方面への大移動が続いています。
ニジェール川下流域の現在のナイジェリア北部では,前500年頃~前200年頃
に
鉄
器
が製作された後が残されています。前500年以前にも鉄器利用の証拠があり,メロエ遺跡よりも年代が古いほか,製法も異なるため,西アフリカで鉄器文化が独自に発展したのではないかという説も提唱されています。
○前
60
0
年~
前
40
0
年のアフリカ 中央アフリカ
中央アフリカの熱帯雨林地帯では,ピグミー系の人々が狩猟採集生活を送っています。
○前
60
0
年~
前
40
0
年の北アフリカ
◆
サイス
朝(前
66
4
~
前
525)
...第
2
6
王朝
エジプトでは,ナイル川河口のサイスを拠点に第26王朝(前664~前525)が,ギリシアとの交易で栄えていました。
◆
末期王
朝(前
52
5
~
前
332)
...第
2
7
王朝~
第
3
1
王朝
しかし,前525年にイラン高原でおこっ
た
アケメネス
朝
の〈カンビュセス2世〉(位前530~前522)がエジプトに進出し,支配下に置かれました。エジプトには総督であるサトラップが派遣され,アケメネス朝の属州(サトラペイア)となりました。このペルシア支配下の王朝を第27王朝(前525~前404)といいます。
これ以降,第31王朝まで短命な政権が続き,最終的に〈アレクサンドロス大王〉による征服で滅びるまでの期間を
「
末期王朝時
代
」といいます。
○前
60
0
年~
前
40
0
年のヨーロッパ 中央・東・西・北ヨーロッパとイベリア半島
東ヨーロッ
パ
...現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッ
パ
...現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
イベリア半
島
...現在の①スペイン,②ポルトガル
西ヨーロッ
パ
...現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
北ヨーロッ
パ
...現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン
◆
ケルト人の鉄器文化が発達した
しかし,前8世紀頃からヨーロッパにも鉄器が伝わってお
り
ケルト
人
による文化は前450年頃から従来のハルシュタット文化か
ら
ラ=
テーヌ文
化
へと移行していきました。彼らは,イギリスや地中海沿岸とも交易を行っていたことがわかっており,鉄製武器を備えた支配階級の戦士が各地に遠征しました。
北ヨーロッ
パ
にも鉄器が伝わるのはやや遅く,前500年頃のことです。
イベリア半
島
には,ケルト人が先住のイベリア人と混血したケルティベリア人が分布していましたが,前7世紀にはバルカン半島南部
の
ギリシア
人
が移住するようになり,前6世紀にはイベリア半島東北部に植民市エンポリオンが建設され,イベリア半島内陸部との交易も行っていました。
一方,アッシリア帝国の崩壊後に勢力を伸ばしたフェニキア人の植民
市
カルタ
ゴ
(現在のチュニジアにあります)も地中海沿岸各地に植民市を建設。前540年にはイベリア半島とアフリカ大陸を分か
つ
ジブラルタル海
峡
を占領し,エンポリオンを除くギリシア人をイベリア半島から駆逐しました。イベリア半島の住民はカルタゴにより傭兵として採用され,鉱山の開発も進められました。
・
前
60
0
~
前
40
0
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ 現①イタリア半島
◆
イタリア半島ではギリシア人やフェニキア人が海上交易で栄える
イタリア半島北部に
は
エトルリア
人
が,南部で
は
ギリシア
人
の植民地(マグナ=グラエキア(大ギリシア))が分布していました。シチリア島にも,シラクサ(シュラクサイ)というギリシア人の植民市があり,アテネ(アテーナイ)の進出に対しペロポネソス戦争(前431~前404)ではスパルタ側について戦っています。シラクサでは前405年に僭主〈ディオニュシオス1世〉(前405~前367)が即位し,僭主政治を行い交易で栄え,カルタゴと対立しました。
〈ディオニュシオス1世〉は〈太宰治〉『走れメロス』に登場する暴君のモデルとなった人物です
。
イタリア半島中部
の
ラテン
人
の都市国
家
ロー
マ
は,初めエトルリア人の王に支配されていましたが,前509年に追放
し
共和
政
が始まりました。当初は政治は貴族
(
ノビレ
ス
)が独占していましたが,平民
(
プレブ
ス
)
が
重装歩兵部
隊
【早・政経H31「三段櫂船の漕ぎ手」とのひっかけ】
の主力として活躍するようになると
,
護民
官
(トリブーヌス=プレービス)
と
平民
会
の設置を要求しました。前494年と前449年の聖山事件(せいざんじけん)という平民の反乱により護民官・平民会ともに設置されました。護民官は神聖な役職とされ,「ウェトー(Vetō,私は拒否する)」と言うことで,人々のために元老院がくだした決定をくつがえすことができました。ただし独裁官(ディクタートル)の決定は例外です。さらに,前450年頃には
,
十二表
法
【本試験H17時期(前5世紀かを問う)】
【本試験H8慣習法を成文化したローマ最古の法か問う】
【早・法H31】
が公開されて,貴族が口伝えで受け継いできた法の独占が破られていきました。
○前
60
0
年~
前
40
0
年のヨーロッパ バルカン半島
バルカン半
島
...現在の①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア
◆
バルカン半島の諸民族は西方からのケルト人,黒海北岸からスキタイ人などの遊牧民と対抗した
バルカン半島東部のトラキア人
バルカン半島の東部では,前6世紀初め頃から
,
トラキア
人
が国家を形成します。代表的なのはオドリュサイ王国で,前5世紀諸島に国家の基礎を確立し専制君主制をとって黒海北岸
の
スキタイ
人
とも外交関係を結んでいました。
バルカン半島西部のイリュリア人
バルカン半島西部のイリュリア人は,進出したケルト人に服属しました。ケルト人はバルカン半島を横断して黒海北岸まで到達しています。
バルカン半島北部のダキア人,ゲタイ人
バルカン半島北部にも黒海北岸のスキタイ人の圧力が強まり,ドナウ川中流域の左岸(北部)に
は
ダキア
人
や
ゲタイ
人
が対抗しました。活動範囲は,現在のブルガリア北部とルーマニアにかけての地域にあたり,ギリシアの〈ヘロドトス〉や〈ストラボン〉によれば,バルカン半島東部のトラキア人のうちの北方のグループが東西に分かれて生まれたとされます。ギリシアの〈トゥキディデス〉(前460?~前395?)
の歴史書によると,ゲタイ人はスキタイ人と同じく騎馬射手の軍隊を持っていました[芝1998:36]。アケメネス朝ペルシアの〈ダレイオス1世〉
(⇒前600~前400の西アジア)
は,前573年にスキタイ遠征を実施した際にゲタイを攻撃しました。その後〈アレクサンドロス〉大王の攻撃も受けました。
◆
アケメネス朝は,保護下にあったフェニキア人とともにギリシア人の植民市を奪おうとし失敗した
〈
ダレイオス1
世
〉(ダーラヤワウ1世,前522~前486)率いるペルシア人
の
アケメネス
朝(
古代ペルシア語ではハカーマニシュ,当時のギリシア語ではアカイメネ
ス
)
は,保護下に置いてい
た
フェニキア
人
の商業圏を広げるため,エーゲ海への進出をめざして小アジアを東に進出してきました。アケメネス朝はフェニキア人の海軍力を利用し,地中海交易を支配下に入れようとしたのです。
ミレトス
【追H28アケメネス朝の都ではない】
【東京H14[3]】
を中心とするイオニア植民市はペルシア人の進出に対して反乱を起こし,それを救援するためにアテネ(アテーナイ)とエレトリアが立ち上がり,
(
ギリシ
ア
=
)
ペルシア戦
争
(前500~前449)
【大阪H31】
が勃発しました。
この戦争の詳細については,
〈
ヘロドト
ス
〉(前484?~前425?)
【追H29ヘシオドスではない】
が
『
歴
史
(ヒストリアイ)』に記録していることからわかっています。『歴史』には同時代のギリシア以外の広い地域の様子についても記されていて,東は遊牧騎馬民族
の
スキタイ
人
についてまで説明されています。
前492年の〈ダレイオス1世〉による第一回ギリシア遠征は失敗。同じく〈ダレイオス1世〉による第二回遠征は前490年
の
マラトンの戦
い
【本試験H17カイロネイアの戦いとのひっかけ】
でアテネ(アテーナイ)
【本試験H29スパルタではない】
の
重装歩
兵
軍が,スパルタ軍の到着する前にペルシアを破りました。
勝利に酔っていたアテネ(アテーナイ)市民をよそに,「やがてペルシアはもう一度やってくる。今度は海戦になるはずだ」と予測した
〈
テミストクレ
ス
〉(前528?前527?~前462?前460?)
【本試験H31】
が,海軍の増強を主張。その財源
は
ラウレイオン銀
山
で採掘された銀を使うと,堂々たる演説を行うと,前483年の民会で決議され,200隻の軍艦建造が決まりました。
〈テミストクレス〉の予言通り,ペルシア軍はまた襲来。
北方ではスパルタが陸路で攻めてきた
〈
クセルクセス1
世
〉(位前485~前465)率いるペルシア軍に
,
テルモピュラ
イ
(テルモピレー)で敗北。この戦闘に加わっていたのは,約1000人のギリシア軍(うち300人が〈レオニダス〉将軍率い
る
スパル
タ
軍)でした(映画「300(スリーハンドレッド)」(2006) 山と海に挟まれた狭い街道に誘い込む作戦が失敗した様子が描かれていますが,ペルシア人側が野蛮な姿に描かれていることに,イラン政府は抗議しています。ペルシア戦争は近世以降のヨーロッパにおいて,"文明的なヨーロッパ側のギリシアの民主政が,野蛮なアジアのペルシア皇帝に勝ったのだ"というストーリーとして理解されてきた経緯があります
【大阪H31オリエントを蔑視するは発想のきっかけとなった戦争の名称を答えさせた(答えは「ペルシア戦争」)】
」)。
この第三回遠征では,前480年
の
サラミスの海
戦
【本試験H17カイロネイアの戦いとのひっかけ,H31アクティウムの海戦ではない】
【追H30ギリシア軍は敗北していない】
でペルシア軍を破りました。ちなみに,第二回までは〈ダレイオス1世〉が指導していましたが,第三回は〈クセルクセス1世〉によるものです。
当時のギリシア人には
,
デルフォ
イ
にあ
る
アポロ
ン
【本試験H7主神ではない
】
の神
殿
で神託をうかがい,重要事項を決めるしきたりがありました。
〈テミストクレス〉がデルフォイで占った結果,神が出したお告げは「木の柵を頼れ」でした。彼はこれを,建造した艦隊のことだと判断し,巧みな戦略で2倍の艦隊数を誇るペルシア海軍をサラミス海峡に誘い込み,壊滅的打撃を与えることに成功したのです。
ギリシア人はポリスの違いに関係なく
,
オリンポ
ス
1
2神
【本試験H25】
【追H20一神教ではない】
への信仰が盛んでした。主
神
ゼウ
ス
【本試験H7アポロンではない】
をはじめ,オリエントの神々とは違い,人間の姿をしていて
【本試験H25】
人間臭いところがあるのが特徴です。いくつかのポリスが隣保同盟を組んで,神々を一緒にまつることもありましたが
,
デルフォ
イ
【H29共通テスト試行】
と
オリンピ
ア
だけは,すべてのギリシア人にとっての聖地でした
【H29共通テスト試行 アメン=ラー神信仰ではない,バラモンは無関係】
。
オリンピ
ア
【本試験H27アテネ(アテーナイ)ではない】
では定期的にポリス対抗の競技大会が開かれ
(
古代オリンピッ
ク
)
【本試験H27,H29共通テスト試行 コロッセウムでは開催されていない】
,〈ピンダロス〉(前518~前438)が祝勝歌をつくっています。別々のポリスであっても同じギリシア人
(
ヘレネ
ス
)意識を持っていた彼らは,ギリシア語を話さない異民族
を
バルバロ
イ
(よくわからない言葉を話す者)
【本試験H10「手工業に従事する人々」ではない】
と呼び,自分たちよりも遅れた存在と見なしていました。
◆
エーゲ海沿岸では,「この世界」や「物体」「自分自身」が
"
あ
る
"
ということは一体どういうことか,考える人々が現れた
なお,小アジア西岸のイオニア地方で
は
自然哲学
者
の研究がさかんとなり,万物の根源(アルケー)を追究する人々が現れました。万物の根源は「水」とした
〈
タレ
ス
〉の弟子で万物の根源を「無限なもの」とした〈アナクシマンドロス〉(前610?~前546?),その弟子で「空気」とした〈アナクシメネス〉(前585?~前528?)がいます。また,〈アナクサゴラス〉(前500?~前428?)は太陽を「燃える石」と説いて不敬罪で告訴されました。
万物が
,
たったひとつの要
素
から構成されているのか
(
一元
論
),それと
も
複数の要
素
から構成されているのかということは
(
多元
論
),長い間議論の的でした。〈ピュタゴラス〉
(
ピタゴラ
ス
,前570?~前495?)
【本試験H10】
【法政法H28記】
はエーゲ海のサモス島
【本試験H10シチリア島のシラクサ出身ではない】
出身でしたが,南イタリアに逃れて万物の根源とされた「数」を崇める教団(ピュタゴラス学派(教団))を形成しました。ピタゴラス音階(ドレミ...の音階)を理論的に生み出したのも、彼らの功績です。
また,万物が永遠不変の変わらないものがあるとする説と,そうではなくあらゆるものは移り変わっていくとみる説も対立していました。後者は,
〈
ヘラクレイト
ス
〉(生没年不詳)
【追H26】
が有名です。彼は,万物の根源は
「
火
」
【追H26原子ではない】
で「世界は常に移り変わりながらも調和を維持している」と説明しました。
一方,〈エンペドクレス〉(前495?~前435?)は万物は「火・空気・水・土」の4元素から成り立ち,それがくっついたり離れたりすることで,さまざまな物質が生まれるのだと考えました。それに対して,
〈
デモクリト
ス
〉
(前460?~前370?)
【本試験H2天文学者プトレマイオスではない,本試験H10シチリア島(シラクサ)出身の自然科学者ではない】
は,4元素説を否定し,万物の根源は
「
原
子
」(アトム)
【追H26これを説いたのはヘラクレイトスではない】
によって成り立っていると考えました。
◆
ペルシア戦
争(前
49
9
~
前
449
)
後も,ペルシアはスパルタと結んでアテ
ネ(
アテーナ
イ)
と対立した
ポリスに対するアテネの支配が強ま
る(
アテネ帝
国
)
ペルシア戦争後も,ペルシアはポリス間の政治に介入して,軍資金を提供することでコントロール下に置こうとしました。
そこでアテネ(アテーナイ)
【本試験H31スパルタではない】
は自らを中心にして周りのポリスを従え,交易ネットワークも支配下に置いて
(注
)
,ペルシアに対する共同防衛のた
め
デロス同
盟
【本試験H31】
を結成しました。
同盟国から集められた資金をしまう金庫はエーゲ海の入り口にあたるデロス島に置かれましたが,のちにアテネ(アテーナイ)はこの資金を流用していきます。例えば,前447年から「黄金比」の比率で有名な
,
ドーリア
式
(装飾のな
い
列
柱
を持つ様式)
【東京H24[3]】
の
パルテノン神
殿
【セA H30アテネで作られたか問う】
【名古屋H31論述(世界遺産の登録基準をどのような意味で満たしているか)】
が建設され,建築監督を務めた彫刻家〈フェイディアス〉(前465?~前425?)は,象牙と黄金で作られたアテナ女神像を,かつてはパルテノン神殿の横にあ
る
イオニア
式
(柱の上部に水の渦巻きを著し
た
列
柱
を持つ様式)
の
エレクテイオン神
殿
に安置しました。
また,ペルシアとの海戦で,武具の買えない貧しい平民(
無産市民
)らは
,
三段櫂
船
(さんだんかいせん。3段に座席のある漕ぎ手がオールを動かし,最大時速20kmで敵船に突っ込み,沈没させることができました
【本試験H6図版(ジャンク船,カラベル船,蒸気船と見分ける)】
【本試験H22ジャンク船・ダウ船・亀甲船ではない,本試験H29】
【H30共通テスト試行 アテネが「最高度の輝きを放った」時期のアテネで、「下層市民」が漕ぎ手として活躍したか問う】
【早・政経H31重装歩兵部隊ではない】
)の漕ぎ手として活躍しました。このことから,戦後には彼らも含めたすべての成年男性市民
が
民
会
に参加することができ
【本試験H29】
,多数決で直接ポリスの政治に参加することが認められました
(
直接民主
政
)。役人はくじ引きで決められ,裁判はくじ引きで選ばれた陪審員(手当が支給されました)が民衆裁判所で判決をくだしました。
ただし,女性や奴隷,アテネ(アテーナイ)国内の外国人には参政権はありませんでした。また,将軍
〈
ペリクレ
ス
〉
【追H21】
と協力してクーデタをおこし,貴族から政権を奪った民主派の政治家〈エフィアルテス〉(?~前461)により,前462年には貴族の合議機関として残されてい
た
アレオパゴス会
議
から政治の実権のほとんどを奪っています。実質上の最高職となっ
た
将軍
職
(ストラテゴス)は,くじ引きではな
く
民
会
における選挙で選出されました。
任期1年,10人が選出され,再任は可能です
【本試験H12「ペリクレス時代のアテネでは神官団の政治的権限が民会以上に強かった」わけではない】
。こうしてアテネの成年男子による
民主政は「完成」しました(つまり、
女性
や奴隷に参政権はありませんでした)
【追H21】
【大阪H31 論述(参政権の範囲の変遷について西欧近現代と比較する)】
。
(注)「交易ネットワークを支配下に置く」とは,どういうことか,下記の史料(抜粋)を参照。
「取るに足らないことから言うとすれば,まず第一にアテナイ人は海上支配のおかげで様々な人々と交わり,各種の贅沢を見出した。......かりにあるポリスに船舶用木材が豊富にあるとしても,海の支配者の同意なしにそれをどこへ持ち込むことができるであろうか。またもしあるポリスが,鉄や銅や亜麻を豊富に産するとしても
,
海の支配
者
の同意なくしては一体どこへ売り込むことができようか。しかし,これらの品々はまさしく船には必須の品々である。あるところからは亜麻を,そしてまたあるところからは蜜蝋を,という風に集めねばならない。そのうえ
,
敵国への輸出は禁じてある。これを破れば海を利用させない
。
...[Pseudo Xenophon, Athenaion Politeia 2, 7~12]」。この中の「海の支配者」とはアテネ(アテナイ)のことです。
古山正人ほか編訳『西洋古代史料集』東京大学出版会,1987年,pp.61-62
バルカン半島南西部のペロポネソス半島(ラコニア地方)
の
スパル
タ
【本試験H2
7
アテ
ネ
ではない】
では,このような制度をつくったのは伝説上の王
〈
リュクルゴ
ス
〉(前390?~前324)
【本試験H27】
【中央文H27記】
と伝えられ,前6世紀中頃までに成立したとみられます
(注1)
。
王がいましたが,民会で話し合う前に元老院(ゲロンテス)長老と一緒に起案された事項を先に協議する必要がありました。元老院は28人の長老と2人の王で構成され、おもに司法を担当します。一方、監督官(エポロイ)という役職が王を処罰、拘禁することもできました。
王は軍隊の指揮をとる将軍ではあるものの、その権限を行使するには実質的に長老や貴族の了解が必要であったということなのです
(注2)
。
こうしてスパルタは,圧倒的多数を占める奴隷の反乱をおさえつつ,ギリシア最強の陸軍国となったわけです。しかしペルシア戦争では戦闘に破れ,戦後アテネ(アテーナイ)
が
デロス同
盟
【本試験H19ペロポネソス同盟とのひっかけ】
で勢力を伸ばしたのに対抗して,スパルタを盟主とす
る
ペロポネソス同
盟
【本試験H19デロス同盟,コリントス同盟,四国同盟ではない】
を結成しました。
ペルシア戦争当時,そもそもギリシアの全ポリスが団結してペルシアに立ち向かったわけではありません。"自由"なギリシアの正義が,"専制"のペルシアに勝ったのだ!というふうにアテネ(アテーナイ)の
〈
ペリクレ
ス
〉将軍(前495?~前429)は演説しましたが,それはあくまでアテネ(アテーナイ)側の視点にすぎません。そもそも〈ペリクレス〉は前451年に法により,アテネ(アテーナイ)の市民権が与えられる条件を,「両親ともに市民である18歳以上の男性」に限定していました。彼はパルテノン神殿の造営を企画し
,
アテナ女神
像
やパルテノン神殿
の
フリー
ズ
(
欄
間
(らんま)
)
の彫
刻
で知られる彫刻家〈フェイディアス〉(前5世紀)が監督しました。アテナ女神像には象牙や黄金が用いられています。これらにはデロス同盟でおさめられた同盟国からの資金が流用されました。
(注1) スパルタの諸制度が〈リュクルゴス〉により定められたのかは、古来意見が分かれます。ヘロドトス、松平千秋訳『歴史(上)』岩波文庫、1971年、p.395。
(注2) 集合名詞としては「ゲルシア」。ヘロドトス、松平千秋訳『歴史(上)』岩波文庫、1971年、p.395。
◆
アケメネス朝はスパルタを支援しアテ
ネ(
アテーナ
イ)
側に勝利,戦後のアテネは衰退する
ポリス間の戦争が泥沼化し周辺諸国の干渉を生む
前431年にアテネ(アテーナイ)を盟主とするデロス同盟vsスパルタ盟主のペロポネソス同盟の間で
,
ペロポネソス戦
争
が勃発(前431~前404)
【本試験H31】
【立教文H28記】
。アテネ側をバルカン半島のトラキア人が支援。
対するスパルタ側
【本試験H31】
を,アケメネス朝ペルシア
【本試験H31「スパルタがペルシアの支援を受けた」ことを問う】
やシラクサ(アテネ(アテーナイ)と交易で対立していたシチリア島の植民地)が支援しました。
アテネ(アテーナイ)は,市内に立てこもる作戦をとりましたが,疫病で
〈
ペリクレ
ス
〉将軍を亡くし,スパルタに破れます。
このペロポネソス戦争
【共通一次 平1:ペルシア戦争ではない】
【追H29トゥキディデスが叙述したか問う(正しい)】
については,ペルシア戦争の叙述(
『
歴
史
』
【追H20『ゲルマニア』ではない】
【本試験H31ササン朝との戦争を扱っていない】
)で知られる〈ヘロドトス〉と並ぶ歴史家
〈
トゥキディデ
ス
〉(前455以前~前400?)
【東京H22[3]】
【共通一次 平1】
【本試験H26リウィウスではない】
【追H20、H29】
【同志社H30記】
による客観的な記録(『歴史』)が知られています。
ペロポネソス戦争の前後,アテネ(アテーナイ)では
【本試験H10この時期のポリスについて(「①ポリス市民間の貧富の差が拡大した,②土地を失うポリス市民が現れた,③ポリスの間に傭兵の使用が広まった,④ポリス市民としての意識や結束が強まった」か問う。④が誤り)】
,〈クレオン〉(?~前422)のように,人々をいたずらに煽(あお)り立てる煽動政治家
(
デマゴー
グ
)が現れるようになります。
(注)このことを,かつては
「
衆愚
政
」と呼び,民主政の失敗パターンとして理解されていました。しかし,とりたてて「衆愚政」という理解をすることは,現在では少なくなっています(橋場弦『民主主義の源流 古代アテネの実験』講談社,2016)。アテネの民主政を「衆愚政」と呼ぶとき、それに対する批判的な価値判断がはたらいています。たとえば師匠である〈ソクラテス〉を裁判によりなくした〈
プラトン
〉は、アテネ民主政を憎悪し「
理想国家
」を追求していきます。その文脈においてアテネ民主政は否定的にとらえられています。彼のテキストを参照した後代の史料は、それにひきずられるようにアテネ民主政に欠陥があったものという立場に立ちがちです。しかし、アテネの民主政は、従来考えられていたよりもはるかに整ったシステムを備えていたものとみられています(神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.31も参照)。
戦争が激しくなると,ギリシア文化
は
古典
期
(前5~前4世紀)と呼ばれる時期に入ります。ペロポネソス戦争という戦時下にありながらも
,
悲
劇
や
喜
劇
【本試験H31リード文(指導者らに痛烈な批判を浴びせる批判的な性格をもっていた)】
はさかんに上映されました。
かつてペルシア戦争期に,戦闘に参加してアテネ(アテーナイ)の華々しい活躍を目撃した
〈
アイスキュロ
ス
〉(前525~前456)
【追H24】
は,『アガメムノン』を含むオレステイア3部作など雄大な悲劇を多数残しました。しかし,アテネ(アテーナイ)の没落期を生きた
〈
ソフォクレ
ス
〉(前496?~前406)
【追H24】
は,『オイディプス』王など,運命に縛られた人間の絶望を描き,多くの人が戦場に散っていく世相にマッチして人気を得ました。また,
〈
エウリピデ
ス
〉(前485?~前406)
【追H24】
は,『メデイア』など,悲劇を日常的で身近な人間ドラマに仕立て上げる新たな手法を導入し,人気を博しました。喜劇作家としては『雲』
『
女の平
和
』
【立教文H28記】
で知られる
〈
アリストファネ
ス
〉
【共通一次 平1】
【本試験H31直接明示されてはいないが,「政治を風刺する喜劇」をつくった人はアリストファネスであり,ヘシオドスではない】
【追H24三大悲劇詩人ではない】
がいます
【共通一次 平1:主著は『イリアス』ではない】
。
口先だけの弁論術が重視され,
「
人間は万物の尺度であ
る
」
【追H9ソクラテスの主張ではない】
と主張した
〈
プロタゴラ
ス
〉(前480頃~前410頃)
【セ試行イオニアの自然科学者ではない】
【追H9ソクラテスではない,本試験H17ソクラテスとのひっかけ】
のよう
な
ソフィス
ト
(話し方の家庭教師)
【本試験H13,本試験H17問題文の下線部】
という職業が人気を得ました。立場によって簡単に意見を変える
【本試験H13ソフィストたちは「絶対的な真理の存在」は主張していない】
ソフィストの相対主義的な考え方(絶対的な答えなんてないという考え方)を批判した哲学者が
〈
ソクラテ
ス
〉(前469~前399)
【追H9「徳は知である」と主張したか問う】
【本試験H17ストア派ではない】
です。彼は,「ソフィストの連中は,自分が"何も知らない"ということを"知らない"(無知の知)
【本試験H17人間は万物の尺度である,ではない】
」「この世の中には絶対的な正義というものがあるはずだ。それにしたがって生きるべきだ(知徳合一)
【本試験H13孔子・釈迦・カントではない】
」と主張しました。自分の活動を「知恵を愛すること(フィロソフィア)」と説明したことが,フィロソフィー(英語の
「
哲
学
」)の語源となっています。〈ソクラテス〉は市民をまどわせた罪で,ポリスの法に従って毒をあおって亡くなりまってしまいました。〈ソクラテス〉の言行は,弟子の
〈
プラト
ン
〉(前429?~前347)が著作に残しています。また,『ギリシア史』を書いた〈クセノフォン〉(前430?~前354?)は,ソクラテスが生きていた頃について『ソクラテスの思い出』に記しています。
前415年にアテネ(アテーナイ)は〈アルキビアデス〉(前450?~前404)の発案のシチリア遠征に失敗。スパルタは東方
の
アケメネス朝ペルシ
ア
と結んで,アテネ(アテーナイ)を挟み撃ちにしようとしました。アテネ(アテーナイ)は前404年に降伏。貴族により民主政は崩壊しましたが新政権は民衆の支持を得られず,前403年には民主政が復活しました。
なお,ギリシア人の海外植民市のうち,黒海北岸のクリミア半島周辺には,前438年
に
ボスポロス王
国
が建てられました(前438~後376)。騎馬遊牧民
の
スキタイ
人
と交易をし,バルト海の産物も届けられていました。
ユーラシア大陸・アフリカ大陸北部では,定住民・遊動民の交流を背景に,両者の活動地域の間を中心に広域国家
(
古代帝
国
)がつくられていく。
サハラ以南のアフリカ大陸では,農耕・牧畜民の拡大が続く。
南北アメリカ大陸では,中央アメリカと南アメリカのアンデスに,新たな担い手による都市文明が成長する。
時代のまとめ
(1)
ユーラシア
定住民と遊動民の交流を背景に,より広域な国家
(
古代帝
国
)が形成されていく。
中央ユーラシアでは西か
ら
スキタイ
人
,
サルマタイ
人
,
サカ
人
,
月
氏
が,遊牧を営む諸民族を政治的に統合する。
中央ユーラシア東部のモンゴル高原ではアルタイ諸語系の遊牧民が,東アジアの黄河・長江流域の諸侯と,内陸乾燥地帯のオアシス都市をめぐり対立しつつ,交易関係を結んでいる。
モンゴル高原を中心に遊牧民を政治的に統一し
た
ヨーロッパでは
〈
アレクサンドロ
ス
〉大王(位前336~前323)が,西アジア
の
アケメネス
朝
(前550~前330)を領土に加える帝国を建設し,東西交易が活性化。大王の滅亡後は,西アジアから中央ユーラシア中央部にかけてギリシア文化が拡大する。
南アジアでは,〈アレクサンドロス〉大王の遠征の刺激を受け
,
マウリヤ
朝
(前321?~前185?)が北インドからデカン高原にかけてを統一。
〈アレクサンドロス〉の後継国家として,エジプト
の
プトレマイオス
朝
(前305~前30)と
,
セレウコス
朝
シリア(前312~前63),遊牧民パルティア人がイラン高原を支配したアルサケス
朝
パルティ
ア
(前247?~後224)が有力となる。
ヨーロッパではオリエントに古代帝国が栄える中,イタリア半島の都市国
家
ロー
マ
が成長し,交易をめぐ
り
カルタ
ゴ
と抗争する。
(2
)
アフリカ
アフリカ北部では西か
ら
ベルベル
人
や
リブ
人
が遊牧生活を送り,通商国
家
カルタ
ゴ
が,ナイル川流域の政権(メロエやエジプトを支配し
た
アケメネス
朝
や
アレクサンドロスの大帝
国
)と共存・競合関係にある。
アラビア半島では,南西部において農牧業・商業で栄え
た
シバ王
国
が,アラビア半島の遊牧民と共存・競合関係にある。
(3
)
南北アメリカ
中央アメリカ
の
オルメカ文
化
の諸都市が放棄され,代わってメキシコ高原南部
の
サポテカ文
化
や
,
マヤ文
明
が成長する。
南アメリカのアンデス地方中央部では高地
の
チャビン文
化
のほかに,沿岸部の定住集落も盛んになる。
(4
)
オセアニア
ラピタ人の移動は,サモア周辺で一旦止まっている。
○前
40
0
年~
前
20
0
年のアメリカ 北アメリカ
北アメリカ
の
北
部
には
,
パレオエスキモ
ー
が
,
カリブ
ー
を狩猟採集し
,
アザラ
シ
・
セイウ
チ
・
クジ
ラ
などを取り
,
イグル
ー
という氷や雪でつくった住居に住み,犬ぞりや石製のランプ皿を製作するドーセット文化を生み出しました。彼らは,こんにち北アメリカ北部に分布す
る
エスキモー民
族
の祖先です
。
モンゴロイド人
種
であり,日本人によく似ています。
現在
の
エスキモ
ー
民族は,イヌイット系とユピック系に分かれ
,
アラス
カ
にはイヌイット系のイヌピアット人と,イヌイット系ではないユピック人が分布しています
。
北アメリカ大陸北
部
とグリーンランドにはイヌイット系の民族が分布していますが
,
グリーンラン
ド
のイヌイットは自分たちのことを「カラーリット」と呼んでいます。
北アメリカの各地では,パレオ=インディアン(古インディアン)が,狩猟・漁労のほかに農耕を営んでいました。
北東部の森林地
帯
では
,
アルゴンキアン語
族
(アルゴンキン人,オタワ人,オジブワ人,ミクマク人)と
,
イロクォア語
族
(ヒューロン人,モホーク人,セントローレンス=イロクォア人)が分布しています。
○前
40
0
年~
前
20
0
年のアメリカ 中央アメリカ
◆
メキシコ湾岸のオルメカ文明の諸都市は放棄される
メキシコ湾岸のオルメカ文化の都市ラ=ベンタは前400年に放棄されています。ただ「放棄」が何を意味するのかをめぐっては,支配者の交替も含め多説あります。
西部のトレス=サポテスの繁栄は続き,後期オルメカ文化ともいわれます
(注
)
。
(注)芝崎みゆき『古代マヤ・アステカ不可思議大全』草思社,2010,p.38。
◆
マヤ地域では都市文明が発達している
中央アメリカ
の
マヤ地
域
(現在のメキシコ南東部,ベリーズ,グアテマラ)では,都市文明が発達しています。
紀元後250年までのマヤ文明
は
先古典
期
(注
1)
に分類されます。
神殿ピラミッドが建設され,石の土台の上にA形に石を積み上げてアーチのような構造をほどこ
す
疑似アー
チ
という技法が用いられまし
た
(注
2)
。
マヤ中部のエル=ミラドール(前400~後150)はこのころ大都市となり,"ジャングルの中の巨大なピラミッド"というマヤ文明のイメージは,このあたりから来ています。
(注1)木村尚三郎編『世界史資料・上』東京法令出版,1977,p.75。
(注2)実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館,2016,p.23。
この時期のマヤ文明は,先古典期に区分され(前2000年~前250),さらに以下のように細かく分けられます。
・先古典期
前
期
:前2000年~前1000 メキシコ~グアテマラの太平洋岸ソコヌスコからグアテマラ北部のペテン地域~ベリーズにかけて,小規模な祭祀センターや都市が形成。
・先古典期
中
期
:前1000年~前300年:祭祀センターや都市が大規模化
・先古典期
後
期
:前300年~後250年:先古典期の「ピーク
◆
メキシコ南部のオアハカ盆地では都市文明が発達する
メキシコ中央高原とマヤ地域の間に位置するオアハカ盆地で,前500
年
~
前300年頃に大規模な神殿が作られるようになっています。
担い手
は
サポテカ
人
で中心都市はモンテ=アルバン,テオティワカン文化やマヤ文明の影響がみられます。このサポテカ文明は,紀元後750年まで続きます。
◆
メキシコ高原中央部では農耕集落のほか都市が発達する
アメリカ大陸原産
【本試験H11】
のトウモロコシの農耕地帯であっ
た
メキシコ高
原
では,ティオティワカンに農耕集落ができます。
その50km南のクィクィルコには都市が繁栄します
(注
)
。
(注)芝崎みゆき『古代マヤ・アステカ不可思議大全』草思社,2010,p.50。
○前
60
0
年~
前
40
0
年のアメリカ カリブ海
カリブ
海
...現在の①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島
○前
40
0
年~
前
20
0
年のアメリカ 南アメリカ
チャビン文化が衰え,パラカス文化が栄える
南アメリカのアンデス地方の中央部の山地に,都
市
チャビ
ン=デ=
ワンタ
ル
が前1000年頃から栄えていましたが,前300年頃に衰えます。
アンデス地方の南海岸に
,
パラカス文
化
(前400~前200)が栄えます。この担い手
は
ナスカ文
化
と同じです。
アマゾン川流域には定住農耕地域も
アマゾン川流域(アマゾニア)では前350年頃に,熱帯のやせた赤土(ラトソル)を木炭や有機物を混ぜることで改善し,黒い土(テラブレタ)を開発していたことがわかっています
(注
)
。
(注)デヴィッド・クリスチャン,長沼毅監修『ビッグヒストリー われわれはどこから来て,どこへ行くのか――宇宙開闢から138億年の「人間」史』明石書店,2016年,pp.240-241。
○前
40
0
年~
前
20
0
年のオセアニア ポリネシア,メラネシア,ミクロネシア
ラピタ人
(注
)
の拡大は,引き続
き
サモ
ア
で一旦止まっています。
(注)ラピタ人とは,ラピタ土器(Lapita ware)を特徴とする文化で,メラネシアの東部を中心に分布します。ラピタはニューカレドニア島西岸の地名からとられ,幾何学的な文様が特徴で,土には砂や貝が混ぜられました。
○前
40
0
年~
前
20
0
年のオセアニア オーストラリア
オーストラリア
の
アボリジナ
ル
(アボリジニ)は,オーストラリア大陸の外との接触を持たないまま,狩猟採集生活を営んでいます。
タスマニア人も,オーストラリア大陸本土との接触を持たぬまま,狩猟採集生活を続けています。
○前
40
0
年~
前
20
0
年の中央ユーラシア 西部
スキタイは黒海を通じて地中海と交易する
前4世紀後半~前3世紀初めの後期スキタイ時代
の
スキタイ
人
は,黒海沿岸のギリシア植民市オルビアやパンティカパイオンを通じて,ギリシアの物産(陶器,貴金属,オリーブ,ワイン)を受け取り,畜産物等と交換していました。ギリシア文化の影響も受けるようになり,金製品の装飾には人物表現もみられるようになります
(注
)
。
(注
)
藤川繁彦『中央ユーラシアの考古学』同成社,1999,p.222,224。
また,前4世紀頃に遊牧
民
サルマタイ
人
の活動が活発化します。
彼らは中央・北カザフまたはアラル海沿岸から南ウラル地方にかけて移動し,そこで先行するサウロマタイ文化(前7世紀~前4世紀)と融合。言語的にはスキタイ人と同じイラン系で,のちのアラン人に近いです
(注
)
。彼らの祖先は,伝説の女戦士集団である「アマゾン」とスキタイの青年との間から生まれたとされています。
槍を持った重装騎兵は,同時期のアルシャク(アルサケス)朝パルティアからの影響を受けていると考えられます。
前2世紀には,彼ら
は
ドニエプル
川
【慶文H30】
流域からスキタイ人を追い出しています。
(注)サルマタイはのちに,アオルソイ,シラケス,王族サルマタイ,ロークソラノイ,イアジュゲス
,
アラ
ン
に分かれます。藤川繁彦『中央ユーラシアの考古学』同成社,1999,p.243。
なお,サウロマタイは,西部カザフ,ウラル南部,ヴォルガ下流,北カフカス,ドン川下流地方で活動した,スキタイに似るイラン系の騎馬遊牧民。女性の社会的地位が高く,ギリシアの〈ヘロドトス〉はスキタイ人と「アマゾン」が結婚して生まれたとされます。
アケメネス朝が前330年に〈アレクサンドロス大王〉により滅ぼされると,〈アレクサンドロス〉は「アジアの君主」と称して,北インドにわたる広大な領土を支配しました。彼はアム川をわた
り
ソグディア
ナ
を支配しましたが,シル川の北の遊牧民勢力(サカ人)を前にして,これ以上の遠征を断念し,バビロンに引き返し,〈大王〉は前323にあっけなく病死しました。
〈大王〉の死後,武将〈セレウコス〉が後を継ぎましたが,北インドはガンジス川の勢
力
マウリヤ
朝
に奪われ,アム川上流では前255年頃
に
バクトリア王
国
(前255頃~前145頃)
【本試験H18マウリヤ朝に滅ぼされていない】
が自立しました。バクトリア地方は農耕がさかんで,〈アレクサンドロス〉の建設したギリシア人の植民都市の交易活動も盛んでした。
また,前3世紀半ばには,カスピ海の東南部で遊牧を営んでい
た
アルシャ
ク(
アルサケ
ス)
朝パルティ
ア
の
〈
アルサケ
ス
〉兄弟が
,
セレウコス
朝
から自立。中国の文献で
「
安
息
」
【本試験H27】
と出てくるのは,このことです。アルシャク(アルサケス)朝パルティアは急拡大し,〈ミトラダテス2世〉(位123~前87)のときには,メソポタミアからインダス川方面に至る大帝国となりました。
○前
40
0
年~
前
20
0
年の中央ユーラシア 中央部
アム川よりも東のバルハシ湖周辺には,イラン系
の
サカ
人
(サカイ)が活動しています。〈ヘロドトス〉はスキタイ人のことだとし,後漢の〈班固〉は『漢書』で「塞」と記しましたが,詳しい実態はわかっていません。
○前
40
0
年~
前
20
0
年の中央ユーラシア 東部
モンゴル高原の方面では,イラン系とみられ
る
月
氏
【本試験H19時期】
の勢力が強力でした。
○40
0
年~
前
20
0
年の中央ユーラシア 北部
なお,ユーラシア大陸北西部の北極圏で
は
フィ
ン=
ウゴル語派
系
の民族が,北東部では
,
古シベリア諸語
系
の民族が,寒冷な気候に適応した狩猟採集生活を送っていました。
○前
40
0
年~
前
20
0
年のアフリカ 東アフリカ
東アフリカには,エチオピア高地に農牧民が,ヴィクトリア湖周辺に
は
コイサン諸語
系
の牧畜民,その北の草原や沼沢に
は
ナイロート
系
の牧畜民が生活していました。
○前
40
0
年~
前
20
0
年のアフリカ 北アフリカ
北アフリカの遊牧民は,地中海岸・ナイル河畔と共存・競合
北アフリカでは,現在
の
モロッ
コ
か
ら
リビ
ア
にかけての広い範囲
で
ベルベル
人
のやベルベル系のガラマンテス人らの農牧民・遊牧民が生活していました。また,現在のリビアにはリブ人が農牧・遊牧をしています。
沿岸部にはセム語派のフェニキア人が現・チュニジアにあ
る
カルタ
ゴ
や,現・リビアにあるレプキス=マグナ
(注
1)
などの都市国家を建設し,せっせと地中海交易にいそしんでいます。地中海には反時計回りの海流があって,カルタゴ人は西地中海ではカルタゴ→シチリア島西部→サルデーニャ島南部→イビサ島(銀鉱が分布
(注1)
)→ジブラルタル海峡周辺(カデス
(注1)
など)→カルタゴという周航ルート,東地中海ではカルタゴ→ナイル川河口→テュロス→キプロス島→ギリシア→カルタゴというルートを確立していました
(注
2)
。
フェニキア人は現リビアのレプキスを押さえることで,その内陸部
で
オリー
ブ
や
ナツメヤ
シ
の灌漑農耕・遊牧生活をおこなってい
た
ガラマンテス
人
との交易ルートも確保します。ギリシアの歴史家
〈
ヘロドト
ス
〉によれば,「アウギラ(注:ナイル川中流域から西に進んだ地点)からさらに十日進んだところに,また塩の丘があり水や実のなるココ椰子が多数あることは,他の場所と同様である。ここの住民の名
は
ガラマンテ
ス
といい,きわめて多数の人口を有する種族で,塩の上に土を運んで種子を蒔いている」とのこと。
(注1)レプキスは前8世紀に建設されたと考えられています。カデスは,グアダルキビル川をさかのぼると銀山に到達できる港です。青木真兵「研究ノート 西方フェニキア都市レプキス・マグナとガラマンテス」『神戸山手大学紀要』14巻,p.63~73, 2012,神戸山手大学
(注2
)
栗田伸子,佐藤育子『通商国家カルタゴ』講談社,2009,p.160
◆
エジプトは末期王
朝(前
52
5
~
前
332)
...第
2
7
王朝~
第
3
1
王朝
→
ヘレニズム時
代(前
33
2
~
前
30)
...
マケドニア朝~プトレマイオス朝
エジプ
ト
は,短命な政権の交替する末期王朝時代にあたり,ファラオをアケメネス朝の王がつとめ,総督が派遣され属州(サトラペイア)として支配されました。
最終的に第31王朝(前343年~前332)のときに,最後の総督が〈アレクサンドロス〉大王に戦わずして政権を譲り渡し,前332年に〈アレクサンドロス〉大王がファラオに即位しました
(
マケドニア
朝
)。
こうしてエジプト
は
アレクサンドロス大王の帝
国
の属州となりました。大王が亡くなった後,〈フィリッポス3世アリダイオス〉(前323~前317),〈アレクサンドロス4世〉(前317~前310)が即位しますが
(注
1)
,間もなく後継者(ディアドコイ)をめぐる内戦が勃発
(
ディアドコイ戦
争
)し
,
プトレマイオス朝エジプ
ト
(前306~前30)が成立しました。
プトレマイオス朝は支配の正統化を図るため,ギリシア文化や王立研究所
【追H29】
の
ムセイオ
ン
【本試験H2天文学者プトレマイオスによる創設ではない】
【追H29プトレマイオス朝による創設か問う(正しい)】
【慶文H30記】
における学術研究を奨励するとともに,港湾を整備しファロスの灯台などの巨大建築物を造営しました
(注
2)
。
(注1)エイダン・ドドソン,ディアン・ヒルトン,池田裕訳『全系図付エジプト歴代王朝史』東洋書林,2012,p.44による。古代エジプトの年代については諸説あります。
(注2)アレクサンドロス大王以後に発生した後継者戦争において,後継者将軍の権力正当化の源泉になったのは,一般兵士にとっても誇りと賞賛の源泉となった「アレクサンドロス大王とともに戦ったという経験と記憶」でした。森谷公俊「アレクサンドロス大王からヘレニズム諸王国へ」『帝国と支配』(岩波講座 世界歴史 5)岩波書店,1998年,p.128
東ヨーロッ
パ
...現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッ
パ
...現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
イベリア半
島
...現在の①スペイン,②ポルトガル
西ヨーロッ
パ
...現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
北ヨーロッ
パ
...現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン
この時期の西ヨーロッパでは,ライン川・ドナウ川流域にかけ
て
ケルト
人
と後に総称されることになるインド=ヨーロッパ語族ケルト語派の人々が広く分布していました。ケルト語派の人々は,ユーラシア大陸側のケルトと,ブリテン島(現・イギリス)と中心とする"島のケルト"に大別され,近年では両者には少なからぬ共通点があることが指摘されるようになっています。大陸ケルトのうち,現・フランス周辺の人々をガリア語を話
す
ガリア
人
と総称されます。
ケルト語派の分布域の東に
は
イン
ド=
ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人
々
,さらに東のドニエプル川までのあたりにスラヴ人が,バルカン半島西部に
は
イリュリア
人
が分布していました。いずれも複数のグループに分かれ,首長による小規模な政治的統合がすすんでいました。
イベリア半島では,南西部にイタリック語派
(現在のスペイン語,フランス語,イタリア語を含むグループ)
の
イベリア
人
,北西部にケルト語派
の
ケルティベリア
人
が分布していました。
イタリア半島北部に
は
エトルリア
人
の都市国家群があり,南部に
は
ギリシア
人
の都市国家群がありました。中部
の
共和政ロー
マ
は,この時期
に
フェニキア
人
のカルタゴ
と
ポエニ戦
争
【東京H8[3]】
【本試験H7】
【追H18、H24カルタゴが3回のポエニ戦争でローマに敗れたか問う】
を戦い,領域を広げていきます。
○前
40
0
年~
前
20
0
年の中央・東・西・北ヨーロッパ,イベリア半島
東ヨーロッ
パ
...現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッ
パ
...現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
イベリア半
島
...現在の①スペイン,②ポルトガル
西ヨーロッ
パ
...現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
北ヨーロッ
パ
...現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン
しかし,前8世紀頃以降,
「
ケルト
人
」と後に総称されることになるインド=ヨーロッパ語系の諸民族によって
,
鉄器文
化
であ
る
ラ=
テーヌ文
化
が生み出されました。彼
ら
ケルト
人
は,イギリスや地中海沿岸とも盛んに交易を行っていたことがわかっており,鉄製武器を備えたケルト人の戦士が支配階級でした。
イベリア半
島
の沿岸部は,北アフリカのフェニキア人の植民
市
カルタ
ゴ
の勢力圏に入っていました。前264~前241年のポエニ戦争
【東京H8[3]】
でカルタゴ
が
共和政ロー
マ
に敗れ
,
シチリ
ア
を失うと,カルタゴの貴族バルカ家〈ハミルカル=バルカ〉(前275?~前228)らは,前237年にイベリア半島の拠点(カルタゴ=ノウァなど)の建設や鉱山開発に乗り出します。しかし,その息子〈ハンニバル〉
【本試験H6時期(アウグスティヌス存命中ではない)】
【追H24『ガリア戦記』を記していない】
が第二次ポエニ戦争(前218~前201)でローマに敗北すると,イベリア半島は共和政ローマの支配下に入りました。戦争中の前205年に
は
属州ヒスパニ
ア
が置かれ,しだいに内陸部にも進出し南部のグアダルキビール川沿い
に
コルド
バ
が建設されました。
・
前
40
0
年~
前
20
0
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現①
イタリア
◆
ローマがイタリア半島全域に拡大し,カルタゴからシチリア島を奪う
ラテン
人(
ローマ
人)
が西地中海に拡大する
イタリア半島中部
の
ラテン
人
の都市国
家
ロー
マ
は,半島各地の民族と戦い同盟を結んだり,服属させたりしていきました。 ローマは征服地の民族を,一律同じ扱いにするのではなく,格差をもうけて支配しました。各都市は個別にローマと同盟を結ばされ,(1)ローマ市民権がある都市,(2)投票権はある「ラテン市民権」のある都市,(3)市民権が与えられない都市
(
同盟
市
)に分けられました。キャッチフレーズは"デヴィーデ=エトゥ=インペラ"(devide et impera)。"分割して支配せよ"です。こ
の
分割統
治
により,一致団結して反抗されるのを防いだのです。
戦争によって獲得した新しい土地の多くは公有地とされましたが,実際には一部の有力者が自分のものにしてしまう(占有する)例がみられるようになっていきます。彼らはそこで多数の奴隷を働かせる
,
ラティフンディ
ア
【追H28中世西ヨーロッパではない】
【本試験H13マニュファクチュア,イクター,コルホーズではない】
を営み,収穫物をローマ内外に輸出して巨利をあげました。また,相次ぐ戦争により平民(プレブス)には大きな負担がかかり債務を負う者も発生し,貴族(パトリキ)との経済格差が開いていました。
前367年には
,
リキニウ
ス=
セクスティウス
法
【本試験H8平民の地位を向上させたか問う,H9これ以前にコンスル職は貴族の独占であったか問う】
【本試験H14時期(前4世紀かを問う)】
で,公有地を占有(せんゆう。事実上,自分のものにしてしまうこと)することの制限,執政官(コンスル)のうちの1名を平民(プレブス)から選ぶことが定められました。この法により土地の占有は「制限」されましたが「禁止」されたわけではなく,執政官に就任して貴族との結びつきを深めた平民(プレブス)
は
新貴
族
(
ノビレ
ス
)にとして新たに土地を占有するようになっていきました。
前356年には独裁官,前351年には監察官,前337年に法務官が,平民にも就任できるようになったのですが,実際にはこれらの官職は平民身分の新貴族(ノビレス)によって支配されるようになり,事実上,平民会も元老院の"言いなり"の状態でした。そこでプレブスは「市外退去」(セケッショ)の作戦をとり,前287年に貴族(パトリキ)に対して平民会の決議が元老院
【追H30平民会ではない】
の承認なしにローマの国法となることが認めさせました。これを
,
ホルテンシウス
法
【本試験H24ギリシアではない】
【本試験H8平民の地位を向上させたか問う】
【追H21内容,H28共和政ローマか問う(正しい)・平民の地位が向上したか問う(正しい),H30】
【立教文H28記】
といいます。
このホルテンシウス法の直前,前272年に
は
ギリシア人の植民
市
【本試験H27】
(
マグ
ナ=
グレキ
ア
)のあったイタリア半島南部を占領し
,
タレントゥ
ム
【本試験H16ギリシア人の植民市「タラス」だったかを問う】
を獲得し,半島が統一されました。前4世紀末から建設が開始されたアッピア街道
【東京H20[3]】
【早・政経H31商品の流通を目的として建設されたわけではない】
は,さらに南のブルンディシウムまで伸びる舗装道路で,"街道の女王"とうたわれます。
貴族と平民間の身分闘争は,これで幕を閉じたようにも見えますが,実際には富裕な平民(新貴族;ノビレス)にし
か
執政
官
に就任することはできませんでした。官職
は
無
給
(給料が出ない)ですから,経済的に余裕がなければ就任は難しいのです。
さて,これからローマはいよいよ地中海への進出を本格化させ,フェニキア人を3度
の
ポエニ戦
争
【東京H8[3]】
【本試験H7】
【本試験H15シチリア島はポエニ戦争のときのエジプトからの獲得ではない,本試験H16地図・第一回ポエニ戦争後に属州とされたかを問う,本試験H27ブリテン島ではない】
【追H18、H24カルタゴが3回のポエニ戦争でローマに敗れたか問う】
で滅ぼし,地中海を取り囲む外国領土を獲得していくことになります。
イタリア半島の外の領土
を
属
州
(プローウィンキア)
【東京H29[1]指定語句】
と呼びます。広い帝国を州に分けて総督に支配させる方式は,アケメネス朝のサトラップ(太守)とよく似ています。
第一回ポエニ戦
争
(前264~前241)のとき
に
カルタ
ゴ
から獲得し
た
シチリア
島
【本試験H7ガリアではない】
【本試験H15エジプトからの獲得ではない,本試験H16地図・第一回ポエニ戦争後に属州とされたかを問う,本試験H27ブリテン島ではない】
が最初
の
属
州
です。こうして得た
,
属
州
の土木事業や徴税請負人として活躍し,富裕になった新興階級
を
エクィテ
ス
(
騎士身
分
)といいます。誰に徴税を任せらていたかというと,元老院議員です。元老院議員には外国との交易をしてはいけない決まりがあったため,代わりに別の人に担当させて,利益を吸い上げたのです。
ローマ
は
第二回ポエニ戦
争
(前219~前201)で,スペインを本拠地とするカルタゴ人の将軍
〈
ハンニバ
ル
〉
(前247~前183?182?)
【本試験H30】
【追H18『ガリア戦記』とは無関係、H24『ガリア戦記』を記していない】
によるイタリア進入を阻止しました。〈ハンニバル〉は象を連れたアルプス山脈越えで有名ですが,寒さや険しい斜面で兵士や象の多くが命を落とす壮絶な行軍でした。ローマ側の将軍
〈
大スキピ
オ
〉(前236~前183)は〈ハンニバル〉の拠点であるスペインを攻略し,前202年にカルタゴ近郊
の
ザマの戦
い
で〈ハンニバル〉を破りました。このとき,科学者
〈
アルキメデ
ス
〉(前287?~前212)はシチリア島のシラクサ(ローマから寝返り,カルタゴ側についていました)にいて,ローマ兵に殺されました。地面に図形を書いて円周率を求めている最中であったと伝えられています。
○前
40
0
年~
前
20
0
年のバルカン半島
バルカン半
島
...現在の①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア
◆
ギリシアの諸ポリスは衰退し,
前
33
7
年に半島北部のマケドニアに支配される
〈ソクラテス〉(前470?469?~前399)の愛弟子の
〈
プラト
ン
〉(前429~前347)
【本試験H13】
が「この世に絶対的な理想があるとして,そのことを人はなぜ知ることができるのか?」という問いに対する答え
(
イデア
論
【追H9(空欄補充)】
【本試験H13】
)を展開しました。また
『
国家
論
』
【本試験H13】
において,「民衆に政治をまかせると,失敗する。選ばれた少数の徳(=良い資質。アレテーといいます)を持つ人だけに,政治を任せるべきだ」と解きました。これを
,
哲人政
治
といいます。しかし,実際には,民主主義が暴走する
と
衆愚政
治
に,哲人政治が暴走する
と
独裁政
治
に発展しがちです。どちらのほうが望ましいのかということは,この後,長い年月をかけて議論されてきましたが,西洋において必ずといって参考にされ続けたのが,〈プラトン〉の
『
国家
論
』でした。彼は,当時交易で栄えていたギリシア人の植民市〈ディオニュシオス2世〉(在位前367?~357?)に招かれて哲人政治を実践しようとしましたが,失敗しています。
〈ソクラテス〉は著述をのこしませんでしたが,〈ソクラテス〉が登場する著作を〈プラトン〉が多く残しました。
なお、ローマ医学に多大な影響を与えた医学者〈ヒポクラテス〉
【追H25平面幾何学を集大成した人ではない】
は同時代の人物とみられます。
◆
〈アリストテレス〉の学問研究は,オリエント周辺の学問に後世まで大きな影響を及ぼした
〈アリストテレス〉が,あらゆる知を総合する
〈プラトン〉の学園
(
アカデメイ
ア
【本試験H21リード文】
。アカデミーの語源です)に入門したのが,
〈
アリストテレ
ス
〉(前384~前322)
【本試験H2,本試験H6ミレトスで活動したわけではない】
【本試験H13】
で,彼はとにかくオールジャンルを研究し,当時の知識の"すべて"を体系化
【本試験H13「諸学問を体系化させた」かを問う】
させたといっても過言ではありません。
代表作『形而上学』(けいじじょうがく)では,化学・物理・天文・生物に関する知識がまとめられました。
物理
学
では,運動には「自然的」運動と「強制的」運動があることを説明しました。
化
学
では,以前からギリシアの〈エンペドクレス〉(前495?~前435?)によって主張されていた空気・火・土・水の四元素説を発展させました。
天文
学
では
,
地動
説
(地球が宇宙の中心。のちヘレニズム時代の〈アリスタルコス〉(前310?~前230?)が否定)をとりました。ギリシア人による天文学が発展するにつれ,バビロニアの天文学は衰退していきました。
生物
学
では,生物は生物以外の物から自然に発生する
(
自然発生
説
。のち19世紀にフランスの〈パスツール〉が実験により否定)という考えや,すべての生命には単純な生物から複雑な生物までの序列があるという考えを主張しました。
また,演劇理論について研究した『
その後もスパルタの独壇場というわけにはいかず,周辺のポリスがスパルタを攻撃し,アテネ(アテーナイ)も攻勢にまわったため,スパルタはアケメネス朝ペルシアと前386年に「大王の和約」を結び,小アジアのギリシア人の諸ポリスは結局ペルシアの支配下に置かれることになりました。
前4世紀中頃に
は
テーバ
イ
(テーベ)
【同志社H30記】
が,長期にわたるスパルタの支配を脱しました。将軍〈エパメイノンダス〉(?~前362)のもとで前371年にレウクトラの戦いでスパルタを破り強大化しますが,のちアテネ(アテーナイ)も復活するなど,ポリス同士が争う中,前4世紀後半にはポリスを形成しなかった北方のギリシア人
の
マケドニア王
国
が,
〈
フィリッポス2
世
〉(位前359~前336)のもとで強大化しました。前341年には"馬を愛するトラキア人"といわれ,ギリシア人から恐れられたバルカン半島東部
の
トラキ
ア
を征服。
前338年に
は
カイロネイアの戦
い
【本試験H17アクティウム・サラミスの海戦,マラトンの戦いではない,H31】
【追H25】
で,テーベ(テーバイ)
【追H25】
とアテネ(アテーナイ)
【追H25】
の連合軍を撃破し
【本試験H31アテネ・テーベは勝利していない】
,スパルタ以外のギリシアのポリス
を
コリントス同
盟
(ヘラス同盟)
【本試験H19ペロポネソス同盟とのひっかけ】
としてまとめて支配します。
これはどういうことかというと,各ポリスは自治を続けることができる代わりに,マケドニアの軍隊が駐留して監督し続けるというものでした。ポリスというのは,そもそも外敵の進入を防ぐために集住(シュノイキスモス)することでできたものですから,このコリントス同盟によってその大切な特徴が失われてしまったということになります。
こうしてマケドニアの〈フィリッポス2世〉
【追H25】
はギリシアのポリスを,スパルタを除き支配することに成功しましたが,その後急死しました。
◆
マケドニア王アレクサンドロスの東方遠征によりギリシア文化が東に拡大した
父の死を受け王位を継いだ
〈
アレクサンドロス3
世
〉(位前336~前323)
【本試験H4王の道を整備していない】
は,小アジア(アナトリア半島)に向
け
東方遠
征
を開始しました
(#漫画『ヒストリエ』は彼に仕えた書記を主人公としています)
。
バルカン半島東部
の
トラキ
ア
全土を平定し小アジア(アナトリア半島)に上陸。前333年
に
イッソスの戦
い
【本試験H30】
で
アケメネ
ス
(
アカイメネ
ス
)
朝ペルシ
ア
の
〈
ダレイオス3
世
〉(ダーラヤワウ3世,在位前336~前330)を撃退
【早・政経H31敗死させたわけではない】
して,エジプトを征服。さらに前331年にアルベラの戦いで,ペルシアを滅ぼしインド北西部にまで進出し,各地にアレクサンドリア
【本試験H12クレオパトラが建設したわけではない】
と命名した都市を建設。短期間で大帝国を築き上げました。
大王は,ペルシアを攻略すると,ペルシア王の後継者と自称し,オリエント風の礼拝方式を取り入れるなど,ギリシア文明にオリエントの文明を導入しました。オリエント風の礼拝とは,自分を神としてあがめ
(
君主礼
拝
),ひざまずかせる礼
(
跪拝
礼
,プロスキュネシス)のことです。彼は,ポリスのギリシア人とは異なり,オリエントの文明を,格下に見ていなかったのです。
しかし,大王はバビロンに帰還した後,宴(うたげ)の最中にハチに刺され,それがもとで32歳でこの世を去りました。遺言は「「最強の者が帝国を継承せよ!」。遺言通り,その広大な領土は後継者たちの過酷なぶんどり合戦となり
(
ディアドコイ戦
争
),結果的に〈セレウコス〉,〈アンティゴノス〉と〈プトレマイオスが〉,それぞれシリアからペルシアにかけて,マケドニア
【本試験H22アルシャク(アルサケス)朝パルティアと戦っていない】
,エジプトを統治する体制となりました。
バルカン半島東部のトラキア人
バルカン半島東部
の
トラキア
人
の王国は〈アレクサンドロス〉によって支配下に置かれていましたが,〈アレクサンドロス〉の死後は,将軍〈リュシマコス〉(前360~前281)に支配されました。前279~前212/211年にかけ
て
ケルト
人
が進入しトラキアで国家を建設,独立後はトラキア人の支配層で内紛が起き,衰退に向かいます。
バルカン半島西部のイリュリア人
バルカン半島西部
の
イリュリア
人
の一派は,アドリア海(イタリア半島とバルカン半島の間の海)の東岸に位置する,入り組ん
だ
ダルマツィア海
岸
に拠点をもうけ海上交易を盛んに行い,山がちの地形で羊や山羊の牧畜を行い栄えました。アドリア海への進出をねらってい
た
共和政ロー
マ
によりイリュリア人の交易活動は"海賊行為"とされ,前219年には領土を制圧されました。
バルカン半島北部のダキア人,ゲタイ
人
ドナウ川中流域の左岸(北部)
の
ダキア
人
と
ゲタイ
人
は,〈アレクサンドロス〉大王の攻撃も受けた後,それぞれ前300年頃から西方から進出し
た
ケルト
人
の支配下に入りました。
◆
アレクサンドリアが地中海世界の経済・文化の中心地として栄えた
〈アレクサンドロス〉大王の東方遠征の結果,地中海世界の経済・文化の中心はプトレマイオス朝エジプト
【本試験H10】
の
アレクサンドリ
ア
【京都H22[2]
】
【
本試験H10ヘレニズム文化の中心地か問う,本試験H12クレオパトラが建設したわけではない】
をはじめとするオリエント世界に移りました。
〈プトレマイオス1世〉が,自分が〈アレクサンドロス〉の正統な後継者であることを示そうと努めます
。
アレクサンドリ
ア
【本試験H
4
カイロではな
い
】
【本試験H1
6
カイロではな
い
,本試験H26】
に王立の研究所
【追H29】
(
ムセイオ
ン
【本試験H2天文学者プトレマイオスの創設ではない】
【本試験H25】
【追H29プトレマイオス朝による創建か問う】
。ミュージアムの語源です)が建てられ,古代のあらゆる知識がおさめられていたという大図書館が建てられました。
ムセイオンには以下のような学者が集められます。
・
地球の全
周(
子午線の全
長
)
【本試験H23】
【本試験H8】
を計算して図書館長となった
〈
エラトステネ
ス
〉(前276?~前194?)
【本試験H2医学研究者ではない】
【本試験H23】
【慶文H30記】
・シチリア島のシラクサ出身
【本試験H10】
の浮力
【本試験H2】
・てこの原理・球体の求積で知られる
〈
アルキメデ
ス
〉(前287?~前212)
【本試験H2,本試験H10】
・平面幾何学
【本試験H8天動説ではない】
【追H29】
のテキスト『原論』で知られる
〈
エウクレイデ
ス
〉
(英語ではユークリッド,生没年不詳だが前300年頃に活躍)
【本試験H2,本試験H8】
【追H25ヒッポクラテスではない、H29平面幾何学か問う】
それまでの数学を体系化し,平面幾何学を大成しました。
・地動説(太陽中心説)
【本試験H8平面幾何学ではない】
を唱えた
〈
アリスタルコ
ス
〉
【本試験H27】
が知られています。
大図書
館
は,そののちローマの〈カエサル〉の攻撃などいくつもの戦争で被災し,収められていた70万巻のパピルス文書の多くは,どこかへ行ってしまいました。これは現代でたとえるならば,ある日突然,インターネット上のすべてのデータが失われてしまうほどのインパクトであったと言われます。いわば情報の"大絶滅"です。なお,アレクサンドリアには,約134メートルの高さを誇る大灯台があったことでも有名です。14世紀前半の地震で崩壊し,"世界七不思議"の一つに数えられます。
東地中海の国際共通語であっ
た
ギリシア
語
が,広く用いられていました。ギリシアの標準語
を
コイネ
ー
(共通語という意味)といい,のちに
〈
イエ
ス
〉(前4~後28)やその弟子の活動等を記録した『新約聖書』もこの言葉で書かれています。〈アレクサンドロス〉の東方遠征は,ギリシア語とともに様々な情報を東方に拡大させる役割を果たしました。
〈アレクサンドロス大王〉の東方遠征から,前30年にプトレマイオス朝が滅びるまでを
,
ヘレニズム時
代
といいます。この時代にはギリシア人の文化が,小アジア,シリア,パレスチナ,エジプト,メソポタミア,イラン高原やその周辺部に広がり,〈アレクサンドロス大王〉の死後各地に成立した諸政権の支配層を中心にギリシア文化が受け入れられました。
◆
ポリスは衰退し,ストア派の思想が流行した
一方,ギリシアの諸ポリスは,〈フィリッポス2世〉の進出時のヘラス同盟以降,マケドニア王国の従属下に置かれていました(自治は認められましたが,マケドニア軍が駐留・監督していました)。
諸ポリスは,大王の死をきっかけに独立をこころみましたが
,
アテ
ネ(
アテーナ
イ
)
は独立戦争(ラミア戦争)の後に少数の富裕層の支配する体制(寡頭制(かとうせい))となり,古代アテネ(アテーナイ)民主政の歴史はここに終止符が打たれました。
ちなみ
に
スパル
タ
も前331年にマケドニアに対する反乱に失敗し,その後は衰退の一途をたどります。
思想では,ポリスの中やギリシア人だけで通用する"井の中の蛙"のような考え方ではなく,世界市民主義
(
コスモポリタニズ
ム
)
【本試験H10ヘレニズム文化に関連するか問う】
という全人類に通用するスケールの大きな思想に広がっていきました。狭いポリスの中で政治的な議論をする風潮よりも,個人的な内面を大切にする傾向は,
〈
ゼノ
ン
〉(426?~491)
【セ試行 イオニアの自然哲学者ではない】
によ
る
ストア
派
(禁欲
【本試験H3ヘレニズム時代か問う,本試験H10】
を重んじる思想)
【本試験H10ヘレニズム文化の中で生まれたか問う】
【本試験H17問題文の下線部】
や
〈
エピクロ
ス
〉(前341~前270)
【セ試行 イオニアの自然哲学者ではない】
によ
る
エピクロス
派
【本試験H3ヘレニズム時代か問う】
(精神的な快楽を重んじる思想)にあらわれています。特にストア派は,のちにローマ帝国時代にかけて一世を風靡(ふうび)し,紀元後2世紀には五賢帝の一人
〈
マルク
ス=
アウレリウ
ス=
アントニヌ
ス
〉
【本試験H3】
【本試験H17】
は(後期
)
ストア
派
の思想家として,自分の信条などを記した
『
自省
録
』
【本試験H3キリスト教的な倫理観があらわされた著作ではない】
【本試験H17】
をのこしています。
ヘレニズム時代のギリシア彫刻として有名なのは,両腕を失った状態で発見された「ミロのヴィーナス」や,トロイア戦争を題材とした「ラオコーン」が有名です。
こ
の
ヘレニズム
【東
京
H7[1
]
指定語句
】
【本試験H10】
という言葉は,19世紀のドイツの歴史家〈ドロイゼン〉(1804~84)によって提唱された歴史用語で,暗黙のうちに"すぐれたヨーロッパのギリシア文化が,オリエントの文化に良い影響を与えたのだ"という前提に基づいたものでした
(注)
。
現在では,ギリシアの影響を強く受けたのは支配者に限られ,大多数の住民は従来の伝統的な生活を送っていたことがわかっており,かつて考えられていたほど,ギリシアの文化がオリエントの文化と融合したわけではないという見解が一般的です。
(注) ある意味、19世紀のドイツ帝国主義を正当化する役割を果たした側面もあるのです。 神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.34o。
定住民・遊動民の交流を背景に,両者の活動地域間で統合された広域国家
(
古代帝
国
)が拡大していく。
南北アメリカ大陸の中央アメリカと南アメリカのアンデスに,新たな担い手により各地で政治的な統合がすすむ。
○前
20
0
年~紀元前後のアメリカ 北アメリカ
北アメリ
カ
...現①カナダ ②アメリカ合衆国
北アメリカ
の
北
部
には
,
パレオエスキモ
ー
が
,
カリブ
ー
を狩猟採集し
,
アザラ
シ
・
セイウ
チ
・
クジ
ラ
などを取り
,
イグル
ー
という氷や雪でつくった住居に住み,犬ぞりや石製のランプ皿を製作するドーセット文化を生み出しました。彼らは,こんにち北アメリカ北部に分布す
る
エスキモー民
族
の祖先です
。
モンゴロイド人
種
であり,日本人によく似ています。
現在
の
エスキモ
ー
民族は,イヌイット系とユピック系に分かれ
,
アラス
カ
にはイヌイット系のイヌピアット人と,イヌイット系ではないユピック人が分布しています
。
北アメリカ大陸北
部
とグリーンランドにはイヌイット系の民族が分布していますが
,
グリーンラン
ド
のイヌイットは自分たちのことを「カラーリット」と呼んでいます。
北アメリカ一帯には,現在のインディアンにつなが
る
パレ
オ=
インディア
ン
(古インディアン)が,各地の気候に合わせて狩猟・採集生活を営んでいます。
北東部の森林地
帯
では,狩猟・漁労のほかに農耕も行われました
。
アルゴンキアン語
族
(アルゴンキン人,オタワ人,オジブワ人,ミクマク人)と
,
イロクォア語
族
(ヒューロン人,モホーク人,セントローレンス=イロクォア人)が分布しています。
○前
20
0
年~紀元前後のアメリカ 中央アメリカ
中央アメリ
カ
...現在の①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ
◆
マヤ地域では都市の規模が拡大する
中央アメリカ
の
マヤ地
域
(現在のメキシコ南東部,ベリーズ,グアテマラ)では前2000年頃から都市が形成され始めていましたが,メキシコ湾岸のオルメカ文化が前4世紀に衰退すると代わってこの地域
の
マヤ文
明
が台頭していきます。マヤ低地南部
の
ティカ
ル
(1世紀頃~9世紀)
や
カラクム
ル
といった都市が代表的です。
紀元後250年までのマヤ文明は先古典期に分類されます
(注
)
。
◆
メキシコ南部のオアハカ盆地ではサポテカ人の都市文明が栄える
オアハカ盆地のモンテ=アルバンを中心に,サポテカ人の都市文明が栄えます。
前100~後200年のどこかで,中央アメリカ〔メソアメリカ〕地域の共通文化の一つであ
る
球技
場
が建設されています。
◆
メキシコ高原中央部ではティオティワカンに都市文明が形成される
メキシコ高原中央部では,前150年頃からテスココ湖の東部の都
市
ティオティワカ
ン
に,オルメカ文明の影響を受けた都市が発達。
50km南にあったクィクィルコは,前50年のシトレ火山の噴火により衰退に向かいます。
(注)実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館,2016,p.23。
この時期のマヤ文明は,先古典期に区分され(前2000年~前250),さらに以下のように細かく分けられます。
・先古典期
前
期
:前2000年~前1000 メキシコ~グアテマラの太平洋岸ソコヌスコからグアテマラ北部のペテン地域~ベリーズにかけて,小規模な祭祀センターや都市が形成。
・先古典期
中
期
:前1000年~前300年:祭祀センターや都市が大規模化
・先古典期
後
期
:前300年~後250年:先古典期の「ピーク」
○前
20
0
年~紀元前後のアメリカ カリブ海
カリブ
海
...現在の①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島
○前
20
0
年~紀元前後のアメリカ 南アメリカ
南アメリ
カ
...現在の①ブラジル,②パラグアイ,③ウルグアイ,④アルゼンチン,⑤チリ,⑥ボリビア,⑦ペルー,⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネズエラ,⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ
◆
アンデス地方では従来の神殿文化が再編されていく
南アメリカでは,従来の神殿を中心とする地域的なまとまりが,紀元前後頃には何らかの原因により限界を迎えています
(注
1)
。
社会問題を解決し新しい政治的・行政的な社会を築き上げるのに成功した勢力は,あらたな経済基盤や信仰を中心に人々をコントロールしようとしました。
一つ目は,アンデス地方
北
部海岸
の
モチ
ェ
(紀元前後~700年頃)です。
モチェでは人々の階層化もみられ,労働や租税の徴収があったとみられます。
信仰は多神教的で,神殿には幾何学文様やジャガーの彩色レリーフがみられます。クリーム地に赤色顔料をほどこした土器や,金製の装飾品がみつかっています。
経済基盤は灌漑農業と漁業です。
二つ目は,アンデス地方
南
部海岸のナスカ(紀元前2世紀~700年頃)です
ナスカといえば「地上絵」ですが,当初から地上絵が描かれていたわけではなく,当初
は
カワ
チ
遺跡の神殿が祭祀センターであったと考えられています。
アマゾン川流
域
(アマゾニア)にも定住地ができていますが,階層化した社会が生まれますが徴税制度はなく,ユーラシア大陸における農牧民を支配する都市国家のようには発展していません
(注
2)
。
その他,南アメリカ南東部のサバナ地帯や草原地帯には,狩猟採集民が生活しています。
(注1)モチェとナスカについては,関雄二「アンデス文明概説」・島田泉「ペルー北海岸における先スペイン文化の興亡―モチェ文化とシカン文化の関係」,増田義郎,島田泉,ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS,2000,p.179。
(注2)デヴィッド・クリスチャン,長沼毅監修『ビッグヒストリー われわれはどこから来て,どこへ行くのか――宇宙開闢から138億年の「人間」史』明石書店,2016年,pp.240-241。
○前
20
0
年~紀元前後のオセアニア ポリネシア,メラネシア,ミクロネシア
前2500年頃,台湾から南下を始めたモンゴロイド系の人々
(
ラピタ
人
)の移動は,前750年頃に
は
サモ
ア
にまで到達しました。彼らの拡大は,一旦ストップしますが,南太平洋の島の気候に適応し,現
在
ポリネシア
人
として知られる民族の文化を生み出していくようになります。
彼らは
,
メラネシ
ア
地域にあるニューギニア島の北岸から
,
ポリネシ
ア
地域にかけ
て
ラピタ土
器
を残しました。一番古いものは,紀元前1350年~前750年の期間にビスマルク諸島で製作されたものです。
○前
20
0
年~紀元前後のオセアニア オーストラリア
オーストラリア
の
アボリジナ
ル
(アボリジニ)は,オーストラリア大陸の外との接触を持たないまま,狩猟採集生活を営んでいます。
タスマニア人も,オーストラリア大陸本土との接触を持たぬまま,狩猟採集生活を続けています。
南ロシアでは,スキタイ人の後に勢力を拡大した騎馬遊牧
民
サルマタイ
人
が活躍しています。
また,前3世紀半
ば
セレウコス
朝
から自立したアルシャク(アルサケス)朝パルティアは,急拡大し,〈ミトラダテス2世〉(位123~前87)のときには,メソポタミアからインダス川方面に至る大帝国となりました。ギリシア文化の影響を受けますが,やがて公用語としてアケメネス朝ペルシアと同じアラム語を使用するなど,ギリシア人とは違うのだという自覚が高まっていくことになります。地中海で急拡大してい
た
ロー
マ
とは,メソポタミアをめぐる対立を繰り返すことになります。
中央ユーラシア東部のモンゴル高原で,騎馬遊牧民として初期に勢力を持っていたのは
,
匈
奴
(ションヌー,きょうど)
【本試験H12匈奴に文字はない】
【本試験H18唐・北宋の時代ではない,本試験H19時期】
や
東
胡
(トンフー,とうこ)
・
月
氏
(ユエシー,げっし)
【本試験H19時期】
の3大勢力です。
騎馬遊牧民のライフスタイルは,定住農牧民の中国人からみると,「利を逐(お)うこと鳥が集まるごとく,困窮すれば瓦がくだけ雲が散るごとくに分散する」(『漢書』「匈奴伝」)のように見え,機動性の高い騎馬戦術が恐れられたとともに,早くからヒト・モノ・情報の交流が始まっていました。
初め,匈奴は東胡と月氏は匈奴を支配していたのですが,秦の〈始皇帝〉即位の直後である前209年に匈奴の王となった
〈
冒頓単
于
)
(ぼくとつぜんう、?~前174,在位 前209~前174)
【京都H20[2]】
【本試験H16,本試験H30】
【追H25西晋を滅ぼしていない】
【早・法H31】
のときに強大化します。冒頓は,「バガトゥル」(勇士)の音訳と見られます。「単于」(ぜんう)
【本試験H3ハン(汗)ではない,本試験H12(注を参照)】
は「広くて大きい」という意味で,「天の子」と称して壮大な儀式を行い,天の神を最高神としてあがめる北アジアの遊牧民・狩猟民たちを納得させました。〈冒頓単于〉は,東の東胡を滅ぼし,西
の
月
氏
(げっし)
【本試験H16】
や北の丁零(ていれい)を撃退します。東胡はのちに,烏桓(うがん)
や
鮮
卑
(せんぴ)となります
【共通一次 平1:匈奴が文字を使用していたか問う。もちろん使用していない】
。
(注)2000年度本試験〔3〕問1 資料 「ある中国の史書は次のように記している(中略)。...彼らは家畜を置いながらあちこちに移動している
。
単
于
のもとに置かれた左右の賢王(けんおう)より以下,当戸(とうこ)までの地位にあるものは,それぞれ大は一万騎から小は数千騎に至る戦士を部下に持っていた。」これを読み,「文中の史書に記されている遊牧民集団について述べた文として正しいもの」を選ぶ問題。選択肢は,「①南方の宋と結んで遼を滅ぼした。②独自の文字を用いて記録を残した。③首都カラコルムを建設し,モンゴル高原全域を支配した。④黒海北方の草原地帯で栄えた騎馬文化の影響を受けた。」。
月氏は,匈奴の〈老上単于〉(位前174~前160)に負けて,一部が西に移動し,前130年頃にアム川の上流部に移動した集団は,中国の文献(『史記』や『漢書』)で
は
大月
氏
(だいげっし)と呼ばれるようになりました。ちなみに残ったほうは小月氏と呼ばれました。
丁零は前3世紀頃から活動していたトルコ系の遊牧民です。
このようにして,匈奴は,現在のモンゴル高原を中心とする広い範囲を勢力下におきました。他部族からは「皮布税」などを徴収していました。
匈奴
【本試験H13吐蕃ではない】
の〈冒頓単于〉は,前215年に秦の将軍〈蒙恬(もうてん)〉(?~前210
,
筆
の発明者とされます
【共通一次 平1:文字は「筆を用いて紙にかかれること」が秦代に普通になっていたか問う。「紙」はまだ一般的ではない】
)の30万の軍によっ
て
オルド
ス
地方(黄河が北にぐるっと曲がっているところに当たります)からの撤退を余儀なくされました。しかしその後,秦がたったの15年間という短期間で滅亡したすきを狙い,中国への進入を再度こころみます。
前200年
,
匈
奴
【本試験H4北アジアを支配していたか問う,本試験H7】
【本試験H28突厥ではない】
は40万の兵で中国の前漢に攻め込みました
【本試験H3漢と激しく戦ったか問う】
。このとき前漢
【本試験H7】
の皇帝となっていた
〈
劉
邦
(
高
祖
【本試験H7】
【セA H30煬帝とのひっかけ】
)〉(前247~前195,在位 前202~前195)は,32万の軍勢とともに白登山(はくとさん)で,
〈
冒頓単
于
〉に包囲されるという大ピンチに陥ります。武将が冒頓単于の皇后に賄賂をおくったことで,あやうく難を逃れましたが,多くの兵士が凍傷で指を失ったといわれます
(
白登山の戦
い
)
【早・政経H31敗北し、和親策をとったことを問う】
。
これにより〈冒頓単于〉は後漢に対して優位な条件をつきつけ,毎年中国の物産を贈るように要求しました。漢から匈奴に対する税(貢ぎ物)ですね。単于(ぜんう)というのは,匈奴の王の称号です。単于の称号を初めて名乗ったのは,〈冒頓単于〉の父である〈頭曼単于(とうまんぜんう)〉(?~前209)でした。
アム川の上流部を中心に発展し
た
バクトリア王
国
は,前145年頃に北方から遊牧民が南下して,衰退・滅亡しました。この遊牧民グループの正体がいったい何なのか,月氏
(
大月
氏
)説や
,
スキタイ
人
説
,
サカ
人
説などさまざまですが,定説はまだありません。
大月氏は,バクトリア地方を5つに分けて支配し,紀元前後~1世紀にそのうちのひとつクシャーン(貴霜)が北インドに領土を拡大しました
(
クシャーナ
朝
)。
タリム盆地のさらに南
,
チベット高
原
では,人々は高地でも活動できる家
畜
ヤ
ク
を放牧・遊牧したり,雪解け水がつくる扇状地などの限られた水場を利用して,灌漑農業をしたりしていました。厳しい環境の中で,人々は氏族にわかれて小規模で生活し
,
ボン
教
とい
う
シャーマニズ
ム
を信仰していました。
なお,ユーラシア大陸の北東部の,北アメリカ大陸
の
アラス
カ
(ここには,エスキモー系のユピック人やイヌイット系のイヌピアック人,アリューシャン列島にはアレウト人が居住しています)にほど近いチュコト半島やカムチャツカ半島には,古シベリア諸語を話すチュクチ人やカムチャツカ人が,寒冷地の気候に適応した狩猟・採集生活を送っていました。また,アムール川の河口から,北海道の北にある樺太島に
は
ニヴフ
人
(かつてはギリヤーク人といわれていました)が分布しています。
○前
20
0
年~紀元前後のアジア 東アジア・東北アジア
○前
20
0
年~紀元前後のアジア 東北アジア
中国東北部の黒竜江(アムール川)流域では,アルタイ諸語に属す
る
ツングース語族
系
の農耕・牧畜民が分布しています。
さらに北部には古シベリア諸語系の民族が分布。
ベーリング海峡近くには,グリーンランドにまでつなが
る
ドーセット文
化
(前800~1000
(注
)
/1300年)の担い手が生活しています。
(注)ジョン・ヘイウッド,蔵持不三也監訳『世界の民族・国家興亡歴史地図年表』柊風舎,2010,p.88
◯前
20
0
年~紀元前後のアジア 東アジア
東アジ
ア
...現在の①日本,②台湾(注),③中華人民共和国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国
・
前
20
0
年~紀元前後のアジア 東アジア
現①
日本
日本列島では中国・朝鮮からの移住者の影響で,水稲耕作と青銅器・鉄器の製作を特徴とす
る
弥生文
化
(やよいぶんか)が栄えていました。
中国の歴史書である
『
漢
書
』には,「
農耕がはじまって富が蓄積されるようになり,支配層が各地に現れるようになっていたのです。また,朝鮮半島はユーラシア大陸の先進的な文明を受け入れる"窓口"でありましたから,特に西日本が当時の日本の中でも,より多くの情報やヒト・モノが大陸との間で交流される場所であったのです。
北海道には水稲耕作は伝わら
ず
続縄文文
化
と呼ばれる食料採集文化が栄えていました。
南西諸島にも水稲耕作は伝わら
ず
貝塚文
化
と呼ばれる食料採集文化が栄えていました。
・
前
20
0
年~紀元前後のアジア 東アジア
現③
中華人民共和国
◆
官僚が出身地や血縁に関係なく採用され,法制度の整備により広域支配が実現した
秦が滅び,前202年に
〈
劉
邦
〉(前202~前195)が楚の
〈
項
羽
〉(前232~前202)を倒して
,
前
漢
王朝(前202~後8)を建てました。〈劉邦〉の死後の称号は
〈
高
祖
〉(位前206~前195)です
【本試験H29】
。都は長安に置かれ,長安周辺の15郡では中央から官吏を地方に派遣し
て
郡県
制
を実施するとともに
,
封建
制
も35郡で実施す
る
郡国
制
【追H27前漢の代か問う】
【本試験H16州県制ではない】
がとられました
【本試験H29】
。秦のときに
,
郡「県」
制
による厳しい地方支配が失敗したことを,教訓にしたのです。
税を徴収する対象となったのは,人口のほとんどを占める小規模な自営農民でした
(注
)
。農産物で納める田租(でんそ),銅銭で納める人頭税・財産税の算賦(さんぷ),ほかに労働力を提供する徭役・兵役,市場での取引に課す市租がありました。
(注)渡辺信一郎『中国古代社会論』青木書店,1986。
次の
〈
景
帝
〉(前157~前141)は,土地を与え臣下にしてい
た
諸
侯
【東京H29[1]指定語句】
権力の力が強まることをおそれ,その支配権を削減しようとしました。前154年に,それに抵抗す
る
呉楚七国の
乱
【本試験H4紅巾の乱とのひっかけ】
【本試験H26黄巣の乱とのひっかけ,H31時期(漢代か問う(正しい))】
が起きますが,鎮圧後に実質的に郡県制に変更して中央集権体制を確立しました。彼のときには,〈高祖〉の功臣として高い位を与えられていた「劉邦集団」に属する特権階級(さまざまな出自の人々が含まれていました)が,新しい官僚層に取って代えられる動きもありました
(注
)
。
(注)福永善隆「前漢前半期,劉邦集団における人格的結合の形成」『鹿大史学』64・65巻,p.11~p.22,2018.3。
第7代(カウントの方法によっては第6代)の
〈
武
帝
〉
(前141~前87)
【本試験H15節度使を設置していない】
【追H30魚鱗図冊とは無関係,洪武帝とのひっかけ】
【H27京都[2]】
は,中央集権国家づくりを強力にすすめていきます
【本試験H19洛陽に遷都していない】
。
ま
ず
年
号
(元号)をつくり,諸侯にも同じものを使わせました。また,青銅貨幣
の
五銖
銭
(ごしゅせん)が発行されました
【本試験H22半両銭ではない,H29東周の時代ではない】
。
また,全国
を
州
に分けてその長
の
刺
史
(しし)に
,
郡
の太守
・
県
の県令・長を取り締まらせました。そして,地方長官に将来官僚として使えそうな地方の有力者を推薦させる制度
(
郷挙里
選
(きょうきょりせん))
【本試験H4唐の官吏は「郷挙里選制」によって選ばれ地方豪族出身者が多かったか問う,
本試験H11「各地方で有力者が集まって投票を行い,官吏を推薦する制度」ではない
(注
)
】
【追H29九品官人法とのひっかけ】
を本格的に実施しました。科目には,人間性を見る孝廉(こうれん),学問を見る賢良や文学がもうけられました。
また
,
五経博
士
という職に
〈
董仲
舒
〉(とうちゅうじょ,前176頃~前104頃)
【追H9司馬遷,班固,鄭玄ではない、H19『五経正義』を編纂したのは孔頴達】
を任命して教義を統一させ,彼の提案により儒教を国家の教学としました
(それが〈董仲舒〉によるものだったのか,また儒教が国教といえる扱いとなったのは紀元前後ではないかという異論もあります)
【共通一次 平1】
【本試験H13訓詁学を確立したわけではない】
。
五
経
【本試験H14『論語』は含まれない】
は,
『
春
秋
』,
『
礼
記
』,
『
詩
経
』
【本試験H14リード文の下線部・屈原の詩は収録されていない】
【追H30魏晋南北朝時代ではない】
,
『
書
経
』
【京都H21[2]】
【本試験H14リード文の下線部】
,
『
易
経
』から成ります。
〈武帝〉は豪族の大土地所有をやめさせるため,限田策(げんでんさく)を提唱しましたが,実施はされませんでした。ちょうど同じ頃共和政ローマでは〈グラックス兄弟〉が似たようなことをしています。漢の経済的な基盤は,5~6人の小家族による農業経営から成っており,彼らを保護する必要性が認識されていたのです。
(注)郷挙里選は,「①前漢の武帝の時には,この制度で官吏が推薦された」「③これは,地方長官が推薦した者を,朝廷が官吏として任用する制度であった」「④この制度によって,地方で勢力を持つ豪族の子弟が官吏となった」が正しい選択肢。
また〈武帝〉は積極的に領域の拡大を図ります。
西方
:
タリム盆
地
のオアシス諸都市を服属させることに成功。
南方:秦から独立して政権を築いてい
た
南越
国
【追H20滅ぼしたのが武帝か問う(後漢の光武帝,呉の孫権,唐の太宗ではない)】
を滅ぼ
し
ヴェトナム北
部
へ進出。
東方
:
朝鮮半
島
にあっ
た
衛氏朝
鮮
【本試験H13】
【追H21後漢の光武帝が滅ぼしたのではない】
【慶・法H30】
(前2世紀に漢人
〈
衛
満
〉(えいまん)
【本試験H30】
が建国していた)を滅ぼして,前108
に
楽
浪
(らくろう)
【本試験H13】
・真蕃(しんばん)・臨屯(りんとん)・玄菟(げんと)
の
朝鮮四
郡
を設置
【本試験H3武帝は,匈奴を倒し,その後これを分裂させたわけではない】
。
しかし,〈武帝〉の死後まもなく,臨屯と真番は前82年,玄菟は前75年に,住民の抵抗もあり廃止されました。
広い範囲のさまざまな民族を支配する仕組みが,こうして中国でも確立したわけです。文化を共有する彼らは
「
中国
人
」
「
漢民
族
」としての意識を高めるようになり,〈武帝〉の代には歴史書
『
史
記
』
【追H27時期を問う(アウグストゥスとどちらが古いか)、H28『資治通鑑』とのひっかけ】
【本試験H7時期(倭の五王が朝貢した時期ではない)】
【本試験H31】
【名古屋H31世紀と王朝を問う】
が
紀伝
体
(きでんたい,テーマ別の形式)
【本試験H14編年体ではない】
【追H21紀伝体か問う】
【中央文H27記】
【名古屋H31】
によ
り
漢
字
で書かれ,
〈
司馬
遷
〉
(しばせん,前135?~前93?)
【本試験H9後漢の歴史までは著していない】
【本試験H31『史記』を著したか問う】
【追H9董仲舒のひっかけ、H19】
により編纂されました。伝説上の黄帝から前漢
【本試験H9後漢までではない】
の〈武帝〉に至るまでの歴代皇帝に関することは
「
本
紀
(ほんぎ)」に記されています
【本試験H14始皇帝に関する事績が本紀に書かれているかを問う】
。
漢字のメリットは,読み方は地域によって様々でも,特定の字に特定の意味があるため,意味さえわかればコミュニケーションがとれるという点にあります。
なお,〈司馬遷〉が宦官となったきっかけは,匈奴との戦いで敗れて捕虜になった友人の将軍〈李陵〉(りりょう,?~前74)をかばったことが〈武帝〉の逆鱗(げきりん)に触れ,宮刑(きゅうけい,宦官にされる刑)を受けたためです。ドン底に落とされた〈司馬遷〉ならではの人間への観察眼が豊かな『史書』は,その後に中国の歴代王朝によって編纂された歴史書とは異なる魅力を放っています。『史記』は〈司馬遷〉による個人作品でしたが,のちに正史(せいし)の一つとされ正統化されていきます。
〈武帝〉
【本試験H18光武帝ではない】
の時代には,世界史上重要な一歩を踏み出した人物が現れます。西域に派遣された
〈
張
騫
〉
(ちょうけん,?~前114)
【京都H21[2]】
【追H27仏典の翻訳・布教をしていない】
【本試験H4前漢の人物か問う,本試験H12張角ではない。大秦国に派遣されたのは甘英】
【本試験H21,H24】
です。
彼の切り開いたルートにより,ユーラシア大陸の中心部を東西に陸路で結ぶ
"
シルクロー
ド
"
(
絹の
道
)が開拓されました。以前から,より北方の
"
ステッ
プ=
ロー
ド
"
(
草原の
道
)による東西交流はありましたが,騎馬遊牧民の牛耳る世界であり,農牧民にとっては"死の領域"でありました。
この新たなルート"シルクロード"を安全に行き来するには,モンゴル高原を拠点に北方の遊牧民たちを支配下に置いていた匈奴をなんとかしなければなりません。そこで〈張騫〉は
,
大月
氏
【本試験H24時期】
と結んで匈奴を"挟み撃ち"にすることで,東西交易路の支配を狙いました。大月氏との同盟はなりませんでしたが,匈奴に敗れて西に逃げた月氏を追い,その途中にあったオアシス都市を従えることで,安全に通過することのできる東西交易路を切り開きました。これ以降,タリム盆地のオアシス都市,天山山脈の北
の
烏
孫
(うそん)
【本試験H20キルギスに滅ぼされていない】
,さらに西の康居などをおさえるため
に
西域都
護
(さいいきとご)
【本試験H15節度使ではない】
が置かれました。
オアシス都市には,タリム盆地中央部の北にあり最盛期に10万人を越え
た
亀
茲
(きじ
,
クチ
ャ
)や,疏勒(そろく,カシュガル),沙車(ヤルカンド),玉(ぎょく)
【早・法H31】
の産地の于闐(うてん,コータン;ホータン
【早・法H31】
)などがありました。いずれも乾燥地帯であり,河川やオアシスも小規模だったので,必然的に小規模な都市国家となりました。
さらに
〈
李広
利
〉(?~前90)
を
大
宛
(だいえん,フェルガナ)
【本試験H3『史記』大宛列伝の抜粋をよみ,大宛が定住農耕民であることを読み取る】
に派遣し
,
汗血
馬
(かんけつば)という名馬を手に入れようとしました。
〈武帝〉
【追H20】
は越(ベト)人
の
南越王
国
【追H20】
を滅ぼし,9郡を設置しました。その南端
の
日南
郡
は,現在のフエと考えられています。
前109年には,〈武帝〉によ
り
滇
(てん
)
王
国
が滅ぼされました。これにより,内陸と紅河を結ぶ交易ルートは漢の支配下に入りました。
一方,軍事費が増えて国家財政は苦しくなると,〈桑弘洋〉(前152~前80)の提案で
,
塩
【追H27茶ではない】
【共通一次 平1】
【本試験H18
】
・
鉄
【共通一次 平1
】
・
酒
【共通一次 平1
:
茶
ではない】
【本試験H19,本試験H28砂糖ではない
】
の専
売
【追H27前漢であって後漢ではない】
が実施されました。
また,中小農民の生活安定を図るべく,物価の調整と安定
【本試験H19】
のため
に
均輸
法
・
平準
法
【本試験H14時期(秦代ではない),本試験H24】
【追H21秦代ではない,H30殷ではない】
【H27京都[2]】
が行われました
。
均輸
法
は,価格が下がっている時期に物資を国家が買っておき,価格が高騰した時に市場に販売するもの
。
均輸
法
は,価格が下がった物資を国家が買い,物資の不足により価格が高騰する地域に輸送して販売するもの。国家権力が商人の流通活動に介入したことで,商人の商売は"あがったり"になりました(このような経済現象を現在でも
「
民業圧
迫
」といいます)。
この政策は,漢の財政基盤である5~6人の小家族の農業経営を保護し,商人や職人の活動を抑制したもので,功績を認められた〈桑弘洋〉は御史台(ぎょしだい)の長で,この時期に皇帝の側近としては従来の宰相(さいしょう)に代わりトップとみなされていた御史大夫(ぎょしたいふ)に任命されました。
しかし,有力者に保護を求めた商人・職人や,国家が商業に関与することに対し儒学者からの反発も大きく,〈武帝〉の死後におこなわれた政策論争(塩鉄会議,前81)の結果,酒の専売は撤回されました。翌年〈桑弘洋〉は別件の政争によって処刑されています。官僚の〈桓寛〉は前60年代にこの議論を『塩鉄論』にまとめました。
前1世紀後半には,次第
に
外
戚
(皇后の親族)
や
宦
官
(かんがん,皇帝につかえる去勢された男子)が政治に介入してくるようになります
【本試験H14秦代ではない】
。
西アジ
ア
...現在の①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ(注),⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
◆ポエニ戦争でカルタゴに勝利したローマが東地中海に進出する
ローマが東地中海沿岸へ進出する
この時代、「西アジア」にイタリア半島のローマが食い込むように拡大していきます。ローマは「ヨーロッパ」の国だから、「アジア」の歴史とは関係ないというのは、現代のわれわれによる「後知恵」。地理的に「西アジア」に進出していったローマの歩みを、ここでも一度確認しておきましょう。
この時期のローマ
は
第二次ポエニ戦
争
(前218~前201)
【本試験H14時期(前4世紀ではない)】
で、北アフリカの現在のチュニジアに拠点を置くカルタゴと、地中海の交易の覇権をめぐり争っていました。
その後ローマ
は
第三次ポエニ戦
争
(前149~前146年)で
,
カルタ
ゴ
を最終的に滅ぼします
【本試験H22】
。
同じ頃,前148年にはマケドニア戦争で
,
マケドニ
ア
も
属
州
としています。カルタゴとマケドニアの両方の地で活躍した〈スキピオ〉(小スキピオ,前185~前129)は,マケドニアで捕虜となった〈ポリュビオス〉
(
ポリビオ
ス
,前204?~前125?)
【追H21『アエネイス』の著者ではない】
【東京H22[3]】
【H30共通テスト試行 『歴史』から引用】
【同志社H30記】
を保護しました。〈ポリュビオス〉)はローマ史を書きながら政体の移り変わり(循環)について考えた『歴史』で知られます。彼はローマの国政には、コンスルという王政的要素
【H30共通テスト試行】
、元老院という貴族
【H30共通テスト試行「僭主」ではない】
的要素、民衆という民主制的要素
【H30共通テスト試行】
が存在しており、これら三者が互いに協調や牽制をしあってバランスをとっていると論じました。
新たに獲得し
た
属
州
は公有地でしたが,貴族(パトリキ)や騎士(エイクテス)などの有力者はこれを占有し,奴隷にはたらかせて小麦や果樹を栽培して大儲けしました。彼らが占有した大所領のこと
を
ラティフンディ
ア
【追H28中世西ヨーロッパではない】
といいます。
属州か
ら
ブド
ウ
や
オリー
ブ
といった安価な産品がイタリア半島に流れ込むようになると
【本試験H7】
,広い土地を持たな
い
中小農
民
【本試験H7「ローマ軍の主力をなしてきた人々」】
【追H25】
は価格競争に負け
て
没
落
【本試験H7】
【本試験H21】
していきました。
中小農民は,ローマ
の
重装歩
兵
の主力
【本試験H21】
【追H25騎兵ではない】
であったため,彼らが没落したことでローマ軍も弱体化していきます。都市には土地を失った者(無産市民)が流れ込み,彼らに穀物や娯楽を与える有力者が,力を付けていくようになります。また,ローマ周辺の公有地は借金の返済のために売られて私有地となり,土地を買い集めた富裕層(ふゆうそう)と中小農民との格差は開くばかりでした。
そんな中,
〈
グラックス兄
弟
〉
(兄ティベリウスは前162~前132,弟ガイウスは前153~前121)
が
改
革
をしますが
【本試験H2富裕な階層の利害を代表するわけではない】
【本試験H14時期(前4世紀ではない)】
,貴族と無産市民との対立は止まりません。兄は前133年
に
護民
官
(ごみんかん)に就任し,リキニウス=セクスティウス法を復活させ,貴族の所領を土地のな
い
無産市
民
に分けるべきだと主張しました。農民が土地を持ち自作農になっていれば,兵隊として国防を担う余裕ができるはずだと考えたのです。しかし,元老院を軽視したことから,大土地所有者である元老院内の保守派により殺されてしまいました。
兄の遺志を受け継いだ弟〈ガイウス〉も前123年
に
護民
官
になりましたが,反対派に攻められて自殺しました。
それ以降のローマは
"
内乱の1世
紀
" という混乱期に入ります。
〈グラックス兄弟〉の改革が失敗した後,ローマの根本的な問題は解決されぬまま,大土地所有はエスカレートしていきました。しかし,そんなことでは中小農民は土地を失い,ローマ軍の兵士として活動できなくなってしまい,国防は手薄になってしまう。
そこで,無産市民たちに給与・武器・食料を支給して軍隊とする有力者が現れるのです。この有力者,自分の財力で軍隊を編成するのですが,無産市民にとっては,自分たちに「兵隊」という仕事を与えてくれた有力者は"恩人"です。こうして,"親分"である有力者に,多くの無産市民が"子分"がつかえるようになると,やがて有力者どうしの争いが生まれ,ローマはますます混乱します。
元老院の貴族と結んだ有力者グループ
を
閥族
派
といい,民会の人々と結んだグループ
を
平民
派
といいます。有力者は,貴族や貧民に武具を支給して味方につけ,自分のプライベートな武装集団
(
私
兵
【東京H29[1]指定語句】
)を組織し,各地で起こる暴動を鎮圧しつつ,勢力を拡大させていきました。私兵には退役すると征服地が分け与えられ,ローマ市民権も与えられました。特に,前1世紀には,閥族派の
〈
ス
ラ
〉(前138~前78) が,平民派の
〈
マリウ
ス
〉(前157~前86)と権力をめぐり激しく衝突しました。
前91~前88には「同盟市」に位置づけられた諸都市
が
ローマ市民
権
【本試験H2】
を求めて反乱を起こし
(
同盟市戦
争
【本試験H2ローマ市民権を要求して結束したか問う,本試験H7属州内諸都市ではない】
【東京H29[1]指定語句】
),前88~前64年には,東方のポントス王〈ミトリダテス6世〉による小アジアにおける反乱が勃発し,長期間にわたる戦争となりました。
そんな中,前73年に剣奴の
〈
スパルタク
ス
〉
【追H26】
が反乱を起こし(前73~前71),多数の奴隷
【追H26コロヌスではない】
とともにイタリア半島を縦断してローマは大混乱に陥ります。反乱後は奴隷の待遇は改善に向かい,奴隷制をゆるめて小作人制が導入されるようになっていきます。
これらの危機に対し,鎮圧しているのは有力者の子弟で,有効な手が打てな
い
元老
院
は支持を失っていくのは当然です。
それに対し,有力者がめざす目的は,ローマの政治の主導権を握ることでした。そのために邪魔な存在である元老院を抑える必要がある。そこで,閥族派の
〈
ポンペイウ
ス
〉
(前106~前48)
【本試験H6元老院と同盟したスパルタクスを打倒していない,本試験H9オクタヴ(ママ)ィアヌスとの共同統治ではない】
が平民派の
〈
カエサ
ル
〉
(前100~前44)
【本試験H6,本試験H7】
【H30共通テスト試行「共和政期末の内戦を勝ち抜いたかに見えた」が、ローマの国政を「壊そうとしているという疑いをかけられ、暗殺されてしまった」人物を答える(オクタウィアヌスではない)】
が,コンスルの経歴を持つ富豪で軍人の
〈
クラッス
ス
〉(前115~前53)
【本試験H6】
を誘って,裏でローマの政治を動そうと団結しました(〈クラッスス〉はスパルタクスの乱を鎮圧した指揮官です)。
この3者の提携関係をのちに
,
第一回三頭政
治
といいます。平民派の〈カエサル〉は財務官(クアエストル)や法務官(プラエトル)など,名だたる官職を経験したエリート軍人。前59年には執政官(コンスル)に上り詰めています。
前58年に,
〈
カエサ
ル
〉(前100~前44)
【本試験H6元老院に接近していない】
【本試験H31『ガリア戦記』を記したか問う】
は
,
ガリ
ア
地方(現在のフランス)
【本試験H7ローマの全市民に市民権を与えていない,『ゲルマニア』を書いていない】
に遠征して,小麦がたくさんとれるこの地方を属州とする手柄をたてました。この地方に分布していた人々の様子は,事細かに
『
ガリア戦
記
』
【本試験H7『ゲルマニア』ではない】
【本試験H31】
【追H18ハンニバルとは無関係、H24ハンニバルによるものではない】
に記されています
(注)
。
(注)当時〈カエサル〉が「ゲルマン人」と呼んだ人々は、「当時いわゆるゲルマン語系の言葉を用いていたとは今日考えられていない」。南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.16。
前53年にアルシャク(アルサケス)朝パルティア
【本試験H6】
との戦争への遠征中に
〈
クラッス
ス
〉(前115~前53)
【本試験H6パルティアに遠征したのはポンペイウスではない】
は,メソポタミア方面のカルラエ(現在のトルコ南東部)で戦死し,第一回三頭政治が崩れます。絶妙なバランスを保っていた三人の三角形は崩れ,残された2人による1対1の対立になってしまいました。
〈
ポンペイウ
ス
〉(前106~前48)は〈カエサル〉がガリア遠征で手柄をたてたことを嫌い,元老院側に寝返り,〈カエサル〉を排除しようとしました。しかし,意を決してローマに戻ってきた〈カエサル〉は,元老院の勢力とともに〈ポンペイウス〉を撃退することに成功。このときの〈カエサル〉の決意は,「賽(さい)は投げられた」という名言が表しています。〈カエサル〉は元老院議員が属州を私物化し,ローマの伝統である「共和政」にすがるも中小農民の没落になんら方策を打たなかった旧来の支配層が,ローマの危機をもたらした"悪の根源"だと考えていたのです。
〈ポンペイウス〉が前48年にエジプトで暗殺されると,〈カエサル〉に歯向かう者は誰もいなくなりました。前45年にはインペラートル(将軍)の称号が与えられ,自らを"神"と崇(あが)めさせるようになり,誕生した月もその名をとって〈ユリウス〉(英語のJulyの語源)と呼ばせました。暦の制定にあたってはエジプト
の
太陽
暦
をローマに導入し,自ら名をとっ
て
ユリウス
暦
【本試験H2太陽暦から発達したか問う】
【本試験H23グレゴリオ暦とのひっかけ】
とし,従来のメソポタミア由来
の
太陰太陽
暦
(たいいんたいようれき)に代えました。この暦はのちにローマ教会がうるう年を修正し,現在もつかわれてい
る
グレゴリウス
暦
となっています。日本で「西暦」といえばこの暦のことを指します。
〈カエサル〉は元老院を軽視し
,
独裁
官
(
ディクタート
ル
)として独裁政治をおこないましたが,ローマの伝統である共和政を支持する〈カッシウス〉(前87~前42)らのグループににらまれ,〈ポンペイウス〉像の前で前44年に暗殺されてしまいます。
暗殺グループの一人の顔を見て,「
〈
ブルートゥ
ス
〉
,お前
も
と言ったというセリフは,特にイギリスの劇作家〈シェイクスピア〉(1564~1616)の劇『ジュリウス=シーザー(ユリウス=カエサルの英語読み)』のセリフ「Et tū, Brūte? Then fall, Caesar!」(エト トゥー ブルーテ?)で有名です。〈ブルートゥス〉(前85~前42)は〈カエサル〉に父親代わりとして育てられた人物であり,〈カエサル〉は「ブルートゥスまでが暗殺に加わっているというなら,もう仕方ない」と諦めたのです。
さて,〈カエサル〉
【本試験H15ポンペイウスではない】
亡き後のローマでは,
〈
オクタウィアヌ
ス
〉(前63~後14)
【追H26】
【本試験H17ローマ法大全を編纂していない】【H30共通テスト試行 暗殺されていない(カエサルとのひっかけ)】
とカエサルの部下
〈
アントニウ
ス
〉(前83~前30)
【追H26ハドリアヌスではない】
【本試験H4プトレマイオス朝を滅ぼしていない,本試験H6レピドゥスではない】
と,政治家の
〈
レピドゥ
ス
〉(前90~前13)
【本試験H6アントニウスとのひっかけ】
【本試験H15クラッススではない】
が,正式に「国家再建3人委員会」に任命され,政治を立て直そうとしました(第二回三頭政治
【追H26】
)。国家はいま緊急事態であるとして,共和政を維持しようとするグループを弾圧し,国家権力を強めようとしたのです。
〈オクタウィアヌス〉の父〈ガイウス〉は,そこまで名門の家柄ではありませんでしたが,母が〈カエサル〉の姪(めい)でした。つまり,〈カエサル〉は〈オクタウィアヌス〉にとって大伯父(おおおじ)にあたります。早くから〈カエサル〉に才能を見出され,相続人に指名されたのでした。〈オクタウィアヌス〉はイタリア半島以西,〈アントニウス〉は東方の属州,〈レピドゥス〉は北アフリカを担当としましたが,その後すぐに内乱となり,反旗をひるがえした
〈
レピドゥ
ス
〉を失脚させた〈オクタウィアヌス〉と,
〈
アントニウ
ス
〉との一騎打ちになりました。当時,〈オクタウィアヌス〉を擁護し,〈アントニウス〉を「独裁者になるおそれがある」と批判したのは,雄弁家として名高い
〈
キケ
ロ
〉
(前106~前43)
【本試験H17ローマ建国史は著していない】
【追H29『ガリア戦記』を著していない】
【法政法H28記】
です。
一方,
〈
アントニウ
ス
〉
【本試験H4オクタウィアヌスとのひっかけ,本試験H6レピドゥスではない】
【本試験H29】
は
,
プトレマイオス朝エジプ
ト
の
女
王
〈
クレオパトラ7
世
〉(前69~前30)
【追H26アメンホテプ4世ではない】
【本試験H4,本試験H6「エジプトの女王」,本試験H12アレクサンドリアを建設していない】
【立教文H28記】
と関係を深め
【本試験H15「協力関係」にあったかを問う】
,ローマの属州を与えてしまいますが,結局前31年
に
アクティウムの海戦
【東
京
H13[1
]
指定語句
】
【本試験H17カイロネイアの戦いとのひっかけ,本試験H29,本試験H31サラミスの海戦とのひっかけ】
で〈オクタウィアヌス〉
【本試験H31テミストクレスではない】
に敗れました
【本試験H29勝っていない】
。アクティウムというのは,エジプト沖ではなくて,ギリシアのペロポネソス半島沖です。
〈アントニウス〉は〈クレオパトラ〉とともにここに海軍を集結させていたのですが,緒戦で「負けた」と判断した〈クレオパトラ〉が戦線を離脱し,〈アントニウス〉も慌ててそれを追いかけると,取り残された海軍は〈オクタウィアヌス〉軍によって全滅してしまいました。アレクサンドリアに逃げた〈アントニウス〉には,"女を追いかけて逃げた"という悪評の立つ中,〈クレオパトラ〉が死んだという話を聞き,前30年に自殺を図ります。最期は,実は死んでいなかった〈クレオパトラ〉の腕の中で迎えたと言われています。その〈クレオパトラ〉も,前30年にコブラの毒で自殺しました。こうして
,
プトレマイオス朝エジプトは滅
び
【本試験H4】
,〈オクタウィアヌス〉による地中海統一が成し遂げられたのです。地中海はローマの内海となり,"我らが海(マーレ=ノストルム)"と讃えられました。
〈アレクサンドロス大王〉の後継者の建てた国は,これで全てなくなったので,東方遠征以来の
「
ヘレニズム時
代
」の終わりとして区分することもできます(ヘレニズム時代とは,19世紀のドイツ人歴史学者〈ドロイゼン〉(1808~84)の用語です)。
◆内乱を終わらせた〈オクタウィアヌス〉が帝国全体の統治権を獲得する
一人の支配者の全ローマ支配を元老院が認めた
エジプトからローマに凱旋した〈オクタウィアヌス〉(前63~前14、77歳という長生き)は,内乱中に手にしていた軍隊の指揮権をいったん元老院(=国家)に返したものの,前27年に元老院
が
アウグストゥ
ス
(
尊厳
者
)
【追H27時期を問う】
【本試験H3,本試験H6】
という称号を彼に与え,多くの属州の支配を任せたので、再び軍隊の指揮権を確保しました。アウグストゥスの称号はつまり,死後は神として礼拝される存在になるということです。
軍隊の指揮権
(
インペラート
ル
)
【早・政経H31「市民の中の第一人者」ではない】
を手にした彼は、管轄する属州に自分の代理人を総督や軍団司令官を送り込みました。
またさらに、元老院の管轄する属州における総督を選ぶ権利(人事権)も手に入れたことで、帝国全体の統治権を一挙におさめたのです。
なお、コンスル(執政官)、護民官(トリブヌス=プレビス)、最高神祇官(じんぎかん、ポンティフェクス=マクシムス)の役職も手に入れています。
一見独裁者のようですが,〈オクタウィアヌス〉は「君主のようにふるまえば,〈カエサル〉のように共和政を重んじるグループに目をつけられ,暗殺されるかもしれない。形の上では,自分は「市民のうちの一人」ということにしておこう」と考えていました。
しかも,大土地所有をする名だたる有力者の集まる元老院を敵に回すのは,現実的ではありません。そこで
,
アウグストゥ
ス
(亡くなったら"神"になる神聖な存在)が,あくまで元老院と協調して広大なローマの領土を支配す
る
元首
政
(
プリンキパトゥ
ス
)
【本試験H3ドミナートゥスではない】
という体制が成立したのです
【本試験H9「名目的には元老院などの共和政の伝統を尊重するものだった」か問う】
【H29共通テスト試行 ローマ皇帝(アウグストゥスからネロまで)の系図】
【追H25テオドシウス帝のときではない】
。
また、後継者は彼の私的な相続人(〈ティベリウス〉(位14~37))に受け継がれ、ローマは「王朝」の支配する国家となっていきます。
ただ,ローマの地方支配はゆるやかで,行政の大部分は自治の与えられた地方
の
都
市
に任せられていました。ローマは中国と比較しても役人が少なく,公共建築や土木請負や徴税請負などは民間に請け負われていました。ケルト人の定住都市に軍団を駐屯(ちゅうとん)させること
で
ロンディニウ
ム
(現在のイギリス・ロンドン)
【本試験H2ローマの都市か問う】
【本試験H16ギリシア人の植民市ではない】
,コローニア=アグリッピナ(現ドイツ・ケルン)
,
ウィンドボ
ナ
(現オーストリア・ウィーン)
【本試験H2ローマの都市か問う】
【本試験H16ギリシア人の植民市ではない】
,
ルテティ
ア
(現フランス・パリ
【東京H14[3]】
)
【本試験H2ローマが建設した都市か問う】
【本試験H16ギリシア人の植民市ではない】
など,現在にまで残る都市が建設されました。
地図を見ると,地中海とインド洋の間には陸地があり,一番狭くなっている部分
を
スエズ地
峡
といいます。首の皮一枚でユーラシア大陸とアフリカ大陸がつながっている格好です。
スエズ地峡を超えると,アラビア半島の南側
に
紅
海
があって,そこを南東に通り抜ければ,インド洋
(
アラビア
海
)に出ることができます。ナイル川から紅海アケメネス〔アカイメネス〕朝ペルシアの〈ダレイオス1世〉の建設した運河が存在したといわれていますが,クレオパトラの時代にはすでに泥に埋まってしまっていたようです。
定住民・遊動民の交流を背景に,両者の活動域の間を中心につくられた広域国家
(
古代帝
国
)が,広域地域ごとに特色を発展させていく。
南北アメリカ大陸の中央アメリカと南アメリカのアンデスに,新たな担い手により各地で政治的な統合が発展する。
(1)
ユーラシア
ユーラシア大陸の東部では,東南アジア大陸部で政治的な統合がすすみ,インドシナ半島南東部にオーストロアジア語族クメール人
の
扶
南
や,オーストロネシア語派チャム人
の
チャンパ
ー
【東京H30[3]】
といっ
た
港市国
家
も出現。
東アジアでは,中国
に
ユーラシア大陸の中央部には西アジア
の
パルティ
ア
と,中央ユーラシアから南アジアに進出し
た
クシャーナ
朝
東西交易路
(
シル
ク=
ロー
ド
)のオアシス国家との中継交易で栄える。
ユーラシア大陸西部で
は
ローマ帝
国
(前27~1453)
が「ローマの平和」といわれる安定的な支配を実現する。
これら定住農牧民地帯を支配した
「
古代帝
国
」は,国家機構や理念を整備して広域を支配するが,相次ぐ戦争と開発により衰退に向かうことになる。
(2)
アフリカ
サハラ以南のアフリカでは中央アフリカ(現・カメルーン)か
ら
バントゥ
ー
諸語系が東部への移動をすすめ,先住
の
ピグミ
ー
系の狩猟採集民
,
コイコ
イ
系の牧畜民を圧迫する。エチオピア高地でもアフロ=アジア語
族
セム語
派
によるイネ科のテフなどの農耕文化が栄え,ナイル川上流部ではナイル=サハラ語族ナイル諸語の牧畜民
(
ナイロート
人
),"アフリカの角"(現・ソマリア)方面ではアフロ=アジア語
族
クシ語
派
の牧畜民が生活する。
また,この時期には東南アジアの島しょ部からオーストロネシア語族
の
マレー
人
がアウトリガー=カヌーによってインド洋を横断し,マダガスカル島に到達したとみられる。
(3
)
南北アメリカ
北アメリカ大陸では南西部にバスケット=メーカー文化(トウモロコシ農耕),中央アメリカにはメキシコ高原ではトウモロコシ農耕民の文化,南アメリカ北部にはキャッサバ農耕民の文化が発達。
中央アメリカでは
,
ティオティワカン文
明
(メキシコ高原),サポテカ文明(オアハカ渓谷),マヤ地域の都市国家群が栄える。
南アメリカ北西沿岸部
に
モチェ文
化
で政治的な統合が発展し,神殿建造物がつくられる。
(4
)
オセアニア
オセアニア東部のサモアに到達してい
た
ラピタ
人
も,600年までにさらに西方のマルケサス島(現・フランス領ポリネシア)に徐々に移動。サンゴ礁島の気候に適応し
た
ポリネシア文
化
を形成しつつある。
○
紀元前後
~
20
0
年のアメリカ 北アメリカ
北アメリカ
の
北
部
には
,
パレオエスキモ
ー
が
,
カリブ
ー
を狩猟採集し
,
アザラ
シ
・
セイウ
チ
・
クジ
ラ
などを取り
,
イグル
ー
という氷や雪でつくった住居に住み,犬ぞりや石製のランプ皿を製作するドーセット文化を生み出しました。彼らは,こんにち北アメリカ北部に分布す
る
エスキモー民
族
の祖先です
。
モンゴロイド人
種
であり,日本人によく似ています。
現在
の
エスキモ
ー
民族は,イヌイット系とユピック系に分かれ
,
アラス
カ
にはイヌイット系のイヌピアット人と,イヌイット系ではないユピック人が分布しています
。
北アメリカ大陸北
部
とグリーンランドにはイヌイット系の民族が分布していますが
,
グリーンラン
ド
のイヌイットは自分たちのことを「カラーリット」と呼んでいます。
北アメリカ各地では,現在のインディアンにつながるパレオ=インディアン(古インディアン)が,各地の気候に合わせて狩猟・採集を基盤とする生活を営んでいます。
北東部の森林地
帯
では,狩猟・漁労のほかに農耕も行われました
。
アルゴンキアン語
族
(アルゴンキン人,オタワ人,オジブワ人,ミクマク人)と
,
イロクォア語
族
(ヒューロン人,モホーク人,セントローレンス=イロクォア人)が分布しています。
○
紀元前後
~
20
0
年のアメリカ 中央アメリカ
メキシコ高原のティオティワカンの影響力が強まる
◆
マヤ地域では神殿を中心とする都市が大規模化している
中央アメリカ
の
マヤ地
域
(現在のメキシコ南東部,ベリーズ,グアテマラ)では前2000年頃から都市が形成され始めていましたが,メキシコ湾岸のオルメカ文化が前4世紀に衰退すると代わってこの地域
の
マヤ文
明
が台頭していきます。マヤ低地南部
の
ティカ
ル
や
カラクム
ル
といった都市が代表的です。
紀元後250年までのマヤ文明は
,
先古典
期
に分類されま
す
(注
)
。前1世紀には「長期暦」という種類の暦法が考案されていました。
(注)実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館,2016,p.23。
この時期のマヤ文明は,先古典期に区分され(前2000年~前250),さらに以下のように細かく分けられます。
・先古典期
前
期
:前2000年~前1000 メキシコ~グアテマラの太平洋岸ソコヌスコからグアテマラ北部のペテン地域~ベリーズにかけて,小規模な祭祀センターや都市が形成。
・先古典期
中
期
:前1000年~前300年:祭祀センターや都市が大規模化
・先古典期
後
期
:前300年~後250年:先古典期の「ピーク」
◆
メキシコ高原南部のオアハカ盆地では,サポテカ人の都市文明が栄える
メキシコ高原南部のオアハカ盆地では,サポテカ人の都市文明
が
モン
テ=
アルバ
ン
を中心に栄えます。
◆
メキシコ高原中央部では,ティオティワカンに都市文明が形成される
ティオティワカン
紀元の直前頃から後250年頃までに階段状ピラミッドをともなう大都
市
ティオティワカ
ン
(前150~後650)が出現。
「死者の道〔死者の大通り〕」は,北に対して東に15度25分だけ正確にズラして建設され,8月12日または13日と,4月29日または30日に太陽がちょうど真上を通るようになっています。おそらくもともと太陽の通り道に祭祀の対象があって,それをもとにして都市が計画されたと考えられています。
「死者の道」の北方に,巨大な
「
月のピラミッ
ド
」が100年以降に建設されていきます。
サンフアン川をはさんで南方にはケツァルコアトルの神殿が,後2世紀以降に建設され,周囲にはエリート層の住居跡もつくられていきます。
ティオティワカンの信仰は多神教で,水の神トラロック,火の神ウエウエテオトル,人の皮を剥ぐ神シペ=トテク,羽毛のあるヘビ型の神ケツァルコアトル(「羽毛のある」という意味)が信仰され,のち
の
アステカ王
国
〔メシーカ〕にまで継承されます。
装飾品などに貝殻が多く使用されており,中央アメリカの広範囲に交易ネットワークを形成していたとみられます。ティオティワカンは黒曜石の山地も近く,当方のユカタン半島のマヤ諸民族や,南方のオアハカ盆地のサポテカ人にも,影響が残っています。ただ,この「影響」が軍事的な征服を指すのか,文化的な影響に留まるのかをめぐっては,様々な説があります。
ティオティワカンの50km南のクィクィルコは,シトレ火山が200年頃に噴火し,壊滅しました
(注
)
。ティオティワカンの火の神ウエウエテオトルなどに,クィクィルコの文化の影響がみられるという説もあります。
チョルーラ
ティオティワカン南方のチョルーラは,紀元1世紀以降,ティオティワカンに対して独立を維持します。当時のメキシコ高原のナンバー2の勢力です。
(注)芝崎みゆき『古代マヤ・アステカ不可思議大全』草思社,2010,p.50。
○
紀元前後
~
20
0
年のアメリカ カリブ海
カリブ
海
...現在の①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島
○
紀元前後
~
20
0
年のアメリカ 南アメリカ
アンデスのナスカ,モチェに政治的統合すすむ
◆
アンデス地方では沿岸部にナスカ,モチェが栄える
ナスカ,モチェ
南アメリカでは,従来の神殿を中心とする地域的なまとまりが,紀元前後頃には何らかの原因により限界を迎えています
(注
1)
。
社会問題を解決し新しい政治的・行政的な社会を築き上げるのに成功した勢力は,あらたな経済基盤や信仰を中心に人々をコントロールしようとしました。
一つ目は,アンデス地方
北
部海岸
の
モチ
ェ
(紀元前後~700年頃)です。
モチェでは人々の階層化もみられ,労働や租税の徴収があったとみられます。
信仰は多神教的で,神殿には幾何学文様やジャガーの彩色レリーフがみられます。クリーム地に赤色顔料をほどこした土器や,金製の装飾品がみつかっています。
経済基盤は灌漑農業と漁業です。
二つ目は,アンデス地方
南
部海岸のナスカ(紀元前2世紀~700年頃)です
ナスカといえば「地上絵」ですが,当初から地上絵が描かれていたわけではなく,当初
は
カワ
チ
遺跡の神殿が祭祀センターであったと考えられています。
◆
アマゾン川流域にも定住集落が栄えている
アマゾン川流
域
(アマゾニア)の土壌
は
ラトソ
ル
という農耕に向かない赤土です。しかし前350年頃には,木を焼いた炭にほかの有機物をまぜて農耕に向く黒土が開発されています。
○
紀元前後
~
20
0
年のオセアニア ポリネシア,メラネシア,ミクロネシア
オセアニア東部のサモアに到達してい
た
ラピタ
人
は,600年までにさらに西方のマルケサス島(現・フランス領ポリネシア)に徐々に移動。サンゴ礁島の気候に適応し
た
ポリネシア文
化
を形成しつつあります。
○
紀元前後
~
20
0
年のオセアニア オーストラリア
オーストラリア
の
アボリジナ
ル
(アボリジニ)は,オーストラリア大陸の外との接触を持たないまま,狩猟採集生活を営んでいます。
タスマニア人も,オーストラリア大陸本土との接触を持たぬまま,狩猟採集生活を続けています。
◆
モンゴル高原では鮮卑の遊牧帝国が勢力を拡大する
紀元後1世紀後半~2世紀に,黒海の北岸
に
アラ
ン
人という騎馬遊牧民が出現します。サルマタイ人の支配域よりも東方です。彼らはローマの歴史書だけでなく,中国の史書に初めて登場する西ユーラシアの騎馬遊牧民です(『魏志』西戎伝,『後漢書』に阿蘭として登場します)。言語的にはイラン系です。
(注
)
アラン
人
はサルマタイ人(前4~後4)から分かれた民族グループ。サルマタイはのちに,アオルソイ,シラケス,王族サルマタイ,ロークソラノイ,イアジュゲス
,
アラ
ン
に分かれていました。藤川繁彦『中央ユーラシアの考古学』同成社,1999,p.243。
モンゴル高原では
,
匈
奴
の一族〈日逐王比〉が単于に即位できなかったことから,南匈奴を率いて漢に服属し
〈
呼韓邪単
于
〉(こかんやぜんう,位48~55)を名乗りました。これによ
り
匈奴は南北に分
裂
し,衰退することになります。そのうち,北匈奴の勢力10万戸余りを吸収し,東方から移動してきたのが,東胡の末裔といわれ
る
鮮
卑
です。
2世紀中頃,後漢の〈桓帝〉の代には,
〈
檀石
槐
〉(だんせきかい)が鮮卑の族長となり,後漢を攻め,東の夫余(ふよ),西
の
烏
孫
(うそん)
【本試験H20キルギスに滅ぼされていない】
,北のテュルク系の丁零を討伐して,勢力を拡大しました。
中国
で
黄巾の
乱
が起きると,戦乱を逃れた中国人の中には,鮮卑のもとに移動するものも現れ,中国文化の影響を受けるようになっていきました。
中央ユーラシアの中央部では,バクトリアを拠点
に
クシャーナ
朝
が東西交易の利を得て栄えています。
中央ユーラシア北方に広がる
,
針葉樹林
帯
(
タイ
ガ
)
や
ツンド
ラ
地帯(夏の間だけコケが生える地帯)の人々が
,
狩猟採集やトナカイ遊
牧
を行っていました。また,バルト海沿岸に
は
フィン
人
や
サーミ
人
,北極海沿岸内陸部に
は
コミ
人
などのウラル語族フィン・ウゴル語派の民族です。
○
紀元前後
~
20
0
年のアジア 東アジア・東北アジア
○
紀元前後
~
20
0
年のアジア 東北アジア
中国東北部の黒竜江(アムール川)流域では,アルタイ諸語に属す
る
ツングース語族
系
の農耕・牧畜民が生活しています。このうち,南部にはツングース語系の〈朱蒙〉が建国したといわれ
る
さらに北部には古シベリア諸語系の民族が分布。
ベーリング海峡近くには,グリーンランドにまでつなが
る
ドーセット文
化
(前800~1000
(注
)
/1300年)の担い手が生活しています。
(注)ジョン・ヘイウッド,蔵持不三也監訳『世界の民族・国家興亡歴史地図年表』柊風舎,2010,p.88
◯
紀元前後
~
20
0
年のアジア 東アジア
東アジ
ア
...現在の①日本,②台湾(注),③中華人民共和国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国
・紀元前後
~
20
0
年のアジア 東アジア
現①
日本
◆
弥生時代の日本では政治的な統一が進み,中国の皇帝への使いも送られた
このころ
の
日本列
島
は
,
中国
の
『漢書』が「安帝の永初元年,倭国王帥升等,・・・生口百六十人を献じ・・・」と記録するように,107年には倭国の王
〈
帥
升
〉(生没年不明)が,奴隷(=生口)160人を皇帝に献上したのだといいます。この〈帥升〉は一般には「すいしょう」と読むとされていて,日本史上で初めて実名の記録がのこっている人物ということになります。
その後,2世紀後半に,小さな国家どうしが争う大規模な戦乱があったと,『漢書』は伝えています
(
倭国大
乱
(わこくたいらん)。「桓霊の間」に起きたというので,2世紀後半ということがわかるのです。各地には,防御的機能を備え
た
高地性集
落
や
環濠集
落
がつくられた跡が残っています。交易ルートをめぐり,日本列島のさまざまな勢力が,朝鮮半島の勢力と関係を持っていたとみられます。
・紀元前後
~
20
0
年のアジア 東アジア
現③
中華人民共和国
前漢末期
(前202~後8)
において,讖緯説(しんいせつ)
【本試験H16】
という思想を用いて実権を握ったのは外戚の
〈
王
莽
〉(おうもう,漢字の「モウ」の「大」の部分は本当は「犬」,前45~後23)
【京都H21[2]】
【追H9前漢のあとをうけた王朝か問う,
本試験H12,H30王建とのひっかけ】
【本試験H16】
です。
これは「天のお告げは,目に見える形でどこかに現れる」という当時強い影響力を持っていたに考えです。人間の世界が天との関わりを持つという考えは前漢の五経博士〈董仲舒〉(とうちゅうじょ)によっても
〈
王
莽
〉
(位8~23,莽の「大」の部分は厳密には「犬」)
【京都H21[2]】
【本試験H3この時期に封建制が創始されたのではない】
【本試験H16,本試験H28則天武后ではない】
の建て
た
新
【本試験H4則天武后の周とのひっかけ】
【本試験H14秦ではない,本試験H16】
は
,
周
【本試験H14,本試験H26明ではない】
の時代の政治を理想とし
【本試験H12儒教を排斥したわけではない】
,現実離れした政策で民衆の支持を失い,
農民によ
る
赤眉の
乱
(せきびのらん)
【本試験H4紅巾の乱とのひっかけ】
【本試験H19紅巾の乱のひっかけ,H27】
【追H25隋ではない】
が起こりました。
これを鎮圧した豪族出身の
〈
劉
秀
〉(りゅうしゅう,光武帝(こうぶてい),在位25~57年)
【H29共通テスト試行 楽浪郡を設置していない】
でした。
前漢の皇帝の〈景帝〉(位前157~前141)の末裔といわれます。
〈
劉
秀
〉は25年に中国を統一して漢を復興し
(
後
漢
),都は雒陽
(らくよう,漢は五行思想で"火"の徳を持つとされたので,さんずいの付
く
豪族
【追H28】
とは,地方で大土地を所有している人々で,すでに前漢の半ばから現れていました。豪族によっては本当に"大"土地で,山や川も持っているし,家畜も飼っている。一族を率いて農業だけでなく職人に物を作らせたりして自給自足的な経営をしていました。農民には自由民だけでなく,隷属民であ
る
奴
婢
(ぬひ)
【追H28「没落した農民を、奴隷や小作人として使役した」か問う】
も含まれ,豪族によっては奴婢を百人も千人も持っている。さらに,領地内の人々を保護する見返りに彼らを兵隊として組織する。つまり
,
〈
しかし,国家の安定のカギは,国民が安心してご飯を食べられることにあるのは今も昔も同じ。前漢の〈文帝〉・〈景帝〉から〈武帝〉の時代にかけては,農民の暮らしは非常に良かったのですが,政治の混乱が続き,農村にもやがて貧富の差が生まれるようになっていました。
そこでまず,
数々の改革をしましたが,中国の国家の基本は儒教であるという原則をしっかりと確認しました。〈王莽〉は儒学者を重用しましたが,このことが,結果的に儒学を学ぶ人を増やすことにもつながっていました。29年には首都の雒陽(らくよう)に太学(たいがく,官僚養成学校)が設置されました
。
儒学が国教
化
されたのはこのときであるという説もあります。
ただ,〈光武帝〉の子が仏教の儀式をおこなっていたように,すでに中国には紀元前後に西域か
ら
仏
教
が伝わっていたとみられます
【本試験H23殷代には伝わっていない】
【追H19時期】
。
最晩年の57年には,日本の九州地方にあっ
た
奴
国
(なのくに,なこく,ぬこく)が朝貢使節を送っています。中国の皇帝は,自らを中心とし東西南北の周辺民族を儒教の価値観でランク付けして臣下にしようとしたのです。これ
を
冊
封
(さくほう)といいます
【京都H21[2]記述(説明)】
【H29共通テスト試行 皇帝から総督に任命されたり郡国制の中に取り込むわけではない。皇帝が代わりに朝貢国に金と絹を支払うわけではない。】
。このことは『後漢書』
【H29共通テスト試行 史料】
に記録されていますが,その解釈をめぐっては異論もあります
【H29共通テスト試行 聞き書きや手書きによる編纂の過程で文字が変わったりする可能性について考えさせた】
。奴国に与えられた印(いん)と綬(じゅ)のう
ち
金
印
は,博多湾の志賀島(しかのしま)で見つかっていますが,本物かどうかには疑問ももたれています
【H29共通テスト試行 図版と史料】
。
儒教では,皇帝に仕え『春秋三伝異動説』などを著した
〈
馬
融
〉(ばゆう,79~166)と,その弟子の
〈
鄭
玄
〉(じょうげん,ていげん,127~200)
【本試験H7】
【追H9董仲舒とのひっかけ】
によ
る
訓詁
学
【共通一次 平1:考証学ではない】
【本試験H7】
【本試験H13董仲舒による確立ではない】
が大きな成果をあげました。訓も詁も,「意味」という意味です(訓読みの訓はこれが語源です)。焚書坑儒によって失われていた儒教の文章や,その読み方の解読作業がすすめられたのです。なにせ古いものだと周の時代に書かれた文章ですから,800年ほど前の文章になるわけです。日本で800年前というと鎌倉時代の古文ですよね。読み方がわからなければ,違う解釈が生まれてしまうので,官学(官僚になるために必要な学問。国家公認の学問)としてはふさわしくありませんよね。
さて,後漢
【本試験H3前漢ではない】
の時代に
〈
班
超
〉
(はんちょう、Bān Chāo、32~102)
【追H28ビザンツ帝国に使者を派遣していない】
【本試験H4,本試験H12「後漢では,班超が西域都護となり,西域経営を推進した」か問う】
【本試験H14,H24ともに時期】
が西域に派遣され
【本試験H14ビザンツ帝国に使者を送っていない】
,クシャーナ朝を撃破し,西域の都市国家を制圧し
て
西域都
護
【本試験H12】
【本試験H24】
としてこれらの支配をまかされました。
94年にはパミール高原よりも東の50余りの国が,後漢に服属しています。『虎穴(こけつ)に入らずんば虎児(こじ)を得ず』という故事成語があります。"宝くじを買わなければ,宝くじには当たらない"というような意味です。
〈班超〉が,西域の東部にある都市国家
の
桜
蘭
(ろうらん前77年に鄯善(シャンシャン,ぜんぜん)と改称)を手なずけようと交渉をしていたところに,匈奴の使者もやってきて,一触即発の危機になったところ,「いまやらなければ,いつやるんだ。36人でもやれる。」とわずかな部隊で匈奴を夜襲し成功した故事に基づいています。
97年には,〈班超〉の部下の
〈
甘
英
〉(生没年不詳)
【本試験H4前漢の人物ではない,本試験H12】
がローマ(大秦国)
【本試験H3遊牧民ではない,本試験H12張騫ではない】
に派遣されました。このころのローマは五賢帝時代(90~180年)にあたります。〈甘英〉は安息(アルシャク(アルサケス)朝パルティア)を通ってシリア(条支国)まで向かったと言われますが,結局引き返しました。中継貿易で利益をあげていたアルシャク(アルサケス)朝パルティアの妨害ではないかとされています。
ちなみに〈班超〉の兄である
〈
班
固
〉(32~92)
【京都H21[2]】
【追H9董仲舒のひっかけ、H24資治通鑑を著していない】
【本試験H17孔頴達とのひっかけ】
は,父〈班彪〉の構想を受け継ぎ正史(せいし)として
『
漢
書
』(かんじょ)を紀伝体の形式で
【本試験H30編年体ではない】
〈明帝〉(位57~75),〈章帝〉(位75~88)の下で編纂(へんさん)し〈班固〉の死後に妹の〈班昭〉(45?~117?)が完成させました。後漢の王朝を"正義"として,前の時代の前漢・新までの歴史書を書いたというところが,筆者の自由な主観が認められた『史記』とは異なる点です。中国ではこの『漢書』をもとに,後の王朝によって正史("正しい"歴史)が編纂されていくようになりました。
166年には,ローマ帝国の五賢帝の最後を飾る〈マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝〉(位161~180)の使者を名乗るものが,ヴェトナム中部
の
日南
郡
【本試験H27】
に来航しました。彼らが名乗ったのは
「
大秦国王安
敦
」
(だいしんこくおうあんとん)
【本試験H4マルクス=アウレリウス=アントニヌスか問う】
【本試験H18アルシャク(アルサケス)朝パルティアの使節ではない,本試験H27】
【H30共通テスト試行 時期(14世紀あるいは1402~1602年の間ではない)】
という名前。真偽は不明ですが,アントンはアントニウスっぽい!?ということで,この頃インド洋から中国にいたるまでの交易ネットワークが存在したことが推測できます。
また,後漢の時代には,宦官の
〈
蔡
倫
〉(さいりん,生没年不詳)
【追H27仏典の翻訳・布教をしていない】
【東京H17[3]】
【慶商A H30記】
が,製紙技術を改良し,当時の皇帝〈和帝〉に献上しています。従来は,板や竹をひもでくくって巻き上げ
た
木
簡
や
竹
簡
【追H28「死者の書」が記された媒体ではない】
が用いられていましたが,かさばりますし,削りとって改ざんすることが可能なことが問題でした。ちなみに1枚のシートを「冊」(さく),冊を何枚も重ねて巻き上げたものを「巻」(かん)といいます。また,〈許慎〉(きょしん)が
『
説文解
字
』という,小篆(しょうてん)という書体の漢字を9353字収録した部首分類付きのものとしては最古の字書を著しています。小篆に代わって,隷書(れいしょ)という書体も用いられるようになりました。現在では新聞の題字に使われています。
後漢末期には"お子ちゃま皇帝"が多く,第9代〈沖帝〉(2歳で即位,毒殺?),10代〈質帝〉(7歳で即位,毒殺),11代〈桓帝〉(14歳で即位),12代〈霊帝〉(12歳で即位)と続きます。皇帝の嫁の家族である外戚,地方の豪族出身の官僚,さら
に
宦
官
(かんがん)には政治に付け込み利益をため込むすきがあったわけですが,とくに皇帝の身辺の世話をする宦官と皇帝の結びつきが問題視されたようです。
宦
官
とは,宮廷に仕えるために去勢(きょせい)した男子のことです。宮廷につかえている人が女性だと,権力を得ようとして皇帝の子を生もうとする者が現れがちです。反対に男性の場合でも,皇帝のかわいがっている女性に近づいて,その子をもうけることで,権力の座に付こうとする者が出てこないともかぎりません。もちろん宦官は宦官で,皇帝のそばにおつかえするわけですから,政治への介入は起こりえます。それでも皇帝にとっては,男性・女性よりは中性的な宦官のほうが都合がよく,宮廷の複雑な儀式や習わしを伝える上で,宦官は必要不可欠な存在となっていきました。なお,宮廷における宦官の存在は中国に限ったものではなく,他地域にも見られます。
〈桓帝〉のときに「わるいのは宦官だ」と,外戚や豪族がみずからを「清流」と称して,宦官200人余りを逮捕しました。これ
を
党錮の
禁
(とうこのきん;党人の禁錮,166年と169年)
【本試験H8 3世紀のことではない】
【追H24時期(晋が呉を滅ぼした年、九品中正の制度創始との並べ替え)】
といいます。
このときに訓詁学(くんこがく)者の〈鄭玄〉(じょうげん)
【追H9董仲舒とのひっかけ】
も牢屋に入れられています。儒学者ら批判的な知識人は"清流"(せいりゅう)を称し,宦官勢力(="濁流"と称されました)の腐敗に抵抗しました。
政治が混乱するなかで,「蒼天已死,黄天当立」(蒼天すでに死す,黄天まさに立つべし)をスローガンとす
る
黄巾の
乱
(こうきんのらん)
【本試験H
6
紅
巾の乱ではない】
【本試験H22,H29共通テスト試行 時期(グラフ問題),本試験H31後漢で起きたか問う】
【慶文H30李自成の乱とは無関係】
がおきて,混乱のさなかに滅亡します。漢は五行思想では火徳ですから赤でした。これを倒すには,土徳の黄というわけで,頭に黄色いハンカチを巻いたわけです
(#小説 吉川英治『三国志』https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52410_51061.html青空文庫)
。
36万もの農民を率いたのは
〈
なお,四川(しせん)や陝西(せんせい)などの西部では,
〈
張
陵
〉(ちょうりょう,生没年不詳)
が
五斗米
道
(ごとべいどう)を起こしていました。農民に米5斗(=500合。90リットル相当)を差し出させ,まじないで病気を治療して信者を増やし,〈張陵〉を天師とする宗教国家を形成しました。215年に〈曹操〉に降伏しましたが,のち
の
道
教
(天師道→新天師道→正一教と名前が変わる)
【セA H30朝鮮で成立していない】
の原型です。
最後の皇帝の〈献帝〉(位189~220)はわずか8歳で即位。身の危険を感じた皇帝は,魏を建国していた
〈
曹
操
〉(155~220)を頼ります
【本試験H29曹操は焚書・坑儒は行っていない】
(#漫画 王欣太『蒼天航路』)
。
〈曹操〉は事実上の支配権を握りますが,皇帝の位は要求せず,魏王の地位にとどまりました。彼は「漢が理想としたように,すべての人々から平等に税をとるのは無理だ」と考え,資産別に徴税をする戸調制(こちょうせい)をはじめました。また兵役も,素人に担当させるのではなく,特定の家柄に世襲させました(兵戸制(へいこせい))。
大土地所有者が各地にはびこっている以上,「資産のあるやつから,ある分をとる」ほうが現実的だったからです。でも,豪族は税をとりに来た官僚の立ち入りを実力で阻止することも多く,自分の土地が特別な土地
(
荘
園
(しょうえん)
【本試験H6「荘園」は「辺境防衛に携わる人々に賦与された土地」ではない】
)であると主張するようになっていました。
豪族に対抗するには,戦乱の中で土地を失った農民たちが豪族の大土地に流れこむのを防ぐしかありません。そこで,彼らを収容するため
に
屯田
制
(とんでんせい)を実施しました。
これら〈曹操〉による改革は,どれも時代の変化に対応したものばかりです。屯田制の内容は,のち
に
西
晋
の
占田・課田
法
(せんでんかでんほう)に受け継がれたとみられます(詳しい実施内容は不明)。
しかし,その息子
〈
曹
丕
〉(位220~226)が,すでに有名無実だった〈献帝〉から禅譲される形で皇帝に就任し,後漢は滅びました。このへんの〈曹丕〉の立ち回りは入念で,〈献帝〉から皇帝位を譲られる→〈曹丕〉ことわる→〈献帝〉譲る→〈曹丕〉ことわる→〈献帝〉譲る→〈曹丕〉即位というプロセスを踏んでいます。この儀礼は,今後も歴代王朝に受け継がれていきました。自分から積極的に皇帝位を奪ったわけではないんだ,というパフォーマンスでもあります。
当時流行してい
た
五行
説
(ごぎょうせつ。この世のすべてを5つの元素の相互関係で説明する考え)という思想によると,漢王朝の元素は「火」とされたため,〈曹丕〉は魏の初めの年号を「火」を打ち消すために「土」の元素に当たる色(黄)を付けた黄初(こうしょ)としました。五行説ではこの世の元素
は
木
→
火
→
土
→
金
→
水
の順序で生成を繰り返すとされていたのです。
・紀元前後
~
20
0
年のアジア 東アジア
現⑤・⑥
の朝鮮半島
北海道の北に広がる海
を
オホーツク
海
といい,ユーラシア大陸の北東部に面しています。この大陸地域には,タイガという針葉樹林が広がり,古くからで古シベリア諸語
の
ツングース
系
の狩猟民族が活動していました。
彼らの中から,前1世紀に鴨緑江の中流部
に
高句
麗
(こうくり,コグリョ,前1世紀頃~668)という国家が生まれ,2世紀初めには勢力を拡大させていきます。
朝鮮半島には楽浪郡が置かれていましたが,中国で〈王莽〉(おうもう)が一時政権を握ると支配から脱しようとする動きがありました。しかし30年に〈光武帝〉によって鎮圧されます。
朝鮮半島の南
部
には
,
韓
人
による国家が形成されていました。南西部に
は
馬
韓
(2世紀末~4世紀中頃)の首長国が50あまり,南東部に
は
辰
韓
(しんかん,前2世紀~356)の首長国が12か国,南部に
は
弁
韓
12か国(前2世紀~4世紀)
【慶・法H30】
が並び立っていました。これらの様子は『三国志』の「魏書」東夷伝からわかります。
●
紀元前後
~
20
0
年のアジア 東南アジア
インド洋には季節ごとに違う方向から風が吹くことが知られ,それを利用した航海術が,1世紀頃にアラビア海で発達しました。西アジアとインドとの交易ネットワークは,東南アジアの交易ネットワークともつながっていきます。おそらく3世紀頃には,アラビア半島を一気に横断できるようになっていたと考えられます。
ここでい
う
ネットワー
ク
というのは,誰かがその完成図を持っていて,それに従い整備していくようなものではありません。
みんながそれぞれ目的をもって,それぞれの意志で物を交換するために航路を開拓していった結果,最終的にそれらが"網の目"のように結びつく,複雑な全体を構成するようになったものを,ネットワークというのです。
しかし,よく見てみると,ネットワークには多くの人が必ず通る地点というものがあります。これを「ノード」といいいます。そこからまた枝葉のように,それぞれの目的地に向かって出発するような地点のことです。「結節点」とか
「
交通の要
衝
(ようしょう)」ともいわれます。
こうした地点を握った国家が,この時期にいくつか出現します。
まず,ヴェトナム南部のメコン川下流で
,
扶
南
(ふなん,1世紀~7世紀)
【追H9時期】
【本試験H16時期・カンボジアに興ったとはいえない,本試験H25】
【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】
が成立しました。マレー半島からベンガル湾にかけての交易ルートを握って栄えます
(注
)
。
外港であ
る
オケ
オ
(オクエオ)
【本試験H22ピューの都ではない,本試験H25扶南の港かどうか問う・地図上の位置を問う】
からは,ローマの金貨,インドの神像,中国の後漢時代の鏡が出土しています
(注
)
。当時はまだマラッカ海峡を通るルートは主流ではなく,大陸から横顔の象の鼻のように垂れ下がっ
た
マレー半
島
を,いくつかのルートにより陸路で横断するルートが使われていました。中国の資料によると,この地域を通り積荷をインド洋側に運ぶことができるよう
,
モン
人
などのいくつもの政治権力が現れました。
北ヴェトナムでは,40年頃,〈徴側〉(チュンチャク,?~43)と〈徴弐〉(チュンニー,?~43)の姉妹が,紅河流域の住民とともに反乱を起こしました
(
徴
(チュン
)
姉妹の反
乱
)。この2人は,土着の首長の娘たちです。漢は〈馬援〉(ばえん,14~49)により鎮圧し,ドンソン文化は衰退して漢人の文化が拡大していきます。
ヴェトナム中部の日南郡からは
,
チャム
人
【共通一次 平1:,モン,クメール,タミルではない】
が独立し,中国側から
は
林
邑
(りんゆう,192~19世紀)と呼ばれ,南シナ海の交易ルートを支配します。この頃,南シナ海でも季節風を利用した交易が導入されるようになって,人や物資の移動が活発化したのです。ヴェトナム中部のフエ付近にあっ
た
日南
郡
は,東南アジアの交易の中心地となります。
さらに,中国の文献によると,2世紀末にヴェトナム中部沿岸の港市
を
チャム
人
が統一。中国側の文献で
は
林
邑
という名で現れますが、チャム人
【共通一次 平1:モン,クメール,タミルではない】
【本試験H5】
【追H25クメール人ではない】
の側から
は
チャンパ
ー
【東京H30[3]】
【共通一次 平1「ヴェトナム中・南部に拠点をおいて,古来,海上貿易で栄え,南下するヴェトナム人との間で抗争をくりひろげた民族」を問う】
【本試験H4タイではない,本試験H5真臘ではない】
【本試験H24地域を問う,H29時期と地図上の位置を問う】
【追H25クメール人ではない】
と呼ばれています。
都はインドラプラ。季節風交易を通してインドとの関わりも深かったことが特徴です。
166年には,ローマ皇帝の使者
「
大秦国王安
敦
(だいしんこくおうあんとん)」を名乗る者が,日南郡に来航しました。五賢帝の一人〈マルクス=アウレリウス=アントニヌス〉のことではないかと考えられています。
ジャワ島には,おそらく諸薄(しょはく。ジャワ?)中心とする交易ネットワークもあったと考えられています。クローブ(丁字)という独特な風味のある香辛料は
,
マル
ク(
モルッ
カ)
諸
島
でしかとれませんが,すでに中国に輸出されていました。マルク諸島は,フィリピン諸島の南東に位置します。
ここまで見て,ちょっと変だなと思いませんか? 林邑,扶南,諸薄。全部漢字です。文字史料が少ないために,中国人を始めとした外国人による記録に頼らざるをえないのです。
扶南も林邑も,人口密度の増えた農牧民の世界の国家とは違う成立過程を持つ国家です。良い港には,多くの船が集まります。その治安を維持し,安全に取引が行われるように保障する代わりに,内陸から川で運ばれてきた食料や飲み水を提供したり,船を修理するドックを整備します。その財源を,船から税として商品をとりたてるのです。多くの税をとるには,交易が盛んになったほうが良いので,別の港市を支配したり,船の通り道の安全を確保しようとするのです。農牧民の支配が中心ではないので,領土を支配しようという意図はあまり強くありません。このようなタイプの政治権力を
,
港市国
家
といいます。
なお早くも1世紀前後には,東南アジア島しょ部
の
マレ
ー=
ポリネシア
系
の人々の中に,アウトリガー=カヌーを用いてインド洋を渡り,アフリカ大陸の南東部
の
マダガスカル
島
に到達していたのではないかという説もあります。
○
紀元前後
~
20
0
年のインド洋海域
インド洋海
域
...インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島,モルディブ,イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域,マダガスカル,レユニオン,モーリシャス,フランス領マヨット,コモロ
季節
風(
モンスー
ン)
交易が始まる
1世紀に成立した
『
エリュトゥラー海案内
記
』
【本試験H4史料が転用される】
という航海のための地理書にも,南インドの港の情報が載っています。エリュトゥラー海とは,紅海からインド洋方面までの海域を指すものと思われます。
冒頭部分はこんな感じです。
《アラビア半島南部のアデンから昔の人々は,今よりも小さい船でアラビア半島を北上して航海していたが,〈ヒッパロス〉というギリシア人が,初めてアラビア海を横断するルートを発見した。それ以来,南西風のことを"ヒッパロス"と呼ぶようになったそうだ》(意訳)
別の箇所では,《インド西南海岸のこれらの商業地へは,胡椒と肉桂(シナモン)とが多量に出るため,大型の船が航海する。西方からここに輸入されるものは,きわめて多量の貨幣,黄玉(トパーズ),織物,薬用鉱石,珊瑚(地中海産),ガラス原石,銅,錫,鉛などである。また東方や内陸からは,品質の良い多量の真珠,象牙,絹織物,香油,肉桂,さまざまの貴石,捕らえられた亀が運び込まれる》とあります
【本試験H4引用された箇所】
。
上記にあるように,インド南西部のケーララからは,その地を原産とす
る
コショ
ウ
【本試験H11アメリカ大陸が原産ではない】
が産出され,東南アジアのタイマイ(亀の甲羅)や香料とも盛んに交易されました。
なお早くも1世紀前後には,東南アジア島しょ部
の
マレ
ー=
ポリネシア
系
の人々の中に,アウトリガー=カヌーを用いてインド洋を渡り,アフリカ大陸の南東部
の
マダガスカル
島
に到達していたのではないかという説もあります。
●
紀元前後
~
20
0
年のヨーロッパ
○
紀元前後
~
20
0
年のヨーロッパ 中央・東・西・北ヨーロッパ,イベリア半島
東ヨーロッ
パ
...現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッ
パ
...現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
イベリア半
島
...現在の①スペイン,②ポルトガル
西ヨーロッ
パ
...現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
北ヨーロッ
パ
...現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン
◆
ローマ皇帝は元老院の権威を利用し,自身を頂点とする体制をつくった
軍国主義的なローマは、戦争で領域を拡大した
かつてローマ帝国が対外戦争をたびたび起こしたのは「自分たちの同盟国の安全を確保するための防衛的・受動的な意味合いが大きい」と考えられていました(防衛的帝国主義)。
しかし今日では、ローマでは軍事的な才能のある人物に高い官職が与えられ、また、戦争で勝利した周辺勢力を軍事的同盟国として兵員を提供させた点に注目し、軍国主義的な色彩が強かったと見られています(この論争を「ローマ帝国主義論争」といいます
(注1)
)。
〈アントニウス〉を倒した
〈
オクタウィアヌ
ス
〉(位 前27~後14)は,前27年に元老院か
ら
アウグストゥ
ス
の称号を授与されましたが
,
プリンケプ
ス
((市民の
)
第一人
者
【本試験H3ドミヌス(主人)と呼ばれていない】
【追H24非自由民の呼称ではない】
【東京H29[1]指定語句】「第一人者」
)を自称していました。「元老院」の筆頭議員という意味です。ですから,元老院が存在することで,はじめて〈オクタウィアヌス〉も権力をふるうことができるわけです。
しかし,〈オクタウィアヌス〉には帝国各地の軍隊や行政に対する命令権であ
る
インペラート
ル
が認められ,次第に元老院のもつ権力は皇帝の権力に吸収されていきました。
インペラートルを持っている〈オクタウィアヌス〉や,彼の後継者たちの地位を,日本語では訳しようがなかったため,まったく別物である中国の
「
皇
帝
」という言葉が使われるようになりました。
皇帝には,インペラートル以外にもたくさんの称号が与えられ,その中でも重要とされたのが,
「
アウグストゥ
ス
」や
「
インペラート
ル
」の他に,
「
プリンケプ
ス
」それに
「
カエサ
ル
」でした。〈カエサル〉は,ほんらい人の名前なのですが,その死後に神聖視され,そのまま称号になりました。日本語では直接翻訳しようがないので,便宜上,中国の「皇帝」という言葉を使って表しているだけです。
なお近年では,「帝国」という言葉は,「広い範囲にわたって多くの民族や地域を支配する国」という意味で使うことが一般的になっています
(
注
2
)
。
さて,数多く与えられた称号の中でもオクタウィアヌスは
「
プリンケプ
ス
」という称号を選んで名乗り,「皇帝といっても,ローマの一市民に過ぎない」という点を強調しました。そこで,彼の統治を
,
元首
政
(
プリンキパトゥ
ス
)
【本試験H3専制君主政(ドミナートゥス)ではない,本試験H9】
【大阪H31論述(ローマの政体の変遷)】
といいます。
皇帝の神格化も図られ,〈アウグストゥス〉はギリシアの神々(オリンポス12神)の影響を受けたローマの愛と美の神ウェヌス
(
ヴィーナ
ス
)の系譜に位置づけられました。ウェヌスは〈カエサル〉家の始祖とされる神でもあり,〈カエサル〉とともに神格化されたことがわかります。鎧(よろい)を着た彼の全身像の足元には,ウェヌスの系譜を示すキューピッドの姿があります。
なお、ローマ帝国の官僚の定員は、約6000万人の人口に対してわずか300人。皇帝は、各官僚や軍に裁量権を与えて行政決定を任せていたため、皇帝が行政に励まずとも帝国が麻痺することはありませんでした。
なぜそれでなんとかなっていたかというと、地方都市に地方行政を丸投げしていたからです。ほとんどの都市は人口1万程度で、約1000の都市がありました。都市の自治を担ったのは、政務官・参事会・民会で、ローマ中央の機構を真似たものでした
(注3)
。
(注1) 神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.36。
(注2) 山本勇造編『帝国の研究―原理・類型・関係』(名古屋大学出版会,2003
杉山正明(1952~,モンゴル史学者)は,歴史上実在した「帝国」の類型として以下の9点を挙げ,次のように整理しています。
(1)単一の超越的・絶対的な権威・権力をもつとされる君主・指導者・王統のもとに,異種の臣民たちが,下部単位となる氏族・部族・集団・共同体・社会などをこえて包摂される政治的統合体
(2)同一の君主・王権・象徴のもとに,複数の地域権力・政治体が合一もしくは連携する政治形態
(3)単一の国家・王国・政治体をこえて,ゆるやかに地域と地域をむすびつける多言複合型の広域の連合体
(4)なんらかの理念・思想・価値観・宗教などのもとで,人種・民族・地域や,時には文明圏の枠さえもこえて広域にひろがりゆく政治体,もしくは擬似政治体――
(5)大小の複数の下位にある国家・王国・政権・政治体・在地権力や多様な地域・社会・民族などをよりあわせたSuper State。単一の中央機構をそなえ,もしくは時にそれを補う複数の権力体からなる統合力をもつ――
(6)中央権力とその他の国家・政治体・地域権力・民族集団・社会勢力などとの間に,なんらかの支配―被支配,もしくは統制―従属,中心―周辺などの関係が存在している状態――
(7)中小の地域・国家・社会を乗りこえ,大空間における時にゆるやかな,時には緊迫した交流・交易・流通・往来などの関係や連携を推進・演出する政治・経済・文化機構。中核となる政治体そのものは,小規模もしくは拠点支配型でかまわない――
(8)本国とは別に,おもに海外に植民地・属領・自治領などの附属地・遠隔領・飛び地をもち,その全体がゆるやかにむすびつく広域国家システム。行政・軍事・経済・文化などの各面にわたって,本国を中心にかたちづくられた人的な環流構造が重要なささえとなる――
(9)近隣もしくは周辺・遠隔の国家・地域に対して,強制的・独善的・威圧的な支配力をふるう覇権的国家――
(注3) 神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、pp.40-41。
◆
ローマは大規模な建築技術を発達させる
ローマは今でも中心部にさまざまな遺跡が残されていますが,中でも大規模なの
は
フォ
ロ=
ロマー
ノ
です(フォロ(原形はフォルム)は広場という意味のラテン語です)。近辺には巨大
な
パンテオ
ン
(万神殿(ばんしんでん))や,会堂(バシリカ),公共浴場(テルマエ)が多数建設されました
(#漫画 ヤマザキマリ「テルマエロマエ」)
。
また,各地に水道橋が建設され(南フランスのニームにあるポンデュガールや,スペインのセゴビア(ラテン語読みでセゴウィア)のものが有名です),上水(じょうすい)が都市に安定供給されました。
ローマ帝国では属州支配を担当させる官僚数は多くなく,地方の財政は都市の有力者による「寄付」によって成り立っていました。彼らは,社会的なインフラ建設の援助や保全維持活動をおこなうことで,自らの権威を高めようとしたのです。
コロッセウ
ム
【東京H28[3]】
【本試験H27ペルセポリスにはない,H29共通テスト試行 オリンピアの祭典とは無関係】
【追H25中世に建設されていない】
(ローマにある円形闘技場。実際には188×156mなので楕円形に近く,5万人収容)や,ギリシア風の劇場,戦車の競走場なども多数作られ,都市の貧民に対する
「
パンとサーカ
ス
」(食料と娯楽)の提供は,人気取りとして皇帝や有力者にとって欠かせないものとなりました。
◆
「征服されたギリシア人は猛きローマを征服し
た
(Graecia capta ferum victorem cepit)
ローマの学芸は,ギリシア文化の影響を受け発展
ローマの学芸は,ギリシア文化の影響を受け,それをさらに個性的で活力あるものとして発展させていきました
(ギリシア文化のほうがローマ文化よりも"優れている"という考えは,近代のヨーロッパ諸国において形成されていったストーリーといえます (参考)高田康成『キケロ―ヨーロッパの知的伝統』岩波書店,1999)
。
〈
リウィウ
ス
〉
(前59?~後17?)
【本試験H17キケロではない,本試験H26】
【本試験H8「リヴィウス」】
【追H21カエサルではない】
に
『
歴
史
(ローマ建国史;ローマ史)』
【本試験H17,本試験H26世界史序説ではない】
【本試験H8】
【追H21】
の編纂を命じ,ローマ建国から〈アウグストゥス帝〉までの歴史を書かせました。
多くの名作を生んだ
〈
アウグストゥ
ス
〉
【本試験H8】
【セA H30コンスタンティヌスとのひっかけ】
の治世は「ラテン文学黄金期」といわれます。「征服されたギリシア人は,猛きローマを征服した」の名言をのこした抒情詩人
〈
ホラティウ
ス
〉(前65~前8)
【本試験H8『アエネイス』を書いていない】
が有名です(ただし,ギリシア文化がローマ文化よりも優れていたという話には,後世のヨーロッパ人が誇張したストーリーという面もいなめません)。
〈
ウェルギリウ
ス
〉
(前70~前19)
【本試験H17『労働と日々』ではない】
【本試験H8ホラティウスではない】
【追H21ポリビオスではない】
はトロイア戦争に題材をとった長編叙事詩
『
アエネイ
ス
』
【本試験H8】
【追H21】
を,〈アウグストゥス〉の命により書き上げました。「ナルシスト」の語源になったナルキッソスのエピソードなどが治められた,ギリシア・ローマ神話がテーマとなっている『変身物語(転身譜)』や『恋の技法(愛の歌)』で有名な
〈
オウィディウ
ス
〉(前43~後17)もこの時代の作家です。
ほかに,ギリシア人の歴史家・地理学者
〈
ストラボ
ン
〉(前64または前63~後23)
【法政法H28記】
は,
『
地理
誌
』や歴史書(現存せず)を記しました。
◆
〈アウグストゥス〉の死後,1世紀末までのローマ帝国は混乱が続く
〈アウグストゥス〉は,ライン川以東のインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々勢力とも戦いましたが,紀元後7年
の
トイトブルク森の戦
い
で,戦死者20000人以上を出して敗北しました。インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の諸民族の指導者は〈アルミニウス〉(前16~後21)です。その後,次の〈ティベリウス〉帝のときに,なんと
か
ガリ
ア
(現在のフランス)への進入は防いでいます。
さて,皇帝〈アウグストゥス〉は自分の子を跡継ぎにしたかったようですが,次々に先立たれてしまいました。
〈アウグストゥス〉が77歳という当時では長命で亡くなると、妻の連れ子の
〈
ティベリウ
ス
〉(位14~37)が継ぐことになりました。
ここにローマは「王朝」が支配する国家となったのです。
〈ティベリウス〉は〈アウグストゥス〉の支配体制を維持したものの,治世は不安定化します。
その後を継いだ〈アウグストゥス〉の家系の
〈
カリギュ
ラ
〉(位37~41)は当初期待を持って迎えられましたが,後に「暴君」になったと伝えられる人物です。壮大な見世物を上演するのが好きだった彼は,本物の船を使って浮き桟橋を作らせて,愛馬インキタトゥスにまたがり,〈アレクサンドロス大王〉の胸当てをつけて橋を渡ったそうです。そんな彼は元老院と対立して暗殺され,〈クラウディウス帝〉(位41~54)が後を継ぎますが,また暗殺されてしまいました。
〈クラウディウス帝〉の妻の連れ子が後を継ぎ,
〈
ネロ
帝
〉(位54~68)
【本試験H8家庭教師の人物セネカを問う,本試験H10時期を問う】
として即位しました
。
ストア
派
【本試験H8】
の哲学者
〈
セネ
カ
〉(前4?~後65)
【本試験H8】
をブレーンにつけて政治をはじめましたが,のちに
さて,〈ネロ〉は哲学者
〈
セネ
カ
〉を陰謀に加担したという疑いから,自殺に追い込みましたが,彼自身も属州総督の反乱が原因で,自殺しました。
79年に
は
ヴェスヴィオ
山
が大噴火し,ふもとの都
市
ポンペ
イ
は火山灰に埋もれ,16世紀陶に偶然発見されるまで街の様子はタイムカプセルのように保存されることになります(◆世界文化遺産「ポンペイ,エルコラーノ,トッレ=アヌンツィアータの考古地区」,1997)。
このとき『博物誌』
【本試験H2天文学者プトレマイオスではない】
を著した
〈
プリニウ
ス
〉(23?24?~79)は,市民の救出と調査に向かうも,火山ガスにより亡くなってしまいました(#マンガ ヤマザキマリ「プリニウス」)。
◆都市の有力者がローマ皇帝の支配を支えていた
都市有力者は、帝国を「後ろ盾」に支配
ローマ市の皇帝政府から元老院議員・騎士身分の人々が帝国各地の統治のために派遣されたものの、その総数はたったの300人ほど。
それだけで支配が貫徹できたのは、各地にあった都市の自治と都市の有力者の協力のおかげです。
この時期にはローマ風の制度・生活を採用する都市も増え、都市を行政単位として都市有力者に支配を任せました。都市有力者にとっても、帝国を後ろ盾にすることで支配をスムーズにおこなうことができるわけです。
ローマ「文明」を受け入れることは都市有力者にとって「名誉ある」こととされ、2世紀頃には多くの都市内に民会・都市参事会がもうけられるようになっていきました
(注)
。
(注)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.25。
◆
パレスチナで活動した〈イエス〉の改革思想が,1世紀後半にはユダヤ教から分離する
東方思想の影響下に,キリスト教がゆっくり形成へ
パレスチナでユダヤ教徒の
〈
イエ
ス
〉が貧民らの支持を得て宗教的な集団を形成しました。しかし,支配的なユダヤ教徒のグループからローマ帝国に告発され,処刑されます。
〈イエス〉は神の愛がすべての人類に分け隔てなく与えられるものと説き,その教説は弟子(使徒)らによって発展・継承されました。
このうちパレスチナのユダヤ人の共同体を越えて布教するべきとした小アジア生まれの〈パウロ〉(?~65?)を中心に,〈イエス〉の思想が理論的にまとめられていきます。
しかし,初期のキリスト教は「ユダヤ教イエス派」とでもいうべき集団であり,ユダヤ教徒と儀式や見た目の上でも大きな違いはありませんでした。
しかし,その伝統ゆえにローマ帝国内での信仰の自由が認められていたユダヤ教徒に対し,かたくなにローマの儀式への参加をかたくなに拒む「ユダヤ教イエス派」は,3世紀の猛烈な迫害に比べると穏やかではあるものの,次第に当局から目を付けられる存在となっていきます。
例えば,ローマ帝国皇帝の〈ネロ〉は64年に起きたローマ大火の責任を「ユダヤ教徒イエス派」におわせ,
〈
ペテ
ロ
〉
【本試験H30】
と
〈
パウ
ロ
〉
【本試験H30】
を殉死に追い込んだとされます。このとき逆さ十字架にかけられて死んだといわれる〈ペテロ〉の墓が,サン・ピエトロ大聖堂にあり,彼は初代「ローマ教皇」とされています。〈イエス〉は生前,「私はこの岩の上に私の教会を建てる」(岩とはペテロを意味している)と言ったといわれ,のちにローマ=カトリック教会が,数ある教会のなかで最も地位が高いと主張する根拠となりました。
しかし「教義」面の整備は遅れ,〈イエス〉の福音や使徒の記した手紙を集めた
『
新約聖
書
』の形式が整えられ始めていったのは1世紀後半のことでした。
この1世紀後半から3世紀までのキリスト教のことを
「
初期キリスト
教
」と区分します。
当時のキリスト教には東方の宗教思想の影響も強く,2世紀中頃までには〈ヘラクレオン〉(生没年不詳)によ
る
グノーシス主
義
的なキリスト教解釈が,人気を博していました。
しかし,この世には2つの神によりつくられたのだとするグノーシス主義は,唯一神によりこの世がつくられたのだとする『旧約聖書』以来のストーリーにはなじみません。そこで,キリスト教会の指導者はグノーシス主義の論破に尽力していきます。なかでもフランスのリヨンの〈エイレナイオス〉(130?~202)が,ユダヤ教徒の『旧約聖書』
(2世紀後半までは,キリスト教徒にとってもこれが唯一の聖典であり,単に「書物」とよばれていました
(注
)
)
に登場する神と,〈イエス〉=神が同じであると論じ,支持を集めました。
(注)ロバート・ルイス・ウィルケン,大谷哲他訳『キリスト教一千年史:地域とテーマで読む(上)』2016,白水社,p.69~p.76。
◆
「五賢帝」の時代にローマ
は"
パク
ス=
ロマー
ナ
"
(
ローマの平
和
)
【本試験H3
】
を迎える
最大領域に達したローマの社会は変質に向かう
その後,しばらく混乱が続きましたが,ようやく安定期に入ったが96~180年の
「
五賢
帝
」
(Five Good Emperors)
【本試験H3,本試験H6時期(アウグスティヌスの存命中ではない)】
【本試験H13神聖ローマ帝国とは無関係】
時代です。息子や家族を次の皇帝に指名するのではなく,優秀な部下を自分の養子にする形で次の皇帝に任命したために,優秀な皇帝が5人連続で輩出されたのだとされています。
この時期を「人類史上もっとも幸福な時代」と『ローマ帝国衰亡史』
【東京H22[3]問題文】
で評したのは18世紀イギリスの歴史学者〈ギボン〉(1737~1794)でしたが,実際には領域の拡大,開発の進展により,ローマ社会は確実に変質へと向かっていました。"領土が増える"ということは,それだけ維持コストがかかり,領土拡大戦争が終われば奴隷(=労働力)の調達も滞ることにもなります。また,"市民が国家を守る"という原則も,領域の拡大によって次第に崩れていきます。
では,いわゆる「五賢帝」を確認していきましょう。
1人目
〈
ネルウ
ァ
〉(位96~98)の統治は不安定で,後継者を指名した後に亡くなっています。
次の
〈
トラヤヌ
ス
〉(位98~117)の時代は、ローマ帝国の領土が史上最大となったときです
【本試験H3最大領土となったか問う,本試験H6 2世紀初めのローマ帝国の領域を別の時代の領域を示した地図から判別する】
【本試験H30】
【追H24領土が最大となった】
。
ダキ
ア
(現ルーマニア) やメソポタミアに領土を拡大し
,
アルシャ
ク(
アルサケ
ス)
朝パルティ
ア
とも戦いました。ただし,アイルランド(ヒベルニア)
【本試験H20アイルランドは獲得していない・地図】
やスコットランド(カレドニア)の支配にはいたっていません。この2人の時代は自由な雰囲気のもとで,政治家の
〈
タキトゥ
ス
〉
(55?~120?)
【本試験H15】
【追H20トゥキディデスではない、H25『ガリア戦記ではない』】
【H27名古屋[2]】
が,ライン川の東・ドナウ川の北のインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々について記録した
『
ゲルマニ
ア
』
【本試験H7ガリア戦記ではない】
【本試験H15ガリア戦記ではない】
【追H20・H29『対比列伝』ではない、H25『ガリア戦記』ではない】
【H27名古屋[2]】
や歴史書の『年代記』など多くの著作を残しています。〈タキトゥス〉は,婿(むこ)として嫁いだ先の義理の父〈アグリコラ〉(40~93,ブリタニア遠征をおこなった)の伝記『アグリコラ』
【早政H30】
も執筆しています。
〈トラヤヌス〉帝のときの帝国人口は5000万以上,ローマにはなんと80万~120万人が居住していたと言われます。前3500年の西アジアでの成立以降,世界中に発達していった都市は,ついにこれほど巨大な
10
0
万都
市
の規模に発展していくことになったのです。
3人目の
〈
ハドリアヌ
ス
〉(位117~138)
【追H24『自省録』を著していない】
のときに,ブリタニア(現在イギリスがある島)
に
ケルト
人
に対する防壁として「ハドリアヌス
の
長
城
」を建設します(◆世界文化遺産「ローマ帝国の境界線」,1987(2005,2008範囲拡大))。
ユダヤ人に対して支配を強化したため
,
ユダヤ戦
争
が起きたのも彼のときです。
4人目の
〈
アントニヌ
ス=
ピウ
ス
〉(位138~161) の時は,帝国に大きな混乱もなく,まさに
「
パク
ス=
ロマー
ナ
(ローマの平和)
」
【東
京
H8[1
]
指定語句
】
を実現させた皇帝です。
その妻の甥で,〈アントニヌス〉の養子となった
〈
マルク
ス=
アウレリウ
ス=
アントニヌ
ス
〉
(位161~180)
【本試験H4大秦国王安敦として中国に知られたか問う,本試験H8】
は,ストア派哲学の著作ものこした通称「哲人皇帝」で,
『
自省
録
』
【追H24ハドリアヌスではない、H27アウグストゥスとどちらが古いか】
【本試験H8ギリシア語で書かれていない】
を著しました
(剣闘士を描いた映画「グラディエーター」は彼の治世が舞台です)
。彼の使者を名乗る一行が,166年に現在のヴェトナム
の
フ
エ
に到達したと,中国の歴史書が記しています。ローマ帝国はインド洋の季節風交易
【追H26この交易が始まったのは9世紀後半以降ではない】
にも参入し,中国(
この時代にはギリシア生まれの
〈
プルタルコ
ス
〉
(46?~120?)
【本試験H15プトレマイオスとのひっかけ】
【追H21,H24,H29タキトゥスではない】
【同志社H30記】
が
『
対比列
伝
(英雄伝)』
【追H21,H24プルタルコスの著作か問う、H29】
【早・法H31】【中央文H27記】
という,ギリシアvsローマの"有名人対決"という企画モノの伝記をのこしました。例えば,〈アレクサンドロス〉と〈カエサル〉が比べられています。『倫理論集(モラリア)』は随筆のジャンルの草分けで,のちのルネサンスの時代に〈モンテーニュ〉の『エセー』に影響を与えました。
ローマの属州ヒスパニアとなっ
た
イベリア半
島
では,北部のバスク人やカンタブリア人を除いたイベリア半島の住民はローマ文化の影響を強く受けていきました。各地に劇場,フォルム(広場),コロッセウム(闘技場)や水道橋(セゴビアの水道橋など)が建造され,コルドバは"小ローマ"とも呼ばれました。皇帝〈トラヤヌス〉や〈ハドリアヌス〉はヒスパニア出身です。1世紀にもたらされたキリスト教も,3世紀までにヒスパニア全域に広がりました。
◆
ローマの東部の属州では,インド洋を利用した交易が活発化する
「ヒッパロスの風」が活用され,海上交易がさかんに
ローマ帝国の東部の属州(シリア,パレスチナ,エジプト)では,紅海を経由しインド洋を股にかける海上交易が盛んになっていました。
紅海からインド東方のベンガル湾にいたるまでの広い範囲の港町や産物について記したガイドブック
『
エリュトゥラー海案内
記
』
【追H28エーゲ海交易についての書ではない】
は,ローマ領エジプト州のギリシア人船乗り〈ヒッパロス〉(不詳)によって1世紀中頃に著されたとみられます。エリュトゥラー海とはアラビア海
【追H28エーゲ海ではない】
のことで,アラビア半島とインドの間に広がる海を指します。
《...インドの犠牲を司る者や予言者たちは特に災厄を予防するのに
ユーラシア大陸やアフリカ大陸北部では,広域国家
(
古代帝
国
)が崩壊し,古代末期の民族大移動がはじまる。
南北アメリカ大陸の中央アメリカと南アメリカのアンデスで,各地方の政治的統合がすすむ。
時代のまとめ
(1)
ユーラシア大陸
ユーラシア大陸には,地中海周辺
に
ローマ帝
国
,西アジアにパルティア,東アジア
に
後漢王
朝
(25~220)
が並び立っていた。
しかし,騎馬遊牧民の移動を受け,ローマ帝国で
は
ゲルマン語
派
がローマ帝国領内に押し寄せ,各地での建国が認められる。
東アジアでも後漢王朝が滅びると,南北に分かれて政治的な統合がすすむ。北部では騎馬遊牧民が複数の政権
(
五胡十六
国
)を建て,漢人は南部の長江下流部(
南アジアでは,ガンジス川流域
の
グプタ
朝
のマガダ国
(320~550)
が北インドを中心に諸地域を服属させる。
西アジアのイラン高原では印欧語族パルティア人が,印欧語族ペルシア人
の
サーサーン
朝
(224~651)
に滅ぼされる。
ユーラシア大陸では東西を結ぶ陸海の交易ネットワークの繁栄は続く。
東南アジアではモンスーン(季節風)を利用した交易の活発化にともない,大陸部にクメール人
の
地中海~紅海~インド洋を結ぶ交易ルートでは,エチオピアにセム系のアクスム王国が台頭,アラビア半島南端のセム系
の
ヒムヤル王
国
,南アジア南端ドラヴィダ語族
の
チョーラ
朝
,
チェーラ
朝
,
パーンディヤ
朝
などが栄える。
(2
)
アフリカ
サハラ以南のアフリカでは中央アフリカ(現・カメルーン)か
ら
バントゥ
ー
諸語系が東部への移動をすすめ,先住
の
ピグミ
ー
系の狩猟採集民
,
コイコ
イ
系の牧畜民を圧迫する。エチオピア高地でもアフロ=アジア語
族
セム語
派
によるイネ科のテフなどの農耕文化が栄え,ナイル川上流部ではナイル=サハラ語族ナイル諸語の牧畜民
(
ナイロート
人
),"アフリカの角"(現・ソマリア)方面ではアフロ=アジア語
族
クシ語
派
の牧畜民が生活する。
(3
)
南北アメリカ大陸
北アメリカ大陸南西部では,カボチャやトウモロコシ農耕と狩猟採集を営む古代プエブロ人(アサナジ)によ
る
バスケッ
ト=
メーカー文
化
が栄える。
中央アメリカでは引き続
き
ティオティワカン文
明
,
サポテカ文
明
,
マヤ文
明
に都市文明が栄える。
南アメリカでは北西沿岸部
の
モチェ文
化
,
ナスカ文
化
のほか,アンデス山地での政治的統合が進み,ティティカカ〔チチカカ〕湖周辺
を
ティワナ
ク
〔ティアワナコ
〕
文
明
が統合する。
(4)
オセアニアではポリネシア人の大移動がすすむ
オセアニアでは
,
ポリネシア
人
がオセアニア東部への移動を開始,マルケサス諸島(現・フランス領ポリネシア)からアウトリガー=カヌーの航海により計画的に移住を開始している。
解説
3・4世紀以降,ユーラシア大陸では草原世界
の
騎馬遊牧民の大移
動
が起き,ユーラシア大陸の農耕地帯を支配してき
た
古代帝
国
が次々に衰えていきます。地中海周辺
の
ローマ帝
国
(395年分裂),西アジア
の
アルシャ
ク(
アルサケ
ス)
朝パルティ
ア
(228年滅亡),南アジア
の
クシャーナ
朝
(3世紀滅亡),東で
は
漢王
朝
(220年滅亡)です。
これらの古代帝国は,拡大期には戦争による領土拡大や征服地からの徴税が見込めましたが,やはりそのような手段による成長には限界があり,絶え間な
い
戦
争
や東西交易によって各地に伝わっ
た
伝染
病
の影響もあり人口も減少します。ユーラシア大陸の陸路の交易ネットワーク
(
シルクロー
ド
)も一時的に衰退に向かいました。
他方で,騎馬遊牧民が農耕低住民地帯の国家に進出すると,各地で文化の複合が起きました。
アフリカ大陸で
は
ラク
ダ
の普及にともない遊牧民の活動が活発化し
,
サハラ横断交
易
も始まっています。
◆
南北アメリカ大陸の文明は,ユーラシア大陸とは異なる歩みをたどる
アフリカ大陸・ユーラシア大陸と直接の交流を持たなかった南北アメリカ大陸では,メキシコ高原
で
テオティワカン文
明
,中央アメリカ
で
マヤ文
明
が栄えていました。
○20
0
年
~
40
0
年のアメリカ 北アメリカ
北アメリカ
の
北
部
には
,
パレオエスキモ
ー
が
,
カリブ
ー
を狩猟採集し
,
アザラ
シ
・
セイウ
チ
・
クジ
ラ
などを取り
,
イグル
ー
という氷や雪でつくった住居に住み,犬ぞりや石製のランプ皿を製作するドーセット文化を生み出しました。彼らは,こんにち北アメリカ北部に分布す
る
エスキモー民
族
の祖先です
。
モンゴロイド人
種
であり,日本人によく似ています。
現在
の
エスキモ
ー
民族は,イヌイット系とユピック系に分かれ
,
アラス
カ
にはイヌイット系のイヌピアット人と,イヌイット系ではないユピック人が分布しています
。
北アメリカ大陸北
部
とグリーンランドにはイヌイット系の民族が分布していますが
,
グリーンラン
ド
のイヌイットは自分たちのことを「カラーリット」と呼んでいます。
北アメリカでは,現在のインディアンにつながるパレオ=インディアンが,各地の気候に合わせて狩猟・採集生活(地域によっては農耕を導入)を送っています。
北東部の森林地
帯
では,狩猟・漁労のほかに農耕も行われました
。
アルゴンキアン語
族
(アルゴンキン人,オタワ人,オジブワ人,ミクマク人)と
,
イロクォア語
族
(ヒューロン人,モホーク人,セントローレンス=イロクォア人)が分布しています。
北アメリ
カ
東部のミシシッピー川流
域
では,ヒマワリ,アカザ,ニワトコなどを栽培し,狩猟採集をする人々が生活していました。この時期に
は
ホープウェル文
化
が栄え,マウンドとよばれる大規模な埋葬塚(
北アメリカ
の
南西
部
では,アナサジ人
(
古代プエブ
ロ
)が,コロラド高原周辺で,プエブロ(集落)を築き,メキシコ方面から伝わっ
た
トウモロコ
シ
(アメリカ大陸原産
【本試験H11】
)の灌漑農耕が行われていました。
○20
0
年
~
40
0
年のアメリカ 中央アメリカ
ティオティワカン系の進出を受け,マヤ文明が最盛期を迎える
マヤ地域
現在のメキシコ南部,グアテマラ,ベリーズ,ホンジュラスなどの中央アメリカでは,3世紀中頃から900年頃まで,
「
古典
期
」(250年頃~900年頃)の文明を生み出していました
(注
1)
。
「古典期」というのは,"ヨーロッパ文明の源流は前5~4世紀ギリシアの輝かし
い
古
典
文明(Classical Greece)にあった。中央アメリカの文明の源流は,250年~900年あたりのマヤにあるのだろう" という"イメージ"から,ヨーロッパ人によって名付けられた名称に過ぎません。
マヤ文明には広い地域を支配する中央集権的な国家はなく,45~50
の
都市国
家
によって成り立っていました。担い手はマヤ語族の諸民族です。
3世紀には象形文
字
マヤ文
字
が記録されるようになり,獣皮や樹皮を漆喰に浸して折本にしたものや,石碑に記録されました。約850の象形文字には表音文字と表意文字が混ざっていて,書体も複雑な頭字体と簡略化した幾何体があることがわかっており,大部分が解読されています。
マヤの社会では厳しい階級制がしかれ,支配層は幼少時に頭に木を挟んで頭が細長い形になるようにする風習がありました(トウモロコシみたい)。マヤで重視されていた鉱物
は
ヒス
イ
。また
,
タバ
コ
の喫煙の習慣があり儀式などで用いられました。
マヤ文明ではおそらく手足の指の数をもとにし
た
二十進
法
が用いられ
,
ゼ
ロ(0)
を表す文
字
の最古の例として357年頃のものが確認されています。
1は「・」,2は「・・」,3は「・・・」,4は「・・・・」,5は「──」,6は「 ・ 」というように記し,9は「 ・・・・ 」,10は「=」,11は「=の上に点(・)を1つ載せた形」,19は「≡の上に点(・)を4つ載せた形」。20になると位取りが替わります。
マヤ低地南部
の
ティカ
ル
や
カラクム
ル
などの大都市の王は,自らを神聖化し,神殿や墓として用いられたとみられる階段
型
ピラミッ
ド
を建設しました。また3世紀以降は長期暦(前3114年8月13日を起点とし,1日ずつ足していく暦)とともに刻まれた石碑が多くの残され,各都市の王朝の系譜などが明らかにされています。
ティカル
現在のグアテマラに残
る
ティカ
ル
(1世紀~
)
のピラミッ
ド
は公共広場に面して建設され,70メートルもの高さがあります。王名の刻まれた石碑が残されおり,最も古いものは292年にさかのぼります。
その記録をたどると,378年1月16日
に
ティカ
ル
に
〈
シヤ
フ=
カッ
ク
〉(シヤッハ=ハック)
(注
2)
という人物が軍事的に進出。その息子〈ヤシュ=ヌーン=アイーン1世〉がティカルの王に379年9月12日に即位するに至ります。
この王朝は以後200年にわたって繁栄することになりますが,この〈シヤフ=カック〉という個人が何者なのかをめぐっては諸説がありますが,彼を同時期に成長したティオティワカンの将軍とみる説もあります。彼がティカルを襲う前の378年1月8日,80km離れた都
市
コパ
ン
にも来訪の記録があります。
同時期のユカタン半島には,ティオティワカンの影響が南部の高地マヤ(カミナルフユ)や北部のペテン地域にも及んでいたのは事実です。
(注1)古典期はさらに前期(250~600年)・中期(600~800年)・終末期(800~900年)の3期に区分されます。実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館,2016,p.23。
(注2)シヤッハ=ハックは「火は生まれた」という意味。実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館,2016,p.251。
◆
メキシコ高原ではティオティワカンの都市文明が栄える
ティオティワカン
メキシコ高原北
部
の
テオティワカ
ン
(◆世界文化遺産「テオティワカンの古代都市」,1987)には,100年~250年にかけて階段型の
「
太陽のピラミッ
ド
」が建設されます。
太陽のピラミッドの地下にも洞窟があって,当時の人々の世界観を表しているとみられます(メソアメリカでは,おおむね天界13層,地下9層の世界観が共有されていました)。
ティオティワカンは, 200年から550年頃までの最盛期には12万5000または20万人の大都市にまで成長し,中央アメリカ各地と交易をおこなっています。同時期のユカタン半島には,ティオティワカンの影響が南部の高地マヤ(カミナルフユ)や北部のペテン地域にも及んでいました。
チョルーラ
ティオティワカン南部のチョルーラ(後1世紀~)は,独立を維持しています。
◆
メキシコ高原南部のオアハカ盆地では,サポテカ人の都市文明が栄える
トウモロコシ(アメリカ大陸原産
【本試験H11】
)の農耕地帯であっ
た
メキシコ高原南
部
のオアハカ盆地では
,
サポテカ
人
が中心都市
は
モン
テ=
アルバ
ン
を中心として栄えています(サポテカ文明,前500~後750)。200年~700年が全盛期で,ティオティワカンとも外交関係がありました。
○20
0
年
~
40
0
年のアメリカ 南アメリカ
アンデス地方で地域ごとの政治的統合がすすむ
◆
アンデス地方沿岸部ではナスカ,モチェが栄える
モチェで政治統合が進展,ナスカに地上絵が出現
モチェ
アンデス地方
北
部海岸
の
モチ
ェ
(紀元前後~700年頃)では政治的な統合がすすみ,人々の階層化が深まり,労働や租税の徴収があったとみられます。
信仰は多神教的で,神殿には幾何学文様やジャガーの彩色レリーフがみられます。クリーム地に赤色顔料をほどこした土器や,金製の装飾品がみつかっています。
経済基盤は灌漑農業と漁業です。
ナスカ
アンデス地方
南
部海岸のナスカ(紀元前2世紀~700年頃)も栄えます
南部沿岸のモチェほどには統合されておらず,王墓なども存在しません。
当初
は
カワ
チ
遺跡の神殿が祭祀センターであったナスカでは,300年頃からカワチが巨大な墓地に代わると,儀礼の中心地はナスカ平原へと移ります。
こうして有名な
「
ナスカの地上
絵
」がつくられ始めるわけです。
地上「絵」といっても実際には「線」が多く,ナスカ=ライン(Nazca Lines)といわれます。黒く酸化した地面の表層を削ると,下層の白い部分が露出。大規模なものもありますが,少しずつ削っていったとすればそこまで大きな労力はいらなかったと考えられます。デザインにはシャチ,サル,クモ,鳥などがあって,天体と連動する説が支持されたこともありますが,現在では儀礼的な回廊とか,雨をもたらす山との関係が指摘されています。農耕儀礼,すなわち「雨乞い」です
(注
)
。
(注)関雄二「アンデス文明概説」,増田義郎,島田泉,ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS,2000,p.177。坂井説は現在の同地域の農民が次のような気象に対する認識をもっていることを下敷きに,地上絵の描かれた目的を推測しています。「(1)ナスカ台地周辺で農耕に利用している水は,ペルー南部高地に降る雨に由来する.(2)ペルー南部高地に雨が降るのは,「海の霧」が海岸から山に移動して,「山の霧」とぶつかった結果である.(3)雨期にもかかわらずペルー南部高地に雨が降らないのは,「海の霧」が山に移動しなかったからである.(4)海水を壷に入れて,海岸から山地まで持っていけば,山に雨を降らせることができる.」 坂井正人「民族学と気候変化 : ペルー南部海岸ナスカ台地付近の事例より」『第四紀研究51(4)』, p.231~p.237, 2012年(https://ci.nii.ac.jp/naid/10030972865)。
◆
アマゾン川流域にも定住集落が栄えている
アマゾン川流
域
(アマゾニア)の土壌
は
ラトソ
ル
という農耕に向かない赤土でしたが,前350年頃には,木を焼いた炭にほかの有機物をまぜて農耕に向く黒土を開発しています。
○20
0
年
~
40
0
年のオセアニア ポリネシア,メラネシア,ミクロネシア
オセアニア東部のサモアに到達してい
た
ラピタ
人
は,600年までにさらに西方のマルケサス島(現・フランス領ポリネシア)に徐々に移動。サンゴ礁島の気候に適応し
た
ポリネシア文
化
を形成しつつあります。
○20
0
年
~
40
0
年のオセアニア オーストラリア
オーストラリア
の
アボリジナ
ル
(アボリジニ)は,オーストラリア大陸の外との接触を持たないまま,狩猟採集生活を営んでいます。
タスマニア人も,オーストラリア大陸本土との接触を持たぬまま,狩猟採集生活を続けています。
◆
フン人は西方のローマ帝国領内へ,中国にも遊牧民の進出が相次ぐ
民族大移動が本格化する
中央ユーラシア西部
中央ユーラシア西部では,紀元後1世紀後半~2世紀にかけてカスピ海北岸で活動し
た
アラン
人
は,350年頃に騎馬遊牧
民
フン
人
(テュルク(トルコ)系ともモンゴル系ともされる)
【H30共通テスト試行 移動方向を問う(西アジアからヨーロッパへの移動ではない)】
の進入を受け,カフカス山脈に移動しました。現在のオセット人の祖先です。375年にはフン人は,黒海北岸のゲルマン系
の
東ゴート王
国
に進入し,敗れた東ゴートは西方に移動した。
フン人は,アラン〔アラニ〕人や黒海沿岸の
ゴート人
を"雪だるま"式に加えながら
(注
)
バルカン半島を南進。 いわば"難民"と化したゴート人は,当時禁止されていたドナウ川の通過を,ローマ帝国の皇帝〈ウァレンス〉に要求しました。
フン人の猛威を悟ったローマ皇帝は「ゴート人を国境警備隊として配置すればよい」と考え、帝国内部への定住を許可しますが,扱いのひどさに対してアラン,ゴート人が反乱を起こしました。378年〈ウァレンス〉帝は鎮圧に向かいましたが敗れ,ゴート人はドナウ川を渡って,ギリシア方面へと南下をしていくことになります。
(注)
"ドミノ倒し"という表現は正確ではありません。フンはアランを破ると,アランは子分となってフンとともに連合して東ゴートに進出。今度はフン,アラン,東ゴートの連合軍が,西ゴートを攻撃するのです。藤川繁彦『中央ユーラシアの考古学』同成社,1999,p.272。
なお,フン人が北匈奴を出身とするという説は定説ではありませんが,4~5世紀にはドナウ川からカスピ海にかけて,わりと均質的な文化が広がっていることから,フン人が短期間で多くの民族を巻き込み、または追放しながら西に移動していったこととの関連も考えられます。藤川繁彦『中央ユーラシアの考古学』同成社,1999,p.274。
また、ゴート人がドナウ川を渡る時点で、彼らの中に「
西ゴート人
」や「
東ゴート人
」といった意識を持っていた人々がいたわけではなかったというのが、現在の通説です(南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.71)。
中央ユーラシア東部
中国
の
西
晋
【本試験H18前漢ではない】
で
八王の
乱
(291~306)
【本試験H14時期(秦代ではない),本試験H18,本試験H31時期(漢代ではない)】
が起きると,匈奴(とその一派の羯(けつ))や鮮卑,チベット系の諸民族(氐・羌)が中国に進入して,中国風の王朝を建てました。この時代を中国史で
は
五胡十六国時
代
(またはそれに先立つ三国時代と,後の南北朝時代と合わせ,三国五胡・南北朝時代とすることもあります)
といいます
【本試験H19五代十国時代とのひっかけ,H29時期】
。
漢民族を中心とする歴史の見方では,北方の異民族の建てた諸国ということでネガティブな印象が与えられがちですが,その後の隋(581~589),唐(618~907)といった王朝のルーツは五胡十六国の混乱に終止符を打ち,モンゴル高原を統一し
た
鮮
卑
【本試験H12北魏を建てた民族を問う】
【本試験H28】
の拓跋部(たくばつぶ)でした。
拓跋部
【追H21問題文】
を率いる〈拓跋珪〉(たくばつけい)は,386年
に
北
魏
【本試験H12】
【本試験H28】
【追H21】
を建国します。北魏の首長は,すでに「可汗(かがん)」と呼ばれていおり,それに対抗して次にモンゴル高原に追いやられ
た
柔
然
【本試験H7突厥を破っていない,本試験H12時期(漢の西域経営の進展により衰えたわけではない)】
【本試験H16モンゴル高原を支配した最初の騎馬遊牧民ではない,本試験H20世紀を問う】
も,北魏に対抗するために「可汗」の称号を使うようになったとみられています。
北匈奴がモンゴル高原から西方に移動すると,北方にい
た
柔然はしばしば中国に進入し,農民や家畜を略奪して農耕に従事させたとみられます。
○20
0
年
~
40
0
年の東アジア・東北アジア
○20
0
年
~
40
0
年の東北アジア
中国東北部の黒竜江(アムール川)流域では,アルタイ諸語に属す
る
ツングース語族
系
の農耕・牧畜民が定住しています。紀元前後から台頭したツングース語系
の
高句
麗
(紀元前後~668)
は,この時期に朝鮮半島に南下をすすめます。
彼らが日本列島に進出して日本に武人政権を建てたとする〈
さらに北部に
は
古シベリア諸語
系
の民族が分布。
ベーリング海峡近くには,グリーンランドにまでつなが
る
ドーセット文
化
(前800~1000(注)/1300年)の担い手が生活しています。
(注)ジョン・ヘイウッド,蔵持不三也監訳『世界の民族・国家興亡歴史地図年表』柊風舎,2010,p.88
◯20
0
年
~
40
0
年の中国
◆
後漢が滅ぶと,北方の遊牧騎馬民族が定住農牧民地帯に移動していった
騎馬遊牧民と定住農牧民が,対立・融合する
秦以来の中国文明の中心地は,黄河流域の「中原(ちゅうげん)」(華北平原)でした。しかし,後漢末の混乱により,北方の民族が南下すると,前漢・後漢の支配者層や住民の多くは,命を失うか南方に移住をしていきました。これにより,中国地域における黄河の重要性は低くなり,漢民族の文化を受け入れた北方の遊牧民の力も強まっていきました。また
,
大土地所
有
がさかんとなり,地方において農奴のように扱われる農業労働者(佃客(でんきゃく),衣食客(いしょくきゃく))や,武装集団(部曲(ぶきょく))を従えるようになっ
た
豪
族
が有力となっていきます。
こうして,各地で自立した豪族や,中国に進出した遊牧民により,中国は分裂の時代に突入します。分裂しているということは,逆にいえば,中国
(
漢民
族
)の文化を共有する人々が,黄河以外の地域にも現れるようになったということです。
さて,順番にみていきましょう。
後漢末の混乱の引き金となっ
た
北方の諸民族は華北一体に16の国を建国(漢民族の建国した国家も一部含まれます)していき,漢民族の王朝は現在の南京
【本試験H4
同時代のローマ帝国をみてみると,やはり同時期にインド=ヨーロッパ語
族
ゲルマン語
派
の人々進入が加速し,395年
の
東西ローマ帝国への分
裂
につながっています。
184年に勃発した黄巾の乱により,中国各地に私兵をひきいる軍事集団がはびこります。やがて華北で勢力をかためた
〈
・南方の軍事集団の長である
,
・江南(長江下流域)の
〈
孫
権
〉(182~252)
【H27京都[2]】
【追H9前漢の後をうけた王朝を建てていない】
と対立する構図(いわゆる「天下三分の計」)ができあがっていきます。
後漢末期の208年,長江中流域の赤壁(せきへき)で,天下分け目の戦いがおこなわれました。四川の〈劉備〉につかえた軍師〈諸葛亮〉(しょかつりょう,〈諸葛孔明〉(しょかつこうめい)は字(あざな),181~234)のすすめで,〈劉備〉は〈孫権〉と同盟を組み,〈曹操〉との決戦に勝利しました。これ
を
赤壁の戦
い
といいます。映画「レッド・クリフ」は,この戦いを題材にしています。
〈曹操〉は後漢最後の皇帝〈献帝〉(位189~220)を迎え入れ,ライバルだった大土地所有者
(
豪
族
)の
〈
袁
紹
〉(えんしょう,?~202)が従えていた黄巾の乱の残党や少数民族の勢力も破っていきました。
しかし,その後〈献帝〉に譲位をせまって皇帝に就任し,
「
魏
(220~265年)」という王朝を創始します。それを認めない
〈
劉
備
〉
【東京H8[3]】
【本試験H30】
は四川
の
成
都
【本試験H9】
【本試験H22洛陽ではない】
【中央文H27記】
を都に
に
蜀
(しょく,221年~263年)
【本試験H9】
【追H9前漢のあとを受けた王朝か問う】
を,〈孫権〉は長江下流域の建康(現在の南京)
【セA H30華北ではない】
を都
に
呉
(ご,222年~280年)
【追H9】
を建国したため,3分裂の構図が固定化されました。
魏と蜀・呉との境界は,黄河と長江の間のラインで,チンリン(秦嶺)山脈とホワイ川(淮河(わいが))を結ぶ線にあたります。
蜀は正式には「漢」という国号で
,
蜀
漢
(しょっかん)とも呼ばれます。蜀は漢を受け継ぐ王朝であると主張したため,蜀には「炎興」(えんこう)のように,漢の守護色
(
五行
説
という思想で,漢に宿っているとされたパワーを持つ元素)である火を連想させる元号が使われました。この頃には学問の研究もおこなわれ,魏に仕えた〈劉徽〉(りゅうき,生没年不詳)は,古代の数学書『九章算術』に注釈を加え,円周率を3.1416と計算したほか,ギリシアの
〈
ピュタゴラ
ス
〉(前582~前496)の定理と全く同じ公式も現しています。また,渾天儀(こんてんぎ,天体観測器)や,候風地動儀(こうふうちどうぎ)という地震計も発明されています。
このへんまでの流れは,蜀(しょく)の目線で元代以降にまとめられることになる『三国志演義』(さんごくしえんぎ)
【本試験H9[21]】
に詳しく,さまざまなゲームや映画,漫画となり,東アジアで人気があります。勝者の余裕と栄華よりも,敗者の奮闘と悲劇のほうが,民衆には受けるわけです(#映画「レッド・クリフ」(2008中国))。
◆
魏の導入した九品官人法により門閥貴族が形成された
魏
の
〈
曹
丕
〉
(
文
帝
)(位220~226)は,豪族の力をおさえるために,中央から派遣された中正官
【本試験H11】
が,人物を評価し9段階にランク付けして官僚に登用す
る
九品中
正
(
九品官人
法
)
の制度
【本試験H8時期(7世紀ではない),H11呉ではない】
【本試験H21呉ではない,本試験H26明代ではない】
【追H24時期(党錮の禁、呉の滅亡との時系列)、H29「有力豪族による高級官職の独占を招いた」か問う】
も整えられていきました。
しかし,豪族の中には中正官に賄賂(わいろ)を送る家柄も現れ,最高ランクの9品が代々就
く
貴
族
や,その中でも特に優遇された家柄であ
る
門閥貴
族
【本試験H26明代ではない】
【本試験H8】
が生まれるようになっていきます
【本試験H11人物本位の評価が行われたわけではない,「豪族はこの制度により,官僚になる道を閉ざされたので,不満を持った」わけではない】
。皇帝の官僚として仕えることには,貴族にとって自分の地位を示すという重要な意味がありました
(注
)
。なお「貴族制」は中国では「士族制」「門閥制」と呼ばれることが普通です。
(注)中村圭爾「六朝貴族制と官僚制」『魏晋南北朝隋唐時代史の基本問題』汲古書院,1997。
〈文帝〉の次の〈明帝〉(位226~239)のとき
に
魏
は,四川盆地
の
蜀
を263年に破りました。しかし手柄を上げた魏の将軍〈司馬懿〉(しばい)の勢力が増し,クーデタを起こして実権を握りますが,皇帝位にはつかず,子孫の
〈
司馬
炎
〉(武帝)
【本試験H16司馬睿ではない,本試験H30】
のときに帝位を迫り禅譲によって新たな王朝であ
る
晋
を建国しました。晋はのちに江南に遷都するので,この遷都前の晋
を
西
晋
,遷都後
を
東
晋
と区別します。
この西晋が江南
の
呉
をほろぼした
【追H24時期()】
ことで,三国時代は統一されました。この頃には
〈
王叔
和
〉(おうしゅく「か」,生年不詳)が。麻酔術を含む
『
傷
寒
(雑病
)
論
』という中国最古の医学書を,後漢の医師・官僚の〈張仲景〉(150?~219)の医書を参考に編集しています。
しかし,すでに北方遊牧民の華北への移住も加速しており,「遊牧民が人口の半分になっているのはやばいのではないか。警備に遊牧民を使うのではなく,故郷に帰らせたほうがいいのではないか」と〈江統〉が『徒戎論』(しじゅうろん)で主張していたそんな矢先に,
〈
武
帝
〉(司馬炎)(位266~290)が亡くなり〈恵帝〉(位290~306)が即位すると,西晋の帝位をめぐる一族が争い (290~306年
,
八王の
乱
)
【京都H20[2],H27[2]】
【本試験H3この結果諸侯の力が弱体化し郡県制が強化されたわけではない】
【本試験H14秦代ではない】
が勃発。各王が兵力として招いた北方諸民族がここぞとばかりに華北に進入し,八王の乱が306年に終結した後も各地で反乱を起こすようになりました。
西晋には
,
南匈
奴
の末裔〈劉淵〉(りゅうえん)が本格的に侵攻し
,
漢
が建国されました。なぜ「漢」を名乗れるかというと,前漢のときに当時の匈奴の単于が漢の公主をめとっていたからです。311年に洛陽が陥落し〈懐帝〉が殺害し実質滅亡しますが,西晋の王族は313年に長安で〈愍帝〉(びんてい)が擁立され存続をねらいました。
このとき,鮮卑の拓跋部は西晋
【京都H20[2]】
を援助して匈奴とたたかい,拓跋部の首長は315年に
大混乱の中,西晋の漢人たちは大挙して南に逃れました。江南にたどり着いた西晋の王族は
,
建
康
【本試験H2】
(呉の首都の建業と同じ地点,現在の南京)
【本試験H22地図】
を首都とし
て
東
晋
を復興。〈愍帝〉が殺害されたことを聞くと,317年に
〈
司馬
睿
〉(元帝,しばえい,在位317~322)
【本試験H16司馬炎ではない】
が皇帝に即位しました。ちなみに,睿(えい)という字は難しいですが,右側に「又」を付けると,日本の「比叡山(ひえいざん)」の「叡」になります。
東晋には華北から多数
の
漢
人
が逃げてきましたが
【本試験H26時期】
,彼らから税を取り立てようとすると「自分の戸籍は華北にあるから,払いたくない」と言われてしまいます。そこで,363年には「現住地を戸籍にしなさい」とい
う
土断
法
(どだんほう)を施行して,税収アップをはかりました。東晋以降
,
江南の開
発
がさらに進んでいきました
【本試験H15時期】
。有力豪族は農牧業・漁業・手工業を合わせた総合的な開発を進め,自給自足の経済圏もみられました。戦乱が中国を覆う中,山奥に隠れて悠々自適と自給自足を営む理想郷の姿は,詩人〈陶潜〉(とうせん)の『桃花源記』(とうかげんき)にもうたわれました。
華北には,おもに5つに分類される諸民族が16の王朝をたてたため(一部漢民族の王朝も含む),異民族を示す「胡」(差別的な意味合いがあります)という字をつかって
,
五胡十六
国
(ごこじゅうろっこく)
【本試験H3】
といいます。五胡
【東京H6[3]】
は,(1
)
匈
奴
【本試験H3五胡十六国の一つか問う】
【早・法H31】
、(2
)
羯
(けつ,匈奴の別種)、(3
)
鮮
卑
、(4
)
氐
(てい)
【東京H6[3]】
、(5
)
羌
(きょう)
【東京H6[3]】
。(4)・(5)はチベット系のことですが,5というのはキリがいい数字のために使われているだけで,実際には多様な民族が含まれていました。
このようにして,華北は五胡十六国,華南は東晋という構図が生まれました。
初めのうちは十六国の中にも,前燕(ぜんえん,現在の北京周辺に建国された鮮卑の国家)や前涼(ぜんりょう,長城よりも北にあった漢人により建国された国家)のように東晋に従う勢力もありました。しかし,氐により建国され
た
前
秦
が前涼・前燕を滅ぼし,北魏の元になる国である鮮卑人
の
代
(だい)をも滅ぼしてしまいました。そのまま東晋の滅亡も狙いましたが,東晋の武将〈謝安〉(しゃあん,320~385)との決戦に破れて衰えました(383年
,
淝
水
(ひすい
)
の戦
い
)。
その
後
東
晋
では,五斗米道の指導者による反乱を鎮圧した長江中流域の軍人が,402年に建康で皇帝に即位。それを鎮圧した下層階級出身軍人
〈
劉
裕
〉がこれを倒し,さらには十六国のうち山東半島の南燕(なんえん。鮮卑人の国),後秦(長江中流域で建国された羌の国)も滅ぼし
,
洛陽・長安も奪
回
しました。この輝かしい実績を背景とし〈劉裕〉はクーデタ(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること)により東晋から皇帝を譲られる形で,420年
に
宋
の王朝を創始しました(のちの時代の宋とは別の王朝です)。
386年には,鮮卑人
【セA H30】
のうち
一方、中国南部で建康を都としてい
た
宋
は,北魏に遠征しましたが,敗北します。〈太武帝〉は道教を保護して国教化し
【本試験H12道教を禁止したわけではない】
,仏教を弾圧しましたが,次の〈文成帝〉のとき
に
雲
崗
(うんこう
)
の石窟寺
院
【本試験H31道教の寺院ではない】
【追H18,H20漢代ではない】
の建設が始まりました。仏教を保護するようになったのは,仏教が階級や民族による差別を否定したため,漢民族ではない鮮卑人の支配を正当化するのに都合がよかったからとみられます。仏教の教義の編纂・教団の組織に対抗し
,
道
教
の教義の編纂・教団の組織も進んでいきました。
次の〈献文帝〉のときには,〈文成帝〉の皇后(〈
〈孝文帝〉のとき,国家が保有する土地を農民に与えて耕作させ,徴税をさせるしくみ
(
均田
制
)が実施されています
【本試験H15農耕社会の統治に消極的ではない,本試験H16北斉代ではない,本試験H24漢代ではない,H29元で始まったわけではない】
【本試験H8】
【追H19宋代ではない、H21北魏で始まったか問う】
【大阪H31論述(導入の背景と後代へ与えた影響)・時期】
。
大土地所有者(豪族)が土地を失った農民を吸収して巨大化しているのを防ぐために実施したのです。しかし,土地は成年男子だけではなく,その妻や奴婢,耕牛にまで支給されたので,多くの奴婢・耕牛を有する大土地所有者に有利な内容でした
【本試験H8支給対象は成年男子だけではない】
(注)
。
〈献文帝〉が殺害され皇后も死ぬと,〈孝文帝〉
は
洛陽に遷
都
して混乱を収めようとしました。文化面でも,鮮卑の服装や言語を禁止し,中国の文化を積極的に導入していきました
(
漢化政
策
)
【本試験H15漢民族の文化を排除していない】
。鮮卑人は少数派だったため,南朝と張り合って政権を運営するには,北朝の有力
な
門閥貴
族
の協力が必要だったのです。たとえば,皇室の「拓跋」という姓も,「元」という中国風の一文字の姓に変えられました。このようにして,鮮卑の文化と従来の中原中心の王朝の文化が,互いに影響を及ぼし合いながら,中国文化が形成されていったのです。
これらの政策には,保守的な鮮卑人の反発も多く,不満はのちの
ち
六鎮の
乱
となって爆発することになります。
北魏の時代には〈酈道元〉(れきどうげん,469~527)が地理書の『水経注』(すいけいちゅう)
【京都H21[2]】
を,〈賈思勰〉(かしきょう,不詳)
【本試験H22昭明太子ではない】
が中国最古の農業書である『斉民要術』(せいみんようじゅつ
【本試験H22】
)を著すなど,学問も盛んでした。
漢民族を中心とする歴史の見方では,北方の異民族の建てた諸国ということでネガティブな印象が与えられがちですが,その後の隋(581~589),唐(618~907)といった王朝のルーツは五胡十六国の混乱に終止符を打ち,モンゴル高原を統一し
た
鮮
卑
【本試験H28】
の拓跋部(たくばつぶ)でした。
(注) のちに大谷探検隊の発見により、トゥルファンでは規定通りではないものの、均田制が施行されていたことが明らかになっています。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.79。
◯20
0
年
~
40
0
年の朝鮮半島
北海道の北に広がる海
を
オホーツク
海
といい,ユーラシア大陸の北東部に面しています。この大陸地域には,タイガという針葉樹林が広がり,古くからで古シベリア諸語
の
ツングース
系
の狩猟民族が活動していました。
中国の東北部には前3世紀頃か
ら
扶
余
(扶余;扶餘;プヨ;ふよ)人が活動しています。朝鮮半島の東部
の
濊
(わい)人という説もありますが,定かではありません。
前1世紀に鴨緑江の中流部の貊(ハク)人
が
高句
麗
(こうくり,コグリョ,前1世紀頃~668)
【セA H30府兵制は実施されていない】
を建国し,2世紀初めには勢力を拡大させていきました。高句麗は首長による連合をとり,住民は農耕に狩猟を加えた生活を営んでいました。建国の伝説によると,黄河の神(河伯)の娘が扶余(ふよ)の王に閉じ込められていたとき,日光に当たって卵を生み,そこから生まれた〈朱蒙〉(しゅもう,チュモン)が建国したといいます。〈朱蒙〉は扶余人から逃れる途中に魚や亀に助けられて川を渡り,高句麗を建国したということです。
朝鮮半島の東北部に
は
沃
沮
(よくそ;東沃沮(とうよくそ))が活動し,高句麗が拡大すると対抗の必要から魏に接近しました。
中国の後漢末の混乱に乗じて,遼東を支配していた〈公孫度〉(こうそんたく)が楽浪郡と玄兎郡に支配領域を伸ばし,204年に〈公孫康〉が楽浪郡の南部を分離さ
せ
帯方
郡
(たいほうぐん)としました。当時は,朝鮮半島の東部
の
濊
(わい)人の活動や,南部
の
韓
人,
日本列島
の
倭
人
の活動が盛んで,南部でこれら異民族に対抗する必要があったのです
。
濊
(わい)人は海獣や海産物の漁労のほか農耕にも従事し,オットセイやラッコを輸出していました。
帯方郡
は
濊
,
韓
,
倭
の窓口となり栄えましたが,3世紀前半に中国
の
魏
により〈公孫〉氏が滅ぼされ,魏による直接支配がはじまりました。
このような帯方郡における政変に対応する必要から,倭の邪馬台国の
〈
卑弥
呼
〉
【本試験H7「倭の女王」】
【追H18】
は「景初2年」(238または239年)6月に〈難升米〉(なしめ)を魏
【本試験H7派遣先は建康ではない】
【追H18】
に朝貢させています
。
しかしその後,中央集権化を果たし
た
高句
麗
が313年に
は
楽浪
郡
を滅ぼし
【本試験H21時期】
,
【追H19時期】
遼東半島にも進出し,当時分裂状態にあった華北の五胡政権(前燕)とも戦っています(高句麗はのちに朝鮮半島で最も早く,五胡十六国のひとつ前秦(ぜんしん)から仏教を受け入れました)。その後体制を立て直した高句麗では
〈
広開土
王
〉(クヮンゲト;こうかいど)王(位391~412)
【本試験H9[13]】
によりで朝鮮半島南部へ領土を急拡大させていきます。なお,372年には儒教の教育機関である太学が設立されたほか,道教も伝わっています。
また
,
朝鮮半島の南
部
には
,
韓
人
による小国家が形成されていました。3世紀には西南部
の
馬
韓
(マハン;ばかん)に50余り,東南部
の
辰
韓
(チナン;しんかん)に12余り,南部
の
弁
韓
(ビョナン;べんかん)に12余りの小国家があったといわれます。
これらの小国家のうち,馬韓や弁韓(安邪(アニヤ)国,狗邪(クヤ)国など)は,共通の王を建てて連合を築いていました。狗邪国はおそらく「魏志」倭人伝にある狗邪韓国(くやかんこく,のち
の
任
那
(イムナ;みまな
)
国
,
金
官
(クムグヮン;きんかん
)
国
)を指します。魏が辰韓を攻撃するとこの連合は崩壊し,帯方郡に従属させられます。
馬韓は,小国家の伯済(ペクチェ;くだら)による統一が進んでいき,のち
の
百
済
(ペクチェ,ひゃくさい,くだら)
【H29共通テスト試行 時期(奴国の時代に百済はない)】
につながっていきます。
また,辰韓の地域では斯蘆(しろ)が台頭し,のち
の
新
羅
(シルラ,しんら,しらぎ)に成長していきました。
伯済は,北方で高句麗が急拡大する情勢をに警戒し,4世紀後半から日本(倭)の勢力との提携を進めるようになっていました。高句麗は
〈
広開土
王
〉(こうかいどおう;クヮンゲトワン;好太王(こうたいおう),在位391~412)
【H29共通テスト試行 時期(奴国の時代ではない)】
のときに最盛期を迎え
,
百
済
だけでな
く
新
羅
も圧迫し
【本試験H21時期】
,
朝鮮に進出し
た
倭
も撃退した
ということが,現在の中国東北部にある集安
【慶・法H30】
にある
◯20
0
年
~
40
0
年の日本
2世紀後半の「
『三国志』の「魏書」東夷伝(いわゆる『魏志』倭人伝)によると,このときに銅鏡(青銅製でつくられた鏡。当時は光り輝いていた)が100枚も与えられたといいます。全国各地
の
古
墳
(墓のこと)から三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が見つかっていて,このときに中国から与えられたものではないかという説にもあります。
3世紀前半に中国の後漢王朝は滅び,魏・蜀・呉の並び立つ三国時代に突入していました。魏としては,〈卑弥呼〉と結ぶことで呉を"挟み撃ち"にしようとする意図があったようです。
朝鮮半島南西部の百済は,朝鮮半島北部
の
高句
麗
の急拡大を警戒し,4世紀後半から日本(倭)の勢力との提携を進めるようになっていました。高句麗は
〈
広開土
王
〉(こうかいどおう,好太王(こうたいおう),在位391~412)のときに最盛期を迎え,百済だけでなく新羅も圧迫し,朝鮮に進出し
た
倭
も撃退したということが,現在の中国東北部にある集安にある広開土王碑(こうかいどおう)という碑文に刻まれています。
3世紀中頃から末にかけて,日本で
は
ヤマト政
権
が成立したと考えられています。
(注)中国の
『
三国
志
』
の
魏志倭人
伝
(『三国志』の「魏書」における「烏丸鮮卑東夷伝」倭人条)や,
『
後漢
書
』
「
東夷
伝
」(東夷列伝)による。
○20
0
年
~
40
0
年の東南アジア
3世紀になる
と
季節
風(
モンスー
ン)
を利用した航
海
【本試験H30】
が普及するようになり,中国やインド方面との貿易はますます加速します。
それにともない,港町の人口密度が高くなって都市
(
港
市
)が形成されるようになると,利害を調整する権力者が現れるようになっていきました。 その際,東南アジアではインドから伝わってきた文化や品物が,権力者の権威を示すもの
(
威信
材
)として利用されるようになっていきました。
北ヴェトナムは,紅河の河口の三角州(デルタ)を中心に
,
港
市
(こうし,港町を中心に発展した都市のこと)が栄え,さまざまな特産物が輸入・輸出されました。
中南部のヴェトナムでは,チャンパー
【東京H30[3]】
【共通一次 平1】
が季節風交易で栄えました。
イラワジ
川
流域のビルマは,西部・北部・東部の山岳地帯,上流域
の
上ビル
マ
と下流域
の
下ビル
マ
に分かれ,変化に富んだ地形をしています。季節風の影響から,最多で4000ミリの雨をもたらしますが,中央部は乾季の影響
で
灌
漑
による畑作,下流部では稲作が行われています。中国の史料によると,ここに
は
ピュ
ー
という民族が都市を築き,銀貨を発行して交易にも従事していたことがわかっています
【本試験H22オケオは関係ない】
。文字史料はわずかですが,3世紀の中国の文献では
「
驃
国
」として登場します。
○20
0
年
~
40
0
年のアジア 南アジア
南アジ
ア
...現在の①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール
・
20
0
年
~
40
0
年のアジア 南アジア
現③
スリランカ
スリランカ中央部には,シンハラ人の国家であ
る
アヌラーダプラ王
国
(前437~後1007)が栄えています。
・
20
0
年
~
40
0
年のアジア 南アジア
現②
バングラデシュ
,⑤
インド,パキスタン
3世紀頃にインド南部
の
サータヴァーハナ
朝
は衰退し,デカン高原北部ではヴァーカータカ朝(3世紀中頃~6世紀中頃)が栄えました。お得意先であったローマ帝国が,3世紀後半に航海の出口の支配権を失ってしまったためです。4~5世紀には,インド南端部のタミル人によるチェーラ朝,パーンディヤ朝,チョーラ朝が衰退しました。
インド北部では,3世紀末にガンジス川中流域のグプタ家が勢いづき,4世紀になると,北インド
を
グプタ
朝
(320~550)が再統一します
【本試験H20】
【本試験H8エフタルとのひっかけ】
【追H24ササン朝に敗れて衰亡したのはマウリヤ朝ではなくグプタ朝】
。地方独特の文化が洗練されていき,ヒンドゥー教が形をととのえてくるのもこの時代でした。
「最高
の
ヴィシュ
ヌ
信者」の称号を持つ王は
,
ヒンドゥー
教
を熱烈に信仰していました。ヴィシュヌ
【本試験H7ヒンドゥー教えの主神の一つとなったか問う】
は宇宙を創造し維持する神とされ,化身(けしん,アヴァターラ)としてさまざまな形をとり地上に現れ,人々を救うとされました。例えば,『ラーマーヤナ』のラーマも,ブッダもヴィシュヌの化身とされました。バラモン教が,インド各地の地元の神様を取り込んでいく過程で,ヴェーダの中の神々が変化していったものです。地方にもともと存在した様々なアーリヤ人由来ではない神々への信仰が
,
ヴィシュ
ヌ
【本試験H21マニ教の神ではない】
のほか
に
ブラフマ
ー
という神や破壊
神
シヴ
ァ
【本試験H24,H30】
という神に結び付けられていったもの
が
ヒンドゥー
教
です。
グプタ朝
に
マヌ法
典
【本試験H12「支配者であるバラモンが最高の身分」か問う】
【本試験H15,本試験H24,H28時期】
【追H19旧約聖書とのひっかけ】
という,バラモンを頂点とする各ヴァルナ(種姓)の権利や義務がまとめられました。
絶対的な聖典というよりは習わしに近く,ヒンドゥー教には特定の教祖も経典もありません。
そこではヴァルナ制度は「人類の起源にさかのぼる神聖な制度」とされています。
ただ現実的には自分のヴァルナに従っていては生活できない場合もありえます。その場合は例外的に下のヴァルナの仕事に就くこともゆるされるなど、ある程度の柔軟性がゆるされていました
(注1)
。
現在のインドの人口の約8割がヒンドゥー教と言われています。仏教は,発祥の地でありながら,ヒンドゥー教に押され,現在では人口の1%を割っています。デカン高原
の
アジャンター石窟寺
院
【本試験H26時期】
【追H20】
や
エローラ石窟寺
院
の
グプタ様
式
の仏教
【追H20】
建築も,さかんに建造されるようになっています。仏像にもインド独自の特徴が見られます
【本試験H4ギリシア,ローマなどの西方系美術の影響は強く受けていない】
。
サンスクリット
語
【東京H10[3]】
【共通一次 平1:7世紀のインドでサンスクリット文字が使用されていたか問う】
【追H19ウルドゥー語ではない】
をサンスクリット文字〔梵字(ぼんじ)〕
(注2)
で記した文学もつくられ,
〈
カーリダー
サ
〉
【追H19ウマル=ハイヤームではない】
は戯曲
『
シャクンタラ
ー
』
【追H19】
をつくり,古代から伝わる叙事詩
『
マハーバーラ
タ
』
【東京H10[3]】
『
ラーマーヤ
ナ
』の編集もすすみました
。
ゼ
ロ
(
0
)が文字として表わされたのも,この時期のことです
【本試験H2シュメール人により発達されたのではない】
。
父〈ガトートカチャ〉を継いで即位したのは
〈
チャンドラグプ
タ
〉(〈チャンドラグプタ1世〉,在位320~335頃)
【本試験H20玄奘は訪問していない】
で,かつてマウリヤ朝の首都であっ
た
パータリプト
ラ
は繁栄を取り戻しました。彼は由緒正しい出ではなかったようで,有力なクシャトリヤ階級から妻をめとることで,人々を納得させました。
第2代〈サムドラグプタ〉(位335頃~367頃)は,インド南端まで兵を進め,諸王を服属させたり,友好関係を築いたりしました。一方,ガンジス川流域の諸国は滅ぼされ,グプタ朝の領土となりました。広大な領土を直轄支配することはせず,間接統治をおこなったのです。
第3代
〈
チャンドラグプタ2
世
〉(位375頃~414頃)
【本試験H15北インド全域を支配したか問う,本試験H19アンコール=ワットは建てていない】
が全盛期で,西インドのシャカという中央ユーラシアから南下したスキタイ系の民族(インド=スキタイ人)が建国していた王国を滅ぼし,その土地や海外交易で栄えていた港を支配下に収めました。彼の宮廷には詩人・劇作家
〈
カーリダー
サ
〉がつかえ『メーガドゥータ』や
『
シャクンタラ
ー
』
【本試験H12ジャイナ教の聖典ではない】
【本試験H26時期】
を著しました。また,中国の東晋時代(東晋の僧ではない)の399年に長安から出発した
〈
法
顕
〉(ほっけん)
【本試験H5中央アジアのオアシスとしを経由したか問う,本試験H12】
【本試験H27孔穎達ではない】
というお坊さんは,王に謁見したと
『
仏国
記
』(ぶっこくき)
【本試験H27】
【追H19マルコ=ポーロの著作ではない、H24小説ではない】
に記しています(414年に執筆)。彼は行きは西域を経由して陸路
【本試験H12「西域経由」か問う】
,帰りは海路
【本試験H12海路かを問う】
を利用し,412年に帰国しました
(注3)
。
(注1) 「窮迫時の法」といいます。 歴史学研究会編『世界史史料2 南アジア・イスラーム世界・アフリカ』岩波書店、2009年、p.23。
(注2) アーリヤ人の言語(サンスクリット)を記すために用いられた
カローシュティー文字
は、諸説ありますがアラム文字起源であるという説もあります。カローシュティー文字はやがて用いられなくなり、やや遅れて
ブラフミー文字
が定着。これが現在もインドの公用語であるヒンディー語を記す
デーヴァナーガリー文字
につながります。なおブラフミー文字は東南アジアの諸文字のルーツでもあります。鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.39,p.46。
(注3) 法顕に関する年号は『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.120
○20
0
年
~
40
0
年のアジア 西アジア
◆
教会の保護者となったローマ帝国によってキリスト教の正統教義が定められた
何が「キリスト教」なのか,ゆっくりと選別されてい
く
(注
)
西アジアには有力なキリスト教会が,シリア
の
アンティオキ
ア
とパレスチナ
の
イェルサレ
ム
にあります。
この時代には,みずからを〈ゾロアスター〉・〈釈迦〉・〈イエス〉の預言者であるとする
〈
マ
ニ
〉(マーニー=ハイイェー,216~276?)が,ペルシアの二元論的な信仰
(善と悪の戦いの結果,悪の神によって生み出されたこの世界や我々人間の肉体は
東方の思想の影響はマニ教にとどまらず,グノーシス主義やミトラ教
【本試験H31神聖ローマ帝国で流行していない】
,エジプトのイシス信仰なども流行し,キリスト教会は『聖書』のストーリーが正統性を失うことに,危機感を覚えていました。
その一方でローマ帝国では,ユダヤ教徒と違い,皇帝の儀式に参加しようとしないキリスト教徒(1世紀以降,ユダヤ教の教団との違いが互いにハッキリとしていました)たちに対し,迫害する皇帝も現れます。
しかし,迫害すればするほどに下層民を中心に信者は増えていき,
〈
ディオクレティアヌ
ス
〉帝による「最後の大迫害」を経て,
〈
コンスタンティヌ
ス
〉大帝(位324~337)の時代
に
公
認
されます。彼自身も,キリスト教になった最初のローマ皇帝です。
公認とは「信じてもいいよ」ということですが,キリスト教の信仰の内容には,先述のグノーシス主義の影響を受けたものなど,様々なバリエーションが存在したため,公認する以上,正統な教義を明確化する必要が出てきました。皇帝支配に都合の悪い説も,存在するかもしれません。
そこで,ニケアに教会の指導者をあつめて,325年
に
ニケ
ア(
ニカイ
ア)
公会
議
【本試験H31教皇の至上権が再確認されたわけではない】
を開かせたのです。ブッダの死後にひらかれた
,
仏典結
集
と似ています。このときに正統(正しい教義)とされたのは,アレクサンドリア教会の〈アタナシオス〉の主張し
た
アタナシウス〔ニカイア〕
派
【本試験H29アリウス派ではない】
の
三位一
体
(さんみいったい,トリニタス,トリニティ
)
説
です。
一方,異端となったのは,イエスを人とす
る
アリウス
派
。こちらはライン川を北に越え,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々に広がっていくことになります
【本試験H29】
。
(注)われわれが「キリスト教の歴史」を学ぶとき,もとから「キリスト教」が何であるかガッチリと定まっていて,〈イエス〉の教えがそのまま「キリスト教」であるかのようにとらえがちです。しかし,何が「キリスト教」で何が「キリスト教ではない」のかは,さまざまな主体によってゆっくりと定まっていくのです。「どれが聖典か議論されたわけではなくて,ゆっくり選別されていく,ゆるやかな作用が在ったのである」(ロバート・ルイス・ウィルケン,大谷哲他訳『キリスト教一千年史:地域とテーマで読む(上)』2016,白水社,p.75~p.76。) つまり,「これが『新約聖書』を構成する文書だ」と,あらかじめハッキリと決まっていたわけではなく,「一連の書物が人気を得るにつれて」,『新約聖書』に収録されるべき文書がゆっくりと選定されていったのです。
◆
ローマ帝国の支配機構を真似て,有力な教会によりキリスト教の支配機構がつくられていった
ローマ帝国が東西に分裂すると,西ローマ帝国も東ローマ帝国も,それぞれの地域の有力な教会を管理しようとしました。当時
,
ロー
マ
,
コンスタンティノープ
ル
,
アンティオキ
ア
,
イェルサレ
ム
,
アレクサンドリ
ア
【本試験H12】
の
五本
山
(五大教会)
【本試験H12】
に,教会組織を代表する大司教が置かれていました。
特にローマとコンスタンティノープルには,東西ローマ帝国の都がおかれたわけですから,それぞれの教会が,自分の教会のほうが優位に立っていることを主張するようになったわけです。
はじめはローマ教会が,イエスの最初の弟子でありリーダー的存在であった
〈
ペテ
ロ
〉(?~64?)の墓があるから「ローマ司教が五本山の中で一番えらいのだ」と主張しました。
遊牧民パルティア人によ
る
アルシャ
ク(
アルサケ
ス)
朝パルティ
ア
を倒した
【本試験H26アケメネス朝ではない,本試験H27】
のが,農耕に従事するイラン人によ
る
ササ
ン
(
サーサー
ン)
朝
です
(注
)
【追H9スルターンの称号を得ていない】
【本試験H3時期(6世紀のイランか),本試験H4王の道を整備していない,本試験H8ソグド人ではない】
。
建国者は〈アルダシール1世〉(位224~241頃)で,アケメネス朝の復興をめざし,ローマ帝国と争いながら,ペルシア文化を発展させていきました。彼
は
ゾロアスター
教
を国教としま
す
【
本試
験H
10クシャーナ朝の保護で新たに広まったか問う,本試験H12「ササン朝ペルシア」で国教とされたか問う】
。インダス川方面
【本試験H25ガンジス川ではない】
まで進出し,北インド
の
クシャーナ
朝
を衰えさせました。
(注)「ササン(サーサーン)
朝
ペルシ
ア
」という呼称もありますが,実際にはペルシア(ファールス)は領域の一つに過ぎず,支配集団にはさまざまな出自を持つ者がいました。例えば後のセルジューク朝やインドのムガル朝で使われていた言語はペルシア語です。イランだからといって脊髄反射的に"
ペルシア
"と呼ぶのには,「
イランには,かつてギリシア人と戦ったペルシア人の国がある
」というヨーロッパからの単純な歴史観も背景にあります。春田晴郎によると、サーサーン朝はかつてのアケメネス〔ハカーマニシュ〕朝よりも、アルシャク朝〔パルティア〕との連続性が強いと主張しています(春田晴郎「イラン系王朝の時代」『岩波講座世界歴史』2、岩波書店、1998年)。
また,かつては建国年は226年とされていましたが,王の名が打刻されたパルティア貨幣や史料の研究から現在では224年が有力となっています。
それに対して3世紀の
【本試験H251世紀ではない】
〈マニ〉(216?~276?)による善悪二元論をと
る
マニ
教
【
本試験H10クシャーナ朝の保護で新たに広まったか問う,本試験H12「アケメネス朝ペルシア」で生まれていない】
【本試験H21ヴィシュヌは主神ではない】【本試験H25】
は弾圧の対象となりました。その後,東は中央ユーラシアを通って中国に伝わったり,西は北アフリカやローマに伝わったりしていきました。北アメリカのカルタゴでは,のちにキリスト教
の
教
父
(きょうふ,初期の教会におけるキリスト教教義の理論家)
【本試験H17ストア派ではない】
として有名になる
〈
アウグスティヌ
ス
〉
(354~430)
【東京H22[3],H30[3]】
【本試験H6時期(同時代の出来事を選ぶ)】
【本試験H17ディオクレティアヌスではない】
【追H19『神学大全』を著していない,H21、H25アウグストゥスではない】
が青年時代に影響を受け,そこからキリスト教に改心した話が
『
告
白
(録)』
【本試験H17】
に記されています。
ちなみに,ゾロアスター教も,中央ユーラシアを通って長安から長江下流域まで広がり,ローマやインドのボンベイ(現在のムンバイ)にまで拡大しました。現在でもインドでは,ムンバイを中心にゾロアスター教のグループが分布しています。中国ではマニ教
は
摩尼
教
,ゾロアスター教
は
祆
教
(けんきょう)
【追H25イスラーム朝ではない】
と呼ばれ,唐代(618~907)に流行しました。
第2代の
〈
シャープール1
世
〉
(位241~272)
【東京H29[3]】
【本試験H3ハールーン=アッラシードとのひっかけ。アッバース朝最盛期の君主ではない,本試験H10時期を問う】
【本試験H25】
は,現在のトルコでローマ軍と戦い(エデッサの戦い),軍人皇帝時代のローマ皇帝
〈
ウァレリアヌ
ス
〉
【本試験H25ネルウァではない】
【早政H30】
を捕虜にしました。領土はインダス川にも及びました。
なお,イラン人は,ガラス・銀・毛織物・陶器などの工芸品の製作に優れ,ササン(サーサーン)朝で用いられた「獅子狩(ライオン狩り)」のデザインは,法隆寺に伝わる四
騎
獅子狩文
錦
(しきししかりもんきん(にしき))にも見られることから,ユーラシア大陸に広く用いられた図案であったことがわかります。正倉院の漆胡瓶(しこへい)・白瑠璃碗(しろるりわん)にも,サーサーン朝の美術の影響があります。
東西ローマの分裂後も,小アジア,シリア,エジプトは東ローマ帝国の支配下に置かれていました。小アジア中央部
の
カッパドキ
ア
は奇岩が分布していることで有名で,キリスト教徒の隠れ家として利用されていました。4世紀にはカッパドキア三教父と呼ばれる神学者が現れ,三位一体説の教義に影響を与えました。
現在のシリア周辺には,3世紀後半に女王〈ゼノビア〉の統治下
で
パルミ
ラ
【追H26リード文、H30ソグド人と無関係】
【京都H22[2]】
が繁栄し,東西交易で栄えました。これは260年代には事実上ローマ帝国から分離しています
(注)
。
遺跡はのちに世界文化遺産に登録されましたが,「イスラーム国」により破壊され「危機遺産」となっています。
(注)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.28。
◯20
0
年
~
40
0
年のアジア 西アジア
現⑱
アルメニア
アルメニ
ア
は4世紀にサーサーン朝ペルシアと東ローマ帝国との間に分割されていました。サーサーン朝側では自治が認められ,東ローマ帝国側では自治は認められず
〈
レオン3
世
〉
【本試験H31】
によりテマ=アルメニアコンとい
う
軍管
区
(テマ)に設定され支配を受けました。東ローマはアルメニアの教会を分裂させようとしますが,サーサーン朝
は
アルメニア教
会
を保護しています。
○20
0
年
~
40
0
年のアフリカ 東アフリカ
エチオピア高
地
でもアフロ=アジア語族セム語派によるイネ科
の
テ
フ
などの農耕文化が栄え,ナイル川上流部ではナイル=サハラ語族ナイル諸語の牧畜民
(
ナイロー
ト
人),"アフリカの角"(現・ソマリア)方面ではアフロ=アジア語
族
ク
シ
語派の牧畜民が生活しています。
○20
0
年
~
40
0
年のアフリカ 南・中央・西アフリカ
アフリカ大陸の南東部では,コイサン語族
の
サ
ン
系の狩猟採集民が活動しています。
サハラ以南のアフリカでは中央アフリカ(現・カメルーン)か
ら
バントゥ
ー
諸語系が東部への移動をすすめ,先住
の
ピグミ
ー
系の狩猟採集民
,
コイコ
イ
系の牧畜民を圧迫しています。
○20
0
年
~
40
0
年のアフリカ 北アフリカ
エジプトのアレクサンドリアにはキリスト教の五本山の一つ
,
アレクサンドリア教
会
が位置しています。
◆
ローマ帝国ではバルカン半島のトラキア人やイリュリア人が台頭し,「軍人皇帝時代」となる
ローマ皇帝にバルカン半島人が即位,重心は東方へ
ローマ帝国では皇帝
〈
カラカラ
帝
〉(位198~217)
【本試験H3,本試験H7カエサルではない】
が,妻・弟らを次々に殺害して実験を掌握
。
カラカラ浴
場
(カラカラ帝の大浴場)を建設し,だんだんと政治をおろそかにするようになりました。
212年には「世界中のすべての外人
(
帝国内の全自由
民
【本試験H3,本試験H7】
)にローマ市民権を付与する」法
(
アントニヌス勅
法
)を発布しました。これにより,ローマ市限定の法として出発したロー
マ
市民
法
と
,
万民
法
(帝国内の外国人や異民族との関係を規定していた法)
【本試験H8「しだいにその対象を拡大していった」か問う】
との違いはなくなりました。彼は,アルシャク(アルサケス)朝パルティアやインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々に対して遠征軍を派遣しています。アルシャク(アルサケス)朝パルティアを攻めようとしたのは,〈アレクサンドロス大王〉(位 前336~前323)への憧れからとみられます。
〈カラカラ帝〉が帝国の全自由民に市民権を与えたのは税収を増やすための政策だったと考えられますが
(
注
1
)
,これにより辺境地帯の有力者が政治に積極的に介入するようになっていきました。
たとえば,235年に即位した
〈
マクシミヌ
ス=
トラクス
帝
〉(位235~238)は,トラキア人の羊飼い出身から皇帝に上り詰めた人物です。イタリアでの反乱鎮圧に向かう途中,部下の兵士に暗殺されて以降,284年までのあいだ,実に26人の皇帝がほとんど寿命をまっとうせずに短期間で交替してい
く
軍人皇帝時
代
に突入します。その多くガエリート出身でなく一兵卒からの叩き上げでした。
260年には属州ガリアや属州ゲルマニアで反乱が起き「ガリア帝国」と呼ばれる分離国家も生まれます
(
注
2
)
。
社会不安の中,キリスト教が帝国内に広まっていくのは,この時期のことです。なお,〈アウレリアヌス帝〉(位270~275)のときには,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の進入が激しくなったことから,271年にドナウ川北岸
の
ダキ
ア
から撤退しました。
(注1)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.28。
(注2) 古山正人他編『西洋古代史料集 第2版』東京大学出版会,2002,p.218。
◆
ディオクレティアヌス帝はローマ帝国を複数の皇帝で共同統治し,混乱をおさめようとする
現クロアチア生まれの皇帝が,帝国統治を改革へ
そんな中,現在のクロアチアで生まれた
〈
ディオクレティアヌ
ス
〉(位284~305)
【追H28全自由民にローマ市民権を与えたわけではない】
は,軍人として活躍後,小アジア
の
ニコメディ
ア
で皇帝に即位しました。ですから彼も"軍人皇帝"です。ローマからニコメディアに遷都した理由は,「異民族の進入を防ぎ,広い帝国を安定して支配するためには,帝国の比重を東に移す必要がある」と考えたからです。
しかし,東に首都を移してしまえば,今度は西側が手薄になっていきます。そこで彼自身は帝国の東方を担当し,ローマ帝国の西半は軍の同僚の〈マクシミアヌス〉(位286~305)を共同皇帝としてを担当させることにしました。
その後,西の〈マクシミアヌス〉と東の〈ディオクレティアヌス〉が,それぞれ東西の「正帝」(アウグストゥスといいます)として,東西の「副帝」(カエサルといいます)を任命して,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々がライン川とドナウ川の防衛線を突破しないように担当させました。広い帝国を4人で統治するこの制度
は
テトラルキ
ア
(
四分統
治
) といいます。
〈ディオクレティアヌス〉は反乱を防止し,自身に権力を集めるため,まず属州を100程度に細分化しました。従来,属州
は
元老院議
員
などの有力者の拠点となっていましたが,その力を奪おうとしたのです。中央から属州総督を派遣して行政を担当させ,国境線の防衛は軍司令官に担当させました。軍事と行政の分担です。さらに官僚制を整備して,増税を図りました。そして
,
皇帝崇
拝
を導入し,それを認めないキリスト教徒を弾圧しました
(
最後の大迫
害
)。しかし,すでにキリスト教は官僚などの支配層にも広がっており,拡大を食い止めることは不可能でした。
軍人皇帝の時代に起きていたインフレーションを抑えようと貨幣もつくりなおし,物価を抑えるために最高価格令も導入しましたが,これはあまり効果がありませんでした。
このように
,
元老
院
の権威はほとんど失墜した状態で,事実上〈ディオクレティアヌス〉1人に権力が集まる仕組みができあがります。これ
を
専制君主
政
(
ドミナートゥ
ス
)
【本試験H3アウグストゥスのときではない,プリンケプスとのひっかけ】
【追H25テオドシウスのときではない】
【大阪H31論述(ローマの政体の変遷)】
といいます。
◆
コンスタンティヌス帝は,帝国の統一にキリスト教を利用する
ローマはキリスト教会を,住民の把握に利用へ
〈ディオクレティアヌス帝〉が自分から皇帝の位をしりぞくと,帝国は内乱状態になりました。
〈
コンスタンティヌス
帝
〉
(大帝,在位306~337)
は
【
Hセ10コンスタンティノープルに遷都したか問う】
【H29共通テスト試行 史料読解(クローヴィスの洗礼に関する)】
【追H25テオドシウスとのひっかけ】
【セA H30アウグストゥスとのひっかけ】
は「ローマ帝国をまとめるためには,増えすぎたキリスト教徒たちを管理する教会を支配に利用するほうが,都合がいい」と考え,313年にもう一人の正帝〈リキニウス〉(位308~324)と連名
(注1)
で
ミラノ勅
令
【本試験H3】
で
キリスト教を公
認
しました
【本試験H3国教としたのではない】
【本試験H18アリウス派を異端にしていない,本試験H27,本試験H29帝政を始めたのはアウグストゥス】
【追H25テオドシウス帝ではない】
【セA H30アウグストゥスではない】
。
最終的に内戦に勝利した〈コンスタンティヌス〉は、東西に分けられていたローマ帝国を再統一し,テトラルキアを終わらせます。
324年には,ギリシア人の植民市であったビザンティウム〔ビュザンティオン〕
【東京H14[3]位置を問う】
に新たな都市
コンスタンティノープル
【Hセ10】
【追H30 6世紀ではない】
を建設を開始。みずからの名を付けた都市にふさわしく、城壁、キリスト教的な建造物や競技場・浴場・広場・記念柱・大通りを建設していきました。
ただそれは単に慣例にならった戦勝記念事業にすぎず、当初から「第二のローマ」(アルテラ=ローマ)を建設する意図があったか、はっきりとはわかりませんが、国防目的に加えキリスト教に反発する保守的なローマの元老院を嫌ったのだといわれます(治世末期にはこの都市
の
元老
院
を議員の人数を300人から約2000人に増員しています)
(注2)
。
またローマ
【追H30アテネではない】
市内にはコンスタンティヌス
の
凱旋
門
(がいせんもん)
【本試験H17】
【追H27コンスタンティヌス大帝が建てたか問う、H30】
を建設し,18世紀ベルリンのブランデンブルク門
【本試験H17直接は問われていない】
や19世紀パリの凱旋門のモデルにもなっています。
また,軍の強化と税収の確保のため,農民の移動を制限する勅令を出しました。土地を割り当てられ,収穫の一部を納める農民
を
小作
人
(こさくにん)といいますが,この頃の,移動の自由が認められていない小作人のこと
を
コロヌ
ス
と呼びます。奴隷よりも待遇は良く家族は持てました。そのほうが,農民のやる気も出て収穫量も増えるし,支配がラクだと考えられたからです。このように,奴隷ではな
く
コロヌ
ス
(移動の自由のない小作人)
【追H20奴隷ではない】
を使用した大土地経営のこと
を
コロナートゥ
ス
(コロナトゥス)
【追H20】
といいます(彼らの身分自体をコロナートゥスということもあります)
【本試験H29共和政ローマの時代には始まっていない】
。のちに中世ヨーロッパ(ローマ帝国滅亡後)で
は
農
奴
と呼ばれることになります。
キリスト教
を
公
認
するからには教義の統一が必要となったため,325年
に
ニケ
ア(
ニカイ
ア)
公会
議
【本試験H18ミラノ勅令とのひっかけ,本試験H18コンスタンツ公会議とのひっかけ】
【追H21時期を問う、H27コンスタンツ公会議ではない】
で教義を統一させました。正統となったのはアレクサンドリア教会の指導者〈アタナシオス〉(298~373,ギリシア語読み。ラテン語読みではアタナシウス
【東京H6[3]】
)によ
る
アタナシウ
ス(
ニカイ
ア)派
の
三位一
体
(さんみいったい)説です。
アリウス
派
【追H21、H27】
【H27名古屋[2]記述(内容を説明)】
は
異
端
(いたん。正しい教義ではないとされた説)とされました。「異端」というのは多数はからのレッテルであり,自分のことを「異端」と主張する教派はもちろんありません。
異端とされ
た
アリウス
派
【本試験H25ネストリウス派ではない】
はインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の世界に広がっていくことになります。
このころのキリスト教会の指導者として『教会史』を著した
〈
エウセビオ
ス
〉(260?265?~339)
【東京H22[3]】
【早政H30】
がいます。〈エウセビオス〉はキリスト教の由緒正しさを主張するため,「キリスト教の説明する『聖書』に基づく歴史のほうが,エジプトの歴史よりも古いのだ」と,史料を操作して主張しています。
〈コンスタンティヌス〉大帝によって建設された都市コンスタンティノープルが、キリスト教の篤い信仰に基づいたものであったとする記述も、〈エウセビオス〉によるもの(『コンスタンティヌスの生涯』)。本当に大帝がそのような意図に基づいていたか確証はありません
(注3)
。
このようにして確立されていったキリスト教会の歴史観を「普遍史」といいます。
(注1) 北村暁夫『イタリア史10講』岩波書店、2019年、p.31。
(注2) 南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.151。
(注3) 南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.150。
再び「強いローマ」を目指し〈コンスタンティヌス〉大帝の時代に皇帝は神聖化され、そのもとで寵愛を受けた一部の有力元老院議員、官僚、宦官が政治を動かすようになっていきます。
大帝の死後、3人の子が帝国を分割。大帝以降の皇帝は、基本的にコンスタンティノープルの聖使徒教会に埋葬されるようになります
(注1)
。
死後もローマ帝国の国力は衰退しませんでしたが
(注2)
、兄弟間の争い(長男〈コンスタンティ
ヌ
ス2世〉は三男〈コンスタンス1世〉に殺害されます)、皇位の簒奪といったごたごたを経て、次男〈コンスタンティ
ウ
ス2世〉(位337~361)が単独の皇帝となります。
その後、大帝の次男〈コンスタンティウス2世〉に任じられガリアを統治していた西の副帝〈ユリアヌス〉(大帝の甥)が360年に反乱を起こします。しかし361年に次男〈コンスタンティウス2世〉が急死したことからすぐに決着がつきます(〈コンスタンス1世〉も部下により殺害される)。
このゴタゴタを切り抜けた〈ユリアヌス〉(位361~363)は皇帝に即位すると、〈コンスタンティヌス〉大帝以降のキリスト教を保護する支配スタイルを抜本的になくし、伝統行事(ローマの神々に犠牲獣をささげる儀式など)を重んじます。もともとローマ帝国では,古来からローマでは多神教
【本試験H3】
が支配的で、エジプトの神イシス
【本試験H25リード文】
や東方のミトラ教
【本試験H31神聖ローマ帝国で流行していない】
なども信仰されていました。
しかし、363年にサーサーン朝ペルシアへの遠征中ティグリス河畔で死去すると、後継はキリスト教徒の〈ヨウィアヌス〉(位363~364)となりました
(注3)
。
〈ユリアヌス〉はキリスト教の伝統的な歴史観では,異教を復活させようとしたことから,「背教者」と呼ばれますが,それでもキリスト教の拡大は止まりません。信者の増加には,200年頃から
〈
ヒエロニム
ス
〉(340?~420)らによりラテン語訳『聖書』(『ウルガタ』といいます)が刊行されるようになったことも影響しています。
なお、フランク人の一小部族であるサリ=フランク人が、358年にトクサンドリア(ライン川河口~ベルギー北東部)に定住を許されたのは〈ユリアヌス〉帝による決定です。
これ以降フランク人はローマ軍に有能な兵士を供給することになり、急速にガリア社会に進出していくことになります
(注4)
。
(注1)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.166。
(注2)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.29。
(注3)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.29。〈ヨウィアヌス〉はササン朝ペルシアと講和して遠征を中止し、ティグリス川以東の配置とメソポタミアの若干の都市・砦を失いますが、ローマ帝国が対外的に衰退したわけではありません(同、p.30)。
(注4)フランク人が史上にあらわれるのは3世紀後半のこと。当時のフランク人は、カマウィ、ブリュクテリ、アムスウェリ、シャルアリ、シカンブリ、
サリ
などいくつもの小部族の混成状態にありました。4世紀後半になると、帝国の重要な軍事官職にもフランク人が登場するようになります。「外国人なのになぜ?」と思うかもしれませんが、ローマ的価値観を受け入れたなら、帝国の外の人々であっても柔軟に受け入れるのあ「ローマ的な世界秩序」であったのです。南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、pp.72-73。
◆
テオドシウス帝の死後,ローマ帝国の全土を一人で支配できる皇帝はいなくなる
外部民族の受け入れが加速する中、フン人が侵入
〈ヨウィアヌス〉帝の死後、〈ウァレンティニアヌス1世〉(位364~375)が即位。彼は即位一ヶ月後、帝国所領の担当を2つに分割し、東半分を弟〈ウァレンス〉(位364~378)にまかせ共同統治の形をとっています。これは「帝国が分裂」したわけではなく、緊密な連携を保ちつつ帝国を支配するための効率的な解決策でした。「皇帝のいる所がローマである」という2世紀の言葉があるように、複数の皇帝が同時に存在して別々の場所にいる限り宮廷も2つに分けるしかないということでした。〈ウァレンス〉はトラキアを水源とするウァレンス水道を建設し、コンスタンティノープルの水供給インフラを確立した皇帝でもあります
(注1)
。
その後、〈ウァレンティニアヌス1世〉の子〈グラティアヌス〉(位367~383)が帝国西半の皇帝に即位しますが、殺害されました。〈グラティアヌス〉の共同皇帝として〈ウァレンティニアヌス1世〉の子である〈ウァレンティニアヌス2世〉(位375~392)が即位しています。
軍人皇帝時代から皇帝たちの出身地はドナウ南岸からバルカン半島にかけてイリュリクム地方の人々が多く、〈ウァレンティニアヌス1世〉の家系も例外ではありませんでした
(注2)
。
4世紀になると、帝国のフロンティアにあった属州には外部部族集団(たとえばアラマンニ人)が移住する例が増え、皇帝が組織的にそういった外部部族を定住・植民させて、ローマとの同盟関係を結んで帝国領内で自治を得て暮らす例もみられるようになります。4世紀後半には皇帝の側近に軍の最高司令官にも、帝国外部にルーツをもつ軍人が就任していたのです
(注3)
。
375年に
フン人
【H30共通テスト試行 移動方向を問う(西アジアからヨーロッパへの移動ではない)】
が東から黒海北岸に出現したのも、まさにこういった事態が進行していたときだったのです。
フン人の脅威を逃れて属州トラキアへの移住を迫ったゴート人に対し、帝国の東半分を治めていた弟〈ウァレンス〉(位364~378)は受け入れを許可したわけですが、彼らを受け入れれば「ローマ兵として戦力になりそうだ」と考えてのことでした。受け入れに先例がなかったわけではないのです
(注4)
。しかし受け入れ後にローマ人が過酷な扱いをしたがために暴徒化し、おさえきれなくなったローマ軍が敗走したため移住者集団をコントロールすることができなくなったため、ゴート人だけでなくフン人やアラニ〔アラン〕人までもが外部から進出するようになってしまいます。
しかし378年、〈ウァレンス〉帝はゴート人と戦って、敗北。皇帝は殺害され、ローマ軍は壊滅します。
そんな中,西方を支配していた〈グラティアヌス〉(位367~383)が防衛の"頼みの綱"としたのが〈テオドシウス〉でした。彼は379年に
〈
テオドシウス1
世
〉(大帝,在位379~395)
【追H25】
として即位し,ゴート人に勝利。帝国の北部に押し返すことはできなかったものの、382年に彼らを同盟部族(フォエデラフィ)として受け入れたのです。現代風に考えれば「ゴート人がローマ帝国内に"独立国"を建てた」とみなせそうですが、そういった措置自体は特別なものではなく、先例もありました。
しかしそれ以降、歴史の流れが転換していくのは、彼らが「定住」することなく再び「移動」を繰り返したこと、そして帝国内から見た外部民族に対する目が厳しくなっていったことでした
(注5)
。
その後、383年皇帝〈グラティアヌス〉が将軍に殺害され、危険の迫った共同皇帝〈ウァレンティニアヌス2世〉(位375~392)は共同皇帝〈テオドシウス1世〉を頼り、〈ウァレンティニアヌス2世〉→西半の皇帝・〈テオドシウス1世〉→東半の皇帝のように分担することにしました。
しかし、〈ウァレンティニアヌス2世〉は392年に疑わしい死を遂げます。
おそらく、フランク人の将軍(ローマ軍の総司令官として活躍していた〈アルボガスト〉(?~394))によって殺害されたとみられます。
代わってフランク人将軍が皇帝に擁立したのは修辞学の教師であった〈エウゲニウス〉でした。
(注1) 南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.32,154,168。
(注2) 南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.32。
(注3) 帝国領内に定住・植民し軍事奉仕するようになった者は「ラエティ」と呼ばれ、ローマと同盟関係を結び自治をエて、独自の指揮権の下でローマ軍兵士として戦った部族・軍隊は「フォエデラティ」(同盟部族)と呼ばれました。アラマンニ人のほかには
フランク人
もそういった活動をしていた部族として知られます。南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、pp.34-35。
(注4) 南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.36。
(注5) 南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.38。
◆〈テオドシウス〉大帝はキリスト教を国教と定めた
ローマ帝国でキリスト教が国教とされる
異教を復活させようとする〈アルボガスト〉らに対し、〈テオドシウス〉大帝は対立します。
〈テオドシウス〉大帝がキリスト教に着目したのには理由があります。
キリスト教徒の人口は増え続け,各地の都市の行政を握る都市参事会においてもキリスト教の司教の発言力が高まっていたのです。
「全土を効率よく支配するには,人々の心や活動に大きな影響を与えている教会組織を利用したほうがよい」と考えた〈テオドシウス帝〉は,381年にコンスタンティノープルで第1コンスタンティノポリス公会議を開催。アリウス派の異端問題に決着をつけるとともに
,
ニカイ
ア=
コンスタンティノポリス信
条
を採択しました。
この信条は,ローマ教会,正教会を始め,多くのキリス
ト
教
派
(教派(英:デノミネーション)とは同じキリスト教ではあるが異なる信仰スタイルを持つグループのこと)で「正しい」とされていますが,解釈は教派によってちょっと異なります。字句の解釈をめぐりローマの教会とコンスタンティノープルの教会は,今後まったく"別物"の教派へと分かれていくことにもなりました。
こうして,〈テオドシウス1世〉
【本試験H3コンスタンティヌスではない】
【追H25】
は392年にキリスト教
を
ローマ帝国の国教と定めまし
た
【追H25】
。
それに対しキリスト教化に反対する元老院勢力は〈エウゲニウス〉帝に協力。
〈テオドシウス〉大帝はゴート人の力も借りて、392年にイタリア北部のフリギドゥス川で交戦し、これを破りました(フリギドゥス川の戦い)。
戦争に勝利した彼は、ギリシア・ローマの伝統的な神々や異教を徹底弾圧し、キリスト教のもと、ローマ帝国をひとつの皇帝権のもとでまとめることに成功したのです。
しかし、大帝が395年に突然死去すると,すでに共同皇帝であった息子の2人に広大な領土を分けて継承することになります (西→次男〈ホノリウス〉,東→長男〈アルカディウス〉)。
帝国を東西の皇帝により分割統治することには先例があり、4世紀後半には普通となっていましたから珍しいことではありませんでしたし、法制度上分離しているわけでもありませんでしたが、その後〈コンスタンティヌス〉大帝や〈テオドシウス〉大帝のように,1人で全土を統一できた者はついに現れることはなく,ローマ帝国を複数の皇帝が分割統治する体制は固定化されてしまいました。
このことを,後世の人々は
,
ローマ帝国の東西分
裂
といいます
【本試験H6時期(アウグスティヌスの存命中ではない)】
【本試験H29ユスティニアヌス帝の死後ではない】
。
今後,ローマ
の
西方領
土
は慣用的に「西ローマ帝国」といいます。
若年の東西皇帝の側近を占めたのは外部民族出身者でした。東の〈アルカディウス〉の重臣はガリア出身の〈ルフィヌス〉、西の〈ホノリウス〉の重臣はローマ人の母とヴァンダル人の父を持つ人物〈スティリコ〉でした。ドナウ川を超えたゴート人は、ローマ人に不信をいだき、コンスタンティノープルからギリシャに南下し、さらにバルカン半島西岸を北上します。そんな中、東西帝国の重臣がゴート人の対応や領域をめぐって対立。のち、東ローマの重臣は西ローマの東方拡大を恐れ、逆にゴート人に東西両帝国の境界領域の統治権を委ねます
(注1)
。〈アラリック〉率いるさまざまな人々の集団は401年には北イタリアに入ってミラノを包囲、西ローマを苦しめます。西ローマの〈スティリコ〉は北方の属州を守るはずのローマ軍をかき集め、さらにフン人やアラニ人などを加えた連合軍で、これを迎え討つほかなかったのです
(注2)
。
西ローマの正帝はミラノ,のちラヴェンナに置かれていましたが,ゴート人の襲撃を受け、東ローマに比べ統治は弱体化。北方を守るべきローマ軍を呼び寄せてしまっては、もはやローマが属州の治安を維持することも難しくなります。
476年に西ローマの正帝がインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の傭兵隊長
〈
オドアケ
ル
〉により殺害された後は,西ローマに正帝が即位することはなくなってしまいました。これを,後世の人々は「西ローマ帝国の滅亡」と呼ぶわけです。
その後,コンスタンティノープル
【Hセ10】
を首都とす
る
東方領
土
の正帝(以
後
東ローマ帝
国
(またはビザンツ(ビザンティン)帝国
【Hセ10】
)といいます)は,唯一のローマ皇帝として西方領土の奪回に努めるようになっていきます (最終的に東半は
145
3
年に滅
亡
します)。
ローマ帝国は,〈アレクサンドロス〉の大帝国の後継国家を飲み込んで拡大していきましたから,ローマ文化はヘレニズム文化の影響を強くうけました。共和政末期から帝政初期にかけては「古典時代」ともいって,さまざまな分野で特徴的な作品がうみだされました。特に散文と詩歌,歴史学にすぐれたものが多いです。また,哲学はヘレニズム文化の成果が受け継がれ,ストア学派が活躍しました。自然科学も
,
天動
説
【本試験H2,本試験H8地球の公転・自転説ではない,本試験H12地動説ではない】
を体系化した
〈
プトレマイオ
ス
〉
(100頃~170頃)
【追H26地動説を体系化していない】
【本試験H15天動説を体系化したかを問う,プルタルコス・エウクレイデス・ピタゴラスではない】
【本試験H2原子論・『博物誌』ではない・ムセイオンを創設していない,本試験H8】
などが有名です。ギリシア人も多く活躍しました。
ローマ帝国において,著しく発達していったのは建築・土木や法律の分野です。従来の様式を,より普遍的な様式に高める努力がなされ,ギリシアの柱頭の装飾様式を組み合わせたり,民族を越えた普遍法の制定が研究されたりします。
(注1) 南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.42。
(注2) 南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.44。
○20
0
年
~
40
0
年のヨーロッパ 東・中央・北ヨーロッパ
東ヨーロッ
パ
...現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッ
パ
...現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
北ヨーロッ
パ
...現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン
ドナウ
川
と
ライン
川
よりも北側
の
森林地
帯
には,狩猟や農耕・牧畜
【本試験H7農耕を行わなかったわけではない】
によって生活をしていたインド=ヨーロッパ語族
の
イン
ド=
ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人
々
が生活
,
キヴィタ
ス
と呼ばれる部族国家を形成していました。
キヴィタスには
,
貴
族
・
平
民
・
奴
隷
の区別があり
【本試験H7】
,貴族中心ではありますが,成年男子全員
【本試験H7女性は参加していない】
が民会で重要な事柄を決めました。
有力な貴族には,平民を保護する義務があり,そのかわりに配下に入れて兵士としました
(
従士
制
)。彼らの様子については,
〈
カエサ
ル
〉
【追H29】
の
『
ガリア戦
記
』
【本試験H15『ゲルマーニア』とのひっかけ】
【追H29キケロが著していない】
を,
〈
タキトゥ
ス
〉の
『
ゲルマニ
ア
』(98年)などから知ることができます。
やがて,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々も定住農耕をするようになると,人口が増加し,耕地が不足したために,ローマ帝国領内に進入するインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々も出てきました。ローマ帝政が終わりに近づくと,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々はドナウ川の下流域にまで活動区域を広げていました。インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の部族は,集団ごとにローマの傭兵団として各地に駐屯(ちゅうとん)するようになり,やがてローマ帝国を脅かすようになっていきました。
○20
0
年
~
40
0
年のヨーロッパ バルカン半島,西ヨーロッパ
バルカン半
島
...現在の①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア
西ヨーロッ
パ
...現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
◆
ローマ帝国は,進入したイン
ド=
ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々を軍団として認め,定住と国家建設を許可した
バルカン半島のドナウ川北部
の
ダキ
ア
は,皇帝〈トラヤヌス〉(位98~117)のときに属州となっていましたが,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々や黒海北岸からの騎馬遊牧民の進入が相次ぎ,軍人皇帝〈アウレリアヌス〉(位270~275)のときに手放すことが決まりました(271年撤退)。
黒海北岸方面からバルカン半島には,黒海沿岸の低地を通ればカンタンに進出できます。黒海沿岸部の西には
,
カルパティア山
脈
がドイツの中部にかけて弓なりに伸び,ここをつたってドナウ川中流域のパンノニア平原(現在のハンガリー)に至ることも可能です。
212年に皇帝
〈
カラカ
ラ
〉(188~217)
【追H28ディオクレティアヌスではない】
により全ローマ帝国自由人
【早政H30】
に市民権が与えられて以降,異民族の防衛の必要もありローマ帝国の重心は東方に移っていました。238年に
は
ゴート
人
がドナウ川流域に進出。彼らはスカンディナヴィア南部を現住地とし,3世紀には黒海北岸に移動していたインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の一派です。
3世紀後半に歴代皇帝がゴート人と戦っています。このころのゴート人は複数の集団に分かれていました
(注)
。
(注)ゴート人が当初から東西別々のアイデンティティをもっていたわけではないと考えられています。南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.17,p.70。
バルカン半島西部のイリュリア人のローマ化(イリュリア人らしさがなくなり,ローマ文化を受け入れること)も進み,ダルマツィア地方からは皇帝
〈
ディオクレティアヌ
ス
〉(位284~305)が輩出され,帝国の危機を四分統治(テトラルキア,帝国の管区を東西に2分しそれぞれに
330年には皇帝
〈
コンスタンティヌ
ス
〉(位306~337)が首都をビュザンティオンに置き,元老院議員以外の身分や職業を固定化して,中央集権化を強めました。
しかしローマ皇帝の改革もむなしく,異民族のさらなる進出は国境地帯の情勢不安定をさらに悪化させていきます。
その頃、黒海北岸からテュルク(トルコ)系ともモンゴル系ともされ
る
フン
人
【本試験H12「フン族の西進により,西ゴート族が圧迫されて移動を開始した」か問う】
【追H30】
がバルカン半島方面
【追H30ブリタニアではない】
に移動していました。
360年に黒海沿岸
の
ゴート
人
を征服し
【本試験H12「フン族の西進により,西ゴート族が圧迫されて移動を開始した」か問う】
【H27名古屋[2]】
アラン〔アラニ〕人も含む多数の民族を巻き込んで、ドナウ川下流地帯に迫って来ました。
そんな中,ゴート人
(注1)
はローマ皇帝〈ウァレンス〉と交渉し,兵士を提供するかわりにドナウ川以南で耕作する権利を獲得しました。ローマ帝国はライン川・ドナウ川の「国境」(リーメス)地帯の防衛のため,異民族の進入を異民族の軍団によって制圧する作戦をとっていました(
"
夷を以て夷を制
す
")。皇帝〈ウァレンス〉はゴート人を軍団として受け入れて、国境周辺の守りを固めようと、彼らにバルカン半島東部のトラキアを用意します。
しかし,15000~20000人の戦闘員、家族を含めて40000人ほど
(注2)
のゴート人が大挙して川を渡ろうとすると,キャパオーバーだったことが発覚しました。皇帝〈ウァレンス〉は一転して移住を阻止しようとゴート人への攻撃を決意。
対する〈アラリック〉王に率いられたゴート人は食料不足で飢え死に寸前。決死のゴート人は378年
に
アドリアノープルの戦
い
でローマを破り,皇帝〈ウァレンス〉(位364~378)の命を奪いました。
395年には
〈
テオドシウス1
世
〉がローマ帝国領を2人の息子に相続し,これ以降ローマ帝国が統合されることはありませんでした。このときの分割線はバルカン半島西部を南北に走り,現在のセルビアとボスニア=ヘルツェゴヴィナの国境線とほぼ一致します。また,現在のローマ=カトリック教会と正教会の勢力を分ける線でもあります。
この分割線よりも東の地域は,今後は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)やスラヴ系諸民族との関係が深まっていくことになります。
ゴート人はさらに海岸線の低地をつたいながら,アテネ(アテーナイ)やスパルタを占領しつつイタリア半島に進入し,410年にローマに進入して占領。さらにかれらはイベリア半島に移動し,定住して建国します
(
西ゴート王国
【東
京
H11[1
]
指定語句
】
【H30地域を問う】
)。なすすべのないローマ帝国は,混乱を防ぐために彼らを軍団として認め,ローマ帝国を防衛させようとしたわけです。
(注1)彼らを「
西
」ゴート人とすることも一般的ですが、当時のゴート人に「西ゴート」「東ゴート」としての意識はなかったというのが、現在の通説です。正確には「〈アラウィウス〉王に率いられたテルウィンギ集団を中心とする人々が、ついで同じくゴート人のグレウトゥンギ集団やアラニ人たちが、さらには
フン人
の集団も渡河した」と考えられています。南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.70。
(注2) 史料(同時代の〈エウナピウス〉(4~5世紀))によっては約20万人の渡河があったといいますが、現在では過大な数字とされています。家族を含めて4万人程度であったとするならば、帝政前期からみられていた平和的移住と規模はあまり変わりません。南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.70。
○20
0
年
~
40
0
年のヨーロッパ イベリア半島
イベリア半
島
...現在の①スペイン,②ポルトガル
◆
ローマ帝国は,森林地帯からローマ帝国に移住してきたイン
ド=
ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の軍事力を頼り,帝国内の建国を許し
た
イベリア半
島
は属州ヒスパニアとされローマ帝国の支配下にありましたが,南部のコルドバは"小ローマ"といわれるほどローマ化がすすみ,「自分たちはローマ人なんだ」という意識が根付いていきました。3世紀にはイベリア半島全域にキリスト教も拡大していき,325年のニケア(ニカイア)公会議ではコルドバ司教〈ホシウス〉が主席を務めました。キリスト教を国教化した〈テオドシウス〉帝もコルドバ出身です。
一方北部のカンタブリア人やバスク人は,ローマの文化を受け入れず独自の文化を保っていました。
古代末期の民族大移動を受けて,ユーラシア大陸やアフリカ大陸北部では,新たな広域国家の形成に向かう。
アメリカでは中央アメリカと南アメリカのアンデス地方に,政治的統合をこえる交流が広がる。
○40
0
年
~
60
0
年のアメリカ カリブ海
○40
0
年
~
60
0
年のアメリカ 南アメリカ
◆
アンデス地方沿岸部ではナスカ,モチェが栄える
モチェで政治統合が進展,ナスカに地上絵が出現
モチェ
アンデス地方
北
部海岸
の
モチ
ェ
(紀元前後~700年頃)では政治的な統合がすすみ,人々の階層化が深まり,労働や租税の徴収があったとみられます。
おそらく6世紀頃,ペルー北部の沿海地域の約600kmの範囲に覇権を確立します。
信仰は多神教的で,神殿には幾何学文様やジャガーの彩色レリーフがみられます。クリーム地に赤色顔料をほどこした土器や,金製の装飾品がみつかっています。
経済基盤は灌漑農業と漁業です。
しかし,干ばつとエルニーニョの影響でモチェ南部の政権が衰え,中心は北方の政権(パンパ=グランデが中心)に移ります。パンパ=グランデは550~600年に建設された都市です
(注
)
。
(注)島田泉「ペルー北海岸における先スペイン文化の興亡―モチェ文化とシカン文化の関係」,増田義郎,島田泉,ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS,2000,p.179。
ナスカ
アンデス地方
南
部海岸のナスカ(紀元前2世紀~700年頃)も栄えます
南部沿岸のモチェほどには統合されておらず,王墓なども存在しません。
当初
は
カワ
チ
遺跡の神殿が祭祀センターであったナスカでは,300年頃からカワチが巨大な墓地に代わると,儀礼の中心地はナスカ平原へと移ります。
こうして有名な
「
ナスカの地上
絵
」がつくられ始めるわけです。
地上「絵」といっても実際には「線」が多く,ナスカ=ライン(Nazca Lines)といわれます。黒く酸化した地面の表層を削ると,下層の白い部分が露出。大規模なものもありますが,少しずつ削っていったとすればそこまで大きな労力はいらなかったと考えられます。デザインにはシャチ,サル,クモ,鳥などがあって,天体と連動する説が支持されたこともありますが,現在では儀礼的な回廊とか,雨をもたらす山との関係が指摘されています。農耕儀礼,すなわち「雨乞い」です
(注
2)
。
(注1)島田泉「ペルー北海岸における先スペイン文化の興亡―モチェ文化とシカン文化の関係」,増田義郎,島田泉,ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS,2000,p.179。
(注2)関雄二「アンデス文明概説」,増田義郎,島田泉,ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS,2000,p.177。坂井説は現在の同地域の農民が次のような気象に対する認識をもっていることを下敷きに,地上絵の描かれた目的を推測しています。「(1)ナスカ台地周辺で農耕に利用している水は,ペルー南部高地に降る雨に由来する.(2)ペルー南部高地に雨が降るのは,「海の霧」が海岸から山に移動して,「山の霧」とぶつかった結果である.(3)雨期にもかかわらずペルー南部高地に雨が降らないのは,「海の霧」が山に移動しなかったからである.(4)海水を壷に入れて,海岸から山地まで持っていけば,山に雨を降らせることができる.」 坂井正人「民族学と気候変化 : ペルー南部海岸ナスカ台地付近の事例より」『第四紀研究51(4)』, p.231~p.237, 2012年(https://ci.nii.ac.jp/naid/10030972865)。
◆
アンデス地方中央部の高地,ティティカカ湖周辺にティワナク文化が形成される
ティワナクが山地と沿岸部の生態系を合わせ発展
ティワナク
また,アンデス地方中央部の高地では,現在のボリビア側のティティカカ〔チチカカ〕湖の近くに紀元前から12世紀頃ま
で
ティワナク文
化
が栄えまています(8世~12世紀が最盛期)。
範囲は,現在のボリビアを中心に,チリ北部,ペルー南部にかけての地域です。
ティワナクは標高3200mの高地に立地し,ティティカカ湖畔
で
ジャガイ
モ
などの集約農耕をおこなっていました。
一方でティワナクは太平洋岸の谷間にも飛び地を持ち,こちらで
は
トウモロコ
シ
が栽培されます。
また,ラクダ科の家畜
(
リャ
マ
)により現在のチリの方まで隊商交易をおこなっていたこともわかっています。
ティワナクは,高度によって変わる多彩な生態系を効率よく利用し繁栄していたのです。
ワリ
500年頃から,現在のペルー南部からチリ北部にかけての高地では,ワリ文化を生み出し
た
ワリ文
化
が栄えます (6~11世紀が最盛期)。
範囲は,ペルーの南部から北部・中部にかけてです。
ワリは以前,ティワナクと混同されていたこともありますが,別個の文明です。
織物技術が高くいことで知られ,ワリの都市は,高い壁に囲まれた広い空間が,多機能を持つ小さな空間に区分され,広場を取り囲む形になっています。ワリの都市構造はアンデス各地に影響を与えますが,軍事的拡大によるものかは不明です
(注
)
。
(注)関雄二「アンデス文明概説」,増田義郎,島田泉,ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS,2000,p.178。
◆
アマゾン川流域でも定住集落が栄える
アマゾン川流
域
(アマゾニア)の土壌
は
ラトソ
ル
という農耕に向かない赤土でした。しかし,すでに前350年頃には,木を焼いた炭にほかの有機物をまぜて農耕に向く黒土が用いられていたとみられます。
○40
0
年
~
60
0
年のオセアニア ポリネシア,メラネシア,ミクロネシア
ポリネシア人は,410年~1270年の間
に
イースター
島
に到達したと考えられています。
○40
0
年
~
60
0
年のオセアニア オーストラリア
オーストラリア
の
アボリジナ
ル
(アボリジニ)は,オーストラリア大陸の外との接触を持たないまま,狩猟採集生活を営んでいます。
タスマニア人も,オーストラリア大陸本土との接触を持たぬまま,狩猟採集生活を続けています。
○40
0
年
~
60
0
年のアジア 東アジア・東北アジア
○40
0
年
~
60
0
年の東北アジア
中国東北部の黒竜江(アムール川)流域では,アルタイ諸語に属す
る
ツングース語族
系
の農耕・牧畜民が分布しています。この時期には西方の騎馬遊牧民
の
ツングース語系
の
さらに北部には
,
古シベリア諸語
系
の民族が居住します。
ベーリング海峡近くには,グリーンランドにまでつなが
る
ドーセット文
化
(前800~1000(注)/1300年)の担い手が生活しています。
(注)ジョン・ヘイウッド,蔵持不三也監訳『世界の民族・国家興亡歴史地図年表』柊風舎,2010,p.88
◯40
0
年
~
60
0
年のアジア 東アジア
東アジ
ア
...現在の①日本,②台湾(注),③中華人民共和国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国
◯40
0
年
~
60
0
年の日本
◆
ヤマト政権は王権の正統性をアピールするため,南朝に使いを送った
高句麗に対する対抗のため,讃珍済興武が動いた
※済=〈允恭天皇〉,興=〈安康天皇〉,武=〈雄略天皇〉,
大和地方中心
の
ヤマト政
権
は,地方の首長らを支配
し
大
王
(おおきみ)と称し,鉄資源を求め朝鮮半島南部にも進出しました。大王は農耕儀礼を重視し,春には祈年祭,秋には新嘗祭をとりおこない,巨石・巨木・山などの自然を神体をしてまつりました。山自体が神体として祀られている大神神社は,その一例です。禊(みそぎ)・祓(はらえ)といった風習や,鹿の骨をあぶって現れた裂け目によって占う太占(ふとまに)の法や,熱湯を用いて神意を占う盟神探湯(くかたち)などの呪術が,政治・社会において用いられました。
5世紀を通じて〈讃〉,〈珍〉,〈済〉,〈興〉,〈武〉(さん・ちん・せい・こう・ぶ
,
倭の五
王
【本試験H7時期】
)が,中国
の
南朝の
宋
(420~479)に朝貢したことが中国の歴史書に記されています。彼らは朝鮮王朝に南下していた高句麗への対抗上,中国に冊封されることで国内の権威を高めようとしたのです。
〈武〉は「ワカタケル大王」(のちの雄略天皇)のこととされ,彼の名が現在の埼玉と熊本の古墳の遺物に刻まれていたことから,ヤマト政権の権力が関東に及んでいたと考えられます。〈武〉は,「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕
韓
七
国諸軍事安東大将軍倭国王(しじせつととくわしらぎみまなからしんかんぼかんりっこくしょぐんじあんとうだいしょうぐんわこくおう)」の称号が欲しい
と
宋
の皇帝に頼むのですが,すでに百済が冊封体制の中に入っていたので,「六国諸軍事安東大将軍」が与えられました。
しかし,当初の期待とは裏腹に,中国では南朝よりも北朝のほうが有力になっていきました。そこで,479年に宋が滅亡して以来は,中国に対する朝貢は行わず,日本列島の支配に重点にを移すようになっていきます。
3世紀後半から西日本に大規模な墳墓であ
る
前方後円
墳
がみられるようになり,4世紀後半~5世紀末に関東・瀬戸内・南九州で巨大化し,副葬品に武具がみられるようになりました。5世紀末には朝鮮半島の影響で横穴式石室が増え,有力農民のものとみられる群集墳も現れました。6世紀末からは古墳に代わり寺社建築が盛んに造られるようになっていきます。
6世紀には大陸の混乱を背景にして中国や朝鮮の人々
(
渡来
人
(とらいじん))が日本に移住し,仏教・儒教・律令制度
【本試験H18時期】
といった大陸の文化を伝えました。仏教の伝来には552年と538年がありますが,538年説が有力とされています。弥生土器系の土師器(はじき)に代わって5世紀からは朝鮮の土器の影響を受けた須恵器(すえき)が用いられるようにもなりました。
6世紀初めに九州の筑紫の国造(くにのみやつこ)〈磐井〉(?~528)が,新羅と同盟して反乱を起こし,ヤマト政権に鎮圧されています
(
◆
天皇家と蘇我氏の内紛を,〈厩戸皇子〉が中国文化の導入と集権化によって解決に導く
聖徳太
子
(57
4~
622
)
とムハンマ
ド
(570
?~
632
)
は同時代
587年に大臣(おおおみ)だった
〈
蘇
我
馬子〉(そがのうまこ,?~626)が,ライバルで大連(おおむらじ)の
〈
物
部
守屋〉(もののべのもりや,?~587)を暗殺。さらに592年には第31代
〈
崇峻天
皇
〉(すしゅんてんのう,位587~592)を暗殺して実権を握りました。
〈崇峻天皇〉の先代は,〈欽明天皇〉と〈
暗殺された第
32
代〈
〈小姉君〉系の〈崇峻天皇〉は,〈
このような泥沼の状態にあって,その調整役として白羽の矢が立ったのが,〈厩戸皇子〉(うまやとのみこ
;
聖徳太
子
)でした。彼は,〈欽明天皇〉と〈
〈厩戸皇子〉は,〈馬子〉と〈崇峻天皇〉の甥にあたり,新たに即位した女性の
〈
推古天
皇
〉(すいこてんのう,位592~628)を摂政(せっしょう)として助け,大陸の先進文化を導入しながら混乱を収拾するための改革を断行しました。
すでに中国は隋により統一されて中央集権化がすすんでおり,政権の強化は急務でした。しかし,600年に派遣した使いはおそらく不成功に終わっています。中国の『「隋書」倭国伝』に記載があるものの『日本書紀』には
60
0
年の遣隋
使
の記載が見られないのです。遣隋使派遣のためには身分位階をきちんと整え,皇帝に示さなければ,一人前の外交主体として"相手にされない"ことがわかった〈厩戸皇子〉は,603年
に
冠位十二
階
を整えていくこととなります。
・
40
0
年
~
60
0
年のアジア 東アジア
現③
中華人民共和国
◆
北魏では鮮卑が漢人と協力・同化し,定住農牧民民を支配する
五胡十六国時
代→
北魏の統一
→
北魏の東西分裂
→
隋
北
魏
は
,
五
胡
【本試験H21・H29】
の一つであ
る
鮮
卑
人の王朝ですが,皇帝主導の急激な漢化政策に対する反発もありました。かつての首都の近くの防備に当たっていた軍団(六鎮)が,523年に反乱にを起こすと,北魏は無政府状態に陥り,534年に〈宇文泰〉が北魏の〈孝武帝〉(位532~534)を殺害しました。
同年,反乱を起こした〈高歓〉(496~547)が実権を握り,〈孝静帝〉(こうせいてい,孝武帝のいとこの子,位534~550)を擁立して534年
に
東
魏
を建国しましたが,これに対抗して〈宇文泰〉(うぶんたい, 505~556)が〈文帝〉(孝武帝のいとこ)を擁立し,長安を首都として535
年
西
魏
を建国
(注
)
。こうして北魏は東西に分裂
【追H25時期が梁の武帝の在位期間中かを問う】
したのです。
図
式
〈宇文泰〉
が
北
魏
の〈孝武帝〉を暗殺。
〈宇文泰〉は〈文帝〉を擁立→【西魏】
それに対して,
〈高歓〉が反乱し〈孝静帝〉を擁立→【東魏】
(注)535年をもって北魏の分裂の年とする。『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.120
さらに,550年に東魏
は
北
斉
(550~577)
【京都H20[2]】
に,西魏
は
北
周
(556~581)にそれぞれ取って代わられました。
このように華北は,五胡十六国 → 北魏が統一 → 東魏・西魏 → 北斉・北周 というように移り変わっていきます。これらはすべて鮮卑系の王朝ですが,このうちの北周の外戚だった
〈
楊
堅
〉
【本試験H16】
は,北周の皇帝から禅譲をうけ,581年
に
隋
【本試験H16】
を建国することになります。
◆
華南では,長江下流域に移動した漢人が,先住民族と協力して江南開発・海上交易をすすめます
王朝の変
遷...
東晋
→
宋
→
斉
→
梁
→
陳
建康(けんこう)
【追H28長安ではない】
を首都とす
る
東
晋
【追H28】
は,420年に武将の〈劉裕〉(りゅうゆう)により倒され,
①宋
が建国されました
(960年に始まる宋と区別するため劉宋という場合もあります)
。
その後短期間のうちに
②斉
(せい)。北魏討伐で活躍した寒門(階級の低い一族)出身の軍人〈蕭道成〉(しょうどうせい,在位479~82)が〈高帝〉として即位。
③梁
(りょう)
【追H25】
。軍人〈蕭衍〉(しょうえん)が〈武帝〉
【追H25在位期間中に東西に分裂した華北の王朝を選ぶ(○北魏、×北元、×北周、×北斉)】
として建康を占領して即位。
④陳
のように建っては滅び,建っては滅びました。華北を支配していた遊牧民たちの勢力が強く,常に臨戦態勢であることが求められたため,華北を奪回しようとする将軍の力が強まり,作戦に成功した将軍が皇帝に即位することが多かったためです。
梁
の時代は比較的平穏な時代であり,〈武帝〉の皇太子
〈
昭明太
子
〉
(しょうめいたいし)
【本試験H22】
【名古屋H31】
が四六駢儷体
【本試験H31韓愈は復興を唱えていない】
【名古屋H31】
で書かれた作品を集めた
『
文
選
』
(もんぜん)
【本試験H22斉民要術ではない】
【追H24元代に原形ができた小説ではない】
【名古屋H31】
【中央文H27記】
を代表として文化が栄えました
。
九品中
正(
九品中正
法
)
【本試験H3】
は南朝でも続けられましたが
,
貴
族
たちは華北時代の家柄にしがみつこうとし,高いランクが付けられた家柄から高級官僚が決められる仕組みは,依然として残りました。こうして,江南にもともといた豪族や軍人,華北から移住してきた華北出身の貴族の家柄に比べ,低い地位に置かれていたのです。
最終的に,南朝最後の王朝であ
る
陳
は,四川や長江北部は北朝
の
西
魏
に獲得されてしまうほど,弱体化していました。
陳は,589年に北朝
の
隋
【本試験H6北周ではない】
に滅ぼされ,こうして中国は統一され,南北朝時代は幕を閉じます。
なお,ここで,この時代の中国の時代区分についてまとめておきましょう。
三国時
代
は,魏の建国から蜀の滅亡まで(
22
0~
26
3年
)。長くとれば,西晋による呉の滅亡まで(
22
0~
28
0年
)。
五胡十六国時
代
は,匈奴による華北での「漢(前趙)」の建国から北魏の統一まで(
30
4~
43
9年
)をさします。
南北朝時
代
【本試験H19五代十国時代ではない】
というときは,北魏の建国から隋の統一まで(
43
9~
589
年)をさします。
魏晋南北朝時
代
というときは,魏・西晋から隋の統一まで(220~589年)をさし,これがもっとも長い時代区分のとり方です。
六
朝
(りくちょう
)
時
代
という呼び方もあります。これは,現在の南京に首都を置いた6つの王朝の時代をまとめたものです。
すなわち,呉
【追H25】
(当時の地名は
建業
【追H18】
)→東晋(以降は建康)→宋→斉→梁→陳の時代です。「ろく」ではなく「りく」であるのは,この頃の漢字の読み方(呉音といいます)に即して読む習わしになっているからです。この時代は,日本に漢字が大量に伝わった時期でもあります。多くは仏教の経典として日本に伝わりましたから,お経の漢字の読み方に,ちょっと変わったものが多いのはそのためです。例えば,お経の「きょう」は,「経済」の「けい」とは違います。唐の時代になると,首都周辺で話されている言葉が「漢音」として日本に伝わっていきます。現在の漢字の音読みの多くは,漢音の影響を受けたものなのです。例として,「一万(呉音)と万国(漢音)」「無理(呉音)と無事(漢音)」「大工(呉音)と工場(漢音)」「建立(呉音)と建設(漢音)」などなど。
このように三国時代から隋の成立までの中国は,争いの絶えない時代でした。しかし,逆に言えば,「この考え方が正しく,その考え方は禁止!」というように思想を統制することのできる強力な国家がなくなったため,さまざまな文化が栄える時代でもありました。
古くから根付いていた民間信仰が,神仙思想(仙人や不老不死をめざす考え方)
【本試験H2】
や道家の考え方が体系化されていきました。
〈
寇謙
之
〉
(こうけんし,363~448)
【京都H20[2]】
【追H19時期、H28道教は「仏教の普及に刺激されて」成立したのは確かだが、その時期は明代ではない】
【本試験H2北魏の人であることを問う】
【本試験H22唐代ではない】
【中央文H27記】
は
北
魏
の
〈
太武
帝
〉
【本試験H12道教を禁止したわけではない】
に接近して保護を受け,道教の教団
(
新天師
道
)
【本試験H19時期】
をつくっています(のちに宋代に正一教と呼ばれるようになり,現在に至ります)
【本試験H2中国仏教が道教の体系化に大きな影響を与えたことを問う】
。
政治的に不安定な時代であったことを反映し,政治に関する直接的な発言は避けつつ,老荘思想などについて議論を交わしつつ遠まわしに語り合う
「
清
談
(せいだん)」
【追H19時期、H24清代ではない】
というスタイルが流行しました。
〈
阮
籍
〉(げんせき,210~263)に代表される
,
竹林の七
賢
【本試験H17時期(春秋戦国時代ではない)】
が有名。阮籍は魏の時代の政治家でしたが,汚職まみれの政治が嫌になって,酒を飲んで政治の世界から一線を置く道を選びました。古代ギリシアの〈ディオゲネス〉(前412~前324頃)のようです。金と陰謀で汚れた人間がやってくると,彼らは白い目でにらんだという言い伝えから,「白眼視」という言葉が生まれます。一見哲学的な議論の形式をとることで,当時の政治を批判する意図もあったようです。
◆
大乗仏教
の"
大翻訳運
動"
がはじまった
サンスクリット文字から,漢字への翻訳がすすむ
道教に対して,インドから伝来し
た
インドの〈ナーガールジュナ〉(150頃~250頃)の『中論』を漢訳したのは〈鳩摩羅什〉です。石窟寺院も多数作られました。
北魏の時代につくられた,平城近郊
の
雲
崗
(うんこう。インド
の
グプタ
朝
(320~550)美術の影響を受けています)
【中央文H27記】
や
洛
陽
近郊
の
竜
門
【追H27唐代の長安ではない】
【本試験H22地図・後漢代ではない】
が重要です。竜門の石窟寺院は,〈孝文帝〉の漢化政策の影響もあり,中国風の衣装をまとっていいます。ただ,それでも仏教は中国人にとっては"外国思想"ですから,理解するのが難いものでした。そこで
,
老荘思
想
や
道
教
などの中国の考え方を混ぜた格義仏教の形で信仰されることも多かったのです。
しかし,仏教に対する政策は支配者によって様々でした。例えば,北魏の5人の皇帝は,雲崗石窟の仏像を自分たちの姿に似せて作らせました。「皇帝=仏」ということを,人々に知らしめそうとしたのです。南朝
で
梁
を建てた軍人出身の〈武帝〉(〈蕭衍〉(しょうえん))は,仏教を厚く信仰したことで知られます。一方,北魏の〈
太
武
帝〉(位423~452)
【本試験H12】
や北周の
〈
武
帝〉(位560~578)は,仏教を厳しく弾圧しました(唐の
〈
武
宗〉(位840~846)),後周の〈
世
宗
〉(位954~959)の迫害と合わせ中国の仏教界では"
三
武
一
宗
の法難"と呼びならわされています)。
◆
南朝では,漢人による貴族文化が開花する
"
中
原"
の漢人の文化が,次代に発展・継承される
政治の世界から一歩引く風潮は,詩文の世界にも見られます。憧れだった都は荒れ果て,豊かさが"うわべ"だけのものだったことに気づいた人々は,時間のたっても変わらない素朴な「自然」の姿に,一度きりの人生の"理想"を求めたのです。例えば,東晋の
〈
陶
潜
〉(とうせん,
〈
陶淵
明
〉
(とうえんめい),365?~427)
【本試験H3長恨歌の作者ではない】
【京都H20[2]】【名古屋H31人名と「東晋」代の人ということを問う】
。なお,このように2つの呼び方があるのは,中国人が,人の名前を軽々しく呼ぶことを嫌がったためで,陶潜の場合,「潜」は名であり,これをむき出しにするのは失礼と考え,代わりに「淵明」という通り名で呼んだことによります。前者を諱(いみな),後者を字(あざな)といいます。〈陶潜〉は官僚の職を辞して辞,故郷の田園生活に戻る決断をします。他に同じく,山水詩で有名な宋の
〈
謝霊
運
〉(しゃれいうん,385~433)
【名古屋H31人名と「宋」代の人であることを問う】
がいます。彼は,霧につつまれた,うら寂しく深い山や険しい谷を眺めながら「官僚としての生活を送るなかで,若い頃の自分ではなくなってしまった」と嘆く,そんな詩を読みました。陶潜と謝霊運をあわせて「陶謝」ともいいます。
南朝に移動し
た
門閥貴
族
(高い家柄の貴族)たちの間には,自分たちにしかわからないような絶妙で繊細な文化を尊ぶことで,庶民との違いを見せつけようとする文化が発展しました。
例えば,美しい文章の書き方として
,
四六駢儷
体
がもてはやされます。梁の時代の
〈
昭明太
子
〉(501~531)による
『
文
選
』(もんぜん)が有名です。
また,
『
女史箴
図
』(じょししんず)
【追H29】
【立教文H28記】
という女性のマナー書の挿絵を書いた
〈
顧愷
之
〉(こがいし,344?~405?)
【本試験H15王羲之とのひっかけ,本試験H22顧炎武とのひっかけ】
や「蘭亭序」(らんていじょ)
【追H29】
で有名な
〈
王羲
之
〉
(おうぎし,307?~365?)
【本試験H15「女史箴図」の作者ではない,本試験H17唐代ではない,本試験H22】
【追H27仏典の翻訳・布教をしていない、H29リード文】
【早・政経H31蘭亭序の作者か問う】
が,それぞれ絵と書をきわめます。彼の子〈王献之〉(344~388)も書画で有名です。
中国では「書」と「画」がセットで価値を持っていた点に特色があります。
また,南朝の宋の時代には〈范曄〉(はんよう,398~445)により正史の『後漢書』が紀伝体で編纂されました。
・
40
0
年
~
60
0
年のアジア 東アジア
現⑤・⑥
朝鮮半島
朝鮮半島西南部
の
馬
韓
は,小国家の伯済(ペクチェ;くだら)による統一が進んでいき,6世紀に
は
百
済
(ペクチェ,ひゃくさい,くだら)
【追H9朱子学と書院は栄えていない】
【H29共通テスト試行 時期(奴国の時代に百済はない)】
として統一が進みます。
また,朝鮮半島東南部
の
辰
韓
の地域では斯蘆(しろ)が台頭し
,
新
羅
(シルラ,しんら,しらぎ)によって6世紀には統一されていきました。
朝鮮半島北部で
は
高句
麗
が勢力を拡大させ,
〈
広開土
王
〉(クヮンゲトワン;こうかいどおう;好太王(こうたいおう),在位391~412)のときに東南部の百済や,南部の任那(イムナ,みまな)や安羅,日本列島の倭の勢力と戦いました。
次の〈長寿王〉(チャンス;ちょうじゅ,位413?~491)の代の427年には,現在の北朝鮮の首都であ
る
平
壌
に遷都し,南部への支配を本格化させました。彼は中国の北朝の北魏と南朝の宋の両方に朝貢し,新羅と百済との対立に備えます。百済は475年に高句麗によって一時滅亡しましたが,首都を熊津(ゆうしん;ウンジン)に移して再興されました。
新羅は5世紀中頃まで高句麗に従っていましたが,5世紀後半には対立を始めます。500年に新羅は王号を名乗るように成り,〈法興王〉(位514~540)の下で王権が強化されました。百済とも提携しながら高句麗に対抗していきます。
高句麗の南進に備え,南部の加耶地域の安羅や金官と協力し,日本列島
の
倭
にも接近してきました。この時期の倭に贈られた七支刀(しちしとう)は,百済の倭への接近を示しているとみられます
。
倭
(日本)のヤマト政権は,彼らの持っていた高い技術力や先進的な文化を歓迎し
,
渡来
人
(とらいじん)として受け入れました。こうして日本に
も
漢
字
や
仏
教
・
儒
教
や
律令制
度
【本試験H18】
が伝えられることになったのです。例えば〈王仁〉(わに,生没年不詳)が『論語』や『千字文』などの儒教のテキストを伝え,513年に
は
五経博
士
を派遣しました。522年には職人〈
◆
新羅が南部に進出すると,百済は倭のヤマト政権と結んで対抗した
その後,百済と新羅は南進し,ともに鉄資源の豊かな南部
の
加耶地
域
に進出します。522年に新羅は加耶諸国のうち5世紀後半に台頭していた大加耶(高霊(コリョン))と同盟し,532年には金官国(金海(キメ))を滅ぼしました。
このとき,金官国(かつての狗邪(こうや;クヤ)国)は,密接に交流をしていた倭
の
ヤマト政
権
に救援を求めました。ヤマト政権は加耶地域の鉄資源を押さえようと,527年に〈近江毛野〉(おうみのけぬ,?~530)に朝鮮半島南部に進軍させようとしましたが,九州の豪族で筑紫国造であった〈磐井〉(いわい)が528年にそれを阻止しました
(
磐井の
乱
)。〈磐井〉を初めとする九州の豪族は新羅とのつながりが深く,百済とのつながりの深いヤマト政権との交易ルートをめぐる対立があったとみられます。
541年と544年には百済が主導し,倭も参加する形で加耶の復興会議が開かれましたが,562年に加耶地域は新羅の支配下となりました。これをもって朝鮮半島
は
高句麗,新羅,百済の三国時
代
【本試験H31 高句麗・新羅・百済が並び立ったか問う】
【追H19時期】
となります。実力の認められた新羅は中国の北朝(北斉)と南朝(陳)に冊封されると,高句麗や百済も対抗して中国への朝貢を実施。581年に中国
に
隋
が成立すると,高句麗・百済・新羅の三国が朝貢しました。
○40
0
年
~
60
0
年のアジア 東南アジア
5世紀頃に,季節風
(
モンスー
ン
)を利用した航海が確立して,中国やインド洋方面との貿易がますます活発化していきました。従来のようにマラッカ半島を陸路で横断するのではなく
,
マラッカ海
峡
の重要性も高まっていきました。
北ヴェトナムでは漢人に対する反乱が相次ぎましたが,隋は590年に鎮圧し,支配のための都を現在
の
ハノ
イ
に移しました。ハノイは,中国と東南アジアを結ぶ河川の集まる,重要な地点に位置しています。
中南部のヴェトナムでは,チャンパー
【東京H30[3]】
【共通一次 平1】
が季節風交易で栄えています。5~6世紀頃から,サンスクリット語の碑文が見つかるようになり,中国側の史料によるとインド風の宮廷・ヒンドゥー教の僧侶などの特徴を備えるようになっていたようです。研究者はこのことを,東南アジアの
「
インド
化
」といいます。インドの文化を取り入れることで,権威を高めようとしたのです。東南アジアでは「バラモン教」「仏教」「ヒンドゥー教」などをハッキリと区別して受け入れていったわけではなく,「インドの文化」としてざっくり受け入れ,地元の文化とも積極的にミックスしていく傾向があることにも注意しましょう。日本で,神道(しんとう)と仏教,儒教,道教が共存してきたこととも似ています。
メコン川下流域
の
扶
南
は,6世紀前半で中国に朝貢使節を覇権しなくなりました。マラッカ海峡を通るルートが東西ルートのメインになり
,
シュリーヴィジャヤ王
国
【追H9時期、H19】
【本試験H18マジャパヒト王国ではない、H22前漢の時代ではない】
【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】
などの勢力に圧倒されたためと見られます。
中国の東晋時代に,長安から西域を経由して陸路
【本試験H12「西域経由」か問う】
でインドのグプタ朝に渡った僧
〈
法
顕
〉(ほっけん,337~422)
【本試験H12】
は,
「
海の
道
」
【本試験H12帰路は海路か問う】
を通って中国に帰ってきます。帰路は412年に200人以上のインド商船で出航し,セイロン島(現スリランカ)を経由して,耶婆提(やばてい)で5ヶ月風待ちしたあと,別の商船で中国に帰ったと記録しています。耶婆提とは,マレー半島かスマトラ島のどこかの地点を指すとみられます。
盛んとなった交易を背景にして,東南アジア各地には,交易ルートを支配する権力が成立するようになります。例えば,マラッカ半島の付け根,マラッカ海峡,スマトラ島南部,ジャワ島など
の
交易国
家
が,中国に朝貢していました。
それと同時に,インドの影響を強く受け
た
交易国
家
も登場します。これを
「
インド
化
」といいます。ジャワ島西部のボゴールや,カリマンタン島東部のクタイなどでは,サンスクリット語の碑文が発見されています。王
は
バラモ
ン
をたくさん周りにはべらせ,インド的な行政制度や服装,法が導入されました。支配者は,発展レベルが高いと考えられたインドの文化をたくみに導入することで,国内外の人々にその支配の正しさ(正統性)を納得させようとしたのです。
イラワジ
川
流域では
,
ピュー
人
の国が栄えていたことが,中国の史料から明らかになっています(朱江と呼ばれていました)。6世紀後半~7世紀初めには,東のチャオプラヤー川にまで勢力を広げ,クメール人
【本試験H5チャム人ではない,ヴェトナム中部ではない】
のカンボジア(中国名
は
真
臘
【本試験H5,本試験H11:時期を問う(6~15世紀かどうか)・地域を問う(マレーシアではない)】
【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】
)と争っていたといいます。
○40
0
年
~
60
0
年のアジア 南アジア
南アジ
ア
...現在の①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール
・
60
0
年
~
80
0
年のアジア 南アジア
現③
スリランカ
スリランカ中央部には,シンハラ人の国家であ
る
アヌラーダプラ王
国
(前437~後1007)が栄えています(5世紀に都は一時的
に
シーギリ
ヤ
(◆世界文化遺産「古都シーギリヤ」,1982。シーギリヤロックで有名)
に移っています)。
スリランカは上座仏教の中心地となっており,5世紀以降に仏教徒により編さんされた歴史書『マハーヴァンサ』などには,スリランカのシンハラ人が北インドから来住したことをつたえる建国神話が記されていま
す
(注
)
。
アヌラーダプラの王権は上座仏教の教えを遵守し,水利施設を整備することで人々をまとめようとしました。
(注
)
辛島昇『世界各国史』山川出版社,2004年,p.168。
・
60
0
年
~
80
0
年のアジア 南アジア
現②
バングラデシュ
,⑤
インド
,⑥
パキスタン
◆
北インドではグプタ朝が衰え,エフタルの攻撃で崩壊,南インドでは地方国家が交易で栄えます
5世紀に入ると中央ユーラシアの遊牧
民
エフタ
ル
(フーナ)が
,
グプタ
朝
【本試験H29ムガル帝国ではない】
に進入するようになりました。
5世紀末の進入により,グプタ朝はインド西部を失い,同じ頃から諸侯や地方長官の独立が始まりました。
こうして,6世紀半ばまでにはグプタ朝は多くの領土を失い
(注
)
,7世紀
【共通一次 平1:当時(7世紀)のインドでサンスクリット語が使用されていたか問う(パスパ文字,アラム文字,インダス文字ではない)】
後半に残存勢力が盛り返したものの,8世紀に入ると消滅しました。
グプタ朝亡き後,西インドにはマイトラカ朝,北インドにはマウカリ朝,プシュヤブーティ朝,東インドにはベンガルなどが並び立ちました。
このうち,プシュヤブーティ朝から,7世紀初めに
〈
ハルシ
ャ
〉
【本試験H20・H27】
が出て
,
ヴァルダナ
朝
【本試験H20玄奘が訪問したか問う,本試験H19時期(アンコール=ワット建設と同時期ではない)】
【追H24】
を開き,
北インド
【本試験H27,H30南インドではない】
【追H24南インドではない】
を統一
することになります。
インド南部では,6世紀か
ら
パッラヴァ
朝
が,首都カーンチープラム(現在のチェンナイ付近)を中心に栄えます。仏教やジャイナ教寺院が多数建立されましたが,6世紀以降,北インドの影響によりヒンドゥー化が進みました。
(注)520年にエフタルの攻撃を受けて分裂崩壊とするのは,『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.120
○40
0
年
~
60
0
年のアジア 西アジア
◆
キリスト教の「異端」とされたネストリウス派や単性説が広まる
ローマの東方ではキリスト教の信仰がつづく
コンスタンティノープルを中心都市とする
東ローマ帝国
では、強力な皇帝権力とキリスト教の
東方正教会
を軸とする支配体制が確立されるようになっていきました
(注)
。
(注)かつては不正確な知識から、東ローマ帝国の皇帝は、正教会の総主教を兼任していたという理解(皇帝教皇主義)もありましたが、現在では否定されています(久松英二『ギリシア正教 東方の智 (講談社選書メチエ)』講談社,pp.76-77)。
そんな中、〈テオドシウス2世〉(位408~450)の呼びかけで431年に現在のトルコ共和国の西部にあるエフェソス
で
エフェソス公会
議
が開かれ,イエスには神の部分と人の部分があるが,それらは完全に別物として存在しているとす
る
ネストリウス
派
が異端とされます。「マリア」の扱いについては,異端のネストリウス派が,マリア=人としてのイエスの母という立場をとったのに対して,"マリア=「神の母」"説が正統とされました。のちにイラン高原のササン(サーサーン)朝を通過し,唐代
【本試験H29漢代ではない】
の中国
で
なお,エフェソスは歴史の長い都市で,ヘレニズム時代やローマ時代の遺跡(図書館やローマ劇場,アルテミス神殿)が残されています。5世紀からは,ここで余生を送ったとされ
る
聖母マリアの
家
が巡礼地の一つとなっていました(◆世界文化遺産「エフェソス」,2015)。
さらに451年
の
カルケドン公会
議
では「イエスは完全に神である」とい
う
単性
論
【早政H30】
が異端とされ,こちらは現在ではシリアやエジプトに残っています。とくに,エチオピア正教会やエジプトにあるコプト教会
は
単性
論
とみなされることはありますが,実際には別物です(どちらもカルケドン公会議で正統となった説を受け入れていないため,非カルケドン派ともいわれます)。エチオピアのキリスト教には,ユダヤ教の影響もみられます。
◆フン人という"共通"を前に、東ローマの皇帝権力とサーサーン朝との関係は平穏だった
東ローマとサーサーン朝との関係は初め平穏
中央ユーラシアの遊牧騎馬民族
フン人
は395年・396年にアルメニアとメソポタミアに進入し、ササン朝ペルシア帝国や、カッパドキア、ガラティア、シリアなどローマ帝国東部属州に被害を与えていました
(注1)
。
410年にローマ市でゴート人によりローマが劫略(ごうりゃく)されると、〈テオドシウス2世〉の後見人であった官僚(オリエンス道長官〈アンテミウス〉(任405~414))はコンスタンティノープル市の西に街を取り囲む形の三重の堅固な大城壁("テオドシウスの城壁")の建設を指示。これがコンスタンティノープルを1453年まで守り続けることになります。422年・434年にフン人の王〈ルア〉はトラキアを攻撃し、壊滅的な被害を与えました。その後〈ブレダ〉と〈アッティラ〉の共同統治となり、445~453年の〈アッティラ〉単独統治期間には、コンスタンティノープルの宮廷は貢納金を支払って何度も和議を結びますが、447年にはバルカン半島への最大規模の遠征があり甚大な被害を受けました
(注2)
。
しかし、小アジア・シリア・エジプトなど、東部諸州の被害は少なく、"フン人"という「共通の敵」を前にしてササン朝ペルシアとの関係も、ペルシアの王が権威を誇示するために起こしたローマへの遠征(〈ヤズデギルド2世〉(位438~457)の441年のローマ攻撃)を除いては、〈ヤズデギルド1世〉(位399~420)と子〈ヴァハラム5世〉(位420~438)のときには使者の交換がみられるなどおおむね平穏でした
(注3)
。
(注1)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.144。
(注2)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.146。
(注3)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.147。
◆
インド洋の海上交易をめぐって東ローマ帝国とサーサーン朝が対立する
交易をめぐる東ローマとササン朝の関係が悪化へ
その頃アラビア半島には,アフロ=アジア語族のセム語派
の
アラブ
人
が居住していました。
沙漠が大部分を占めることから,周辺の国家による支配は難しく,オアシスの周りで農業をおこなったり,遊牧をしたりする集団がいくつもの共同体を形成していました。商業を行う集団も少なくなり,地中海沿岸のシリア方面と,紅海やインド洋を結ぶ中継貿易で栄えた部族もいました。沙漠という過酷な環境下で,アラブ系遊牧民
(
ベドウィ
ン
)の諸部族は多神教を中心とする宗教によって連帯し,共存するとともに争い合っていました。のちにイスラーム教の聖地となるメッカでは,泉(ザムザムの泉)やカーバ神殿
【追H20ヒンドゥー教との信仰の中心ではない】
【セA H30メッカで「カーバ神殿が造られた」か問う】
が遊牧民の信仰を集め,5世紀中頃には遊牧民
の
クライシュ
族
が支配下に置きました。
アラビア半島にはユダヤ人やキリスト教徒も分布していました。
5世紀後半には,中央ユーラシアから遊牧
民
エフタ
ル
【本試験H8グプタ朝ではない】
が進出し,ササン(サーサーン)朝
【本試験H8ソグド人ではない】
は危機的状況となりました。しかし,
〈
ホスロー1
世
〉(位531~579)
【本試験H5ヒッタイトの王ではない】
が,モンゴル高原のトルコ系遊牧民の突厥(とっけつ,とっくつ)
【本試験H8】
と同盟して挟み撃ちにしました。彼は,ビザンツ帝国の
〈
ユスティニアヌス大
帝
〉(位527~565)とも領土争いをしています。孫の〈ホスロー2世〉(位590~628)もローマ帝国と争っています。両者ともにエジプトやシリア方面をねらっていました。"アケメネス朝の跡継ぎ"を自任するサーサーン朝にとって,かつての領土の回復には,王の威信(プライド)がかかっていたのです。〈ホスロー2世〉は614年にシリア・パレスチナ,619年にエジプトを占領。
ササン(サーサーン)朝は工芸技術にも優れ,日本の法隆寺の獅子狩文錦(ししかりもんきん)
や
正倉
院
の漆胡瓶(しっこへい)にはその影響がみとめられます。
◆
大国の抗争を避け,主要な東西交易ルートがアラビア半島を南に
海上交易の要衝がアラビア半島南部にうつる
サーサーン朝の面目躍如もつかの間。ビザンツ帝国も黙ってはいません。
6世紀以降になり,コンスタンティノープルを首都とす
る
東ローマ帝
国
と,イラン高原を支配す
る
ササ
ン
(
サーサー
ン
)
朝
との間の戦争が多発。イラン高原から地中海を抜ける陸上の交易ルートや,ペルシア湾を通るルートは危険そのものとなります。
そこで,イランか
ら
アラビア
海
に南下しそこか
ら
アラビア半
島
を迂回して,地中海に抜ける海の交易ルートを通る商人が急増。サーサーン(ササン)朝もアラビア半島南部
の
イエメ
ン
に支配圏を広げていこうとしました。紅海を通るルートよりも,いったんジッダで荷揚げをしてラクダに積み替え,内陸部のメッカやメディナを拠点としてシリアへの隊商
(
キャラバ
ン
)交易
(注
)
をするルートが頻繁に使われるようになり,アラビア半島の紅海側の都市には,各地から商人が集まるようになります。
6世紀後半,のちにイスラームを広めることになる
〈
ムハンマ
ド
〉(メッカ
【H27京都[2]】
生まれ)の曽祖父〈ハーシム〉が遠隔地交易に従事し,シリアからイエメンにかけてのアラビア半島各地の遊牧民の部族と安全保障の取り決めを交わしていました。
(注)中東=イスラーム世界のキャラバンの安全保障は,個々の隊とキャラバンの通過路に遊牧地をもつ部族集団・地方勢力との個別の関係,イスラーム諸国家の商業政策に左右された。原則としてキャラバンの安全は自己責任で,遊牧部族から護衛を雇うか,あらかじめ通貨料を払って略奪を防ぐことも行われていました。 尾形勇他編『歴史学事典【第1巻 交換と消費】(弘文堂,1994年)』,p.169
〈ムハンマド〉の誕生した6世紀末には,ハーシム家はクライシュ族の内紛に巻き込まれ,〈ムハンマド〉の父〈アブドゥッラーフ〉は彼の誕生時にはすでに他界していました。6歳で母〈アーミナ〉も他界し,8歳のときには祖父も亡くしています。そこで〈ムハンマド〉は父方の伯父(おじ)に育てられ,若くしてシリア方面への隊商交易に従事し,そこでキリスト教の思想にも触れています。
・
40
0
年
~
60
0
年のアジア 西アジア
現⑱
アルメニア
アルメニアは4世紀にサーサーン朝ペルシアと東ローマ帝国との間に分割されていました。サーサーン朝側では自治が認められ,東ローマ帝国側では自治は認められず〈レオン3世〉によりテマ=アルメニアコンという軍管区に設定され支配を受けました。東ローマはアルメニアの教会を分裂させようとしますが,サーサーン朝はアルメニア教会を保護しています。
●40
0
年
~
60
0
年のインド洋海域
インド洋海
域
...インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島,モルディブ,イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域,マダガスカル,レユニオン,モーリシャス,フランス領マヨット,コモロ
インド洋の島々は,交易ルートの要衝として古くからアラブ商人やインド商人が往来していました。
●40
0
年
~
60
0
年のインド洋海域
インド洋海
域
...インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島,モルディブ,イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域,マダガスカル,レユニオン,モーリシャス,フランス領マヨット,コモロ
インド洋の島々は,交易ルートの要衝として古くからアラブ商人やインド商人が往来していました。
◆
ローマ文化を受け入れたイン
ド=
ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々は,ローマ帝国時代の制度を利用して国家を建設する
この時期に、ローマ的な世界秩序が崩壊する
ローマ帝国は,各地に進入したインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派
(注)
の人々に対してなすすべもなく
,
ローマ帝国と同盟を結んだ軍
団
として認めて定住させることで混乱を収拾し,帝国の防衛を担当させようとします。
彼らの族長はローマ帝国の軍司令官となり,従来の属州各地の行政機構のトップに君臨し,ローマに属していた土地の一部を仲間に分け与えていきました。ローマはもともと,地方行政を各地の都市にまかせていたので,トップがインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の族長へと代わっただけです。
ただ、外部民族の暴力的な進入や略奪がすすむにつれ、帝国外部の人々に対する視線は厳しいものとなり、外部の人々を「文明的なローマ人」とは異なる「野蛮なゲルマン人」とみなす風潮も高まっていきました。
外部からやって来たゲルマン人たちは,各地で現地のローマ人の有力者との関係を築き,ローマ教会のアタナシウス(ニカイア)派に改宗し,ローマ法の影響を受けた法典を作成したりする国家も現れます。
かつて都市の有力者はローマ帝国を「後ろ盾」に徴税などの責任を負い、ローマ帝国の統治に協力していましたよね。でも、ローマ軍の国境防衛・治安維持能力がこれほどまでに低下してしまえば、都市有力者がローマ帝国にこれ以上すがる理由はありません。かくして都市の「ローマ離れ」が進んでいくのは必至です。
政府の役人や都市の有力者に代わって各地で指導的な立場になっていくのは、キリスト教の教会指導者でした。
(注1)総称して「ゲルマン人」と呼ぶことが多いですが、ここでは「ゲルマン語派の人々」と表現することにします。ローマ帝国の辺境の属州や、属州の外(「自由ゲルマニア」と呼ばれていました)に住んでいた人々のことを指しますが、彼らがまとまって「ゲルマン人」と呼ばれていたわけではありません。南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.16。
(注2)南川は、外部のゲルマニアからフロンティア「地帯」を通ってローマに受け入れられ「ローマ人」となる可能性のあった人々を「
ゲルマニア
人」と呼び、この時期の排外思想の高まりからフロンティアの国境「線」の外部の人々を「ローマ人」となりえる可能性のない「他者=
ゲルマン
人」と呼んで区別しています。南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.47。
フン人
4世紀末にインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の大移動のきっかけをつくっ
た
フン
人
(テュルク(トルコ)系ともモンゴル系ともされます)は,408年・409年・422年にバルカン半島に進出しました。5世紀前半に
〈
アッティラ
王
〉を中心として,今日のハンガリー平原であるパンノニアを中心にして帝国を建設しました。
ゴート人
(ゲルマン語派)
ゴート人を率いた〈アラリック〉は410年にローマに侵入し、3日にわたり略奪・殺戮をはたらきます。
最盛期の100万人に比べると人口は半減していたものの、〈アラリック〉のローマ略奪は地中海世界に大きな衝撃を与えたと考えられます
(
注
1
)
。
その後〈アラリック〉は死去し、弟の〈アタウルフ〉が率いて西に移動したゴート人(西ゴート人)は、412年にガリアに入ります。〈アタウルフ〉は西ローマと友好関係を保ちますが、その後西ローマの総司令官の圧迫を受け本拠をスペインに移動。〈アタウルフ〉は殺害されますが、次の〈ウァリア〉のときにヴァンダル人を攻撃する代わりに食糧援助を約束され、ゴート人がガリア南西部(アキテーヌ)に定住することを認めました。
こ
の
西ゴート王
国
【H30地域を問う】
の建国年は415年で、承認されたのは418年で
す
(
注
2
)
。
(注1) 南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.46。
(注2) 年号は参照『世界史年表・地図』吉川弘文館2014,p.120。しかし厳密に言えば,トロサ〔トゥールーズ〕の王国(トロサ王国)であり,507年まで続きます。その後,イベリア半島拠点の西ゴート王国は507~711年の期間,存続します。
東ゴート王国もバルカン半島のドナウ川以北に進出しましたが,488年に〈テオドリック〉(位474~526)がイタリアに進出し,のち493年にイタリア北部
で
東ゴート王
国
(493~555)を再建します
【追H24成立時期が13世紀か問う】
。
ブルガール人
空白地帯となったドナウ川以北には今度はテュルク系の騎馬遊牧
民
ブルガール
人
が進出し,東ローマ帝国(ビザンツ帝国)を圧迫していくことになります。
アヴァール人
また,騎馬遊牧民
アヴァール人
【本試験H21 カール大帝に撃退された世紀を問う本試験H27ブリテン島ではない、本試験H29】
【追H25】
【慶・文H30】
が黒海北岸から493年にバルカン半島に移動し,ドナウ下流域からハンガリー盆地にも進出し
て
アヴァー
ル=
カガ
ン(
可
汗)国
を建国しました。可汗の称号を使用したことから,モンゴル高原を中心とする騎馬遊牧
民
柔
然
(じゅうぜん)
(
⇒
柔
然
:400~600中央ユーラシア)
の一派ではないかともいわれます。アヴァールは東ローマ帝国の〈ユスティニアヌス1世〉(位527~565)に対して558年に使節を派遣し同盟を結びましたが,ササン朝とも組んでビザンツ帝国を圧迫し続けました。しかし,のち内紛で衰退していきます。
ヴァンダル人
(ゲルマン語派)
、スエウィ人
(ゲルマン語派)
、アラニ人
インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の一
派
ヴァンダル
人
【H27名古屋[2]】
やスエウィ人、アラニ人は406年の大晦日に現在のドイツのマインツ市付近で凍っていたライン川を越えて、帝国領内に侵入。
当時、帝国領のフロンティアを守るべきローマ軍はほとんどいませんでした。
先に入っていたフランク人を押しのけ、ガリアの中心地トリーアなどを攻撃。都市やウィッラ(農業屋敷)は略奪と破壊の対象となりました。
彼らはヒスパニア(イベリア半島)に進入。ヴァンダル人の一部とスエヴィ人は北西部(ガラエキア(ガリシア))に軍団として定住しました。また,別のヴァンダル人の一派は南部に定住しました。
しかしイベリア半島に移動したゴート人(西ゴート人)が415年に
西ゴート王国
を建国すると、押し出される形となっ
た
ヴァンダル
人
はジブラルタル海峡を越え,〈ガイセリック〉王(389?~477)のもと,北アフリカ
【本試験H14】
の
カルタ
ゴ
近く
に
ヴァンダル王
国
を建設します。
これによりローマ市民の生命線である穀物の供給がストップ。ローマはますます衰退していきます。
ヴァンダル
人
にカルタゴ(ヒッポ)が包囲される中,神学者
〈
アウグスティヌ
ス
〉
(354~430)
【本試験H3】
【追H9,追H21、H25】
は息を引き取りました。のちにローマ教会が「正しい」(正統)とする説を生み出した神学者ということで,「(ラテン
)
教
父
」(きょうふ)とも呼ばれます。主著は
『
神の
国
』
【本試験H3】
【追H9,追H21、H27時期を問う(アウグストゥスとどちらが古いか)】
で,青年時代にマニ教を信仰していたことを『告白』に綴(つづ)っています。
半島北西部に残ったスエヴィ人はスエヴィ王国を建国しました(585年に西ゴート王国に併合されました)。
ブルグンド人やアラマンニ人
この時期初めに、やはりライン川をわたり、属州に進入しました。
ゴート人(ゲルマン語派)のうち、西ゴート人
イタリア半島からさらに西方に移住したゴート人(西ゴート人)は、現在のフランス南西部を拠点に王国を樹立します。
西ゴート王国
です。
西ゴート王国は建国当初は南ガリアのトロサ(現在のトゥールーズ)を首都としていましたが5世紀後半にはヒスパニアにまたがる強国となりました。5世紀後半にはインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々国家初の法典にであるゲルマン法(エウリック法典)がラテン語で成分化され,6世紀初めにはローマ系の住民向けにローマ法(アラリック法典)が制定されています。400万~600万人のローマ系住民を,20万人前後の西ゴート人が治めるのですから,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の法だけで支配することはできなかったわけです。
西ゴート王国の支配者層は,ローマ教会の教父〈(セビーリャの
)
イシドール
ス
〉(560?~636)が633年に第4回トレード公会議を主導し,587年にキリスト教アリウス派からアタナシウス(ニカイア)派に集団改宗しています。
〈イシドールス〉は当時非常に大きな影響力を持っていた人物で,古代ギリシアの思想を学
び
TOマッ
プ
【追H24,H27リード文】
(世界の中心はイェルサレム,その周りにある3大陸は,3つの河川・海洋で区切られ,いちばん周りは大きな海が取り囲んでいるという世界観)として知られる世界地図を作成し,『ゴート人・ヴァンダル人・スエヴィ人の歴史』という民族移動から625年までの年代記も残しています
(彼のもたらした学芸の発達を「イシドールス=ルネサンス」ということもあります)
。
のちに『偽イシドールス』として知られる偽書は,ローマ帝国の〈コンスタンティヌス〉大帝が西ローマ帝国の領土をローマ=カトリック教会に寄進したという書状
(
コンスタンティヌスの寄進
状
)が記され,ローマ=カトリック教会が皇帝権力よりも上に位置することを示す文書として利用されたものです。内容に意図的な誤りを含み,イシドールスとも関係がないものですが,中世の時期にヨーロッパでは大きな影響を持っていました。
◆ブリテン島(ブリタンニア)は西ローマから離脱する
ブリタンニアはローマ帝国から離脱した
ブリテン島では406年に西ローマ帝国に離反する動きがあり、このうち〈コンスタンティヌス〉という人物がブリテン島で皇帝に推戴された後、フランスやスペインを攻略しますが、その間にブリテン島で政変が起きてコントロールが及ばなくなります。
その過程で西ローマ皇帝がブリテン島を支配することはできなくなり、409年にブリタンニアは帝国から離れました。
◆
フン人は西ゴートとフランクの戦力により,パンノニアに撤退する
ゲルマン人と連合し、西ローマはフン人を撃退した
4世紀末にインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の大移動のきっかけをつくっ
た
フン
人
(テュルク(トルコ)系ともモンゴル系ともされます)は,5世紀前半に兄の死後単独の王となった〈アッティラ〉によりバルト海からカスピ海にわたる
"
アッティラ帝
国
"
を築き上げられました。
〈アッティラ〉は、西ローマ帝国に進入し,451年に西ローマ帝国・西ゴート王国と
,
カタラウヌ
ム
(近年「マウリアクム」ではないかとされています
)
の戦
い
を交えています。
〈アッティラ〉のフン軍には、フン以外にもスエウィ人、フランク人、ブルグンド人、ゲピド人がいましたし、西ローマ軍の重要指揮官は西ゴートですし、フランク人、サクソン人、ブルグンド人がいました
(注)
。
西ゴート王国が参戦したのも、指揮官〈アエティウス〉(391?~454)率いる西ローマ帝国と連合したというより、自国の領土の危機を救うためという面が大きなものでした。しかも指揮官〈アエティウス〉は、フン人とのパイプの強かった人物です。
ですから「西ローマ帝国・西ゴート王国が連合して、フン人の進入を食い止めた」という伝統的な説明は、ちょっと単純すぎます。
はっきりとした勝敗はつきませんでしたが、この戦いで西ゴート王〈テオドリック1世〉(?~451、のちの東ゴート王とは別人)は戦死し,フン人はいったんドナウ川中流のハンガリーに退却しました。
しかしフン人はこれであきらめたわけではありません。
翌年452年にイタリア半島に進入しましたが,ローマ教皇〈レオ1世〉の説得で,またハンガリーに退却します。
しかし453年に〈アッティラ〉が死ぬと服属していた諸民族が反乱を起こし、またたく間に帝国は崩壊しました。
◆西ローマ帝国の皇帝が廃位され、「西ローマ帝国」は「滅亡」する
西ローマ帝国は実質的に消滅する
カタラウヌムの戦いを指揮した西ローマ帝国の〈アエティウス〉は、息子を皇帝の娘と結婚させようとしてその野心をうたがわれ、皇帝〈ウァレンティニアヌス3世〉(位425~455)により454年に暗殺されました。その後、皇帝は〈アエティウス〉の元部下であった私兵に暗殺されます。敵討ちでしょうね
(注1)
。
その後、西ローマの総司令官〈リキメル〉(405?~472、父がスエウィ人、母が西ゴート人)が"操り人形"のような皇帝を次々に建てる時代が続き、病死後には甥の〈グンドバド〉(ブルグンド人)が実権を握ります。
もはや「ローマ人」じゃない支配者ばかりですね
(注2)
。
一方、こんなふううにごたごたしている時、北アフリカではヴァンダル王国(435年)が建国され、ローマ市は脅威を受けています。単独の対処は難しく、東ローマ皇帝に頼らざるを得ず、即位する皇帝を認めてもらうよう申し出ていました。
そのうち皇帝が空白の期間も生まれるようになり、実質的に西ローマ皇帝の必要性自体も低下していました。「ローマ」と銘打っているだけで、実質的な意義は失っているのです。
そんな中、東ローマに推戴された皇帝が、軍の総司令官の抵抗を受けて逃亡。この総司令官はフン人の〈アッティラ〉の元部下だったのです。総司令官は自分の子を皇帝に即位させると、外部の部族の傭兵団の司令官〈
オドアケル
〉(433~493)
【追H25アッティラとのひっかけ】
が反乱を起こし、この皇帝を殺害。次の皇帝となっていたその息子(〈ロムルス=アウグストゥルス〉(位475~476))を廃位し、年金をわたして追放しました
(注3)
。
〈オドアケル〉は皇帝位を東ローマに返上し、イタリアに皇帝を送り込む必要はないと通告。
これが世に言う
「西ローマ帝国」の滅亡
【追H25】
です。
(注1)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.65。
(注2)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.66。
(注3)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.67。
◆フランク人の王〈クローヴィス〉はガリアに浸透していたローマ=カトリック教会との提携を選んだ
フランク人の王が現地の教会と協力し権力を確立
ブルグンド人
ブルグンド
人
【本試験H14】
は5世紀初めにガリアに進出し、ローマ皇帝から「同盟部族」として認められます。その後、定住することになったのはガリア
【本試験H14北イタリアではない】
の南部でした。ガリア南部
で
ブルグント王
国
を建国したのは443年のことです。だいたい今のフランスのリヨンあたりの地域です。
当時、ブルグンド人がフン人と戦った事実が、のちに伝えられた『
ニーベルンゲンの歌
』です。
なお、ブルグント王国は534年に成長したフランク王国に滅ぼされてしまいますが,ブルグントの名前は,南東フランスのブルゴーニュという名前に今も残っています。
フランク人
一方
、
フランク
人
はガリアの北部
【本試験H8黒海北岸から西進したわけではない】
【本試験H14イベリア半島ではない】
に
フランク王
国
を建国しました。ただし○○人といってもこれらは統一的なエスニック・グループではなく、さまざまな小集団からなる混成部族にすぎず、彼らだけでなく呼んでいたローマ人もそのような認識でした
(注1)
。
皇帝〈ユリアヌス〉帝のときに帝国内への定住がゆるされ、ローマ軍の有力指導者にも抜擢されるようになっていたのは、小部族のひとつ「サリ=フランク人」でした。
サリ=フランク人の
〈
クローヴィ
ス
〉
(位481頃
(注2)
~511)
【セ試行】【本試験H7】
【本試験H19時期,H29共通テスト試行 ローマ教皇からローマ皇帝の帝冠は受けていない,H30】【H29共通テスト試行 レコンキスタとは無関係】
は、ローマ帝国の役人でもあった父から位を継いで強大化しました。
〈クローヴィス〉は西ゴート王国の上手(うわて)をねらい,支配下に置いていたローマ人(ラテン人
【東京H6[3]】
)
【本試験H7】
との同盟関係を強化するため,ローマ教会が正統な教義と認めてい
た
アタナシウス 〔ニカイア〕 派
に
496
年
に改
宗
【本試験H7アリウス派ではない】
【本試験H19時期,本試験H23ネストリウス派ではない,H29共通テスト試行 王妃に改宗を拒否されていない他(史料読解),図版(クローヴィスの洗礼を描いた図を選ぶ)】
し,フランク人の支配層も集団改宗しました。
ゴート王国
は
アリウス
派
を維持し,儀式もゴート語でおこない続けたのとは対照的です。
「キリスト教と提携した」と聞いて「信心深かったんだなあ」と感じるだけでは不足です。そこには現実的な政治判断がはたらいていたのです。
彼に洗礼をあたえたランスの司教〈レミギウス〉はもともとローマ人貴族でガリアの有力者。その父はまだ司令官(または伯)の地位にありました。
つまり、フランク王国といえども、ローマ帝国の制度や人脈を利用しなければ国づくりができなかったのです
(注3)
。
すでの西ローマの皇帝は不在となり、かつて属州であった地域の権力は「空白」となっています。それを埋めるように、ガリア各地で世襲の権力を確立しようとしていたのは、
キリスト教の司教
を中心とする聖職者たちでした。そんな中〈レミギウス〉は、かつてローマ帝国の第二ベルギカ州という属州の統治者として、みずからが大司教をつとめるその属州をキリスト教の教会と協力しながら(
キリスト教の倫理によって
)統治してくれるよう〈クローヴィス〉に期待したのです
(注4)
。
〈クローヴィス〉は507年には西ゴート王国と争いガリア南部の大部分を奪っています。
(注1)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.18。
(注2)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.77。
(注3) ゲルマン人移動以後の歴史は、しばしば「ローマ帝国の没落の歴史」としてネガティブに語られていきました(〈ギボン〉の『
ローマ帝国衰亡史
』が代表例)。しかし、この時代(4~7世紀)はローマ帝国の時代とは別の思考様式・感性・社会規範・心性・文化形態を持った時代なんだという議論(〈ピーター=ブラウン〉の「古代末期」論)が注目され、日本の〈佐藤彰一〉も4~7世紀を「
ポスト=ローマ期
」として独立して区分しています。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.42。
(注4)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.80。
◆イタリア半島で〈ベネディクトゥス〉が修道院を開き、ローマ教皇はゲルマン人への布教に注力
「祈り、働け」をモットーにした修道院がひらかれる
6世紀になると,ローマの南東の山
地
モン
テ=
カッシー
ノ
【追H19,H30】
で
〈
ベネディクトゥ
ス
〉
【追H30グレゴリウス1世ではない】
【慶文H30記】
により修道院が開かれます。イエスの時代の生活をモデルとし,自給自足を基本とする信仰生活をおくるための団体です。モットーは
「
祈り,かつ働
け
」。
教皇
〈
グレゴリウス1
世
〉(位590~604)
【追H30モンテ=カッシーノを創立していない】
も,〈イエス〉など
の
聖画
像(
イコ
ン
)
や聖歌(現在にも伝わ
る
グレゴリオ聖
歌
の発案者です)を効果的に用いて,文字を読むことができない西ゴート人やアングロ=サクソン人への布教を成功させていきます。
こうして次第に、ローマ帝国の役人や都市の有力者ではなく、キリスト教の教会指導者が各地で指導的な立場となる時代へと移行していくことになるわけです。
○40
0
年
~
60
0
年のヨーロッパ 東・中央・北ヨーロッパ,バルカン半島
東ヨーロッ
パ
...現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッ
パ
...現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
北ヨーロッ
パ
...現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン
バルカン半
島
...現在の①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア
◆
西ローマ帝国の皇帝が滅び,ゲルマン語派の人々がイタリア半島にも国を建てる
フン人に刺激されゲルマン語派の人々が移動する
4世紀末以降のローマ帝国は,
〈
テオドシウ
ス
〉大帝を最後に1人で全土を統一できた者はついに現れず,ローマ帝国を複数の皇帝が分割統治する体制が固定化されていました。このことを後世の人々は
,
ローマ帝国の東西分
裂
と呼んでいます
【H29ユスティニアヌス帝の死後ではない】
。その後,ローマの東半の正帝は,唯一のローマ皇帝として西半の奪回に努めるようになっていくのです。
ローマの西半
は
ゲルマン語派の人
々
(注1)
の大移動などの影響から急速に衰退。最盛期の2世紀に100万人の人口を誇ったローマ市も、5世紀初頭には50万人、5世紀半ばには35万人にまで人口をへらすことになります
(注2)
。
皇帝位をめぐる争いに外部の部族の傭兵団の隊長
〈
オドアケ
ル
〉(433~493)
【セ試行 フン族の王アッティラではない】
【本試験H29】
が介入し,西ローマの正帝となっていた幼少の〈ロムルス=アウグストゥルス〉(475~476)
【本試験H29フランク国王ではない】
を退位させ,西ローマ帝国を滅ぼしました。すでに皇帝には権力がほとんどない状態であったわけですが、この事件を後世の人々は「西ローマ帝国の滅亡」と呼ぶわけです。
〈
オドアケ
ル
〉は,西ローマ帝国の証を東ローマ皇帝〈ゼノン〉に譲り、「今後はイタリアに皇帝を送る必要がない」と通告します。
しかし彼自身は,東ローマ皇帝〈ゼノン〉により、その代理としてイタリアを支配することが認められました。
東ローマの正帝も当初はそれを追認するのですが,のちに結局東ゴート王国の〈テオドリック〉大王に〈オドアケル〉を倒させました。
その手柄が認められた
〈
テオドリッ
ク
〉大王(位471~526)
【追H25西ローマ帝国を滅ぼしていない、オドアケルとのひっかけ】
は,北東イタリア
【本試験H14シチリアではない】
の
ラヴェン
ナ
を都とし
て
東ゴート王
国
を建国することが許され,「イタリア王」(位493~526)を称します。この「
イタリア王
」という称号は,その後もローマの西方領土の支配者によって伝統的に使用されていくことになります。
ラヴェン
ナ
は,ポー川の河口近くに位置する豊かな土地であり,東ゴート王国はローマ文化を受け入れながら発展していきました
。
ビザンツ様
式
【本試験H10】
の
サ
ン=
ヴィターレ大聖
堂
【本試験H10,ピサ大聖堂,サンタ=マリア大聖堂,サン=ピエトロ大聖堂とのひっかけ】
【追H25ビザンツ様式か問う】
がラヴェンナに建設されるのもこの頃です。
(注1) 総称して「ゲルマン人」と呼ぶことが多いですが、「ゲルマン人」という単一で確固たる民族があったわけではありません。ここでは「ゲルマン語派の人々」と表現することにします。ローマ帝国の辺境の属州や、属州の外(「自由ゲルマニア」と呼ばれていました)に住んでいた人々のことを指しますが、彼らがまとまって「ゲルマン人」と呼ばれていたわけではありません。南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.16。
(注2) 南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.125。
しかし
,
東ゴート王
国
と
ヴァンダル王
国
【本試験H30】
【H30共通テスト試行 ヴァンダル王国は東ローマ帝国と接触した可能性があるか問う】
は,かつてのローマ帝国の広大な領土の"回復"をねらう東ローマ帝国の
〈
ユスティニアヌス
帝
〉によって滅ぼされることになります。
◆ランゴバルド人によりランゴバルド王国、スポレート公領、ベネヴェント公領が築かれる
ランゴバルド人がイタリア半島で建国する
東ローマ帝国はつかの間イタリア半島を支配しますが,そこへ進出していった民族
が
ランゴバルド
人
【本試験H6】
です。
イタリア半島に進出したランゴバルド人は推定30万人。
568年に東ゴート王国を倒しイタリア半島の付け根,北東部をミラノの南方のパヴィーア
(注1)
を都
に
ランゴバルド王
国
【本試験H27】
を建てます。
さらに南下したランゴバルド人は、イタリア半島中部のアドリア海側にスポレート公領、さらにイタリア半島南部にベネヴェント公領といった領土を築きました
(注2)
。
ランゴバルド人はほかのインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の国家と同じ
く
アリウス
派
を信じていたので,ローマ教会と対立。ローマ文化を受け入れず,自らの文化を維持し続けました。
北イタリア
の
ミラ
ノ
周辺を
「
ロンバルディ
ア
」といいますが,これは彼らの民族名からうまれた名前です。
アリウス派キリスト教を強く信仰した7世紀の〈ロターリ〉王のもとで、最初の部族法典であるロターリ法典(643年)
(注3)
がラテン語で作成されるなど、イタリアの文化との融合がみられました。
これらのインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々国家のうち,もっとも移動距離が短く,肥沃な地域を獲得したのが
,
フランク王
国
です。この王国はのちのフランス,イタリア,ドイツの元となる重要な国家となっていきます。
(注1) 北村暁夫『イタリア史10講』岩波書店、2019年、p.38。
(注2) 北村暁夫『イタリア史10講』岩波書店、2019年、p.38。
(注3) 世界大百科事典 第2版。
◆
ゲルマン語派の大移動の影響
が"
無
傷"
の東ローマ帝国は,ローマ帝国復活を目指すも失敗
東ローマはローマ的世界秩序の中心に躍り出る
395年のいわゆる「ローマ帝国の東西分裂」後、476年以降西ローマ帝国の皇帝が立たなくなると、東側のローマはローマを中心とする世界秩序の中心に躍り出るようになります。
都市コンスタンティノープルは、もともと前660年頃にギリシア植民市
の
ビザンティオ
ン
【東京H14[3]位置を問う】
〔ビュザンティオン〕としてに整備されたものです。その後前330年に〈コンスタンティヌス〉大帝が都市を建設したわけですが、それは単に慣例にならった戦勝記念事業にすぎず、当初から「第二のローマ」を建設する意図があったか、はっきりとはわかりません
(注1)
。
その頃、5世紀初頭のコンスタンティノープル市の人口は、およそ20~30万人とされ、創建当時から100年ほどで10倍もの人口増加が起こったことにあります
(注2)
。海陸交通の要衝にあったとはいえ、陸側からの外敵進入や地震災害のおそれのある都市でした。
すでにフン人は395年・396年にアルメニアとメソポタミアに進入し、ササン朝ペルシア帝国や、カッパドキア、ガラティア、シリアなどローマ帝国東部属州に被害を与えていました
(注3)
。410年にローマ市でゴート人によりローマが劫略(ごうりゃく)されると、〈テオドシウス2世〉の後見人であった官僚(オリエンス道長官〈アンテミウス〉(任405~414))はコンスタンティノープル市の西に街を取り囲む形の三重の堅固な大城壁("テオドシウスの城壁")の建設を指示。これがコンスタンティノープルを1453年まで守り続けることになります。422年・434年にフン人の王〈ルア〉はトラキアを攻撃し、壊滅的な被害を与えました。その後〈ブレダ〉と〈アッティラ〉の共同統治となり、445~453年の〈アッティラ〉単独統治期間には、コンスタンティノープルの宮廷は貢納金を支払って何度も和議を結びますが、447年にはバルカン半島への最大規模の遠征があり甚大な被害を受けました
(注4)
。
しかし、小アジア・シリア・エジプトなど、東部諸州の被害は少なく、"フン人"という「共通の敵」を前にしてササン朝ペルシアとの関係も、ペルシアの王が権威を誇示するために起こしたローマへの遠征(〈ヤズデギルド2世〉(位438~457)の441年のローマ攻撃)を除いては、〈ヤズデギルド1世〉(位399~420)と子〈ヴァハラム5世〉(位420~438)のときには使者の交換がみられるなどおおむね平穏でした
(注5)
。
結果として東ローマは、西ローマが経験したほどの「民族大移動」の影響を受けずに済んだのです(ゴート人などゲルマン諸語派の人々に対する反感も、同時期の西ローマよりは低いものでした)
(注6)
。
こうして、大都市コンスタンティノープルを中心とする東ローマ帝国は後世の歴史家によっ
て
ビザン
ツ
(ビザンティン,ビザンチン
)
帝
国
と呼ばれるようになっていきます。この呼称は伝統的には「ローマ的な要素、
ギリシア的な要素
、キリスト教的な要素、
コンスタンティノープルという大都市
」が組み合わさって生まれた「ビザンツ文明」というひとつの文明があったのだという立場から、のちのち名付けられた呼称です。
コンスタンティノープル市にある帝国政府が支配したその国家が、そのような意味での「ビザンツ文明」の特徴を帯びるのは中期ビザンツ帝国(610~1025年)からという学説が一般的ですが、実際にはビザンツ帝国の人々は。自らをただ単に「ローマ人」とか「キリスト教徒」などと呼んでいたわけなので、たしかに根強い「ローマ人意識」を抜きにしてビザンツ人の意識を説明することはできません
(注7)
。
しかし、彼ら「ローマ人」にとって、世界の中心は
ローマからコンスタンティノープルへ
と移っていました。この新たな世界秩序の中心となったコンスタンティノープルに拠点を置く「独裁〔
専制
〕
君主
」的な皇帝をトップにした、複雑な
(注8)
官僚制と軍事機構を持つ
中央集権的
な国と社会の仕組みの基盤には、皇帝の権力とキリスト教の
東方正教会
という2つの強い政治理念があり、そのルーツはローマ帝国の後期(コンスタンティヌス大帝やテオドシウス大帝の時代)にさかのぼることができます。一般には皇帝の権力は民衆(デーモス)、元老院、軍の3者に基づくとされますが、皇帝の選出には少数の文武の官僚が大きく関わっていました。
東ローマの皇帝は、当初はかつてのローマ帝国の西半の領域やキリスト教会に対する支配を目指しましたが,住民の多くはギリシア語を話していましたし,6世紀前半の
『
ローマ法大
全
』
【本試験H17オクタウィアヌスは編纂していない,本試験H25】
【本試験H8西ローマ帝国ではない】
もギリシア語で発布されました。7世紀以降
は
ギリシア
語
【東京H10[3]】
が公用語となり
【本試験H13時期(「東西教会が最終的に分離した後」ではない),本試験H15・H27ともにラテン語ではない】
,
正教
会
を保護して発展していきました。コンスタンティノープルは
,
第四回十字
軍
【追H19】
のとき
に
ヴェネツィア共和
国
【本試験H12フィレンツェではない】
に占領されたこともありましたが,1453年にオスマン帝国に攻撃されるまで,帝国の重要な拠点として名を馳せました。
西ローマ帝国は,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の大移動の影響をもろに受けましたが,東ローマ帝国はほとんど影響を受けずに済んだこともあり順調に発展していきます。
東ローマ帝国の皇帝は
,
コンスタンティノープ
ル
のキリスト教教会
(
正教
会
)を保護し,そのトップであ
る
総主
教
(そうしゅきょう)がとりしきる儀式で皇帝の冠を与えられました総主教に皇帝を任命する権利があるわけではありませんが,政治に介入する場合もありました。皇帝はキリスト教の儀式(奉神礼(ほうしんれい)。ローマ教会では典礼(てんれい,ミサ))をとりおこなうことはできず,正教会の中では総主教の次に偉い地位にありました。
な
お
正教
会
(Orthdox=正しく(オルソス)+神を賛美する(ドクサ))という名称は,5世紀
の
カルケドン公会
議
を認めず離脱した「異端」の教会に対して用いられたもので,東方正教会(Eastern Orthodox Church)とも呼ばれます。離脱したグループはアルメニア使徒教会(アルメニア正教会),コプト正教会,エチオピア正教会を形成していきますが
,
東方諸教
会
(Oriental Orthodox Church)と総称されることがあります。ただ,名称の使用は統一されているとは限りません。
16世紀以降は聖書にギリシア語が使用されていることか
ら
ギリシア正
教
ともいわれます。ただギリシアの正教会はギリシア正教(またはギリシア正教会
)といわれるので注意が必要です。日本の正教会は,キリストのギリシア語読みということで,日
本
ハリスト
ス
正教会と称しています。
教義としては,381年の公会議で採択されたニカイア=コンスタンティノポリス(ニケア=コンスタンティノープル)信条を基本とし,ローマ教皇の首位権や煉獄(れんごく)・生神女(聖母マリア)の無原罪懐胎(御宿り)を認めません。聖職者の妻帯が認められ,イコン(聖像画)が重視されています。
正教会はローマ教会と同じく監督制をとっています。監督制とは,管轄する地域においてビショップ
(
主
教
。ローマ教会では「司教」)が教会をまとめ,下位のプリースト(preast
,
司
祭
),デコン(daeco
n
輔
祭
(ローマ教会では助祭))を指導する制度です。管轄地域は国ごとに設置され組織も国別につくられますが
,
コンスタンティノープル総主
教
が事実上すべての管轄地域に対する首座とされています。ほかに,五本山と呼ばれたアレキサンドリア,アンティオキア,イェルサレムの教会ノトップも特別な地位とみなされ,この3つとロシア,セルビア,ルーマニア,ブルガリア,グルジア(ジョージア)のトップは総主教,その下にギリシアなどの大主教,ポーランドや日本などの府主教というランクの違いがあります。
コンスタンティノープルを無敵の都とした防壁は〈テオドシウス2世〉(位408~450)により建設されました。彼はテオドシウス法典の編纂を始めさせ
,
エフェソス公会
議
【本試験H25ニケア(ニカイア)公会議,コンスタンツ公会議,トリエント公会議ではない】
を招集し
て
ネストリウス派を異
端
【本試験H19ワッハーブ派のひっかけ】【本試験H25】
としました。
(注1)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、pp.148-149。
(注2)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.124。
(注3)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.144。
(注4)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.144。
(注5)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.147。
(注6)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.146。
(注7)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.135。
(注8)英語でbyzantineには「迷路のように)入り組んだ; 理解しにくい,複雑な」(研究者英和中辞典)という意味があります。東ローマに影響を与えた後期ローマ帝国時代の国家機構は、
皇帝
(と皇帝顧問会議(コンシストリウム))の下、東西に分かれる民政職(東のオリエンス・イリュリクム道と西のイタリア・ガリア道、それぞれの長官と、ローマ市長官・代官、コンスタンティノープル長官。さらに下に管区代官、属州総督)、中央政府職(その下に各宮廷における官房長官、法制長官、国庫管理総監、官邸護衛騎兵総監・官邸護衛歩兵総監、書紀局長)、宮廷職(その下に各宮廷における宮内長官、帝室財産管理総監、宮廷執事長)、軍政職(その下に各宮廷における総司令官の下、歩兵司令長官・騎兵司令長官、さらに帝国西部(ガリア方面軍司令官)・帝国東部(オリエンス方面軍司令官・トラキア方面軍司令官・イリュリクム方面軍司令官)があって、軍事総監・軍指揮官を指揮)がありました。これだけ複雑なわけですが、皇帝は事実上「専制君主」とはいえず、ただ「君臨」していればすむような行政機構が構築されていたのです。南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.139。
◆
「東西ローマの統一」という時代錯誤の〈ユスティニアヌス大帝〉は,一代限りで終わった
527年に即位した
〈
ユスティニアヌス大
帝
〉(位527~565)
【本試験H21西ローマ皇帝ではない】
【追H19】
は,ローマ帝国を復活させようとして,増税をしたために,国民の反乱を招き,532年には「ニカ!(勝利を!)」と叫びながら暴動を起こす事態(ニカの乱)となったのですが,この時,サーカスの踊り子出身の皇后〈テオドラ〉(位527~548)が威勢よく励ましたお陰で,ユスティニアヌスは鎮圧に成功したと伝えられます。
このころ,旧・西ローマ帝国の領内にインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の国家が多数建てられていたのですが,東ローマはインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の進入の被害が少なく,地中海や黒海・バルト海,またはさらに東の内陸ユーラシアやインド洋を結ぶ交易の中心地として経済が栄え
,
ノミス
マ
【早政H30】
という金貨が発行されました。ラテン語ではソリドゥス硬貨と呼ばれ,ドルマーク($)の由来となっています。
ユスティニアヌスはその後,534年に北アフリカ
の
ヴァンダル王
国
【本試験H21】
【法政法H28記】
,555年にイタリア半島
の
東ゴート王
国
を次々と滅ぼします
【本試験H21イタリア半島の領土を失っていない】
。戦闘で活躍したのは名将〈ベリサリウス〉(500?565?~565)です。
554年には西ゴート王国にも遠征しています。こうして,かつてのローマ帝国の最大版図に近い範囲に領土を広げることに成功しました。また彼はコンスタンティノープルに,ビザンツ様式
の
ハギ
ア=
ソフィア大聖
堂
【京都H20[2]】
【本試験H13レオン3世の命ではない,本試験H19ウィーンではない,H21】
【追H27ユスティニアヌス帝が建てたか問う、H29ユリアヌス帝による建立ではない】
を再建(537年竣工
(注)
)しています。
〈ユスティニアヌス〉西方に領土を拡大しようとしている間,531年に即位し
た
ササ
ン(
サーサー
ン)朝
【本試験H13コンスタンティノープルを占領したことはない】
の最盛期の王
〈
ホスロー1
世
〉(位531~579)
【本試験H30】
も西方に進出。両者は戦争の結果,〈ホスロー1世〉がアンティオキアで東ローマ帝国に勝利しメソポタミアを死守しています。
(注)大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』「アヤ・ソフィア」の項、岩波書店、2002年、p.69。
◆
ユスティニアヌス大帝はローマ文化・キリスト教を重視,ギリシアの学術はペルシアに中心を移す
文化的には,529年
に
アカデメイアを閉
鎖
。プラトンにより建てられた学術機関ですが,西方支配のためにはキリスト教の教会ネットワークを頼る必要があり,教会に敵対的なアカデメイアを閉鎖することで提携をねらったのです。ここで研究していた学者はサーサーン朝のジュンディー=シャープール学院に避難。古代ギリシア・ローマの情報はペルシアで保存されることになりました。
また,法学者
〈
トリボニアヌ
ス
〉に,従来のローマ法の集大成をつくるよう命じ,
『
ローマ法大
全
』
【本試験H21・H30】
が編纂され,534年に皇帝はこれ
を
ギリシア
語
で発布しました。特に,元首政(プリンキパトゥス) 時代の学説がまとめられた『学説彙纂(ディゲスタ)』が重要で,法律のはじめに「総則」を置き,そのあとで具体的にしていくスタイルは,現在の日本
の
民
法
を含む各国の法律に影響を与えています。
経済的には,中国の独占してい
た
養
蚕
(ようさん)技術
【東京H26[3]】
が伝わり
,
絹織
物
産業が盛んになりました
【本試験H27】
。
◆
イン
ド=
ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々に続きスラヴ人が,森林地帯から移動を始める
なお,また,のちに東ヨーロッパのポーランド人や,南ヨーロッパのセルビア人に分かれてい
く
スラヴ
人
の祖先は,もともと現在のウクライナの西からベラルーシの南にかけて分布していたとみられています。インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の移動が始まった時期には,ポーランドの南部(ヴィスワ川の上流)に移動す
る
スラヴ
人
の集団もありました。6世紀以降,さらに西に進んでいった集団
が
西スラヴ
人
です。
バルカン半島に進出していったの
が
南スラヴ
人
(
スロヴェニア
人
,
クロアチア
人
,
セルビア
人
を形成)です。
時代のまとめ
(1)
ユーラシア大陸
遊牧民が定住農牧民地域への進出を続け
,
農牧複合政
権
(「中央ユーラシア型国家」)が樹立される。
軍事的に優位な遊牧民が,経済的に優位な定住民と提携するには,広域支配を可能にするための新思想が要求されるから,キリスト教,マニ教,イスラーム教,仏教などのいわゆる
「
世界宗
教
」が各地の政権で保護され,宗教組織を発展させていった。
東アジアでは,騎馬遊牧民の拓跋
部
南アジアでは,6世紀半ばに騎馬遊牧民エフタルの進出
で
グプタ
朝
(320~550)
が滅んでいたが,北インド
を
ヴァルダナ
朝
(7世紀前半)
が統一するが,その後は地方政権が各地に並び立つ状況となる。南アジアでは,大乗仏教運動に対抗
し
バクティ信
仰
と
ヴィシュヌ
派
が普及し,バラモン教がドラヴィダ系の多神教と融合していわゆ
る
ヒンドゥー
教
が形成され,民衆の生活に浸透していく。
地中海東部周辺でローマ帝国
(いわゆ
る
東ローマ帝
国
;ビザンツ帝国)
もバルカン半島への騎馬遊牧民の進出や,黒海北岸
の
ハザー
ル=
カガン
国
の進出,さらに南方から
の
アラブ
人
の拡大を受ける。ローマ帝国は,「ギリシアの火」(焼夷兵器)や装甲騎兵などによりこれを撃退し,軍政改革(軍管区の設置)をおこない
ユーラシア大陸西部には,バルカン半島に騎馬遊牧民
の
アヴァー
ル=
カガン
国
や
ドナ
ウ=
ブルガール王
国
が建国される。
圧迫されたヨーロッパでは,騎兵とキリスト教,ローマ文化の積極的導入で強国となっ
た
フランク王
国
が対峙する。 ヨーロッパの政権
は
キリスト
教
が支配原理となり,民衆の生活にも浸透する。
アフリカ大陸の北西部では
,
ベルベ
ル
系遊牧民がラクダを用いたサハラ越えルートの塩金交易をおこなっていた。7世紀以降,交易で発展したアラビア半島南部を中心に,アラビア半島のアラブ系遊牧民を糾合し
た
イスラー
ム
勢力が周辺への拡大を開始(
"
アラ
ブ=
コンクェス
ト
"(アラブの征服)
(注
)
)。アラブ人の拡大ととも
に
イスラーム
教
が支配原理となり,民衆の生活に浸透する。
東南アジアではマラッカ海峡を通行する海上ルートが栄え,マレー半島,スマトラ島,ジャワ島の広範囲を,スマトラ島を拠点とするマレー系
の
シュリーヴィジャヤ王
国
が統合した。この勢力は,のちにジャワ島の勢
力
シャイレーンドラ
朝
と統合する。これらは港市国家の連合体であり,東南アジア島嶼部の国家の典型例となる。東南アジアの港市国家では,インドと中国の宗教が支配原理として取り入れられていった。
(2
)
アフリカ
ベルベル系遊牧民の地域に進出し
た
アラブ
人
は,西アフリカのニジェール川流域
(
ガーナ王
国
【追H30】
【本試験H8】
)との塩金交易
【追H30】
【本試験H8】
にも従事するようになる。
アラブ人はイベリア半島にも進出し
て
西ゴート王
国
を滅ぼしたが,騎兵を整備し
た
フランク王
国
は進出を食い止めた。
(3
)
南北アメリカ
アメリカ大陸では,北アメリカの古代プエブロ人によるバスケットメーカー文化が拡大,中央アメリカで
は
マヤ文
明
の中心が北部に移り,古典期が終わる
。
ティオティワカン文
明
は650年頃に急激に衰退した。人口増加と環境破壊の進行が原因と考えられている。
アンデス地方では北西部沿岸にモチェ文化が栄える。アンデス地方から沿岸部にかけて
,
ワリ文
化
や
ティワナク文
化
の影響が広域化している。
(4
)
オセアニア
ポリネシア人は700年頃に東部ポリネシア
の
ラ
パ=
ヌイ
島
,北部ポリネシア
の
ハワイ諸
島
に到達する。残すところはニュージーランドである。
○60
0
年
~
80
0
年のアメリカ 北アメリカ
北アメリカ
の
北
部
には
,
パレオエスキモ
ー
が
,
カリブ
ー
を狩猟採集し
,
アザラ
シ
・
セイウ
チ
・
クジ
ラ
などを取り
,
イグル
ー
という氷や雪でつくった住居に住み,犬ぞりや石製のランプ皿を製作するドーセット文化を生み出しました。彼らは,こんにち北アメリカ北部に分布す
る
エスキモー民
族
の祖先です
。
モンゴロイド人
種
であり,日本人によく似ています。
現在
の
エスキモ
ー
民族は,イヌイット系とユピック系に分かれ
,
アラス
カ
にはイヌイット系のイヌピアット人と,イヌイット系ではないユピック人が分布しています
。
北アメリカ大陸北
部
とグリーンランドにはイヌイット系の民族が分布していますが
,
グリーンラン
ド
のイヌイットは自分たちのことを「カラーリット」と呼んでいます。
北アメリカでは,現在のインディアンにつながるパレオ=インディアン(古インディアン)が,狩猟・採集・漁撈・狩猟などを各地の気候に合わせて営んでいます。
北東部の森林地
帯
では,狩猟・漁労のほかに農耕も行われました
。
アルゴンキアン語
族
(アルゴンキン人,オタワ人,オジブワ人,ミクマク人)と
,
イロクォア語
族
(ヒューロン人,モホーク人,セントローレンス=イロクォア人)が分布しています。
北アメリ
カ
東部のミシシッピー川流
域
では,ヒマワリ,アカザ,ニワトコなどを栽培し,狩猟採集をする人々が生活していました。この時期に
は
ホープウェル文
化
が栄え,大規模なマウンドという埋葬塚が建設されています。
北アメリカ
の
南西
部
では,アナサジ人
(
古代プエブ
ロ
)が,コロラド高原周辺で,プエブロ(集落)を築き,メキシコ方面から伝わっ
た
トウモロコ
シ
の灌漑農耕が行われていました。860年~1130年にかけて,現在のニューメキシコ州のチャコ=キャニオンに,大規模な集落が建設され,神殿とも考えられる建造物も見つかっています。
○60
0
年
~
80
0
年のアメリカ 中央アメリカ
マヤの都市国家が最盛期を迎えるが,のち衰退へ
◆
マヤ低地の都市国家が最盛期を迎えるが,8世紀後半頃から都市の放棄が始まる
この時期の中央アメリカ
(現在のユカタン半島とグアテマラ東部・南部)
では
,
マヤ文
明
が「古典期」を迎えていました。大都市カラクムル,コパン,パレンケやティカルが発展しました。
マヤ低地中
部
ティカ
ル
は湿地と熱帯雨林の中央部に位置し,乾季に対応するために雨水が巨大な貯水池ネットワークに集められました。絶頂期には,8~12万人の人口を抱えています。
しかし,648年に内部抗争が勃発すると,その
後
カラクル
ム
にマヤ低地中部の覇権が移ります。
その後,おそらく695年には外部からの民族(一説に
は
ティオティワカ
ン
の難民)を受け入れたティカルは同年にカラクルムに勝利し,カラクルムは衰退。その戦勝記念にティカルには「神殿2」が建てられます
(注
1)
。
コパ
ン
は,第13代〈ワシャクラフン=ウバーフ=カウィル〉王(位695~738?)により最盛期を迎えています。
都
市
パレン
ケ
の支配者〈パカル1世〉(603~683)の墓は,1952年に階段型ピラミッドの中から見つかっています。顔をべったり覆っていた豪華
な
ヒス
イ
のマスクは,彼らの技術力の高さや,交易範囲の広さを物語っています。
760年頃からマヤ低
地
南
部の都市の放棄がすすみ,9世紀になるとマヤ低
地
中
部の都市国家も衰退に向かいます。
滅亡の原因として,内部抗争,外部からの侵入が想定されていますが,
それらの背景には開発の行き過ぎや干ばつなどの気候変動も考えられています
。
文明の中心は次第にマヤ低
地
北
部に移動していくこととなります
(注
2)
。
(注1)芝崎みゆき『古代マヤ・アステカ不可思議大全』草思社,2010,p.120。
(注2)実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館,2016,p.260。
◆
メキシコ高原南部
トウモロコシの農耕地帯であっ
た
メキシコ高原南
部
のオアハカ盆地では
,
サポテカ
人
が中心都市はモンテ=アルバンを中心として栄えましたが,650年頃のティオティワカンの崩壊と足並みをそろえ,少しずつ衰退に向かいます(サポテカ文明,前500~後750)。
◆
メキシコ高原北部のティオティワカンの都市文明は衰退
メキシコ高原中央部では
,
テオティワカ
ン
(前100~後600)を中心とする都市文明は,550年~750年までの間に衰退します。
○60
0
年
~
80
0
年のアメリカ カリブ海
カリブ
海
...現在の①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島
○60
0
年
~
80
0
年のアメリカ 南アメリカ
沿岸部のモチェ,ナスカは衰退へ
南アメリカ
の
ペル
ー
北部海岸地帯ではモチェ,南部海岸地帯ではナスカ文化が栄えますが,この時期の終わりに向かい衰退します。
山岳部ではティワナク,ワリが栄える
また,アンデス地方中央部の高地では,現在のボリビア側のティティカカ〔チチカカ〕湖の近くに紀元前から12世紀頃ま
で
ティワナク文
化
が栄えました(8世~12世紀が最盛期)。ティワナクは標高3200mなので,ジャガイモだけが頼りです。
同時期には現在のペルー南部からチリ北部にかけての高地では,ワリ文化を生み出し
た
ワリ文
化
が生まれていきます(6~11世紀が最盛期)。標高差を利用し,生態系をこえた支配領域を包摂して栄えます。
◆
アマゾン川流域では定住集落が栄える
アマゾン川流
域
(アマゾニア)の土壌
は
ラトソ
ル
という農耕に向かない赤土でしたが,前350年頃には,木を焼いた炭にほかの有機物をまぜて農耕に向く黒土を開発しています。
○60
0
年
~
80
0
年のオセアニア ポリネシア,メラネシア,ミクロネシア
オセアニア東部のサモアに到達してい
た
ラピタ
人
は,600年までにさらに西方のマルケサス島(現・フランス領ポリネシア)に徐々に移動。サンゴ礁島の気候に適応し
た
ポリネシア文
化
を形成して,アウトリガー=カヌーを用いて計画的に遠洋航海による植民を行います。
700年頃に東部ポリネシア
の
ラ
パ=
ヌイ
島
(イースター島),700年頃に北部ポリネシア
の
ハワイ諸
島
に到達しています。
なお,ラロトンガ島の船乗り〈ウイ=テ=ランギオラ〉(生没年不詳)が,650年頃
に
南極大
陸
(ニュージーランド南方のロス海)に到達していたことを示唆する史料も残されています
(注
)
。
(注)Antarctica, "Encyclopedia Britannica",https://www.britannica.com/place/Antarctica/History#ref390155
○60
0
年
~
80
0
年のオセアニア オーストラリア
オーストラリア
の
アボリジナ
ル
(アボリジニ)は,オーストラリア大陸の外との接触を持たないまま,狩猟採集生活を営んでいます。
タスマニア人も,オーストラリア大陸本土との接触を持たぬまま,狩猟採集生活を続けています。
◆
突厥が東西に分裂し,東突厥は7世紀前半に唐に服属,西突厥も8世紀に滅ぶ
東突厥は唐の皇帝に「天可汗」の称号を与えた
580年頃
,
突
厥
【大阪H30史料:629年当時の中央アジアの遊牧地帯の国家を問う。西突厥が適当か】
はアルタイ山脈あたりで東西に分離し,630年には東突厥は唐の支配下に入ります。
唐
は遊牧民の支配層を破壊せず,温存させたまま支配する
「
羈縻支
配
(きびしはい,羈縻政策)」
【本試験H20王朝を問う、H24日本の植民地朝鮮での武断政治とのひっかけ】
【追H18】
をとりました
【大阪H30論述:どのようなシステムで周辺の諸民族・国家を支配し,または外交関係をむすんで帝国を維持しようとしたか。唐から宋朝にかけての時代を中心に】
。遊牧民の側も唐の〈太宗〉(位626~49)を「天可汗」(テュルク語でテングリカガン)と呼び,「可汗」の支配として統治を受けました。
しかし,のちに682年
に
東
突厥は再び自立しましたが,内紛が相次ぎ,744年にテュルク系
の
鉄
勒
の部族のうちの一
つ
ウイグ
ル
に攻められ,ウイグルの首長が可汗となり,突厥によるモンゴル高原支配は滅びます。
ま
た
西
突厥は,支配層であった氏族である阿史那氏が741年頃に滅亡。その後は,突騎施(テュルギシュ)や葛邏禄
(
カルル
ク
,歌邏禄;葛禄)の勢力が強まります。
◆
イスラーム勢力が中央アジアに進出し,ウイグルが台頭。突厥とソグド人が衰退する
ウイグルの台頭とイスラームの拡大が,草原地帯や中国にも影響を及ぼす
鉄
勒
(てつろく)の部族のなかに,「トグズ=オグズ」という部族がおり,そのうちの一つ
が
ウイグ
ル
(回鶻(かいこつ))
【追H18】
と呼ばれていました。トグズ=オグズというのは9つの連合体という意味で,9つの部族がまとまって連合を組んでいたので,そう呼ばれます。ウイグルの初代可汗〈キョル=ビルゲ〉(位744~747)との子〈葛勒可汗〉(位747~759)は,支配領域を拡大しました。
そんな中
,
ソグ
ド
人の父
と
突
厥
人の母をもつ節度使の
〈
安禄
山
〉
(あんろくさん,705~757)と武将の〈史思明〉(ししめい,?~761)とともに,中央ユーラシアの突厥人やソグド人を集め,唐から独立しようとす
る
安史の
乱
(755~763年)が起こされました
【本試験H11元の中国支配が崩壊するきっかけとなったわけではない】
【本試験H16赤眉の乱ではない】
【追H18】
。彼の反乱の背景には,この頃,今まで中央ユーラシアで力を持っていた遊牧民の突厥と,商業民のソグド人の立場が揺らいでいたことがありました
(注
)
。
これには唐の軍事力だけでは鎮圧しきれず,遊牧騎馬民族
の
ウイグ
ル
【本試験H21月氏ではない,本試験H23】
【追H25紅巾の乱ではウイグルとともに鎮圧していない】
に鎮圧を要請し,ようやくおさまる体(てい)たらくでした。
唐に保護されていた商業民
族
ソグド
人
の本拠地(アム川とシル川に囲まれたソグディアナ地方)が,イスラーム軍による進入を受けていた影響も少なくありません(751年に
は
タラス河畔の戦
い
で唐
【本試験H14ウイグルではない】
【追H19,H20・H30隋のときではない】
がアッバース朝
【本試験H14ウマイヤ朝ではない】
に敗北しています)。
(注)森安孝夫「ウイグルから見た安史の乱」『内陸アジア言語の研究』17,p.117-170,2002.9(https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/17824/sial17-117.pdf)。また,杉山正明『中国の歴史08 疾駆する草原の征服者 ─遼 西夏 金 元─』2005,講談社を参照。
◆
突厥人とソグド人を両親に持つ〈安禄山〉らの乱は,ウイグルの軍事力で鎮圧される
草原地帯は,突厥からウイグルの時代に向かう
その後のウイグルは,その見返りに唐に大量の絹を要求するようになり,唐の財政を圧迫させるようになりました。次の〈牟羽(ブグ)可汗〉も反乱鎮圧に協力し,中国か
ら
マニ
教
の僧侶を連れて帰りました。このときから,ウイグルの支配層にマニ教が伝わるようになるのです。マニ教は,〈ゾロアスター〉〈ブッダ〉〈イエス=キリスト〉を先駆者として認めるイランの宗教で,マニ教の神(光明神)が,遊牧民の天の神(テングリ)と結びついて受け入れられたと考えられます。
ウイグルは,モンゴル高原のオルホン川流域に宮殿を築き,オルドゥ=バリクなどと呼ばれる都市を建設しました。遊牧民がこれだけの大都市を草原地帯につくり,上層部が定住するようになるというのは,珍しいことです。また,突厥文字の影響を受け
た
ウイグル文
字
【本試験H15遊牧民最古の文字ではない】
を作成しました。
また,この時期にはモンゴル高原からカザフスタンにかけて
,
石
人
という石像がしばしば建てられました。2~3頭身くらいのヒゲを生やした男性の像が,草原の中にぽつんと東向きに建てられているのが特徴です。
◆
チベットの吐蕃は東西交易ルートを確保し,唐と対立した
インドの密教がチベット帝国に伝わった
チベット高原を7世紀に統一したのは,
〈
ソンツェ
ン=
ガン
ポ
〉
(位629~649)
【本試験H4,本試験H7】
【本試験H20】
【追H30中国東北部ではない】
【慶商A H30記】
です。中国はこの王国
を
吐
蕃
(とばん
;
チベット帝
国
,7~9世紀中頃)
【京都H21[2]】
【共通一次 平1:時期を問う(12世紀半ばではない)・地図上の位置を問う(タリム盆地ではない)】
【Hセ3唐代に和蕃公主が嫁がされていない,Hセ7鮮卑ではない,本試験H9[14]ヴェトナム北部ではない,イスラム文化と中国文化は融合していない,フビライの攻撃で滅んでいない】
【本試験H17成立の時期】
【セA H30】
と呼びました。インドの文字か
ら
チベット文
字
【本試験H9】
【本試験H17】
をつくり,インドから伝わっ
た
密
教
(みっきょう)と,チベットの民間信仰(ボン教)が合わさった神秘的
な
チベット仏
教
(俗にいう「ラマ教」は,仏教とは別の宗教というニュアンスを含むため,チベット人はこの呼称を使いません)を吐蕃(とばん
;
チベット帝
国
)の国教として採用しました。
密
教
は7~8世紀に,庶民に広がっ
た
大乗仏
教
に対する批判から生まれた仏教です。この時期には西北インドにイスラーム勢力が進出していたため,北方にはヒマラヤ越えルートで伝わります。だから,まずチベットに密教が伝わったわけです。
唐の皇帝
〈
李世
民
〉は,娘
(
文成公
主
)(公主とは王女のこと)を〈ソンツェン=ガンポ〉の子〈クンソン=クンツェン〉の嫁にやることで,友好関係を結ぼうとしました。このように異民族に政略結婚のために贈られた女性のことを和蕃公主(わばんこうしゅ)といいます。
吐蕃は東西交易ルートにも進出し,コータン
や
敦
煌
といっ
た
オアシス都
市
を支配下に収めました。
また中国南部山岳地帯の雲南を通って東南アジアにまでいたる「茶馬古道」(ちゃばこどう)という交易ルートにより,チベットからは毛織物,毛皮や薬草が,中国方面から
は
茶
,銀,絹などが運ばれました。
貨幣として用いられていたのはユーラシア西南沿岸でしかとれな
い
タカラガ
イ
。海から遠く離れたチベット高原で,南の島の貝殻が貨幣として用いられていたわけです
(注
)
。
(注)上田信『貨幣の条件─タカラガイの文明史』筑摩書房,2016。
◆
アヴァール人,ブルガール人がヨーロッパに進出,ハザル人とともに交易活動に従事した
遊牧民の活動により,交易活動が活発化した
ヨーロッパ中心の歴史の見方に立つと,「遊牧民の進出によって,ヨーロッパが被害を受けた」という捉え方になりがちです。
しかし,機動力のある遊牧民の活動は,ユーラシア東西を結ぶ物や情報の交流を活発化させる役割を果たしていました。
アヴァール人
中央ユーラシア西部では,モンゴル系(あるいはテュルク(トルコ)系)とされ
る
アヴァール
人
【本試験H21 世紀を問う本試験H27ブリテン島ではない、本試験H29】
【追H25】
【慶・文H30】
が,ビザンツ帝国の〈ユスティニアヌス1世(大帝)〉(位527~565)のときにカフカス山脈の北に現れ,黒海を通ってドナウ川中流域のパンノニア(ハンガリー平原)に進入しました。のちに,バルカン半島に進入します。623~24年にはコンスタンティノープルを包囲しますが,ビザンツ帝国の
〈
ヘラクレイオス1
世
〉(位610~641)が撃退しました。その後,8世紀末~9世紀初めにフランク王国
〈
カール大
帝
〉
【追H25】
により撃退され,その後の消息はわかりません
。
アヴァール
人
は
柔
然
(じゅうぜん)と関係があるのではないかという説には確証はありません。
ブルガール人
ほかに,カフカス山脈の北には5世紀頃からテュルク系の言語
の
ブルガール
人
がおり,7世紀にアヴァール人を抑えようとするビザンツ帝国と結んで強大化しましたが,東方にいたテュルク系の言語
の
ハザ
ル
により崩壊しました。
その後ブルガール人の一派は,ドナウ川方面に移動し,680年にビザンツ帝国を打倒して,スラヴ人の農牧民を支配しました。しかし,やがてスラヴ人と同化し,864年にはキリスト教を国教としました
【追H29北イタリアで王国を建てていない(それは東ゴート人やランゴバルド人)】
。
ハザル人
ハザル
人
は6世紀末に西突厥の下で,カスピ海北岸~黒海北岸に移動し,7世紀中頃に独立したとみられ,カフカス山脈を越えてササン(サーサーン)朝や,イスラーム教徒と戦っています。「ハザルがいたおかげで,カフカス山脈よりも北にイスラーム教が広まらなかった」とみる研究者もいます。
彼らはカスピ海やヴォルガ川の水運を支配し,8世紀半ば以降,積極的に交易活動に従事。その中で,ハザル人の支配者
は
ユダヤ
教
に改宗しています。
○60
0
年
~
80
0
年のアジア 東北アジア・東アジア
○60
0
年
~
80
0
年のアジア 東北アジア
◆
西から東突厥・唐の圧迫を受ける中,高句麗が滅亡し渤海に交替し,
高句麗から渤海へ,さらに契丹と女真が台頭へ
※沿海州とは,オホーツク海に面するユーラシア大陸東岸のことを指します
中国東北部の黒竜江(アムール川)流域では,アルタイ諸語に属す
る
ツングース語族
系
の農耕・牧畜民が分布しています。
西方からの騎馬遊牧民
の
ツングース語族系
の
高句
麗
(紀元前後~668)
は668年に唐と新羅の攻撃により滅び,その遺民
【追H28タングート族ではない】
によ
り
しかし926年に渤海は契丹(キタイ)により滅び,代わって沿海州
の
女
真
は複数の首長によって統合がすすみます。契丹は遼を建国し,中国文化を受け入れて皇帝を宣言し,中国進出をすすめます。契丹の北方のモンゴル高原では,タタール人やモンゴル人が成長していました。
◆
ツングース人とヤクート人によるトナカイ遊牧地域が東方に拡大する
北極圏ではトナカイ遊牧地域が東方に拡大へ
さらに北部に
は
古シベリア諸語
系
の民族が分布し,狩猟採集生活を送っていました。しかし,イェニセイ川やレナ川方面
の
ツングース諸語
系
(北部ツングース語群)の人々や,テュルク諸語系
の
ヤクート
人
(
サ
ハ
と自称,現在のロシア連邦サハ共和国の主要民族)が東方に移動し
,
トナカイの遊
牧
地域を拡大させていきます。圧迫される形で古シベリア語系の民族の分布は,ユーラシア大陸東端のカムチャツカ半島方面に縮小していきました。
◆
極北では現在のエスキモーにつながるチューレ文化が生まれる
エスキモーの祖となるチューレ文化が拡大する
ベーリング海峡近くには,グリーンランドにまでつなが
る
ドーセット文
化
(前800~1000
(注
1)
/1300年)の担い手が生活していましたが,ベーリング海周辺の文化が発達して900~1100年頃
に
チューレ文
化
が生まれました。チューレ文化は,鯨骨・石・土づくりの半地下式の住居,アザラシ,セイウチ,クジラ,トナカイ,ホッキョクグマなどの狩猟,
(注1)ジョン・ヘイウッド,蔵持不三也監訳『世界の民族・国家興亡歴史地図年表』柊風舎,2010,p.88
(注2)ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「エスキモー」の項
○60
0
年
~
80
0
年のアジア 東アジア
東アジ
ア
...現在の①日本,②台湾(注),③中華人民共和国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国
○60
0
年
~
80
0
年のアジア 東アジア
現①
日本
◆
朝鮮半島を経由して漢字・思想・統治制度など導入され,中央集権化が推進された
7世紀前半には都の飛鳥(あすか)を中心
に
仏
教
文化が栄えました。仏教は教義を理解した上で信仰されたとはいえず,一種の呪術的な要素が重視され,豪族は権威を示すために大規模な寺院を建設しました。例えば〈蘇我〉氏は法興寺(ほうこうじ;飛鳥寺(あすかでら)),〈厩戸王〉(しょうとくたいし)は四天王寺
や
法隆
寺
(ほうりゅうじ;斑鳩寺(いかるがでら))を建設しています。法隆寺は世界最古の木造建築ですが現存する建物は670年の焼失後に再建されたものです。いずれも,従来の掘っ立て柱(地面に直接立てられた柱)と板葺き・桧皮葺(ひわだぶき)といった建築様式ではなく,礎石の上に建築され屋根は瓦(かわら)葺き
の
中国風の建築様
式
となっています。
仏像の様式は初めは中国
の
北朝の影
響
を受けた厳しい表情の様式がみられ,法隆寺金堂釈迦三尊像が代表例です。百済や中国
の
南朝の影
響
を受けた穏やかな仏像もつくられ,広隆寺・中宮寺の半跏思惟像(はんかしゆいぞう)や法隆寺の百済観音像(くだらかんのんぞう)が知られます。
ヤマト政権で高い位を与えられていた
〈
蘇
我
馬子〉(そがのうまこ)が政権を握ると,暗殺された
〈
崇峻天
皇
〉(すしゅんてんのう)と〈蘇我馬子〉の甥にあたる
〈
聖徳太
子
〉(しょうとくたいし;厩戸王(うまやとおう),574~622)が,新たに即位した女性の
〈
推古天
皇
〉(すいこてんのう,位592~628)を摂政として助け
,
大陸文化を導入しなが
ら
混乱を収拾するための改革を断行しました。
大陸では589年
に
隋
が中国全土を統一しており,勢力を拡大して日本に迫る危険性もありました。
中国との外交を確立するため
,
倭
(中国側の日本の政権の呼び名)が
60
0
年に使
者
を遣わしたという記述が『隋書』に残されています。603年に
は
冠位十二階の
制
を,604年に
は
憲法十七
条
を定め国家としての制度を整えた上で607年に〈小野妹子〉(生没年不詳)らを遣隋使として隋の第二代〈煬帝〉(ようだい)に遣わしました。隋の第二代皇帝
〈
煬
帝
〉(ようだい,楊広(ようこう))は,対等な外交を求める日本の国書を「
蛮夷(ばんい)の書,無礼なる有らば,復(ま)た以て聞(ぶん)する勿(なか)れ
」と一蹴しました。しかし,〈推古天皇〉の政権(倭)は翌608年の遣隋使に
は
学
者
〈高向玄理〉(たかむこのげんり,?~654)
や
僧
の〈旻〉(みん,?~653)も同行させて
,
大陸の文化を吸
収
し旧来の氏姓に基づく制度を刷新しようとしました。
〈聖徳太子〉が622年に亡くなると,大臣(おおおみ)の
〈
蘇
我
蝦夷〉(?~645)・
〈
蘇
我
入鹿〉(?~645)が政治の実権を握り,〈聖徳太子〉の子〈山背大兄王〉(やましろのおおえのおう,?~643)を排除しました。
◆
唐の強大化に対抗し,中央集権化がすすめられたが,白村江の戦いで敗北した
中国
で
61
8
年に成立した唐が勢力を拡大する
中
,〈中大兄皇子〉(なかのおおえのみこ,626~671),〈中臣鎌足〉(なかとみのかまたり,の
ち
藤原鎌
足
,614~669)は,645年に〈蘇我蝦夷〉と〈蘇我入鹿〉を武力で倒し(乙巳(いっし)の変),646年以降,唐の制度を導入し
て
中央集権化を進める政治改
革
(
大化の改
新
)を断行しました。
天皇は〈皇極天皇〉(こうぎょくてんのう,位642~645)から〈孝徳天皇〉(こうとくてんのう,位645~654)にかわり,〈孝徳天皇〉の甥の〈中大兄皇子〉は皇太子となりました。646年に出されたとされる改新の詔(かいしんのみことのり)は,原文のままではなく後世に書きかえられたものと考えられています。
なお,乙巳の変で〈蘇我〉氏は倒されたものの,その後も〈蘇我〉氏は〈聖武天皇〉が〈藤原〉氏から皇后をもらうまで,天皇家との婚姻関係を持ち続けています。
〈孝徳天皇〉にかわって即位した〈斉明天皇〉(さいめいてんのう,位655~661)は,朝鮮半島の百済が唐と新羅
【追H24「宋と金」ではない】
の連合軍により滅ぼされる(
百済の滅亡
【追H24】
)
と
百済の救
援
に向かい,663年
の
白村
江
(はくそんこう;はくすきのえ
)
の戦
い
で大敗しました。
唐の日本襲来に備え〈中大兄皇子〉は日本各地に防備を築き,
〈
天智天
皇
〉(てんじてんのう,位668~671)として即位してさらなる集権化を進めました。原本は残されていませんが近江令(おうみりょう)を定めたとされ,670年に
は
初の全国戸
籍
として庚午年籍(こうごねんじゃく)が作成されました。
〈天智天皇〉の死後,後継者争いであ
る
壬
申
(じんしん
)
の
乱
が起き,東国や飛鳥の豪族の支持を受けた〈大海人皇子〉(おおあまのみこ,631?~686)が天智天皇の子〈大友皇子〉(648~672)に勝利し,
〈
天武天
皇
〉(てんむてんのう,673~686)として即位し権力を確立しました。彼は八色の姓(やくさのかばね)を制定して,従来
の
豪族の身分制度に対
抗
しました。
◆
唐の制度を導入しつつ,律令制を整備していった
〈天武天皇〉の死後は皇后の
〈
持統天
皇
〉(じとうてんのう,位690~697)が飛鳥浄御
原
令
(あすかきよみは
ら
りょ
う
)を制定・施行します。女性である彼女が統治した期間は,唐の〈武則天〉の統治期間に重なります
(〈武則天〉が周を建国した年に〈持統天皇〉が即位)
。
ま
た
中国の都を模倣した藤原
京
(ふじわらきょう)を奈良盆地の畝傍山(うねびやま)・耳成山(みみなしやま)・香具山(かぐやま)に囲まれた平野に造営し,権威を演出しました。
〈天武〉・〈持統〉天皇の時期の新たな国家建設に向けた勢いを反映し
,
唐の文化や仏教の影響を受けた若々しく力強い文
化
(
白鳳文
化
,はくほうぶんか)が栄えました。代表例は薬師寺東塔(730頃),薬師寺金堂薬師三尊像,興福寺仏頭(もとは飛鳥の山田寺の本尊でした)です。法隆寺金堂壁画には,インド
の
アジャンター石窟寺
院
の影響もみられます
。
高松塚古墳の壁
画
には,中国や朝鮮風の衣装を着た人々も描かれており,中国の〈永泰公主〉(唐の〈中宗〉の七女の墓の壁画(8世紀初頭))の図案との関連性も指摘されています。
〈天武天皇〉は大規模な寺院を建設し,寺院・僧侶,さらに伊勢神宮を代表とす
る
神
社
をも管理下に置こうとしました。朝廷で
は
漢
詩
がさかんにつくられた一方で,〈柿本人麻呂〉(かきのもとのひとまろ)(生没年不詳)らが五七調
の
和
歌
を発達させていきました。
701年には大宝(たいほう
)
律
令
が制定され
,
「日本」という国
号
も使用されるようになりました。
中央には
,
神祇
官
(じんぎかん)
・
太政
官
(だいじょうかん)の二官庁がトップに置かれ,太政官で
は
左大
臣
・
右大
臣
や上級の官僚
(
公
卿
(くぎょう))が合議し,最終決定は天皇がくだしました。
中央の実務は二官の下の八省が担当し,長官 (かみ) ,次官 (すけ) ,判官 (じょう) ,主典 (さかん) の四等官によって官僚が指揮されました。上級の官僚は畿内の大豪族が多く,位階は事実上世襲されることも多く貴族階級が形成されていきました。
北海道を除く日本列島
は
畿
内
・
七
道
(しちどう
)
の行政区
画
に分けられ,さらにその下には国(こく)・郡(ぐん)・里(り)が設置されました。中央から
は
国
司
が派遣され,国府
(
国
衙
(こくが))を支配拠点としました。地方に派遣された国司は,現地の有力者(豪族)
を
郡
司
(ぐんじ)に任命し,住民を50戸からなる里に編成し,里長を責任者として支配をすすめようとしました。
人々には田租・庸
【共通一次 平1:資産税ではなく人頭税】
・調などの税や,雑徭(ぞうよう)・兵役(へいえき)などの労役が課されました
【追H27時期を問う】
。なかには都の警備である衛士(えじ)や,九州北部の防備のため防人(さきもり)として徴用されることもありました。人口の多くは良民(その多くが農民)でしたが,数%は官有または私有の賤民(せんみん)として扱われました。
なお,大陸に対する国防・外交のため,九州北部に
は
太宰
府
(だざいふ)を設置しました。
◆
平城京が建設されたころ,日本では女性天皇が続き,日本の国家機構の建設がすすんだ
〈持統天皇〉を,孫の〈
この〈元正天皇〉のとき,710年には都
が
平城
京
に遷都されました。外国人が多く居住した都では
,
唐の制度をとりいれた国際色豊かな要
素
が色濃く
,
日本の国家としての自
覚
を反映した文化が栄えました
(
天
平
(てんぴょう
)
文
化
)。
例えば,中央には大学・諸国に国学という貴族・豪族向けの教育機関が置かれ
,
儒教の経典の研
究
が進みました。儒教は受容されたものの,日本では科挙が制度化されることはありませんでした。
碁盤の目に区切られた左右対称
の
条坊
制
(じょうぼうせい)をとった平城京には,大安寺(だいあんじ)・薬師寺・元興寺(がんごうじ)・興福寺(こうふくじ),さらに東大寺(とうだいじ)・西大寺(さいだいじ)などの仏教寺院が建設され,法相(ほっそう)宗,三論(さんろん)宗,倶舎(くしゃ)宗,成実(じょうじつ)宗,華厳(けごん)宗,律(りっ)宗
の
南都六
宗
(なんとろくしゅう)の研究が進みました。
律令政府は仏僧や寺院をきびしく管理しようとしましたが,民衆からの絶大な支持を受けた
〈
行
基
〉(ぎょうき,668~749)による布教や灌漑施設の建設といった事業を規制することはできませんでした。
◆
白村江の戦いの敗北を受け,『古事記』・『日本書紀』などの歴史書が編まれた
国家の成り立ちを記す書物が,漢字で書かれた
中国の正史にならって
『
古事
記
』(712),
『
日本書
紀
』(720)といった史書が編纂され,漢文で記されました。これ以降10世紀初めにかけて編纂されていく『日本書紀をはじめとした史書
を
六国
史
と総称します。また地理書として各地の
「
風土
記
」が編纂されました。
唐における漢詩ブームを反映し漢文が重んじられ
,
漢詩文
集
『
懐風
藻
』(かいふうそう)が編纂されます。一方,漢詩の影響を受けて成立した和歌には
,
短
歌
や
長
歌
(ちょうか)といった形式が発展し8世紀末に
は
万葉仮
名
(まんようがな)という漢字によって日本語の音を記した日本各地の詩を多数収録した
『
万葉
集
』が編纂されました。
◆
〈蘇我〉氏に代わり,〈藤原〉氏が天皇家との関係を強化する
〈藤原〉氏の
しかし次第に,
〈
藤
原
〉
氏によ
る
他の一族の排除
(
他氏排
斥
)が目立つようようになっていきます。
早くから日本の律令制度にはほころびが生じており,厳しい負担を逃れる農民や
,
浮
浪
・
逃
亡
した農民を受け入れる有力者の存在が問題視されるようになっていました。人口の増加に対応して耕地を増やそうと,722年には
〈
長屋
王
〉(ながやおう,?~729)が百万町歩開墾計画(ひゃくまんちょうぶかいこんけいかく)を立てたものの失敗。翌723年に
は
三世一身
法
(さんぜいっしんのほう)により,あらたに灌漑施設を建設して田を開墾した者に,三代にわたって私有を認めるというものでした。
729年には
〈
藤原不比
等
〉(ふじわらのふひと,659~720)の4人の息子たち(藤原四子)が左大臣の〈長屋王〉をほろぼし,
〈
不比
等
〉
の娘であ
る
〈
光明
子
〉(こうみょうし,701~760
)
が
〈
聖武天
皇
〉(しょうむてんのう,位724~749
)
と結婚し,天皇との婚姻関係を獲
得
するに至りました。
疫病や飢饉の流行により〈藤原四子〉が死去すると,皇族の出身である〈橘諸兄〉(たちばなのもろえ,684~757)が遣唐使帰りの〈玄昉〉(げんぼう,?~746)や〈吉備真備〉(きびのまきび,683?~775)をブレーンにつけて政権を握りました。これに対しては,〈藤原広嗣〉(ふじわらのひろつぐ,?~740)が九州で反乱を起こし,鎮圧されました。
〈
聖武天
皇
〉
は
仏教の力で国難を乗り切ろうと
し
,741年に国分寺建立の詔(こくぶんじこんりゅうのみことのり),743年
に
大仏造立の
詔
(だいぶつぞうりゅうのみことのり)を発布。こうして東大寺に今も残る"奈良の大仏"が作られました。こうした政策は,実は〈武則天〉がみずからを
また,743年に
は
墾田永年私財
法
(こんでんえいねんしざいほう)が出され,条件付きで開墾した土地の永久私有を認め開墾を奨励しました。しかし効果は裏目に出て,有力な中央の貴族や寺院が競って開墾
し
初期荘
園
(しょきしょうえん
;
墾田地系荘
園
ともいいます)が形成されていく原因となりました。この頃の地方では,中央政府の派遣した国司や,地方の豪族を任命する郡司の力が残されており,初期荘園には国司・郡司に対して税を支払う義務がありました。
8世紀以降
,
新羅との関係悪
化
にともない,遣唐使のルートは朝鮮半島沿岸部を航行す
る
北
路
から,東シナ海を横断し明州(現在の
渤
海
(ぼっかい,698~926)も外交使節を8世紀前半から交換し,しだいに貿易が中心になっていきました。727年から919年までの間に渤海から日本には33回の遣使,日本から渤海には728~811年に13回の遣使が実施されています。太宰府と平安京には鴻臚館(こうろかん),越前に松原客院,能登に能登客院が置かれ,渤海からの使者の滞在・接遇に用いられました。
8世紀後半には
〈
藤原仲麻
呂
〉(ふじわらのなかまろ,706~764)が実権を握りましたが,仏僧〈道鏡〉が〈孝謙太上天皇〉(位749~758)と〈称徳天皇〉(しょうとくてんのう,位764~770)に保護されて政権を握り,〈仲麻呂〉は敗れて亡くなっています。
藤原氏は〈称徳天皇〉の死後に〈道鏡〉を排除し,〈天武天皇〉の系譜とは別の
〈
光仁天
皇
〉(こうにんてんのう,位770~781)をたてて,混乱を収拾しようとしました。
しかし,日本が制度を輸入してきた唐は755年の安史の乱以後は急速に衰えをみせ,社会不安も増していました。
6~7世紀から,現在の北海道の人々は,擦文式土器を特徴とす
る
擦文文
化
を生み出していました。サケやマスなどの漁労や,狩猟を行っていたようです。主に本州との交易により
,
鉄
器
も獲得していました。
また,北海道沿岸を含
む
オホーツク
海
沿岸には,漁業や海獣の狩猟を中心とする文化を生み出した人々がいました(オホーツク文化,3~13世紀)。
・
60
0
年
~
80
0
年のアジア 東アジア
現③
中華人民共和国
◆
中央ユーラシアにおける突厥の強大化に連動し,隋唐王朝が東アジアの覇権を握る
突厥の台頭に対抗し,隋唐王朝が生まれた
この時代に中国を統一し
た
隋
王朝(581~618)
と
唐
王朝(618~907)は,中央ユーラシアにおける騎馬遊牧
民
東アジアでは,隋・唐の皇帝(天子)が周辺の国家に重要度に応じて位(くらい)を与え,実際には統治していなくても支配下に置く制度
(
冊
封
(さくほう
)
制
度
)が形成されていきました。冊封を受けた国家は中国の皇帝
と
朝貢貿
易
ができるため有利ですが,中国の皇帝にとっては返礼として高価な産物を与えなければいけないので大変です。しかし中国の皇帝にとっての朝貢貿易は,中国の皇帝としての面子(メンツ)を壊さないために重要な儀礼でした。皇帝は,中「華」を支配し,その徳によって野蛮な周辺国(夷)を従えるとす
る
華
夷
(かい
)
思
想
が重んじられていたからです。このような東アジアにおける国際関係の下で,中国の新制度を導入した新政権が,東アジア各地に建てられていきます。
文化面では,華北の漢人文化・五胡の文化が北方のテュルク文化,江南の南朝の文化,西域(さいいき)の文化と複合し,現在
の
中国文
化
の基となる文化が誕生していきました。
冊封体
制
は東アジアの国際関係の常識として19世紀後半まで続きましたが,朝貢貿易をどの程度実施するかは,中国の王朝の国力や東アジアの情勢によってまちまちだったので,常に朝貢貿易を推進していたわけではありません。
鮮卑系の隋が南北朝を統一し,北朝で発達した諸制度が導入されていった
隋と唐は漢人中心の歴史の見方では「漢人によって中国が再統一された」と表現されることが多いですが,実際にはそんなに単純な話ではありません。
581年に隋を建てたのは,北朝の軍人であっ
た
鮮
卑
系の
〈
楊
堅
〉(ようけん,在位581~604)でした
【本試験H17軍機処は設置していない】
。 前漢時代から都とされていた都市・長安は老朽化も進んでおり,その南東に新たな都城
の
大興
城
(だいこうじょう)
【追H27隋代ではない】
を建設します。城とは中国語では壁で囲まれた「都市」のことです。これがそのまま次の唐代には長安城として利用されることになります。
諡(おくりな,死後与えられる名)
は
文
帝
です。589年に南朝最後
の
陳
【本試験H17宋ではない】
を滅ぼし,約300年ぶりに中国の領域が統一されました。
南北朝の時代に,漢人や鮮卑人の支配層は一体化が進んでおり,そもそも隋が「漢人の国」なのか「鮮卑人の国」なのかということをとやかく言うことにはあまり意味がありませんが,北方の突厥や南匈奴の勢力が迫り,南朝の漢人政権に対して自らの正統性を主張するために,隋の支配層は漢人の王朝としての意識を強めていきます。
北朝の流れをくむ隋では
,
均田
法
(農民に国家が土地を与え耕作させる)
・
租調庸
制
(均田法で田畑を与えた農民から税を取る)
・
府兵
制
【追H25玄宗の時代ではない】
(均田法で田畑を与えた農民から兵をとる)といった制度が受け継がれました。
ベースになっているのは「天下の土地は皇帝のもの。そこにいる人々も皇帝のもの」という考え方です。一人一人をもらさず支配しようとする,この統治方式を
,
個別人身支
配
という名で説明することがあります。この方式は隋から唐にも受け継がれましたが,皇帝には完全実施できるほどの権力はまだなく,8世紀に入ると崩れていきました。
(1)
均田法
まず
,
均田
法
は
北
魏
によって創始されました。(参考魏・蜀・呉→西晋→五胡十六国→北魏)。北魏では穀物を栽培させ
る
一代限り
の
土地
(
露
田
(ろでん)),蚕(カイコという絹の原料がとれる蛾)のエサとなる桑(くわ)を栽培させ
る
世襲
の
土地
(
桑
田
(そうでん)),繊維のとれる麻(あさ)を栽培させ
る
一代限り
の
土地
(
麻
田
(までん))が支給されました
。
奴
婢
(ぬひ)
や
耕
牛
(こうぎゅう)
や
妻
にも支給されたため,奴婢や耕牛,妻をたくさん持っていれば持っているほど土地の支給があるということになり,大土地所有者
(
豪
族
)に都合のいい制度のようにも見えます。しかし,実際には北魏
は
三長
制
【本試験H15宗族とは関係ない】
【中央文H27記】
によって豪族支配下にあった奴婢に戸籍を与えていき,土地を与えることで,国家の管理下に置こうとしたのです。
隋の時代には奴婢・耕牛への支給がなくなり,唐の時代には妻への支給もなくなります。
(2)
租調庸制
租調庸制は,魏の屯田制を受け継いだ,西晋
の
占田・課田
法
(詳しい実施内容は不明)に由来しています。
(3)
府兵制
府兵制は,西魏
の
府兵
制
が元になっています。(参考北魏→東魏・西魏→北斉・北周)
(4)
科挙制
さらに
,
魏
【本試験H11呉ではない】
のはじめ
た
九品中
正(
九品官人
法
)
【本試験H3武帝の始めた制度ではない,本試験H11】
【本試験H21呉ではない,本試験H26明代ではない】
【追H29】
の制度は,地方に中正官を派遣し,人材の将来性を見込んで9段階にランク付けし,中央に報告するものでした。しかし,だんだんと中正官に賄賂(わいろ)を送る家柄も現れるようになり,意味のないものになっていました。
そこで,隋
【追H29元ではない】
は九品中正に代えて
,
科
挙
(当初は「選挙」と呼ばれた)
【本試験H11】
【本試験H18殿試は実施していない】
【名古屋H31実施目的も問う(記述)】
を実施し,ペーパー試験によって儒学の素養をためすことにより有能な人材をとろうとしました。統一試験によって,地方分権的なしくみを中央集権的なしくみに変えようとしたのです。科挙では詩を作る能力や文を書く能力が重んじられました。詩をつくらせれば韻(いん)を踏んでいるかどうかで,漢字を正しく読めているかがわかりますし,内容が五経(ごきょう)などの古典に基づいた文を書かせれば,それを正確に覚えているかがわかります。広大な領土を支配する官僚にとって,話し言葉は違えど共通の文字であ
る
漢
字
による文書管理能力が,何よりも求められたのです。
しかし,実際にはコネ(恩蔭(おんいん。任子ともいいます)という試験なしの入学)などの抜け道が多く,一部の良い家柄
(
門閥貴
族
(もんばつきぞく))が高い官職を占める実態は続きました。
◆
大運河の建設により,華北の経済圏が長江下流域と結びついていった
鮮卑の拓跋部の隋は,中国の南北交通を結んだ
〈文帝〉の子は,
〈
煬
帝
〉(ようだい(楊広(ようこう))
【追H24高句麗に遠征し攻撃したか問う】
,在位604~618)
【セA H30漢の建国者ではない】
です。彼は各地で掘削されていた運河を連結
し
また,長江下流
の
江
南
(こうなん)は,呉
【追H25】
が都を建業に置いて以来,東晋~陳の建康を通して開発がすすみ,経済の一大中心地へと重要性が増していたのです。彼は長江下流の江都(現在の揚州)に,大規模な龍舟(りゅうしゅう)という船にのって視察し,力を見せつけたといわれます(◆世界文化遺産「京杭大運河」,2014)。
〈煬帝〉は対外的には,南はヴェトナム南部
の
チャンパ
ー
(林邑)
【東京H30[3]】
【共通一次 平1】
,西は西域への入り口周辺を支配していたチベット系
の
吐谷
渾
(とよくこん)に遠征し,北は東突厥の可汗に大して大規模な訪問をするなど,軍事力と派手な儀式で周辺民族のいうことをきかせようとしました。また,倭は彼のもと
に
遣隋
使
を派遣しています。
しかし,大運河(
◆
建国後の唐は西域に積極的に進出,ソグド商人を管理下に置き東西交易を支配しようとした
鮮卑の拓跋部は,隋に代わって唐の支配層となる
その中で軍閥出身の
〈
李
淵
〉(りえん,在位618~626)は隋の宮城である大興城を落とし,〈煬帝〉は部下に暗殺されました。〈煬帝〉は〈李淵〉のいとこであり,両者ともに鮮卑の出自をもちます。
〈李淵〉はもともと孫に跡を継いでいましたが,その孫から禅譲される形で,〈李淵〉は618年
に
唐
を建国
【本試験H17軍機処は設置していない】
。煬帝に対して「煬」("天に逆らい,民を虐げる"という意味)という字を付けた諡号(しごう,おくりな)を贈ったのは,勝者である
〈
李
淵
〉です。〈李淵〉も隋と同じく鮮卑系のルーツを持っており,皇帝支配に正統性を持たせるため,漢人の王朝としての意識を強めていきます。
唐の都は隋の大興城をほぼそのまま引き継ぎ
,
長
安
【追H25鎬京ではない,H27大運河と黄河の接点ではない】
【本試験H22地図】
に置かれました。東西(左右)
【本試験H16南北対称ではない】
対称に碁盤の目状に街路が配置され
【本試験H22】
、その構造は周辺諸国に模倣されました
【追H25】
。周辺諸国からさまざまな民族の商人・留学生・芸人
【本試験H6】
が訪れる国際的な都市でした。
長安には多数
の
仏教寺
院
【本試験H16】
のほかに
,
エフェソス公会
議
(431年)
【京都H20[2]】
【本試験H25】
で異端となったネストリウス派キリスト教
(
651年にイラン高原のササン(サーサーン)朝が滅亡すると,イラン人が難民となって唐に移住し
,
ゾロアスター
教
【追H29中国から伝わったのではない】
を始めとするイランの宗教・文化や,保護されてい
た
ネストリウス
派
が中国に流れ込むとともに,政治家としての手腕を発揮する者も現れました。なお,この時期に流行した,馬にのってボールを打つ「ポロ」(ポロシャツはポロの競技のときに着る服がもと)
【追H28これが都で流行したのは明(みん)代のことではない】
もイラン
【追H28】
由来です。こうした西方の人々は「胡人」
【本試験H6】
と呼ばれ,その風俗が流行しました。
イラン系の言語を話
す
ソグド
人
【本試験H4】
【京都H19[2]】【東京H20[3],H30[3]】
が,シルクロード各地に拠点をつくり,遠く長安まで商業活動を展開していたことも重要です。
彼らは当初はゾロアスター教を信仰し,の
ち
マニ
教
に改宗する者が増えました。ソグド人は子どもの手にニカワ(動物由来の接着剤)を握らせ(お金がくっつくように),甘い言葉が出るように氷砂糖をなめさせたという言い伝えが,『旧唐書』(くとうじょ)にあります。のちに唐に対し
て
安史の
乱
【本試験H4ウイグルが鎮圧したか問う,本試験H9ウイグルが鎮圧したか問う,
本試験H11元の中国支配が崩壊するきっかけとなった出来事ではない】
を起こす〈安禄山〉(あんろくさん)
【本試験H7】
は,父がソグド人の有力者で,母は突厥でした。
ほかにも,イスラーム商人
【本試験H4】
も多数往来し,東西交易に従事しています。
唐の時代に
は
唐三
彩
(とうさんさい)
【本試験H24彩陶,染付,黒陶ではない】
という陶器がさかんに作られましたが,ソグド人がラクダの上に乗っているデザインが有名です。なお,〈李淵〉と次の〈李世民〉につかえた
〈
欧陽
詢
〉(おうようじゅん,557~641)は楷書の見本とたたえられる均整のとれた書を残しています(『九成宮醴泉銘』(きゅうせいきゅうれいせんめい)が代表作)。次の〈李世民〉につかえた〈虞世南〉(ぐせいなん,558~638),〈褚遂良〉(ちょすいりょう,596~658)とともに"初唐の三大家"に数えられています
(このうち〈褚遂良〉は〈高宗〉が〈武后〉(ぶこう)を后とすることに反対し,〈欧陽詢〉の息子〈欧陽通〉(同じく書家)は〈則天武后〉の宰相となったものの後に対立して獄死しています)
。
食生活の面では、都市で
うどん
などの粉食が普及し、農業用の灌漑用水を動力とする大規模な石臼を用いた製粉事業(碾磑(てんがい))がさかんとなり、王族・大寺院・富裕な商人が担い手となりました
【追H26リード文、唐代に華北で小麦栽培がさかんになったか問う(正しいが難問)】
。
さて,7世紀前半といえば,610年にアラビア半島でイスラーム教が生まれます。イスラーム教は商業活動を肯定し,多くのムスリム商人が中国にも海路でなだれこみます。とくに長江よりも南にある
,
揚
州
(ようしゅう。長江の下流)
や
広
州
(こうしゅう。中国の南部。長江の下流,大運河の南端に位置す
る
杭
州
【東京H8[3]】
という,日本語だと同じ読みの都市もあるので注意)のような港町には,アラブ人の居住地
(
蕃
坊
(ばんぼう))が設置されるほどでした。ちなみにモスクのこと
を
清真
寺
(せいしんじ)といいます。
◆
二代目の〈太宗〉はクーデタで即位,モンゴル高原の東突厥を滅ぼしています
〈太宗〉は,遊牧民から天可汗の称号を受けた
二代目の
〈
太
宗
〉
(
李世
民
,在位626~649)
【追H27李成桂ではない】
【本試験H4】
は,626年に
一方で対外的には,即位直後にモンゴル高原を統一していた東突厥(ひがしとっけつ)が長安めがけて襲撃してくるという大ピンチに見舞われます。しかし,名将〈李靖〉(571~649)の活躍もあり,何とか寸前で東突厥と取り決めをして危機を回避。その後630年に
は
東突
厥
を滅ぼしました。このとき,中央ユーラシアの遊牧民の首長たちから
「
天可
汗
」(てんかがん,テングリカガン)の称号を与えられると,鮮卑
の
拓跋
部
の建てた唐は名実ともに広大な領土を支配下に置く大帝国となったわけです(
「
拓跋帝
国
」という場合があります)。
いまだ周辺諸国が不安定だったこの時期に,出国の禁止を破って「本当の経典を手に入れる!」という野望のもと,629年にインドに旅立ったのがのちに"三蔵法師"として知られる
〈
玄
奘
〉(げんじょう)
【セA H30】
です。彼は「上に飛鳥(ひちょう)なく,下に走獣(そうじゅう)なし」と言われた過酷なゴビ沙漠を通り,天山山脈を超える際には10人のうち3~4人を凍死で失ったものの,なんとかアフガニスタンを回ってインドに入ることができました。
インド
【セA H30ビルマではない】
の
ヴァルダナ
朝
では〈ハルシャ=ヴァルダナ王〉(位606~647)
【東京H8[3]】
に謁見し
,
ナーラン
ダ
大学(
僧院
。ナーランダとは"蓮のある所"という意味)
【本試験H17墨家とのひっかけ】
【追H20ジャワにはない,H25教義研究が行われたか,H30仏教が研究されたか問う】
でも学びました。彼の学んだ「唯識」(ゆいしき)という仏教思想は,日本にも伝わり,奈良の薬師寺が継承しつづけています。彼の旅行記
『
大唐西域
記
』
【本試験H12義浄の著書ではない】
【大阪H30史料】
(だいとうさいいきき)は,かつて仏教が栄えたアフガニスタン
の
バーミヤ
ン
を含む当時の様子が生き生きと描かれた,一級の史料です。バーミヤンの石仏は21世紀に入って,アフガニスタンのイスラーム過激派ターリバーン政権によって爆破されたことで有名になりました。
◆
三代目の〈高宗〉は最大領土を実現し,間接的な
東アジアに唐を中心とする冊封体制が建設された
三代目の
〈
高
宗
〉(こうそう,在位649~683)
【本試験H17徽宗とのひっかけ】
は,積極的な対外進出により最大領土を獲得した皇帝です。
この動きに対して危機感を持った朝鮮半島東部
の
新
羅
では,〈金春秋〉が日本と高句麗との同盟を考えますが失敗し,
〈
武烈
王
〉(位654~661)として即位し,唐と同盟する決意をします。
また,遣隋使によって中国の制度を導入しつつあった日本も,唐の進出に危機感を強める中,645年
に
大化改
新
(たいかのかいしん)が起こり,天皇を中心とした国づくりを進めていくことになります。
朝鮮半島
で
唐
【京都H21[2]】
は,新羅
【京都H21[2]】
の〈武烈王〉と同盟して,663年
に
百
済
【本試験H21滅亡時期】
【本試験H7】
,668年
に
高句
麗
【京都H21[2]】
【本試験H17,本試験H21滅亡時期】
を滅ぼしました。日本は,百済を救援するために663年に水軍を派遣しましたが
,
白村
江
(はくすきのえ,はくそんこう
)
の戦
い
で敗北してしまいます
【本試験H20唐は敗れていない】
【追H19時期】
。唐は,新羅が朝鮮半島で強い勢力を維持したことから,日本へのさらなる攻撃は行いませんでした。
日本は,唐が再び襲ってこないように防衛拠点を築きつつ,天皇を中心に国内の集権化に集中するようになっていきました。唐の進出に備え,中国東北部の新興
国
渤
海
【追H21中国が元の時代ではない】
や
新
羅
【本試験H7】
は,日本に使節を派遣しています。
唐は,征服した先に
「
都護
府
(とごふ)」
【本試験H6理藩院ではない】
【追H18】
【京都H20[2]】
を設け,その地の支配者にいわば中国の「官吏」として支配を任せる間接統治をとりました。これ
を
羈
縻
(きび)政策といいます。羈は馬の手綱(たづな)・縻(牛の鼻につなぐ綱)を指し,家畜を縄でつないでおくという意味です)。
〈高宗〉の時代にインド
【本試験H21グプタ朝ではない】
にわたった仏僧は,
〈
義
浄
〉(ぎじょう,635~713)
【本試験H3史料中の「帆を挙げて」というところから,陸路で向かった〈玄奘〉ではなく〈義浄〉であると判断する】
です。
彼がインドに入った時点で,すで
に
ヴァルダナ朝は分
裂
していました。帰路はスマトラ島に寄って
,
シュリーヴィジャヤ王
国
【追H9時期、H19】
【本試験H18マジャパヒト王国ではない、H22前漢の時代ではない】
【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】
の
パレンバ
ン
という都市で大乗仏教
【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】
の理論を研究しています。行き帰りともに陸路だった〈玄奘〉と違って,
〈
彼ら渡印僧(といんそう。インドに渡った僧侶)の活躍によって,仏教の原典を主体的に中国人が訳し直したことで,だんだんと仏教に中国的な要素が入り込んでいくようになります。
そうしてできていったのが,念仏を重んじ
る
浄土
宗
(すでに東晋の〈慧遠〉(えおん,334~416)
が
白蓮
社
(びゃくれんしゃ)を開いていました)や,坐禅を通し
た
瞑
想
(めいそう)を重んじる哲学的
な
禅
宗
【本試験H18中国に伝えられたわけではない,H21時代を問う】
であり,ともに日本の仏教にも大きな影響を与えました。
禅宗は,北魏の末に中国の洛陽を訪れたインド僧〈ボディーダルマ
(
達
磨
)〉(生没年不詳)が開祖で,「自分の心のなかに仏教の真理がある」という説をとなえ,実践しました。達磨は「面壁九年(めんぺきくねん)」といい,壁に向かって9年座禅をしたという故事で知られます。日本人の好きなダルマという縁起物は,"夢の実現に向かって忍耐!"ということを表したものです。
◆
唐では律令制度が整備された
律令制とは,漢字を使用した文書支配のこと
唐の制度には隋の制度を受け継いだものが多く
,
律
(りつ)
・
令
(れい・りょう)
・
格
(かく・きゃく)
・
式
(しき)という法に基づいた政治が整備されました。このほかにも皇帝の命令は勅(ちょく)と呼ばれ,律令よりもランクの高いものと位置づけられました。
官僚たちのトップに君臨するの
は
宰
相
(さいしょう)です。
中央に
は
中
書
・
門
下
・
尚
書
の
三
省
(さんしょう)が置かれ
【本試験H19前漢の武帝の代ではない,時期(漢代ではない)】
【追H21秦ではない】
,それぞれ各2名の長官,合計6人が宰相に就任します(のち尚書省の長官は,特別に任命されたときのみになりました)。宰相にまで上り詰めることができるのは,ひと握りの門閥貴族です。彼らがいなければ,大多数の官僚を動かすことは難しいわけで,皇帝も彼らの意見を無視できなかったわけです。
尚書
省
(しょうしょしょう)の下に吏・戸・礼・兵・刑・工(り・こ・れい・へい・けい・こう)
の
六
部
(りくぶ)
【本試験H31時期(漢代ではない)】
【追H21時期(秦代ではない)】
が設けられました。科挙を実施するのは礼部でしたが,吏部(りぶ)は吏部試という二次試験において「誰を官僚にするか」を決める権力(人事権)を持っていたので,門閥貴族の根城になります。
三省と六部はあわせ
て
三省六
部
【追H27前漢のときではない】
【本試験H4】
と呼ばれます。
なお,これらの活動を監察(チェック)するのが
,
御史
台
(ぎょしだい)の役目です。
詔勅(しょうちょく)をつくるの
は
中書
省
【本試験H24清朝は設置していない】
でしたが
,
門下
省
にはその案をボツにする権利(封駁(ふうばく)権)がありました。したがって,皇帝が何か決まりごとをつくろうとしても,門下省の会議をパスしなければ実現できないわけです。ただ,しだいに門下省のかわりに,中書省で会議が開かれるようになっていきました。
ほかにも漢の頃から続く,鴻臚寺(こうろじ。外国使節の接待など)や大理寺(だいりじ。検察・裁判権)といった九寺という伝統的な機関は,六部(りくぶ)の管轄下に置かれたものの,これらをなくしてしまうだけの権力は,皇帝はまだありませんでした。
支配地域は,隋と同じ
く
州
(長官は刺史(しし))
と
県
(長官は令)に分けられ,州の上に
は
道
(巡察使と按察使が置かれました)を置きました。県より下
は
郷
と
里
に分け,里の有力者を里正(りせい)として徴税を請け負わせました。
もちろん官僚になるためには科挙に合格することが必要でした。科挙のために,
〈
孔頴
達
〉
(くようだつ,こうえいたつ。574~648)
【本試験H7】
【本試験H17,本試験H27】
【追H19董仲舒とのひっかけ】
らが
『
五経正
義
』
(ごきょうせいぎ)
【本試験H7】
【本試験H14韓愈らによる編纂ではない,本試験H17リード文,本試験H27仏国記ではない】
【追H19】
という五経の注釈書をつくりました。五経の解釈のスタンダードを示した
【本試験H7】
,いわば教科書です。また,試験科目に詩作があったことから,漢詩が流行します。
・"詩仙"(しせん)とよばれる
〈
李
白
〉(りはく,701~762)
【本試験H8則天武后の時代ではない】
は一時〈玄宗〉につかえましたが,のちに皇子の側についたため反乱軍として流罪となりました。
・"詩聖"(しせい)とよばれる
〈
杜
甫
〉(とほ,712~770)
【本試験H8】
【本試験H17孔頴達とのひっかけ】
【セA H30】
・
〈
白居
易
〉(はくきょい(白楽天(はくらくてん)),772~846)
【本試験H3長恨歌の作者か問う】
以上の3名が漢詩 "ビッグ3" です。
長安で職に就いたものの安史の乱の反乱軍によって長安に軟禁された〈杜甫〉は,「国破れて山河あり」(「春望」)の一節で有名です。
自然詩人としては
〈
王
維
〉(おうい,701?~761
(注
)
)
【本試験H17南宋ではない】
【慶文H30記】
が有名で,水墨画にも優
れ
また
,
古文を復
興
【本試験H17王朝,H31四六駢儷体ではない】
した
〈
韓
愈
〉(かんゆ)
【本試験H17王朝・H22,H31】
や
〈
柳宗
元
〉(りゅうそうげん)
【本試験H17王朝】
【追H19】
の文章も,人気を博しました。
(注)生年は『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.120
さて,科挙が整備されたとはいえ,貴族の子弟には裏口入学が認められているなどの抜け穴も依然としてありました。完全に門閥貴族を排除するまでには,まだまだ時間がかかります。均田法が施行されていたとはいっても,貴族の大土地所有は認められていて,彼らのプライベートな土地
は
荘
園
(しょうえん)と呼ばれました。高い位にある者には官人永業田が,官僚として働いている者には職事田が与えられるなど,大土地所有は事実上認められていたのです。
唐の支配下にあった人々は,土地の支給を受けることができ
る
良
民
と,誰かの支配を受けてい
る
賤
民
(せんみん)に分けられていました。税の負担があるのは良民のみです。
税の種類としては,穀物税
(
租
),布の税
(
調
),さら
に
庸
【本試験H7明代ではない】
という強制労働がありました(都で年に20日働き,故郷で年に40日働くことになっていました。地方での労働
を
雑
徭
(ぞうよう)といいます)。土地のうち,穀物(粟(ぞく))を植えた土地(口分田(くぶんでん)
【本試験H8】
)は死んだら国に返還することになっています
【本試験H8世襲はされない】
。しかし,麻畑・桑畑は永業田(えいぎょうでん)といい,息子に世襲できました。ほかにも
,
府兵
制
によって徴兵を受けたり,国境地帯の警備(それぞ
れ
衛
士
(えじ)と
防
人
(ぼうじん))の任務を義務付けられたりしていましたが,兵役のある者は租調庸は免除です。それでも,大切な人手を兵役にとられてしまうのは,痛手です。
だったら,貴族の私有地(荘園)で小作人
(
佃
戸
(でんこ)
【本試験H8宋代かどうか問う】
【追H19両班ではない】
)になったほうがいいと,逃げ出す者も出てくる。それに,国にもらわずに,自分で土地を開墾して新興地主
(
形勢
戸
(けいせいこ)
【本試験H8時期(11世紀には「新興地主が科挙によって官僚となり,その家は官戸と称されていた」か問う)】
)となる者もいました。この動き
は
宋
代にかけて,特に生産力の上がった長江流域
の
江
南
(こうなん)で見られるようになっていきます。
周辺諸国は,中国と対抗関係や協力関係を結びつつ,程度の差はあるものの,中国の文化的な要素をしだいに受け入れていくことになりました。例えば,文字として
の
漢
字
,宗教として
の
仏
教
・
道
教
,国家の制度として
の
儒
教
・
律令制
度
(刑法の律
【本試験H4】
,行政法の令
【本試験H4】
,追加規定の格
【本試験H4】
,施行細則の式
【本試験H4】
)のことです。この時期に成立した,唐を中心とする中国の文化を通した結びつきを共有する地域のまとまりのことを
,
東アジア文化
圏
といったりします。
◆
モンゴル高原の覇権が突厥からウイグルにうつり,唐・吐蕃・突厥が交易をめぐり対立する
モンゴル高原の派遣は,突厥からウイグルにうつる
モンゴル高原
【本試験H4西アジアではない】
では,テュルク系
の
突
厥
(552~744年)
【本試験H4】
が隋~唐中期までさかんでした。オルホン碑文とまとめて呼ばれる石碑群には,遊牧騎馬民族の使用したものとして
は
最
古
【共通一次 平1】
の文字
突厥文
字
【共通一次 平1:鮮卑文字,ウイグル文字ではない。匈奴文字はない】
【本試験H15内陸ユーラシアの遊牧騎馬民族としては最古の文字かを問う(ウイグル文字ではない)】
が残されています。アラム文字が起源と考えられてきましたが,文字系統は不明です。
突厥は6世紀末に東西に分裂してすいた衰退し,同じくトルコ系
の
ウイグ
ル
(回紇,744~840年)
【本試験H4西トルキスタンに国家を建てていない・中国を征服していない】
【京都H20[2]】
の支配下に入ります。ウイグル
【本試験H20烏孫ではない】
は840年
に
キルギ
ス
(キルギズ)
【京都H19[2]】
【本試験H14・H24】
に敗れて西に移動し,タリム盆地を拠点としました。
ウイグルは
,
安史の
乱
【本試験H4ウイグルが鎮圧したか問う,本試験H9ウイグルが鎮圧したか問う,
本試験H11元の中国支配が崩壊するきっかけとなった出来事ではない】
に介入したときにマニ教
【本試験H9建国以来イスラム教を国教としたわけではない】
を信仰するようになりましたが,その後イスラーム教→仏教→イスラーム教と,何度も信仰を変えつついまに至ります。現在でも中国北西部で自治が認められていて人口は1,000万人以上もいます(スウェーデンよりも多い)。
突厥やウイグルは,アラム文字の影響を受けて文字をつくりました。モンゴル高原
の
オルホ
ン
で初めに発見された7世紀末
の
突厥文
字
は,ウイグルでも発見されました。中国の文化に対抗する民族意識を育てていました。その後キルギスは衰え,やがて19世紀にロシアの支配下に置かれますが,1991年の独立時に制定された旗には,遊牧民のテントを真上から見た図案がデザインされています。
このように7~8世紀の騎馬遊牧民のさかんな活動は,西方の南ロシアでも同じでした。西方で
は
アヴァール
人
(のちにカール大帝が撃退しました)
【本試験H21 世紀を問う、本試験H27ブリテン島ではない、本試験H29】
【追H25】
【慶・文H30】
やトルコ
系
ブルガール
人
【セ試行】
がビザンツ帝国を圧迫しています。ま
た
ハザー
ル
人は黒海北岸に建国し,イスラーム勢力がカフカス山脈を超えて北上をするのを防ぎました。
長江上流の
唐に滅ぼされた高句麗の遺民〈大祚栄〉(だいそえい,大祚榮)
【京都H20[2]】
【本試験H30〈衛満〉ではない,H31高麗を建国していない】
が,中国東北地方に建国したの
は
渤
海
(ぼっかい,698~926)
【京都H21[2]記述(建国の経緯を説明)】
【追H19時期,H21時期(中国が元の時代ではない)】
【本試験H31高麗ではない】
です。渤海使という使節を34回も日本におくり,律令制を導入し中国の長安をモデルにした都を建設するなどして栄えました
【追H27渤海の都城構造に影響を与えたか問う】
。
渤海は新羅との対抗関係から,日本との同盟関係を求めたのです(日本の敵=新羅。新羅の敵=渤海。日本の"敵の敵"(=渤海)は味方)。都は5つありましたが,最も栄えたの
は
上京龍泉
府
【追H27「上京竜泉府」】
【慶・法H30】
です。
東南アジアのうち,メコン川の中流
域
カンボジ
ア
,現在のヴェトナム中・南部に位置する港市国
家
チャンパ
ー
【東京H30[3]】
【共通一次 平1】
,義浄の立ち寄っ
た
シュリーヴィジャヤ王
国
【追H9時期、H19】
【本試験H18マジャパヒト王国ではない、H22前漢の時代ではない】
【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】
も,中国に朝貢しています。
日本も,飛鳥時代に遣隋使,奈良時代
に
遣唐
使
【東京H8[3]】
をおくって,積極的に中国文化を導入していきました。豪族による支配を打破するために
,
大化の改
新
が遂行され,中国型の律令国家の建設が推進されました。長安→平安京(長安のコピー都市)。皇帝→
"
天
皇
"という称号。銅銭(四角い穴のあいた丸い銅銭=方孔円銭)
→
和同開
珎
(わどうかいちん)。唐→
"
日
本
"という国号。均田法
→
班田収授
法
(はんでんしゅうじゅほう)...などなど
【大阪H30北朝代から唐代にかけて形成された諸制度のうち,日本に取り入れられたものを具体的に一つ】
。717年に遣唐使として中国に渡り,唐で官吏として採用されたものの,734年に36歳で亡くなった〈井真成〉(せいしんせい)という人物の墓誌が,2004年に西安(唐の時代の長安)で発見されています。「日本」から来たと書いてあるので,制定されていたばかりの
「
日
本
」という国号を中国側が認めていたことがわかります。
ほかにも,〈玄宗〉
【慶文H30記】
の厚い信任を得て,安南都護府で働き,安南節度使にまで登りつめ,帰国を希望しながらも中国で亡くなった
〈
阿倍仲麻
呂
〉(あべのなかまろ,698~770)
【慶文H30記】
も,故郷である奈良を思う歌(天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも)とともに有名です。
奈良の東大寺には大仏がありますが,この近くにある宝物殿
「
正倉
院
(しょうそういん)」に,なぜイランのササン(サーサーン)朝のガラスのうつわが収められています。正倉院が"シルクロードの終着点"とも言われるゆえんです
。
◆
則天武后は,仏教を保護し科挙を徹底することで貴族勢力を排除しようとするも失敗した
則天武后は科挙官僚を登用し,政治を改革した
〈高宗〉の妻(
しかし〈高宗〉が亡くなると,その子の
〈
中
宗
〉(ちゅうそう,在位683~684,705~710)を帝位につけて,自らも政務に残ります。しかし,母〈武照〉は「自分が政治をしたほうがよい」とみて,〈中宗〉を廃位。代わって,
〈
睿
宗
〉(えいそう)が皇帝になりましたが,さらにこれを廃位し,690年に自身が
〈
則天武
后
〉
(そくてんぶこう、在位690~705)
【本試験H4則天武后以来の混乱をおさめたのが玄宗か問う,本試験H8】
【本試験H15,H29共通テスト試行 西太后ではない】
【追H18】
として皇帝に就任しました。みずからを弥勒菩薩の生まれ変わりとして,各地に
国号を
「
周
」
【本試験H4新ではない,本試験H8】
【本試験H15,本試験H28新ではない,H29共通テスト試行】
【立教文H28記】
としたため,「唐」は一時滅亡しました。中国史では「悪女」中の「悪女」の扱いをされる人物ですが,新興の科挙官僚を優遇し,門閥貴族を徹底排除しようとした改革者でした。
さて,〈高宗〉の子である〈中宗〉(ちゅうそう)が皇帝の位に戻り
,
唐は復
活
したのですが,今度はその后の
〈
韋
后
〉が実験を握ります。しかし,〈韋后〉にまつわるスキャンダルが取り沙汰されると,その発覚をおそれ,〈韋后〉は〈中宗〉を毒殺。つづいて〈韋后〉が暗殺されるという大混乱の末,〈中宗〉の弟である〈睿宗〉(えいそう)が即位します。ここまでまとめると,〈高宗〉→〈中宗〉→〈睿宗〉→〈則天武后〉→〈中宗〉(2度目)→〈韋后〉→〈睿宗〉(2度目)という流れです。もうなにがなんだかわからんという状況。この時期
を
武韋の
禍
(ぶいのか)といいます。
◆
8世紀の唐は中央ユーラシアの情勢の影響を受け,安史の乱により荒廃する
玄宗の治世前半は安定するが制度の崩壊も始まる
この激動の時期を目の当たりにした
〈
睿
宗
〉の子,〈李隆基〉(りりゅうき
,
玄
宗
。在位712~756年)
【本試験H4】
【本試験H15】
【追H25】
は,712年に即位すると,混乱した政治の立て直しを図りました。彼の治世の前半は,実態はともあれ後世の歴史家によって
"
開元の
治
"
【本試験H6同治中興ではない】
と讃えられています。世界的に温暖な時期にあたる当時,唐では長安を中心に国際色豊かな文化が展開されました。彼に仕えた山水画家に"画聖"とも称される
〈
呉道
玄
〉(ごどうげん)
【本試験H17孔頴達とのひっかけ】
【追H20「唐の時代...山水画を描いた」か問う】
がいます。
一方,制度の崩壊もはじまっていました。
均田法により土地を与えられた農民の中には,税を逃れるために逃げ出すものも現れていました。すると租調庸制による税の取り立てがままならなくなるだけでなく,府兵制による徴兵もできなくなります。そこで〈玄宗〉
【本試験H15前漢の武帝ではない】
【追H25】
は傭兵をもちい
る
募兵
制
【本試験H29時期】
【追H25府兵制ではない】
を採用しするとともに,辺境防備
を
節度
使
【追H21秦代ではない】
【本試験H15】
にまかせました。節度使には,中央ユーラシアの広範囲で交易活動をしてい
た
ソグド
人
も任命され,ソグド人も各地に設置された植民市どうしの活動を唐に保障され,活発に活動していました。
しかし〈玄宗〉は,62歳のときに息子の妃を取り上げて"貴妃"とした
〈
楊貴
妃
〉(719~756,このとき27歳)
【本試験H15】
【立教文H28記】
に夢中になるあまり,彼女の一族による政治への介入を受けるようになります。
また,突厥がウイグルによって襲われるようになり,またソグド人の本拠地がイスラーム軍による進入
(751年に
は
タラス河畔の戦
い
【セ試行】
で
,
唐
【セ試行ササン朝ではない】
【本試験H14ウイグルではない】
【追H30唐ではない】
【立教文H28記】【慶商A H30記】
が
アッバース
朝
【本試験H14ウマイヤ朝ではない】
に敗北しています)
を受けるようになると,今まで中央ユーラシアで力を持っていた遊牧民の突厥と,商業民のソグド人の立場が揺らいでいました
【本試験H5中央アジアのオアシス都市の住民が,アラビア語を話す人々になるのは,この頃からのこと】
。
そんな中
,
ソグ
ド
人の父
と
突
厥
人の母をもつ節度使の
〈
安禄
山
〉(あんろくさん,705~757)
【本試験H7東北地方東部の震国の人物ではない】
と武将の〈史思明〉(ししめい,?~761)とともに,中央ユーラシアの突厥人やソグド人を集め,唐から独立しようとす
る
安史の
乱
(755~763年)
【本試験H4ウイグルが鎮圧したか唐・〈玄宗〉が退位するきっかけではない,本試験H11元の中国支配が崩壊するきっかけとなった出来事ではない】
【本試験H14,本試験H15黄巣の乱ではない,本試験H19紅巾の乱のひっかけ,H29共通テスト試行 年代(グラフ問題)】
が起こされました。
これには唐の軍事力だけでは鎮圧しきれず,遊牧騎馬民族
の
ウイグ
ル
【本試験H4】
【本試験H14,本試験H21月氏ではない,本試験H23】
【セA H30春秋・戦国時代に勢力拡大したわけではない】
に鎮圧を要請するほかありませんでした。書家で有名な
〈
顔真
卿
〉(がんしんけい,709~785)
【本試験H21宋代ではない】
【早・政経H31蘭亭序の作者ではない】
も義勇軍を派遣しています。
安史の乱の経過は悲惨で,〈安禄山〉は息子(〈安慶緒〉)に殺され,さらに〈安慶緒〉を殺した〈史思明〉を,息子の〈史朝義〉が殺し,最後に〈史朝義〉が自殺して幕を閉じました。もうめちゃくちゃです。なお,〈安禄山〉の「安」はブハラ人のこと,「禄山」は明るいという意味だそうです。
この結果,中央ユーラシアで
は
ウイグ
ル
の支配権がますます強まり
,
ソグド
人
も没落していくことになりました。
ウイグルの支援によってようやく反乱を鎮圧できた唐を見て,「なんだ,唐なんてたいしたことないじゃないか」と,節度使たちが唐から独立する勢いをみせるようにもなります。特に,中央のいうことをきかなくなった節度使のことを
,
藩
鎮
【本試験H8則天武后の時代ではない】
【本試験H17春秋戦国時代ではない】
といいます。〈安禄山〉は,自分の子に殺され,〈史思明〉父子は洛陽で反抗を続けましたが,ウイグル軍に破れます。安史の乱による長安の陥落を「春望(しゅんぼう)」という詩に読んだのは,漢詩の作品を残した
〈
杜
甫
〉(とほ)です。〈杜甫〉自身も乱に巻き込まれ,そのときの感慨を「国破れて山河あり,城春にして草木深し」とうたいました。国はなくなっても,山や川は,変わらずそのままなんだなあ(ため息)という意味です。
安史の乱以降
,
ウイグル帝
国
は唐に対して,皇帝の娘を嫁がせたり,贈り物を要求したりと,勢いづきます。ウイグル帝国は,モンゴル高原に城郭都市を建てました。
また,安史の乱が起きると,チベット人の
ウイグルは,同じトルコ系のキルギス
【京都H19[2]】
に敗れると,タリム盆地に移動しました。これ以降のタリム盆地はトルコ語
【本試験H5インド=ヨーロッパ語族ではない】
が広まったた
め
トルキスタ
ン
と呼ばれるようになります。
均田法により土地を与えた農民から税をとる仕組みは,すでに破綻していました。そこで「あげたはずの土地に農民がいないというのだから,もう仕方がない。現に土地を持っている人から,その資産に応じて税をとるしかない」と考え,宰相
〈
楊
炎
〉(ようえん)
【本試験H16,本試験H26司馬光ではない】
によって780年
に
両税
法
【共通一次 平1】
【本試験H7明代ではない】
【本試験H16,本試験H24時期,H26・H30,H29共通テスト試行 春秋戦国時代~後漢代ではない】
が
租庸調
制
【本試験H16基になった均田法が始まったのは北斉代ではない,本試験H26】
に代わって採用されます。徴税は夏・秋の年2回で
,
現住地の資
産
【共通一次 平1:人頭税ではない】
に対して課税されました。これにより,余剰生産物が商品として売買されるようになり,商業の発達を促しました。
・
60
0
年
~
80
0
年のアジア 東アジア
現⑤・⑥
朝鮮半島
中国の隋は,朝鮮半島の高句麗の拡大を警戒し遠征を実施しましたが,〈煬帝〉による3回の遠征はすべて失敗に終わり
,
隋
は滅亡しました。
隋に代わり,618年に成立した唐は周辺勢力を次々に支配下に置いていきました(東突厥の服属(630),吐谷渾(とよくこん)の滅亡(635),高昌国の滅亡(640))。これに危機感を抱いた朝鮮半島の支配者層の間では,軍事力により旧来の政権を倒して権力を強化する動きが置きました。
高句
麗
では将軍〈泉蓋蘇文〉(せんがいそぶん,?~665)が642年にクーデタで実権を握り
,
百
済
と同盟を結んで唐に対抗しようとしました。百済でも〈義慈王〉(ぎじおう,位641~660)による権力の集中が進み,朝鮮半島南部への進出を強めていました。それに対し新羅では王族の〈金春秋〉(キムチュンジュ;きんしゅんじゅう)が将軍〈金庾信〉(きんゆしん,695~673)とともに実権を握り,唐に接近する政策をとります。645年以降,唐の〈太宗〉は朝鮮に出兵。〈金春秋〉は654年に〈武烈王〉(ムヨル;ぶれつ,位654~661)として即位しました。
唐と新羅の攻撃により661年に百済は滅亡。百済王室の〈鬼室福信〉(ポクシン;ふくしん,?~663)は人質として倭のヤマト政権にいた王子〈豊璋〉(ほうしょう;プンジァン,生没年不詳)を百済王に立てて抵抗しますが,〈豊璋〉自身と対立して殺されます。663年に錦江河口の白村(はくそん
;
白村
江
)で百済救援に向かった日本水軍が敗れると,百済の王族は倭に亡命し
て
渡来
人
としてヤマト政権に技術や思想を伝えました。この時期に築かれた大野城や基肄(きい)城といった朝鮮式山城は,亡命百済人によるものです。
◆
百済,高句麗が滅ぼされると,新羅は唐の勢力を朝鮮半島から排除した
高句麗では〈泉蓋蘇文〉が亡くなると内紛となり,混乱の中で668年に都の平壌が陥落。唐によ
り
安東都護
府
が置かれて間接支配が始まりました。
しかし今度
は
新
羅
【本試験H4】
【共通一次 平1:時期を問う(12世紀半ばではない)】
が唐の勢力を朝鮮半島から排除しようとし,676年に唐を破って半島を統一し,安東都護府も北に移動させました(
新羅の朝鮮半島統一
【追H18時期】
)。
朝鮮半島を統一した新羅は,唐との関係維持に努め
【本試験H4】
,
律令
制
【本試験H4】
や
儒
教
の思想を取り入れつつ伝統的な官制をアレンジし,官位制を整備しました。これにより百済や高句麗の支配層を,新羅中心の官僚体制に取り込んでいったのです。8世紀中頃の〈景徳王〉(キョンドク)のとき
に
仏国
寺
(ぶっこくじ,プルグクサ)をはじめとする多くの官寺が建設され,地方にも海印寺(ヘインサ,かいいんじ)が建てられました。
新羅は初期の頃は唐への対抗の必要から倭との外交関係を重視していましたが,8世紀に唐が衰退し,沿海州に震国
【本試験H7】
(
渤
海
(ぼっかい)
【本試験H7】
)が建国されると日本との関係は悪化していきました。
震国
【本試験H7】
(
都は現在の中華人民共和国の黒竜江省寧安市に位置す
る
上京龍泉
府
【追H27「上京竜泉府」】
【慶・法H30】
におかれ,各地の重要ポイントに5つの都が置かれました(一時,そのうちの中京・東京に拠点をうつしています)。唐の制度が盛んに導入され,上京龍泉府の都市計画には日本
の
平安
京
と同様
に
長
安
が参考にされました。農業・牧畜・狩猟・漁業が営まれ,仏教の信仰もあつく,漢字や儒学といった中国文化も積極的に受容しました。
713年には唐により「渤海郡王」として認められ,靺鞨人の他の部族も支配下に入れていきました。ただ,黒竜江よりも北にいた黒水靺鞨部は渤海の支配に服さず唐に接近し,渤海を困らせました。
渤海は西の唐,北の黒水靺鞨部,南の新羅に挟まれる地理的なハンデを,日本との提携によって乗り切ろうとしました。その結果,727年から919年までの間に渤海から日本には33回の遣使,日本から渤海には728~811年に13回の遣使が実施されています。
第3代の〈文王〉(ムン,位737~793)はのときには唐との関係を改善したことで,郡王から国王に昇格しています。
新
羅
では,8世紀末には支配が動揺して反乱も多発し,地方勢力が台頭していきます。
○60
0
年
~
80
0
年のアジア 東南アジア
◆
マラッカ王国を通るルートがインド洋と東南アジア・東アジアを結ぶメインルートになった
7世紀に入り,東南アジアには西アジアからアラブ人やペルシア人の来航が増えていきます。中国では隋・唐帝国が成立し,陸海ともに国際交易が盛んになっていました。
隋の時代,604年にハノイに交州総管府が置かれ,唐も622年に同盟の政庁を置きました。679年には安南都護府
【本試験H6現在でも大乗仏教・道教・儒教が入り混じった宗教が広く信仰されているか問う】
が設置され,東南アジアの特産物を中国にもたらす上で,きわめて重要な役割を果たしました。
しかし,8世紀後半になると
,
マラッカ海
峡
を握
る
シャイレーンドラ
朝
【共通一次 平1:時期】【本試験H11:カンボジアではない。時期も問う(8~9世紀か
)】
【本試験H16ボロブドゥールが建立されたかを問う,本試験H18,本試験H20地図,H22】
【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】
や
シュリーヴィジャヤ王
国
【追H9時期、H19仏教国か問う】
【本試験H18マジャパヒト王国ではない、H22前漢の時代ではない】
【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】
の勢力が伸び,安南都護府も攻撃を受けたと見られます。
また,雲南
【本試験H4チベットではない】
地方
の
南
詔
【本試験H4】
【本試験H16・本試験H18大理に代わって南詔がおこったわけではない】
の勢力が伸び,国王〈異牟尋〉(いぼうじん)は,ベンガル湾に進出するためにビルマのモン人
の
ピュー王
国
を攻撃,メコン川流域に進出するためにクメール人
の
陸真
臘
【本試験H11:マレーシアの国家ではない】
を攻撃するようになります。
中南部
【共通一次 平1】
のヴェトナムでは
,
チャンパ
ー
(
林
邑
)
【東京H30[3]】
【共通一次 平1】
が強盛を誇っていましたが,8世紀後半になると,南部を拠点とする港市に勢力が移り,それにともない中国側の呼び名
も
環
王
に変化しました。この時期にメコン川を下って南シナ海に進出したクメール人の
国
カンボジ
ア
(中国名
は
真
臘
(しんろう)
【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】
)と結ぶためと考えられます。
6~7世紀頃に農業生産が高まったジャワ島からの米の輸入により,マラッカ海峡沿岸の港町では,風を待つ人々の食事や,船乗りの食料補給が十分可能になりました。
7世紀初めにマレー半島南部からスマトラ島にかけてを支配下に収めていた赤土国(せきどこく)という交易国家が,マラッカ海峡周辺の治安を確保したことも手伝って
,
マラッカ海峡を通るルートが,インド洋と東南アジアを結ぶメインルートになりまし
た
。
マラッカ海峡ルートの繁盛にともない,島しょ部では,ジャワかバリには婆利という国が,スマトラ島のパレンバンに
は
マラユ
国
がありました。大陸部にはヴェトナム中部
の
林
邑
(りんゆう),メコン川中流
の
クメール
人
【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】
によ
る
カンボジ
ア
(中国名
は
真
臘
(しんろう))
【本試験H11:マレーシアの国家ではない】
【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】
がありました。メコン川下流
の
扶
南
(ふなん)は,マラッカ海峡ルートがメインルートになったため,寄港地としての重要性が下がり,衰退し7世紀前半に真臘(カンボジア)の攻撃により滅亡しました。
真臘(カンボジア)は8世紀に入ると,内陸交易ルートを掌握した陸真臘と,海上交易ルートをおさえた水真臘の2つの勢力に分裂していましたが,9世紀初頭に統一に向かいます。
また,670年にはマレー半島東岸
で
室利仏
逝
(しつりぶっせい
,
シュリーヴィジャヤ王
国
)国
【追H9時期、H19】
【本試験H18マジャパヒト王国ではない、H22前漢の時代ではない】
【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】
が栄え,マラユ国を2万以上の軍で滅ぼし,パレンバンを奪いました。シュリーヴィジャヤはサンスクリット語ですから,インドの文化を取り入れていることがわかります。当時の島しょ部では,上座仏教が主流であった中,王は大乗仏教をあつく保護し,観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)像が出土しています。この頃687年に中国の唐
【本試験H22前漢の時代ではない】
の仏僧
〈
義
浄
〉(635~713)
【本試験H19,H23】
が,
シュリーヴィジャヤ王国
に占領されたばかりのパレンバンを訪れます。彼は694年までパレンバンに滞在し,インド式の教育方法で1000人以上の僧侶とともに学問に打ち込みました。このことは『南海寄帰内法伝』(なんかいききないほうでん)
【本試験H12『大唐西域記』ではない】
に記されています。
シュリーヴィジャヤ朝は,8世紀後半から9世紀後半まで,ジャワの訶陵(かりょう)による支配を受けました。おそらくジャワ島
の
シャイレーンドラ
朝
【共通一次 平1:時期】【本試験H11:カンボジアではない。時期も問う(8~9世紀か
)】
【本試験H16ボロブドゥールが建立されたかを問う,本試験H18,本試験H20地図,H22】
のことだと考えられます。
シャイレーンドラ朝は,東南アジアの大陸部にまで影響を及ぼし,767年に北ヴェトナムのハノイを攻撃したり,774年にカンボジア(真臘(しんろう))を支配したりしました。カンボジア(真臘)の〈ジャヤヴァルマン2世〉は802年に支配を脱し
,
クメー
ル(
アンコー
ル)朝
の
カンボジア王
国
として独立しました。
シャイレーンドラ
朝
【共通一次 平1:時期】【本試験H11:カンボジアではない。時期も問う(8~9世紀か
)】
【本試験H16ボロブドゥールが建立されたかを問う,本試験H18,本試験H20地図,H22】
も
大乗仏
教
を保護し,ジャワ島
【東京H24[3]】
【本試験H20地図】【本試験H22マレー半島ではない】
に
ボロブドゥー
ル
【東京H24[3]】
【共通一次 平1:時期】
【本試験H6,本試験H9[19]図版・アンコール=ワットとのひっかけ,ヒンドゥー教・イスラム教の寺院ではない】
【本試験H16イスラーム教徒の寺院ではない,本試験H18,本試験H20地図,本試験H22】【H30共通テスト試行 インドネシアか、大乗仏教の寺院か問う】
【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】
という巨大建築物を残しています
【本試験H28ヒンドゥー教の寺院ではない】
。
なんのために作られたのかははっきりとしていませんが,9層のピラミッド状の建造物(高さ42m,底辺の長さ120m)で,たくさんの仏塔(ストゥーパ)が備え付けられています。仏教の世界観を立体的に表現し,王の権威を示そうとしたと考えられます。
イラワジ川流域
の
ビル
マ
は
,
南
詔
の進入を受け,現在のヤンゴンの北部を中心としてい
た
ピュ
ー
の勢力が,タイのモン人によるドゥヴァーラヴァティーに押されて衰えます。イラワジ川下流域には現在のヤンゴンや,バゴーなど
に
モン
人
の港市が成立していました。
タ
イ
では6~7世紀から11世紀頃まで
,
モン
人
【追H25ビルマ人ではない】
【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】
によ
る
ドゥヴァーラヴァティ
ー(
ドヴァーラヴァティ
ー)
王
国
【追H25ビルマ人の国ではない】
【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】
が,海上交易によって栄えていました。
タ
イ
のアユタヤ北方にあるロッブリーでは
,
スリラン
カ
に由来すると見られる上座仏教
【本試験H6タイで広く上座仏教が信仰されているか問う】
関係の遺物が見つかっています。ただ「王国」といっても,いくつかの権力者がそのときどきに応じて支配範囲を伸縮させるような状態であったと考えられています
(注
)
。
モン人の国家は,中国の史料に登場しなくなる8世紀には滅んだと考えられますが,モン人はその後もビルマのイラワジ川から,東はメコン川までを舞台として活動を続けました。
(注)「ちょうど銀河系に大小さまざまの天体があるように,東南アジアの前植民地的状況のもとには,数知れぬ「くに」〔東南アジアにおける政治的共同体〕が散らばっていた。それらの「くに」の政治的統合は外延ではなく中心によって規定されていた。つまり個々の天体が作る重力圏が,中心は規定できても外側の境界を持たないように,それぞれの「くに」には,王宮や王都という中心はあっても明確な国境は存在せず,中心の力が強ければ勢力圏もより広い範囲におよぶものの,中心から遠ざかるほど影響力は弱まり,やがてどこからともなく消えてしまうといったものだった。...だがその中心の力が弱まれば,周囲に引きつけられていた小さな「くに」は,近くの別の大きな中心に引きつけられ,すなわち,別の体系に入って朝貢関係を作った。」 関本照夫「東南アジア的王権の構造」伊藤亜人他編『現代の社会人類学3 国家と文明への過程』(東京大学出版会,1987年,p.15
○60
0
年
~
80
0
年のアジア 南アジア
南アジ
ア
...現在の①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール
・
60
0
年
~
80
0
年のアジア 南アジア
現③
スリランカ
スリランカ中央部には
,
アヌラーダプラ王
国
(前437~後1007)が栄えています。
・
60
0
年
~
80
0
年のアジア 南アジア
現②
バングラデシュ
,⑤
インド
,⑥
パキスタン
◆
大乗仏教に対抗し,シヴァ神やヴィシュヌ神に対する信仰が普及する
北インド最後の統一王朝であ
る
ヴァルダナ
朝
が滅ぶと,インドは地方ごとに多くの国家が乱立する時代に突入しました。内陸部の貨幣経済は衰え,商人の寄進を基盤としていた仏教教団は衰え,自給自足を中心とする農村部でヒンドゥー教と総称され
る
シヴァ
神
や
ヴィシュヌ
神
などに対する信仰が浸透しました。
南インドにも地方国家が立ち並び,海上交易がさかんにおこなわれました。南インドでは大規模なヒンドゥー教寺院を建設し,その権威をもとに農業開発・海上交易を推進す
る
チョーラ
朝
【本試験H31】
のような国家も栄えます。
この時期には,海上交易にアラブ人やペルシア人などの商人が進出するようになり,南インド,西インド,東インド
(注1)
のベンガルは,海上交易の主導権を失っていきました。
また,相次ぐ戦乱により商業都市が衰退し,王室に集められた富は軍事や寺院の建立に使われ,貨幣の発行も減少しました。
仏
教
は都市の商人による寄進を頼りにしていたこともあり,ヒンドゥー教の信仰の広まりを受けて,衰退に向かいました。一部の仏教はヒンドゥー教の考えを取り入れ,呪文(マントラ)をとらえたり,神秘的な儀式を重視したりするようになりました。そのよう
な
密
教
は,チベットや中国,日本に伝わり栄えました。しかし密教はしだいに「ヒンドゥー教の一部」ととらえられるようになり,仏教は発祥の地インドで急速に衰えていきました。
商業が衰退するにつれ,農村を中心とする分権的な社会が生まれていきました。それに合わせてこの時期には,上から3番目のヴァルナであるヴァイシャは,商人のヴァルナとなり,農民や一般の庶民はシュードラに位置づけられるようになりました。代わって,5番目のヴァルナとし
て
不可触賎
民
への差別が強まりました。各ヴァルナの中には,「生まれを同じくする集団」という意味の
「
ジャーテ
ィ
」
【本試験H26ヴァルナ制度ではない】
が無数に形成されていきました。のちに南アジアにやって来るポルトガル人は,ジャーティのこと
を
カース
ト
と呼んだことで,ヨーロッパ人はこの制度のこと
を
カースト制
度
【セA H30メソポタミアの制度ではない】
と呼ぶようになりました
(注2)
。
(注1)ここでいう「東インド」は、17世紀初めころの北西ヨーロッパ人が「東インド」(アフリカ南端の喜望峰からマゼラン海峡に至る間に位置する海岸沿いの諸地域すべて)というときの地域とは異なり、インドの東部という意味で使われていることに注意しよう。
(注2) カースト制度というのは、古代インドから連綿と受け継がれている制度ではなく、複雑に変容してきた経緯があります。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.53。
◆
ヴァルダナ朝が北インドを統一して以降は,地方政権が分立する時代に突入する
グプタ朝亡き後,西インドにはマイトラカ朝,北インドにはマウカリ朝,プシュヤブーティ朝,東インドにはベンガルなどが並び立ちました。
このうち,現在のデリー北方のプシュヤブーティ朝の王族だった
〈
ハルシ
ャ
〉(位606?607?~646?647?)
【追H24】
【東京H8[3]】
が,
北インドを統一
【追H24南インドではない】
し
,
ヴァルダナ
朝
【追H24】
【大阪H30 629年頃のインドの王朝】
を建てました。彼はシヴァ神を信仰していましたが,仏教も保護していた様子は,彼に謁見した中国(唐
【本試験H19】
)の僧
〈
玄
奘
〉(600?602?~664)
【本試験H12玄奘は「上座部の開祖」ではない】
の
『
大唐西域
記
』に書き留められています
【本試験H12義浄の著書ではない】
【本試験H19時期,本試験H20玄奘が訪問したか問う】
【大阪H30史料】
。彼は首都
の
カナウ
ジ
を中心にガンジス川の上・中流域を直轄支配とし,それ以外の諸王は諸侯として,地租と貢納を取り立てました。グプタ朝よりも,さらにゆるやかな支配方式です。
彼は641年に中国を支配していた唐の〈太宗〉(位626~49)に使者を派遣し,〈太宗〉は643年・647年に使者を派遣しています。
彼は南インド支配をもくろみ,デカン高原に遠征しましたが,〈プラケーシン2世〉(?~643)のもとで最大領土を獲得した南インド
の
チャールキヤ
朝
(6世紀~8世紀)に阻まれ,領域は北インド一帯にとどまりました。
先述のように,〈ヴァルダナ王〉と謁見した中国(唐
【本試験H19】
)の仏僧に,法相宗(ほっそうしゅう)の開祖
〈
玄
奘
〉(げんじょう,600?602?~664)
【本試験H12】
がいます。
『
西遊
記
』では女性の三蔵法師(さんぞうほうし)として描かれていますが,実際には男性です。629年にインド
【本試験H12インドで学んだかを問う】
に向けて出発し,645年に帰国。多数のお経を唐に持ち帰り,漢訳をおこないました
【本試験H12「上座部の開祖」ではない】
。「漢訳されたお経には間違いがあるおそれがある。インドの言葉で書かれた本当の経典が見てみたい」という強い思いがあったのです。旅行記は
『
大唐西域
記
』(だいとうさいいきき,646年)といい,〈玄奘〉の西域に関する情報を利用しようとした皇帝
〈
太
宗
〉(たいそう,在位626~649)が編纂させました。彼は長安郊外の大慈恩寺(だいじおんじ) で訳経に取り組み,その境内にある大雁塔(だいがんとう)に経典はおさめられています。
〈玄奘〉には653年に中国に渡った日本人の僧侶〈
〈ハルシャ〉の王国の統一は,王個人の力量によるところが大きく,死後すぐに分裂してしまいました。
その後の北インドは,広範囲を支配する王国が現れることはなく,いくつもの王国が各地で抗争する時代となりました。
◆
大乗仏教への反動から密教が成立した
大事なことをこっそり教えるのが,密教
なお,〈ハルシャ〉の時代に
は
ネパー
ル
の王朝(リッチャヴィ朝(4~9世紀))は,〈ハルシャ〉(生没年不詳)の死後,北インドに侵攻しています。
南アジアでは,6世紀以降
,
パッラヴァ
朝
,
パーンディヤ
朝
,
チャールキヤ
朝
が互いに抗争をしていました。この頃,従来の仏教やジャイナ教に代わって,ヒンドゥー教の信仰
が
バクティ信
仰
を通して拡大しました。バクティ信仰というのは,まるで生身の人間のように思い描いた神に,絶対的な愛情を注ぐことによってご利益を得ようとする信仰です。
○60
0
年
~
80
0
年のアジア 西アジア
◆
ローマ教会とコンスタンティノープル教会の対立が深刻化した
聖像禁止令をきっかけに東西教会が対立する?
4世紀末に移動を開始したインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々は,各地のローマの官僚機構を利用しながら国家を建設していきました。
それに対しローマを本拠地とす
る
ローマ教
会
は,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々に対し
て
アタナシウ
ス(
ニカイ
ア)派
の布教していきました。布教の際には文字よりも視覚に訴えやすい〈イエス〉や〈マリア〉など
の
聖画
像(
イコ
ン
)
を使用しました。
それに対し,726年
に
東ローマ帝
国
イウサロス朝の創始者
〈
レオン3
世
〉
(在位717~741,教皇レオ3世とは別人)
【追H27ウラディミル1世ではない】
【本試験H13聖ソフィア聖堂建設は命じていない,本試験H18,H31】
が
聖像禁止令
【東
京
H7[1
]
指定語句
】
【追H27】
【本試験H18,H31レオン3世の発布か問う】
を発布して批判し,東ローマ帝国の保護する正教会とローマ教会との間のケンカにエスカレートする...
(
聖像崇拝論
争
)というのが、従来よく語られてきたストーリーです。
しかし、東ローマ帝国がらみの歴史は、ローマ教会側・西ヨーロッパの視点で編まれたものも多いので、慎重に割り引いて見ていく必要があります。
〈レオン3世〉による聖像破壊
(
イコノクラス
ム
)の本音は,教会財産の没収にあったようです。その後、聖像崇拝は復活し、787年の第二ニカイア公会議(第七全地公会)で、イコンを崇敬することが正統であるということが再確認されました。聖像破壊派の文書は破却され、はっきりとしたことはわかっていませんが、この時期にギリシア関係の書籍が大量に破却されたことがわかっています
(注1)
。なお、よく言われてきたように聖像破壊がイスラームの「偶像崇拝禁止」の影響を受けたという解釈は誤りです
(注2)
。
〈レオン3世〉の息子〈コンスタンティノス5世〉(位741~775)は、父よりも厳しい政治をおこないます。彼は、黒海・カスピ海北方で北ヨーロッパから西アジア、中央アジアにいたるまで交易の利をあげ繁栄していた
ハザール=カガン国
の娘をめとり、その子が〈レオン4世〉(位775~780)として即位。〈レオン4世〉の皇后〈イレーネ〉の後押しもあり、イコン崇敬を認める方向に傾いていきます
(注3)
。
東西教会の違いについて
ただし、東西教会の間に教義の上で両者の間に違いが大きくなっていったのは事実です。〈マリア〉は聖霊によって〈イエス〉を身ごもったとされますが,この「聖霊」が父としての神から発すると主張したのが正教会(コンスタンティノープル教会)。いや,父だけでなく子としての〈イエス〉からも発するとしたのがローマ教会です。
ほかにも,最後の晩餐の儀式を象徴する儀式(聖餐(せいさん))で使うパンに
,
パン種を入れ
る
のが正教会
,
入れな
い
のがカトリック教会。
聖職者
の
妻
帯
(さいたい。結婚すること)を一
部
認め
た
のが正教会
,
認めな
い
のがカトリック教会。
また正教会はギリシア語を使用,カトリック教会はラテン語を使用した点にも違いがあります。
そもそも東ローマ帝国の皇帝は
,
コンスタンティノープ
ル
【追H19ビザンツ帝国はラテン帝国の占領を除き遷都していない】
のキリスト教教会
(
正教
会
)を保護し,そのトップであ
る
総主
教
(そうしゅきょう)がとりしきる儀式で皇帝の冠を与えられていました。皇帝はキリスト教の儀式(奉神礼(ほうしんれい)。ローマ教会では典礼(てんれい,ミサ))をとりおこなうことはできず,正教会の中では総主教の次に偉い地位にありました。〈レオン3世〉は聖像禁止令によって教義上の問題に首を突っ込み,それをローマ教会にも押し付けようとしたわけです。
787年には東方教会とカトリック教会がともに認めた最後の公会議である,第二ニカイア(ニケア)公会議が開かれましたが,それ以降はカトリック教会による単独の公会議が開かれるようになり,別々の発展を遂げていくことになります。この会議でようや
く
聖像禁止令は廃
止
されました。
こうしてビザンツ帝国は7~8世紀の(ギリシア古典文化を破壊したという意味での)「暗黒時代」を終え、9世紀になると「
9世紀ルネサンス
」ともいわれる、古典文化の復興が起きることになりま(す
(注4)
。
このような事情から次第にローマ教会は,教義上の対立を含むコンスタンティノープル教会からの独立傾向を強め,聖像禁止令を押し付ける東ローマ皇帝にかわる新しい保護者が必要と痛感するようになるわけです。
(注1)神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.151。ディミトリ=クダス、山本啓二訳『ギリシア思想とアラビア文化―初期アッバース朝の翻訳運動』勁草書房、2002年を引いて。
(注2)上掲書、p.151。杉田英明によれば、8世紀前半のイスラームは「絵画に対して寛容ないし無関心」。それが、第2ニカイア公会議の結果に反発する形で、イスラームは「絵画不寛容」となっていくという(竹下政孝編『イスラームの思考回路』(『講座イスラーム世界』4)悠思社、1995年を引いて)。
(注3)上掲書、p.150。
(注4)クダスによると、
ギリシア古典やローマ法は「ビザンツ帝国で保存」され、それが西ヨーロッパに伝わった
のではなく、9世紀になって、
「アラビア語に翻訳された著作」が、9世紀前半に「ビザンツ帝国でギリシア語で書写」された
といいいます。上掲書、p.147。ディミトリ=クダス、山本啓二訳『ギリシア思想とアラビア文化―初期アッバース朝の翻訳運動』勁草書房、2002年を引いて。
◆
アラビア半島で唯一神「アッラー」を信仰する「イスラーム教」 が生まれた
「一神教」を押し進めたイスラーム教が成立したのは,ど田
舎
(
=
アラビア半
島)
だった
ビザンツ帝国とササン(サーサーン)朝が抗争を繰り広げた影響で,陸上ルートが
当時,交易の拠点となっていたメッカの部
族
クライシュ
族
【H29共通テスト試行 家系図】
に,
〈
ムハンマ
ド
(本人の名)=
(
イ
)
ブ
ン
(~の息子という意味)
=
アブドゥッラ
ー
(父の名)=ブン=アブドゥルムッタリブ(父の父の名)〉(570?571?~632
(
注
1
)
)
【本試験H12「イスラム教」の「開祖」かを問う】
という男性がいました。アラブ人
(
注
2
)
を含むアフロ=アジア語族セム語派の人々は「父系」といって,父方の血のつながりを大切にしてきたので,フルネームはこのような長い名前になるのです。
彼は社会の激変期にあって,「アラビア半島の部族同士は交易の利益をめぐり争い,今や大商人となったクライシュ族が都市メッカを牛耳り貧しい人々が苦しんでいる」と,危機感を覚えていたようです。
〈ムハンマド〉には当時のアラブ人と同じよう
に
ユダヤ
教
や
キリスト
教
についての知識もあり,多くのアラブ人たちは「ユダヤ教やキリスト教のほうが,自分たちアラブ人の神々よりも立派なものだ」と考えていました
(注
3)
。アラブ人は多神教で複数の神々を崇拝していましたが,なかでも最高神は
「
アッラ
ー
」といい,これは「神」という意味でした。この「神」はユダヤ教徒やキリスト教徒の信じるこの世界と人間をつくった神様と同じ神をあらわすのですが,アラブ人的には「神(アッラー)は自分たちアラブ人のところには来てくれなかったし,アラビア語の聖典も授けてくれなかったのだ」と信じるようになっていました
(注
3)
。
(注1)570年説と571年説がある。『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.120
(注2)「アラブ人」がはっきりと特定の「民族」を表すようになるのは近代以降のこと。「ペルシア人ではない人」「イスラーム文化を身に着けアラビア語を話す人」「遊牧民」など,状況によって様々です。古くからアラビア半島の遊牧民はいくつもの部族に分かれており,自分たちが共通の部族とみなす範囲は時代や地域によって伸び縮みし,固定的なものではありませんでした。
(注3)カレン・アームストロング,小林朋則訳『イスラームの歴史――1400年の軌跡』中央公論新社,2017,p.2(原著 "ISLAM : A Short History" 2000,2002)。
*
610年のラマダーン月17日,
〈
ムハンマ
ド
〉は体が襲われる感覚に苦しまれ,気づくと口からアラビア語による神(アッラーフ)からの聖典の語句が流れてくることに気づきました
(このときの〈ムハンマド〉は,当時篭って瞑想をしていたヒラー山の洞窟で,天使ジブリール(ガブリエル)から啓示を受けたといいます)
。初めの2年間はこの体験を妻〈ハディージャ〉や近しい人にしか明かしませんでしたが,自ら
を
預言
者
として認識しました,意を決して周囲にも自分の受けた啓示を明かすようになっていきました
(イスラーム教徒の歴史観ではイスラームが知られる以前の時代をジャーヒリーヤ時代(「知られていない」という意味)といいます)
。啓示は一度ですべてが下ったわけではなく,632年にかけて足掛け22年間にわたり〈ムハンマド〉に下されました。
啓示は彼の死後20年をかけて
『
クルアー
ン
』(コーラン)
【本試験H18,本試験H25】
【立教文H28記】【立命館H30記】
としてアラブ人の言語であ
る
アラビア
語
でまとめられることになります。「クルアーン」とは「読まれるもの」という意味です。文字の読み書きのできない者の多かった〈ムハンマド〉や信者にとっては,クルアーンは「読み上げられる」ものだったのです。翻訳は奨励されてはいますが,正式なバージョンはあくまでもアラビア語で書かれたものとされています。
クライシュ族の大半は以前から「アッラーが世界の創造主で
,
最後の審
判
のときに人類を裁く」
【本試験H24輪廻からの解脱を説いてはいない】
と信じていましたから,〈ムハンマド〉の考えは
なお,〈ムハンマド〉は『クルアーン』によれば,イスラーム教
の
最後の預言
者
です。「創始者」というのは,適当ではありません。キリスト教にとって,〈イエス〉は神と同格の存在でした。ですから,〈イエス〉)が人類に向けて送った"知らせ"(神の国に入ることができるという"良い知らせ"=
しかし,イスラームにおいては,〈イエス〉という存在を想定しませんので,神のメッセージは直接『クルアーン』に記されていることになります。ですから,キリスト教における〈イエス〉は,イスラームにおける『クルアーン』に相当することになります。同じように,キリスト教の使徒にあたるものが,イスラームにおける預言者〈ムハンマド〉ということになります。
『クルアーン』の内容を少しみてみましょう。
「この世の生活は,(一時の)遊びや戯れに過ぎない。あなたがたが信仰して自分の義務を果すならば,かれはあなたがたに報奨を与える。あなたがたは財産(の放棄)を求められているのではない」(47章36)。
「(...)だ
が
来
世
においては(不義の徒に)厳しい懲罰があり,また(正義の徒には)アッラーから寛容と善賞を授かろう。本当に現世の生活は,虚しい欺時の享楽に過ぎない。」(57章20)
「言ってやるがいい。「本当に主は,わたしを正しい道,真実の教え,純正なイブラーヒーム(
〈
アブラハ
ム
〉のこと)の信仰に導かれる。かれは多神教徒の仲間ではなかった。」(6章149)
〈ムハンマド〉は,貧しいものには施し
(
ザカー
ト
)をして助け合うべきだと訴え
,
ラマダー
ン
(断食時期)にはサウム(断食)をして貧しい人の気持ちに寄り添うべきだという神の啓示を伝えます。1日5回の礼拝のときも地面にひれ伏す平伏礼の姿勢をとり,豊かな人も貧しい人も横一列に並んで神の前での平等を強調しました。
〈ムハンマド〉を通して人々に伝わったイスラームの教えには,6つの信じるべきこと
(
六
信
)と5つの行うべきこと
(
五
行
(ごぎょう))があります。六信としては,神(アッラー),天使(マラーイカ),啓典(キターブ),預言者(ナービー),来世(アーヒラ),天命(カダル)があります。五行とは,信仰告白(シャハーダ),礼拝(サラート),喜捨(ザカート),断食月(ラマダーン)における日の出から日没までの断食(サウム),メッカ
【東京H20[3]】
へ
の
巡
礼
(ハッジ) のことです。ほかにも,禁じてられていること
(
ハラー
ム
)として,豚肉をたべることや酒を飲むこと,女性が人前で髪の毛や肌を見せることなどがあります。
こうした規定は,ガチガチに守られるべき厳格なものと必ずしもとらえられてはいません。イスラーム教の教義には"人間は弱い存在"という価値観が根底にあり,信徒には,弱い方向に流れないように自己をコントロールしようとする努力が求められるのです。
こうした〈ムハンマド〉の"社会改革"
(
注
1
)
的な主張は,クライシュ族の大富豪の怒りを買い,「あなたが地から泉を涌き出させ」,「大空を粉ごなにしてわたしたちに落すまで。またアッラーそして天使たちを,(わたしたちの)面前に連れて来るまで」は信じないと,〈ムハンマド〉を批判。追い打ちをかけるように〈ムハンマド〉の妻〈ハディージャ〉や,彼に保護を与えていたハーシム家の長が亡くなりました。
*
立場が危うくなった〈ムハンマド〉に保護の手を差し伸べたのは,622年
【本試験H2年号】
にメッカ北方のオアシス都市ヤスリブ
【本試験H23,本試験H25メッカではない,本試験H26地図上の位置を問う】
の住民でした。当時,都市内で起きていた部族の争いを丸く収める形で指導者として迎えられ,初
の
ウン
マ
【大阪H30論述:指定語句】
を建設します。この出来事を
,
聖
遷
(
ヒジュ
ラ
)
【本試験H2,本試験H5ジズヤではない,本試験H6】
【本試験H19地図,H23内容を問う,H30】
といい
,
イスラーム
暦
(ヒジュラ暦)
【追H26】
では,この622年を紀元とします
(
注
2
)
。部族のしがらみから逃れ,別の部族に加わった〈ムハンマド〉の行為は,部族が"全て"だった従来のアラビア半島では考えられない行為でした。ヤスリブにはユダヤ教徒や多神教徒もいましたが,部族や宗教の枠を越え,神(アッラー)の定める教えを実践できる共同体(ウンマ)がつくられたこの西暦622年こそが,イスラーム暦の始まりとされる
イスラーム暦の1日は日没に始まり,日没に終わります。ヤスリブ
は
メディ
ナ
(アラビア語ではマディーナ。「あの町」という意味)
【京都H22[2],H27[2]】
と名付けられました。
純
太陰暦
【追H26】
のため各月は新月の出る日から始まり,太陽暦の1ヶ月よりも短い月の周期に基づいています。したがって,
「
西
暦
」(ローマ帝国の〈カエサル〉のときに制定され,のちにキリスト教のローマ教皇が修正した暦)との間には,少しずつズレが生じることになります。月を基準にした暦は季節の変化とずれるため農業には役立ちません。ここにもイスラーム教が"都市の宗教"である特徴が現れているといえるでしょう。農作業のために農民はあわせて太陽暦も使用していました。
(注1)ヒジュラ暦(A.H.)の1年は西暦(A.D.)622年の7月16日。西暦2018年9月12日がヒジュラ暦1440年の初め,2019年9月1日が1441年の初め,2020年8月20日が1442年の初め,2021年8月10日が1443年の初め,2022年8月11日が1444年の初めです(大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』岩波書店,2002年,p.1128)。
(注2)アームストロングはイスラームが,中国の道教と儒教,インドのヒンドゥー教と仏教,中東の一神教(ユダヤ教やキリスト教),ヨーロッパの理性主義などと同様,商人的経済の成立と社会の拡大・複雑化により,新たな思想的な取り組みが求められた結果成立したものと論じています。「「社会正義はイスラームのきわめて重要な徳目だったのです。ムスリムには,その第一の義務として,富の公平な分配が行われ,思いやりや実戦される共同体
(
ウン
マ
)を設置することが命じられた。...(神学的推論)よりはるかに重要なのは,神の示した方法に従って生きる努力
(
ジハー
ド
)をすることだった。......このような社会的関心は,ヤスパースのいう
「
軸の時
代
」(紀元前700年頃~前200年頃)に発展した数々の偉大な世界宗教が視点のうちに必ず含んでいた重要な要素だ。この時代に,現在知られている文明が発達するとともに,人間らし
い
博愛の精
神
を今なお育み続けている自覚的な思想・宗教が登場した。これらの思想は,すべてそれまでの原始的な信仰を改革するものだった。商人的経済が成立して社会の拡大・複雑化が進むと,旧来の信仰はもはや社会に合わなくなり,新たな思想的取り組みが商人的経済に支えられて始まった。...また一部の思想は,自分たちの社会が抱える根本的
な
不公
平
に関心を寄せた。近代以前の文明は,どれも経済的には農業生産の余剰分を基盤としていた」(強調部は筆者)。カレン・アームストロング,小林朋則訳『イスラームの歴史――1400年の軌跡』中央公論新社,2017,p.2(原著 "ISLAM : A Short History" 2000,2002)。
◆
メディナでのウンマ建設後,いくつかの戦闘を経て,アラビア半島の平和的統一が実現した
アラビア半島が,イスラームの下に統一された
「あ
の
メディ
ナ
に平和をもたらした」――アラビア半島に〈ムハンマド〉の立ち上げた教えの噂が広まっていきました。しかしメディナ内部では,〈ムハンマド〉に敵対的なユダヤ教徒の動きも強まり,624年には礼拝の方向
(
キブ
ラ
)をイェルサレムからメッカのカアバ神殿に変更しました。
さらにメディナの〈ムハンマド〉派が,メッカのクライシュ族の隊商(キャラヴァン)を襲い略奪を働いていたことから両者の対立は深まり,624年には水飲み場であったバドルで戦いが起きました。しかし〈ムハンマド〉率いるイスラーム群はメッカのクライシュ軍に大勝利を果たします。
その後,625年のウフドの戦いではメッカ軍が勝利,627年にはイスラーム軍がハンダク(塹壕)の戦いで勝利し,対立関係は続きました。メディナ内部のユダヤ教徒や多神教徒との対立も深刻化しますが,それと並行して〈ムハンマド〉はアラビア半島の遊牧民の諸集団と個別に和平を結んでいきました。
*
〈ムハンマド〉は平和的な終戦にこだわっていました。638年にメッカにハッジ(巡礼)をおこなうと宣言。巡礼者は武器を持ってはいけないことになっており,クライシュ族に狙われる危険もありましたが,これに約1000人のイスラーム教徒が同行することになりました。クライシュ族による攻撃の危険もありましたが,イスラーム教徒たちの実力を見込んだ
このとき,メッカで古くから神殿として用いられてい
た
カアバ神
殿
(聖殿)
【本試験H18】
【追H20ヒンドゥー教の聖地ではない】
の偶像が破壊され,ここはイスラーム教の聖殿とされました。〈ムハンマド〉は自身の信仰を「〈イブラーヒーム〉
(
アブラハ
ム
)の「純正な一神教の復活」」(『クルアーン』3章-67)ととらえており,〈イブラーヒーム〉の息子〈イスマーイール〉(イシュマエル)の創建とされたカアバ聖殿が重視されたのです(もともとはナバテア人の神フバルにささげられたものでした)。もともとアラブ人の信仰を集めていた神殿を礼拝することにしたのは,アラブ人の伝統との連続性をもたせようとしたためと考えられます。
イスラームで
は
〈ムハンマド〉自身が商人であったこともあり,イスラーム教では商業が奨励されたため,イスラーム商人(ムスリム商人
【追H19海上交易への進出時期
】
【東
京
H7[1
]
指定語句
】
)の活動は活発化していきます。
(注1)カレン・アームストロング,小林朋則訳『イスラームの歴史――1400年の軌跡』中央公論新社,2017,p.13(原著 "ISLAM : A Short History" 2000,2002)。
(注2)同上,pp.29-30
◆
〈ムハンマド〉の死後,アラブ人は正統カリフの下で 「大征服」をおこなった
イスラームの拡大は,アラブ人の拡大でもある
630年のフナインの戦いでの勝利により,アラビア半島の大部分には
,
メディ
ナ
のウンマを中心に,イスラーム教の下にアラブ系諸民族が同盟を組むゆるやかな政治的まとまりが誕生しました。632年にはメッカ巡礼(ハッジ)を行った直後に
,
最後の預言
者
〈ムハンマド〉が亡くなると
【本試験H23ヒジュラとは関係ない】
,彼に男子の跡継ぎがいなかった
(3男4女のうち,3人の男子はいずれも亡くなっていました)
ことから、信徒を誰が引き継ぐべきかをめぐって主導権争いが起きます。
主な対立は、ムハンマドと一緒にメディナに移住してきた人(ムハージルーン)と、それ以前からメディナにいてムスリムとなった人(アンサール)との間に起こります。
主導権といっても、もともとイスラーム教には聖職者という身分がありません。人類はみな神によって平等につくられたと考えるからです。〈ムハンマド〉自身も「主に讃えあれ,わたしは使徒として(遣わされた)一人の人間に過ぎないではないか。」(『クルアーン』17章-90)としています。カリフは「えらい」わけではなく,ウンマを政治的・宗教的にまとめるために便宜的にもうけられた指導者なのです。
結局、〈ムハンマド〉の親友で長老であった
〈
アブ
ー=
バク
ル
〉(位632~634)
【追H30バグダードを建設していない】
が、自分のほうがイスラームの信仰に入ったのが早いとして、〈ムハンマド〉の移住以前からメディナにいた人々たちを説き、両者が妥協したことで分裂は回避されました。
◆
サーサーン朝が滅ぼされた
〈アブー=バクル〉を指導者とする契約(バイア)が取り交わされたとはいえ、〈ムハンマド〉という求心力を失ったことは痛手です。
アラビア半島の諸部族は「自分たちはあくまで〈ムハンマド〉と盟約を交わしたんだ。〈ムハンマド〉が亡くなったのだから、盟約は自動的に消滅した!」と主張。
〈ムハンマド〉に代わる「偽預言者」まで出現します。
そこで、〈アブー=バクル〉は「偽預言者」を討伐し、メディナのウンマを守るため、633年にはアラビア半島のインド洋岸のオマーン,イエメン,ハドラマウトも従わせ,アラビア半島全域にイスラームの下でのアラブ人の統合を図ります。
さらに、次の
〈
ウマ
ル
〉(位634~644)
【H27京都[2]】
は「ハリーファ=ハリーファ=ラスール=アッラーフ」(アブー=バクル)の代理として、メディナのイスラーム教徒(イスラーム教徒の男性
を
ムスリ
ム
,女性
を
ムスリ
マ
といいます)の間の集会で初代「正統カリフ」に選ばれます。
〈ムハンマド〉の役目を引き継ぐ人
(
カリ
フ
【大阪H30論述:指定語句】
」が選挙で選ばれました。カリフとは,「神の使徒の後継者」というアラビア語(ハリーファ=ラスール=アッラーフ)の「ハリーファ」がヨーロッパでなまった言葉です。
信徒による選挙で選ばれた
【追H9】
カリフを
「
正統カリ
フ
」
【東京H30[3]】
【追H9ムハンマドの直系の子孫ではない・アッバース朝初代~第4代までのカリフではない・異教徒の戦いで殉教した英雄ではない】
【本試験H7オスマン帝国により倒されていない,本試験H12「宗教的にも政治的にも最高の権限を有していた」か問う(注)】
【H29共通テスト試行 系図の読解】
といい、その後〈ウスマーン〉、〈アリー〉まで続きます
(注1)
。
ただ、どちらかというと〈ウマル〉は「カリフ」より「信徒の長」(アミール=アルムーミニーン)のほうを称し,軍事指揮官として
「
大征
服
」活動を本格化させていきます。
632年
の
ニハーヴァンドの戦
い
【本試験H25】
【追H18、H30】
でササン(サーサーン)朝
【大阪H30史料:629年当時の西アジアの王朝を問う】
【追H30】
の〈ヤズデギルド3世〉を倒し,これを事実上滅ぼしています
(
サーサーン朝の滅
亡
)。古代ギリシア・ローマの情報の"リレー"は,ビザンツ帝国からサーサーン朝になされていましたが,ここでサーサーン朝に逃れていた古代ギリシア・ローマの系譜を継ぐ研究情報はイスラーム勢力に引き継がれていくこととなりました。
イスラーム勢力はシリア,パレスチナを通って北アフリカにも進出し,西へと移動していきます
【本試験H6時期(アウグスティヌスの存命中ではない)】
。
シリア,パレスチナ
【本試験H15時期(正統カリフ時代かを問う)】
とエジプトを奪われ
た
ビザンツ帝
国
では
,
テ
マ
(セマ
)
制
と
屯田兵
制
を整備するようになりました
(
注
2
)
。
征服した各地の都市郊外にはアラブ人ムスリム
【追H25】
によっ
て
軍営都
市
(
ミス
ル
)
【追H25】
が建設され,ミスルごと
に
アミー
ル
(総督)が任命されて集団で移住が実施されました。
征服先の都市にはたいていユダヤ教やキリスト教の商人がいますから,新たに移住してきたイスラーム教の軍人との無用な対立を避けたわけです。
ミスルに
は
ディワー
ン
(役所)が置かれ,登録された戦士に対して俸給
(
アタ
ー
)が支給される仕組みでした。代表例は,イラクのバスラ(638年,〈ウマル〉により建設された),エジプトのフスタート(643年)
【東
京
H13[1
]
「エジプト史」を論じる問題。指定国は「エジプト」
】
,チュニジアのカイラワーン(670年)。現在イスラーム教の信仰やアラビア文字の使用がみられる地域は,この時期にアラブ人の急拡大があった所がほとんどです。
(
参考
) 現
在
アラビア
語
を公用語としている国々
・北アフリカのモーリタニア,モロッコ,アルジェリア,チュニジア,リビア,エジプト。
・スーダン,スーダンの西のチャド。東アフリカのソマリア,エリトリア,ジブチ。
・アラビア半島のクウェート,カタール,バーレーン,サウジアラビア,アラブ首長国連邦,オマーン,イエメン。
・肥沃な三日月地帯の,パレスチナ,イスラエル,ヨルダン,レバノン,シリア,イラク。
・大西洋の島国のコモロ(歴史的にアラブ商人が寄港)。
なお,征服を受けたユダヤ教徒,エジプトのコプト教,シリア正教会などの住民の多くは,「アラブ人のほうが税負担が軽く,信仰に対しても寛容」であると見なし,その多くがアラブ人による征服を受け入れました。
(注1) カリフはアッバース朝の時代になると,次第に政治的権力を失い,宗教的な権威のみを持つようになります。
(注2
)
テマ(セマ)制はスラヴ人やブルガール人対策のために680年頃にバルカン半島に置かれたものが初めの例です。
◆
イスラーム教の教えは〈ムハンマド〉の死後に文字に残され,「書物」の宗教として確立した
イスラームは教義を書物に残し,異説を封じた
しかし,正統カリフの制度は長くは続きませんでした。第2代〈ウマル〉はペルシア人の奴隷により暗殺。
第3代
〈
ウスマー
ン
〉はウマイヤ家の出身でしたが,「ウマイヤ家から正統カリフが出るのはおかしい。〈ムハンマド〉の子孫が正統カリフを受け継ぐべきだ」というグループによってメディナで暗殺されてしまいます。〈ムハンマド〉の死後には,生前に話したことや行ったこと
が
ハディー
ス
(ムハンマドの伝承)にまとめられていきましたが,彼の時代には
『
クルアー
ン
(コーラン)』の編纂も進められました。異なるバージョンのものはすべて焼却させたといいます。
神に関する正しい情報が早い段階で確定されたことが,イスラーム教という宗教の今までの人類史にはない特徴といえます。
(注)最古のクルアーンの写本はウズベキスタンに保管されており,これには暗殺された〈ウスマーン〉の血痕が残っているとの言い伝えもありますが,〈ウスマーン〉が編纂を命じたことについて異説もあります。大川玲子「ウズベキスタンのウスマーン写本―「世界最古」のクルアーン(コーラン)写本―」『明治学院大学国際学研究』37巻,2010,p.87~p.93。
◆
カリフの後継者争いの結果,ウマイヤ家が王朝を建設し,分派のシーア派などと対立した
スンナ派とシーア派が対立し,スンナ派が主流に
混乱の中で即位した第4代カリフ
〈
アリ
ー
〉(位656~661)
【本試験H17】
【追H20アッバース朝全盛期のカリフではない、H27ウマイヤ朝を開いていない】
は,〈ムハンマド〉の父方の従弟で,〈ムハンマド〉の娘〈ファーティマ〉(606?614~632)と結婚していました。彼は混乱をおさえるためにイラクのクーファに遷都しましたが,「ウマイヤ家が正統カリフになるべきだ!」と主張する前シリア
(
注
1
)
総督
〈
ムアーウィ
ヤ
〉(?~680)
【本試験H20インドではない】
【H27名古屋[2]】
【追H25(時期「10世紀から11世紀にかけて生きた」哲学者・医学者か問う)、追H26アッバース朝をひらいていない,H29】
が挙兵し,最後
は
ハワーリジュ
派
によって暗殺されてしまいます。
ハワーリジュ派は,はじめは〈アリー〉派だったのですが,〈ムアーウィヤ〉に敗れた後で和約を結んだ〈アリー〉を裏切り者として攻撃しました。
一方,〈アリー〉派
は
シーア
派
【本試験H17ワッハーブ派・ネストリウス派・スンナ派ではない】
と呼ばれるようになります
(注2)
。
カリフは「イマーム」とも呼ばれ,シーア派の最高指導者は「イマーム」と呼ばれることが一般的です。シーア派では「イマーム」は〈アリー〉
【H27京都[2]】
の子孫が担うべきだと主張します
(注3)
。『クルアーン』を神の言葉とする点は一致していますが,解釈にあたっては『クルアーン』以外の要素も加味するなど,スンナ派との違いが歴史的に形成されていくことになりました。
ハワーリジュ派はシーア派ともスンナ派とも敵対し,カリフの位には神の権威を受け継いだ者がイスラーム教徒の共同体によって選ばれるべきであり,アラブ人であってもなくてもかまわないと主張し,のちに北アフリカのベルベル人の間に反アラブ的な思想として広がっていきました。
(注1)「シリア」はアラビア語でシャームと呼ばれ,周辺の現レバノン,パレスチナ,ヨルダンやトルコの一部も含む領域(歴史的シリア)を指しました。
(注2) はじめはムアーウィヤ派はシーア=ムアーウィヤと呼ばれていましたが、〈ムアーウィヤ〉がカリフに就任してシーア(=派)とする意味がなくなり、シーア=アリーのほうだけがのこりました(神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.107)。
(注3) 〈ムハンマド〉の近親者であるハーシム家は、葬儀の準備をしていたため、〈アブー=バクル〉を指導者と認めるバイア(契約)に参加しませんでした。そこで、のちのシーア派は〈アブー=バクル〉、〈ウマル〉、〈ウスマーン〉のカリフ位を否定します。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.152)
◆
ムアーウィヤはアラビア半
島(
=田
舎)
ではなくシリ
ア(
=都
市)
を中心とする官僚制国家を建設しようとした
イスラームの中心は,アラビア半島からシリアへ
総督の〈ムアーウィヤ〉
【追H29】
は,661年にシリア
の
ダマスク
ス
(かつてアラム人の拠点でした)
【セ試行】【本試験H2ウマイヤ朝の首都か問う】
【本試験H15イェルサレムではない,本試験H19地図】
【H27名古屋[2]】
【追H29イベリア半島ではない】
に
ウマイヤ
朝
を開き
【本試験H3時期(8世紀後半ではない)】
【本試験H21インドではない,本試験H25時期,H29共通テスト試行 系図の読解】
【追H27アリーが開いたのではない、H28トルコ人が奴隷軍人として採用されたわけではない,H29後ウマイヤ朝ではない】
,玉座(ぎょくざ)に座ってカリフを称しました
【大阪H30論述:7世紀後半に西アジアに成立した帝国では,社会や国家のあり方がどのように変化したか(指定語句:シャリーア,ウンマ,カリフ)】
。
彼に従った多数派
を
スンナ
派
【本試験H17シーア派とのひっかけ,H29共通テスト試行 アリーの子孫が指導者と主張したのではない】
と呼びます。スンナとは〈ムハンマド〉以来イスラーム教徒の間で積み上げられてきた習わし(慣行)や,それを守る人から成る共同体を意味します。スンナに従う人をスンニーというので,日本ではスンニ派といわれることも多いです。
スンナ派は「全体の合意」(イジュマー)によってイスラームの共同体を運営していこうとする集団ですが,実際に判断をくだすの
は
ウラマ
ー
(学者)でした
(注)
。そこで支配者がイスラーム教を信仰する国家では,特定の教義に属するウラマーが保護されるようになっていきます。
スンナ派の人々は,「ハワーリジュ派やシーア派は,〈ムハンマド〉以来のイスラーム共同体から離れていったグループだ。それに対して,自分たちは共同体の伝統を守り続けている正統派だ」と考えています。
(注) オスマン帝国史家の鈴木董は、ウラマーは「法律専門家」ではなく、本質的には「戒律学者」であり、その点ではユダヤ教の戒律学者である「ラビ」に近く、ラビの訳である「律法学者」としたほうがよい。しかしユダヤ教と混同するので、「戒律を中心としたイスラム教学の専門家」として「イスラム教学者」と訳する提案をしています。なお、「イスラム聖職者」というのは、イスラーム教では神→聖書(クルアーン)→人間の関係を媒介するなんらかの存在を認めないので、明確な誤りです(鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.95)。なお、イスラーム教における「聖書(クルアーン)」に対応するのは、キリスト教では〈イエス〉の福音です(中田考・橋爪大三郎『クルアーンを読む』太田出版、2015年)。
◆
シーア派は〈アリー〉の直系の一族に従い,ウマイヤ朝のカリフに敵対した
一方,〈ムアーウィヤ〉に反発する人々は,みんなで話し合い,意見を出し合ってウンマ(共同体)を建設するべきだと考えます。暗殺された〈アリー〉の次男〈フサイン〉は,〈ムアーウィヤ〉を倒そうとクーファに向かう途中
,
カルバラ
ー
というところで殺害されます。これを悲しんだ人々は〈フサイン〉の亡き息子たちを支持し,やがてシーア派と呼ばれるようになったのです。「シーア」とは「党派」という意味で,もともとは「シーア=アリー」と呼ばれていました。彼らは〈アリー〉の一族を重視し,その指導
者
イマー
ム
の下に団結します。今でもシーア派の人々は,毎年〈フサイン〉のお墓参りの行事をおこなっています。
〈フサイン〉の妻はサーサーン朝の王女だったという言い伝えがあり,特にイラン(ペルシア)の人々に受け入れられていくことになります。つまり,スンナ派とシーア派の違いは,アラブの文化を受け入れた人々と,ペルシア文化を守る人々との対立でもあるのです。
一方,スンナ派のカリフ〈ムアーウィヤ〉の在位は680年までです。以後カリフはウマイヤ家に世襲されるようになったので
,
ウマイ
ヤ
「
朝
」といい。英語ではThe Umayyad Caliphate(ザ=ウマイヤド=カリフェイト,ウマイヤ家のカリフ国)といいます。
イスラーム教によって「平和」が実現されている範囲を「ダール=アル=イスラーム(イスラームの家)」といい,まだ「戦争」の絶えない異教徒の地域を「ダール=アル=ハルブ(戦争の家)」と,それぞれアラビア語で言います。異教徒がイスラーム教徒を攻撃してくる場合,イスラームの家を守るために,
「
ジハー
ド
(聖戦)」が認められています。ジハードとは本来は「(アッラーのための)努力」という意味なので,本来は「聖戦」のことだけを指すわけではありませんが
(注)
、この時期のイスラーム教世界の拡大は主として武力によって成し遂げられました。
ただ、だからといってイスラーム教が「コーランか、剣か」(イスラーム教を信仰しないのなら、剣で攻撃するという意味)という不寛容な思想を本質的に持っていると決めつけるのは正しくありません。イスラーム世界は、さまざまな異教徒をも含み持つ重層的な世界であったのです。
(注)弱い自分と戦うための努力を小ジハード,外からの圧力に負けない努力を大ジハードというという議論です。鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.102。
◆
ウマイヤ朝はイベリア半島から中央アジアまで領土を急拡大し,交易ルートをにぎった
この頃のイスラームは、単一の政治体を持っていた
さて,ウマイヤ朝は領土を次々に拡大し,中央ユーラシアのソグディアナ(ソグド人の出身地で,アム川とシル川の上流部)まで拡大します。
イェルサレ
ム
(アラビア語ではクドゥス(聖地という意味))にある金の装飾の輝
く
岩のドー
ム
は,ウマイヤ朝のカリフ
【本試験H15キリスト教徒ではない】
により建てられました。建設地は,ユダヤ人のソロモン神殿があった場所のため,問題はゆくゆく複雑になっていきます。
権力者は,寺院(モスク)
や
隊商
宿
(
キャラヴァンサラ
イ
【本試験H30】
)などの公共建築を建てるなどの寄進
(
ワクフ
(ワクフ制度
)
)
【追H25・H27ワクフ(ワクフ制度)がモスクなどの宗教・公共施設の運営を支えていたか問う】
をすることで,イスラーム教徒にふさわしい支配者として,人々から認められようとしました
(注
)
。
(注)ワクフは宗教的な行為に見えて《交換を前提としたうえで,互酬を目的とし,そのパフォーマンスとして再分配の機能を果たした制度》であると見ることもできます(加藤博『イスラム世界の経済史』NTT出版,2005年,p.190)。
ウマイヤ朝はまた,インド西部にも進出しています
【本試験H3インドのほぼ全域を征服していない】
。
7世紀後半~8世紀初めには,ビザンツ帝国の
都
コンスタンティノープ
ル
を何度か包囲し,海上封鎖して襲撃しようとしましたがいずれも失敗。ビザンツ帝国が,
「
ギリシアの
火
」というアスファルトを用いた火炎放射器で,ウマイヤ朝の艦隊を焼き払ったと見られています。その秘密は長い間謎につつまれていました。
ベルベル
人
【立命館H30記】
を主力とするウマイヤ朝
【本試験H6時期(イベリア半島への進出がウマイヤ朝時代か問う)】
の軍隊は北アフリカの海岸線をなぞりながら征服してイベリア半島に進出し,711
年
西ゴート王
国
を滅ぼしました
【H30共通テスト試行ウマイヤ朝が征服した地図上の経路を問う(北アフリカ西部からイベリア半島に向かう矢印かどうか)】
。このときの武将〈ターリク〉の上陸地点は「ターリクの丘」(ジャバル=アル=ターリク)と呼ばれ,これ
が
ジブラルタル海
峡
の語源になりました。
ウマイヤ朝
【追H25】
【H30共通テスト試行マムルーク朝ではない】
のイスラームの軍はのちに,732年メロヴィング
朝
フランク王
国
【H30共通テスト試行 マムルーク朝と接触していない】
の宮宰〈カール=マルテル〉
【追H25】
の騎兵軍によ
り
トゥー
ル=
ポワティエ間の戦
い
【セ試行 メロヴィング朝の成立に重要な意味を持っていない】
【東京H29[3]交戦勢力のウマイヤ朝,メロヴィング朝を答える】
【追H9アッバース朝ではない,H25,H29ポワティエの戦いとのひっかけ】
【立命館H30記】
で敗れたものの,ピレネー山脈の南までを支配下におさめました。
西ゴート王国の王族は,イベリア半島西北部に逃れ
て
アストゥリアス王
国
(718~925)を建国しました。アストゥリアス王国は10世紀初めにレオンに遷都し
,
レオン王
国
となります。
715年には,第6代カリフ〈ワリード1世〉(在位705~715)により,ダマスクスに現存する最古のモスクであるウマイヤド=モスクが完成しています。
◆
イスラームのカリフ政権は,ユダヤ教・キリスト教を保護した
「クルアーンか,剣か」ではなく,「貢納」すれ
ば
OK
ウマイヤ朝はこれだけ広範囲に領域を広げたものの,大規模な反乱は起きませんでした。それはイスラーム教徒以前の支配者よりも低い税率を設定し,異なる宗教に対しても寛容であったためです
。
ユダヤ教
徒
と
キリスト教
徒
は
「
啓典の
民
」(アフル=アル=キターブ)として扱われ,特に商業を積極的に保護したイスラーム教徒たちにとって,金融業を営
む
ユダヤ教
徒
との取引は特に重要でした。
イスラーム勢力は,かつて
しかし,ウマイヤ朝の時代の支配層
は
アラブ
人
が中心だったため,たとえイラン人がイスラームに改宗しても,税を払わなくてよい特権をもっていたのはアラブ人だけでした。イスラームに改宗した非アラブ人
(
マワーリ
ー
)はアラブ人イスラーム教徒に対し不満を高め,一方で〈ムハンマド〉の家系を引く他の家門(例え
ば
アッバース
家
)も,ウマイヤ家の血筋の者ばかり優遇されることにが不満を持つようになりました。こうして「ウマイヤ朝を倒して,すべてのイスラーム教徒が平等な国をつくろう」という動きが起こっていきます。第8代〈ウマル2世〉(位718~720)の改革は不十分に終わり,〈ヤズィード2世〉(位720~724)のときに北アフリカとイベリア半島南部(アンダルス)でベルベル人の改宗者(マワーリー)が反乱を起こし,ウマイヤ朝から自立しました。
イランでは,第4代の正統カリフである〈アリー〉の子孫を指導者(イマーム)として支持する人々
が
シーア
派
を形成し,自立傾向を強めていました。彼らの中には,自分たちのイマームをカリフにつけようとするグループのほかにも,「カリフにはアッバース家が就任するべきだ」という考えを持つ人たちがいたため,アッバース家はイランのシーア派と提携を
彼らがイランで反乱を起こすと,アッバース家は,イラン北東部のホラーサーン地方を拠点に反ウマイヤ家の運動を本格化させます。な
ぜ
ホラーサーン地
方
(アム川の南)を拠点にしたかというと,この地方の戦士団には精鋭部隊が揃っていたからです。ホラーサーン地方は,北方からイランに向けて進出する際の重要な"入り口"にあたる地点。古来,交易や略奪の経路として使用されてきたため,ウマイヤ朝時代にも精鋭部隊が置かれたのです。
このホラーサーン軍が中心になって747年にウマイヤ朝に対する武装蜂起が起こります。749年にカリフに選ばれた
〈
アブ
ー=
ア
ル=
アッバー
ス
〉は,750年にウマイヤ朝最後のカリフ〈マルワーン2世〉(位744~750)を倒し
,
アッバース
朝
【東京H23[1]指定語句】
が始まりました。結局シーア派の指導者はカリフにつくことができず
アッバース朝に入って以降のイスラーム世界は、単一の政治体(「
イスラームの家
」)が崩れ、しだいに王朝・国家(ダウラ)の併存する世界となっていきました。しかし、イスラームの戒律体型であるシャリーアには、そのような変容は反映されず、したがってイスラーム世界では「併存する複数のムスリム政治体間の関係を律する「国際法」は存在しない」わけです
(注)
。
(注)鈴木董は、この「イスラームは一つ」(イスラームの家)の理念はその後も長く保たれ、これが近代のパン=イスラーム主義を生み出す一つの背景となり、複数の国家の並立がデフォルトであった西ヨーロッパ世界とは対照的であるとしています。鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.104。
◆
アッバース朝と唐とのタラス河畔の戦いで製紙法が伝わり
,"
アッバー
ス=
ルネサン
ス"
が開花
製紙法がイスラーム圏に伝わり,大翻訳運動へ
〈アッバース〉は内陸ユーラシアにも進軍し,751年
に
タラス河畔の戦
い
【本試験H14ウイグルは関わっていない,本試験H25時期】
で〈高仙芝〉(唐につかえた高麗人の武将)率い
る
唐
【セ試行 ササン朝ではない】
とトルコ系遊牧民のカルルクとの連合軍に勝利をおさめています
(唐・宋のころの中国人は,アラビア人のことを大食(タージー)と読んでいました)
。唐軍が総崩れとなったのはカルルクの裏切りによります。
アッバース朝の捕虜になった唐の紙すき職人を通して中国
の
製紙
法
【追H28活版印刷ではない】
【本試験H27】
【セA H30「中国からイスラーム世界に伝わった」か問う
】
が西方に伝わ
る
ことになったといわれてきました。
ただし、近年ではそれ以前に伝わっていたのではないかという説もあります。
紙という媒体自体は,これ以前にイスラーム世界でも知られていました。しかし,木材が豊富にない西アジア紙の原料に用いられていたのは
しかし、羊皮紙の供給量に限界があります。
そこで,衣類に用いられ
た
麻
が製紙の原料とされるようになりました
(注
1)
。
759年に
は
サマルカン
ド
【本試験H2タリム盆地のオアシス都市ではない】
に,中国以外では初の製紙工場が作られています。そのことは,今後サマルカンドが文化や科学技術の中心となっていく前提をつくりました。793年にバグダード,10世紀にはダマスカス,カイロを通り,1151年にスペインを経由して→1348年フランス→1494年イギリス・1586年オランダ→1635年デンマーク→1690ノルウェー・アメリカ合衆国。イタリアを経由して,1276年→1390年ニュルンベルク→1491年ポーランド→1498年ウィーン→1576年モスクワのように西方に伝わっています。なお,朝鮮半島に伝わったのは600年頃,日本には610~625年頃の伝播です
(注
2)
。
イスラーム世界の各地では,ビザンツ帝国→サーサーン朝を介して継承されてきた,古代ギリシア・ローマの情報が,アラビア語に翻訳されていきました。これ
を
大翻訳運
動
【東京H23[1] アラブ=イスラーム文化圏をめぐって生じた異なる文化間の接触や交流についての論述】
ともいいます
【追H19】
。
830年にはアッバース朝の第七代カリフ
〈
マアムー
ン
〉(マームーン)
が
バイ
ト=
ア
ル=
ヒク
マ
(知恵の館)を建設し,研究者を招いて学芸を充実させました。ある意味「アッバース=ルネサンス」と言っても差し支えないでしょう
(注3)
。
(注1)
http://dtp-bbs.com/road-to-the-paper/paper/history-of-paper.html
。吉田印刷所
(注2
)
木村尚三郎編『世界史史料(上)』東京法令,1977,p.320。
(注)ディミトリ=クダス(同、山本啓二訳『ギリシア思想とアラビア文化―初期アッバース朝の翻訳運動』勁草書房、2002年)は、「翻訳機関たる「知恵の館」が主導したという解釈には否定的」で、「国家的組織的翻訳ではなく、あくまで民間のギリシア分権翻訳ブーム」の結果としています(神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.152)。
◆
アッバース朝は首都を東方のバグダードに移し,官僚機構を整備した
帝国統治に,イラン人官僚が活躍した
なお,アッバース朝の時代になると,カリフは"ムハンマドの代理人"というよりも,
"
神の代理
人
"としての性格を持つようになっていきます。
アッバース朝
【本試験H22】
第2代の
〈
マンスー
ル
〉(位754~775)
【追H30アブー=バクルではない】
は,3重の城壁に囲まれた円形の新
都
バグダー
ド
【京都H22[2]地図上の位置】
【本試験H3アッバース朝の首都か問う,本試験H6長安とならぶ大都市であったか問う】
【本試験H22】
【追H9メッカではない,追H20カイロではない,H25アッバース朝によって築かれた「円城」か問う、H30】
(マディーナト=アッサラーム(平安の都))を現在のイラクを流れ
る
テ
ィグリス
川
【本試験H22】
河畔に計画的に建設しました。イスラーム政権はヨーロッパを圧迫したイメージが先行しがちですが,領域を接していたビザンツ帝国とは対立していたものの,その西方のフランク王国との外交関係は良好で,交易も盛んにおこなわれます。
バグダードは高さ34メートルの城壁で囲まれ巨大都市に成長し,シリア門(北西),クーファ門(南西),果ては長安に通じる中央ユーラシア
の
シルクロー
ド
に向けたホラーサーン門(北東),バスラ門(南東)からは各地への街道が整備され,駅伝制(バリード)がしかれました。また,イラン人を官僚として採用し,文書による行政制度を発達させます。アッバース朝は,アケメネス朝以来のこの地域の帝国支配の伝統を,ハード面でもソフト面でも受け継いだわけです。
さらに,行政システムを整え駅伝制も整備し,革命運動に協力したシーア派の反乱は鎮圧され,アッバース家による中央集権的な支配が固まります
(注)
。
税制については,アッバース朝ではイスラーム教徒ならだれでも地租(土地にかける税
,
ハラージ
ュ
)
【共通一次 平1:人頭税ではない】
を納めるようにし,イスラーム教徒ではない征服された人々
【共通一次 平1:イスラーム教徒には課されない】
からは地租に加えて人頭税
(
ジズ
ヤ
)
【本試験H5】
【東京H21[1]指定語句】
【共通一次 平1:資産税ではない】
【本試験H13】
【名古屋H31記述(説明)】
を納めさせました。なお,ユダヤ教徒とキリスト教徒は,違った考え方によって信仰しているものの,同じ神を信仰し,その神によって創造された人間には変わりないということで,
「
啓典の
民
」(けいてんのたみ)
【本試験H5「...啓典の民に〔ジズヤ〕を課すこともない...」という史料中で使用】
に位置づけられ,人頭税(ジズヤ)を払う代わりにその信仰は保障されました
【共通一次 平1:土地を持っている場合はハラージュも払う】
。
ウマイヤ朝では,アラブ人でない者は,イスラーム教徒に改宗したとしてもジズヤを納めることになっていましたから,イスラーム教徒の中での不平等は解消されたことになります。このことから,アッバース朝を
「
イスラーム帝
国
」とも呼びます。
アッバース朝においてカリフの権限は必ずしも盤石なものではなく、ブワイフ朝がバグダードに入城するまでは、父子相続は確立されておらず、カリフの地位は原則として有力者の選挙で決められ、イスラーム教徒のバイア(契約・臣従の誓い)とフトバによって正統化されました
(注2)
。
また,革命に参加したイラン人は,軍隊や官僚(書記)として採用され,アッバース朝の要職にも就任するようになっていきます。混乱が収拾すると,
「
イスラーム
法
(シャリーア)」
【本試験H19 6世紀には成立していない(イスラーム成立よりも前なのだから),本試験H26ジハード,バクティ,スーフィズムではない】
【大阪H30論述】
に基づき,力でねじ伏せるのではなく制度と文書によって適切に統治が実現するようになっていきました
(注
3)
。
イスラーム法のスンナ派による解釈をめぐっては,預言者のハディース(言行)を重視する法学派シャーフィーイー派,各地域の慣行や商業活動を重視するハナフィー派,メディナ社会の慣行を重視したが過激派に厳しいマーリク派,ハディースを重視し非常に厳格なハンバル派などの学派に分かれていきましたが,統一的な見解を有する組織や制度はつくられませんでした
(どれか一つの学派だけが各王朝で採用されたわけではなく,事件に応じて複数の学派の解釈が使い分けられていました)
。
一方,シーア派の法体系では,ハディースのほかにイマーム(シーア派指導者)の見解が重視されました。
(注1) 従来、「アッバース朝第2代カリフの〈マンスール〉が「私は地上におけるスルターン=アッラーフ(神の力)である」とフトバ(金曜日の説教)で語り、神から直接権力を授けられた「
神のカリフ
」という思想を打ち出した」という通説がありましたが、「神のカリフ」概念はそれ以前、第3代正統カリフ〈ウスマーン〉のときから存在していました。「
カリフ権の神授
」という説明はされなくなりましたが、アッバース朝のときにウラマーによってハディース(伝承)を利用する形で
シャリーア
として理論化し、カリフはこのシャリーアに基づいて神権的権威が正統化されるようになっていきました(神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、pp.107-109)。
(注2) 神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.108。
(注3) 「シャリーア」というのは聖なる領域ではなく世俗の領域に関する法で,内容にはイスラームの教えが反映されています。キリスト教の世界では「宗教」と切り離された世俗法の領域が発達していきますが,イスラーム教の世界はユダヤ教の世界と同じく,「宗教」から切り離された純粋な世俗法はないのです(市川裕『ユダヤ人とユダヤ教』岩波新書,2019年)。
農民から徴収した租税(ハラージュ)のうち,現物で徴収した分は市場で現金化され,官僚による財政管理によってホラーサーン軍や官僚に現金で俸給(アター)が支払われました。シャリーア(世俗法)が整備されていくと,それを受け入れた都市どうしの交易も活発化し,北アフリカからユーラシア大陸東端にいたるまでのイスラーム教徒の都市を結ぶネットワークが形成されていきました。
◆
アッバース朝は〈ハールーン〉のときに最盛期を迎える
100万都市バグダードを生んだアッバース朝
〈
ハールー
ン=
アッラシー
ド
〉(位786~809)
【本試験H3シャープール1世ではない】
【追H9アッバース朝と関係あるか問う】
のときに最盛期を迎え,バグダードは人口100万の大都市となりました。彼は,9世紀に原型ができていたといわれる
『
千夜一夜物
語
』("アラビアン=ナイト")
【追H28イラン起源の物語を含むか問う(正答だが、難しいだろう)】
【東京H8[3]】
にも登場しています。
ちなみに,この物語に現れるシンドバッドの冒険,アリババと40人の盗賊,アラジンと魔法のランプ,空飛ぶ絨毯などの話は,のちにヨーロッパ人によって追加されたものです。
アッバース朝はさかんに金貨
(
ディーナー
ル
)や銀貨
(
ディルハ
ム
)を発行し,為替手形(かわせてがた,スフタジャ)や小切手(こぎって,サック)も使用されていました。小切手はペルシア語ではチェックといい,これが英語のcheckのもとになりました。
イスラーム商人はインド、東南アジアを超えて遠く中国にまで出身地別に交易網を広げていきました。
そのネットワークをさまざまな物が東西に動きます。
楽器では、インドの撥弦楽器が、西のイスラーム世界でウードとなり、それが西ヨーロッパで
リュート
となり、中世の吟遊詩人の商売道具となりました。
遊戯では、インドで生まれたボードゲームが、ササン朝経由でイスラーム世界でサトランチュとなり、西ヨーロッパで
チェス
となりました。逆に、東に移動したものが
将棋
です
(注)
。
(注) 鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.112。
◆
イベリア半島ではウマイヤ朝が存続する
ウマイヤ家の多くはアッバース革命のなかで殺害されてしまいましたが,シリアからモロッコに脱出したウマイヤ朝のカリフの孫
〈
アブ
ド=
アッラフマーン1
世
〉(位756~788)はイベリア半島
【本試験H21小アジアではない】
で,北アフリカ
の
ベルベル
人
【本試験H29イスラーム教への改宗が進んだことを問う】
からの支持を得ました。そして,756年にイベリア半島
の
コルド
バ
【東京H18[3]】
【本試験H30】
を都
に
後ウマイヤ
朝
(
アンダル
ス(
コルド
バ)
のウマイヤ
朝
)
【東京H18[3]】
【追H9スルターンの称号を得ていない、H18カール大帝が滅ぼしてはいない、H25アッバース朝は後ウマイヤ朝に滅ぼされたのではない】
【本試験H16】
【立命館H30記】
を建国します。
首都コルドバは,アッバース朝の首都で発達したイスラー
ム
固有の学
問
(イスラーム教に関する神学・法学・歴史学など)
や
外来の学
問
(ギリシア
【本試験H3】
・ローマやインド
【本試験H3】
,イラン
【本試験H3】
で発達した自然科学・数学・哲学など)を取り込むことで,文化の中心地になっていきました
【本試験H3イスラーム文化は「多様な民族を担い手とする国際的文化である」か問う】
。
イスラーム教では偶像崇拝が禁止されているので,人物や動物の絵画は避けられます
【本試験H3神像や礼拝像が盛んに制作されたのではない】
。そこで,アラビア語に装飾を施し
た
イスラーム書
道
(ペンには,かつて古代エジプトでパピルスに記入するのに使われた葦ペン(カラーム)が使われました)や,植物や図形をモチーフにした幾何学文様
(
アラベス
ク
【本試験H5ジズヤではない】
【追H18】
)が発達していきました。
○60
0
年
~
80
0
年の北アフリカ
632年にアラブ人〈ウクバ=イブン=ナーフィ〉により,サハラ沙漠にイスラーム教が伝わりました。670年には,地中海沿岸
の
チュニジ
ア
に軍営都市カイラワーンが建設されました。その後,711年にはウマイヤ朝の支配下にあったベルベル人の〈ターリク〉を中心に,多数のベルベル人やアラブ人の兵士をともなってイベリア半島に進出。西ゴートの支配者に圧政に対するキリスト教徒やユダヤ人の不満を利用し,〈ターリク〉の軍
は
西ゴート王
国
を滅ぼしました。このときに上陸したイベリア半島南部の小さな半島は「ターリクの山」(ジャバル=ターリク)と呼ばれるようになり,のちになまっ
て
ジブラルタ
ル
と呼ばれるようになりました。現在でも地中海の入り口にあたる重要な地点を占め,スペインの領土に囲まれる形でイギリスの領土となっています。
その後,イベリア半島領ではアラブ人の支配層内で部族対立が起きる中,756年にアッバース朝に敗れてお忍びで逃れて来たウマイヤ家の王子〈アブド=アッラフマーン〉(1世,位756~788)が住民の支持を得てコルドバを占領し,アミール
【追H9スルターンの称号を得ていない】
を称し
て
後ウマイヤ
朝
(アンダルス(コルドバ)のウマイヤ朝,756~1031)が建国されました
(注
)
。従来の支配層の抵抗は続き,〈アブド=アッラフマーン1世〉は777年にフランク王国の〈カール大帝〉(位768~814)に救援を求めています。
〈アブド=アッラフマーン3世〉(位912~961)は929年にカリフ
【追H9スルターンの称号を得ていない】
の称号を名乗り,支配の黄金時代を迎えました。コルドバにはキリスト教の教会に隣接して,壮麗なモスク(メスキータ)
【立命館H30記】
も建てられます。
(注)「後ウマイヤ朝」は日本での呼び名です。イスラーム教諸国では,金曜日の集団礼拝(金曜礼拝)で説教師が説教(フトバ)をおこなうときに,世俗の支配者の名を述べます。その名で呼ばれた支配者が,その領域の世俗の支配者として認められるということになっていたのです。そのようにして支配者として認められた者には,領域内のイスラーム教の保護やインフラの整備,巡礼のために使用する街道の安全確保などが求められました。
マグレブ地
方
とイベリア半島の大部分も,イスラーム教徒の支配圏に入っていきました。マグレブ地方とはアラビア半島からみて「日の沈むところ」という意味で,現在のモーリタニア,モロッコ,アルジェリア,チュニジア,リビアにかけての地中海沿岸地方を指します。
北アフリカの先住民
の
ベルベル
人
の多くは,少数派のハワーリジュ派を受け入れました
(注
)
。彼らはマグレブ地方
に
ルスタム
朝
(776?~909)を建てていました。いずれもハワーリジュ派で,地中海交易・サハラ交易で栄えました。
リビ
ア
は東部(キレナイカ地方)はエジプトの政権,西部(トリポニタニア地方)は西方の政権の影響を受けましたが,アラブ系遊牧民の活動範囲でした。
◆
ローマ教会とコンスタンティノープル教会の対立が深刻化した
聖像禁止令をきっかけに東西教会が対立する
4世紀末に移動を開始したインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々は,各地のローマの官僚機構を利用しながら国家を建設していきました。
それに対しローマを本拠地とす
る
ローマ教
会
は,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々に対し
て
アタナシウ
ス(
ニカイ
ア)派
の布教していきました。布教の際には,文字よりもわかりやすい,〈イエス〉や〈マリア〉など
の
聖画
像(
イコ
ン
)
を使用しました。
それに対し,726年
に
東ローマ帝
国
イウサロス朝の創始者
〈
レオン3
世
〉(在位717~741,教皇レオ3世とは別人)
【本試験H13聖ソフィア聖堂建設は命じていない,本試験H18】
が
聖像禁止令
【東
京
H7[1
]
指定語句
】
【本試験H18】
を発布して批判し,東ローマ帝国の保護する正教会と,ローマ教会との間のケンカにエスカレートしてしまいました
(
聖像崇拝論
争
)。〈レオン3世〉による聖像破壊
(
イコノクラス
ム
)の本音は,教会財産の没収にあったようです。しかし,文字の読めない住民を多くかかえる西方のローマ教会にとっては,聖像禁止令は布教活動への"妨害"以外の何ものでもありませんでした。
教義の上でも両者の間に対立がありました。〈マリア〉は聖霊によって〈イエス〉を身ごもったとされますが,この「聖霊」が父としての神から発すると主張したのが正教会(コンスタンティノープル教会)。いや,父だけでなく子としての〈イエス〉からも発するとしたのがローマ教会です。
ほかにも,最後の晩餐の儀式を象徴する儀式(聖餐(せいさん))で使うパンに
,
パン種を入れ
る
のが正教会
,
入れな
い
のがカトリック教会。
聖職者
の
妻
帯
(さいたい。結婚すること)を一
部
認め
た
のが正教会
,
認めな
い
のがカトリック教会。
また正教会はギリシア語を使用,カトリック教会はラテン語を使用した点にも違いがあります。
そもそも東ローマ帝国の皇帝は
,
コンスタンティノープ
ル
のキリスト教教会
(
正教
会
)を保護し,そのトップであ
る
総主
教
(そうしゅきょう)がとりしきる儀式で皇帝の冠を与えられていました。皇帝はキリスト教の儀式(奉神礼(ほうしんれい)。ローマ教会では典礼(てんれい,ミサ))をとりおこなうことはできず,正教会の中では総主教の次に偉い地位にありました。〈レオン3世〉は聖像禁止令によって教義上の問題に首を突っ込み,それをローマ教会にも押し付けようとしたわけです。
787年には東方教会とカトリック教会がともに認めた最後の公会議である,第二ニカイア(ニケア)公会議が開かれましたが,それ以降はカトリック教会による単独の公会議が開かれるようになり,別々の発展を遂げていくことになります。この会議でようや
く
聖像禁止令の廃
止
が確認されました
(注)
。
このような事情から次第にローマ教会は,教義上の対立を含むコンスタンティノープル教会からの独立傾向を強め,聖像禁止令を押し付ける東ローマ皇帝にかわる新しい保護者が必要と痛感するようになります。
(注)神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.151。
◆
ローマ教会はフランク人の王に保護を求めた
フランク王国のカロリング家は,ローマ教会に接近
そんな中,こつぜんと姿を現したのが,現在のフランス(ガリア)に移動してい
た
フランク王
国
です。ローマ教会が正統とするアタナシウス(ニカイア)派に改宗していた初代国王
〈
クローヴィス1
世
〉が亡くなるとフランク王国は分裂し
,
メロヴィング
家
【H30共通テスト試行 メロヴィング朝はマムルーク朝と同時代ではない】
は弱体化していました。
一方で,フランク王国の東部を支配してい
た
カロリング
家
は勢力を増し,687年には
〈ピピン2世〉の子
,
宮
宰
(国王ではありません
)
〈
カー
ル=
マルテ
ル
〉(686~741)は,軍事力で732年にウマイヤ朝のイスラームの小規模な部隊を追いかけて撃退。「自分はイスラーム教徒を殲滅し,キリスト教世界を救ったのだ!」と話を盛りまくって,一気に名声を高めます。自分自身の出自の低さをカバーするための意図もあったとみられます。ローマ教会はこの功績を聞きつけ,「フランク王国のカロリング家は守護者として期待できる」と,フランク王国への注目を高めていきました。
この戦い
を
トゥー
ル=
ポワティエ間の戦
い
【東京H29[3]交戦勢力を答える】
【本試験H14キリスト教徒とイスラーム教徒との戦いかを問う】
といい,カロリング家が台頭する上で重要な事件ではあるものの,戦闘の規模は決して大きなものではありませんでした。
とはいえ〈カール=マルテル〉は家来たちに獲得した領地を与えて,メロヴィング家に対抗できるだけの軍事力を育成していきます。
こうして彼の子
〈
ピピン3
世
〉
(
小
ピピンとも,位751~768)
【セ試行 カール大帝ではない】【本試験H7】
【本試験H19時期】
【追H29】
は,ときの教皇
〈
ザカリア
ス
〉(位741~752)の許可を得て,メロヴィング朝
【H27名古屋[2]】
の王を武力で排除し,ついにフランク王国国王に就任することができたのです
【本試験H7コンスタンティノープル教会との関係を強化していない】
。
こうしてカロリング朝
【追H29ピピンがひらいたか問う】
(〈カール=マルテル〉が由来です)をひらくことに成功した〈ピピン〉は,教皇を圧迫してい
た
ランゴバルド王
国
を倒し
【本試験H21世紀を問う・滅ぼしてはいない】
【追H30トゥール=ポワティエ間の戦いは無関係】
,彼らが東ローマ帝国から奪い取ってい
た
ラヴェン
ナ
地方を教皇に贈与します。
宗教的な権威に土地や物を寄付することを「寄進」(きしん)といいますので,このこと
を
ピピンの寄
進
【本試験H31時期を問う】
といいます。このときの領土が,のちのちまで続く教皇領の元となります。教皇領は19世紀以降小さくなってしまって,残ったの
が
ヴァチカン市
国
ということになります(ローマ市内にあります)。
◆
〈カール大帝〉
は"
西ローマ皇
帝"
に任命された
ローマ教会は,ローマからフランク
に"
乗り換
え
"
〈ピピン3世〉の跡継ぎは
〈
カール大
帝
〉
(フランク王在位768~814,西ローマ皇帝800~814)
【H29共通テスト試行 クローヴィスとのひっかけ】
【本試験H6】
【追H18後ウマイヤ朝を滅ぼしてはいない】
【セA H30】
です。
〈カール大帝〉は770年にイタリアのランゴバルド王国の王女と結婚しますが、その後、ローマ教皇の救援にこたえ、ランゴバルドを征伐。774年に首都パヴィアを占領し、ランゴバルド王のシンボルであった「鉄の王冠」を奪い、「
フランク人とランゴバルドの王
」を称し、その後息子の〈ピピン〉(位781~810)をランゴバルド王国領やスポレート公領も含めたイタリア王国の国王に任命しました
(注1)
。
さらにラヴェンナにも進出して、ランゴバルド王国の跡地にフランク人の伯を大量に設置して支配を固めました。
772年には、ドイツ北部のザクセン人(ゲルマン人の一派)を攻撃し、10回以上の遠征を数える
ザクセン戦争
がはじまります。頑強な抵抗に対して〈カール大帝〉はザクセン人を厳罰に処し、新たにフランク人の伯を任命することで、エルベ川以西の人々だけでなく東方のスラヴ人も含めてフランク王国の統治に服しました。
ドナウ川上流のバイエルン人は788年に支配下に置き、791年にはアヴァール人を制圧してアヴァール辺境領を置いて、ウィーンも支配に置いています。
北方のデーン人まで支配は及びませんでしたが、北方のフリース人と戦っています。
さらに778年にはイベリア半島北部にも遠征。サラゴサのイスラーム教徒を制圧したところで撤退しますが、その途中に起きたバスク人との戦闘で多くの死傷者を出しました。このときに命をかけて戦った兵士が元となった叙事詩が『
ローランの歌
』です。795年にはピレネー山脈の南に
スペイン辺境領
を置いています。
また、その北方のアキテーヌ地方には息子を王としたアキテーヌ王国を創設、西北フランスのブルターニュ地方も支配下に置いています。
801年には現在のスペインのバルセロナにまで伯を置いています。
さらに799年,暴動が起きたためローマから避難した教皇〈レオ3世〉
【追H24グレゴリウス7世ではない】
の救援に応じ,800年に軍を引き連れてローマに入城。そこで,長年空位だった西ローマ帝国の皇帝の冠を授けられました。
〈カール〉はこの事件を通し、「西におけるローマ帝国」が復興されたという意識を当時の人々に与えようとしました
(注2)
。
当時のローマにはかつての帝国首都としての面影はまったくなく,寒空のもと,ローマ教会はコンスタンティノープルに拠点を置くローマ皇帝からも冷遇されていました。
〈ペテロ〉の"後継者"としての
候補の一つに,589年にアタナシウス派に改宗していたイベリア半島
の
西ゴート王
国
があったわけですが,こちらは711年にウマイヤ朝に滅ぼされている。そこで
,
フランク
人
を"ローマの代わり"に立てたわけです。
こうして〈カール大帝〉は「西ローマ皇帝」に任命され,西ヨーロッパの大陸部の分裂状態は一時的に終わりを迎えたのです。
(注1) 北村暁夫『イタリア史10講』岩波新書、2019年、p.40。
(注2) 北村暁夫『イタリア史10講』岩波新書、2019年、p.40。
◆
東ローマ帝国はイスラーム教徒の進出に対応し,中央集権化を進めます
イングランド出身の聖職者〈ボニファティウス〉(672?~754)は,フランク王国支配下のインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々に対するアタナシウス派の布教を積極的におこない,徐々にアタナシウス派の住民を増やしていきました。のち
に
カロリング
家
と呼ばれることになる家柄が
,
宮
宰
(マヨル=ドムス)という実質的にナンバー2の役職を世襲しており,やがてフランス全体に支配権を広げていきます。メロヴィング朝のフランク王国に仕えた,王国ナンバー2
の
フランク王国
【追H30ランゴバルド王国はない】
が,732年にイスラーム教徒のウマイヤ朝の進出に対してトゥールとポワティエの間で勝利したのは,この軍事力によるものです
(
トゥー
ル=
ポワティエ間の戦
い
)
【東京H29[3]交戦勢力を答える】
【本試験H14キリスト教徒とイスラーム教徒との戦いかを問う】
【追H30】
。
ただ,この戦いは決して大きな規模ではなく,〈カール=マルテル〉が自らの家柄の
彼の功績の宣伝を聞きつけ,「ビザンツ皇帝に代わる,教会の守護者として期待できる」と,ローマ教会は,カロリング家のフランク王国への注目を高めていきました。
〈カール=マルテル〉もこの勝利を利用し,家来たちに領地を与えて,メロヴィング家に対抗できるだけの軍事力を育成するとともに,ローマ教会に接近します。
○60
0
年
~
80
0
年のヨーロッパ 西・北ヨーロッパ
○60
0
年
~
80
0
年のヨーロッパ 西・北ヨーロッパ
◆
異
端(
アリウス
派)
の退治が,キリスト教世界での名声につながった
〈カール=マルテル〉の子
〈
ピピン3
世
〉(位751~768)
【本試験H19時期】
は,今度は教皇を圧迫してい
る
ランゴバルド王
国
に着目
【本試験H21世紀を問う・滅ぼしてはいない】
。彼らは,ラヴェンナにあったローマ帝国の総督府を占領していましたが,ここにいた東ローマ(ビザンツ)帝国の軍隊はそこから撤退していたのです。
つまり,ランゴバルド王国からラヴェンナを奪えば,イタリア半島支配の重要拠点が手に入ることになります。
ローマ教会の側からみても,アリウス派を信仰するランゴバルド王国がラヴェンナを支配しているよりも,協力的なフランク王国に支配してもらったほうが安心でした。
そこで,ランゴバルド王国を退治してくれる代わりに,カロリング朝の建国を認めてもらう取引がおこなわれたわけです。
こうして,教皇〈ザカリアス〉(位741~752)の認可を得てフランク王に即位し
,
カロリング
朝
を創始。獲得した旧・ラヴェンナ総督領を教皇に
宗教的な権威に土地や物を寄付することを「寄進」(きしん)といいますので,このこと
を
ピピンの寄
進
【本試験H31時期を問う】
といいます。このときの領土が,のちのちまで続
く
教皇
領
の元となります。ローマ教皇も「領域国家」を持ち,みずからの収入源を確保するようになったわけです。
教皇領は19世紀以降小さくなってしまって,残ったの
が
ヴァチカン市
国
ということになります(ローマ市内にあります)。
〈ピピン3世〉の跡継ぎは
〈
カール大
帝
〉(フランク王在位768~814,西ローマ皇帝800~814)
【H29共通テスト試行 クローヴィスとのひっかけ】
【本試験H6】
です。〈カール大帝〉は799年,暴動が起きたためローマから避難していたローマ教皇
〈
レオ3
世
〉
【本試験H6】
【H27名古屋[2]】
【セA H30「ローマ教皇」】
の救援に応じ,800年に軍を引き連れてローマに入城。そこで,長年空位だった西ローマ帝国の皇帝の冠を授けられました。ローマ教皇によって「西ローマ皇帝」に任命され,西ヨーロッパの大陸部の分裂状態は一時的に終わりを迎えます。
○60
0
年
~
80
0
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現⑦
アイルランド
,⑨
イギリス
708年にフランス北西部沿岸の島モン=サン=ミッシェルに,司教〈オベール〉が聖堂を建設したと伝えられています(◆世界文化遺産「モン=サン=ミッシェルとその湾」,1979(2007範囲変更))。
○60
0
年
~
80
0
年のヨーロッパ 北ヨーロッパ
現⑧
アイルランド
,⑨
イギリス
◆
ブリテン島南東部にイングランド王国が成立した
アング
ロ=
サクソンの王国が成立したが,8世紀末にヴァイキングが初めて現れる
インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の一派
の
アング
ロ=
サクソン
人
は,ブリテン島にわたって,600年頃から9世紀までに7つの王国
(
七王
国
,
ヘプターキ
ー
)
【本試験H30】
を建国していました。
キリスト教のアイルランド教会は,ローマ教会と競うようにイングランドに布教活動を行いました。アイルランドからは学芸が書物や学者を通じてイングランドに伝わり,カンタベリやヨークでノーサンブリア文化が栄えました。〈ベーダ〉(673?~735)は『イングランド教会史』を著しています。
9世紀末~10世紀初めにかけて七王国のなか
の
ウェセック
ス
の王が中心になり,統合が進んでいきました。ウェセックス王
の
〈
アルフレッド
〉
大
王
(位871~899)
【本試験H14・H27】
【追H29デーン人の王国を建てたわけではない】
が
デーン
人
【本試験H14,本試験H27アヴァール人ではない】
の襲来を防ぎ,973年には〈エドガー〉(位959~975)が,カンタベリ大司教のもとで「全ブリテン島皇帝」を称したことを
,
イングランド王
国
の成立とみることができます。ちなみに〈アルフレッド〉は歴史書『アングロサクソン年代記』の編纂を命じています。
国王は各地を移動しながらその声と体と豪華な儀式や奇跡(手で触れると病気が治るなど)
【本試験H16リード文(アンリ4世の触手儀礼について)】
で人々に権威を示し,現地で議会や裁判所を開いて回りました
(
移動宮
廷
。中世ヨーロッパで広く見られた支配方式です)。また,地方には州(シャイア,現在のイギリスのヨーク「シャー」などにも残る言葉です)が設置されました。
なお,793年に
は
ヴァイキン
グ
(ノルマン人
【東京H6[3]】
)の一派が,イングランド北部の大修道院を襲撃しています。彼らに関する初の記録です。次の時期に入ると,彼らの活動は一層本格化していくことになります。
●60
0
年
~
80
0
年の南極
7世紀にポリネシア人が南極大陸に到達?
オセアニアのラロトンガ島の船乗り〈ウイ=テ=ランギオラ〉(生没年不詳)が,650年頃
に
南極大
陸
(ニュージーランド南方のロス海)に到達していたことを示唆する史料が残されています
(注
)
。
(注)Antarctica, "Encyclopedia Britannica",https://www.britannica.com/place/Antarctica/History#ref390155
広域国家の新たな理念を共有する諸国家が,中央ユーラシアの交易の覇権をめぐって抗争する。
テュルク人の大移動を背景に,ユーラシア大陸に農牧複合国家が栄えるが,東西交易は陸上から海上に重心を移す。温暖な気候の影響を受け各地で開発がすすみ,人口・領域が拡大する。
南北アメリカ大陸では,中央アメリカと南アメリカのアンデス地方で交流の広域化がすすむ。
時代のまとめ
「中世温暖期」にあたるこの時期には,世界各地で開発の進展と人口の増加,民族移動がみられ
る
。
(1
)
ユーラシア
・
中央ユーラシ
ア
では,テュルク系
の
ウイグ
ル
帝国が同じくテュルク系
の
キルギス
人
の進出で崩壊。テュルク系民族が西方に大移動し
(
テュルク系の大移
動
),タリム盆地
の
カルルク
人
,カザフ草原
の
キメク
人
,カスピ海周辺
の
オグズ
人
などが,定住農牧民の世界に進出。
モンゴル高原や中国北方周辺で
は
タタール
人
,
モンゴル
人
,
タングート
人
,
キタ
イ
(契丹
)
人
も台頭し,中国文化を受容したタングート
は
西
夏
を,契丹
は
遼
を建国した。
西方のテュルク系民族はイスラームを受容し,タリム盆地で
は
カ
ラ=
ハン
朝
,アフガンで
は
ガズナ
朝
が建国される
とくにオグズ人はテュルクマーンともいわれ,イラン高原からイラク・シリア・アナトリア半島にかけ
て
セルジューク
朝
を建設し西アジアを席巻。ローマ=カトリック教会と結びついたアルプス以北の君主国やイタリア商人の東方拡大である
「
十字
軍
」の進出と衝突する。
・
東アジ
ア
では唐が滅び,貴族文化が衰え新興地主層が台頭して市場経済が発展し
,
五代十
国
時代を経
て
宋
が建てられる。江南の開発がすすみ,沿岸の港市も繁栄する。
北海道周辺には狩猟採集民
の
アイ
ヌ
が交易で台頭する。
唐
王朝の滅亡後,定住農牧民の世界には,中国
に
五代十
国
,朝鮮半島
に
高
麗
,雲南
に
大
理
,沿海州
に
渤
海
が並び立つ。
・
東南アジ
ア
では集約的な灌漑農耕により各地で政治的な統合がすすみ,カンボジアのアンコール
朝
クメール王
国
,タイ中流部にモン人
の
ハリプンチャイ王
国
,下流部にラヴォ王国,ビルマ
の
パガン
朝
,ヴェトナム北部に大越,南部にチャンパーが栄える。
・
南アジ
ア
ではデカン高原以南にヒンドゥー教の諸王国が,集約的な灌漑農業や海上交易によって栄える。東南部
の
チョーラ
朝
【本試験H31】
は東南アジアのマラッカ海峡に進出し,シュリーヴィジャヤ王国と抗争する。
・
西アジアにはテュルク〔トルコ〕系が大移動し,各地で政権を樹立する
西アジアでは従来
の
イラ
ン
系に代わっ
て
テュル
ク
系の進出を受け,各地にイスラーム教を保護する支配者による地方政権が自立するようになって
,
アラ
ブ
人のカリフの権威が衰えた。
・ヨーロッパでは,2度目の民族大移
動(
ノルマン人,マジャール人,スラヴ
人)
の影響を受け,地域内の交流が活発化,森や低地の開発も進展し「拡大」の時代を迎える
西ヨーロッ
パ
で
は
フランク王
国
が現在のフランス,ドイツ,イタリアを統合。東地中海方面のローマ帝国(いわゆる東ローマ帝国;ビザンツ帝国)と対抗する。
フランク王国の分裂後は地方政権が分立する。
特
に
イングラン
ド
(デーン人の支配地域への再征服が進められ,10世紀後半までには国王の宮廷と州からなるアングロ=サクソン人の統一王国が成立し,国王も「イングランド王」と呼ばれるようになっていた)
,
フラン
ス
(例えば〈フィリップ2世〉(1180~1223)は王領を拡大)
,
ドイ
ツ
の王権が抗争した。
人口増にともないドイツ人は東方に移動し
(
ドイツ東方植
民
),東ヨーロッパ・中央ヨーロッパ・バルカン半島に拡大してい
た
スラヴ
人
の
ポーラン
ド
,
ベーメ
ン
などの王権と対立した。この2国をめぐっては,ビザンツ帝国とローマ=カトリック教会との間に"布教合戦"が繰り広げられたが,東方
(ドニエストル川流域から9世紀末にカルパティア盆地に移動)
から移住したマジャール人
の
ハンガリ
ー
(9世紀初めに建国されていたモラヴィア人の国を滅ぼし,ザクセンとバイエルンを圧迫した)
とともに,最終的にはローマ=カトリックを受け入れた。
イベリア半
島
では西部で
は
レオン王
国
が後ウマイヤ朝と領土を争い,南部のセビーリャを奪回したことからイタリア商人が直接北海に進出できるようになった点は重要。東部で
は
バルセロナ伯
領
(旧・スペイン辺境伯領
【立命館H30記】
)が拡大して1137年に
は
アラゴン王
国
と統合した。イベリア半島(イスラーム側からはアンダルスと呼ばれた)ではイスラーム商人,ユダヤ商人が活躍し,北アフリカ,シリア,パレスチナとの交易ルートをめぐり
,
マケドニア朝のビザンツ帝
国
(867~1056)と抗争した。皇帝〈バシレイオス2世〉(位976~1025)はブルガリア王国を併合して,最盛期を迎えた。
これら諸国の支配層(
バルカン半島では,スラヴ人
の
セルビ
ア
や東方から進出してき
た
ブルガー
ル
が
,
ビザンツ帝
国
と対立しつつキリスト教
の
正教
会
を受け入れている。
北方
の
ノルマン
人
はキリスト教を受け入れ,イングランド,北フランス,ロシア,南イタリアに移動して建国するとともに,北アメリカにも進出している。ノルマン人の騎士はローマ教皇と手を結び,地中海地域の一体化にも貢献する。
(注1)現在のアメリカ合衆国ニューメキシコ州に位置します。写真は,参照 ジャレド・ダイアモンド,秋山勝訳『若い読者のための第三のチンパンジー』草思社文庫,2017,pp.298-299。
(注2)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.11
(2
)
アフリカ
アフリカ大
陸
で
は
北アフリ
カ
地中海沿岸に,イスラームの地方政権やベルベル系の政権が並び立つ。
ニジェール川流域では,ニジェール=コンゴ語派マンデ諸語系
の
ガーナ王
国
(9~12世紀)は,11世紀後半にベルベル系
の
ムラービト
朝
の南方への進出を受けて滅亡する。チャド湖周辺に
は
カネム王
国
が栄える。
東アフリカのインド洋沿岸部には,アラブ人やペルシア人の植民が進み,アラビア半島南部のイエメンやペルシア湾岸,南インドと
の
ダウ
船
による季節風交易で栄え
,
スワヒ
リ
文化圏を形成する。
(3
)
南北アメリカ
北ヨーロッパのノルマン人
(
ヴァイキン
グ
)の一派が,1000年頃に北アメリカ沿岸に到達した。スペインの支援を受けて〈コロン〉がアメリカ大陸に到達する約500年前のことだった。
北極圏の寒冷地では,従来のドーセット文化に代わり,現在のエスキモー=アレウト語族の原型とな
る
テューレ文
化
が拡大する(
現在
の
エスキモ
ー
系の民族は,おおきくイヌイット系とユピック系に分かれ
,
アラス
カ
にはイヌイット系のイヌピアット人と,イヌイット系ではないユピック人が分布しています
。
北アメリカ大陸北
部
とグリーンランドにはイヌイット系の民族が分布していますが
,
グリーンラン
ド
のイヌイットは自分たちのことを「カラーリット」と呼んでいる
)。
アメリカ大
陸
では北アメリカ南西部の古代プエブロ人
が
チャ
コ=
キャニオ
ン
に巨大な建造物を生み出してい
る
(
注
1
)
。ミシシッピ川流域,大西洋岸の農耕民地帯も拡大し,にミシシッピ川流域には神殿塚文化が栄える。
カリブ海では
,
アラワク
人
がカヌー(カヌーはアラワク語)で南アメリカ北部からカリブ海に進出。キャッサバ農耕や漁撈を営む。
南アメリ
カ
ではアンデス地方
で
ワリ文
化
,
ティワナク文
化
が衰退に向かい,アンデス地方は地方政権(北部沿岸
の
シカン文
化
など)が各地で栄える。
(4
)
オセアニア
オセアニ
ア
で
は
ポリネシア
人
の拡大が最終局面を迎え,北はハワイを頂点に,南西のニュージーランド(1250年頃到達),南東のラパ=ヌイ島を結ぶ巨大な三角形(アメリカ合衆国の本土の2倍に相当)の範囲を占めるに至る。彼らは地球でもっとも広範囲に拡散した民族の一つだ
(
注
2
)
。
解説
①
「中世温暖期」にあたるこの時期には,ユーラシアの陸海の交易ネットワークが拡大する
この期間は,地球全体の温暖化が進行した時期にあたります
(
中世温暖
期
(
注
1
)
)。ユーラシア大陸には,都市と都市を結ぶ交易路が紀元前から網の目のように発達してきました。これが13世紀にかけてより
一層発展していき,アフリカ大陸からユーラシア大陸にかけて伸びる陸海の巨大な交易ネットワークが形成されていきました。
交易で交換されるものは物だけとは限りません。人や動物,病気
(
疫
病
),それに加えて文化もユーラシア大陸を東西に越えて移動していくことになりました。特に
,
文化の交
換
により異なる地域で発展し
た
情報の交
換
が進み,文化の発展にかかるスピードがどんどん早くなっていきます。「751年に唐から西方に伝わった」とされる製紙法も,情報の伝達量とスピードに貢献しました
(
注
2
)
。
また,東西で感染症の交換が起きたことで
,
はし
か
,
天然
痘
,
腺ペス
ト
など一地方の感染症が地域を超えて広ま
る
疫病の交
換
も起き,相当な被害者が出たと考えられます(医療
ペストの大流
行
)
(注
)
。
(注)マクニールは,ある疾病の原因となる感染症を保有する集団を「疾病共同体」と呼び,その内部での流行
を
エンデミッ
ク
(局地的流行),それをを超えた感染症の流行を
「
パンデミッ
ク
」と呼びました。W.H.マクニール『疾病と世界史』新潮社,1985。
こうした東西の交易に大きな役割を持っていたのは,陸で
は
騎馬遊牧
民
や
オアシス国
家
,海では海洋を支配し
た
港市国
家
です。この時点では,農耕地帯を支配する国家がこうした陸と海のネットワークを支配下に置くことはまだできていません。
各地域内の交易も盛んになり,ヨーロッパでは南北を結ぶ交易路が開発され,ゴシック様式の教会が各地に建てられました。西アフリカでは,地中海とサハラ沙漠以南を結ぶ交易も盛んになります。
②
世界各地で「開発」と「技術革新」が進む
一方,農耕地帯を支配した国家は,積極的に農業生産力を向上させようと努めるようになります。従来の国家は,戦争により征服地から食料や資源を奪ったり租税をとることを重視していましたが,それにもやはり限界があります。10世紀頃から温暖な気候もあり世界各地で食料生産量が増加したことも手伝って
,
農業開
発
や
技術革
新
が盛んになります。
開発が進んだのは従来は"辺境"とされていた地域でした。長江流域や東南アジアの大河の河口の稲作地帯が大規模に開発され,北部の黄河流域を抜き南部の長江下流域が人口密集地帯となっていきます
(
注
3
)
。
中国南部では新たな米の品種
(
占城
稲
(せんじょうとう)
【追H26時期は9世紀後半~13世紀だが、黄河流域ではない】
【東京H19[1]指定語句,H26[3]】
)が導入されました
(
米の品種改
良
)。余剰生産物が増えると商業都市が発達し,民衆の文化も発展,各地で
同じ頃のヨーロッパでは
,
三圃
制
(さんぽせい)
【本試験H19時期(6世紀ではない)】
が導入され,馬の首あてが改良され
,
重量有輪
犂
(じゅうりょうゆうりんすき)
【追H26】
【本試験H7 11世紀以降の西欧で農業生産力が向上した要因か問う】
【本試験H17】
が発明されました。特に重量有輪犂によってより深く固い土を耕すことができるようになり,農業生産性がぐんと上がります
【追H26】
。余剰生産物が増えると商業都市が発達し,民衆の文化も発展,各地にゴシック様式の教会が建造されました。
この時期には北ヨーロッパや東ヨーロッパでも農業がさかんになったため,新たな土地を求め
た
ノルマン
人
や
スラヴ
人
による人口移動も盛んになります。
東南アジアでは,灌漑農業を奨励した王朝により,東西南北の交易ネットワークの中心にであるアンコールに巨大記念建造
物
アンコー
ル=
ワッ
ト
が造営されます。イスラーム世界に,アフリカ原産
の
綿
やモロコシ(ソルガム)が登場するのもこの頃です。
アフリカのサハラ沙漠以南の地域でもサハラ沙漠を越え
る
塩金貿
易
【追H30】
が活発化し,ニジェール川流域では農耕も栄えます。
さて,これら農耕文明の富と,陸海に発展した交易路を一挙に管理下に置いていくのが,次の時期で登場す
る
モンゴル帝
国
です。その前段階として,ユーラシア北部の騎馬遊牧民がユーラシア中央部から南部の農耕定住民地帯に国家を建国していきました。
(注1)IPCC第4次評価報告書(2007年)は,950年~1100年の北半球における平均気温が,この2000年の間では温暖だったことが示唆されるとしています。
(注2)11世紀初頭のカイロ(エジプト)の図書館には10万冊の蔵書があり,その多くが紙の本であったといわれます。デヴィッド・クリスチャン,長沼毅監修『ビッグヒストリー われわれはどこから来て,どこへ行くのか――宇宙開闢から138億年の「人間」史』明石書店,2016年,p.258。
(注3)同上,2016年,p.261。
◆
この時期に北米のヴァイキングが有史以来初めて北アメリカと接触する
ヴァイキングが北米に到達,中南米の交流が広域化
○80
0
年
~
120
0
年のアメリカ 北アメリカ
◆
北アメリカでも農耕を基盤とする地域的な政治統合がすすむ
・
80
0
年
~
120
0
年のアメリカ 北アメリカ
現①
アメリカ合衆国
,②
カナダ
北アメリカ北部
(
寒帯・冷帯エリ
ア
)
北アメリカの北
部
では,1000年頃には,現在
の
イヌイッ
ト
の祖先であ
る
テューレ
人
(テューレ=イヌイット)が,アザラシやセイウチの狩猟技術を発展させ栄えました。彼らの言語はシベリアの北東部の言語と近縁です。
北アメリカには
,
アイスランドのヴァイキン
グ
が到達しています。この時代には,1000年頃にヴァイキングの
〈
エリクソ
ン
〉が,葡萄の実る豊かな国
「
ヴィンラン
ド
」を発見したとされ(彼らの叙事詩『サガ』によります),彼らが植民した場所を,記録を元にノルウェーの歴史学者が1960年代に調査したところ,ニューファンドランド
の
ラン
ス=
オ
ー=
メド
ー
(世界文化遺産,1978)であることが突き止められました。
この地では8か所の住居跡,製材所,鍛冶場のほかに,青銅器や鉄器も発見されており,北アメリカ大陸初の鉄の精錬が行われていたことがわかっています。
テューレ人の一部は,気候の温暖化にも助けられ
,
グリーンラン
ド
に移動しました。テューレ人がヴァイキングの文化と接触した可能性もあります。
◆
北アメリカ南西部に巨大建築物と大集落がつくられたが,森林破壊が進
み
1
2
世紀に崩壊した
集落が大規模化し,南西部に神殿が建設される
北アメリカ北東部
(
温帯・冷帯エリ
ア
)
北アメリカ
の
北東
部
に
は
イロクォア語
族
などが分布しています。彼らは同じ氏族に属する数家族
が
ロングハウ
ス
という樹皮でつくった木造の長屋に暮らしていました。
北アメリカ東南部 ミシシッピー川流域
(
温帯エリ
ア
)
北アメリ
カ
東南
部
には,この時期にトウモロコシが伝わりました。この結果,余剰生産物が発生し,首長による政治的な統合がみられるようになります。
現在のイリノイ州
の
カホキ
ア
には多く
の
マウン
ド
(埋葬塚)が残されており,強力な支配階層が出現し1250年頃まで栄えました。これがユーラシア大陸で農牧民を支配した国家と同じような「国家」といえるかどうかは,よくわかっていません。
1000年頃には,現在のオハイオ州南部にグレート=サーペント=マウンドが建造されています。
北アメリカ西南部 コロラド高原流域
(
乾燥エリ
ア
)
北アメリカ
の
西南
部
の
コロラド高
原
では,トウモロコシの灌漑農耕によって大規模な集落ができていました。
「中世温暖期」にあたる860年~1130年にかけては
,
チャ
コ=
キャニオ
ン
に数千の部屋をもつ5階建ての大規模な集合住宅(一部は神殿として用いられていた可能性もある)が建設されています
(
注
1
)
。周辺に生い茂っていたオークの林の伐採がすすみ12世紀には放棄されたことがわかっています
(
注
2
)
。人口の増加と生態系の悪化による文明崩壊の例の一つといえます。
また,コロラド州のメサ=ヴェルデ国立公園には,崖下に建設された大規模な住居群
(
クリ
フ=
パレ
ス
)が残されており,礼拝所とともに貯水・灌漑施設も整備されていました(世界文化遺産,1978)。
(参照)デヴィッド・クリスチャン,長沼毅監修『ビッグヒストリー われわれはどこから来て,どこへ行くのか――宇宙開闢から138億年の「人間」史』明石書店,2016年,pp.242-243
(注1)現在のアメリカ合衆国ニューメキシコ州に位置します。奥行きは200メートル,幅は95メートルであり,ニューヨークに20世紀後半に
「
(注1)同上,pp.319-321
○80
0
年
~
120
0
年のアメリカ 中央アメリカ
マヤやサポテカの諸都市が放棄され,中央高原は諸国家が割拠する
◆
マヤ文明の中心は北部に移動する
マヤの中心が北
部(
チチエ
ン=
イツァーな
ど)
に移る
ユカタン半
島
を中心とするマヤ地域の高山地域
(
マヤ高
地
)の都市国家は,
おそらく人口の過密や土地侵食・森林破壊などの農業環境の悪化により次々に放棄されていきました。840年頃には大きな
マヤ文明の中心
は
マヤ低地北
部
の
チチエ
ン=
イツァ
ー
に移り,「後古典期」(900年頃~1524(1541))が始まりました
(注
1)
。マヤ低地北部には250年以前の先古典期から存続していた都市もあるので,すべての諸都市が「古典期」の終焉とともに「滅んだ」というわけではありません。
北部にはセノーテとい
う
地下
水
の湧水池があって,灌漑農耕に使用されました(セノーテの形成には隕石の衝突が関わっているという説があります)。
チチエン=イツァーの担い手であ
る
イツァー
人
の出自には諸説あります(古典期マヤ文明に比べ碑文を残す文化がないので,史料がぐっとすくなくなります)が,おそらく低地マヤ地域の中部から移動してきたのではないかとみられています
。
ケツァルコアト
ル
神信仰や,メキシコ方面の文化の影響もあることから
,
トルテカ
人
が移動してきたのではないかという説もあります。
また,マヤ文明の中心が北部に移った背景には,交易ルートが内陸ルートから沿岸部を通るルートに変更したからだという説もあります。
なお,マヤ南部の高地(マヤ高地)でも,キチェー人(マヤ神話『ポポル=ヴフ』を記録した民族)のウタトランとカクチケル人のイシムチェなどの諸都市が栄えています。
(注1)実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館,2016,p.23。
(注2)ジェレミー・ブラック,牧人舎訳『世界史アトラス』集英社,2001,p.122。
(注3)ジェレミー・サブロフ『新しい考古学と古代マヤ文明』新評論,1998。
◆
メキシコ高原南部のオアハカ盆地ではモン
テ=
アルバンが放棄され,ミシュテカ人が台頭する
メキシコ高原南部のオアハカ盆地で
は
サポテカ
人
によるモンテ=アルバンが1000年頃に放棄されます。サポテカ人の諸都市の王朝には,代わっ
て
ミシュテカ
人
が入り込んでいき,代わって台頭します(900~1522)。これ以降は,中規模の都市が並び立って栄える時期となります
(注
)
。ミシュテカ人は巧妙な装飾品に優れ,「ナットール絵文書」などからその歴史が研究されています。
(注)芝崎みゆき『古代マヤ・アステカ不可思議大全』草思社,2010,p.45。
◆
メキシコ高原北部には,複数の国家が並び立つ
メキシコ高
原
ではティオティワカンに代わって,いくつかの中規模な国家(カカシュトラ
,
トゥー
ラ
,テオテナンゴ,ショチカルコ,エル=タヒン
,
チョレー
ラ
)が栄えます。
このうちチョレーラは,後1世紀以降に栄えたケツァルコアトルの聖地です。
○80
0
年
~
120
0
年のアメリカ カリブ海
カリブ海域に
は
アラワク語
族
の人々が分布し,各地で首長による政治的に統合されています。
○80
0
年
~
120
0
年のアメリカ 南アメリカ
◆
アンデス地方ではワリ文化が拡大する
この時期の南アメリカでは,ペルーの北部海岸地帯で栄えていたモチェ文化は衰退。
南部海岸地帯のナスカ文化も衰退しています。
アンデス地方中央部,現在のボリビア側のティティカカ〔チチカカ〕湖の近くに紀元前から12世紀頃ま
で
ティワナク文
化
が栄え(8世~12世紀が最盛期),同時期には現在のペルー南部からチリ北部にかけ
て
ワリ文
化
が栄えました(6~11世紀が最盛期)。
特にワリ文化の影響は,山地と沿岸部を合わせて広範囲に及びます。
◆
アンデス地方の北部海岸地帯でシカン文化,チムー王国が栄える
ペルーの北部海岸地帯のモチェ北方の政権は,拡大するワリに貢納する僻地となっていました
(注
)
。
そのワリの影響を受けつつ,モチェでは9世紀
に
シカン文
化
が発展しました。金属製作や交易に長ける人々を担い手とします。
そのシカン文化を吸収するようにして,1200年頃以降,ペルーの海岸地方のチャン=チャンを中心とし
て
チムー王
国
が建てられます。
(注)島田泉「ペルー北海岸における先スペイン文化の興亡―モチェ文化とシカン文化の関係」,増田義郎,島田泉,ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS,2000,p.180。
◆
アマゾン川流域の定住農耕集落の規模が大きくなる
アマゾン川流
域
(アマゾニア)には,1000年~1500年の間に定住農耕集落の規模が大きくなります。
1970年以降ようやく研究が進むようになったこの地域の複雑化した社会のことを,
「
アマゾン文
明
」と呼ぶ研究者もいます。アマゾン川流域の土壌
は
ラトソ
ル
という農耕に向かない赤土でしたが,前350年頃には,木を焼いた炭に,排泄物・木の葉・堆肥などの有機物をまぜて農耕に向く黒土(テラ=プレタ)を開発していたと考える研究者もいます
(注)
。
(注)実松克義『驚異のアマゾン文明』講談社,2004,p.68。
7世紀中頃以降,黒海北岸からカスピ海北岸にかけて,積極的に交易活動に従事したユダヤ教の国
家
ハザ
ル
は,10世紀以降は遊牧
民
ペネチェグ
人
やキエフ公国
の
ルー
シ
の攻撃を受けるようになり,965年にキエフ公国により滅びました。
チベット高原では,7世紀初め,
〈
ソンチェンガム
ポ
〉(ソンツェン=ガンポ,在位593~638,643~649)
【本試験H16】
が氏族を統一し
,
なお
,
大乗仏教では,「すべての命あるものが悟ることができるまで,自分自身は悟らない!」と決心した優しさに満ち溢れ
た
菩
薩
(ぼさつ)という存在を信仰します。菩薩は,人々を仏教で導く王に化身(けしん)すると考えられ,チベット仏教ではその「菩薩王」が,多数生み出されました。〈ソンツェンガムポ〉王や〈ティソンデツェン〉王もその一人なのです。
吐蕃
【追H29唐に侵入したのは吐蕃であって,西夏ではない】
は唐が安史の乱で混乱しているところを狙い,長安を占領し(848年まで),790年には亀茲の安西都護府を陥落させ,ウイグルと対抗し,東西貿易ルートを支配下におさめるにいたります。こうして,チベット文化
,
チベット仏
教
は,タリム盆地を越えて,広がっていくことになるわけです。なお,〈ディツクデツェン〉王(位815~841)は唐と和解
(
◆
パミール高原以西・以東のテュルク化とイスラーム化が進んだ
テュルク系が西に移動し,イスラーム化がすすむ
840年にキルギス
【京都H19[2]】
の進出によって
,
ウイグ
ル
はモンゴル高原を追われます
【追H28中央アジアでは「匈奴」の分裂をきっかけとしてトルコ化が進んだのではない】
【H29共通テスト試行 地図(「トルコ系の勢力は,モンゴル高原から西方に広がった」ということの読み取り)】
。
キルギスはその後モンゴルに支配され,パミール高原のほうに移動し,現在に至ります。遊牧帝国は建設しなかったのです。
モンゴル高原を出たウイグルは,天山山脈あたりで国家
(
天山ウイグル王
国
)を形成し,別の部族はさらに西
で
カルル
ク
という遊牧民と合流して建国しました。
後者はおそらく突厥の有力氏族(阿史那)の血を引くと首長する者が「カガン」を名乗り,940年
に
カ
ラ=
ハ
ン
(
カラハ
ン
)
朝
【京都H19[2]】
【追H19時期、H21イラクの王朝ではない】
を建国したといわれますが,定説はありません。
カ
ラ=
ハン
朝
【京都H19[2]】
はテュルク系民族として初めて,(1
)
タリム盆
地
周辺と(2
)
アム川・シル川上流
部
を合わせた地域を支配しました。また,〈サトゥク=ボグラ=ハン〉の代に,西から伝わったイスラーム教に王や住民が一斉に改宗したという伝説が残されています。999年にはブハラを攻撃して
,
サーマーン
朝
【本試験H24】
【追H19時期、H21】
を滅ぼしました。
なお,(1)と(2)の境
は
パミール高
原
です。カラ=ハン朝は11世紀の初めには
,
コータ
ン
や
クチ
ャ
といったオアシス都市も支配下におき,11世紀後半には住民の多くがテュルク系の言語を話すようになっていました。
(1)と(2)を合わせた地域は,テュルク系の言語を話す人々が増えたこと
(
注
1
)
か
ら
トルキスタ
ン
と呼ばれるようになり,(1)
を
西トルキスタ
ン
,(2)
を
東トルキスタ
ン
と呼ばれます。 (1)の中心都市としてはカシュガルやベラサグン
(
注
2
)
,(2) の中心都市に
は
サマルカン
ド
【本試験H2ソグド人の中心都市であったことを問う】
や
ブハ
ラ
があります。この地域の住民は,従来はイラン系の言語を使っていましたが,10世紀を過ぎると次第にテュルク語を受け入れていきます。ブハラやサマルカンドでは,ペルシア語も引き続き使用されました。
(注1)このことをタリム盆地の「テュルク化」とも言います。現在でもこの地方は,テュルク系のイスラーム教徒の多い地域となっています。
(注2)バルハシ湖の南方,天山山脈の北に位置します。
キルギス人,ウイグル人,カルルク人はいずれもテュルク系の遊牧民です。彼らは抜群の騎馬戦闘能力を誇っていたため,アッバース朝が親衛隊として雇うようになり,彼らは
「
マムルー
ク
」(奴隷軍人)と呼ばれました
。
サーマーン
朝
(875~999)はマムルークを育成・輸出することで栄えました。
彼らは統一した勢力ではありませんでしたが,個々の集団は強力な軍事力を持っており,やがて政治にも介入するようになり,アッバース朝が衰える主因となっていきます。
マムルークは異教徒の世界(ダール=アル=ハルブ)から輸入されましたが,テュルク系の人々の活躍が目立っていきます。
カ
ラ=
ハン
朝
【京都H19[2]】
は,1132年ころ,中国から西に逃げてきた契丹人の建国し
た
西
遼
(
カラキタ
イ
)
【本試験H27】
によって間接支配を受けることになります。
○80
0
年
~
120
0
年のアジア 東アジア・東北アジア
東アジア・東北アジ
ア
... 現在①日本,②台湾,③中華人民共和国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国 +ロシア連邦の東部
○80
0
年
~
120
0
年のアジア 東北アジア
中国東北部の
しかし926年に渤海は契丹(キタイ)により滅び,代わって沿海州
の
女
真
は複数の首長によって統合がすすみます。契丹は遼を建国し,中国文化を受け入れて皇帝を宣言し,中国進出をすすめます。契丹の北方のモンゴル高原では,タタール人やモンゴル人が成長していました。
のち,女直の建て
た
◆
ツングース人とヤクート人によるトナカイ遊牧地域が東方に拡大する
北極圏ではトナカイ遊牧地域が東方に拡大へ
さらに北部に
は
古シベリア諸語
系
の民族が分布し,狩猟採集生活を送っていました。しかし,イェニセイ川やレナ川方面
の
ツングース諸語
系
(北部ツングース語群)の人々や,テュルク諸語系
の
ヤクート
人
(
サ
ハ
と自称,現在のロシア連邦サハ共和国の主要民族)が東方に移動し
,
トナカイの遊
牧
地域を拡大させていきます。圧迫される形で古シベリア語系の民族の分布は,ユーラシア大陸東端のカムチャツカ半島方面に縮小していきました。
◆
極北では現在のエスキモーにつながるチューレ文化が生まれる
エスキモーの祖となるチューレ文化が拡大する
ベーリング海峡近くには,グリーンランドにまでつなが
る
ドーセット文
化
(前800~1000
(注
1)
/1300年)の担い手が生活していましたが,ベーリング海周辺の文化が発達して900~1100年頃
に
チューレ文
化
が生まれました。チューレ文化は,鯨骨・石・土づくりの半地下式の住居,アザラシ,セイウチ,クジラ,トナカイ,ホッキョクグマなどの狩猟,
(注1)ジョン・ヘイウッド,蔵持不三也監訳『世界の民族・国家興亡歴史地図年表』柊風舎,2010,p.88
(注2)ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「エスキモー」の項
○80
0
年
~
120
0
年のアジア 東アジア
◆
朝鮮・大
越(
現ヴェトナ
ム)
・日本では,中国の文化を導入しつつ独自の文化が生まれる
東アジアの秩序のど真ん中にあった唐が,907年に滅びたことは,東アジアの諸国家にも影響を与えます。唐の文明を参考にしつつ,各国がオリジナリティーあふれる文化を形成していくのがこの時代です。
◆
朝鮮半島を高麗が統一する
朝鮮半島では新羅末期の混乱(後三国時代)を経て,
〈
王
建
〉
(位918~943)
【追H9朱子学は栄えていない,H29高麗を建てたか問う,H30王莽ではない】
が都
を
開
城
【本試験H22慶州ではない】
【追H30】
【慶・法H30】
に定め
高麗
【追H24モンゴルの服属を受けたか問う,H29】
を建て,935年には新羅を吸収し,936年に朝鮮半島を統一しました。高麗
は
科
挙
【本試験H21】
により官僚を登用しましたが,新羅以来の貴族の力がまだ強く,科挙の合格者 (両班(ヤンバン))
【本試験H8明の制度を取り入れていない】
が実権を握る体制とはなっていませんでした。
儒教も研究されましたが,仏教も盛んで,経典をまとめた
『
1170年以降は武人(武班)が政権を握り,文人(文班)は迫害を受けるなど,科挙官僚が実権を握る仕組みは作られませんでしたが,次第に宋代の中国で確立され13世紀に朝鮮半島に伝わっ
た
朱子
学
も普及していきました。
ヴェトナム北部では中国からの独立政権ができ,1009年には
李朝
(りちょう)が国号
を
大越
国
【追H18】
として独立しました。
雲南地方では,南詔(なんしょう)にかわって,チベット=ビルマ系のペー族
の
大
理
(937~1254)
【東京H6[1]指定語句】
【本試験H18大理→南詔の順ではない】
が支配権を握ります
。
雲
南
というのは,チベット高原方面から,中国の南部にかけて高原地帯が続いているところで,長江とメコン川の上流地域です。"高原地帯の勢力は,なかなか落としにくい"の法則通り,独立を保ったまま,唐から冊封(さくほう)されました。ペー人は現在でも200万人足らずいて,米が主食でワサビを食べるなど,日本と似通った文化を持つ方々です。
◆
日本では分権的な体制が発達し,武家政権が成立する
日本では,784年に長岡京,794年に平安京に遷都され律令制に基づく国家が建設されていましたが,しだいに天皇の実権は失われ,貴族・院・武家や寺社勢力が荘園(しょうえん)を財政的な基盤として同時に存在する分権的な体制が生まれていきました。
漢字を参考にした仮名文字や,『源氏物語絵巻』のような大和絵(やまとえ)がつくられ,国風文化が栄えます。しかし
〈
平清
盛
〉(たいらのきよもり,1118~81)
【本試験H30】
が,武士として初めての太政大臣に就任し
,
日宋貿
易
で宋銭を輸入することによって貨幣経済を活発化させようとしました。彼の政権
(
平氏政
権
【立命館H30記】
)は,日本初の武家政権です。しかし12世紀末に源氏と平氏の抗争が勃発し,平家は滅亡。勝利した
〈
源頼
朝
〉(みなもとのよりとも,1147~99)
は
鎌倉幕
府
を開いています
【本試験H21時期】
。
○80
0
年
~
120
0
年の東アジア
現①
日本
北海道の人々は,6~7世紀から引き続き,擦文式土器を特徴とす
る
擦文文
化
を生み出していました。
沖縄諸島の人々は"貝の文化"ともいわれる先史文化が12世紀前後まで続きました。海産物が腕輪や首飾りなどに加工され,日本列島につながる"貝の道"という交易ルートが発達していました。沖縄諸島には水稲耕作は伝わっていませんでした。
また,宮古・八重山諸島では台湾やフィリピンなどの文化の影響が強く見られます。
・
80
0
年
~
120
0
年のアジア 東アジア
現③
中国
唐が衰えると,東アジア各地で独自の政権が自立した。唐の滅亡後,遊牧騎馬民族が中国内で政権を建てたが,それを統一した宋
は"
小さな中
国"
をめざし,江南開発・海上交易を発展させた。
◆
唐が滅亡すると中国は,突厥の一派による政権と,南部の漢人地方政権に分かれた
ウイグルの強大化,黄巣の乱により唐は滅亡へ
唐は財政難に陥
り
塩の専売
制
を導入しますが,原価の数十倍もの課税は"超大型間接税"
(歴史学者〈砺波護〉(1937~)の表現)
に等しく,民衆の負担は過酷なものでした。
また,安史の乱(755~763)の鎮圧に強力し
た
ウイグ
ル
の勢力が強まったことは,第15代皇帝
〈
こんな混乱の中でも日本からの遣唐使の派遣は続いており,のちに〈最澄〉に師事して天台宗の山門派をひらく
〈
結局9世紀後半
の
黄巣の
乱
(塩の密売商人の〈黄巣〉による反乱)
【本試験H19紅巾の乱とのひっかけ,本試験H22北宋代ではない,本試験H26呉楚七国の乱とのひっかけ】
により混乱しました。彼は,何度も科挙にトライして不合格となった人物で,同業者の〈王仙芝〉とともに挙兵しました。当時最大の貿易港であっ
た
広
州
の節度使就任を要求しましたが拒否されると,879年に広州に侵攻し,外国人居留地
(
蕃
坊
(ばんぼう))でイスラーム教徒のアラブ人やペルシア人(大食
(
タージ
ー
))を初めとする多数の外国人が殺害されました
【本試験H3アッバース朝の頃,ムスリム商人の活動範囲が「遠く東南アジアや中国にまで及んだ」か問う】
。
その後は,北に反転して長安を占領。長安の皇帝一族は四川に避難します。反乱は884年に鎮圧されたので革命には至りませんでしたが,その頃の唐はもはや"風前の
907年に節度使の
〈
朱全
忠
〉(892~912年)によって滅ぼされることになります
【本試験H26張角とのひっかけ,H29文字の獄は行っていない】
。
◆
唐を滅ぼした〈朱全忠〉は商業都市に遷都し,門閥貴族の没落を促した
五代では,商業都市が首都となった
権力をにぎった〈朱全忠〉は,大運河
【本試験H16】
が黄河
【本試験H16】
とまじわる地点にあ
る
汴
州
(べんしゅう
【早政H30】
,開封(かいほう)
【本試験H2地図上の位置を問う,北宋時代に「空前の繁栄期」を迎えたか問う】
【本試験H16】
)で即位し
,
後
梁
(こうりょう)
【H27京都[2]】
を建国しました。従来の黄河流域から大運河の結節点への遷都は,〈朱全忠〉の現実主義的な政策を示しています。
その後,突厥人が後梁をたおして
,
後
唐
(唐を再建したと主張)
【京都H20[2]】
を建たてました。彼は貴族官僚を粛清(しゅくせい)し,才能を重視した官吏登用をおこないました。つまり,これによって九品官人法以来つづいていた門閥貴族の支配に"とどめ"が刺されたわけです。
さら
に
後
晋
→
後
漢
(五代でもっとも短命)
→
後
周
【立命館H30記】
と,クーデタ(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること)の頻発する不安定な突厥(沙陀(さた)部)の政権がつづきます。
一方江南は,節度使の自立した藩鎮による十国が並び立ち政治的には比較的安定し,経済的には江南の開発をすすめて海上交易も発展しました。
というわけで,この時代を華北
【本試験H6建康が首都ではない】
で
五
代
が興亡,江南
で
南
唐
など
の
十
国
が並び立った時代ということで
,
五代十国時
代
というのです
【本試験H19戦国時代,五胡十六国時代,南北朝時代ではない】
。10の国が戦国時代のように興(おこ)っては滅び,興っては滅んだわけではありません。
南唐はわずか38年で滅びますが,文芸が発達し,宋代に発達することにな
る
南宗
画
(なんそうが)の基礎が築かれました。
◆
中央ユーラシアの騎馬遊牧民は,本拠地を北方に置きつつ,定住農牧民を支配していった
この時期にはユーラシア大陸東部においても,騎馬遊牧民による国家を形成され,中国本土もその影響を受けました。かつては,中国の漢人を中心とした歴史観の影響から,この時期に北方から南下して中国の農耕定住民地帯をも支配した国家は
「
征服王
朝
」と呼ばれていました(ドイツ出身の歴史学者〈ウィットフォーゲル〉(1896~1988)の命名)。しかし,中国が純粋に漢人によって支配されたということは歴史上ありえず(隋や唐も鮮卑系の国家です),"漢人ではない異民族が,漢人を支配してつくった王朝"というのは正しい見方とはいえません。
800年~1200年にかけては,ユーラシア北部の騎馬遊牧民がユーラシア南部の農耕定住民地帯に進出した時期であり,中国の歴史もその流れの中に位置づけられます。
その影響をもろに受け
た
華北で
は
,唐の滅亡後,五代(突厥の一部族が王朝を建てています)→大遼(遼,契丹人)・大夏(西夏,タングート人)・金(女真(女直)人)の各王朝が推移します。これらの王朝の支配層には漢人もおり,大夏(西夏)以外には正史が編纂されました。
中国
の
南部で
は
,唐の滅亡後,十国(じっこく)と総称される地方政権が並び立ち(南漢・北漢・前蜀・後蜀・呉・南唐・荊南・呉越・閩・楚),十国を統一し
た
北
宋
に対する北方の大遼(遼),西方の大夏(西夏)の圧力が強まり,金の南下により南方に遷都
(
南
宋
)しました。
以上の南北2つの流れを合わせることになるのが,モンゴル人の王朝である元ということになります。
◆
宋は経済発展を背景に,澶淵の盟によって契丹に対する安全保障を実現した
お金で平和を買った,宋
まず
は
キタイ
人
です。
モンゴル高原では,東南部
の
契
丹
(きったん
。
キタ
イ
。モンゴル系です)に主導権が移ります。916年に即位した
〈
耶律阿保
機
〉
(やりつあぼき,太祖,位916~926)
【本試験H31金の建国者ではない】
【京都H20[2]】
は
大
契
丹
(だいきったん,のち「大遼」と改称。
「
遼
」
【東京H6[3],H10[3]】
と呼ばれることが多いです)
【追H27燕雲十六州を加えたか問う、H28二重統治体制の内容を問う】
【共通一次 平1:地図上の領域を問う(淮河付近までは支配していない)】
【本試験H14地図(最大領域の範囲を選ぶ),本試験H15,本試験H18匈奴ではない・唐代ではない】
を建国しました。
彼らは渤海(ぼっかい)を滅ぼしモンゴル高原にも進出。彼らの大帝国は「キタイ」として西方にも知られ「中国」の代名詞ともなり,現在では香港の航空会社「キャセイ」パシフィックにその名を残します。
第2代〈耶律堯骨
(
太
宗
)〉のときには,五代の一つであ
る
後
晋
の建国援助した見返りに,河北地方・山西地方の一
部
燕雲十六
州
【東京H30[3]】
【共通一次 平1:地図上の領域(もっと南の淮河付近までは支配していない)】
【追H25地図上の位置,H27契丹が領土に加えたか問う】
【本試験H15時期(10世紀),本試験H23ウイグルではない,本試験H29,H30東京】
【中央文H27記】
を獲得しました。また946年には国号を中国風の"大遼"に変更。同時に"遼"の国号も残し,中国とモンゴル高原をまたにかける支配をねらっていきました。
遼
【本試験H7突厥ではない】
の第6代〈聖宗〉
【本試験H13耶律阿保機ではない】
のときには,のち
に
宋
【本試験H29秦ではない】
の第3代〈
契丹(きったん)は中国本土の支配にも積極的で,遊牧民と農牧民を同時に支配す
る
二重統治体
制
を目指しました
【追H28「遊牧民と農耕民とを、異なる制度の下で支配した」か問う】
。
遊牧民は北面官
が
部族
制
【本試験H14】
により,農牧民は南面官
が
州県
制
【本試験H14,本試験H16前漢ではない】
により支配しました。支配下の漢人は初めは手工業・農業に従事させましたが,のちに参謀などとして中国支配のために利用する場合もありました。
契丹文
字
【東京H6[3],H10[3]】
【本試験H8満洲文字ではない】
【本試験H24時期,H28キリル文字ではない,H30東京(図版)】
は太祖がつくったとされる民族文字です。中国の影響を受けた絵画や陶磁器も発達しました。また仏教が信仰され,中京大定府には74mの高さを誇る仏塔(大明塔)が建造されました。
2つ目
は
タングート
人
【本試験H12】
【追H21、H28渤海を建国していない】
。
中国からシルクロードへの入り口にあたる,陝西(せんせい)や甘粛(かんしゅく)の地方には,チベット系
の
タングート
人
【追H21】
が勢力を拡大させていました。982年にはタングート人のうち平夏部の〈李継遷〉が北宋から自立し,1038年に孫の
〈
李元
昊
〉(りげんこう,在位1038~48)が西方の寧夏や甘粛にまで支配圏を広げ,皇帝を称して大夏
(
西
夏
)
(注
)
【共通一次 平1:時期(12世紀ではない)・地図上の位置(甘粛の周辺かどうか)を問う】
【本試験H3唐は和蕃公主を嫁がせていない】
【追H21バクトリアではない,H28地図上の位置(渤海とのひっかけ)、H29唐に侵入していない】
を建国しました。宋代には海上交易の比重も高まっていきますが,大夏(西夏)は依然として内陸ユーラシアとの陸上交易を保護して栄えました。
大夏(西夏)は漢字の影響を受けて複雑な部首やつくりを持
つ
西夏文
字
【共通一次 平1:甲骨文字,満州文字,楔形文字の写真と判別させる】【本試験H8満洲文字ではない,本試験H12「漢字を模して,パスパ文字」をつくっていない】
【本試験H15モンゴル語を表すための文字ではない】
を駆使して公文書を作成し,仏教の経典を翻訳しました。また中国に対して圧力をかけ,1044年に中国から毎年の贈り物を送ることを交換条件に
,
慶暦の和
約
を結んでいます
【本試験H13】
。西夏は1036年に敦煌を占領しましたが,このときに大量の仏典が莫高窟(ばっこうくつ)の秘密のスペースに隠され,入り口が塞がれました。これがのち1900年に発見されることとなる敦煌文献です。
(注)10世紀後半~13世紀前半。大夏という正式な国号の代わり
に
西
夏
【本試験H22】
といわれることが多いのは,漢人中心の歴史観の影響によるものです。ちなみに遼,金と異なり,西夏には正史が作られていません。
3つ目
は
ジュシェン
人
。
渤海が滅んだあとの中国東北地方には
,
女
真(
女
直
)
(じょしん;ジュシェン
,
女
直
(じょちょく;ジュルチン)
【追H27】
【本試験H6】
)が強大化しました。ツングース系
【追H27モンゴル系ではない】
で,唐代には靺鞨(まっかつ)と呼ばれ、半農半猟生活
【追H27】
をおくっていました。靺鞨のうち,黒水靺鞨からおこったの
が
女
真(
女
直)人
【本試験H5契丹人ではない】
という民族です。1115年に
〈
完
顔
(ワンヤン)部
の
阿骨
打
(アクダ)〉(位1115~1123)
【本試験H31金の建国者か問う。耶律大石とのひっかけ】
【追H19西遼の建国者ではない】
が独立し
,
◆
女
真(
女直;ジュシェ
ン)
人は,契
丹(
キタ
イ)
人をタリム盆地に追いやった
契丹はタリム盆地へ,女真は淮河まで南下
女真(女直)人は遼には鷹狩用の鷹を輸出しており,特に遼の王には最高級のハルビン産の鷹が献上されていました。『遼史』によると,遼王〈天祚帝〉(任1101~1125)のもとで1112年に宴が催されたとき,参加した各部族の長は踊るよう命じられます。そのとき,女真の
〈
完顔阿骨
打
〉(ワンヤンアグダ)は踊ることを拒否。しかしそれにに対し,〈天祚帝〉は「礼儀は知らないが,狩りは上手い」と許します。その3年後,〈完顔阿骨打〉
は
金
【本試験H11この女真人が清朝を建国する満洲人と「同じ系統」か問う】
を建国し,宋と協力して遼を挟み撃ちにして滅ぼすことになるのです
(注
)
。
遼の王族であった
〈
耶律大
石
〉
(やりつたいせき,在位1132~43)
【本試験H21,本試験H24時期,本試験H31金を建国していない(耶律阿保機とのひっかけ)】
【追H21,H29】
はタリム盆地に逃げて,ベラサグンを都
に
西
遼
(
カ
ラ=
キタ
イ
)
【本試験H4唐の高宗によって討たれていない】
【本試験H14澶淵の盟により国力が増したから西に移動したわけではない,本試験H21,セ23ウイグルに滅ぼされていない,本試験H27時期】
【追H21完顔阿骨打ではない,H29カラ=ハン朝ではない】
という国家を形成しました。
ただし,すべての契丹の支配層が西に移ったわけではなく,金王朝の支配層に《横すべりして生き続けた》者も多くいました
(杉山正明・北川誠一『世界の歴史9 大モンゴルの時代』(中央公論新社,2008年),pp.89-90)
。
(注)阿南・ヴァージニア・史代「遼・金王朝 千年の時をこえて 第18回」(
http://www.peoplechina.com.cn/zhuanti/2010-08/03/content_288521.htm
)
金
では,お札(ふだ)や不老長寿薬を使ったり,大土地を持ち農民から金をふんだくったりするようになった今までの道教を改革す
る
現在でも,道教は全真教と正一教の二大宗派に分かれています。正一教の総本山は,江西省の竜虎山で,全真教の本部は北京の白雲観(はくうんかん)です。ほかに道教関係の建物としては,『三国志演義』で人気の〈関羽〉(かんう)を神として祀(まつ)った関帝廟(かんていびょう)は横浜を含む世界各地の中華街にみられます。
また,宋代に大型
の
ジャンク
船
【本試験H6図版(三段櫂船とのひっかけ)】
が開発されたことを背景に,海の守護神であ
る
媽
祖
(まそ)を祀った媽祖廟(まそびょう)は中国南部や香港・台湾・日本にみられます。
◆
宋は常備軍と科挙に基づく官僚制を整備し,江南開発と海上交易も栄えた
交易ブームを背景として,宋も首都を開封に置く
五代期の政治は「武断政治」といわれ,武力がものをいう時代でした。最後の後周の〈世宗〉は禁軍(皇帝直轄の舞台)
【早・政経H31解体していない】
【中央文H27記】
を強化し,959年には燕雲十六州
(936年に後晋の〈高祖〉が割譲していました)
を遼から一部奪回しています。
しかし,彼により強化された禁軍の総司令官
〈
趙匡
胤
〉
(ちょうきょういん
(
太
祖
),在位960~976)
【本試験H18,H29共通テスト試行 建国の年代(グラフ問題)】
【追H27王安石ではない、H29南宋を建てた趙高ではない】
は,部下の支持を集めて皇帝に即位します。〈世宗〉の子が幼すぎたため,支配層によって推挙されたのです。これが,禅譲によって王朝が代わった最後の例となります。
新たな王朝であ
る
宋
(960~1127
の
北
宋
【京都H21[2]】
と1127~1276(1279に皇族が全滅)
の
南
宋
に分ける)
の首都は,五代と同じ
く
開
封
(かいほう)です
【本試験H25長安,咸陽,建康ではない】
。宋が商業による収入増を見込んだことがわかります。この時代の開封
【早・法H31】
の反映は、北宋から南宋にかけての宮廷画家であった〈張択端〉(ちょうたくたん)によるとされる「清明上河図」
【早・政経H31解答に直接必要なし】
に描かれています(北京の故宮博物院に所蔵)。
宋の悩みは,周辺諸民族の勢力拡大です。防衛費用は年々増し,遊牧民に毎年の贈り物を用意しなくてはならず,国家財政を圧迫していきます。国内開発と商業振興を原動力とする経済発展によって,その費用を補おうとしたのです。
開封は東京(とうけい)ともいわれ,中央アジアからはラクダに乗って商人がやって来る国際色を備え,夜中まで飲み屋や劇場が歓楽街がにぎわうなど,現代につらなる"商業"的な大都市として発展します。この様子は〈
また,科挙に合格した文人官僚を重用し
【本試験H18
】
文治主
義
(ぶんちしゅぎ)を推進。中央では貴族の根城(ねじろ)であった門下省を中書省に吸収して中書門下省とし,貴族の合議によって政策を決定する形から皇帝専制への道をひらきました。六部を従える尚書省は残しましたが何度か廃止・復活され,財務については三司(塩鉄・度支・戸部)が独立して設けられています。
軍人が政治の実権をにぎる習わしをなくすため,官僚
が
枢密
院
によって皇帝直属軍
(
禁
軍
)を管轄する制度をつくります。節度使にも軍人ではなく文官をあてるようにし,軍事権をとりあげました。科挙を整備し,最終試験に皇帝の直接試験であ
る
殿
試
(でんし)
【本試験H9宰相が試験官ではない,
本試験H11宋代以降に行われ「皇帝と官僚の結びつきが強化された」か問う】
【本試験H18隋代ではない,H21元代ではない】
【追H26時期を問う、H30唐代ではない】
【早・法H31】【明文H30記】
が導入されました。
こうして,隋唐代に栄華を極めた貴族が没落し,科挙に合格した官僚と,皇帝直属軍の禁軍が皇帝独裁体制を支える存在になっていったのです.
科挙の合格者は,新興地主層
(
形勢
戸
(けいせいこ))
【追H18】
が中心でした。彼らは唐末・五代の混乱のなかで,特に江南(長江流域)で新たに土地を占有し,小作人
の
佃
戸
(でんこ)
【本試験H6「奴婢」ではない】
【本試験H26時期,H29共通テスト試行 戦争捕虜を奴隷としたわけではない(755~960の時期について)】
の労働力によりのし上がった人々です。
朝貢貿易
は
唐
の時代よりも縮小しましたが,大規模
な
ジャンク
船
【本試験H6図版(三段櫂船とのひっかけ)】
の改良により民間貿易がさかんになって,広州
・
泉
州
【H27京都[2]】
・
明
州
(現・寧波(ニンポー
【追H29地図】
【早政H30】
)) が繁栄し
,
市舶
司
(しはくし)
【東京H8[3]】
【本試験H20節度使ではない,本試験H23,本試験H25時期】
【追H29地図(天津には置かれていない)】
【立命館H30記】
が貿易を管理していました
【本試験H7 絹を海外輸出し,大量の銅銭が流入した事実はない】
。
。
ジャンク船というのは,内部に防水のための仕切り板を持つ船で,一部が浸水しても船全体に伝わることのない仕組みを持っていました。西洋の船と違い,中央部に竜骨(キール)を持ちません。
日本では,
〈
なお、「海の道」(海のシルクロード)を通って中国産の陶磁器
【東京H20[3]】
が西の海域に輸送されたことから,この海上の交易ネットワークのことを「陶磁の道(セラミック=ロード)」と呼ぶこともあります。
◆
宋代には商品経済が発達した
商業都市が生まれ,紙幣が刷られ,新技術が出現
宋というのはいよいよ商業が盛んになる時期です。唐代には商業は都市のなかだけで認められていたのですが,宋になるとその規制もゆるみ,あちこちに商業都市(草市や鎮)が整備されていきます
。
草
市
(そうし)
【本試験H16都市の城壁外や地方農村の交易場のことか問う,本試験H23衛所ではない,本試験H25同業者組合ではない】
【立命館H30記】
というのは,はじめは都市の城壁の外で馬のエサ(まぐさ)を売る市場のことをいったのですが,やがて粗末な市場というニュアンスになったものです
。
鎮
(ちん)
【本試験H23衛所ではない】
はもともと軍隊の駐屯地を指す言葉でしたが,宋の時代には交通の要所に自然発生的にできた商業都市のことをいうようになります。
商業や手工業の同業者組合として,以前からあっ
た
行
(こう)
【本試験H16】
【立命館H30記】
や
作
(さく)の活動が積極的になりました。これらは隋・唐の時代には城壁の中に区画された市の限定された場所で活動していましたが,宋代になると都市の枠を越え,活動の場を広げていきます。ただし,国家による規制は強く,官僚への物資の納入を担当するようにな
る
行
(こう)も出ていきます。また,客商売をする商人である客商(きゃくしょう)に物資をおろす,仲買人や問屋である牙行(がこう)と呼ばれる大商人の力も強まっていきました。
取引が増えれば,貨幣が用いられるようになり,銅銭が大量発行され,この時期には日本にも輸出されています。また,遠距離間の支払手段として,銅銭をジャラジャラ持ち運ぶのは大変不便なので,信用を保証するしくみをつくって,民間の手形
【本試験H10遼や西夏に毎年贈るために用いられたわけではない】
であ
る
取引された商品としては,白磁や青磁とい
う
磁
器
があります。シンプルですらっとした美しさが特色です。飾りを削ぎ落とそうとする姿勢は,当時発展した新しいタイプの儒学も関係しています。磁器とは
,
カオリ
ン
という珪酸塩鉱物を含む土から作られる陶器で,1300度の高温で焼き上げた半透明のうつわのことです。陶器よりも厚めで,ツヤのある白いボディが特徴です。カオリンという名は,磁器
【本試験H7茶ではない】
の一大産地であ
る
景徳
鎮
(けいとくちん)
【東京H9[3],H17[3]】
【本試験H7】
【本試験H16絹織物生産地ではない,本試験H27(陶磁器の産地かどうか問う),H30】
にある地名「高陵」からとられ,磁器のことを英語ではchina(チャイナ)といいます。
なお"三大発明"と称される
,
火
薬
【追H25中国からイスラーム世界に伝播されたか問う】
,
活版印
刷
【追H28唐代の中国からイスラーム世界に伝わったのではない(それは製紙法)】
【共通一次 平1:元ではない】
【本試験H2唐代に金属活字による印刷術は普及していない】
,
◆
新儒
教(
朱子
学)
が新たな支配階層の間に広まった
木版印刷の発展で,科挙が完成し,思想が栄えた
北宋の
〈
周敦
頤
〉(しゅうとんい,1017~73)
【慶文H30記】
や〈程顥〉(ていこう)と〈程頤〉(ていい),の兄弟,従来の儒教を哲学的に高め,南宋の
〈
朱
熹
〉
(しゅき,1130~1200)
【本試験H9
,
本試
験
H1
1
】
【本試験H13四書を重視し宋学を大成したか問う,本試験H14】
【立命館H30記】
が大成し
た
宋
学
(
朱子
学
)
【本試験H9官学とされたのは陽明学ではない,
本試験H11陽明学ではない。内容も問う「宇宙の原理や人間の本質などの探究を目指す」】
です
【本試験H13,本試験H27】
。
新儒
教
(ネオ=コンフューショニズム)ともいわれます。
すでに手垢のついた五経より
も
四
書
【本試験H17墨家とのひっかけ,H31朱子学で重んじられたか問う】
(『大学』,『中庸』
,
『論語
』
【本試験H13,本試験H14五経には含まれない】
,『孟子』)を重んじ,科挙官僚になっ
た
知識
人
(読書人ともいいます)であ
る
士大
夫
(したいふ)層に支持されました。宋代以降の科挙は皇帝が最終試験を自ら行うようになったため,官僚と皇帝の結びつきが強くなり,唐代の支配階層であった貴族は没落し,代わって科挙に合格し
た
士大夫
層
に代わりました。
科挙受験には特別な資格は必要ありませんでしたが
【本試験H11「特別な受験資格が必要」ではない】
,科挙合格者を出した家柄
は
官
戸
【本試験H4,H9(11世紀に新興地主が科挙によって官僚となり,その家は官戸と称されていたか問う),H11】
とされ,特権
【本試験H4
宋学は「大義名分論」
【本試験H14】
といって,中華⇔夷狄(いてき),君主⇔家臣の区別を重視した
【本試験H9平等を説いたわけではない】
ため,実際には遊牧民に取り囲まれていた宋の人々を勇気づける考えでもあったのです。
〈朱熹〉の「性即理」を唱える朱子学に対抗して
【本試験H7】
,
「
心即
理
」
(しんそくり)
【本試験H7,本試験H12時期「全真教が成立した王朝」のときのものか問う】
を論じたのが,同時代の
〈
陸九
淵
〉
(りくきゅうえん)
【本試験H7,本試験H12時期「全真教が成立した王朝」のときのものか問う】
です。彼の説はのちに儒教の1ジャンルとして独立し
,
陽明
学
として体系化されていきます。
唐代には漢詩が盛んにつくられましたが,宋代には
〈
欧陽
脩
〉
(おうようしゅう,『新唐書』『新五代史』が主著)
【
本試
験
H1
1
『資治通鑑』ではない】
【本試験H21唐代ではない,本試験H25】
時期】や
〈
蘇
軾
〉(そしょく,「赤壁の賦(ふ)」で有名)
【本試験H3長恨歌の作者ではない,本試験H11:宋代の文化か問う。散文の代表的作者か問う】
【早・政経H31蘭亭序の作者ではない】
といった古文のスタイルをみならい復興させた
,
散
文
【本試験H3】
の名文家も現れます。すぐれた8人は
「
唐宋八大
家
」(はちだいか,はちたいか。唐の
〈
仏教も宋代にスタイルが変化します。唐代に庶民の間に流行っ
た
浄土
宗
に代わり,より哲学的
な
禅
宗
が流行るのです。とくに科挙官僚などの上層階級では,庶民にはわからない複雑な問題を扱う禅宗をたしなむことが,ステータスとされた面があり,芸術作品にも影響を与えました。浄土宗も禅宗も木版印刷によって盛んに印刷物を発行し,
当時中国にわたった鎌倉時代頃の日本人の仏僧は両者の思想を日本に広めていきました。これ
を
鎌倉仏
教
と総称します。
浄土宗は1175年に
浄土真宗は1224年に教徒の〈親鸞〉により開かれ,『
時宗は1274年に伊予の〈一遍〉により開かれます(死後『一遍上人語録』が編纂)。
日蓮宗は1253年に安房の〈日蓮〉により開かれ『
臨済宗は1191年に備中の〈栄西〉により開かれ『
曹洞宗は1227年に京都の〈道元〉により開かれ,弟子の〈
また、
博多港に居留して日宋交易に活躍した華人の大商人〈謝国明〉(未詳)は、臨安〔杭州〕出身で、禅宗の僧侶〈円爾〉(えんに、弁円;聖一(しょういつ)国師、1202~1280)のために、1241年に承天寺(じょうてんじ)を建立しています。当時の博多は国際都市で、邸宅を構えて居留する外国人は博多綱首(ごうしゅ)と呼ばれていました
。
◆
新技術・新田開発・品種改良により農業生産性が向上した
新技術導入・江南開発・品種改良で,人口が急増
貨幣で土地を買い占めた大地主は,小作人とし
て
佃
戸
(でんこ)
【本試験H26時期】
を働かせ,なかには奴隷同然の佃戸もいました。
大地主は長江下流の,従来はぐちゃぐちゃで農業どころではなかった低湿地を堤防で囲んで干拓しました
(
囲
田
)。また,低地から高地への水のくみあげには,従来から使用されていた
また,東南アジアからチャンパー米(まい)
(
占城
稲
(せんじょうとう))という収穫量の多い新しい品種も導入されました
【H29共通テスト試行 時期(グラフ問題。春秋戦国時代~後漢または清代ではない)】
。こうして生産力がアップすると,
「蘇湖(江浙)熟すれば天下足る」
【追H25時期が宋代か問う】
(長江下流域で稲穂が実れば,中国人みんなのお腹を満たすことができる)といわれるようにもなりました。
お腹がいっぱいになれば,
◆
宋代には官僚と常備軍の維持のため財政が逼迫し,新法という改革が断行された
しかし,経済が盛んになればなるほど,人々の間に経済格差が生じます。また,北方の異民族の進入に対処するための軍事費も膨れ上がり,財政のやりくりがたいへんになっていました。
そこで,1067年に即位した
〈
神
宗
〉(しんそう,在位1067~85)
【本試験H22徽宗ではない】
のときに,
〈
王安
石
〉(1021~86)
【追H27宋を建てていない】
【本試験H21】
【慶文H30記】【明文H30】
が登用されます。25歳で科挙に4位で合格したエリートです。彼が財政再建のために提案したのは,歳出を減らし歳入を増やすとともに,軍事力を強化するための一連
の
しかし,特に市易法(しえきほう)や青苗法(せいびょうほう)は,貸付によってもうけてい
た
大商人や地
主
【本試験H30】
の反発も強く,反対派
の
旧法
党
【追H26東林派とのひっかけ】
と
新法
党
との間
の
党
争
が起きました
【本試験H17唐代ではない】
。旧法党の政治家としては、歴史家で
『
資治通
鑑
』
(しじつがん
(注
)
)
【本試験H3紀伝体ではない,本試験H9,
本試験H11】
【本試験H13南宋の和平派とのひっかけ】
【追H21編年体か問う、H24班固の著作ではない,H28司馬遷による編纂ではない】
を編年体
【本試験H3紀伝体ではない,本試験H9】
であらわした
〈
司馬
光
〉
(しば こう1019~86)
【本試験H9】
【本試験H26両税法の楊炎ではない,本試験H30】
が有力です。
しかし,〈司馬光〉の死後に新法は復活され,南宋でも施行されました。
(注)『資治通鑑』は周の〈威烈王〉23年(前403)から後959年までの通史で,当初はまさに『通史』という名前でしたが〈神宗〉が「歴史を鑑(かがみ=手本)とする」という意味を込めて『資治通鑑』と名付けました。294巻,1362年分の歴史という長大なものだったので,〈朱熹〉が『資治通鑑綱目』というダイジェスト版をつくっています。
なお,〈王安石〉は科挙の試験科目を
「
進士
科
」(しんしか)に一本化。進士科は,詩と賦という二種類の韻を踏む詩の作成(作詩)だけではなく,経書の理解,論文の作成(論策)までもが求められるハイレベルな科目で,暗記力だけではなく,合格者の人柄も含めて判断しようとしたわけです。
〈王安石〉自身『三経新義』という科挙テキストを作成し,その貢献から死後は孔子廟(〈孔子〉のお墓)に一緒に
しかし,科挙の受験勉強には莫大な費用がかかったことから,宋代では経済的に余裕のある新興地主
(
形勢
戸
【本試験H11科挙の特別な受験資格を持った家のことではない】
)の合格者が多数を占めていました。
それに,"政治家肌"であった〈王安石〉の「王学」は,やがて"思想家肌"の
〈
画院
【本試験H17】
という芸術家を集めた官庁を保護した
〈
徽
宗
〉(きそう,位1100~25)
【本試験H17高宗ではない】
【追H19】
のころには,庭を作るためにお好みの奇岩(花石綱)を調達しようとして民衆を酷使したことなどがきっかけで,1120年
に
方臘の
乱
(ほうろうのらん)というマニ教徒の乱が起き,各地は大混乱に陥りました。このときの民衆反乱に加わった無頼層(アウトロー)たちの活躍が,物語
『
水滸
伝
』(すいこでん)
【追H24元代に原形ができたか問う(正しい)】
のモチーフになっているといわれます。『水滸伝』は北宋末の梁山泊(りょうざんぱく,山東省の架空の地名)を舞台とし,108人の豪傑たちが義兄弟の契りを結んで悪徳官僚と戦うストーリーで,元代に原形ができて明代に現在の形に編集されました。
◆
北宋は女
真(金)
の進入によって滅び,長江下流に遷都した
そんなときに,1126~27年
に
金
が開封に攻め込んできたために対応が遅れ,上皇
〈
徽
宗
〉(きそう,在位1100~25,生没年1082~1135)と皇帝
〈
欽
宗
〉(位1125~27,生没年1100~61)(きんそう)は捕虜となり,華北を失いました。これ
を
靖康の
変
【東京H8[3]】
【H27京都[2]】
【本試験H18地図・土木の変ではない,H21 世紀を問う】
【早・法H31】
(せいこうのへん)といいます。
〈欽宗〉の弟〈高宗〉(こうそう;趙高,在位1127~62)
【追H29趙匡胤ではない】
が江南に逃げて皇帝となって,宋を復活
(
南
宋
,1127~1276(1279に皇族が全滅))
【追H29】
し,大運河の終着点であ
る
臨
安
(現在
の
杭
州
)
【本試験H2金陵とは呼ばれていない(それは明代の現・南京),本試験H4明の遷都先ではない】
【本試験H21】
【追H18】
を都にしました。
なお,〈徽宗〉は宮廷の画院(がいん)
【早・法H31】
を拠点にし
た
院体
画
(
北宗
画
(ほくそうが))
【早・法H31】
の画家としても有名で,
「
鳩桃
図
」(きゅうとうず)
【本試験H11:宋代の文化かどうか問う。文人がの代表作ではない】
が代表作です。この絵はのちに〈足利義満〉のもとに流れ着き,日本の国宝になっています。
こうして宋は
,
淮
河
(わいが(淮水,わいすい))
【本試験H5】
【H27京都[2]】
以北
を
金
に占領されてしまう事態となり,金に対して臣下の礼をとることとなりました
【早・法H31】
。
金
【本試験H21元ではない】
と
の
和平
派
【本試験H13旧法党ではない】
の
〈
秦
檜
〉(しんかい,1090~1155)
【本試験H21】
と主戦派の
〈
岳
飛
〉(がくひ,1103~41)との対立も起きます。金
【本試験H8遼ではない】
の南進を不安視した〈秦檜〉は,1141年に〈岳飛〉らを処刑し,1142年に和議を成立させました(紹興の和議)。これは金を臣,南宗を君とする内容で
【本試験H8「金の臣下になるという条件」か問う】
,銀25万両と絹25万疋を毎年支払うもので,"金で平和を買った"わけです。
金に勝った英雄〈岳飛〉を,〈秦檜〉が自分の出世のために獄死に追いやったとされ,「中華」のほうが異民族より"上"なのだという大義名分論を説
く
朱子
学
の考え方では,〈秦檜〉は"悪者中の悪者"(
金
は
猛
安
・
謀
克
(もうあんぼうこく)
【本試験H12時期「全真教が成立した王朝」のときのものか問う】
【本試験H16・H27・H30】
【追H19】
という,遊牧民と定住農牧民とで支配の方式を使い分ける制度を導入しました。
すでに1276年に首都臨安を失っていた南宋は1279年に,モンゴル人で元の皇帝
〈
クビラ
イ=
カア
ン
(フビライ=ハーン)〉(位1260~94)
【追H9チンギス=ハンではない】
に敗れ,逃亡していた南宋の皇族たちが亡くなり,完全に滅びました。
・
80
0
年
~
120
0
年のアジア 東アジア
現⑤・⑥
朝鮮半島
8世紀末に新羅では支配が動揺し,地方勢力の台頭が活発化していました。9世紀末には,西南部で大規模な農民反乱である赤袴(せきこ;チョッコ)賊の反乱が起きています。
900年には農民出身の〈甄萱〉(キョノン,けんけん)が後百済(フペクチェ,ごくだら)王を宣言して自立,901年には〈弓裔〉(クンイェ,きゅうえい)が後高句麗を建国すると,新羅・後百済・後高句麗が並び立
つ
後三国時
代
となりました。
後高句麗につかえていた開城の豪族
〈
王
建
〉(ワンゴン,おうけん)は918年にクーデタを起こ
し
高
麗
(コリョ,こうらい)を建国。926年に契丹により滅んでいた渤海の遺民を受け入れ勢力を伸ばし,935年に新羅を併合,936年には後百済を滅ぼし,半島を統一しました。高麗は新羅時代の家柄にもとづく骨品制をやめて,官僚に対してその功績に応じて田地を支給する田柴科(でんさいか,チョンシクァ)制度を導入しました(940年)。高麗は北方の契丹人や女真(女直)人との対抗の必要から,中国の五代の王朝から冊封(さくほう)を受けました。958年には科挙が導入され,官僚制が整備されていきます。
すると次第に地方の豪族出身で中央政界に進出し,文官と武官どちらか
【本試験H8文官と武官を「兼ねた」わけではない】
の官僚として特権を獲得し,
「
両
班
」(ヤンバン)階級
【追H19佃戸ではない,H26】
が形成されていきました。文官と武官は,党派に分かれて争うようになり,しばしば政治の混乱を招くようになります
【本試験H8】
。
民衆の大部分は良人(りょうじん)
【追H26リード文】
身分の農民で,さらにその下には賤人(せんじん)身分の奴婢(ぬひ)
【追H26リード文】
【本試験H6】
がいました。
高麗では豪族の間
に
禅
宗
が流行し
,
天台
宗
も合わせて信仰されました。1020年頃には『大蔵経』の版木が彫られました。
高麗は,10世紀末には急成長した契丹
の
遼
の圧迫を受けると契丹の冊封体制下に入る道を選びました。しかし,首都の開城は11世紀初めに遼の攻撃を受けています。
一方で女真(女直)人も勢力を拡大して朝鮮半島に南下し,一部の勢力は日本の九州北部に海路で南下し,日本側から
は
刀伊の入
寇
(といのにゅうこう)として記録されています(1019年)
。
のち,1125年
に
遼
が崩壊し
【本試験H12匈奴により滅んだわけではない】
,1127年に南宋が成立すると,高麗は1128年に女真(女直)人
の
金
の冊封体制下に入りました。高麗ではその後内紛が勃発し,下級の武臣によるクーデタにより12世紀末
に
武臣政
権
が成立しました。
渤海では第10代〈宣王〉(ソン,位818~830)が今まで従っていなかった北方の黒水靺鞨の服属に成功し,最盛期を迎えます。この頃の渤海の繁栄は
「
海東の盛
国
」とうたわれました。しかし〈宣王〉の死後には衰退が始まり,926年
に
契
丹
によって滅びました。
○80
0
年
~
120
0
年のアジア 東南アジア
東南アジ
ア
...現在の①ヴェトナム,②フィリピン,③ブルネイ,④東ティモール,⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア,⑧カンボジア,⑨ラオス,⑩タイ,⑪ミャンマー
内陸の王権が,交易ルートをめぐり対立する
・
80
0
年
~
120
0
年のアジア 東南アジア
現①
ヴェトナム
◆
チャンパーや南詔が,交易ルートをめぐり中国と対立する
9世紀初めには
,
チャンパ
ー
【東京H30[3]
】
王
国
(
環
王
)の勢力が盛んになり,漢人の王朝である唐(618~907)の設置し
た
安南都護
府
が攻撃されました。
防衛のために軍事力を強化すべく,現地の豪族が用いられるようになると,8世紀後半には今度は彼らが安南都護府に干渉するようになります。
9世紀後半には,雲南
の
南
詔
が,南シナ海の交易ルートにアクセスしようと
,
安南都護
府
を攻撃するようになります。しかし,唐にとって安南都護府は,東南アジアとの交易のための"生命線"です。なんとか維持しようとしましたが,次第に大型
の
ジャンク
船
【本試験H22三段櫂船ではない】
【立命館H30記】
が発達・普及していくにつれ,ヴェトナム中部から直接,海上で南シナ海沿岸の広州などを結ぶルートが主流になると,ヴェトナム北部の重要性は低下し,勢いは衰えていきました。
こうして,紅河デルタの人々は,中国の王朝から政治的に独立していくことになります。
初めは906年の曲(クック)氏でした。しかし
,
五代十国時
代
の十国のひとつで,王は広東アラブ人商人の末裔とされ
る
南
漢
の介入にあい,混乱します。その後の政変で938年に〈呉権〉(ゴークエン,在位939~944)が挙兵し,王を称しましたが944年に亡くなります。
一方,河口で商業ルートをおさえていた〈丁部領〉(位968~979)が,宋に朝貢して郡王に任命されましたが,979に暗殺されました。宋は北ヴェトナムに侵攻しましたが,〈丁部領〉の武将だった〈黎桓〉(位981~1005)が王朝を開き,中国に朝貢しました。
しかし,紅河の農耕地帯の拠点を押さえていなかったために国力は弱く,将軍
〈
李公
蘊
〉(リ=コウ=ウアン,りこううん,在位1009~28)
が
李
朝
【本試験H16時期・元を撃退していない,本試験H20唐代ではない】
を建て,国号
を
大
越
(ダイベト)としました。首都は安南都護府のあったハノイで,昇龍(タンロン)城と名付けました。彼は三角州を開拓して農業生産を高め,紅河上流からは亜熱帯の山の幸を集めて,海域からは海の幸を取り込み,国力を増していきます。のちに,ヴェトナム南部
の
チャンパ
ー
も攻撃しています。
ヴェトナム中南部では,863年の安南都護府の陥落とともに,9世紀に南部沿岸を拠点とす
る
チャム
人
の
環
王
の勢力が拡大しました。しかし,やがてヴェトナム中部の勢力から〈インドラヴァルマン2世〉が即位し,877年に唐に朝貢しました。この勢力
を
占
城
(せんじょう)といいます。彼
ら
チャム
人
は大乗仏教(密教)を信仰し,寺院が建設されました。占城はその後,宋にも朝貢していますが,10世紀末に南部のヴィジャヤに中心を移しました。主要な交易品は
,
沈
香
(じんこう)という香りのする木です。
・
80
0
年
~
120
0
年のアジア 東南アジア
現⑤
インドネシア
,⑥
シンガポール
,⑦
マレーシア
◆
交易ルートの辺境に位置していたジャワ島は,農業生産アップで商業を活発化させた
マラッカ海峡を通る海上交易が栄える
シャイレーンドラ朝
【共通一次 平1:時期】【本試験H11:カンボジアではない。時期も問う(8~9世紀か
)】
【本試験H16ボロブドゥールが建立されたかを問う,本試験H18,本試験H20地図,H22】
は9世紀半ばにジャワ島で勢力を失うと,9世紀後半にはマラッカ海峡方面に拠点が移動しました。
中部ジャワでは,717年に中部ジャワの南部(現在のジョグジャカルタ)
に
マタラム王
国
(古マタラム王国,717~1045)が成立しました。プランバナン寺院群という巨大なヒンドゥー寺院が建てられています。しかし,929年頃〈シンドック〉王により東部ジャワ
の
クディ
リ
に中心地が移されます。詳しい理由はわかっていませんが,おそらく火山の噴火といった災害によるものと考えられます。1016年に内戦が起きると,東部ジャワを再統一し
て
クディリ
朝
を立て直し,最盛期をもたらしたのは〈アイルランガ〉王(位1019~42?)です
。
クディリ時
代
の東部ジャワは,高い農業生産力を背景に,交易の中心地として栄えました。
インドとの活発な交易を背景に
「
ヒンドゥー
教
」や大乗仏教と土着の文化が融合し(
⇒80
0~
120
0
南アジ
ア
),ヒンドゥー=ジャワ文化が栄えました。特に,『ラーマーヤナ』や『マハーバーラタ』
【東京H10[3]】
を題材にした影絵芝居
の
ワヤ
ン=
ク
リ
(ワヤン,ワヤン=クリット)
【本試験H26地域を問う】
【追H24ジャワの影絵芝居か問う】
は10世紀には上演されていました。
◆
マラッカ海峡の港市国家群が東西交易をめぐり競い合ったが,南インド勢力の進出を受ける
マラッカ海峡の港市国家に南インドの政権も進出
10世紀のマラッカ海峡では
,
三仏
斉
(さんぶっせい)という港市国家が,中国の史料で確認されます。これは単一の国家を指したものではなく,南インド
の
チョーラ
朝
【本試験H31】
の勢力やシュリーヴィジャヤ王国など,この地域にあっ
た
パレンバ
ン
を含む交易国家を一括りにした呼び名と見られます。960年,中国で宋が成立すると,三仏斉の国々は中国との貿易を独占しようとし,「自分がマラッカ海峡を支配するリーダーだ!」と主張し,競って朝貢をしました。
三仏斉は,インドのパーリ語やタミル語ではジャーバカ("ジャワに関連する"という意味),イスラーム教徒にはアラビア語でザーバジュと呼ばれました。
しかし,1025年にインド南東部
の
チョーラ
朝
【本試験H31中国の清に使節を派遣していない(時期が違う)】
がマラッカ海峡に大遠征軍を差し向け,交易ネットワークを支配しようとしましたが,1080年頃から支配は弱まります。
現在のシンガポールは未開の地でした
(注)
。
(注)岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.4。。
・
80
0
年
~
120
0
年のアジア 東南アジア
現⑧
カンボジア
◆
農業生産を拡大したカンボジアが交易ルートをにぎる
「水利都市」アンコールが繁栄をもたらす
ヴィジャヤに移ったヴェトナム南部のチャム人の港市国家
しかし,のちに9世紀初頭にメコン川中流域
の
トンレサップ
湖
北岸を中心にし
た
クメール
人
の
カンボジア王
国
の勢力が拡大。チャム人にとっての新たな脅威となります。
カンボジア王国は伝承では
〈
ジャヤヴァルマン2
世
〉(?~850)が始祖とされており,王は神聖な存在とされ,ヒンドゥー教の影響を受けた寺院が建てられましたが,交易ルートをめぐってたびたび争いが起きます。王はクメール人の国土をジャワ人から解放し,ジャワ島の寺院建築様式や灌漑システムを導入しました
(注
1)
。
のちに1113年に東北タイの台地から南下した
〈
スールヤヴァルマン2
世
〉(位1113?~50?)
【本試験H19チャンドラグプタ2世ではない】
は,アンコールで即位し,1116年には中国の宋に朝貢。東南アジア諸国にとって,中国の皇帝からより高い位(くらい)を与えられることは,中国との衝突を避けつつ,周囲の国家よりも「自分のほうが上だ!」とマウンティングするための重要な手段でした。
「ナンバーワン」より「ナンバーツー」を狙う戦略といえます
(注
2)
。
(注1) 石澤良昭『アンコール・王たちの物語―碑文・発掘成果から読み解く』NHKブックス,2005年,p.231。
(注2)秋田茂・桃木至朗「グローバルヒストリーと帝国」『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会,2013,p.27。
また,南シナ海の交易ルートをねらって,香木の一種
乾季対策として貯水池を建設し,労働力を確保
一方,アンコール周辺では,9世紀以降
(注
1)
大規模な灌漑設備が整備され,都市に大量の食料が供給される体制が整えられていきました。アンコールの"水瓶(みずがめ)"は,乾季でも涸れることのないトンレサップ湖です。シェムリアップ川から膨大な量の水を引き,東バライと西バライという灌漑のための貯水池を整備し,自然の傾斜を利用して大田地へと水を流していきました
(注
2)
。
乾季にも栽培できるように早生種が導入され,確保した労働力が王の権威を象徴する巨大施設建設に振り向けられました。これが,65mの塔を持つ大規模な寺院
(
アンコー
ル=
ワッ
ト
)
【本試験H9[19]図版・イスラム教の寺院ではない】
【本試験H21大乗仏教の寺院ではない,本試験H19シュリーヴィジャヤ王国ではない・時期,H31クメール人によって建てられたか問う】
【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】
です。
アンコール=ワットは,都
城
アンコー
ル=
ト
ム
【本試験H27】
の南部に建設しました。寺院は当初
は
ヒンドゥー
教
【本試験H19】
の神々を祀(まつ)るために建てられました。なお,アンコール=ワットから東へ60kmのところにはベン=メリア寺院があり,"東のアンコール"と呼ばれます(建設時期はアンコール=ワットより早い)。
(注1)石澤良昭『アンコール・王たちの物語―碑文・発掘成果から読み解く』NHKブックス,2005年,p.230。
(注2)石澤良昭『アンコール・王たちの物語―碑文・発掘成果から読み解く』NHKブックス,2005年,p.227~p.228。1979年に〈ベルナール=フィリップ=グロリエ〉が提起した「アンコール水利都市論」による。
アンコールに集められた周辺の産物は,西のチャオプラヤー川,北西のピマーイ,北東のワット=プーやメコン川,東部のプノンペンやチャンパー方面に向かう4つの幹線道によってトンレサップ湖まで輸送され,メコン川から南シナ海に流されました。「すべての道はアンコールへ」といわれるゆえんです
(注
1)
。この富をめぐっては,内陸に進出しようとしたチャンパーとも抗争が起きています
(注
2)
。
(注1)石澤良昭『アンコール・王たちの物語―碑文・発掘成果から読み解く』NHKブックス,2005年,p.243。
(注2)バイヨンの第一回廊に,1177年のチャンパー軍とのトンレサップ湖における海戦の様子が描かれています。石澤良昭・大村次郷『アンコールからのメッセージ』山川出版社,2002,p.77,p.86。
〈スールヤヴァルマン2世〉の死後,一時分裂した王家を,王子〈ジャヤヴァルマン7世〉(位1181~1218?)が統一しました。彼は,王
宮
アンコー
ル=
ト
ム
(大きなアンコールという意味)を整備しました。王宮の中央部には,大乗仏教寺院のバイヨンが建てられ,
彼は従来の王と異なり仏教に重きを置き,国内各地に施療院や宿駅を慈善事業として建設しました。ヒンドゥー教による立国"宗教改革"です。中央の祠堂では王と〈仏陀〉が一体化した像が安置されていたといい,王権の神格化をドラマチックに演出する効果がありました
(注
1)
。アンコール朝では長い時間をかけて外来の大乗仏教やヒンドゥー教が,地元の信仰と結びつき,カンボジア的なヒンドゥー教に変化していていましたから
(注
2)
,「ヒンドゥー教」をやめて「大乗仏教」に変えた,というわけではありません。大乗仏教の要素をより多く取り入れていったということです。
現在は木の根によって覆われてしまったタ=プロムも,このときに建てられた寺院で,観光の目玉になっています。
王は,すでに荒廃していた灌漑設備の代わりに,1200年頃から各地に石橋ダム
(注3)
と導水路を建設。しかし,次第に泥土が堆積し,灌漑設備の維持は困難になっていったとみられます。
(注1)石澤良昭・大村次郷『アンコールからのメッセージ』山川出版社,2002,p.77,p.85。
(注2)石澤良昭『アンコール・王たちの物語―碑文・発掘成果から読み解く』NHKブックス,2005。
(注1)石澤良昭・大村次郷『アンコールからのメッセージ』山川出版社,2002,p.77,p.133の写真(コンポン=クデイの石橋)を参照。
・
80
0
年
~
120
0
年のアジア 東南アジア
現⑪
ミャンマー
◆
ビルマでも農業生産を拡大させたパガン朝が栄える
上座部仏教は,セイロン島からビルマへ
ビル
マ
では
,
ピュ
ー
が衰えたのち,11世紀に〈アノーヤター〉王(位1044~1077)が即位し
て
パガン
朝
【本試験H3時期(7世紀ではない),本試験H5,本試験H11:時期(11~13世紀かどうか問う)】
【本試験H18スマトラ島ではない,本試験H19インドネシアではない,本試験H26地域を問う】
【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】
が開かれました。
パガンはイラワジ川中流域で,南下し
た
ビルマ
人
【本試験H5モン族の文化を保護していない】
により建国され,灌漑を奨励して栄えました
。
上座仏
教
【本試験H6ビルマで上座仏教が信仰されているか問う】
【本試験H16大乗仏教ではない,本試験H19・H22】
を国教とし,多くのストゥーパ
(
パガ
ン
)が多数建立されました。だからパガン朝というのです。ビルマ(ミャンマー)観光の目玉シュエズィーゴン=パゴダは,〈アノーヤター〉王が建設させた寺院です
(注
)
。
上座仏教はその後,タイ,カンボジア,ラオス方面に広がっていきます。これらの地域の寺院や仏僧は,現在にいたるまで高い社会的地位を保っています。同時にインドの南方系の文字がモン人を介して伝わり,11世紀頃に
は
ビルマ文
字
がつくられています。
(注)
https://www.jtb.co.jp/kaigai_guide/asia/republic_of_the_union_of_myanmar/RGN/125153/
JTB
○80
0
年
~
120
0
年のアジア 南アジア
南アジ
ア
...
現在の①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール
・
80
0
年
~
120
0
年のアジア 南アジア
現③
スリランカ
セイロン島はチョーラ朝のタミル人の支配を受ける
なお,インド=アーリヤ系
の
シンハラ
語
を話す民族の住んでいたスリランカは,前3世紀頃に上座仏教を王権が受け入れました。
その後は
,
アヌラーダプラ王
国
(前437~後1007)が栄えていましたが,南インドのタミル人の進出に悩まされるようになります。
結局,10世紀後半にチョーラ朝(後述)に占領されるに至りまし
た
(
注1)
。シンハラ人のアヌラーダプラ王国は南方のポロンナルワに遷都しました(ポロンナルワ王国,11世紀~14世紀初め)。
チョーラ朝によるセイロン島の支配は1279年まで続きます。
チョーラ朝占領時代にヒンドゥー教が広まりましたが,1055年にチョーラ朝勢力を駆逐した〈ヴィジャヤバーフ1世〉(位1055~1110
)
(
注2)
は,スリランカの北部を中心に支配を確立。
スリランカ北部は強い乾季をともなうサバンナ気候なので,水の確保が支配者にとって大きな政治課題となります。
〈ヴィジャヤバーフ1世〉も
,
仏歯
寺
を建立してミャンマーから僧侶を招くなどして上座仏教を復興させることで人々を納得させるとともに,水利施設を建設しまし
た
(
注2)
。
また次の〈パラークラマバーフ1世〉(位1153~86
)
(
注2)
は,全島を統一し中央集権支配を確立します。
しかし,13世紀になると,インドやマレー半島方面からの侵入が相次ぐようになります。
それほどスリランカの位置は海上交易上の利点が大きいのです。
北部のジャフナに
は
タミル
人
の王国(ジャフナ王国)が建てられ,ポロンナルワを中心とす
る
シンハラ
人
の王権はしだいに弱まり,やがてポロンナルワは放棄され,シンハラ人の政治的な中心地は中部の山岳地帯に移動していきまし
た
(
注2)
。
(
注1)
チョーラ朝がスリランカに侵攻した原因は,チョーラ朝と争っていたパーンディヤの王がスリランカに逃げ込んだことにありました。辛島昇『南アジア史』山川出版社,2004,p.168。
(
注2)
辛島昇『南アジア史』山川出版社,2004,p.169。
・
80
0
年
~
120
0
年のアジア 南アジア
現④
モルディブ
モルディブはアラブ人による海上交易の重要拠点とされるようになっています。
南インドのチョーラ朝の王〈ラージャラージャ1世〉(位985~1014)は,アラブ商人への対抗からモルディブにも遠征していま
す
(注
)
。
(注
)
辛島昇『南アジア史』山川出版社,2004,p.163。
・
80
0
年
~
120
0
年のアジア 南アジア
現②
バングラデシュ
,⑤
インド
,⑥
パキスタン
◆
政治的には分裂したが「ヒンドゥー教」の文化が各地に浸透した一方,イスラーム教も伝わった
北はイスラーム政権,南はヒンドゥー地方政権
この時期のインドは地方の諸国家に分裂していた時代です。
「分裂」と聞いて,「停滞していた時代」と考えるのは早計です。
各地の政権がそれぞれに社会経済を発展させ,豊かな地方文化が栄えた時代なのです。
例えば,『マハーバーラタ』
【東京H10[3]】
や『ラーマーヤナ』が地方語に訳されていったのもこの時期です。
インドでは現在でも地域によって多種多様な言葉が話されていますが,「ヒンドゥー教」という共通項によってゆるやかに結び付けられていますよね。
インド各地でシヴァ神やヴィシュヌ神にまつわる聖地が「巡礼の道」で結ばれ,8世紀に盛んになっ
た
バクティ信
仰
も吟遊詩人によって各地に伝わりました。バラモンによる自然神に対する祭祀を中心とする信仰(バラモン教)が,シヴァ神やヴィシュヌ神などの民間信仰と結びついた信仰は,のちにインドを植民地化するイギリス人によって
「
ヒンドゥー
教
」と総称されることになります。
また,イスラーム教が本格的にインドに伝わったのもこの時期のことです。
各地の政権の様子を見てみましょう。
インド東部
の
ベンガ
ル
では,8世紀半ば
に
パーラ
朝
(8世紀後半~12世紀)が高い生産力とガンジス川河口の港を握って栄え,8世紀後半にはガンジス川上流域にまで進出しました。第2代〈ダルマパーラ〉王はヴィクラマシラー僧院を建て,密教研究の中心地となりました。
しかし,パーラ朝は,インド西部
で
クシャトリ
ヤ
の末裔を自称したプラティハーラ朝(8世紀~11世紀)や,デカン高原のラーシュトラクータ朝(8~10世紀)に阻止されます。ベンガルでは支配権はセーナ朝(11~13世紀)に移り,その後はイスラーム勢力により衰退しました。
9世紀のネパールでは,チベット=ビルマ系の民族によるタークリ朝が
,
チベット王
国
(
吐
蕃
)に服属していました。9世紀末にマッラ朝のネパールは,チベットから独立したものの,14世紀後半まで分裂状態が続きます。
インド西部のインダス川周辺では,マイトラカ朝が5~8世紀に勢力を広げました。また,西インドで起こったプラティハーラ朝(8世紀~11世紀)は,シンド地方へのアラブ人への進入を防ぐなどし,北インドのカナウジに遷都して栄えました。しかし,領内では,ヒンドゥー教を信仰す
る
ラージプー
ト
(王の子を意味する「ラージャプトラ」のなまった言葉)を名乗る有力者が自立をはじめ,相争う時代
(
ラージプート時
代
)となりました。彼らは自分たちを,神話に登場する神の子孫であると主張したのです。
ラージプートは,灌漑施設や都市を建設し,サンスクリット語・サンスクリット文字を共通語とするサンスクリット文化圏を形成し,ヒンドゥー教の信仰を広めました。有力な王国に,チャーハマーナ(チャウハーン)朝(10世紀~12世紀)があり,王を主人公とした『プリトゥヴィーラージ=ラーソ』がヒンディー語により著されました。
デカン高原では
,
ラーシュトラクータ
朝
(8世紀~10世紀),のち
に
後期チャールキヤ
朝
(10世紀~12世紀)が栄えており,南インド(トゥンガバドラー川)以南
の
チョーラ
朝
と勢力を争いました。
チョーラ朝は海外交易の利益をもとに,デカン高原からバラモンの移住をうながし,ヒンドゥー教の正統理念を掲げて中央集権化を試みま
す
(
注1)
。
チョーラ朝の王〈ラージャラージャ1世〉(位985~1014
)
(
注1)
と,その子〈ラージェンドラ1世〉(位1012~1044)の時代には,海上交易の覇権を握るために積極的に遠征をし,1025年には〈ラージェンドラ1世〉によってシュリーヴィジャヤ王国がコントロール下に置いていたマレー半島中部の中心都市カダーラムを陥落させていま
す
(
注2)
。
父子は中国に3回使節を送っており,2人の王の名は『宋史』に記載があります。
(
注1)
辛島昇『南アジア史』山川出版社,2004,p.162。
(
注2)
辛島昇『南アジア史』山川出版社,2004,p.163。
イスラーム教がインドに伝わる
イスラーム教徒のインドへの進出もこの時期のことです。
642年
に
ニハーヴァンドの戦
い
【追H30】
で
ササ
ン(
サーサー
ン)朝
【追H30】
を滅ぼしたイスラーム教徒たちは,アラビア海に沿ってインドに向かってきました。661年にウマイヤ朝が成立すると,711年にイラク総督の命令で〈ムハンマド=イブン=カーシム〉(?~715?)がシンド地方に進入し,シンド王国を滅ぼし,インダス川中流域まではイスラーム教徒が支配しました。
その後もイスラーム教徒による地方政権は続きましたが
,
アッバース
朝
(750~1258(1517))が衰えるにつれて自立傾向が強まっていきました。
アッバース朝の支配下だった,イランのホラーサーン地方の総督が821年に自立し
て
ターヒル
朝
を建国。アッバース朝の建国時からカリフを支えてい
た
ホラーサーン
軍
(ホラーサーンとは「太陽ののぼる地」という意味)
が,世代交代により反旗をひるがえす形となり焦ったカリフは,親衛隊として中央ユーラシアからテュルク(トルコ)人を奴隷軍人として大量に輸入しました。彼ら
は
マムルー
ク
と呼ばれ重用されます。
ターヒル朝出身で鍛冶職人から身を立てた〈ヤアクーブ〉が,アフガニスタン方面で867年
に
サッファール
朝
を建国。ターヒル朝を滅ぼしたサッファール朝の〈ヤアクーブ〉は,アッバース朝によりシンド総督に任命されました。シンド地方は,地中海⇔エジプトのカイロ⇔アラビア半島を結ぶ交易の中心地。イスラーム教徒に改宗する人々も増えていくようになりました。
アッバース朝が衰退すると,アム川とシル川に挟まれた地域(マーワラー=アンナフル地方)
【本試験H10地域「西トルキスタン」か問う】
では,875年にこの地域のイラン系
【本試験H10】
貴族の〈サーマーン〉がイスラーム教に改宗した後
,
サーマーン
朝
【本試験H10】
【追H18時期】
を建てました。サーマーン朝はアッバース家から自立し,サッファール朝を破りました。首都
は
ブハ
ラ
です。
しかし,965年頃,今度はサーマーン朝につかえていたトルコ人マムルークである〈アルプテギン〉が
,
アフガニスタ
ン
【本試験H10ここを本拠とするか問う】
のガズナで独立し
,
ガズナ
朝
(962~1186)
【本試験H10】
【追H19時期,H21時期(10世紀か)】
【追H21】
が自立しました。〈マフムード〉(位998~1030)
【慶文H29】
のときに,北インドへの侵攻を開始しました
【本試験H31北インドへの侵略を繰り返したのはマムルーク朝ではない】
。
カリフ以外で初めてスルターンを名乗ったのは,ガズナ朝の〈マフムード〉(971~1030)です。のちのセルジューク朝の〈トゥグリル=ベク〉はカリフにスルターンの称号を要求しましたが,〈マフムード〉はカリフの権威は認めていました。この〈マフムード〉王にペルシア語
【追H28サンスクリット語ではない】
で『王書』
(
シャ
ー=
ナー
メ
)
【追H28『王の書』】
という叙事詩を書き献上したのは
〈
フィルドゥシ
ー
〉(フェルドウスィー,934~1025)。さらに〈アル=ビールーニー〉(973~1048)は彼の遠征に同行して『インド誌』を記録しています。
プラティハーラ朝は,1018年に彼にカナウジを占領されて滅んでいます。彼の死後には王朝は弱体化し,1038年にセルジューク朝にホラーサーンのニシャープールを奪われ,1148年頃にアフガニスタン
で
ゴール
朝
(1148頃~1215)が自立したため,ガズナ朝はインドのパンジャーブ地方に拠点を移しますが
【本試験H219世紀ではない】
,1186年に滅びます。
◆
南インドのチョーラ朝はマラッカ海峡に進出し,海上交易で栄える
チョーラ朝,東南アジアにヒンドゥー文化を伝える
インド南端部では,南東
の
チョーラ
朝
(850頃~1279頃)
【追H20時期(14世紀か)】
がカーヴェリ川の三角州でダムや灌漑施設を整備したことで栄え,
〈
ラージャラージャ1
世
〉(位970~985)は,南部の諸王国とスリランカを破り,さらにガンジス川や東南アジアの
シュリーヴィジャヤ王国
(注
)
【追H9時期、H19】
【本試験H18マジャパヒト王国ではない、H22前漢の時代ではない】
【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】
にまで遠征して,一時マレー半島を支配するまでに発展し
,
海上交易で栄えまし
た
【本試験H29】
【追H20東南アジアにまで遠征したか問う,時期(14世紀か)】
。東南アジアにはインドの「ヒンドゥー教」文化が伝わり,10世紀頃のジャワ島
【追H20】
ではインドの神話を題材とした影絵芝居
【追H20
】
ワヤ
ン
(ワヤン
=
クリ;ワヤン=クリット)
【追H20】
が上映されていました。ちなみに,現在のインドネシアの国章に描かれるガルーダ(国営航空会社の名でもあります)は,ヒンドゥー教のヴィシュヌ神の乗り物です。
その子〈ラージェーンドラ1世〉(位1012~44)とともに,中国に使節を送っていたことが『宋史』からわかっています。この進出には,アラブ商人への対抗という意図もありました。ちなみにこの時期のチョーラ朝は,古代チョーラ朝(前3世紀頃~後4世紀)と区別し"中世チョーラ朝"ということがあります。古代チョーラ朝にはタミル語による古典文学(サンガム文学)が栄え,中世チョーラ朝はその
南インドには,東西貿易に従事する商人組織のネットワークが形成されており,イスラーム教徒による政権が成立してからは,南インドでも戦闘に馬を用いるようになりましたが,飼育に適した草原がないため,アラビア半島から
の
馬
の輸入が増加していきます。また中国
の
陶磁
器
の輸入や,東南アジアへの綿布の輸出が盛んになるなど,東西交易はますます活発化していきました。
(注)複数の港市を支配下におさめたシュリーヴィジャヤ王国について,中国の宋の役人(福建路提挙市舶)は13世紀初頭に次のように述べています。「もし商戦が過ぎてはいらざれば,すぐ船を出して合戦す。」(趙汝适(ちょうじょかつ)著『諸蕃志』)
・
80
0
年
~
120
0
年のアジア 南アジア
現⑦
ネパール
インドからヒマラヤ山脈を越えてチベットに至るには
,
ネパー
ル
(
カトマン
ズ
)
盆
地
を通るルートがありました。盆地周辺では穀物の栽培も可能で,チベット=ビルマ語派のネワール人が分布していました。
○80
0
年
~
120
0
年のアジア 西アジア
西アジ
ア
...現在の①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
「フランク人」「テュルク人」の進出の時代
温暖化の影響を受け,各地で地方政権が自立し,アラブ人のカリフの言うことをきかなくなるのがこの時代。
お隣のヨーロッパにおいても人口増加を背景として,拡大運動が始まっています。その最たる例が1095年にローマ=カトリック教会の教皇により提唱され
た
十字軍
【東
京
H7[1
]
指定語句
】
でした。
十字軍は宗教的情熱から始まった運動ですが,それと同時に増加したヨーロッパ諸民族の対外拡大運動でもあったのです。少数のキリスト教徒(「フランク人」
(
注
2
)
と呼ばれました)の支配者がイスラーム教徒の農民を支配する体制となり,軍事力を補うために騎士修道会による移民がおこなわれました。また当時のイスラーム教徒側は十字軍との戦いを必ずしも宗教的な戦いととらえておらず,キリスト教徒に対抗する勢力も一枚岩ではありませんでした。
なお,この時代
は
テュルク
人
が活躍する時期でもあります。彼らはもともとモンゴル高原を拠点としていましたが,西に移住してイスラーム教を受け入れ軍人としての才覚を開花させ,11世紀に
は
セルジューク
朝
という大帝国を建設するに至ります。イラン
の
サーマーン
朝
【慶文H29】
はその育成・輸出で繁栄。そこからアフガニスタン方面
の
ガズナ
朝
【本試験H3】
,
ゴール
朝
の北インドへの進出もこの時代です。
(注1)現在のシリアの領土とは違い,歴史的にシリア(アラビア語ではシャームと呼ばれます)と呼ばれる地域は現在のイスラエル,パレスチナ,ヨルダン,シリア,レバノンを含む東地中海沿岸の地域を指すことが普通でした。
(注2)「フランク」とはビザンツ帝国やイスラーム教徒による「ヨーロッパ人」を示す呼称でした。イスラーム世界にとって十字軍は「フランクの進出」と表現されることがあります。
◆
バグダードでは「大翻訳運動」が進む
"
アッバー
ス=
ルネサン
ス"
が花開く
(注)
〈
ハールー
ン=
アッラシー
ド
〉(位786~809)
【本試験H3シャープール1世ではない】
【本試験H21時期】
の死後,その子〈マアムーン〉(位813~833)のもとで
〈
フワーリズミ
ー
〉
が
代数
学
(アルジブラ)
【東京H23[1]指定語句】
を発達させるなど学芸が栄えました。フワーリズミーとは「ホラズム地方出身」ということを表した名です。イスラームにおける数学には,インド
【東京H23[1]指定語句】
【追H28イスラーム世界からインドに伝わったわけではない】
で発見された
ゼロの記数法
【追H19】
が影響を与えています。
アラビア数
字
【本試験H2バビロニア王国で考案された文字ではない】
は,現在,世界で使用されている算用数字のもとです
【本試験H2】
。
また,ウラマー(学者)の〈タバリー〉(位838~923)
【追H21リード文に登場】
が『預言者たちと王たちの歴史』という長大な歴史書を,一神教世界観に基づく人類史の中に〈ムハンマド〉以降の歴史を位置づけた年代記の形で発表しています。
カリフの〈マアムーン〉はバイト=アル=ヒクマ(知恵の館)を建設し,学者を招いて古代ギリシア・ローマの文献の
アラビア語翻訳
【追H18】
を奨励しました。「アッバース=ルネサンス(復興)」つまり,古代ギリシアの情報のアッバース朝における"復興"といってもよいでしょう。
(注)「アッバース=ルネサンス」は筆者の造語。
◆
ハールーンの死後,マムルークを導入したアッバース朝は衰退に向かう
テュルク系軍人の採用で,カリフの権威が衰える
しかし〈ハールーン〉の死後,第八代カリフ〈ムスタスィム〉(位833~842)が自分の親衛隊としてテュルク系の奴隷軍
人
マムルー
ク
を採用したことが,衰退に向けた序曲となります。
自派で固めるために〈ムスタスィム〉はバグダードからサーマーッラーに遷都しますが,のちにカリフ〈ムワッタキル〉(位847~861)がマムルークにより暗殺される事案も発生。
サーマッラーからバグダードに再遷都されたころには,地方政権の自立もすすみ,カリフの権威はすっかり衰えていました。
◆
地方政権の分裂が進むが,イスラーム教の信仰はテュルク人にも拡大した
イラン,イラク,シリア,北アフリカ,イベリア半島の各地で地方政権が自立へ
しかし,9世紀初頭からだんだんとアッバース朝の各地域で,バグダードのカリフのいうことを聞かない権力者が現れるようになっていきました。カリフを倒すまでには至らないものの,その「いうことをきかなくなる」ことを「自立する」とか「独立する」と表現します。
イランのホラーサーン地方の総督は821年に自立し
て
ターヒル
朝
を建国。アッバース朝の建国時からカリフを支えてい
た
ホラーサーン
軍
が,世代交代により反旗をひるがえす形となりました。焦ったカリフは,親衛隊としてアム川以東の地域(マー=ワラー=アンナフル)から主
に
テュル
ク
(トルコ)系の人々を奴隷軍人として大量に輸入しました。彼ら
は
マムルー
ク
と呼ばれ重用され,従来のホラーサーン軍との対立を生みましたが,しだいに政治・軍事の実権を握るまでに成長していきます(1250年にはエジプトで王朝を建設することになります)。マムルークは自由な生き方ができず,主人の持ち物として生きる存在でした(マムルークは「所有されるもの」という意味)。しかし,幼い頃から主人に育てられることもあって主人の間には特別な関係や愛情が生まれることも多く,有力者の主人が亡くなるとマムルークが後を継ぐということは,しばしば起こりました。
アフリカ東海岸から輸出され,南イラクの耕作地で土木作業に従事させられてい
た
黒人の奴
隷
(
ザンジ
ュ
)が869~883年に大規模な反乱を起こすと,これに乗じてアラブ人も反乱を起こし,一時は独立王国を形成しましたが883年に鎮圧されました(ザンジュの乱。ザンジュは東アフリカの港
市
ザンジバ
ル
の省略形です)。この反乱によりカリフの権威は傷付き,地方に軍事政権が自立するなど,アッバース朝の支配は揺らいでいくことになりました。
カリフにも,ペルシア人の貴族〈ムタワッキル〉(位847~861)が就任し,テュルク(トルコ)系の奴隷軍人
(
マムルー
ク
)
【本試験H9アッバース朝が兵士としてマムルークを採用したか問う】
【セA H30古代ギリシアではない】
も政治に介入するようになっていくと,しだいにカリフは名目的な存在になっていきました。〈ムタワッキル〉の暗殺にはテュルク(トルコ)系が関与していたとみられ,政治は混乱します。
また
,
イラ
ク
や
シリ
ア
ではアラブ系遊牧民が独自の政権を樹立するようになり,イラク北部ではハムダーン朝(890~1004)が建てられ,アッバース朝を圧迫します。のちにイラクやシリアにもアラブ遊牧民による政権(イラクのモースルのウカイル朝やシリアのアレッポのミルダース朝)やクルド人による政権(マルワーン朝)が樹立されました。
アラビア半島南
部
イエメ
ン
に
は
ザイド
派
のラッシー朝がアッバース朝から自立しており,イスマーイール派の活動も活発化していました。
また,シーア派の一派であ
る
カルマト
派
が,アラビア半島東部のバフラインを拠点に9世紀末から11世紀末にかけて国家を建設。930年にはカアバ神殿に侵入し,黒色を奪い取ってしまいます。その後951年に返還されますが,彼らの地下組織は各地に張り巡らされ,シーア派
の
ファーティマ
朝
とも対決姿勢をとります。アッバース朝も聖地マッカ〔メッカ〕を守り切ることができなかったということで,権威の低下は免れません。
現在
の
レバノ
ン
山岳部では,独特の信仰を持
つ
マロン
派
(注1)
のキリスト教徒や
,
ドゥルーズ
派
(注2)
のイスラーム教徒が,有力氏族の指導者の保護下で栄えました。
シリア山岳部ではシーア派の分派であるヌサイリー派(のち
の
アラウィー
派
)が信仰されています。
(注1)4~5世紀に修道士〈マールーン〉により始められ,12世紀にカトリック教会の首位権を認めたキリスト教の一派です。独自の典礼を用いることから,東方典礼カトリック教会に属する「マロン典礼カトリック教会」とも呼ばれます。
(注2)エジプトのファーティマ朝のカリフ〈ハーキム〉(位996~1021)を死後に神聖視し,彼を「シーア派指導者(イマーム)がお"隠れ"になった」「救世主としてやがて復活する」と考えるシーア派の一派です。
ソグディア
ナ
【本試験H10地域「西トルキスタン」か問う】
で
は
ブハ
ラ
【京都H22[2]】
【本試験H30コルドバではない】
を都として,イラン系
【本試験H10】
【追H21トルコ系ではない】
の支配者によ
り
サーマーン朝
(874~999)
【京都H22[2]問題文】
【本試験H10】
【追H21時期(10世紀ではない)】
【慶文H29】
が独立しています。ブハラには,医学者(著書『
それはブハラが,東西を結ぶ交易都市であり,東西からさまざまな人や情報が集まったからにほかなりません。
◆
非アラブ人の軍事政権によりアッバース朝の権威が動揺し,ペルシア湾の交易ルートが衰えた
シーア派のブワイフ朝が,カリフから称号を獲得
946年にはカスピ海の南西岸の山岳地帯ダイラムのシーア派(ザイド派)に属するブワイフ家が,ダイラム人を率いて軍事的に台頭し,アッバース朝から独立
し
ブワイフ
朝
【本試験H16地域(西アジア),本試験H22 13・14世紀ではない・南アジアではない】
【追H18】
を建国しました。
ブワイフ朝はアッバース朝の
都
バグダー
ド
に入城し
【本試験H16,本試験H20世紀を問う】
ブワイフ家の〈アフマド〉が,アッバース朝のカリフの〈ムスタクフィー〉(位944~946)に迫って「
大アミール
」
(注)
の職を授かり,ダウラ(国家)の守護者の称号を与えられるとともに,シャー=ハン=シャー(王の中の王)というイランの伝統的な王の称号も用いました。これはアッバース朝の時代にはカリフの次に重要なポストでした。
こうして,ブライフ朝によるバグダード支配が始まります。
日本の歴史に置き換えると,武士が「征夷大将軍」の役職を天皇に迫っているイメージでしょうか。いずれにせよ弓矢を射る騎馬兵が政権を得た点では,同時代の日本や西ヨーロッパと共通しています。
ブワイフ朝は,配下の騎士に俸給を払うアター制に代わって土地を与え,その地で徴税をする権利
(
徴税
権
)まで与えました。徴税権付きの土地,あるいは徴税権そのもののことをイクター
【本試験H5ジズヤではない】
【本試験H13ラティフンディアとのひっかけ】
といい,この制度
を
イクター
制
といいます
【本試験H27後ウマイヤ朝(アンダルス(コルドバ)のウマイヤ朝)ではない,本試験H29】
【追H25オスマン帝国が創始したのではない】
【中央文H27記】
。イラクでの実施が最初の例ですが,その後のイスラーム諸政権はイクター制に類する制度を採用することになります。
アッバース朝の権威の低下により,ペルシア湾からイラクにいたる交易ルートは衰えました。しかし,交易の中心は北方の草原地帯やアラビア半島南部の紅海にシフトし,イラン,エジプト,シリアが繁栄を享受するようになります。都市はイスラーム教の保護者を自任する軍人支配者の寄進(ワクフ)によって栄え,交易路も保護されました。陸海の交易や都市経済の繁栄は続き,イスラーム法の下で社会も安定化していったのです(ただし,ブワイフ朝の末期には重税により農村は荒廃し,都市の治安も乱れ,イラクの交易や都市経済は衰退します)。
なお,ブワイフ朝の支配層はシーア派のうち
1
2
イマーム
派
を保護しました。
(注) 10世紀初頭に〈ムーニス〉という将軍に与えられたのがはじまり。936年に〈ムハンマド=イブン=ラーイク〉に軍事・行政権のすべてが譲渡されて以降、事実上の世俗支配者の称号となります。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.109。
◆
テュルク系のセルジューク朝が強大化し,帝国を建設する
西アジアに,テュルクの時代が到来する
1071年:マラズギルト〔マンジケルト〕の戦い→1096年:第一回十字軍の開始
ブワイフ朝は,軍人同士の対立やスンナ派とシーア派の対立,イクターを授与された軍人の厳しい徴税による農村の荒廃により衰えていきました。そんな中,11世紀にはテュルク人のイスラーム王朝(スンナ派
【本試験H23】
【追H21シーア派ではない】
)であ
る
セルジューク
朝
【本試験H6タリム盆地は含まない,小アジア・パレスティナ,イラン高原は領域に含む】
【本試験H21地図上で進出ルートを問う・アイユーブ朝ではない,本試験H23地図上の位置を問う,H31】
【追H25シーア派の学問を振興していない,H29】
(1038~1194)が,マムルークの軍事力により強大化しました。
〈
セルジュー
ク
〉(生没年不詳)は,当時シル川よりも北にいた遊牧
民
オグズ
人
集団の連合体の指導者でした。オグズは後に「トゥルクマーン」と呼ばれるようになります。その後
〈
トゥグリ
ル=
ベ
ク
〉
【本試験H16ファーティマ朝の宰相ではない】
は,1055年
に
バグダードに入
城
し,カリフに
「
スルター
ン
」
【セ試行「ウマイヤ朝で,スルターンの称号がイスラム史上はじめて世襲された」のではない】【本試験H9ウラマーのひっかけ】
の位を要求し,希望通り授けられます。
スルターンとは「権威者」という意味で,そもそもカリフに対する敬称でしたが,ここでは世俗の支配者を意味します。
セルジューク朝は,遊牧国家であり首都は一定せず,バグダードやニーシャープールなどを季節的に移動していました。宰相(ワズィール)を中心とする中央集権的な行政組織がつくられ,ペルシア語が行政の公用語となりました(ただし,スルターンは当初はアラビア語,ペルシア語を理解しませんでした)。
◆
小アジアにもイスラーム教徒の政権ができる
セルジューク朝の西進に対し,十字軍が起きた
また,セルジューク朝は遊牧民のテュルク
【京都H20[2]】
系の集団を引き連れ小アジア〔アナトリア
【本試験H31】
【追H29モロッコではない】
〕にも進出しビザンツ帝国を圧迫
【本試験H31】
します。
第2代の〈アルプ=アルスラン〉(位1063~73)1071年
に
マンジケルトの戦
い
【京都H20[2]問題文】
で勝利しました。セルジューク王族の一人〈スライマーン〉が小アジアのコンヤ
【京都H20[2]問題文】
を首都として1077年に
は
ルー
ム=
セルジューク
朝
(1077~1308)
【京都H20[2]】
【本試験H8オスマン帝国ではない】
を建国しています。イェルサレムにも支配を拡大したことから「イスラーム教徒がキリスト教の巡礼者を妨害している」という主張が生まれ
,
第一回十字
軍
【H30共通テスト試行 移動方向(ヨーロッパから西アジア方向であることを問う)】
のきっかけとなりました。しかし,セルジューク朝が組織的に巡礼を妨害したという事実は,明らかになっていません。
第3代〈マリク=シャー〉(位1072~92)のときにはシリアにも進出し,領域を拡大しました。各地に学院
(
マドラ
サ
(アラビア語で「学ぶ場所」を指す一般名詞)
【追H27イスラーム教の法・神学を学ぶ施設か問う】
)を建て学問を奨励し,イラン人の宰相
〈
ニザー
ム=
アルムル
ク
〉(1018~92)によりバグダードやニシャープールになど9か所にマドラサ(学院)が建設され
,
ニザーミー
ヤ
学院
【東京H14[3]】
【本試験H16カイロではない・ファーティマ朝による建設ではない】
【追H25シーア派を振興していない】
【慶文H29】
と総称されました。マドラサでは学問的な修練を積んだウラマー(学者)を中心にイスラーム法学が発展する一方,難解な教義を通してにではなく,神秘的な体験を通して神との直接的な一体化を目指
す
スーフィズ
ム
(神秘主義)
【本試験H6「復古主義,原理主義的で,「コーランの教えに帰れ」と唱えていた」わけではない(それはワッハーブ派など)】
が農村部で広がりをみせていました。スーフィズム教団は修行を積んだ師(シャイフ)に率いられ,民衆から聖者(ワリー)として尊敬を集めました。
中央集権国家の建設を推進し『統治の書』を記した〈ニザーム=アルムルク〉は,反対派により暗殺されました。イスマーイール派の分派ニザール派
(のちのヨーロッパでは謎めいた暗殺教団"アサッシン"と呼ばれ英語のasassine(暗殺者)の語源となりました。首謀者には大麻(ハシーシュ)が使われたとされていますが,多くは後世のヨーロッパ側からの想像によるものです)
による犯行です。
抒情詩
『
ルバイヤー
ト
(四行詩集)』が
〈
オマ
ル
(ウマル)
=
ハイヤー
ム
〉
(1048~1131。オマルはペルシア語読み。ウマルはアラビア語読み)
【追H19シャクンタラーとのひっかけ】
によって編まれました。彼は,「右手(めて)に経典(コーラン),左手(ゆんで)に酒盃。ときにはハラール
(イスラーム教で認められている項目)
,ときにはハラーム
(イスラーム教で禁止されている項目)
」と歌い,宗教的な縛りから自由な人間的な詩を読みました。〈ウマル〉は,ジャラーリー暦という,キリスト教徒のグレゴリウス暦よりも正確な太陽暦を天文観測によって作成した人物でもあります。30日×12ヶ月+年末の5日が基本で,4年に1度うるう年がもうけられる正確無比の暦でした。
セルジューク朝は遊牧民の国家が農耕定住民の世界に進出して建国したわけですが,広大な領土維持のためには軍事力が必要で,軍人への俸給のためにブワイフ朝が導入してい
た
イクタ
ー
を支給しました。これにより地方の自立傾向が促進されていきます。
・
80
0
年
~
120
0
年の西アジア 現①アフガニスタン
ガズナ朝,ゴール朝がインドに進出
962年には
,
アフガニスタ
ン
【本試験H10】
でも,サーマーン朝
【追H21時期(成立は10世紀ではない)】
のホラーサーン地方(現在のイラン東部)総督だった〈アルプテギン〉(?~963以前?)
【本試験H9[25]マムルークの出身か問う】
が自立し
,
ガズナ
朝
【本試験H3トルコ系か問う,本試験H9[24],
本試験H10】
【本試験H28時期,本試験H30】
【追H21時期(10世紀か)】
をおこし,10世紀末には北インドに進出し始めます
【H29共通テスト試行 地図の読み取り(トルコ系の勢力がインドにも進出したことを読み取り)】
。ガスナ朝時代の〈フィルダウシー(フィルドゥーシー)〉(934~1025)は
『
シャ
ー=
ナー
メ
』(
『
王
書
』)というイランの神話,伝説,歴史をペルシア語で記録した叙事詩を著し,ガズナ朝の王に献上しています。
12世紀には,ガズナ朝か
ら
ゴール
朝
(1148頃~1215)
【追H20】
が自立して,インドに進入を繰り返し,1192年にはラージプート諸王国を倒して,インダス川・ガンジス川を含む北インドに支配を拡大しました。
なお,アム川下流域
の
ホラズ
ム
では,地元勢力がガズナ朝の支配を振り切り1077年に自立します。自立したのはセルジューク朝の総督だった人物で,ホラズム=シャーを名乗り
,
ホラズ
ム=
シャー
朝
を樹立しました
【本試験H7セルジューク朝を滅ぼしたのはオスマン帝国ではない】
【本試験H31チンギス=ハンにより滅んだか問う】
【追H29アルタン=ハンにより滅んでいない】
。
1215年に
は
ゴール
朝
を破り
【追H20滅ぼしたのはセルジューク朝ではない】
,シル川からイランにかけて広大な領土を一時的に支配しました。ホラズム=シャー朝のもとでは,ペルシア語文学の傑作が〈ルーミー〉(1207~73)
【本試験H24リード文】
によって発表されました。彼は,くるくるコマのように回転する儀式で有名
な
メヴレヴィー教
団
【本試験H24リード文】
の開祖でもあります。
・
80
0
年
~
120
0
年の西アジア
現⑯
キプロス
キプロス島は東ローマ帝国〔ビザンツ帝国〕の支配下にあり,「トロードス地方の壁画聖堂群」(◆世界文化遺産,1985(2001拡張))のように
,
正教
会
をモチーフにしたビザンツ〔ビザンティン〕様式のフレスコ絵画がのこされています。
・
80
0
年
~
120
0
年の西アジア
現⑰
トルコ
この時期のアナトリア半島はイスラーム教徒の支配下に入り,11世紀中頃以降はテュルク〔トルコ〕人のセルジューク朝の支配地域となります。その地方政権であったルーム=セルジューク朝(1077~1308)が東地中海沿岸に向けて拡大し,東ローマ帝国〔ビザンツ帝国〕を圧迫していきます。
・
80
0
年
~
120
0
年の西アジア
現⑱
ジョージ
ア(
グルジ
ア),⑲
アルメニア
,⑳
アゼルバイジャン
この時期のアルメニアは9世紀からアッバース朝の支配下に置かれます。アラブ人とビザンツ帝国の間にあって,850年に〈アショット=バグラトゥニア〉家がアラブ人によりアミール(総督)に就任。同時にマケドニア朝ビザンツ帝国の〈バシレイオス2世〉により〈アショット1世〉(位885~890)として独立が認められ,独立王国として栄えました(バグラトゥニ朝,885~1045)。
のちにセルジューク朝の支配を受け
,
キリキ
ア
(アナトリア半島南東部)への強制的な移住も実施されました。
11世紀初めから小国に分裂するようになり,に12世紀末にはグルジア人とアルメニア人は自立し繁栄期を迎えます。
(参照)中島偉晴・メラニア・バグダサリアヤン編著『アルメニアを知るための65章』明石書店,2009年,p.62
○80
0
年
~
120
0
年のアフリカ 東アフリカ
東アフリ
カ...
現在
の①
エリトリア
,②
ジブチ
,③
エチオピア
,④
ソマリア
,⑤
ケニア
,⑥
タンザニア
,⑦
ブルンジ
,⑧
ルワンダ
,⑨
ウガンダ
③
エチオピ
ア
では,900年~1270年の間,アガウ人によ
る
ザグウェ
朝
がロハ(現在のラリベラ)を都として栄えます。
12世紀末の王〈ラリベラ〉は,首都を"第二のイェルサレム"とすべく,エチオピア正教会の岩窟聖堂群を建設しました(ラリベラの岩の聖堂群(世界文化遺産,1978))。
東アフリカ沿岸は,アラブ商人,ペルシア商人などのイスラーム教徒が来航し
,
モガディシ
ュ
(現④ソマリア)
,
マリンデ
ィ
(現⑤ケニア)
,
モンバ
サ
(現⑥タンザニア)
,
ザンジバ
ル
(現⑥タンザニア)
,
キル
ワ
(現モザンビーク)などの港市国家が形成されていきました。
この地方では,現地のバントゥー語系の言語にアラビア語の語彙(ごい)が加わっ
て
スワヒリ
語
【H30共通テスト試行 インドネシアではない】
が生まれ,独特
な
スワヒリ文
化
【セA H30北アメリカではない】
が形成されていきました
(注1)
。
アラブ商人やペルシア商人は,9世紀頃からすで
に
マダガスカル
島
にも寄港しています。マダガスカルには巨鳥エレファント=バードが生息しており,『千夜一夜物語』の「船乗りシンドバッドの冒険」に登場する巨鳥のモデルといわれます
(
注
2
)
。
(注1) 「スワヒリ」は、「沿岸」を意味するアラビア語「サーヒル」に由来します。イスラーム商人の到来以前の東アフリカでは、文字は使用されていませんでした。鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.117。
(注2) ジャレド・ダイアモンド,秋山勝訳『若い読者のための第三のチンパンジー』草思社文庫,2017,p.312。
○80
0
年
~
120
0
年のアフリカ 中央アフリカ
中央アフリ
カ...
現在
の①
チャド
,②
中央アフリカ
,③
コンゴ民主共和国
,④
アンゴラ
,⑤
コンゴ共和国
,⑥
ガボン
,⑦
サント
メ=
プリンシペ
,⑧
赤道ギニア
,⑨
カメルーン
現在の
⑨
カメルー
ン
のあたりから移動してき
た
バントゥー
系
の人々のうち,コンゴ盆地のザイール川上流域に移動した人々は,この時期にアフリカを横断する交易ネットワークを築いています。11世紀から13世紀にかけ,現在
の
ザンビ
ア
からインド洋沿岸地方や,現
④
アンゴ
ラ
などの大西洋岸との交易路が形成されていきました。
バントゥー系の人々の移動先の一つである,東南部を流れ
る
ザンベジ
川
や南
の
リンポポ
川
周辺は,高原地帯です。沿岸部のように人類や家畜にとって有害なツェツェバエが分布せず,周辺に比べると温暖湿潤で住みやすい土地でした。また
,
金
が産出されたため,早くか
ら
インド洋沿岸の交易ネットワー
ク
とつながり,さまざまな産物が流入してきたのです。ここには遅くても900年頃から,バントゥー系のなかで
も
ショナ
人
の文化が確認されるようになります。ショナ人は現在のジンバブエ共和国の多数派民族です。
◯80
0
年
~
120
0
年の西アフリカ
西アフリ
カ...
現在
の①
ニジェール
,②
ナイジェリア
,③
ベナン
,④
トーゴ
,⑤
ガーナ
,⑥
コートジボワール
,⑦
リベリア
,⑧
シエラレオネ
,⑨
ギニア
,⑩
ギニアビサウ
,⑪
セネガル
,⑫
ガンビア
,⑬
モーリタニア
,⑭
マリ
,⑮
ブルキナファソ
◆
塩金交
易
【追H30
】
で栄えたガーナ王国は,ベルベル人に滅ぼされた
西アフリカのイスラーム化は主として武力により進む
ニジェール川流域
の
ガーナ王
国
【東京H9[3]】
【本試験H8サハラ縦断交易で栄えたか問う,H9[24]地図上の位置を問う】
【追H25,H30】
は,8世紀頃から黄金を産する国として,地中海沿岸の人々に知られていました。
滅ぼしたのは,北西アフリカに分布す
る
ベルベル
人
です。
ベルベル人の
ムラービト朝
【追H25】
は1076年から1077年にかけてこの地を征服(ジハード)するとともに,この地にイスラーム教を伝えました
(注)
。
現在でも,ニジェール川流域のマリ共和国の人口の80%は,イスラーム教徒です。なおガーナ王国の首都クンビ=サレーは現在の
⑭
マリ共和
国
の北部国境地方に位置し,現在の
⑤
ガーナ共和
国
の所在地とは別のところにあります。
9世紀にサハラ沙漠においてラクダを交通手段とした隊商交易が盛んになり,サハラ沙漠で産出され
る
岩
塩
とサハラ沙漠の南縁で産出され
る
金
(キン)を交換す
る
塩
金
【追H30】
はますます盛んになっていました。そこで,ニジェール川沿岸の人々にとってイスラーム教に改宗することには,交易路の安全を確保し貿易をスムーズに行うというメリットもありました。
(注) 鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.117。
◯80
0
年
~
120
0
年の北アフリカ
北アフリ
カ...
現在
の①
エジプト
,②
スーダン
,③
南スーダン
,④
モロッコ
,⑤
西サハラ
,⑥
アルジェリア
,⑦
チュニジア
,⑧
リビア
◆
エジプトではイスラーム政権のファーティマ朝,アイユーブ朝が自立し繁栄した
穀倉地帯としてアッバース朝の大事な"収入源"であったエジプトは,カリフの子の宗主権の下でアラブ人が支配していました。しかし,テュルク(トルコ)系マムルークの子がエジプトの支配を委ねられると実権を奪いトゥールーン朝(868~905)を建設,アッバース朝の宗主権下で事実上の独立を果たしました。
10世紀になると地域政権が自立する傾向は一層すすみ,現在のチュニジア
【H27京都[2]】
でシーア派
【本試験H16,本試験H23ともにスンナ派ではない
】の中でも過激派にあたるイスマーイール派の布教活動によっ
て
ファーティマ
朝
【京都H19[2]
,H27[2]
】
【追H9スルターンの称号を得ていない】
【本試験H23地図上の位置,H29共通テスト試行 セルジューク朝の下でカイロが繁栄したわけではない,H31】
が建国されました。主体となった民族はベルベル人
【H27京都[2]】
です。
第六代〈ハーキム〉(位996~1021)はカイロに「知恵の
アッバース朝はテュルク系のマムルークなどを派遣して鎮圧しようとしましたが,派遣されたイラン系の軍人がいうことを聞かなくなりファーティマ朝の攻撃を押しのけました。その功績から935年にカリフに認められる形でエジプトでイフシード朝(935~969)を建国しました。事実上の独立です。
しかしチュニジアのファーティマ朝は,エジプトのイフシード朝が弱体化すると,969年にナイル川沿いの交易拠点でもある都フスタートに無血入城し,その北に新
都
カーヒ
ラ
(アラビア語で「勝利」という意味。英語だとカイロ
【本試験H2時期(10世紀か),ファーティマ朝の首都になったか問う】
【東京H8[3]イスラームの勃興後に建設された都市を地図から選ぶ】
)を建設し,さらに
は
「カリフ」を宣
言
してしまいます
【本試験H16カリフを称したかを問う,H31カリフの称号を用いたか問う】
。
後ウマイヤ朝(アンダルス(コルドバ)のウマイヤ朝)の君主も「カリフ」宣言したので,なんとカリフが同時に3人存在する分裂時代となりました。ファーティマ朝のカリフは
,
シーア
派
【本試験H16・本試験H23ともにスンナ派ではない】
の中でも過激な主張を唱えるイスマーイール派を保護し,アリーの後継者を自任しました
。
カイ
ロ
【追H25】
【東京H14[3]】
に
は
アズハル学
院
【東京H14[3]】
【本試験H16ニザーミーヤ学院ではない・カイロにあるかを問う】
【追H25ファーティマ朝時代か問う(アズハル学院(アズハル大学))、H29アッバース朝による創設ではない】
というマドラサ(学院)が建設されました。
地方政権の自立は,農村からの地租(ハラージュ)に依存していたアッバース朝にとって大きな打撃となります。
(注)765年に第6代イマームが亡くなった後,彼の長男〈イスマーイール〉をイマームにすべきと主張し,シーア派内の多数派から分離した派です。アッバース朝の支配にも激しく抵抗しました。
なお,チュニジアを離れたファーティマ朝カリフは,現在のチュニジアからアルジェリア東部にかけてをベルベル人に任せ,ズィール朝(972~1148)が建国されました。のち,現在のアルジェリアがハンマード朝(1015~1152)として自立しました。さらにリビアにはアラブ人の遊牧民が活動し,アルジェリア西部からモロッコにかけてはベルベル人の諸部族君主が分立。マグレブ地方全域にわたる統一政権は成立しませんでした。
ファーティマ朝時代にはユダヤ,キリスト,イスラーム教徒間での商工業の連携も盛んにみられましたが,カリフ〈ハーキム〉(位996~1021)はキリスト教徒やユダヤ教徒に対する抑圧を強め,イェルサレムにある〈イエス〉の墓「聖墳墓教会」の破壊を命じています。彼は死後に神聖視され,「シーア派指導者(イマーム)がお"隠れ"になった」「救世主としてやがて復活する」と考えるシーア派の一
派
ドゥルーズ
派
が生まれました
(現在のレバノンを中心に信者がいます)
。彼の死後はファーティマ朝の支配は動揺していきます。
12世紀後半には
,
クルド
人
【東京H25[3]】
の
〈
サラー
フ=
アッディー
ン
〉
(サラディン
【東京H8[3],H13[1]指定語句】
【H27京都[2]】
,在位1169~93)
【本試験H16】
【追H18、H20】
が,スンナ派
【本試験H16】
の
アイユーブ
朝
【追H27マムルークを用いたことを問う】
【京都H19[2]】
【本試験H16】
を開き,1171年にファーティマ朝を滅ぼしました。
彼
は
イェルサレ
ム
【東京H8[3]】
を
キリスト教徒か
ら
奪
回
し
【本試験H29,H31マムルーク朝によるものではない】
【追H20】
,1187年には再奪回しようとし
た
第三回十字
軍
【本試験H16第一回ではない】
をヒッティーンの戦いで撃退しました
【本試験H16イェルサレム王国は建国していない】
。
アイユーブ朝は,勇猛さで知られたトルコ系やカフカス(カスピ海と国家にはさまれた山岳地帯)系の人々を軍人として積極的に採用しました。彼らは「採用されたもの」という意味を指
す
マムルー
ク
と呼ばれます。
なお〈サラディン〉に仕えた医者であり,ユダヤ人の哲学者
〈
マイモニデ
ス
〉(モーシェ;マイムーン,1135~1204)は,〈アリストテレス〉哲学を利用してユダヤ教教義をとらえなおした人物で,カイロで活躍します。
◆
ベルベル人が,サハラ沙漠の横断交易の主導権を握ろうとした
北アフリカの先住民
の
ベルベル
人
の多くは,少数派のハワーリジュ派を受け入れていました
(注
1)
。彼らはマグレブ地方
に
ルスタム
朝
(776?~909)を建てています。
リビ
ア
は東部(キレナイカ地方)はエジプトの政権,西部(トリポニタニア地方)は西方の政権の影響を受けましたが,アラブ系遊牧民の活動範囲でした。
9世紀頃から金を産出するガーナ王国とエジプトの直接交易ルートが放棄され,代わりに大西洋岸の交易ルートが使われるようになると,サハラ沙漠西部の塩金交易が盛んになっていました
(注
2)
。
ハワーリジュ派のルスタム朝,イスマーイール派のファーティマ朝など,非スンナ派が各地で政権を握る中スンナ派を復活しようとする運動が起こり,1056年にベルベル系
【本試験H3「ベルベル人」か問う,本試験H8「ベルベル人」か問う】
のサーンハジャという遊牧民出身でスンナ派法学者の〈イブン=ヤースィーン〉(?~1059)が聖戦を宣言。モロッコ
の
マラケシ
ュ
【追H28都はカイロではない】
【本試験H25】
に
ムラービト朝
【東
京
H11[1
]
指定語句
】
【本試験H3ナスル朝とのひっかけ,本試験H8時期(11世紀),本試験H9マムルークにより樹立されていない,
本試験H12エジプトのアレクサンドリアを支配したわけではない】
【追H24フランク王国に滅ぼされていない】
が建てられました
【本試験H16地域,本試験H21建国時期】
。ムラービトの由来は,運動の主体となったイスラームの戒律に従う「ムラービトゥーン」(修道士)で,ヨーロッパではスペイン語の影響を受けた「アルモラヴィド朝」と呼ばれます。彼らはカリフを称することなく,あくまでアッバース朝のカリフを中心にスンナ派の信仰を守る政権を建てようとしたのです。この背景には,サハラ沙漠の塩と金を交換する交易ルートをめぐる経済的な争いもありました。
その証拠に,ムラービト朝
【本試験H3】
はサハラ沙漠を南に進軍し
,
ガーナ王
国
【本試験H9[24]地図上の位置を問う】
を1076~77年に滅ぼしています
(
ガーナ王国の滅
亡
【本試験H3】
)。
現在
の
セネガ
ル
地域にも,ムラービト朝の進出やイスラーム商人の交易により11世紀にイスラーム教えが伝わったとみられますが,信仰は支配者に限られていました
(
注
3
)
。
(注1)ハワーリジュ派はシーア派ともスンナ派とも敵対し,カリフの位には神の権威を受け継いだ者がイスラーム教徒の共同体によって選ばれるべきであり,アラブ人であってもなくてもかまわないと主張し,のちに北アフリカのベルベル人の間に反アラブ的な思想として広がっていきました。
(注2)佐藤次高編『新版世界各国史 西アジア史Ⅰ アラブ』山川出版社,2002,p.223。
(注3)小林了編著『セネガルとカーボベルデを知るための60章』明石書店,2010年,p.30。
ムラービト朝は,当時30あまりに分裂していたイベリア半島(アラビア語
で
アンダル
ス
)の小王国が,キリスト教徒の南下に対する救援を要請したことから派兵し,1090年から1110年頃にかけてムラービト朝の勢力下に入っていきました。ムラービト朝は厳格なスンナ派に基づきキリスト教諸王国の再征服運動(レコンキスタ,国土回復運動)に激しく抵抗し,対するキリスト教諸王国のイスラーム教諸国へ
の
十字軍運
動
が始まると,両者の争いは一層激しくなっていきました。しかし,北アフリカの遊牧民を母体とするムラービト朝
【本試験H12エジプトのアレクサンドリアを支配したわけではない】
は,本拠地がイベリア半島に移ったことで弱体化していき,1147年には同じくマラケシュに都を置
く
ムワッヒド
朝
【追H21時期(10世紀ではない)、H24ムラービト朝はフランク王国による滅亡ではない】
により滅びました。
ムワッヒド朝は1072年にシチリア島のパレルモを占領し
,
ノルマン
人
とも戦っています。マグレブ地方東部のハンマード朝とズィール朝はムワッヒド朝に滅ぼされました。さらにイベリア半島にも遠征して支配域を広げ,イベリア半島北部~中央部
の
カスティーリャ王国
【東
京
H11[1
]
指定語句
】
と,北西部
の
アラゴン王
国
,西部
の
ポルトガル王
国
(1143年にカスティーリャ=レオン王国
【本試験H21神聖ローマ帝国ではない】
から分離) などの推進していた再征服運動
(
レコンキス
タ
,国土回復運動)に立ち向かいました
【本試験H21ドイツ騎士団によるものではない】
【追H25】
。
◆
アグラブ朝が地中海の島々を占領する
イスラームの進出に対し,フランク王国は無策
マグリブ地方ではベルベル人が国家を建てる一方,この地に駐屯していたアラブ人の中からはアッバース朝から自立する動きも起き,チュニジアではアッバース朝の宗主権の下
で
アグラブ
朝
(800~909)が成立しました。アグラブ朝はビザンツ帝国領であっ
た
シチリア
島
を占領し(827年にパレルモが占領されています),さら
に
サルディーニャ
島
も一時占領しました。
これに対し,分裂の進んでいた〈カール大帝〉亡き後のフランク王国には為す術がありません(843年にヴェルダン条約
【セ試行】
,870年にメルセン条約
【セ試行】
で三分裂
【本試験H3】
)。
また,9世紀にはアッバース朝に対する反乱に失敗しモロッコに逃れたアリー派のアラブ人が,ベルベル人
【H27京都[2]】
の支持を得
て
イドリース
朝
(789~926)を建国しました
【H27京都[2]問題文(わからなくても解答可能)】
。
アグラブ朝とイドリース朝の下ではイスラーム教の普及とアラビア語の使用が進み(「アラブ化」の進展),それに対するベルベル人の反乱も起きました。
・
80
0
年
~
120
0
年のヨーロッパ バルカン半島 現⑤アルバニア
6~8世紀にかけてバルカン半島のスラヴ化がすすみました。それにともない先住
の
イリュリア
人
や
トラキア
人
は山岳部に避難し牧畜民となります。
11世紀以降に記録上に現れ
る
アルバニア
人
には,イリュリア人との関連性が指摘されています。
・
80
0
年
~
120
0
年のヨーロッパ バルカン半島
現⑦
モンテネグロ
,⑧
セルビア
セルビア、モンテネグロは正教会に改宗
セルビ
ア
には10世紀に第一次ブルガリア帝国が西進し,皇帝〈シメオン1世〉(位893~927)に征服されました。セルビア人は正教会を信仰しています
【追H27バルカン半島に定住後、ローマ=カトリックに改宗していない】
【本試験H25ローマ=カトリックではない】
。
〈シメオン〉の死後,セルビアはビザンツ帝国とも強力してブルガリアを挟み撃ちしようとしましたが,1018年には今度はビザンツ帝国に征服されます。その支配下ではセルビア支配層に内紛が起きていました。現在
の
モンテネグ
ロ
周辺のセルビア西部はゼータ王国として独立し,〈ボディン〉(位1081~1101?)のもとで最大領域を達成しましたが,こちらもビザンツ王国に征服されました。ボスニアは1180年以降はハンガリーの宗主権下に置かれています。
1168年に南西部から勢力を強めた
〈
ステファ
ン=
ネマニ
ャ
〉はセルビア国王(位1168~96)として西部を含むセルビア全域を統一し,ネマニッチ朝を創始。1180年に東ローマ皇帝〈マヌエル2世〉(位1143~1180)が亡くなると勢力を拡大させていきました。
・
80
0
年
~
120
0
年のヨーロッパ バルカン半島
現⑨
ボスニ
ア=
ヘルツェゴヴィナ
ボスニアは周辺の支配を受け続けた
アドリア海とほぼ並行に南北方向に走るディナール=アルプス山脈周辺
の
ボスニ
ア
は非常に山がちな地域で統一勢力が育ちにくい場所で,様々な小勢力が分立し周辺からの支配を受けました。
ボスニア北部・中央
部
は,クロアチア,ブルガリア,ビザンツ帝国の支配を受けたのち,12世紀にはハンガリーに併合されましたが,実権は地方貴族が握っていました。
ボスニア南
部
(フム地方と呼ばれました)はネマニッチ朝の下で強大化したセルビアの支配を1168年から1326年まで受けました。
・
80
0
年
~
120
0
年のヨーロッパ バルカン半島
現⑩
クロアチア
,⑪
スロヴェニア
◆
バルカン半島西部にはマジャール人のハンガリー王国が成立し,スロヴェニア人やクロアチア人は支配下に置かれていく
クロアチア・スロヴェニアはローマ教会の影響強い
フィン=ウゴル語系ウゴル語派の騎馬遊牧
民
マジャール
人
は,ウラル山脈周辺のヴォルガ川下流域を現住地とし,9世紀頃から黒海北岸の草原地帯から東ヨーロッパへの移動を開始し,ドナウ川中流域のパンノニア平原で半農半牧の生活に切り替え,10世紀末
に
ハンガリー王
国
【本試験H5クリム=ハン国ではない】
【一橋H31カトリックに改宗した東欧の王国を問う】
を建国しました
【本試験H30チェック人ではない】
。西方のローマ教会を受け入れ,大司教座が設置されました。彼らがパンノニア平原に進出したせいで,西に移動していたスラヴ人(西スラヴ人)は,北(そのま
ま
西スラヴ
人
)と南
(
南スラヴ
人
)に言語的・文化的に分かれて発展していくことになりました。
スロヴェニア
は8世紀半ばにフランク王国の支配下に入っていましたが,10世紀末にマジャール人がハンガリー王国を建てると,ドイツ王の〈オットー1世〉(ドイツ王位936~73,神聖ローマ皇帝962~73)はスロヴェニアをケルンテン(カランタニア)侯領として編入し,ローマ教会を受け入れさせました。のち侯領は分裂し,強大化したハンガリーやヴェネツィアの支配下に置かれていき,スロヴェニアの国家形成は遅れました。
アドリア海に面するバルカン半島西岸
の
ダルマツィア地
方
には,いくつもの港市国家が立ち並び,その富と海軍力を狙って東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が進出しました。870年代にテマ(セマ)が置かれ,のちのドゥブロヴニク(ラグーザ)であるラグシウムやザダル(ザーラ)がビザンツ帝国の宗主権下で自治を行っていました。
クロアチ
ア
には常に周囲の情勢をみながら,ローマ教会側と正教会側のどちらに付くべきかの選択が迫られていました。初め部族連合が成立していましたが,879年にローマ教会により国家と認められて独立
【一橋H31カトリックに改宗した東欧の王国を問う】
。
しかしのちに正教会のビザンツ帝国と組むことでマジャール王国やブルガリア帝国と戦いました。その後内紛が起こり,婚姻関係のあったハンガリー王〈ラースロー1世〉(位1077~95)に仲裁を要請し,1094年にザグレブにローマ教会の司教座が置かれることになりました。その後ハンガリー王〈カールマーン1世〉(位1095~1116)が1102年にクロアチアとダルマチアの王として戴冠され,クロアチアはハンガリーの影響下に置かれることになりました。クロアチア貴族の特権と自治は認められましたが,クロアチアの太守(バン)はハンガリーに任命されます。
ハンガリーはクロアチア支配を足がかりにアドリア海への進出を図り,ハンガリー王かつクロアチア王の〈ベーラ3世〉(位1172~96)は1180年にヴェネツィアに占領されてい
た
ザダ
ル
を含むダルマチア地方,1182年にはボスニア,セルビアを占領しました。
○80
0
年
~
120
0
年のヨーロッパ 中央ヨーロッパ
中央ヨーロッ
パ...現①
ポーランド
,②
チェコ
,③
スロヴァキア
,④
ハンガリー
,⑤
オーストリア
,⑥
スイス
,⑦
ドイツ
フランク王国の〈カール〉大帝が亡くなると,王国は3分裂。そのう
ち
東フランク王
国
【本試験H8】
の
カロリング
家
は断絶し
【本試験H8】
,911年に有力
な
諸侯の選挙で王が決められ
る
ようになりました
【本試験H26】
【本試験H8「大諸侯」の選挙】
。
はじめに選ばれたのは,フランケン大公〈コンラート1世〉(位911~918)。しかし,アジア系の遊牧
民
マジャール
人
(フィン=ウゴル語形ウゴル語派)の進入に対して手を打てぬまま,ザクセン家の
〈
ハインリヒ1
世
〉(位919~936)を跡継ぎとして亡くなりました。こうしてできたの
が
ザクセン
朝
です。
〈
ハインリヒ1
世
〉は「選挙で王が決められるのはもうやめにしよう」と,息子の〈オットー〉を跡継ぎにすることを,諸侯に承認させました。また,マジャール人対策のために,辺境領(マルク)の警備を強化しています。
子の
〈
オットー1
世
〉
【セ試行】
【早・政経H31論述指定語句】
は
,
マジャール
人
【セ試行】
を955年
に
レヒフェルトの戦
い
で撃退
【セ試行 時期(10世紀か)】
したことで,名声を高めました。しかし国内に目を向けるとドイツには大諸侯が多く,いうことを聞いてくれるとは限りません。
そこで,「王の領土を,司教に寄進してご機嫌をとる代わりに,教会の組織のえらい役職(司教など)を任命したりやめさせたりする権利を得よう」と考えました。本来であれば,教会の組織のえらい役職は,教会組織のトップであるローマ教皇が任命するのが自然です。しかしオットーは,皇帝が司教を任命(「叙任」といいます)すれば,その司教は皇帝の言うことを聞いてくれるはずなので,都合が良いと考えました。まるで,司教が皇帝の「諸侯」のようになるわけなので,彼らを
「
聖界諸
侯
」とも呼びます。聖界諸侯の勢力を増やすことで,ローマ教皇がドイツの教会に口出しすることも防ぎ,ドイツの大諸侯たちも黙ってくれるならば,一石二鳥だと考えたのです。この政策
を
帝国教会政
策
といいます。
〈オットー〉はカール大帝と同様,異民族の進入をブロックし,教皇のご機嫌をとりました。「ようやくまた守ってくれる人があらわれた!」とばかりに,教皇
〈
ヨハネ
ス
1
2世
〉(位955~964)は,東フランクの〈オットー1世〉
【本試験H19時期】
【セA H30】
にローマ帝国の冠を授けます。962年のことです。今後は
,
ドイツ
王
に就任した人物が,このローマ帝国の皇帝となる習わしとなっていったため,この王国は後に「(ドイツ人の
)
神聖ローマ帝
国
」
【セA H30オーストリア帝国ではない】
といわれるようになります。
そこでやはり問題になることがあります。
「教会のほうがえらいのか?」それとも「皇帝のほうがえらいのか?」という問題です。
皇帝からすると,ローマ教会の権威を利用して,皇帝をやらせてもらっている,というところもあります。大諸侯も,教皇から皇帝に任命されたのだったら,口出しできないな...となりますから。しかし,皇帝からすると,国内に教会の領土が増えすぎても,税金がとれなくなりますし,政治にも口出しされることは,あまり良くは思っていないわけです。
やがて12世紀になると,この両者
に
叙任権闘
争
(じょにんけんとうそう)
【本試験H2215世紀ではない】
が勃発,〈ハインリヒ7世〉が,教皇〈グレゴリウス7世〉との間に1077年に"カノッサの屈辱"事件を起こしています。
スイ
ス
では,11世紀にはアルザス地方出身とされる貴族が, "鷹の城"(ハビヒツブルク)という城を建設し,のちに12世紀には自らも城の名で呼ぶようになりました。これがのち
の
ハプスブルク
家
です。
・
80
0
年
~
120
0
年のヨーロッパ 中央ヨーロッパ
現②・③
チェコ,スロヴァキア
スラヴ人のうち西スラヴ系
の
チェック
人
は,10世紀
に
ベーメ
ン(
ボヘミ
ア)
王
国
として統一
【本試験H30ハンガリー王国ではない】
してました。
プラハは973年にはローマ=カトリック教会司教座が置かれています
【一橋H31カトリックに改宗した東欧の王国を問う】
。
しかし,地理的にドイツ人の支配を受けやすく,11世紀に神聖ローマ帝国の支配下に入っています。
○80
0~
120
0
年のヨーロッパ イベリア半島
北アフリカには現在,モロッコ→アルジェリア→チュニジア→リビアという国家が並んでいます。この地域を,アラブ人からみて「日が沈むところ」という意味で,アラビア語で
「
マグレブ地
方
(諸国)」といいます(♯寄り道 タジン鍋(モロッコは,ラム肉とアブラヤシ(デーツ)に塩漬けレモンを加えたものが有名)で有名な地域です)。
もともと
は
ベルベル
人
の分布地域でしたが,アラブ人が移動して以来,同化が進んでいきました。ベルベル人という民族名は,ギリシア語の
「
バルバロ
イ
」(訳の分からない聞き苦しい言葉を話す人々)
【本試験H24】
に由来しており,彼ら自身は「イマージゲン(自由人)」と名乗ります。
◆
後ウマイヤ朝の君主はカリフを名乗り,文芸も栄えた
カリフを名乗り,文芸が栄えた後ウマイヤ朝
711年にはウマイヤ朝支配下のアラブ人やベルベル人がイベリア半島に上陸し
,
西ゴート王
国
を滅ぼしました。このときに上陸したイベリア半島南部の小さな半島は「ターリクの山」(ジャバル=ターリク)と呼ばれるようになり,のちになまっ
て
ジブラルタ
ル
と呼ばれるようになりました。現在でも地中海の入り口にあたる重要な地点を占め,スペインの領土に囲まれる形でイギリスの領土となっています。
その後,イベリア半島領ではアラブ人の支配層内で部族対立が起きる中,756年にアッバース朝に敗れてお忍びで逃れて来たウマイヤ家の王子〈アブド=アッラフマーン〉(1世,位756~788)が住民の支持を得
て
コルドバ
【東
京
H11[1
]
指定語句
】
を占領し,アミールを称し
て
後ウマイヤ
朝
(アンダルス(コルドバ)のウマイヤ朝,756~1031)を建国しました
(注
)
。従来の支配層の抵抗は続き,〈アブド=アッラフマーン1世〉は777年にフランク王国の〈カール大帝〉(位768~814)に救援を求めています。
この動きに対し,北西部のアストゥリアス王国の王〈アルフォンソ2世〉は,797年に〈カール大帝〉に使節を派遣しています。
フランク王国は801年にバルセロナ
【本試験H8】
を占領し,ここ
に
スペイン辺境
領
を建てました。
なお,814年にはイベリア半島北西部のサンティアゴ=デ=コンポステーラ
【本試験H31古代ローマの時代に巡礼熱が高まったのではない】
【東京H20[3]】
で〈ヤコブ〉の墓が発見されたといわれ,のちに爆発的な巡礼ブームを生むことになります。
イベリア半島北部で
は
ナバーラ王
国
が建国されています。
〈
アブ
ド=
アッラフマーン3
世
〉(位912~961)は929年
に
カリ
フ
の称号を名乗り,後ウマイヤ朝の黄金時代が到来します。対外的には北のキリスト教諸国と南のファーティマ朝に挟まれる形になっていましたが,カリフはイベリア半島北部のレオン王国やナヴァラ王国などを従わせ,産業・交易だけでなく
都
コルド
バ
を中心に文芸も繁栄しました。
〈ヒシャーム2世〉(位976~1009年,1010~1013)に仕えた宰相〈アル=マンスール〉(938?~1002)は,イベリア半島の全域に支配権を拡大しています。
しかし11世紀に入るとカリフの支配は急速に崩れて1009年には内乱状態となり,1031年にカリフ制が廃止されて各地に小さな王国が分立する時代(第一次ターイファ(諸王国)時代,1031~1191)となりました。
◆
アラゴン王国,カスティーリャ王国,ポルトガル王国が有力になっていった
イスラーム教徒の小王国が互いに覇権を争う中,キリスト教徒の諸王国が北部か
ら
国土回復運
動
(
レコンキス
タ
【追H25】
)の攻勢を強めていきます。
1000年
に
カスティーリ
ャ
伯領が
,
レオン王
国
から自立。同年にレオン王国では〈サンチョ3世〉が即位しています。
1035年に
は
アラゴン王
国
が〈ラミーロ1世〉によって成立し,1076年に
は
ナバーラ王
国
(~1134)を併合しました。
1037年に
は
カスティーリ
ャ=
レオン王
国
が〈フェルナンド1世〉によって成立しました。〈フェルナンド1世〉の死後,〈サンチョ2世〉が即位。〈サンチョ2世〉に仕えた騎士〈エル=シッド〉(1045?~1099)はのちに1094~99年にバレンシアを領有し,イスラーム勢力との戦いでも活躍しました。1099年に戦死した彼の武勇はのちに「わがシッドの歌」(12世紀後半)として,レコンキスタを盛り上げる役割を果たすことになります
(#映画「エル・シド」1961イタリア・アメリカ。〈チャールトン=ヘストン〉(1923~2008)往年の名作)
。
1137年にはバルセローナ伯領がイベリア半島東部
の
アラゴン王
国
と同君連合の国家「アラゴン連合王国」を樹立します。アラゴン連合王国は,バルセローナやバレンシアを中心都市として,イベリア半島中央部
の
カスティーリャ王
国
,西部
の
ポルトガル王
国
(1143年成立)とともに,イベリア半島ではキリスト教徒によ
る
レコンキス
タ
(再征服運動,国土回復運動)
【本試験H30地域を問う】
【追H25】
を本格化させていきました。
13世紀~15世紀には地中海への進出を本格化させ,サルデーニャ島,コルシカ島,シチリア島,イタリア半島南部,アテネなどに領域を拡大し,アレクサンドリアやコンスタンティノープルを結ぶ香辛料交易を展開しました。
ポルトガル王
国
は,この地におかれていた2つの辺境伯領の支配者〈アフォンソ〉が,1143年にカスティーリャ=レオン王国との戦いに勝利して自立し,建設されました。初代国王は〈アフォンソ1世〉(位1143~85)です。ポルトガル王国はイスラーム政権との戦い
(
レコンキス
タ
)にも積極的で,十字軍の騎士と宗教騎士団の支援によって徐々に領域を南下させていきました。
イスラーム勢力の進出後,イベリア半島は多様な出自を持つ人々が共存する場となりました。支配層を形成したアラブ系ムスリム,軍の中核となった多数派のベルベル人,イスラーム教に改宗したスペイン人,さらにキリスト教徒(アラビア文化を身に付けアラビア語を話し「モサラベ」と呼ばれました)とユダヤ教徒です。キリスト教徒とユダヤ教徒
は
ズィンミ
ー
(ジンミー)として保護され,自治が認められましたが,11~12世紀にムラービト朝とムワッヒド朝によりユダヤ教徒への迫害が強まると,北のキリスト教諸国に逃れました。これにより,ユダヤ教徒を通してイスラーム世界の情報がキリスト教世界に伝わることになりました。
また,トレドではキリスト教徒たちがユダヤ人やコンベルソ(ユダヤ人からキリスト教徒への改宗者)の強力を得て,イスラーム世界
【共通一次 平1】
で
アラビア
語
【東京H10[3]】
に翻訳されていた古代ギリシア
【共通一次 平1】
の文献を積極的
に
ラテン
語
【東京H10[3]】
に翻訳していきました。この動きを「
1
2
世紀ルネサン
ス
」
【立命館H30記】
といいます。なかには〈エウクレイデス〉や〈アリストテレス〉といった古代ギリシアの文献
の
アラビア
語
訳
【本試験H12】
も含み,西ヨーロッパ世界にそうした情報を伝える上で重要な役割を果たしました。
カスティーリャ王国では13世紀にサラマンカ大学が創設され,〈アルフォンソ10世〉(位1312~50)はセビーリャに学者を集めて学芸を発達させました。
◆
北アフリカのベルベル人がイベリア半島に進出し,キリスト教諸国と対立した
ベルベル人が,イベリア半島に進出する
一方,北アフリカのベルベル人は〈アブー=バクル〉を中心に1056年
に
ムラービト
朝
(1056~1147)
【本試験H9】
を建国し,モロッコを占領して1086年にイベリア半島に上陸。
1085年
に
トレ
ド
を占領
【立命館H30問題文】
していたカスティーリャ
【立命館H30記】
=レオン王の〈アルフォンソ6世〉(位1065~1109)に対し,イベリア半島のイスラーム教の小政権(タイファ)が救援を求めたことから,ムラービト朝が進出。イベリア半島のイスラーム政権の中にはベルベル人の進出を望まない者もいましたが,最終的にはトレドを除きイベリア半島はベルベル人の支配下に置かれることとなります。
その後,1130年には宗教思想の対立からムラービト朝と対立したベルベル人〈イブン=トゥーマルト〉(1091?~1130)
が
ムワッヒド
朝
(1130~1269)
【追H21時期(10世紀ではない)】
を建国し,1147年にムラービト朝を滅ぼしました。ムワッヒドの語源は「タウヒード」(一般に神の唯一性と訳されます)というイスラームの教義を表す用語に由来し,支配者はカリフの称号を用いました。ムワッヒド朝は1072年にシチリア島のパレルモを占領し
,
ノルマン
人
とも戦っています。マグレブ地方東部のハンマード朝とズィール朝はムワッヒド朝に滅ぼされました。さらにイベリア半島にも遠征して支配域を広げ,ベルベル人の軍事力によりキリスト教諸王国とも戦いました。
この時代には,イベリア半島にはアラブ人やベルベル人により,サトウキビ,米,綿,レモンといった農作物や灌漑技術が持ち込まれて農業開発が進みます。また都市は商業が盛んで,初め銀貨(ディルハム)・のち金貨(ディーナール)による貨幣経済が発達しました。
ムラービト朝とムワッヒド朝はイベリア半島
【本試験H29アナトリアではない】
に進出したほか,サハラ沙漠より南にも遠征し,イスラーム世界をアフリカのサハラ以南に拡大させました。例えばムラービト朝は,アフリカのガーナ王国を滅ぼし,この地にイスラームを伝えています。
◆ローマ教皇ですら、イスラーム世界由来の学問を修めていた
ギリシア哲学がアラビア語経由でラテン語訳された
なお,西ゴート王国の首
都
トレ
ド
【東京H23[1]指定語句】
では,古代ギリシアやローマのアラビア語訳文献が,せっせとラテン語に再翻訳されていました。ギリシア語→アラビア語
【追H28】
【東京H10[3]】
→ラテン語
【追H28】
【東京H10[3]】
ですから,再々翻訳といったほうがよいかもしれません。特に,トレドをおさえたカスティーリャ=レオン王の〈アルフォンソ6世〉は,学者を招いて翻訳運動をバックアップしました。
この頃のコルドバに生まれた
〈
イブ
ン=
ルシュ
ド
〉
(1126~98)
【
本試
験H6
幾何学研究ではない
,
本試
験H8
元を訪問していない
,
本試
験H
10】
【本試験H25パン=イスラーム主義者ではない】
【追H20イブン=サウードではない,サウジアラビア王国を建設していない、H28ギリシア哲学を研究したか問う】
【法政法H28記】【立命館H30記】
は,
〈
アリストテレ
ス
〉
【本試験H10】
【追H20】
の『オルガノン』『形而上学』『自然学』といった著作の研究を深め,イスラーム神学をより緻密なものにするためにギリシア哲学
【追H28】
を用いて,ヨーロッパ
の
スコラ哲
学(
スコラ
学
)
【共通一次 平1】
【追H20、H25自然哲学ではない】
にも影響を与えます。
トレドでの翻訳運動
【追H28】
の積み重ねは,西ヨーロッパにおける
1
2
世紀ルネサン
ス
へとつながっていきました
【本試験H6「イベリア半島のイスラム文化」が,「中世ヨーロッパの文化」に影響を与えたわけではない】
。
たとえばこの頃の教皇(〈シルウェステル2世〉(位999~1003))ですら、即位前にコルドバにおもむき、数学や天文学を修めたと伝えられます。フランスやイタリアの学校でイスラーム世界に由来する高度な知識を広め、後に彼の見識を評価する神聖ローマ皇帝の支持を得て教皇となったのです
【追H28リード文(第3問)】
。
○80
0
年
~
120
0
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
西ヨーロッ
パ...
現在
の①
イタリア
,②
サンマリノ
,③
ヴァチカン市国
,④
マルタ
,⑤
モナコ
,⑥
アンドラ
,⑦
フランス
,⑧
アイルランド
,⑨
イギリス
,⑩
ベルギー
,⑪
オランダ
,⑫
ルクセンブルク
◆
西ヨーロッパでは農業生産力が高まり,人口が増加。各地に都市が生まれ商業が活発化する
アッバース朝との友好関係が,フランク王国を成長させる
〈ピピン3世〉の跡継ぎは
〈
カール大
帝
〉(フランク王在位768~814,西ローマ皇帝800~814)
【東
京
H11[1
]
指定語句
】
です。フランスの教科書ではフランス読みでシャルル1世。ドイツの教科書ではドイツ読みで〈カール1世〉と表記されるこの王。現在のフランス,ドイツ,さらにはイタリアにまたがる広大な領土を支配したことから,ローマ教会に頼りにされることになります。
まず教皇領を圧迫してい
た
ランゴバルド王
国
を滅ぼしました。
北ドイツのザクセン人と戦争をして,キリスト教を信仰していなかった彼らをアタナシウス(ニカイア)派に改宗させ
,
エルベ
川
まで拡大します。この戦争はカールのおこした戦争のなかでも特に過酷なものでした。
また,かつてフン人が定着したパンノニアに移動していたモンゴル系(あるいはテュルク(トルコ)系)とされる騎馬遊牧
民
アヴァール
人
を撃退しました
【本試験H21 世紀を問う本試験H27ブリテン島ではない、本試験H29】
【追H25】
【慶・文H30】
。なお,すでにフン人はインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々などに同化しており,見る影もなくなっています。
さらに,イベリア半島では,アッバース朝によって滅ぼされたウマイヤ家の遺臣の建てた後ウマイヤ朝(アンダルス(コルドバ)のウマイヤ朝)を攻撃して,ピレネー山脈を乗り越え795年に複数の伯領からな
る
スペイン辺境
領
を設置しています。のち
に
バルセローナ
伯
が成長して
,
カタルーニャ地
方
の中心となっていきます(987年にカペー朝に対抗してカタルーニャ君主国として独立しました)。
イベリア半島での戦いぶりは
,
騎士道物
語
(武勲詩(ぶくんし))
『
ローランの
歌
』
【追H27中世ヨーロッパか問う】
【本試験H30】
にうたわれています
【本試験H12『カンタベリ物語』は騎士道物語ではない】
。実際には778年のスペイン遠征の帰り道,ピレネーの谷間でバスク人に襲われた事件を題材にしているようですが,死に様まで生々しく描かれています
(注
)
。
「ローランは死期の近いのを感じた。その耳から脳漿が流れ出していた。...ローランは末期の冷かさが総身に廻って,頭から心の臓へ流れ下るのを覚えたので,一木の松の根方まで走っていって,青草の上に腹這いに伏し,剣と角笛とを体の下に隠し,頭を夷狄
(注:イスラーム教徒)の勢のある方へ向けた
」
イスラーム教徒のほうに向かって最後まで戦ったのだという最後のポーズにまでこだわるローラン,恐るべし。
騎士道というのは騎士が守るべき道徳のことで,キリスト教の価値観と結びつ
き
十字
軍
(イェルサレムをキリスト教徒の拠点にするための戦争)
や
レコンキス
タ
(イベリア半島からイスラーム教徒の政権を追放する運動)の原動力ともなりました。
(注)木村尚三郎編『世界史資料・上』東京法令出版,1977,p.421
中世の騎士道物語には,他にインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の一派ブルグント人
【本試験H15「インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の英雄伝説に基づく」は○,本試験H23スラヴ人ではない】
の伝説に基づく
『
ニーベルンゲンの
歌
』
【追H27中世ヨーロッパか問う】
【本試験H2中世に英訳されていない】
【本試験H23】
『
アーサー王物
語
』
【追H27中世ヨーロッパか問う】
【本試験H15カール大帝の活躍が描かれているわけではない】
などがあり,各地を渡り歩く吟遊詩人(ぎんゆうしじん)
【本試験H15】
によって歌われました。『ニーベルンゲンの歌』のほうはゲルマン語派の大移動の頃に生まれ
た
ブルグント
人
の英雄叙事詩で,フン人の〈アッティラ〉との戦いも題材にとられています。メインとなる話は,不死身の体を手に入れた〈ジーフリト〉と妻〈ブリュンヒルト〉とのラブロマンス,そして妻に仕えていた〈ハゲネ〉の裏切りにより〈ジーフリト〉の不死身を解く弱点が漏れ〈ジーフリト〉は殺害。その犯行が暴露され,〈ハゲネ〉が殺されるところまでを扱っています。キリスト教的というよりはゲルマン的なお話で,のちに作曲家
〈
ヴァーグナ
ー
〉が楽劇の題材としています
(⇒1870~1920のヨーロッパ 中央ヨーロッパ ドイツ)
。
なお,当時のアッバース朝は新
都
バグダー
ド
の建設をおこなっており,共通の敵であるビザンツ帝国を持つフランク王国との間には友誼が保たれ,交易も盛んにおこなわれていました。当時のアッバース朝のカリフは〈ハールーン=アッラシード〉。この両者の提携があったからこそ,フランク王国は強大化することができたわけです
(のちにベルギーの歴史学者
〈
ピレン
ヌ
〉(1862~1935)は
"
ムハンマドなくしてシャルルマーニ
ュ
(カール大帝
)
な
し
"と端的に述べ,さまざまな議論を呼びました。この「ピレンヌ=テーゼ」は,イスラーム勢力の地中海進出により,ヨーロッパ経済が封鎖されて貨幣経済が衰退し,自給自足の物々交換による農業主体の経済が支配的になったため,フランク王国のように土地を媒介とする分権的な社会が成立したというものです。が,実際には地中海一帯の商業の衰退は,紀元前後には始まっていたことが明らかになっています)
。
さて,勢いづいた〈カール1世〉は799年,暴動が起きたためローマから避難した〈レオ3世〉の救援に応じ,800年に軍を引き連れてローマに入城。そこで,長年空位だった西ローマ帝国の皇帝の冠を授けられました
(
カールの戴
冠
)。
〈カール1世〉は急拡大した領土を支配するために,キリスト教徒のネットワークを利用しました。もともと司教の監督するエリアである司教区は,大司教の監督下に置かれていました。彼はこれを行政単位として利用したのです。支配を確実なものとなるよう,各地方に国王の役人
(
伯
(はく))
【追H28】
が任命され,毎年聖俗の大物を国
王
巡察
使
として派遣しました。
特定の首都はなく,広大な領土を支配するために,〈カール〉は常に移動しながら政治をしていました(移動宮廷)。征服地の有力者に,にらみを聞かせる必要があったわけです。
しかし,特に
〈
カール大
帝
〉が好んだの
が
アーヘ
ン
(現在のベルギーとドイツの国境付近)でした。805年にアーヘンに大聖堂を建設(世界文化遺産,1978)。16世紀までの間に神聖ローマ帝国の戴冠式が執り行われる場所となりました。
学者を招き,ローマ文化・キリスト教について研究をさせました。とくにブリタニアの聖職者
〈
アルクイ
ン
〉(735?~804)
【本試験H23】
の研究が有名です。〈アインハルト〉(770~840)には『カール大帝伝』を書かせています。これらはラテン語で表記され,表記には読み取りやすいカロリング小文字体が考案されました。
このように,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々であるフランク人が,宗教的にはキリスト教アタナシウス(ニカイア)派の文化を受け入れていったのですが,まだローマ教皇はフランク王国の〈カール大帝〉を保護者とすることに踏み切れないでいました。
◆
ローマ教皇はローマ帝国からフランク王国へと,守護者
を"
乗り換
え
"
捏造文書で,理論武装
しかし,いよいよ800年,クリスマスのミサのためにローマのサン=ピエトロ大聖堂を訪れた〈カール大帝〉に,教皇
〈
レオ3
世
〉(位795~816)
【本試験H18インノケンティウス3世ではない】
は不意打ちでローマ帝国の冠を授けたんですね。〈レオ3世〉は前年に反対派により襲撃されていて,〈カール大帝〉の後ろ盾が必要だったわけです。
こうして,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々であるフランク人が,キリスト教アタナシウス(ニカイア)派を受けいれ,さらにローマの皇帝に就任することで,西ヨーロッパ世界を一つの世界としてまとめ上げたことになるわけです。
ただ,東ローマ帝国がこんなことを認めるわけがありません。
ローマ教皇側も,反論されちゃ困りますので理論武装をおこないます。それが,のちに『偽イシドールス』として知られる偽書です。
これは,かつてローマ帝国の〈コンスタンティヌス〉大帝が,「西ローマ帝国の領土をローマ=カトリック教会に寄進した」という内容が書かれた書状
(
コンスタンティヌスの寄進
状
)で,「皇帝が教皇に西ローマを渡したんだから,あとはどうしようがローマ教会の勝手じゃないか」という主張に利用されます。これは偽書(にせものの文書。
ともかく,ローマ教会がフランク人の〈カール大帝〉を"保護者"として選んだということは,フランク王国=西ローマ帝国に保護されたローマ教会と,東ローマ帝国に保護されたコンスタンティノープルの分裂をも意味します。しかし,多くの細かい違いはあるのの,イエスは神であり聖霊であると考える点においては,両者は一致しています。
こうして,かつてのローマ帝国の領土は,大きくみれば2つに分かれたことになります。つまり,イエスは神であり聖霊であると考える西ヨーロッパ・東ヨーロッパと,神は生まず生まれず(神はそれ自体で絶対でありイエス=子のような存在を生むことはない)と考えるイスラームとの間への分裂です。
(注) 15世紀までは申請の書状として認識されていました。北村暁夫『イタリア史10講』岩波新書、2019年、p.40。
◆
〈カール大帝〉の死後,分割相続によりフランク王国は衰退・分裂した
フランク王国は現在のフランス,ドイツ,イタリアの基
フランク人にはもともと,親が死ぬと,土地を子で分割して相続する風習があったため,〈カール大帝〉が亡くなったら揉めると思われたのですが,たまたま息子は一人しか生き残っておらず,〈ルートヴィヒ1世〉(フランク王在位814~840,西ローマ皇帝在位814~840,〈敬虔王〉ともいわれます)がそのまま相続した。ここまではよかったものの,治世後半に政治が乱れ,今度は3人の息子たちによる揉め事がおきてしまいます
【本試験H7ローマ=カトリック教会を支持するか否かで争ったわけではない】
。
そこで,843年
の
ヴェルダン条
約
【セ試行】
【本試験H8】
で,長男がイタリアを含む中部フランクを,弟が西部と東部を相続しました。しかし,その後弟が中部の王国を自分たちの領土に加えてしまったため,870年
に
メルセン条
約
【セ試行】
【本試験H18コンスタンツ公会議とのひっかけ】
という取り決めが結ばれて,東西フランクの国境は
,
東フラン
ク
が西に拡大する形で決着が付きました
【本試験H3三分されたか党,本試験H7「東西」に分裂したわけではない。三分裂した】
。
・
80
0
年
~
120
0
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現①
イタリア
,③
ヴァチカン市
国(
ローマ教
皇
)
イタリ
ア
は,フランク王国の分裂
で
中部フランク王
国
【本試験H3「イタリア」】
となっていました。しかしその後875年
に
カロリング
朝
が断絶し,さらに商業の発達とともに都市国家が立ち並び,分裂状態になります。
神聖ローマ皇帝には"ローマ"の名を冠するるだけあり,自分が「イタリア王」でもあることをアピールする者も多かったのですが,「イタリア」といっても現在の「イタリア」をイメージしてはいけません。いまのイタリアの北半分という感じです。
ここには都市国家(たとえ
ば
ヴェネツィ
ア
など)は含まれていませんし,ナポリとシチリア
は
両シチリア王
国
です
【本試験H16地図、本試験H29アヴァール人ではない】【H30共通テスト試行 地図上の移動経路(ノルマン人は、北アフリカからイベリア半島に進出して「シチリア王国」を建国したのではない)】
【追H24地図上の位置】
。この王国は1130年にノルマン人の
〈
ルッジェーロ2
世
〉により建国されましたが断絶し,〈フリードリヒ2世〉を出したドイツのシュタウフェン朝にわたり,フランスのアンジュー家に支配者が変わっていきました。
◆ローマ教会はアルプス以北のフランク王国に接近した
ローマ教
会
は,早くからキリスト教教会
の
五本
山
(ごほんざん)の一つとみなされていました。
早くからか
ら
首位
権
(
キリスト教世界における最高の権
威
)をめぐってローマ教会と争ったのは
,
コンスタンティノープル教
会
でした。五本山には他にアンティオキア教会・イェルサレム教会・アレクサンドリア教会がありますが,7世紀以降イスラーム教徒の支配下に置かれたこともあって,衰退していきます。これら東地中海沿岸の地域では東方正教会だけでなく
,
カルケドン公会
議
(451) の教義を受け入れなかった教会(東方諸教会)も生き残っています。
ローマ教会は,自分の教会をまとめ
る
ローマ総司
教
だけが,キリスト教の使
徒
ペテ
ロ
の唯一の後継者
「
ローマ教
皇
」であると主張しました。
それに対抗して1054年
【追H27 11世紀か問う】
【本試験H25 13世紀ではない】
に
ローマ教会と正教が相互に破門
したのが,東ローマ(ビザンツ)皇帝の保護を受け
た
コンスタンティノープル教
会(
正教
会
)
です。「1054年に正教会とローマ教会は分裂した」といわれることもありますが,教義の解釈をめぐり長い期間をかけて両者は別々の派に分かれていったので,1054年の時点で突然"分裂"したというわけではありません。
正教
会
は,ギリシアには正教会,ロシアにはロシア正教会,日本には日本正教会というように,各国ごとに主教がいらっしゃいます。これらを全て束ねる人は,いません。東方正教会は,一般に「ギリシア正教会」とも言うこともありますが,この場合はギリシアの正教会という意味ではなく,正教会全体のことを指すので注意が必要です。
しかし6世紀末のローマ教会の教皇
〈
グレゴリウス1
世
〉(位590~604)は,アリウス派を信仰する部族の多かったインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々
に
アタナシウ
ス
(ニカイア
)
派
を熱心に宣教しました。
726年には,テマ(軍管区)の長官出身のビザンツ帝国皇帝
〈
レオン3
世
〉(位717~741)が
,
聖
像
(崇拝
)
禁止
令
【本試験H29】
を出し,教皇が布教のさいに〈イエス〉や母〈マリア〉の聖画像(イコン)を用いていることを批判しました。『旧約聖書』における「十戒」には「偶像を作ってはならない」とという神との契約があります。この神を信じるキリスト教も,タテマエとしてはこれを守らねばならぬはずでした。これを受
け
聖画像破壊運
動
(イコノクラスム)も起き,東西教会の関係は悪化します。
ローマ教会としては「インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々に布教するためには,『聖書』の言葉よりも,聖像のほうが伝えやすい!」というのが本音です。聖像禁止令によって悪化した東ローマ帝国との関係をなんとかするために,ローマ教会
は
フランク王
国
に接近するようになっていきます。フランク王国の王は496年にすでにアタナシウス(ニカイア)派に改宗しており,有力な後ろ盾の候補となったわけです。
教皇はブリテン島のウェセックス王国出身の宣教者〈聖ボニファティウス〉(672?~752)を通してカロリング家に接近し,751年の
〈
ピピン3
世
〉(位751~768)によるフランク王即位を後押ししました。〈ピピン3世〉はローマ教会を圧迫してい
た
ランゴバルド王
国
を討伐し,ラヴェンナをローマ教皇〈ザカリアス〉に寄進し,ローマ教会は財政基盤を獲得しました。
結果的に800年にフランク王国の
〈
カール1
世
〔大帝〕〉が,教皇
〈
レオ3
世
〉により「西ローマ皇帝」として戴冠されました。しかし,王の死後にフランク王国は分裂。
この間,聖画像崇拝は843年の公会議で復活し
,
聖画像崇拝論
争
は終結しました。
フランク王国の分裂後100年余りの混乱期を経て,962年にドイツのザクセン出身の
〈
オットー1
世
〉(位936~973)
【本試験H23カルロス1世とのひっかけ】
が,教皇
〈
ヨハネ
ス
1
2世
〉(位955~964)によりローマ皇帝の戴冠を受け
,
神聖ローマ帝
国
【本試験H13五賢帝とは無関係】
が成立しました。当初から「神聖ローマ帝国」と呼ばれていたわけではなく,当初は単に「帝国」と呼ばれ,古代ローマ帝国やフランク王国のカールの帝国に続く,ローマ=カトリックを保護する西ヨーロッパの支配者という意味合いが強いものでした。だからこそ,ローマを含むイタリアを支配・保護できていなければ,格好がつきません。歴代皇帝はイタリアを支配に組み込もうと努力しますが,そのことが逆にローマ教皇に煙たがられ,皇帝vs教皇の権力争い
(
叙任権闘
争
)に発展することにもなります。
◆1
1
世紀以降の教会改革運動・叙任権闘争を通し,ローマ教皇は首位権を積極的に主張した
古代の末期の頃から,有力者が,自分のプライベートな土地(私領)に教会や修道院を建てることはよく見られたことで,その場合その教会の聖職者や修道院長を選ぶ権利(これ
を
叙任
権
といいます)は,その土地の領主が持っているのが普通でした。自分の土地に建てたマンションの管理人を,自分で選ぶような感覚ですね。やがて領主の権力が成長し,教会をいくつも自分の土地に所有しているような領主が現れると,その地域一帯
の
司
教
を誰にするかということについても,口出しする例が見られるようになります。
自分の所有している教会の司教を選出するだけなのに,なぜそんなに意地を張るのかと思うかもしれません。教会を所有していれば
,
農
奴
が教会に支払った地代
や
十分の一
税
【本試験H28十分の一税は聖職者が支払うわけではない】
をいくらか受け取ることができます。ある意味,教会は,合法的に民衆から税をとることができる(むしろ,民衆が進んで税を差し出す)組織でもあったわけで,権力者からすればとても美味しいものだったのです。
教会の関係者としても,司教のような美味しい役職にありつきたいというわけで,教会を所有している領主に賄賂を渡すようになります。これ
が
聖職売
買
です。こうして教会や修道院の長になった人物を聖界諸侯といいます。彼らが教会の規律を守るわけもなく,聖職売買や妻帯(さいたい)が横行するというわけです。
教皇〈レオ9世〉(位1049~54)は教皇座の中央集権化を進めました。教皇はキリスト教会の頂点であり
,
枢機
卿
団(すうききょうだん)の選挙会
(
コンクラーヴ
ェ
)により選ばれるものとされ,皇帝や国王は介入すべきではないと主張。この件以外にも,教義の違いでもめてい
た
コンスタンティノープル教
会
と
105
4
年に相互に破
門
し合う自体に発展しました。
◆
聖職叙任権闘争が起き,ローマ教皇はノルマン人と結び,神聖ローマ帝国に対決
ノルマン人が,ローマ教皇の親衛隊となった
一方,ローマ教皇
は
聖職叙任権闘
争
【本試験H18聖像崇拝論争,カールの戴冠,ルイ9世の十字軍とは関係ない】
をめぐって神聖ローマ皇帝との関係も日増しに悪化していました。
1059年には教皇〈ニコラウス2世〉が教皇を枢機卿から選ぶよう改革し,神聖ローマ帝国の干渉をブロックしようとします。
また,イスラーム教徒の進入を防いでくれる存在として,フランス王の臣下としてフランス北西部のに建国が認められていたノルマン人
【本試験H2「ヴァイキング」】
【東京H14[3]】
の
ノルマンディー公
国
【本試験H2】
【東京H14[3]】
に白羽の矢が立てられ,1066年にはノルマンディ公国によるイングランドの征服
(
ノルマ
ン=
コンクェス
ト
)を支援しました。
そんな中,1073年に即位した
〈
グレゴリウス7
世
〉(位1073~85)
【本試験H18】
【追H24フランク王国のカール大帝に帝冠を授けていない】
【早・政経H31論述指定語句】
は,教会組織の腐敗をただす運動に着手しました。彼自身は
,
教会刷
新
(改革
)
運
動
【本試験H21】
に積極的であっ
た
クリュニー修道
院
【本試験H21】
【追H19,H30】
【立命館H30記】
出身で
,
聖職売
買
【追H30】
や聖職者の妻帯禁止などの改革を推進しました。この修道院を910年に建設したのはアキテーヌ公国の〈ギヨーム1世〉でした。
〈グレゴリウス7世〉は大司教などの高位聖職者を任命する権利(聖職叙任権)が,(教会関係者ではない)世俗の権力に握られていることが問題の根源にあると考え,神聖ローマ皇帝
〈
ハインリヒ4
世
〉
(神聖ローマ皇帝在位1084~1105)
【本試験H13,本試験H18,本試験H22 15世紀ではない】
に対しても,「聖職叙任権はローマ教皇にある。神聖ローマ皇帝が,高位聖職者叙任しているのは,聖職売買にあたる」と非難しました。
〈
ハインリヒ4
世
〉は,高位聖職者を聖界諸侯として任命することで,世俗の諸侯に対抗させる政策
(
帝国教会政
策
)をとっていました。ドイツでは大きな世俗諸侯がいくつもひしめいていましたから,キリスト教の力を使って彼らをビビらせる作戦をとったのです。実際に当時の帝国の約半分は,教会領が占めていました。教皇に叙任権を取り上げられるとなると大きな痛手です。
しかし,抵抗した〈ハインリヒ〉を,教皇はあっさり破門。破門された〈ハインリヒ〉に対し,神聖ローマ皇帝内の諸侯が,"破門された人物に皇帝はつとまらない。やめさせよう"と反乱を起こします。慌てた〈ハインリヒ〉はローマ教皇〈グレゴリウス7世〉に許しを乞うことになりました。1077年1月,厳寒の中,家族を連れ立って北イタリアのカノッサ城に向かい,裸足で3日間,教皇に謝罪したといわれています
(
カノッサの屈
辱
【早・政経H31論述指定語句】
)。
しかし,破門を解かれた直後に〈ハインリヒ4世〉は一転,〈グレゴリウス7世〉の廃位を宣言し,ローマを制圧しました。
◆
聖職叙任権闘争はヴォルムス協約で収束したが,神聖ローマ帝国の権限は残された
ドイツの教会勢力は,「聖界諸侯」となっていく
結局,1122年には,神聖ローマ皇帝〈ハインリヒ5世〉(位1106~25)とローマ教皇〈カリクトゥス2世〉(位1119~24)との間
に
ヴォルムス協
約
【早・政経H31論述指定語句】
が締結され,聖職叙任権があるのは教皇だということは確認されましたが,実際に司教や修道院長に所領
(
封
土
)を与えて主従関係を結ぶ権利は,皇帝が持つことになりました。
つまり,神聖ローマ皇帝はドイツにおけるキリスト教勢力に所領や特権を与えることができたわけですから,「教皇に聖職叙任権がある」というのは,単なる"タテマエ"で,今後はドイツの司教と修道院長は皇帝にも忠誠を誓
う
聖界諸
侯
として,強い権力を持つようになっていくのです。
ヴォルムス協約の中身をみてみましょう。「帝国内の教会は自由に叙任を行う権利を得ること」とありますが,「皇帝は帝国内で司教と修道院長の叙任に立会い,選出が難航した場合のみ指名する権利を得ること」とあるので,実質的に神聖ローマ帝国が司教と修道院長の選出に口出しすることは可能とであることがわかります。
◆
ローマ教皇はアルプス以北の君主国に対抗し,教皇座を整備していった
アルプス以北の君主国
v
s
ローマの教皇座
1122年のヴォルムス協約は"妥協"的な内容であったものの,教皇権と世俗の権力の分離が図られた点では重要です。
アルプス以北のヨーロッパ各地
で
国
王
や
皇
帝
(特定の家柄が世襲する)を中心とし,領域内の聖職者・諸侯・都市をまとめ
る
君主
国
(くんしゅこく)が確立されていくと
,
教皇
座
(ローマ教会,ローマ司教の教権,あるいはローマ司教(=教皇)そのものを指す言葉)も中部イタリア
の
教皇国
家
の基盤を確立していきました。
ローマ教皇と,世俗の国王や皇帝との対立が表面化していく中,キリスト教の神学の世界でも,神や教会をどのようにとらえるかを巡って議論が起きていました。イングランド王国のカンタベリ大司教
〈
アンセルム
ス
〉(1033~1109)
【追H9】
【本試験H17】
【追H21アウグスティヌスとのひっかけ】
は,"信仰(信じる気持ち)のほうが,理性(理屈で考えること)よりも大切だ。つべこべ言うな。「神」と呼ばれている存在がある以上,神という存在はある(実在する)んだ!"ということを,とっても複雑な説明を使いながら説明しました。これ
を
実在
論
【追H9唯名論ではない】
といいます。
「いや,「神」という言葉があってはじめて,人間は神について知ることができるわけで,そういう意味で神の存在そのものよりは,「神」という名前のほうが,人間の認識にとっては重要なんじゃないか?」と考えたの
が
唯名
論
【追H9実在論ではない】
【慶文H30記】
の立場で,フランスの神学者
〈
アベラー
ル
〉(1079~1142)
【追H9実在論ではない】
が代表的な論者です。〈アベラール〉は〈アンセルムス〉に対する論破で名声を得ましたが,家庭教師をしていた〈エロイーズ〉17歳との劇的な出会い,彼女の伯父の反対,駆け落ち,伯父により去勢,成功からの転落,〈エロイーズ〉との隔離...。このとき〈アベラール〉は39歳。赤裸々な内面を語った手紙のやりとりも有名です。
なお,実在論と唯名論との論争
を
普遍論
争
といます。これは神学に関するものというよりはむしろ,言葉が対象そのものを表すことが果たして可能なのかという,記号論に関する議論に近いものだったという考え方もあります。
◆
教皇が提唱の十字軍は失敗するが,国王の権威が高まり,イタリア諸都市の交易圏が拡大
十字軍=アルプス以北の君主国の地中海進出,商人の東方進出
テュルク系の騎馬遊牧民の建国し
た
セルジューク
朝
【京都H19[2]】
が聖地イェルサレムを支配下におき,ビザンツ帝国領内にも進出する勢いとなったことに対し,ビザンツ皇帝がローマ教皇に「セルジューク朝がキリスト教徒
の
巡
礼
を妨害している」と救援を要請しました
(注
)
。
当時のヨーロッパは,ミレニアム(イエスの十字架上の死から1000年後)の余波で空前の巡礼ブームで民衆のキリスト教熱も高まり,イェルサレム以外にもローマや,スペインのサンチャゴ=デ=コンポステラ
【東京H20[3]】
【本試験H19リード文,H31古代ローマの時代ではない】
【立命館H30記】
が三大巡礼地として注目されていました・このうち,サンティアゴ=デ=コンポステーラには,聖〈ヤコブ〉をまつる大聖堂が建設され,フランス方面からの巡礼者で賑わいました
(◆世界文化遺産「サンティアゴ=デ=コンポステーラ」1985,「フランスのサンティアゴ=デ=コンポステーラの巡礼路」,1998。「サンティアゴ=デ=コンポステーラの巡礼路:カミノ=フランセスとスペイン北部の道」,1993(2015範囲拡大)。巡礼地だけではなく,巡礼路までが世界文化遺産に登録されるという熱の入れよう)
。
(注)セルジューク朝が「巡礼を妨害した」という事実は明らかになっておらず,当時のイェルサレムはセルジューク朝とエジプトのファーティマ朝の取り合いとなっており,1098年にはファーティマ朝の支配下となっていました。
当時のローマ教皇は
〈
ウルバヌス2
世
〉(位1088~99)。1095年
に
クレルモン宗教会
議
をひらき「ペルシアから来た侵入者,トルコ人が武力でキリスト教徒を追放し,略奪を働き,町を焼き払っているのです」とセルジューク朝の脅威を訴え,キリストの兵士として異教徒に立ち向かうことを提案し,1096年
に
第一回十字
軍
【追H28】
がスタートします。各国の諸侯や騎士
【本試験H16サラディンではない】
はコンスタンティノープルから1097年にアナトリア半島に渡ってルーム=セルジューク朝を破り,1098年にキリスト教徒の多いエデッサに十字軍国家であるエデッサ伯領を建国。さらに同年にはやはりキリスト教徒の多いアンティオキアを占領し,アンティオキア公領を建国しました。1099年にはイェルサレムを攻撃・占領し,1099
年
イェルサレム王
国
【京都H20[2]】
【追H28イェルサレムを攻略したか問う】
を建てました。
このときに多くのイスラーム教徒やユダヤ人が虐殺されたという記録があります。のちに1109年にはトリポリ伯領が建国されました。こうして現在のシリア
(
注
1
)
周辺にはフランス人諸侯を中心とする国家が樹立され,獲得した土地は封土として家臣に与えられました。
十字軍は宗教的情熱から始まった運動ですが,それと同時に増加したヨーロッパ諸民族の対外拡大運動でもあったのです。少数のキリスト教徒(「フランク人」
(
注
2
)
と呼ばれました)の支配者がイスラーム教徒の農民を支配する体制となり,軍事力を補うために騎士修道会による移民がおこなわれました。また当時のイスラーム教徒側は十字軍との戦いを必ずしも宗教的な戦いととらえておらず,キリスト教徒に対抗する勢力も一枚岩ではありませんでした。
(注1)現在のシリアの領土とは違い,歴史的にシリア(アラビア語ではシャームと呼ばれます)と呼ばれる地域は現在のイスラエル,パレスチナ,ヨルダン,シリア,レバノンを含む東地中海沿岸の地域を指すことが普通でした。
(注2)「フランク」とはビザンツ帝国やイスラーム教徒による「ヨーロッパ人」を示す呼称でした。イスラーム世界にとっての十字軍とは「フランクの進出」でした。
ただ,初期の十字軍にはしっかりと組織されていなかったものも多く,それら
は
民衆十字
軍
(教皇の認可なしの騎士・農民の武装集団)と呼ばれます。〈隠者ピエール〉(生没年不詳)のように民衆の支持を集めた宗教指導者にあおられて聖地に向かったものの,ほとんどが失敗に終わっています。また,混乱のなか,結局は奴隷として売り飛ばされた少年十字軍のような悲劇や,どさくさにまぎれ
た
ユダヤ人迫
害
も起こりました。
◆
ザンギー朝に対し第二回,アイユーブ朝に対し第三回十字軍が決行された
「フランク人」の進出にテュルク人・クルド人が対抗
「十字軍」の到来を受け、北方の
スンナ派
のイスラーム勢力
(
ザンギー
朝
。分裂していたセルジューク朝の総督〈サンジャル〉(位1118~1157)が建国)
は、南方のエジプト・シリアを支配する
シーア派
の
ファーティマ朝
と対立している余裕がなくなり、協力して対抗しようとします
(注1)
。
この北方のイスラーム勢力がジハード(異教の世界との戦い)として十字軍国家の一つ(エデッサ伯領)を奪回(注:実際の統治は,北イラクのモースルに本拠を置くテュルク系マムルークの〈ザンギー〉が担ったのでザンギー朝といいます)。
この知らせを受けた教皇〈エウゲニウス3世〉によ
り
第二回十字
軍
が提唱され,シトー派の神学者〈ベルナール〉による
しかしザンギー朝の〈ザンギー〉と,第二代〈ヌールッディーン〉という強敵を前に,たいした成果はあげられずに失敗。しかし,十字軍国家のイェルサレム王国は存続します。
1130年には,ローマ教皇がかねて臣下にしていたノルマン人
【本試験H2「ヴァイキング」】
のノルマンディー公国
【本試験H2】
【東京H14[3]】
の貴族オートヴィル家の
〈
ルッジェーロ2
世
〉(位1130~54)が,イスラーム勢力と戦って,ナポリなどのイタリア南部とシチリア島で支配権を確立し
,
ノルマ
ン=
シチリア王
国
(ノルマン朝シチリア王国,両シチリア王国)
【本試験H16地図、本試験H29アヴァール人ではない】【H30共通テスト試行 地図上の移動経路(ノルマン人は、北アフリカからイベリア半島に進出して「シチリア王国」を建国したのではない)】
【追H24地図上の位置】
を建国しました。ローマ教皇は,心強い味方を得た形です。
12世紀後半には,シリアのザンギー朝(
スンナ派
)に仕えていたクルド人の軍人
〈
サラー
フ=
アッディー
ン
〉
【東京H13[1]指定語句「サラディン」】
が頭角をあらわし,1169年にエジプトで宰相となって自立しました。彼は1171年にエジプトの大法官(カーディー)を
シーア派からスンナ派に切り替え
(注2)
,ファーティマ朝最後のカリフの死後,アッバース朝のカリフの名の下に新王朝
(
アイユーブ
朝
【追H28成立時期は中国の唐代ではない】
)を立ち上げ,スルターン(位1171~93)となりました。アッバース朝はアイユーブ朝がエジプト,イエメン(アラビア半島の南西端),シリアを統治する権利を認め,十字軍国家も攻撃。1184年にはイェルサレム王国を攻囲し,キリスト教徒の身を保障する形でイェルサレムを明け渡させました。
それに対し
て
第三回十字
軍
が結成され,神聖ローマ皇帝〈フリードリヒ1世〉(皇帝位1155~90),イングランド国王〈リチャード1世〉(在1189~99),フランス国王〈フィリップ2世〉(位1180~1223),オーストリア公〈レオポルト5世〉(位1177~94)が参加しました。キリスト教諸国はイェルサレムを取り戻すことはできませんでしたが,イェルサレムへの巡礼は認められました。このときにキリスト教徒による異教徒に対する大規模な虐殺が起こっています。
(注1) 鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.126。
(注2) これによりイスラーム世界における「スンナ派」の優位が決定づけられることになりました。エジプトのカイロの
アズハル学院
も、もともとはシーア派教学の研究教育機関であったのですが、これ以降はスンナ派の研究教育機関となります。鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.126。
◆
十字軍により利益を得たのは,ジェノヴァ・ピサ・ヴェネツィアなどのイタリア都市国家だった
十字軍の物資輸送で,東方貿易が盛んとなる
十字軍により,地中海における人や物資の移動が活発化したことで
,
東方貿
易
【東京H27[1]指定語句】
が盛んになり,イタリア諸都市が発展するきっかけにもなります。1184年にシリアを旅行した〈イブン=ジュバイル〉によると,十字軍が起こっている中でもキリスト教徒とイスラーム教徒の一般人は平穏に過ごしており,民衆や商人の往来は妨害されることはなかったといいます
(
注
1
)
。
これは,エジプトを支配していたイスラーム教国
の
ファーティマ
朝
や
マムルーク
朝
の保護してい
た
カーリミー商
人
との交易です。カーリミー商人は,アラビア半島南部
の
アデ
ン
【本試験H18地図(カリカットとのひっかけ)】
においてインド商人から物資を中継ぎし,紅海経由でナイル川上流に運び,ナイル川を下って下流
の
アレクサンドリ
ア
港でイタリア諸都市
(
ヴェネツィ
ア
や
ジェノヴ
ァ
)に売り渡していました
(注2)
。
(注1) 佐藤次高編『新版世界各国史 西アジア史Ⅰ アラブ』山川出版社,2002,p.302。
【資料】 「〔ダマスクスでは〕つぎのようなことが話されているのを聞いて驚いている。ムスリムとキリスト教徒の2つの勢力の政権の間で、日夜戦乱の炎が燃えており、ときおり両政権の兵団が遭遇し、戦闘隊列をとることがある。
その状態でも、ムスリムやキリスト教徒たちは何の妨げもなく互いの間を通行できるのである。...(中略) 〔ムスリムと十字軍〕両政権の間に合意があり、すべての政権の間に一定の均衡があるのである。軍人は戦いに専念するが、一般人は平穏にすごしており、戦いに勝った者が政権を握るたけのことである。」(イブン・ジュバイル『旅行記』(12世紀)、歴史学研究会編『世界史史料2 南アジア・イスラーム世界・アフリカ』岩波書店、2009年より)
(注2)
カーリミーの語源については諸説ある
が、ファーティマ朝時代の文書史料に現れる「カーリム」は、エジプト~イエメン~インド間の海域をむすぶ「輸送船団」「廻船」の意味に用いられていました。アイユーブ朝以後は、別称が「コショウと香料の商人」として知られるように、インド産の商品を集荷・貯蔵・輸送・仲介・販売することで莫大な利益を得ていました。〈ヌワイリー〉の『学問の神髄』(1333年)には、〈イッズ=アッディーン〉の父親が中国の元朝を訪れて莫大な財貨を蓄えたということを記録しています(歴史学研究会編『世界史史料2 南アジア・イスラーム世界・アフリカ』岩波書店、2009年、p.370)。
◆
ヨーロッパに,古代ギリシア文化のアラビア語訳文献が伝わった
ギリシア
語→
アラビア
語→
ラテン語の情報のリレー
イスラーム世界との交流が活発化すると,古代のギリシアやローマの文献を保存・翻訳していたイスラーム世界やビザンツ帝国からの研究成果が伝わり,イタリアではのちの
ち
ルネサン
ス
(古代ギリシアやローマの文化・芸術の復興)が起こっていくことになります。
当時の地中海に面するイスラーム国は,以下のような布陣です。
・イラクに
は
アッバース
朝
(750~1258(1517))。
・イベリア半島
の
ムラービト
朝
(1056~1147)
【本試験H9】
,
ムワッヒド
朝
(1130~1269)(⇒
80
0~
120
0
ヨーロッ
パ>
イベリア半
島
)
【追H21時期(10世紀ではない)】
【立命館H30記】
。
・チュニジア周辺からサルデーニャ島,シチリア島,イタリア半島南部を支配したアグラブ朝(800~909)。
エジプトからシリア,パレスチナにも進出したトゥールーン朝(868~905)。
チュニジアで建国されエジプトカイロを都としたシーア派
【追H21スンナ派ではない】
の
ファーティマ
朝
(909~1171)
【追H21】
(⇒
80
0~
120
0
アフリ
カ>
北アフリ
カ
)
とくに
,
イスラーム
教
の勢力が押し寄せてきた前線地帯であるシチリア王国
【東京H23[1]指定語句「シチリア島」】
の
パレル
モ
と,イベリア半島にあったカスティーリャ王国
の
トレ
ド
【東京H23[1]指定語句】
では,イスラーム教徒のアラビア語
【東京H10[3]】
文献が,中世ヨーロッパの国際共通語ともいえるラテン語
【東京H10[3]】
に翻訳されていきました。シチリア王国の王が〈フェデリーコ2世〉(神聖ローマ帝国の
〈
フリードリヒ2
世
〉となる人物です)であったときに,特に翻訳が盛んで,アラビア語の文献だけでなく,ビザンツ帝国の文献,さらには古代ギリシアやヘレニズム時代のギリシア
語
【東
京
H7[1
]
指定語句
】
文献も,イベリア半島
の
コルド
バ
【本試験H6「イベリア半島のイスラム文化」が栄えた都市か・後ウマイヤ朝の首都か問う】
【本試験H30】
やシチリア島のパレルモで活発
に
アラビア語
【東
京
H7[1
]
指定語句】
からラテン語
訳
【本試験H15】
されていきました。
たとえば,古代ギリシアやヘレニズム時代の文献としては,天文学分野の〈プトレマイオス〉『アルマゲスト』,〈プラトン〉や〈アリストテレス〉
【東京H23[1]指定語句】
の著作,数学では〈エウクレイデス〉
【本試験H15プトレマイオスとのひっかけ】
の『原論』,〈アポロニオス〉の『円錐曲線論』,〈アルキメデス〉『円の求蹟』,医学者〈ヒッポクラテス〉
【追H25平面幾何学の人ではない】
の『箴言』や〈ガレノス〉の著作などです。
アラビア語の著作としては,神学では
〈
ガザーリ
ー
〉
(1058~1111,ヨーロッパではアルガゼルとして知られました)
【本試験H6スーフィズムを体系化したか問う,本試験H10世界地図を作成した地理学者ではない】
【追H25(時期「10世紀から11世紀にかけて生きた」哲学者・医学者か問う→ガザーリーは11~12世紀なので誤りだが
難問である
),H30ユダヤ教の理論家ではない】
,数学では
〈
フワーリズミ
ー
〉
【本試験H10】
の『代数学』
【本試験H10】
,医学
【東京H23[1]指定語句】
では
〈
イブ
ン=
シーナ
ー
〉(ヨーロッパではアヴィセンナ;アヴィケンナ)
【東京H23[1]指定語句】
【本試験H10】
【追H19,H20時期】
の『医学典範』
【本試験H10】
【追H19、H20時期】
・
『治癒の書』といったものがあります。
◆
神学を頂点とする教育機
関(
大
学)
が各地に設置された
イスラーム世界の学問研究が,刺激を与える
こうしたイスラーム科
学
【東
京
H7[1
]
指定語句「イスラム科学」
】
などの新情報の影響を受け,12世紀頃からヨーロッパ各地
に
大
学
が建てられ,キリスト教神学
は
スコ
ラ(哲)学
【本試験H17人文主義ではない】
というスタイルに発展し,神学を中心に様々な学芸が盛んになっていきました。
下級3学といわれたラテン語の文法
【慶文H29】
・修辞学・論理学,上級4学といわれる数学,音楽,幾何学,天文学(あわせて自由七科といい
,
リベラルアー
ツ
ともいいます)を修めた学生は,専門課程の神学・医学
【慶文H29】
・法学の3上級学部に進学することができました。「神」を疑うおそれもある「哲学」は,軽視され"哲学は神学のはしため(婢=仕える存在)"とされました
【共通一次 平1:位置づけを問う】
【追H20キリスト教と離れて研究をおこなったわけではない】
。
法学
【追H29】
としてはイタリア
の
ボローニャ大
学
(1088)
【東京H14[3]】
【共通一次 平1:パリ大学ではない】
【本試験H17ケンブリッジではない,H23法学かを問う】
【追H19,H29法学で有名か問う】
,神学部
【共通一次 平1:法学部ではない】
としてはフランス
の
パリ大
学
(12世紀中頃)
【共通一次 平1】
【本試験H17リード文,本試験H23神学かを問う】
,イングランドの神学
部
オックスフォード大
学
(12世紀後半)
・
ケンブリッジ大
学
【本試験H17ボローニャ大学とのひっかけ】
,医学で有名な南イタリア
の
サレルノ大
学
【本試験H16医学で有名かを問う,本試験H17リード文】
【追H19】
などが代表です。
大学は教会・修道院に付属する研究機関
【共通一次 平1】
からスタートしたもののほかに,別の由緒をもつものもあります。学生の自治団体(ギルド=ウニウェルシタス
【東京H14[3]】
【本試験H17リード文】
)が発祥なのはボローニャ大学,教師による自治団体(コレギウム)が起源なのはパリ大学です。教師も学生も聖職者であることが基本でしたので,女性の教師・学生はいませんでした
【本試験H11[2]「中世以来ヨーロッパでは伝統的に,大学が女性にも高い教育を与える場であった」か問う】
。
また,イスラーム
【共通一次 平1】
の最新の科学も伝わり,イギリスの神学者
〈
ロジャ
ー=
ベーコ
ン
〉
(1214?~74)
【本試験H8フランシス=ベーコンではない】
【追H9『神の国』を著していない,
本試験H12時期(1609年前後)かを問う】
【本試験H17】
は,何事
も
実験・観察を重
視
【本試験H17「経験を重視した方法論を説いた」かを問う】
し,のちの近代科学の方法論の元となりました。彼はカトリックの司祭でしたが,〈アリストテレス〉などのギリシア
【共通一次 平1】
の文献を読み漁り,実験によって事実を突き止めていくさまは,当時においては"異端"スレスレの行為だったのです。
古代ギリシアの学問がヨーロッパにおいて"復活"した,この一連の現象を「
1
2
世紀ルネサン
ス
」
【本試験H21リード文】
といいます
(注
)
【本試験H12「アラビア語の哲学書や医学書がラテン語に翻訳され,西ヨーロッパの哲学・神学や医学に影響を与えた」か問う】
。
(注)「12世紀の人々がなしえたことは,ギリシア人たちの科学的著作をふたたび西欧のものとし,これらの著作に対するアラビア人註釈家(ちゅうしゃくか)や翻訳家たちの知識を解き放ち,あらゆる分野で科学的活動に刺激を与えたことであった。」(〈C.H.ハスキンズ〉(1870~1937)『12世紀ルネサンス』創文社,1985,p.274。
・
80
0
年
~
120
0
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現⑦
フランス
◆
カロリング朝が断絶した西フランク王国は大諸侯の力が強く,王権は弱かった
西フランク王
国
【本試験H8】
では,987年にカロリング朝が断絶し
【本試験H8】
,パリ伯の
〈
ユー
グ=
カペ
ー
〉(位987~996)
【追H27アルビジョワ派を制圧していない】
が、妻がカロリング家出身であるということから王に選ばれ
,
カペー
朝
【本試験H8ヴァロワ朝ではない】
がはじまりました
【H29共通テスト試行 系図】
。フランスには有力諸侯が多く,はじめはパリ周辺をおさえるのみでした。例えば,ピレネー山脈のよりも南の地域のスペイン辺境領は,バルセローナ伯を中心に987年
に
カタルーニャ君主
国
として独立しています。
特に山地を挟んだ南部は,オック語というフランス語とはかなり異なる言語が話される地域でした。他の諸侯をおさえるのに苦労したために,彼は生前に息子を共同王として即位させるほどでした。こうし
て
カペー
朝
(987~1328)がはじまりました。
カペー朝は〈ルイ6世〉(位1108~37)のときに王を拡大,それを継いだ7代目の
〈
フィリップ2
世
〉(尊厳王,位1180~1223年)
【本試験H30カペー朝の創始者ではない】
は,そんな弱体であったフランスの王権を強くしました
。
彼は第三回十字
軍
(1189~92)にも参加し,1190年代にはフランドル伯の領地を奪っています。
〈フィリップ2世〉は,イングランドの王
〈
リチャード1
世
〉(獅子心王,在位1189~99)の子〈アーサー〉の面倒をフランスで見ていたのですが,イングランドの王の
〈
ジョ
ン
〉(欠地王,在位1199~1216)が王位を継ぐと,〈アーサー〉は暗殺されてしまいます。〈アーサー〉もイングランドの王位を継ぐ者とみられていたので,〈アーサー〉を〈ジョン〉が暗殺させたのではないかという疑いが持たれたんですね。それで,〈フィリップ2世〉と〈ジョン〉との間で戦争となり,結果的
に
ノルマンデ
ィ
(北部)
や
アンジュ
ー
(北西部)を〈ジョン〉から奪い取ります。これがもとで〈ジョン〉は「失地王」といわれますね。また,〈フィリップ2世〉
は
第三回十字
軍
にも参加しました。
・
80
0
年
~
120
0
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現⑧
アイルランド
スコットランドでは
〈
ダンカン1
世
〉(位1034~1040)が,南部にあったブリトン人の王国を滅ぼし,現在のスコットランドの領域とほぼ同じエリアの統一を果たします。
アイルランドでは、この時代に政治的な統一への動きが起こります。
アイルランド南部マンスター地方の小地域王(リー=モル)の息子として生まれた〈ブリアン=ボーリヴェ〉(940~1014)が、象徴的な権威をもっていた上王(アード=リー)
(注1)
の位を3世紀以来独占していたイ=ネール族から、1002年にその地位を奪ったのです。
〈ブリアン〉は1005年に「アイルランド人の皇帝」を称し、1010年頃までにはアイルランドの地方・小地方王の多くが権威を認めます。
しかし、1014年にレンスター地方王と、ダブリンを治めていたデーン人の王が反乱を起こし、〈ブリアン〉は戦死。あと一歩のところで政治的な統一は成りませんでした
(注2)
。
12世紀後半になると、イングランドでは
プランタジネット朝
が始まります(1154年)。本拠地はフランスのアンジュー伯領ですが、北のノルマンディー公領、南のアキテーヌ公領など広大な領土を保有しており、現在の感覚でいう「イギリス」のイメージを超える、まさに「アンジュー
帝国
」でした。
そんなイングランドの拡大に対し、ブリテン島北部の
スコットランド王国
は独立を保ちます。
一方、ブリテン島南西部の
ウェールズ
では、11世紀後半に3つの公国(北部のグウィネッズ、中部のポウィス、南西部のデハイバース)が形成されており、相互に争っている状態です
(注3)
。
おなじ12世紀後半、アイルランドではレンスター地方で内紛が起きると、イングランド人やウェールズ南部にいたノルマン系の辺境領主たちが、レンスターから追放された元王〈ディアルミド=マク=ムルハダ〉の側に立ち、アイルランドを攻撃。〈ムルハダ〉はアイルランド王位を取り戻します。しかし、〈ムルハダ〉が1171年に死ぬと、レンスター王位を継いだのはウェールズ南部にいたノルマン系の辺境領主。
ノルマン系の辺境領主を敵対視した〈ヘンリ2世〉は1171年10月、アイルランドに大軍を率いて渡り、アイルランドのゲール系諸王たちとノルマン系の征服者たちに、みずからが「アイルランド宗主」(アイルランド卿)であることを認めさせました
(注4)
。
イングランドの王が〈
ジョン
〉(位1199~1216)に代わると、アイルランドにイングランドの統治制度が、先住のゲール系の諸王の地域を除く地域に導入されます。ダブリンが首都とされ、諸都市には自治権が付与され、農村には王の役人である知事(シェリフ)を通じて王の裁判権に服属するカウンティ(県)が設置されました。
〈ジョン〉王は〈ヘンリ2世〉から土地を相続されなかったことから"欠地王"(けっちおう)と呼ばれ、さらに大陸の領土を大幅に失い、
大憲章
(マグナ=カルタ)を諸侯との間に結んだことで知られます。
(注1) アイルランドの伝統的な5地域(アルスター、レンスター、マンスター、コナハト、ミーズ)の最有力者であった地方王(リー=クイシッド)の、さらに上位に立つ象徴的権威(山本正『図説 アイルランドの歴史』(ふくろうの本)、河出書房新社、2017年、p.17)。
(注2)山本正『図説 アイルランドの歴史』(ふくろうの本)、河出書房新社、2017年、p.18。
(注3)山本正『図説 アイルランドの歴史』(ふくろうの本)、河出書房新社、2017年、p.22。
(注4)すでに1155年には、イングランド出身の教皇〈ハドリアヌス4世〉が、イングランド国王〈ヘンリ2世〉にアイルランドの領有を許可していました。真偽について諸説ありますが、これがのち16世紀半ばまでイングランド王のアイルランド領有権の根拠となっていくのです(アイルランド宗主〔卿〕の称号は1541年まで使用されます)。山本正『図説 アイルランドの歴史』(ふくろうの本)、河出書房新社、2017年、pp.22-23。
○800
年~
1200
年のヨーロッパ 北ヨーロッパ
ユーラシアでは,モンゴル高原の遊牧騎馬民族が拡大し,連合政権を樹立,ユーラシア東西を結ぶ陸上・海上ネットワークが再編される。
南北アメリカ大陸では,中央アメリカと南アメリカのアンデス地方で交流の広域化がすすむ。
時代のまとめ
ユーラシアでは,モンゴル人が馬の力でユーラシア大陸をまとめ,交流の活発化でヒト・モノ・情報の移動が活発化し,技術革新につながる。
(1
)
ユーラシア
①
モンゴルの時代
モンゴル人は商業を保護し,ユーラシア東西を結ぶ陸海のネットワークを統合する
ユーラシア大陸の東西をモンゴル人が
モンゴル人は,ユーラシア大陸各地に建設されていた農牧複合国家の農牧業・商業を保護し,アフリカ大陸からユーラシア大陸東西を結びつける海陸の交易ネットワークが整備されていく。
東南アジア方面
の
大
理
【東京H6[1]指定語句】
は1254年に滅ぼされ,海上交易の掌握をねらう元が遠征し,ビルマ
の
パガン
朝
やジャワ島
の
クディリ
朝
が混乱,ヴェトナム北部
の
陳
朝
は撃退した。
南アジアでは,インド北部のイスラーム政権であ
る
奴隷王
朝
【共通一次 平1:デリー=スルターン朝の初めか問う】
【本試験H3】
【本試験H13デリーを首都にした最初のイスラーム王朝かを問う,本試験H22時期,H29カージャール朝ではない】
【追H30ムガル帝国とのひっかけ】
【名古屋H31何世紀か問う】
は,モンゴル帝国の侵入を免れた。デカン高原以南にはヒンドゥー教の諸政権が並立し,ペルシア,アラビア半島やアフリカ東部沿岸
の
スワヒ
リ
地方の都市国家群との交易の利で栄える。
西アジア
の
アッバース
朝
は1258年
【慶文H29】
にモンゴル人に滅ぼされたが,エジプトのイスラーム政権である新興
の
マムルーク
朝
がカリフを保護する。
②
モンゴル後の時代
1
4
世紀中頃に,ペス
ト(
黒死
病
【東京H27[1]指定語句
】
)
がユーラシア大陸から北アフリカで猛威をふるい,異常気象や災害も重なり,各地で政権が変化する
ユーラシア大陸の交易ネットワークが緊密化すると,致死率の高
い
ペス
ト
菌の西方への大移動が起きた。アフリカ
の
マムルーク
朝
が衰退する原因となり,ヨーロッパでは各地の君主国で壊滅的な被害が生まれる。
また,14世紀中頃には東アジア
で
明
王朝がおこる。モンゴル人はモンゴル高原に撤退するが,〈チンギス=ハーン〉の直系一族は,モンゴル高原を拠点に内陸ユーラシアにおいて依然として強い勢力を保った
(
チンギス統原
理
)。
西アジアではモンゴル人の後継国家か
ら
ティムール
朝
が生まれ,西方に拡大してテュルク系
の
オスマン
朝
と対抗する。
西ヨーロッパで
は
イングランド王
国
と
フランス王
国
を中心とす
る
百年戦
争
中にペストが大流行し,大規模な農民一揆
【東京H8[3]「封建反動」について説明する】
は旧来の社会体制を揺るがす。
中央ヨーロッパや東ヨーロッパで
は
リトアニ
ア=
ポーラン
ド
や
モスクワ大公
国
が強大化。後者はモンゴル人からの支配を脱し,領土を拡大させている。
③
大交易時代
1
5
世紀中頃からユーラシア大陸で「大交易時代」がはじまる
14世紀中頃
の
ペストの大流
行
にともなう停滞期を経て各地で体制の再編がすすみ,海上ネットワークを中心とす
る
大交易時
代
が始まる。
ユーラシア大陸各地の政権は海上支配を目指し,中央集権化をすすめていった。明
は
南海大遠
征
を実施し,東南アジアのマジャパヒト王国やマラッカ王国,南アジアの諸政権など,インド洋一帯の交易活動が刺激される。
・ヨーロッ
パ
で
は
十字
軍
の影響で東方交易(レヴァント交易)が活発化し,各地の政権が覇権を争った。活性化する「大交易時代」の物流ネットワークのおこぼれにあずかることのできた。イタリア諸都市がキリスト教に代わる新たな価値観として古代ギリシア・ローマの情報を保護し
,
文芸復
興
(
ルネサン
ス
)がはじまる。特に西地中海で
は
ピ
サ
と
ジェノヴ
ァ
,東地中海で
は
ヴェネツィ
ア
(英語ではヴェニス)
【東京H14[3]ヴェネツィアの特産品を,刀剣類,毛織絨毯(じゅうたん),加工ダイヤモンド,ガラス工芸品(正解),手描き更紗(さらさ)から選ぶ(世界史の問題か?)】
が交易を独占した。
また,西ヨーロッパを中心に商工業が発達すると
,
都
市
を中心とする社会が成熟して従来の社会体制が変質。各地で中央集権化を進めた王権による国家統一が進む。
・オスマン帝国のヨーロッパへの進出が,イベリア半島諸国の海外進出につながる
一方,テュルク系
の
オスマン帝
国
がバルカン半島・東地中海に進出すると,イタリア諸都市は衰退に向かう。オスマン帝国は,モンゴル系
の
ティムール
朝
との間で,インド洋交易ネットワーク(紅海から,アラビア半島沿岸のイエメン,ハドラマウト,オマーンを経由しペルシア湾岸に向かうルート)の覇権をめぐり抗争する。
没落したイタリア諸都市に代わり,イベリア半島諸国
(
ポルトガル王
国
,
カスティーリ
ャ=
アラゴ
ン
(のちのスペイン))がインド洋への直接航路・西アフリカの金の直接取引を目指し,新航路の開拓に乗り出すことになる。15世紀末にはスペインの
〈
コロ
ン
〉がカリブ海(現・バハマ)に到達し,ヨーロッパ人にとっての「世界」に南北アメリカ大陸が加わることとなる。
(2
)
アフリカ
アフリ
カ
ではサハラ沙漠の横断・縦断ルートが活性化し,ニジェール川上流域
の
マリ帝
国
と
ソンガイ帝
国
,ニジェール川中流域
の
ハウ
サ
諸国,下流
の
ベニン王
国
,チャド湖周辺
の
カネム王
国
,スーダンやエチオピアの諸王国が繁栄。
インド洋沿岸のスワヒリ都市国家群は,現・モザンビーク沿岸部にも拡大し,内陸交易
で
マプングブ
エ
,のち
に
グレー
ト=
ジンバブ
エ
が栄える。
(3
)
南北アメリカ
中央アメリカのメキシコ高原と南アメリカのアンデス地方に広域政権が出現する
南北アメリカ大陸でも南北を結ぶ交易路が存在したものの,ユーラシア大陸と異なり南北の気候・植生の違い(熱帯雨林が大きな障がいとなる),陸上交易の要となる馬や牛のような家畜の不在(山岳部のリャマを除く)が重なり,交易ネットワークは未熟だった。
南アメリカか
ら
アラワク
人
が
カヌ
ー
(カヌーはアラワク語が語源)で大アンティル諸島(現在のキューバ周辺)に渡っていたように,航海技術が発達していなかったわけではないが,ユーラシア大陸の「海の道」に比べ,遠洋航海技術は未発達であった。
北アメリカ大陸南西部の古代プエブロ人の文化は,過剰な開発や干ばつの影響により衰退へ向かう。ミシシッピ川流域では政治的な統合がすすみ,神殿塚文化が栄える。
カリブ海では,先住のアラワク人の地域に,南アメリカ北部か
ら
カリブ
人
が進出。小アンティル諸島を中心に活動範囲を広げる。
メキシコ高原では都市国家群が栄え,15世紀
に
アステカ帝
国
が強大化する。
アンデス地方ではペルー北部沿岸
の
チムー帝
国
が広域統一に向かい,ワリ帝国とティワナク帝国崩壊後の権力の空白を埋める。ペルー南部ではティワナク帝国崩壊後には,アイマラ人の諸王国が成立していたが,やがて高山地域のクスコを中心
に
インカ帝
国
が南大陸沿岸部から山岳部にかけてを広域統一する。
アンデス山地北部からパナマ地峡,カリブ海の小アンティル諸島,南アメリカ北部のギアナ地方,アマゾン川流域の下流部と中流部では,政治的な統合も進んでいるが,広域を支配する強大な国家には成長しなかった。
(4
)
オセアニア
ミクロネシア,メラネシア,ポリネシアの火山島・サンゴ礁島で,人々は農耕・牧畜・漁撈・採集を主体とした生活を送っている。
この時期にニュージーランドに到達したポリネシア人
(
マオ
リ
)は,狩猟を生業に導入する。
オーストラリアの住民
(
アボリジナ
ル
)は外界との接触をほとんど持たず,狩猟・採集生活を送っている。
解説
◆
前半にモンゴル人の大移動によって陸海のネットワークの相互関係が深まるが,開発の進展に対し人口増が限界をむかえ,小氷期も重なり各地で飢饉・戦争が起き生産性が低下する
800年~1200年にかけて世界各地で開発や技術革新が盛んにおこなわれ,人口も増加傾向にありました
(⇒800~1200の世界)
。しかし,このような生産性の向上→人口の増加→経済成長という進展は,長くは続きませんでした。一般に,人口がどんどん増えていくと,増加分の人口を養うことのできる技術革新が起きない限りは,どこかで食料や資源の供給が追いつかなくなるとされます(「マルサス的停滞」)。のちに「1760年~1815年の世界」でみるように,人類がこの「限界」を突破するには,石炭のエネルギーを活用する技術革新(産業革命(工業化))の到来を待たねばなりません。
それでも1200年代には,前時代の経済活動の活発化を受け,モンゴル高原の遊牧騎馬民
(
モンゴル
人
)が,ユーラシア一帯に短期間で勢力圏を広げ,草原地帯に拠点を維持しながら
,
定住農牧民の国
家
を各地で征服していきました。モンゴル人は陸上だけでなく海上交易も推進し,アフリカ大陸を含むユーラシア大陸の大部分に形成されていた交通・商業のネットワークが連結されていったのです
(
注
1
)
。
しかし,1250年~19世紀半ばの地球各地の平均気温は,それ以前の中世温暖期よりも寒冷化に向かっていました。この時期を
「
小氷
期
」と呼ぶことがあります。モンゴル帝国から分かれた主要な政権は,14世紀半ばの寒冷化の進行・飢饉・疫病の流行(いわゆる"
1
4
世紀の危
機
")により打撃を受け崩壊します。特に14世紀なかばにユーラシア大陸全体を襲っ
た
ペス
ト
(
黒死
病
【追H26天然痘ではない】
【東京H27[1]指定語句】
)は,各地の社会に壊滅的な被害を与えました。
●
ヨーロッ
パ
では,都市社会が成熟し,都市内部に大商人・役人・高位聖職者・手工業者(
このような社会の変化に対応してヨーロッパ各地では,諸侯,都市の市民,聖職者により構成された
身分制議会
【一橋H31 論述(13世紀後半~14世紀にかけて成立した「君主と諸身分が合議して国を統治する仕組み」の事例を複数挙げ、中世から近代にかけての変化を視野に入れて論じる)】
が,国王の政治を監視する形
の
君主
国
(モナルキア)が生まれていきました。例え
ば
イングランド王
国
では1265年に諸侯がリーダーシップを発揮して,都市の代表を含む身分制議会を立ち上げる国政改革が実現しています。また,1295年には聖職者と世俗の代表をメンバーとする身分制議会が開かれて,君主国としてのまとまりが形作られていきました。
イベリア半
島
では,1137年に成立し
た
アラゴン連合王
国
と,1143年成立
の
ポルトガル王
国
がレコンキスタ(国土回復運動)をすすめており,その勢いでポルトガルは大西洋へ,アラゴン連合王国は西地中海への進出もすすめます。
ドイツ
の
神聖ローマ帝
国
の〈フリードリヒ2世〉
【本試験H8同名のプロイセン王との混同に注意】
はシチリア王国の王も兼任し,ギリシア語・アラビア語・ラテン語にも通じ,
"
世界の脅
威
"と絶賛されています。彼は行政機構を確率しましたが,アルプス以北の支配がゆるみ,教皇からも波紋を受けました。
〈フリードリヒ2世〉の死後,神聖ローマ皇帝の命運は傾きます。シチリアは独立し,1256年以降の神聖ローマ帝国
は
大空位時
代
に突入。強力な君主国を形成することはできませんでした。
各地で君主国が領域内の支配を強めていったのに対し,ローマ教皇〈インノケンティウス3世〉は教会の権威を高め,信仰生活の共通規範を定めるなどして対抗します。1209年にはフランチェスコ修道会,1215年にドミニコ修道会を認め,多くの修道士が都市で
13世紀には,新しい教皇が選出されるまで枢機卿が外部にに出られないとい
う
コンクラーヴ
ェ
という制度が初められます。
14世紀初めには,フランス人司教が教皇となり,フランスの王権を後ろ盾にして,教皇を中心とする集権化,軍事改革,徴税制度の整備をおこないました。この改革は南フランスのアヴィニョンで行われ,教皇庁もアヴィニョンに移動されました。アヴィニョン教皇庁の期間は
"
教皇のバビロン捕
囚
"といわれますが,実際には教皇庁の意向によるものでした。
なお,ロシアはモンゴル人の支配を受けていましたが,そのうちノヴゴロド公の〈アレクサンドル=ネフスキー〉(1220?~1263)は貢納によって服属を回避し,スウェーデン,リトアニア,ドイツ騎士団と戦って独立を守っています。彼はモンゴル人とも提携しつつ敵対勢力を抑え,権力を強化しました。
◆
ペストの大流行後,世界各地で再び成長期が始まり,ユーラシア大陸東西を結ぶ海域
に"
大交易時
代"
が展開する
"14世紀の危機"を経て,世界各地で交易ネットワークが再び活性化します。
モンゴル帝国の海上進出の刺激を受け,バルト海・北海~地中海・紅海・ペルシア湾~インド洋~東シナ海・南シナ海など東南アジアの海域に連なるユーラシア大陸南縁は,1400年頃から1570年〜1630年代をピークとする空前の海上交易ブームである
"
大交易時
代
"を迎えます。
ただ,この時期には内陸を押さえつつ,同時に沿海部の交易活動を支配できるほどの強力な国家はありません。内陸の国家が交易を制限しようとするの対し,例えば東アジア近海で
は
●
中央アメリ
カ
で
は
アステカ帝
国
が
,
南アメリ
カ
のアンデス山脈地域で
は
インカ帝
国
(タワンティン=スーユ)が周辺に拡大し,交易ネットワークを支配しています。
●
中
国
では明(1368~1644)の〈鄭和〉(ていわ)が"西洋下り"(1405~1433)と呼ばれる南海大遠征を実行し,東シナ海・南シナ海・ベンガル湾・アラビア海・アフリカ東岸に至るまでの交易ネットワークを活性化させています
【セA H30大西洋には行っていない】
。
●
南アジ
ア
では,1336年に南インド
で
ヴィジャヤナガル王
国
が建てられ,特産の米と綿布を西方に輸出し軍馬
【本試験H31ウマを輸出していたわけではない】
を輸入し,1347年に南インドで成立し
た
バフマニー王
国
と覇権を争っています。
●
西アジ
ア
ではアナトリア半島からおこったテュルク系
の
オスマン帝
国
が,黒死病の流行の去った後のバルカン半島に進出し,1453年にはビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを陥落させています。次の時代
(⇒1500~1650の西アジア)
には地中海周辺に拡大し,イタリア諸都市と地中海交易をめぐり対決し
(⇒1500~1650のヨーロッパ)
,インド洋交易ネットワークにも参入するようになっていきます
(紅海を通してインド洋交易の拠点となっていたエジプトのマムルーク朝のカイロは,14世紀中頃の黒死病で壊滅的な被害を受けていました)
。
●
西アフリ
カ
では
,
マリ帝
国
【本試験H8】
がニジェール川流域を拠点に拡大し,中央アフリカの熱帯雨林地域や北アフリカの沙漠地帯との交易ネットワークを支配しています。1352~1354年には旅行家〈イブン=バットゥータ〉もマリ帝国に滞在しています。
●
ヨーロッ
パ
では14世紀中頃
の
黒死病の流
行
により,農民の耕作地放棄→廃村の増加→都市への貧民の流入→都市内の対立の激化という展開が生じ,農村で
は
土地領主
制
が崩れ,自治都市の中でも社会不安が高まります。都市内では下層民による抵抗運動(1378年)や,ユダヤ人に対する迫害(後述)が起きています。
流行が収束すると人口は回復していきますが,経営を立て直そうとした領主に対す
る
農民反
乱
も起こります。領主は反乱の鎮圧とともに,地代の金納や耕作地を拡大をすすめ,中央ヨーロッパ・東ヨーロッパ(特にポーランドとプロイセン)では輸出向け作物を栽培させるために農奴制が導入されました。
各地わずかな資源をめぐり争いが頻発し
(
注
2
)
,中小の国家が王朝の結びつきや宗派に基づき同盟・対抗関係を結びながら,財政を充実させるために商業活動にも積極的に関与していきます。
例えば
,
イングランド王
国
と
フランス王
国
は毛織物
【本試験H2綿工業ではない,本試験H9綿織物ではない】
工業の先進地域であ
る
フランドル地
方
【本試験H2】
をめぐり争い
,
百年戦
争
に発展しました(イングランドの〈エドワード3世〉は1340年にフランス王に即位することを宣言)。
一方
,
神聖ローマ帝
国
の〈カール4世〉は宮廷をベーメンのプラハ(現在のチェコ)に移し,ボヘミア王とハンガリー王も兼任します。12世紀以降
,
ドイツ人の東方植
民
【H30共通テスト試行 人の移動方向を問う(ヨーロッパから西アジアへの移動ではない)】
がすすみ,ドイツ人居住地域が東に移動していった結果です。一方,帝国内部の諸侯たちは与えられた封土や官職を私物化し,戦争・相続・購入により領土を増やして地域的な"君主国"
(
領邦国
家
)を形成していきました。彼らは国王から司法権や貨幣をつくる権利を奪い,王位や領地を世襲していったので,神聖ローマ帝国の"分裂"がすすんでいきました。なお,この地域のユダヤ人は黒死病の流行時に激しい迫害を受け(混乱の中「井戸に毒を入れた」などの疑いをかけられたのです),居住区や服装が指定されたり,東ヨーロッパへの移住がすすんだりしていきました(東ヨーロッパに移住したユダヤ人
を
アシュケナジ
ム
といいます)。特
に
ポーランド王
国
は多くのユダヤ人を受け入れ,国力を高めました。〈カジェミシュ3世〉はクラフク大学の創建を教皇により許可され(1364),成文法典も編纂させました。
また,13世紀に新たなアルプス超えルートであるザンクト=ゴットハルト峠が開通して,ヨーロッパの南北交易ルートの重要地点となったスイスでは,ウーリ州
【追H20】
の諸侯が神聖ローマ帝国の介入に対抗し,他2州とともに1291年
に
スイス誓約同
盟
(スイス)
【追H20スイスが,神聖ローマ帝国から独立したか問う。時期(ウィーン体制下ではない)】
を建設しました。これが現在のスイスの原点です。誓約同盟はハプスブルク家,ブルゴーニュ家と対抗する中で優れた軍事力を発揮し,フランスやローマ教皇庁
の
傭
兵
としても活躍しました。
この時期には,従来は「辺境」とみなされていた地域の開発も進み,タラのような魚が増加する人口向けの重要なタンパク源として注目されました。
北ヨーロッ
パ
はバルト海を中心とする商業圏を充実させ,デンマーク王国の〈マルグレーテ〉女王を中心に1397年にノルウェー王国,スウェーデン王国
は
カルマル同
盟
【追H19】
【立教文H28記】
を結成して,バルト海東部方面から進出するドイツ人商人に対抗しています。北ヨーロッパの商業圏は,内陸の商業圏と結びついて,地中海の商業圏とつながっていました。
地中海沿岸のイタリアの海洋国
家
ジェノヴァ共和
国
や
ヴェネツィア共和
国
【追H19】
は交易と金融業で栄えますが,オスマン帝国の進出を受け,西アフリカの
ローマ=カトリック
の
教皇
庁
は1378~1417年の間,
"
大シス
マ
"といわれる分裂を経験しましたが
,
公会
議
によって解決されました。しかし,都市経済の発達を背景として,従来の教義に対する批判的な思想も芽生えていきました。イングランドの〈ウィクリフ〉の「聖書を大切にしよう」という主張の影響を受けたベーメンの〈フス〉によるローマ教皇庁批判は,ベーメンのスラヴ系住民の独立運動を押さえようとするドイツ諸侯軍による軍事介入
(
フス戦
争
【追H26ポーランドではない】
)に発展しましたが,ベーメン側が新兵器であ
る
マスケット
銃
と走行荷車(移動可能)を使用したため,1436年にはフス派の穏健グループと教皇との和解に終わっています。農民ですら扱えるマスケット銃の登場は,従来型
の
騎
兵
を投入した戦法を無効にするほどの威力であり,その後の騎士の没落
【本試験H2】
や戦術の変革に向かうことになります
(
軍事革
命
)。16世紀からは稜堡式城郭のように突き出た稜堡(りょうほ)を持つ城壁がさかんに建設されるようになりました
【東京H14[3]その背景を答える「火器」】
。
イスラーム政権と長年にわたり対決していたイベリア半島の諸王国のうち
,
ポルトガル王
国
はすでに1340年代には北大西洋のアフリカ西岸近く
の
カナリア諸
島
に進出していました。大西洋における漁業の発展や西アフリカの金の直接取引への欲求が背景となり,15世紀半ばに東方の造船技術を参考にし
て
カラベル
船
【本試験H6図版(三段櫂船とのひっかけ)】
を開発し,1482年に西アフリカに拠点を設けます。さらにのちにスペイン王国に発展す
る
カスティリャ王
国
は15世紀にカナリア諸島に進出。カナリア諸島から北方に向かい,偏西風に乗ってヨーロッパに向かって帰るルートの途中にあっ
た
マデイラ諸
島
では,1450年代からアフリカから輸送した奴隷を用いたサトウキビ
【本試験H11アメリカ大陸原産ではない】
の
プランテーショ
ン
を開始します。プランテーションとは,大土地で大量に一種類の売れる作物(商品作物)を栽培し,工場のように収穫・加工して輸出する方式の栽培法のことで,のちカナリア諸島でも実施され,南北アメリカ大陸にも拡大していくことになります。
なお
,
ロシ
ア
では1480年に
〈
イヴァン3
世
〉
【本試験H31「ツァーリ(皇帝)の称号を用いた」か問う】
がキプチャク=ハン国からの自立を達成し,いわゆる"タタールのくびき"(モンゴル人による支配)から脱しています。
◆
南北アメリカ大陸の文明は,ユーラシア大陸とは異なる歩みをたどっている
この時期の南北アメリカ大陸は,15世紀末に至るまで,アフリカ大陸・ユーラシア大陸との交流はありません。
(注1)「アフリカ大陸を含むユーラシア大陸」とあるように,このネットワークにはオセアニアの大部分や南北アメリカ大陸は含まれていないことに注意しましょう。
(注2)ヨーロッパは現・中華人民共和国の面積と比べると,視覚的にこのくらいのサイズしかありません(参照:Website "
The True Size of...
" https://thetruesize.com/#?borders=1~!MTcxNzcxOTE.NDEzMDEwMw*MzYwMDAwMDA(MA~!CN*NzE0NzYzNA.MTM3MzI5OTQ)Mw)。
○120
0
年
~
150
0
年のアメリカ 北アメリカ
イギリスの
〈
ヘンリ7
世
〉(位1485〜1509)の命で,
〈
ジョ
ン=
カボッ
ト
〉(〈ジョヴァンニ=カボート〉,1450?~1499?)が,〈息子〉とともに1497年
に
ニューファンドラン
ド
に到達し,そこにヴェネツィアとイギリスの国旗を立てました。
沖合に漁場が広がっていることも発見。ここにはヨーロッパ各国から漁船が訪れ,ヨーロッパ市場向け
に
タ
ラ
漁がブームとなります。
タラは船の中で塩漬けにされるか,沿岸で天日干しにして,ヨーロッパ市場に運ばれました。
なお〈カボット〉
は
セントローレンス
湾
にも到達しています。
北アメリカ東部ではマウンド(埋葬塚)を建設する文化
(
マウンド文
化
)が栄えます。中心の一つであ
る
カホキ
ア
には,首長層が巨大
な
マウン
ド
を建設していました(◆世界文化遺産「カホキア墳丘群州立史跡」,1982)。
13世紀初めの地震や気候変動の影響もあり,1350年には滅んでいます
。
○120
0
年
~
150
0
年の中央アメリカ
中央アメリ
カ
...現在の①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ
◆
マヤ文明の中心はマヤ低地北部に移っている
中央アメリカのマヤ地方北部の低地部
(
マヤ低
地
)では,12世紀頃から15世紀中頃ま
で
マヤパ
ン
が
チチエ
ン=
イツァ
ー
に代わって主導権を握りました。マヤパン衰退後のマヤ地域には,有力な勢力は現れず,多数の都市が交易ネットワークを形成して栄えました。
◆
メキシコ高原南部のオアハカ盆地にはミシュテカ人の都市文明が栄える
メキシコ高原南部のオアハカ盆地に
は
ミシュテカ
人
の都市文明が栄えています。
◆
メキシコ高原中央部ではトゥーラに代わり,アステカ人が征服活動を広げる
アステカ人がメキシコ高原の広域を支配する
北アメリカ
の
メキシコ高原中央
部
は,テスココ湖の北西
の
トゥー
ラ
などの諸都市が栄えます。
トゥーラは1150~1200年に衰退。
テスココ湖周辺には,シャルトカン,テスココ,テナユカ,アスカポツァルコ,クルワカン,シコなどの新興国家のほか,ウエショツィンコ,トラスカラ,センポアラなどの以前からの国家などが並び立つ状況でした。
トゥーラの繁栄の後,14世紀後半にメキシコ高原中央部に進出したのは狩猟による遊動生活を送ってい
た
ナワトル
語
系
チチメカ
人
の一派です。
彼らはその現住地とされる「アストラン」から,のち
に
アステカ
人
【追H26地図上の位置を問う】
【本試験H30】
と呼ばれるようになりますが,自称
は
メシー
カ
(メキシコの語源)です
(注
1)
。彼らの国は一般に「アステカ王国」と呼ばれます。
アステカ〔メシーカ〕人は,先住のティオティワカンの都市をみて,これを崇めたてまつって「「神々の都市」(テオティワカン)と命名。そして,テスココ湖の無人島に定住
し
テノチティトラ
ン
【追H24ポルトガルの海外拠点ではない,H28アステカ王国の首都か問う】
【本試験H11インカ帝国の中心地ではない】
【本試験H21,本試験H25,本試験H30】
(「サボテンの実る地」という意味)を建設。現在のメキシコシティ
【本試験H25】
は,このテノチティトランに築かれた都市です。
アステカ〔メシーカ〕人は近隣の都市国家のうち1428年
に
テスコ
コ
と
トラコパ
ン
という都市と同盟し(三都市同盟),周辺諸民族を征服し,貢納を徴収しました。征服活動は〈イツコアトル〉(位1427~40),〈モクテスマ1世〉(1440~1468),〈アシャヤカトル〉(位1469~1481),〈アウィツォトル〉(位1486~1502),〈モクテスマ2世〉(1502~1520)と,間断なく続きます。
〈アウィツォトル〉王の治世には,マヤ高地に近い太平洋岸のソコヌスコ王国(現在のメキシコのチアパス州)をも征服しますが,西方
の
タラスコ王
国
や,テスココ湖東方のライバル
トラスカラ王
国
(注
2)
を滅ぼすことはできませんでした。
つまり,アステカ王国は「メキシコ全土を支配していた」わけではなく,あくまでテスココ湖周辺を中心に,周辺の勢力を従属させていたに過ぎないのです。
(注1)篠原説では「アステカ」は18世紀末までほとんど使用されず「アストラン人」に限定された呼称でした。王国の自称は「メシーカ」ですが,メキシコ全土を指すわけではなく,テノチティトラン(メシコとも呼ばれます),テスココ,トラコパンの三都市同盟の支配領域を指しました。篠原愛人監修『ラテンアメリカの歴史―史料から読み解く植民地時代』世界思想社,2005,p.44。
(注2)のちにスペイン人〈コルテス〉の軍は,トラスカラ王国と同盟してアステカ王国を滅ぼすことになります。
メシーカ〔アステカ〕人の経済的基盤は農耕です。
2100mの高山の気候に対応するため,湖に浮き島
(
チナン
パ
)をつくることで農地を増やし,その上でトウモロコシ(アメリカ大陸原産
【本試験H11】
),トマト,カボチャ,豆などが栽培されます。家畜はイヌと七面鳥です。征服だけではなく,専門の商人によりヒスイやジャガーの皮,穀物
や
カカ
オ
などの交易も,メキシコ高原周辺の社会との間でさかんにおこなわれています。少ない資源をめぐって恒常的に戦争が起き
,
戦
士
が重用される好戦的な社会でした。
社会は階級によって複雑に分かれ,頂点に君臨していたのは国王です。軍事政権を正統化するために神殿で民族神のウィツィロポチトリに多くの
アステカ王国の支配域の人口は最大1100万人を数えます。
彼らはアステカ文字を残しましたが,情報の多くがのちに進入す
る
スペイン
人
により破壊されたため,現代に残る情報の多くがスペイン人修道士らの記録を通じたものです。
○120
0
年
~
150
0
年のカリブ海
カリブ
海
...現在の①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島
カリブ人が,アラワク人の居住地に進出する
カリブ海の島々には漁労採集・ヤムイモ,マメ,トウモロコシ,カボチャ,タバコの栽培に従事す
る
アラワク語
族
の
アラワク
人
が分布していました。各地で首長(
「
カシー
ケ
」と呼ばれます)によって政治的な統合が進んでいました。
しかし,13世紀に入ると,南アメリカ北東部に住んでい
た
カリブ語
族
の
カリブ
人
が,カリブ海の東端に点々と連な
る
小アンティル諸
島
に北上を開始。
男性は狩猟・漁労,女性は農耕に従事し,大型
の
カヌ
ー
で大アンティル諸島のアラワク人を攻撃し,アラワク人の居住地は狭まっていきます。
15世紀末にカリブ海に到達したヨーロッパの人々により,「カリブ人は人肉を食べる」という噂が広まり,
「
カニバリズ
ム
(食人)」という言葉も生まれました。
◆
〈
コロ
ン
〉(コロンブス
)
がカリブ海の「
西"
イン
ド"
諸島」に到達する
アラワク人がジェノヴァ人の〈コロン〉と接触する
1492年
【セ試行 ポルトガル船がインドに到達する前か問う】
にジェノヴァ
【上智法(法律)他H30】
の船乗り出身の
〈
コロ
ン
〉(コロンブス)
【上智法(法律)他H30】
が,スペイン王〈イサベル〉
【上智法(法律)他H30ジョアン2世ではない】
の支援を受けカリブ海に到達しました。
現在のバハマにある島
を
サ
ン=
サルバドル
島
【追H27クックではない】
と命名し
,
キューバ
島
,
イスパニョーラ
島
(現在のハイチ(ハイティ)とドミニカ共和国)を探検しました(第一回航海,1492~93)。
イスパニョーラ島のサント=ドミンゴ(現
⑤
ドミニカ共和
国
の首都)には植民拠点が建設され,スペイン風の低層(ハリケーン対策のため)の石造建築物が建てられました(◆世界文化遺産「植民都市サント=ドミンゴ」,1990)。
第二回航海(1493~1496)では,イスパニョーラ島の先住民(アラワク系
の
タイノ
人
)を虐殺する事件を起こしています。
第三回航海(1498~1500)では南アメリカ大陸のオリノコ川河口(現在のベネズエラ)に到達し,イスパニョーラ島に北上しました。〈コロン〉は先住民を奴隷としてスペインに連行しています。また,カリブ海の島々に入植した白人の行為は,大変残虐なものであったと記録されています。
入植者と〈コロン〉との間には対立も生まれ,先住民の抵抗もあって植民地経営は成功しませんでした。〈コロン〉は死ぬまで,自分の到達したのは"アジア"だと主張していました
【セ試行 西インド諸島ではポルトガルによる経営はおこなわれていない】
。
(
参
考)
〈コロン〉〔コロンブス〕の4度の航海
①
第一回航海
149
2
年8月
~
149
3
年3月:バハ
マ→
キュー
バ→
イスパニョーラ島
②
第二回航海
149
3
年9月
~
149
6
年6月:サン
ト=
ドミンゴの建
設
③
第三回航海
149
6
年5月
~
150
0年
1
0
月
④
第四回航海
150
2
年5月
~
150
4年
1
1
月
・
120
0
年
~
150
0
年のアメリカ カリブ海
現①
キューバ
キューバのアラワク
系
タイノ
人
は,首長(「カシーケ」といいます)により地域ごとに統合されていました。
▼1492年に第一回航海をおこなっていた〈コロン〉〔コロンブス〕に「発見」されます。
・
120
0
年
~
150
0
年のアメリカ カリブ海
現②
ジャマイカ
ジャマイカのアラワク
系
タイノ
人
は,首長(「カシーケ」といいます)により地域ごとに統合されていました。
☆1494年に第二回航海をおこなっていた〈コロン〉〔コロンブス〕に「発見」されます。
・
120
0
年
~
150
0
年のアメリカ カリブ海
現③
バハマ
バハマのアラワク
系
タイノ
人
は,首長(「カシーケ」といいます)により地域ごとに統合されていました。
☆1492年に第一回航海をおこなっていた〈コロン〉〔コロンブス〕に「発見」されました。彼の初上陸の地
は
サ
ン=
サルバドル
島
ではないかといわれています。
・
120
0
年
~
150
0
年のアメリカ カリブ海
現④
ハイチ
,⑤
ドミニカ共和国
④ハイチと⑤ドミニカ共和国のあるイスパニョーラ島ののアラワク
系
タイノ
人
は,首長(「カシーケ」といいます)により地域ごとに統合されていました。
☆1492年に第一回航海をおこなっていた〈コロン〉〔コロンブス〕に「発見」されます。
・
120
0
年
~
150
0
年のアメリカ カリブ海
現⑥
アメリカ領プエルトリコ
プエルトリコのアラワク
系
タイノ
人
は,首長(「カシーケ」といいます)により地域ごとに統合されていました。
☆1493年に第二回航海をおこなっていた〈コロン〉〔コロンブス〕に「発見」されます。
・
120
0
年
~
150
0
年のアメリカ カリブ海
現⑥
アメリカ領プエルトリコ
プエルトリコのアラワク
系
タイノ
人
は,首長(「カシーケ」といいます)により地域ごとに統合されていました。
☆1493年に第二回航海をおこなっていた〈コロン〉〔コロンブス〕に「発見」されます。
・
120
0
年
~
150
0
年のアメリカ カリブ海
現
⑥
アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島
アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島は1493年の第二回航海で〈コロン〉に「発見」されます。
・
120
0
年
~
150
0
年のアメリカ カリブ海
現⑥
アメリカ領プエルトリコ
プエルトリコのアラワク
系
タイノ
人
は,首長(「カシーケ」といいます)により地域ごとに統合されていました。
☆1493年に第二回航海をおこなっていた〈コロン〉〔コロンブス〕に「発見」されます。
・
120
0
年
~
150
0
年のアメリカ カリブ海
現⑧
アンティグ
ア=
バーブーダ
アンティグア=バーブーダには,もともと14世紀まで
は
アラワク
人
が居住していました。しかし,1200年以降,南アメリカのオリノコ川流域から北上してき
た
カリブ
人
がとって代わります。
☆1493年に第二回航海をおこなっていた〈コロン〉〔コロンブス〕に「発見」され,島は「聖ウルスラと11000人の処女」(キリスト教の聖女の伝説に基づき)と命名されました。
・
120
0
年
~
150
0
年のアメリカ カリブ海
現⑨
イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島
☆モントセラトは,1493年に第二回航海をおこなっていた〈コロン〉〔コロンブス〕に「発見」されます。「モントセラト」という名称はスペインのカタルーニャ地方にあるモンセラート修道院に由来します。
☆グアドループ島は,1493年に第二回航海をおこなっていた〈コロン〉〔コロンブス〕に「発見」されます。「グアドループ」という名称は,カスティーリャ王国の「グアダルーペの聖母」に由来しています。〈コロンブス〉は航海の後,聖母の彫像のある修道院に巡礼しています。
・
120
0
年
~
150
0
年のアメリカ カリブ海
現⑩
ドミニカ国
アンティグア=バーブーダには,もともと14世紀まで
は
アラワク
人
が居住していました。しかし,1200年以降,南アメリカのオリノコ川流域から北上してき
た
カリブ
人
がとって代わります。
☆1493年に第二回航海をおこなっていた〈コロン〉〔コロンブス〕に「発見」されました。
・
120
0
年
~
150
0
年のアメリカ カリブ海
現⑪
フランス領マルティニーク島
アンティグア=バーブーダには,もともと14世紀まで
は
アラワク
人
が居住していました。しかし,1200年以降,南アメリカのオリノコ川流域から北上してき
た
カリブ
人
にとって代わります。
・
120
0
年
~
150
0
年のアメリカ カリブ海
現⑫
セントルシア
アンティグア=バーブーダには,もともと14世紀まで
は
アラワク
人
が居住していました。しかし,1200年以降,南アメリカのオリノコ川流域から北上してき
た
カリブ
人
にとって代わります。
・
120
0
年
~
150
0
年のアメリカ カリブ海
現⑬
セントビンセント及びグレナディーン諸島
アンティグア=バーブーダには,もともと14世紀まで
は
アラワク
人
が居住していました。しかし,1200年以降,南アメリカのオリノコ川流域から北上してき
た
カリブ
人
にとって代わります。
★1498年,〈コロン〉の第三回航海で「発見」されています。
・
120
0
年
~
150
0
年のアメリカ カリブ海
現⑭
バルバドス
アンティグア=バーブーダには,もともと14世紀まで
は
アラワク
人
が居住していました。しかし,1200年以降,南アメリカのオリノコ川流域から北上してき
た
カリブ
人
にとって代わります。
・
120
0
年
~
150
0
年のアメリカ カリブ海
現⑮
グレナダ
アンティグア=バーブーダには,もともと14世紀まで
は
アラワク
人
が居住していました。しかし,1200年以降,南アメリカのオリノコ川流域から北上してき
た
カリブ
人
にとって代わります。
★1498年,〈コロン〉の第三回航海で「発見」されています。
・
120
0
年
~
150
0
年のアメリカ カリブ海
現⑯
トリニダー
ド=
トバゴ
アンティグア=バーブーダには,もともと14世紀まで
は
アラワク
人
が居住していました。しかし,1200年以降,南アメリカのオリノコ川流域から北上してき
た
カリブ
人
にとって代わります。
★1498年,〈コロン〉の第三回航海で「発見」されています。
・
120
0
年
~
150
0
年のアメリカ カリブ海
現⑰
オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島
ボネール島,キュラソー島,
の
アラワク語
族
のカケティオス人は,もともと南アメリカのベネズエラに居住していましたが,カリブ人の進出から逃れてこの島々にやってきた人々です。
これらの島々の人々は,1499年にフィレンツェ生まれの〈アメリゴ=ヴェスプッチ〉(1454~1512)らの上陸に遭遇しています。
○120
0
年
~
150
0
年のアメリカ 南アメリカ
地方王国期からインカ帝国の拡大へ
南アメリ
カ
...現在の①ブラジル,②パラグアイ,③ウルグアイ,④アルゼンチン,⑤チリ,⑥ボリビア,⑦ペルー,⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネズエラ,⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ
◆
チムー王国などのアンデス地方の伝統を継承し,インカ帝国が広域支配を実現する
アンデス地方が広範囲にわたって統合される
アンデス地方の北部で
は
シカン文
化
が栄えていましたが,1375年頃
の
チムー王
国
に征服されました。王宮や王墓はチャン=チャンに置かれ,先行するワリ文化を継承し行政・流通などに関わる空間が都市に作られました。
王が代わるたびに王宮が更新されたし,食糧を集めて再分配するための倉庫が整備され,優れた金属工芸がつくられたことは,のちのインカ帝国にも継承される要素となっています
(注
)
。
(注)関雄二「アンデス文明概説」,増田義郎,島田泉,ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS,2000,p.176。
しかし一方,アンデス地方の中央部では
,
クス
コ
周辺に分布してい
た
インカ
人
が1438年頃から〈パチャクテク〉王(位1438~1463)により,北は赤道付近,南は地理の中部までの広大な領域に活動範囲を広げ
,
クス
コ
【本試験H11テノチティトランではない】
【本試験H24ポトシではない,H29ポトシではない】
に首都を整備しました(◆世界文化遺産「クスコの市街」,1983)。
1470年代か
ら
チムー王
国
を攻撃して,支配下に加えました。インカ人はこの領域を4つにわけ
,
タワンティ
ン=
スー
ユ
(4つの地方)と呼びました。これがいわゆ
る
インカ帝
国
【追H26地図上の位置を問う】
です。のちにスペイン人は
,
皇帝
が"
太陽の
子
"
【追H26王が太陽の子(化身)として崇拝されたか問う】
【本試験H11:太陽神ラーは崇拝されていない。王が「太陽の子として崇拝され」ていたか問う】
【本試験H31皇帝が太陽の化身(太陽の子)とされたか問う】
として強力な権力でアンデス地方を支配していたと報告したため,「ローマ帝国」のような確固たる領域を持つ国のようなイメージがつくられていきました。
しかし実際には,そびえ立つアンデスの山々のすべての地域をくまなく支配することは難しく,インカ人の王は各地の首長にさまざまな方法で自らの権威を認めさせようとしていたのです
(注
)
。
冬至に行なわれる太陽の祭り(インティライミ)は国王の権力を国民に見せ付ける上で,特に重要で盛大な儀式でした
【本試験H11亀甲や獣骨を焼いて,そのひび割れによって神意を占ったわけではない】
。
(注)インカ帝国領内の各地にはクラカ(首長)層による支配が続いていました。「クラカ(首長)層の権威は,アイユ(共同体)民にどれだけ大盤振る舞いできるかにかかっており,それをもっとも実現し得たインカ王が互酬関係の頂点にたって周辺諸国を統合した」のです(金井雄一他編『世界経済の歴史―グローバル経済史入門』名古屋大学出版会,2010年),p.54。網野徹哉『インカとスペイン帝国の交錯』講談社,2008年も参照)。
人口調査も巡察使に行わせ,それにもとづき徴税し,記録はアルパカやラマの毛から作った縄の結び目で数量を表
す
キー
プ
(
結
縄
)
【東京H12[2]】
【本試験H11象形文字ではない】
【追H24】
【本試験H18,本試験H21ユカタン半島のマヤ文明ではない,H29共通テスト試行,本試験H30】
【中央文H27記】
でおこないました。労働による徴税(労務のことをミタといいます)もあり,神殿建設や農作業に従事させました。
そのために張り巡らせたのが,南北にのびる
「
インカ
道
」(四大街道(カパック=ニャン))の整備です。駅舎や倉庫をもち
,
駅
伝
方式で情報や貢納品を飛脚(チャスキ)
【東京H12[2]】
に伝達させたのです。インカの首都には巨大な倉庫があり,貢納品が各地から大量に輸送されました。インカ人の支配層はこのような方法で1000万人を超えたといわれる領域内の人々を把握しようとしたのです。
1911年に考古学者〈ハイラム=ビンガム〉(映画「インディ=ジョーンズ」のモデルと言われます)によって発見された,標高2400mの"空中"都
市
マチ
ュ=
ピチ
ュ
【本試験H17,本試験H28】
(◆世界複合遺産「マチュ=ピチュ」,1983)に見られるように,すき間なく石を積み上げる高度な石造技術も特徴的です。マチュ=ピチュは貴族のリゾート地とも,避難所ともいわれています。ちなみに,標高3400mの首
都
クス
コ
【本試験H11テノチティトランではない】
【本試験H19マヤ文明ではない】
にあっ
た
太陽神
殿
は,スペイン人による破壊により現存しません。
なお,彼らの言語はルナ=シミ語といい,スペイン人はそれ
を
ケチュア
語
と呼びました。現在のペルーの第二公用語となっています。
現在
の
ベネズエ
ラ
のカリブ海沿岸に,1498年に
〈
コロ
ン
〉〔コロンブス〕が上陸。この第三回航海で,彼はベネズエラの豊富
な
真
珠
を発見します。〈マルコ=ポーロ〉の『世界の記述』を通したインドか日本に真珠があるという情報から,〈コロン〉は「インドに到達したのだ」という確信を深めます。
(注)山田篤美『真珠の世界史』中公新書,2013,p.79。
○120
0
年
~
150
0
年のオセアニア メラネシア
メラネシ
ア
...①フィジー,②フランス領のニューカレドニア,③バヌアツ,④ソロモン諸島,⑤パプアニューギニア
ヨーロッパ人の到達以前のメラネシアについては記録がほとんどなく,未解明の部分が多く残されています。
現
①
フィジ
ー
は,地理的にはメラネシアに分類されますが,古くからポリネシア文化との交流があり,メラネシアとポリネシアの"交差点"としての役割を果たしています。
この地域に
は
オーストロネシア諸
語
を話す人々が分布しています
(注
)
。
(注)オーストロネシア諸語とは,今から5000年ほど前に台湾で話されていた「オーストロネシア祖語」のことをいいます。「オーストロネシアン――言葉で結ばれた人びと――」菊澤律子研究室,国立民族学博物館(http://www.r.minpaku.ac.jp/ritsuko/japanese/essays/languages/austronesia_people.html)
○120
0
年
~
150
0
年のオセアニア ミクロネシア
ミクロネシ
ア
...①マーシャル諸島,②キリバス,③ナウル,④ミクロネシア連邦,⑤パラオ,⑥アメリカ合衆国領の北マリアナ諸島・グアム
ヨーロッパ人の到達以前のミクロネシアについては記録がほとんどなく,未解明の部分が多く残されています。
この地域に
は
オーストロネシア諸
語
を話す人々が分布しています。
◆
モンゴル人は,ユーラシア大陸の定住農牧民のネットワークを統合する
ホラズムが滅び,モンゴルの時代が到来した
ウイグ
ル
が
キルギ
ズ
により840年に崩壊してからというもの,モンゴル高原には統一政権が存在しませんでした。契丹や金が,遊牧民がまとまり強力な政権が生まれないように画策していたためです。
モンゴル
人
の拠点は,黒竜江(アムール川)上流のオノン川。12世紀後半の時点では,周囲
の
ケレイト
部
(モンゴル高原中央部)や
,
ナイマン
部
(モンゴル高原西部)にくらべて弱小勢力でした。
そこに現れたのが
〈
テムジ
ン
〉
【立教文H28記】
という男です。彼は有力氏族のボルジギン氏に属し,父
は
タタル
部
(モンゴル高原東部)に毒殺されました。
彼は1200年~1202年にかけてモンゴル部族とタタル部族のリーダーとなり,1203年に
は
ケレイト
部
を倒しました。さらに
,
ナイマン
部
を中心とする連合軍を破って,1206年
に
クリルタ
イ
【東京H18[3]】
【本試験H3】
【本試験H26三部会ではない】
【追H21】
【立教文H28記】
と呼ばれた会議で
〈
チンギ
ス=
ハ
ン
(カン)〉
(位1206~27)
【追H27モンゴル帝国を建てたか問う】
【本試験H4】
【H29共通テスト試行 系図】
と名乗ることを認められ,モンゴル高原を統一しました。
遊牧民が,ほかの部族を支配下に入れたり連合したりしてつくる
「
遊牧国
家
」は,〈チンギス=ハン〉以前にも存在し
,
匈
奴
による遊牧国家以来の伝統がありました。しかし,今までの遊牧国家と異なるのは,部族が連合して政治をおこなうのではなく,権力を〈チンギス=ハン〉とその家系に集めた点にあります。
彼
は
千戸
制
(せんこせい,千人隊)を整備し,西への遠征を開始しました。千戸制とは,支配下の全遊牧民を1000家族にわけて,そこから1000人の兵士を出させて,千人隊を組織させたものです。普段の生活と戦争のときの集団の単位を同じにすることで,機動力を高めたのです。千人隊の隊長の子弟には,〈チンギス=ハン〉のもとで生活を送らせ,絆や連帯感をはぐくませました。
華北へのモンゴルの進出は1210年代には始まっていました。とき同じくして黄河の大氾濫が起き,混乱に拍車がかかります。
〈チンギス=ハン〉は巨大な部隊を引き連れ,すで
に
西
遼
(
カラキタ
イ
)
【本試験H23,本試験H27】
を滅ぼしてい
た
ナイマン
部
(10世紀~1204)
【本試験H23ウイグルではない】
,トルコ人奴隷(マムルーク)が建国しゴール朝を滅ぼしていたイラン
の
ホラズ
ム=
シャー
朝
(1077~1220)
【本試験H13滅ぼしたのはガザン=ハンではない,本試験H24,本試験H31チンギス=ハンが滅ぼしたか問う】
【追H20滅ぼしたのはセルジューク朝ではない,追H29滅ぼしたのはアルタン=ハンではない】
と大夏
(
西
夏
,1038~1227)を滅ぼしました
(
注
1
)
。ちなみにデリー=スルターン朝時代のインド西北部も進入を受けています。モンゴルは,ホラズムのような抵抗した支配者に対しては容赦ありませんでしたが,征服した土地の農民や商工業者は労働力として重視されましたから,支配者が従えば徹底的に滅ぼすということはしませんでした。
なお,タリム盆地
の
天山ウイグル王
国
の王は,〈チンギス=ハン〉の娘とと婚姻関係を持つことで服属し,〈チンギス=ハン〉の"5番目の子"という称号まで得ました。友好関係を樹立して命運を保ち,兵士・官僚としても大活躍しました。
〈チンギス=ハン〉は広大な領土を東西に二分し,3人の弟に軍民が与えられ
「
東
方三王家」(左翼三ウルス)となりました。ウルスというのは「土地+人々」を合わせた呼び方で「
また,西方には長男から三男に軍民が与えられ,
「
西
方三王家」(右翼三ウルス)となります。このうちロシア方面に置かれたのは長男の
〈
ジョ
チ
〉(ジュチ)で,のち
に
キプチャ
ク=
ハン
国
(ジョチ=ウルス)
【京都H19[2],H22[2]】
と呼ばれることになります。
中央アジアには〈チャガタイ〉(チャーダイ)と〈オゴタイ〉(オゴデイ)が配置され,末子〈トゥルイ〉はモンゴル高原に置かれます
(
(注1) 末期の大夏(西夏)は初めモンゴルと軍事同盟を結び金を攻撃し,のちに南宋とも連携して生き残りを図っていました。
(注2) 神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.83。
◆
オゴデイが大ハーンに即位し,首都を整備,駅伝制を施行した
オゴデイ,カラコルム建設,ジャムチ整備,
〈フビライ〉の後継者は,末子相続の風習にのっとれば〈トゥルイ〉ということになりますが,実際に継いだのは
〈
オゴデ
イ
〉(オゴタイ,位1229~41)
【本試験H2大都に都を置いていない】
【追H25モンケとのひっかけ】
でした。彼は,モンゴル高原
に
カラコル
ム
【京都H20[2]】
【本試験H2大都ではない,本試験H12匈奴が建設していない】
【本試験H19オゴデイのとき,本試験H18黄河上流ではない,本試験H28地図上の位置を問う】
【追H30建設者を問う】
【中央文H27記】
という新都を建設し,駅伝制
(
ジャム
チ
【京都H20[2]】【東京H6[1]指定語句,H15[3],H20[3],H27[1]指定語句】
)を
整備しました
【※東大の頻度高い】
。
通行手形(パイザ,牌符,牌子
【東京H20[3]】
)があれば領内を安全に通行することが可能でした。
1234年
に
女
真(
女
直)人
の
金
(きん,1115~1234)を滅ぼしました
【本試験H19】
【追H25モンケではない】
。また,「カン」に代わる
「
カア
ン
」
(
大ハー
ン
)という称号を初めて用いました(オゴデイ=ハーン)。これはかつてモンゴル高原を支配した柔然の王の称号
「
可
汗
(カガン)」がもとになっているといわれます。オゴタイ以降のモンゴルの指導者の称号は「カアン」です。
彼には契丹人の
〈
耶律楚
材
〉(やりつそざい)が仕えていたように,有能な人物であればモンゴル人以外でも重用したことが特徴です。実力があるならば,民族の違いなど関係ないというわけです。ここにモンゴル人の強さの秘密があります。
◆
モンゴル人は東ヨーロッパに進入し,ロシア人のキエフ大公国を支配した
さらに
〈
バト
ゥ
〉
(1207~55)
【本試験H11ガザン=ハンとのひっかけ,本試験H12フラグではない】
【本試験H31チンギス=ハンではない】
【追H25ロシア遠征したか問う】
が,ユーラシアの草原地帯を走破して東ヨーロッパに進出し,1241年
に
ワールシュタッ
ト
(ワールシュタット〔ヴァールシュタット〕とはドイツ語で死体の山という意味です
【セ試行 モンゴルは敗れていない】【本試験H3 時期(クビライの「即位後ただちに」ではない)】
【本試験H31チンギス=ハンによる戦闘ではない】
【追H24オスマン帝国がドイツ・ポーランド連合軍に勝利したものではない】
。
現在はポーランド領レグニツァなので
レグニツァ
(ドイツ語ではリーグニッツ)の戦いといいます
)
の戦
い
【本試験H14時期(ルブルックがカラコルムを訪れる以前かを問う)】
で神聖ローマ帝国
【本試験H31「ドイツ」】
・ポーランド
【本試験H31】
の連合軍を破ります
【本試験H5ヨーロッパに侵攻したモンゴル人の多くは,キリスト教徒となったわけではない】
。この遠征に従軍していたの〈モンケ〉は,次代のカアンに即位します。
また,その
〈
モン
ケ=
カア
ン
〉(位1251~59)
【京都H20[2]】
の命令で,弟の
〈
フレ
グ
〉(1218~65)
【本試験H21イスラームを国教化していない】
が1258年に西アジアのバグダードを陥落させ
,
アッバース
朝
のバグダード政権を滅ぼしました
【本試験H14時期(ルブルックがカラコルムを訪れる以前ではない)】
。このときにバグダードは
10
0
万
人
の人口を誇る都市でしたが,包囲戦によって数十万人以上の市民が犠牲になったといわれます。
◆
モンゴル人は,バグダードのアッバース朝を滅ぼしたが,マムルーク朝に撃退される。アッバース家のカリフはマムルーク朝の保護下に存続する
諸民族・宗教に寛容な政策で,広域の商業を促す
〈フレグ〉はその後,エジプトを拠点に1250年に建国されたマムルーク朝のスルターン
〈
バイバル
ス
〉率い
る
マムルーク
朝
(1250~1517)
【追H28モンゴル軍を撃退したのはセルジューク朝ではない】
とのパレスチナ北部でのアイン=ジャールートの戦い(1260) で敗れ,〈フラグ〉の与えられた領域はジョチ=ウルスと呼ばれ,イランとイラクの地域にまたがる政権となりました。この政権は
,
イ
ル=
ハン
国
とも呼ばれます
【追H27エジプトは征服していない】
【本試験H5,本試験H11地図:13世紀後半の領域を問う】
【本試験H21】
。首都はカスピ海南東の都市タブリーズです。
なお,最後のカリフ〈ムスタアスィム〉(位1242~58)は〈フレグ〉に処刑されましたが,父方の叔父がマムルーク朝の〈バイバルス〉の元に脱出し,〈ムスタンスィル2世〉としてカリフに即位しました。これ以降,カリフはマムルーク朝の保護下に置かれる形で存続します
【本試験H16「マムルーク朝の支配下,オスマン朝のカリフがここに擁立された」かを問う】
。したがって
,
アッバース朝はその後も存続し
た
とみることもできます。
しかしカリフは事実上マムルーク朝の傀儡(かいらい。操り人形のこと)となり,メッカ(マッカ),メディナ(マディーナ),イェルサレムの三大聖都を統治したマムルーク朝は,一挙にスンナ派のリーダー的国家となりました。1291年には,シリアにあった十字軍最後の拠
点
アッコ
ン
を滅ぼしています(◆世界文化遺産「アッコの旧市街」,2001。現在のイスラエル)。
◆
各地のウル
ス(
政
権)
がゆるやかに結びつき,ハーンの権威の下でまとまりを形成する
モンゴル帝国
は"
分
裂"
したわけではない
マムルーク朝を支配下におさめることには失敗したものの,こうしてユーラシア大陸のほとんどがモンゴルの支配下に入ることになり,広大な領域を包み込む交流圏が成立していきます。
中央ユーラシアには,〈チンギス=ハン〉が子どもである〈チャガタイ〉と〈オゴタイ〉に軍民を与えていました。土地と人々を合わせ
て
ウル
ス
とよびます。ウルスというのは,「国」とか「国民(くにたみ)」といった意味で,モンゴル人が,人を集団の単位として支配を考えていたことがわかる言葉です
(注
1)
。
このうち〈オゴタイ〉は自分の子どもたちにも軍民を与えたので,〈オゴタイ〉系の諸ウルスが立ち並ぶ状態となりました。ですから,かつて教科書に載っていたような「オゴタイ=ハン国」という国家が,ただ一つ存在していたわけではありません
(注
2)
。
〈グユク=ハーン〉以降は,モンゴル皇族の内輪もめもあって,各地に「ハン国」と呼ばれる以下の①~③の諸政権が成立していきます。
①先ほどの〈ジョチ=ウルス〉
(
キプチャ
ク=
ハン
国
,ロシア語のゾロタヤ=オルダ
(注
3)
を訳すと金帳汗国(黄金のオルド))(ジョチ=ウルス))→南ロシア
②〈フレグ=ウルス〉
(
イ
ル=
ハン
国
)→西アジア
③
〈
ハイド
ゥ
〉の政権→中央アジア
〈ハイドゥ〉は,〈オゴタイ〉の孫ですからオゴタイ=ハン国ともいえそうですが,〈ハイドゥ〉の政権にはオゴタイ家の一門以外にも,チャガタイ家の当主やその一門,さらに〈アリク=ブケ〉も参加していましたから,どちらかというと「〈フビライ〉(クビライ)に反対する勢力」の結集した政権といったほうが正確です
(注
2)
。ただし,反フビライ勢力といっても,〈ハイドゥ〉は〈フビライ〉のハーン位をねらっていたわけではありません。
のちに〈フビライ〉も〈ハイドゥ〉も亡くなると,1305年に大元ウルスの〈フビライ〉家の皇帝と〈ハイドゥ〉政権は和解。しかし,翌1306年にチャガタイ家の当主である〈ドワ〉が,〈ハイドゥ〉の跡継ぎ争いに首を突っ込み,これを乗っ取ります。こうして成立したの
が
チャガタ
イ=
ハン
国
【追H21時期、H25イル=ハーン国とのひっかけ】
です。ただ,チャガタイ=ハン国にはオゴタイの一門も含まれていますから,純粋にチャガタイ家の一門の政権というわけではありません。
こうし
て
モンゴル帝
国(
大モンゴル
国;
イェ
ケ=
モンゴ
ル=
ウル
ス
)
は,〈フビライ=ハーン〉
の
大元ウル
ス
が,①キプチャク=ハン国,②イル=ハン国,③チャガタイ=ハン国や,その他の諸勢力の秩序を維持する形となりました。たしかに,①がマムルーク朝
(〈バイバルス〉はキプチャク草原のポロヴェツ人の出身という共通項もあります)
に接近して,②と抗争したように,政権同士の対立関係はありました。チャガタイ=ハン国は〈フビライ=ハーン〉の皇帝位を認めており,決して"分裂"していたわけではありません。
また,政治的な区分が生じたとしても,経済的にはアフリカ大陸にも通じるユーラシア大陸(あわせて
,
アフ
ロ=
ユーラシ
ア
と呼びます)を陸海に結ぶ経済ネットワークは活発に動いていたのです。
モンゴル帝国は広大な領域を
,
モンゴル文
字
(パスパ文字
【追H19,H25突厥ではない】
またはウイグル式モンゴル文字)による定型文書によって統治しました。文書の授受にあたっては各地で翻訳文書が作成され,多言語によるコミュニケーションの必要から,対訳語彙集や世界初の外国語会話マニュアルも登場しています
(注
4)
。
(注1)モンゴル語で「国」に相当する「ウルス」,トルコ語の「イル」もしくは「エル」という言葉は,遊牧民に独特の集団概念で「人間集団」を原義とするため,土地や領域の側面での意味合いは薄いのです。杉山正明がいうように《固定された国家ではなく,人間のかたまりが移動すれば,「国(ウルス)」も移動してしまう類の国家》である(杉山正明『大モンゴルの時代』(世界の歴史9)中公文庫,2008年,p.86)。
(注2
)
赤坂恒明による解説を参照。『歴史と地理』「世界史の研究」第255号,2018。
(注3)杉山正明『クビライの挑戦―モンゴル海上帝国への道』朝日新聞社,1995,p.29。
(注4)堤一昭「モンゴル帝国と中国」,桃木至朗・秋田茂『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会,2013,p.50~p.52。
このうちイル=ハン国(フレグ=ウルス)は
,
ネストリウス派キリスト
教
を保護したほか,中国の絵画
【追H25】
が伝わっ
て
ミニアチュー
ル
(細密画)
【追H25中国絵画の影響か問う】
という技法で多くの絵が描かれました。これらは別個の国というわけではなく,大ハンのもとでゆるやかに連合していました。詩人〈サーディー〉(1184?~1291?)は『薔薇園(ばらえん)』を著しています。
チャガタイ=ハン国のときに,パミール高原以西のアム川・シル川流域を中心とする西トルキスタンに,テュルク系の人々が多数移動し,定住するようになっていきました。彼らは書き言葉としてテュルク系
の
チャガタイ
語
(注)
を発展させ,従来
の
ペルシア
語
とともに使われるようになります。主にペルシア語を使用する人々は「タジク人」と呼ばれるようになりますが,複数の言語を話せる者もいました。
(注)一般に「テュルク語」
【本試験H5インド=ヨーロッパ語族ではない】
というと,チャガタイ語やオスマン語ができる前のトルコ系の諸語を指します。テュルク語系の「チャガタイ語」は13~19世紀の中央アジアの文章語を指します。単に,「トルコ語」という場合にはオスマン語と現代トルコ語のどちらか区別する必要があります。
◆
クビラ
イ=
ハーンは海上進出を図り,ユーラシア大陸を東西に走る陸海のルートを結合させた
クビライは,南方の海民と結び海軍を掌握する
第5代の
〈
クビラ
イ=
ハー
ン
〉
(位1260~94)
【本試験H3チンギス,オゴタイ,チャガタイではない】
【本試験H26ヌルハチではない】
【早・法H31】
は,大ハーン位に就くと,オゴデイ(オゴタイ)家の
〈
カイド
ゥ
〉
(
ハイド
ゥ
,?~1301)による抵抗(カイドゥ(ハイドゥ)の乱
【本試験H11「元の中国支配が崩壊するきっかけとなった出来事」ではない】
【本試験H14時期(ルブルックのカラコルム訪問以前ではない),本試験H30】
)の鎮圧に苦慮することとなります。
一方,現在の北京に進出してこれ
を
大
都
【本試験H9】
【本試験H31チンギス=ハンが定めていない】
【追H19】
【早・法H31】
として
,
元
(1271~1368)という国号に改めました。
1279年
【本試験H3時期(ハイドゥの乱の「最中」か問う)】
には,すでに首都の
さらに,日本や東南アジア各地に遠征軍を派遣。
〈クビライ〉の強さの秘密は,降伏した南宋の将軍を,元の軍司令官としてそのまま重用したことにあります。「支配に役に立つ者はすべてモンゴルとして扱う」という,柔軟な対応のあらわれです。実際に,当時の史料中の「モンゴル」というのは民族の名前ではなく,モンゴルの支配層であれば民族の垣根を超える呼び名であったわけです。
ビルマ
の
パガン
朝
【本試験H13トゥングー朝ではない,本試験H26地域を問う】
はこのとき滅んでいますが,ヴェトナム
の
陳朝
大越
国
【本試験H16李朝ではない,本試験H19時期】
【追H18フランスの侵略を受けていない】
は撃退に成功しました。陳朝では民族意識が高ま
り
字
喃
(
チューノ
ム
)
【本試験H24時期】
という民族文字を13世紀頃から作り始め文学作品などで使用されましたが,公用文における漢字の使用は続きました。
なお,当時支配地域を拡大してい
た
アイヌ
人(
骨
嵬
)
により圧迫され
た
ニヴフ
人
が,樺太から元に対して支援を求めたことに端を発し,アイヌに対し交易ルートを確保する目的で遠征しています
(
北からの元
寇
)。
◆
「中国」を草原地帯も含めてとらえることで,中国の士大夫はハーンを皇帝として受け入れた
北方遊牧民地帯も含めた「中国」概念が浸透する
〈クビライ〉はあくまで「ハーン〔カアン〕」として中国支配に臨んでいます。
モンゴル人はユーラシア各地で,統治のための手段として,現地の君主号を受け入れていたのです。
一方,漢人の皇帝に仕えていた
「
士大
夫
」層も,積極的に〈クビライ〉を皇帝として受け入れました。モンゴルの君主が,漢人の「中国」を支配しているという現実を認めることで,自分たちの地位を守ろうとしたのです。
従来は「夷狄」ととらえていた北方の遊牧民地帯も含めて「中国」であるという認識は,北も南も含めた
「
混
一
(こんいつ)」と表現されていました
(注
)
。
(注)堤一昭「モンゴル帝国と中国」,桃木至朗・秋田茂『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会,2013,p.56。
〈クビライ〉は中国を支配するのに,漢人よりも西域出身
の
色目
人
(しきもくじん)
【東京H6[1]指定語句】
を
金の支配下にあった漢人・女真(女直)人や契丹人たち
は
漢
人
(北人とも呼ばれました),南宋支配下の住民
は
南
人
【東京H25[3]】
と呼び待遇にランクをもうけました。
中央の官制は,中書省が統治機関として置かれ,14世紀初めには尚書省を廃して六部から独立させました。
地方支配にあたっては,中書省と同格
の
行中書
省
を各地に置き,統治しました。これが現在の中国の「省」の起源です。漢民族の土地制度である佃戸制(でんこせい)は,変更されることなく続きました
【本試験H14】
。
元は,以前考えられていたほど中国文化に対して冷淡ではなかったとされています。元に仕えた宋の王族である〈趙孟頫〉(ちょうもうふ,1254~1322)は書画を極め,唐の頃のスタイルを復活させて多く
の
文人
画
を残しました。〈
たしかに科挙は一時停止され
【東京H25[3]「科挙試験を一貫して重視したわけではない」】
合格者も少なくなりましたが,科挙は1315年に再開されています。元の支配層にとってみれば,いくら儒教の経典に詳しくても「意味がない」わけです。それよりも即戦力のある人材,専門的な官僚(テクノクラート)がほしいというわけです。
職を失っ
た
士大夫
層
は,宋の時代に異端とされていた
〈
朱
熹
〉(しゅき,1130~1200)
【本試験H11】
【慶文H30記】
の
朱子
学
【本試験H11陽明学ではない】
【慶文H30記】
に飛びつきます
。
理気二
元
論
【慶文H30記】
,
大義名分
論
【慶文H30記】
を展開する朱子学は,元=異民族よりも漢人のほうが本来は上にあるべきだという読み方を儒教に提供し,支持されたわけです。朱子学は次の明代に官学化されることになります。
〈クビライ〉は出版事業に積極的で,南宋代から編集のはじまっていた『
儒学者にとっては元代は「迫害」の時代とみなされますが,後世の "後付け"という面もあります。後世の儒学者は,この時代の儒学の境遇を,「
元
【本試験H27清ではない】
では
,
イスラームの暦学・天文
学
【本試験H19,本試験H23】
の影響を受け
た
授時
暦
【東京H6,H27[1]指定語句】
【本試験H2時期(明末ではない)】
【本試験H23イスラーム天文学の影響があったか問う】
【追H21、H25】
が成立しました。イスラーム天文学
【本試験H2ヨーロッパ天文学ではない】
で使用されていた観測機器を用いた漢人の
〈
郭守
敬
〉(かくしゅけい,1231~1316)
【本試験H6】
【本試験H19,本試験H23,本試験H27顧炎武ではない】
【追H21、H25徐光啓・湯若望・宋応星ではない】
により,中国の伝統的な暦法によって作成されました
(注
)
。中国では天子である皇帝が,天文台を設置して正確な暦を作成させることが求められていたのです。これは1281年から施行。暦のタイプ
は
太陰太陽
暦
です。
のちに江戸時代の日本に伝わり〈
(注)山田慶児『授時暦の道―中国中世の科学と国家』みすず書房,1980。
〈クビライ〉
は
チベット仏
教
【本試験H12イスラム教を国教として保護したわけではない】
の僧
〈
パク
パ
〉(パスパ,1235~80)
【追H28】
【慶商A H30記】
を重用し
,
パク
パ
(パスパ
)
文
字
【東京H10,H30[3]】
【本試験H12漢字をもとにしていない。タングート族の文字ではない】
【本試験H14漢字をもとにしていない】
【追H25突厥ではない,H30西夏ではない】
というモンゴル語
【追H28】
のための文字をつくらせています。〈パクパ〉は11世紀中頃に西チベットではじまっ
た
サキャ
派
のチベット仏教指導者で,〈クビライ〉の支持を背景にして,チベットの支配権を強めました。
イランのコバルト顔料を用い,白磁に青い着色をし
た
モンゴル帝国〔大モンゴル国〕は交通路の安全を確保し,治安維持
や
駅伝
制
(ジャムチ)
【本試験H18金ではない】
の整備によって,ユーラシア大陸の陸上交通がさかんになりました。例えば,西方からは十字軍を組織してイスラーム勢力と戦っていたキリスト教が,モンゴルと提携することによってイスラーム勢力を挟み撃ちにしようというもくろみもあり,多数の使節を派遣しました。モンゴル人の宗教はシャーマニズム(目にはみえない世界との交信ができる霊能者が,踊りなどによって何かが乗り移ったような状態で我を忘れ,占いやお祓いなどをするものです。)でしたが,〈クビライ=カアン〉の母(〈ソルコクタニ=ベキ〉)がネストリウス派キリスト教徒であったといわれるように,モンゴル帝国でもキリスト教の信仰はありました。〈モンケ=カアン〉もはじめネストリウス派を信仰していたようです。
その噂もあってか,ローマ教皇〈インノケンティウス4世〉(位1243~54)は
〈
プラ
ノ=
カルピ
ニ
〉(1180?~1252)
【追H27世界地図の作成者ではない、H29暦の改定はしていない】
を,フランスの
〈
ルイ9
世
〉(聖王)
【京都H20[2]】
は
〈
ルブルッ
ク
〉
【京都H20[2]】
【本試験H3マルコ=ポーロとのひっかけ】
【本試験H14時期(ルブルックがカラコルムを訪れる以前に起きたものを選ぶ)】
を〈グユク=ハーン〉(定宗,位1246~48)に送っています。この目的には布教の理由のほかに,当時イスラーム教徒との間で続けられていた十字軍への支援を求める意図もありました。この2人は〈フランチェスコ〉
【京都H20[2]】
派の修道会士です。
ほかにも,父
【本試験H3】
と叔父とともに陸路で旅行し
た
ヴェネツィア共和
国
【本試験H29場所を問う】
【本試験H3ルイ9世に派遣されていない,本試験H8ジェノヴァではない(地図上の位置からもわかる)】
【追H19】
の商人
〈
マル
コ=
ポー
ロ
〉
(1254~1324)
【東京H17[3]】
【本試験H3,本試験H8】
は,大都で元の〈クビライ〉につかえたとされ
【本試験H3「南人」ではない】
,帰路は元の皇女を結婚のためイル=ハン国まで運ぶ船に同乗しました。体験談を
『
世界の記
述
(東方見聞録,イル=ミリオーネ)』
【本試験H3史料が引用・著者を答える】
【追H19仏国記ではない】
にまとめ,大きな反響をもたらします
【本試験H3まだ活版印刷術は発明されていない】
。
たとえば,台湾の対岸にあ
る
泉
州
(ザイトゥン)
【本試験H10マカオとのひっかけ】
に立ち寄り,「ザイトゥンには,豪華な商品や高価な宝石,すばらしく大粒の真珠がどっさり積み込んだインド船が続々とやってくる。この都市に集められた商品は,ここから中国全域に売られる」と繁栄ぶりを記しています
。
杭
州
(こうしゅう)も「キンサイ」として繁栄ぶりを記録しています。ただ,中国側には記録が残されていないため,疑問視する説もあります
【本試験H8マルコ=ポーロの推定移動経路をみて,「メッカ」「カラコルム」を訪ねていないこと,「チャンパ」を経由していることを特定する】
。
13世紀末には
〈
モン
テ=
コルヴィ
ノ
〉
(1247~1328)
【東京H6,H27[1]指定語句】
【本試験H8元を訪問したか問う】
【追H28,H30】
が
,
元
(大元ウルス)
【追H30カラ=ハン朝ではない】
【本試験H8】
の都・大都(だいと)
【追H28】
の大司教として中国初のカトリック布教
【追H28】
を成功させています。
首都の大都には運河が延長され,長江から海をまわって北上して大都に至
る
海
運
も発達しました。従来の大運河も補修され
【本試験H19】
,大都に通じる運河も整備されました(新運河)
【本試験H9「江南の穀物が華北にある首都まで運河で運ばれた」か問う】
【本試験H19】
。
商業の発展とともに,元の時代には庶民文化が発展し
,
元
曲
【本試験H3】
という戯曲が多数つくられました
【本試験H3「もっぱら宮廷の舞台で上演されたのではない」】
。元曲はかっこつけた仰々しい言葉ではなく,庶民の口語で書かれたところがポイントで,恋愛結婚を題材とした
『
西廂
記
(せいしょうき,せいそうき)』
【本試験H9[21]】
【本試験H21時代を問う】
のようなラブストーリーが好まれました。
〈クビライ〉の晩年には,クリルタイで彼を支持した東方三王家の乱が起きますが,鎮圧。1294年に亡くなっています。跡継ぎを決める際にはクリルタイはひらかれず,大ハーンの位はクビライ家に世襲されることになります。
しかしその後の元の君主は
,
チベット仏
教
(俗にいう「ラマ教」は,仏教とは別の宗教というニュアンスを含むため,チベット人はこの呼称を使いません)
に入れ込み
【本試験H14ルブルックのカラコルム訪問以前ではない】
,
交
鈔
(こうしょう)
【
本試
験H
22,H29北魏の時代ではない】
【本試験H8時期(マルコ=ポーロと同時期)】
【追H19】
という紙幣を濫発したために物価が高騰し,国力を弱めていきました。紙幣が流通するようになると,かさばる銅銭が余るようになり,「銅」そのものにも価値があるので近隣諸国にそのまま輸出されました。例えば,鎌倉大仏は,銅銭によって作られたのではないかといわれています。
◆「
1
4
世紀の危機」によりユーラシア大陸各地のモンゴル政権の支配は揺らぎ,モンゴル帝国
の"
跡継
ぎ"
国家や影響を受けた国家が各地で成立していく
1310年頃から1370年頃にかけて,北半球は寒冷化し,各地で不作や飢饉がおきました。さらに,モンゴル帝国によってユーラシア一帯の人の移動が盛んになったこともあって,ミャンマーで流行していたとみられ
る
ペス
ト
(黒死病)
【追H26天然痘ではない】
【本試験H5ペストの大流行の時期を問う】
が,1320年以降西へと広がり,1335年に洛陽→1347年にイスファハーン・ダマスクス→1348年にヴェネツィア・メッカ・ロンドン...と,またたく間にユーラシア大陸一帯に広がります。交易に支障が出てくるようになると,モンゴル帝国各地で支配にゆるみが生じました。
キプチャ
ク=
ハン
国
では1359年に〈バトゥ〉の血統が途絶え,分裂。東スラヴ系の諸公国・大公国の中から
,
モスクワ大公
国
【本試験H3時期(ハイドゥの乱の時期ではない)】
が力を付けモンゴル帝国の血統を権威として用いて強大化していきます。なお,キプチャク=ハン国ではイスラーム教
【本試験H5】
が保護されています。
チャガタ
イ=
ハン
国
は1335年に東西に分裂しました。そのうち西チャガタイ=ハン国から,1370年に〈ティムール〉が領域拡大に乗り出し
,
ティムール帝
国
【追H26チャガタイ=ハン国出身の武将によって興されたか問う】
を建設していきます。
なお
,
マムルーク
朝
も14世紀中頃のペストの流行により,衰退に向かいます。
◆
モンゴル高原でモンゴルは存続し,明代の中国への進出をはかり続けた
モンゴルは存続し,中国では臨戦態勢が続いた
中国
の
元
では,末期に1351年~66年
に
紅巾の
乱
【東京H25[3]】
【本試験H4赤眉の乱・呉楚七国の乱・陳勝呉広の乱ではない,本試験H11元の中国支配が崩壊するきっかけとなった出来事か問う,本試験H12白蓮教系の組織か問う】
【本試験H19赤眉・黄巣・安史の乱ではない,本試験H21時期】
【追H25ウイグルと強力して鎮圧していない(それは安史の乱)】
が起きます。紅巾軍は,弥勒仏(みろくぶつ)
【本試験H12】
が現世を救済するために現れると信じる白蓮教系の組織から成っていました。彼らにより大運河が寸断され,江南と北京を結ぶ海運ルートが紅巾の乱とは一線を画して反乱を起こした有力者〈
白蓮
教
徒
【本試験H12】
の一派である
〈
朱元
璋
〉は,まずライバルの〈張士誠〉の反乱を鎮圧し,その上で1368年大都を陥落させました。最後の皇帝〈トゴン=テムル〉(順帝)はモンゴル高原に退却しましたが,帝室は存続したわけですので,厳密にいえば「滅んだ」わけではありません。
20年間,元の帝室は持ちこたえましたが,明による攻撃により〈トグス=テムル〉(位1378~88)が襲われ,逃げている途中に殺害されました。中国(明)側は,これをもってモンゴル(大元)が滅んだという立場から,これ以降のモンゴルのことを
「
韃
靼
(だったん)」と呼ぶようになりました。
しかし実際には
,
モンゴ
ル
は滅んでしまったわけではなく,存続しています。ただ,〈チンギス=ハーン〉と無関係なのに「ハーン」を名乗る者が現れるようになりました。
モンゴル帝国以降,〈チンギス=ハーン〉の直系の者にモンゴル高原の遊牧民全体の支配者になる資格があるという原則が生まれます。そこで,支配者になろうとする者は「チンギス=ハーン」との血筋のつながりがある!と主張することで,遊牧民たちを納得させようとしたのです。
例えば,15世紀初めに
は
オイラト
部
【本試験H16】
の
〈
エセ
ン
〉
【本試験H13アルタン=ハーンではない】
【追H29アルタン=ハンではない】
が,チンギス家と結婚関係をもつことで勢力を拡大しました。西方では女真(女直)人を,チャガタイ=ハン国の東半(モグーリスタン)を制圧しています。しかし,明との間で貿易をめぐるトラブルが生じ,1449年に中国に進入して明
【本試験H20前漢ではない】
の皇帝〈正統帝〉(英宗)
【本試験H16万暦帝ではない】
を捕虜にしました
(
土木の
変
【本試験H13,本試験H18地図・靖康の変ではない,H31時期(漢代ではない)】
【追H29】
)。〈エセン〉は1452年にハーンに即位しましたが,それには批判も多く,1454年に殺害されています。結婚関係だけではダメだというわけですね。
◆
〈ダヤ
ン=
ハーン〉がモンゴルを再統一,チベットではツォンカパがチベット仏教を改革する
モンゴルが〈ダヤ
ン=
ハーン〉により再統一される
そこでその後,チンギス家の直系である
〈
ダヤ
ン=
ハー
ン
〉(位1487~1524)が,大ハーンとしてようやくモンゴル高原の広範囲を統一することに成功します。ダヤンというの
は
大
元
ということで,元(北元)の復興でもあります。明は「モンゴルは1388年に滅んだ」という立場をとったので,この勢力
を
タター
ル
と呼びましたが,正確にいう
と
モンゴ
ル
に違いありません。
彼はモンゴルを,直轄地であ
る
チャハ
ル
【本試験H31】
,
ハル
ハ
,ウリャンハンと,間接支配地に分けて統治しました。
アルタンは現在も内モンゴルの中心になっているフフホタ(フフホト)を建設し,中国との通商を推し進めて発展していきました。フフホトは現在,中華人民共和国の内モンゴル自治区の省都として発展しています。
チベットでは,元の時代に〈フビライ=ハーン〉に保護されたサキャ派への批判が高まり,さまざまな派が対立しました。その中から,
〈
ツォンカ
パ
〉
(1357~1419)
【本試験H13・H20,H22時期】
がインドから伝わった経典を再編成し
た
ゲルク
派
を開き,黄色い帽子を用いたの
で
黄帽
派
【東京H12[2]】
【本試験H13・H20】
【追H29】
とも呼ばれました。
◆
チャガタ
イ=
ハン国西部からおこったティムール帝国は,モンゴル帝国
の"
跡継
ぎ"
国家
ティムール帝国は,モンゴル帝国の跡継ぎ
タリム盆地を中心とする西トルキスタンでは,モンゴル系のチャガタイ=ハン国の東半分を占め
た
モグーリスター
ン=
ハーン
国
では,〈トゥグルク=ティムール=ハーン〉がイスラーム教に改宗し,本拠地はバルハシ湖に注ぐイリ川周辺で,14世紀なかばにはシル川の東部から天山山脈東部までを領域に加え,東西のトルキスタンを合わせました。
しかし,15世紀の後半になると
,
ウズベク
人
がアラル海の北部の草原地帯から南下すると,モグーリスターン=ハーン国は衰え,拠点を天山山脈南部のオアシス地帯に移しました。しかし,ハーンの王子たちが各地のオアシスに分立するようになると,一体性はなくなっていきます。
そんな中,〈チンギス=ハン〉の息子〈チャガタイ〉の千人隊に属していた名門バルラス家に属する
〈
ティムー
ル
〉
【本試験H31】
【東京H8[3]】
は,若い頃に指揮官として名を上げ,〈トゥグルク=ティムール〉に認められて指揮権を与えられました。しかし,その後反乱を起こしチャガタイ=ハン国東部の「モグーリスターン」の撃退に成功。
サマルカン
ド
【京都H19[2]】【東京H30[3]都市の略図を選ぶ】
を拠点にして支配権を確立した〈ティムール〉は,政略結婚で〈チンギス〉家の婿(むこ)となることで,人々から支配者としてふさわしいと納得してもらうことにも成功し,1370年
【追H20時期(14世紀)】
に
ティムール
朝
【本試験H5時期(13世紀末~14世紀初めではない)】
【追H20】
【H27京都[2]】
を樹立しました。サマルカンドには,宮殿,モスク
,
バザー
ル
(ペルシア語で市場。アラビア語で
は
スー
ク
【本試験H21マドラサではない】
)などを建設し,交通路を整備して商業活動を奨励しました。彼は都市の活動を重視し,征服先での不要な略奪は行いませんでした。
彼は「モグーリスターン」,ジョチ=ウルス(キプチャク=ハン国,金帳汗国。首都はヴォルガ川
【慶文H29】
中域のサライ),デリー=スルターン朝のトゥグルク朝
,
イ
ル=
ハン
国(
フレ
グ=
ウル
ス
)
を次々に攻撃し(イル=ハン国は滅亡
【本試験H15 19世紀のロシアが滅ぼしたのではない】
)
,
ティムール
朝
【本試験H18】
を
都
サマルカン
ド
【本試験H2ティムール朝の時代に衰えていない】
【本試験H18】
を中心に建設していきました。
1402年にはオスマン朝をアナトリア半島のアンカラで破り
(
アンカラの戦
い
)
【追H24ティムールに敗れたか問う,H28アッバース1世は無関係】
【本試験H31エィムールがオスマン帝国を打ち破り,そのスルターンを捕虜にした戦いか問う,地図上の位置も問う(プレヴェザとのひっかけ)】
ましたが,その後,明遠征を計画し,20万の大軍を出発させました。その中には,モンゴルから亡命してきたチンギス家の王子がおり,明を倒したあかつきには,彼を皇帝にして,モンゴル帝国を復興させようと夢見ていたのでしょう。しかし,シル川中流のオトラルで1405年にあっけなく病気で亡くなってしまいました。王子(〈オルジェイ=テムル〉(位1408~12))はそのままモンゴル高原に向かい,ハーンに即位して明の〈永楽帝〉と対立しました。
〈ティムール〉の死後,
〈
シャ
ー=
ル
フ
〉(位1409~47)が政権を握り,安定した支配を実現しました。
彼は,聖地メッカを保護下におさめていたマムルーク朝の君主から,カーバ神殿の覆い(キスワ)を提供する権利を得ています。そのようにして,イスラーム教徒たちに自分の支配権を納得させようとしたわけです
【本試験H31リード文。ただし,認められたのは内側の覆いだけで,外側の覆いはマムルーク朝の君主が提供するものとされた】
。
子の
〈
ウル
グ=
ベ
ク
〉
【追H26リード文】
【慶文H29】
が後を継ぎました。
〈ウルグ=ベク〉自身も優れた学者であり,サマルカンド郊外
の
天文
台
【追H26リード文】
で天文観察を行い,1年を「1年間は365日6時間10分8秒」と恐るべき精度で計算,天文表はアラビア語,オスマン語,ラテン語にも翻訳されるほどの精度でした。惑星の運行法則を示したドイツの
〈
ケプラ
ー
〉(1571~1630)
【追H20】
の現れるずっと前のことです。
しかし,しだいに各地で王子たちが独立をするようになり
,
ウズベク
人
【追H30匈奴とのひっかけ】
【慶文H29】
の進入も始まっていました。さらに,イラン方面からはテュルク系遊牧民(トゥルクマーン)の建てた黒羊朝(カラコユンル,1375~1468)や白羊朝(アヤコユンル1378~1508)が進入するようになっていき,サマルカンドとヘラートに拠点をもつ王族の間で内紛も勃発。
テュルク系のアクコユンル
(
白羊
朝
)の〈ウズン=ハサン〉は,1468年にカラコユンル
(
黒羊
朝
)の〈ジャハーン=シャー〉を破り,アナトリア半島に進出しています。
この間ヘラートでは学芸が盛んとなるのですが,1500年
に
ウズベク
人
【慶文H29】
の
〈
シャイバーニ
ー=
ハー
ン
〉(1451~1510)が進入し,ついに滅んでしまいました。
なお,モンゴル帝国により,中国で発明されてい
た
硝
石
(硝酸カリウム)をもちい
た
黒色火
薬
【本試験H2】
は,モンゴル人によって14~15世紀には西アジアやヨーロッパにも伝わります。早速ドイツ人は,15世紀末に,先込火縄式
の
マスケット
銃
を開発しています。こうした小銃の導入により,騎士は没落
【本試験H2】
していくことになり,大航海時代
(注
)
における軍事的な優位を手に入れました。
また,オスマン帝国も大砲を導入したことで,かつて
(注)「大航海時代」は日本の研究者による呼称。英語ではThe Age of Discovery
(
発見の時
代
)とか,The Age of Exploration
(
探検の時
代
)といいます。「発見」という呼び名はヨーロッパ人の視線からみれば,確かに適切な呼び名です。一般的に15世紀初めから17世紀半ばにかけてポルトガル・スペインに始まるアフリカ大陸ギニア湾岸・インド洋沿岸からアジアにかけてのヨーロッパ諸国の海上進出の時代を指し,広くとれば18世紀後半のイギリスによる太平洋探検までの時期を指します。
◆
十字軍は失敗に終わり,東方貿易・学問は活発化,教皇権は失墜,国王の権力は高まる
ビザンツ帝国から東西貿易を奪う試み(十字軍)が失敗
前の時代から継続している十字軍は、人口増加にともなう
ヨーロッパの拡大運動
の一つであるとともに、①アルプス以北の君主国の地中海進出、②地中海沿岸の都市国家・ローマ教皇による東方貿易の主導権の奪回の試みであったといえます
(注)
。
とくにこの時代の初めには後者②の代表国であるヴェネツィア共和国が、ビザンツ帝国の首都を陥落させ一時滅亡に追い込み、短期間ではあるものの「ラテン帝国」を建国するという事件も起きています。
第四回十字
軍
【追H19】
は,聖地までの物資輸送の資金が足りず,ヴェネツィア商人の資金力
や
櫂
船
・
帆
船
を借りて実施されることになりました
【本試験H25ウルバヌス2世ではない】
。
時の教皇は,
〈
インノケンティウス3
世
〉(位1198~1216)
【慶文H30記】
のときで,教会法(カノン法)を根拠として教皇権を強化させていました
(
教皇権の絶
頂
【本試験H25】
)。イングランドの〈ジョン王〉,フランスの〈フィリップ2世〉を破門し,
「
教皇は太陽,皇帝は
月
」という言葉を残したほどです。
1215年
の
第四回ラテラノ公会
議
では,一般人の結婚に対する教会の管理強化,ミサにおける司祭の権利を拡大,ユダヤ人の服装規定といった事項が定められました。
また,都市にのさばる教会に批判的な修道士に対抗し,民衆の支持を得るため,そして各地における情報を収集するために,信徒からの
「
告
解
」を聞いて相談にのるスペースが教会に設けられました。
彼の提唱した王には,先進工業地帯として発達していたフランドル伯〈ボードゥアン9世〉が即位しています(皇帝在位1204~05)。
ヴェネツィアのビザンツ様式
の
サ
ン=
マルコ大聖
堂
に飾られている四頭の馬の像は,このときにコンスタンティノープルから持って帰ったものです。ビザンツ皇帝は,ニケアに亡命政権を樹立し,生きながらえています
(
ニケア帝
国
)。
エジプトを攻撃目標とし
た
第五回十字
軍
(1218~1221)が失敗に終わると,神聖ローマ帝国
〈
フリードリヒ2
世
〉
【本試験H8同名のプロイセン王との混同に注意】
に対して教皇が十字軍の実施を要求。〈フリードリヒ2世〉は要請に答えなかったので破門されましたが,破門状態のまま十字軍を開始しました。彼はアイユーブ朝の〈サラディン〉の死後,一族に相続されていたカイロやダマスクス間の対立を利用し,カイロを拠点とするアイユーブ朝のスルターンと提携する交渉を取りまとめ,イェルサレムを一時アイユーブ朝から奪回しています
(注)
。
(注)〈フリードリヒ2世〉による十字軍(無血十字軍)を,「第六回十字軍」としてカウントする場合もあります(その場合は,それ以降の回次は繰り下がります)。和約によりイェルサレムの統治権を〈フリードリヒ2世〉に譲渡したアイユーブ朝のスルターン〈カーミル〉はその後イスラーム教徒による厳しい批判にさらされ,1239年にはダマスクスの王により奪回されました。ダマスクスは,アイユーブ朝の〈サラーフ=アッディーン〉の一族の者が分割相続していて,半ば独立王国となっていました。
第六
回
十字軍(1248~49
)
・七
回
十字軍(1270)は,フランス王国の
〈
ルイ9
世
〉(位1226~70)
【本試験H18シャルル7世ではない】
がファーティマ朝,のちにマムルーク朝
【本試験H20世紀を問う】
に対して起こしました。チュニス
【本試験H18イェルサレムではない】
に派兵する現実的な案でしたが失敗しました。1249年にはアイユーブ朝のスルターンが戦時中に急死するとマムルーク軍が後継ぎのスルターンに対して反乱を起こして殺害し,クーデタにより〈アイバク〉(位1250~1257)がスルターンに選ば
れ
マムルーク
朝
(1250~1517)をおこしました。死後に〈ルイ9世〉は教皇により聖人の位につけられています(称号は「聖王」(英語でセントルイス))。
十字軍の主導権が国王に奪われていた一方,教皇も教義の整備に努めていました。しかし,12世紀以降イスラーム世界から伝わっていた古代ギリシアの
〈
アリストテレ
ス
〉の思想は,神を持ち出さずに,この世界について完全に説明しようとしたもので,神の存在によってこの世界の秩序を説明しようとしたキリスト教の神学者にとっては,脅威でありながら魅力も備えていました。
ドミニコ修道会の
〈
トマ
ス=
アクィナ
ス
〉(1225?~1274)
【共通一次 平1〈アウグスティヌス〉ではない】
【追H9】
は,師〈アルベルトゥス=マグヌス〉(1193?1200?~1280)による「キリスト教思想を〈アリストテレス〉の書いたテキストに即して,理性的に理解しなおそうとする」試みを受け継ぎ,〈アリストテレス〉の思想を批判的に読み砕くことでキリスト教の教義を組み立て直していきました
【本試験H12「〈アリストテレス〉哲学がキリスト教の哲学に取り入れられ,これを体系化した書物が著された」か問う】
。その成果である
『
神学大
全
』
(1273)
【共通一次 平1】
【追H9、H19アウグスティヌスの著作ではない、H21】
【本試験H17】
は,教皇がキリスト教の正しさを説明するときの重要な柱となっていきます。
「...「神の本質」に関しては,第一には,神は存在するか...が考察されなくてはならないであろう。
...次の3つのことがらが問題となる。
第一 神が存在するということは自明的であるか
第二 それは論証の可能なことがらであるか
第三 神は存在するか」
このような形で600あまりの命題と,各命題に対する反論・解答という形式で展開されています
(注
)
。
(注)木村尚三郎編『世界史資料・上』東京法令出版,1977,p.419
一方,〈アクィナス〉を唯名論の立場から〈フランチェスコ〉修道会の
〈
ドゥン
ス=
スコトゥ
ス
〉(1265?~1308)が批判するなど,キリスト教の教義を理性的な立場から疑う動きも出始めていました。
第六回・第七回十字軍以降は組織的な十字軍はなくなり,最終的に1291年に最後の拠点であっ
た
アッコ
ン
(現在のイスラエルの北部沿岸)が陥落して,終了しました。
十字軍の期間には,イェルサレムに本拠地のあ
る
テンプル騎士
団
,病院での医療奉仕を重視し
た
聖ヨハネ騎士
団
【追H30リード文】
のように聖地巡礼者を保護したり病院を設立す
る
宗教騎士
団
【東京H6[3]】
が活躍しました。バルト海東岸のケーニヒスベルクを中心とす
る
ドイツ騎士団
領
【本試験H21レコンキスタと無関係】
のように,国家を形成したりキリスト教を東ヨーロッパや北ヨーロッパに布教したりする集団も現れました。
なお,ヨハネ騎士団が十字軍時代に本拠を置いた城が,現在のシリアのクラック=デ=シュヴァリエです(◆世界文化遺産「クラック=デ=シュヴァリエとカラット=サラーフ=アッディーン」,2006(2013年危機遺産)。後者は「サラディンの城」という意味。)。
ヨハネ騎士団は,のちにキプロス島,ロードス島
【追H30リード文】
,さらにマルタ島に拠点を移しています(◆世界文化遺産「ロドス島の中世都市」,1988。同「バレッタの市街」,1980)。
ドイツ騎士団は,ポーランド王国から沿岸部を奪い,さらにバルト語派の民族とも戦って,バルト海沿岸
に
ドイツ騎士団
領
を建設しました。これはのち
の
プロイセ
ン
の元になり,さらに
は
ドイツ帝
国
の元になっていきます。ドイツ騎士団は,15世紀初めまでにバルト海の交易にも従事し,自らを主要産品の
"
琥
珀
(コハク)の王"と称していたといいます。しかし,1410年には急成長してきたスラヴ人
の
ポーラン
ド
と
リトアニ
ア
によ
り
タンネンベルクの戦
い
で敗れ,領土の西半分を奪われ,東部もポーランドの宗主権下に置かれてしまいました。
また,十字軍の失敗によって,言い出しっぺ
の
教皇の権威は低
下
し,実際に遠征を指揮した国王の力が高まりました。逆に,火砲の導入もあって
,
騎
士
は没落に向かいます
【本試験H8「長期にわたる十字軍とその失敗は,彼らの没落の一因となった」か問う】
。
それに対応して,13世紀以降は教皇庁の官僚組織が整備され,世俗の国家と張り合うことのできる行政機構を備えたいわゆる"教皇君主制"に発展していきました。今までの公会議や教皇の出した勅令もまとめられるようになり,15世紀半ばまでに『カノン法大全』がまとめられます。
一方,宗教的な情熱のあまり
,
ユダヤ人に対する迫
害
も起きています。とくに14世紀中頃
に
黒死
病
(
ペス
ト
)
【追H26天然痘ではない】
【東京H27[1]指定語句】
【本試験H15時期(10世紀半ばではない),本試験H19時期(12世紀ではない)】
が流行した際には,「ユダヤ人が井戸に毒を入れたのだ」などの根も葉もない噂がヨーロッパ中に広まり,特に神聖ローマ帝国内部では虐殺なども起こりました。1462年には,帝国都市だっ
た
フランクフル
ト
=アム=マインにユダヤ人居住区
(
ゲット
ー
)が建設されています。ゲットーとしては,ベーメンのプラハのものも有名です。この頃,ドイツに居住していた多く
の
ユダヤ
人
はポーランドに移住しました。人々の不安を反映し
「
死の舞
踏
」
【本試験H24最後の審判の様子を表したものではない】
という,あらゆる階級の人々がガイコツになって踊り狂う絵がさかんに描かれました。当時の人々にとって「死」は身近な存在であり,"メメント=モリ"(死を思え)というラテン語の標語は,現実世界よりも来世を重視する価値観のあらわれでもあります。
地中海における人や物の移動が活発化したことで,東方貿易が盛んになり,イタリア諸都市が発展するきっかけにもなります。現在のクロアチアのアドリア海沿岸にある,赤レンガの美しい町並みで知られ
る
ドゥブロヴニ
ク
【追H28リード文】
はその美しさから「アドリア海の真珠」とも称され,古来東ローマ帝国やヴェネツィア共和国,ハンガリー王国などの支配を受けていました。
1358年になるとラグサ共和国として自立し,地中海交易で栄えます(◆世界文化遺産「ドゥブロヴニクの旧市街」,1979(1994範囲拡大))。
イタリアには,古代のギリシアやローマの文献を保存・翻訳していたイスラーム世界やビザンツ帝国の研究成果が伝わり,これらの成果にもとづき,今後
「
ルネサン
ス
」
(
文芸復
興
)が起こっていくことになります。
(注) 鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.127。
○120
0
年
~
150
0
年のヨーロッパ 東ヨーロッパ
東ヨーロッ
パ...
現在
の①
ロシア連
邦(
旧ソ
連),②
エストニア
,③
ラトビア
,④
リトアニア
,⑤
ベラルーシ
,⑥
ウクライナ
,⑦
モルドバ
・
120
0
年
~
150
0
年のヨーロッパ 東ヨーロッパ 現在
の①
ロシア連邦
,⑤
ベラルーシ
,⑥
ウクライナ
キエ
フ
(大
)
公
国
(キエフ=ルーシ)がモンゴル人の
〈
バト
ゥ
〉
【京都H20[2]】
【本試験H11ガザン=ハンとのひっかけ,本試験H12フラグではない】
【追H18】
に服属すると,東方
の
スラヴ
人
地域にも拡大するようになっていきました。1387年にローマ=カトリックを国教としましたが,スラヴ人の人口が多いため正教会の信仰も認められました。実際,リトアニア大国国の支配層は,スラヴ語派のルーシ語
(
ベラルーシ
語
の元)を話しており,貴族の多くがルーシ人(のち
の
ベラルーシ
人
)でした。
ドイツ騎士団に対抗するため,1386年
に
リトアニア大公
国
の〈ヨガイラ〉は,ポーランド王国の娘と結婚します。これにより,ポーランドとリトアニアは同君連合
(
ヤギェウ
ォ
(ヤゲロー
)
朝
【追H27ノヴゴロド国ではない】
【東京H6[3]】
)となり,東ヨーロッパの強国,いや
,
ヨーロッパ最大の強
国
に発展していきます。最大領土は,黒海沿岸
の
ウクライ
ナ
にまで及び,1410年にはグルンヴァルト(ドイツ語ではタンネンベルク)の戦い
で
ドイツ騎士
団
を撃退することにも成功しました。
東スラヴ人
の
キエ
フ(大)
公
国
(キエフ=ルーシ)は,13世紀にはモンゴル人の〈バトゥ〉
【京都H20[2]】
【本試験H11ガザン=ハンとのひっかけ】
【追H25ロシア遠征したか問う】
が遠征隊の攻撃を受け,約240年にわたるモンゴル人の支配下に置かれることになりました。このモンゴル人による支配期間のことを,ロシアでは
「
タタールのくび
き
」といいます
(「くびき」(軛;頸木)というのは,車本体から前方に伸びた轅(ながえ)という日本の棒の先に,横にかけられた横木のことで,これを牛の首にひっかけて車をひかせるものです。この時期にロシアは,タタール人(モンゴル人のこと)によって首に横木をかけられて,大変な目にあったのだという比喩(ひゆ)です)
。
やがてジョチ=ウルス(キプチャク=ハン国,金帳汗国)のもとで「大公」(ロシアでは「王」を表す称号です)の位を授かっ
た
モスク
ワ
の〈イヴァン1世〉(位1325~40)
の
モスクワ大公
国
は,周囲の諸国からの徴税の請負で発展し,〈ドミトリー=ドンスコイ〉大公(位1359~89)がクリコヴォの戦い(モスクワの南東)でジョチ=ウルス(キプチャク=ハン国,金帳汗国)を破りました。
ジョ
チ=
ウル
ス
は,その後複数のハン国に分裂していきます
【本試験H15ジョチ=ウルス(キプチャク=ハン国は19世紀後半のロシアによって併合されたわけではない)】
。
15世紀になると,1453年に東ローマ帝国が滅亡すると,最後の皇帝の姪(めい)〈ゾエ(ソフィア)〉が,モスクワ大公に嫁ぎました。
〈
イヴァン3
世
〉
【本試験H20世紀を問う】
は,「滅んだ東ローマから,ローマ皇帝の位がわれわれモスクワ大公に移ったのだ!」と主張し,自らをローマ皇帝(ロシア語
で
ツァーリ
【本試験
H
2
8】
【追H21 13世紀ではない】
)と自称しようとしたという説もあります。ただ実際には当時のロシアにおける「ツァーリ」には「王」程度の意味合いしかなく,どちらかというと
「
ハー
ン
」(モンゴル人(この地域のモンゴル人はタタル人といいます)の君主)の意味が強いものでした(ツァーリ=皇帝ではないのです)
【本試験H31ツァーリ(皇帝)の称号を用いたか問う(大学入試センターによると「用いた」が正解)】
。
こうして1480年には,モンゴル人の支配から完全に脱却したのです
【本試験H7ノヴゴロド公国(ママ)ではない】
。
彼はイタリア人の建築家を招き,モスクワにギリシア正教の壮麗な聖堂(ウスペンスキー大聖堂)を建てさせました(◆世界文化遺産「モスクワのクレムリンと赤の広場」,1990)。
〈イヴァン3世〉の孫である
〈
イヴァン4
世
〉
(雷帝,在位1533~84)
【京都H22[2]】
【本試験H6】
【本試験H18聖職者課税問題とは無関係】
は,モスクワのウスペンスキー大聖堂で戴冠式をおこない,さらに中央集権化をすすめていきました。1547年に
は
公式にツァーリの称
号
(「偉大なる君主,全ルーシ,ヴラディミル・モスクワ・ノヴゴロドのツァーリにして大公」
)
を使
い
【本試験H6】
,貴族を抑える恐怖政治をおこない権力を拡大させていきました。さらに,南ロシアに残存していたモンゴル人の諸国家(モスクワ東部カザン=ハン国,ヴォルガ川西部のアストラハン=ハン国)を併合し
(注
)
,「カザンのツァーリ,アストラハンのツァーリ」という称号も付け加えました。
(注)多民族を含む複数の領域に分かれ,その中に階層的な秩序がつくられている国のことを「帝国」(山本勇造編『帝国の研究―原理・類型・関係』(名古屋大学出版会,2003))と定義することが増えており,それに基づく立場からみると,この時点からロシア人の国家(ロシア国家)は
「
ロシア帝
国
」と呼ばれます。
・
120
0
年
~
150
0
年のヨーロッパ 東ヨーロッパ 現③ラトビア
リトアニアの北部では,ルト語派
の
ラトビア
人
が,13世紀以降に入植したドイツ人
(
ドイツ騎士
団
など)によってキリスト教化されていきました。バルト海方面へのキリスト教世界の拡大運動
を
北方十字
軍
ということがあります。ドイツ人の住民は,その後もこの地で影響力を残し続けました。
・
120
0
年
~
150
0
年のヨーロッパ 東ヨーロッパ
現④
リトアニア
バルト海東岸では,バルト語派
の
リトアニア
人
を〈ミンダウガス〉(1200?~1263,ポーランド名はミンドーウェ)が1236年に統一し1251年にキリスト教に改宗,1253年にローマ教皇によって国王が与えられました(ただし「王」を名乗ることができたのは,彼の一代限りです)。しかし彼の死後には,リトアニア大公国は西から
は
ドイツ騎士
団
,東からもドイツ人のリヴォニアによる進出を受けるようになります。
この頃の,エルベ川以東の地域
【本試験H7中世末期以降,領主制の解体と農奴の解放はすすまなかった】
では,15世紀以降,
西
ヨーロッパ向け
【追H26東ヨーロッパ向けではない】
の穀物生産がおこなわれるようになっていきます。大土地で穀物を栽培するために,自由身分であった農民の自由を奪って農奴とし
,
グーツヘルシャフ
ト
【
東京H16[1]指定語句,H26[3]用語の説明記述】
【追H25地域が東ヨーロッパか問う(アフリカ東岸、アラビア半島、オーストラリアではない)、H26】
【本試験H19・H21ともに時期】
とい
う
農場領主
制
が成立しました。このような大土地所有者は貴族としても君臨し,グーツヘルまたはその俗称
で
ユンカ
ー
【本試験H31「プロイセンの地主貴族(領主)」か問う】
と言われます。
○120
0
年
~
150
0
年のヨーロッパ 中央ヨーロッパ
中央ヨーロッ
パ...
現在
の①
ポーランド
,②
チェコ
,③
スロヴァキア
,④
ハンガリー
,⑤
オーストリア
,⑥
スイス
,⑦
ドイツ
◆
〈フリードリヒ1世〉は十字軍に参加,〈ハインリヒ5世〉はシチリア島に進出,〈フリードリヒ2世〉は近代的な国家機構を整備しドイツ騎士団による東方植民を支援
「ドイツ人」の拡大運動が,ドイツ王により推進へ
ここでいう「ドイツ」は,ほ
ぼ
神聖ローマ帝
国
【追H30「14世紀中頃~15世紀末の神聖ローマ帝国の版図」を選ぶ問題】
の領域のうちイタリアを外した地域のこと。かつての東フランク王国の領域です。
「神聖ローマ帝国」というおおげさな名前を付けた以上,この皇帝はローマのあるイタリアに進出しようと必死。しかし,これがなかなか難しい。ドイツでは皇帝の権力は強くなく,諸侯の独立性も強まっていきました
【本試験H3神聖ローマ帝国の権力が次第に弱体化していき,次第に諸侯の独立性が強まったか党】
。
そんな中,中世温暖期を迎えていたヨーロッパでは人口が急増し,外へ外へ拡大する必要が出てきます。
神聖ローマ帝国の領内のドイツ語を話すドイツ人の受け入れ先として,シチリア島が設定されましたがうまくいかず,つい
に
エルベ
川
【H30共通テスト試行】
を東
【H30共通テスト試行】
に越えた
「
東
方
」への植民計画が実行に移されていきます。これが
「
ドイツ植民運
動
」
です
【H30共通テスト試行 移動経路はヨーロッパから西アジアにかけてではない。エルベ川以東でドイツ騎士団が中心となって行ったか問う】
。
さて,神聖ローマ帝国とローマ教皇との間に引き起こされてい
た
叙任権闘
争
は,1122年に〈ハインリヒ5世〉(位1106~25)と教皇との間に結ばれ
た
ヴォルムス協
約
で,皇帝にドイツの司教に封土を与える権利があることを確認して,一応の決着をみていました。
〈ハインリヒ5世〉と次の〈ロータル3世〉(位1125~37)には子がなかったので,ザリエル朝が断絶し,諸侯の選挙
で
ホーエンシュタウフェン
家
の〈コンラート3世〉がドイツ王に選ばれました。彼はイタリアへの積極的な進出をしたために,交易の活発化で成長していたイタリア諸都市の反発を招き,ホーエンシュタウフェン家の皇帝派
の
ギベリ
ン(
教皇
党
【本試験H3】
)
と,教皇派のヴェルヘン家によ
る
ゲル
フ(
皇帝
党
【本試験H3】
)
との間に内乱が勃発しました。
◆
フリードリヒ1世
しかし,〈コンラート3世〉の甥
〈
フリードリヒ1
世
〉が,ドイツ王(位1152~90)と神聖ローマ帝国皇帝(位1155~90)に即位しました。彼は通称・赤ヒゲ王(バルバロッサ)と呼ばれ,第三回十字軍に参加したほか
,
第三回十字
軍
(1189~92)にも参加しました。しかし,彼も和平を撤回し
て
イタリア政
策
【本試験H8】
を推進し,1258年に北イタリアを占領しました。それに対し,ミラノ
【追H26北ドイツ・バルト海沿岸都市ではない】
を中心
に
ロンバルディア同
盟
【追H26】
【本試験H19】
が結成されます。彼はローマ法を整備し君主国の体制を強化しようとしましたが,あまりにイタリアに首を突っ込みすぎたため,国内の諸侯の力をじゅうぶんに押さえることはできませんでした
【本試験H8「イタリア政策は,ドイツにおける集権化を促進した」わけではない】
。
◆ハインリヒ6世
〈フリードリヒ1世〉の後継〈ハインリヒ6世〉も意欲的な神聖ローマ皇帝でした。まず
,
ノルマ
ン=
シチリア王
国
の継承者〈コンスタンツァ〉と結婚し,ローマ教皇を南北から圧迫
(北の神聖ローマ皇帝 vs ローマ教皇 vs南のノルマン=シチリア王国という構図)
。
ノルマン
人
の支配層を弾圧し,シチリア島へのドイツ人の植民をすすめます。
◆
フリードリヒ2
世
【本試験H8同名のプロイセン王との混同に注意】
しかし〈ハインリヒ6世〉は,若くして死去。シチリア島民の抵抗も起こる中,〈コンスタンツァ〉は孫〈フェデリコ〉とともにシチリア島でローマ教皇
〈
インノケンティウス3
世
〉の保護下に置いてもらう戦略をとりました。こうして,アラビア語など多言語に
彼はシチリアの宮廷で官僚制を整備するとともに
,
ドイツ騎士
団
【H30共通テスト試行】
を支援しました(騎士団総長の〈ザルツァ〉(任1209~1239)を支援)。彼らはバルト海沿岸に侵入し,先住のバルト系プルーセン人の支配とキリスト教化に成功します。これがのち
の
プロイセ
ン
のもととなります。その開拓のため
に
ドイツ植民運
動
【H30共通テスト試行 移動方向を問う】
が盛り上がっていったわけです。
〈フリードリヒ2世〉はイタリア北部への拡大政策をとったため,諸都市
は
ロンバルディア同
盟
を結成しています
【本試験H30】
。
○120
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年
~
150
0
年のヨーロッパ 中央ヨーロッパ
◆
〈フリードリヒ2世〉は拠点をドイツに置かず,ドイツは領邦国家となっていった
イタリア政策を重視するあまり,ドイツは不統一
さて,〈フリードリヒ2世〉は,地中海の十字路ともいわれるシチリア島で,イスラーム教徒たちとも交遊しながら,幅広い知識を身に着けていた人物です
。
第五回十字
軍
では,イスラーム教徒間の争いを利用して,イェルサレムをアイユーブ朝の〈アル=カーミル〉との外交交渉で開城してしまうというスゴ腕の持ち主です。ただイスラーム教徒とべったりしているように見えた彼の行為には批判も多く,教皇から破門された状態での十字軍となりました(「破門十字軍」といいます)。
また,教皇の下で設立され
た
ボローニャ大
学
に対抗して
,
ナポリ大
学
も開いています。
しかし,ドイツを留守にしがちだった〈フリードリヒ2世〉はドイツの領邦の機嫌をとるために,"独立国"であることを事実上認める妥協をしてしまいました(「諸侯の利益のための協定」)。こうして領邦は,皇帝から貨幣の発行権や裁判権などを認められて
"
領邦国
家
"へと発展していきました。彼の時代に東方に植民し
た
ドイツ騎士
団
も有力な領邦として,のち
の
プロイセ
ン
につながっていきます。
ホーエンシュタウフェン
朝
が断絶すると,皇帝不在の
"
大空位時
代
"(1256~73)
【本試験H19】
が始まりました。皇帝が短期間即位したこともありましたが,大して力のない諸侯や帝国の外の者であることが多く,不安定な時代でした。
有力諸侯によ
る
選
挙
で神聖ローマ皇帝が決められる仕組みもありましたが,「誰を選挙するか」を巡って難航したのです。「強力なリーダーシップを発揮できる強い人」が神聖ローマ皇帝になってくれればよいかというと,そういうわけでもありません。そんな人が皇帝になってしまったら,「自分の領邦がとりつぶされるかもしれない」と不安になりますし,ローマ=カトリック関係者も「ローマ教皇や教会に口出しをするようになるかもしれない」と危ぶみます。だから,みな強い皇帝を望まないわけです。
1273年には,しかし,当時シチリア王に即位していたアンジュー家の〈カルロ1世〉が,フランスの王を神聖ローマ皇帝に就任させ
て
ローマ帝
国
を復活させようともくろんだことに対して,1273年に「フランス王が神聖ローマ皇帝につくよりは,もっと弱
い
ハプスブルク
家
【本試験H26ホーエンツォレルン家ではない】
の
〈
ルドル
フ1世
〉についてもらったほうがマシだ」ということで,ドイツ王兼神聖ローマ皇帝に就任させることを決定しました。
こういうわけで,当時はまだ弱小諸侯だっ
た
ハプスブルク
家
の〈ルドルフ〉(位1273~91)に,"大空位時代"に使い始められた
「
神聖ローマ皇
帝
」の称号が与えられました。名前だけで,実質的には"神聖"でも"ローマ"を支配しているわけでもありません。
なお,教皇の取り決めで
,
ホーエンシュタウフェン
朝
の支配していたシチリア王国は,シチリア島がイベリア半島北東部
の
アラゴン王
国
に,ナポリ王国はフランス
の
アンジュー
家
に分割されて相続されました。
○120
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年
~
150
0
年のヨーロッパ 中央ヨーロッパ
◆
ハプスブルク家がオーストリアを拠点に成長する
オーストリアのハプスブルク家が成長 スイスは抵抗
ハプスブルク
家
【本試験H4ヤゲウォ朝とのひっかけ】
は11世紀にスイス北東部に"鷹の城"(ハビヒツブルク)を築いたことが発祥の弱小貴族でした。しかし,
〈
ルドルフ1
世
〉(位1273~91)は
,
ベーメ
ン
(ベーメンはドイツ語。ラテン語ではボヘミア)
【本試験H13オスマン帝国最盛期の領域には含まれない】
の〈オタカル2世〉(当時オーストリア公にも就任していました)か
ら
オーストリ
ア
を奪うと一気に強大化します。これ以降,ハプスブルク家の拠点はオーストリアとなります。でもオーストリアの獲得により,力がつきすぎてしまったハプスブルク家は,今後は諸侯に敬遠され,ドイツ王位が巡ってこなくなってしまいます。
のちに1291年に
,
スイ
ス
のウリ,シュヴィーツ,ウンターヴァルデンの3州が,神聖ローマ皇帝に抵抗し
て
スイス盟約者同
盟
を結成しました。これが現在のスイスの起源です。共和政が重んじられるとともに,スイス兵はヨーロッパ諸国で優れた傭兵として知られました。1499年にはシュヴァーベン戦争により,神聖ローマ帝国から実質的に13州が独立しました。
神聖ローマ皇帝の位を巡り,"大空位時代"のような混乱が起きてしまっては,ドイツ地方はフランスやイングランドの進出を受けるおそれもでてきます。そこで,「皇帝を選ぶための手続きや原則が必要だ」という話になりました。
こうして,ルクセンブルク家のベーメン王(位1346~1378)〈カレル1世〉であり,神聖ローマ皇帝に即位していた
〈
カール4
世
〉(位1355~1378)
【東京H18[3]】
【追H27 時期を14世紀か問う】
【本試験H23】
によって1356年に出されたのが
「
金印勅
書
(黄金文書(おうごんもんじょ))」
【東京H18[3]】
【本試験H19ユトレヒト条約ではない,H23】
【本試験H8】
【追H27時期が14世紀か問う、H30】
【立教文H28記】
です。7人の「選帝侯」が決められ,彼らによって神聖ローマ帝国の皇帝が選挙されることになりました
【追H30世襲されることになったわけではない】
【本試験H8諸侯権力を制限し,皇帝権力の優位を確立したわけではない】
。
彼はボヘミア王とハンガリー王も兼任し,神聖ローマ帝国の首都
は
プラ
ハ
に移されて,「黄金のプラハ」と呼ばれ栄えました。
14世紀にはイングランドの〈ウィクリフ〉や,ベーメンの〈フス〉など,カトリック教会を批判する勢力が支持を集めていました。これに対し,神聖ローマ皇帝の
〈
ジギスムン
ト
〉(位1411~37)は,混乱収拾のため
に
コンスタンツ公会
議
(1414~18)
【東京H18[3]】
【追H27アリウス派を異端としていない】
【本試験H14トリエント公会議(宗教裁判所による異端の取り締まりが強化される中での開催)ではない,本試験H18ニケア(ニカイア)公会議・メルセン条約・アウクスブルクの和議ではない,H22 15世紀ではない,H26エフェソス公会議ではない,H29トリエント公会議ではない】
を開催し,ローマ教皇の権威を確認し
て
教会大分
裂(
シス
マ
)
(1378~1417)
【セA H30】
を終結させるとともに,
〈
フ
ス
〉
派
【東京H18[3]】
【本試験H29】
や
〈
ウィクリ
フ
〉
派
【追H27イギリスの人ではない、時期が14世紀か問う】
【本試験H22 15世紀ではない,本試験H30】
を
異
端
として,
〈
フ
ス
〉
【追H19
】
を火
刑
【本試験H29】
としました
【H29共通テスト試行 図版(クローヴィスの洗礼とのひっかけ)】
。このとき祭壇に掲げられていたのは,『聖書』と〈トマス=アクィナス〉(1225?~74)
【共通一次 平1〈アウグスティヌス〉ではない】
の『神学大全』
【共通一次 平1】
でした。
ベーメ
ン
における
〈
フ
ス
〉
【追H19】
【東京H18[3]】
の教会批判は,ドイツ人(神聖ローマ帝国)の支配に対する批判の意味も込められており,〈フス〉支持者が反ドイツ
の
フス戦
争
(1419~36)
【追H26ポーランドではない】
【本試験H17時期・地域,H22】
【セA H30時期】
を起こします。チェック人の民族運動の側面もあったということです。
1438年の
〈
アルブレヒト2
世
〉(ドイツ王在位1438~39)以降,神聖ローマ皇帝は
,
ハプスブルク家が事実上世
襲
するようになっていきました
【本試験H26時期,ホーエンツォレルン家ではない】
【本試験H8プロイセン王ではない】
。「汝,結婚せよ」の家訓のもと,ハプスブルク家はヨーロッパの名門家系に一族を嫁がせまくり,ヨーロッパの支配階層の乗っ取りを初めていきます。
なお,神聖ローマ皇帝の〈フリードリヒ1世〉と〈2世〉のころ
,
ドイツ人の東方植
民
が盛んになりました
【H30共通テスト試行 人の移動方向を問う(ヨーロッパから西アジアへの移動ではない)】
。12世紀に
は
ブランデンブルク辺境伯
領
が成立
【本試験H30キエフ大公国とのひっかけ】
,13世紀に
は
ドイツ騎士
団
が成立しました。ブランデンブルク辺境伯は,1356年の金印勅書により選帝侯国となり,神聖ローマ皇帝を選ぶ権利を獲得し,のちに南ドイツの名門によ
る
ホーエンツォレルン
家
【追H29スペインの王位を獲得したことはない】
の支配を受けるようになりました。
○120
0
年
~
150
0
年のヨーロッパ 中央ヨーロッパ
◆
ハプスブルク家が「結婚政策」によりブルゴーニュとスペインを獲得した
さて,ハプスブルク家にはしばらく王位・皇帝位が回ってきませんでしたが,1440年に〈フリードリヒ〉がドイツ王に即位し,さらにローマで神聖ローマ帝国皇帝〈フリードリヒ3世〉に即位すると,勢力を盛り返します。一方,ハプスブルク家は,ヨーロッパの名門貴族と一族を親類関係にする戦略
(
結婚政
策
)を開始。〈フリードリヒ〉の息子〈マクシミリアン〉は,当時栄華を極めてい
た
ブルゴーニュ公
国
に接近します。ブルゴーニュ公国はスペインとフランスの干渉に悩まされており,ハプスブルク家と提携する理由がありました。彼は女公〈マリー〉と1477年に結婚し,マリーの父〈シャルル豪胆公〉が戦死する
と
ブルゴーニュ公国を領
有
しました。
2つ目に,スペイン王女の〈ファナ〉と王子〈ファン〉に,〈マクシミリアン1世〉は息子と娘をそれぞれ嫁がせることに成功。フランスを"挟み撃ち"にしようという意図から実現したのですが,運良く(?)スペイン王家が断絶したことで,1516年
に
スペインを領
有
しています。
西スラヴ
人
のポーランド人
,
チェック
人
【本試験H30ハンガリー人とのひっかけ】
,
スロヴァキア
人
は,ローマ=カトリック
【慶文H30「10世紀にポーランドが受容したキリスト教の宗派」を問う】
に改宗し,ラテン語の文化圏に入っていました。
10世紀初め
に
ピアスト
朝
を建国し
た
ポーランド
人
は,内紛により分裂していました。そんな中,モンゴル人の
〈
バト
ゥ
〉
【本試験H11ガザン=ハンとのひっかけ,本試験H12フラグではない】
【追H25ロシア遠征したか問う】
の侵攻を受けます。ポーランドの諸公国は,ドイツ騎士団とともにモンゴル人を撃退することに成功しましたが,その
後
東方植
民
やドイツ騎士団の誘致によってドイツ人の人口は増え続けていきました。移民の労働力を用いて農業生産力は拡大し,ドイツ商人が流入したことから都市も多く建設されました。
ドイツ商人ととも
に
ユダヤ
人
も1264年に〈ボレスワフ敬虔公〉(1221?~1279)によって発布されたカリシュ法により誘致され,移動してきました。ヨーロッパで迫害を受けていたユダヤ人は,ポーランドに来れば信仰が守られることを知り,押し寄せて来たのです。
そんな中,14世紀前半に即位した
〈
カジミェシュ大
王
〉(位1333~70)は, ドイツ騎士団に領土を譲ることで争いを避け,ボヘミア王国の拡大を押さえつつ
,
ウクライ
ナ
の領土を獲得し,王権を強めることに成功しました。内政では,クラクフに大学を設置(のちのヤギェウォ大学)し,ユダヤ人を手厚く保護しました。
大王の次は,フランスのアンジュー家出身のハンガリー王〈ラヨシュ1世〉(位1370~82)が王位を継承しました。しかし,ドイツ騎士団の勢力は強まる一方。しかも〈ラヨシュ1世〉に男の子の後継ぎがいなかったことが問題になります。
そこで,バルト海沿岸でまとまっていたバルト語系
の
リトアニア
人
と手を結び,ドイツ人に対抗しようとする動きが出てきたのです。早速,〈ラヨシュ1世〉の孫娘〈ヤドヴィガ〉(位1384~1399)ポーランド国王にして
,
リトアニア大公
国
【慶文H30】
の〈ヨガイラ〉と結婚させて,1386年にカトリックに改宗した
〈
ヨガイ
ラ
〉(ポーランド王在位1386~1434)もポーランド国王に即位しました。こうして,リトアニア大公国
【本試験H13】
はポーランド王国と合同し
て
ヤゲウ
ォ(
ヤゲロ
ー)朝
【東京H6[3]】
【本試験H4ハノーヴァー・ハプスブルク・ロマノフではない,本試験H7イヴァン4世は無関係】
【本試験H14ポーランド分割によって滅亡したわけではない,本試験H30ハノーヴァー朝ではない】
の
リトアニ
ア=
ポーランド王
国
【本試験H20世紀を問う】
を立ち上げ,共同してドイツ騎士団に立ち向かう体制を整えたのです。
15世紀にはドニエプル側下流域のウクライナ西部にまで進出し,黒海沿岸にいたる大帝国を形成しました。これにより,バルト海と黒海を南北に貫(つらぬ)く交易ルートを支配し,リトアニア=ポーランドは黄金時代を迎えます。1410年には,ポーランドとリトアニアの連合軍がグルンヴァルトの戦い(ドイツ語で
は
タンネンベルクの戦
い
)でドイツ騎士団に勝利しています。
・
120
0
年
~
150
0
年のヨーロッパ 中央ヨーロッパ
現②・③
チェコ,スロヴァキア
ルクセンブルク家のベーメン王(位1346~1378)〈カレル1世〉は,1355年に
〈
カール4
世
〉(位1355~1378)
【東京H18[3]】
【本試験H23】
として神聖ローマ皇帝に即位。彼によって1356年に出されたのが
「
金印勅
書
(黄金文書(おうごんもんじょ))」
【東京H18[3]】
【本試験H19ユトレヒト条約ではない,H23】
【本試験H8】
【追H30】
【立教文H28記】
です。
7人の「選帝侯」が決められ,彼らによって神聖ローマ帝国の皇帝が選挙されることになりました
【追H30世襲されることになったわけではない】
【本試験H8諸侯権力を制限し,皇帝権力の優位を確立したわけではない】
。
彼はボヘミア王とハンガリー王も兼任し,神聖ローマ帝国の首都
は
プラ
ハ
に移され,プラハの市域は拡大されて新市街が建設され,ヴルタヴァ〔モルダウ〕川の東岸・西岸を結ぶカレル橋や,王宮,1365年に建設されたティーンの聖母聖堂などは,「黄金のプラハ」と讃えられます(◆世界文化遺産「プラハの歴史地区」,1992(2012範囲変更))。
・
120
0
年
~
150
0
年のヨーロッパ 中央ヨーロッパ
現④
ハンガリー
◆
バルカン半島西部ではハンガリー王国が強大化し,オスマン帝国の進出を受ける
フィン=ウゴル語形ウゴル語派
の
マジャール
人
は,ウラル山脈周辺のヴォルガ川中下流域を現住地とし,ドナウ川中流域のパンノニア平原で10世紀末
に
ハンガリー王
国
を建国していましたが,次第にドナウ川上流から
は
ドイツ
人
の圧迫,下流から
は
オスマン帝
国
の圧迫を受けるようになっていきます。
のち,ハンガリー王〈ジギスムント〉の提唱で十字軍が提唱され,フランス,ドイツ,イングランド,イタリア地方の騎士が参加し,オスマン帝国の進出を防ごうとしました。しかし1396年にドナウ川沿い
の
ニコポリ
ス
(ブルガリアの北境)
【追H21】
【慶文H29】
で,オスマン帝国の
〈
バヤジット1
世
〉(1360?~1403, 位1389~1402)
【早・政経H31スレイマン1世ではない】
に惨敗し,オスマン帝国のバルカン半島の支配は決定的となりました。
○120
0
年
~
150
0
年のヨーロッパ バルカン半島
バルカン半
島
...現在の①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア
◆
ビザンツ帝国は,第四回十字軍で首都がヴェネツィアに占領され,のちオスマン帝国により滅ぼされる
バルカン半島はオスマン帝国の支配下に置かれる
第四回十字
軍
【追H19】
のときに
,
ヴェネツィア共和
国
【本試験H12フィレンツェではない】
の商人がイェルサレム奪回の目的からそれ,商圏獲得のためにコンスタンティノープルを攻略してしまったため,ビザンツ帝国はニケア帝国(1204~61)という亡命政権を建てました。一方のヴェネツィア主導の十字軍は
,
コンスタンティノープ
ル
【本試験H30】
に
ラテン帝
国
【本試験H29第七回十字軍ではない】
を樹立しましたが,その後東ローマ帝国は1261年にジェノヴァの支援を受けてコンスタンティノープルを奪回して復活します。
のち,ハンガリー王〈ジギスムント〉の提唱で十字軍が提唱され,フランス,ドイツ,イングランド,イタリア地方の騎士が参加し,オスマン帝国の進出を防ごうとしました。しかし1396年にドナウ川沿い
の
ニコポリ
ス
(ブルガリアの北境)
【追H21】
【慶文H29】
で,オスマン帝国の
〈
バヤジット1
世
〉(1360?~1403, 位1389~1402)に惨敗し,オスマン帝国のバルカン半島の支配は決定的となりました。
しかし,1453年にオスマン帝国の
〈
セリム2
世
〉の攻撃でコンスタンティノープルが陥落し,東ローマ帝国〔ビザンツ帝国〕(395~1453)は約1000年の歴史に幕を下ろします。
・
120
0
年
~
150
0
年のヨーロッパ バルカン半島
現②
ブルガリア
◆
第二次ブルガリア帝国が勢力を増したが,のちオスマン帝国に敗れる
第二次ブルガリア帝国が拡大する
第二次ブルガリア帝
国
(1185~1396)は,ビザンツ帝国の影響力を排除しブルガリアを独立教会とするためにローマ教皇〈インノケンティウス3世〉に接近し,1204年に使節を派遣しました。折しも1204年にはコンスタンティノープルが第四次十字軍により陥落し,ブルガリア王はヴェネツィアがコンスタンティノープルで建国し
た
ラテン帝
国
と戦い皇帝〈ボードワン1世〉(位1204~05)を処刑しています。
その後,〈イヴァン=アセン2世〉(位1218~41)の時代が第二次ブルガリア帝国の最盛期で,ハンガリー王女とも結婚し国際的な地位を高めました。しかし,民衆反乱や地方の領主貴族が台頭しモンゴル人の進入も受け,次第に王権は衰えていきます。
のち,ハンガリー王〈ジギスムント〉の提唱で十字軍が提唱され,フランス,ドイツ,イングランド,イタリア地方の騎士が参加し,オスマン帝国の進出を防ごうとしました。しかし1396年にドナウ川沿い
の
ニコポリ
ス
(ブルガリアの北境)
【追H21】
【慶文H29】
で,オスマン帝国の
〈
バヤジット1
世
〉(1360?~1403, 位1389~1402)に惨敗し,オスマン帝国のバルカン半島の支配は決定的となりました。
・
120
0
年
~
150
0
年のヨーロッパ バルカン半島
現④
ギリシャ
クレタ
島
は東ローマ帝国〔ビザンツ帝国〕が支配し,東地中海の拠点としていました。
しかし,1204年に第四回十字軍を主導し
た
ヴェネツィ
ア
共和国の領土となっています。
・
120
0
年
~
150
0
年のヨーロッパ バルカン半島
現⑥
コソヴォ
,⑦
モンテネグロ
,⑧
セルビア
,⑨
ボスニ
ア=
ヘルツェゴヴィナ
◆
バルカン半島南部ではセルビアが強大化したが,オスマン帝国の進出に敗れた
同じく南スラヴ系
の
セルビア
人
は,東ローマ帝国の影響下
で
ギリシア正
教
に改宗していました。1180年以降,〈ステファン=ネマニャ〉(位1168~96)の下でネマニッチ(ネマニャ)朝が勢力を拡大し,
セルビア正教会
(儀式(奉神礼)の用語は教会スラヴ語です)は1219年に独立教会となりました。14世紀前半にはブルガリアとの戦争にも勝利してバルカン半島におけるセルビアの優位を確立します。
その後14世紀の
〈
ステファ
ン=
ドゥシャ
ン
〉(位1331~55)はビザンツ帝国の法典を基礎に「ドゥシャン法典」を聖帝し
,
ボスニ
ア=
ヘルツェゴヴィ
ナ
,
アルバニ
ア
,
マケドニ
ア
を含むバルカン半島西半分を領土におさめた
「
大セルビア王
国
」を実現し強盛を誇りました。地方の領主のプロニア(世襲領地)を保護し支持を取り付け,1346年には首都スコピエ(現在のマケドニアの首都)でセルビア総主教から「セルビア人とギリシア人の皇帝」として戴冠されました。第一次世界大戦
(⇒1870~1920年の特集「第一次世界大戦」)
のときに,セルビア人青年がボスニアを併合したオーストリアの皇太子夫妻を暗殺したのは,かつてセルビアの領土であっ
た
ボスニ
ア
を併合してしまったオーストリアへの非難を表明する思想に基づいたものです。
しかしバルカン半島には,刻一刻と小アジア(アナトリア半島)からオスマン帝国の勢力が迫っていました。1355年に〈ドゥシャン〉が亡くなると,〈ウロシュ5世〉(位1355~71)の下で諸侯は独立傾向を強めバラバラになっていました。これをチャンスとみたオスマン帝国は1360年にま
ず
アドリアノープ
ル
(エディルネ)
【京都H19[2]】
【慶文H29】
を占領し,そこを足がかりに1389年6月15日
に
コソヴォの戦
い
でオスマン帝国の〈ムラト1世〉(位1362~89)
【早政H30】
を殺害したものの戦闘自体に敗れると,オスマン帝国による支配が始まりました。
・
120
0
年
~
150
0
年のヨーロッパ バルカン半島
現⑨
ボスニ
ア=
ヘルツェゴヴィナ
ボスニア北
部
・
中央
部
はハンガリーの支配下にありましたが,非常に山がちな地形のため統一的な支配は難しく実権は地方貴族が握っていました。12世紀後半に有力者〈クリン〉(位1180~1204)が首長(バン)となり1377年までハンガリーから事実上独立します
。
南部のフム地
方
(現在のヘルツェゴヴィナ)は1326年に北部の首長(バン)の国家が獲得。
この地域はローマ教会と正教会との覇権争いが熾烈でしたが,1347年にバンの〈コトロマニッチ〉はカトリックに改宗しました。
1377年には〈スチェパン=トヴルトコ〉が国王(位1353~91)として即位し「セルビア人,ボスニア人,沿岸地方の王」と名乗り
,
ボスニア王
国
となりました。晩年には「ダルマチアおよびクロアチアの王」も名乗り急成長を遂げます。
しかし〈スチェパン=トマシェヴィチ〉(位1461~63)のときにオスマン帝国に敗れ,抵抗が続けられたものの1483年に完全に征服されました。
・
120
0
年
~
150
0
年のヨーロッパ バルカン半島
現⑩
クロアチア
クロアチ
ア
はハンガリーの影響下に置かれていました。
ドゥブロヴニク共和
国
と改称したアドリア海沿岸の港市国家ラグシウムは,ヴェネツィアとハンガリー王国の宗主権の下で交易活動が認められ西ヨーロッパとバルカン半島を結ぶ拠点として栄え,のちにオスマン帝国の支配下においても交易活動が保障されました(◆世界文化遺産「ドゥブロヴニクの旧市街」,1979(1994範囲拡大))。
アドリア海沿岸のダルマチア地方にある都
市
ザダ
ル
は
,
第四回十字
軍
の際にヴェネツィアにより奪われましたが,ハンガリー王にしてクロアチア王である〈ラヨシュ1世〉(位1342~82)がダルマチア地方を奪回しています。
のち,ハンガリー王〈ジギスムント〉の提唱で十字軍が提唱され,フランス,ドイツ,イングランド,イタリア地方の騎士が参加し,オスマン帝国の進出を防ごうとしました。しかし1396年にドナウ川沿い
の
ニコポリ
ス
(ブルガリアの北境)
【追H21】
【慶文H29】
で,オスマン帝国の
〈
バヤジット1
世
〉(1360?~1403, 位1389~1402)に惨敗し,オスマン帝国のバルカン半島の支配は決定的となりました。
○120
0
年
~
150
0
年のヨーロッパ イベリア半島
イベリア半
島
...現在の①スペイン,②ポルトガル
◆
ポルトガルとカスティーリ
ャ=
アラゴンは,レコンキスタの完了後,イタリア諸都市とも連携して地中海を介さない東方貿易ルートを開拓していく
イベリア半島は,12世紀までにマドリードやトレドを含む北半分がキリスト教圏となり
,
ポルトガル王
国
,
カスティーリャ王
国
,
アラゴン連合王
国
(アラゴン=カタルーニャ連合王国)が建国されていました。
イベリア半島の北部~中央部のカスティーリャ王国と,北西部のアラゴン王国は,イベリア半島を支配してい
た
ムワッヒド
朝
【追H21時期(10世紀ではない)】
との戦いを進めていました。ムワッヒド朝はベルベル人を中核とした初期の軍事力が衰えをみせる中,1212年にキリスト教諸国の同盟軍によってラス=ナーヴァス=デ=トローサ(コルドバの東)で敗北し,13世紀後半には滅びました。
一方,イベリア半島南部のグラナダを都に,1232年に〈ムハンマド1世〉
が
ナスル
朝
(グラナダ王国)
【本試験H31セルジューク朝とのひっかけ】【H30共通テスト試行 スペイン王国と接触した可能性があるか問う】
【追H19ヒンドゥー教の影響は受けていない、H25マムルーク朝ではない】
【東京H24[3]】
【立命館H30記】
が建国されます
。
グラナダ
【東
京
H11[1
]
指定語句
】
【本試験H6バルセロナではない,本試験H8】
に残る,アラベスクの美しいイスラーム建築
【本試験H21ロココ様式ではない】
の
アルハンブラ宮
殿
【本試験H6】
【本試験H16コルドバではない,本試験H31セルジューク朝によるものではない】
【追H9スペイン王国が造営していない】
【立命館H30記】
(アラビア語の「赤い城」(al-Kalat-al Hamrah)に由来)は,〈ムハンマド1世〉により建造が開始され
,
ナスル
朝
の繁栄を今に伝えています
【本試験H28ビザンツ様式ではない】
。
しかしカスティーリャ王国による攻撃も受け,王位の継承にモロッコのマリーン朝(1196~1465)が介入して政権は混乱します。しかし,グラナダ朝は14世紀中頃の黒死病(ペスト)の流行や,カスティーリャ王国とアラゴン連合王国の対立にも助けられ,14世紀末にかけて〈ムハンマド5世〉(位1354~59,1362~91)の下で最盛期を迎え,アルハンブラ宮殿も改築されました。
ポルトガル王
国
は,イベリア半島の他のキリスト教国に先駆けてイスラーム勢力の駆逐に成功していました。1249年に南端の都市ファロをイスラーム政権から取り返した〈アルフォンソ3世〉(位1248~79)のときのことです。レコンキスタの終了後もイスラーム教徒との交易は活発に行われたほか,フランドル地方,イギリス,フランスとの貿易も盛んに行われました。1255年には都
が
リスボ
ン
【本試験H8】
となり,13世紀に開通していたイタリアとフランドルを結ぶ定期航路の中継点として,ポルトとともに商業で栄えました。ポルトガルはイタリア
の
ジェノヴ
ァ
商人と提携し,資本,技術,軍事力を導入していきます。ポルトガル王国は,すでに1340年代までには,北東の風に乗りモロッコ沖
の
カナリア諸
島
に上陸。しかし,1348年に
は
黒死
病
【東京H27[1]指定語句】
が猛威をふるい,総人口の3分の1が失われました。
〈
エンリケ航海王
子
〉(1394~1460)
【本試験H15,本試験H18時期(17世紀ではない)】
【追H20フランスではない】
は,ジェノヴァ共和国の支援も受けて航海学校を設立し,西アフリカの黄金を直接手に入れるルートを開拓しようとし
【本試験H15アフリカ西海岸の探検を行わせたかを問う】
,1427年には大西洋の沖合
の
アゾレス諸
島
を発見させています。1450年にはマリ帝国に到達し,彼らに武器や織物などの日用品を提供する代わりに
,
奴
隷
や
黄
金
を得るようになっていました。これ
が
ヨーロッパ人による,アフリカ人奴隷貿
易
の初めです。安く仕入れた物を高く売る。この行為がついに,ユーラシア大陸とアフリカ大陸をまたいで(のちに南北アメリカ大陸にまで広がって)展開されるようになります。
さらに,1450年にはポルトガル人が,ジェノヴァ人の投資を受けてカナリア諸島の北
の
マデイラ諸
島
で砂糖プランテーションを開始。プランテーションはカナリア諸島でも始まりました
。
植民地におけるプランテーショ
ン
の初めです。
こうしてポルトガル王国の
都
リスボ
ン
【セ試行 16世紀前半に世界商業の中心の一つであったか問う】
【本試験H30】
【同志社H30記】
は繁栄の時代を迎えるのでした。
◆
カスティーリャ王国とアラゴン連合王国が統一しスペイン王国となり,レコンキスタを完了させた
カスティーリャ王国は1348年に黒死病(ペスト)の影響を受け,人口減少・物価高騰・領主の没落ににつながり,14世紀後半~15世紀前半にかけた混乱の中でユダヤ教徒に対する迫害
(
反ユダヤ運
動
)も発生しました。レコンキスタ真っ最中の頃には,"共通の敵"であるイスラーム教徒の存在があったためユダヤ人とキリスト教徒の関係は良好でしたが,レコンキスタがいよいよ最終局面を向かえる頃となると,キリスト教徒はユダヤ教徒に対する敵視を深めていくようになったのです。1391年にはセビーリャで反ユダヤ運動が起きています。ユダヤ教徒の中にはキリスト教徒に改宗する者(コンベルソ)も現れますが,今度はコンベルソがキリスト教徒から「隠れユダヤ教徒」との汚名を着せられ迫害の対象となりました。
カスティーリャ王国では,14世紀後半に〈エンリケ2世〉(位1369~79)はトラスタマラ朝を創始し,歴代の国王は王権を強化しようとしていきましたが,国内の有力貴族の力は依然として強く,政治的には混乱が続きます。
経済的には,フランドル地方に輸出するために有力者によ
る
牧羊
業
が盛んとなり,造船業も発達しました。輸出産業の担い手となったのは,イタリアのジェノヴァ商人です
アラゴン連合王
国
も,やはり1348年
に
ペス
ト
の猛威を受け,人口減少・物価高騰・領主の没落を招きます。14世紀後半ともなるとオスマン帝国の地中海への進出を受けて経済が衰え,反ユダヤ暴動の影響もあり社会も混乱しました。そんな中,15世紀前半にカスティーリャ王国の摂政が,カタルーニャとアラゴンとバレンシアの代表者らにより国王〈フェルナンド1世〉(位1412~16)に推され,アラゴン連合王国はカスティーリャ王国と同じくトラスタマラ朝となりました。次の〈アルフォンソ5世〉(位1416~58)は,ナポリに宮廷を移してルネサンス文化を保護し,地中海交易を支配しようとしましたが,死後には内紛で混乱をみます。
こうして王権が強化され勢力を増してい
た
カスティーリャ王
国
と,衰えをみせるようになっ
た
アラゴン連合王
国
の支配層は,「互いに争っていては,イスラーム政権のナスル朝にとって有利になるだけだ」
【追H25中世後期に互いに対立していたためナスル朝は「漁夫の利を得て延命した」(問題文)】
と考え,政治的な統一を目指すようになっていきます。一方ナスル朝では王位継承をめぐる内紛が続き,両国による攻撃も激しさを増していきました。もともと小国であったナスル朝の経済は,ジェノヴァ商人を介する北アフリカやヨーロッパからの輸入頼みであり,ポルトガル王国の南下により北アフリカとの交易がしにくくなり,ジェノヴァ商人が交易から撤退すると大きな打撃を受けることになります。
そんな中,カスティーリャ王国王女
〈
イサベ
ル
〉
【本試験H6イギリスにジプラルタルを譲っていない】
【本試験H15,本試験H23,本試験H27】
と,アラゴン連合王国王子の
〈
フェルナン
ド
〉が1469年に結婚。1474年に〈イサベル〉はカスティーリャ女王(位1474~1504)に,〈フェルナンド〉は1479年にアラゴン国王(位1479~1516)に即位し,ポルトガルを除くイベリア半島を共同統治しました。一般に,この2人の王国の領域をもっ
て
スペイン王
国
(モナルキーア=イスパニカ)
【H30共通テスト試行 ナスル朝と接触した可能性があるか問う】
が成立したとされますが,2王国の立法・行政・司法・軍隊は別々であり,あくまでも2人は別々の国の王の肩書きを維持する複合的な王国でした。
1492年には,スペイン王国がイベリア半島における
イスラーム教徒による最後
【本試験H16イベリア半島最後の政権かを問う】
の政権
であ
る
ナスル
朝
(グラナダ王国)
【本試験H3ムラービト朝ではない】
【本試験H16,本試験H21時期】
の首
都
グラナ
ダ
を陥落させ,最後の〈ムハンマド12世〉が北アフリカに逃亡すると,足掛け800年近くかかったレコンキスタがようやく幕を閉じました。
レコンキスタの完了した1492年には,〈イサベル〉と〈フェルナンド〉の"カトリック両王"は
,
ユダヤ教徒追放
令
を発布。スペイン
【本試験H13フランスではない】
を追放されたユダヤ人やイスラーム教徒のなかには,オスマン帝国領内に移住した者もいました。なかにはキリスト教徒に改宗したり,改宗したように偽装したりする者もいました(キリスト教に改宗したイスラーム教徒のことをモリスコといい,改宗ユダヤ人のことをコンベルソといいます)。こうしたユダヤ教徒に対する迫害は14世紀後半以降高まっていた反ユダヤ運動運動の延長線上にあるものです。
〈イサベル〉と〈フェルナンド〉は1496年に教皇から"カトリック両王"の称号を授けられ,言葉や制度は別々でありながらも宗教的なまとまりは強化されました。言語に関して言えば,人文主義者の〈ネブリーハ〉が当時としては画期的な文法書である『カスティーリャ語文法』を記し,以降のポルトガルを除くイベリア半島で
は
カスティーリャ
語
が"スペイン"の言語としての地位を獲得していくこととなります。
◆
ポルトガルはレコンキスタの完了後,東方交易の新ルート開拓のため,西アフリカを南下した
ポルトガルは喜望峰まわりのルートを開拓
スペイン王国に先んじてレコンキスタを終えたポルトガル王国は,サハラ沙漠を通過せず
に
塩金貿
易
を,地中海を通過せず
に
東方交
易
をするため,西アフリカ沿岸への探検を開始しました。
その過程でポルトガル人は,1450年代に入るとキプロス島などの地中海で行ってい
た
プランテーショ
ン
(大農園制。広い土地で多くの労働力を使って,少ない種類にしぼって商品作物を大量生産し,市場に輸出するための農園)を,モロッコの東方のマデイラ諸島に導入し
,
サトウキ
ビ
の生産を開始しました。
その労働力として連行されたのが,アフリカ大陸
(
ギニア湾
岸
)の住民です。サトウキビの植え付けと刈り取りには,労働力が大量に必要になるのです。こうして,ヨーロッパ人によるギニア湾沿岸(西アフリカから中央アフリカにかけて)から大西洋を超える黒
人
奴隷貿
易
【本試験H24】
が本格化していきます。産業革命(工業化)以前の社会では
,
奴
隷
と
家
畜
は,重要な"動力源"だったのです。
ポルトガルはその後,アフリカ大陸の西端のヴェルデ岬沖に浮かぶ,カーボヴェルデでも同じようにプランテーションと奴隷貿易を行いました。また,スペインもカナリア諸島で同様の栽培・奴隷貿易を行いました。1488年には〈バルトロメウ
=
ディア
ス
〉(1450?~1500)
【本試験H14】
が喜望峰
【本試験H14地図(ディアスの航路を選択する)】
(注)を発見しています
【追H29時期(マゼラン世界周航,クックの太平洋探検との並べ替え)】
。
(注)岬なのに峰と呼ぶことについては,朝野洋一「喜望岬はどうして喜望峰なのか」を参照。http://open-university.yokappe.net/assignments/xiwangjiahadoushitexiwangfengnanokayuancichengxuexisentasuozhangchaoyeyangyi
◆スペインはレコンキスタの完了後,ユダヤ人を迫害した
レコンキスタと同時に、ユダヤ人迫害が起きる
遅れ
て
スペイン王
国
(アラゴン王国とカスティーリャ王国が合同して1479年に成立した
【本試験H29ポルトガル王国ではない】
。スペイン語で
は
エスパニャ王
国
)は,最後のムスリムの政権であ
る
ナスル
朝
(1232~1492)
【東京H24[3]】
を滅ぼし,レコンキスタを完了させました。
スペイン王国は支配下にあった全住民にキリスト教を強制したため,非キリスト教徒はイベリア半島から逃れました。その場にとどまり隠れて信仰を守る者もありました。ユダヤ人の中には,北アフリカや中東に逃れる者も多く,彼ら「離散ユダヤ人」
は
セファルディ
ム
と呼ばれています。
◆スペインの援助を受けた〈コロン〉は,アメリカ大陸に到達した
スペインの"逆転の発想"が新大陸発見につながる
スペインは1492年,ジェノヴァ
【上智法(法律)他H30】
出身の
〈
コロ
ン
〉
(コロンブス,1451?~1506)
【本試験H15イサベルの援助を受けていたかを問う,本試験H27カブラルではない】
【上智法(法律)他H30】
に投資し,大西洋に船隊を向かわせました。大西洋を西にすすめば,インドや日本(マルコ=ポーロは黄金の国
「
ジパン
グ
」と伝えていました)に近道で着けると考えたからです。〈コロン〉の弟は地図職人で,かつてポルトガルのリスボンに住んでいたときには,アイスランドにまで航海をしています。さらに,リスボン時代に地理学者
〈
トスカネ
リ
〉(1397~1482)
【本試験H4大航海時代の始まった要因か問う】
【本試験H15】
との運命的な出会いを果たし,彼の主張する「地球球体説」
【本試験H15】
の正しさを確信しました。
1484年,〈コロン〉はポルトガルの〈ジョアン2世〉(任1481~95)
【上智法(法律)他H30 支援は受けられなかった】
に西回り航路への資金援助を打診しますが,断られます。すでにポルトガルは,アフリカ南端から東回りでインドをめざす航路開拓の事業をすすめていたからです。
がっかりした〈コロン〉はスペインの港町パロスに移り,地元の貴族に資金提供をつのり快諾。さらにそのつてで,1486年スペインの
〈
イサベ
ル
〉女王
【本試験H23】
と〈フェルナンド〉王への謁見がゆるされたのです。しかし,またなかなか許可がおりません。
そこで,イングランド王の〈ヘンリ7世〉(位1485~1509)やフランスの〈シャルル8世〉(位1483~98)にも援助を打診し,フランスに向かおうとしていたところ,ちょうど1492年1月にイベリア半島最後のイスラーム教徒の拠点であるグラナダが陥落し,ナスル朝が滅亡。財政的余裕ができたこともあり,〈イサベル女王〉はふたたび関心を示し,ようやく〈コロン〉への資金援助が決まります。
王室と〈コロン〉は,次のような契約をします。
「〈コロン〉は発見した土地の副王・総督に就任する」
「発見した土地からの利益の10%は〈コロン〉のものになる」
満を持してインドを目指した〈コロン〉。ですが,彼が到達したのはカリブ海に浮か
ぶ
サ
ン=
サルバドル
島
【本試験H23】
でした。たしかに地球は球体だったのですが,「アメリカ大陸」の存在を前提にしていなかったので,地球を実際よりも1/3の大きさに見積もっていたのです。
その後の3度の航海中に,住民
の
アラワク
人
を奴隷として連れ去ったり,現地でプランテーションをはじめたりした〈コロン〉は,最後までこの地の住民を「インド人」
【上智法(法律)他H30】
と考えていましたので,住民は"インド人"(スペイン語
で
インディ
オ
)ということになりました。
1492年には,
〈
イサベ
ル
〉女王のスペインの要請を受け
た
ジェノヴ
ァ
生まれの〈コロン〉が,第一回航海に乗り出し,カリブ海
の
サンサルバドル
島
に到達しました。〈コロン〉は実はコンベルソ(改宗ユダヤ人)で,迫害を逃れユダヤ人の新天地を探していたのではないかという説もあります。当時のイベリア半島では,隠れユダヤ人や改宗ユダヤ人に対する異端審問が厳しくおこなわれていたのです。
〈コロン〉は,ユーラシア大陸・アフリカ大陸になかった多くの新しい植物・動物を持ち込みました
【本試験H14時期】
。ジャガイモ
【本試験H14時期,H29共通テスト試行 新大陸原産かを問う】
,トウモロコシ
【本試験H18】
,トマト
【本試験H18】
,トウガラシ(南アメリカにおける総称は「アヒ」
(注
)
),カカオ
【本試験H18コショウ・ブドウではない】
は,〈コロン〉以前は南北アメリカ大陸にしかなかったものです。ジェノヴァ生まれの彼がイタリアにトマトを持ち込んだことで
,
パスタのトマトソー
ス
が誕生することになります。また,シナモン・クローブ・ナツメグの香りをあわせもつとされることか
ら
オールスパイ
ス
と名付けられた香辛料もヨーロッパに持ち出されました。
反対に〈コロン〉が南北アメリカ大陸に持ち込んだものもあります。馬,鉄,車輪,さらに感染症(天然痘,ペスト,梅毒など)です。とくに感染症は,免疫のない南北アメリカ大陸の人々に猛威を振るいました。
(注)山本紀夫『トウガラシの世界史』中公新書,2016,p.5。
この知らせを受け,1493年に教皇〈アレクサンデル6世〉(スペイン出身,在位1492~1503)が,大西洋上にスペインとポルトガルの境界線を引いた。これ
が
教皇子午
線
です。
しかし,スペインのライバルであった〈ジョアン2世〉は,「スペインに有利な引き方だ。ずるい! もっと西に引かせてほしい」と,〈イサベル〉女王に話を持ちかけ,境界線を教皇子午線よりも西に引き直した。これが1494年
の
トルデシリャス条
約
【本試験H23すべてがスペイン領になったわけではない,本試験H27,H31オランダとスペイン間の取り決めではない】
【追H20スペインとイギリスの間の条約ではない】
です。
なお,のちにフィレンツェ
【セ試行 イタリア人か問う】
の
〈
アメリ
ゴ=
ヴェスプッ
チ
〉(1454~1512)
【セ試行】
【上智法(法律)他H30】
が〈コロン〉の到達した地がアジアではなく「新世界」("新大陸"とは言っていません)
【本試験H18】
であることを指摘したことから,ドイツの
〈
ヴァルトゼーミュラ
ー
〉(ヨーロッパ初
の
地球
儀
をつくった人物)が〈アメリゴ〉の名(ラテンゴ名はアメリクス)をとって,新大陸を「アメリカ大陸」と命名しました。これがアメリカの語源です
【セ試行】
【本試験H23先住民の言語由来ではない】
。
◆
〈コロン〉のアメリカ大陸発見後,ポルトガルはアフリカ大陸まわりのインド航路を開拓した
ポルトガル王室はアフリカまわりでインドに到達
西まわりをとった〈コロン〉に対し,ポルトガルは喜望峰まわりでのインド航路を開拓しようとします。1498年には
〈
ヴァス
コ=ダ=
ガ
マ
〉(1460?~1524)が,喜望峰をまわって,東アフリカ沿岸のスワヒリ文化圏の都市国家マリンディに寄り,その地の航海士〈イブン=マージド〉のガイドでインド洋を渡り,西南インド
の
カリカッ
ト
に到達しました
【H29共通テスト試行 地図資料と議論(ヴァスコ=ダ=ガマの航海以降にインドと東アフリカの交流が始まったわけではない)】
【H30共通テスト試行 時期(14世紀あるいは1402~1602年の間ではない)】
【名古屋H31記述(1500年前後のヨーロッパ人とインドの関わり)】
。
カリカットは
,
香辛
料
【東京H23[3]】
【H29共通テスト試行 ジャガイモではない】
貿易の中心地で
,
コショ
ウ
【本試験H11アメリカ大陸が原産ではない】
と
シナモ
ン
を積荷として持ち帰りました。これだけで航海費の60倍の価値があったそうです。
○120
0
年
~
150
0
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
西ヨーロッ
パ
...現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
◆
西ヨーロッパで農業生産力が高まり,商業が活発化する
この時代の西ヨーロッパでは、遠隔地をむすぶ商業も盛んとなります。
商
業
は,物資をある地点から別の地点に運ぶことで,「利ざや」を稼ぐ行為です。物自体に手を加えているわけではなく,ただ単に"珍しい"ものを地域に運ぶことで価値を生み出すわけです。しかし,高価な物は,山賊や海賊などに狙われるおそれがあります。安全な移動が商業活動にとっての生命線なので,その土地の支配者が誰なのかわからない状況であるよりは,統一的な権力が広い範囲にわたって平和を保障してくれていたほうが都合がよいのです。
中世の前期,つまり5世紀の西ローマ帝国滅亡から,ノルマン人の移動が激しかった10世紀くらいまでのヨーロッパは,不安定な情勢が続きました。しかし,11世紀~12世紀くらいになると,農業生産力が向上して村落共同体が生まれ
【本試験H15 11~12世紀にかけて封建社会が崩壊したわけではない】
,停滞してい
た
商業が復
活
します。
そこには、この時期の地球が「温暖期」であったことが関係しているともいわれています。例えば,1000年頃のヨーロッパの人口は3800万人ほどと推定されますが,これが12世紀には5000万人,13世紀には6000万人,14世紀のペスト流行の直前には8000万人にまで増加していたのです。
○120
0
年
~
150
0
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
◆
従来の農村拠点の修道院に代わり,都市を拠点とするフランチェスコ会が活発化する
托鉢修道会が都市と都市を結んだ
12世紀までの修道会は農村に大土地を所有して定住し,祈りや労働を主体とした生活を営むのが一般的でした。6世紀に設立され
た
ベネディクト修道
会
が代表例です。
ヨーロッパの社会が安定し人口が増大すると,12~13世紀に
は
シトー修道
会
【追H30托鉢修道会ではない】
などの修道院が,当時はまだヨーロッパ内陸部一帯に広がっていた森林を伐採し,耕地を広げる運動を起こすようになりました。この動き
を
大開墾運
動
【本試験H17リード文】
ともいいます。
それに対し
て
シトー修道
会
は
,
クリュニー修道
会
【立命館H30記】
を「豪華な服を着て儀式をする,貴族的なやつら」と敵視し,生地を染めずに白い法服をまとって,人里離れたところで農民の中に入って布教活動を行っていました。自給自足のつもりで経営していた農場は,いつしか利益を生むようになっていき,結果的に商業の活性化に貢献することにもなりました。
しかし,所領が広がれば広がるほど修道院の財産は増え,「清貧」を重んじるキリスト教の精神に反する傾向も生まれます。
そんな中,イタリアの修道院長〈フィオーレ
の
ヨアキ
ム
〉(1135~1202)の思想の影響を受けた人々が「これからの時代は,修道士がキリスト教世界を担うのだ」という運動をおこしていました(ヨアキム主義,異端とされました)。
〈ヨアキム〉の説は,彼の思想は『新約聖書』の以下の記述に触発されたもので
,
千年王国
論
といいます。
「彼らは生き返って,キリストと共に千年の間統治した。」
「彼らは神とキリストの祭司となって
,
千
年
の間キリストと共に統治する。」
(「ヨハネの黙示録」第20章4,6節)
初期キリスト教の時代以来,この部分の解釈をめぐっては様々な説が展開されてきました
(注
)
。
「今はつらいけれども,千年王国がすべてを解決してくれる...」
この魅力的
な
千年王
国
思想は,辛い境遇にある人々にこそ支持をひろげていきます。
こうした思想の影響を受け,キリスト教の原点に立ち戻り,托鉢(たくはつ,寄付を募ること)を行いながら説教をして都市を渡り歩く新しいタイプの修道会が現れます。これ
を
托鉢修道
会
といいます。
12世紀末からすでに教会の刷新運動は起きており,1170年には,リヨンの商人の〈ワルド〉も,財産をなげうってラテン語ではなく話し言葉でイエスの教えを説いて回りました
(注
)
。しかしこ
の
ワルド
派
は"異端"とされ,教会から破門されました。
(注)聖書の口語訳の最初。『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.121
その後,中部イタリアのアッシジの
〈
フランチェス
コ
〉(1181?82?~1226)自らすすんでセレブ暮らしを捨てて極貧生活を選び,托鉢(たくはつ。お金をくださいと人にお願いすること)をしながら人々に説教をしました。1209年に創設されたフランチェスコの修道会は,教皇の堕落にウンザリしていた人々の心を捉えていくと
,
フランチェスコ
会
の中でも穏健なグループが1210年に教皇〈インノケンティウス3世〉により公認されました。人々は,カトリック教会による神秘的な儀式よりも,わかりやすい説教を求めていたのです。なお修道会は,カトリック教会と目的や生活スタイルが異なるだけで,信仰の内容はカトリック教会と同じです。
1215年には〈ドミニコ〉が南フランス
で
アルビジョ
ワ
(カタリ
)
派
の改宗に尽くして
,
ドミニコ修道
会
を創設しました。ドミニコ修道会には過激な武闘派が集まりましたが,教皇は彼らの勢力をカタリ派退治に利用したわけです。
彼らはパリ大学での教義研究にも熱心で,12世紀にイスラーム世界から伝わっていた古代ギリシアの
〈
アリストテレ
ス
〉の学説をキリスト教に導入するなど,最先端の知の導入にも積極的でした。
フランチェスコ修道会とドミニコ修道会といった托鉢修道会が,都市を中心に学問・経済・文化・外交において活躍をした13世紀のことを
「
托鉢修道会の時
代
」ともいいます。
○120
0
年
~
150
0
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
◆
西ヨーロッパ各地で開墾・開拓運動が活発化し,遠隔地交易が発達する
北の毛織物・ニシン,南からの香辛料
ネーデルラントの工業地
帯
フランド
ル
では修道院が中心となって干拓(海の水を抜いて,陸地をつくること)
【本試験H7 11世紀以降の西欧で農業生産力が向上した要因か問う】
を積極的にすすめ,運河も建設されるようになります。また,土地を持った農民は協力し
て
堤
防
を築き
【本試験H7 11世紀以降の西欧で農業生産力が向上した要因か問う】
,開墾をすすめました。アムステルダムやロッテルダムなど,現在のオランダに残る地名の「ダム」は,堤防のことです。
大開墾運動や鍛冶技術(かじぎじゅつ)の改良によ
る
鉄製農
具
の使用,さら
に
重量有輪
犂
(じゅうりょうゆうりんすき。重い犂を牛に引かせるトラクターのこと)の利用にともない農業生産が増大していきました。
地中海周辺の二圃制農業を夏に雨の降るアルプス山脈以北の気候向けにアレンジし,農地を大きく3区分(大麦・ライ麦
の
春耕
地
,小麦・えん麦
の
秋耕
地
,休ませ
る
休耕
地
)し,年ごとにローテーションさせ
る
三圃
制
【本試験H7 11世紀以降の西欧で農業生産力が向上した要因か問う】
が,9世紀にフランク王国の一部,12世紀にはロワール川以北の西ヨーロッパで見られるようになりました。こうすれば,ライ麦やえん麦を家畜のエサにしつつ,休耕地を設けることで土地を休ませることができるため,生産力がアップしました。三圃制が導入された地域では,城主が広い土地を一円的に支配する動きがみられます。
これら農具や家畜の共同管理,共同の農作業
【本試験H7】
の必要から,農民たちは団結し
て
農村共同
体
をつくるようになります
【本試験H7 11世紀以降の西欧で農業生産力が向上した結果,農民相互の結びつきが強くなったか問う】
。
他方,南フランスなどの地中海沿岸では穀物栽培よりもブドウ栽培や牧畜が盛んで,三圃制は普及せず(二圃制のまま),広い地域を支配する城主も現れませんでした。
人口が増え,余剰生産物が発生し,それらを交換する人々が増えていきます。交換を効率よく行うには,欲しい人と売りたい人が出会う時間と場所が決まっていれば好都合です。初期のころは,「毎月1日に,どこどこに集まろう」と決めておいて,そこでマーケットを開きました。
人が集まりやすいところというのは決まっています。川と川が交わるところとか,交通の便のよいところです。例えば12~13世紀の北フランス
の
シャンパーニュ地
方
【追H28】
【本試験H23,H30】
では,4つの都市で開催されていた6つの市場をつないだ「大市」(大規模
な
定期
市
)
【追H28】
【本試験H23】
が開かれていたことで有名です。
ヨーロッパの南北を結ぶ交易路は
,
ミラ
ノ
北方のサンゴタール峠を抜け→ストラスブール→ヴォルムス→マインツ→ケルン→ネーデルラントに至るルートや,スイス
の
ジュネー
ヴ
方面からアルプスを越え,ブザンソン
→
シャンパーニ
ュ
地方に至るルート
,
マルセイ
ユ
からアヴィニョンに北上し,ローヌ川をさかのぼって→トロア
→
パ
リ
に向かうルートなどがありました。
それが,1300年頃にヴェネツィアが北方のブレンナー峠を抜けてアウクスブルク→ニュルンベルクに至るルートを開通して以来,さらに活発化していくことになります。
海路でも,1291年頃にジェノヴァ人がジブラルタル海峡を抜けて,ネーデルラントに至るルートを開拓。ジブラルタル海峡を挟むイスラーム教勢力のせいで阻まれていたルートに,
(1) 南から北へ ...地中海に面するイタリアの港町や内陸都市から,東方の物産や工業製品がアルプスを越え
て
(2) 北から南へ ...バルト海沿岸の木材・海産物・穀物や
,
フランドル地
方
(現在のベルギー)の羊
の
毛織
物
【東京H17[3]】
が運ばれてくる。
(1)と(2)が出会う場所が
,
シャンパーニ
ュ
であったということですが,イベリア半島のイスラーム政権の衰退とともに,海路ルートが盛んとなって次第に衰退に向かい,金融の中心もネーデルラント(低地地方)
の
アントワー
プ
に移っていきました。
○120
0
年
~
150
0
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
◆
イタリア諸都市が商業によって栄え,金融業が発展し複式簿記も発達した
イタリア商人とドイツ商人が,自治を求めた
ちなみに,地中海に面するイタリアの港市としては
,
ヴェネツィ
ア
や
ジェノヴ
ァ
,
ピ
サ
が有名です。ビザンツ帝国などの東方から,香辛料・絹織物などのぜいたく品(奢侈品(しゃしひん))が運び込まれます。ピサには14世紀の教会大分裂の時期に,教皇庁が置かれたこともあります
【本試験H24フィレンツェではない】
。
ジェノヴ
ァ
は13世紀には,櫂船(オールでこぐ船)により,ジブラルタル海峡を経由し
て
北
海
(イギリスとスカンディナヴィア半島,ユーラシア大陸の間に囲まれた海)に入りフランドル地方,バルト海に到達する交易ルートを開いていました。
彼らの中には,お金を出資する人と,船を出して遠隔地交易をする人の役割分担がなされるようになり
,
コンパニ
ア
(カンパニーの語源です)やソキエタスといった共同事業を行う会社が作られるようになっていきました。遠距離航海には難破のリスクがありますが,成功すれば利益をがっぽり得るチャンスもあります。巨大プロジェクトの場合には莫大な資金が必要になりますが
,
利
子
(キリスト教で禁止されていましたが"罰金"という屁理屈で許可されました)をつけて後から返済する形で資金を集める仕組みも開発されていました。
取引が複雑化するにつれ,すでに地中海沿岸の商人により使用されていた会計を「貸方」と「借方」に分けて記録す
る
複式簿
記
も発達していきました。13世紀以降のイタリアでは「...記憶にしたがって取引することをやめ,みずからペンを執って取引にかかわることがらを克明に書き留めるようになった」。この「商業の文書化」が,「各地にはりめぐらされた商業通信網をつうじて代理人と連絡をとりながら取引をすすめるように」なる「商業の定地化」を促します。すると,商人から離れ他者に委託された貨幣も商品の安全を保証する仕組みとして,貨幣については為替や振替銀行,商品については運送業と保険が発達します。「このように入り組んだ取引関係を一望のもとに把握する手段として,簿記が発達して」いったのです
(大黒俊二「為替手形の「発達」―為替のなかの「時間」をめぐって―」板垣雄三ほか編『シリーズ世界史への問い3 移動と交流』,p.114)
。
イタリアの内陸都市としては
,
フィレンツ
ェ
や
ミラ
ノ
,シエナが有力で,11世紀以降,水車を利用した毛織物工業
【本試験H24,本試験H30フィレンツェで栄えたのは綿織物工業ではない】
や,それでもうけたお金を個人や外国政府に貸し付ける金融業(きんゆうぎょう)で栄えます。工業というのは,「物を作ること」だと思ってください。金融業は,「お金を貸して,利子でもうけること」です。
フィレンツェ
【追H28アウクスブルクではない】
で金融業により栄えた一族を
,
メディチ
家
【追H28】
といい,のちに市政を牛耳るだけでなく,
〈
レ
オ
1
0世
〉(ジョヴァンニ=デ=メディチ)のように教皇になる者も現れました。
また,イタリアからドイツ方面を結ぶルートにあたる南ドイツでは
,
アウクスブル
ク
【追H28フッガー家が栄えたのではない】
や,その北のニュルンベルク
【追H20地図問題】
が発達しました。アウクスブルク
【本試験H24フィレンツェではない】
の銀山を支配し,金融で栄えたの
は
フッガー
家
【追H28メディチ家ではない】
【本試験H7新大陸の銀を利用したわけではない】
【本試験H22・メディチ家ではない・地図上の位置,本試験H24】
です。神聖ローマ帝国に資金を貸し付けて,皇帝を手のひらで転がすようにもなっていきます。
物資の交易が盛んになればなるほど,12世紀中頃までに農村部にも貨幣経済は広まっていきました。
領主は所領でとれた収穫物を「市場に売ってお金に変えたい」と考えるようになりました。領主は生産物ではなく,貨幣によって地代
(
貨幣地
代
)をとるようになっていきます
【本試験H5 「14~15世紀に領主の貨幣需要の増大,戦費の増加などにより,領主財政は危機に見舞われた」か問う(正しい)】
。
都市の起源はさまざまで,ローマ帝国に軍隊が駐留していた都市もあれば,ローマ教会
の
司教座都
市
(司教が置かれた教会のあるところ)を起源とするものもありました。しかし,商人にとってみれば「汗水たらして手にした財産を,支配者に税として取られるのは嫌だ」と思うのが自然です。
領主は,自分の領地の中に商人の集ま
る
商業都
市
ができると,商人から税金がたんまりとろうと画策します。当初都市は領主に従っていたものの,商工業の発達によって力をつけていくと,だんだんと領主から自治権
【本試験H14不輸不入権・叙任権ではない】
が与えられる動きがみられるようになります。こうして,11~12世紀以降に領主の支配を脱した都市を
,
自治都
市
といいます。都市は行政と立法の機能をもつ市参事会や,裁判・軍事・外交の機関を持っていました。
北イタリアでは,司教を倒し
て
自治都
市
(
コムー
ネ
)
【追H30】
となる例が多く,周辺の農村も含めて
【追H30「周辺の農村を支配に組み込んで」】
完全に独立した都市国家となりました。
フィレンツ
ェ
では平民層が都市の支配権を握ります。
ヴェネツィ
ア
では総督と都市貴族が評議会を結成してヴェネツィアと海外領土を支配しました。後背地の森林地帯は船の材料となるため伐採がすすみ,ヴェネツィアの海上進出を支えました。
やがてミラノを中心に12~13世紀に2
度
ロンバルディア同
盟
を形成し,神聖ローマ帝国の進入に対抗するようになります。
ドイツでは,神聖ローマ皇帝が「領邦と同じ地位を与える」特許状を与えて
,
自由都
市
(
帝国都
市
)となる例が見られました。神聖ローマ帝国では,いくつもの領邦が立ち並ぶ"どんぐりの背くらべ"状態でした。そこで,とくに南ドイツの都市に,領邦と同等の権利を与え
て
帝国都
市
とし,皇帝・国王に直属させることで,他の領邦を牽制(けんせい)したのです。
自由都
市
にはほぼ完全な自治権が与えられ,バーゼル,ケルン,マインツ,ヴォルムス,シュトラスブルク,シュパイアー,レーゲンスブルクの7都市が指定されました。のちに帝国都市と自由都市の区別はなくなり,帝国自由都市とされます。ライン川の重要な支流であ
る
マイン
川
(マイン川を上流にさかのぼると,ドナウ川の上流に繋がります)の流れ
る
フランクフル
ト=
ア
ム=
マイ
ン
(フランクフルト)も帝国自由都市の一つで,市の参事会(さんじかい)には自分たちで指導者を選出する権利が認められていました。ただし自分たちで選べるといっても,投票できるのは一部の上層市民たちでした。
リューベッ
ク
【本試験H22,本試験H26地図上の位置,本試験H29フィレンツェではない】
を中心とする諸都市の通商同盟であ
る
ハンザ同
盟
(13世紀~17世紀)
【追H26ロンバルディア同盟とのひっかけ】
【本試験H21自由競争を保障する組織ではない】
は,14世紀になる
と
北ヨーロッパ商業
圏
(北海からバルト海にかけての商業圏)を支配するようになりました。互いの都市に支店や倉庫を置くことで,無用な争いを避けたのです
。
ハンブル
ク
【本試験H19アントウェルペンとのひっかけ】
やブレーメンのほか,遠隔地のロンドン,ブリュージュ,ノヴゴロド,ベルゲンにも商館が設置されました。リューベックには西方からは毛織物が,東方からは小麦,コハク,毛皮や木材・樹脂が運び込まれ,北ヨーロッパにおける東西貿易の中心部として栄えました。
ハンザとは「組合」という意味で,共通の貨幣・法・度量衡・軍隊も保有していました。花形商品は"海の銀貨"と呼ばれ
た
ニシ
ン
です。バルト海のニシンは年に1度産卵のために浅瀬にやってくるのですが,春にニシンがやってくるスウェーデン南部の漁場には,毎年8~9月に塩漬けニシンの魚市場が開かれるよぬいなりました。ここはバルト海~北海を回遊するニシンの通り道でもあり,ドイツ
の
リューベッ
ク
商人などヨーロッパ各地から来る承認でにぎわいました。キリスト教徒には四旬節(しじゅんせつ)という期間(40日間)は肉を控えて金曜に魚を食べるという習わしがあったため,ニシンが重宝(ちょうほう)されたのです。(現在でもスウェーデン北部ではシュールストレミングという世界一臭い食べ物に認定されたニシンの発酵食品があります。まず口に近づけるだけでも大変なので,一人で食べきることは難しいと思います)。
○120
0
年
~
150
0
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
◆
都市の内部にはギルドが形成された
都市内部では自由競争ではなくギルドによる団結
イングランドでは,諸侯
〈
シモ
ン=ド=
モンフォー
ル
〉(1208頃~65)
【追H26ヘンリ8世に対して反乱を起こしたのではない】
【立教文H28記】
の反乱により,都市の代表が議会にはじめて招集されるようになりました
【共通一次1989イギリス最初の議会ではない】
。彼はのちに内戦で敗死しています。
中世の自治都市
【本試験H9城壁で囲まれていたか問う】
の中には
,
ギル
ド
【追H26自由競争を促進していない】
【本試験H9】
【本試験H21自由競争を保障する組織ではない】
という同業組合がありました。ギルド(同業組合)とは何でしょうか。都市内部に,靴屋が3軒あったとします。この3軒が,たがいに安い価格を競ったら,体力が持たずにつぶれてしまうかもしれません。そこで「茶色い男性用革靴のLサイズの価格は最低でも1万円にしよう」などと取り決める。すると,お客さんはこの3軒のうちどの店に行っても1万円なので,それが予算内に収まっていれば,本当に欲しいなら1万円で買ってくれるはずです。短い目で見れば,他の2軒はお客さんを取られてしまったわけですが,長い目で見れば,競争を回避できます。また,1軒ずつ違う場所から材料の革を仕入れるよりも,3軒まとめて仕入れたほうが,輸送費・交通費・手数料は低く抑えられますね。人が足りないときには,従業員をシェアすることもできます。
商人もギルドを作りました
(
商人ギル
ド
【本試験H14時期(15世紀以降ではない)】
)。遠く離れた場所に共同で使える旅館や休憩所,資金を借りることができる場所や,商品を置いておく倉庫が設置され,お互い助け合ってビジネスをする関係を築いていました。また,お金もうけは「情報戦」でもあります。「卵を一つのカゴに盛るな」という言葉どおり,資金のすべてを一つのビジネスにつぎ込んでしまったら,失敗したときのリスクは大きい。そこでリスク分散のために,商人はしばしば協力をしました。そのネットワークが広範囲で強いほど,その商人グループには多くの資金が集まっていくでしょう。彼らは都市の中で大きな声で意見を主張するようになり,やがて市政を独占するようにもなっていきました。市民のこと
を
ブルジョ
ワ
と言います。誓約をたてて市民権を獲得した市民たちは,都市への愛着や結びつきが強く,都市の紋章・印璽(いんじ。公文書に押すハンコのこと)・年代記(13世紀頃から俗語による記録がみられるようになっています)・詩などが多く作られました。
しかし,商人の輸出する商品をつくらされているのは手工業者です。手工業者が丹精込めて作った靴の値段を決めるのは,商人ギルド。
それに対して,不満を持った手工業者は,組合
(
同職ギル
ド
(
ツンフ
ト
)
【本試験H2親方と職人・徒弟は対等ではない,本試験H10時期(古代ギリシアではない),本試験H12「自由競争を保証し,生産統制を撤廃した」か問う】
【本試験H23自由競争を保障する組織ではない】
)をつくって商人ギルドから分離し,商人ギルドの持っている市政に参加する権利を求めて争いました。これ
を
ツンフト闘
争
【東京H26[3]用語の説明】
といいます。
しかし
,
同職ギル
ド
の組合員には,独立して自分の店を持
つ
親
方
しかなることができませんでした
【本試験H2親方と職人・徒弟は対等ではない】
【本試験H28職人・徒弟が加入できたわけではない】
。親方になるためには
,
徒
弟
や,その上
の
職
人
の身分で長い下積み経験を経る必要があったのです。誰でも自由に親方になって店を開けてしまったら,店が多すぎて過当競争になってしまうという面があるからです。「自由(競争)」か「平等(規制)」かという選択は,今後も人類にとって大きな課題となっていきます。
ちなみに,職人が親方として暖簾(のれん)を分けることが認められるには,マスターピースという作品をつくって,その出来を親方に認められる必要がありました。マスターピースには英語で「傑作」という意味がありますね。都市にはほかにも,共通の守護聖人を崇敬
(注)
す
る
兄弟
団
という相互扶助組織がありました。少しずつお金を出し合って,困っているときや冠婚葬祭のときに少しずつ助け合うための組織です。
なお,
「
都市の空気は自由にす
る
」(Stadtluft macht frei,都市の空気は「その人を」自由にするという意味)
【東京H23[3]】
【慶文H29】
という言葉のように,領主の支配下から逃亡された農奴や手工業者は,1年と1日,が経過すれば都市の住人として自由になれるとする法もありました。
(注)ローマ=カトリック教会では聖人を崇「拝」しているのではなく崇「敬」していると考える(カトリック中央協議会ウェブサイトhttps://www.cbcj.catholic.jp/)。
○120
0
年
~
150
0
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
◆
大聖堂の建設は,ヨーロッパの経済発展を象徴するもの
聖母マリア信仰,ゴシック様式の大聖堂,聖歌
さて,これだけ商業が発達すると,その経済力を背景に各都市には,天高くそびえ立
つ
ゴシック様
式
【本試験H23】
【追H19】
の聖堂が建てられるようになります。最初の例は1135年頃にフランスに建てられたサン=ドニ大聖堂(フランス王が埋葬される教会)です。尖ったアーチ(尖頭アーチ)
【追H25ゴシックの特徴か問う】
と,太陽光がカラフルで幻想的な光となって入り込む仕掛けとなってい
る
ステンドグラ
ス
【本試験H25ビザンツ様式の特徴ではない】
【追H25ゴシックの特徴か問う】
,石積みの壁の重みを分散させるためのフライング=バットレスが特徴。
以下の大聖堂が特に有名です。
・現在のフランス:パリのノートルダム大聖堂
,
シャルトル大聖
堂
【本試験H17】
【追H30ロマネスク様式ではない】
,アミアン大聖堂
,
ランス大聖堂
・現在のドイツ
:
ケルン大聖堂(ケルン司教座聖堂
)
【追H25ビザンツ様式ではない】
(◆世界文化遺産「ケルンの大聖堂」1996,2008範囲変更)
・現在のイギリス;カンタベリ大聖堂
ステンドグラスに表現されたのは,聖書の話や都市にまつわる聖人の物語です。聖堂には鐘楼が付けられており,鐘の音が都市の時間を支配していました。
特にシャルトル大聖堂のステンドグラス「美しき絵ガラスの聖母」は,青を基調とした幻想的な仕上がりで有名です
【本試験H17宗教改革を記念して建設されたわけではない(時期が異なる)】
。この時期には聖母
〈
マリ
ア
〉のモチーフが,ノートルダム(=我々の貴婦人)という名前からもわかるように,広く信仰を集めます。
ゴシック様式以前の,1000年頃から1200年頃には,厚い石壁と小さな窓を特徴とす
る
ロマネスク様
式
(
【東京H24[3]
】
【
本試
験H
10ロマネスク様式ではない】
【本試験H23】
【追H25尖塔・ステンドグラスが特徴ではない(ゴシック様式とのひっかけ)】
斜塔のあ
る
ピサ大聖
堂
【本試験H10ビザンツ様式のサン=ヴィターレ聖堂とのひっかけ】
【本試験H30】
【追H19】
が有名)が有名でした。採光が弱いので,中に入ると薄暗く,重厚な雰囲気に包まれています。
初期の頃は和音ではなく単音のフレーズから成り立ってい
た
グレゴリオ聖
歌
も,天井の低いロマネスク式の教会の中なら音がこもって厚みが出ます。これにより,複数の旋律を合わせた多声の音楽(ポリフォニー)が発達していくことになります。
神聖ローマ帝国の皇帝が,自らの権威を示すために各地に建てたのが始まりです。聖堂以外にも,市庁舎や商館など,さまざまな建物が建てられました。都市の中心には広場があって,政治的な発表,公開処刑,定期市が催されました。
1300年頃からは従来の社会の仕組みがだんだんと変化し,新たな仕組みが見られるようになっていきます。
主君から頂いた土地が"命"ほどの大切さとして感じられるには,「自給自足」の経済が前提です。土地がなければ何も手に入らない状況。それが崩れ始めるのは,商業が復活していったからです。小麦粉が欲しければ,小麦を栽培し,それを挽かなければなりませんが,商業が盛んになれば,市場に行けば簡単に手に入るようになります。
農民の中には,自分で生産物を売って,貨幣を貯める者も現れます。領主も貨幣が欲しくなりますから,農民から貨幣で税をとろうとするようになる。従来,領主は自分の土地で農民に働かせる形の税
(
賦
役
(ふえき)といいました)を課していましたが,「これからはお金で納めてくれればいいから」と方針転換する領主も現れました。
しかし,14世紀に入ると気候が寒冷化し,飢饉や不作が相次ぎ,追い打ちをかけるよう
に
黒死
病
(
ペス
ト
,ブラック=デス)が大流行し,人口が激減。そこで領主は,少ない農民で領地を経営していくために,生き残った農民たちを大切に扱うようになります。待遇を向上させた農民の中には,不自由な身分であ
る
農奴から解
放
される者も現れ始めました(イギリス,フランス,西南ドイツに多いです)。
○120
0
年
~
150
0
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
◆「
1
4
世紀の危機」を越え,各地で領域国家が形成されていく
この「
1
4
世紀の危
機
」を乗り越え,ヨーロッパには排他的な支配領域を持つ領域国家が成立していくことになります
。
領域国
家
を建設していっ
た
国
王
らの支配層は,官僚制・常備軍を整え,域内のさまざまな身分の権力を押さえつつ財政基盤を確立しようとしました。
しかし,諸侯の中には没落して,さらに格上の大諸侯や国王に領主を取られるものも出てきます。
さらに,14~15世紀に
は
火
砲
が発明され従来の一騎打ちの戦法
が
歩
兵
と
砲
兵
を主力とする戦法に変化し
,
諸
侯
や
騎
士
は用無しになり始めていました。没落した騎士は,国王のいうことを聞く形で生き残りを図るようになります。
国王は諸侯・騎士にいうことを聞かせるため,商人と結んで経済力をつけていきました。商人にとっても,統一的な権力があったほうがビジネスを安全におこなうためには有利なので,国王に戦争資金を援助するなどして,権力に取り込みます。国王は一部の商人に特権を与え,彼らを保護していきました。
・
120
0
年
~
150
0
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現①
イタリア
神聖ローマ帝国とローマ教皇との叙任権闘争は,1122年に〈ハインリヒ5世〉(位1106~25)と教皇との間に締結され
た
ヴォルムス協
約
で,皇帝にドイツの司教に封土を与える権利があることを確認して,一応の決着をみました。
〈ハインリヒ5世〉と次の〈ロータル3世〉(位1125~37)には子がなかったので,ザリエル朝が断絶し,諸侯の選挙
で
ホーエンシュタウフェン
家
の〈コンラート3世〉がドイツ王に選ばれました。彼はイタリアへの積極的な進出をしたために,交易の活発化で成長していたイタリア諸都市の反発を招き,ホーエンシュタウフェン家の皇帝派
の
ギベリ
ン
と,教皇派のヴェルヘン家によ
る
ゲル
フ
との間に内乱が勃発しました。
しかし,〈コンラート3世〉の甥
〈
フリードリヒ1
世
〉が,ドイツ王(位1152~90)と神聖ローマ帝国皇帝(位1155~90)に即位しました。彼は通称・赤ヒゲ王(バルバロッサ)と呼ばれ,第三回十字軍に参加したほか
,
第三回十字
軍
(1189~92)にも参加しました。
しかし,彼も和平を撤回し
て
イタリア政
策
を推進し,1258年に北イタリアを占領しました。それにたいして,ミラノを中心
に
ロンバルディア同
盟
【本試験H19】
が結成されました。
〈フリードリヒ1世〉の孫
〈
フリードリヒ2
世
〉(皇帝在位1215~50)
【本試験H27ハプスブルク家ではない】
は
シチリア
島
を相続し,宮廷をもうけて官僚制を整備しました。〈フリードリヒ2世〉に対しても,イタリア北部の都市
は
ロンバルディア同
盟
を結成しています。
【本試験H30】
。
13世紀になると,イタリアの諸共和国では都市
の
貴
族
と民衆(武装した民衆
。
ポポ
ロ
といいます)との対立が表面化し,紛争につけこん
だ
有力
者
(地方の地主貴族)によって市政が乗っ取られることもありました。この有力者
は
シニョー
リ
(領主)となって,都市の安全を保障するかわりに,一族により市政を牛耳るようになりました
【本試験H2イタリアでは富裕な市民たちが政権を握る共和国が成立したか問う】
。
さて,〈フリードリヒ2世〉は,地中海の十字路ともいわれるシチリア島で,イスラーム教徒たちとも交遊しながら,幅広い知識を身に着けていた人物です
。
第五回十字
軍
では,イスラーム教徒間の争いを利用して,イェルサレムをアイユーブ朝の〈アル=カーミル〉との外交交渉で開城してしまうというスゴ腕の持ち主です。ただイスラーム教徒とべったりしているように見えた彼の行為には批判も多く,教皇から破門された状態での十字軍となりました(「破門十字軍」といいます)。
また,教皇の下で設立され
た
ボローニャ大
学
に対抗して
,
ナポリ大
学
も開いています。
しかし,ドイツを留守にしがちだった〈フリードリヒ2世〉はドイツの領邦の機嫌をとるために,"独立国"であることを事実上認める妥協をしてしまいました(「諸侯の利益のための協定」)。こうして領邦は,皇帝から貨幣の発行権や裁判権などを認められて
"
領邦国
家
"へと発展していきました。彼の時代に東方に植民し
た
ドイツ騎士
団
も有力な領邦として,のちのプロイセンにつながっていきます。
ホーエンシュタウフェン
朝
が断絶すると,皇帝不在の
"
大空位時
代
"(1256~73)
【本試験H19】
が始まりました。皇帝が短期間即位したこともありましたが,大して力のない諸侯や帝国の外の者であることが多く,不安定な時代でした。
14世紀にはイングランドの〈ウィクリフ〉や,ベーメンの〈フス〉など,カトリック教会を批判する勢力が支持を集めていました。これに対し,神聖ローマ皇帝の
〈
ジギスムン
ト
〉(位1411~37)は,混乱収拾のため
に
コンスタンツ公会
議
(1414~18)
【本試験H14トリエント公会議(宗教裁判所による異端の取り締まりが強化される中での開催)ではない,本試験H18ニケア(ニカイア)公会議・メルセン条約・アウクスブルクの和議ではない,H22 15世紀ではない,H26エフェソス公会議ではない,H29トリエント公会議ではない】
を開催し,自体の収拾を図ります。
そんな中,15世紀前半にはミラノとヴェネツィアがイタリア東部をめぐり争いますが,1454年に和約を締結しています
。
ヴェネツィ
ア
は,一部有力家系が大評議会をつくり,ドージェ(頭領)を選出して政治を行っていました。
○120
0
年
~
150
0
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現①
イタリア
◆
イタリア諸都市では商人が政治・経済を独占し,ルネサンスのパトロンになった
メディチ家は,「古代ギリシア」文化を旗印とした
シエナ
シエナには12世紀にコムーネが成立して,自治が行われていました。しかし約60km北にあ
る
フィレンツェ共和
国
【本試験H22地図上の位置】
とたびたび衝突し,14世紀中頃のペスト〔黒死病〕の流行により人口が激減し,衰退に向かいます。
1382年に完成した大聖堂(ドゥオーモ)や,カンポ広場,マンジャの塔(102m)をもつゴシック様式の市庁舎が,当時の繁栄を物語っています(◆世界文化遺産「シエナの歴史地区」,1995)。
フィレンツェ
フィレンツェ共和
国
【本試験H22地図上の位置】
は交易により栄え,1252年にフローリン金貨を鋳造し,国外でも使用されています(◆世界文化遺産「フィレンツェの歴史地区」1982,2015範囲変更)。
1378年に毛織物業者
の
チョンピの反
乱
が暴動を起こしています。毛織物をつくる過程のなかでも特に大変な工程である「梳毛(そもう)」を担当していたのは,都市のなかでも特に下層の職人。数ヶ月ではあるものの,下層労働者による政権がフィレンツェに樹立されますが,直後に上層労働者により崩壊しています。
その後は上層市民への資本の蓄積がすすみ,1434年に銀行家
の
メディチ
家
【本試験H22・H24フッガー家ではない,本試験H15・H27ともに芸術家を保護したか問う】
が支配的となっていました
(#漫画 〈惣領冬実〉による漫画『チェーザレ 破壊の創造者』はこの時代を扱っています。〈マキャヴァッリ〉〈コロン〉なども登場)
。
〈ジョヴァンニ〉が銀行業で成功し,死後に長男の
〈
コジ
モ=デ=
メディ
チ
〉(1389~1464)が一時フィレンツェを追放されるも,翌年には復帰。
彼はフィレンツェの美化に努め,フィレンツェ市民の支持を受けて地歩を固めていきました。愛称は"イル=ヴェッキオ"(おじいさん)。
しかし,1453年。オスマン帝国によるコンスタンティノープル陥落のニュースはイタリア半島に衝撃を与えます。相争っている場合ではないと,〈コジモ〉はみずから動き,1454年にはイタリア諸都市,ナポリ王国,教皇との間の和約を取りまとめます(ローディの和)。
このときの協定参加国は次の通り。
①メディチ家支配
の
フィレンツェ共和国
②スフォルツァ家支配
の
ミラノ公国
③寡頭支配
の
ヴェネツィア共和国
④
ローマ教皇領
⑤
ナポリ王国
キリスト教の登場する前のギリシアやローマの思想を研究する学者を保護した〈コジモ=デ=メディチ〉
【慶文H30記】
は,古代の〈プラトン〉の私
塾
アカデメイ
ア
に憧れたてプラトン=アカデミーを開き,学者の活動を支援しました。例えば
〈
ピ
コ=
デ
ラ=
ミランド
ラ
〉(1463~1494)は,『人間の尊厳について』で人間には自由な意志があるのだことを主張。〈フィチーノ〉(1433~1499)
【慶文H30問題文】
は〈プラトン〉研究をおこなっています。
〈コジモ〉はほかにも,新しい技法を美術に導入していた
〈
ブルネレス
キ
〉
【本試験H24】
【慶文H30記】
(1377~1446,フィレンツェ出身,フィレンツェのサンタ=マリア大聖堂
【本試験H10ビザンツ様式ではない。サン=ヴィターレ聖堂とのひっかけ】
のドームを設計
【本試験H24ハギア=ソフィア聖堂ではない】
),〈ドナテッロ〉(1386~1466,フィレンツェ出身,線遠近法を開発)を保護しました。
〈コジモ=デ=メディチ〉の死後に跡を継いだ〈ピエロ〉は短期間で亡くなり,その子の
〈
ロレンツ
ォ=デ=
メディ
チ
〉(1449~1492)
【慶文H30記】
が後を継ぎました。しかし,フィレンツェの支配権をめぐり教皇〈シクストゥス4世〉(位1471~8
4
システィーナ礼拝
堂
を建設した人。システィーナとは彼の名
)がメディチ家のライバルのパッツィ家と協力し,〈ロレンツォ〉と弟〈ジュリアーノ〉を襲撃。〈ジュリアーノ〉は殺害されたものの,生き残った〈ロレンツォ〉はこの
"
パッツィ家の陰
謀
"の事実を暴き,パッツィ家の人々を処刑。教皇は今度はナポリ王国と協力して攻めますが,〈ロレンツォ〉は和平に持ち込みます。
彼は,ギリシア神話をモチーフとした「春」「ヴィーナスの誕生」を生み出した
〈
ボッティチェ
リ
〉(1445~1510)
【本試験H4時期(15~16世紀か問う)】
を保護し,「ダヴィデ像」で有名な
〈
ミケランジェ
ロ
〉の才能も発掘しました。
しかし,〈ロレンツォ〉の息子〈ピエロ〉は外交政策で失敗し,フィレンツェから追放されます。
代わって,1497年にドミニコ会士
〈
サヴォナロー
ラ
〉がメディチ家による市政の独占やローマ教皇を批判し,フィレンツェで宗教改革を目指し,「虚栄の焼却」と名付けて多くの書物や美術品を焼きました。しかし,ライバルのフランチェスコ会士の反発を受け,1498年に火刑に処されました。この混乱の直後,
〈
ミケランジェ
ロ
〉は巨人に立ち向かう
「
ダヴィデ
像
」を制作(1501~1504)。しかし,フィレンツェが活力を取り戻すことはありませんでした。
ヴェネツィア
ヴェネツィアでは1284年にドゥカート金貨が鋳造されています。この
この頃,父と叔父とともに陸路で東方に旅行し
た
ヴェネツィア共和
国
【本試験H29場所を問う】
の商人
〈
マル
コ=
ポー
ロ
〉(1254~1324) は,大都で元の〈クビライ〉につかえたとされ,帰路は元の皇女を結婚のためイル=ハン国まで運ぶ船に同乗しました。体験談を
『
世界の記
述
(東方見聞録,イル=ミリオーネ)』にまとめ,大きな反響をもたらします。
○120
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年
~
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0
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現①
イタリア
◆
シチリア島はノルマン人の支配下で,中央集権的な国家機構を発達させていった
「地中海の十字路」シチリアで政治・文化が栄える
ナポリとシチリアにノルマン人によって1130年に建国されてい
た
両シチリア王
国
(ノルマン=シチリア王国)です
【本試験H16地図、本試験H29アヴァール人ではない】【H30共通テスト試行 地図上の移動経路(ノルマン人は、北アフリカからイベリア半島に進出して「シチリア王国」を建国したのではない)】
【追H24地図上の位置】
はのちに断絶し,神聖ローマ皇帝〈フリードリヒ2世〉を出したドイツのシュタウフェン朝にわたります。
この時代のシチリア島はまさに「文明の十字路」で,古来さまざまな文化の行き交う"最先端"の島でした。両シチリア王国の〈ルッジェーロ2世〉には,イスラーム教徒の地理学者
〈
イドリーシ
ー
〉がつかえ,当時としてはかなり正確な世界地図(直径2mの純銀円盤に南を上にした形で描いたもの
(注1)
)を描いています。
彼
は
ローマ
法
を整え,中央集権的な官僚制度が整えられていきます。
ヨーロッパにおける近代国家の"先駆け"の様相を呈します
(注2)
。「中央集権的な官僚制度」とはいっても,中国のように官吏任用試験をおこなったわけではありません。1224年
に
ナポリ大
学
を設立し,ここで官吏を養成したのです。さしずめ"公務員養成予備校"といったところです。
この時期を通して,フランス王国と神聖ローマ帝国は,互いに競ってイタリアへの支配権を獲得しようとしていました。特に,神聖ローマ皇帝の支配下に置かれた都市は
「
ギベリ
ン
(皇帝派)」,教皇の配下の都市は
「
ゲル
フ
(教皇派)」に属し,互いに抗争を繰り返すようになっていきました。狙われるということは,それだけイタリア都市国家が栄えていたということでもあります。
(注1)その前史として、
8世紀
の
アラビア語によるギリシア古典・ローマ法の翻訳運動
、
9世紀
の聖像破壊運動後の
ビザンツ帝国における古典復興
がありました。南イタリアは12世紀ルネサンスのセンターとなり、当時のヨーロッパ人にとっての「外来の学問」をラテン語に翻訳していきました。
たとえば、イングランドの〈ヘンリ1世〉はバースのアデラード(アデラルドゥス、1090?~1160?)を派遣し、スコラ学研究のためアラビア学問を研究し、〈エウクレイデス〉を翻訳、
インドの数体系
を初めて西ヨーロッパに紹介しました(つまり、フランスのキリスト教神学、南イタリアのギリシア古典文化、アラブの吸収・創始した諸学問をまたぐ"知の巨人"であったのです!)。ほかに柴田平三郎(1946~)が「
中世の春
」ともいう〈ソールズベリのジョン〉(ヨハンネス、1150?20?~1180)の活躍や、ブロアのペトルス(1130?35?~1211?12)の活動があります。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.147。ディミトリ=クダス、山本啓二訳『ギリシア思想とアラビア文化―初期アッバース朝の翻訳運動』勁草書房、2002年を引いて。
(注2)高山博『中世地中海世界とシチリア王国』東京大学出版会、1993年。
◆「シチリアの晩鐘
」
(1282
)
以降は,シチリア=アラゴン家,ナポリ=アンジュー家の支配へ
シチリアとナポリの支配権は,シュタウフェン朝からフランスのアンジュー家へと代わります。
しかし,アンジュー家貴族による過酷な支配へのシチリア島民の反乱をきっかけに,1282年
"
シチリアの晩
鐘
(ばんしょう)"と名付けられた騒乱が起き,シチリア島はイベリア半島
の
アラゴン
家
の支配下となりました。
一方アンジュー家は,ナポリ王国を支配しつづけたので
,
シチリア王
国
と
ナポリ王
国
に別れることになりました。
144
2
年にアラゴン王国〈アルフォンソ5世〉の征服で,ナポリもアラゴン家の支配下に
1442年にアラゴン王国〈アルフォンソ5世〉の征服により
,
シチリア=アラゴン家,ナポリ=アラゴン
家
となります。
そこへ,1494年にフランスの〈シャルル8世〉がナポリ王国の継承を要求して始まったのが
,
第一次イタリア戦
争
なのです
【セ試行 時期(1558~1603年の間か問う)】
。こうして,1454年に成立していたイタリア半島の5大国によるローディの和は破られ,イタリア半島は衰退の時代を迎えます。
フランスの南進に対し
,
ボルジア
家
出身のローマ教皇
〈
アレクサンデル6
世
〉(位1492~1503)は対抗し,愛人との子〈チェーザレ=ボルジア〉(1475~1507)に軍を率いさせます。ボルジア家は"陰謀"の使い手で,権謀術数をもちいてイタリアの諸勢力を混乱させつつ,自身は権力を掌握していきました。この様子をみていたのは,のちに『君主論』をあらわすことになるフィレンツェの外交官
〈
マキャヴェッ
リ
〉(1469~1527)でした。
メディチ家の失策と,ローマ教皇のやりたい放題ぶりをみて,フィレンツェでは1498年に〈サヴォナローラ〉による教皇批判も起きています。
○120
0
年
~
150
0
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現①
イタリア
◆
イタリアの都市国家は東方貿易を通して新技術や情報を次々に導入する
イタリアは,ユーラシアに向けた「窓」に
イタリアの都市国家の人々は,オスマン帝国と
の
東
方
(レヴァント
)
貿
易
によって都市が商業的に栄えるとともに,イスラーム教徒を通して,キリスト教文化とは異なる文化に接するようになっていました。12世紀に始まるイスラーム教徒を通した
【共通一次 平1】
,古代ギリシア
【共通一次 平1】
などのキリスト教以前の文化の流入を
1
2
世紀ルネサン
ス
といいます。
ヨーロッパ
に
また,1494年にイタリアの商人・数学者〈ルカ=パチョーリ〉(1445?~1517)が,複式簿記に関する解説を著作『スムマ』の中でしており,これ
が
複式簿
記
についての現存する最古の記録となっています(複式簿記自体は12世紀頃から使用されていました)。
○120
0
年
~
150
0
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現①
イタリア
◆
イタリアで,古代ギリシア文化やローマ文化を再評価する人文主義の運
動(
ルネサン
ス)
が活発化した
ヨーロッパ文化にギリシア・ローマ文化が接続される
こうした革新的な情報の交流を背景に,「人間らしさ(人間性)」を我慢せずに自由に表現しようとする運動が,14世紀から16世紀にかけてヨーロッパで起きます。これがいわゆる
"
ルネサン
ス
"です。
その大きな特色は,ギリシア文化・ローマ文化
【本試験H26ゲルマン文化】
のように人間に中心を置く考え方であ
る
人文主
義
(ヒューマニズム)
【本試験H17スコラ学とのひっかけ】
です。この考え方をとった知識人
を
ヒューマニス
ト
と呼びます。
中世ヨーロッパはキリスト教のカトリック教会の権威が絶対で,それに歯向かうことが許されていませんでした。しかし,いざ国家が宗教の束縛から自由になると,「自分の国のことだけ」を考えて,国家どうしが血も涙もない戦争に明け暮れる時代に突入したのです。これからの時代の君主たるもの,権謀術数(相手をだましたりはめたりしようと策をめぐらすこと)が必要だと解き,キリスト教に代わる新たな「正義」について考えたのが,フィレンツェの
〈
マキャヴェッ
リ
〉
【東京H22[3]】
【本試験H7史料が引用。モンテーニュ,エラスムス,トマス=モアではない】
【本試験H14ホッブズではない】
です。「キツネのずる賢さと,ライオンのどうもうさ」というフレーズで有名な
『
君主
論
』
【東京H22[3]】
【本試験H14『リヴァイアサン』とのひっかけ】
は,「権謀術数」のほうが強調されて広まりましたが,時代の変化に対応した国家運営について,この時期にもっとも深く考えていた人です。
〈
ダン
テ
〉
(1265~1321)
【本試験H4時期(15~16世紀ではない)】
【本試験H15・H17】
【追H28、H30】
はフィレンツェで
『
神
曲
』
【本試験H15・H17】
【本試験H8時期(14~15世紀)】
【追H28,H30】
を口語
【追H28ラテン語ではない】
で書き,カトリック教会を物語の中で批判しています。物語の中には,古代ローマの詩人
〈
ウェルギリウ
ス
〉(英語名はヴァージル,前70~前19)
【追H30】
が登場し,〈ダンテ〉本人とともに地獄・煉獄・天国をめぐるという内容です。中世のキリスト教の世界で使われていたラテン語はヨーロッパ文化圏の共通言語でしたが,教育を受けていない一般の民衆は読むことができませんでした
【本試験H12「(12~13世紀の西ヨーロッパの)大半の人々は,ラテン語で書かれた聖書が読めなかった」か問う】
。親しみのある口語(フィレンツェ地方
の
トスカナ
語
【本試験H15】
)で記されたところが,今までになかった革新的な特徴です。
〈ダンテ〉の影響を受けた
〈
ボッカチ
オ
〉(1313~75)
【共通一次 平1〈ラブレー〉ではない】
【本試験H8時期(14~15世紀)】
【本試験H15画家ではない】
【追H25ガルガンチュア物語の作者ではない】
は
『
デカメロ
ン
』
【共通一次 平1】
を書いています。またボローニャ大学で法律を学んだ
〈
ペトラル
カ
〉(1304~74)
【本試験H24時期】
は,古典の研究をしながら,人間の内面を深くとらえた多くの恋
愛
抒情
詩
【本試験H24】
を残し,"最初の近代人"ともいわれます。
彼らの影響はヨーロッパの他の地域にも広がり,イングランドでは
〈
チョーサ
ー
〉(1340?~1400)
【共通一次 平1
【追H25ガルガンチュア物語の作者ではない】
が
『
カンタベリ物
語
』
【共通一次 平1『ユートピア』ではない】【本試験H8時期(14~15世紀),本試験H12騎士道物語ではない】
をロンドンの俗語
【共通一次 平1:英語か問う】
で書き"イギリス文学の父"と称されました。ネーデルラントでは
〈
エラスム
ス
〉
(1469~1536)
【本試験H4時期(15~16世紀か)】
【本試験H24時期・H28,H31ラブレーではない】
【追H20スコラ学(スコラ哲学)とは関係ない】
が
『
愚神礼
賛
』
【本試験H24,H28,H31(ラブレーではない)】
【追H19モンテーニュの著作ではない】
を書き,社会を風刺しています。イングランドでは16世紀末~17世紀初に
〈
シェイクスピ
ア
〉(1564~1616)が戯曲を発表しています。
絵画では,15世紀前半に遠近法が確立され,「より本物らしく描く」ことが重要視されるようになります。古代ローマの建築が導入されて,大きなドームが印象的
な
ルネサンス様
式
【本試験H10ロマネスク様式とのひっかけ】
【追H20ロマネスク様式ではない】
がつくられます。
16世紀には,「ダヴィデ像」の作者の
〈
ミケランジェ
ロ
〉(1475~1564)らにより,ローマ
で
サ
ン=
ピエトロ大聖
堂
【本試験H10サン=ヴィターレ聖堂とのひっかけ】
【追H20ロマネスク様式ではない】
が新築されました(◆世界文化遺産「ヴァチカン市国」,1984)。
「最後の晩餐(ばんさん)」
【追H28遠近法を駆使したか問う】
、肖像画「モナ=リザ」を描いた「万能の天才」
〈
レオナル
ド=ダ=
ヴィン
チ
〉
【本試験H4時期(15~16世紀か問う)】
【追H9 ガリレオ=ガリレイとのひっかけ,H20、H28「最後の晩餐」を描いたか】
もこのときの人で
(注
)
,聖母子像を描いた
〈
ラファエ
ロ
〉
【本試験H14イエズス会の宣教師ではない(カスティリオーネとのひっかけ)】
【大阪H30図版「アテネの学堂」】
とともに,ルネサンスの三大巨匠といわれます。
なお,美術の影響は他の地域にも広まります。
ネーデルラントでは,
〈
ファ
ン=
アイク兄
弟
〉(兄1370?~1426,弟1380?~1441)
が
油絵技
法
を改良
し
フランドル
派
の祖となりました。ただし,兄の実在には疑問もあります(兄は「ヘント祭壇画」,弟「アルノルフィニ夫妻の肖像」が代表作)。「四使徒」(四人の使徒)
【追H20図版(解答には不要)】
【慶文H29問題文】
で有名なドイツの
〈
デューラ
ー
〉(1471~1528)
【追H20リード文】
【慶文H29】
は版画を制作し,ルターの考えに共感して〈ルター〉の訳した新約聖書からドイツ語の聖句が抜き出され「四使徒」の絵の下部に刻まれています
【追H20リード文】
。ザクセン選帝侯の宮廷画家
〈
クラナッ
ハ
〉(1472~1553)も,宗教改革を支持し「磔刑図」(たっけいず)や〈ルター〉の肖像画を残しています。
(注)「最後の晩餐」はミラノのサンタ=マリア=デッレ=グラーツィエ修道院に収められ
,
壁画自体
も
世界文化遺産に登録されています(◆世界文化遺産「同修道院とレオナルド=ダ=ヴィンチの『最後の晩餐』,1980」)。
・
120
0
年
~
150
0
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現⑧
アイルランド
,⑨
イギリス
北部のスコットランド王国ではイングランドの支配が強まり,1296年にはイングランド国王〈エドワード1世〉によって,スコットランド王家の象徴である「スクーンの石」
(
運命の
石
)が戦利品として略奪されます。
その後,13~14世紀にかけてイングランドからの独立戦争が起きます。抵抗運動に立ち上がった英雄として〈ウィリアム=ウォレス〉(1270?~1305)が有名です。1306年に戴冠した
〈
ロバー
ト1世
〉(ロバート=ドゥ=ブルース。1306~1329)の下で勝利しています。
(注)運命の石はウェストミンスター寺院のイスに埋め込まれました。1950年にはスコットランド民族主義者により盗難に遭い破損。1995年に正式に返還されました。リチャード・キレーン,岩井淳他訳『図説 スコットランドの歴史』彩流社,2002,xxxii~xxxiii。〈ロバート=ブルース〉は1314年のバノックバーンの戦いでイングランド軍に決定的勝利をおさめます(同,p.73)。
・
120
0
年
~
150
0
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現⑦
フランス
◆
フランス王国は,南フランスへの拡大に成功し,北アフリカへの進出に失敗する
フランス王国は王権を強め,地中海岸に拡大する
カペー朝フランス王国の9代目
〈
ルイ9
世
〉(位1214~1270年)は,ローマ教皇のお墨付きを得て
,
南フラン
ス
への進出を強めます。12世紀半ばからフランス南部のトゥールーズやカルカッソンヌなどのラングドック地方で一大勢力を築いてい
た
アルビジョワ
派(
カタリ
派
【追H27】
【本試験H16オランダではない,本試験H29】
)
退治が名目です
(
アルビジョワ十字
軍
【本試験H29】
)。カタリ派の教義は不明な点も多いですが,現世=汚い=悪,来世=汚れがない=善という善悪二元論に基づき,ブルガリアで始まったボゴミル派(10世紀中頃)との関連があるようです。結婚(生殖=汚い)をしないことや厳しい菜食主義(肉=汚い)が理想とされ,腐敗していたローマ=カトリックと比べ魅力的と写ったようです。
この十字軍はヨーロッパ国内の異端勢力を攻撃する者に,教皇が「イェルサレムの十字軍と同じくらいの功徳(くどく)がある」と認めて始まったもので,"ヨーロッパの内部における十字軍"でした。〈ルイ9世〉は1229年に,多大な犠牲を払って西南フランスのラングドック地方を制圧しています。
〈ルイ9世〉の時代はフランスが平和を迎えた時代でした。パリを流れるセーヌ川のシテ島にあるサント=シャペル(1248完成)も,彼の命令で完成したステンドグラスをもつゴシック様式の教会です(◆世界文化遺産「パリのセーヌ河岸」,1991の一つ)。
余裕ができた〈ルイ9世〉は
,
第七回十字
軍
を決行し,「聖王」(英語ではセントルイス)と呼ばれて権威を高めました。1248年に出発した〈ルイ9世〉
は
アイユーブ
朝
のエジプトを攻撃しましたが,マムルークである〈バイバルス〉に敗れて人質となり,莫大な身代金を支払って解放されました。
なお,アイユーブ朝でもクーデタが起こり
,
マムルーク
朝
が誕生しています。このマムルーク朝の〈バイバルス〉は,1258年にバグダードを占領したモンゴル人の〈フラグ〉と対決し,勝利しています。
前後しますが,〈ルイ9世〉は,イスラーム教勢力を挟み撃ちにできる相手を探すために,1253年にローマ=カトリック内部にあ
る
フランシスコ
会
の修道士
〈
ルブルッ
ク
〉
【京都H20[2]】
をモンゴル帝国へ派遣しています。さらに行政官や裁判官を整備して,国内の統治も強化していきました。
一方,フランス南部の異端に対す
る
アルビジョワ十字
軍
は,第11代の
〈
フィリップ4
世
〉(位1268~1314年)
【追H27ユーグ=カペーではない】
のときに終わります。南部には独自のオック語文化が発展していて,フランス系
の
吟遊詩
人
(
トゥルバドゥー
ル
。人名ではなく職業。宮廷で騎士の恋愛を抒情詩(気持ちをのせた歌)でうたった)は南部の出身者です。「愛する
(注)詩は筆者が一部改編。木村尚三郎編『世界史資料・上』東京法令出版,1977,p.421
◆
フランス王〈フィリップ4世〉は身分制議会をひらき,財政基盤を確立しようとした
フランス王国の拡大を進めたカペー朝フランスの王には,増加していた宮廷費や軍事費を確保するために,国内の諸身分の合意を得ようとしました。商業の発達にともない生まれていた新興勢力
の
都市住
民
の代表を1つのグループ
(
第三身
分
【追H26平民は第二身分ではない】
)として,今まで
の
貴
族
(
第二身
分
)
や
聖職
者
(
第一身
分
)とともに,フランス王国を構成する重要な身分の1つに位置づけ,この三身分のバランスを考えてコントロールしようとするようになります。
その例が
〈
フィリップ4
世
〉
【東京H8[3]】
【共通一次 平1】
【本試験H18・H23・H26】
【追H30三部会を招集したか問う】
です。彼は,ノートルダム大聖堂の3つの身分を集めて,「これからローマ教皇
〈
ボニファティウス8
世
【共通一次 平1:グレゴリウス7世ではない】
【本試験H25レオ3世ではない】
【追H29インノケンティウス3世とのひっかけ】
【立教文H28記】
と争うことになるけれどもいいか」と意見を聞いたんですね。ばらばらに一人ひとりの意見を聞いて回っていては収拾がつきませんから,これは効率のよい方法です。
フランスの身分制議会
を
三部
会
【共通一次 平1:フロンドの乱の拠点となった高等法院とのひっかけ】【本試験H12】
【本試験H16,H23】
【追H28フランスで封建的特権の廃止が決議されたか問う,H30】
といい,初めての招集は1302年です。三部会の支持をとりつけた後で,〈フィリップ4世〉
【追H27フィリップ2世ではない、H29】
は教皇〈ボニファティウス8世〉をアナーニで捕らえようとして失敗
(
アナーニ事
件
【追H27】
),〈ボニファティウス8世〉はショックのあまり3週間後に亡くなっています(しばしば「憤死」と表現します)。のちに新たに就任したフランス人の教皇(クレメンス5世)は,ローマの都市貴族同士の派閥抗争から逃れるためフランス南部
の
アヴィニョ
ン
【共通一次 平1 グレゴリウス7世をアヴィニョンに幽閉したわけではない】
【本試験H17 12世紀ではない,本試験H22 15世紀ではない】
【追H29パリではない】
に教皇庁を移動させました。
〈
ダン
テ
〉(1265~1321)などのイタリアの詩人らは,これを『旧約聖書』の事件になぞらえ
「
教皇のバビロン捕
囚
」(1309~77)と呼びましたが,教皇をフランス人に移動させられた"被害者"とみるのは後のローマ教皇庁の見解に過ぎません。
〈クレメンス5世〉はむしろ積極的に教皇庁に高度な官僚組織を組み上げ,大司教や司教の選出にも介入し,彼らから手数料を徴収するようにもなりました
(注
)
。事務処理の増加にともない,アヴィニョン教皇庁には法学をおさめた聖職者が実務をこなしていました。
このアヴィニョンの教皇が異端宣告をしたのが,イングランドの〈フランチェスコ〉修道会の
〈
ウィリア
ム=
オッカ
ム
〉(1280?~1349?)です。信仰と理性は矛盾しないと訴え,教皇の権威よりも世俗の権力のほうが強いと主張したためです。
(注)聖職叙任権は理念としては教皇が持っていましたが,大司教や司教を選出する実権は聖堂参事会にありました。樺山紘一『パリとアヴィニョン―西洋中世の知と政治』人文書院,1990。
〈フィリップ4世〉はさらに十字軍のときに結成され
た
テンプル騎士
団
を1314年に解散します。テンプル騎士団はイェルサレムに本部を置き,現金を持たずに巡礼者が安全に旅行できるような送金システムを整えたり,各地の信者からの多額の寄付を集めたりしたことで,多額の資産を管理する団体になっていました。フランスは,イングランドと戦争をするときに,よくテンプル騎士団から資金を借りていましたが,〈フィリップ4世〉はこれを踏み倒そうとしたのではないかと考えられます。テンプル騎士団といえば,映画化された小説『ダ・ヴィンチ・コード』のなかで,"キリスト教の秘密を握る謎の組織"として扱われていたように,イエスの十字架や聖杯(最後の晩餐のときに使われたとされるうつわ)を持っているのではないかとか,さまざまな「都市伝説」をもっている組織でもあります。
◆
イングランドとフランスは,工業地域のフランドル地方をめぐり百年戦争をたたかった
このように〈フィリップ4世〉のもとで一気に強大化したカペー朝ですが,1328年に跡継ぎがなくなり断絶。当時はフランスとイングランドの国としての違いは明確ではなく,支配者は血筋によってヨコにつながっていましたので,フランスの国王が亡くなったら,次は自分に王を継ぐ権利があると,イングランド王
〈
エドワード3
世
〉
【本試験H4王権神授説を唱えていない】
【本試験H27ハプスブルク家ではない,H29共通テスト試行「母方の血筋を理由として」継承を主張したかを問う】
が主張したのです。彼は,〈フィリップ4世〉の娘と,〈エドワード2世〉の間に生まれた息子です。
フランスではカペー家の傍系(遠い親戚)にあたるヴァロワ家から
〈
フィリップ6
世
〉が即位しており
,
ヴァロワ
朝
【本試験H2プランタジネット朝とのひっかけ】
が成立。しかもフランスでは伝統的に女系の王は認められていませんでした(フランク王国
の
サリカ法
典
(6世紀頃)が起源)。
フランスとイングランド
【本試験H13神聖ローマ帝国ではない】
は工業地域のフランドル地方
【本試験H2】
をめぐっても対立し
,
百年戦
争
【本試験H5時期を問う】
が始まりました。
フランドル地方の都市は,イングランドの羊毛輸出先
【本試験H31】
として経済的に重要視されたのです。
〈エドワード3世〉が挑戦状をおくったのが1337年,実際に戦闘がはじまったのは1339年のことです。
百年戦争中にはペスト(黒死病)が大流行し,多くの犠牲者が出ました。労働力不足から農民の待遇が改善され,解放される農奴も現れました
【本試験H5 14~15世紀に領主直営地において賦役が廃止されたことを問う】
。しかし,黒死病もおさまったころ,手のひらを返したように農民に対する待遇をまた厳しくする領主が現れます(いわゆ
る
封建反
動
)。百年戦争の被害もあり,厳しい負担をかけられていたフランス北東部の農民が1358年
に
ジャックリーの
乱
【追H26】
【本試験H2時期(百年戦争中か),本試験H5「農民に対する収奪の再強化に反抗」したものか問う,本試験H8ジェントリのひっかけ,本試験H10デカブリストではない】
【本試験H17時期・地域・ジョン=ボールが引き起こしたわけではない,本試験H19時期,本試験H22・H30ともにイギリスではない】
【慶文H29】
を起こすなど混乱は続きます。
百年戦争は,序盤では
,
長弓
兵
【本試験H17】
【追H29トゥール=ポワティエ間の戦いで用いられたわけではない】
を武器にしたイングランド軍が,フランスの弩(石弓,いしゆみ)兵に対して優勢を誇り,
〈
エドワード黒太
子
〉(1330~76)
【本試験H17時期】
はフランス南西部の大陸領
を
クレシーの戦
い
【本試験H27】
と
ポワティエの戦
い
【追H29トゥール=ポワティエ間の戦いとのひっかけ】
に勝利して,守り抜きました。
フランスで
は
黒死
病
がはやったり,戦争と重税に耐えかねた農民一揆
の
ジャックリーの
乱
(1358)が起こったりと,内政も危機にありました。
1415年にはランカスター朝イングランドの〈ヘンリー5世〉(位1413~22)がアザンクールの戦いで,フランス軍に勝利。1420年にフランス王〈シャルル6世〉の娘キャサリンと結婚しトロワ条約によってフランス王位継承権を認めさせると,フランスは絶体絶命のピンチに追い込まれます。1422年にイングランド王〈ヘンリー5世〉もフランス王〈シャルル6世〉も亡くなると,〈ヘンリー5世〉の息子がイングランドとフランスの王〈ヘンリー6世〉(仏王位1422~53,英王位1422~1461)として即位。フランス側の〈シャルル王太子〉(1403~61)はフランス王位を継承できず,最後の重要拠点である都
市
オルレア
ン
がイングランド軍に包囲されるのを黙ってみているほかありませんでした。
そんな中,ドン=レミ村の農民出身の
〈
ジャン
ヌ=
ダル
ク
〉(出現当時16歳,1412~31)
【本試験H2時期(百年戦争末期か)】
【本試験H15・H17】
が現れて,イングランド軍に包囲されてい
た
オルレア
ン
を
包
囲
から解放し
【本試験H15・H17ともにバラ戦争ではない,H29共通テスト試行 図版(クローヴィスの洗礼とのひっかけ)】
,戦局を逆転させたといい,結果的に
〈
シャルル7
世
〉(位1422~61)がランス大聖堂で戴冠することができました。
しかし〈ジャンヌ〉には幻視(げんし)・幻聴(げんちょう)の兆候があったようで,パリ攻略に失敗し,当時イングランド側についていたフランス諸侯
の
ブルゴーニュ公
国
に捕らえられると,「神の声を聞いた」ということを根拠に "異端"として裁判にかけられ,ルーアンで火刑に処されてしまいます。聖人に列せられ名誉回復するのは1920年のことでした
(#寄り道「ジャンヌ=ダルク」(1999仏米)!刺激の強いシーンあり)
。
〈ジャンヌ〉の活躍もあり,フランスは1453年に百年戦争に勝利しました。イングランドは,フランス北部沿岸
の
カレ
ー
を除きユーラシア大陸から撤退しました。しかしフランスは,長年の戦争で諸侯や騎士が没落し,国王
〈
シャルル7
世
〉は大商人〈ジャック=クール〉(1395~1456)の力を借りて財政を強化しました。
また〈ルイ11世〉(位1461~83)は,三部会によって国内の三身分の利害を調整しつつ
,
ブルゴーニュ公領を獲
得
するなど領土を拡大させ
,
常備
軍
(西ヨーロッパ初)も整備しました(ブルゴーニュ公国がスイスとの戦争に敗れたタイミングを狙いました)。
また,1438年にはフランスのローマ=カトリックの教会収入
と
司教の叙任
権
をコントロールする権利を獲得し,フランス国内の教会に対する支配を強めるきっかけをつくりました。この政策
を
ガリカニス
ム
といいます。
海上交易ルートが活発化し,広域国家の経済的比重が沿海部に移る。中央ユーラシアの遊牧民の勢力は健在だが,ヨーロッパ諸国は海上交易ルートへの進出を開始する。
時代のまとめ
(1)
ユーラシア大陸ではヨーロッパがアジア,アフリカとの直接交易に乗り出す
大交易時
代
の続くユーラシア大陸一帯に,西ヨーロッパ諸国が競って進出し,交易ネットワークに参入して商業活動で利益を挙げた
(
大航海時
代
)。東南アジアではイスラーム政権が台頭し,大陸部でも新興政権が交易ネットワークをめぐり争っている。しかし,銀の流入により貨幣経済が進んでいた明も,北方の遊牧民や海上
の
倭
寇
に対する防衛費や1556年に80万人が犠牲となっ
た
華県地
震
,日本の〈豊臣秀吉〉による
(2)
アメリカ大陸はヨーロッパ諸国の進出を受け,文明が崩壊し人口が激減した。
また,アフリカ大陸沿岸部から現地の政権により奴隷が売却され,西ヨーロッパ諸国は南北アメリカ大陸やカリブ海
の
プランテーショ
ン
の労働力として輸送し,嗜好品を初めとする商品作物がヨーロッパ諸国に流れるようになった
(
大西洋三角交
易
【東京H25[1]指定語句「大西洋三角貿易」】
【セA H30ヨーロッパ,アフリカ,アメリカを結んだものか問う】
)。
南北アメリカ大陸にはヨーロッパからの植民が増加し,先住民は感染症と酷使により激減し,黒人が輸送され,とくに中央・南アメリカでは相互の混血も進んで社会構成が変化する。
ユーラシア・アフリカ大陸〔旧大陸〕のヒトを含む生物,物や思想が,南北アメリカ大陸との間に短期間のうちに相互に移動する
「
コロ
ン
〔コロンブス
〕
の交
換
」が始まった。特にジャガイモは救荒作物として旧大陸の津々浦々にひろまり,人口の増加に貢献する。
解説
地球規模の交易ネットワークが形成されていく
アジア各地では,すでに1400年頃から1570年〜1630年代をピークとする
「
大交易時
代
」を迎えていました。
その一方で中央ユーラシアの騎馬遊牧民の勢力は衰え,草原地帯の比重は低下していきます。
ティムール朝の滅亡以降,ユーラシア大陸ではオスマン帝国,サファヴィー朝,ムガル帝国のように,火砲・銃砲を中心とした新たな軍事技術や戦法の影響を受け,内陸部だけではなく沿海部の農耕定住民も支配する国家が形成されていきました。
こうしたユーラシア大陸沿岸部の交易ブームに刺激を受け,ヨーロッパのポルトガルとスペインはアフリカやアジアとの直接交易を目指し
,
大航海時
代
(
注
1
)
が始まりました。ヨーロッパ人の活動を
「
世界の一体
化
」の開始点とする議論もありますが,ヨーロッパ人
が
南北アメリカ大
陸
(
新大
陸
)に植民を開始し,大西洋をまた
ぎ
アフリカ大
陸
と交易圏を結びつけたことは,アフリカ・ユーラシア大陸とインド洋中心の東西交流が中心だった「世界史」(ある意味
"
アフリカ・ユーラシア世界
史
")に,大西洋を取り囲む交流や太平洋を横断する交流が加わる
(
南北アメリカ大陸やオセアニアの一部を加え
た
「
世界
史
」)という大きな意義がありました。
ポルトガル,スペイン,オランダは地域間のマージ
ン(
利ざ
や)
によって栄えた
インド洋への東廻り航路を開拓し
た
ポルトガル王
国
,インド洋への西廻り直接航路と南北アメリカへの直接航路を開拓し
た
スペイン王
国
は,西アフリカ・中央アフリカ・東アフリカから黒人奴隷を輸送そ,プランテーションでの労働力としました。また,南北アメリカやカリブ海の人々や,黒人奴隷を
ただ,この時期のヨーロッパ諸国によるインド洋を中心とする海上交易は,既存の交易ネットワークに便乗したり,国家間の貿易政策の変化や違いを利用して中継貿易を行うに過ぎず,本格的に領土を支配していたわけではありません
(
注
4
)
。
しかし,ポルトガル,スペイン,オランダのように利ざやによって国家財政を稼ぐ方式はイギリスにも受け継がれ,18世紀に入るとイギリスにおける国家財政の歳入に占める関税や物品税の割合はどんどん高まっていきます。イギリスは歳入確保のために海軍を増強し物流ネットワークを維持するとともに,工業生産も増加させていきました。
◆
人類の生態系に対する支配が強まった
まずアフリカ・ユーラシア大陸に生息していた家畜である馬・牛・豚・羊・山羊がアメリカ大陸に持ち込まれたことで,南北アメリカ大陸の生態系が変化しました。平野の草原地域に暮らす先住民
は
騎馬文
化
を形成するとともに,ヨーロッパからの植民者たちによる支配と文化の移入にも役立ちました。
植物としては,小麦,ライ麦や嗜好品(しこうひん)のサトウキビ,コーヒーなどが持ち込まれ,逆に新大陸からはカボチャ,ナス,トマト,トウガラシ
【追H20宋代の中国にはまだない】
,トウモロコシ(アメリカ大陸原産
【本試験H11】
),ジャガイモなど多種多様な作物がアフリカ大陸,ユーラシア大陸に運び出されました。これれの作物の栽培が広まると,世界各地で生産力が向上し人口も増加していきました。また,従来は一握りの支配階級に限られていたコーヒー,タバコなどの嗜好品が民衆の口にも届くようになり,生活スタイルが変化していきました
(
生活革
命
)。
17世紀初めに
は
キャッサ
バ
〔マニオク〕がアフリカ大陸の熱帯地域にもたらされ,耐乾性・耐病性が評価されて急速に広まりました(19世紀には南アジアに広まります)
。
トウモロコ
シ
(アメリカ大陸原産
【追H27唐代の中国で栽培がはじまっていない】
【本試験H11】
)は生産性が高く面積あたりの生産量で養うことのできる人口が多く,17世紀までにエジプトの主要な作物となったほか,次第に中国や西アフリカなど世界中で生産されるようになっていきました
(注
5)
。
また,感染症がヨーロッパから新大陸に持ち込まれたことにより,中央アメリカから南アメリカにかけての先住民の人口が激減し,ポルトガル人やスペイン人による現地政権の支配にとって有利に働くことになりました。
◆
世界各地の政権は,新技術の導入や商業の利益によって統治機構・財政基盤を強めていった
経済活動の活性化にともない,世界各地の政権は,新技術の導入や商業の利益によって統治機構・財政基盤を強めていきました。
●
北アメリ
カ
には漁場や毛皮を求めてヨーロッパ諸国による植民が進んでいましたが,17世紀後半にはイギリスから北アメリカ大陸への植民も始まり,19世紀後半に北アメリカ東西沿岸を占める大陸国家となるアメリカ合衆国の基となる植民地群が建設されていきました(のちの
1
3
植民
地
)。北アメリカのインディアン諸民族との対立も生まれ始めています。
●
中央アメリ
カ
,
南アメリ
カ
ではスペイン王国とポルトガル王国の植民地統治が進められています。
●
東アジ
ア
では
,
明
が全国的な検地と戸籍に基づき租税を徴収しており,貨幣経済の進展にともな
い
●
南アジ
ア
では,ユーラシア大陸の草原地帯の比重の低下にともない,インド洋の中心に位置するインドの存在感が増していきます。特に
,
綿織
物
【東京H16[1]指定語句】
は寒さや暑さを選ばず着用でき,染めやすく取扱いも用意なため急速
に
世界商
品
となっていきました
。
ムガル帝
国
が支配機構と租税制度を確立し,中央集権化を進めます。
●
アフリ
カ
では,西・中央・東アフリカの沿岸部の政権が,内陸部の住民を奴隷として売却し,西ヨーロッパ諸国がこれを大西洋の島々,北アメリカ,カリブ海,南アメリカのプランテーションでの労働力として使用しました
(
大西洋三角交
易
【東京H25[1]指定語句「大西洋三角貿易」】
)。東アフリカの奴隷は,アラブ人などの商人によってインド洋を越えて西アジア,南アジアにも運ばれていますが,西ヨーロッパ諸国による奴隷交易との規模には及びません。
サハラ沙漠以南のアフリカでは,奴隷交易により深刻な社会の停滞を生みました(東アフリカの黒人奴隷
は
ザンジ
ュ
と呼ばれていました)。
●この時期
の
ヨーロッ
パ
は,伝統的に
「
近
世
」
(
注
2
)
(きんせい;the early modern period
,
初期近代
,
1
5
世紀末
~
1
8
世紀
末
)
と区分され,のちの「近代」
(
後期近
代
,18世紀末~20世紀初め)
に通じる過渡期として位置づけられます。ルネサンス,科学革命,宗教改革,絶対王政などが特徴です。
16世紀~17世紀中頃にかけ,世界各地で経済活動が活性化すると,ヨーロッパ全土でも人口の増加がみられ食糧が不足するようになりました。
各地の政権は従来は「辺境」とされていた地域の開発を進めるようになり,租税収入を確保して財政基盤を確保させようとしていきます。
モスクワを中心とす
る
ロシア国
家
はユーラシア大陸を東に進出していき,領主や小作農による開拓を奨励しました
。
ユーラシア大陸北
部
(シベリアなど)に分布してい
た
狩猟採集
民
もヨーロッパやアジアの経済圏に組み込まれていき,次第に租税
や
毛
皮
の交易を通して市場経済に組み込まれていきました。ロシアは次の時代にかけて,ヨーロッパの枠を超えユーラシア大陸東部を含む大陸国家に変貌していくことになります。
穀倉地帯であり亜麻布
(あまぬの(リネン),綿織物以前に普及していた織物)
の生産地であるポーランドを初めとす
る
中央ヨーロッ
パ
と,海外進出と産業の振興を図
る
西ヨーロッ
パ
との間には,経済や社会の違いが生まれていくことになります。
(注1)「大航海時代」は日本の研究者による呼称。英語ではThe Age of Discovery
(
発見の時
代
)とか,The Age of Exploration
(
探検の時
代
)といいます。「発見」という呼び名はヨーロッパ人の視線からみれば,確かに適切な呼び名です。一般的に15世紀初めから17世紀半ばにかけてポルトガル・スペインに始まるアフリカ大陸ギニア湾岸・インド洋沿岸からアジアにかけてのヨーロッパ諸国の海上進出の時代を指し,広くとれば18世紀後半のイギリスによる太平洋探検までの時期を指します。
(注2)かつて世界の歴史は,ヨーロッパを"トップランナー"として,世界の諸地域がヨーロッパの踏んだ「原始時代」→「古代」→「中世」→「近世」→「近代」→「現代」という段階を追いかけていくことで発展していくのだという話
(
発展段階
論
)が信じられていました。各段階には政治,経済,文化の指標があって,その"公式"通りに各地域が発展していくはずだが,発展のスピードは「文明」のない「野蛮」な地域ほど遅れるのだと考えられました。
(注2)デヴィッド・クリスチャン,長沼毅監修『ビッグヒストリー われわれはどこから来て,どこへ行くのか――宇宙開闢から138億年の「人間」史』明石書店,2016年,p.276。
(注3)同上,p.275。
(注4)経済学者の〈ポメランツ〉(1958~)は,市場経済や工業の発達,生活水準などの面で,西ヨーロッパと中国の江南地方には18世紀末まで大きな差はなかったと論じています(ポメランツ,川北稔監訳『大分岐(the great divergence)――中国,ヨーロッパ,そして近代世界経済の形成』名古屋大学出版会,2015年)。
(注5)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,pp.186-187
◆
世界各地で伝統的な文化が変容していった
地理的な知識が拡大するに従い,従来の伝統的な思想・慣習・制度を疑う動きも起きるようになっていきます。
中国で
は
イエズス会
【東
京
H12[1
]
指定語句
】
の宣教師が明の支配層に支持者を得て,西洋の技術を伝えました。イエズス会の宣教師の情報は同時代のヨーロッパ諸国にも広まり,中国の文物が理想化されて伝えられています。
ヨーロッパでは
〈
フランシ
ス=
ベーコ
ン
〉
(1561~1526)
【本試験H2,本試験H8ロジャー=ベーコンではない。エリザベス1世の時代か問う】
【追H20】
が「知は力なり」と説いて,大昔の思想家の学説を検討するよりも,現実の対象を偏見にとらわれることなく明らかにすることで,知識を拡大させていくべきだと唱え
,
帰納
法
(きのうほう)
【本試験H2】
【追H20】
という考え方が有効だと主張します。
1540年代
【追H30 時期(12世紀半ばではない)】
にドイツの〈グーテンベルク
【東京H16[3]】
〉が改良・開発した活版印刷
【東京H16[3]】
機によって,情報伝達のスピードや量が格段に増大し,各地に設置されるようになったアカデミーなどの教育機関や企業,コーヒーハウス
【東京H17[3]】
などでは印刷物を介してさまざまなアイディアや思想がやりとりされるようになっています。
とはいえ,この時期には世界各地における動力は,火力・人力・水力・馬力などに限られ,人類の大部分は農村部に居住していました。経済成長と人口増加は17世紀半ばの「寒冷化」によって一旦ゆきづまり(
1
7
世紀の危
機
),18世紀後半には世界各地で成長の限界にぶち当たることとなります。
○150
0
年
~
165
0
年のアメリカ 北アメリカ
・
150
0
年
~
165
0
年のアメリカ 北アメリカ 現①アメリカ合衆国
現アメリカ合衆国東部にイングランドが植民へ
イングランドは,1607年に
〈
ウォルタ
ー=
ローリ
ー
〉(1552?~1618)
が
ジェームズタウ
ン
【上智法(法律)他H30年号】
を建設し,彼はこれを未婚の女王にちなみ「ヴァージニア」と任命し
,
ヴァージニア植民
地
(現在のヴァージニア州)となりました。
1620年には
,
プリマ
ス
【東京H7[3]】
にイギリスのピューリタン
【追H26】
【本試験H8「ユグノー」は不適】
【本試験H21,H31カトリック教徒ではない】
(
ピルグリ
ム=
ファーザー
ズ
(巡礼始祖)
【本試験H23,H31カトリック教徒ではない】
【追H29時期を問う】
といわれます)が
,
メイフラワー
号
【追H26ピューリタンの一団か問う】
【本試験H23】
で大西洋を越え,植民地を建設しています。
「本国の国王〈ジェームズ1世〉
【本試験H8エリザベス1世ではない】
の迫害を逃れて北アメリカに自由で無垢(むく)な共同体を建設し,それがアメリカ合衆国の自由の精神の基になった」というのはアメリカ合衆国の"建国神話"に過ぎません。彼らは植民地にもイングランドと同じように権威に基づく階層社会を建設していったのです
(
注
1
)
。
イングランド人がインディアンと接触した
イングランドによる植民がはじまった頃,現在のアメリカ合衆国には200万~500万人の先住民(インディアン)が住んでいまし
た
(
注2)
。
たとえば,北アメリカ東岸に到着したピルグリム=ファーザーズたちは,北アメリカ東部森林地帯に分布するアルゴンキン語族の一
つ
ワンパノアグ
人
(〔ワムパノーアグ人
〕
(
注3)
酋長は〈マソサイト〉(1581~1661))に食料などを支援され,トウモロコシの栽培法を教えられました。翌年の1621年の収穫祭にはワンパノアグ人も招待され,現在のアメリカ合衆国の祝
日
感謝
祭
(サンクス=ギビング=デー)の元になりました。
イングランド人はニュー=プリマスを建設すると,さらに周辺に範囲を広げ,1630年にはニューイングランドのアルゴンキン語族のマサチューセッツ人の領土を占領。
1636~37年には中部大西洋岸地域のモヘガン
〔
モホー
ク
〕
人
(
注4)
と組んで,ニューイングランドのピクォート〔ピークォット〕
人
(
注5)
と戦い勝利しました(初
の
インディアン戦
争
。すべてアルゴンキン語族)。これによりピクォート人は大敗を喫し,壊滅しました。
ところで「インディアン」というのは,イングランド人側の呼び方であり,彼らが"インド人"という言葉を名乗っていたわけではありません。インディアンは,多数の民族に分かれて生活をしており,北アメリカ各地の気候に合わせ,狩猟・採集・農業・漁労を営んでいました。大規模な農業は西南部のプエブロ人(トウモロコシ栽培)以外は普通ではなく
,
大いなる神
秘
(スー語の言葉でワカン=タンカ)と約される神=自然を信仰していました。キリスト教を信仰するイングランド人にとっては,さっぱりわからないものでし
た
(
注6)
。
社会は細かい集団に分かれていることが多く,強力な首長はいませんでしたが,民族を率いる酋長(しゅうちょう)がいました。率いているといっても,支配とはニュアンスが異なります。民族によって異なりますが,なにか揉め事や決めなければいけない事があると,メンバーがロングハウス(長方形の会議場)の中にあつまって,大いなる神秘のもとで酋長が調停するで合議をして決められることが一般的だったのです。また,土地を共同で保有・使用する概念もイングランド人には理解不能でした。
イングランド人には「インディアン諸民族は,将軍であ
る
酋
長
(しゅうちょう)に率いられている」ように見えました。この勘違いは,その後のインディアンに対する戦争
(
インディアン戦
争
)においても,続いていくことになります
一方,ジェームズタウン植民地では,元船乗りで植民地請負人〈ジョン=スミス〉(1580~1631)が,アルゴンキン語族で南部チェサピーク湾地域
の
ポウハタン人
(
注7)
を徐々に圧迫するようになっていました。1622年には,パウハタン人がジェームズタウンを襲撃し,多数のイングランド人を虐殺しました。ポウハタン人の酋長の娘〈ポカホンタス〉(1595?~1617?)
【追H20リード文・図版(ポカホンタスの洗礼の場面,解答には不要)】
との交流があったとされますが,両者の関係友好的であったといいうわけではなく,多くはイングランド人にとって都合のいい話"心温まる話"として脚色されたストーリーに過ぎません。
ほかにイングランド人は南部内陸部のクリーク人,チェロキー人,セミノール人とも接しています。
「
1
3
植民地」は当初から団結していたわけではない
イングランド人の北米植民地は,1607年のヴァージニアから1733年のジョージアにかけて13に増えていきました。これを
1
3
植民
地
【本試験H19フロリダは含まれない】
といいます。
北から以下の通り。この時期に成立したのは下線を付した5つの植民地だけです。
①マサチューセッツ
【本試験H19】
(1629,1691にプリマスを併合)byマサチューセッツ湾会社
②ニューハンプシャー(1679にマサチューセッツから分離)
③コネティカット(1636)by〈トマス=フーカー〉
④ロードアイランド(1636)by〈ロジャー=ウィリアムズ〉
⑤ニューヨーク
【本試験H14フィラデルフィアとのひっかけ,本試験H19】
(1664)by〈ヨーク公〉
⑥ニュージャージー(1664)by〈ジョン=バークレー〉,〈ジョージ=カータレット〉
⑦ペンシルヴェニア(1681)by〈ウィリアム=ペン〉
⑧デラウェア(1703にペンシルヴェニアから分離)
◆⑨メリーランド(1634)by〈ボルティモア卿〉
◆⑩ヴァージニア
【本試験H19】
(1607最古)byヴァージニア会社
◆⑪ノース=カロライナ(1663)by〈クラレンドン卿〉ら8人の貴族
◆⑫サウス=カロライナ(1663)by〈クラレンドン卿〉ら8人の貴族
⑪・⑫は1729年に南北に分離
◆⑬ジョージアです(1732)by〈オグルソープ〉
(◆印のものは「南部」植民地と呼ばれる)。
イングランドの北米進出はヨーロッパ諸国の中では早い方とはいえず,いずれもフランス・オランダ・スウェーデンの植民地を避けるようにして拠点が築かれまし
た
(
注8)
。
設立の事情はさまざまで,キリスト教の一
派
クェーカー教
徒
〈ウィリアム=ペン〉
の
フィラデルフィア植民
地
(1681)のように宗教的なものから,タバコ
【追H29ゴムではない】
のプランテーションを実施したヴァージニア(1607)
【追H29】
のように商業的な目的で建設され
た
自治植民
地
もあります。自治植民地には植民地議会が置かれ,自治制度が発達していました
【本試験H12「植民地議会などの自治制度が発達していた」か問う】
。
特定の事業を独占的に遂行するために国王の特許状を獲得し,事業に賛同する出資者をつのって,利益が出たら出資者に配分する仕組み(共同出資会社(ジョイント=ストック=カンパニー))の制度も,海外進出を後押ししまし
た
(
注9)
。
他方,ニューヨーク(1664)のように王族(〈ヨーク公〉のちの〈ジェームズ2世〉による)を領主とす
る
領主植民
地
もあり,各植民地は当初から互いに団結していたわけではないのです。
この時期に建設された植民地についていくつかピックアップします。
◆
⑩
ヴァージニア植民地
1606年にロンドン商人の設立した会社(ロンドン会社)に国王〈ジェームズ1世〉が特許状を与え,ヴァージニア会社と改称。同年に植民者105人が派遣され,翌年1607年にジェームズ川を約48kmさかのぼった地点にひらいたのがジェームズ=タウン。指導者〈ジョン=スミス〉と,先住民(ポーハタン人)の支援によって生活を成り立たせ,のちにタバコのプランテーションを開始したことで植民地の経営が軌道に乗るようになった。1619年には植民地の人々に本国と同様の自由が保障されたが,当初予想されたほどの利益は得られなかったため,1624年に特許状が廃止されると王領植民地となっていっ
た
(
注
1
0)
。
◆
⑨
メリーランド植民地
ヴァージニアの北部にあるメリーランド植民地は,チェサピーク湾に面しています。カトリックであった〈メアリ1世〉にちなみ,カトリック教徒の避難する地として〈第二代ボルティモア卿〉(1605~1675)が父の遺志を引き継ぎ,1632年に国王の特許状を獲得して1634年に建設された。はじめは領主による植民地でしたが,結果的に多くのプロテスタントが移住することとなり,住民はタバコのプランテーションに従事しまし
た
(
注
1
1)
。
(注1)大西直樹『ピルグリム・ファーザーズという神話―作られた「アメリカ建国」』講談社,1998年。今井宏編『世界歴史大系 イギリス史2 近世』山川出版社,1990,p.86。
(注2)紀平英作編『新版 世界各国史24 アメリカ史』山川出版社,1999年,p.28。
(注3)紀平英作編『新版 世界各国史24 アメリカ史』山川出版社,1999年,p.29。ほかにチェサピーク地域にはアポマトック人がいた。
(注4)紀平英作編『新版 世界各国史24 アメリカ史』山川出版社,1999年,p.29。中部大西洋岸にはほかにセネカ人,オナイダ人がいた。
(注5)紀平英作編『新版 世界各国史24 アメリカ史』山川出版社,1999年,p.29によれば,。ピークォット人との戦争は1637年。ニューイングランドにはほかにマサチューセッツ人,ナラガンセット人がいた。
(注6)紀平英作編『新版 世界各国史24 アメリカ史』山川出版社,1999年,p.30。インディアン語による聖書訳の初めは,1641年からインディアン伝道をおこなった〈ジョン=エリオット〉(1604~1690)によるもの。1661年に初めて出版しています(リディア・マリア・チャイルド『孤独なインディアン―アメリカ先住民名品集』本の友社,2000年)。
(注7)紀平英作編『新版 世界各国史24 アメリカ史』山川出版社,1999年,p.29。南部チェサピーク地域にはほかにアポマトック人がいた。
(注8)紀平英作編『新版 世界各国史24 アメリカ史』山川出版社,1999年,p33。
(注9)紀平英作編『新版 世界各国史24 アメリカ史』山川出版社,1999年,p33。
(注10)紀平英作編『新版 世界各国史24 アメリカ史』山川出版社,1999年,p35。
(注11)紀平英作編『新版 世界各国史24 アメリカ史』山川出版社,1999年,p36。
オランダも現在のアメリカ合衆国東岸に進出する
スペイン王国との独立戦争を戦い,1648年に国際的に独立が承認され
た
ネーデルラント連邦共和
国
。
イングランド人〈ヘンリー=ハドソン〉の探検(1608~1611)を支援することで,ハドソン川流域と河口にニューデーデルラント(ニューネザーランド)植民地を築いています。
スウェーデンも現・アメリカ合衆国東岸に進出する
ルター派に改宗して王権を強化してい
た
スウェーデン王
国
。
1638年~1640年にかけ,デラウェア川流域にニュースウェーデン植民地を建設しています。
・1500年~1650年のアメリカ 北アメリカ
現②
カナダ
ビーバーとタラを求めて,北米植民がすすむ
1497年にイギリス王室の保護した〈ジョン=カボット〉(1450?~1498)が,ニューファンドランド沖にタラの漁場を発見しました。彼は1497~98年頃にニューファンドランド島およびデラウェア湾,チェサピーク湾に到達したと推測されていま
す
(注
)
。
するとヨーロッパ各国から漁船が訪れ
,
タラ
漁
がブームとなります。タラは船の中で塩漬けにされるか,沿岸で天日干しにして,ヨーロッパ市場に運ばれました。
1534~43年には,フランス
【追H20ドイツではない】
王室(当時は〈フランソワ1世〉(位1515~47))の援助で〈ジャック=カルティエ〉(1491~1557)と〈ジャン=フランソワ=ド=ラローク〉がセントローレンス川一帯を探検し,ミクマク人と接触しています。このとき彼らは毛皮の取引を求めたということから,すでにヨーロッパ人と交易を行っていたと考えられます
。
ビーバーの毛
皮
は,ヨーロッパでは上流階級の間の高級品として需要がありました。
さらに,セントローレンス=イロクォワ人と接触し,首長〈ドナコナ〉を説得して,十字架を立てました。〈ドナコナ〉の息子にはフランスでフランス語を学ばせ,1535年にこの2人を連れて現在
の
ケベッ
ク
【セ試行 イギリスのピューリタンによる建設ではない】
【追H20】
【H30共通テスト試行 カナダが「ブルボン朝の時代に、フランスの植民地」として建設されたか問う(正しい)】
【セA H30アメリカ合衆国の植民地ではない】
に入り,先住民の言葉で「集落」を意味する「カナタ」から「カナダ」という地名をつくり,セントローレンス川を命名しました。また,モントリオールにも到達していますが,越冬で部隊の多くを失いました。フランスはユグノー戦争に向かっていき,植民地建設は頓挫しました。
1588年にイギリスはアルマダの海戦でスペインに勝利
【上智法(法律)他H30年代】
。イギリス
は
タ
ラ
の干物を,ヨーロッパや西インド諸島に輸出して,巨利をあげました。カトリックの人々には,肉を断つ習慣があったため,需要は高かったのです。タラからとれる油も,ランプ油として用いられました。
フランス
【本試験H18スペインではない】
は,1603~1635年に
〈
シャンプレー
ン
〉(シャンプラン,1567?74?~1635)が11回にわたりセントローレンス川,五大湖地方,ミシシッピ川流域を探検し,イエズス会の宣教師も派遣されました。
1608年には
,
ケベッ
ク
【本試験H18】
に毛皮交易所を置き
,
ヌーヴェ
ル=
フランス植民
地
(カナダ植民地)
【本試験H18時期】
の中心地としました。ケベック近くにいたアルゴンキアン語族モンタニェ族は,ヒューロン族と同盟関係を築いており,北アメリカ北東部のイロクォワ5族(イギリスやオランダに支援されていました)と戦闘状態にあり,その対立を利用しながら,フランスは勢力圏を拡大させていきました。北アメリカの東北部では,イロクォワ語族のうち,モホーク,オナイダ,カユーガ,セネカ,オノンダーガの5民族が,同盟を形成していました。
フランスは,とうもろこし,豆,カボチャ,メイプルシュガー,ブルーベリーなどの栽培や,移動・越冬の方法を先住民から学びました。
1610年にはニューファンドランドに植民会社が設立されました。
(注1) 紀平英作編『新版 世界各国史24 アメリカ史』山川出版社,1999年,p.31。
○150
0
年
~
165
0
年のアメリカ 中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ
1500年を境に,南アメリカ大陸の歴史はガラリと変わります。以前はユーラシア大陸・アフリカ大陸・オセアニアとの接触をほとんど持たなかった南アメリカ大陸が
,
スペイ
ン
の王室が派遣した〈コロン〉
【追H20リード文,図版(解答には不要)】
が第三回航海でオリノコ川
(ベネズエラを流れて大西洋に注ぐ川)
に到達して以来,外部との接触を開始するのです。
○150
0
年
~
165
0
年のアメリカ 中央アメリカ
中央アメリ
カ
...①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ
◆
スペイン人がきわめて短期間のうちにアメリカ大陸の諸文明を征服する
スペイン人が馬・火気・鉄器・車輪により征服へ
この時期になっても
,
車
輪
,
馬
,
鉄
器
【セ試行】
【追H24】
【本試験H21鉄器は使用されていない】
が製作・使用されていなかった中央アメリカと南アメリカのアンデス地方の文明は,少人数のスペイン人の軍団に圧倒されてしまいました。
◆
スペイン人〈バルボア〉が太平洋を「発見」する
1513年には,スペイン人の
〈
バルボ
ア
〉(1475?~1519)
【セ試行 カブラルではない】
【本試験H18テオティワカン文明を滅ぼしていない】
【追H20太平洋岸に達したか問う】
が,1513年にパナマ地峡を横断し,ヨーロッパ人として初め
て
太平
洋
を確認します。実際にはパナマ地峡の南側の湾だったんですけどね。
◆
スペインの派遣した〈マゼラン〉の船団が南アメリカ南端近くを通過して,地球を一周する
1519年にはポルトガル人の
〈
マゼラ
ン
(マガリャンイス)〉(1480?~1521)
【追H24西廻りの大航海をしたポルトガル人か問う,H29時期(クックの太平洋探検,喜望峰発見と並べ替え)】
が,スペイン王室
【本試験H15ポルトガル王室ではない】
【H30共通テスト試行 時期(14世紀の人物ではなく、1402~1602年の間の人物であることを判別する)】
に援助されて地球一周の航海に出ます。
もともと,〈マゼラン〉はポルトガル王につかえ,東南アジアのマラッカをめぐる戦いにも参加していた経歴をもちますが,その後ポルトガル王〈マヌエル1世〉(幸運王,1495~1521)の命で,東回り
【セ試行】
の世界周航をめざしました。
彼らがその存在を確認した「マール=パチフィコ(静穏な海。すなわ
ち
太平
洋
)」と命名」に出るためには,大西洋から南アメリカ大陸南端を通る必要がありました。〈マゼラン〉一行は1520年11月末に南アメリカ大陸南端の海峡
(
マゼラン海
峡
と名付けられます)を通り太平洋に入り,おそらくグアム島等を通って,3ヶ月と20日後の1521年3月中旬に,餓死寸前の状態でフィリピンに到着しました。
〈マゼラン〉の頭の中には「太平洋」の存在は,なかったのです。当時ヨーロッパに出回っていた地図では,マゼラン海峡を超えて北上すれば「シヌス=マグヌス(大きな湾)」がある。その中
に
香料諸
島
(スパイス=アイランド)がある,と書かれていたのに従い〈マゼラン〉は北上しましたがなかなか見つからず,発想を転換して西に向かった結果,はからずも太平洋を横断することとなったわけです。
〈マゼラン〉はフィリピン諸島中部のセブ島で,現地人をキリスト教に改宗させました。この際,セブ島の対岸のマクタン島の村を焼いたことで,マクタン島民の意見が割れました。〈マゼラン〉は勝利を確信してたったの49人でセブ島に上陸し,待ち伏せしていた王の一人
〈
ラ
プ=
ラ
プ
〉の1500人の軍に敗れ,死にました。少人数
で
アステカ王
国
を滅ぼした〈コルテス〉のことが頭にあったようです。
残りの部隊は〈デルカーノ〉を中心として,ユーラシア大陸の沿岸部のポルトガル艦隊を避けて,喜望峰を東から西にまわり,1522年にスペインに帰還しました。こまめにつけていた日誌の日付の記録が1日ずれていたことも,地球一周の証拠となります
【追H27世界周航はクックによる事績ではない】
。これ以降スペインの
〈
カルロス1
世
〉はフィリピンに拠点を築くことを目指しますが,太平洋を往復する航路を開拓するのは容易ではありません。
1564年に
〈
レガス
ピ
〉(1505?~72)はアカプルコを出発し,翌年フィリピンのセブ島にサンミゲル市を建設しました。彼はフィリピンに残りましたが,その部下の〈ウルダネータ〉は,1565年にはセブ島から北上し,黒潮に乗って110日目に北アメリカのカリフォルニアに到着すれば近道(大圏航路といいます)であることを発見しました。フィリピンに残った〈レガスピ〉は,1571年にルソン島
に
マニ
ラ
【セ試行】【本試験H5時期(16世紀以降)】
【本試験H13時期(16・17世紀),本試験H19時期,本試験H29フエとのひっかけ】
【追H27スペインのアジア貿易の拠点か問う、地図上の位置を問う】
を建設し,往復航路の基地としました。こうして,北アメリカ大陸のアカプルコとフィリピンのマニアを結ぶ
,
ガレオン
船
による定期往復航路が開拓されたわけです。
こうして,スペイン人が主導する形で,南北アメリカとのオセアニアが結び付けられることとなります。
◆
アステカ王国がスペイン人に滅ぼされる
メキシコ高原がスペインの領土となる
スペインは,ユダヤ人,イタリア人,ドイツ人の資本家からの支援を受けつつ,アメリカ大陸への進出を進めます。
1521年にはスペイン
【本試験H12】
の
〈
コルテ
ス
〉
(1485~1547)
【本試験H29】
【追H25インカ帝国を征服していない】
がメキシコ高原
【セ試行】
の
アステカ王
国
〔メシーカ王国〕
【セ試行「メキシコに栄えていた文明」】
【本試験H12】
【本試験H29地図上の位置を問う】
【追H24鉄器は使用されていない】
を滅ぼし
,
ヌエ
バ=
エスパーニ
ャ
(新しいスペインという意味です)を建設しました。
〈コルテス〉はアステカ王国を攻撃する際には,すでに〈コルテス〉に従属していたテスココ湖東方
の
トラスカラ王
国
の戦力も生かされました。
ヌエバ=エスパーニャの初代総督は〈コルテス〉(位1522~26),のち〈ルイス=ポンセ=デ=レオン〉(位1526)→〈マルコス=デ=アギラール〉(位1526~27)→〈アロンソ=デ=エストラーダ〉(1527~28)と続きますが,1528年には統治機関とし
て
アウディエンシ
ア
が置かれ(1528~31第一次,1531~35第二次),1535年からは本国か
ら
副
王
が派遣されるようになります(初代は〈メンドーサ〉(位1535~50),途中何度かアウディエンシアの統治もあります)。
◆
ユカタン半島全域がスペインの支配下に入る
中央アメリカもスペインの領土となる
中央アメリカのマヤ地方北部の低地部
(
マヤ低
地
)では,12世紀頃から15世紀中頃ま
で
マヤパ
ン
が
チチエ
ン=
イッツ
ァ
に代わって主導権を握りました。マヤパン衰退後のマヤ地域には,有力な勢力は現れず,多数の都市が交易ネットワークを形成して栄えていました
。
マヤパ
ン
は1460年代初めに滅んでいます
(注
1)
。
その後,スペイン人によってユカタン半島の全域が掌握されたのは1541年のことですが,ペテン=イッツァ王国のように17世紀まで生き延びた国家もあります
(注
2)
。
現在
の
グアテマ
ラ
,エルサルバドル
,
ベリー
ズ
,
ニカラグ
ア
,
ホンジュラ
ス
,
コスタリ
カ
,
パナ
マ
にあたる領域は
,
スペイ
ン
に植民地化されてアウディエンシア(行政・司法と,一部の立法を担当する植民地の統治機関)が置かれ,1609年にはグアテマラ総督領となりました。
現在
の
エルサルバド
ル
にはマヤ系の王国(クスカトラン王国)がありましたが,1528年にスペイン人の征服者〈コルテス〉(1485~1547)の部下により滅ぼされています。
(注1)実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館,2016,p.34。
(注2)実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館,2016,p.34。
○150
0
年
~
165
0
年のアメリカ カリブ海
カリブ海諸国・地域...現在の①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島
・
150
0
年
~
165
0
年のアメリカ カリブ海
現①
キューバ
キューバのタイノ人の酷使を〈ラ
ス=
カサス〉が暴露
キューバ
は
スペイ
ン
により植民地化されました。初代キューバ総督は〈ベラスケス〉(任1511~1524)です。
先住のアラワク系タイノ人が感染症などにより亡くなっていくと,代わりの労働力としてアフリカから奴隷を導入します。
キリスト教の托鉢修道
会
ドミニコ
会
の
〈
ラ
ス=
カサ
ス
〉(1484~1566)
【本試験H31】
はこの頃キューバに呼ばれ,先住民のひどい扱いを目の当たりにし,のち1519年に神聖ローマ皇帝
〈
カール5
世
〉にその実態を訴えます。
1521年にキューバ
は
ヌエ
バ=
エスパーニャ副王
領
の一部に編入。
エンコミエンダ
制
が導入され,タイノ人やアフリカ出身の奴隷の酷使は続きました。
1542年には〈ラス=カサス〉が「インディアスの破壊に関する簡潔な報告」で,過酷な実態をスペイン王
〈
フェリペ2
世
〉(位1556~1598)に具申しています。
その後も,キューバからはプランテーションで栽培されたサトウキビからとれ
る
砂
糖
が,スペインに莫大な富を稼ぎ出していきます。
一方で,オランダやイギリスといった後発の西ヨーロッパ諸国のカリブ海進出も始まっていきます。
・
150
0
年
~
165
0
年のアメリカ カリブ海
現②
ジャマイカ
ジャマイカはスペインの植民地となり,感染症で激減したアラワク系タイノ人に代わり,アフリカから奴隷が導入されてプランテーションが展開されました。
ジャマイカ
は
ヌエ
バ=
エスパーニャ副王
領
の一部として支配されています。
・
150
0
年
~
165
0
年のアメリカ カリブ海
現③
バハマ
1492年10月にジェノヴァ人〈コロンブス〉が到達して以来,島民のアラワク人は奴隷として連行されたり,ヨーロッパにしかなかった感染症にかかって,16世紀のうちにはほぼ死に絶えてしまいます。
島の開発のため,入植したスペイン人は代わりにアフリカから黒人を奴隷として連行し,島の人々の構成はすっかり変わってしまうことになります。
のち1647年にはイギリスが植民を開始します。
・
150
0
年
~
165
0
年のアメリカ カリブ海
現④
ハイチ
,⑤
ドミニカ共和国
イスパニョーラ島
は
スペイ
ン
の植民地となり,感染症で激減したアラワク系タイノ人に代わり,アフリカから奴隷が導入されてプランテーションが展開されました。
スペインは島の東部を中心に
,
サン
ト=
ドミンゴ総督
領
として支配します。
・
150
0
年
~
165
0
年のアメリカ カリブ海
現⑤
アメリカ領プエルトリコ
プエルトリコはスペイン領として支配されています。
・
150
0
年
~
165
0
年のアメリカ カリブ海
現⑥
アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島
現在
の
アメリカ領ヴァージン諸
島
には,17世紀前半にスペイン,オランダ,イギリス,フランスやデンマークが入植を試みています。
住民のアラワク系タイノ人は17世紀のうちには滅亡しています。
現在
の
アメリカ領ヴァージン諸
島
には,17世紀前半にオランダが入植しています。
現在のイギリス
領
アンギラ
島
は,17世紀前半にイギリスが植民してい
た
アンティグア
島
の管轄となっています。
・
150
0
年
~
165
0
年のアメリカ カリブ海
現⑦
セントクリストファ
ー=
ネイビス
セントクリストファー=ネイビスには,イギリスやフランスが競って植民を試みています。
先住
の
カリブ
人
はヨーロッパ諸国によって殺害され,居住地を追われています。
・
150
0
年
~
165
0
年のアメリカ カリブ海
現⑧
アンティグ
ア=
バーブーダ
アンティグア=バーブーダは1493年に〈コロンブス〉に「発見」されます。
このうちアンティグア島にはスペイン,フランスの入植がおこなわれます。
バーブーダ島にはイギリス人が進出します。
・
150
0
年
~
165
0
年のアメリカ カリブ海
現⑨
イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島
現在のイギリス領モントセラトは17世紀
に
イギリ
ス
により入植がすすみ
,
アイルランド
人
の流刑地とされました。
現在
の
フランス領グアドループ
島
は
,
フラン
ス
の植民地となり,感染症で激減し
た
カリブ
人
に代わり,アフリカから奴隷が導入されてサトウキビのプランテーションが展開されています。
・
150
0
年
~
165
0
年のアメリカ カリブ海
現⑩
ドミニカ国
ドミニカのカリブ人は外来者に激しい抵抗を続ける
現在のドミニカ国では,カリブ人が激しい抵抗を続けています(現在でもカリブ人の比率が高い)。
17世紀前半
に
フラン
ス
の植民地となっています。
・
150
0
年
~
165
0
年のアメリカ カリブ海
現⑪
フランス領マルティニーク島
1502年の第四次航海で〈コロンブス〉はマルティニーク島に到達しました。その後は住民
の
カリブ
人
が抵抗を続けたので,スペイン人の入植は進みませんでした。
その後イギリスが入植しましたが,1635年に入植したフランス人島での主導権を握ります。
・
150
0
年
~
165
0
年のアメリカ カリブ海
現⑫
セントルシア
現在のセントルシアはおそらくスペインによって「発見」され,その後はイギリスとフランスにより領有をめぐる取り合いが起きています。
・
150
0
年
~
165
0
年のアメリカ カリブ海
現⑬
セントビンセント及びグレナディーン諸島
現在のセントビンセントおよびグレナディーン諸島では,先住
の
カリブ
人
による抵抗が続き,ヨーロッパ諸国の植民を阻みます。沖合で難破した船に載っていた黒人が流れ着き,セントビンセントおよびグレナディーン諸島を含むカリブ海の島々に避難する例もみられました。
17世紀に
は
フラン
ス
が植民をすすめていきます。
・
150
0
年
~
165
0
年のアメリカ カリブ海
現⑭
バルバドス
バルバドスは17世紀前半にイギリスの植民地となり,ブラジル北東部のオランダ領(1630~1654)が放棄されると,その生産技術がバルバドスに導入されていきます。
アイルラン
ド
などからの年季奉公人や,アフリカ人の奴隷
が
サトウキビのプランテーショ
ン
の労働力となりました。
・
150
0
年
~
165
0
年のアメリカ カリブ海
現⑮
グレナダ
現在のグレナダでは,先住
の
カリブ
人
による抵抗が続き,ヨーロッパ諸国の植民を阻みます。
・
150
0
年
~
165
0
年のアメリカ カリブ海
現⑯
トリニダー
ド=
トバゴ
トリニダード島とトバゴ島には,イギリス,フランス,オランダなど,ヨーロッパ諸国が進出していきます。
・
150
0
年
~
165
0
年のアメリカ カリブ海
現⑰
オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島
ベネズエラ沖のボネール島・キュラソー島・アルバ島は
,
オラン
ダ
領となります。
○150
0
年
~
165
0
年のアメリカ 南アメリカ
南アメリ
カ...
現在
の①
ブラジル
,②
パラグアイ
,③
ウルグアイ
,④
アルゼンチン
,⑤
チリ
,⑥
ボリビア
,⑦
ペルー
,⑧
エクアドル
,⑨
コロンビア
,⑩
ベネズエラ
,⑪
ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ
◆
スペイン王国は黄金を求めて南北アメリカ大陸の諸国家を滅ぼした。王室は植民する征服者を初め支援し,のちに直接支配に乗り出し
た(
ポルトガルはブラジルに進出し
た
)
スペインにアステカ帝国とインカ帝国が滅ぼされた
スペイン王国は,黄金を求めて大西洋を渡り,中央アメリカ・カリブ海・南アメリカに進出し,1521年
に
アステカ帝
国
,1533年
に
インカ帝
国
(タワンティン=スーユ)を滅ぼしました。
また,1532年には
〈
ピサ
ロ
〉(1478~1541)
【本試験H29,H31】
【追H25コルテスとのひっかけ】
がペルー
【セ試行】
の
インカ帝
国
【セ試行「ペルーに栄えていた文明」】
【本試験H22滅亡時期,本試験H29地図上の位置を問う,H31アステカ王国ではない】
【追H24キープが使われていたか問う、H25コルテスに征服されていない】
の王〈アタワルパ〉(1532~33)を会議に招き,服属とキリスト教徒への改宗を要求。1533年に身代金を金と銀で払わせた末,〈アタワルパ〉を処刑しインカ帝国を滅ぼしました。
〈アタワルパ〉は兄との内戦に勝利して即位しており不安定な状態だったのに加え,スペイン人の持ち込んだ感染症の流行も火に油を注ぎました。〈ピサロ〉が建設し
た
リ
マ
中心の広場には,今でも彼の銅像が「リマ建設者ピサロ」と記され立てられています。
征服者
(
コンキスタドーレ
ス
)は,先住民(インド人であるという誤解からインディオと呼ばれました)にキリスト教を布教するかわりに,スペイン王から先住民・土地の支配を委託されていました。これを
,
エンコミエンダ
制
【東京H12[2]】
【追H28 16世紀のジャワではない】
【本試験H14時期・軍管区制ではない,本試験H30】
といいます。
先住民にはスペイン人の持ち込ん
だ
腺ペス
ト
,
はしか,天然
痘
【本試験H30】
などの感染症
【追H24人口が激減したか問う】
に対する抵抗もなく,商品として売る作物を栽培する大農園(プランテーション)や,各地の鉱山での酷使によって
【共通一次 平1】【本試験H10中国から大量の労働者が流入したか問う,本試験H11「先住民は,征服以後,鉱山などで過酷な強制労働に従事させられた」か問う
】
人
口が激
減
【共通一次 平1】
【本試験H30】
しました
【上智法(法律)他H30 奴隷貿易の対象にはなっていない】
。メキシコと中南米の先住民は,征服後100年で5000万人から400万人に減ったといわれています。
◆
新大陸とユーラシア・アフリカ大陸のさまざまな物が交換された
感染症は新大陸へ,ジャガイモは旧大陸へ
〈コロン〉のアメリカ大陸到達以降,アメリカ大陸にあったモノやヒトがアフリカ・ユーラシア大陸に伝わり,その逆も起こりました。いわゆる
「
コロン〔コロンブス〕の交
換
」です
(注
1)
。
植
物
としては
,
ジャガイ
モ
が1570年ころにスペインに持ち帰られヨーロッパ各地に広まっていったらしいですが,食用としては普及しませんでした。ずんぐりとした見た目が敬遠され,偏見を生んだのです。のちにジャガイモは救荒食として"貧者のパン"と呼ばれ,軍用食として強国に導入されていくことになるのですが
(注
2)
。ほかにトウモロコシ,トマト,トウガラシなどがヨーロッパ・アフリカ大陸に移動し,ヨーロッパ・アフリカ大陸から
は
小
麦
や
ライ
麦
も導入されました。
動
物
としては
,
馬
,
羊
,
豚
,
羊
,
山
羊
といったユーラシア大陸の家畜が,アメリカ大陸についに到達。アンデス地方にリャマやアルパカに混じってヒツジが放牧される光景も見られるようになります。
人
類
も交換の対象となりました。
モンゴロイド人種に分けられる人々が居住していた南北アメリカ大陸に,ユーラシア大陸・アフリカ大陸の人々が移り住み,大陸を越えた主体的あるいは強制的な移動が起こります
(注
3)
。
(注1)民族学者・人類学者〈山本紀夫〉(1943~)は両者の被ったインパクトを比較した上で,これを「コロンブス
の
不平
等
交換」であったと読み足しています(同『コロンブスの不平等交換 作物・奴隷・疫病の世界史』KADOKAWA,2017。
(注2)伊藤章治『ジャガイモの世界史―歴史を動かした「貧者のパン」』中公新書,2008,p.43。ジャガイモの民衆への普及には,聖職者や医者による啓蒙活動の成果もありました(南直人『〈食〉から読み解くドイツ近代史』ミネルヴァ書房,2015年,p.21)。
(注3)チャールズ・マンはこれを
「
ヒト
の
コロンブス交換」と表現しています。チャールズ・マン,鳥見真生訳『1493〔入門世界史〕』あすなろ書房,2017,p.488。
16世紀半ばに現在
の
ボリビ
ア
で
ポトシ銀
山
【本試験H29】
が発見されると,大量の銀がヨーロッパに輸出されるようになります。当時は「重金主義」といって,よりおおくの金銀財宝を輸入すれば,国家は豊かになると考えられていましたが,実際は逆で,金銀財宝が増えれば増えるほど,その価値は下がっていくインフレーションが起きました。また,「14世紀の危機」が終わると15世紀以降西ヨーロッパの人口は増加し,市場経済が拡大したこともインフレーションの要因ではないかともいわれています(この物価上昇
は
価格革
命
と呼ばれています)。
キリスト教の聖職者のなかには,ドミニコ修道会士
〈
ラ
ス=
カサ
ス
〉(1474~1566)
【本試験H31】
【東京H13[2]】
のように,コンキスタドールのひどい実態と先住民の救済
【本試験H31】
をスペイン国王に訴えたものもいましたが,彼の言説は"デマ"(いわゆ
る
黒い伝
説
)にすぎないと批判する者もいました。
先住民を奴隷にすることは禁止されましたが,結果的に,労働力をおぎなうために西アフリカの住民が奴隷("黒い積荷""黒い象牙"
(注
)
と形容されました)として大量に輸入されるようになっていきました
(
奴隷貿
易
)。カリブ海やアメリカ大陸行きの航路は,致死率の高い「中間航路」と呼ばれ,致死率は50%に達したといわれます。
奴隷はカリブ海
【本試験H5西インド諸島。フィリピン,インドネシア,ブラジルではない】
で生産され
た
砂
糖
("白い積み荷")
【本試験H4,本試験H5】
や,北アメリカ大陸南部で生産され
た
タバ
コ
と交換。ほかにも,鉱山から
は
銀
【本試験H4】
が積み出されます
【本試験H4胡椒・茶,ゴム・コーヒー,タバコ・毛織物ではない】
。
砂糖やタバコはヨーロッパで売りさばかれ,何も知らない上流階級
の
嗜好
品
(しこうひん。主食と違い,味や香り・ステータスを楽しむ品物)となりました。
新しい商品の流入により,ユーラシア大陸の生活スタイルが激変していくことになりました
(
生活革
命
)。例えば
,
カカ
オ
,
タバ
コ
,
砂
糖
は「嗜好品」として,ヨーロッパの上流階級の人々を喜ばせました。
砂糖入り紅茶
【本試験H18,H29共通テスト試行 地図(カリブ海からイギリスへの輸出経路を選択する)】
は非常に高価な飲み物であり,中国製の陶器に注いで飲むことがステータスとされました
【追H27イギリスで紅茶の習慣が広まった時期を問う】
【本試験H18 17世紀には労働者の家庭にまで普及していない】
。砂糖は,紅茶の補完財であったのです
(注
)
。
(注)角山栄『茶の世界史』中公新書,(1980)2017,p.103。
◆
先住民人口が激減したため,黒人奴隷が新大陸に積み出される
コンゴやベニンから,黒人がアメリカへ連行される
スペインとポルトガルの進出は,同時に中央アメリカ・カリブ海・南アメリカの社会をも一変させました。前述の奴隷に加え,本国から移住したスペイン・ポルトガル系
の
ペニンスラー
ル
(半島人という意味),アメリカ大陸生まれのスペイン系・ポルトガル系
の
クリオーリ
ョ
,スペイン系・ポルトガル系と先住民インディオの混血であ
る
メスティ
ソ
【セ試行 白人と原住民(インディオ)の混血か問う】
【東京H12[2]】
,スペイン系・ポルトガル系と黒人との混
血
ムラー
ト
【東京H12[2]】
,インディオと黒人の混
血
サン
ボ
のように,皮膚の色により社会的なステータスが区分されるようになっていきます。大土地所有者に
は
クリオーリ
ョ
が多く,ペニンスラールの軍や官僚とともにアメリカ大陸における社会経済のトップに君臨していくことになります。
西アフリカに
は
ベニン王
国
や
ダホメー王
国
,中央アフリカに
は
コンゴ王
国
がありましたが,ヨーロッパ人はこれらの国々に火器や織物を積んで,現地の奴隷と交換しました。奴隷貿易が廃止にいたるまで,その数は数千万人にのぼり,奴隷が連行されたアフリカの地域は甚大な打撃を受けます。ポルトガル
は
西アフリ
カ
【本試験H5】
や中央アフリカのギニア湾岸から奴隷を供給できましたが,スペイン
【本試験H5イタリアではない】
の商人は奴隷交易のための拠点がなかったため,ポルトガル政府との間に奴隷を売り渡す契約
(
アシエン
ト
)を結び,莫大な収益を上げるようになっていきました
(注
)
。
(注)アシエントは,「スペイン領アメリカへの奴隷の輸入にかんして,国王と商人などが結んだ契約」。増田義郎「世界史のなかのラテン・アメリカ」増田義郎・山田睦男編『ラテン・アメリカ史Ⅰ メキシコ・中央アメリカ・カリブ海』山川出版社,1999,用語解説p.99。
17世紀前半になると,スペインはアメリカ大陸で先住民から土地を奪ったり買ったりして,熱帯ならではのお金になる作物(商品作物)を育てる土地農園を営
む
アシエンダ
制
をはじめるようになります。エンコミエンダ制では先住民の土地は奪わずに労働を強制していましたが,アシエンダ制では先住民は賃労働者となり経済的な支配しただけでなく,エンコミエンダ制と違って人格的にも支配しました。17世紀半ばから銀があまりとれなくなると,アシエンダ制はさらに拡大していきます。とくにブラジルで
の
サトウキ
ビ
のプランテーションが発達しました。
こうして,スペインとポルトガルといったラテン系の民族の進出したラテンアメリカでは,彼らを支配層とし,ラテンアメリカ生まれのラテン系の人々であるクリオーリョ,先住民との混血であるメスティソ
【東京H12[2]】
【H29共通テスト試行 独立運動を主導したのはクリオーリョ】
,ラテン系の人々とアフリカ系住民との混血であるムラート
【東京H12[2]】
,さらに最下層にアフリカ系住民の奴隷といったような,ピラミッド型の身分社会が成立していったのです。ヨーロッパ系の民族が先住民と交わることはあまりみられなかった,北アメリカの植民地とは対照的です。
◆
逃亡奴隷の集落がブラジル北東部に形成される
黒人奴隷と先住民が支配を逃れ,自立する
ポルトガルの支配が進むのと並行して,ブラジル北東部のバイーア市などに,キロンボ(英語では
「
マルー
ン
」といいます)という逃亡した黒人奴隷のコミュニティが形成されるようになります。
ここには同じく迫害を受けた先住民も合流し,相互の混血も生まれていきました。
・
150
0
年
~
165
0
年のアメリカ 南アメリカ
現①
ブラジル
◆ブラジルではポルトガルによるサトウキビのプランテーションが盛んとなる
ブラジルはポルトガルの勢力下に入る
ポルトガ
ル
の王〈マヌエル1世〉(幸運王,位1495~1521)により,すでに〈ヴァスコ=ダ=ガマ〉の到達していたインドのカリカットの王と外交関係を結ぶ目的で1500年に派遣された
〈
カブラ
ル
〉(1467?~1520?)
【セ試行 パナマ地峡の横断が業績ではない】
【追H30】
が,誤って大西洋を南西に突き進み,1500年
に
ブラジ
ル
【東京H23[3]】
【追H30】
を偶然発見。1494年にスペインとの間に締結されてい
た
トルデシリャス条
約
の分割線
【上智法(法律)他H30地図上の位置を答える】
にもとづき,これをポルトガル
【東京H23[3]】
領
【本試験H12スペインはプランテーション農業を展開していない】
としました。
ブラジ
ル
を領有したポルトガル
【本試験H12スペインではない】
ですが,当初はアジアの香辛料貿易への関心が高かったことから,ブラジルの有効活用はなかなかなされません。「ブラジル」の名の語源となった「パウ=ブラジル」(ブラジルの木)が,赤い染料の原料として輸出されたくらいで,交易やプランテーションの導入は進みませんでした。
ブラジル沿岸部にはトゥピ=グァラニー語族の諸民族がおり,パウ=ブラジルの交易がおこなわれ,ポルトガル人との混血も進みました。しかし,1530年頃にからフランス人の進出が活発化すると,インディオの諸民族の対立を利用しながら,ポルトガル人の交易拠点を脅かし始めるようになります。ポルトガルの王室は入植地を増やしてこれに対抗し,のちに総督が任命されるようになりました
。
リ
オ=デ=
ジャネイ
ロ
が1565年に建設されると,付近に植民地を建設していたフランスを1567年に追放しています。
やがて,パウ=ブラジルが枯渇すると,熱帯での栽培に適し
た
サトウキ
ビ
のプランテーションの格好の地として白羽の矢が立ちます。すでに大西洋上
の
マデイラ諸
島
(イベリア半島の南西1000km余りに位置します)で導入されていましたが,16世紀半ばに砂糖製造工場とともにサトウキビの第農園(プランテーション)がブラジルに建設されるようになりました。新大陸での有力なライバルであったスペインは,イベリア半島南部でサトウキビ栽培を行っていたことから新大陸(特に後に世界的産地となるカリブ海の島々)での栽培には積極的ではなく,ポルトガルの独壇場となりました。また,内陸部で
は
牧
畜
も導入されていきます。
労働力として,まず先住の諸民族
(
インディ
オ
)が奴隷として用いられました。しかし,インディオはヨーロッパから持ち込まれた疫病による影響を受け,布教のために入植し
た
イエズス
会
もインディオを奴隷として用いることに反対します
(のちにポルトガル王室と対立し1759年に追放)
。イエズス会はインディオをキリスト教徒にしようと各地に集落をつくります。1554年に建設され
た
サ
ン=
パウ
ロ
もそのうちの一つです。しかし,結果としてブラジルにおけるインディオは激減し,現在のブラジルでは総人口の1%を下回る比率となっています。
激減したインディオの代わりの労働力として多数導入されていったのが,アフリカ大陸のポルトガル植民地から輸入されたバントゥー系諸民族です
【本試験H11「先住民の人口が激減すると,多くの奴隷が輸入されるようになった」か問う】
。こ
の
黒人奴
隷
の導入は1570年以降,ポルトガル王室やそれと結びついたにポルトガル系ユダヤ人
(注
)
によって奨励されていき,おも
に
アンゴ
ラ
のルアンダ
や
コン
ゴ
が積出港でした
(⇒1500年~1650年の中央アフリカ)
。次第に,黒人とポルトガル人との間に生まれ
た
ムラー
ト
(女性の場合はムラータ)
の人口も増えていきました。ブラジルの文化には,こうしたインディオやアフリカの文化の影響が残されています。
ポルトガル王位は1580年に〈フェリペ2世〉が継承し,これにより実質的に併合されることになりました
【本試験H6時期】
。
それにともないポルトガルの植民地であったブラジルも,1640年に〈ジョアン4世〉が独立を回復するまでスペインの統治下に置かれることになります。その結果
,
オランダ独立戦
争
(1568~1646)を戦っていたネーデルラント北部(ネーデルラント連邦共和国,いわゆる「オランダ」)の西インド会社(1621年設立)による攻撃も受けるようになり,ブラジルの砂糖がヨーロッパ金融の中心地に成長してい
た
アムステルダ
ム
に流れ込みました。
1640年にポルトガルが独立を回復した後も,ブラジルではオランダに対する抵抗戦争が続き,1646年にはその功績が認められ,ブラジルは植民地か
ら
ブラジル公
国
に格上げされ,ポルトガルの王太子はブラジル公の称号を有することになりました。
(注)彼らの多くは,1496年に〈マヌエル1世〉の命令でポルトガルからアムステルダムに亡命していました。ブラジルへの入植も行われています。
◆
逃亡奴隷の集落がブラジル北東部に形成される
黒人奴隷と先住民が支配を逃れ,自立する
ポルトガルの支配が進むのと並行して,ブラジル北東部のバイーア市などに,キロンボ(英語では
「
マルー
ン
」といいます)という逃亡した黒人奴隷のコミュニティが形成されるようになります。
ここには同じく迫害を受けた先住民も合流し,相互の混血も生まれていきました。
・
150
0
年
~
165
0
年のアメリカ 南アメリカ 現②パラグアイ
◆この頃の「パラグアイ」は漠然と〈メンドーサ〉が国王に征服を許可された広大な地域を指した
パラグアイは「リオデラプラタ総督領」の一部に
現在
の
パラグア
イ
を含む広大な地域は、漠然とスペインの国王が征服者(コンキスタドーレス)の〈ペドロ=デ=メンドーサ〉(1487?~1537)との間に1534年取り決めた協約により、征服の対象となりました。
16世紀初頭のスペイン人は、この広大な領域を「パラグアイ」と認識しており、16世紀末までは「巨大地方」とも呼ばれていました。トルデシリャース条約の領土境界線となった経度以西の地が、征服可能な地として漠然と定められた理由は、内陸の地理に関する知識がまだ希薄であったからです
(注1)
。
現在もパラグアイの首都となっているアスンシオンは、1537年に〈メンドーサ〉の命を受けた〈フアン=デ=サラサル〉の探検により建設されました。1541年にブエノスアイレスを追われたスペイン人の入植者たちは(⇒1500年~1650年のアルゼンチンを参照)、アスンシオンに移り住みます。
これ以降、〈メンドーサ〉が国王に許可された広大な領域は1617年までの間、「
リオ=デ=ラ=プラタ総督領
」と呼ばれるようになります
(注2)
。
しかし「リオデラプラタ総督領」は、1539年の〈フランシスコ=デ=オレリャナ〉によるアマゾン探検を受けてブラジルが領土を西に拡張するにつれ、その北部から縮小。さらにスペイン人のアンデス山脈一帯における「黄金郷」探検の活発化により、北西部の領土も失っていきました。もはや領土の維持は難しく、1617年にはパラグアイ川流域から、ビルコマヨ川・イグアス川周辺よりも北のエリアを「
パラグアイ総督領
」(首都はアスンシオン)、ラプラタ川河口付近を「
リオ=デ=ラプラタ総督領
」として別の行政区分となりました。
当時のパラグアイはイグアス川の上流方向へ、大西洋への出口を持っていました
(注3)
。
なお、リオ=デ=ラ=プラタとパラグアイのどちらも、
ペルー副王領
の管轄下にあります。
(注1) 北東はガイアナ、南はフエゴ島までとされ、北西はペルーとチリの征服に関わった〈ディエゴ=デ=アルマグロ〉の発見エリアと接していました。田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、p.26。
(注2) 田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、p.27。
(注3) 「ブエノスアイレス総督領」とあるのは誤り(https://lacsweb.files.wordpress.com/2013/04/18koike.pdf)。田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、pp.28-29。
・
150
0
年
~
165
0
年のアメリカ 南アメリカ
現④
アルゼンチン
ラプラタ川の河口にブエノスアイレスが建設される
現在
の
アルゼンチ
ン
は,1516年にスペイン人により「発見」され
,
ペルー副
王
(副王はスペイン語でビレイvirrey。スペイン国王の代わりに統治を任された長官のことです
)
領
に組み込まれました。
現地には山岳部にケチュア人やアイマラ人(インディオと総称されます),草原地帯(ケチュア語でパンパと呼ばれます)やサバナ地帯(ケチュア語でチャコ)に
は
グアラニー
人
やチャルーア人が狩猟生活をおこなっていました。
スペイン人の入植が進行して混血の人々(メスティソ)が生まれるとともに,アフリカ大陸のコンゴやアンゴラからバントゥー系の黒人が奴隷として輸入されました。
1536年に
ブエノスアイレス
が建設されましたが,鉱山や農産物に乏しいアルゼンチンにはスペインにとって"甘み"がなく,開発は遅れました。建設当初は良好であったラプラタ川河口付近の先住民との関係もやがて悪化し、武力衝突が続くと、1541年にスペイン人はブエノスアイレスを放棄。
ちょうどその頃現在もパラグアイの首都となっているアスンシオンが、1537年に〈メンドーサ〉の命を受けた〈フアン=デ=サラサル〉の探検により建設されます。1541年にブエノスアイレスを追われたスペイン人の入植者たちは、アスンシオンに移り住みます(⇒1500年~1650年のパラグアイを参照)。
これ以降、〈メンドーサ〉が国王に許可された広大な領域は1617年までの間、「
リオ=デ=ラ=プラタ総督領
」と呼ばれるようになりました
(注1)
。
その後、ブエノスアイレスは1580年になって再建されました
(注2)
。
1588年からはイエズス会によるカトリックの布教も進行し,布教のための集落が各地に築かれます。
大規模な農園(エスタンシア)も築かれましたが,広大な草原(パンパ)では馬や牛の放牧が大規模に展開され,ガウチョといわれる牧畜民が独自の文化を築き上げていきました(2010年代中頃の日本で流行したガウチョパンツは,彼らの服装にルーツを持ちます)。
「
リオデラプラタ総督領
」は、1539年の〈フランシスコ=デ=オレリャナ〉によるアマゾン探検を受けてブラジルが領土を西に拡張するにつれ、その北部から縮小。さらにスペイン人のアンデス山脈一帯における「黄金郷」探検の活発化により、北西部の領土も失っていきました。もはや領土の維持は難しく、1617年にはパラグアイ川流域から、ビルコマヨ川・イグアス川周辺よりも北のエリアを「
パラグアイ総督領
」(首都はアスンシオン)、ラプラタ川河口付近を「
リオ=デ=ラプラタ総督領
」として分割されることになりました。当時のパラグアイはイグアス川の上流方向へ、大西洋への出口を持っていました
(注3)
。
なお、リオ=デ=ラ=プラタとパラグアイのどちらも、ペルー副王領の管轄下にありました。
(注1)田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、p.29。
(注2)田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、p.27。
(注3) 「ブエノスアイレス総督領」とあるのは誤り(https://lacsweb.files.wordpress.com/2013/04/18koike.pdf)。田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、pp.28-29。
・
150
0
年
~
165
0
年のアメリカ 南アメリカ 現⑥ボリビア
◆
ボリビアのポトシに,世界最大級の銀鉱山が発見される
ポトシの銀が,新大陸や中国に流れ込む
アルト=ペルー〔現・ボリビア〕がスペインにより征服されると、ペルー副王領(1542年)に組み込まれました。
ペルー副王領の下、現・スクレ市に置かれた
アウディエンシア
(王立聴訴院、1559年設立)の管轄下に置かれます。
スペイン国王は、地方行政官(コレヒドール。任期5年の役人)がインカ帝国時代の原住民共同体の首長(カシケ)を支配する形で、植民地を支配しました。
こうすることで、征服地を持つエンコメンデーロ(キリスト教布教の代わりに土地・住民支配権を獲得した私人)から支配権を奪い、植民地の人々を直接支配しようとしたからです
(注1)
。
しかし、コレヒドールの給与が定額であったことから、彼らは別の"収入源"を求めるように。先住民に対し伝統的な徴用制度であるミタ制を行使し、首長のカシケもコレヒドールとの密な関係を強いられました
(注2)
。
さてこの時期、南北アメリカ大陸では、各地
の
銀
鉱山がスペイン人のターゲットとなります。
・メキシコ
【本試験H10ブラジルではない】
北中部のグアナフアト(◆世界文化遺産「グアナフアトの歴史地区と鉱山」,1988)
北中部のサカテカス(◆世界文化遺産「サカテカス歴史地区」,1993)
・ボリビア
ポトシ銀
山
【本試験H31ダイヤモンド鉱山ではない】
【東京H16[1]指定語句】
【追H9ポルトガル植民地ではない】
これらから採掘された銀が大量に流れ込み,
日本銀
【東京H16[1]指定語句】
の流入とともに
東アジア世界の銀の流通量が増加する原因となりました
【本試験H10時期を問う(16世紀)】
。
ポトシ銀山は当初は先住民より発見されたのですが,のち1545年にエンコメンデーロ(先住民の委託を受けた入植者)のものになります。山は「セロ=リコ」(富の山)と呼ばれ,入植者が殺到。16世紀の
"
シルバ
ー=
ラッシ
ュ
"となりました(◆世界文化遺産「ポトシの市街」,1987(2014危機遺産))。
16 世紀末~17 世紀前半にかけてポトシは12 万人(1572 年の人口調査)から16万人(1611年)という大都市に発展。リマ~クスコ~ポトシ間の幹線道路も1570年代までに「銀の道」として整備。その中間地点にあたるティティカカ〔チチカカ〕湖南東,アイマラ系先住民の住む所には1548年にラパスが建設されます(現在のボリビアの首都)。しかし,ポトシの標高はなんと約4000m。高地に適応できなかったため黒人奴隷は用いられませんでした。先住民はコカの葉を噛みつつ労働にあたり,多くが犠牲となっていきます
(
注
3
)
。
(注1)真鍋周三『ボリビア知るための68章』明石書店、2006年、p.216。
(注2)真鍋周三『ボリビア知るための68章』明石書店、2006年、p.216。
(注3) 真鍋周三「植民地時代前半期のポトシ銀山をめぐる社会経済史研究 ―ポトシ市場経済圏の形成 ―(前編)」『京都ラテンアメリカ研究所紀要』11巻,p.57~p.84, 2011,
https://www.kufs.ac.jp/ielak/pdf/kiyou11_04.pdf,p.58
~p.59
◆
スペインにより太平洋横断交易が始まり,メキシコ銀が東アジアに輸出される
スペイン船に乗って,銀が太平洋を渡る
〈マゼラン〉
(注
)
が太平洋を横断した後も,ヨーロッパの人々は太平洋がどんな所なのか,正確な知識はほとんど把握していませんでした。
16世紀末にスペイン人の〈レガスピ〉によっ
て
太平洋航
路
が開拓され,1571年にフィリピンにマニラ
【セ試行】【本試験H5時期(16世紀以降)】
【本試験H13時期(16・17世紀),本試験H19時期,本試験H29フエとのひっかけ】
【追H27スペインのアジア貿易の拠点か問う、地図上の位置を問う】
が建設されました。グアムはこの交易の中継ポイントとして,重要な基地になりました。船には中国から買い付けた絹・陶磁器・香料が満載で,スペインが新大陸で掘り出した銀が交換のために用いられました。イギリスの海賊船は,このスペイン船を標的にしたわけです。
そんな中,1596年にガレオン船の一つサン=フェリペ号が,日本の土佐(現在の高知県)沖に漂着し,〈長宗我部元親〉(ちょうそかべもとちか,1539~99)が〈豊臣秀吉〉(1561~98)に通報しています。また,1609年にはメキシコのアカプルコに向かっていたサン=フランシスコ号が下総(しもうさ,現在の千葉県)に漂着し,マニラの長官代理の〈ロドリーゴ〉(ドン=ロドリゴ,1564~1636)は駿府(現在の静岡県)で
〈
徳川家
康
〉と会見し,スペインの新大陸の植民地ヌエバ=エスパニャとの通商関係を求められました。これに対し,1610年に京都の商人〈田中勝介〉らが〈ロドリーゴ〉とおもにメキシコに渡航し,翌年帰国しました。1611年には伊達氏の家臣である
〈
支倉常
長
〉(はせくらつねなが,1571~1622)ら慶長遣欧使節団が,メキシコ経由でヨーロッパに派遣され,なんとスペイン国王〈フェリペ3世〉(位1598~1621)とローマ教皇〈パウルス5世〉(位1605~21)に謁見しています
。
1601年にスペイン人によりマリアナ諸島の中
の
サイパン
島
が確認され,17世紀後半からはスペイン人の宣教師がマリアナ諸島で布教活動を行いました。
1606年にポルトガル人の航海長〈キロス〉は
,
バヌア
ツ
に到達しました。その後,船員のトレスは,オーストラリアとニューギニア島が離れていることを確認しました。ニューギニアには,すでにポルトガル人の〈メネゼス〉が到達しています。
さらに遅れて,オセアニアに進出したのはオランダです。オランダはアジア貿易にも関心を示し,はじめは北極海を通る航路を開拓しようとしましたが失敗し,太平洋航路の開拓に乗り出します。1598年にロッテルダムを出航した船隊が難破し,残った1隻が日本の豊後(ぶんご,現在の大分県)に漂着し,
〈
徳川家
康
〉(1542~1616)に謁見したことは有名です。その後,1616年に〈ル=メール〉は,トンガやビスマルク諸島のニューアイルランド島などのニューギニア北東部の諸島を発見しました。また,17世紀に入りオランダ人の航海士たちはオーストラリア大陸に到達しますが,荒れ地ばかりでうま味がないと判断したようです。1642年に東インド会社の命令で探検した
〈
タスマ
ン
〉(1603~59)は,オーストラリア南部
の
タスマニア
島
【本試験H26】
やニュージーランド南島の南端に到達しました。これが,ポリネシア系
の
マオリ
人
【セ試行ニュージーランドの原住民】
にとっての,ヨーロッパ人との初接触です。その後,トンガやフィジー,ビスマルク諸島のニューブリテン島を回って,ジャワ島のバタヴィアに帰りました。その後のオランダは,アフリカ大陸南端のケープタウンを確保したことから,太平洋周りの航路への関心は低下していきました。
(注)〈マゼラン〉はポルトガル出身なのでポルトガル語読みで〈マガリャンイス〉と呼ぶのが"正しい"とされることもありますが,出身"国"にこだわるのは近現代以降
に
ナショナリズ
ム
が盛んになって以降のことです。ここでいう「ナショナリズム」とは,要するに"お国自慢"のこと。
○150
0
年
~
165
0
年のオセアニア ポリネシア
ポリネシア...現在の①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島,フランス領ポリネシア,③クック諸島,④ニウエ,⑤ニュージーランド,⑥トンガ,⑦アメリカ領サモア,サモア,⑧ニュージーランド領トケラウ,⑨ツバル,⑩アメリカ合衆国のハワイ
・
150
0
年
~
165
0
年のオセアニア ポリネシア
現①
チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島,フランス領ポリネシア
◆
イースター島では資源資源が枯渇し,石像の建造もストップし
た
(
"
イースター島の教
訓
")
ポリネシア人
の
イースター
島
では,16世紀頃にモアイの建造が突如ストップしました。島には今でも,未完成のモアイが150体も残されています。ポリネシア人が移住してきたときには緑豊かだった島は,過剰な人口にともなう森林伐採によって草原と化し,土壌が流出してサツマイモの収穫量が不足したため,限られた資源をめぐり争いが起きたのではないかと考えられています
(
注
1
)
。
漁に使う木製のカヌーを建造することもできなくなり,やがて布や漁網の材料であったカジノキも枯渇
(
注
2
)
。
1600年には島のほぼすべての森林が失われ,運搬する手段を失った
島民の間では,ライバルの集落のモアイを引き倒す行為がなされました。実力をたくわえた戦士階級は,モアイの変わりに鳥神マケマケの化身である鳥人への信仰を深め,木板に未解読
の
ロンゴロンゴ文
字
を刻むようになります。
18世紀にヨーロッパ人が訪れたときには,ほんの数体の石像のみがかろうじて立っている状態であったといいます。
ただ,「イースター島でモアイづくりのために最後の木を伐採した人は,それが最後の木だとは気づかなかった」という"教訓"じみた挿話に関しては,異を唱える説もあります
(ハワイ大学の研究者によると,ポリネシア人とともに島に流入したネズミが増加し,チリサケヤシという樹木が齧られたが,そもそも石像の運搬にはそれほど多くの人手は必要なかったといいます
(
注
3
)
)
。
(注1)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.15。
(注2)同上,p.16。
(注3)印東道子「イースター島の環境崩壊とモアイ」 国立民族学博物館http://www.minpaku.ac.jp/museum/enews/162
,
2014年
・
150
0
年
~
165
0
年のオセアニア ポリネシア
現⑤
ニュージーランド
オランダの〈タスマン〉が1642年にタスマニア島の東方から北上し,ニュージーランドの南島を確認。しかし,ニュージーランドの住民
(
マオ
リ
)による攻撃を警戒し,上陸することはありませんでした。彼はこの島々をオランダのゼーランドにちなみ,「ゼーランディア=ノヴァ」(英訳するとニュージーランド)と命名しています。
・
150
0
年
~
165
0
年のオセアニア ポリネシア
現⑥
トンガ
ポリネシア西部・中央部,メラネシアやミクロネシアの一部にまで交易圏を拡大させてい
た
トンガ帝
国
ですが,この時期にはトゥイ=トンガ(トンガ大首長)の権力は衰退に向かいます。
17世紀前半にはオランダやイギリスの船が来航しています。
・
150
0
年
~
165
0
年のオセアニア ポリネシア
現⑨
ツバル
スペインの〈メンダーニャ〉(1542~1595)が上陸していますが,植民はなされませんでした。
○150
0
年
~
165
0
年のオセアニア オーストラリア
この時期のオーストラリアについては文字史料が乏しく,詳細はわかりません。
オランダ
人
の〈タスマン〉(1603~1659)が,オランダ東インド会社(VOC)の下で1642年~1643年にニュージーランド西岸やタスマニア島南岸を,1644年にはオーストラリア北西岸周辺を航海しています。当時のヨーロッパで実在が謎とされていた「南方大陸(テラ=アウストラリス)」の正体を探すことがミッションでした。
○150
0
年
~
165
0
年のオセアニア メラネシア
メラネシ
ア...
現在
の①
フィジー
,②
フランス領のニューカレドニア
,③
バヌアツ
,④
ソロモン諸島
,⑤
パプアニューギニア
・
150
0
年
~
165
0
年のオセアニア メラネシア
現①
フィジー
1643年にオランダの〈タスマン〉が上陸しています。
・
150
0
年
~
165
0
年のオセアニア メラネシア
現③
バヌアツ
1606年にポルトガルの〈キロス〉がバヌアツのニューヘブリディーズ諸島に上陸しています。
・
150
0
年
~
165
0
年のオセアニア メラネシア
現④
ソロモン諸島
1568年にスペインの〈メンダーニャ〉(1542~1595)がソロモン諸島を訪れ,ガダルカナル島で発見した砂金から莫大な富の眠る島と勘違いし,古代イスラエルで栄華を誇った〈ソロモン〉王にちなみソロモン諸島と名付けました。
・
150
0
年
~
165
0
年のオセアニア メラネシア
現⑤
パプアニューギニア
1526年にポルトガルの〈メネセス〉(1498?~1537)が上陸しています。
○150
0
年
~
165
0
年のオセアニア ミクロネシア
ミクロネシ
ア...
現在
の①
マーシャル諸島
,②
キリバス
,③
ナウル
,④
ミクロネシア連邦
,⑤
パラオ
,⑥
アメリカ合衆国領の北マリアナ諸島・グアム
・
150
0
年
~
165
0
年のオセアニア ミクロネシア
現①
マーシャル諸島
スペインの
〈
マゼラ
ン
〉(1480?~1521),〈エルカーノ〉(1486?~1526)さらに〈サーベドラ〉(未詳)らにより発見されています。
・
150
0
年
~
165
0
年のオセアニア ミクロネシア
現②
キリバス
・
150
0
年
~
165
0
年のオセアニア ミクロネシア
現③
ナウル
・
150
0
年
~
165
0
年のオセアニア ミクロネシア
現④
ミクロネシア連邦
1525年にポルトガル人がヤップ島とユリシー島に到達,1529年にはスペイン
が
カロリン諸
島
に到達。1595年には
,
マリアナ諸
島
とカロリン諸島はスペイン領となりました。
・
150
0
年
~
165
0
年のオセアニア ミクロネシア
現⑤
パラオ
16世紀後半に,マリアナ諸島,グアム,カロリン諸島,フィリピンなどとともに
,
スペイン領東イン
ド
となっています。
・
150
0
年
~
165
0
年のオセアニア ミクロネシア
現⑥
アメリカ合衆国領の北マリアナ諸島・グアム
先住民はオーストロネシア語族マレー=ポリネシア語派
の
チャモロ
人
。
1521年にスペインの派遣した〈マゼラン〉グアム島に到達。
1565年には〈レガスピ〉によりスペイン領となっています。
○150 0 年 ~ 165 0 年のアジア 東アジア
◆
明は北虜南倭や大地
震(
華県地
震)
の影響を受け,財政難に苦しめられる
この時期の明にとっての脅威は
,
北
虜
【本試験H10】
【セA H30】
(ほくりょ,北方騎馬遊牧民
【本試験H10倭寇との引っ掛け】
)
と
南
倭
【本試験H10北虜ではない】
(なんわ,倭寇)です。
北虜
モンゴル人が交易を要求して明に圧力かける
モンゴル高原では,〈チンギス・ハーン〉の直系である
〈
アルタ
ン=
ハー
ン
〉
【追H29土木の変を起こしていない】
は,勢力を増し,彼の側につく漢人の支配層や軍人,迫害を受けた白蓮教徒が北辺に移動し,都市を建設するようになっていました。アルタンの根拠地は現在のフフホトにあたります。漢人の軍人を受け入れていた〈アルタン〉は,中国の内情を熟知していまいした。1550年
に
北
京
を占領し
【本試験H15,本試験H16北元による占領ではない】
,朝貢貿易を再開するように圧力をかけました。
南倭
「灰吹法」の開発が、倭寇の活発化につながる
北方の軍事費が増加するのにしたがって,15世紀半ばから銀による徴税がおこなわれるようになり,人々の生活を苦しめていました。
そんな中、東アジア海域では海禁をくぐり抜けようとする密貿易集団
(
倭
寇
【セA H30】
)が発達。
1523年には朝貢の順位をめぐり
,
ただ、日本からの輸入品は、中国によって「どうしても輸入しなければいけない」というほどのラインナップではありません。東南アジアと比べれば比重の低いものでした。
しかし、ちょうどその頃、日本で
石見銀山
(いわみぎんざん)が発見され、朝鮮から
灰吹法
(はいふきほう)という銀の精錬技術が伝わり、日本における銀の生産量が飛躍的に増加するという"偶然"が起こります
。
中国における銀の需要を補うため、倭寇は
日本
の
博
多
【東京H27[1]指定語句】
商人
やポルトガル商人を拠点に誘い,
銀
の輸出で巨利をあげるようになっていきます。
有名なのは
〈
王
直
〉(おうちょく,?~1560)です。彼は,広東で巨大な船をつくり,
銀
、硫黄や生糸を,日本やアユタヤ朝などに密輸し,莫大な富を築き,日本・中国・朝鮮・東南アジアの密貿易集団を配下に置いて君臨しました。『鉄炮記』によれば1543年(ヨーロッパ史料にもとづけば1542年)に種子島に漂着して日本に鉄砲を伝えたとされる、ポルトガル商人の乗っていた倭寇船も、この〈王直〉傘下のものでした。その後、1553年には嘉靖大倭寇といわれる襲撃事件が多発し,〈王直〉は1559年に処刑されています。
◆ポルトガル人が「密貿易」ネットワークに入り込む形で中国貿易に参入する
ポルトガル商人が広州における居留権を得る
さて、同時期に東アジア海域にも進出していたポルトガルが、初めに中国に進出したのはマラッカ占領(1511)直後の1513年でした。ポルトガル商人〈アルバレス〉が、東南アジアと中国間の貿易に注目して華人のジャンク船に同乗し、広州を訪れたのです
(注2)
。
しかし明との公式な貿易をおこなうには許可が必要です。
1517年にポルトガルから〈トメ=ピレス〉が派遣され
、
広
州
【同志社H30記】
で交易を開始。彼は1520年に〈正徳帝〉への謁見を南京でゆるされますが、皇帝の死後に状況が変化し、結局彼の一行は広州で投獄、財産も没収されてしまいます
(注3)
。
その後、ポルトガル商人は珠孔河口にあるタマオ島(屯門島)に要塞を築き、沿岸住民を奴隷とし、船舶を襲うなどしたことから、明との関係が悪化。ポルトガル商人がインド洋沿岸で得意としていた大砲による砲撃も功を奏さず、1521年にはポルトガル人の退去が命じられます
(注4)
。
その後もポルトガル商人による公的な貿易は認められず、東アジア海域で活動していたポルトガル人の貿易は「私的」な「密貿易」だったのです。その拠点は長江河口付近の寧波沖に浮かぶ舟山(しゅうざん)群島。華人やポルトガル人の根城でした。
明の役人による攻撃が激しくなると、密貿易商人のリーダーであった
〈
王
直
〉(おうちょく,?~1560)は、拠点を日本の九州にある五島列島から、平戸に移します。五島列島も平戸も、東シナ海で活動するグループ(たとえば松浦党(まつらとう))の拠点。〈王直〉と組んでいたポルトガル商人は1550年に平戸を初めて訪れ、平戸の領主〈松浦隆信〉(まつらたかのぶ、1529~1599)に歓迎を受けます。
〈王直〉は広東で巨大な船をつくり,
銀
、硫黄や生糸を,日本やアユタヤ朝などに密輸し,莫大な富を築き,日本・中国・朝鮮・東南アジアの密貿易集団を配下に置いて君臨しました。『鉄炮記』によれば1543年(ヨーロッパ史料にもとづけば1542年)に種子島に漂着して日本に鉄砲を伝えたとされる、ポルトガル商人の乗っていた倭寇船も、この〈王直〉傘下のものでした。ポルトガル人はこうした華人に雇われたり融資を受けたりすることで、中国産品を東南アジアや日本と取引していたのであって、"ヨーロッパから直接日本にやってきて、自律的に商品を売っていた"なんてことはなかったわけです。その後、1553年には嘉靖大倭寇といわれる襲撃事件が多発し,〈王直〉は1559年に処刑されています。
アジアを拠点とするポルトガル人による(本国の王室のコントロールを離れた)「私的な交易」が活発化すると、本国の王室やゴアの副王・マラッカの長官も「中国がらみの貿易はもうかるぞ」ということに気づき始めます。1552年にポルトガルの王室艦隊司令官が沿岸の海賊退治の見返りに、杭州湾の入り口のマカオ半島への荷揚げと滞在を要求。媽祖(まそ、船乗りを守る女神)をまつる廟(びょう)があったことから、媽閤廟(まこうびょう)→「マカオ」と呼ばれることになりました。そうして、1557年に明
が
マカ
オ
【追H27スペインの拠点ではない、地図上の位置を問う】
【本試験H22時期,本試験H24地図上の位置を問う,本試験H25】
【上智法(法律)他H30】
での居留を認めるにいたったわけです(◆世界文化遺産「マカオの歴史地区」,2005)。ただ、これは毎年地租500両(テール)を納めることが条件で、決して植民地というわけではありませんし、明の国内の法に従うことが必要とされました
(注5)
。
1570年頃には日本の大名〈大村純忠〉が長崎港を開き,1580年に長崎の町をイエズス会に寄進しました。ポルトガル商人が定期的に来航することをねらったものだろう
(注
6)
。ポルトガルの影響力が高まりますが、その後日本においてキリスト教徒への弾圧が始まると
,ポルトガルの勢力は削がれ,かわりに台湾に進出し
た
オラン
ダ
【追H24フランスではない、H27ポルトガルではない】
【セ試行 】
の勢力が伸びます(1624年に台湾南部にゼーランディア城を築きました
(注
7)
)。
新参者のオランダにとっては,中国人や日本人のパートナーが不可欠でした。そこで目をつけられたのが,福建省出身の〈鄭芝龍〉(ていしりゅう,1604〜61)でした。
彼は長崎の平戸に住んでいたことがあり,1624年に日本人の女性〈田川マツ〉と子どもをもうけていました
。オランダに接近した〈鄭芝龍〉の勢力は拡大し,オランダも1639年には徳川幕府に長崎来航を認められます。
同じ頃〈アルタン〉は1571年に明と和議を結び,国境地帯の貿易が認められました。彼は〈順義王〉に封ぜられて,漢人の文化も取り入れ,牧畜民・農牧民を支配しました。
一方,1556年には
(注1) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.120。
(注2) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.120。
(注3) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.123。
(注4) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.123。
(注5) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.126。
(注6) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.132。ちょうどマドラスがイギリスに便宜供与したのと似ています。
(注7) オランダは1624年に安平港にゼーランディア要塞を築きましたが,1661年に〈鄭成功〉がアモイから台湾に進出してこれをのっとります。1624~1661年までがオランダの台湾支配期ということになります。なお,バタヴィアにオランダが完全に退去したのは1662年のこと。『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.122
◆
銀が流入し貨幣経済がすすみ,心即理をとなえた儒学者〈欧陽明〉が民衆の支持を集めた
貨幣経済が進行し、陽明学が流行する
こうして,1570年頃以降,マニラにスペインの拠点ができて,メキシコから太平洋航路で銀が持ち込まれるようになってからというもの,ますます多くの銀が明に流れ込むことになりました。
その量は,16世紀に2100〜2300トン,17世紀前半に5000トンと推計され,その約半数は日本銀でした
。
しかし,それでも中国の銀不足は解消されません。大商人や官僚が,銀を使わずに貯め込んでいたからです。蓄財がすすめば賄賂も横行します。農村の人々は,銀を手に入れるために手工業の副業を始めるようになり,長江下流域では生糸の生産が盛んになっていきました。収穫した米を小作料として地主に納めると,手元にはほとんど残りません。彼らは手工業により銀を手に入れ,それで米を買ったのです。その結果,生活の厳しい農民も多くなっていきました。
このような状況で,
〈
王守
仁
〉(1472〜1529)は,学問的知識や厳しい修養がなくても,人間と世界の正しいあり方「理」に到達できると説きました。庶民であっても,あるがままの自然の心の中に「理」が備わっていると考えたのです。これを
「
心即
理
」
【本試験H12時期「全真教が成立した王朝」のときのものか問う】
といいます。庶民であっても,自分自身のもっている道徳に従えば「理」に到れるという考え方は,絶大な支持を集めました。
のちには,泉州のムスリム家庭に生まれた
〈
李卓
吾
〉(1527~1602)
【本試験H9朱子学を継承・発展させたか問う(批判したので「継承・発展」とはいえない)】
のように『論語』が「偽善者の言い訳」と言い放つ,自由な思想も現れるようになっていきました。
◆
徐階による互市の設置と,張居正による税制改革がおこなわれた
海禁が解除され,税の銀納が認められるように
当時の中国では全国的な流通網が発展し
,
山西商
人
【本試験H7,本試験H10「新安商人」とのひっかけ】
【本試験H23】
や
徽
州
(
きしゅう,新安
)
商
人
【本試験H7「新安商人」,本試験H10山西省出身ではない,華北中心ではない】
【本試験H23】
が活躍し,資本を蓄えました。
交易をもとめて北虜南倭(北方の遊牧民と沿岸の倭寇)の圧迫が強まったことから,〈嘉靖帝〉(位1521~67)の下で内閣大学士の〈徐階〉(じょかい,1503~1583)
が
〈
万暦
帝
〉(ばんれきてい,在位1572~1620)
【追H28軍機処を設けていない】
は即位したもののまだ幼く,
〈
張居
正
〉(ちょうきょせい,1525~1582)
【追H26黄宗羲ではない】
が政治の実権を握っていました。
宰相(主席大学士)についた〈張居正〉は官僚をおさえつけて,内閣が監察官を監督する形にします。これでは,内閣をチェックする監察官の役割の意味がありませんよね。〈始皇帝〉にあこがれ,皇帝権力を強めることで,富国強兵・綱紀粛正による立て直しを図ったのです。陽明学による講学活動も禁止。書院を閉鎖させ,政府批判を禁じました。これが地方からの批判を生み,下野(政治家をやめて民間で活動すること)した人々か
ら
東林
党
【追H26旧法党ではない】
というゆるいつながりを持った反政府グループも生まれ
,
東林党と非東林党との党
争
【本試験H30新法党・旧法党とのひっかけ】
が激化しました。
なお,〈張居正〉は複雑になってい
た
両税
法
をやめて,丁税
(
人頭
税
)
と
地
税
にまとめて,一括して銀で納税す
る
明代
【本試験H27漢代ではない】
の
長江下流
域
(江南
【東京H9[3]】
地方)
は
綿織
物
【追H25唐代ではない】
などの商品作物生産地帯となったため,穀倉地帯は長江
中
流域
【追H27】
に移り
「
湖広熟すれば天下足
る
」
【東京H19[1]指定語句】
【追H27元代ではない】
【本試験H7中流域から過流域にうつったわけではない】
(長江中流域の湖沼地帯の稲が実れば,中国人のお腹はいっぱいになる)
【本試験H21江浙ではない,本試験H30】
と呼ばれました。
その一方で,16~17世紀にかけ,
さて,東林党と非東林党との党争が激化する中,文字も読めないのに多くの官僚を従えのし上がった
彼は反対派の東林党に対し厳しい弾圧を加え,弾圧から逃れようと各地に〈魏忠賢〉をまつる聖堂が建てられたほどでした。東林党を反政府勢力としてマークし,特別警察により関係者を逮捕し,弾圧しました。反〈魏忠賢〉派,つまり東林党の指導者は
〈
〈崇禎帝〉(位1627〜44)が即位すると,〈魏忠賢〉は失脚して自殺。死後,彼に対する批判をテーマにとった小説や戯曲が,多数出版されました。
◆
実学がさかんとなり,庶民向けの読み物も出版されるようになった
西洋技術を導入した新たな農業技術も,イエズス会のメンバーと協力した
【本試験H23排撃していない】
〈
また産業が盛んになると,さまざまな技術書や薬学に関する実用書・技術書も著されるようになり,情報共有が進みました
【本試験H15】
。〈宋応星〉
【本試験H29】
【追H25授時暦をつくっていない】
が
『
天工開
物
』
【東京H9[3]図版(繭から生糸を紡ぐ作業を説明する)
】
【
本試
験H2
時
期(
宋代ではな
い),
本試
験
H1
1
:朝鮮で出版されたものではない】
【本試験H29本草綱目ではない】
【追H30時期を問う(明代)】
で産業技術を図入りで集大成しました
。
陶磁
器
【本試験H2,本試験H10絹織物ではない】
の生産地であ
る
ほかにも,〈
なお,明の時代には生産や交易の発展にともない,庶民の力も増し,庶民向けの文学も盛んに印刷されました
。
四大奇
書
とされている,①〈
◆
明の支配がぐらつき,北東部で女真〔女直〕が交易で急成長,朝鮮を服属させ,明を滅ぼす
女真が成長し,遊牧民の支持を受け「中国」支配へ
明の末期,指導力のとぼしい皇帝の即位が続きます。「跡継ぎとして長男を皇太子にする」という決まりあったため,選びようがなかったのです。
そんな中,1580年代~1590年代には飢饉が起き,民衆の「税が払えません」暴動が多発。さらに1592,1597年に日本の〈秀吉〉が朝鮮を落として明の支配を狙うわ,「北虜南倭」(北方の遊牧民と海上の「倭寇」)の攻撃も増えるわで,ガタガタ。
明から辺境に派遣された軍人の中には,軍事費を横領して自立をはかろうとした者も出ていました。例えば遼東半島に派遣されていた軍人は,東北アジアと
の
テ
ン
(貂)の毛皮や薬用の人参
(
朝鮮人
参
)の取引で,利益を得るようになっていました。
ちょうどその頃,シベリアの針葉樹林地帯や,黒竜江の北で狩猟されたテンや,白頭山周辺で栽培されるニンジンを,朝鮮半島まで送り届けていたの
は
女
真
(女直)人です。こうした特産物のルートを掌握した建州部の
〈
ヌルハ
チ
〉(1559〜1626)は,急成長を遂げました。
朝鮮人と女真(女直)人との関係は深く
,
朝鮮王
朝
の建国者〈李成桂〉は多くの女真(女直)人を従えていました。あらたにヌルハチが女真(女直)人を統一すると,李朝の王や支配層は関係をどうするか対応に迫られます。当時の王〈光海君〉は友好関係を築こうとしましたが,重臣たちは反対し
て
明
【本試験H27南宋ではない】
と同盟して〈ヌルハチ〉を攻撃しました。
しかし,1619年に明と朝鮮の連合軍
は
サルフの戦
い
【本試験H27リード文】
で〈ヌルハチ〉に敗北し,朝鮮王朝は抵抗の後,降伏。後金と講和しました。その後,後金はさらに〈ホンタイジ〉
【京都H22[2]】
【追H21】
のとき
に
朝鮮王
朝
を攻撃し,1636年に服属しました。これ以降,朝鮮の宗主国は清となります
【本試験H10 1870年代の宗主国が清か問う】
。
・
150
0
年
~
165
0
年のアジア 東アジア
現①
日本
◆
琉球王国とポルトガル人が間に入り,日本銀や工芸品が輸出され,大陸の商品が輸入された
東アジアの交易の活性化とヨーロッパ勢力の進出
メキシコ銀
【本試験H5時期(16世紀以降)】
【追H18】
がスペインの
マニラ
【セ試行】【本試験H5時期(16世紀以降)】
【本試験H13時期(16・17世紀),本試験H19時期,本試験H29フエとのひっかけ】
【追H27スペインのアジア貿易の拠点か問う、地図上の位置を問う】
【大阪H31論述指定語句】
経由で明に流入すると,中国での銀の需要が高まりました。それにこたえたのが
,
石見銀
山
(いわみぎんざん)を中心とする日本銀です
【本試験H21時代を問う】
。1526年に戦国大名〈大内〉氏が開発をはじめ,1533年以降朝鮮から伝わった新技術
の
灰吹
法
(はいふきほう)によって,生産量が増加していきました。これは,不純物の混ざった鉱石から銀を吹き分ける技術で,1533年に博多
【東京H27[1]指定語句】
の豪商〈神屋寿禎〉(かみやじゅてい)が〈慶寿〉(けいじゅ)と〈宗丹〉(そうたん)という技術者を朝鮮半島から招いて導入したものです(出典:島根県HP http://ginzan.city.ohda.lg.jp/wh/jp/technology/haifuki.html)。
日本はこ
の
銀
を,中国(生糸
【本試験H7時期(明代の江南か)】
,絹織物
【本試験H7時期(明代の江南か)】
,陶磁器)や朝鮮(木綿)とたくさん交換したかったわけですが,残念ながら当時の明は海禁政策をとっており,勘合貿易も室町幕府の衰退により1549年にはおこなわれなくなっていました。
そこに目をつけ
た
ポルトガ
ル
は日本との中継密貿易に参加して,莫大な利益をあげました。従来から東アジアに張り巡らされていた交易ネットワークに"便乗"(びんじょう)したといえましょう。
実際,1543年(または1542年)に
1549年にイエズス会の
〈
ザビエ
ル
〉が,マラッカから〈アンジロー〉(弥次郎,薩摩の人,生没年不詳)の手引きで鹿児島に移動した手段もジャンク船でした。
なお,明は後期倭寇の活発化を受け,1560年代に海禁をゆるめています。中国の福建省(漳州(しょうしゅう))からは,認可された船の外国への渡航が認められ,広東省でも朝貢以外の通商が認められました。ポルトガル人
の
マカ
オ
【セ試行】
【本試験H10泉州ではない】
居住権が認められたのもこのときです。
しかし、明は公式には華人の日本への渡航や日本人商人の中国渡航を認めなかったため、日本・中国の商人が取引をするには東南アジアに行き「出会い貿易」をする必要がありました。そういうわけでこの時代、東南アジアへの日本商人の進出が加速し、各地に日本人街が建設されていったのです(
日本町
(にほんまち))。
日本の大名の中には〈大友宗麟〉〈大村純忠〉のようにキリスト教徒に改宗した者もいれば,純粋に貿易に従事しようとした大名もいました。しかし基本的にスペインやポルトガルの人々にとって,キリスト教徒の布教は必要条件であり,その先には植民地化という意図がありました
(注)
。
(注)羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.134。
織豊政権から江戸幕府へ
尾張地方(おわりちほう,現在の愛知県)の戦国大名であった
〈
織田信
長
〉は,天皇と室町幕府(足利将軍)の両方の権力を自らのものとすることで,「天下布武」のスローガンを掲げつつ,日本全土にわたる公権力を獲得しようとしました。彼は天台宗山門派(延暦寺),浄土真宗(一向宗(いっこうしゅう))
の
一向一
揆
による抵抗を徹底的に倒し,世俗権力が宗教権力よりも上にあるのだということを示しました。浄土真宗は,武家や農民もとりこみ,"宗教国家"を建設しようとしていたとみられ,危険視されたのです。
〈信長〉は,太政大臣にも関白にも就任することなく,1582年
に
本能寺の
変
で亡くなりました。
〈信長〉の跡を継いだのは〈
豊臣秀吉
〉です。朝廷や中国・四国・九州支配のために,大阪城を造営し,農業・商工業の生産力を確保しました。天下を平定した秀吉は,1585年に関白に藤原姓をもらって就任し,1586年に太政大臣に就任し豊臣姓を始めました。姓を自分でつくってしまうというのは,天下人の証です。彼は聚楽第という豪華な宮殿を京都に造営し,1588年後陽成天皇を招いて儀式を執り行い,自分が官職の序列のトップにいることを,公家と大名に示したのです。彼は,関白と太政大臣という地位により
,
検
地
や
刀狩り,海賊停止
令
などのさまざまな政策が行われました。1590年には惣無事令を発し,従わなかった関東の後北条氏は小田原で討伐され,従った〈伊達政宗〉は服属して奥州は平定されました。これで全国統一の完成です。
また、1587年には長崎をイエズス会から取り上げ直轄化し、宣教師追放令を発布しました。キリスト教布教がこれ以上進むことが、日本の政権に対するまぎれもない脅威であるととらえたのです。
しかし〈秀吉〉
【追H24「豊臣秀吉」】
は,明の征服を夢見て,朝鮮への軍事的進出
【本試験H29琉球ではない】
を2度実行し,失敗に終わりました。
それぞれ韓国で
は
壬辰倭
乱
(イムジンウェラン)
・
丁酉倭
乱
【追H19,H24二度の侵略を受けたか問う,H30】
【H30共通テスト試行 時期(「1402年」・「楽浪郡の設置」・「豊臣秀吉が送った軍勢の侵攻」の並び替え)】
,日本では文禄の役・慶長の役といいます。
〈秀吉〉はゆくゆく
は
明
の征服をも企んでいましたが,朝鮮は
〈
李舜
臣
〉(1545~98)
【セ試行 李成桂ではない】
【本試験H22李成桂ではない】
【追H18】
によ
る
亀甲
船
(きっこうせん,甲板を覆った軍艦)
【本試験H22三段櫂船ではない】
の水軍
や
明の援
軍
【追H30】
【本試験H7】
もあり,秀吉が死ぬと撤退しました
【京都H21[2]説明(中国側が援軍を出したことを説明)】
。
1598年に〈秀吉〉は,息子〈秀頼〉(6歳)に従うよう遺書を残し,あとを五大老・五奉行に託して亡くなりました。結局,五奉行の一人
〈
石田三
成
〉(1560~1600)は五大老の一人〈毛利輝元〉(1553~1625)と組み,西国大名とともに西軍を組みました。それに対し東軍を率いて勝利したのが〈徳川家康〉です。1600年に起きた"天下分け目の戦い
"
1603年に〈徳川家康〉は
,
征夷大将
軍
の宣旨(せんじ)を受けました。しかし,〈秀吉〉のように関白には就任しませんでした。関白には〈秀頼〉も就任しており,それとは違う土俵で,あくまで「武家の棟梁」として,天下を支配することにこだわったのです。1615年には「
1614~1615年にかけ
て
大坂の
陣
がおこなわれ,依然として勢力を保っていた〈豊臣〉家の
〈家康〉は1615年に亡くなると,
〈
徳川秀
忠
〉(在職1605~23)に継がれます。〈家康〉の頃から,スペイン船やポルトガル船は相変わらず盛んに来航していました。
また、明が正式に商人による日本との貿易を認めていなかったことから、日本人が東南アジアに進出して華人と「出会い貿易」をする事例が増えていましたが,〈家康〉はこれ
に
朱印
状
を与えて許可することで、貿易を管理しながら商品の安定的な輸入を確保しようとしました
(
朱印船貿
易
)
【本試験H25宋代ではない】
【セA H30】
(注)
。東南アジアとの貿易が中心となったのには,〈秀吉〉の朝鮮進出により朝鮮半島が大陸の窓口ではなくなっていたことも関係しています。
しかし1616年以降,幕府が貿易を独占しキリスト教を制限・禁止する措置が,段階的に取られていきました。キリスト教の布教が、ポルトガルやスペインによる領土獲得と同時に行われていることへの懸念が高まったからです。
このころキリシタン大名であった〈高山右近〉(たかやまうこん、1552~1615)
【追H29リード文】
は江戸幕府に抵抗してキリスト教の信仰を守ったため,1614年に国外に追放してマニラに移住し,翌年亡くなっています(フィリピンのマニラに現存する高山右近像。没後400年にあたる2015年にはローマ教皇庁により聖人に次ぐ「福者」にする手続きが開始され,その後承認されています
【追H29リード文】
)。
1635年には
,
日本人の海外渡航・帰国が全面禁
止
となり,いわゆる
「
鎖
国
」の体制が始まりました。間一髪で帰国に間に合った平戸藩士の〈森本一房〉(もりもとかずふさ,生没年不詳)
【本試験H19リード文】
は,父の供養のためカンボジア
の
アンコー
ル=
ワッ
ト
に渡り,壁面に「寛永九年正月初めてここに来る」という落書きを残しています。彼はアンコール=ワットを,〈ブッダ〉が修行した場所と勘違いしていたようです。
貿易が制限されたといっても,まったく貿易が行われなくなったわけではありません。
1637年
に
島原の
乱
が勃発すると,キリスト教に対する政策も強め,
なお,キリスト教の布教に熱心ではない新教国オランダと清は,長崎
【東京H22[1]指定語句】
の
出
島
において貿易が認められていました。幕府は,オランダを国外情勢を得るための窓口としても利用します。
蝦夷
の
アイヌ
人
との交易には,松前氏に独占交易権を与えました。アイヌ人たちは,河川ごとに集団を形成して漁労を行い,獣皮・海産物を取引し,中国大陸のアムール川(黒竜江)流域の民族や,千島列島・樺太島のアイヌとも交易を行っていました。
朝
鮮
との交易には,対馬藩主の宗氏を通して貿易と外交を行わせました。
(注)朱印状は日本に拠点があるさまざまな身分の者に与えられ、華人やヨーロッパ人にも発給されました。羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.139。
・
150
0
年
~
165
0
年のアジア 東アジア
現①
日本の南西諸島
琉球は東南アジアとの交易で栄えるが,薩摩藩の支配下に
琉球王
国
では, 1470年に,那覇を中心に交易で力をつけた〈尚円〉(しょうえん,位1470~76)がクーデタを起こして即位し
,
第二尚
氏
王統が始まっていました。
息子の〈尚真〉(しょうしん,位1477~1526)は首里を中心とする体制を整備し,各地の有力者である按司(あじ)を首里に住まわせ,代わりに各地に官僚を派遣して支配を強化します。
按司は領地からの徴税権を認められたので,しだいに琉球王国における貴族層となっていきました。
こうした中央集権化には抵抗も起きます。
しかし1500年には八重山
の
オヤケアカハチの戦
い
を鎮圧し,琉球王国は奄美大島から八重山諸島にいたる最大領土を獲得,各地を行政区分の下に支配しました。
首里の王家の墳墓であるタマウドゥン(世界文化遺産,玉陵)はこの頃つくられています。16世紀前半には,琉球の歌謡が『おもろさうし』にまとめられはじめました。
また,仏教や道教が琉球の御嶽(うたき)信仰と合わさって信仰されています。
琉球王国は東南アジア諸国ともさかんに交易をしていました。ポルトガルの〈トメ=ピレス〉は16世紀前半の『東方諸国記』で琉球を
「
レキ
オ
」と表現しています。
しかし,後期倭寇が最盛期を迎えたことから16世紀半ばに中国が海禁策をゆるめると,ポルトガル・スペイン・日本船が琉球を中継貿易の基地として使うようになり,琉球船の活動はしだいに衰えていきました。
そんな中,1588年に〈豊臣秀吉〉が九州を平定し,琉球にも服属を求めました。薩摩藩の〈島津〉氏は,〈豊臣秀吉〉の命令を利用して琉球王国の交易支配を強めようとして
,
朝鮮進
出
の際に琉球王国に対して米などの軍役の負担を求めました。拒む琉球王国に対し薩摩藩は奄美大島の割譲を迫り圧力をかけ,結果的に琉球王国は軍役(米と負担金)を一部薩摩藩に納めました。しかし,残りの軍役は薩摩藩から借り入れる形となり,薩摩藩に経済的に従属することになりました。
日本の政権が1603年に〈徳川家康〉に交替すると
,
琉球王
国
を明との交易交渉に利用しようと圧力をかけましたが,琉球王国は拒否。それに対して,
〈
島津家
久
〉
【本試験H10〈大友〉氏ではない】
【本試験H24「島津氏」】
【追H21「島津氏」】
は,徳川幕府に対する忠誠をアピールし藩の財政を立て直すために,1609年
【本試験H10時期(17世紀初めか問う)】
に銃砲を使用して奄美諸島を進出し,沖縄本島の首里を占領し武装解除し,国王〈尚寧〉を〈徳川家康〉に謁見させるため日本に連行しました。こうして,琉球王国は薩摩藩の服属下に置かれることになったのです。
琉球王は明とも冊封を受けていました
が
【
本試
験H
24明への朝貢は断絶していない】
【追H21「中国」への朝貢を断絶したわけではない】
,朝貢の回数は2年1貢から10年1貢に減らされ,琉球王国は打撃を受けました。朝貢の資金は薩摩藩から借り入れるようにもなり,経済的な従属が強まっていきました。たとえ赤字でも,明の中では朝鮮に次ぐナンバー2の地位を持つ王国である以上,朝貢貿易を続けること自体に意味がありましたし,福州では役人の個人的な取引も許されていました。
琉球王国からは徳川幕府の代替わりには慶賀使(けいがし),琉球王国の国王の即位のときには謝恩使(しゃおんし)が江戸まで送られました。江戸幕府にとっては明との関係を維持している琉球王国からの大陸の"最新情報"はきわめて貴重なものだったのです。
日本との交易も続けられましたが,そのうちの一つが日本海の海運であ
る
北前
船
(きたまえぶね)によって運ばれた北方
の
昆
布
です。南北を結ぶこの交易路は"コンブロード"とも呼ばれます。また,薩摩藩の支配に苦しんだ琉球には,17世紀初めに新大陸原産
の
サツマイ
モ
が伝わり,盛んに栽培されるようになりました。琉球からはウコンや砂糖が輸出されました。
16世紀後半には,女真(女直)(女真(女直))人の商業集団の指導者
〈
ヌルハ
チ
〉(1559~1626)が,東北地方の女真(女直)人の諸族を統一し,1616年
に
後
金
(ごきん)という国号を使い,明から独立を宣言しました。彼らは1644年
に
明
を滅ぼし,代わっ
て
清
が中国本土を支配しました。明の残党は南部に南明政権を建てて抵抗しましたが,やがて清に服属します。
琉球王国は明から清への交替
(
・
150
0
年
~
165
0
年のアジア 東アジア
現②
台湾
台湾にはマレーポリネシア系の諸民族が居住しています。
一方,1624年
に
ネーデルラント連邦共和
国
(オランダ。事実上,ハプスブルク家スペインから独立していました)
の
東インド会
社
【追H27ポルトガルではない】
【セ試行 】
は,台湾南部
に
ゼーランディア
城
(安平古堡;あんぴんこほう)という要塞を建設し,中継貿易に従事しています。
・
150
0
年
~
165
0
年のアジア 東アジア
現③
中国
明(1368~1644)の末期になると,地方社会では科挙合格者を出した名門出身者であ
る
郷
紳
(きょうしん)を中心として人々の結びつきが強まっていきました。郷紳は,皇帝支配と民衆の間に立ち,地域の経済発展を推進したり水利の維持・管理や慈善活動を指導するなどし,ときに皇帝支配に対する抵抗運動の主体ともなりました。明末期には長江下流域における集約型の手工業が発展して商品生産も拡大し,ヒト・モノ・カネの移動が活発化して紛争も増えていました。そのような社会の変化に対応するように,この時期からは郷紳が中心となり,父系の親族による組織であ
る
宗
族
(そうぞく)が復活するようにもなっていきました
(注
)
。
(注)井上徹『中国の宗族と国家の礼制―宗法主義の視点からの分析―』研文出版,2000。
海上交易がますます活発化する中,明は交易をコントロール下に置くことができなくなっていき,東アジアや東南アジアの海の世界(海域)の競合関係が強まっていきました。
この時期は
,
ポルトガル王
国
【本試験H2】
の大砲を積んだ船団が,インド洋を渡って東南アジアに進出してきた頃です。彼ら
は
ゴ
ア
【H24ポトシではない,本試験H27地図上の位置、H29イギリスの根拠地ではない】
【追H24イタリアの16・17世紀の海外拠点ではない】
【名古屋H31記述(1500年後のヨーロッパ人とインドの関わり)】
や
マラッ
カ
【本試験H2アルブケルケによる占領か問う】
【追H24ポルトガル人が占領したことを問う】
といった港の重要拠点を占領しましたが,広い範囲にわたる支配ではありませんでした。
ポルトガルは,中国人や日本人の密貿易に加わって,日本銀と中国の生糸を取引する倭寇と呼ばれる集団が活発化しました。一般に,14世紀の倭寇は前期倭寇,16世紀の倭寇
は
後期倭
寇
と区別します
。
この頃には,ポルトガルの進出により滅んだマラッカに代わって,スマトラ島で
は
アチェ王
国
が,ジャワ島で
は
マタラム王
国
が勢力を増しました。どちらもイスラームの国家です。
また,大陸では,タイ
の
アユタヤ
朝
(1351~1767)
【本試験H11:14~18世紀にかけて栄えたか問う。地域はフィリピンではない】
,ビルマ
の
タウング
ー
(トゥングー
)
朝
(1531~1752)
【本試験H4タイではない】
【本試験H16時期,本試験H22ヴェトナムではない】
【追H18】
【慶文H30記】
といった上座仏教の国家が,海上交易の利益を吸い上げ,火薬を使用した銃火器を使用して軍事力を高めて栄えました。
16世紀のモンゴル高原では,
〈
アルタ
ン=
ハー
ン
〉(1507~82)
【本試験H13エセン=ハンとのひっかけ,本試験H14ジュンガルではない】
【追H21】
の率い
た
モンゴ
ル
(タタール)
【追H21】
がオイラト諸部を倒して強大化します。彼は,チベット仏教の普及にも熱心でした。中国の物産を取引しようとして明代に修築された万里の長城
【本試験H9】
を超えて進出を繰り返し,海上の後期倭寇と並んで
「
北虜南
倭
」と呼ばれ恐れられました。
陸と海のダブルパンチをくらった明は,北方の陸上ではモンゴルとの交易場を設置し,南方の海上では海禁をゆるめました。
1567年には漳州からの中国人の海外渡航をゆるし,東南アジアへの中国人の進出がはじまります。彼ら
は
南洋華
僑
【本試験H7元代に盛んであったのではない】【セ試行 華僑の多くは山西省・安徽省の出身者ではない】
【本試験H26】
【追H30元代ではない(※)】
と呼ばれるようになり,現在でも東南アジアに分布する多数の中国系住民のルーツとなります。出稼ぎや仮住まいの中国人という意味で「華僑」と呼ばれることがありましたが,現在では現地の国籍を取った者は「華人」と呼ばれることが増えています。
(※)H30選択肢「元代には,禁令をおかして,東南アジアに移住する者が増えた」。
本試験H7は「元代は,東南アジアへの移住が史上最も盛んな時代であった」という選択肢(誤り)。
いちど自由化された貿易を,明が再び管理下におくことはなかなか難しく,明に朝貢しているしていないにかかわらず,銃火器と交易による富を武器に強大化したいくつもの勢力が地域の覇権を得るために,ぶつかりあう時代になっていきます。
中国東北部で
は
女
真(
女
直
)
(女直。のち満洲)が,薬用の人参や毛皮の交易によって強大化し,その利権をめぐって女真(女直)族内で抗争があり,勝ち上がった
〈
ヌルハ
チ
〉(位1616~26)が部族を統一。1616年
に
アイシ
ン
(満洲語で「金」)という国を建てました。金は,12~13世紀にやはり女真(女直)人が建国した国家名なので,区別して「後金」といいます。〈ヌルハチ〉は,血縁や地縁にもとづいて軍隊の組織をつくり有力者を長に就けてバランスを保ち,平時にはそれをそのまま行政の単位としました
(
八
旗
【本試験H22順治帝による制度ではない】【本試験H27】
)。また,漢字をもとにし
て
満洲文
字
【本試験H8遼・西夏・渤海ではない,本試験H11康熙帝が「満洲族の伝統文化が失われるのを防ぐ目的で」定めたわけではない】
【追H19】
をつくらせました。
なお,満洲というのは
次の
〈
ホンタイ
ジ
〉(位1626~43)
【京都H22[2]】
【追H21】
は,モンゴルのうち当時混乱してい
た
チャハル
部
を支配下にいれました
【本試験H11時期(清朝前半期について「北京入城以前から,既に内モンゴルのチャハル部や李氏朝鮮(ママ)を服属させていた」か問う】
【本試験H31チンギス=ハンが従わせたのではない】
【追H21】
。当時チャハル部の〈ハーン〉であった〈エジェイ〉は,元の帝室が代々受け継いできた玉璽(ぎょくじ。皇帝のハンコ)を,〈ホンタイジ〉に譲り,ここに元朝は滅びます。女真(女直)は草原の遊牧民をまとめあげる正統性を獲得し,1636年には満洲人・モンゴル人・漢人の支持を受け「皇帝」を称して,国号
を
清
(1636~1912)に変えました。漢人の称号である「皇帝」を称したことで,八旗の諸王(旗王)に任命されていた満洲人の有力者よりも立場が上であるということも示すことができました。
女真(女直)が草原の遊牧民をも従える大勢力に発展した事態を受け,明は軍事的に対処しようとしますが,ただでさえ財政が窮乏している状態です。各地で重税や飢饉に対する反乱がおきると,
〈
〈李自成〉を鎮圧する名目で,たった6歳で即位した
〈
〈順治帝〉を万里の長城の東の端っこである山海関(さんかいかん)から引き入れたのは,明の武将である
〈
明に仕えていた儒学者
〈
黄宗
羲
〉(こうそうぎ)
【追H26張居正ではない】
は,『明夷待訪録』の中で君主専制を批判し,最後まで清に抵抗しました。その思想には民主主義的な特徴もあり,"東洋のルソー"と称されています。
清は,明代の漢人による軍隊
を
緑
営
として温存させるなど,明の制度を大体において引き継ぎましたが,軍の実権は漢人には与えませんでした。緑営とは別に,満洲人・モンゴル人・漢人
の
八
旗
【本試験H30緑営ではない】
という軍隊を組織しています。ちなみに緑営というのは,八旗の旗の色と区別して「緑」の旗をかかげたことから来ています。なお北京を中心として漢人の農地を強制的に接収し,八旗の軍人に対して生計維持のために与えました。これを圏地(けんち)といいます。
◆
清
は"
ア
メ"と"
ム
チ"
を使い分けて,多数派の漢人を支配した
清には,遊牧民の世界(モンゴル人を中心とする世界)と定住農牧民(漢人を中心とする世界)の世界の2つをまたぐ秩序を形成しようとする意識がありました。
中国の王朝だからといって,漢人のみを支配した皇帝というわけではなく,遊牧民の大ハーンとしての意識もあるわけです。
ですから,漢人に対して中華王朝の伝統を守る "アメ"(寛容な部分)を持ち合わせる一方,100%漢人寄りの政策をとるのではなく, "ムチ"(抑圧的な部分)も使い分ける方針をとりました
【大阪H30論述】
。
官僚の任用試験である科挙は継続し,地方行政は漢人にも担当させています。一方,中央の高官
は
満洲
人
で固められました。儒学が批判的な意見を発展させないように
,
文書の
獄
(もんじょのごく)
【共通一次 平1:内容も問う】
によって反体制的な発言を厳しく処罰し,禁書(きんしょ)を定めました。
また,
『
康煕字
典
』(こうきじてん)
【追H21清代か問う、H28漢代ではない】
,
『
古今図書集
成
』(ここんとしょしゅうせい)
【共通一次 平1】
,
『
四庫全
書
』
(しこぜんしょ)
【本試験H6洋務運動の象徴ではない・世界各国の古典の紹介ではない,本試験H9[21],
本試験H11:表紙の図をみて「清代に,皇帝が学者を動員して,古今の書籍を編纂させたもの」か問う。明代ではない。イエズス会によるヨーロッパ学術の紹介ではない】
【本試験H15永楽帝が編纂させたわけではない,H31時期(明代ではない)】
【追H21明代ではない】
といった大編纂事業を国家プロジェクトとして運営し,携わった学者を優遇しました。あらゆる情報を収集することで,満洲人に都合の悪い情報をつかんでシャットアウトするという目的もありました。
明清が交替する時期を目の当たりにした,
〈
顧炎
武
〉
(こえんぶ,1613~83)
【本試験H22女史箴図は書いてない(顧愷之ではない),本試験H25時期,H31陽明学者ではない】
・
〈
黄宗
羲
〉(こうそうぎ,1610~95)は,歴史や事実を客観的に見つめ,社会問題を解決しようとした儒学者です。清代中頃には
〈
銭大
昕
〉(せんたいきん,1728~1804)
【本試験H13満洲文字を考案したわけではない】
に受け継が
れ
考証
学
【本試験H6洋務運動とは無関係】
【本試験H25】
として発展しました。
皇帝も儒学の素養を身につけるため,中国伝統の学問に励む姿勢をみせました。しかし一方で,満洲人の風習であ
る
辮
髪
【本試験H5,本試験H8長髪ではない】
(べんぱつ,施行したのは〈順治帝〉の摂政〈ドルゴン〉)
【共通一次 平1】
を強制したり,夏場は北京から遠く離れた北方で狩りをして過ごしたりするなど,遊牧民の長としての立場も維持します
【本試験H15風俗を漢民族風に改める政策を推進しているとはいえない】
。
・
150
0
年
~
165
0
年のアジア 東アジア
現④
モンゴル
〈アルタ
ン=
ハーン〉がモンゴルを統一する
16世紀のモンゴル高原では,当時バラバラになっていたモンゴルのうちの一部族,トゥメトブ部出身
〈
アルタ
ン=
ハー
ン
〉(1507~82)
【本試験H13エセン=ハンとのひっかけ,本試験H14ジュンガルではない】
【追H21】
が,オイラト諸部を倒して強大化していきます。
中国の物産を取引しようとして明代に修築された万里の長城
【本試験H9】
を超えて進出を繰り返すだけでなく,中国で支配に楯突いていた人々を多数受け入れるため1565年に
は
フフホ
ト
などの定住都市も建設しています。
1571年に明は〈アルタン=ハーン〉と講和して「順義王」という称号を与え,国境沿いで貿易を許可すると,フフホトは「帰化城」名付けられ,中国とモンゴル高原との貿易で栄えました。
〈アルタン=ハーン〉は,チベットの〈ダライ=ラマ3世〉(1543~1588)の政権
(
ガンデンポタ
ン
)を保護したので,フフホトにはチベット仏教寺院が多数建立されました。
モンゴルの強大化は,海上の後期倭寇と並んで明によって
「
北虜南
倭
」と呼ばれ恐れられました。
その後,中国東北部で
は
女
真(
女
直
)
(女直。のち満洲)が,薬用の人参や毛皮の交易によって強大化し,その利権をめぐって女真(女直)族内で抗争があり,勝ち上がった
〈
ヌルハ
チ
〉(位1616~26)が部族を統一。1616年
に
アイシ
ン
(満洲語で「金」)という国を建てました。金は,12~13世紀にやはり女真(女直)人が建国した国家名なので,区別して「後金」といいます。〈ヌルハチ〉は,血縁や地縁にもとづいて軍隊の組織をつくり有力者を長に就けてバランスを保ち,平時にはそれをそのまま行政の単位としました
(
八
旗
【本試験H22順治帝による制度ではない】【本試験H27】
)。また,漢字をもとにし
て
満洲文
字
【本試験H8遼・西夏・渤海ではない,本試験H11康熙帝が「満洲族の伝統文化が失われるのを防ぐ目的で」定めたわけではない】
をつくらせました。
なお,満洲というのは
次の
〈
ホンタイ
ジ
〉(位1626~43)
【京都H22[2]】
【追H21】
は,モンゴルのうち,当時政治的に混乱してい
た
チャハル
部
を支配下にいれました
【本試験H11時期(清朝前半期について「北京入城以前から,既に内モンゴルのチャハル部や李氏朝鮮(ママ)を服属させていた」か問う】
【追H21】
。
チャハル部の〈ハーン〉であった〈エジェイ〉は,元の帝室が代々受け継いできた玉璽(ぎょくじ。皇帝のハンコ)を,〈ホンタイジ〉に譲り,ここに元朝は滅びます。女真(女直)は草原の遊牧民をまとめあげる正統性を獲得し,1636年には満洲人・モンゴル人・漢人の支持を受け「皇帝」を称して,国号
を
清
(1636~1912)に変えました。漢人の称号である「皇帝」を称したことで,八旗の諸王(旗王)に任命されていた満洲人の有力者よりも立場が上であるということも示すことができました。
こうして,女真(女直)が草原の遊牧民をも従える大勢力に発展し,1644年には北京に入城し,中国本土も支配下に入れました。
・
150
0
年
~
165
0
年のアジア 東アジア
現⑤
大韓民国
,⑥
朝鮮民主主義人民共和国
この時期の朝鮮半島を支配していたの
は
朝鮮王
朝
です。
この時代,中国が貿易に制限をかけていたことから,日本と朝鮮との間には,さまざまな出身地を持つ民間貿易グループがひしめいていました。
朝鮮の港には,多くの日本人が貿易に参加するために住み,貿易・接待のために倭館が建てられていましたが,密貿易を行うものもいたため,朝鮮の〈中宗〉(ちゅうそう)は居留する日本人へのコントロールを強化。このため,彼らは朝鮮との貿易を独占的に管理していた対馬の宗氏(そうし)の協力を得て,1510年に朝鮮の三浦(さんぽ)で反乱を起こし,朝鮮の役人を殺害しました(三浦の乱)。
【追H29リード文】
日朝関係は一時中断しましたが,1512年に再開されます。ただし,貿易が認められたのは乃而浦(ないじほ)だけに限られ,こうした形(恒居倭(こうきょわ))による貿易は廃れていくこととなりました。
【追H29リード文】
そんな中,東アジアにもヨーロッパの勢力が及ぶようになると,
16世紀末に日本の〈豊臣秀吉〉は明の征服を夢見て,朝鮮への軍事的進出
【本試験H29琉球ではない】
を2度実行しました。
それぞれ,韓国で
は
壬辰倭
乱
(イムジンウェラン)
・
丁酉倭
乱
,日本では文禄の役・慶長の役といいます。明の征服をも企みましたが,朝鮮は
〈
李舜
臣
〉(1545~98)
【本試験H22李成桂ではない】
によ
る
亀甲
船
(きっこうせん,甲板を覆った軍艦)
【本試験H22三段櫂船ではない】
の水軍や明の援軍もあり,秀吉が死ぬと撤退しました。
このときに〈鍋島直茂〉(1538~1618)によって連れてこられた〈李参平〉(?~1655)が日本に白磁の製法を伝え,これが
その後,1603年に成立した日本の江戸幕府は,対馬藩主の宗氏を通し
て
朝
鮮
との貿易と外交関係を持ちました
。
しかし,1637年に朝鮮王朝
は
女
真
〔女直〕人の建国し
た
清
に服属することになります。
朝鮮人の支配層は,女真(女直)人のことを自分たちと同じくらいか,それ以下と見ていましたから,その女真(女直)人が中国の皇帝となって自分たちを支配するに至って,さまざまな複雑な意識を生み出しました。「現在,漢人ではない民族が皇帝になってしまった。自分たちのほうが儒教の"正しい"伝統を持っているのだから,自分たちのほうがふさわしい。自分たちのほうが"中華"なのだ」という,
「
小中
華
」の考えが生まれていきました。
その後17〜18世紀にも,激しい両班の党争は続きました。科挙に受かっても,高官は高い家柄に固定されるようになったこともあり,両班たちはさかんに議論を交わし合うことで,政治を動かそうとしたのです。
地方でも,新たな勢力が,自分たちも両班の証である「郷案」のリストに載せてもらおうと,争いが起きるようになっています。
○150
0
年
~
165
0
年のアジア 東南アジア
東南アジ
ア
...
現在の①ヴェトナム,②フィリピン,③ブルネイ,④東ティモール,⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア,⑧カンボジア,⑨ラオス,⑩タイ,⑪ミャンマー
交易ブームと"華人の世紀
"
15世紀~17世紀の東南アジアは,東西の交易ネットワークに香辛料
【セ試行 砂糖ではない】
などの商品を積み出し,空前の"交易ブーム"を迎えます。
また、中国から東南アジアへの人口移動が起き、現地の支配者と結びついて華人系の政権が樹立されるようにもなる。17世紀は、東南アジアの歴史の中で「華人の歴史」と呼ばれます
(注)
。
(注)羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.150。
・
150
0
年
~
165
0
年のアジア 東南アジア
現①
ヴェトナム
ヴェトナム
の
黎
朝
【追H21陳朝とのひっかけ,元を撃退していない】
では,16世紀初めに,異なる地域を本拠地とする官僚(初代〈黎利〉の出身地のタインホア)や軍人(紅河下流域)の間の対立が深まり,1527年には紅河下流域の
〈
莫登
庸
(マクダンズン)〉が皇帝を自殺に追い込み,自身が王朝(莫朝)を樹立しました。これ以降ヴェトナムでは,内乱が続きます。
(あ) 1592年
に
莫
氏
が,鄭氏によってハノイから追い出されると,莫氏は明を後ろ盾にして最北部には莫氏の王国を建てました。
(い) さらに,紅河デルタに
は
鄭
氏
が大越国を1593年に樹立しました
。
トンキ
ン
(東京)と呼ばれます。
(う) さらに,中南部には鄭氏につかえていた軍人の阮コウ(さんずいに黄の旧字体)がフエで自立し,阮氏
の
広南
国
が建てられ,鄭氏と北緯17度付近で対立を続けました。こちら
は
アンナ
ン
(安南)とも呼ばれます
こうしてヴェトナムは北から(あ)莫氏・(い)鄭氏・(う)阮氏に3つに分裂。
その頃,南部で
は
チャム
人
の王国
(
チャンパ
ー
)
【東京H30[3]】
がまだなんとか残っており,交易に従事していました。
江戸時代初期には豪商の
〈
・
150
0
年
~
165
0
年のアジア 東南アジア
現②
フィリピン
スペイン
【セ試行】
の〈レガスピ〉(1505?~72)がフィリピンを武力占領し
,
マニ
ラ
市
【セ試行】【本試験H5時期(16世紀以降)】
【本試験H13時期(16・17世紀),本試験H19時期,本試験H29フエとのひっかけ】
【追H27スペインのアジア貿易の拠点か問う、地図上の位置を問う】
【大阪H31論述指定語句】
を建設(1571)。ガレオン船による太平洋横断航路だけでなく,中国との交易
【セ試行】
の拠点となりました。
1529年
の
サラゴサ条
約
【上智法(法律)他H30「海外領土分割条約」】
で,スペインはポルトガルに香辛料の産
地
マル
ク(
モルッ
カ)
諸
島
を譲っていましたから,マニラはアジアの産物を運び出す上で重要な基地となったのです。ガレオン貿易は,この後1815年まで続き,〈ドレイク〉(1545?~96)をはじめとするイギリスの海賊たちの格好の標的となりました。
中国から
は
ジャンク
船
が多数来航し,メキシコから運ばれた大量の銀が,東南アジア・東アジアに流れ込みました。1500年頃の大型ジャンク船には,1000トン!もの積荷を載せることができたといわれています (同時代のインド洋
【セA H30】
で活躍していた三角帆の縫合船
の
ダウ
船
【東京H15[3],H27[1]指定語句】
【本試験H19,H22三段櫂船ではない】
【セA H30】
は400トン)。
16世紀半ばから鉱山開発の進んだ日本からも銀は流入し,フィリピンのマニラ,ヴェトナム
の
ホイア
ン
,カンボジア,タイ
の
アユタ
ヤ
に
は
日本
町
【セA H30メキシコではない】
という日本人の居住地も建設され,日本人の海外渡航が禁止される1636年まで栄えました
【H29共通テスト試行 地図資料と議論(17世紀初頭には日本から東南アジアに移民が移動していることの読み取り)】
。
安土桃山時代の豪商〈
江戸時代に入ってからもキリシタン大名(摂津国高槻城主)の〈高山右近〉(たかやまうこん;教名はジュスト,1552~1614)が1614年にマニラに追放され,1615年に亡くなっています
(1563年に受洗,1587年に〈秀吉〉のキリシタン禁令に背き領地没収。1614年に〈徳川家康〉の禁教令で追放)
。
【追H29リード文】
ポルトガルは1580年
に
スペインに併
合
され
【本試験H6時期】
,16世紀終わりから17世紀前半にかけてポルトガル船もマニラに来航しました。
16世紀頃には,イスラーム教は,フィリピン南部のミンダナオ島やスールー諸島,ボルネオ島やセレベス島にまでも拡大しています。
・
150
0
年
~
165
0
年のアジア 東南アジア
現③
ブルネイ
,④
東ティモール
,⑤
インドネシア
,⑥
シンガポール
,⑦
マレーシア
◆東南アジアはイスラーム教徒だけにとどまらず、多様な出自を持つ人々の交易の場となった
東南アジアは世界の中心 多様性の海だった
東南アジアが産出する香辛料には
,
胡
椒
(コショウ。産地はインド南西部
【本試験H11】
【名古屋H31インドの輸出品であることを問う(資料はA・G・フランクの『リオリエント』)】
ですが東南アジアに広まりました。スマトラ島も主たる山地です)
,
丁
字
(クローヴ。マルク諸島のテルナテ島,ティドーレ島,アンボン(アンボイナ)島等のみ)
,
肉荳
蒄
(ニクズク
。
ナツメ
グ
(
注
1
)
。肉荳蔲花(メイス)とともにマルク諸島のバンダ諸島でしかとれなかった
(注2)
)があり,昔から中国向けに薬として用いられました。
香辛料は今でいうところの「スパイス」という意味よりももっと広い意味で使われ、薬効が重視されていました。ヨーロッパでは14世紀以降,肉の味付けに使用されたことで需要が高まりました。
ほかには以下のようなもの
(注3)
が取引されました。
・馬... アラビア半島やペルシアから。
・乳香... アラビア半島から。
・金や象牙... 東アフリカから。
・絹織物や絨毯(じゅうたん)... ペルシアから。
・綿織物... 北西インドのグジャラート地方、南東インドのコロマンデル海岸、北東インドのベンガル地方から(のちの産業革命の火付け役となります)。
・織物を染める藍... グジャラート地方。
(注1) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.37。ショウガは南西インドのマラバール海岸とスマトラ島が主な山地です。
(注2) わたしは料理をしないので不得手ですが,「クックパッド」による
と
ナツメ
グ
を使ったレシピは2018年には20,000件以上存在。「独特の甘い香りを持つ,ナツメグ。ハンバーグ以外にも,お菓子の香りづけや,シチューなどにも大活躍!炒め物にパラリと入れるのもオススメ♪」と紹介されています。それに対し
,
クロー
ヴ
は3383件,言わずもがな
の
コショ
ウ
は73万件(!)以上です。
(注3) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、pp.38-39。
◆ポルトガル人の進出とイスラーム教を保護する政権の成立
東南アジアでは、多数の港町や王国が発展する
ムラカ王国
そういった商品を運んでくる内陸や海上の人々と,外部から買い付けにやってくる商人を支配する,国際的な国家が各地で生まれました。スマトラ島北部のサムドゥラ=パサイ王国や
,
ムラ
カ(
マラッ
カ)
王
国
がその例で,いずれもイスラーム教を受け入れました
【本試験H15東南アジアにおけるイスラーム化は,フィリピン諸島南部から始まったわけではない】
。
ムラカ(マラッカ)王国
の
ムラユ
語
は,この地域の商業では欠かせない国際共通語として広まりました(現在の
「
マレーシア
語
」
「
インドネシア
語
」のもとになっている言語です)。
港町では,中国や日本の貨幣も使われ,港にはシャー=バンダルという官僚がいます。シャー=バンダルの管理の下,その港を支配する王が買取る形で荷上げされた貨物は,各地から集まった商人によってさばかれます。港に注ぐ河川を上流に遡っていけば,香料や米などの特産品を売りに来る人々であふれるマーケットが各地に存在し,商人や王によって支配されました。
マジャパヒト王国
一方
,
マジャパヒト王
国
(1292~1527?)
【東京H6[1]指定語句,H25[3]】
【共通一次 平1:時期を問う】
【本試験H3時期(7世紀ではない),本試験H4タイではない,本試験H5今日のインドネシアの大部分やマレー半島に勢力を伸ばしたか問う,本試験H6ジャワ島を中心とするヒンドゥー教国だったか問う】
【本試験H18義浄は訪れていない、本試験H22前漢の時代ではない】
【追H19】
【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】【中央文H27記】【慶商A H30記】
は,ムラカ(マラッカ)王国の台頭により衰えをみせ,1527年頃に侵攻のイスラーム勢力の攻撃により滅んだと言われています。王族
は
バ
リ
に避難。そのおかげで,現在に至るまでバリ島では豊かなヒンドゥー=ジャワ文化が残されています。
ポルトガルの進出と、ボルネオ島、マルク諸島、スマトラ島
ポルトガ
ル
人は
【本試験H22フランスではない】
,1509年に初めてムラカ(マラッカ)を訪れ,1511年に
〈
アルブケル
ケ
〉
【本試験H2】
が火器の威力により占領し,要塞を築きました
(
マラッカの占
領
【本試験H2】
【追H24ポルトガル人によるものか問う】
)。
これに対し,ムラカの王族
〈
ジョホー
ル
〉は,マラッカ海峡の南端
で
ジョホール王
国
(1530?~1718)をつくり,ポルトガルへの抵抗を続けます
(注)
。
ジョホール王国はのちにオランダと組み,1641年にムラカ(マラッカ)からポルトガルを追放しています。これ以降,ムラカ(マラッカ)は
,
オラン
ダ
【本試験H2】
の拠点となりました。
ムラカを離れた人々の中には,ボルネオ島北部
の
ブルネイ王
国
(15世紀後半~現在)に逃げる者もいました。ブルネイ王は16世紀初めにイスラームに改宗し,イスラーム布教の中心地として栄えました。1521年に〈マゼラン〉亡き後の艦隊が寄港し,「2万5000」の家屋が海上にあったと記されています。
ポルトガルは1512年に
は
マル
ク
(モルッカ
)
諸
島
に到達し,テルナテ島のスルターンとバンダ諸島の住民と,交易関係を結びました。この地の香辛料を,インド洋沿岸の拠点を結び,ヨーロッパに独占輸出しようとしたのです。しかし,ポルトガルがどんなにインド洋から喜望峰まわりで"香辛料の産地直送"をしようとしても,エジプトを抜ける紅海ルートを完全に規制することは不可能でした。16世紀前半には,オスマン帝国も紅海交易を積極的に推進しました。
また,15世紀以降インド洋で活発に活動したインド北西部を拠点とする商人
(
グジャラート商
人
)は,スマトラ島北部から西部へ南下して,スンダ海峡を抜けるルートを使い,ポルトガルを避けました。
これにより,スマトラ島北部のイスラーム国
【本試験H22仏教国ではない】
であ
る
アチェ王
国
(15世紀末~1903)
【本試験H22】
【上智法(法律)他H30】
が新興勢力となり,マラッカ海峡ルートをとるムラカ(マラッカ)王国と対抗しました。
アチェ王国は,ポルトガルのマラッカ占領に反発するイスラーム商人を受け入れつつ,少なくとも1534年までに
は
オスマン帝
国
との直接交易をおこない,オスマン帝国からコショウのお返しに兵士
と
火
器
(大砲)を得て,ポルトガルとも対抗しました。オスマン帝国は,紅海と地中海を結ぶ交易を発展させ,喜望峰まわりのポルトガルやムラカ(マラッカ)王国と対抗したのです。アチェには多くのイスラームのアラブ人ウラマーが訪れ,イスラームの中心地となりました。
遅れて進出したスペイン王国の〈マゼラン〉の部下は,マルク(モルッカ)諸島のティドーレ島のスルターンと友好関係を築き,ポルトガルと友好的なテルナテと,香辛料取引をめぐり対立しました。アジアのスペイン・ポルトガルの支配圏を取り決めた1529年
の
サラゴサ条
約
で,マルク諸島の領有権はポルトガルがスペインから買い取ることになりました。しかし,他の島も,だんだんポルトガルの香辛料貿易の独占に反発するようになり,16世紀後半には,速くも独占は崩れます。
(注) ムラカ〔マラッカ〕王国の〈スルタン=マフムード=シャー〉が、マレー半島を南下し、ビンタン島を都とするジョホール王国を建設したものです。17世紀の初頭からオランダと協力し、1641年のオランダのムラカ占領を支援し、マレー半島南部からスマトラ島中部にかけての一大貿易拠点となりました(大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』「ジョホール王国」の項目、岩波書店、2002年、p.503)。
ジャワ島の王国
マタラム王国がほぼ全土を統一する
ジャ
ワ
も,16世紀の間にはほぼ全土にイスラーム教の信仰が広がりました。
ジャワ西部に1525年
頃
バンテン王
国
(16世紀前半~1813)
【共通一次 平1:時期(「イスラム政権が成立した」時期を問う)もので,「バンテン王国」の名称は聞かれていない】
【上智法(法律)他H30】
が建国され,コショウ生産地をおさえて繁栄します。オランダが1619年に交易拠点の建設,木材と米の確保のため
に
バタヴィ
ア
(現在のジャカルタ)を建設すると,中部ジャワ
の
マタラム王
国
(16世紀末~1755)との対抗する必要から,当初は友好関係を結びました。
マタラムおうこくは〈スルターン=アグン〉(位1613~46)のときにジャワ島のほぼ全土を征服し、最盛期となります。バンテン王国だけは征服できませんでしたが、内陸部での稲作による米輸出によっても栄えます
(注1)
。
このようにイスラーム教徒の政権が拡大しますが、この海域がまるで"イスラームの海"となっていたというのは誤解です。ジャイナ教、ユダヤ教、キリスト教、アルメニア正教、グジャラート地方のヒンドゥー教(バニアと呼ばれていました)などさまざまなエスニック集団がひしめくなか、ポルトガル人もそのうちの1つに過ぎませんでしたし、イスラーム教徒といってもアデンのアラブ商人、ホルムズのイラン・アラブ商人、インドのマラバール海岸のマーッピラ商人(カンナノール郊外とポンナニ郊外)など出自に多様性がありました
(注2)
。キリスト教 vs イスラーム教のように"宗教の対立"が生まれたとみるのは誤った見方です。
(注1) 大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』「スルターン・アグン」の項目、岩波書店、2002年、p.545。
(注2) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.39。
シンガポール
現在のシンガポールは、この時期に
ジョホール王国
〔ジョホール=スルターン国〕の領土となりますが、未開の地でした
(注)
。
(注)岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.4。
・
150
0
年
~
165
0
年のアジア 東南アジア
現⑧
カンボジア
カンボジアは1434年にクメールを放棄。その後,15世紀後半には王家が3分裂しましたが,アユタヤ朝の介入により〈トゥモー〉(1471~1498)が国王となりました。
この頃,安土桃山時代の豪商〈
1635年には
,
日本人の海外渡航・帰国が全面禁
止
となり,
「
鎖
国
」
【本試験H4中国が明の時代ではない】
が完成しました。間一髪で帰国に間に合った平戸藩士の〈森本一房〉(もりもとかずふさ,生没年不詳)
【本試験H19リード文】
は,父の供養のためカンボジア
の
アンコー
ル=
ワッ
ト
に渡り,壁面に「寛永九年正月初めてここに来る」という落書きを残しています。彼はアンコール=ワットを,〈ブッダ〉が修行した"
・
150
0
年
~
165
0
年のアジア 東南アジア
現⑩
タイ
チャオプラヤー川流域のタイ人(シャム人)
の
アユタヤ
朝
【共通一次 平1:時期を問う】【本試験H11:フィリピンではない。14~18世紀にかけて栄えたわけではない】
は,交易ブームの波に乗り,主に中国との関係を重視し,中継貿易で繁栄をきわめます。
17世紀初頭には日本人傭兵も活躍し,1612年頃に
〈
山田長
政
〉が王の寵愛を受けました。彼はその後の王位継承争いの中で暗殺されました
。
・
150
0
年
~
165
0
年のアジア 東南アジア
現⑪
ミャンマー
136
4~
155
5
アヴァ朝
現在のミャンマーのエーヤワディー川上流部では,シャン人の王朝であ
る
アヴァ
朝
が栄えていましたが,1555年に下流地域のタウングー朝の王〈バインナウン〉により滅ぼされています。
128
7~
153
9
ペグー朝
151
0~
175
2
タウングー朝
現在のミャンマーでは
,
エーヤワディー
川
下流部を中心に
,
モン
人
を支配層とす
る
ペグー
朝
〔ハンターワディー朝〕が栄えていました。
しかし
,
ビルマ
人
の
タウングー
朝
の王〈タビンシュエティー〉により1539年に滅びます。
16世紀初め
に
ビルマ
人
が
タウングー
朝
(1510~1752)
【本試験H4タイではない】
【本試験H13モンゴルにより滅ぼされてはいない(パガン朝ではない)】
【追H20ジャワではない,16世紀の成立ではない】
【慶文H30記】
を開きました。
一方,チャオプラヤー川流域
の
アユタヤ
朝
【本試験H11:フィリピンの国家ではない。14~18世紀にかけて栄えたわけではない】
は,マレー半島の諸都市も支配下に起き,"商業王国"として栄えていましたが,急成長するタウングー朝の侵攻を受けるようになりました。
国王〈タビンシュエーティー〉(位1531~51)は,銃砲を用いたポルトガル人傭兵やイスラーム教徒の兵を用いて,征服活動を行いました。
国王
〈
バインナウ
ン
〉(位1551~81)は,1555年に北方
の
アヴァ
朝
を滅ぼし,1568年にアユタヤ北方にあるタイ人王
国
ラーンナー王
国
を攻め,1569年にアユタヤを占領し,一旦滅亡に追い込みました。しかし,アユタヤ朝は1584年に独立を回復しています。
そして,〈バインナウン〉のときに,イラワジ川上流・下流地帯や周辺の山地がはじめて統一されることになりました。
王都は南部
の
ペグ
ー
に置かれ,外国船の積荷はすべてペグーで水揚げされる決まりでした。
王は8人の外国人ブローカー(仲買人)を任命し,ムガル帝国やヨーロッパからも商人が訪れ,木材(チーク)や船の補給食料・飲料,宝石やジャコウなどが取引されました。
○150
0
年
~
165
0
年のアジア 南アジア
南アジ
ア
...現在の①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール
西ヨーロッパ諸国の南北アメリカ大陸への進出の結果,新大陸原産でビタミン豊富
な
トウガラ
シ
が南アジアの料理に重要な役割を果たすようになっていきます。
・
150
0
年
~
165
0
年のアジア 南アジア
現①
ブータン
現在のブータンの原型が生まれる
ブータンでは,チベット仏教の一派カギュ派(ドゥクパ=カギュ派)の宗教指導者が政治的な統合を進めています。
15世紀後半から,指導者は世襲ではなく,「
しかし,16世紀末に次の指導者をめぐって内紛が起き,敗れた〈ガワン
=
ナムギャ
ル
〉(1594~1651)はブータン西部に逃れて政権を建て,チベットとは別個の「ブータン」意識を育てて中央集権化をすすめました。これが,現在のブータンのおこりです。
・
150
0
年
~
165
0
年のアジア 南アジア
現②
バングラデシュ
ベンガルにイスラーム王朝が栄えるが,ムガル帝国に併合される
現在のバングラデシュは,イスラーム教徒が89.1%,ヒンドゥー教徒が10%という比率になっています
(注
)
。
歴史をさかのぼってみると,この地域にはゴール朝の進出以来イスラーム教の普及が始まっていました。ベンガル湾沿岸の交易の拠点としても重要な地点です。
この時期には
,
ベンガ
ル=
スルターン
朝
(ベンガル王国,1342~1576)が栄えています。
オリッ
サ
地方(インド東岸,コルカタ(カルカッタ)の南方に位置する)にもヒンドゥー王朝(ガジャパティ朝(1434~1541))や,ビルマのベンガル湾岸のラカイン人の仏教
国
アラカン王
国
(1429~1785)との抗争もありました。
しかし,1576年にムガル帝国に滅ぼされ,一地方となりました。
(注)2001年の統計,CIA,the World Factbook,
https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/bg.html
。
・
150
0
年
~
165
0
年のアジア 南アジア
現③
スリランカ
セイロン島には香辛料
の
シナモ
ン
のほか
,
真
珠
が分布しており
,
ポルトガ
ル
領(1505~1658)となりました。
ポルトガルは1517年に南西部のコロンボに商館を設置。北西部のマンナール島も1560年に獲得します。
シンハラ
人
の国家であ
る
コーッテ王
国
(1412~1597)は,15世紀中頃にはセイロン島全域を支配していました。しかし,ポルトガルの進出を受けて衰退し1521年に3つの勢力に分裂。そのうち
の
キャンディ王
国
(1469~1815)がセイロン島中部~東部にかけて台頭します。
一方
,
タミル
人
の国家であ
る
ジャフナ王
国
は,コーッテ王国の支配から1467年に独立し,栄華を取り戻しますが,今度はポルトガルの進出を受けて衰退し1624年に滅亡します。
(注)山田篤美『真珠の世界史』中公新書,2013,p.92。
・
150
0
年
~
165
0
年のアジア 南アジア
現④
モルディブ
モルディブはインド洋交易の要衝で,1558年~1573年に
は
ポルトガル王
国
が占領しています。
代わって1645年に,ネーデルラント連邦共和国
(注
)
は
,
モルディ
ブ
を保護国化にしています(1796年まで)。
(注)オランダ。当時は,事実上ハプスブルク家のスペインから独立しています。
・
150
0
年
~
165
0
年のアジア 南アジア
現⑤
インド
・1500年~1650年のアジア 南アジア 現⑤インド(北インド)
ロディー
朝→
ムガル帝国
ティムールを始祖とするイスラーム王朝が拡大
ティムール
朝
の王子であり
,
サマルカン
ド
【本試験H28地図上の位置を問う】
を支配していた
〈
バーブ
ル
〉(位1526~30。バーブルとは「虎」という意味)
【本試験H7タージ=マハルを建設していない】
【追H30奴隷出身者ではない】
は,母方の祖父が〈チンギス=ハン〉の次男〈チャガタイ〉でした。父方の祖先を〈チンギス=ハン〉までたどることができれば,「ハン」を名乗ることができるわけですが(ユーラシアの遊牧民の世界におけるこのルール
を
チンギス統原
理
といいます),いずれにせよ中央ユーラシアにおいては由緒正しい家系であることは間違いありません。
サマルカンド
が
ウズベク
人
の〈シャイバーニー=ハーン〉の手によって落ち,ティムール朝は滅び,シャイバーン朝(1500~99)が建国されました。〈バーブル〉は1500年にサマルカンドを奪い返しましたが,1501年に敗れて北東のタシュケントに逃げました。
その後,アフガニスタンのカーブルを占領して,シャイバーン朝を攻撃しようとしますが,1501年にイランで成立してい
た
サファヴィー
朝
の
〈
イスマーイール1
世
〉が,〈シャイバーニー=ハーン〉を撃破。
〈バーブル〉は,サファヴィー朝の〈イスマーイール1世〉に助けられながら,サマルカンドを再度狙いますが,失敗。
そこで,「サマルカンドがだめなら,昔〈ティムール〉も攻めたことのあるインドを拠点にしよう」と発想を転換した〈バーブル〉
【追H29アルタン=ハンではない】
は,インダス川を越え,デリー北方
の
パーニーパッ
ト
【追H29】
で1526年
に
デリ
ー=
スルターン
朝
の最後のアフガン人のイスラーム政権であ
る
ロディー
朝
(1451~1526)
【本試験H7ヒンドゥー王朝ではない】
【追H30勝利したのはムガル帝国か問う】
を滅ぼし,デリーを首都とし
て
ムガル
朝
を建国しまた
【本試験H28時期】
【追H30】
(パーニーパットの戦い)
【追H29】
。
〈バーブル〉が1530年に死去すると,2代目の〈フマーユーン〉は,アフガン人の〈シェール=ハーン〉に敗れ,シンド地方に逃げ,さら
に
サファヴィー
朝
に亡命しました。デリーには〈シェール=ハーン〉のスール朝が成立し,〈シェール=シャー〉と名乗りました。
1555年に〈フマーユーン〉は,スール朝が混乱しているすきにデリーを奪い返し,ムガル朝を復活させました。しかし,翌年に階段を踏み外して,亡くなってしまいました。
〈バーブル〉が〈ティムール〉の血統であることからも分かるように,ムガル朝は,中央ユーラシアに対する支配にこだわりました。イランとの関係も深く,支配層は事実上
の
公用
語
(公式文書に用いられる言語
)
としてペルシア語をもちい
た
ので
【本試験H24・H27】
【早商H30[4]記】
,中央ユーラシアから文学者や芸術家が移住しペルシア風の作品がつくられ,『マハーバーラタ』もペルシア語に翻訳されました。
〈
シャ
ー=
ジャハー
ン
〉
【本試験H7バーブルではない】
【本試験H23アイバクではない】
【追H27、H29】
の建て
た
ター
ジ=
マハ
ル
【本試験H7】
【本試験H23】
【追H20インド=イスラーム文化を代表する建築物か問う,H25インドの墓廟か問う、H27シャー=ジャハーンが建てたか問う、H29】
は
,
イン
ド=
イスラーム文
化
【本試験H23ガンダーラ美術ではない】
の代表例でもあります。ヒンディー語とペルシア語の混成言語であ
る
ウルドゥー
語
【追H19グプタ朝時代の成立ではない(サンスクリット語とのひっかけ)】
【東京H30[3]】
(アラビア文字で記され,現在のパキスタンの公用語)
【本試験H23タミル語ではない】
もうまれました。
さて,幼少時に捕虜となった経験を持つ第3代の
〈
アクバ
ル
〉
(位1556~1605)
【京都H21[2]】【東京H25[3]】
【共通一次 平1】
【本試験H3ヒンドゥー教徒を迫害していない,本試験H8】
【本試験H31最大領土になっていない(それはアウラングゼーブ)】
【追H30カニシカではない】
は,首都をデリーの南方にあるガンジス川の支流ヤムナー川沿い
の
アグ
ラ
(
アーグラ
ー
)
【本試験H21パータリプトラ】
【本試験H8】
【追H30】
におき,のちにアグラの西に新都ファテープル=シークリーを建設しています(短期間で放棄。世界文化遺産)。
また
,
マンサブダール
制
【本試験H30】
【早・政経H31アクバル帝による整備か問う】
を整え,官僚機構も形成します。
ムガル朝につかえる有力者に10から5000までの位階(マンサブ)を与え,それに応じて確保するべき兵士・馬の数やが定められ,俸給(土地からの税金の一部を得ることを認められるか,現金によって支給されます)の額が定められました。マンサブを与えられた者
を
マンサブダー
ル
といい,インド外の出身者が多くを占め,その2割をヒンドゥー教徒
【本試験H5ヒンドゥー教徒の旧支配者の多くは,ムガル帝国の統治機構に組み入れられたことを,史料から読みとる】
で西北インドに拠点をもってい
た
ラージプー
ト
という有力者が占めていました。
500以上のマンサブダールはアミールと呼ばれ,貴族層となりました。なお,土地から税金をとる権利のことをジャーギールといい,収穫量の多い土地は高いマンサブを持つ者に割り当てられました(ジャーギールを持つ者はジャーギールダールと呼びます)。
イスラームとヒンドゥー教には,多くの違いがあります。イスラームでは死者を土葬しますが,ヒンドゥー教では遺体を火葬し,灰は川に流します。イスラームでは豚を汚れたものとして食べず,ヒンドゥー教は牛を神聖なものとして食べません。しかし,〈アクバル〉は両者の対立を避け,人口の大多数を占めるヒンドゥー教徒を取り込む作戦に出ました
【本試験H3ヒンドゥー教徒を迫害していない】
。
例えば,ヒンドゥー教徒からジズヤ(人頭税)を徴収するのをやめたり
(
ジズヤの廃
止
【共通一次 平1】
【名古屋H31記述(ジズヤの説明とムガル帝国のジズヤ政策の変遷)】
) ,ヒンドゥー教とイスラーム教の祭りをともに祝ったりなど,多数派のヒンドゥー教徒のことを考えた支配をしました。広まりませんでしたが,神聖宗教(ディーネイラーヒ)という新宗教まで創始しています。だらに彼自身,1562年には,ヒンドゥー教徒の複数の女性と結婚しました。
彼の肖像画は,ペルシア
【追H20ラージプート絵画の影響ではない】
の
細密
画
(ミニアチュール)
【東京H6[1]指定語句】
【追H20】
がインドの絵画と融合し
た
ムガル絵
画
【本試験H10ムガル帝国が「絵画で有名」か問う】
【追H20】
の様式で描かれています。象に乗っているものが有名ですね。
他方,ヒンドゥー教徒の間では,イスラーム絵画の影響を受けつつ従来の庶民的な題材を扱った,伝統的
な
ラージプート絵
画
【本試験H6インド=イスラーム文化の例か問う,本試験H8オスマン帝国の絵画ではない】
が発達しました。
この時代、諸宗教の融和がすすんだ結果,始祖
〈
ナーナ
ク
〉
(1469~1538)
【本試験H12ヒンドゥー教の「開祖」ではない】
【本試験H30】
によ
り
シク
教
【東京H28[3]】
【本試験H19時期,本試験H30】
【法政法H28記】【早商H30[4]記】
がとなえられ,カースト制度が批判されました。〈ナーナク〉は「グル」(尊師)と呼ばれ,グルの地位は10代目の〈ゴービンド=シング〉(1666~1708)まで継承されますが,その後は聖典「グル=グラント=サーヒブ」が"永遠のグル"とされました。シク教の寺院にはこのグル=グラント=サーヒブが安置されていますが,原本はパンジャーブ地方
の
アムリットサ
ル
のシク教寺院にあります。神からいただいた髪を伸ばし続けているため,頭にターバンを巻くのが
〈アクバル〉の時代には,北はアフガニスタンのカーブル(1585年征服)やカシミール(1586年征服),インダス川中・上流域のパンジャーブ地方。
西はシンド地方(1591年征服)や,綿織物の産地グジャラート地方(1573年征服)を中心とするインダス川下流域。
南はデカン高原の北辺(16世紀後半~17世紀初めにかけて征服)。
ガンジス川流域を下って,東はベンガル地方
の
ベンガ
ル=
スルターン
朝
(1576年征服),オリッサ地方(1593年)
【本試験H8ビルマ全土は支配下に置いていない】
。
このような広大な領土を手に入れました。
ただし,デカン高原よりも南には
,
ヴィジャヤナガル王
国
やイスラーム教徒の政権
〔
ムスリム五王
国
〕があり,支配は及んでいませんでした。
1605年に〈アクバル〉の後をついだのが〈ジャハーンギール〉(位1605~27)です。1608年にインド北西部のスーラト(綿織物の産地)にイギリス東インド会社が船団を送ると、〈ジャハーンギール〉は有利な条件で貿易をおこなうことを許可します
(注1)
。
さらに,愛妃の墓であ
る
ター
ジ=
マハー
ル
で有名な
〈
シャ
ー=
ジャハー
ン
〉(位1628~58)
【本試験H25 19世紀のパン=イスラーム主義者ではない】
が即位しました。
時同じくしてサファヴィー朝の最盛期
〈
アッバース1
世
〉(位1587~1629)
【追H19,H28アンカラの戦いとは無関係】
は,アフガニスタンのカンダハールを狙い,ムガル帝国と対立しました。1599年にウズベク人のシャイバーン朝が崩壊し,同じくウズベク人のジャーン朝が後を継ぐと,ジャーン朝との関係も緊張します。カンダハールは結果的にサファヴィー朝の領土となり,これ以降のムガル帝国は,中央ユーラシアに進出しようとすることはなくなりました。
一方この時期、1639年に地元の領主の招きによって、イングランドのイギリス東インド会社は
マドラス
の一定の土地を貸し与えられ、そこに要塞を築くことも認められました。マドラスでの関税は免除され、イギリス東インド会社以外の商人から徴収する関税収入の半分をイギリス東インド会社が得るという条件も付いていました。イングランドは思わぬ好条件によって、インド支配の足がかりをつかむことに成功したのです
(注2)
。
(注1)羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.100。
(注2)羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.101。
・1500年~1650年のアジア 南アジア 現⑤インド(南インド)
南部ではヒンドゥー王国や沿岸港市が栄える
133
6~
164
9
ヴィジャヤナガル王国
149
0~
168
6
ビジャープル王国
この時期の南インドのデカン高原には,ヒンドゥー教国
の
ヴィジャヤナガル王
国
が栄えます。
沿岸部には港市が栄え,バトカル、カンナノール、カリカット
【本試験H18地図】
、コチ〔コーチン〕などにには独立・半独立の君主がいました。ヴィジャヤナガル王国は、こうした海岸の小王国をコントロール下におさめることはできなかったのです
(注1)
。
伝統的に君主は商人が公正・安全に取引できるようにはからい、町には多種多様な出自の商人が共存していました。インド西海岸
は
コショ
ウ
【本試験H11アメリカ大陸が原産ではない。インド南西部のケーララが原産地】
,ショウガ,シナモン(肉桂),白檀(ビャクダン)などが産出されるため,カイロ
の
マムルーク
朝
(1250~1517)や,アラビア半島方面との重要な交易基地だったのです。
1498年5月20日にポルトガルの〈ヴァスコ=ダ=ガマ〉が初めて到達したのはこのうちカリカットの北方。現地の慣わし通りのスムーズで友好的な取引が果たせないまま、〈ガマ〉の一行はいったんポルトガルに帰国
(注2)
。香辛料や宝石がみつかったという〈ガマ〉の知らせは一大センセーションを巻き起こし、〈マヌエル1世〉も大喜び。ポルトガルは帰国の半年余り後の1500年3月上旬に、今度は〈カブラル〉を派遣しますが、ブラジルを発見したほかは、カリカットでの武力紛争で多数の犠牲を出すなど、かんばしい成果をあげることができませんでした。その後、大富豪となっていた〈ガマ〉は国王に申し出て1502年に再びインドに向けて出発。〈ガマ〉には絶対にもうかるという確信があったのです。アフリカ東岸の町やカリカットで略奪の限りを尽くした〈ガマ〉の一行は、1503年にインド南西部
の
コ
チ
〔コーチン〕に拠点を残して一旦帰国。思惑通り香辛料1500トンを獲得して莫大な富を築き上げました。〈ガマ〉の「大航海」のどこかが、平和的な「交易への参入」でしょうか?港町を占領し、大砲や銃を使った武力による脅しで貿易活動を支配するというやり方は、その後のヨーロッパによるアジア進出の典型となっていったのです
(注3)
。
なお、その後もポルトガルのアジア進出が進むなか、〈ガマ〉はコーチンで1524年に亡くなりました。
さて、〈ガマ〉の成功に刺激され、ポルトガル王室は東インドへの進出に積極的となります。
1505年には初代インド総督
〈
アルメイ
ダ
〉が,コーチンを拠点にインド洋交易支配に乗り出しました。ポルトガル
の
カラベル
船
は,舷側(横の部分)に大砲が取り付けてあり,マムルーク朝やオスマン朝のガレー船(大砲は船の先っぽに取り付けられていました)よりも,高い大砲の発射精度を備えていました。
1509年グジャラートのイスラーム教国とカリカットのヒンドゥー王,マムルーク朝の連合軍は
,
ディウ沖の海
戦
で
ポルトガ
ル
に敗れました。
そして,第二代インド総統
〈
アルブケル
ケ
〉
【本試験H2マラッカを制服したか問う】
は,1510
年
ゴ
ア
【本試験H24ポトシではない、H27地図上の位置,H29イギリスの根拠地ではない】
【追H24イタリアの海外拠点ではない】
【上智法(法律)他H30 オランダの海外進出例ではない】
(1530年からインド総督府はこちらに移転されます)を根拠地とし,さらに1511年には東南アジア
の
マラッ
カ
を占領
しました
【本試験H2時期(16世紀初めか),〈アルブケルケ〉率いる艦隊に征服され,「16世紀を通じて,ポルトガルの東南アジア貿易の中心地となった」か問う】
【本試験H13オランダはヨーロッパ諸国の中で最も早く東南アジアに進出した国ではない】
【追H24ポルトガル人の活動か問う】
。
ゴアには1534年に司教区が置かれ、ゴアの教会や修道院を建設・維持運営するために、ポルトガル国王が「布教保護者」(当時の勅書で用いられた表現)となりました。もちろんキリスト教の聖職者にとっては「アジアへの布教」「東方にいると伝えられるキリスト教王(プレスター=ジョン)の捜索」が目的であったわけですが、キリスト教の布教とポルトガル帝国の拡大は"セット"だったのです。そして、1542年にはイエズス会(1534年創設)の〈
ザビエル
〉(1506?~1552)がゴアに到着しています。のちに〈ザビエル〉が中国広州沖の上川島で亡くなり、遺体が移送された先もゴアでした。
1623年
の
アンボ
ン(
アンボイ
ナ
)
事件をきっかけに,イギリスは東南アジア交易をあきらめ,その矛先をインドに転換しました。1639年
(注)
には,東海岸
の
マドラ
ス
【本試験H16フランス植民地ではない,本試験H23世紀を問う,H31イギリス東インド会社が拠点を置いたか問う】
【追H18】
に要塞を建設しています。
(注)羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.101。
◆南インドのヒンドゥー王国はイスラーム教の王国によって滅ぼされる
デカン高原は、イスラーム王国の支配地域となる
さて、ヴィジャヤナガル王国は,1649年にインド南西部のイスラーム教
国
ビジャープル王
国
〔アーディル=シャーヒー朝〕により滅ぼされます。
ビジャープル王国〔アーディル=シャーヒー朝,1490~1686 〕は,デカン高原のイスラーム教
国
バフマニー
朝
(1347~1527)が5つに分裂したうちの一国です。こ
の
ムスリム五王
国
〔デカン=スルターン朝〕には,バフマニー朝のほかに以下の王朝が含まれます。
・1490~1686
ビジャープル王
国
〔アーディル=シャーヒー朝〕→ムガル帝国により滅亡
・1490~1636
アフマドナガル王
国
〔ニザーム=シャーヒー朝〕→ムガル帝国により滅亡
・1518~1687
ゴールコンダ王
国
〔クトゥブ=シャーヒー朝〕→ムガル帝国により滅亡
・1487~1574
ベラール王
国
〔イマード=シャーヒー朝〕→アフマドナガル王国により滅亡
バフマニー朝は,1510年に沿岸
の
ゴ
ア
をポルトガルによって奪われています。
(注1) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.41。
(注2) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.48。
(注3) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、pp.52~56。
南インドでは,かつてパーンディヤ朝が支配していたインド亜大陸東南部の沿岸には
,
真
珠
採集に従事する人々がいました。
ポルトガルは彼らをパラワス〔パラバス〕と呼び,東南部沿岸を漁夫海岸と呼びました。そして,住民をキリスト教に改宗させた上で,真珠採りに従事させようとしました。これに従事し,約5万人のカトリック教徒を得たのがイエズス会の〈ザビエル〉です。しかし,スリランカのジャフナ王の攻撃を受けて挫折し,〈ザビエル〉は活動拠点さらに東へと移動させていきます(そして1549年に日本に上陸)
(注
)
。
(注)山田篤美『真珠の世界史』中公新書,2013,p.89~p.91。
・
150
0
年
~
165
0
年のアジア 南アジア
現⑥
パキスタン
現在のパキスタンにあたる地域の多くは,この時期
に
ムガル帝
国
の支配下に入ります。
インダス川下流
の
シン
ド
地域は,1520~1591年までテュルク〔トルコ〕系やモンゴル系のイスラーム教国であるアルグン朝(イル=ハン朝の系譜を継ぐと主張),タルカン朝(1554~1591)が支配していました。
その後,ムガル帝国の皇帝
〈
アクバ
ル
〉がタルカン朝の最後の王を打倒し,シンド地方を併合します。
・
150
0
年
~
165
0
年のアジア 南アジア
現⑦
ネパール
ネワール人のマッラ朝の王家は3つの政権に分かれていました。王家の分裂は外部勢力の干渉を許し,ネパール(カトマンズ)盆地の外にあったゴルカ王国の力が強まっていきました。
○150
0
年
~
165
0
年のアジア 西アジア
西アジ
ア
...現在の①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
オスマン帝国が最盛期を迎える
オスマン帝国
【東京H13[1]指定語句】
の
〈
セリム1
世
〉(位1512~20)
【追H26アイユーブ朝の支配者ではない】
【本試験H22】
【早・政経H31マムルーク朝を滅ぼしたのはスレイマン1世ではない】
は内紛によりすっかり弱体化していたエジプトのカイロに1517年に入城し
て
マムルーク
朝
のスルターンを処刑し,"肥沃な三日月地帯"の一部であるシリアとナイル川の育む灌漑農業地帯とともに,地中海とインド洋を結ぶ交易の重要地点であるエジプトを獲得
【本試験H12リード文「商品や市場の情報も書簡でやりとりされた」(図版 エジプトのアレクサンドリアの商品価格リスト(出典の記載なし))】
。
オスマン帝国の勝因は大量の銃砲の使用にありました。
さらにはマムルーク朝がおさえてい
た
メッ
カ
と
メディ
ナ
(この都市の位置する一帯
を
ヒジャーズ地
方
といいます)の保護権も獲得し,「両聖徒の保護者」を自任しました。
メッカのシャリーフ(〈ムハンマド〉の末裔)は,当時インド洋交易に進出してい
た
ポルトガル王
国
への対抗の必要から,マムルーク朝の保護を求めます。マムルーク朝はスエズに「インド洋艦隊」を置き,ポルトガル王国に対しインド西部
の
グジャラー
ト
(⇒1500~1650の南アジア)
と東南アジア
の
アチェ王
国
(⇒1500~1650の東南アジア)
と協力関係を築き対抗しました。
"立法者"として知られる
〈
スレイマン1
世
〉
(位1520~66)
【京都H19[2]】
【本試験H22セリム1世ではない】
(注)
は,イランに1501年に建国され
た
サファヴィー
朝
に勝ち,イラクを征服しました。また,1526年
に
モハーチの戦
い
で
ハンガリ
ー
を占領し,当時宗教改革への対応に追われていた神聖ローマ皇帝の寝耳に水を浴びせます。29年にはハプスブルク家の中心都市であ
る
ウィーンを包
囲
し,ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール5世は,一時ルター派を認めざるをえなくなりました。のちにこれを撤回したことが,ルター派などの新教を「プロテスタント」というようになった語源です。
〈スレイマン1世〉はさらに地中海でも,1538年スペインとヴェネツィアの連合艦隊を,ギリシア
の
プレヴェザの海
戦
【本試験H31アンカラの戦いとのひっかけ(地図上の位置と内容)】
で破り,東地中海がオスマン朝の制海権下にはいることになりました。すでにビザンツ帝国が滅ぼされていたことに加え,このこと
は
ヴェネツィア共和
国
【本試験H27,H29東方貿易に従事したことを問う】
を含むイタリア諸都市
の
東方貿
易
に,多大な打撃を与え,のちにスペインとポルトガルが新航路開拓に向けて大西洋に船出する一因となりました。
〈スレイマン〉はまた,建築家の〈シナン〉(1492頃~1588)に命じて,首都イスタンブル
【本試験H31タブリーズではない】
に壮麗
な
スレイマ
ン=
モス
ク
【本試験H10ムガル帝国ではない】
【本試験H31】
を建造させています。また,16世紀半ばのイスタンブルには,世界で初めて
「
カフ
ェ
(カフヴェ)」がつくられ,にぎわったといいます。カフェはのちにヨーロッパの都市に伝わり,
「
コーヒーハウ
ス
」
【東京H17[3]】
【H29共通テスト試行 ジャガイモとは無関係】
と呼ばれ,政治や文化に関する議論をする場として発展していくようになります。
『哲学書簡(イギリスだより)』
【本試験H2】
で知られるフランスの啓蒙思想家
〈
ヴォルテー
ル
〉(1694~1778)
【本試験H2】
【追H24】
は,パリのカフェ=プロコーブで,仲間と議論を交わしながら
,
ココ
ア
入りコーヒーを1日40杯飲んだと言われています。
16世紀になると,オスマン朝にも火器が広まり,騎兵のシパーヒーから歩兵のイェニチェリに実権が移っていきました。16世紀後半に価格革命が起きると,貨幣で俸給を与えられていたイェニチェリは各地で反乱を起こすようになり,腐敗もすすんでいきます。
16世紀以降,戦場に銃砲・火器が導入されはじめ,騎兵であるシパーヒーの役割は低下しました。かわり
に
イェニチェ
リ
が増やされ,シパーヒーに徴税権を与えるティマール制は無意味になりました。政府はティマール地からの徴税を自分でやるのも面倒なので,ティマール地を競売にかけて,富裕な商人や有力者に売り出しました。こうして彼らは,18世紀には徴税請負人として大土地を所有す
る
アーヤー
ン
(名士層)に発展していきました。
(注)以前「スレイマーン1世」と表記されることが多かったのは、アラビア語の「スライマーン」から来た慣用でしょう。トルコ語では「スレイマン」で、『旧約聖書』の「ソロモン」のことです。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.101。
・
150
0
年
~
165
0
年のアジア 西アジア
現①
アフガニスタン
アフガンはイランとインドの政権に挟まれ分裂
1507年に
,
ウズベク
人
の
〈
シャイバーニ
ー=
ハー
ン
〉(位1500~1510)が,現・アフガニスタ
ン
西
部のヘラートを占領し,ティムール朝の支配を排除します。
一方,ティムール家の子孫〈バーブルは〉,現・アフガニスタ
ン
東
部のカーブルを拠点に,西部の〈シャイバーニー=ハーン〉に勝利するとともに,インドに進出して1526年
に
ムガル帝
国
を築き上げます。
一方,西方のイラン高原では,テュルク系のアゼルバイジャン人〔アゼリー人〕によ
る
サファヴィー
朝
(1501~1736)が勃興して,アフガニスタン地域にも支配権を広げました。
こうして,この時期のアフガニスタンは,イラン高原のサファヴィー朝とインドのムガル帝国に挟まれてそれぞれの支配が及び,政治的な統一もありませんでした。
・
150
0
年
~
165
0
年のアジア 西アジア
現②
イラン
サファヴィー vs
ウズベク vs
ティムール朝勢力
〈ティムール朝〉崩壊後のペルシアから中央アジアにかけては,上記の3勢力の対立が勃発します。
1501年に,アクコユンル(白羊朝,1378~1508)を破り,アゼルバイジャン
の
タブリー
ズ
【本試験H31ここにスレイマン=モスクはない】
を占領して建国され
た
サファヴィー
朝
【本試験H3時期(12世紀ではない),本試験H10】
は
,
シーア
派
【本試験H10】
【本試験H25スンナ派ではない】
の神秘主義教団サファヴィー派が,テュルク系遊牧民の信徒を率いて挙兵してつくられた国家です。トルコ系遊牧民の騎兵集団は
,
キジルバシ
ュ
と呼ばれる精鋭集団。教団のリーダーを
「
イマー
ム
」の再来と考えスンナ派と対決しました。
彼らはティムール朝を滅ぼしたウズベク人の〈シャイバーニー=ハーン〉を1510年にメルヴで破り,〈シャイバーニー〉は敗死。彼の頭蓋骨には金箔が貼られて,盃にされたといわれます(
〈イスマーイール〉は,ウズベク人を挟撃しようと,サマルカンドのティムール朝の残党〈バーブル〉を支援しますが,のちシャイバーニー朝にサマルカンドを取り返されると,〈バーブル〉はインドでムガル朝を建国します(1526)。
◆
オスマン帝国の歩兵鉄砲部隊が,サファヴィー朝の遊牧民を撃破する
「軍事革命」が遊牧騎馬民の覇権を揺るがした
しかし,サファヴィー朝の遊牧騎馬兵にも,オスマン帝国の歩兵鉄砲部隊は粉砕することができませんでした。
1514年にチャルディランの戦い
【慶文H29】
で,オスマン帝国の〈セリム1世〉率いる歩兵鉄砲部隊が,教団
長
イスマーイール1
世
(位1501~24)を撃退したのです
【本試験H10「オスマン朝」と対立したか問う】
。このときに威力を発揮したのが,イェニチェリ軍団の使用す
る
銃
砲
でした。
スキタイ以来の遊牧騎馬兵のアドバンテージが崩れ,一つの時代が終わろうとしていたのです。
その後,サファヴィー朝は東方でもウズベク人に敗れると,過激なシーア派色を薄めるようになっていきます。〈イスマーイール1世〉は
,
シーア
派
【H29共通テスト試行】
の中でも穏健な
1
2
イマーム
派
【東京H8[3]】
西ヨーロッパ諸国の南北アメリカ大陸との交流の結果,17世紀初めに
は
キャッサ
バ
〔マニオク〕がアフリカ大陸の熱帯地域にもたらされ,耐乾性・耐病性が評価されて急速に広まりました(19世紀には南アジアに広まります)。
◯150
0
年
~
165
0
年のアフリカ 東アフリカ
東アフリ
カ
...①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ
・
150
0
年
~
165
0
年のアフリカ 東アフリカ
現①
エリトリア
現在のエリトリアの地域には,14世紀にティグレ人などがミドゥリ=バリ(15世紀~1879)という国家を建設していました。
・
150
0
年
~
165
0
年のアフリカ 東アフリカ
現②
ジブチ
現在のジブチには,アラブ人やソマリ人の融合した政権
(
アダ
ル
=スルターン国,1415~1577)が成立していました。アダルは内陸のエチオピア高原のアムハラ人によ
る
エチオピア帝
国
とも抗争しています。
宗教指導者〈アフマド=イブン=イブラヒーム〉(1507~1543)はアダルの軍を組織してエチオピア帝国に進出し,オスマン帝国から援助を受け
た
火
砲
を使用しています。
〈アフマド〉の死後,アダルは領域を縮小させていき,1577年にはクシ諸語系の遊牧
民
アファール
人
の進出により滅びました。
・
150
0
年
~
165
0
年のアフリカ 東アフリカ
現③
エチオピア
エチオピア高原でオロモ人の勢力が強まる
エチオピア高
原
では
,
アムハラ
人
により建国されたソロモン朝
の
エチオピア帝
国
が広範囲を支配していました。
しかし,アラビア半島との交易ルートで栄え
た
アダ
ル
=スルターン国との抗争が激化し,アダル=スルターン国を継いだ宗教指導者〈アフマド=イブン=イブラヒーム〉(1507~1543)が1535年にエチオピア帝国に対して聖戦を起こし,オスマン帝国からの軍事援助も受けてこれを打倒。〈イブラヒーム〉はおそら
く
ソマリ
人
であったとされています。
それに対して対するエチオピア帝国は,ポルトガル人で〈ヴァスコ=ダ=ガマ〉の息子〈クリストバオ=ガマ〉(1516?~1542)から火砲や銃砲
(
マスケット
銃
)などの軍事援助を受けていました。
一方,16世紀以降は,東クシュ系の半農半牧
の
オロモ
人
が進入し,エチオピア帝国は衰退に向かいました。オロモ人の中にはイスラーム教を採用し,傭兵としてエチオピアの内戦に参加するグループや,イスラーム教やキリスト教に基づかない,無頭制 (特定の首長をもたない制度) の社会を築くグループがありました。
・
150
0
年
~
165
0
年のアフリカ 東アフリカ
現④
ソマリア
,⑤
ケニア
,⑥
タンザニア
東アフリカのインド洋沿岸
【追H28東南アジア海域ではない】
に
は
スワヒリ語文化
圏
が成立し,アラブ人やペルシア人商人,インド商人との交易が港市国家で活発に行われていました。
1498年にはポルトガル王国の
〈
ヴァス
コ=ダ=
ガ
マ
〉がマリンディを訪れ,航海士・地理学者〈イブン=マージド〉(1421?~1500?)に導かれインド
の
カリカッ
ト
に到達しています。
・
150
0
年
~
165
0
年のアフリカ 東アフリカ
現⑦
ブルンジ
,⑧
ルワンダ
,⑨
ウガンダ
ヴィクトリア湖周辺では,農耕を中心とす
る
バントゥ
ー
系住民と,牧畜を中心とす
る
ナイロー
ト
系住民が提携し,政治的な統合が生まれています。
○150
0
年
~
165
0
年の南アフリカ
南アフリ
カ
...①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ
・
150
0
年
~
165
0
年の南アフリカ
現①
モザンビーク
◆
ザンベジ川周辺のムタパ王国は金・象牙交易で栄えた
アラブ人とポルトガル人が,東アフリカ奥地へ
ザンベジ
川
【本試験H29ニジェール川ではない】
流域では,現在のモザンビーク周辺に
,
ムタ
パ
(
モノモタパ王
国
【本試験H9[24]地図上の位置を問う】
【本試験H29】
)が,金と象牙,ビーズと布の遠隔地交易で栄えていました。
1488年に喜望峰を発見し
た
ポルトガル王
国
の進出が続き,南東部(インド洋側)
の
モザンビー
ク
を植民地にします。1505年
(注
)
にはモザンビーク中部のソファラに来ていたポルトガルは,16世紀後半にイスラーム商人の勢力を駆逐し,交易の主導権を握ります
【本試験H3大航海時代以前,ムスリム商人は,香辛料交易で活躍していたか問う】
。
その後もムタパ国の王位継承に介入を続け,1596年
(注
)
にはザンベジ川に沿ってザンベジ=バレー一帯を支配します。
そこからマラヴィ王国との間に象牙の取引,さら
に
ジンバブウ
ェ
との間
に
金
の取引をしていたのです。すでにマラウィ〔タンガニーカ〕湖は,のちに19世紀に〈リヴィングストン〉が到達する前に知られており,アラブ人の商人も奥地に交易に訪れていました。
イエズス会の宣教師〈ヴァリニャーノ〉(1539~1606)が〈織田信長〉に1581年に謁見した際,珍しがった〈信長〉により引き取られた召使いの〈ヤスケ〉(弥助,生没年不詳)という人物は,このうちポルトガル領東アフリカ(現モザンビーク)と考えられています。彼の消息は,本能寺の変(1582)以降は不明です
。
・
150
0
年
~
165
0
年のアフリカ 南アフリカ
現②
スワジランド
現在のモザンビークのマプトを拠点としてい
た
スワジ
人
は,1600年頃には現在のスワジランドの領域に移動しています。
・
150
0
年
~
165
0
年のアフリカ 南アフリカ
現③
レソト
バントゥー系
の
ソト
人
が南下し,先住のサン人が移動を迫られています。
・
150
0
年
~
165
0
年のアフリカ 南アフリカ
現④
南アフリカ共和国
,⑤
ナミビア
バントゥー系の人々は農耕を基盤としているた
め
カラハリ沙
漠
には進出できず,狩猟採集民
の
サン
人
が生活を営んでいます。
東方から南下してきたバントゥー系の人々は,現在の南アフリカ共和国南東岸のポートエリザベス付近に河口をもつグレート=フィッシュ川付近まで,西暦1000年頃には南下を進めています。
しかし,熱帯性植物の栽培を基盤とす
る
バントゥ
ー
系の人々は,グレート=フィッシュ川以西に進出できませんでした。
グレート=フィッシュ川以東にはバントゥー系
の
コサ
人
が分布しています。
グレート=フィッシュ川以東に
は
コイコイ
人
が狩猟採集生活を送っています。
・
150
0
年
~
165
0
年のアフリカ 南アフリカ
現⑥
ザンビア
,⑦
マラウイ
現在のマラウイ南部,モザンビーク中部,ザンビア東部には1500~1700年頃の
間
マラヴィ王
国
が統治していました。沿岸部のポルトガルと
の
象
牙
の交易で栄え,〈マスラ王〉(位1600~1650)が有名です。
(注)栗田和明『マラウィを知るための45章 第2版』明石書店,2010,p.42~p.43
・
150
0
年
~
165
0
年のアフリカ 南アフリカ
現⑧
ジンバブエ
16~17世紀のジンバブエ高原では
,
トルワ王
国
が金の交易と牛の放牧を支配下に置いて栄えます。グレート=ジンバブエの影響を受け継ぎ,石壁の建設は続けられました。16世紀にはポルトガル人とも接触しています。
・
150
0
年
~
165
0
年のアフリカ 南アフリカ
現⑨
ボツワナ
南西部のカラハリ砂漠には,狩猟採集民
の
サン
人
が居住しています。
17世紀にニジェール=コンゴ語族
の
ツワナ
人
が,先住の狩猟採集民サン人を追ってボツワナに進出しています。
◯150
0
年
~
165
0
年のアフリカ 中央アフリカ
中央アフリ
カ
...現在の①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン
・
150
0
年
~
165
0
年のアフリカ 中央アフリカ
現①
チャド
ボルヌ王
国
(14世紀末~1893)が強大化しています。
・
150
0
年
~
165
0
年のアフリカ 中央アフリカ
現②
中央アフリカ
ボルヌ王
国
(14世紀末~1893)が強大化しています。
・
150
0
年
~
165
0
年のアフリカ 中央アフリカ
現③
コンゴ民主共和国
,④
アンゴラ
,⑤
コンゴ共和国
,⑥
ガボン
ザイール川流域のコンゴ盆地では,ポルトガル留学帰りの
〈
アフォンソ1
世
〉(〈ムベンバ〉)が,ヨーロッパの文化を取り入れなが
ら
コンゴ王
国
を支配しました。コンゴ王国では官僚機構が発達していましたが,各州の統治は地方の首長に任せられていました。この時期には,アメリカ大陸か
ら
キャッサ
バ
というイモの一種が伝わった時期でもあります。日本ではタピオカという加工品で食べられることがほとんどですが,蒸すとボリューム感があり,栄養も満点です。従来の料理
用
バナ
ナ
に比べても,土地生産性が高いので,熱帯雨林の焼畑耕作の主力になっていきました。
コンゴ王
国
とポルトガルとの交易も盛んになり,ポルトガルからは銃・火薬などの武器や衣服などの日用品,銅や鉛などが伝わり,コンゴ王国からは木材,魚のくん製や象牙が運ばれました。
コンゴ王国や,それに服属する諸国など内陸の諸勢力が強力だったため,ポルトガルの支配は内陸にまでは及ばず,沿岸部の交易所での取引が中心となりました。
コンゴ王は,財源を得るためにポルトガル人に住民
を
奴
隷
として販売することを認めていましたが,奴隷商人による奴隷狩りは日増しにエスカレート。コンゴ王は,ポルトガル王
に
奴隷貿
易
への規制を求める手紙を送ったものの無視され,ローマ教皇にも中止を求めましたが,対策が打たれることはありませんでした。沖合
の
サントメ
島
を中心にポルトガル人が内陸の勢力と提携して実施した奴隷貿易は激化していき,1570年以降は奴隷の導入が王室によって奨励されるようになっていきました。導入された黒人奴隷は,主
に
サトウキ
ビ
のプランテーションで働かされました
(⇒1500~1650の中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ)
。
他のヨーロッパ諸国も奴隷貿易に参入し,奴隷の商品価値が高まっていくと,「奴隷を売り飛ばせばもうかる」と考えたコンゴ盆地の諸民族は,ヨーロッパから輸入した火器を用いて奴隷狩りを進めるとともに,コンゴ王国に対抗して支配地域を拡大させようとします。
こうして1600年代にはコンゴ王国とポルトガル王国との対等な関係は崩れ,コンゴ王国は急速に衰退していくことになり,奴隷交易にはオランダ,フランス,イギリスも参入していきました。
ザイール川の上流域のサバンナは,中央アフリカを横断する交易路の中心部を占める重要な地域です。ここでは鉄・銅・塩などの遠隔地交易を背景に,バントゥー
系
ルバ王
国
と
ルンダ王
国
が栄えました。
東アフリカ方面からはイスラーム教も伝わり,イスラーム商人も奴隷貿易に従事していました。現在,コンゴ盆地の大部分を占めるコンゴ民主共和国では80%をキリスト教が,10%をイスラーム教が占めています。
アンゴラには1500年に〈バルトロメウ=ディアス〉の孫〈ノヴァイス〉(1510?~1589)が植民を開始し,ルアンダを建設しました。ここから積み出された黒人奴隷は,ブラジルに運搬されました。1590年以降はポルトガルによる直轄支配が始まりましたが,しだいにオランダが進出するようになります。
・
150
0
年
~
165
0
年のアフリカ 中央アフリカ
現⑦
サント
メ=
プリンシペ
サントメ=プリンシペは,現在のガボンの沖合に浮かぶ火山島です。
1470年
に
ポルトガ
ル
人が初上陸して以来,1522年にポルトガルの植民地となります
。
奴隷交
易
の拠点とともに
,
サトウキビのプランテーショ
ン
が大々的に行われました。
・
150
0
年
~
165
0
年のアフリカ 中央アフリカ
現⑧
赤道ギニア
現在の赤道ギニアは,沖合のビオコ島と本土部分とで構成されています。
15世紀の後半にはポルトガル人〈フェルナンド=ポー〉(15世紀)がビオコ島に到達し,ポルトガル領となっています。
・
150
0
年
~
165
0
年のアフリカ 中央アフリカ
現⑨
カメルーン
現在のカメルーンの地域は,この時期に強大化し
た
ボルヌ帝
国
の影響を受けます。
カメルーンの人々はポルトガルと接触し,ギニア湾沿岸
の
奴隷交
易
のために内陸の住民
や
象
牙
(ぞうげ)などが積み出されていきました。
◯150
0
年
~
165
0
年のアフリカ 西アフリカ
西アフリ
カ
...①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ
・
150
0
年
~
165
0
年のアフリカ 西アフリカ
現①
ニジェール
,②
ナイジェリア
,⑬
モーリタニア
,⑭
マリ
,⑮
ブルキナファソ
ニジェール川流域
の
マリ帝
国
【本試験H8】
は14世紀後半から衰退。
マリ帝国はニジェール川中流域
の
ソンガイ帝
国
【共通一次 平1:新大陸ではない】
【本試験H5地図上の位置,本試験H8キリスト教国ではない】
【本試験H22時期・南アジアではない】
の支配下に入ります。
ソンガイ帝国の建国は1010年頃とされ,当初はマリ王国の支配下にありましたが,1464年
〈
ソン
ニ=
ア
リ
〉(ソンニは王の意,1464~93)のときに独立します。
農業・手工業者を優遇し,長距離交易を担うイスラーム教徒を弾圧した〈アリ〉の没後,王になった〈ムハンマド1世〉(位1493~1528)はイスラーム商人からの支持を得て,支配領域を拡大させます。彼は学者(ウラマー)を保護するなどイスラームの権威にのっとって大国を築き上げました。
ニジェール川
【H30共通テスト試行】
の沿岸の都
市
トンブクト
ゥ
【追H28「トンブクトゥ」が「西」アフリカの交易の中心都市であったか問う】
【本試験H3「黄金の都」】
【東京H9[3]】
【H30共通テスト試行 金と塩の貿易がおこなわれたか問う】
は,ソンガイ帝国
【本試験H3】
のときに史上もっとも繁栄します。16世紀中頃には,サハラ沙漠の横断交易
(
トランスサハラ交
易
)の物量は,スペインやポルトガルによる大西洋の交易をしのいでいたといわれます。
現在のナイジェリア北部にい
た
ハウサ
人
も,トランスサハラ交易の利で栄え,ソンガイ王国とチャド湖周辺
の
カネ
ム=
ボルヌ王
国
との間で同盟関係・対抗関係をとりつつ,いくつもの王国に分かれていました。ハウサ語が,サハラ沙漠の広い範囲で現在も通用するのは,商業言語として使用されていたためです。
1590年に,モロッコのサード朝は,サハラ沙漠の岩塩の鉱山をおさえるために,ソンガイ帝国を滅ぼしました
(
ソンガイ帝国の滅
亡
)。スペインやポルトガルが,サハラ沙漠を経由せずに海路で金を運ぶようになったために,直接取引を目指そうとしたのです。サード朝は,スルターン〈マンスール〉の死後は衰退しますが,ニジェール川流域の支配は1833年まで続きました。ソンガイ帝国の滅亡により,ハウサ地方の諸国はモロッコに奴隷などを輸出して栄えました。奴隷狩りにはカネム=ボルヌ王国やハウサ諸国も従事しましたが,ヨーロッパによる大西洋奴隷交易の奴隷の多さとはケタが違います。
・
150
0
年
~
165
0
年のアフリカ 西アフリカ
現⑪
セネガル
セネガ
ル
では,ウォロフ人のジョロフ王国がソンガイ帝国との交易で栄えていました。しかし,次第
に
ゴレ
島
を拠点とするポルトガル,オランダ,イギリス,フランスなどとの金や奴隷の交易も本格化していきます。ゴレ島の東岸には奴隷貿易のシンボル
「
奴隷の
家
」が残され,世界文化遺産(負の遺産,1978)に登録されています
17世紀後半に
は
フラン
ス
の勢力が強まり,16世紀中頃にはセネガルの王国は分裂します。
・
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年
~
165
0
年のアフリカ 西アフリカ
現③
ベナン
,④
トーゴ
,⑤
ガーナ
,⑥
コートジボワール
,⑦
リベリア
,⑧
シエラレオネ
,⑨
ギニア
,⑩
ギニアビサウ
,⑫
ガンビア
ギニア湾岸から住民が奴隷として積み出される
ギニア湾岸には,ポルトガル,オランダ,イギリス,フランスなどのヨーロッパ諸国が交易所や要塞を建設し,大規模
な
奴隷交
易
を展開しました。
ギニア湾岸には,ヨーロッパ諸国によって以下のような通称が付けられていきます。
・
奴隷海
岸
...②ナイジェリア西部,③ベナン,④トーゴ周辺の海岸
・
黄金海
岸
...⑤ガーナ周辺
・
象牙海
岸
...⑥コートジボワール周辺
コートジボワールとは,フランス語で「象牙海岸」という意味です。
・
胡椒海
岸
...⑦リベリア周辺
◯150
0
年
~
165
0
年のアフリカ 北アフリカ
北アフリ
カ
...現在の①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア
・
150
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年
~
165
0
年のアフリカ 北アフリカ
現①
エジプト
オスマン帝国の
〈
セリム1
世
〉(位1512~20)
【慶文H29】
【本試験H22】
は,内紛によりすっかり弱体化してい
た
エジプ
ト
のカイロに1517年に入城
て
マムルーク
朝
【本試験H7オスマン帝国によるものか問う】
のスルターンを処刑し,"肥沃な三日月地帯"の一部であるシリアとナイル川の育む灌漑農業地帯であるエジプトを獲得。オスマン帝国の勝因は大量の銃砲の使用にありました。
総督や常備軍
(
イェニチェ
リ
)が派遣されましたが,バルカン半島と同じく間接統治領で,従来の行政組織を温存したまま柔軟な支配がなされた点がポイントです。例えばエジプトにはマムルーク朝のアミールがエジプトの総督に任命されています。〈スレイマン1世〉の代にマムルーク朝復活をもくろむ反乱も起きましたが鎮圧されました。
また,インド洋交易により貨幣経済が栄えました。カイロ市内にはキリスト教徒(コプト教会,ギリシア正教会,アルメニア教会),ユダヤ教徒とスンナ派のイスラーム教徒が街区ごとにゆるやかに分かれ共存していました。
・
150
0
年
~
165
0
年のアフリカ 北アフリカ
現②
スーダン
,③
南スーダン
ナイル川上流部
の
スーダ
ン
では,現在のスーダン南西部
に
ダルフール王
国
(1596~1874)が栄えます。
また,ナイル川の上流部(白ナイル)沿岸のセンナールという都市を中心に,フンジ人の王国(16世紀~1821
年
(注
)
)が交易地として栄えています。
(注)『角川世界史辞典』「フンジ」の項目。
・
150
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年
~
165
0
年のアフリカ 北アフリカ
現④
モロッコ
,⑤
西サハラ
モロッ
コ
にはオスマン帝国の支配はおよばず,各地を遊牧民の部族が割拠(かっきょ)していました。このうち,沿岸部から南部のサハラ沙漠にかけてサード朝(1511~1659)が有力となり,他部族を破りつつ,モロッコへの進出をねらうポルトガルの進出にも対抗しました。1541年にはポルトガルからアガディールを奪回しています。サード朝の最盛期は16世紀後半の〈マンスール〉(1578~1603)で,サハラ沙漠に進出して銃を配備していなかっ
た
ソンガイ帝
国
を滅ぼしトンブクトゥやジェンネといった都市を奪いました。しかしのちに地方の遊牧民や山岳部のベルベル人の自立が始まり,サード朝は混乱していきます。
マグレブ地方の住民の多くはアラブ系やベルベル系で,テュルク(トルコ)系は少数派でした。古くからマグレブ地方で商業活動に従事したユダヤ教徒のほか,キリスト教諸国のレコンキスタ(再征服運動,国土回復運動)でイベリア半島を追われたユダヤ教徒(1492年のスペインのユダヤ教徒追放令)やイスラーム教徒も移住していました。
・
150
0
年
~
165
0
年のアフリカ 北アフリカ
現⑥
アルジェリア
北アフリカ西部のマグレブ地方
の
アルジェリ
ア
は,テュルク系の軍人を従
え
海
賊
集団(ターイファ)を形成していたエーゲ海レスボス島出身の海賊長(ライース)である〈バルバロッサ〉兄弟により占領されました。
しかし,弟の〈ハイル=アッディーン〉(ハイレッディン=バルバロッサ)が1519年に〈セリム1世〉によりアルジェの大総督(ベレイルベイ)に任命されることに。〈スレイマン1世〉(位1520~66)も、彼を用いて実戦的な海軍をつくりあげようとしました
(注1)
。
1533年にはパシャ(総督)に任命され,オスマン帝
国
アルジェ
州
が成立します。
オスマン帝国は"夷を以て夷を制す"の理念を実践し,地中海支配のために北アフリカの海賊(海上冒険者(コルサン)
(注2)
)の軍事力を利用したのです。
アルジェはオスマン帝国の地中海支配に重要な役割を果たし,海賊活動により17世紀に繁栄しました。1574年にはハフス朝の
都
チュニ
ス
を征服し,これを滅ぼしています。
(注1
)
歴史学研究会編『世界史史料2 南アジア・イスラーム世界・アフリカ』岩波書店、2009年、p.243。
(注2)歴史学研究会編『世界史史料2 南アジア・イスラーム世界・アフリカ』岩波書店、2009年、p.243。
・
150
0
年
~
165
0
年のアフリカ 北アフリカ
現⑦
チュニジア
チュニジア
は
チュニス
州
とされ,オスマン帝国が軍司令官(デイ)を派遣しましたが,次第にテュルク(トルコ)系の総督(ベイ)がデイをしのぎ自立していきました。
マグレブ地方の住民の多くはアラブ系やベルベル系で,テュルク(トルコ)系は少数派でした。古くからマグレブ地方で商業活動に従事したユダヤ教徒のほか,キリスト教諸国のレコンキスタ(再征服運動,国土回復運動)でイベリア半島を追われたユダヤ教徒(1492年のスペインのユダヤ教徒追放令)やイスラーム教徒も移住していました。
1609~14年にスペインで30万ものモリスコ(イスラーム教徒からキリスト教徒への改宗者)が追放され,チュニジアは最大の受け入れ先となりました。
・
150
0
年
~
165
0
年のアフリカ 北アフリカ
現⑧
リビア
リビ
ア
西部のトリポニタニアの都市トリポリは1510年にスペインに征服され,1530年にはマルタ島に拠点を持つ聖ヨハネ騎士団が支配しました。しかし1551年にオスマン帝国艦隊により征服され,1711年までスルターンに任命されたパシャにより統治されました。
◆
西欧諸国は南北アメリカ大陸とアジアに進出。新たな哲学が活発化し,「科学革命」も起きた
新大陸の情報が,ヨーロッパの情報を揺さぶった
この時期に
は
西
ヨーロッパ諸国が南北アメリカ大陸に金銀を求めて進出しました。「大航海時代が始まるやいなや,ヨーロッパが植民地を獲得し,工業化が進んでアジアとの差がひらいていった」というわけではなく,当初はアジアの交易ネットワークに参入したり,南北アメリカ大陸から鉱産資源を積み出したりと,各地
に
物
流
の拠点を確保し商業を中心とした発展がすすめられていきました。
また,西ヨーロッパ諸国にとって,今までの世界を飛び出すことで出会った異民族や知らない文物は,従来のヨーロッパ人が積み上げてきた常識を揺さぶっていくこととなります(アメリカやアジアへの新たな航路の開拓のことを
"
地理上の発
見
"といいます)。
伝統的な学問を疑う実証主義的な姿勢から新たな哲学や科学が発展。例えば,
「
我思う故に我あ
り
」
【追H9】
で有名な
〈
デカル
ト
〉(1596~1650)
【追H9ソクラテスとのひっかけ】
は
『
方法序
説
』において「我々人間は,本当にこの世界を正しく認識する能力を備えているのだろうか?」ということを突き詰めて考え,「たとえ聖書に書かれていなくても"今ハッキリとここで考えている私"が導き出した答えであれば正しいのではないか」と主張しました。
落体の法則や,望遠鏡
【追H9】
を用いた木星の4つの衛星の発見で知られる
〈
ガリレ
オ
〉(1564~1642)
【追H9ダ=ヴィンチではない】
【本試験H30】
らの
「
科学革
命
」もこの時期から始まります。ヨーロッパには分布していない動植物の研究も植物学・博物学として進んでいきます。例えば,フランドル地方の医師〈ドドエンス〉(1517~1585)は『植物生態学』を著し,のちに江戸時代の蘭学者〈野呂元丈〉(のろげんじょう,1693~1761)著『阿蘭陀本草和解』にも影響を与えています
(⇒1650~1760の東アジア 日本)
。
新航路の開拓と人口増によって16世紀のヨーロッパは好況を迎えます。しかし,17世紀に入る
と
気候の寒冷
化
も影響し頭打ちに向かいます。
◆
イタリアに始まるルネサンスがアルプス山脈以北にも伝わった
諸国のルネサンス,ラテン語から各地の言語へ
この時期には,イタリアではじまっ
た
ルネサン
ス
(
文芸復
興
運動)
【本試験H14時期(アメリカ大陸の文化の影響ではない)】
が,諸国にも普及し,発展しました。
例えば,
〈
エラスム
ス
〉(1469?~1536)
【本試験H4時期(15~16世紀か)】
は『愚神礼賛』で,「聖職者やスコラ哲学者がいうほど,人間は立派な存在ではない。愚かな面もあるからこそ,幸せな暮らしが送れるのだ」と主張します。彼の友人だった
〈
トマ
ス=
モ
ア
〉(1478~1535)
【共通一次 平1〈チョーサー〉ではない】【本試験H7マキャヴェッリとのひっかけ,本試験H8エラスムスではない】
は『ユートピア』
【共通一次 平1】【本試験H8】
の中で,「キリスト教とは違う理想郷=天国」の新しいあり方を提案してイギリス社会の現実を諷刺しました
【共通一次 平1:内容を問う】
。ユートピアの人々は財産を持たず,生活物資は共用で,6時間の農業労働ののち,空き時間は余暇を楽しむといいます。後の社会主義思想にも,影響を与えました。ちなみにユートピアと
は
ギリシア
語
からの造語で,「どこにもない場所」という意味です。
フランス
【共通一次 平1】
の
〈
ラブレ
ー
〉
(1494?~1553?)
【共通一次 平1】【本試験H8】
【本試験H15エラスムスとのひっかけ,H31エラスムスとのひっかけ】
【追H25マキャベリ、ボッカチオ、チョーサーではない】
は
『
ガルガンチュアとパンタグリュエルの物
語
』
【共通一次 平1『デカメロン』ではない】【本試験H8「ガルガンテュア物語」】
【本試験H15愚神礼賛とのひっかけ】
【追H25作中人物「ガルガンチュア」から作者を答える】
で,"反まじめ"文学に挑戦します。まじめくさったキリスト教的価値観をふっとばすようなストーリーゆえ,のちに反宗教改革のさいに禁書目録に搭載されてしまいました。彼はネーデルラントの〈エラスムス〉とも交流がありました。
また,
〈
モンテーニ
ュ
〉(1533~1592)
【追H19エラスムスとのひっかけ、H28パスカルとのひっかけ】
【本試験H7マキャヴェッリではない】
は,ギリシアやローマの古典を参照しつつ,様々な物事について思索をめぐらした
『
随想
録
』(エセー)
【追H28パンセ(「瞑」想録)ではない】
を著しています。
スペイン
【共通一次 平1:イタリアではない】
の
セルバンテ
ス
(1547~1616)
【共通一次 平1】
による
『
ド
ン=
キホー
テ
』
【追H27中世ヨーロッパではない】
【共通一次 平1】
は,中世の騎士道物語に心酔する主君(ボケ役)と家来(ツッコミ役)のドタバタストーリーです。キホーテは痩せ馬のロシナンテにまたがり,家来のサンチョ・パンサを連れ立って,美女のドルシネーア姫をさがしもとめるのですが,姫に合うことはできず,最後は病気で死んでしまう,なんとも悲しい内容ですが,当時の社会の真実をするどく描き出すその手法
(
このように,物語で扱われるテーマが,宗教ではなく「人間」や「社会」になっていったのもこの時代の特徴です。
◆
各地域で国家の統合が進み,宗派の違いから戦争が多発。西欧・東欧の地域差が深まった
ハプスブルク家がフランスを挟み撃ちする
多くの小さな国家に分裂してい
た
イタリア半
島
では,1453年にオスマン帝国がビザンツ帝国を滅ぼした後に,オスマン帝国の進出の影響を受けるようになりました。
オスマン帝国に対抗するために,イタリアの諸国家は同盟を組みて立ち向かいましたが,1494年にフランス王
〈
シャルル8
世
〉(位1483~98)がイタリアに進入し,1495年にナポリを占領する事態に発展します。それに対して,時の教皇でボルジア家出身の
〈
アレクサンデル6
世
〉(位1492~1503)は,神聖ローマ皇帝
〈
マクシミリアン1
世
〉やヴェネツィア共和国,ミラノ公国と同盟を組むことで対抗し,フランス王を追い出すことに成功しました。これ以降,イタリアを巡るフランス王国と神聖ローマ帝国の戦争
(
イタリア戦
争
)
【本試験H18】
が続くことになります。
イタリアが混乱する中,1529年9月にはオスマン帝国の〈スレイマン1世〉
【早・法H31】
がハプスブルク家の中心ウィーン
【本試験H25パリではない・世紀を問う】
を取り囲む危機
(
第一次ウィーン包
囲
)に見舞われます
【H29共通テスト試行 地図、H30共通テスト試行 移動経路を問う(「ウィーン包囲」(第一次という限定はなし)が西アジアからヨーロッパの方向か問う・オスマン帝国のスレイマン1世が行ったか問う)】
【早・法H31】
。
ここぞとばかりにフランス国王〈フランソワ1世〉はオスマン帝国皇帝
〈
スレイマン1
世
〉
(位1520~66)
【
Hセ10コンスタンティノープルを占領したのは〈メフメト2世〉】
【本試験H13ムハンマド=アリーとのひっかけ】
【H30共通テスト試行】
に接近し,〈セリム2世〉のとき(1569)には商人に値する財産の保障や通商特権
【本試験H31】
・領事裁判権など
(
カピチュレーション(居留特許条約
)
)
をフランス
【本試験H31ムスリム商人ではない】
に与えました
【本試験H17モノカルチャーではない,本試験H27,本試験H31】
【追H21 15世紀のオスマン帝国がフランスと同盟したか問う】
(注
)
。
カピチュレーションはのちに他のヨーロッパ諸国にも与えられるようになりました。のちにオスマン帝国の国力が弱体化すると、「不平等条約」と認識されるようになっていきます
【本試験H10のちの不平等条約のもととなったか問う】
。
〈スレイマン1世〉は、1538年に
は
プレヴェザの海
戦
【本試験H8勝利して「地中海をほぼ制覇」したか問う(「ほぼ制覇」とは曖昧な表現である)】
でスペインとヴェネツィアの連合艦隊を破るなど勢いがとまりません
【本試験H29】
。この海戦では、北アフリカの海上冒険者(コルサン)の力を取り込むことで作り上げた強大な海軍が威力を発揮しました。
神聖ローマ帝国の皇帝〈カール5世〉はオスマン帝国対策のために,国内のプロテスタント(新教徒)を一時承認しました。オスマン帝国の脅威がなくなると,この承認をとりさげたので,当然ながら新教徒たちは抗議。プロテスタント(抗議する人)の語源はこれから来ています。
(注) 古くからイスラーム諸国家の君主は,異教徒の支配する領域(法体系の違う領域)の人々と和平を結び,法の取扱や異教徒の居留や活動に関する事項を
アフドナーメ
という文書で取り決めていました。ヴェネツィアやジェノヴァなど異教徒の領域からイスラーム政権の領域を訪れた商人には,例えばマムルーク朝が領事裁判権などの特権が与えられました。オスマン帝国はこれを受け継ぐ形で,通商関係を結ぶキリスト教国家に対してスルターンが居留や活動の条件を定めた文書(アフドナーメ)を交わしました。オスマン帝国がバルカン半島に進出した14世紀後半以降,アドリア海沿岸のドゥブロヴニクやヴェネツィア,ポーランドに与えられるようになり,16世紀以降はヨーロッパ諸国にも対象範囲が広がり、
ヨーロッパ側から
「カピチュレーション」と呼ばれるようになります。
なお,かつては〈スレイマン1世〉のときにアフドナーメが与えられたとされていましたが,現在では疑問視されています(堀井優「16世紀前半のオスマン帝国とヴェネツィア:アフドナーメ分析を通して」『史学雑誌』103 巻1 号p. 34-62,1994)。
このいわゆる「1535年のカピチュレーション」は条約「案」であり、最初の確実な例は〈セリム2世〉(位1566~74)による1569年のアフドナーメです。この規定の大半は、以後も継続する友好関係の中でフランスに与えられる諸アフドナーメに継承されることとなります(歴史学研究会編『世界史史料2 南アジア・イスラーム世界・アフリカ』岩波書店、2009年、p.242)。
ハプスブルク家〈フェリペ2世〉の
広大な領土をまときれなかった〈カール5世〉は1556年に生前退位を決断しました。
広大な領土
【追H9 16世紀半ばの支配領域に,スペイン,オーストリア,ネーデルラント,デンマークが含まれるか問う。デンマークは含まれず】
【本試験H31「16世紀半ば」(おそらくカール5世退位時)と「18世紀半ば」のハプスブルク家(ブルボン家ではない)のヨーロッパにおける支配領域を比べる地図問題】
は,弟(神聖ローマ帝国)と子(ネーデルラントと南イタリア
【本試験H31地図から読み取る】
を含むスペイン王国
【本試験H31地図から読み取る】
)に相続されました。
子の名前は
〈
フェリペ2
世
〉(位1556~98)です
【本試験H26カルロス1世ではない】
【セA H30カトリックを弾圧していない】
。世界中に植民地を持ち
「
太陽の沈まない
国
」とうたわれたスペインの黄金時代の王です。
とはいえ,1557年には「
インターナショナルに活動していた〈カール5世〉と違い,彼はマドリード近郊の宮殿(エスコリアル宮殿)にとどまって,職務にあたりました。
〈
エ
ル=
グレ
コ
〉(1541~1614)は,ギリシア生まれで,イタリアに学んで当時流行していたマニエリスム(空間を歪ませたり,複雑な動きを取り入れることで不安な感情を表現した技法のこと)を取り入れて神秘的な宗教画を残しました。当時絶頂を迎えていた〈フェリペ2世〉も,彼に絵画を発注しています。また,この時期のヨーロッパでは,王侯貴族や教会をパトロンとして,豪華で躍動感のあふれ
る
バロック
式
の絵画が多く描かれました。例えば,宮廷画家のスペイン人画家
〈
ベラスケ
ス
〉(1599~1660)
【本試験H28ホルバインとのひっかけ】
,スペイン人
〈
ムリーリ
ョ
〉(1617~82)が有名です。
なお,スペイン
【共通一次 平1:イタリアではない】
の
セルバンテ
ス
(1547~1616)
【共通一次 平1】
にが
『
ド
ン=
キホー
テ
』
【共通一次 平1】
を著したのはこの頃。1630年には劇作家〈モリーナ〉が,
〈フェリペ2世〉はフランス
と
カト
ー=
カンブレジ条
約
(1559年)
【早・法H31】
を締結し
て
イタリア戦争を終わら
せ
,オスマン帝国の海軍をギリシア
の
レパントの海
戦
(1571)
【本試験H4破ったから大航海時代が始まったのではない】
【追H21オスマン帝国は勝利していない、H28オスマン帝国が敗北したか問う】
で破って西地中海の制海権を維持しました。すでに廃れた騎士道物語に憧れ冒険に出る主人公を通して社会を風刺した
『
ド
ン=
キホー
テ
』
(1605,15)
【共通一次 平1「没落騎士を諷刺した」か問う】
【本試験H15,本試験H21,本試験H24時期】
を書いたスペイン
【共通一次 平1:イタリアではない】
【本試験H15・H21】
の文学者
〈
セルバンテ
ス
〉
(1547~1616)
【共通一次 平1】
【本試験H15・H21・H24】
も,この戦いに参加し,左手を砲弾で失っています。同年にスペイン
【本試験H19】
は,フィリピン(王子時代のフェリペ2世が語源)
に
マニ
ラ
市
【セ試行】【本試験H5時期(16世紀以降)】
【本試験H13時期(16・17世紀),本試験H19時期,本試験H29フエとのひっかけ】
【追H27スペインのアジア貿易の拠点か問う、地図上の位置を問う】
【大阪H31論述指定語句】
を建設(1571)。を建設し,メキシコのアカプルコとを結ぶ太平洋航路の拠点を築きました。
なお〈フェリペ2世〉は1584年に,日本から派遣され
た
なお,〈グレゴリウス13世〉は従来のユリウス暦に4年に1度のうるう年を設け
た
太陽
暦
【本試験H23太陰太陽暦ではない】
の
グレゴリオ
暦
【本試験H23ユリウス暦ではない】
を公布した教皇としても有名です。
〈フェリペ2世〉は,断絶し
た
ポルトガル王位を兼
任
しました
【本試験H21カルロス1世ではない】
。さらにイングランドとフランスのカトリック勢力を支援します。例えば,イングランドの女王〈メアリー1世〉(位1553~58) と結婚し,イングランドにおけるカトリック復活をくわだてます。彼の頭の中には,スペイン人によるスペイン王国という"枠"はなく,ハプスブルク家によってカトリック世界を拡大させようという"理想"があったわけです。そもそも,この時代にはまだ「一つの国の中には,一つの国民がいて,支配者は国家と国民のために頑張るべきだ」という考えは,一般的ではなかったのです。
(注)ルシオ=デ=ソウザ,岡美穂子『大航海時代の日本人奴隷』中央公論新社,2017
スペインのアルマダはイングランドに大敗
イングランド王国では女王〈メアリー1世〉の死後に即位した
〈
エリザベス1
世
〉(位1558~1603)
【本試験H8統一令を出したか問う】
は
,
オランダ独立戦
争
(1568~1648)を支援してスペイン
【本試験H8オスマン帝国ではない】
と対決し,フェリペ2世はイングランドの支援をつぶすため
に
無敵艦
隊
(
アルマ
ダ=
インヴィンシブ
ル
)
【本試験H12】
【追H18時期,H29】
【明文H30記】
を派遣しましたが,壊滅しました(1588年
,
アルマダの海
戦
)
【セ試行】
【本試験H8,本試験H12イギリスの「無敵艦隊」がスペイン艦隊に大敗したわけではない】
【本試験H26送ったのはスウェーデンではない】
【追H29イングランドは敗北していない】
【上智法(法律)他H30年代】
。
この「アルマダ」という表現,最近でもアメリカの〈トランプ〉大統領が北朝鮮を威嚇する際,「We are sending an armada. Very powerful.」というように使っています。単にarmadaというときは「艦隊」という意味になります
(注)
。
(注)'Armada' Trump claimed was deployed to North Korea actually heading to Australia
https://www.independent.co.uk/news/world/americas/us-politics/donald-trump-north-korea-aircraft-carrier-sailing-opposite-direction-warning-a7689961.html
,インディペンデント,2017.4.19
イングランドの船乗り
〈
ドレイ
ク
〉(1545?~96)は,〈エリザベス1世〉から「海賊(バッカニア)」として公認され,世界を一周しながらスペイン船を襲いました。民間の船に,外国の船を襲わせることを私拿捕(しだほ)といいます。当時のイングランドは,海軍がまだあまり整備されていなかったためです。当時,太平洋航路を開拓していたスペイン船を主な標的になったわけです。
しかし、そんなイングランドにとって、うかうかしてはいられないニュースが飛び込んできます。
スペインからの独立を争っていたネーデルラント北部(現・オランダ)が、自前で東インドとの直接貿易を成功させたというのです。
「東インドと貿易するには、地中海やモスクワを経由すればいいじゃないか」と考えていたイングランド商人たちは、その考えを転換。
東インドとの貿易にはポルトガル王室でさえ単独で事業展開を続けることが難しいほど、莫大な資金がかかりますが、「地中海・モスクワ経由による貿易」を進めていた会社(レヴァント会社)のメンバーが、一回の航海ごとに資金を集め、航海が終わるごとに出資率に従い元本+利益を分けるという方式で出資を募る新会社を設立しました。確実な成功が保障されるように、宮廷の有力者に根回しし、〈エリザベス1世〉の特許状を獲得することにも成功
(注1)
。
こうして16
00
年(グレゴリウス暦では16
01
年)
(注2)
には,個人の資本を組み合わせた共同企業
(ジョイント=ストック=カンパニー。「株式会社」とは異なります
(
注
3
)
)
であ
る
イギリス東インド会
社
【セ試行 オランダに次いでの「東インド会社」の設立ではない】
(EIC;East India Company)設立されたのです
(注4)
。第一回の船団(1601~1603年)は無事成功し、1604年には第二回の船団も送られました(最初の10年の利益率は155パーセント
(注5)
)。
(注1) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.81~82。
(注2) 当時のイングランドではユリウス暦が使われていたため、この日(
1600年
12月31日)はグレゴリウス暦に変換すると
1601年
1月10日となります。羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.83。
(注3) 鈴木芳徳「株式会社とジョイント・ストック・カンパニー」神奈川大学『商経論叢』,38(1),2002,p.49~p.70。世界初の株式会社は,1602年設立
の
オランダ東インド会
社
(VOC)です。イギリス東インド会社は「王室が主導した
国営企業
」
ではない
し、領土獲得が目的でもなかった点にも注意しておきましょう。
(注4) ここでいう「東インド」は17世紀初めころの北西ヨーロッパ人の用法では「アフリカ南端の喜望峰からマゼラン海峡に至る間に位置する海岸沿いの諸地域すべて」という認識のもと使われた用語です。ほとんど「アジア」と重なりますが、地中海沿岸のトルコやシリアの領域や中央アジアはは「東インド」とは認識されませんでした。(羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.27)。
(注5) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.83。
国内でも商工業の発達のため毛織物生産が振興され
,
牧羊地の確
保
【本試験H17木綿生産のためではない】
のために農地を牧草地
【本試験H9(※)】
に変え
る
第一次囲い込
み
(エンクロージャー)
【本試験H2 18世紀末には農民の所有地の多くが大地主の手中に集中されていたか問う,本試験H9】
【本試験H17時期・木綿生産のためではない,本試験H21時期】
が行われました。土地を失った農民の窮状は,
〈
トマ
ス=
モ
ア
〉(1478~1535)の
『
ユートピ
ア
』にも「羊が人間を食う(牧羊地の確保によって,農民が飢えで苦しむ)」のように表現されています。
「羊は非常におとなしく,また非常に小食だということになっておりますが,今や(聞くところによると)大食いで乱暴になり始め,人間さえも食らい,畑,住居,町を荒廃させ,破壊するほどです」
【本試験H9史料として抜粋】
(※)①地主が牧羊のため,農民から土地を取り上げ,生け垣などで囲い込んだ。②地主が牧用地を生け垣などで囲い込んで農地に転換し,小麦を栽培した。③地主が高額の地代を課そうとしたために,農民は牧羊地を生け垣などで囲い込んで抵抗した。④地主が食料生産を増大させるために,農地を生け垣などで囲い込み,資本主義的大農経営を行った。 ①~④から正しい内容を選ぶ問題【本試験H9】
また,〈エリザベス〉に重用された廷臣〈ウォルター=ローリー〉(1552?~1618)が,1584~87年にかけて北米を探検し,ここをエリザベスにちなんで
「
ヴァージニ
ア
」
【東京H7[3]】
と名付けたのもこの時代で
す
(注
)
。
〈エリザベス1世〉のもとでは文芸も栄え,〈エドモンド=スペンサー〉(1552?~99)が『神仙女王』の中で女王を主人公にしました。また
〈
シェイクスピ
ア
〉(1564~1616)
【追H9〈ミルトン〉とのひっかけ】
は
四大悲
劇
や『ハムレット』
【追H9〈ミルトン〉の作品ではない】
(To be, or not to be.のセリフで有名)『リア王』『オセロー』『マクベス』や,喜劇『夏の夜の夢』
『
ヴェニ
ス
(ヴェネツィア
)
の商
人
』(ユダヤ人商人が悪役として描かれました)など多くの劇を生み出しました。
アルマダの海戦の敗北後,スペインはただちに衰えたわけではありません。ギリシアのクレタ島出身でスペインで活動した
〈
エ
ル=
グレ
コ
〉(1541~1614)や,「女官たち(ラス=メニーナス)」で知られる宮廷画家
〈
ベラスケ
ス
〉(1599~1660)の絵画に代表されるバロック文化が栄えます。
17世紀に入るとヨーロッパ全体の経済停滞の影響もあり,スペイン経済は下降線をたどり,新興国イングランド,オランダ,フランスの躍進のあおりを喰らいます。銀を輸入してりゃ永遠にもうかると思われ
た
にもかかわらず,〈フェリペ3世〉(位1598~1621)のときには,キリスト教徒に改宗し産業に従事していイスラーム教徒(モリスコ)数十万人をモロッコに追放。有能な人材はどんどん海外に流出していき,スペインの産業の衰退に拍車をかけていきます。
〈フェリペ4世〉(位1621~65)のときには三十年戦争に敗北し,1640~52年に
は
カタルーニ
ャ
の反乱も起きています。フランスと続いていた戦争もスペインに不利
な
ピレネー条
約
(1659)締結に終わっています。この条約では,〈フェリペ4世〉の娘が〈ルイ14世〉に嫁がされ,のちにスペインのハプスブルク家が断絶したときにフランスのブルボン家がスペインを"乗っ取る"口実にされていきます(結局乗っ取りは失敗しますが
(
スペイン継承戦
争
,1701~1714)
【追H29ホーエンツォレルン家は無関係】
)。
(注) 紀平英作編『新版 世界各国史24 アメリカ史』山川出版社,1999年,p.31。
・
150
0
年
~
165
0
年のヨーロッパ 東ヨーロッパ
現②
エストニア
エストニ
ア
にはドイツ騎士団の分派「リヴォニア
(注
1)
騎士団」の支配の下,騎士団や司教による統治がなされています。
しかし,今度は東方からロシア国家(モスクワ大公国)が拡大してきます。
1550年代に〈イヴァン4世〉率い
る
モスクワ大公
国
が勢力を西に進めると,リヴォニア地方はスウェーデンやポーランド=リトアニアの保護下に入ることを模索します。
こうして,1558~1583年,ロシアの進出に対抗するバルト海周辺諸国
(リヴォニア騎士団,ポーランド=リトアニア,デンマーク=ノルウェー,スウェーデン)
との間
に
リヴォニア戦
争
が勃発しました。
スウェーデン王
国
の〈グスタヴ1世〉(グスタヴ=ヴァーサ,位1523~60)はロシアとの対決を恐れバルト海東岸への進出には消極的でしたが,彼の後を継いだ〈エーリック14世〉(位1560~68)は1561年
に
エストニ
ア
を併合します。
これ以降をエストニア公国(スウェーデン=エストニア,1561~1721)といいます。
一方
,
ポーラン
ド=
リトアニ
ア
はドイツ騎士団であっ
た
リヴォニ
ア
(
エストニア南
部
か
ら
ラトビア北
部
にかけての地方)を保護下に収め,1582年にモスクワ大公国との間に結ばれた和平により承認を得ます。
その後も,スウェーデン,ポーランド=リトアニア,モスクワ大公国などの間にはバルト海沿岸をめぐる対立が続きますが,1595年にスウェーデンがエストニア北部の支配を獲得し,ラトビア北部・中部もスウェーデン領となるなど,スウェーデンが優勢となっていきます。スウェーデンの支配下では
,
聖書がエストニア語・ラトビア語
訳
されたり,学術機関
(注
2)
が設立されるなど,文芸が盛んになりました。
そんな中でも,1561年に崩壊したリヴォニア騎士団の騎士としてエストニアの地に入植していたドイツ人は
,
バル
ト=
ドイツ
人
として領主階級にとどまり続け,後々にまで影響を残し続けます。
(注1) リヴォニアとは,現在のエストニアからラトビアにかけての地域の歴史的な名前。
(注2) 1632年に〈グスタフ=アドルフ〉によりつくられたアカデミア=グスタヴィアナ,のちのエストニアのタルトゥ大学。
・
150
0
年
~
165
0
年のヨーロッパ 東ヨーロッパ
現③
ラトビア
北はスウェーデン,南はポーランドの支配下に
ラトビアは以下のような変遷をたどります。
・北部
...
リヴォニ
ア
(エストニアも含む地域)は初めリヴォニア騎士団領でしたが,1561年にスウェーデンの進出を受けて崩壊し,スウェーデンの支配下に入ります。
リヴォニア騎士団の残党はリヴォニ
ア
公
国
(1561~1621)として
,
リトアニア大公
国
に加盟します。
・南部
...
クールラン
ト
はポーランドの勢力が強まります。
ラトビア南部,クールラントの一部のドイツ系住民(バルト=ドイツ人)は,東方からのロシアの進出を防ぐため,ポーランド王冠から封土を受ける形
で
クールラント公
国
(1562~1795)を建国し,"緩衝地帯"としています。この公爵となったのは,リヴォニア騎士団の最後の総長〈ケトラー〉(1517~1587)です。
その後,ポーランドとリトアニアは1569年
に
ポーラン
ド=
リトアニア共和
国
として合同(1569~1795)し,リヴォニア公国もその支配下に入ることとなりますが,1621年にスウェーデン王
〈
グスタ
フ2世
アドルフ〉(位1611~1632)がリヴォニアを征服し,リヴォニア公国は滅びました。
・
150
0
年
~
165
0
年のヨーロッパ 東ヨーロッパ
現④
リトアニア
リトアニアはポーランドに併合される
リトアニア大公国はポーランド王国との政治的な結びつきを強めていましたが,1558~1583年
の
リヴォニア戦
争
中に両者は合同し
,
リトアニ
ア=
ポーランド共和
国
という政治組織が誕生しました。実質的にはポーランド王国〈ジグムント2世アウグスト〉(位1548~1572)によるリトアニアの併合です。
リトアニアがロシアの進出の危機にさらされたことを背景とし,これ
を
ルブリン合
同
(1569)といいます。
リトアニアはこうして当時の東ヨーロッパ随一の強国となったのですが,リトアニアの支配階層の間には文化や言語の面でポーランド化が進んでいきました。
・
150
0
年
~
165
0
年のヨーロッパ 東ヨーロッパ
現⑤
ベラルーシ
1569年
に
リトアニ
ア=
ポーランド共和
国
という政治組織が誕生すると,現在
の
ウクライ
ナ
の領域を支配する貴族層にはポーランド語やローマ=カトリックが広まっていきました。
しかし,被支配層の農民層の多くは,ルーシ語を母語とし正教会を信仰しています。
・
150
0
年
~
165
0
年のヨーロッパ 東ヨーロッパ
現⑥
ウクライナ
ポーランド支配のウクライナに,コサック国家が建設
1569年
に
リトアニ
ア=
ポーランド共和
国
という政治組織が誕生すると,現在
の
ベラルー
シ
の領域を支配する貴族層にはポーランド語やローマ=カトリックが広まっていきました。
しかし,被支配層の農民層の多くは,ルーシ語を母語とし正教会を信仰しています。
ポーランド=ウクライナの支配領域では,ウクライナ
=
コサッ
ク
の指導者(ヘーチマン)である〈フメリニツキー〉(1595~1657)が1648~1657年に反乱を起こし,ポーランド=リトアニアに勝利しました。
これにより,ポーランド=リトアニアは痛手を負うこととなり,モスクワ大公国はウクライナ=コサックにヘーチマンを君主とす
る
ヘーチマン国
家
を建設させ,ポーランド=リトアニアとの緩衝地帯としました。コサックたち,うまくロシアに利用されている状況です。
・
150
0
年
~
165
0
年のヨーロッパ 東ヨーロッパ
現⑦
モルドバ
モルダヴィア公国はオスマン帝国の支配下にある
現在のルーマニア北東部からモルドバ,ウクライナにかけての地域には,ルーマニア人
の
モルダヴィア公
国
がありました。モルダヴィアをルーマニア語で「モルドヴァ」というのです。
16世紀初めにオスマン帝国の支配下に入り,自治を認められる形で服属しました。支配しているのは大土地所有者のルーマニア人貴族です。
○150
0
年
~
165
0
年のヨーロッパ 中央ヨーロッパ
中央ヨーロッ
パ
...①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ(旧・西ドイツ,東ドイツ)
西
ヨーロッパ〔西欧〕のイングランド(イギリス),フランス,オランダなどがヨーロッパの外に植民地を持っていたのに対し,それをもたな
い
東
ヨーロッパ〔東欧〕諸国は,限られた領土の中で激しい覇権争いを繰り広げます。
・
150
0
年
~
165
0
年のヨーロッパ 中央ヨーロッパ
現①
ポーランド
ポーラン
ド=
リトアニアはバルト海めぐり諸国と対立
ポーランド=リトアニアは,この時期に台頭したモスクワ大公国(ロシア国家)と対決。バルト海への進出をブロックしようとします。
ヤギェウ
ォ
(
ヤゲロ
ー
)
朝
【東京H6[3]】
【本試験H30】
の
リトアニ
ア=
ポーランド連合王
国
は,バルト海と黒海の広範囲を支配し,最盛期を迎えていました。しかし,オスマン帝国が1526年
に
ハンガリ
ー
を獲得し
,
モスクワ大公
国
からの圧迫も強まると,交易はしだいに衰え,農業中心の経済になっていきました。
貴族たちは農民に対する直接支配を強め,大航海時代まっしぐらの西ヨーロッパへの穀物を大土地で大量生産・大量輸出するビジネスに精を出すようになりました。この時期に自由農民は自由を奪われ農奴となり,領主による人格的な支配を受け
る
農場領主
制
(注
1)
が発達していきました。
ポーランドで
は
亜麻
布
(あまぬの,リネン)の生産も盛んで,バルト海沿岸の木材,鉄とともに帆船の帆の材料としてイギリスをはじめとする西欧に輸出されました(奴隷の衣服としても利用されています)
(注
2)
。
土地貴族
(
シュラフ
タ
)たちはポーランド文化への憧れから,リトアニア出身であってもポーランド文化の影響を強く受けるようになります。しかも,ウクライナも支配下におさめているため
,
リトアニ
ア
か
ら
ウクライ
ナ
まで,ポーランド語を話
す
ポーランド
人
支配層が,各地でリトアニア人,ベラルーシ人,ウクライナ人の農民を支配する構図が生まれました。これがのちのち,この地域にややこしい問題を引き起こすきっかけとなっていくのです。
土地貴族(シュラフタ)の議会であるセイムの力が強まっていくと,しだいにヤゲウォ朝の国王の権力に制限がかけられるようになっていき,1505年には「議会(セイム)で全会一致とならないかぎりは,いかなる法案も成立しない」という決まりが定められました。これじゃあ国王は,ろくに何も決められません。
(注1)19世紀の経済学者〈エンゲルス〉(1820~95)は,これを
「
再
版
農奴制」(さいはんのうどせい)と呼びました。
(注2)玉木俊明『北方ヨーロッパの商業と経済―1550~1815年』知泉書館,2008,p.233。
結局,最後の国王〈ジグムント2世〉(位1548~72)が後継者を残さず
に
ヤゲウ
ォ
(
ヤゲロ
ー
)朝
【東京H6[3]】
【本試験H30】
が滅びると
【本試験H13ポーランド分割により滅んだわけではない】
,1569年にリトアニアとポーランドを同君連合とすることが定められ(ルブリン合同)
(注
)
,1573年から
は
選挙王
政
【本試験H29東京】【本試験H22・H30】
が始まり,大土地を領有する貴族(シュラフタ)がセイム(議会)での選挙によって国王を決めるという体制(実質的に貴族共和政)となりました
【本試験H29東京】
。初代の王になったのは,なんとのちにヴァロワ朝最後のフランス王にも就任する〈アンリ3世〉(ポーランド王在任1573~1575,フランス王在任1574~1589)でした。フランスはポーランドにフランス人国王を建てることにより,ドイツの東西からの"挟み撃ち"を狙っていたのです。
また,"ポーランド貴族"であることはステータスの高いこととされ,リトアニア,ベラルーシ,ウクライナの貴族は,西スラヴ系のポーランド語を話し,ローマ=カトリックを信仰し,ポーランド文化を受け入れるようになっていきました。しかし,支配されていた農民たちの多くは,ウクライナ語などの東スラヴ系の言語を話し,東方正教会を信仰し続けていました。
(注)ロシア国家の中心地であったキエフは,このときにポーランド国家の一部となり,17世紀中頃までロシア国家から分離しました。キエフを首都とするウクライナとロシアとの間に対立があるのは,これが一因です。
ポーランドからは,しかし,当時のローマ教会は,天動説が正しい考えであるとしていたため,教会の高い役職をつとめていた彼は,異端審問にかけられることを恐れ
『
天球回転
論
』は死後に出版されたのです
【本試験H12(1609年頃の西ヨーロッパについて)「ローマ教皇庁はプトレマイオス以来の地動説を認めようとしなかったが,地動説は理論として発展しつつあった」の正誤判定。プトレマイオスは天動説を唱えたので,誤り】
。
1648年には支配してい
た
ウクライ
ナ
で
コサッ
ク
【慶文H30】
が反乱を起こし,自治権を与えました。これをコサックによる
「
ヘーチマン国
家
」(1649~1786)といいます。これにロシアが接近し,ポーランド=リトアニアは事実上黒海沿岸のウクライナを喪失していくこととなります。
外国勢力の干渉もあり,弱い王権のもとで中央集権化もままならず,18世紀後半に3度のポーランド分割を受け,国土が消滅することになります。
・
150
0
年
~
165
0
年のヨーロッパ 中央ヨーロッパ
現②
チェコ
,③
スロヴァキア
チェック人
の
ボヘミ
ア
(
ベーメ
ン
)
王
国
には,ハプスブルク家の〈カール5世〉の弟で,のち
に
オーストリア系のハプスブルク
家
を継ぐことになる〈フェルディナント〉(のちの神聖ローマ皇帝〈フェルディナント1世〉)が就きました。
〈フェルディナント〉のもと
で
ベーメ
ン
にカトリックの信仰が強制されたため,1618年に新教徒によるハプスブルク家に対する反乱が起きました。神聖ローマ帝国が鎮圧しようとしましたが,戦闘は各地に飛び火
し
三十年戦
争
と呼ばれる大規模な戦乱となりました(1618~1648)。
・
150
0
年
~
165
0
年のヨーロッパ 中央ヨーロッパ
現②
チェコ
,③
スロヴァキア
チェ
コ
にはスラヴ語派のチェック人
の
ボヘミア王
国
がありましたが,国外からの支配を受けやすく,しばしばハプスブルク家とか,ポーランドのヤゲウォ家,ハンガリーの王家による支配を受けます。
しかし,ボヘミアの領主階級には「ボヘミア人」としての意識が強くあるわけではなく,自分の領地をきっちり保障してくれる王様が「ボヘミア国王」であれば問題ないわけです。
そんな中,1526年にハンガリー王国の大部分がオスマン帝国に占領されると,安全保障のためにボヘミアの地主階級で構成される議会は,「ハプスブルク家の
〈
フェルディナンド1
世
〉にボヘミア王になってもらおう」と選挙で決定。〈フェルディナンド1世〉は,のちに神聖ローマ皇帝(位1556~1564)に即位することになる人物です。
こうしてボヘミア王を神聖ローマ皇帝が兼ねるようになっていき
,
プラ
ハ
にはハプスブルク家の政治的な建造物が建てられるようになり,たいへんに発展していきます。
〈
ルドルフ2
世
〉(神聖ローマ皇帝位1576~1612,ボヘミア王位1575~1612)に至っては,プラハ城を活動の拠点とし,芸術家を呼び寄せて文芸を盛んにしました。
しかし,蜜月もつかの間。
当時支持者を増やしていた宗教改革派の〈フス〉派が ,ボヘミアでも支持を増やしていました。そんな中,まじめなカトリック教徒の神聖ローマ皇帝〈フェルディナント2世〉(位1619~1637,ハンガリー王位1619~1637)が,ボヘミア王国で起きた〈フス〉派への弾圧に対するボヘミア貴族らの抵抗
(注
)
【本試験H19】
を受け,ボヘミア王国に出兵。ボヘミア
【本試験H18】
にローマ=カトリックの信仰を強制します。
ボヘミア貴族は「〈フェルディナント2世〉がボヘミア王に即位するのは認めない。新教徒
の
プファルツ選帝
侯
〈フリードリヒ5世〉をボヘミア国王として選挙する!」と主張。
これを鎮圧するためにハプスブルク家はボヘミア王国に派兵し,1620年にビーラー=ホラ(白山)の戦いでボヘミアの反皇帝勢力を鎮圧します。しかし,その後もボヘミア国内では抵抗が続き,他地域でも新教と旧教の間の争乱が次々に起こり泥沼化。
ボヘミアの神聖ローマ皇帝に対する抵抗運動が
,
三十年戦
争
の発端となったわけです
【H29共通テスト試行 時期(1566~1661の期間かどうかを問う)】
。
(注)国王の使者5人が,プラハ市庁舎の窓(地上から20m!)から放り投げられ,3人が命をとりとめた事件。
「
プラハ窓外投
擲
(そうがいとうてき
)
事
件
」といいます。
中央ユーラシアの遊牧民の軍事力は火器の普及により劣勢に向かう。各地の広域国家は集権化を目指し海上交易に従事する。
なお、リオ=デ=ラ=プラタとパラグアイのどちらも、ペルー副王領の管轄下にありました。
(注1) イエズス会
は
絶対主義や啓蒙思想を批
判
したため,ヨーロッパ各地の王家により敵視されるようになり,この流れに抗することができなくなったローマ教皇〈クレメンス14世〉は1773年に「教会の平和のために,親しい者でさえ犠牲にしなくてはならない」との書簡をもってイエズス会の解散を命じます。(上智大学「絶対主義に対抗 イエズス会の解散」,https://www.sophia.ac.jp/jpn/aboutsophia/sophia_spirit/sophia-idea/spirit-of-sophia/spirit7.html)
(注2) ラプラタ川河口付近を「リオ=デ=ラプラタ総督領」として分割されることになりました(参考書籍に「ブエノスアイレス総督領」とあるのは誤り(https://lacsweb.files.wordpress.com/2013/04/18koike.pdf))。当時のパラグアイはイグアス川の上流方向へ、大西洋への出口を持っていました(田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、pp.28-29)。
(注3) 田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、p.29。
・
165
0
年
~
176
0
年のアメリカ 南アメリカ
現③
ウルグアイ
,④
アルゼンチン
グアラニー人とイエズス会が,スペイン勢力と争う
ラプラタ川の河口を中心とす
る
アルゼンチ
ン
には,16世紀初め以降,スペイン人がブエノスアイレスを中心に植民を進めていきました。しかし,ブラジル方面から進出してきたポルトガルが,ラプラタ川を挟んだ対岸に都市を建設。これを拠点
に
バン
ダ=
オリエンタ
ル
(現在のウルグアイとほぼ同じ領域)が成立しましたが,スペインとポルトガル両国により,帰属をめぐる衝突が続きました。
18世紀後半にスペイン国王によりイエズス会の弾圧政策がとられると,アルゼンチンのイエズス会(一種の"独立王国"を築いていました)は先住民のグアラニー人と協力して,スペイン当局と戦いました。これ
を
グァラニー戦
争
といいます。
パラグアイで
は
イエズス
会
の
グアラニー
人
に対する布教がすすみ,ヨーロッパ諸国でイエズス会に対する弾圧が強まると
(
注
1
)
,イエズス会とグアラニー人らは協力してポルトガルやスペインと戦いました。
17~18世紀にイエズス会の伝道の拠点として築かれた都市が各地に残されています。(◆世界文化遺産「ラ・サンティシマ・トリニダー・デ・パラナとヘスース・デ・タバランゲ
の
イエズス会伝道所
群
」,1993)。
当時のアルゼンチンは「
リオ=デ=ラ=プラタ総督領
」が1617年に2分割されたうちの、ラプラタ川河口付近の「
リオ=デ=ラプラタ総督領
」にあたります
(注2)
。この領土は18世紀初頭のユトレヒト条約(スペイン継承戦争の講和条約)にも反映され、ポルトガル領のブラジルが西部に拡張されました。
さらに1750年にはスペイン・ポルトガルの間にマドリード条約が締結され、スペインから東部海岸地帯が割譲されます。このときにブエノスアイレスは東部海岸地帯の大部分を失います
(注3)
。
なお、リオ=デ=ラ=プラタとパラグアイのどちらも、ペルー副王領の管轄下にありました。
(注1) イエズス会
は
絶対主義や啓蒙思想を批
判
したため,ヨーロッパ各地の王家により敵視されるようになり,この流れに抗することができなくなったローマ教皇〈クレメンス14世〉は1773年に「教会の平和のために,親しい者でさえ犠牲にしなくてはならない」との書簡をもってイエズス会の解散を命じます。(上智大学「絶対主義に対抗 イエズス会の解散」,https://www.sophia.ac.jp/jpn/aboutsophia/sophia_spirit/sophia-idea/spirit-of-sophia/spirit7.html)
(注2) 田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、pp.28-29。
(注3) 田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、p.29。
・
165
0
年
~
176
0
年のアメリカ 南アメリカ
現⑤
チリ
チリはペルー副王領となっている
現在のチリの領域は、当時スペインによる植民地支配下にあります
(
ペルー副王
領
)。
一方、南部で
は
マプチェ
人
〔アウラカノ〕の首長国が独立を保っており,スペインは1536年から断続的にアウラコ戦争(1536~1883)を戦っています。
・
165
0
年
~
176
0
年のアメリカ 南アメリカ
現⑥
ボリビア
現在のボリビアはスペインによる植民地支配下にあります
(
ペルー副王
領
)。当時はアルト=ペルー(高地ペルー)と呼ばれていました。
ポトシ銀
山
の採掘も続いています。
・
165
0
年
~
176
0
年のアメリカ 南アメリカ
現⑦
ペルー
現在のペルーはスペインによる植民地支配下にあります
(
ペルー副王
領
)。
18世紀に入るとインカ王の末裔(まつえい)を名乗る指導者による反乱が多発し,スペインの植民地支配を揺るがすようになります。
インカ王の末裔〈インカ=ガルシラーソ=デ=ラ=ベーガ〉(1539~1616)の『インカ皇統記』によってかつてのインカ王の支配が,強大な権力と権威を持つ「インカ帝国」としてイメージされるようになり,スペイン支配を排除しようとする人々の支持を得るようになっていきます。
1717年には,南アメリカの北部(パナマ,コロンビア,ベネズエラなど)が
,
ヌエ
バ=
グラナダ副王
領
としてペルー副王領から分離されました。
・
165
0
年
~
176
0
年のアメリカ 南アメリカ
現⑧
エクアドル
,⑨
コロンビア
,⑩
ベネズエラ
1717年に南アメリカの北部(パナマ,コロンビア,ベネズエラなど)は
,
ヌエ
バ=
グラナダ副王
領
としてペルー副王領から分離されました。
なお、現・コロンビアのトゥンハ市の教会には、17世紀後半につくられた伊万里焼(いまりやき)が装飾としてはめこまれていますが、これには同時代の東アジア情勢が関わっています
【大阪H31】
。
当時の清は台湾の〈鄭成功〉と対立し海禁策をとっていましたが、
引き続き東シナ海・南シナ海の中継貿易の中心を担った台湾は、東南アジアに進出していたスペインに日本の文物を伝えていたのです
【大阪H31「スペインのセビーリャにあるインディアス総文書館の税関記録」において、1660年以降、台湾からマニラへ寄港した商船の積載品の一部として日本製磁器に関する情報があったことを題材とする】
。スペインはフィリピンのマニラ
【大阪H31[3]論述指定語句】
から太平洋を横断し、中南米に日本製品を輸送していました。
・
165
0
年
~
176
0
年のアメリカ 南アメリカ
現⑪
ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ
ヨーロッパでは,北アメリカのオランダ植民地ニューアムステルダムを占領し
,
第二次英蘭戦
争
(1665~1667)が始まりました。
1665年にはロンドンでペストが大流行し,1666年には約10万人が死亡したとされるロンドン大火が起きるなど社会不安が続いたため,和平交渉が始まりました。そんな中,フランスの〈ルイ14世〉が南ネーデルラントに侵攻
し
ネーデルラント継承戦
争
(1667~68,アーヘンの和約で終結)を起こしたため,オランダはイングランドと同盟を組むこととし,1667年のブレダの和約で終結しました。このときオランダはニューアムステルダム(現在のニューヨーク
【東京H22[1]指定語句】
)を含む北アメリカ北東岸
の
ニューネーデルラン
ト
(現在のニューヨーク州)をイングランドに割譲しました。
また,このときにオランダが占領した南アメリカ大陸北部のギアナ地方は
,
オランダ領ギア
ナ
(現在のスリナム)になりました。
オランダ人によるオセアニア探検がすすむ
1642年の
〈
タスマ
ン
〉(1603?~1659?)の航海記が1694年にロンドンで出版され,その後も太平洋探検の旅行記が多数書かれ,ヨーロッパの人々の想像力をかきたてました。なかでも〈ダンピア〉(1652~1715)の『新世界周航記』はベストセラーとなります。
1722年の復活祭(イースター)の日に,オランダ人の提督〈ロッヘフェーン〉は
,
イースター
島
のモアイをヨーロッパ人として初めて確認・報告しました
(注
)
。3000人ほどの島民は枯渇した資源をめぐり絶え間ない戦闘に明け暮れていたといいます。ポリネシア人はラパ=ニュイ島と呼んでいます。
その後,ソサエティ諸島やサモア諸島などを回って,ジャワ島に到達しています。オランダはジャワ島にすで
に
バタヴィ
ア
市を建設し拠点としていました。
(注)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.7
○165
0
年
~
176
0
年のオセアニア ポリネシア
ポリネシ
ア
...①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島,②フランス領ポリネシア,③クック諸島,④ニウエ,⑤ニュージーランド,⑥トンガ,⑦アメリカ領サモア,サモア,⑧ニュージーランド領トケラウ,⑨ツバル,⑩アメリカ合衆国のハワイ
・
165
0
年
~
176
0
年のオセアニア ポリネシア
現①
チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島
イースター島がオランダに「発見」される
1722年の復活祭
〔
イースタ
ー
〕の夜に,オランダ海軍提督〈ロッヘフェーン〉がラパ=ヌイ島を発見し,これ
を
イースター
島
と命名します。
・
165
0
年
~
176
0
年のオセアニア ポリネシア
現②
フランス領ポリネシア
タヒチには複数の首長国があり,1750年には抗争が起きていました。
ヨーロッパ人はまだ島に到達していません。
・
165
0
年
~
176
0
年のオセアニア ポリネシア
現③
クック諸島
この時期のクック諸島について詳しいことはわかっていません。
・
165
0
年
~
176
0
年のオセアニア ポリネシア
現④
ニウエ
この時期のニウエについて詳しいことはわかっていませんが
,
トン
ガ
の王権の勢力が及んでいました。
・
165
0
年
~
176
0
年のオセアニア ポリネシア
現⑤
ニュージーランド
ニュージーランドで
は
マオ
リ
が居住しています。まだヨーロッパ人よる植民は始まっていません。
・
165
0
年
~
176
0
年のオセアニア ポリネシア
現⑥
トンガ
トンガでは12世紀以降王権が強化され,ニウエ,サモアやソロモン諸島,ニューカレドニアにかけての広範囲に勢力を及ぼします。17世紀には内戦が起こっています。
・
165
0
年
~
176
0
年のオセアニア ポリネシア
現⑦
アメリカ領サモア,サモア
この時期のアメリカ領サモア,サモアについて詳しいことはわかっていませんが
,
トン
ガ
の王権の勢力が及んでいました。
ヨーロッパ人はまだ島に到達していません
。
1722年オランダ海軍提督〈ロッヘフェーン〉が沖合からサモアを「確認」しています。
・
165
0
年
~
176
0
年のオセアニア ポリネシア
現⑧
ニュージーランド領トケラウ
この時期のトケラウについて詳しいことはわかっていません。ヨーロッパ人はまだ島に到達していません
。
・
165
0
年
~
176
0
年のオセアニア ポリネシア
現⑨
ツバル
この時期のツバルについて詳しいことはわかっていません。ヨーロッパ人はまだ島に到達していません
。
・
165
0
年
~
176
0
年のオセアニア ポリネシア
現⑩
アメリカ合衆国のハワイ
ハワイには複数の首長国がありました。ヨーロッパ人はまだ島に到達していません。
○165
0
年
~
176
0
年のオセアニア オーストラリア
この時期のオーストラリアについては文字史料が乏しく,詳細はわかりません。
アボリジナ
ル
〔アボリジニ〕が,狩猟採集生活を営んでいます。
○165
0
年
~
176
0
年のオセアニア メラネシア
メラネシ
ア
...①フィジー,②フランス領のニューカレドニア,③バヌアツ,④ソロモン諸島,⑤パプアニューギニア
・
165
0
年
~
176
0
年のオセアニア メラネシア
現①
フィジー
ヨーロッパ人の植民は始まっていません。
・
165
0
年
~
176
0
年のオセアニア メラネシア
現②
フランス領のニューカレドニア
ニューカレドニアにま
で
トン
ガ
の王権が及んでいました。ヨーロッパ人の植民は始まっていません。
・
165
0
年
~
176
0
年のオセアニア メラネシア
現③
バヌアツ
バヌアツにはヨーロッパ人の植民は始まっていません。
・
165
0
年
~
176
0
年のオセアニア メラネシア
現④
ソロモン諸島
ソロモン諸島の一部にま
で
トン
ガ
の王権が及んでいました。ヨーロッパ人の植民は始まっていません。
・
165
0
年
~
176
0
年のオセアニア メラネシア
現⑤
パプアニューギニア
ヨーロッパ人の植民は始まっていません。
○165
0
年
~
176
0
年のオセアニア ミクロネシア
ミクロネシ
ア
...①マーシャル諸島,②キリバス,③ナウル,④ミクロネシア連邦,⑤パラオ,⑥アメリカ合衆国領の北マリアナ諸島・グアム
・
165
0
年
~
176
0
年のオセアニア ミクロネシア
現①
マーシャル諸島
スペイン領となりますが,植民は始まっていません,来航が増えていきました。
・
165
0
年
~
176
0
年のオセアニア ミクロネシア
現②
キリバス
ヨーロッパ人の植民は始まっていません,来航が増えていきました。
・
165
0
年
~
176
0
年のオセアニア ミクロネシア
現③
ナウル
ヨーロッパ人の植民は始まっていませんが,来航が増えていきました。
・
165
0
年
~
176
0
年のオセアニア ミクロネシア
現④
ミクロネシア連邦
ヨーロッパ人の植民は始まっていませんが,来航が増えていきました。
コスラエ島には王国が栄えており,王宮や王墓,住居の跡(レラ遺跡)が残されています。
・
165
0
年
~
176
0
年のオセアニア ミクロネシア
現⑤
パラオ
ヨーロッパ人の植民は始まっていません,来航が増えていきました。
・
165
0
年
~
176
0
年のオセアニア ミクロネシア
現⑥
アメリカ合衆国の北マリアナ諸島・グアム
スペインが太平洋横断交易をスタートさせてからというもの,北マリアナ諸島やグアムの住民
(
チャモロ
人
)はスペインとの交易もおこなっていました。
1668年以降,スペイン
の
イエズス
会
が訪れるようになり,伝統的な信仰を守るためチャモロ人はスペイン勢力と戦争を起こします。この際,チャモロ人の大多数が犠牲となりました。
中国・ロシアによる中央ユーラシア分割がはじまる
中央アジ
ア
...①キルギス,②タジキスタン,③ウズベキスタン,④トルクメニスタン,⑤カザフスタン,⑥中華人民共和国の新疆ウイグル自治区+⑦チベット,⑧モンゴル
○165
0
年
~
176
0
年の中央ユーラシア 東部・中部
◆
女真の清が中国・満洲・台湾を直轄地として領域拡大するも,西方からロシアの進出が本格化
拡大する女真の清と,東方進出するロシアが衝突
ツングース諸語系の女真(女直,ジュルチン)が1616年に建国した金
(
後
金
,アイシン)は,モンゴル人や漢人を服属させて1636年に
は
〈康煕帝〉のときに南部の漢人勢力をほろぼし,台湾の海賊勢力を排除し,中国本土・台湾・満洲を直轄地として確立させました。その後〈雍正帝〉・〈乾隆帝〉にかけて外征をくりかえし,外モンゴル(モンゴル高原)・チベット・タリム盆地・ジュンガル盆地方面まで領域を拡大させていきました。
一方,西方か
ら
ロシア帝
国
が東にすすんでいき,あっという間にベーリング海にまで到達。1689年には中国との間
に
ネルチンスク条
約
,1727年に
は
キャフタ条
約
を締結し,取り急ぎ国境を取り決めて,指定された地点における自由な交易を認め
る
最後の遊牧帝国ジュンガルが清に滅ぼされる
天山山脈南部
の
タリム盆
地
では
,
モグーリスター
ン=
ハーン
国
が衰えを見せていました。
1637年に,チベットの〈ダライ=ラマ5世〉と提携し
,
オイラ
ト
を統一した〈バートル=ホンタイジ〉は,ジュンガル盆地(アルタイ山脈の南,天山山脈の北に囲まれた盆地)を中心に,"最後の遊牧帝国"ともいわれ
る
ジュンガル帝
国
【本試験H13・H19】
【追H21】
を発展させていきます。
しかし,1745年にジュンガルで内部争いが起こると,そのすきをみた清の
〈
乾隆
帝
〉
【追H9明を滅ぼしていない】
【本試験H19,H29康熙帝ではない】
【追H21ホンタイジではない】
が,1755年にジュンガルを滅ぼしてしまいました
【本試験H13ジュンガルを滅ぼしたのはロシアではない】
。
清の皇帝は,満洲・モンゴル・漢人によってその皇帝位が承認されており,その上でさらにモンゴルの王侯から「ハーン」の称号を受けていました。
ですから,「ハーンなのだから,もともとチャガタイ=ハーン国であったタリム盆地を,清の領土に加えるのは当然だ」という論理が成り立ちます。
東トルキスタン
【追H28】
は1759年に
「
新
疆
」(新たな土地)
【追H28】
【本試験H17ホンタイジ,順治帝,康煕帝のときではない】
と名付けられ、清
【追H28明ではない】
の領土となりました。
ただ,実際には支配機関がイリ川流域に置かれただけで,タリム盆地のオアシス農耕地帯の支配は遊牧民有力者
を
ベ
グ
に任命して統治を任せるなど,中国伝統の"間接支配"が基本です。ベグの下ではイスラーム教による支配が守られ
,
ワク
フ
(公共建築物の寄進)により灌漑水路やマドラサなどが整備されていきました。
・
165
0
年
~
176
0
年の中央ユーラシア チベット
チベットの〈ダラ
イ=
ラマ〉政権は清に領土を割譲
チベッ
ト
ではオイラト系のモンゴル人〈グーシ=ハーン〉(1582~1654)が,チベットの全土を占領して,その領土を
〈
ダラ
イ=
ラマ5
世
〉に献上しました。〈ダライ=ラマ〉も,チベットに宗教的な政権を築き上げようとしていましたから,両者の意志が一致した結果です(〈カール大帝〉と〈レオ3世〉の関係と似ていますね)。
これにより〈ダライ=ラマ5世〉にはチベットの支配が認められ,チベット高原
の
ラ
サ
には1660年に壮大
な
ポタラ宮
殿
【本試験H23トプカプ宮殿ではない,本試験H30】
【追H20設計はカスティリオーネではない】
が完成しました。彼は自らを観世音菩薩の生まれ変わりとし,チベット仏教の主要5派(元の時代に保護され
た
サキャ
派
や,ツォンカパの立ち上げ
た
紅帽
派
など)の上に君臨します。
しかし,17世紀初頭に〈グーシ=ハーン〉一族で内紛が起きると,これに清の皇帝
〈
雍正
帝
〉(ようせいてい)が介入し,チベットを分割してその東部を割譲させました。これ以降,チベット政府の支配領域は,チベット高原南部(ツァン地方)のみになってしまったわけです。
○165
0
年
~
176
0
年の中央ユーラシア 西部
◆
ユーラシア大陸西部ではモンゴル系やテュルク系の「タタール人」が,ロシア人に抵抗する
ロシアはコサックを鎮圧し,カザフ草原にも進出へ
また,ロシア帝国は,征服地の最前線
に
コサッ
ク
(ロシア語でカザーク)という農民に防衛を担当させていました。「夷を以て夷を制す」のやり方です。
しかし,ロシアからの支援が手薄になると, 1670〜71年にコサック(カザーク)の首領
〈
ステパ
ン=
ラージ
ン
〉が反乱を起こしましたが鎮圧されます。
ロシアにとって,奥深い針葉樹林を抜けると一面に広がる草原地帯は,征服すべき"広い世界"であるとともに,遊牧民が進入してくる"危険地帯"でもあります。中央ユーラシアの中央部に広がる広大
な
カザフ草
原
では当時,ウズベク人から分離し
た
カザフ
人
がハーンのもとで遊牧生活をしていました。
他方,カザフ人は当時,南方からチベット人と提携し
た
ジュンガル
人
の攻撃を受けるようになっていました。1723年のジュンガルによる侵攻で打撃を受けると,カザフ人のハーンは泣く泣くロシア帝国に保護を求め,外交と交易関係が結ばれることになりました。
ロシアは今後,草原地帯のカザフ人を支配下に入れつつ,さらなる南下を狙うことになります。
アム川下流域のホラズムで
は
ヒヴ
ァ=
ハーン
国
が,中流域のブハラを中心
に
ブハ
ラ=
ハーン
国
が成立していました。しかし,18世紀前半にイラン高原
の
アフシャール
朝
の〈ナーディル=シャー〉が進入するなど平和ではありませんでした。
ブハラでは,ジャーン朝のハーンが〈ムハンマド=ラヒーム〉により滅ぼされ,1756年にマンギト朝が成立しています。マンギト朝は,18世紀末からイスラーム色を強めていきます。
○165
0
年
~
176
0
年の中央ユーラシア 北部
◆
ツングース人とヤクート人によるトナカイ遊牧地域が東方に拡大する
シベリア地方にロシア帝国が進出する
さらに北部に
は
古シベリア諸語
系
の民族が分布し,狩猟採集生活を送っていました。しかし,イェニセイ川やレナ川方面
の
ツングース諸語
系
(北部ツングース語群)の人々や,テュルク諸語系
の
ヤクート
人
(
サ
ハ
と自称,現在のロシア連邦サハ共和国の主要民族)が東方に移動し
,
トナカイの遊
牧
地域を拡大させていきます。圧迫される形で古シベリア語系の民族の分布は,ユーラシア大陸東端のカムチャツカ半島方面に縮小していきました。
さらにこの時期になると西方か
ら
ロシア帝
国
が東進し,ツングース人,ヤクート人はおろか,ベーリング海峡周辺の古シベリア諸語系
の
チュクチ
人
や,カムチャツカ半島方面
の
コリャーク
人
の居住地域も圧迫されていきます。
○1650年~1760年のアジア 東アジア
東アジア・東北アジア
...①日本,②台湾,③中国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国
・1650年~1760年のアジア 東アジア 現①日本
◆日本は外国の入国管理と貿易を制限し国内の開発をすすめ,国民意識が発展する
「大開発の時代」が行き詰まり,幕府は改革を断行
中国では,1644年に清が北京に入城し,明の勢力は中国南部の各地で抵抗を続けました(南明)。この知らせを受けて,江戸幕府の儒学者〈林鵞峰〉(はやしがほう,1618~1680)は「夷狄(いてき。野蛮な民族)である女真(女直)が漢民族の明を滅ぼして清を建てた。清は夷狄
【慶・法H30】
のつくった王朝だから,中華ではない。むしろ日本が中華にふさわしい!」という考えをふくらませます。水戸藩の〈徳川光圀〉(水戸光圀,みつくに,1628~1700)が『大日本史』の編纂を命じたのは1657年,幕府が『本朝通鑑』(ほんちょうつがん)の編纂を命じたのは1662年のことです。このように,本来は中国側からは夷狄とみられていた日本が,逆に自らを東アジア秩序の中心とみる考えを「
小中華思想
」(しょうちゅうかしそう)
【慶・法H30 朝鮮の「小中華思想」を扱った】
と呼ぶことがあります。
一方,江戸幕府は政治的に外国との距離を置き,国内の秩序づくりに努めました。台湾を拠点にした反清勢力〈鄭成功〉(ていせいこう)は日本人を母に持っていたこともあり,江戸幕府に救援を求めましたが,幕府はこれを拒否しています。
ただし中国との経済的な関係は維持する政策をとり,管理下に置かれていたものの長崎での貿易は引き続き認められました。
江戸幕府は農業生産の充実を目指し,各地で大規模開発が行われました。「
大開発の時代
」です。例えば,利根川の流路を江戸湾から太平洋に変更する工事が1654年に完成し,各地で用水路が建設され新田が開発されていきました。村々は領主から年貢米の納入をうけおい,城下町の倉庫に米が収められました。米や商品は藩内外に輸送され,東北地方と江戸を結ぶ東廻り航路,東北地方の日本海沿岸と江戸・大坂を結ぶ西廻り航路,大坂と江戸を結ぶ南海路といった海運が発達し,大名は城下町や上方市場で年貢米を換金し,幕府財政にあてました。全国市場の成立に従って,1669年に全国統一の枡として京枡(きょうます)を指定しました。
1651年に,徳川幕府の第3代将軍〈徳川家光〉が亡くなりました。第4代目の〈家綱〉は11歳であったため老中〈松平信綱〉や叔父〈保科正之〉(ほしなまさゆき)が支配しました。
同年に,牢人による幕府転覆未遂事件である
慶安事件
が発覚し,1657年に明暦の大火が江戸を襲いました。
1662年に,清に抵抗していた明の諸王による南明(なんみん)政権が滅ぶと,1663年に〈康煕帝〉は
琉球王国
【セ試行 清軍によって征服されていない】
に冊封使を派遣し,〈尚質〉を国王にしました。
琉球王国は,薩摩藩に服属しつつ,明からも冊封を受ける両属となりました。〈家綱〉は,これらに対して不干渉政策をとり,平和を重視しました。1645年と46年に,〈鄭成功〉(ていせいこう,1624~1662)は日本に対する援軍を依頼しましたが,日本側は拒否。〈鄭成功〉の母親は平戸の〈田川七左衛門〉の娘で,父〈鄭芝龍〉(ていしりゅう,1604~1661)は海商でした。
1669年にはアイヌの〈シャクシャイン〉が和人に対して蜂起しました。アイヌの戦いは1671年に鎮圧され,北海道の渡島(おしま)半島南部に和人が居住して商場(あきないば)での交易権を与えられ,松前藩が支配しました。
1680年に五代将軍〈徳川綱吉〉(とくがわつなよし,,位1680~1709)が将軍を継ぎました。彼は〈柳沢吉保〉(やなぎさわよしやす,1658~1714)の補佐のもと,専制政治を進めるとともに,「武家諸法度」(ぶけしょはっと)を改定して武士の価値観を軍事ではなく忠孝礼儀にあるとし,生類憐れみの令(動物だけでなく弱者を保護することを命じたもの)と服忌令(忌引の日数と喪に服す期間を定めたもの)により戦国時代の武断的な価値観を転換させようとしました。〈林鳳岡(信篤)〉(はやしほうこう,1644~1732)を大学頭に任命し,湯島に聖堂を建設させ,儒教を重視しました。同時に,仏教と神道も保護しています。
1690年には愛媛県に
しかし〈綱吉〉政権の末期には,1703年の元禄大地震が関東を襲い,1707年には富士山で「宝永の大噴火」が起こりました
。
そんな中,1709年に〈徳川家宣〉(とくがわいえのぶ,位1709~12)が将軍を継ぎ,大老格であった〈柳沢吉保〉をやめさせ「生類憐みの令」を廃止,政治改革に乗り出しますがその途中で死去し,1712年には〈徳川家継〉(とくがわいえつぐ,位1713~16)が将軍を継ぎました。この間,政権の中心にあったのは,側用人〈間部詮房〉(まなべあきふさ,1667~1720)と儒学者〈新井白石〉(あらいはくせき,1657~1725)です。彼は生類憐れみの令を廃止し,儒教色の強い民衆教化を行おうとしました。また,金銀流出を防ぐために,1715年に
海舶互市新例
(かいはくごししんれい)を出して,中国の清(しん)とヨーロッパのネーデルラント連邦共和国(オランダ)との貿易規模を縮小させました。
1700年頃には耕地の拡大は一段落し,今度は,農業技術や肥料による生産力の向上が目指されるようになっていきます。それに従い,商品作物や加工品の生産も,全国で盛んになります。その中で,従来は輸入に頼っていた生糸や砂糖を「輸入代替」する動きも起こりました。
東京・大阪・京都の三都の問屋は販売の専業化に向かい,特に越後屋(三井)は薄利多売方式で巨利を上げました。経済活動の活発化を背景にして,町人や農民を主体とする元禄文化が発展します。人形浄瑠璃で好評を博した劇作家〈近松門左衛門〉の『国性爺合戦』(本当は「姓」ですが,フィクションであることを示すため「性」という字を当てました)は,あの〈鄭成功〉をモデルとしたものです。
1716年に〈徳川吉宗〉(在職1716~45)は第8代将軍に就任しました。彼は積極的に新田開発を推進し,幕府財政建て直しのために上米の制を定めました。〈吉宗〉のとき,儒学者〈青木昆陽〉の尽力により,中国の農書を参考にして,薩摩藩経由で琉球王国から取り寄せた
サツマイモ
を東京の小石川御薬園で栽培し,全国に普及させました。荒れた畑でもよく育つため,飢えを防ぐ作物として重宝されました。西洋の学術にも興味を示し,キリスト教以外の洋書の輸入を解禁し,長崎を中心に
蘭学
(らんがく)が栄えました。フランドル地方の医師〈ドドエンス〉(1517~1585)は『植物生態学』を著し,のちに江戸時代の蘭学者〈野呂元丈〉(のろげんじょう,1693~1761)著『阿蘭陀本草和解』にも影響を与えています(⇒1650~1760の東アジア 日本)。また,1728年にはヴェトナムからゾウを輸入し,長崎から江戸まで街道を歩かせています。
1751年に後を継いだ第9代〈徳川家重〉(在任1745~60)は政治力に欠ける人物であったといい,享保の改革以来の増税に反対する大規模な百姓一揆(郡上一揆(ぐじょういっき))も起こっています
(注)
。
(注)近世の農民にとって,年貢や諸役を納めることが百姓としての彼らの職分を果たすことだったのですが,それには領主が,きちんと耕地や水利の改良や配分のような勧農を行い「百姓(ひゃくしょう)成立(なりたち)」(再生産の保障)をすることが引き換えとなっていたのです。これを保障しないような過酷な年貢諸役の賦課や二重賦課をしようものなら,農民は反対の訴訟や一揆を起こす根拠となりました。この源流は,中世の百姓における年貢の減免要求にもみられます(佐藤和彦編『租税』(日本史小百科)東京堂出版,1997年,p.96,p.189)。
・1650年~1760年のアジア 東アジア 現①日本 小笠原諸島
1675年に江戸幕府は小笠原諸島(おがさわらしょとう)に調査船を送り、「此島大日本之内也」という碑文を設置。「無人島」(
ブニンジマ
)と名付け,その名の通り人は住まず,植民もなされませんでした。
・1650年~1760年のアジア 東アジア 現①日本 南西諸島
琉球王国は明から清への交替(明清交替(みんしんこうたい))に際し,どちらの王朝に対しても文書書き換え等で対応できるように細心の注意を払います。
勝ったほうに"乗り換え"できるよう、"二股"をかけたわけです。
しかし明の王族が清に抵抗して各地に立てていた南明政権(福王政権(1644~45),唐王(1645~46),魯王(1646~54),桂王(1647~61))は、次々に降伏。
17世紀中頃になると明から授かった印綬(いんじゅ)を清に返還し,清の冊封を受けるに至りました。
17世紀中頃には,摂政(セッシー)の〈羽地朝秀〉(はねじちょうしゅう,1617~1676)が琉球王国政府の改革に乗り出しました。日本文化との融和策を打ち出すことで古い習慣をなくそうとしまし,夫役の緩和と開墾の奨励により農村を復興させました。
1650年に著された歴史書『中山世鑑』(ちゅうざんせいかん)には,日琉同祖論(にちりゅうどうそろん)の考え方もみられます。
・
165
0
年
~
176
0
年のアジア 東アジア
現②
台湾
台湾に漢人が多数移住する
台湾にはオーストロネシア語族系の先住民が分布していましたが,1624~1662年の間
,
オラン
ダ
〔ネーデルラント連邦共和国〕
【追H25】
が南部に拠点を設けます。
これを〈鄭成功〉(ていせいこう)
【追H25明の滅亡後に清に抵抗した人物を問う。李自成ではない】
【大阪H31[3]指定語句】
が駆逐し,1662~1683年の間,清に滅ぼされた明を支援しつつ台湾に政権を樹立します。
1683年に清の〈康煕帝〉は台湾の鄭氏政権を滅ぼし,清の直轄支配が始まりました。
直轄地といっても,清は台湾を
「
化外の
地
」(けがいのち,中華文明=皇帝の権威の及ばない地域)と位置づけ,オーストロネシア語族の諸民族は「化外
の
民
」(けがいのたみ,中華文明=皇帝の権威の及ばない地域)とされました。
とはいえ,この時期に中国から漢人が大量に移住し,のちに
「
本省
人
」(
ほんしょうじ
ん)
といわれる民族グループを形成していきます。出身地としては福建省,広東省が多いです。
・
165
0
年
~
176
0
年のアジア 東アジア
現③
中国
◆
清は集団ごとに様々な権威を利用し,広大な領土を直接・間接支配した
清は,北方草原地帯と南方農耕民地帯を合わせる
1661年にたった8歳で即位した〈康煕帝〉は,中国における支配制度を整えていきました。「少数の女真(女直)人が,多数は漢人をどう支配するか?」これが一番の大問題です。
もちろん8歳で政治をとることができるわけはないので,政務は〈順治帝〉以来に〈ホンタイジ〉の后がとっています。この后は〈チンギス=ハン〉のボルジギン家の末裔です。
軍事的にはモンゴル人に組織させ
た
蒙古八
旗
や,女真(女直)人(満洲人と改称しています)に組織させ
た
満洲八
旗
と同様に
,
漢人八
旗
【本試験H8漢人部隊が含まれなかったわけではない】
を整備しました。また,常備軍とし
て
緑
営
(りょくえい)も組織しました。
また,科挙を実施し,行政には漢民族の官僚を中央や地方で積極的に用いました
【本試験H15「明の官僚制度を廃止し中央の要職には漢民族を採用しなかった」わけではない】
。儒教のテキストを編纂させる巨大プロジェクトを実施し,儒教界にも影響を与えようとします。
編纂プロジェクトの例
①
〈
康煕
帝
〉(こうきてい)
【京都H21[2]】
【本試験H11満洲文字を定めていない】
(注)
は4万7035字を部首・画数別に収録した,中国史上最大の漢字辞典である
『
康煕字
典
』を編纂させました(1716年完成)
②〈
③〈乾隆帝〉
【本試験H15永楽帝ではない】
は7万9070巻の大文学全集
『
四庫全
書
』(しこぜんしょ
)
【
本試
験
H1
1
:表紙の図をみて「清代に,皇帝が学者を動員して,古今の書籍を編纂させたもの」か問う】
【本試験H15】
を,考証学者の〈戴震〉(たいしん)らに編纂させました(1746年に完成)。「四庫」というのは,経・史・子・集(けいしししゅう)という4つの分類に従って,古くから伝わる中国の漢籍を収めたことにちなみます。
最大領域を実現した〈乾隆帝〉は
『
五体清文
鑑
』(ごたいしんぶんかん)
【東京H12[2]何語の辞典であるか問う】
という中国語・満洲語・チベット語
【東京H12[2]】
・ウイグル語
【東京H12[2]】
・モンゴル語
【東京H12[2]】
の5ヶ国語対照辞典を編纂させています。
あわせて
,
文字の
獄
(もんじのごく)
【東
京
H12[1
]
指定語
句
,H25[3
]】
【本試験H13,本試験H15反清思想に対して寛大であったわけではない】
【本試験H8】
【追H18】
や
禁
書
【追H21清代か問う】
【本試験H8】
などの思想統制を実施します
【本試験H29朱全忠が行ったわけではない】
。
こんな状況下で下手に新しい意見を言うと弾圧の対象になってしまうおそれもあります。そこで,過去に書かれた経典の文章が,どういう経緯で書かれ,どのような解釈をすればいいのかを研究す
る
考証
学
【本試験H25】
が儒学の主流になっていったのです。
経書というのは別々に成立したものですから,相互に矛盾しているところがたくさんあるのは当たり前。古文の場合には長い年月の間に解釈に相違も出てきます。そこに整合性を付けていく作業をしていったわけです。
〈
顧炎
武
〉
(こえんぶ,1613~1682)
【本試験H13考証学を批判していない,本試験H15銭大昕の唱えた学説を発展させたわけではない,本試験H26時期】
が考証学
【本試験H25】
の祖とされます。
〈
銭大
昕
〉(せんたいきん,1728~1804)
【本試験H15時期(顧炎武よりも後の人物)】
は『二十二史考異』を著し,歴代の正史に注をつけました
(正史は一般に「二十四史」とされますが,ここでは新唐書と旧唐書,新五代史と旧五代史がそれぞれ1つとしてカウントされています)
。
一方,皇帝独裁批判をした
〈
王夫
之
(船山)〉(おうふうし,1619~1692)のように,「異民族」の王朝である清に対して抵抗する学者もいました。彼の作品の多くは清の政府により禁書にされ,日の目をみたのは19世紀後半の〈曾国藩〉(そうこくはん)によります。
〈
戴
震
〉(たいしん,1724~1777)は,『孟子字義疏証』(もうしじぎそしょう)で儒教の概念について解説し,欲望を肯定した合理的で自由な思想を展開しています。また,地理・暦法・音声などの周辺の領域を駆使して考証学の手法を確立させました。
〈
段玉
裁
〉(だんぎょくさい,1735~1815)は〈戴震〉を師匠とし,音韻(おんいん)に注目するとともに,『説文解字注』(後漢の〈許慎〉(生没年不詳)による『説文解字』(100年頃に成立)の註釈⇒紀元前後~200年の中国)を著し,字の音や意味がどのように変遷していったのかを実例を挙げながら整理しました。
(注)1661年に〈順治帝〉がなくなり,子の〈康熙帝〉が即位。改元したのは翌年で1662年が康熙元年だから,即位と1年ずれる。『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.122
◆
清は東シナ海一帯の〈鄭成功〉を鎮圧するが,華僑の東南アジアへの拡大がすすむ
「経済」の中心である南部の海上勢力を鎮圧する
さて,〈康煕帝〉が即位したころは,まだ明の勢力も各地で抵抗を続けており,そのうちもっとも手強い勢力が,東シナ海一帯に海軍を保有していた
〈
鄭成
功
〉(1624~62)
【追H25明の滅亡後に清に抵抗した人物を問う】
【大阪H31[3]指定語句「鄭氏」】
の一派でした。
1661年にはオランダ
【追H25】
から台湾
【追H25】
を奪い,台湾から中国大陸の反明勢力を支援しました。清の
〈
康煕
帝
〉(位1661~1722)は〈鄭成功〉を孤立させるために海禁政策
(
遷界
令
)をとり,83年にこれを滅ぼしました。
海禁政策は東南アジアの交易ブームにも暗い影を落とし,中国南部沿岸(福建・潮州・広東)の中国人商人は,東南アジアに追われ移住をしていくようになります。
彼ら
は
南洋華
僑
と呼ばれ,東南アジアを拠点に各地に出身者別に交易ネットワークを張り巡らせ,海域世界を牛耳ります。
1673年には,漢人武将
〈
呉三
桂
〉
【本試験H8李自成ではない,本試験H11清朝に協力したか問う】
【本試験H18李自成ではない】
(ごさんけい)らが、清に協力したご褒美として与えられていた中国南部
【本試験H16満洲ではない】
の
三
藩
画の勢力削減の対象となったため、反乱が勃発。
〈
どうして大砲を活用できたかというと,イエズス会士がヨーロッパ式の砲術を伝授していたからです。
ベルギー出身のイエズス会の宣教師で,欽天監(天文台の官庁)で天体観測をおこない,『坤輿全図』の作成でも知られる
〈
フェルビース
ト
〉(南懐仁(なんかいじん),1623~88)
【本試験H14イグナティウス=ロヨラではない】
【追H24坤輿万国全図を作成していない、H30『幾何原本』は翻訳していない】
が指導したのです。
三藩の乱以降は,漢人による大規模な抵抗運動はなくなりました。
しかし,今度は北方でロシア帝国の極東への進出が本格化。
1689年には黒竜江(アムール川)にまで進出したことから,一触即発の事態となりますが,「ロシアと戦うよりは和平を結んだほうがいい
。
オイラ
ト
の一派であ
る
ジュンガル
部
を倒すほうが今は重要だ」と考え,1689年
に
ネルチンスク条
約
【本試験H13史料(第一条が出題)キャフタ・アイグン・ペキンではない】
を結び,スタノヴォイ山脈を清露の国境線としました。清が対等な関係で外国と取り決めをしたのは,史上初のことです。
ロシアとの和平を結んだ〈康煕帝〉は安心し,みずから遠征して1697
年
ジュンガル
部
の〈ガルダン=ハーン〉を破り,外モンゴル(=モンゴル高原)を平定しました。
◆
雍正帝はチベット仏教
圏(
ジュンガル,チベッ
ト)
に進出する
負けたジュンガルは本拠地をタリム盆地にうつし,チベット
の
黄帽
派
【追H29】
【東京H12[2]】
の教主〈ダライ=ラマ〉のちからを借りて勢力を盛り返そうとしました。
「チベットとジュンガルが組んだら面倒だ」と考えた次の
〈
雍正
帝
〉(ようせいてい,在位1723~35)
【京都H22[2]】
は
,
チベッ
ト
【京都H22[2]】
を分割して一部を併合し,勢力下に入れたのです
(
雍正帝のチベット分
割
)。領土を増やした
〈
雍正
帝
〉
【本試験H24康煕帝ではない】
は,ロシア勢力との国境を決めるため,1727年
に
キャフタ条
約
【本試験H17サハリンを領有したわけではない,本試験H24南京条約ではない】
【早・政経H31乾隆帝の代ではない】
で,バイカル湖の南方の国境も確定しました。同時にこのとき,ロシア人の通商・外交・布教の権利を認めています。
軍機
処
【追H28】
【本試験H17隋唐代ではない,本試験H24】
【本試験H8漢人が要職につけなかったわけではない】
という機関を設置したのも〈雍正帝〉
【追H28万暦帝ではない】
です。当初は,ジュンガル遠征の際につくられた臨時の機関でした。今まで設けられてい
た
内
閣
にはすぐに言うことを聞かない勢力もおり,手続きが面倒で迅速な決定には向かなかったのです。満洲の皇族や貴族から構成される会議(議政王大臣会議)も面倒な存在です。高級官僚の半数を満洲人,もう半数を漢人とす
る
満
漢
(偶数
)
併用
制
【本試験H5モンゴル人と漢人が約半数ずつ高級官僚に任命されたわけではない,本試験H8漢人が要職につけなかったわけではない】
【追H18】
をおこなっていたこともあり,中国語と満州語の翻訳も悩みのタネです。かといって,皇帝の意のままに政治をするとなると,皇帝の業務量はハンパではなくなります
(官僚からの皇帝に向けて私信(奏摺(そうしゅう))の数は膨大で,皇帝はその一つ一つに朱書きで訂正や決済の処理をしていました)
。
そこで,スムーズに政策を決定することができるよう,はじめは皇帝がツバをつけた数人の軍機大臣(漢人も任命されています)に軍事に関することを任せて処理させていたのですが,やがて一般の政治に関する事項も軍機処の担当になりました。軍機処は皇帝の意を受け,不正を防ぐための制度を遵守して迅速に政務をこなすようになり,それにともなって従来
の
内
閣
や議政王大臣会議は形だけのものになっていきました。
◆
〈乾隆帝〉のときにジュンガルを平定し,新疆を設置,最大領域を実現した
タリム盆地は「新疆」として間接支配下に置かれる
〈雍正帝〉が亡くなると,遺言に従って次に
〈
乾隆
帝
〉(位1735~96)
【本試験H17】
が即位しました。
〈康煕帝〉→〈雍正帝〉→〈乾隆帝〉の時代は"三世の春"といって,清の統治が充実した時期にあたりますが,〈雍正帝〉は自分の亡き後,無能な者が跡を継がないように,生前から蝋による封印文書の中で跡継ぎを指名していたのです。
〈乾隆帝〉は10回にわたってみずから遠征し(十全武功),みずからを十全老人と誇ります。
彼はオイラトの一派であ
る
ジュンガ
ル
【京都H22[2]】
を平定し,東トルキスタンを
「
新
疆
」(しんきょう,新しい領域)と名付け,支配下に組み込みました。
新疆も含め広大な領域を勢力下に収めることとなった清は,その領域
を
直轄
地
と
藩
部
(はんぶ)
と
朝貢
国
の3つのレベルに分けます。
モンゴ
ル
,
青
海
,
チベッ
ト
【本試験H15,本試験H20明の藩部ではない】
【本試験H8モンゴル,東トルキスタン,チベットではない】
,
新
疆
は
,
藩
部
【本試験H20】
【本試験H8】
とされ
,
理藩
院
【東京H21[1]指定語句】
【本試験H13中書省ではない,本試験H15,本試験H17ホンタイジ・順治帝・康煕帝のときではない,本試験H24】
【本試験H6都護府とのひっかけ,本試験H8門下省ではない】
が担当し,間接支配がされました。
中国本
土
と,満洲人のふるさとであ
る
東北
部
【本試験H16三藩は設置されていない】
【本試験H8】
,それ
に
台
湾
は
「
直轄
地
」です。この広大な領土に〈乾隆帝〉は莫大な経費をかけて
東南アジア諸国の中には,清
に
朝
貢
をおこなっていた国もあります。朝鮮や琉球王国は,定期的に朝貢使節を送っていました。
(注)『世界大百科事典』平凡社
◆
戸籍から逃れる人が多かったため,税制を簡素化する改革をおこなった
税制は一条鞭法から,地丁銀制に転換される
財政の規模が大きくなるにつれ効率的な税制が求められ,各種の税や徭役(ようえき)を銀に一本化して納めさせる
一条鞭法
(いちじょうべんぽう)
【追H18】
から、18世紀に
は
地丁銀
制
(ちていぎんせい)
【共通一次 平1:清代か問う】
【本試験H7一条鞭法ではない】
【本試験H16地税と丁税を別々に徴収するわけではない,本試験H23時期・時期】
【追H19天朝田畝制度ではない、H27「丁税を土地税に繰り込んだ」時期を問う、H30隋代ではない】
が実施されるようになります。これは,従来別々にとってい
た
丁
税
(ていぜい,人頭税)
を
土地
税
に組み込んで,土地の所有者
【共通一次 平1:佃戸ではない】
に対して徴税する
【共通一次 平1】
制度です。
実質的に丁税はなくなったので,従来,丁税の対象としてカウントされるのがイヤで隠れていた人々が表面化するようになり,かえって安定的に地税を集めることが可能となりました。
納税は原則的に銀でされました
【共通一次 平1】
。〈康煕帝〉の時代である1717年に広東省から始まり,〈雍正帝〉のときに全国に拡大されました。
1741年の人口調査によれば,清の人口は1億1億4341万1559人。当然ながら遺漏はあるものの,よく補足したものです。
◆
商工業が発展し,庶民文化が栄えた
庶民文化が盛ん,宮廷文化はヨーロッパの影響も
清代は,商工業が発展し,庶民文化も栄えた時代です。
科挙をめぐるドロドロの人間模様や儒者の
絵画の世界では,イエズス会の
〈
カスティリオー
ネ
〉
(郎世寧(ろうせいねい),1688〜1766)
【本試験H14『幾何原本』を著していない】
【追H21、H24明朝の下で円明園を設計したか問う】
【早・法H31】
が〈雍正帝〉と〈乾隆帝〉
【早・政経H31カスティリオーネが仕えたか問う】
につかえ西洋美術の技法を伝え
,
円明
園
【本試験H8時期(マルコ=ポーロの死後)】
【追H20ヴェルサイユ宮殿・サン=スーシ宮殿・ポタラ宮殿ではない、H24】
の設計にも携わっています
【本試験H14ラファエロではない】
。
一方で,〈八大山人〉(はちだいさんじん,1626〜1705)や〈石濤〉(せきとう,1641?〜1707?)が南宗画(なんしゅうが)に自由な発想を持ち込み,数多くの個性的な山水画を残しました。
◆
イエズス会の宣教師が清の支配層にヨーロッパの科学技術を伝え,ヨーロッパに中国思想・制度・美術を伝えた
イエズス会の宣教師が,中国とヨーロッパをつなぐ
一方で,ヨーロッパ人の来航も増えています。
とく
に
イエズス
会
【本試験H2プロテスタント系ではない】
の宣教師は,科学技術を伝える者として清で重用され,ドイツ人の
〈
アダ
ム=
シャー
ル
〉(湯若望(とうじゃくぼう)、1591~1666)
【本試験H23元代ではない】
【追H24坤輿万国全図を作成していない、H25授時暦をつくっていない(「湯若望」の形で出題)】
は1627年に北京へ,ベルギー人の
〈
フェルビース
ト
〉(南懐仁(なんかいじん)、1623~88)は1670年に北京へ入り,2人は天文観測の分野で活躍をしました。〈アダム=シャール〉は
〈
徐光
啓
〉
(じょこうけい)
【追H25授時暦をつくっていない、H26李時珍ではない】
【本試験H2マテオ=リッチと協力したか問う】
【本試験H23李時珍ではない】
【法政法H28記】
と協力して
『
崇禎暦
書
』(すうていれきしょ)
【追H26崇禎暦書とのひっかけ】
【本試験H23】
を発表,のち清になって1645年に時憲暦(じけんれき)と呼ばれ実用化されました。〈徐光啓〉は,明の〈万暦帝〉(ばんれきてい)の宮廷につかえた
〈
マテ
オ=
リッ
チ
〉(利瑪竇(りまとう)1552~1610)
【本試験H14カスティリオーネではない,本試験H19ミュンツァーではない,本試験H21清ではない】
【本試験H2,本試験H8元を訪問していない】
【追H30フェルビーストではない】
と名乗って活動し,ヘレニズム時代の〈エウクレイデス〉(英語でユークリッド)
【追H28】
の幾何学の研究書を『幾何原本』(きかげんぽん)
【本試験H2「ヨーロッパの数学」】
【追H30】
【早・法H31】
として中国語訳しました
【追H28時期が明代か問う】
【早・政経H31宋代ではない】
。図形に関する数学を「幾何学」と呼ぶのは,これが元です。
また〈マテオ=リッチ〉
【追H24フェルビースト、ブーヴェ、アダム=シャールではない,H27プラノ=カルピニではない】
は
『
坤輿万国全
図
』(こんよばんこくぜんず)
【追H24作者を問う、H27製作者と時期(清代ではない)を問う】
【本試験H13乾隆帝の命でつくられたわけではない,本試験H15皇輿全覧図とは異なる,本試験H19】
【H30共通テスト試行 時期(解答に直接必要はなし)】
という世界地図
【本試験H14】
も製作しました。
フランス人の
〈
ブーヴ
ェ
〉
(1656~1730)
【追H24坤輿万国全図を作成していない】
【本試験H2皇輿全覧図を作成したか問う】
【本試験H21】
は1687年に〈ルイ14世〉に派遣された宣教師団の一員として寧波に来航し,88年に北京に入り,のち実測による中国地図
「
皇輿全覧
図
」
(こうよぜんらんず)
【本試験H15図版(アフリカ大陸・アメリカ大陸は含まない),本試験H21】
【本試験H2ブーヴェの作成か問う,本試験H8時期(マルコ=ポーロの死後)】
【追H30宋代ではない】
を作成し『康熙帝伝』(1697)により中国の様子をフランスの
〈
ル
イ
1
4世
〉に伝えました。イタリア人の
〈
カスティリオー
ネ
〉(1688~1766)は1715年に北京入りし,暦・地図・画法を伝えました。
〈マテオ=リッチ〉は,キリスト教の神がどんな存在かを中国人に説明するのは難しいと考え,ラテン語のデウス(神)を,中国人になじみの深い「天」という言葉を使い
「
天
主
」と訳しました。また,
〈
孔
子
〉
の崇
拝
や
祖先の祭
祀
を認める
【本試験H21否定していない】
方策をとり,中国人の信仰に合わせる形で柔軟に布教しました。この方式をイエズス会の「適応主義」といいます
(注
)
。
しかし,以前から中国で布教していた〈フランチェスコ〉派などの他の派の宣教師は,イエズス会の方式を問題視し,ローマ教皇に訴えたことから,教皇はイエズス会の布教法を否定する事態に発展。しかし,イエズス会から最新情報や技術を得ていた清にとってイエズス会の存在は捨てがたく,1706年に〈康煕帝〉
は
イエズス会以外の宣教師の布教を禁
止
しました
【本試験H15】
。これを
「
典礼問
題
」(布教の方法をめぐる問題)
【セA H30清ではない】
といいます。そこで
〈
雍正
帝
〉
は
キリスト教の布教を禁
止
して対抗しました。
イエズス会士は中国の文化をヨーロッパに伝える役目も果たし,フランスの思想家の
〈
ヴォルテー
ル
〉(1694~1778)
【本試験H2,本試験H12『経済表』を書いていない】
【追H24】
や,『経済表』
【本試験H12ヴォルテールが書いていない】
の著者で経済学者(重農主義
【追H28重「商」主義ではない】
)の
〈
ケネ
ー
〉(1694~1774)
【追H28】
は,中国の政治や思想を高く評価しています。
17~18世紀のヨーロッパで広がった中国文化の受容を
,
シノワズリー
【東
京
H12[1
]
論述
】
【大阪H30論述】
【追H28「中国趣味(シノワズリ)」】
(フランス語で「中国趣味」という意味, chinoiserie)といいます。
ヴェルサイユ宮殿
【追H20カスティリオーネの設計ではない】
の庭園の中にも中国風の建物を持つ休憩用の小宮殿(トリアノン宮)が建てられ、〈マリ=アントワネット〉に愛用されました
(のちに第一次世界大戦の際に連合国とハンガリーとの講和条約の締結に,このうちのグラン=トリアノンが使用されました(⇒1920~1929のヨーロッパ))
。
◆
「互市」が各地に置かれ,民間交易も盛んになっていく
海上交易
は
175
7
年に広州で限定的に公認される
台
湾
【本試験H8】
の
〈
鄭成
功
〉(ていせいこう,1624~62)
【本試験H8】
【大阪H31[3]論述指定語句】
が清に降伏すると,
もちろん,皇帝による朝貢貿易も続いてはいますが,「買いたい人がいるときに品物を手に入れたい!」「買ってくれる人がいるところに商品を持っていきたい!」と思うのは商人にとって当たり前。
民間の
「
互市貿
易
」(ごしぼうえき,貿易をしてもいい場所を決めて,ヨーロッパ人を含めた民間商人の取引を許可すること)のほうが普通になっていきました。
ところが,ヨーロッパ船の来航が増えると,1757年に〈乾隆帝〉は来航
を
広州一港に限
定
し
【本試験H2泉州ではない,本試験H4「門戸開放」を進めたので,中国人の海外移住が促進されたのではない】
【本試験H18・H27】
,特権商人の組合
(
公
行
(こほん))
【
本試
験H
2
,
本試
験H
10「(アヘン戦争前に)公行に欧米諸国との海上貿易の独占権を与えていた」か問う】
【本試験H22,本試験H27広州の位置を問う】
のみが外国貿易を管理できるものとしました
【本試験H28,本試験H30泉州ではない】
。
事実上,朝貢貿易以外の形の交易を認めたことになります。
しかし,その直後1760年代からイギリスで産業革命(工業化)が起きると,イギリスは19世紀にかけて"自由"な貿易を要求していくことになりますが,アジアの海域に張り巡らされた様々な民族の商人ネットワークが大きな壁として立ちはだかることになります。
(注)吉澤誠一郎「思想のグローバル・ヒストリー」水島司『グローバル・ヒストリーの挑戦』山川出版社,2008年,p.156。
・
165
0
年
~
176
0
年のアジア 東アジア
現⑤・⑥
朝鮮半島
朝鮮王朝は日本との国交を回復し
,
対
馬
(つしま)
の
宗
氏
(そうし)を通じた貿易が行われていました。江戸時代を通じて12回の
「
通信
使
」
【本試験H10】
が江戸に派遣され,日本と対等な外交関係を築きました(ただし江戸幕府にとっての通信使には,朝鮮を"従えている"というアピールの意味もありました)。
同時に,朝鮮は清からの冊封(さくほう)を受けていましたが,自分たちのほうが女真(女直)人より"上"だという意識から「小中華思想」も根強いものがありました。貿易は日本との釜山での貿易と,清との朝貢貿易に限定されていました。
科挙により官僚を出した家柄は
「
両
班
」(ヤンバン)と呼ばれ,その高い社会的地位はしだいに世襲化されて身分のようになっていきました。
17世紀初めに新大陸原産のトウガラシ
【追H20宋代の中国にはない】
が朝鮮半島に伝来すると,保存食として以前から作られていた漬物に使用され,辛
い
キム
チ
がつくられるようになりました。白菜をつかったキムチはペギュキムチといいます。農業の開発にともない商業も発展し,実学の普及も進みました。
〈
英
祖
〉(位1724〜76)のときに法典が整備され,均役法が制定されました。また,奴婢制の改革をし,両親のどちらかが良人であれば,その子も良人であるということになりました。奴婢は19世紀半ばにはほぼ消滅しました
。
パンソ
リ
という音楽劇が成立するのも,この頃です。
○165
0
年
~
176
0
年のアジア 東南アジア
東南アジ
ア
...①ヴェトナム,②フィリピン,③ブルネイ,④東ティモール,⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア,⑧カンボジア,⑨ラオス,⑩タイ,⑪ミャンマー
◆
大陸部ではビルマが強大化し,カンボジア・ラオスが分裂により弱体化した
17世紀初め,東シナ海を中心とする海域世界に強力な海軍を保有していたのは,交易集団の首領
〈
しかし,清の
〈
1683年に〈鄭〉氏一族は滅び
,
台
湾
島
【本試験H15地図・時期(康煕帝の代)】
は直轄地に加えられました
【本試験H14台湾を初めて領有した中国王朝を問う(清),本試験H19時期】
。
これ以降,台湾島ではオーストロネシア語族の先住民に加え,漢人の人口が増加していきます。
◆
台湾島は直轄化され,海関のみでの交易が許可される
東シナ海沿岸の漢人が東南アジアに大移動する
康煕帝は1684年に展界令を出して,遷界令を解除。広州(
この「海禁」政策は,東南アジアの交易ブームにも暗い影を落とし,中国南部沿岸(福建・潮州・広東)
【セ試行 山西省・安徽省出身ではない】
の中国人商人の東南アジアへの移住が始まりました。
はじめは海外の長期滞在を禁じていましたが,食糧を輸入する必要もあったため,のちに緩和。彼ら
は
南洋華
僑(
華
人
)
と呼ばれ,東南アジア各地
に
会
館
【本試験H2唐代ではない
】
や公
所
【本試験H2唐代ではない,本試験H7,本試験H10同業組合の力を背景に都市の自治権を獲得していったわけではない】
【本試験H16,本試験H21租界】
という同郷者の助け合い(互助)組織
【本試験H10】
【本試験H28】
をつくり旅先でお金を貸し合ったり,ビジネスの情報交換などをおこなっていき,東南アジアで影響力を及ぼしていくことになります。
メコン川下流域ではミトやカントーなど中国人の商業都市も生まれ,中国出身者が衰えてい
た
カンボジア王
国
の政治や,タイ人の国
家
アユタヤ
朝
に介入するようになりました。タイではその後,アユタヤ朝の滅亡後の1768年に,中国人(潮州出身)らの支援で〈ターク=シン〉が短期間ではあります
が
トンブリー
朝
を建国しています。
・
165
0
年
~
176
0
年のアジア 東南アジア
現①
ヴェトナム
ヴェトナムの黎朝の権威が衰え,南北に分裂する
ヴェトナ
ム
では,黎朝の皇帝はなんとか存続していましたが,政治的には南北に分裂していました。
北のハノイを中心とする紅河流域
の
鄭氏の大
越
と,中南部
の
阮氏の広
南
の対立です。
・
165
0
年
~
176
0
年のアジア 東南アジア
現②
フィリピン
スペイン領フィリピンに,多数の華僑が進出する
フィリピンはスペインの植民地支配の下,海上交易の拠点として栄えます。
中国人が多数移住し,現地のマレー系住民とも混血して支配階層を形づくっていきます
(
フィリピンの華
僑
)。やがて中国系住民と在来住民との軋轢(あつれき)も生じ,17世紀前半には中国系住民の反乱が起きています。
スペインによる住民のカトリック化も進んでいます。
一方,フィリピン諸島南部はスペインの植民地支配に対して強く抵抗し
,
ミンダナオ
島
やスル諸島のイスラーム教徒はスペインと戦闘を続けます。
・
165
0
年
~
176
0
年のアジア 東南アジア
現③
ブルネイ
ヨーロッパ諸国のブルネイへの関心は低く,植民はすすみませんでした。
・
165
0
年
~
176
0
年のアジア 東南アジア
現④
東ティモール
ティモール
島
は,16世紀初め以
来
ポルトガ
ル
の植民地となり
,
ビャクダ
ン
の輸出などにより富が流出しました。
その後,西方のインドネシア方面か
ら
オラン
ダ
の進出を受けることとなっていきます。
・
165
0
年
~
176
0
年のアジア 東南アジア
現⑤
インドネシア
◆
オランダは,島しょ部の交易拠点を拠点に領土支配に向かう
コショウはもう儲からず,領土支配に切り替える
1619年にジャワ島に拠
点
バタヴィ
ア
を置いていたオランダの連合東インド会社〔オランダ東インド会社〕は,16世紀後半(1669年)
(注1)
にスラウェシ島南部
の
マカッサル王
国
を崩壊させます。
この王国は香辛料の産地マルク〔モルッカ〕諸島との交易で栄えており,東インド会社はマルク諸島を支配権に収めるために,マカッサル人に敵対的なブギス人と組んで滅ぼしたのです。
オランダは16世紀後半には,スラウェシ島北部やマルク諸島にも支配地域を拡大しています。
さらに,1623年
の
アンボイナ事
件
【明文H30記「モルッカ諸島の基地で起きた事件」】【早法H24[5]指定語句】
を起こして,イングランド
【明文H30記】
を東南アジアから撤退させました。
1670年代末までにオランダは島しょ部の支配権を確立しましたが,とき同じくしてヨーロッパ市場
で
コショウ価格が暴
落
しましています。
さらに,オランダは1661年に,日本の生糸交易の拠点だった台湾を〈鄭成功〉に奪われました。日本も「鎖国」政策をとったため,商品を買い付けるための銀・銅を日本から持ち出しにくくなってしまいます。
オランダ東インド会社の軸は「貿易」から「領土支配」に転換していくのはこのへんからのことです。西部ジャワやバタヴィアの後背地、ジャワ島北部の沿岸部を直轄領に編入。
コショウ貿易でもうからなくなった分を,商品作物のプランテーションによって穴埋めしようとしたのです。現地から,綿糸,香辛料,ツバメの巣(中華の食材に使用する),真珠,藍(青い着色剤),硫黄(火薬の原料),食料や木材,を住民に割り当てて徴収させました。
注意しなければいけないのは,この時点ではオランダは各地の拠点をおさえていただけで,海域も含めて完全に支配することはできておらず,18世紀以降の強力な植民地支配のような状態ではなかったということです。本国のオランダ東インド会社の取締役会のトップを占める一七人会や、バタヴィアの評議会のメンバーの多くは、「オランダ東インド会社はあくまで商事会社なのであって、領土拡大は望ましくない」と考えていました。実際、その後も18世紀後半まで、オランダ東インド会社は北西ヨーロッパ諸国の東インド会社の中では最大の貿易量を誇っていました
(注2)
。
(注1) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.89。
(注2) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、pp.319-320。
◆インドネシアでコーヒーのプランテーションが始まる
ジャワ島にコーヒー栽培が導入される
のちに,1650年にオックスフォードでヨーロッパ初
の
コーヒーハウ
ス
が開業されて以降(52年にはロンドンで開業),ヨーロッパで人気が出始めてい
た
コーヒ
ー
の栽培が17世紀末~18世紀初めに導入されると,主流になっていきました。
コーヒーの生産量を増やすには,人手を増やすしかありません。オランダに栽培を強制されたジャワ西部の首長たちは,農民の食糧確保のために稲の水田開発に乗り出しました。以前は焼畑農業を営んでいたこの地の首長の権力が,一転して強まっていくことになりました。
各地で,オランダに対する反乱や抵抗も見られるようになる中,マタラム王国の内紛にオランダが介入し,1755年には2つの勢力に分裂し,ほとんど無力になりました
(
マタラム王国の分
裂
)。
オランダは,1752年に西部ジャワ
の
バンテン王
国
も支配下に置き(属国),ちゃくちゃくと属国と直轄領地域を増やしていき,1758年頃にはジャワ島の大部分の植民地化を完了させています。
スマトラ島
の
アチェ王
国
,西部ジャワ
の
バンテン王
国
,東部ジャワ
の
マタラム王
国
といったイスラーム教国は,内紛やオランダの介入などにより,繁栄は衰退に向かいました。
・
165
0
年
~
176
0
年のアジア 東南アジア
現⑥
シンガポール
,⑦
マレーシア
マラッカの支配圏がポルトガルからオランダへ移る
ポルトガル領のマラッカは,1641年にオランダとジョホール王国が奪い,これによ
り
オランダ領マラッ
カ
が成立しました。
この地域におけるポルトガルの覇権に,終止符が打たれたわけです。
現在のシンガポールは
ジョホール王国
〔ジョホール=スルターン国〕の領土で、ほぼ未開の地でした
(注)
。
(注)岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.4。
ジョホール王国は、ムラカ〔マラッカ〕王国の〈スルタン=マフムード=シャー〉が、マレー半島を南下し、ビンタン島を都として建設したものです。17世紀の初頭からオランダと協力し、1641年のオランダのムラカ占領を支援し、マレー半島南部からスマトラ島中部にかけての一大貿易拠点となりました。1670年前後から衰退し初め、1699年に〈スルタン=マフムード〉殺害事件により、ムラカの王統は断絶します(大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』「ジョホール王国」の項目、岩波書店、2002年、p.503)。
・
165
0
年
~
176
0
年のアジア 東南アジア
現⑧
カンボジア
カンボジアの王家は分裂し,衰退する
メコン川中流域のクメール人
の
カンボジ
ア
王国は,17世紀後半から東西に分裂していました。東の勢力はヴェトナム,西の勢力はシャムとそれぞれ提携する形となっています。
・
165
0
年
~
176
0
年のアジア 東南アジア
現⑨
ラオス
ラオスの王家
は
1
8
世紀に分裂して衰退に向かう
メコン川上流,現在のラオスに位置するラーオ人(タイ人の一派)
の
ラーンサーン王
国
は,〈スリニャウォンサー〉王(位1637~94)のもとで最盛期を迎えます。メコン川上流の中国やビルマ北部から,メコン川下流を結ぶ交易で潤いました。
しかし,18世紀初めに北方のルアンパバーンと,中部のウィエンチャンの王家に分裂。さらに,1713年には南方のチャンパーサックで王国を開いたため,3分裂状態となりました。
・
165
0
年
~
176
0
年のアジア 東南アジア
現⑩
タイ
アユタヤは米輸出で栄えるがビルマの攻撃受ける
チャオプラヤー川流域
の
アユタヤ
朝
【セ試行 16・17世紀のアジアについての問い。コンバウン朝ではない】
【追H18】
支配下のシャム(現・タイ)は,18世紀初めから,主に中国向けの米輸出が始まり栄えます。
しかし1765年に始まる戦争で,1767年にビルマ
の
コンバウン
朝
に攻め込まれ滅ぼされました。アユタヤには,このときに破壊された首のない仏像が残されています。
・
165
0
年
~
176
0
年のアジア 東南アジア
現⑪
ミャンマー
タウングー朝が滅ぼされコンバウン朝が成立する
ミャンマー
の
イラワジ
川
流域では,1752年
に
タウングー
朝
【追H18】
【慶文H30記】
が下ビルマ
の
モン
人
により滅ぼされ,ビルマ人によっ
て
コンバウン
朝
(アラウンパヤー朝,1752~1886)
【追H27成立時期を問う】
【セ試行 タイではない】【本試験H6地域がビルマか,イスラーム教を国教としたか問う】
【慶文H30記】
が新たにおこっています。
○165
0
年
~
176
0
年のアジア 南アジア
南アジ
ア
...①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール
・
150
0
年
~
165
0
年のアジア 南アジア
現①
ブータン
現在のブータンの原型が生まれる
ブータンでは,チベット仏教の一派カギュ派(ドゥクパ=カギュ派)の宗教指導者が政治的な統合を進めており,15世紀後半からは,指導者は世襲ではなく,「
16世紀末に次の指導者をめぐって内紛が起き,敗れた〈ガワン
=
ナムギャ
ル
〉(1594~1651)はブータン西部に逃れて政権を建て,チベットとは別個の「ブータン」意識を育てて中央集権化をすすめました。これが,現在のブータンのおこりです。
・
165
0
年
~
176
0
年のアジア 南アジア
現②
バングラデシュ
この時期のバングラデシュは,ムガル帝国の支配下にあります。
・
165
0
年
~
176
0
年のアジア 南アジア
現③
スリランカ
セイロン
島
は,ポルトガルに代わって,1658年~1796年までオランダの植民地となります。
・
165
0
年
~
176
0
年のアジア 南アジア
現②
バングラデシュ
,⑤
インド
,⑥
パキスタン
ムガル帝国では,病気にかかっていた第五代
〈
シャ
ー=
ジャハー
ン
〉が,息子
に
アーグラ
城
の一室に閉じ込められていました。この息子が,第六代の
〈
アウラングゼー
ブ
〉
(位1658~1707)
【共通一次 平1:最大
〈アウラングゼーブ〉は厳格
な
スンナ
派
イスラーム教徒で,イスラーム法をインドにも厳しく適用しようとし,非ムスリムに対す
る
人頭税を復
活
させました
【本試験H26】
【本試験H8廃止ではない】
【追H30廃止ではない】
。増税をねらったというよりは,スンナ派の支配者としてのアピールが目的であったといわれています。ヒンドゥー教徒は,本来ならば人頭税が免除される
「
啓典の
民
」(ユダヤ教,キリスト教)には含まれませんからね。
しかし,
〈
アクバ
ル
〉によっ
て
廃
止
【共通一次 平1】
されていたヒンドゥー教徒らの人頭税(ジズヤ)が復活されたことで,各地で反乱がおき,軍人に分け与える土地も不足し,財政は悪化。後継者争いも起きると,インドは分裂に向かっていきます
【セ試行 バーブルのときではない】
。
南インドのデカン高原には
,
バフマニー
朝
から分裂した5つのイスラーム教国のうち,2つの国が残っていました。そのうち武将の一族だった
〈
シヴァージ
ー
〉(生没年不詳,在位1674〜80)は,1645年につかえていたイスラーム教国から独立しようとし,反乱を起こしました。〈アウラングゼーブ〉の軍は〈シヴァージー〉を逮捕し,アーグラ城に軟禁しましたが,〈シヴァージー〉は洗濯カゴに隠れてまんまと脱出したといわれています。
〈シヴァージー〉はインド東海岸にある現在のムンバイ周辺を支配地域とす
る
マラーター国
王
に即位しました。〈アウラングゼーブ〉は1707年,マラーター王国を倒すことができないまま亡くなっています。
このデカン高原
【本試験H2パンジャーブではない】
のマラーター王国は,周辺の諸国を諸侯とし,ゆるやかな政治連合であ
る
マラーター同
盟
【本試験H21時期】
【本試験H2パンジャーブ地方ではない,本試験H5ムガル帝国の没落の原因か問う,本試験H8北インドのマラータ族ではない】
【追H24ムガル帝国を滅ぼしていない】
を形成し,インド各地に勢力を拡大していきます。1713年以降,同盟の宰相は,バラモンによって世襲されるようになっていきました。
1720年には,デカン高原で,ムガル帝国のデカン総督であった〈ニザーム=ウル=ムルク〉が帝国を裏切っ
て
ハイダラーバードのニザーム
国
として自立。ムガル帝国中央部のアワド州では,シーア派
の
アワド王
国
が建てられます。
また,1736年にイランのサファヴィー朝を滅ぼし
た
アフシャール
朝
(1736~96)の
〈
ナーディ
ル=
シャ
ー
〉(位1736〜47)は,デリーを占領し,ムガル帝国の宮殿にあったルビー,エメラルド,ダイヤモンドを散りばめた「孔雀の玉座」をイランに持ち帰ってしまいました。
同時期には
,
シク教
徒
【東京H29[3]】
の勢力も強大化し,ムガル帝国に対して抵抗するようになります。
1747年に〈ナーディル=シャー〉が暗殺されると,〈アフマドシャー=ドゥッラーニー〉がアフガニスタンのカンダハールを占領しで
,
ドゥッラーニー
朝
(1747~1842)をおこしています。ドゥッラーニー朝は,インドに進入し,1758年にはデリーを占領し,北インド一帯にも進入を繰り返しています。
このように,〈アウラングゼーブ〉死後のムガル帝国では,内外で地方政権が生まれ,支配が揺るがされていきました。
◆
ムガル帝国沿岸部に,ヨーロッパ諸国の交易拠点が建設されていく
インドに、蘭・英・仏の拠点が新設される
また,17世紀以降のムガル帝国は,ヨーロッパ諸国
【本試験H5スペイン海軍ではない】
の進入も受けるようになっていきます。
オランダ
この時期、インド洋の幅広い場所で他のヨーロッパ諸国の活動を圧倒していたのがオランダ〔ネーデルラント連邦共和国〕です。
17世紀前半にインド北西のグジャラート地方の港町・スーラトに商館を設置。
17世紀なかばにはインド西南海岸の港町・コーチンを占領(ポルトガル人の拠点でした)。
さらに、シナモンの産地セイロン島からもポルトガル人を追放。
インド東海岸のマスリパトナム、プリカットにも商館を設置しています
(注)
。
(注)羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.99。
イングランド
1623年
の
アンボ
ン
(
アンボイ
ナ
)
事
件
をきっかけに,イングランドは東南アジア交易をあきらめ,その矛先をインドに転換しました。
まず,1640年には東海岸
の
マドラ
ス
【追H28フランスの拠点ではない】
【セ試行 ポルトガルがアジア貿易の拠点としたのではない】
にセント=ジョージ要塞を建設します。
この頃のイングランドは,三王国戦争(ピューリタン革命)の真っ最中。〈クロムウェル〉の築いた共和政が王政復古で幕を閉じたのが1660年。国王に復位したステュアート家の
〈
チャールズ2
世
〉は,1662年にポルトガルの王女と結婚していて,持参金としてインド
の
ボンベイ
島
を獲得します。まさかこの島が,今後のイギリスの"生命線"になろうとは,思いもよらなかったわけです。なお,彼女はこのときにインドの喫茶の風習もイギリスに持ち込み,従来のアルコールに代わって,茶が広まっていくきっかけをつくりました
(注
)
。
ボンベイ島はイギリス東インド会社にわたり,1687年に島の対岸
に
ボンベ
イ
を建設
(⇒1650~1760の南アジア)
。 さらに,1690年
に
カルカッ
タ
【本試験H27地図上の位置】
【本試験H8フランスの建設ではない】
に商館を開設します。
(注)角山栄『茶の世界史』中公新書,(1980)2017,p.39。
フランス
これに対して,フランスは1673年に南インドの東海岸
に
ポンディシェ
リ
【東京H27[3]】
【本試験H27・H30】
【本試験H2フランスの拠点はゴアではない,本試験H8イギリスの建設ではない】
【追H19,H20地図(インド亜大陸の東海岸か),ポルトガルが16世紀に居住権を得ていない,それはマカオ。17世紀にフランスが拠点を築いたか問う】
を建設,1688年にはベンガル地方
の
シャンデルナゴ
ル
【追H28ポルトガルの拠点ではない】
【セ試行】
【本試験H16】
に
フランス東インド会
社
【本試験H6他のヨーロッパ諸国に先んじての設立ではない】
【本試験H16ルイ14世が創設したわけではない】
の商館が設置されています
(注)
。
(注)ここで、フランス東インド会社にまつわる厄介な事情について説明しましょう。
フランス東インド会社は,1604年に〈アンリ4世〉のときに創設されたもののまもなく経営不振となり,1664年に財務総監の〈コルベール〉により再建されていました
【本試験H16】
。しかし〈コルベール〉の死後は活動が停滞。その後、国王〈ルイ15世〉(位1715~1774)の信任を得た経済学者〈ジョン=ロー〉が財務総監に就き、個別に存在していた海外貿易をおこなう会社(西インドやアフリカを担当する西洋会社〔西方会社〕や、東インドを担当するフランス東インド会社)を
フランスインド会社
に統合。
東インドの商品で西アフリカの奴隷を購入し、西インドに運んで砂糖プランテーション生産された砂糖をヨーロッパに運び、銀を得て東インドの商品を買い
...というグローバルな視野を持つプロジェクトが考案されたのです。しかしこれらを統合するのは現実には難しく、実質的には1731年にアフリカ・西インドの貿易は自由化されたので、独占会社としてのフランスインド会社は「フランス
東
インド会社」というべきものになりました。ですから、〈ジョン=ロー〉による統合以降、厳密にいうと「フランス東インド」会社は消滅しましたが、業務内容は実質的には「東インド」に関するものですから、その後も慣例的に「フランス
東
インド会社」ということが多いです。厄介ですね。この改革によってフランス東インド会社はちょっとだけ株式会社的な性質を持つに至りますが、イギリスやオランダにくらべれば王権と政府の影響力が強かったのが特徴です。羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、pp.294-295。
◆ムガル帝国の覇権がゆるみ混乱する現地政権に英仏の東インド会社が介入する
東インド会社が、商事会社から政治権力に変わる
ムガル帝国の国力が低下し社会が不安定化すると、イギリスとフランスの商館や居留地では安全を確保するために軍事力を増強する動きが進んでいました。各国の商館・居留地は、現地の政権と個別に協力関係を結ぶようになっていきます。たとえばこの頃、ポンディシェリーのフランス総督が、マラーター勢力と敵対するアルコット(マドラスやポンディシェリーに近い)の太守(ナワーブ)からの求めに応じ、これを援助。アルコットのナワーブは感謝の印として、ポンディシェリー近郊の2つの村をフランス東インド会社に譲り、ムガル帝国がフランスの総督を「ナワーブ」(太守)としてくれるように取り計らってくれたのです
(注1)
。
これは大変な変化です。
のちの歴史の流れを先読みすれば、単なる商事会社としての東インド会社が、「陸の帝国」をめざす第一歩であったともいえます。
当然フランスが現地政権と手を結ぶ動きをとれば、やはりイギリスも対抗して同じ姿勢をとります。
1744年には,オーストリア継承戦争と連動した第一次カーナティック戦争,その後の第二次・第三次カーナティック戦争で,南西インドではイギリスが優勢になっていきます。カーナティックというのは戦争のあったカルナータカを英語風に読んだものです。
しかしこうしたインドのフランス総督の動きを、本国のパリ本社執行部は嫌います。フランス総督〈
デュプレクス
〉(1697~1763)は、インドのデュプレクスはフランス士官によってインド人歩兵にヨーロッパ式の操銃訓練を学ばせる先進的な作戦で巨額の富を得ていたのです。彼は1754年に解任され、本国で貧窮のうちに亡くなっています。
1749年には,ポルトガルにより1522年に拠点となっていたサン=トメをマドラスに併合。
このサン=トメのタテ
その後、ヨーロッパ
の
七年戦
争
【追H20】
と連動し、かつてカーナティック戦争でフランスを撃破したこともある〈ロバート
=
クライ
ヴ
〉(1725~74)がシャンデルナゴルのフランス要塞を攻撃、これを降伏させています
(注3)
。
その4ヶ月後、ベンガル州の太守(ナワーブ)〈スィラージュ=アッダウラ〉がイギリス東インド会社の要塞を占領するという事態が発生。それに対し、〈クライヴ〉率いるイギリス東インド会社が軍事行動を起こし、1757年
の
プラッシーの戦
い
【本試験H18時期(50~60年代ではない),本試験H11時期(1880年代か問う)、本試験H25】【H30共通テスト試行 現在のカナダ全体で第一言語の比率として
英語
が高いのは、「プラッシーの戦いの結果、イギリスによる支配の基礎が築かれた」ことが背景にあるか問う(正しい)】
【追H24フランスが勝利していない】
の 結果,イギリス
【追H24フランスではない】
側が勝利します。じつは〈クライヴ〉は〈スィラージュ=アッダウラ〉の叔父で軍司令官であった〈ミール=ジャーファル〉と裏取引し、〈ミール〉を新しいナワーブとすることを承認していました。
その後もフランス東インド会社による反攻はつづき(第三次カーナティック戦争)、1758年~59年にはフランスによるマドラスの包囲も起こりますが、1760年ヴァンディヴァッシュの戦いでフランスがイギリスに決定的に敗北。
1763年には七年戦争の結果、イギリス・フランス・スペイン間
で
パリ条
約
が結ばれ,フランスは一部の商業都市を除き、インドから撤退することになりました。〈クライヴ〉は1765年にベンガル知事に任命され、巨額の富を築きます。
こうして,次の時期にはイギリス東インド会社によるインドの「領域」支配が進行していき、その後インドでフランス勢力がイギリスに対して力を盛り返すことはありませんでした。
(注1) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.307。
(注2) 神奈川世界史教材研究会「桟留から世界を見る-世界に大きな影響を与えたインド綿織物」『高等学校 世界史のしおり』2003.9,帝国書院。
(注3) 「プラッシーの戦いは、フランス東インド会社とベンガル太守の連合軍が、イギリス東インド会社に撃破された」という説明は正確ではありません。時系列でいえば、まずイギリス東インド会社がフランス東インド会社を攻撃し、その後、イギリス東インド会社がベンガル太守を攻撃しています。たしかにベンガル太守軍にはフランス東インド会社も兵力を出していますが、その数わずか40人でした。どちらかというと、1760年のヴァンディヴァッシュの戦いのほうが、フランスの決定的敗北という大きな意義を持っています。羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.311。
・
165
0
年
~
176
0
年のアジア 南アジア
現⑦
ネパール
ネワール人のマッラ朝は15世紀後半に2つに分裂していましたが,1619年にさらに分裂し,王家は3分されました。
王家の分裂は外部勢力の干渉を許し,ネパール(カトマンズ)盆地の外にあっ
た
ゴルカ王
国
(1559~1768)の力が強まっていきました。
●165
0
年
~
176
0
年のインド洋海域
インド洋海
域
...インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島,モルディブ,イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域,マダガスカル,レユニオン,モーリシャス,フランス領マヨット,コモロ
ヨーロッパ諸国の参入が相次ぐ
インド洋の島々は,交易ルートの要衝として古くからアラブ商人やインド商人が往来していました。
しかし、この時期インド洋の幅広い場所において、ポルトガルやスペインなどの他のヨーロッパ諸国の活動を圧倒するようになっていたのがオランダ〔ネーデルラント連邦共和国〕です。
17世紀前半にインド北西のグジャラート地方の港町・スーラトに商館を設置。アラビア半島のモカ、ペルシャ湾のバンダレ=アッバースにも商館を置いています。
17世紀なかばにはインド西南海岸の港町・コーチンを占領(ポルトガル人の拠点でした)。
さらに、シナモンの産地セイロン島からもポルトガル人を追放。
インド東海岸のマスリパトナム、プリカットにも商館を設置しています
(注)
。
(注)羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.99。
・
150
0
年
~
165
0
年のインド洋海域 インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島
アンダマン諸島・ニコバル諸島は,現在のミャンマーから,インドネシアのスマトラ島にかけて数珠つなぎに伸びる島々です。
アンダマン諸島の先住民(大アンダマン人,オンガン人(ジャラワ人など),センチネル人)
は
オーストラロイ
ド
の
ネグリト人
種
に分類され,小柄な身長と暗い色の肌が特徴です。先史時代に「北ルート」と「南ルート」をとった人類の子孫とみられています
(⇒70
0
万年
~
1200
0
年の世
界
)
。
外界との接触は少なく,狩猟・採集・漁撈生活を営んでいます。
・
165
0
年
~
176
0
年のインド洋海域 モルディブ
モルディブはインド洋交易の要衝で,1558年~1573年に
は
ポルトガル王
国
が占領しています。
代わって1645年に,ネーデルラント連邦共和国
(注
)
は
,
モルディ
ブ
を保護国化にしています(1796年まで)。
(注)オランダ,事実上スペインから独立しています。
・
165
0
年
~
176
0
年のインド洋海域 イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域
ディエゴガルシア島を含むチャゴス諸島へのヨーロッパ諸国による植民は始まっていません。
・
165
0
年
~
176
0
年のインド洋地域 マダガスカル
フランスの勢力は17世紀後半に駆逐されましたが,その後もフランスは支配を維持しようとします。
一方,15世紀以来の奴隷交易の利益や牛の牧畜と稲作の支配を背景に,マダガスカル島の中央部の高原地帯には,17世紀初め
に
メリナ王
国
をはじめとする諸小王国が建ち並びんでいました。
いずれもオーストラロイド語族の言葉を話すマラガシー人で,アラブ文化やマレー文化などのさまざまな文化の影響がみられます。
マラガシー人の一
派
サカラバ
人
は,奴隷交易で手に入れた武器を背景として,17世紀半ばにマダガスカル西部に支配圏を広げ,18世紀半ばにかけて王国を築きます。サカラバにあって,メリナになかったもの
は
銃
でした。
・
165
0
年
~
176
0
年のインド洋地域 レユニオン
1507年にポルトガル人が発見したときには無人島でした。
1640年にフランス人に領有されたブルボン島(現レユニオン島)は,1665年にフランス東インド会社がアジアへの中継基地として植民を始め,コーヒーやサトウキビの栽培を開始します。
(注)羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.169,292。
・
165
0
年
~
176
0
年のインド洋地域 モーリシャス
レユニオンの東方のマスカレン諸島にある現モーリシャスは,1505年
に
ポルトガ
ル
が到達したときには無人島でした。1638年以降,ネーデルラント連邦共和国
(
オラン
ダ
。当時は事実上スペインから独立)の植民が始まりましたが,経営に失敗して1710年には撤退します。
代わって1715年にフランスが植民し「フランス島」に改称。すでにフランスの財務総監〈コルベール〉(1619~1683)の頃に、アジアへの中継基地が設けられていました
(注)
。奴隷を導入し
た
サトウキビのプランテーショ
ン
がおこなわれます。
(注)羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.169,292。
・
165
0
年
~
176
0
年のインド洋地域 フランス領マヨット,コモロ
マヨッ
ト
のヨーロッパ人による植民地化はすすんでいません。
ヤアーリバ朝オマー
ン
(1624~1720)の君主〈スルターン・イブン・サイフ〉(1692~1711)が,東アフリカのポルトガル勢力を駆逐したことを背景に
,
コモ
ロ
には,イスラーム教徒による複数の国家が建ち並んでいました。
・
165
0
年
~
176
0
年のインド洋海域 セーシェル
セーシェルには1742年にフランスが植民を始め,1756年に領有を宣言します。
◆
ヨーロッパ諸国は,アフリカ大陸の現地勢力と通商関係を結び,奴隷交易を発展させる
○
165
0
年
~
176
0
年のアフリカ 東アフリカ
東アフリ
カ
...①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ
・
165
0
年
~
176
0
年のアフリカ 東アフリカ
現①
エリトリア
現在のエリトリアの地域には,14世紀にティグレ人などがミドゥリ=バリ(15世紀~1879)という国家を建設しています。
一方,オスマン帝国の勢力が拡大し,アラビア半島方面との奴隷交易も盛んです
・
165
0
年
~
176
0
年のアフリカ 東アフリカ
現②
ジブチ
現在のジブチを拠点としてい
た
アダ
ル
の領域には,南方からクシ語派
の
オロモ
人
が進出しています。
・
165
0
年
~
176
0
年のアフリカ 東アフリカ
現③
エチオピア
エチオピア高原でオロモ人の勢力が強まる
エチオピア高
原
に16世紀以降,東クシュ系の半農半牧
の
オロモ
人
が進入し,打撃を受けてい
た
エチオピア帝
国
の皇帝〈スセニョス1世〉(位1606~1632)は,銃器を提供してくれ
る
ポルトガ
ル
に接近。皇帝はカトリックに改宗したことで内戦が起き,1632年に退位。
その後,都はゴンダルにうつされ,比較的平和な時代が訪れます。
オロモ人の中にはイスラーム教を採用し,傭兵としてエチオピアの内戦に参加するグループや,イスラーム教やキリスト教に基づかない,無頭制 (特定の首長をもたない制度) の社会を築くグループがありました。
・
165
0
年
~
176
0
年のアフリカ 東アフリカ
現④
ソマリア
,⑤
ケニア
,⑥
タンザニア
東アフリカのインド洋沿岸
【追H28東南アジア海域ではない】
【H30共通テスト試行 インドネシアではない】
に
は
スワヒリ
語
【追H28
】
文化
圏
が成立し,アラブ人やペルシア人商人,インド商人との交易が港市国家で活発に行われていました。
1498年にはポルトガル王国の
〈
ヴァス
コ=ダ=
ガ
マ
〉がマリンディを訪れ,航海士・地理学者〈イブン=マージド〉(1421?~1500?)に導かれインド
の
カリカッ
ト
に到達しています。
・
165
0
年
~
176
0
年のアフリカ 東アフリカ
現⑦
ブルンジ
,⑧
ルワンダ
,⑨
ウガンダ
ヴィクトリア湖周辺では,農耕を中心とす
る
バントゥ
ー
系住民と,牧畜を中心とす
る
ナイロー
ト
系住民が提携し,政治的な統合が生まれています。
○
165
0
年
~
176
0
年のアフリカ 南アフリカ
南アフリ
カ...①
モザンビーク
,②
スワジランド
,③
レソト
,④
南アフリカ共和国
,⑤
ナミビア
,⑥
ザンビア
,⑦
マラウイ
,⑧
ジンバブエ
,⑨
ボツワナ
ポルトガル王国は,アフリカ大陸南西部(大西洋側)
の
アンゴ
ラ
【追H18】
と,南東部(インド洋側)
の
モザンビー
ク
を植民地化していきます。
・
165
0
年
~
176
0
年のアフリカ 南アメリカ
現①
モザンビーク
アフリカ東南部のバントゥー系ショナ人によ
る
モノモタパ王
国
【本試験H9[24]地図上の位置を問う】
では,ポルトガル人による介入が相次いでいました。
そんな中,王国につかえていた牛の監督官〈チャンガミレ〉が1680年代に勢力を拡大して,ポルトガル商人を追放するとともにモノモタパ王国を圧倒し,高原南西部を支配しました。
これ以降,この地域に
は
ショナ
人
による小国が分裂するようになります。モノモタパ王国は存続こそしたものの,1694年~1709年の内戦で王が9代交代し,18世紀初め以降は支配下にあった首長が独立を始め,19世紀末に事実上消滅することになります。
チャンガミレ王国も,18世紀を通して衰退に向かっていきました。
・
150
0
年
~
165
0
年の南アフリカ
現①
モザンビーク
◆
ザンベジ川周辺のムタパ王国は金・象牙交易で栄えた
アラブ人とポルトガル人が,東アフリカ奥地へ
ザンベジ
川
【本試験H29ニジェール川ではない】
流域では,現在のモザンビーク周辺に
,
ムタ
パ
(
モノモタパ王
国
【本試験H9[24]地図上の位置を問う】
【本試験H29】
)が,金と象牙,ビーズと布の遠隔地交易で栄えていました。
1488年に喜望峰を発見し
た
ポルトガル王
国
の進出が続き,南東部(インド洋側)
の
モザンビー
ク
を植民地にします。1505年
(注
)
にはモザンビーク中部のソファラに来ていたポルトガルは,16世紀後半にイスラーム商人の勢力を駆逐し,交易の主導権を握ります
【本試験H3大航海時代以前,ムスリム商人は,香辛料交易で活躍していたか問う】
。
その後もムタパ国の王位継承に介入を続け,1596年
(注
)
にはザンベジ川に沿ってザンベジ=バレー一帯を支配します。
そこからマラヴィ王国との間に象牙の取引,さら
に
ジンバブウ
ェ
との間
に
金
の取引をしていたのです。すでにマラウィ〔タンガニーカ〕湖は,のちに19世紀に〈リヴィングストン〉が到達する前に知られており,アラブ人の商人も奥地に交易に訪れていました。
イエズス会の宣教師〈ヴァリニャーノ〉(1539~1606)が〈織田信長〉に1581年に謁見した際,珍しがった〈信長〉により引き取られた召使いの〈ヤスケ〉(弥助,生没年不詳)という人物は,このうちポルトガル領東アフリカ(現モザンビーク)と考えられています。彼の消息は,本能寺の変(1582)以降は不明です
。
・
150
0
年
~
165
0
年のアフリカ 南アフリカ
現②
スワジランド
バントゥー系のングニ人の一派が,現在のモザンビークのマプト周辺から現在のスワジランドに移住したのは17世紀初め頃のことで,スワジ人のまとまりを形成していきました。18世紀前半に〈ドラミニ3世〉が現在につながるスワジランド王国の基礎を築いています。
・
150
0
年
~
165
0
年のアフリカ 南アフリカ
現③
レソト
バントゥー系
の
ソト
人
は北方から現在のレソトに移動し,政治的な統合がすすみます。彼らはバントゥー語群のソト語(セソト)を話し,彼ら自身は「バソト」と名乗っていました。
先住のサン人は居住地を追われていきました。
・
150
0
年
~
165
0
年のアフリカ 南アフリカ
現④
南アフリカ共和国
現在の南アフリカには,バントゥー系の農耕民が南端付近まで進出し,バントゥー語群のングニ人(そのうち
の
コーサ
人
)に,ナタール地方にはバントゥー系のングニ人(そのうち
の
ズールー
人
)が分布していて,国家を形成しています。
内陸の高地にはバントゥー語系
の
ソト
人
や,同じくバントゥー語系
の
ツワナ
人
などがいて,国家を形成しています。
もともと居住していた狩猟採集民
の
コイコイ
人
は,南西部に居住しています。
そんな中,1652年
に
オラン
ダ
〔ネーデルラント連邦共和国〕が,喜望峰の北方に植民都
市
ケープタウ
ン
を建設。この地域は温暖な地中海性気候で,果樹栽培や農耕が可能でした。これ
を
ケープ植民
地
といいます
【本試験H4スペインの建設ではない】
【追H9 1763年のパリ条約によるものではない,H24オランダの植民地か問う、H30フランスの建設ではない】
。
1685年にフランスでナントの王令が廃止されると,カルヴァン派
〔
ユグノ
ー
〕も植民に参加。
彼らはケープタウン北方の牧草地に武装して進出し,先住
の
コイコイ
人
を駆逐して,牧畜エリアを広げていきました。
しかし,バントゥー系
の
コーサ
人
が行く手を阻み,両者に対立も生まれるようになります。
・
165
0
年
~
176
0
年のアフリカ 南アフリカ
現⑤
ナミビア
ナミビアの海岸部に
は
ナミ
ブ
砂漠が広がる不毛の大地。
先住のサン人の言語で「ナミブ」は
「
何もな
い
」という意味です(襟裳岬と同じ扱い...)。
そんなナミビアにもバントゥー系の人々の居住地域が広がり,バントゥー語群
の
ヘレロ
人
も17~18世紀にかけて現在のナミビアに移住し,牧畜生活をしています。ナミビア北東部のアンゴラとの国境付近のヘレロ人の一派は〈ヨシダナギ〉(1986~)の撮影で知られ
る
ヒン
バ
です。
・
165
0
年
~
176
0
年のアフリカ 南アフリカ
現⑥
ザンビア
この時期のザンビアには,北部
に
ルン
ダ
王国,北東部に
は
ベン
バ
人の国家,東部に
は
チェ
ワ
人(現在のマラウイの多数派民族)の国家,西部に
は
ロ
ジ
人の国家が分布しています。
内陸に位置するザンビアにアラブ人やポルトガル人が訪れたのは,沿岸部に比べて遅い時期にあたります。
・
165
0
年
~
176
0
年のアフリカ 南アフリカ
現⑦
マラウイ
現在のマラウイ南部,モザンビーク中部,ザンビア東部には1500~1700年頃の
間
マラヴィ王
国
が統治していました。沿岸部のポルトガルと
の
象
牙
の交易で栄え,〈マスラ王〉(位1600~1650)が有名です。
(注)栗田和明『マラウィを知るための45章 第2版』明石書店,2010,p.42~p.43
・
150
0
年
~
165
0
年のアフリカ 南アフリカ
現⑧
ジンバブエ
ジンバブエでは,かつてグレート=ジンバブエの栄えた地(現在のジンバブエ南東部)から北350kmの地に,15世紀前半
に
ムタパ王
国
が建国されました。
一方,南西部の高原地帯のカミを中心に15世紀半ば以
降
トル
ワ
王国が金の採掘や牧畜で栄え,リンポポ川下流のモザンビーク方面でアラブ人やポルトガル人との交易も行っていました。
17世紀後半にはバントゥー系
の
ショナ
人
が台頭し,トルワ王国を打倒し
て
ロズウ
ィ
王国を建国しています。
・
150
0
年
~
165
0
年のアフリカ 南アフリカ
現⑨
ボツワナ
ボツワナの大部分は砂漠
(
カラハリ砂
漠
)や乾燥草原で,農耕に適さず牧畜や狩猟採集が行われていました。
バントゥー系
の
ツワナ
人
は農耕のほかに牧畜も営み,ボツワナ各地に首長制の社会を広げています。
先住のコイサン系
の
サン
人
も,バントゥー系の諸民族と交流を持っています。
1652年にオランダ〔ネーデルラント連邦共和国〕のケープタウンへの植民が始まると,北上するヨーロッパ系住民との接触も起こるようになります。
○
165
0
年
~
176
0
年のアフリカ 中央アフリカ
中央アフリ
カ
...
現①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン
この時期になっても,コンゴ盆地のザイール川上流域に広がる熱帯雨林の世界は,"闇の世界"として,ヨーロッパ人にはほとんど知られずにいました。ザイール川の上流とナイル川の上流部は「つながっているのではないか?」という説もあったほどです。イスラーム商人の流入や,ヨーロッパ人によ
る
奴隷貿
易
に刺激された奴隷狩りなどの外部の影響を受けながらも,バントゥー系の小さな民族集団が,焼畑農耕を営みながら住み分けていました。
アンゴ
ラ
にはポルトガルの植民が進んでいましたが,17世紀中頃には新たに進出したオランダとの間で抗争も起きています。17世紀後半にはコンゴ王国の王権はあって無いような状態となり,コンゴ盆地には諸王国が分立していました。
・
150
0
年
~
165
0
年のアフリカ 中央アフリカ
現①
チャド
ボルヌ王
国
(14世紀末~1893)が強大化しています。
・
150
0
年
~
165
0
年のアフリカ 中央アフリカ
現②
中央アフリカ
ボルヌ王
国
(14世紀末~1893)が強大化しています。
・
150
0
年
~
165
0
年のアフリカ 中央アフリカ
現③
コンゴ民主共和国
,④
アンゴラ
,⑤
コンゴ共和国
,⑥
ガボン
ザイール川流域のコンゴ盆地では,ポルトガル留学帰りの
〈
アフォンソ1
世
〉(〈ムベンバ〉)が,ヨーロッパの文化を取り入れなが
ら
コンゴ王
国
を支配しました。コンゴ王国では官僚機構が発達していましたが,各州の統治は地方の首長に任せられていました。この時期には,アメリカ大陸か
ら
キャッサ
バ
というイモの一種が伝わった時期でもあります。日本ではタピオカという加工品で食べられることがほとんどですが,蒸すとボリューム感があり,栄養も満点です。従来の料理
用
バナ
ナ
に比べても,土地生産性が高いので,熱帯雨林の焼畑耕作の主力になっていきました。
コンゴ王
国
とポルトガルとの交易も盛んになり,ポルトガルからは銃・火薬などの武器や衣服などの日用品,銅や鉛などが伝わり,コンゴ王国からは木材,魚のくん製や象牙が運ばれました。
コンゴ王国や,それに服属する諸国など内陸の諸勢力が強力だったため,ポルトガルの支配は内陸にまでは及ばず,沿岸部の交易所での取引が中心となりました。
コンゴ王は,財源を得るためにポルトガル人に住民
を
奴
隷
として販売することを認めていましたが,奴隷商人による奴隷狩りは日増しにエスカレート。コンゴ王は,ポルトガル王
に
奴隷貿
易
への規制を求める手紙を送ったものの無視され,ローマ教皇にも中止を求めましたが,対策が打たれることはありませんでした。沖合
の
サントメ
島
を中心にポルトガル人が内陸の勢力と提携して実施した奴隷貿易は激化していき,1570年以降は奴隷の導入が王室によって奨励されるようになっていきました。導入された黒人奴隷は,主
に
サトウキ
ビ
のプランテーションで働かされました
(⇒1500~1650の中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ)
。
他のヨーロッパ諸国も奴隷貿易に参入し,奴隷の商品価値が高まっていくと,「奴隷を売り飛ばせばもうかる」と考えたコンゴ盆地の諸民族は,ヨーロッパから輸入した火器を用いて奴隷狩りを進めるとともに,コンゴ王国に対抗して支配地域を拡大させようとします。
こうして1600年代にはコンゴ王国とポルトガル王国との対等な関係は崩れ,コンゴ王国は急速に衰退していくことになり,奴隷交易にはオランダ,フランス,イギリスも参入していきました。
ザイール川の上流域のサバンナは,中央アフリカを横断する交易路の中心部を占める重要な地域です。ここでは鉄・銅・塩などの遠隔地交易を背景に,バントゥー
系
ルバ王
国
と
ルンダ王
国
が栄えました。
東アフリカ方面からはイスラーム教も伝わり,イスラーム商人も奴隷貿易に従事していました。現在,コンゴ盆地の大部分を占めるコンゴ民主共和国では80%をキリスト教が,10%をイスラーム教が占めています。
アンゴラには1500年に〈バルトロメウ=ディアス〉の孫〈ノヴァイス〉(1510?~1589)が植民を開始し,ルアンダを建設しました。ここから積み出された黒人奴隷は,ブラジルに運搬されました。1590年以降はポルトガルによる直轄支配が始まりましたが,しだいにオランダが進出するようになります。
・
150
0
年
~
165
0
年のアフリカ 中央アフリカ
現⑦
サント
メ=
プリンシペ
サントメ=プリンシペは,現在のガボンの沖合に浮かぶ火山島です。
1470年
に
ポルトガ
ル
人が初上陸して以来,1522年にポルトガルの植民地となります
。
奴隷交
易
の拠点とともに
,
サトウキビのプランテーショ
ン
が大々的に行われました。
・
150
0
年
~
165
0
年のアフリカ 中央アフリカ
現⑧
赤道ギニア
現在の赤道ギニアは,沖合のビオコ島と本土部分とで構成されています。
15世紀の後半にはポルトガル人〈フェルナンド=ポー〉(15世紀)がビオコ島に到達し,ポルトガル領となっています。
・
150
0
年
~
165
0
年のアフリカ 中央アフリカ
現⑨
カメルーン
現在のカメルーンの地域は,この時期に強大化し
た
ボルヌ帝
国
の影響を受けます。
カメルーンの人々はポルトガルと接触し,ギニア湾沿岸
の
奴隷交
易
のために内陸の住民
や
象
牙
(ぞうげ)などが積み出されていきました。
○
165
0
年
~
176
0
年の西アフリカ
西アフリ
カ
...
①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ
・
165
0
年
~
176
0
年のアフリカ 西アフリカ
現①
ニジェール
,②
ナイジェリア
,③
ベナン
ベニン王国
ニジェール川下流域(現在のナイジェリア南部)では,下流
の
ベニン王
国
(1170~1897)が15世紀以降ヨーロッパ諸国との奴隷貿易で栄えます。デフォルメされた人物の彫像に代表され
る
ベニン美
術
は,20世紀の美術家
〈
ピカ
ソ
〉(1881~1973)らの立体派に影響を与えています。
ダホメー王国
その西の現在の
③
ベナ
ン
の地域にフォン人
の
ダホメー王
国
(18世紀初~19世紀末)があり,東にいたヨルバ人のオヨ王国と対立し,奴隷貿易により栄えます。
オヨ王国
17世紀には,ベニン王国の西(現在のナイジェリア南東部)でヨルバ人によ
る
オヨ王
国
(1400~1905)が勢力を拡大させました。もともとサハラ沙漠の横断交易で力をつけ,奴隷貿易に参入して急成長しました。1728年には,ベニン王国の西にあっ
た
ダホメー王
国
を従えています。
ハウサ諸王国
ニジェールからナイジェリアにかけての熱帯草原〔サバンナ〕地帯には
,
ハウサ人の諸王
国
が多数林立しています。
ハウサ王国はチャド湖を中心とするボルヌ帝国と,西方のニジェール川流域のソンガイ帝国の間にあって,交易の利を握って栄えています。
・
165
0
年
~
176
0
年のアフリカ 西アフリカ
現④
トーゴ
,⑤
ガーナ
ギニア湾沿岸には,現在の
⑤
ガー
ナ
を中心
に
アシャンティ王
国
(1670~1902)
【東京H9[3]】
が奴隷貿易によって栄えました。アシャンティ人の王は「黄金の玉座」を代々受け継ぎ,人々により神聖視されていました。海岸地帯は「黄金海岸」と呼ばれ,1482年にポルトガルに建設されたエルミナ要塞は,奴隷貿易の中心地となりました。1637年にオランダ東インド会社が継承し,のちにイギリスが継承しています。
現在の
④
トー
ゴ
は,アシャンティ王国やダホメー王国の影響下にありました。
・
165
0
年
~
176
0
年のアフリカ 西アフリカ
現⑥
コートジボワール
ヨーロッパ人によって
「
象牙海
岸
」と命名されていた現在のコートジボワール。
コートジボワール北部
,
ブルキナファ
ソ
からマリにかけてニジェール=コンゴ語
族
マンデ
系
のコング王国。コートジボワール東部にニジェール=コンゴ語
族
アカン
系
のアブロン王国(Gyaman)などが栄えています。
・
165
0
年
~
176
0
年のアフリカ 西アフリカ
現⑦
リベリア
ヨーロッパ人によって
「
胡椒海
岸
」と命名されていた現在のリベリア。1662年にはイギリスの交易所が設けられています。
・
165
0
年
~
176
0
年のアフリカ 西アフリカ
現⑧
シエラレオネ
シエラレオネにはイギリスの交易所が沿岸に設けられ,奴隷交易がおこなわれていました。
・
165
0
年
~
176
0
年のアフリカ 西アフリカ
現⑨
ギニア
現在のギニア中西部の高原には熱帯雨林と熱帯草原〔サバンナ〕が広がりフータ=ジャロンと呼ばれます。この地の牧畜
民
フラニ
人
は,1725年
に
フー
タ=
ジャロ
ン
王国を建国し,イスラーム教を統合の旗印として周辺地域に支配エリアを広げています。
・
165
0
年
~
176
0
年のアフリカ 西アフリカ
現⑩
ギニアビサウ
現在のギニアビサウにはポルトガルが「ビサウ」を建設し,植民をすすめています。
・
165
0
年
~
176
0
年のアフリカ 西アフリカ
現⑪
セネガル
,⑫
ガンビア
セネガ
ル
では,ウォロフ人のジョロフ王国がソンガイ帝国との交易で栄えていました。しかし,次第にポルトガル,オランダ,イギリス,フランスなどとの金や奴隷の交易も本格化していきます。17世紀後半に
は
フラン
ス
の勢力が強まり,16世紀中頃にはセネガルの王国は分裂します。1659年にフランスはサン=ルイという交易所を建設し,1677年にはアフリカ最西端のカップ=ヴェール岬(ポルトガル語ではカーボ=ヴェルデ岬)近く
の
ゴレ
島
をオランダから奪い,内陸から運ばれてくる奴隷の集荷・発送の拠点となっていきました。ヨーロッパ諸国はここに鉄,織物,武器を持ち込み,金や奴隷,アラビアゴムと交換しました
(
注
1
)
。ゴレ島は"負の遺産"として世界文化遺産として登録(1978)されています。フランス人の入植がすすむとともに,セネガルの住民との混血もすすみます。サン=ルイの商館長にはフランスから派遣された人物が任命されましたが,1758年には現地人の混血者とヨーロッパ出身者によるサン=ルイ市会ができており,自治組織もつくられていきました。
(注)小林了編著『セネガルとカーボベルデを知るための60章』明石書店,2010年,p.22。読み物として「黒人奴隷クンタの20年間」を参照(http://kunta.nomaki.jp/)。
・
165
0
年
~
176
0
年のアフリカ 西アフリカ
現⑬
モーリタニア
現在のモーリタニアでは,1644~1674年の戦争でアラブ系の遊牧民がベルベル系の遊牧民の連合(サンハージャ)を打倒して以来,アラブ化がすすんでいます。
・
165
0
年
~
176
0
年のアフリカ 西アフリカ
現⑭
マリ
ニジェール川沿岸部はサハラ砂漠を越える金と岩塩の交易の拠点でした。モロッコ方面か
ら
サアド
朝
が進出し支配していましたが,17世紀に入ると支配は弱まります。
・
165
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年
~
176
0
年のアフリカ 西アフリカ
現⑮
ブルキナファソ
ニジェール川湾曲部の南方に位置する現在のブルキナファソには
,
モシ王
国
が栄えていました。
○
165
0
年
~
176
0
年のアフリカ 北アフリカ
北アフリ
カ
...
①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア
・
165
0
年
~
176
0
年のアフリカ 北アフリカ
現①
エジプト
エジプ
ト
にはオスマン帝国の総督が置かれ,インド洋交易により貨幣経済が栄えました。カイロ市内にはキリスト教徒(コプト教会,ギリシア正教会,アルメニア教会),ユダヤ教徒とスンナ派のイスラーム教徒が街区ごとにゆるやかに分かれ共存していました。
・
165
0
年
~
176
0
年のアフリカ 北アフリカ 現②スーダン
,③
南スーダン
ダルフー
ル=
スルターン国,ワダ
イ=
スルターン国
スーダン南西部のダルフール地方では,フル人の指導者がチャド湖周辺
の
ボルヌ帝
国
の支配を脱し,16世紀末にイスラーム教国
の
ダルフー
ル=
スルターン
国
を建国し,エジプト方面への奴隷交易で栄えています。17世紀前半にはさらにその西のチャド東部を拠点
に
ワダ
イ=
スルターン
国
が建国されています。
フン
ジ=
スルターン国
また,ナイル川の上流部(白ナイル)沿岸のセンナールという都市を中心に,フンジ人のセンナール王国(フンジ=スルターン国,16世紀~1821
年
(注
)
)が交易地として栄えています。
その他
ナイル川上流部の現
・
南スーダ
ン
周辺には,ナイル=サハラ語
族
ナイロー
ト
系の農牧民
の
シルッ
ク
人(ナイル=サハラ語族)が多数の小王国の連合を形成しています。ほかに,同じくナイロート系
の
ディンカ
人
や
,
ヌエル
人
などの農牧民が社会を形成しています。
・
165
0
年
~
176
0
年のアフリカ 北アフリカ
現④
モロッコ
,⑤
西サハラ
モロッ
コ
は,アルジェリア・チュニジア・リビアと違ってオスマン帝国を防ぐことに成功し,〈ムハンマド〉の家系(シャリーフ)を称す
る
サード
朝
(1511~1659)が有力となりました。サード朝はサハラ沙漠にも進出しましたが,17世紀初めに最盛期の〈マンスール〉が亡くなると地方の遊牧民や山岳部のベルベル人の自立が始まり,1659年に最後の王が暗殺され滅亡しました。各地に政権が林立する中,サハラ沙漠の交易ルートを握ったアラウィー家が17世紀後半に頭角を現しました
(
アラウィー
朝
)。
・
165
0
年
~
176
0
年のアフリカ 北アフリカ
現⑥
アルジェリア
北アフリカ西部のマグレブ地方
の
アルジェリ
ア
は,オスマン帝
国
アルジェ
州
として間接統治されていました。
・
165
0
年
~
176
0
年のアフリカ 北アフリカ
現⑦
チュニジア
チュニジ
ア
は
チュニス
州
とされ,オスマン帝国が軍司令官(デイ)を派遣しましたが,次第にテュルク(トルコ)系の総督(ベイ)がデイをしのいで自立していきました。1611年にベイに任命された〈ムラード〉家が1702年にシパーヒー(騎兵)長官に暗殺されるまでベイ職を世襲し,パシャ(総督)の称号も与えられました。事実上の王朝建設であり,ムラード朝(1613~1705)と呼ばれます。
1705年には騎兵隊長官〈フサイン〉がアルジェの勢力を排除して実権を握り,1957年まで続くフサイン朝(1705~1957)を築きました(1956年にチュニジアは王国として独立,1957年に王政が廃止されて共和国となります)。フサイン朝はオスマン帝国の自立を進め,ヨーロッパ諸国とも独自に条約を締結するほどでした。
・
165
0
年
~
176
0
年のアフリカ 北アフリカ
現⑧
リビア
リビ
ア
西部のトリポニタニアは,1711年までスルターンに任命されたパシャにより統治されていました。しかし,地方を支配していたテュルク系の〈カラマンリー〉が実権を握り1722年にスルターンによりパシャに任命されて以降,1835年まで彼の一族がパシャの地位を占めました。支配権が一族に世襲されたためカラマンリー朝といいます。地中海の海賊活動やユダヤ人・キリスト教徒の交易活動を保護して繁栄しました。
◆悲惨な宗教戦
争(
三十年戦
争)
の結果,停滞するヨーロッパに「主権国家体制」が生まれた
「軍事革命」が,ヨーロッパ主権国家体制を生む
この時期のヨーロッパは「
1
7
世紀
の
(全般的
)
危
機
」ともいわれる停滞期にあたります。
ドイ
ツ
の神聖ローマ帝国では,プロテスタントとローマ=カトリックとの対立がベーメンの民族運動とも結びつき,1618~48年に
は
三十年戦
争
が起きました。戦場となったドイツは大きな被害を受け,神聖ローマ帝国内の
諸
領
邦
に国家として
の
主
権
が認められました。
これ以降,ヨーロッパ各国は互いの国家の主権を認め
,
外交
官
を交換し合って対等な関係で外交関係を築く体制
(
主権国家体
制
)を作り上げていくようになります。具体的には,三十年戦争後に締結され
た
ウェストファリア条
約
(1648)で取り決められました。
現実問題,キリスト教世界が正教会,ローマ=カトリック,プロテスタント諸派に分裂し,それを取り仕切っていた神聖ローマ帝国の実権もなくなってしまった以上
,
一方
で
軍事革
命
により銃砲・大砲により戦争の犠牲者数のケタが跳ね上がり,悲惨さも増していました。三十年戦争による死者数は400万人(!) とも見積もられています。そりゃ,どうにかして"平和なヨーロッパ"を構築しなければという思いに至るのは当然です。
抜きん出た力を持つ国家が存在しない以上,ある程度まとまっ
た
領
域
を互いに定め,互い
の
主
権
(他国を自国の国内問題に口出しさせない権利)を認め
,
国際会
議
を開き戦争のルールも含め
た
国際条
約
をその都度つくってバランスをとっていくしかないと考えたわけです。対等な国家同士のバランスをとることで平和を維持しようとすること
を
勢力均
衡
といいます。皇帝に冊封(さくほう)されることで域内のバランスをとる東アジア
の
華夷秩
序
(かいちつじょ。中国と周辺国家の"上下関係"に基づく秩序)とは,根本的に異なるわけです。
もちろんこれらを決定できる権限は国民にはなく,国家は王家の"持ち物"とみなされました。したがって,主権国家体制のもとでヨーロッパの国王の中には,国内の諸勢力のバランスをとりつ
つ
常備
軍
と
官
僚
を整備し中央集権化をすすめる政権も現れます。これ
を
絶対王
政
といいます。
○
165
0
年
~
176
0
年のヨーロッパ 東ヨーロッパ
東ヨーロッ
パ
...①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
・
165
0
年
~
176
0
年のヨーロッパ 東ヨーロッパ 現①ロシア
◆ロシア国家が台頭し,バルト海とシベリアに領域を拡大した
ポーラン
ド=
リトアニア連合王
国
とスウェーデン王国に代わり東アジアで台頭していったのが
,
ロシ
ア
です。
その母体は
,
モスクワ大公
国
で,1480年にモンゴル(タタール)人の支配から自立すると,1453年に滅亡していたビザンツ帝国最後の姪と結婚した
〈
イヴァン3
世
〉(位1325~41)
は
ツァー
リ
【本試験H18】
を名乗り,ギリシア正教(東方正教会)の保護者としてローマ帝国の後継国を自任しました。のちにモスクワは
「
第3のロー
マ
」と呼ばれるようになっていきます。
1533年に即位した
〈
イヴァン4
世
〉
(雷帝,在位1533~84)
【本試験H10】
は中央集権を推し進め, 1547年に
は
ツァー
リ
を称し,「全ロシアの君主」として戴冠式を行いました。東
の
シベリ
ア
【本試験H10】
に領土を広げ,こ
の
ツァーリによるロシ
ア
はヨーロッパの枠を越えた帝国へと発展していくことになります。
〈イヴァン4世〉の死後
,
ツァーリのロシ
ア
では貴族の反乱が起こり動乱時代を迎えますが,1613年
に
ロマノフ
朝
(1613~1917,第一次世界大戦中のロシア革命まで)が始まると,強力な農奴制と官僚制に基づくロシア型の絶対王政
(
ツァーリズ
ム
)が確立していきました。
しかし,1648年には支配してい
た
ウクライ
ナ
で
コサ
ッ
クが反乱を起こし,自治権を与えました。これをコサックによる
「
ヘーチマン国
家
」(1649~1786)といいます。これにロシアが接近して1653年に保護国化,ロシアは事実上黒海沿岸
の
ウクライナを併
合
します。
1670年には
,
コサッ
ク
の
〈
ステン
カ=
ラージ
ン
〉(1630~71)
【本試験H18ポーランドではない・時期】
【追H21エカチェリーナ2世は鎮圧していない】
の指導のもとで,南ロシアで反乱を起こしています。反乱鎮圧後には農奴制が強化されます。
◆ロシアの南下とともにオスマン帝国との戦争が続き,〈ピョートル大帝〉は黒海沿岸に進出した
内陸からバルト海へ,ツァーリから
その後〈フョードル3世
〉(任
167
6~
82
)
のときには
,
167
6
年
~
168
1
年にオスマン帝国とクリ
ム=
ハン国
【京
都
H22[2
]
】
との戦
争(
露土戦
争)
を起こします。露土戦争という
と
187
7
年
~
7
8
年のものが最も有名ですが,それ以前にも断続的に何度も引き起こされているのです。
その後,ロマノフ朝が強国にのし上がるきっかけをつくったのが,1682年に即位した
〈
ピョートル1
世
(大帝)〉
(位1682~1725)
【東京H7[3]】
【本試験H22,本試験H26イヴァン4世ではない,本試験H28】
です。同時代の西欧(オランダやイングランド)の最先端の政治・経済を学ぶために2度にわたり視察旅行(1697~98,1716~17)をおこない,大砲の鋳造や造船術を導入して,バルト海への進出のた
め
海
軍
を創設しました。急速な工業化を進めるためマニュファクチュア(工場制手工業)を振興しましたが,そこでは農奴を強制労働させることが許可されています(農奴制マニュファクチュア)。また,領主貴族の長子相続制を定め,分割相続を禁止しました。これにより,長男は領主として農奴から人頭税を徴収できても,次男・三男は14階級に分けられた文武の官僚として働かなくてはならなくなります。なお,重税への抵抗から,1707~08年にはドン=コサックの反乱が起きています。
文化面では西ヨーロッパ風の服装や文化を採用し,ロシア人がたくわえていた"あごひげ"を禁止しました。またカレンダーとし
て
ユリウス
暦
を採用するとともに,ギリシア正教会の総主教への支配を強化。教育改革をおこない,ロシア科学アカデミーがペテルブルクにひらかれ,1705年には東方への進出を見据えて日本語学校もつくらせています。
南方には,1695~96年にオスマン帝国と戦って黒海北岸
の
アゾフ
海
に進出。
西方では
,
スウェーデン王
国
と1700~21年
の
北方戦
争
【本試験H28】
【追H21エカチェリーナ2世ではない,H30ルイ14世のときではない】
(大北方戦争ともいいます)で戦い,
〈
ピョートル1
世(
大
帝
)
〉(位1682~1725)
【本試験H28】
がスウェーデンの
〈
カー
ル
1
2世
〉(在1697~1718)を破りました。
戦争中の1703年から,〈ピョートル大帝〉はバルト海沿岸に新
都
ペテルブル
ク
【本試験H26モスクワではない】
【追H19時期(17世紀の国際貿易港ではない)】
も建設しています。〈カール12世〉がポーランドで戦っている間のことです。
このペテルブルクは
,
バルト
海
への軍事的・経済的進出だけではなく,西ヨーロッパの文芸や科学技術を導入するための"西方への窓"となりました。
1721年には元老院を構成する支配層が〈ピョートル〉に「祖国の父,全ロシア
の
インペラート
ル
(皇帝),偉大なるピョートル」の称号を贈ると,彼は一旦これを形式的に拒否し,その後受け入れました。ロシア国家の君主の称号は「全ロシアのツァーリにして大公」という称号から,「全ロシアのインペラートルにして専制君主」に変わったので,これをもっ
て
ロシア帝
国
が成立したと考えるのが一般的です。
◆ロシアは清との国境を設定し,ベーリング海峡を発見,さらにカムチャツカ半島の漂流日本人を連行し日本語学校をつくった
バルト海から太平洋まで,ヨーロッパからアジアまで
東方はシベリアを通過してオホーツク海に到達し,清との間に国境画定の条約を結び通商を開始します。1689年に〈康煕帝〉との間に締結され
た
ネルチンスク条
約
【京都H22[2]】
【本試験H13史料,本試験H17イリ地方を清から割譲していない,本試験H21キリスト教布教の自由は認めていない,本試験H25】
【早・政経H31乾隆帝の代ではない】
では,ロシアと清の国境が外興安嶺山脈と黒竜江の支流であるアルグン川と定められました。さらに〈ベーリング〉
が
ベーリング海
峡
を発見しています。
また,1697年からは〈アトラソフ〉率いる軍がカムチャツカ半島にも南下をすすめ,アイヌ人や日本人の戦闘も置きます。これを憂慮した江戸幕府は1700年に松前藩に地図の作成を要請。しかし1706年にロシア
は
カムチャツカ半
島
を領有しました。
カムチャツカ半島を探検した〈アトラソフ〉は,現地に漂着していた日本人
〈
伝兵
衛
〉(でんべえ,1695年に大坂を出港し遭難)をロシアに連行し,日本語教師となりました。のちにも何人かの日本人が連行され,同様に日本語教師となっています。次の女帝〈アンナ〉(位1730~40)の時代には薩摩の出身者らによって,史上初のロシア語=日本語辞典(露日辞典)が編纂されています。
〈ピョートル〉大帝の治世が終わると,1727年には清の〈雍正帝〉
と
キャフタ条
約
【本試験H8】
が締結され,シベリア
や
外モンゴ
ル
【本試験H8「モンゴル」】
との国境がもうけられました。また,オーストリアと同盟関係を結び,オスマン帝国に対抗する政策がとられます。
・
165
0
年
~
176
0
年のヨーロッパ 東ヨーロッパ 現④リトアニア
◆ポーラン
ド=
リトアニア連合王国は中央集権化と近代化に失敗し,王位をめぐり周辺諸国の介入にあう
ポーラン
ド=
リトアニア,ウクライナやバルト海を失う
ポーラン
ド=
リトアニア連合王
国
は,ヤゲウォ(ヤゲロー
(注
)
)朝
【本試験H7イヴァン4世は無関係】
【本試験H30】
が断絶して1572年か
ら
選挙王
政
【本試験H30】
となり,大土地を領有する貴族
(
シュラフ
タ
)が政治の実権を握り王権を制限して,政治を牛耳っていました。しかし,外国勢力の干渉もあり,弱い王権のもとで中央集権も進みません。
しかし,1649年
に
ウクライ
ナ
のコサックが
「
ヘーチマン国
家
」を樹立し,1653年にロシアの保護下に入ると,事実上ウクライナの一部を喪失。
1655年~1660年には,スウェーデンとの戦争(北方戦争)で領土を分割される寸前まで追い詰められています。
それでも〈ヤン3世〉(位1674~96)は1683年
の
第二次ウィーン包
囲
に出兵してオスマン帝国を撃退するなどの活躍をみせます。しかし国内の集権化には失敗です。
1697年には〈アウグスト2世〉(位1697~1733)が即位。しかし,その地位はロシアやオーストリアの支持を受けたものであり,ポーランド=リトアニアの貴族たちから「なんであなたが王なんだ」という反応。1715年~19年に国内の貴族の抵抗が起き,次の王をめぐって,また周辺諸国が首を突っ込むという状況に。
北方戦
争
でスウェーデンがロシアに敗北すると,戦後はロシアの影響力が強まる中,さらにフランスとオーストリアの板挟みになったポーランド=リトアニアは国力をさらに弱めていくことになります。
(注)ポーランド語の「Ł」の発音は「w」に近く,「ロー」よりも「ウォ」のほうが正しい発音に近いです。
○
165
0
年
~
176
0
年のヨーロッパ 中央ヨーロッパ
中央ヨーロッ
パ
...
①
ポーランド
,②
チェコ
,③
スロヴァキア
,④
ハンガリー
,⑤
オーストリア
,⑥
スイス
,⑦
ドイツ
海外植民地なき中央ヨーロッパは,国外向け穀物生産で栄え,激しい覇権争いが繰り広げられる
・
165
0
年
~
176
0
年のヨーロッパ 中央ヨーロッパ 現①ポーランド
ポーラン
ド=
リトアニア連合王国は中央集権化と近代化に失敗し,王位をめぐり周辺諸国の介入にあう
ポーラン
ド=
リトアニア連合王
国
は,ヤゲウォ朝
【本試験H30】
が断絶して1572年か
ら
選挙王
政
【本試験H30】
となり,大土地を領有する貴族
(
シュラフ
タ
)が政治の実権を握り王権を制限して,政治を牛耳っていました。しかし,外国勢力の干渉もあり,弱い王権のもとで中央集権も進みません。1655年~1660年には,スウェーデンとの戦争で領土を分割される寸前まで追い詰められています。
それでも〈ヤン3世〉(位1674~96)は1683年
の
第二次ウィーン包
囲
に出兵してオスマン帝国を撃退するなどの活躍をみせます。しかし国内の集権化には失敗。
1697年には〈アウグスト2世〉(位1697~1733)が即位。しかし,その地位はロシアやオーストリアの支持を受けたものであり,ポーランド=リトアニアの貴族たちから「なんであなたが王なんだ」という反応。1715年~19年に国内の貴族の抵抗が起き,次の王をめぐって,また周辺諸国が首を突っ込むという状況...
。
北方戦
争
でスウェーデンがロシアに敗北すると,戦後はロシアの影響力が強まる中,さらにフランスとオーストリアの板挟みになったポーランド=リトアニアは国力をさらに弱めていくことになります。
・
165
0
年
~
176
0
年の中央ヨーロッパ 現④オーストリア,⑤ハンガリー
◆オスマン帝国の支配下にあったハンガリーは,オーストリアの直轄地となった
オーストリアはハンガリーを獲得し,「ドナウ帝国」に
16世紀以降バルカン半島に進出してい
た
オスマン帝
国
では,イスタンブールのスルターンや大宰相の実権が低下し,イェニチェリの権力が強まっていました。
1679年にはペストが流行し,ウィーンで9万人が亡くなる惨事に。1681年には現在にのこるペスト記念塔が市内に建てられました
(注
)
。
そんな中,1683年にオスマン帝国
は
第二次ウィーン包
囲
を決行。ウィーンの防衛軍は1万5000人
(注
)
に過ぎませんでしたが,ポーランド=リトアニアの〈ヤン=ソビェスキ〉とロートリンゲン公〈カール〉率いる神聖ローマ皇帝軍により撃退されました。1686年にはハンガリーのブダを占領し,翌1687年にはトランシルヴァニアも占領,1699年
に
カルロヴィッツ条
約
【本試験H31】
【追H24領土を拡大していない】
【京都H19[2]】
【追H20】
を締結してオスマン帝国に支配されてい
た
ハンガリ
ー
を奪回しました
【本試験H31エジプトではない】
【追H20オスマン帝国がオーストリアを領有したわけではない】
。
(注)大江一道『新物語世界史への旅』山川出版社,2003,p.127
1718年にはオスマン帝国に対する戦争(1716~18)の結果
,
パッサロヴィツ条
約
が締結され,オーストリアの領土は最大となります。〈カール6世〉(1711~40)はプラグマティシェ=ザンクツィオンを発布してハプスブルク家の家領が一体であることを法制化し,1724年には帝国基本法として公布しました。一体とされ
た
ハプスブルク
家
の領土は
,
オーストリア世襲
領
+
ボヘミア諸
邦
(
ボヘミア王
国
,モラヴィア辺境伯領,シレジア公国)
+
旧ハンガリー王国
領
です。
なお,プラグマティシェ=ザンクツィオンでは,オーストリア世襲領とボヘミア諸邦では,女系の君主が世襲することが認められました。しかし,ハンガリーでは伝統的に女系の君主は認められていませんでした。そこでハンガリー貴族は抵抗運動を起こし,ハンガリーの国法や特権の維持を認めてもらう代わりに,女系の君主による世襲を承認しました。これによりハンガリーは事実上オーストリアから自立した地位を確立していくことになります。
女系の君主による世襲に対しては,1740年にバイエルン選帝侯がフランスとともに異議を唱え,それに乗じてプロイセン王
〈
フリードリヒ2
世
〉
【本試験H8啓蒙専制君主であったか問う】
【追H18】
もヨーロッパで最も繊維工業が発達していたシレジア公領を要求し,オーストリアとの間に戦争が起きました
(
オーストリア継承戦
争
)。
オーストリア家領を構成す
る
ハンガリ
ー
の支持が不可欠とみた〈マリア=テレジア〉は,まだ乳飲み子であった長男〈ヨーゼフ〉を抱っこしてハンガリーの議会で支援を訴えます。これに心を打たれたハンガリー貴族らは,〈マリア〉に対してハンガリーの国法を守り,ハンガリー貴族の特権を維持し,行政の自治を認めることを条件に,オーストリア側に立つことを約束しました。
また〈マリア〉はイギリスの支援を得ることにも成功します。
しかし
,
ボヘミ
ア
ではフランスに支援される形で,ハプスブルク家に対するボヘミア貴族の反乱が起きたため,1743年に〈マリア〉はプラハでボヘミア王に即位し,ボヘミア支配を強めます。
1741年には1748年のアーヘンの和約で和平が結ばれ,シレジアは占領されたものの,オーストリアの〈マリア=テレジア〉の夫による神聖ローマ帝国皇帝即位が認められました。
しかしその後,オーストリアの前フランス大使であった〈カウニッツ〉が1753年にオーストリアの宰相に就任すると,長年の宿敵であったフランス
【本試験H8】
と同盟を結ぶ
"
外交革
命
"が実現。これにロシアの〈エリザベータ2世〉も加わり,プロイセン包囲網が成立しました。
この包囲網に対し,1756年にプロイセンはボヘミアを攻撃するためにザクセンに侵入し,七年戦争が勃発しました。プロイセンは初めは劣勢でしたが,1762年にロシア皇帝が親プロイセンの〈ピョートル3世〉(〈フリードリヒ2世〉の崇拝者でした)に代わると盛り返し,1763年にフベルトゥスブルク条約で和平が結ばれました。オーストリアはシレジアを失う代わりに〈マリア=テレジア〉の帝位世襲は認められました。
オーストリアは自国の"遅れ"を痛感し,強権を発動して上からの改革を実施していくことになります
(
啓蒙絶対主
義
)。
プロイセ
ン
は,三十年戦争後には,大選帝侯と称される〈フリードリヒ=ヴィルヘルム〉(位1640~88)が,ライバルだったポーランドとスウェーデンの間隙を縫って領土を拡大し,大土地を所有し農奴を持
つ
領主貴
族
(
ユンカ
ー
)
【本試験H26イタリアではない】
【本試験H8大規模な奴隷制,アフリカの黒人奴隷,自由な農業労働者の雇用とは無関係】
【追H24ジェントリではない】
を保護して,彼らを官僚や兵士に
こうして,同時期のイングランドでは,議会の力が増していったのとは対照的に,プロイセンでは議会の力が,王に忠実なユンカーによっておさえられていくことになりました。他方で,国内の産業を発展させるために,ナントの王令が廃止
【東京H7[3],H21[1]指定語句「ナントの王令廃止」】
されたためにフランスから亡命したユグノーを受け入れています。
スペイン継承戦
争
で神聖ローマ帝国側に立ったことにより,プロイセンには王号が与えられ
,
プロイセン王
国
となりました。ブランデンブルク選帝侯領は,プロイセン王国の一部となりました。
〈
フリードリ
ヒ=
ヴィルヘルム1
世
〉(位1713~40,同名の大選帝侯とは別人)
【本試験H27】
は軍事力を拡大させて絶対王政の基礎を築き,その後の
〈
フリードリヒ2
世
〉(大王,在位1740~86)
【追H9北方戦争は起こしていない】
【本試験H27ハプスブルク家ではない】
が周辺国との戦争を本格的に開始しました。
〈フリードリヒ2世〉
【本試験H17ヴィルヘルム2世ではない,本試験H25マリア=テレジアではない】
は,オーストリアで大公を誰に継承するかという問題が起きた際に
,
オーストリア継承戦
争
【本試験H17】
を始めフランス
【早・政経H31イギリスではない】
と同盟,さら
に
七年戦
争
(1756~63)
【本試験H22】
ではイギリスと同盟し,最終的
に
シュレジエ
ン
【本試験H25】
【追H20ウィーン議定書によるものではない,追H29フランドルとのひっかけ】
を獲得します。
イギリスはこのとき,植民地でもフランス
【本試験H12ポルトガルではない】
と戦っています
(
フレン
チ=
インディアン戦
争
【本試験H12フランスとスペイン,ポルトガルとイギリス,オランダとスペインの戦争ではない】
)。相手方に強敵フランス,さらにはロシアが加わったため,七年戦争は厳しい戦いとなりましたが,ロシアが途中でプロイセン側に寝返ったため勝利にこぎつけました(ロシアがプロイセン側に突如まわったのは,戦争に介入した〈エリザヴェータ〉(女帝です,1709~62)から,途中でドイツ出身の〈ピョートル3世〉(位1762)に代替わりしたためです。彼はプロイセンの〈フリードリヒ2世(大王)〉(位1740~86)を敬愛していました。この〈ピョートル3世〉
【H29共通テスト試行 リード文】
の皇后が,後に女帝となる
〈
エカチェリーナ2
世
〉です。
ちなみに〈フリードリヒ2世〉
【追H9サンスーシ宮殿を「建設した」か問う、H24ヴォルテールと親交を結んだか問う】
は
「
啓蒙専制君
主
」といわれ,「人間が働きかければ、社会は必ず進歩する」という啓蒙思想の発想から、トップダウンで国内をまとめようとしました。
例えば,ベルリン郊外のポツダム
【追H30マルセイユではない】
に
ロココ様
式
【追H9】
の
サ
ン=
スーシ宮
殿
【東京H24[3]】
【追H9フリードリヒ2世の建設か問う,H20設計はカスティリオーネではない,H25ビザンツ様式ではない、H30】
【本試験H8】
【本試験H27王はハプスブルク家ではない,H28ヴェルサイユ宮殿ではない】
を建てて,フランスの思想家の
〈
ヴォルテー
ル
〉(1694~1778)
【追H24フリードリヒ2世が招いたか問う】
や,バロック派最大の作曲家である
〈
バッ
ハ
〉(1685~1750)を招いており,彼自身も読書に燃え,フルートの演奏も披露しました。またユダヤ教徒などに対する宗教寛容令を発しています。彼は,自分のことを「国家第一の下僕」と称し,国民のためにさまざまな政策を導入しましたが,国民に無制限の権利を与えたわけではありません。イングランドやフランスが急成長している中で,遅れをとっているプロイセンが生き残るためには,国民をある程度満足させつつ(飴),強い権力で国をまとめること(鞭)が必要だと考えたのです。同じような方法を,当時のオーストリアやロシアもとっています。なお,荒れ地でもよく育つ作物として当時はまだ食用として普及していなかっ
た
ジャガイ
モ
の栽培を奨励し,七年戦争後には捕虜(薬剤師の〈パルマンティエ〉)を通してフランスでも栽培されるようになりました
【本試験H18リード文】
。
オーストリア大公
国
は,ハプスブルク家が神聖ローマ帝国を兼任しており,神聖ローマ帝国の中心的存在でした。しかし三十年戦争後のヴェストファーレン(ウェストファリア)条約で多くの領邦が主権を持つようになったので,神聖ローマ帝国の皇帝といってもオーストリアだけを支配する君主に過ぎなくなってしまいました。
それでもオーストリアは,1683年にオスマン帝国
の
第二次ウィーン包
囲
を撃退し,1699年に
は
カルロヴィッツ条
約
【本試験H31】
【京都H19[2]】
を締結して,1526年にオスマン帝国に奪われてい
た
ハンガリ
ー
【本試験H13オスマン帝国最盛期の領土に含まれていたかを問う,H31エジプトではない】
を獲得しました。さらにはスペイン継承戦争後に,南ネーデルラントを獲得し,着々と領土を拡大させていきました。17世紀末からは,フランスのヴェルサイユ宮殿に対抗して,歴代皇帝がウィーン郊外
に
シェーンブルン宮
殿
を造営しました。
しかし,〈カール6世〉(神聖ローマ皇帝在位1711〜40)に男子の跡継ぎが生まれず,男系のみの王位継承を原則としていたオーストリアに危機を迎えていました。そこで,生前の〈カール6世〉は,女子でも相続できる規定を盛り込んだ国事詔書を発布し,女性の
〈
マリ
ア=
テレジ
ア
〉(位1740~80)
【H29共通テスト試行 エカチェリーナ2世とのひっかけ】
【本試験H8】
を即位させるという離れ業(はなれわざ)に踏み切ります。
しかし,「はやく断絶しろ〜」とばかりに,オーストリア大公の位を虎視眈々とねらっていた周辺の王侯貴族は,それに反発。プロイセンとオーストリアの戦争に発展し,敗れたオーストリアはシュレジエンを失ってしまいました
(
オーストリア継承戦
争
,1740〜48)。
シュレジエン
【追H29フランドルではない】
を取られた女王〈マリア=テレジア〉は
【追H29】
,「リベンジをするには宿敵フランス王家と同盟するしかない」と,政策を転換。当時のフランス王
〈
ル
イ
1
5世
〉(位1715~74)
【本試験H16時期】
は同盟に乗り気ではありませんでしたが,愛人の〈ポンパドール侯夫人〉(1721~64)が動かし,決意させたといいます。
こうして,長年のフランス王家vsハプスブルク家の対立関係をくつがえす,この七年戦争
【追H9オーストリア継承戦争ではない】
におけ
る
フランス王
家
【本試験H8】
【本試験H25イギリスではない】
【追H29】
とオーストリアのハプスブルク家の歴史的提携のことを
「
外交革
命
」
【本試験H22】
と呼びます。これからは,王家対王家が"意地を張って"争う時代ではなくなり,国際情勢の流れを見て,自分の国にとって有利か不利かで味方になったり敵になったりする時代になっていくのです。このとき"仲直り"の印に,ハプスブルク家からは,ブルボン家に
〈
マ
リ=
アントワネッ
ト
〉(1755~93)が嫁がされました
【本試験H8】
。彼女はのちのフランス革命で,夫〈ルイ16世〉とともに処刑される運命にあります
(#漫画 言わずとしれた〈池田理代子〉の『ベルサイユのばら』があります。ただし「男装の麗人」〈オスカル〉と,〈オスカル〉を愛する平民〈アンドレ〉は架空の人物)
。
外交革命によって,イギリス~オランダ~プロイセン vs フランス~オーストリア~ロシアという構図が生まれました。フランスはオーストリアを挟み撃ちにするために,従来はオーストリアの向こう側にあるポーランドと友好関係を結んでいましたが,「外交革命」以降は,ポーランドから遠ざかることとなり,これがのちのオーストリア・プロイセン・ロシアによるポーランド分割の遠因となりました。
〈マリア=テレジア〉の長男
〈
ヨーゼフ2
世
〉(位1765~90)
【本試験H8】
【本試験H13,本試験H15,本試験H22プロイセンではない,H27】
【追H18,H30】
は,〈マリア=テレジア〉と共同で,啓蒙思想
【本試験H22】
【本試験H8フランス革命に影響を与えたか問う】
に基づいてオーストリアを統治しました(1765~80)。プロイセンの〈フリードリヒ2世〉と同様,1681年
に
宗教寛容
令
を発布し,ユダヤ教やプロテスタントの信仰を認めました。同時にローマ教会や修道院を閉鎖・解散したり,ドイツ語を公用語にするなどの中央集権化をすすめ
,
農奴解
放
【本試験H13,本試験H15】
【追H30】
もおこないますが,政策の多くは貴族の反対でくつがえされてしまいました。
彼はロシアとプロイセン
【本試験H8フランスではない】
とともに第一回(1772
)
ポーランド分
割
に参加し,さらには1778~79年にバイエルンの王位継承に介入し,それを止めようとしたプロイセン王国の〈フリードリヒ2世〉(位1740~86)と戦いました。実際に戦闘は多くはおこなわれず,食料調達のため"ジャガイモばかりを掘っていた"ということから"ジャガイモ戦争"という別名もあります。この時代には新大陸原産のジャガイモ栽培がヨーロッパに普及していたのです(〈フリードリヒ2世〉はジャガイモ栽培を奨励していました
【本試験H18リード文】
)。
また,この頃の首都ウィーンでは,作曲家
〈
モーツァル
ト
〉(1756~91)が活動するなど,「音楽の都」として名を馳せるようになりました
(映画「アマデウス」(1984米))
。なお,ウィーン近郊
の
シェーンブルン宮
殿
は,〈マリア=テレジア〉のときに完成をみています。外観はバロック式,内装
は
ロココ
式
となっています。
◆ドイツ人のハンザ同盟は衰退していった
1241年に結成されたドイツ人の都市同盟であ
る
ハンザ同
盟
は,15世紀以降,都市内部のツンフト闘争や領邦君主による編入,オランダ,イギリス,デンマーク,スウェーデンなどのバルト海への進出もあり,同盟自体の活動も衰退していきました。ハンザ会議は1699年を最後に開かれることがなくなり,最後までハンザ都市を称して活動したの
は
リューベッ
ク
,エルベ川河畔
の
ハンブル
ク
【慶文H29「エルベ川河畔」と「ブラームスの生誕地」から答えさせる問題。前者から答えるしかないだろう】
,
ブレーメ
ン
のみとなりました。
なお,この時期のドイツでは,ライプツィヒに生まれ,マインツ選帝侯とハノーファー侯に仕えた
〈
ライプニッ
ツ
〉(1646~1716)
【追H20植物分類学の基礎を築いていない】
が微積分を考案し,単子論(モナド論)を説きました。彼は1700年にベルリン=アカデミーの初代会長となっています。
○
165
0
年
~
176
0
年のヨーロッパ バルカン半島
バルカン半島...①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニ
ア=
ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア
バルカン半島の大部分
は
オスマン帝
国
の支配下にあります。
ヴェネツィ
ア
共和国の支配してい
た
クレタ
島
も,戦争の末1669年にオスマン帝国領となっています。
○
165
0
年
~
176
0
年のヨーロッパ イベリア半島
イベリア半島...①スペイン王国,②ポルトガル王国
大航海時代に強盛を誇っ
た
ポルトガル王
国
ですが,この時期には以前の栄光はすっかり影をひそめていました。1640年にスペインから独立したものの,ブラジルでのサトウキビ生産が17世紀後半に砂糖価格の下落によって行き詰まると,今度は金鉱の開発に着手して乗り切ろうとしました。
しかしイングランドとの間に1703年,ポルトガルのワインを安くイングランドに輸出する代わりに,イングランドの綿織物を独占的に輸入することを定め
た
メシュエン条
約
という通商条約
(注
)
が結ばれると,ポルトガルの織物工業は壊滅し,イギリスの綿織物購入のためにブラジルの金(きん)があてられ,大量のブラジル金がイングランドに流れ込むことになりました。この金が,イギリスの産業革命(工業化)の資本の元となっていくわけです。
(注)ポルトガルをオランダやオーストリア側に立たせ,フランスを包囲する意図のもとで結ばれました。
○
165
0
年
~
176
0
年のヨーロッパ イベリア半島
イベリア半
島
...①スペイン,②ポルトガル
◆西ヨーロッパ諸国を巻き込んだスペイン継承戦争の結果,スペイン王国はブルボン朝となった
イベリア半島では17世紀に入るとハプスブルク家によるスペイン王国の支配が衰え,1640年には同君連合を形成してい
た
ポルトガル王国が離
脱
しました。かつて"太陽の沈まない帝国"と呼ばれたスペインも
,
ネーデルラント連邦共和
国
(いわゆ
る
オラン
ダ
)
や
イングラン
ド
,
フラン
ス
の追い上げを受け,国際的な覇権も失っていきました。
1665年に〈カルロス2世〉(位1665~1700)がわずか4歳で王位を次ぐと,初めは母后が摂政となりますが,フランスの〈ルイ14世〉による対外戦争が激しさを増し,治世は不安定でした。
オランダ戦争(1672~78)ではフランドル地方の諸都市とフランシュ=コンテ
(11世紀以来は神聖ローマ帝国,14世紀にブルゴーニュ公国,15世紀後半にハプスブルク家の神聖ローマ帝国の領土となっていました)
を失いました。プファルツ継承戦争(1688~97)
【本試験H31三十年戦争とのひっかけ】
の結果,1697年のライスワイク条約では領土の喪失はありませんでしたが,跡継ぎのいなかった〈カルロス2世〉が亡くなると,フランスの〈ルイ14世〉は自分の孫〈フィリップ〉を
〈
フェリペ5
世
〉(位1700~24,24~46)としてスペイン国王に即位させようとしました
【追H24「自らスペイン王を兼ねた」のではない】
。
しかし,周辺諸国は「フェリペ5世がスペイン王だけでなくフランス王を兼ねるつもりなのではないか」と不安視。イングランド王国とネーデルラント連邦共和国は,オーストリア大公国とともに大同盟を結成して〈フェリペ5世〉の即位に反対し
,
スペイン継承戦
争
(1701~14)となりました。〈フェリペ5世〉の即位に対しては,スペイン国内において
も
アラゴン連合王
国
,バレンシア
,
カタルーニャ王
国
が反対し,対外戦争が終結した後もカタルーニャ王国軍は〈フェリペ〉に対して抵抗を続けました。
この戦争に関わったイングランドとフランスは,ヨーロッパでの戦争に連動する形で北アメリカ大陸で植民地を争奪する戦争
(
アン女王戦
争
,1702~1714)を起こしています
【追H9スペイン継承戦争で,イギリスはフランスを支持していない】
。1713年のユトレヒト条約
【名古屋H31時期・史料
(注)
】
,1714年のラシュタット条約で戦争は終結し,スペインをブルボン家が継承することは認められつつも,フランスとの合同は将来にわたって禁止され,以下の多くの領土をハプスブルク家のオーストリア大公国や,イングランド王国側に割譲しました。
・
スペイン領ネーデルラン
ト
→ オーストリア=ハプスブルク家
・
ナポ
リ
→ オーストリア=ハプスブルク家
・
シチリア
島
→
サヴォイア公
国
(19世紀のイタリア王国建設を主導することになる国家)
・ミラノ → オーストリア=ハプスブルク家
・サルデーニャ島 → オーストリア=ハプスブルク家
・
ジブラルタ
ル
→ イングランド王国
・
メノル
カ
→ イングランド王国
(注)
第6条......スペイン王位に対するフランス側の同様の継承権放棄と......他の王位継承取り決めによってフランスとスペインの王位は、常に分かたれており、......決して合同されることはない
【名古屋H31より】
。
戦後のスペイン王国では,ブルボン家の〈フェリペ5世〉の下で,アラゴンやカタルーニャに対してもカタルーニャ中心の中央集権的な支配が適用されました。これにより,〈イサベル〉と〈フェルナンド〉の"カトリック両王"以来続いていた,地方の習慣や制度を残しつつ,複数の王国が連合する形の制度に終止符が打たれたのです。特に最後まで〈フェリペ〉に楯突いたカタルーニャに対する締め付けは強く,地方の特権の削減やカスティーリャ語の導入などの中央集権化が強まりました。こうして,のちのちまで続く中央と地方の対立が深まっていきます。
〈フェリペ5世〉(位1700~24,24~46)とその次の〈フェルナンド6世〉(位1746~59)は,スペイン継承戦争で失った領土を回復しようと,常備軍の整備を進めていきました。ポーランド継承戦争(1733~35)
と
オーストリア継承戦
争
(1740~48)ではフランス側に立ち参戦し,〈カルロス3世〉(位1735~59)のときにはシチリアとナポリを回復することに成功しました。スペインにとって,イギリスが新大陸で覇権を握ることは最も避けたいことであり,イギリスを共通の敵とするフランスと組んだのでした(この間,私掠船や密貿易を繰り返していたイギリスとの間に,いわゆる「ジェンキンズの耳戦争」(1739~48)が起きています)。続
く
七年戦
争
(1756~63)も,やはりフランス側に立ってイギリスと戦っています。
○
165
0
年
~
176
0
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
西ヨーロッパ...①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
◆
1
7
世紀後半か
ら
1
8
世紀後半にかけ,フランスはイギリスとの植民地獲得戦争をたたかった
フランス王
国
では,1640年~52年に起きたカタルーニャの反乱に介入した
〈
ル
イ
1
3世
〉(位1610~1643)は,1659年のピレネー条約でフランス・スペイン国境をピレネー山脈とし,以北のカタルーニャはフランス領となりました。また,1640年にはポルトガルでブラガンサ朝が独立しました。ポルトガルを支援したのは,スペインに対抗しようとしたフランスとイングランドです(独立の承認は1668年)。
フランスの
〈
ル
イ
1
4世
〉(位1643~1715)はイギリスに対抗し
て
重商主
義
【共通一次 平1:16世紀から18世紀にかけて,イギリス・フランスなど西ヨーロッパ諸国がとった経済政策を問う。選択肢は①重農主義,②自由貿易主義,③重商主義,④門戸開放政策】
を推進して絶対王政を確立し,フランスの領土を拡大させるために各地
で
進出戦
争
を起こしました。
進出戦争は,世界商業の主導権をめぐるイングランド(イギリス)との争いに発展し,北アメリカ大陸・カリブ海やユーラシア大陸において植民地獲得戦争が今後100年以上にわたり続くことになります。これ
を
第二次英仏百年戦
争
といいます
(注
)
【一橋H31論述(両国の対立の背景および1763年に至るまでの戦いの経緯を説明し、この争いの結末がその後、世界史に与えた影響)】
。オランダと同君連合となったイングランド(イギリス)によるファルツ王戦争
(
大同盟戦
争
,1688~1697)がその始めで,1815年に終結す
る
ナポレオン戦
争
まで続きます。
〈ルイ14世〉の進出戦争と英仏の植民地戦争が結びついた最後の例
が
スペイン継承戦
争
でした。スペイン
で
ハプスブルク家
が
170
0
年に断
絶
したのに目をつけた〈ルイ14世〉は,孫である
〈
フェリペ5
世
〉を王として送り込むことで,勢力範囲をスペインに広げようと考えたのです。
これを警戒したイングランド(1707年からはスコットランドと合同するので
,
大ブリテン連合王
国
(イギリス)
【本試験H27】
となる)やオーストリア,オランダは,フランスとの間に戦端を開きました。これ
が
スペイン継承戦
争
(1700~1714年)で,植民地における戦争はイングランド(イギリス)の王名をとっ
て
アン女王戦
争
といいます。
(注)ヨーロッパでオーストリア継承戦争が起きると,植民地ではジョージ王戦争が勃発。1742年には〈デュプレクス〉(1697~1763)がフランスのインド総督となり,イギリスとの対決姿勢を強めていきます。
1744~48 第一次カーナティック戦争
1744~48 ジョージ王戦争
1748 ハイデラバード継承戦争
1750~54 第二次カーナティック戦争
1756~63 七年戦争
1757 プラッシーの戦い
1758~63 第三次カーナティック戦争
1758年~59年、フランスによるマドラスの包囲、1760年ヴァンディヴァッシュの戦いでフランスがイギリスに敗北
1763 パリ条約
1775~82 第一次マラーター戦争
1780~84 第二次マラーター戦争
1783 パリ条約
戦争は,イギリス側に軍配が上がりました。スペインは南ネーデルラント,南イタリアを喪失し,地中海から大西洋への出口として最重要地点であっ
た
ジブラルタ
ル
【本試験H30スペインは獲得したのではなく喪失した】
や,西地中海
の
メノルカ
島(
ミノルカ
島
)
はイギリスに奪われました。イギリスは21世紀の現在においても,ジブラルタルを海外領土として保持しています。
また,イギリス
【追H20フランスが獲得したわけではない】
はフランスから北アメリカの植民地を獲得。北アメリカ北東部
の
アカディ
ア
(ノヴァスコシア)
と
ニューファンドランド
島
【本試験H31オランダが獲得したのではない】
【追H20】
,北アメリカ北部
の
ハドソン
湾
です。
さらに,イギリスやオランダは大西洋の制海権を獲得し,イギリスは奴隷貿易独占権
(
アシエン
ト
。アフリカ大陸の住民をアメリカ大陸まで船に乗せて運ぶ権利)を獲得します
【追H9スペインは18世紀に奴隷貿易の最も重要な担い手ではなかった】
。こうしてイギリスの南海会社は,1750年までに毎年4800人の黒人奴隷をスペイン領植民地に供給し,巨富を得ました。
これらを定め
た
ユトレヒト条
約
【本試験H19金印勅書とのひっかけ】
【追H20内容】
【名古屋H31時期・史料】
では,ブルボン家がスペイン王国を継承することは認められましたが,スペインとフランスとの合同は禁止されました。
イギリスは奴隷貿易のもうけにより資本を蓄積していき,これがイギリスにおける産業革命(工業化)の元手の一つになっていくのです。港湾都
市
リヴァプー
ル
は,奴隷貿易の拠点として栄えました。当時の人気版画家〈ホガース〉(1697~1764)の描いた「放蕩一代記」という当時の上流階級を風刺(ふうし)した版画には,上流階級の家庭に黒人が召使いや"ペット"として登場します。彼は南海会社の株価の急騰と暴落
(
南海泡沫事
件
。史上初のバブルで
,
バブ
ル
の語源になりました)も,版画のテーマにしています。
・
165
0
年
~
176
0
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ 現⑦フランス
◆主権国家体制の成立にともない絶対王政が確立し,商工業を発展させ貿易を振興したが,ギルドや領主は残された。イギリスとの植民地戦争には敗北した
○165
0
年
~
176
0
年のヨーロッパ 北ヨーロッパ
北ヨーロッパ...①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン
サーミ
人
はスウェーデンとフィンランド,デンマークとノルウェー,ロシアの領域をまたぎ,遊牧生活を送り,文化を共有していました。17世紀以降にルター派の布教を通してキリスト教化が進みましたが,周辺国への土地の割譲と従属が進みました。
・
165
0
年
~
176
0
年のヨーロッパ 北ヨーロッパ 現②デンマーク,⑤ノルウェー
17~18世紀にか
け
デンマー
ク=
ノルウェ
ー
(同君連合,1524~1814)とスウェーデン王国は,ともに海外進出をして植民地を獲得します。デンマーク=ノルウェーは17世紀前半に西アフリカに進出し1659年にギニア会社を設立,現在のガーナの黄金海岸に19世紀中頃まで植民地を建設していました。また,カリブ海では現在のハイチ(ハイティ)のあるイスパニョーラ島の東にあるプエルトリコ島のさらに東に広が
る
ヴァージン諸
島
の西半を獲得し,アフリカから輸入した黒人奴隷を使ったサトウキビのプランテーションで栄えました。また,インド東南部などにも拠点を築いています。
スウェーデンもアフリカ大陸ギニア湾岸の黄金海岸や,北アメリカ大陸の大西洋岸,西インド諸島のサン=バルテルミー島(のち1878年にフランス領)にも一時植民地を持っていました(大西洋岸の植民地はオランダに奪われました)。1731年に設立され中国貿易を担当した東インド会社と1784年に設立されカリブ海を担当した西インド会社が,商業活動に従事しましたが,大きな成果はあげられませんでした。
グリーンランドは,ノルウェー系のヴァイキング
〈
赤毛のエリクソ
ン
〉(950?~1030?)に発見され
【本試験H25】
,それ以
降
イヌイット
系
(カラーリット人)の先住民と対立しながら植民を進めていきましたが,16世紀までには滅んでいました。この時期にはデンマークがかつての植民者との再開を願って再び探検をこころみましたが,すでにその跡はなく,代わりに先住
民
イヌイット
人
との接触が生まれました。デンマーク人の探検家〈エーイェゼ〉は植民地として開拓を進め,同時にキリスト教の布教をはじめイヌイット語辞書の出版(1750)や,『新約聖書』のイヌイット語訳(1766)を完成させました。
・
165
0
年
~
176
0
年のヨーロッパ 北ヨーロッパ 現⑥スウェーデン
スウェーデン王
国
は,中世以
来
デンマーク王
国
を盟主とす
る
カルマル同
盟(
カルマル連
合
)
【本試験H30】
に従属していましたが,1523年に独立を達成し,三十年戦争ではドイツ沿岸部を獲得し,
「
バルト帝
国
」の建設を進めていきました。1655年~1660年には
,
ポーラン
ド=
リトアニア連合王
国
との戦争を起こし,ポーランドは領土を分割される寸前まで追い詰められています。
1700~21年の(大
)
北方戦
争
【追H9】
【本試験H28】
で
〈
ピョートル1
世(
大
帝
)
〉(位1682~1725)
【追H9プロイセンのフリードリヒ大王ではない】
【本試験H28】
率いるロシアに破れると,軍事的には衰退していくことになりました。北方戦争では,スウェーデンの支配下だっ
た
フィンラン
ド
は一時ロシアに占領されましたが,1721年
の
ニスタット条
約
でスウェーデンに返還されました。この時期のスウェーデンでは学芸が盛んで,
〈
リン
ネ
〉(1707~78)
【東京H9[3]】
【本試験H16ジェンナーではない,本試験H29メンデルではない】
【追H20ライプニッツではない】
は,ラテン語で属名→種名(種小名)の順に学名を付けてい
く
植物分類
学
を『自然の体系』(シュステーマ=ナートゥーラエ)で確立し,スウェーデンのウップサーラ大学の学長も勤めています。
○176
0
年
~
181
5
年のアメリカ アメリカ合衆国
北アメリ
カ
...①カナダ ②アメリカ合衆国
・
176
0
年
~
181
5
年のアメリカ 北アメリカ
現①
カナダ
◆
ケベック法の成立により,イギリス植民地でありながらフランス人の権利が認められる
イギリスの植民地だが,フランス系の影響力強い
七年戦争後
の
パリ条
約
【本試験H2地図(1763年パリ条約による北米植民地のフランス,イギリス,スペインの勢力分布を問う)】
【名古屋H31史料・時期】
により,イギリスはヌーヴェル=フランス(のち
の
カナ
ダ
【本試験H22デンマークではない】
)を手に入れ,ケベック市(◆世界文化遺産「ケベック旧市街の歴史地区」,1985)を中心
に
イギリス領ケベック植民
地
【追H24スペインの建設ではない】
が建設されました。
フランスはこれにより,ニューファンドランド南端にあるサンピエール島とミクロン島と一部の漁業権を除き,北米植民地を失うことになります。
しかし,ケベック植民地の住民はフランス系のカトリック教徒です。
イギリスは彼らの信仰の自由や財産を保障し,イギリス文化を積極的に押し付けることはしませんでした。
1763年に〈ジョージ3世〉
は
国王布
告
により,アレゲーニー山脈とミシシッピ川に挟まれた土地を
,
インディアン
領
として留保しました。オタワ人の〈ポンティアック〉率いるインディアン同盟軍による抵抗運動が激化し,西部への移民を停止することで,ケベック植民地にイギリス系住民が移住することを奨励したのです。
また,1774年に
は
ケベック
法
がイギリスで可決され,フランス系住民に領主制やカトリック教会の徴税権を認め,カトリック教徒が立法評議会の議員になることが認められました。イギリスの植民地でありながら,フランス民法やフランス語の使用も許されたのです。
また,ケベック植民地の領土を,五大湖の南のミシシッピ川近くにまで拡大させましたが,逆にインディアンたちは領土を失うことになりました。
1774年
に
第一回大陸会
議
【本試験H12】
【セA H30ドイツ統一を話し合っていない】
はケベック植民地にも革命への参加を呼びかけましたが,拒否。大陸軍は翌年モントリオールを占領しました。結局1783年のパリ条約で,イギリスはアメリカ合衆国に,ケベック法で拡大されていた領土や,五大湖の中心線以南をアメリカに割譲することになりました。
アメリカ独立革命後には,革命軍に反対し国王派についたイギリス系住民10万人近くが,多数ケベック植民地やノヴァスコシアに亡命していきました。イギリス政府は,ケベック植民地での英仏系住民の衝突が生じないように,1791年
の
カナダ
法
で,アッパー=カナダ(upper)とロワー=カナダ(lower)の東西にわけられます。こうして
「
カナ
ダ
」という名称が,はじめてこの地域の名称になるわけです。
・
176
0
年
~
181
5
年のアメリカ 北アメリカ
現②
アメリカ合衆国
◆13植民地に対する本国の政策への反対運動が、独立運動に発展する
「13植民地」が、theU.S.A.として独立する
さて,1763年
に
七年戦
争
(植民地ではフレンチ=インディアン戦争)が終結し,イギリスはフランスから北アメリカの全領土を獲得しました。また,このときイギリス国王
〈
ジョージ3
世
〉は,インディアンとの戦争を防ぎ治安を安定化させるとともに,13植民地人に対して
は
アパラチア山脈の西
側
にこれ以上移住したり土地を購入することを禁止しました(1763年宣言)。13植民地の人々の中では,王によるこの宣言に対する不満が高まっていきます。
1763年のパリ条約以後,フランスは財政状況が悪化し,財政問題を解決する必要に迫られることになりました。
さて,"七年"(フレンチ=インディアン戦争は8年)も戦争をしていたイギリス本国(植民地に対して,イギリスのことを「本国」(ほんごく)と言います)は,財政的にへとへとです。
たしかにベンガル知事〈クライヴ〉がインドのベンガル・オリッサ・ビハールの徴税権を獲得するなど、イギリス東インド会社の財政状況は順風満帆であったかのようにみえます。しかし、1770年のベンガル大飢饉、マイソール戦争(1767~1799年)などにおける軍事費の増大、非効率な統治と本国との連絡の不備などが重なりイギリス東インド会社の収益は思ったようにあがらず、結果的にイギリス政府がイギリス東インド会社を救済せざるをえなくなったのです
(注1)
。
ニューイングランド植民地に対する規制としては,1733年の糖蜜法がありましたが,フレンチ=インディアン戦争以降は,今までの
"
有益なる怠
慢
"政策 ("適当にやってたほうが有益"という意味。植民地のゆる〜い支配)を本格的に見直し,野放しにしていた13植民地に対する課税を強化する政策に転換されていきました
【共通一次 平1:「七年戦争の戦費支出に苦しんだ本国が,戦費の一部負担を植民地人に求めたものであった」か問う】
【本試験H3ウォルポールはこの政策に関与していない】
【追H9 1763年のパリ条約の影響で課税強化をねらったか問う】
。
例えば
,
砂糖
法
(1764年)
,
印紙
法
(65年)
【共通一次 平1】
【名古屋H31史料
(注)
】
,ガラス・ペンキ・紙・茶に関税をかけるタウンゼンド法(67年)
,
茶
法
(73年)
【共通一次 平1】
【本試験H21】
です。要するに,なんでもかんでも,とれるものからじゃんじゃん税をとったわけです。とく
に
印紙
法
は,出版物も税金のターゲットになったことが問題になりました。出版物に対する徴税は,「自由に意見を発表する権利」を奪うものと考えられたからです。
印紙
法
【共通一次 平1】
に対する反対運動は,
「
代表なくして課税な
し
」
【共通一次 平1:トマス=ペインの主張ではない】
【本試験H28,本試験H31】
をスローガンに盛り上がりって撤廃されました
【共通一次 平1:撤廃されなかったわけではない】
。
どのような租税であっても、直接人民自身、またはその代表者による同意を得なければ、これを人民に課してはならないことは、人民の自由にとって、またイギリス人の明白な権利にとって不可分で、本質的なことである。
(超訳:税金をとるんだったら、ちゃんと取られる側の同意を得てからにするのは、イギリスで積み上げられてきた人民の権利獲得の歴史を踏まえれば当たり前だろ!)
......植民地の人民は、イギリスの下院に代表を送っていないし、また地理的事情によって代表を送ることができないのである。
(超訳:で、北アメリカの13植民地の人たちは、税をとるかを話し合うイギリスの議会に議員を送ることができないでいる。そんな状況で税金を勝手に取るのはおかしい!)(資料は
【名古屋H31】
より転載)
一方,窮乏する東インド会社を救うため、イギリス議会が制定し
た
茶
法
【共通一次 平1:「東インド会社の貿易特権を廃止する代わりに,植民地に高率の茶税を課すものではない」】
【本試験H21】
は、大規模な反対運動を招きました
【本試験H21茶法の廃止に対する反対ではない】
。この法は、東インド会社がイギリス本国を経由することなく直接茶を13植民地に持ち込み、独占販売することを認めたものです。13植民地に茶を輸入する税率を大幅に引き下げ、すでにイギリスに輸入された茶についても輸入税を払い戻した上で再輸出することが認められていました。東インド会社にとっては、輸入税払い戻しを受けた上で再輸出できますし、13植民地人にとっても「安くお茶が飲める」ようになるわけですから、一見win-winです
(注2)
。
しかし反対運動のポイントは「そんなことを勝手にイギリスの議会できめること自体が許せない!」というもの。取り立てる税は、取り立てられる人の代表が決めるべきだという論理です。また「東インド会社以外の業者から購入できないのは自由じゃない!」という主張もあります。ボストンにはオランダやスウェーデンの東インド会社が持ち込んだ茶を密輸入していた業者もあったのです。
この反対運動は、1773年
「
ボストンティーパーティ
ー
(ボストン茶会事件)」
【本試験H18時期(17世紀ではない)】
に発展します。「自由の息子たち」を名乗る植民地人グループがボストンのコーヒーハウスで策略を練ったもので,ボストン港
【本試験H14フィラデルフィアとのひっかけ】
でインディアンに扮して東インド会社の商船4隻から積荷の紅茶を海に投げ込み,ボストン湾を紅茶の海にしました。
(注1) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、pp.325-326。
(注2) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.323。
「ボストンティーパーティー」に対してイギリス
は
ボストン港を封
鎖
【本試験H6綿花貿易をめぐる対立から閉鎖されたわけではない】
しましたが,同じような運動は各地でも起き,紅茶を飲まない運動も広まりました(この頃からアメリカ
は
コーヒー
派
になっていくのです)。ジョージア以外の13植民地は,ペンシルベニア植民地
の
フィラデルフィ
ア
に
て
第一回大陸会
議
【本試験H12】
をひらき,イギリスを非難しました
【本試験H12「大陸会議を組織して本国の圧政に対抗した」か問う】
。植民地が集まって会議を開いたのは,前代未聞のことでした。
一方で,1773年には,ヴァージニア植民地でアメリカ植民地とインディアンのショーニー人との戦いも起きており(ダンモア伯の戦争),イギリスからの独立戦争を戦うためには,西部のインディアンと同時に戦うだけの体力も必要です。イギリスはインディアンの諸民族を支援し,アメリカ植民地を"挟み撃ち"にする作戦をとっていきます。
不穏な空気が続く中,1775年
,
レキシント
ン
と
コンコー
ド
でのイギリス軍とマサチューセッツ植民地
の
民
兵
の武力衝突をきっかけに
,
第二回大陸会
議
(全植民地が参加)は独立の方針をとり
,
植民地
軍
が組織されました。最高司令官はのちの初代大統領
〈
ワシント
ン
〉(1732~99)
【本試験H19ジェファソンではない】
【追H20リード文「文民統制の原則を重んじ,アメリカ軍総司令官の職を辞する姿を描いた」絵画(解答には不要)、H24独立戦争の総司令官・初代大統領か問う】
【セA H30リンカンではない】
です。各州からは兵が集められ,一つの軍としてイギリス,そしてイギリス側についたインディアン諸民族と戦うことになったのです。
こうして
,
アメリカ独立戦
争
(第一次アメリカ=イギリス戦争)
【追H28時期を問う】
【本試験H6市民革命ととらえてアメリカ独立革命とも呼ばれるか問う,本試験H10マッツィーニは関係ない
】
【
本試
験H
23】
【上智法(法律)他H30年代】
と
,
インディアン戦
争
が始まりました。イロクォワ人によるイロクォワ連邦はイギリス側に立ち,壊滅的な被害を受けました。
当初は開戦に否定的だった人々も,
〈
トマ
ス=
ペイ
ン
〉(1737~1809)
【追H21】
【本試験H19】
が1月に出版した
『
コモ
ン=
セン
ス
』(常識)
【追H21アメリカ独立宣言ではない】
【共通一次 平1「その中で「代表なくして課税なし」と主張」していない】
【本試験H19】
というパンフレットがベストセラーになると,イギリスからの独立がCommon Sense と考えるようになっていきました。
1776年7月4日は,
〈
ジェファソ
ン
〉
(1743~1826)
【本試験H9共和党の候補ではない(当時は共和党はまだない)】
【本試験H19ワシントンとのひっかけ】
【追H21起草者の一人か問う。トマス=ペインではない、H26・H28アメリカ独立宣言の起草者か問う】
らが13植民地の連合による
「
アメリカ独立宣
言
」
【追H21・H26・H28】
【本試験H8フランス革命の影響は受けていない(フランス革命のほうが後に起こった)】
を起草します。
「人々の基本的人権を保障しない政府は,倒しても大丈夫!」とする当時としては過激
な
革命
権
(
抵抗
権
)
【本試験H12「革命権がうたわれている」か問う】
や
,
幸福を追求する権
利
の保障が盛り込まれました。この思想にはイングランドの思想家〈ジョン=ロック〉(1632~1704。主著『市民政府二論』(1689)・『人間悟性論』(1689)同時代の人物ではないので注意)
【追H21】
の社会契約論の影響があります。
ただ,起草者の〈ジェファソン〉自身はヴァージニア植民地
【追H29プランテーションの多い南部か問う(正しい)】
のプランテーション地主の生まれで,ありあまる土地と150人
の
奴
隷
を所有していたわけですが。
さて,イギリスから独立するとはいうものの,もともとあった植民地には,それぞれ個別の歴史と仲間意識がありました。個々の植民地には,それぞれ別々の事情で建てられた自治政府がありますから,独立したら別々のState(ステート),つまり「国」になればいいじゃないかという意見もあったのです。
なお,アメリカ独立戦争には、パリに留学していたポーランドの〈コシューシコ〉(コシチューシコ、1746~1817)
【本試験H31パリ=コミューンへの参加ではない】
やフランスの貴族〈ラ=ファイエット〉(1757~1834)も義勇兵として参加しています
【本試験H10マッツィーニは参加していない】
。
それでも,まず倒すべき敵はイギリスです。作家・発明家・科学者・政治家・外交官と,さまざまな顔をもつ
〈
フランクリ
ン
〉(1706~1790)の活躍もあって
,
フラン
ス
【本試験H2「アメリカ独立戦争」に際してイギリスの敵として参戦したか問う,本試験H12「フランスもイギリス側に立って参戦した」わけではない】
・スペイン・オランダを味方に引き込むことに成功。このときの戦費がフランス財政を苦しめ,のちのフランス革命の
ヨークタウ
ン
【本試験H14フィラデルフィアとのひっかけ
】
の戦
い
での植民地軍の勝利
【本試験H19イギリスは勝利していない】
が決定打となり,
178
3
年のパリ条
約
で和平を結んで,「各」植民地の独立が認められました。独立した13植民地の連合体には
,
ミシシッピ川以東のルイジア
ナ
【本試験H18以西ではない】
が割譲されました。インディアン諸民族の意向は無視され,彼らの土地の多くはアメリカ合衆国に割譲されました
(
インディアンにとってのパリ条
約
)。
さて,独立が承認されたとはいえ,インディアンにとっては寝耳に水です。これ以降,イギリス勢力を追い出したアメリカ植民地人は,インディアンとの戦争をさらに激化させていくことになります。例えば,チェロキー人とのチカマウガ戦争(1776~94)は,パリ条約締結後も続きました。
また,イギリスから「独立」したのは,あくまでも「各」植民地です。じゃあ今度は,その個々の独立した元・植民地どうしがまとまるのか,それともバラバラに独立するのか。くっつくとしても,どの程度まとまるべきか。
そのような議論の末,一つの結論が1777年
の
連合規
約
【名古屋H31時期・史料
(注)
】
の採択(1781年に各国で批准)により出ていました。これによると各「国」が主権を持ち,13の各「国」が集まった連合会議(旧・大陸会議)で,外交や軍事についての政策を話し合うというものでした。
第1条 この連合の名称を「アメリカ合衆国」と定める。
第2条 各州は主権、自由、独立を保持し、またこの規約が明文で連合会議に委任していない一切の権限、管轄権、権利を保有する。
【名古屋H31より】
しかし,戦争が終わってみると,結局戦争にかかった費用を各邦でどう分担するかとか,まったく違う経済の仕組みや貿易をしている北部と南部とで,貿易政策を一致させるのか,それとも別々の政策をとるのかなどなど,解決すべき問題は次から次へと出てきました。
各邦で話し合った上で,連合会議でもう一度話し合うにしても,立場の異なる13の「国」が話し合っても平行線をたどってしまう。でも,それではまた今度万が一イギリスが攻めてきたときなどの緊急事態に対処できない...。
そこで,1787年にフィラデルフィア
【本試験H14ボストン,ニューヨーク,ヨークタウンではない】
で憲法制定会議
【本試験H14】
が行われ,13の国が代表を出し合っ
て
連邦議
会
を設置し立法する
,
大統
領
を選出し
て
連邦政
府
を置く
,
連邦裁判
所
を置く,さらにこれらを憲法に規定しコントロールする,といっ
た
連邦主
義
【本試験H18】
が採用されたのです。また,同年1787年に
は
北西部条
例
が決議され,北西部の土地(五大湖の南,オハイオ川の北と西,ミシシッピ川の東に囲まれた地域)に新しく州を設定する形で入植することが認められました。ただし,ここでは奴隷制は禁止とされ,その後もしばらく奴隷制OKの国とNGの国の境界とされ続けます。これに対抗したインディアン諸部族は,〈ワシントン〉将軍らにより鎮圧され,1795年にはこの地域のインディアン諸民族はアメリカ合衆国に併合されました。
このように政治制度が決まる一方で
,
連邦政
府
に力が強くなりすぎてしまったら,イギリスの"国王"と変わらないじゃないかという意見も,当然出てきます。そこで,各国の政府を残し
(
州政
府
),軍も残しました
(
州
軍
)。州軍は,ふだんは州知事の指揮下にありますが,アメリカ合衆国が緊急事態となったときには,連邦政府から動員されることになっています。さらに,連邦政府の権力が大きくなりすぎないように,議会・裁判所によるコントロールとバランスがきくような仕組みをとりました
(
三権分
立
)
【本試験H18・H19・H29】
。三権分立は,フランスの哲学者
〈
モンテスキュ
ー
〉(1689~1755)
【本試験H19】
が
『
法の精
神
』
【本試験H19】
で主張していた考え方でした。
こうして成立したのが
,
アメリカ合衆
国
なのです。ユナイテッド=ステーツという言葉は直訳すれば,"国家の連合"(ステーツ=国家)という意味です。「合衆国」という翻訳では,そのしくみがいまひとつよく伝わりませんが,すでに広まってしまったので,どうしようもありません。
国(くに)の主権は,連邦政府を置くことによって制限されるようになったので,日本語では従来の国を「州」と読んで表現しました
。
アメリカ合衆国憲
法
【本試験H18】
には,のちに憲法修正が付け加えられ(修正第1条~10条まではイングランドの「権利の章典」(1689)
【共通一次 平1】
にちなみ
「
権利の章
典
」という),国民の基本的人権がことこまかに明記されました。そのうち「武装する権利」は,銃社会アメリカにとって現在でも争点になる権利の一つです。
連邦政府の権力をどうするべきかという問題をめぐっては,強くするべきだというグループ
(
連邦
派
(
フェデラリス
ト
))と,各州の権力を維持するべきだというグループ
(
反連邦
派
。アンチ=フェデラリスト)との間の対立が生まれました。商工業者を中心とする北部と
,
奴隷による綿花プランテーショ
ン
【本試験H5綿花やタバコ】
【本試験H25】
を中心とする南部とでは,経済的なしくみも大きく異なっていました。なお,南部では1793年に
〈
ホイットニ
ー
〉
【追H19】
【上智法(法律)他H30アークライトとのひっかけ】
が
綿
連邦派をひきいるのはワシントンの副官を務めた
〈
ハミルト
ン
〉(1755?~1804)で,『ザ・フェデラリスト』を執筆して護憲を主張しました。反連邦派は〈ジェファーソン〉が率いました。その後,前者がアメリカ=ホイッグ党から,さら
に
共和
党
【追H18結党時期】
へ,後者
が
民主
党
へ発展することで,現在にまで続く二大政党を形作っていくことになります。
また,1790年の帰化法では,5年間アメリカ合衆国に住めば,移民に国籍を与えると定められました。「移民の国」アメリカ合衆国の幕開けです。
1811年に,ショーニー人の〈テカムセ〉がアメリカに宣戦しました。アメリカ合衆国の人々は,ショーニー人をイギリスが支持していると考え,イギリス海軍が1812年にアメリカ合衆国船がフランスと貿易するのを制限しようとすると,同年〈マディソン〉大統領(任1809〜17)はイギリスに宣戦布告し
,
米英戦
争
【追H24その結果グアムを獲得していない,H27この結果太平洋岸への移民が増加したのではない】
【本試験H31
】
【東
京
H10[1
]
指定語句
】
となりました。1814年に膠着状態のまま終わりましたが,1818年の協定で,北緯49度線をアメリカ合衆国とカナダとの境界にすることになりました。
こ
の
米英戦
争
(1812~14)は,第二次独立戦争ともいわれ,このときにイギリスの工業製品の輸入がとまったことで,輸入品の国産化による産業革命(工業化)が始まった
【本試験H31工業化が抑制されたわけではない】
わけです。民間の起業家が,イギリスの織物機械の国家機密を記憶し,アメリカ合衆国に持ち帰り,初の織物工場を建設したのです。"産業スパイ"の走りですね。ほかにも鉄鋼業の発展も始まりました。
こうして「アメリカはイギリスとは違う」という意識や愛国心も高まり,「星条旗よ永遠なれ」という国歌もこのときの戦いが元になっています。アメリカには,ヨーロッパのように伝統的な要素がないぶん,新しいことにも果敢にチャレンジしていこうという気風がありました。紅茶=イギリスの圧政というイメージもあり,紅茶の習慣は薄れていき,輸入され
た
コーヒ
ー
がアメリカ人の国民飲料として定着していくことになります(スターバックス1号店は1971年にアメリカ西海岸シアトル開業)。
米英戦
争
はまた,インディアン諸民族にとっては,イギリスと同盟して,アメリカ植民地人を追い出す"最後のチャンス"でした。
独立当初は元・13植民地と,ミシシッピ川より東のルイジアナだけを領域としたアメリカ合衆国は,第3代
〈
ジェファーソ
ン
〉大統領(任1801~09)の政策でインディアンからの土地の取得をすすめていき,1803年には〈ナポレオン〉率いる統領政府(まだ皇帝ではない)
の
フラン
ス
【本試験H3】
か
ら
ミシシッピ川以西のルイジア
ナ
【本試験H3】
【追H19地図】
を破格の1500万ドルで購入しました。しかし,この地にはアメリカン=バッファローを生活の糧(かて)としていたインディアン諸民族が暮らしています。ショーニー人の〈テカムセ〉らの抵抗は,1811年に鎮圧されました。〈テカムセ〉は南東部のマスコギ語族のチョクトー人
や
クリーク
人
(クリーク戦争(1813~14)で敗北),イロクォワ語族
の
チェロキー
人
にもアメリカ合衆国への抵抗を呼びかけ,イギリスと同盟し
て
米英戦
争
を戦いましたが,イギリスの敗北により,インディアンらは今後イギリスをアテにすることができなくなってしまったのです。
スペイ
ン
は,1760年代後半からメキシコを北上して
,
カリフォルニ
ア
に支配権を拡大していきます。この地でのラッコの漁(毛皮がとれます)に関心を示すようになっていきました。
なお,フランスの〈ナポレオン〉はスペインか
ら
ミシシッピ川以西のルイジア
ナ
をフランスに返還させた後,財政的な理由でアメリカ合衆国に売却しました。その河口
の
ニューオーリン
ズ
港には,1804年にハイチ(ハイティ)革命が成功すると,旧支配層(フランス人や黒人との混血の人々)が移住し,フランス文化やハイチ(ハイティ)の黒人の文化などが融合し,独特の文化が栄えました。
○176
0
年
~
181
5
年のアメリカ 中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ
ラテンアメリカ
(主にスペイン,ポルトガルの植民地となったアメリカ大陸の地域)
では,スペインのブルボン(ボルボン)朝による植民地行政の改革に対して,植民地社会からの不満が高まっていました。直接の矛先(ほこさき)となったのは,イベリア半島生まれの白人
(
ペニンスラー
ル
,「イベリア半島(ペニンスラ)生まれの人々」という意味)です。しかし,先住諸民族
(
インディ
オ
)による反乱は成功せず,抵抗運動の主役は植民地生まれの白人
(
クリオーリ
ョ
;クリオーヨ)
【追H26イベリア半島生まれの白人ではない】
に移っていきました。
ラテンアメリカの社会は,①ペニンスラール(イベリア半島人)→②クリオーリョ(新大陸出身の白人)→
③
メスティ
ソ
(先住民と白人の混血)
【追H26】
【東京H12[2]】
→
④
ムラー
ト
(白人と黒人の混血)
【追H26】
【東京H12[2]】
や
サン
ボ
(インディオと黒人の混血),解放されて自由な身分になった黒人→⑤奴隷(黒人,ユダヤ人,イスラム教徒)や先住民のインディオ
【追H26インディオ(インディアン)】
のように,ピラミッド型に序列化されていきました。
○176
0
年
~
181
5
年のアメリカ 中央アメリカ
中央アメリ
カ
...①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ
現在
の
グアテマ
ラ
,
エルサルバド
ル
,
ホンジュラ
ス
,
ニカラグ
ア
,
コスタリ
カ
はグアテマラ総督領としてスペインによる植民地下にありました。
しかし〈ナポレオン〉により本国スペインが占領されると,クリオーリョ(アメリカ大陸生まれの白人)を中心に独立を求める動きが活発化していきました。
イギリ
ス
の武装船団の進出の進んでいたユカタン半島のカリブ海に面する南東
部
ベリー
ズ
には,1763年以降イギリスの植民が進み,1798年には事実上イギリスの植民地となりました。
○176
0
年
~
181
5
年のアメリカ カリブ海
カリブ
海
...①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島
・
176
0
年
~
181
5
年のアメリカ カリブ海
現④
ハイチ
◆
カリブ海に浮かぶハイチではアフリカ系の奴隷による革命が成功し,共和国が建国された
ハイチでは,解放奴隷が共和国を建国する
1789年に勃発したフランス革命でうたわれた平等思想に勇気づけられ,植民地だっ
た
ハイ
チ(
ハイテ
ィ
)
【追H9地図上の位置を問う。キューバ,メキシコ,ベネズエラではない】
では1791年に黒人奴隷の反乱が勃発しました。
ハイチ(ハイティ)はフランスの植民地として,アフリカから黒人奴隷を輸入して,サトウキビのプランテーションがおこなわれていました。当時の名前は「サン=ドマング」です。西アフリカ
の
ダホメー王
国
から連行された奴隷の一人から生まれた
〈
トゥサ
ン=
ルヴェルテュー
ル
〉(1743~1803)
【本試験H27アルジェリアではない,H31メキシコではない】
は,農園主に読み書きを習い,フランスの最先端の自由主義の思想に感銘をうけます。やがて,フランス革命が勃発すると,刺激をうけたトゥサンは,奴隷解放運動をおこしました。フランス革命のうち最も革新的であったジャコバン派に接近し,国民公会
に
奴隷制廃止を宣
言
させました。しかしテルミドールのクーデタ(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること)で〈ロベスピエール〉が失脚すると〈ナポレオン〉の時代になります。〈ナポレオン〉は,ハイチ(ハイティ)は植民地として「使える」が,〈トゥサン〉は「邪魔な存在」であると判断し軍隊を派遣,逮捕されてフランスの刑務所で亡くなります。
彼の部下だった〈デサリーヌ〉(位1804~06)は,1804年にフランス
【H30共通テスト試行】
の〈ナポレオン〉軍を排除して,
史上初の黒人共和国
【H30共通テスト試行】
であ
る
ハイ
チ
(
ハイテ
ィ)
共和
国
【H30共通テスト試行 カナダではない】
が独立
【東京H7[3],H25[1]指定語句「ハイチ独立」】
しました。国名の「ハイチ(ハイティ)」は先住民の言葉です。黒人奴隷の子である〈デサリーヌ〉は,黒人国家ハイチ(ハイティ)に奴隷制が復活しないよう,島に残ったフランス人を処刑するなど,皇帝〈ジャック1世〉として独裁をふるい,反乱を鎮圧する最中の1806年に暗殺されてしまいました。
・
176
0
年
~
181
5
年のアメリカ カリブ海
現③
バハマ
バハマはアメリカ独立戦争の間,1782年~1783年の間にスペインに占領されますが,1783年の講和条約であ
る
ヴェルサイユ条
約
でイギリス領となります。
このときに奴隷は解放されます。
◆
オセアニアの島嶼国が,ヨーロッパ人と本格的な接触を開始する
1
8
世紀後半はヨーロッパ人の太平洋探検の時代
列強による太平洋の植民地化は,アジアやアフリカに比べると時期は早くありません。その理由の一つは,資源の乏しさです。魅力的な産品といえば,サンゴやベッコウなどの海産物や
,
ナマ
コ
と
白
檀
(香料)くらいでした。
イギリスによるオーストラリアへの入植がはじまる
ヨーロッパでは,
「
南方大
陸
(テラ=アウストラリス)」が太平洋の南部にあるのだという考えは,いまだにまことしやかに信じられていました。大陸が北にかたよっているので,重さを調節するためには南に大陸がなければいけないと考えられたのです。
1770年に現在の
①
チリ
領
イースター
島
は,名目的にスペインに併合されましたが,資源も少なく本格的な植民地支配には至っていません
(注
)
。1774年には後述のイギリスの〈クック〉が訪れています。
(注)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.7。
一方,18世紀後半からは
,
イギリ
ス
や
フラン
ス
による太平洋探検が本格化します。フランス人の〈ブーゲンヴィル〉(1729~1811)は,1768年
に
タヒ
チ
に滞在しヨーロッパに紹介した著作は,「南太平洋には地上の"楽園"がある」というイメージを人々に与えました。
特に太平洋を広範囲にわたり探検したのは,イギリス人の
〈
クッ
ク
〉
(1728~1779)
【本試験H21世紀を問う】
【H30共通テスト試行 時期(14世紀あるいは1402~1602年の間ではない)】
【追H27 18世紀にオセアニア(南太平洋)を探検したか問う、H29年代を問う(マゼラン世界周航,喜望峰発見との並べ替え)】
です。史上初の科学的調査を目的とする探検で,イギリス王立協会の会員も同行させました。1768~79年までにハワイで殺害されるまで,3回にわたり航海を行いました。一度目は
,
ニュージーラン
ド
探検では北島と南島を分ける
「
クック海
峡
」を発見。二度目はオーストラリア南東部。3度目は,ベーリング海峡やアラスカ沿岸を航海し,北西航路(太平洋と大西洋を結ぶ航路)が存在しないということを突き止めましたが,ハワイで息を引き取りました。
〈クック〉の航海でもカバーできなかった地域については,1785~88年にかけてフランスの〈ラ=ペルーズ〉(1741~1788?)などが航海をしています。ヨーロッパ人の太平洋進出と並行して,キリスト教の布教も進んでいきました。
◆
北太平洋沿岸のラッコの毛皮交易や捕鯨ブームにともない,イギリス,アメリカ,ロシアが進出
ラッコの毛皮や捕鯨をめぐり,北太平洋が交易ブームに
大航海時代
(注
)
を,ヨーロッパ諸国によるアジア・アフリカ・南北アメリカ・オセアニアへの海上進出の時代とみなせば,この時代のイギリスによるオセアニアの探検をもって大航海時代が完了したとみることができるでしょう。
ロシアによるベーリング海周辺への進出により,北太平洋周辺
の
毛皮交
易
にうま味があることが明らかになると,ヨーロッパ諸国はこぞってこれに参加するようになっていきます。
その過程で,南太平洋周辺の島嶼国の探検も進み
,
オーストラリ
ア
では植民もスタートします。
(注)「大航海時代」は日本の研究者による呼称。英語ではThe Age of Discovery
(
発見の時
代
)とか,The Age of Exploration
(
探検の時
代
)といいます。「発見」という呼び名はヨーロッパ人の視線からみれば,確かに適切な呼び名です。一般的に15世紀初めから17世紀半ばにかけてポルトガル・スペインに始まるアフリカ大陸ギニア湾岸・インド洋沿岸からアジアにかけてのヨーロッパ諸国の海上進出の時代を指し,広くとれば18世紀後半のイギリスによる太平洋探検までの時期を指します。
○176
0
年
~
181
5
年のオセアニア ポリネシア
ポリネシ
ア
...①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島,②フランス領ポリネシア,③クック諸島,④ニウエ,⑤ニュージーランド,⑥トンガ,⑦アメリカ領サモア,サモア,⑧ニュージーランド領トケラウ,⑨ツバル,⑩アメリカ合衆国のハワイ
・
176
0
年
~
181
5
年のオセアニア ポリネシア
現①
チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島
この時期のイースター島の住民は,寄港したフランスやロシアと接触しています。
・
176
0
年
~
181
5
年のオセアニア ポリネシア
現②
フランス領ポリネシア
タヒチでイギリス人の支援で西欧化した王朝始まる
1789年,イギリス海軍の徴用船であ
る
バウンティ号で反
乱
が起こり,反乱メンバー
は
ピトケアン諸
島
に身を寄せました。1818年の時点でメンバーのうち1人が生き残っていたことが確認されています。
タヒ
チ
では,ヨーロッパ人の宣教師
(注
)
から布教活動を承認する見返りに火器(マスケット銃)の支援を受けた首長〈ポマレ1世〉(位1743~1803)が武力統一に成功。このヨーロッパ人たち
は
バウンティ号の反
乱
(1789)を起こしたイギリス人のメンバーでした。〈ポマレ1世〉は1803年に死去。
彼の〈ポマレ2世〉は他の首長の抵抗を受けて一旦タヒチ島から避難しますが,キリスト教に改宗してイギリス人の支援を受けタヒチを奪回。〈ポマレ2世〉(位1803~1821)として即位し,ここ
に
ポマレ
朝
が始められました
(注
)
。フランスの〈ナポレオン〉の在位と,だいたい同じくらいの時期ですね。彼の下で,伝統文化が改革され,島の西欧化が推進されます。
タヒチというとのちにフランスの画家〈ゴーガン〉(ゴーギャン)がユートピアのような島の暮らしを描いたように,のどかなイメージが先行しがちですが,この時代にはヨーロッパ勢力の進出がいよいよポリネシアにまで及んでいったわけです。
(注)ロンドン伝道教会。
(注)池田節雄 『タヒチ』 彩流社,2005。なお,タヒチでは支配階級層のことを「アリイ」と呼びます(矢野將編 『オセアニアを知る事典』 平凡社,1990)。
・
176
0
年
~
181
5
年のオセアニア ポリネシア
現③
クック諸島
この時期のクック諸島について詳しいことはわかっていません。
・
176
0
年
~
181
5
年のオセアニア ポリネシア
現④
ニウエ
この時期のニウエについて詳しいことはわかっていませんが
,
トン
ガ
の王権の勢力が及んでいました。
・
176
0
年
~
181
5
年のオセアニア ポリネシア
現⑤
ニュージーランド
ニュージーランドのマオリが商人と宣教師と出会う
この時期
の
ニュージーラン
ド
にも遅れて"大航海時代"の波が押し寄せます。まずは探検家が訪れ,その後は海獣(アザラシ,オットセイ)やクジラ,亜麻・木材を仕入れに来た商人がやってきました。
同じころ,キリスト教の宣教師もやってきます。1814年には英国国教会の牧師〈マースデン〉がクリスマスの礼拝をおこなっています
(注
)
。
(注)山本真鳥編『世界各国史 オセアニア史』2000,p.169
・
176
0
年
~
181
5
年のオセアニア ポリネシア
現⑥
トンガ
イギリスの探検家〈クック〉が1773年・1773年にトンガの島々に来航。島民の対応が「友好的」であったとされることから,フレンドリー諸島と呼ばれるようになります。
・
176
0
年
~
181
5
年のオセアニア ポリネシア
現⑦
アメリカ領サモア,サモア
1787年にフランスの探検家〈ラ=ペルーズ〉(1741~1788?)がアメリカ領サモアに寄港したとき,島では内戦が起こっていたといいます。
・
176
0
年
~
181
5
年のオセアニア ポリネシア
現⑧
ニュージーランド領トケラウ
イギリスの〈バイロン〉(1723~1786)が1765年にトケラウを発見したときには,住民の存在は記録されていません。
・
176
0
年
~
181
5
年のオセアニア ポリネシア
現⑨
ツバル
イギリスの〈バイロン〉(1723~1786)が1764年に通過しています。
・
176
0
年
~
181
5
年のオセアニア ポリネシア
現⑩
アメリカ合衆国のハワイ
探検家〈クック〉が来訪した頃ハワイで王朝が統一
この時期にオセアニア全域を探査したのが,イギリス人の探検家
〈
クッ
ク
〉(1728~79)でした。
1778年
に
ハワ
イ
に到達し,航海のスポンサーである〈サンドウィッチ伯爵〉の名をとってサンドウィッチ諸島と命名します(〈クック〉は住民との争いの中で命を落としています)
(注
)
。
(注)「パンに具をはさむサンドウィッチの語源は,この〈サンドウィッチ伯爵〉」ということになっていますが,真偽は不明。Britannica はこの説をとっています(
https://www.britannica.com/topic/sandwich
)。
〈クック〉が訪れたころのハワイでは,島ごとに王がいて争いが絶えない状況でした。そんな中,ハワイ島を中心にして全諸島の覇権を握ったのは
〈
カメハメハ1
世(
大
王
)
〉(1736?/58?~1819)です。各島に知事を置き,貿易を管理して
,
白
檀
(びゃくだん)という香料貿易を振興しました。
ハワイ諸島には高い山と,豊かな川があるために,灌漑農耕に向いており,タロイモの栽培や豚の飼育,魚の養殖により,高い生産性を誇っていました。そのため,人口密度が高くなると,余った資源を自分のものにして働かなくなった人々が高い階級を独占し,首長や王が人々や資源を管理する国家が生まれていたのです。
○176
0
年
~
181
5
年のオセアニア オーストラリア
◆
オーストラリアのアボリジナル〔アボリジニ〕が,イギリス人と接触する
オーストラリアが流刑地として植民の対象となる
オーストラリ
ア
では,長らく外の地域世界とほとんど接触をもたなかっ
た
アボリジナ
ル
(アボリジニ)
【セ試行「オーストリアの先住民」】
【本試験H21マオリではない,本試験H27】
が,ついにヨーロッパとの接触を開始することになります。イギリスが1788年にオーストラリアへの植民をはじめると,アボリジナルは持ち込まれた伝染病で人口が減りはじめ
【セ試行 絶滅していない】
,土地も奪われていきました。イギリスの初期の植民は,犯罪者を島流しにする
「
流
刑
(るけい
)
制
度
」によるもので,のちに政府が渡航費を援助する補助移民に変わりました。
アジアからは移民を受け付けなかったため,白人の比率の高い植民地が形成されていきます。〈ジェームズ=クック〉が1770年にニューサウスウェールズと名付け,1788年に初の流刑植民地となったポートジャクソンは,のち
の
シドニ
ー
です。囚人収容施設はタスマニア島などにも建設され,負の遺産として世界文化遺産に登録されています(◆世界文化遺産「オーストラリアの囚人収容所遺跡群」,2010)。
○176
0
年
~
181
5
年のオセアニア メラネシア
メラネシ
ア
...①フィジー,②フランス領のニューカレドニア,③バヌアツ,④ソロモン諸島,⑤パプアニューギニア
・
176
0
年
~
181
5
年のオセアニア メラネシア
現①
フィジー
1774年にイギリスに〈クック〉が来航。
その後のフィジーには香木の一種であ
る
白
檀
(ビャクダン;サンダルウッド)
と
ナマ
コ
の採集を目的とした商人が盛んに来航します。特に1804年にフィジー第二の島バヌアレブで,ビャクダンが見つかったことがヨーロッパ諸国の商人の進出を加速させます(
"
ビャクダ
ン=
ラッシ
ュ
")。
商人らはフィジーの民族グループに接近して銃火器を提供し,そのことが島の内戦の元となっていきます。
・
176
0
年
~
181
5
年のオセアニア メラネシア
現②
フランス領のニューカレドニア
イギリス人〈クック〉は1774年,沖合からニューカレドニアの様子を眺め,その山がちな様子が「スコットランド(カレドニア)」のようだということで,ニューカレドニアと命名しました。
その後ニューカレドニアの諸民族は,香木の一種であ
る
白
檀
(ビャクダン;サンダルウッド)の交易場所や捕鯨基地を求めてやってきたヨーロッパ人と接触することになります。
・
176
0
年
~
181
5
年のオセアニア メラネシア
現③
バヌアツ
1768年にフランスの航海士〈ブーゲンビル〉(1729~1811),1774年にイギリスの〈クック〉が訪れています。〈クック〉は
「
ニュ
ー=
ヘブリティーズ諸
島
」と命名しました。
・
176
0
年
~
181
5
年のオセアニア メラネシア
現④
ソロモン諸島
この時期にソロモン諸島の諸民族は,ヨーロッパ人の来航対して抵抗します。
・
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0
年
~
181
5
年のオセアニア メラネシア
現⑤
パプアニューギニア
ヨーロッパ人の来航は沿岸にとどまり,内陸部についてはまだよく知られていませんでした。
○176
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年
~
181
5
年のオセアニア ミクロネシア
ミクロネシ
ア
...①マーシャル諸島,②キリバス,③ナウル,④ミクロネシア連邦,⑤パラオ,⑥アメリカ合衆国領の北マリアナ諸島・グアム
・
176
0
年
~
181
5
年のオセアニア ミクロネシア
現①
マーシャル諸島
1778年にイギリスの〈サミュエル=ウォリス〉がロンゲラップ環礁とロンゲリック環礁(ビキニ環礁の近くです)を,タヒチからテニアン島への航行中に発見。1788年にはイギリス海軍の〈トマス=ギルバート〉と〈ジョン
=
マーシャ
ル
〉の下で測量がなされます。その後はロシアも来航しています。
・
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年
~
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5
年のオセアニア ミクロネシア
現②
キリバス
ヨーロッパ人の植民は始まっていません,来航が増えていきました。
・
176
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年
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181
5
年のオセアニア ミクロネシア
現③
ナウル
ヨーロッパ人の植民は始まっていませんが,来航が増えていきました。
・
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0
年
~
181
5
年のオセアニア ミクロネシア
現④
ミクロネシア連邦
ヨーロッパ人の植民は始まっていませんが,来航が増えていきました。
コスラエ島には王国が栄えており,王宮や王墓,住居の跡(レラ遺跡)が残されています。
・
176
0
年
~
181
5
年のオセアニア ミクロネシア
現⑤
パラオ
ヨーロッパ人の植民は始まっていません,来航が増えていきました。
・
176
0
年
~
181
5
年のオセアニア ミクロネシア
現⑥
アメリカ合衆国の北マリアナ諸島・グアム
この地域
は
スペイ
ン
の支配下にあります。1740年に,北マリアナ諸島
の
チャモロ
人
はグアムに移住させられたとみられます。
中国・ロシアによる中央ユーラシア分割がすすむ
・
176
0
年の
~
181
5
年のタリム盆
地(
清の国力が揺らぐと,間接統治を受けていた新疆の社会も不安定になっていきました。
コーカンド(シル川上流,パミール高原の西)
の
ウズベク
人
の一派が,清との交易で力をつけ,17世紀中頃から勢力を増してハーン家を称するようになりました
(
コーカン
ド=
ハーン
国
)。1809年にはシル川上流のタシュケント,1814年にはトルキスタンを占領し,北のカザフ草原を圧迫するまでになります。
こうして,19世紀初頭のトルキスタンには
,
ヒヴァ,ブハラ,コーカンドの3ハーン
国
が並び立つことになったのです(ブハラでは18世紀末からイスラーム色が強まりアミールを名乗るようになるので,ブハラ=アミール国のほうが正確です)。彼らは農業生産を拡大し,ウズベク人の定住化も進みました。3ハーン国は,イスラーム教の中心であるオスマン帝国との関係を重視します。
・
176
0
年
~
181
5
年の黒海北岸
ロシア帝国の進出地域の,モンゴル系やテュルク系の
「
タタール
人
」の中からは,1773年
の
プガチョフの
乱
【追H19、H26これをきっかけに農奴制は廃止されていない】
【本試験H13,本試験H22ピョートル大帝代ではない,H29共通テスト試行 リード文】
のような抵抗の動きも出てきました。〈エカチェリーナ2世〉(位1762〜96)は,〈プガチョフの乱〉のようなタタール人による反乱が拡大することをおそれ,また,オスマン帝国に配慮して,イスラーム教徒に対する支配を緩めました。
この時期にタタール人は,ユーラシア大陸のカザフ草原を東西に結ぶ交易活動を発展させていき,中には巨富を築く大商人も現れるようになっていきます。同時にタタール人は,ブハラを中心とするイスラーム復興運動を盛り上げていくことになります。
その一方で,オスマン帝国と戦い,オスマン帝国の保護下にあったクリミア半島のクリミア=ハーン国を併合しています。
○176
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年
~
181
5
年のアジア 東アジア・東北アジア
東アジア・東北アジ
ア
...
①
日本
,②
台湾
,③
中華人民共和国
,④
モンゴル
,⑤
朝鮮民主主義人民共和国
,⑥
大韓民国 +ロシア連邦の東部
○176
0
年
~
181
5
年のアジア 東北アジア
◆
女真の清と,西方から拡大したロシアが対峙し,互市では非公式な交易もおこなわれていた
女真の清と,東方進出するロシアが対峙
西方から拡大し
た
ロシア帝
国
が,あっという間にベーリング海にまで到達。1689年には中国との間
に
ネルチンスク条
約
【本試験H5時期(17世紀末)】
,1727年に
は
キャフタ条
約
【本試験H8】
を締結し,取り急ぎ国境を取り決めて,指定された地点における自由な交易を認め
る
◆
ロシアの進出を受け,トナカイ遊牧民と狩猟採集民が支配下に入る
北極圏ではトナカイ遊牧地域が東方に拡大へ
西方からロシア帝国が東進し,トナカイ遊牧を営
む
ツングース
人
,
ヤクート
人
はおろか,ベーリング海峡周辺の古シベリア諸語系
の
チュクチ
人
や,カムチャツカ半島方面
の
コリャーク
人
の居住地域も圧迫されていきます。
・
176
0
年
~
181
5
年のアジア 東アジア 現①日本
◆
北太平洋の毛皮交易をめぐる欧米の抗争が,日本近海にも及ぶ
欧米の船が捕鯨やラッコ交易のため沖合に現れる
まず国内の動向から見てみましょう。
1760年に第10代〈徳川家治〉(任1760~1786)が即位しました。1772年に老中となった〈田沼意次〉(1719~1788)は,金を貨幣として使っていた江戸と,銀の上方(かみがた,大坂・京都)の通貨圏を統合しようと,南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)を導入しました。また,貿易奨励策をとり,中国の高級食材向けに,いりこ(なまこを煮たあとで干したもの)や干しアワビ,フカヒレを俵物として輸出しました。
松前藩は1773年に,国後島
の
アイ
ヌ
との交易を始めています。1774年には,ウルップ島でアイヌとロシア人の交易が始まっていたため,幕府は対ロシア対策の必要性を現実的に考えるようになっていたのです。〈工藤平助〉(くどうへいすけ,1734~1801)は
『
赤蝦夷風説
考
』(あかえぞふうせつこう)において蝦夷調査の必要性を〈田沼〉に示し,1783年に
〈
最上徳
内
〉(もがみとくない1754~1836)が国後島(くなしりとう)・択捉島(えとろふとう)・ウルップ(得撫)島のロシア人を探査しています。
そんな中,1783年
に
浅間
山
(あさまやま
)
の大噴
火
が甚大な被害を与えました。成層圏まで吹き上がった噴煙により悪天候が続き,1789年に至るまで冷害が続き
,
天明の大飢
饉
が勃発します。商品作物の普及に伴い,農民の中には富農と貧農への分解がすすんでいたことも,飢饉が大規模化した一因です。三都,商人資本は和紙や織物の問屋姓家内工業を進め,それに従った手工業者は賃労働者になっていきました。また,米価の高騰を受けて1787年
に
天明の打ちこわ
し
が起きました。
前年に解任された老中〈田沼意次〉に代わり,老中首座
〈
そんな中,ロシアの日本への接近はいよいよ現実的なものとなります。
1791年(寛政3)に,現在の和歌山県串本町に
,
アメリカ合衆国の商
船
レディ=ワシントン号とグレイス号が来航。紀伊藩の役人が対応する前に,すでに姿を消していました。
さらに,福岡県,山口県,島根県に正体不明の外国船
(
イギリスの商
船
アルゴノート号)が現れたことを受け,幕府は異国船取扱令(いこくせんとりあつかいれい)を発令し,警戒を強めます
(注
1)
。
実は,当時のイギリスとアメリカ合衆国は,北太平洋沿岸のラッコの毛皮を,中国の清朝に輸出するために抗争をしていたのです
(注
2)
。
事の発端はロシアの〈ベーリング〉による探検(第一次1725~1730,第二次1733~1743)。ロシアは北太平洋沿岸のラッコ毛皮を,ロシアと
の
キャフ
タ
における内陸交易で清朝に流していたのです。
(注1)後藤敦史「18~19世紀の北太平洋と日本の開国」桃木至朗・秋田茂『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会,2013,p.187。
(注2)後藤敦史「18~19世紀の北太平洋と日本の開国」桃木至朗・秋田茂『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会,2013,p.188。
◆
北太平洋を舞台に,欧米諸国による太平洋探検と,交易をめぐる抗争が本格化する
1
8
世紀の「太平洋探検」を受け,日本は「鎖国」を認識
そもそも太平洋岸一帯を勢力圏としていたの
は
スペイ
ン
でした。
トルデシリャス条
約
【本試験H31】
が根拠です。
しかし,18世紀後半にイギリスの〈クック〉による太平洋探検が実施されると,もはや太平洋はスペイン一国の勢力圏ではなくなり,アメリカやイギリス船の航行が活発化します
(⇒1760~1815のオセアニア)
。
さらに〈エカチェリーナ2世〉の治世の
179
2年
【本試験H10】
,使節
〈
ラクスマ
ン
〉
(1766~1806)
【本試験H10】
【本試験H24】
【追H19,H21時期(18世紀後半か問う),H30】
が〈大黒屋光太夫〉(だいこくやこうだゆう,1751~1828)を連れ立って,通商を要求するため
【本試験H10】
に根室(ねむろ)に来航しました。しかし,幕府はロシアとの通商を拒否し,長崎入港を許可しました。これ以降,沿岸防備策を進めます。すでにロシアは択捉島に上陸し,アイヌとの毛皮交易をおこない,ロシア正教を布教していました。
これに対し幕府は1798年に〈最上徳内〉(もがみとくない1754~1836),〈近藤重蔵〉(こんどうじゅうぞう,1771~1829)らに択捉島に上陸させ,
「
大日本恵登呂
府
」(だいにほんえとろふ)の標柱を建てさせます。さらに,1799年には東蝦夷地を直轄地として,入植を開始します。1802年に蝦夷奉行(のち箱館奉行)を置きました。
一方,1804年にロシアの使節
〈
レザノ
フ
〉(1764~1807)は長崎に来航し,日本に通商を要求します。幕府が通商を拒否したことから,1806年にロシア海軍は樺太を襲撃,1807年に択捉島(えとろふとう),礼文島(れぶんとう),利尻島(りしりとう)を襲撃しました。これによる,北方の緊張はこれまでになく高まります。
こうしたロシア船の出現も,北太平洋方面
の
毛
皮
を中国市場へと売り込もうとする欧米諸国の競争が背景にありました。
相次ぐ外国船の接近は,江戸幕府に対し「鎖国」という自己意識を形成させていくこととなりました。蘭学者
〈
志筑忠
雄
〉(しづきただお,1760~1806)が,〈ケンペル〉の『日本誌』を和訳して
「
鎖国
論
」と題したのは1801年のことです。江戸幕府は,17世紀以来,ずっと「日本は鎖国している」という外交方針をとっていたわけではないのです。
(注)後藤敦史「18~19世紀の北太平洋と日本の開国」,桃木至朗・秋田茂『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会,2013,p.193~194。
◆
フランスのナポレオン戦争の影響が及び,長崎でイギリス船がオランダ船を拿捕する
1
9
世紀には毛皮交易に代わり捕鯨がブームに
1808年にイギリス軍艦フェートン号が長崎に進入し,オランダ船を拿捕しようとしました
(
フェートン号事
件
)。しかし,すでに長崎港にオランダ船はいなかったのため,食料と薪(たきぎ)が与えられると港から出ていきました。ナポレオン戦争で,オランダは〈ナポレオン〉に服属したため,イギリスはオランダ船を拿捕(だほ)しようとしたのです。ヨーロッパの戦争が,直接日本に影響したこの事件は,幕府に衝撃を与えました。
この頃日本近海に
は
アメリカ合衆
国
の船舶も,姿を見せるようになっています。19世紀に入ると毛皮のターゲットとなった海獣や陸上の哺乳類の生息数が乱獲により減少
。
捕
鯨
がブームになっていくのです。
クジラの中でも上質な油(鯨油)をとることのでき
る
マッコウクジ
ラ
がターゲットになりました。灯りのための燃料や,機械にさす潤滑油として欧米でヒット商品となっていたのです。すでにイギリスの捕鯨船は,アメリカの独立戦争開始後には南太平洋で捕鯨をしており,独立戦争後にはアメリカ東海岸を拠点とするアメリカ合衆国の捕鯨船も活発化。1791年には南アメリカ大陸南端のホーン岬経由で太平洋に至ります。さらに北進,西進し,突き当たったのが日本近海の通称"ジャパン=グラウンド"。クジラの格好の漁場として注目されます
(注
)
。
(注)後藤敦史「18~19世紀の北太平洋と日本の開国」,桃木至朗・秋田茂『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会,2013,p.196。
◆
高い識字率と印刷術を背景に,文学や絵画が民衆の人気を博する
浮世絵
は
1
9
世紀後半に「印象派」に影響を与える
なお,1765年に〈鈴木春信〉(すずきはるのぶ,1724~1770)によ
り
浮世
絵
(はじめ錦絵と呼ばれました)が作られ始め,1781年~1801年頃に〈喜多川歌麿〉(1753?~1806,きたがわうたまる(ろ))や〈東洲斎写楽〉(とうし(じ)ゅうさいしゃらく,生没年不詳)の美人画・役者画が,版画による大量生産によって安価となり,大人気となりました。〈葛飾北斎〉(1760~1849)や〈歌川広重〉(うたがわひろしげ,1797~1858)は風景画を通して地方の魅力を全国に伝え,伊勢参宮や富士山参詣を目的とした旅が人びとの間で流行しました。この時期の絵画の題材や構図は,フランスで活躍した
〈
ゴッ
ホ
〉(1853~1890)や
〈
モ
ネ
〉(1840~1926)らの作風にも多大な影響を与えています。
文化期(1804~18年)に,出版物は貸本屋によって広く流通し,旅に出られない庶民は〈十返舎一九〉(じっぺんしゃいっく,1765~1831)の滑稽本『東海道中膝栗毛』(19世紀初め)を読み,想像をふくらませていたのです。
伝統的な儒学に対する批判は,〈本居宣長〉(もとおりのりなが,1730~1801
)
国
学
(こくがく)
や
蘭
学
(らんがく)に代表される洋学によってなされました。とくに後者では医学などの実学が重んじられ,〈前野良沢〉(まえのりょうたく,1723~1803)や〈杉田玄白〉(すぎたげんぱく,1733~1817)らは1774年に『解体新書』を刊行しました。また,沿岸防備の必要性から正確な地図測量が求められ,1802年からの測量によって〈伊能忠敬〉(いのうただたか,1745~1818)が「大日本沿海輿地全図」(だいにほんえんかいよちぜんず;伊能図(いのうず))を完成させました。1811年には蛮書和解御用(ばんしょわげごよう)により洋書の翻訳と洋楽の研究が推進されました(蛮書和解御用は後の東京大学へと発展する組織です)。
・
176
0
年
~
181
5
年のアジア 東アジア 現①日本 小笠原諸島
小笠原諸島は1675年に江戸幕府が調査船を送り,日本領とする碑を設置。「ブニンジマ」(無人島)と呼ばれていました。
・
176
0
年
~
181
5
年のアジア 東アジア 現③中国
18世紀には中国の人口
が
3億
人
に達します
【本試験H5増大した人口の大部分は都市の賃労働者となっていない】
。
土地不足解消のために山地
で
アメリカ大陸原
産
【本試験H11】
の
サツマイ
モ
【東京H23[3]】
や
トウモロコ
シ
【東京H19[1]指定語句,東京H23[3]】
【追H27唐代ではない】
【本試験H5,本試験H8時期(マルコ=ポーロの死後),H11】
の導入が推進されたからです
【H29共通テスト試行 時期(グラフ問題)】
。
人口が増えたことで農業に従事する労働力も増え,商品作物(タバコ,藍など)の生産も増えていきました。
その一方で,開発の行き過ぎによって土砂災害や洪水も深刻化
。
社会不安の高まるなか,
〈
嘉慶
帝
〉(位1796~1820)の治世にあたる1796年に
は
天理教も白蓮教の一派といわれ,複数の教派が〈林清〉(りんせい,?~1813)や〈李文成〉らによって統一されて反乱を起こしましたが,事前に計画が発覚して失敗に終わっています。
さて,18世紀後半には1783年6月~12月にアイスランドで大噴火した火山
の
ラーキ
山
(レイキャビークの東に位置する標高818メートルの火山)と,日本で大噴火し
た
浅間
山
(長野県と群馬県の県境にある2568メートルの火山)の噴煙は,世界各地に異常気象や天候不順をもたらしていたことがわかっています
。
最大版図(はんと)を実現した清の
〈
乾隆
帝
〉の在位は1735~1795年。末期になると世界各地の火山噴火にともなう天候不順により,社会不安が高まっていきました。
清では地方の行政はある程度,地方の有力者にまかせられていましたが,しだいに
,
明
代
【本試験H23】
から成長した,科挙に合格することにより得られる肩書を持つ地方のエリート層
(
郷
紳
(きょうしん))は,清に対し強気の姿勢をみせるようになります。彼ら郷紳はみずから義勇兵
(
郷
勇
)を組織して,これらの反乱を鎮圧してくれる存在でもありましたから,清も彼らに対して頭が上がらなくなっていったわけです
(注
)
。
(注)「天下は皇帝一人で到底治めきれるものではなく,国家権力が人民生活の隅々まで介入しようとすることは,かえって社会の安寧を疎外し国力を弱体化する,といった議論は,当時の知識人の間で耳慣れたものであり,特に明末清初には「封建」体制を高く評価するこのような反専制論が高揚した」といいます(岸本美緒「明清時代の郷紳」板垣雄三他編『シリーズ世界史への問い7 権威と権力』(岩波書店,1990年)pp.57-58)
実際,皇帝が権力をもつことができるのは,郷紳たちが無力であるわけではありません。郷紳たちもそれぞれに権力をもっています。皇帝は,統治理念に基づき皇帝として期待される儀礼行為や権威を遂行することによって初めて,郷紳たちの権力を束ねることができます。そのような拮抗関係と協力関係の束によって,皇帝による広域支配は成り立っているともいえます(岸本美緒「明清時代の郷紳」板垣雄三他編『シリーズ世界史への問い7 権威と権力』(岩波書店,1990年)p.62)。
そんな中,産業革命(工業化)の始まっていたイギリスが,広州の一港に貿易を限定していた清に揺さぶりをかけ始めます。
清は東アジア各地の国家と政治的な関わりを積極的には持たないようにし,経済は「互市」(ごし)という管理貿易の拠点に限定する政策をとっていました。東アジアでは,唐代以降の冊封体制(さくほうたいせい)が国際関係の基本で,中国が「上」,周辺諸国を形式上「臣下」に置くことで,実際には周辺諸国を支配しているわけではありませんが,中国を中心とする
「
華夷秩
序
」の下で国際秩序を維持していたのです。全体の貿易額に比べると微々たるものですが,依然とし
て
朝
貢
貿易
【立命館H30記】
も行われていました。
〈
マカートニ
ー
〉
(1737~1806)
【京都H22[2]】
【追H24 18・19世紀に清が彼の貿易制度の改善要求を拒んだか問う,H26コッシュートとのひっかけ、H28清との貿易交渉に失敗したか問う】
【セ試行 時期(18世紀末か問う)】
【本試験H21】
【慶文H30記】
は1792年に中国への最初の使節として
〈
乾隆
帝
〉(けんりゅうてい,位1735~96)に挨拶しましたが,主権国家同士の対等な関係を築こうとするイギリスの外交観とのギャップは大きく,交渉は失敗しました(1793年)
【セ試行】
【本試験H21成功していない】
。
続くイギリス
【本試験H15】
の
〈
アマース
ト
〉(1773~1857)
【本試験H15】
は
〈
嘉慶
帝
〉(かけいてい,位1796~1820)に謁見する前段階で,三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)の礼という儀式のしきたりを拒否しました。清にとって外交とは「異民族が皇帝に対して朝貢するもの」,イギリスにとって外交とは「対等な主権国家が交渉するもの」。外交に対する認識の違いから,交渉は難航します。
そうこうしているうちに"午後の紅茶"需要で,18世紀以降
【本試験H5】
,茶
【本試験H5】
や陶磁器を買いまくっていたイギリスの貿易赤字は,どんどんかさんでいきました
【追H27イギリスで紅茶を飲む習慣が広まった時期を問う(中国での茶の生産開始、タバコ=ボイコット運動との並べ替え)】
。
かといって資源の乏しい小国イギリスには,中国人が買ってくれるような商品を大量に調達する余裕はありません。
片側の国ばかりが儲かる,この
「
片貿
易
」の構造をなんとかするために利用されたのが,インドです。
インド
【追H27中国ではない】
で
アヘ
ン
【追H27】
【本試験H2,本試験H5】
を栽培させ中国
【追H27インドではない】
に密輸し,アヘンの代金とし
て
銀
【東京H9[3]】
を得ることで,イギリスが中国に支払った銀の穴埋めをしようとしたのです
【追H27】
【本試験H2】
【本試験H16中国産のアヘンをインドに輸入していない】
。
この貿易
は
東インド会社の貿易特権が廃
止
されると
【本試験H22インド帝国成立後ではない】
,承認を受けた民間の貿易商人や現地商人にも委託されるようになっていきました。この貿易構造
を
三角貿
易
【追H27三角貿易以前イギリスの対中貿易は輸入超過であったか、またアヘンは中国からインドに輸出されたか問う】
【東京H9[3]「銀の輸出を減らすため,オランダやイギリスの商人が組織した貿易」は何か問う】
といいます。
なお,この頃1810年に香港を拠点としていた大海賊〈張保〉(?~1822)は清の前に降伏。中央ユーラシアで馬を乗りこなす遊牧民の時代が終わろうとするなか,海でもジャンク船を乗りこなす海賊の時代が終わろうとしていたのです
(#映画『パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド』アメリカ,2007 の中国海賊のモデルといわれます)
。
・
176
0
年
~
181
5
年の東アジア 現⑤
・⑥
朝鮮半島
朝鮮では1776年に
〈
正
祖
〉(位1776~1800)が即位し,中興の名君と讃えられますが,権力を独占し,王のかわいがる両班の官僚や外戚などばかりが優遇される
「
勢道政
治
」(せいどうせいじ)は彼の支配以降強まります。
18世紀以来,地方の伝統的な両班層が没落し,庶子などの新興勢力が台頭するなど
,
民
乱
(民衆の反乱)も多発。奴婢制も解体され,商品経済も地方に及ぶようになっていました。
また,1794年には,朝鮮にカトリック (朝鮮で
は
天主
教
といいます) が伝来し,両班層の中にも,カトリックの洗礼を受ける者も現れます。プロテスタント
(
基督
教
といいます) の伝来は,19世紀末期のことです。
1811年には,
〈
洪景
来
〉(こうけいらい,ホンギョンネ,?~1811)
【慶・法H30】
の乱が起きました。〈洪景来〉は平安道出身で科挙を受験して合格しましたが
,
平安
道
の一族は官僚採用において差別を受けていたため,これに抵抗して大規模
な
民
乱
を起こしたのです。反乱には,商人,農民,不平を持つ両班など,さまざまな階層が加わり,大規模化しました。
○176
0
年
~
181
5
年のアジア 東南アジア
東南アジ
ア
...①ベトナム,②フィリピン,③ブルネイ,④東ティモール,⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア,⑧カンボジア,⑨ラオス,⑩タイ,⑪ミャンマー
◆
大陸部ではビルマ,タイ,ヴェトナムで王朝の支配圏が確立、中国人の流入も続いている
1623年以降,東南アジアからインドに関心を移していたイギリスが,東南アジア貿易にカムバックしていきます。18世紀後半から
,
イギリス東インド会
社
が中国の茶の輸入量を激増させると,中国との取引のため
に
銀
が必要になりました。そこで,インドから綿花
や
アヘ
ン
,東南アジアからはコショウ,スズ,ツバメの巣,ナマコなどを中国に輸出して,銀の獲得に務めました。イギリス東インド会社が直接おこなったわけではなく,貿易の許可を与えた民間商人やインド人に,業務を任せました。
中国と東南アジアの取引が増えると,東南アジアに移住する中国人も増えました。彼らを南洋華僑といい
,
潮
州
(広州の東)や福建など中国南部出身者が多くを占めています。
彼らは東南アジア各地の三角州(デルタ)や熱帯雨林を開拓し,輸出向けにサトウキビ・米などの商品作物の栽培や鉱山開発を進めていきました。こうして,現地の人々の結びつきとは別に,華僑のネットワークが東南アジア各地に張り巡らされていくようになります。
・
176
0
年
~
181
5
年のアジア 東南アジア
現①
ヴェトナム
フランスの援助で阮朝が建国される
ヴェトナムでは,黎朝に皇帝は存続していましたが,政治的に紅河(ホンハ;ソンコイ川) 流域
の
鄭氏の大
越
と
,
阮氏の広
南
の対立が続いていました。しかし,広南の内部で争いが起きる中,1773年に中部
の
西
山
(
タイソ
ン
)出身の〈阮文岳〉(げんぶんがく,?~1793)ら3兄弟が反乱を起こし,〈阮文岳〉が王を称して1788年
に
西山
朝
(1788~1802)
【慶文H30記】
を建国し
,
広
南
を滅ぼしました。「阮」というのはヴェトナムではよくある姓で,広南の阮氏とのつながりはありません。この反乱
を
西
山
(たいそん)
(
阮
氏)
の反
乱
【本試験H20時期,本試験H30】
といいます。
のちに末の弟の〈阮文恵〉(位1788~92)が皇帝を称して兄から自立し,北部の黎朝と清をも撃退して南北を統一しました。
この混乱の中,広南の阮氏の一族
〈
阮福
暎
(グエン=フック=アイン)〉(1762~1820)
【本試験H18 14・15世紀ではない】
【追H21、H25】
は,フランスの探検隊を頼って立て直しを図ります。フランス人宣教師
【追H25】
〈ピニョー〉を通してフランスに救援を要請すると,〈ルイ16世〉は軍艦4隻・1200人の歩兵の支援を約束。そのかわり,フランスに貿易特権を与え,同盟を結ぶという条件でした。しかし,その直後に革命が勃発すると,実現はされませんでしたが,以後フランスはヴェトナムに積極的に介入していくことになります。
〈阮福暎〉は1783年に一旦シャムに移動し,できたばかり
の
ラタナコーシン
朝
の〈ラーマ1世〉にかくまわれます。彼はここで華人(東南アジアに移り住んだ中国人)の支援も得ます。ちょうどその頃,西山阮氏はハノイを占領し,鄭氏を滅ぼしていました。しかし阮3兄弟は支配権をめぐり争い,3兄弟のうちの〈阮文恵〉がフエで皇帝に即位して〈乾隆帝〉に謁見,紅河から北緯17度付近のフエまでを支配す
る
西山阮氏の安南
国
が認められました。
そこに先ほどの〈阮福暎〉が攻めこみ,1802年にハノイを陥落させ,西山阮氏の安南国は滅びました。彼はフエで即位(位1802~20)し
,
越南
国
王
【追H21】
として清
【追H21】
から冊封を受けました。越南,つま
り
ヴェトナ
ム
という国号の由来はここにあります。ただし,彼は国内向けには皇帝を称しました。これが
阮朝
【追H19フランスの侵略を受けたか問う、H25】
です。
こうして歴史上はじめて年牧ヴェトナムが政治的に統一されたわけです。
・
176
0
年
~
181
5
年のアジア 東南アジア
現②
フィリピン
フィリピ
ン
では,住民のカトリック化
【本試験H6アメリカ合衆国の統治下で伝えられたものではない】
【東京H25[3]】
が進み,18世紀末以降は教会や修道会が中心となって大土地所有
(
アシエン
ダ
)制が進みました。フィリピンのスペイン総督は1767年以降,中国人商人が植民地から追放され,植民地支配を固めようとしました。1781年にはタバコの強制栽培・専売がルソン島に導入されています。
・
176
0
年
~
181
5
年のアジア 東南アジア
現④
東ティモール
,⑤
インドネシア
,⑥
シンガポール
,⑦
マレーシア
◆
フランス革命・ナポレオン戦争中,イギリスが島しょ部のオランダ領を占領した
1777年に西部ジャワの反乱を鎮圧し
た
オラン
ダ
は,ジャワ全土の支配権を確立しました。各地の民族間の対立を利用して「分割統治」を進めた結果,各地の社会に新たな対立を生みました。各地の首長には資源をオランダにおさめる義務を課し,住民は苦しみました。
一方,マラッカ海峡地方では,ジョホール王国が1670年前後から
(注1)
衰えをみせる中,イギリスが1786年
に
ペナ
ン
を占領しました。さらに,オランダ
が
ナポレオン戦
争
中に占領されると,オランダの総督は「戦争終結までオランダ植民地の統治をイギリスに任せる」と命じました。
そこでイギリスは1796年に喜望峰とセイロン,1795年
に
ムラ
カ(
マラッ
カ
)
【本試験H13時期(16・17世紀ではない)】
【上智法(法律)他H30イギリスがポルトガルから奪ったわけではない】
,1796年にジャワなどほぼ全てのオランダ領を支配下に押さえました。
ペナンにある商館の書記だったイギリスの
〈
ラッフル
ズ
〉(1781~1826)は,1811年
(注
)
にジャワを一時占領・統治し,現地社会を混乱させます。ナポレオン戦争が終わると,オランダに
は
ネーデルラン
ト
(
オランダ王
国
)が成立し,ナポレオン追放後のロンドン条約でオランダの旧植民地の多くを返還することが決められ,1816年にイギリスは植民地を全部返還しました
(
注
2
)
。しかし,植民地行政は困窮状態にあり,各地の支配者による反乱の危機も迫っていました。
(注)『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.123。
シンガポール
現在のシンガポールは
ジョホール王国
〔ジョホール=スルターン国〕の領土で、19世紀初頭に150人ほどの住民がいたと考えられています。うちマレー人が130人、20人が中国人で、中国人は南西端へ流れるシンガポール川河口付近で漁業をおこないジャングルを開墾して農業をおこなっていたほか、ジョホール水道に面する北部一帯は海賊の拠点となっていました。
(注1) ジョホール王国は、ムラカ〔マラッカ〕王国の〈スルタン=マフムード=シャー〉が、マレー半島を南下し、ビンタン島を都として建設したものです。17世紀の初頭からオランダと協力し、1641年のオランダのムラカ占領を支援し、マレー半島南部からスマトラ島中部にかけての一大貿易拠点となりました。1670年前後から衰退し初め、1699年に〈スルタン=マフムード〉殺害事件により、ムラカの王統は断絶します(大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』「ジョホール王国」の項目、岩波書店、2002年、p.503)。
(注2)岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.4。。
・
176
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年
~
181
5
年のアジア 東南アジア
現⑧
カンボジア
18世紀半ば,東西からヴェトナムとシャムの干渉を受けてい
た
カンボジ
ア
では,ヴェトナムとシャムの了承により〈アン=ドゥオン〉(位1847~59)が即位しました。しかし,実質的にカンボジアはメコン川下流のヴェトナムと上流のシャムに分割されており。メコン川下流がヴェトナムのものとなったため,カンボジアは"内陸国"になってしまったわけです。そこで,ワラをもすがる気持ちですがったのが,フランスでした。〈アン=ドゥオン〉王が亡くなると,長男の〈ノロドム〉(位1860~1904)はフランスの保護国化(1863)を受け入れることになります。
・
176
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年
~
181
5
年の東南アジア
現⑩
タイ
この時期に中国の潮州出身の人々は、タイ人
(
シャム
人
)との関係を深めていきました。
チャオプラヤー川流域
の
シャ
ム
(現在のタイ)では
,
アユタヤ
朝
(1351~1767)がビルマ
の
コンバウン
朝
により滅ぼされていました。
その後,アユタヤ朝で県知事を務めていた潮州人〈タークシン〉(1734~82,在位1767~82)が短命
の
トンブリー
朝
(1767~82)を建てました。このときに多くの潮州人が,シャムに移住しています。
しかし,〈タークシン〉は晩年に精神が不安定になったため,アユタヤ王家と中国人の血を引く
〈
ラーマ1
世
〉(1735~1809,在位1782~1809)が,〈タークシン〉を処刑して
,
チャクリ
朝
(
ラタナコーシン
朝
,1782~現在)
【共通一次 平1:時期を問う】
【本試験H6イスラーム教が広く信仰されたか問う】
【本試験H26時期】
【慶文H30記】
を始め,首都
を
バンコ
ク
に置きました。これが現在まで続く王朝です。王名の〈ラーマ〉は,古代インドの叙事詩『ラーマーヤナ』の主人公からとられており,タイがインド文化の影響を受けていることがここからもよくわかります。〈ラーマ1世〉は『ラーマーヤナ』を下地にした民族叙事詩『ラーマキエン』の編纂を〈タークシン〉から引き継ぎ,1797年に宮廷詩人に命じ,完成させました(1973[吉川])。バンコクには王宮や,その敷地内ワット=プラケオ(エメラルド寺院)などの豪華な建造物が建てられました。
王室は中国系でしたが,だからこそ支配の正統性をタイ人の伝統に求めました。実際には古来シャムではモン人やクメール人など様々な民族が活動していたわけですが,「シャムは,スコータイ朝→アユタヤ朝→チャクリ朝という単純な王朝交代によって,古くからずっとタイ人によって支配されてきたのだ」とい
う
タイ人中心の歴史
観
が形成されていったのです。
○176
0
年
~
181
5
年のアジア 南アジア
南アジ
ア
...①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール
・
176
0
年
~
181
5
年のアジア 南アジア
現③
スリランカ
1658年~1796年までセイロン島
は
オラン
ダ
〔ネーデルラント連邦共和国〕領でした。
しかし,オランダ本国が〈ナポレオン〉により占領されると,そのスキにイギリスが占領。1802年
の
アミアンの和
約
でイギリスの領有が認められます。
島の中央部から東部にかけて
は
キャンディ王
国
(1469~1815)の支配下にありましたが,1815年にイギリスにより滅亡します。
・
176
0
年
~
181
5
年のアジア 南アジア
現②
バングラデシュ
,⑤
インド
,⑥
パキスタン
◆
ムガル帝国の権威が低下し地方国家が栄えたが,イギリス東インドの領土支配が本格化する
東インド会社が貿易会社から政治権力に変化する
ムガル帝国の内部では,ヒンドゥー
【セA H30キリスト教ではない】
教徒
の
マラーター同
盟
【セA H30】
や
シク教
国
【本試験H8地域(パンジャーブ地方)を問う】
の勢力が増し,アフガニスタンで
は
ドゥッラーニー
朝
が一時北インドに南下するなど,政治的な分断が進み,ムガル帝国の権威は衰えていました。
一方,イギリスがフランスとのインドをめぐる競争に勝利し,インドの本格的な植民地化へと転換していくのもこの時期です
【本試験H5 18世紀後半のムガル帝国について,国内の市場は分断されていなかったことを,史料から読み取る問題】
。
1747年に〈ナーディル=シャー〉(1688~1747,在位1736~47)が暗殺されると,〈アフマドシャー=ドゥッラーニー〉がアフガニスタンのカンダハールを占領しで
,
ドゥッラーニー
朝
(1747~1818,1839~1842)を始めました。ドゥッラーニー朝は,インドに進入し,1758年にはデリーを占領し,北インド一帯に進入しています。ムガル帝国は,北からはアフガニスタンのドゥッラーニー朝,南はマラーター同盟に挟み撃ちされる情勢となったのです。1761年には,マラーター同盟がドゥッラーニー朝に敗れますが,ドゥッラーニー朝
は
シク教
徒
の勢力にも阻まれ,アフガニスタンに引き上げました。
1757年
の
プラッシーの戦
い
【本試験H10 時期:1850~60年代ではない】
により,ベンガルの太守(ナワーブ)と東インド会社書記の
〈
クライ
ヴ
〉(1725~1774)の率いるイギリス東インド会社が決戦し,イギリス側が勝利しました
(注)
。実はこの戦いにベンガル内部の"内輪もめ"も関係していて、〈クライヴ〉は新たにベンガル太守(ナワーブ)となった軍司令官に接近し、戦後にベンガルの太守(ナワーブ)として認めることを約束していたのです。そこでこの軍司令官は「お礼」に所領(ジャーギル)を〈クライヴ〉に与えたため、イギリス東インド会社の一職員に過ぎない〈クライヴ〉がインドの「領主」となることができたわけです。
その後もフランス東インド会社による反攻はつづき(第三次カーナティック戦争)、1758年~59年にはフランスによるマドラスの包囲も起こりますが、1760年ヴァンディヴァッシュの戦いでフランスがイギリスに決定的に敗北。1763年
に
パリ条
約
が結ばれ,イギリスはインドにおけるフランスに対する優位を勝ち得ました。
(注) 「プラッシーの戦いは、フランス東インド会社とベンガル太守の連合軍が、イギリス東インド会社に撃破された」という説明は正確ではありません。時系列でいえば、まずイギリス東インド会社がフランス東インド会社を攻撃し、その後、イギリス東インド会社がベンガル太守を攻撃しています。たしかにベンガル太守軍にはフランス東インド会社も兵力を出していますが、その数わずか40人でした。羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.311。
1765年には,ムガル皇帝がイギリス東インド会社に,オリッサを含むベンガル州とビハール州
の
徴税財政
権
(
ディーワーニ
ー
)を与えました。ディーワーニーというのは,税金をとり、決まった額をムガル宮廷と現地の太守(ナワーブ、1765年の協定で武装解除されていました)に送れば、残額を軍事費や行政費として支出することのできる権利なのです。
つまりこれはイギリス東インド会社が,単なる商事会社、貿易会社ではなくなり,インドという植民地を支配する政治権力としての役割に変化したことを意味します。
でも,いきなり支配なんてできませんから,はじめは現地のインド人の支配層に代理で税をとらせていました。しかしそんなところに1770年にベンガル大飢饉が発生し、イギリス東インド会社は統治の困難に直面。1771年にイギリス東インド会社は,代理制度をやめて直接税をとろうと決議します。同年には東インド会社の株主が配当金の増額を要求し、7~8%から12.5%にまでアップ。それほど東インド会社には実質とかけ離れた過剰な期待が集まっていたのです。1772年に
〈
ヘースティング
ズ
〉(1732~1818)がベンガル管区
の
知
事
になって,徴税制度と司法制度を整備。
1773年,イギリス本国はイギリス東インド会社をコントロール下に置こうとして,〈ノース〉首相(任1770~1782)が「ノースの規制法」(一連
の
インド統治
法
の一つ)を制定。ベンガル知事
を
総
督
に格上げし,マドラスとボンベイ管区の各知事も,ベンガル総督の指揮下に組み込まれました。そして、1774年の初代ベンガル総督〈ヘースティングズ〉が、強力な指導によってインド統治を起動に乗せていくことになります。
ちなみに同時代に、政府の東インド会社救済を批判したのが、自由放任主義を主張した〈アダム=スミス〉(1723~1790)でした。当時の東インド会社職員の中には、短期間でアヘン貿易・横領・賄賂などで莫大な富を築き帰国する「成金」(ネイボッブ)もいて、「東インド会社の財政状況があんなに大変なのに、職員は何やっているんだ」と批判の対象になっていたのです。しかし、その批判に逆行するように、1784年には〈ウィリアム=ピット〉首相(任1783~1801、1804~1806)の主導で制定された「インド法」によって、東インド会社はイギリス政府の強い監督下に置かれるようになりました
(注1)
。
とはいえ東インド会社はその後も東インドからの商品の輸出入と、インド統治を続けます。「インド法」の制定された年には、中国茶の輸入税率が119%から12%に劇的に引き下げられ輸入量がアップしましたが、茶の購入にあてる銀がタラず、1773年以降インドで独占生産が認められていたアヘンを中国に輸出することになります。これが後の「アヘン戦争」の遠因です
(注2)
。
(注1) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.332。
(注2) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.334。
◆ザミンダーリー制とライヤットワーリー制の導入で、インド社会が変質する
インドに近代的な土地制度が導入される
1793年にはベンガル管区
に
ザミンダーリー
制
【本試験H23ライヤットワーリー制とのひっかけ,本試験H27植民地インドで導入されたか問う】
【早・政経H31「ザミンダール」はイギリス人入植者のことではない】
が導入されました。ザミンダーリー制とはザミーンダールに徴税を担当させる制度。ザミンダールとは土地所有者(ペルシア語)のことで,彼らに毎年定額の地租を納入させようとしたのです。これにより,インドの農村社会は,劇的な変化を迫られることになりました。
南部でも農民に土地を所有させ
て
ライヤットワーリー
制
が実施されました
【本試験H23領主層を地税納入の責任者としたわけではない,H28エジプトではない】
【早商H30[4]記】
。
こうした近代的な租税制度によって,「この土地は誰のもの」ということが明確化されていきました。つまり,「みんなでつかう土地」とか「あいまいな土地」がなくなってしまうわけです。 もともとインドの農村では,職業集団(ジャーティ)に編成されてい
た
カースト制
度
のもとで,洗濯屋・鍛冶屋・牛飼い・葬儀屋など,生活していくのにかかせない職業が,その村に必ず存在しました。洗濯屋は一日中洗濯をする代わりに,農民から収穫物が支給されます。助け合いを基本とする当時の農民にとっては必要不可欠な社会制度でもあったのです。
しかし,イギリスの導入した,「すべての土地には所有者がいて,所有者が税を払う義務を持つ」という近代的な徴税制度のもとでは,洗濯屋も土地を持ちますから,税を払わなければなりません。当然このことが,彼らの生活を大変なものにしていったのです。このように,カースト制度はイギリスによる植民地支配によって,より一層厳しい身分制度になっていったのではないかという見方ができます。
◆産業革命の進展により、イギリス本国での自由貿易を求める運動が高まる
東インド会社の貿易独占権が廃止された
イギリス本国で,自由貿易へ要求が高まると,1813年の特許状法により,中国を除くアジアの貿易が自由化され
,
東インド会社の貿易独占権が廃
止
【上智法(法律)他H30オランダ東インドではない】
されました。インドの伝統的な綿織物産業は,イギリス製の綿布の流入によって破壊されていきます。1810年にはインドとイギリスの綿織物の輸出入量が逆転し,イギリス産の機械式綿織物がインド市場を席巻(せっけん)するようになりました
(注)
。
(注)
イギリスの産業革命の進展と、インドの綿織物産業の衰退は、同時代を結びつける上で重要なトピックです。
【本試験H16「インドを自国の綿製品の市場とした」かを問う】【H30共通テスト試行 統計読み取り(①アジア(主にインド)から西へ輸出された綿布の総額が減り、イギリスから東へ輸出された綿布の総額が増えていく」ことを示したグラフ(1770~1840)と、②イギリスで消費された綿花の消費量の総量の変化・綿花の生産地別の比率を示したグラフ(1786~1880年)から、①1820年ころを境にイギリス産綿布の輸出総額がインド産綿布の輸出総額を上回ったこと、②原料綿花コストの低下よりも、蒸気機関の導入にともなう生産コストの低下のほうが、綿糸価格の低下に果たした影響が大きいこと、③19世紀半ばのイギリスはアメリカ合衆国産の綿花をおもな原料として綿布を生産しインドなど東に大量に輸出していたこと、④イギリスではイギリスへの原料綿花の輸入とイギリスからの綿布輸出がともに産業革命期に増加していることとを読み取る】
【追H18グラフの読み取り(インドの木綿工業の衰退を読み取るもの)】
また,インドに対してキリスト教の布教も自由化され,インド社会に影響を与えることになりました。例えばバラモンの家系に生まれながら,キリスト教にも学び「諸宗教の根本となる神は同じだ」と考え,にヒンドゥー教を改革した
〈
ラー
ム=
モーハ
ン=
ロー
イ
〉(1772~1833)です。ヒンドゥー教には「夫が亡くなったら,妻も一緒に殉死する(生きたまま火葬)」という風習がありますが,「あまりに残酷だ。ヒンドゥー教も変わらなければならない」と考え,こ
の
サティ
ー(
寡婦殉
死
)
という風習の廃止運動をおこないました。
いま「ヒンドゥー教」という言葉を使いましたが、「インドには「ヒンドゥー教徒」という宗教があって、それこそが「インド文明」なのだ」という"乱暴"な見方を発見したのは、この時期のイギリス人です。南アジアの人々が多様な信仰・儀礼によって実践してきた精神文化や人生観が、ヨーロッパ的な「宗教」というカテゴリーと同じくくりにまとめられるようになっていったのです。
さて、イギリス
【本試験H2】
東インド会社は
,
マラーター同
盟
に対して,第一次マラーター戦争(1775年~1782年),第二次マラーター戦争(1803年~1805年)を起こしています。
また,南部
の
マイソール王
国
に対しては,第一次(1767年~1769年),第二次(1780年~1784年),第三次(1789年または1790年~1792年),第四次マイソール戦争(1798年~1799年)を起こし,滅ぼしました
【追H30マイソール戦争に勝利したのはムガル帝国ではなく,イギリス(東インド会社)】
。
マイソール王国の〈ティプ=スルターン〉(1753~1799)は,オスマン帝国やフランスに使者を送り同盟・支援を求めたり,フランスにならって軍隊の近代化を図ったりしましたが,当時のオスマン帝国はロシアの南下に対抗してイギリスに接近し,さらにフランスでは革命
(
フランス革
命
)が起こっていたために,手を差し伸べることはできなかったのです。
一方
、
紅
茶
の産地として有名
な
ダージリ
ン
は1835年にシッキムから割譲された高原地帯。うだるような暑さと感染症の多さが問題である低地部の都市のイギリス植民地官僚は
,
避暑
地
(ひしょち)としてダージリンを利用し栄えました。
・
176
0
年
~
181
5
年のアジア 南アジア
現⑦
ネパール
1769年
に
ゴルカ王
国
(1559~1768)の〈プリトゥビ=ナラヤン=シャハ〉(位1768~1775)がマッラ朝の勢力を滅ぼし,ゴルカ朝ネパール王国としてネパール(カトマンズ)盆地を周辺地域を含めて再統一し,中央集権化を進めました。ネパールは東部のブータンから西部のカシミールにかけての領土拡大を狙っていたのです。
しかしチベット地方の領土をめぐり1788~1789年
に
清
と戦争となり,敗北後は冊封体制に組み込まれ朝貢が義務付けられました。1809年に
は
シク教
徒
とパンジャーブ地方をめぐり戦争。さらに1814年には,植民地インドを防衛しようとし
た
イギリス東インド会
社
との戦争
(
グルカ戦
争
)が起き,敗北しました。
○176
0
年
~
181
5
年のアジア 西アジア
西アジ
ア
...①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
ヨーロッパ諸国の進出に対し,各地で近代化による改革や,復古による改革の運動が起きる
○176
0
年
~
181
5
年のアジア 西アジア 現①アフガニスタン
1747年に〈ナーディル=シャー〉(1688~1747,在位1736~47)が暗殺されると,〈アフマドシャー=ドゥッラーニー〉がアフガニスタンのカンダハールを占領しで
,
ドゥッラーニー
朝
(1747~1818,1839~1842)を始めました。ドゥッラーニー朝は,インドに進入し,1758年にはデリーを占領し,北インド一帯に進入しています。ムガル帝国は,北からはアフガニスタンのドゥッラーニー朝,南はマラーター同盟に挟み撃ちされる情勢となったのです。1761年には,マラーター同盟がドゥッラーニー朝に敗れますが,ドゥッラーニー朝
は
シク教
徒
の勢力にも阻まれ,アフガニスタンに引き上げました。
○176
0
年
~
181
5
年のアジア 西アジア 現②イラン
1796年から1925年まで,首都
を
テヘラ
ン
に置
く
カージャール
朝
【本試験H30】
が,イラン高原を支配していました。しかしイランは,南下しようとするロシアと,インド周辺を固めようとするイギリスのダブルパンチにあい,苦労することになります。
○176
0
年
~
181
5
年のアジア 西アジア 現⑤
・⑥・⑦・⑧・⑨・⑩
アラビア半島
このワッハーブ王国というのは
,
アラビア半
島
【本試験H24エジプトではない】
の
サウード
家
が,イスラーム教の復興運動をとなえていた〈イブン=アブデュル=ワッハーブ〉と結んで建国した
,
ワッハーブ
派
【本試験H6スーフィズムとのひっかけ】
【本試験H19十二イマーム派,ネストリウス派,長老派ではない,本試験H24ワフド党ではない,H30】
【H27京都[2]】
の王国です。
当時のアラビア半島の遊牧民たちの中には,もはやイスラームを信仰していない者も多くおりました。〈ワッハーブ〉は「ヨーロッパが進出し,われわれが弱くなったのは,〈ムハンマド〉時代の教えを守らなくなったからだ」と主張したのです。後ろ盾として選んだのが,アラビア半島北部の有力
者
サウード
家
でした。
サウード家は,1744年からエジプトの〈ムハンマド=アリー〉
【本試験H12】
に滅ぼされる1818年まで,アラビア半島北部のリヤド郊外のディルイーヤを都とし
て
第一次サウー
ド
(ワッハーブ
)
王
国
)を建国しました
。
シーア
派
の聖地であ
る
カルバラ
ー
(1802)を奪い
(注
)
,1803~05年には
,
メッ
カ
(マッカ)
と
メディ
ナ
(マディーナ)を陥落させています。このときのシーア派住民との対立が,現在まで続
く
サウジアラビアとイランの対
立
の遠因となっています(最近でも,2016年以来,イラン・サウジは国交を断絶しています)。
メッカ・メディナを占領されたことにショックを受けたオスマン帝国は,もはや自前の常備軍で鎮圧することはできず,エジプト総督〈ムハンマド=アリー〉に鎮圧を命じるしかありませんでした。1812年~18年の戦闘でメッカ,メディナを奪回し,第一次サウード王国は滅亡します。打倒した〈ムハンマド=アリー〉の株は上がりました。
(注)シーア派では聖者の崇拝が盛んで,メッカへの巡礼(ハッジ)とは別に"お参り"することが認められていましたがワッハーブ派にとってはこれが〈ムハンマド〉の教えからの逸脱とみえたのです
その後,1823~1889年まで都
を
リヤ
ド
に移し
,
第二次サウー
ド
(ワッハーブ
)
王
国
が建国されますが,ライバルのラシード家に奪われて,また崩壊しました。
・
176
0
年
~
181
5
年のアジア 西アジア
現⑭
レバノン
,⑮
シリア
現在
の
レバノ
ン
山岳部では,独特の信仰を持
つ
マロン
派
(注1)
のキリスト教徒や
,
ドゥルーズ
派
(注2)
のイスラーム教徒が,有力氏族の指導者の保護下で栄えていました。
(注1)4~5世紀に修道士〈マールーン〉により始められ,12世紀にカトリック教会の首位権を認めたキリスト教の一派です。独自の典礼を用いることから,東方典礼カトリック教会に属する「マロン典礼カトリック教会」とも呼ばれます。
(注2)エジプトのファーティマ朝のカリフ〈ハーキム〉(位996~1021)を死後に神聖視し,彼を「シーア派指導者(イマーム)がお"隠れ"になった」「救世主としてやがて復活する」と考えるシーア派の一派です。
・
176
0
年
~
181
5
年のアジア 西アジア
現⑯
キプロス
キプロス島はオスマン帝国の領土の支配下にありますが,東地中海の拠点としての重要性が高まり,ヨーロッパ列強が目をつけるようになっています。
・
176
0
年
~
181
5
年の西アジア 現⑱ジョージ
ア(
グルジ
ア),⑲
アルメニア
,⑳
アゼルバイジャン
黒海からカスピ海にかけて東西に伸び
る
コーカサス山
脈
。この南をロシア語で「ザ=カフカージェ」(コーカサスの向こう)と呼びます。
1784年にヴラジ=カフカスが建設され,南下するロシアに対し
て
チェチェン
人
,イングーシ人,オセット人,チェルケス人といった山岳民族との対立が起こります。
1801年には東グルジアにあった王国(カルトリ=カヘティア王国)(注)がロシアに併合され,ガージャール朝ペルシアとの間に領土をめぐる戦争も起きます。1813年のギュリスタン条約で,南コーカサス(ザカフカース)はガージャール朝からロシア帝国の領有となりました。
(注)中島偉晴・メラニア・バグダサリアヤン編著『アルメニアを知るための65章』明石書店,2009年,p.68
●176
0
年
~
181
5
年のインド洋海域
インド洋海
域
...インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島,モルディブ,イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域,マダガスカル,レユニオン,モーリシャス,フランス領マヨット,コモロ
インド洋の島々は,交易ルートの要衝として古くからアラブ商人やインド商人が往来していました。
イギリスはインド洋の島々に目をつけ,1810年
に
イギリス領モーリシャ
ス
としてディエゴガルシア島を含む島々を領有しています(現在のイギリス領インド洋地域)。
マダガスカル
マダガスカルでは,〈アンドゥリアナムプイニメリナ〉(位 18世紀末~1910)がメリナ人を統一し,島の西部を支配していたサカラバ人など,中央高原にあった他民族の小国家を打倒し,島の統一を進めていきます。彼の子がマダガスカルの初代国王〈ラダマ1世〉(位1810~1828)です。
(注)木畑洋一「ディエゴガルシア―インド洋における脱植民地化と英米の覇権交代」『学術の動向』12(3), 2007年,pp.16-23。
○176
0
年
~
181
5
年のヨーロッパ 東ヨーロッパ
○
東ヨーロッ
パ
...
①
ロシア連
邦(
旧ソ
連),②
エストニア
,③
ラトビア
,④
リトアニア
,⑤
ベラルーシ
,⑥
ウクライナ
,⑦
モルドバ
◆
ロシアでは皇帝の権力が強まり,オスマン帝国から黒海北岸を奪い,三度にわたりポーランドを分割する
①
ロシ
ア
では,18世紀後半にはモスクワを都とす
る
ロシア帝
国
の
〈
エカチェリーナ2
世
〉
(位1762~96)
【H29共通テスト試行 マリア=テレジアではない】
【本試験H7シベリア進出を始めたわけではない】
【追H21ステンカ=ラージンの乱を鎮圧していない、H28農奴制を強化していない】
【慶文H30】
が,夫〈ピョートル3世〉が無能だったことに失望して,側近や軍の協力を得てクーデタを起こして皇帝になりました。 1773年~1775年には農奴解放を求め
る
プガチョフの
乱
【本試験H10デカブリストではない】
【追H21ステンカ=ラージンの乱ではない、H26これをきっかけに農奴制は廃止されていない】
が起きると,国内支配を強化。農奴を保有する地主貴族を保護する一方で,マニュファクチュア(工場制手工業)を推進しました。
対外的には1774年に
は
クチュ
ク=
カイナルジ条
約
を結び黒海北岸を獲得し,セヴァストーポリに軍港を建設します。1783年にはクリミア半島
【慶文H30】
に位置するモンゴル系
の
クリ
ム=
ハーン
国
【本試験H5マジャール人の国ではない】
をオスマン帝国から独立させています。その後,オスマン帝国とヤッシー条約を結び,ドニエストル川をそのまま国境とし
,
クリ
ム=
ハーン
国
を併合しました
【京都H22[2]】
【本試験H30,H29共通テスト試行 クリミア戦争を戦ったわけではない】
。
〈エカチェリーナ2世〉
【本試験H24】
は,西は北海道の根室に
〈
ラクスマ
ン
〉(1766~1803?)
【本試験H24】
を来航させています
【本試験H28ピョートル大帝のときではない】
。
〈
ラクスマ
ン
〉とともに帰国したのは1782年に伊勢を出てカムチャツカ半島に流れ着いた船乗り
〈
大黒屋光太
夫
〉(だいこくやこうだゆう,1751~1828)でした。〈光太夫〉は1791年にはペテルブルクで〈エカチェリーナ2世(大帝)〉に謁見しています。
なお,〈エカチェリーナ2世〉は,ベルリンの画商〈ゴツコフスキー〉から絵画コレクションを購入して離宮に収蔵しました。これが,世界三大博物館ともいわれ
る
エルミタージュ博物
館
です
(注)
。
(注)『週刊朝日百科 世界の歴史118』朝日新聞社,1991,p.C-743
◆
工業化を進めるロシアは北アメリカのアラスカに進出し,
日本への通商も要求した
国政の近代化は進まなかったが,フランスの〈ナポレオン〉の東進を防ぐ
〈レザノフ〉は中国市場を見据え日本に通商を要求
ロシアは1799年には北アメリカのアラスカの支配を開始。西ヨーロッパでフランスの混乱が続く中,1801年には改革に意欲的な
〈
アレクサンドル1
世
〉(位1801~25)が即位し,工業化を推進します。
1804年には
〈
レザノ
フ
〉を日本の長崎に派遣し,通商を要求しましたが,これは失敗。すでに1799年に設立されていた毛皮事業に携わるで露米会社の設立に携わった〈レザノフ〉
(注
)
は,北太平洋沿岸の毛皮交易ブームに乗り遅れまいとしたのです。
(注)後藤敦史「18~19世紀の北太平洋と日本の開国」,桃木至朗・秋田茂『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会,2013,p.193。
皇帝
は
自由主
義
的な改革を急ぎ,西ヨーロッパに追いつくために様々な改革が実行されていきます。中央の官制が改革され,陸軍・海軍・外務・内務・大蔵・文部・司法・商務の省庁と大臣が設けられました。農奴制の解放には到りませんでしたが,1803年の勅令では条件付きで領主貴族の所有する農奴を有償で解放させました。これに対しては保守派(いままでの制度を維持しようとするグループ)の反発も少なくなく,皇帝にまかされた〈スペランスキー〉は憲法を制定し,国会(ドゥーマ)を開設して三権分立を確立し,立憲君主制の国づくりを進めようとしますが,1812年には国政から追放されています。
ロシアはアラスカ方面から北アメリカ大陸にも進出を続けており,北アメリカ北西部の海岸の先住
民
トリンギット
人
との間で,1804年に大きな戦争がありました(シトカの戦い)。彼らは"贈り物合戦"
(
ポトラッ
チ
)の風習
や
トーテムポー
ル
で知られ,クジラなどの漁労や採集を営んでいた民族です
(注
)
。
また
,
七年戦
争
(1756~63)では当初は中立を守っていましたが,イギリスが中立国の船まで攻撃(拿捕(だほ))する方針をとったため,デンマークとともに武装中立を提唱し,イギリスとの戦争に発展しました。
その後アメリカ独立戦争でも,1778年にスウェーデンが中立国の船を保護するように訴えたのに乗っかり,〈エカチェリーナ2世〉
【追H18】
は1778年
に
武装中立同
盟
【追H18】
を提唱しました
【本試験H16ロシアはイギリスに宣戦布告していない,本試験H19イギリスは参加していない】
。「戦争の当事者国じゃないのに,海を自由に通行してアメリカとの貿易ができないのはおかしい!」と国際的な圧力をかけ,イギリスを間接的に追い詰める役目を果たしました。
(注)ポトラッチとは,北アメリカ北西部沿岸に居住するインディアン諸族にみられる儀礼の総称で,莫大な食物や財の贈与が行われ,時にはその破壊を伴うという特徴を持ちます。相手よりも多くの贈り物をすることは,贈り主の社会的威信を高めることになったのです。詳しくは下記を参照。
「〔ポトラッチは〕北アメリカ北西部沿岸に居住するインディアン諸族にみられる儀礼の総称で,莫大な食物や財の贈与が行われ,時にはその破壊を伴うという特徴を持つ。...多くの贈り物をすることは,贈り主の社会的威信を高めることになったのである。...しかし,贈り物を貰いっぱなしでいることは,貰った側の社会的威信が下がることを意味する。そこで,贈り物を受け取った者は,今度は自分が儀礼の主催者となる機会に以前贈り物をくれた人物を招待し,貰ったものと同等あるいはそれ以上のお返しの贈り物をすることで自らの面子を保とうとした。ところが,最初の贈り主は,自分が贈った以上に相手から贈られると自らの面子がつぶれることになる。このようにして,お互い相手より多くの贈り物をしようと,交換のパートナーの間では,贈り物合戦が際限なく続いていき,次第に贈り物の額や量がエスカレートしていく結果となった。
贈り物としては,食料やこの地方で貴重な財であった毛皮や毛布が利用されたが,最終的には銅製のプレートが贈与の対象となった。このプレートはそれ自体実用的な価値はないが,固有の名前をもち,その由緒が知られているもので,プレートを受け取るためには多量の毛布が必要なためその価値はきわめて高かった。そして,こうした贈与の競争が極端な形になると,相手に贈与するのではなく,相手からのお返しはいらないとばかりに,わざと相手の目の前で,これらの貴重な財を燃やしたり海に投げ捨てるなどの破壊行為が行われた。」(尾形勇他編『歴史学事典【第1巻 交換と消費】』弘文堂,1994年,pp.744-745)
その後ロシアは,フランスの皇帝に即位した〈ナポレオン〉に対する1805年にイギリスを中心とす
る
第三次第仏大同
盟
によって,オーストリアやイギリスとともにフランスを包囲しようとしました。
〈ナポレオン〉はイギリスに上陸することはできませんでしたが
(1805
年
トラファルガーの海
戦
で敗れる
【東京H29[3]】
【本試験H29】
)
,同じ1805年にアウステルリッツでロシア
【本試験H22】
の〈アレクサンドル1世〉とオーストリア〈フランツ1世〉の連合軍に勝利し
【本試験H22】
,1807年にはロシアとプロイセン
と
ティルジット条
約
で講和しました。敗れたプロイセンやロシアの支配する領域には,フランスの支配が及ぶ「傀儡国家(かいらいこっか。バックにフランスがついており,操り人形(傀儡)のように動かされている国家)」を成立させます。
ロシアはこのと
き
フィンラン
ド
の支配権を〈ナポレオン〉に確認し,1808年にフィンランドに侵攻し,1809年にはスウェーデンからフィンランドを奪うことに成功しました。こうして生まれたのが
,
フィンランド大公
国
(1809~1917)です。フィンランドの名前がついているものの,君主はロシアの〈アレクサンドル1世〉という傀儡国家でした。
〈ナポレオン〉との戦争を戦いながら,領土の拡大もすすめ,1812年には現在のルーマニアとの国境付近
の
ベッサラビ
ア
をオスマン帝国から獲得。1814年にはイラン方面のカスピ海西部を獲得しています。1812年に開始された〈ナポレオン〉のモスクワ遠征を防ぎ,1813年からは諸国民戦争で〈ナポレオン〉に勝利し,退位に追い込みました。1814年にはじまるフランス戦後処理のためのウィーン会議には外務省の〈ネッセルローデ〉(1780~1862)が全権として出席しています。
・
176
0
年
~
181
5
年のヨーロッパ 東ヨーロッパ 現③ラトビア
,④
リトアニア
1772年,1793,1795年
【慶文H30】
の3度にわたるロシア,オーストリア(第二回は不参加),プロイセン
【共通一次 平1:オスマン帝国は参加していない】
によ
る
ポーランド分
割
【共通一次 平1】
により,ポーランド王国は滅亡しました。
このとき,ポーランドと同君連合を組んでい
た
リトアニア大公
国
の領土の大半もロシアにより占領されてしまいました。
リトアニアの北方
の
ラトビ
ア
も,ロシアの支配下に置かれます。
○176
0
年
~
181
5
年のヨーロッパ 中央ヨーロッパ
中央ヨーロッ
パ
...①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
・
176
0
年
~
181
5
年のヨーロッパ 中央ヨーロッパ
現①
ポーランド
ポーランドは3度わたって,ロシア,プロイセン,オーストリ
ア
【共通一次 平1:オスマン帝国ではない
】
により分割され消滅した
ポーラン
ド
では,ロシアが,ロシア貴族の元愛人を〈スタニスワフ2世〉(位1764~95)として王に就任させ,1772年にプロイセンとオーストリアととも
に
第一回ポーランド分
割
を実行します
【本試験H13ポーランド分割によりヤゲウォ朝が滅んだわけではない,H29共通テスト試行 以後ポーランド分割にエカチェリーナ2世が参加したかを問う】
。分割されてからようやく事の重大性に気づいた国王は,1791年に王権を世襲制にして立憲君主国を成立をさせました。しかしロシアの〈エカチェリーナ2世〉
【本試験H18ミハイル=ロマノフではない】
はこれを武力鎮圧し,1793年
に
第二回ポーランド分
割
を実行。1794年に抵抗したポーランド人
〈
コシチュシュ
コ
〉(
コシューシコ
)(1746~1817)
【本試験H12コッシュートとのひっかけ。時期(19世紀前半ではない)】
【本試験H13グスタフ=アドルフではない,本試験H18,本試験H22「連帯」の指導者ではない,H31】
も敗れました。彼はアメリカ独立戦争
【本試験H31パリ=コミューンではない】
にも義勇軍として参加し,〈ワシントン〉の副官として戦った人物です。ちなみに第二回には,フランス革命にハプスブルク家の〈マリ=アントワネット〉が巻き込まれたことから,オーストリアは参加していません。1795年
【慶文H30】
には,再びプロイセン,オーストリアととも
に
第三回ポーランド分
割
を実施し,ポーランドは滅亡しました。
オーストリ
ア
では,プロイセンとの間に1756年から七年戦争が勃発し,1763年にフベルトゥスブルク条約で和平が結ばれました。オーストリアはシレジアを失う代わりに
〈
マリ
ア=
テレジ
ア
〉の帝位世襲は認められました。
戦後1765年に
〈
ヨーゼフ2
世
〉が〈マリア=テレジア〉との共同統治者となりましたが,実質的には〈マリア〉が実権を握り続けました。プロイセンの喪失を受けて宰相〈カウニッツ〉はオーストリアが遅れていることを痛感し,強権を発動して行政改革を断行するとともに農奴の待遇の改善など上からの改革
(
啓蒙絶対主
義
)を行いました。
例えば,1770年代に
は
ボヘミ
ア
(ベーメン)で農民が蜂起すると,1781年には農奴廃止令が発布されました。1772年
の
第一次ポーランド分
割
では,ポーランド南部のガリツィアを領有しています。1781年には寛容令が発布され,ユダヤ教やプロテスタントの信仰も尊重され,彼らの力が政治・経済の世界で活用されるようになっていきました。一方,ローマ=カトリック教会・修道院の国家への従属が進み,教会・修道院の財産は国家財産とされていきました。
しかしこれら〈ヨーゼフ2世〉時代のの改革
(
ヨーゼフ改
革
)は"上から"のものに過ぎず,特権諸身分との対立も招きました。
また,各地でドイツ語化政策をおこなったことが
,
ハンガリ
ー
人貴族との対立も招きました
。
ボヘミ
ア
では〈フス〉派は寛容令の対象とならず,反発も残りました。オーストリアはオーストリア継承戦争・七年戦争でシレジアを喪失しましたが,その代わりにボヘミアが新たな工業地帯として発展していくことになります。
・
176
0
年
~
181
5
年のヨーロッパ 中央ヨーロッパ 現⑦ドイツ
さて,〈ナポレオン〉の皇帝即位をイギリスは非常に警戒し,1805年に
は
第三次第仏大同
盟
によって,オーストリアやロシアとともにフランスを包囲しようとしました。
〈ナポレオン〉はイギリスを打倒できませんでしたが(1805
年
トラファルガーの海
戦
で敗れる
【東京H29[3]】
【セ試行 時期】
【本試験H29】
【追H19、H25フランスがイギリス海軍に敗れたか党】
),同じ1805年にアウステルリッツでロシア
【本試験H22】
の〈アレクサンドル1世〉とオーストリア〈フランツ1世〉の連合軍に勝利し
【本試験H22】
,1807年にはロシアとプロイセン
と
ティルジット条
約
で講和しました。敗れたプロイセンやロシアの支配する領域には,フランスの支配が及ぶ「傀儡国家(かいらいこっか。バックにフランスがついており,操り人形(傀儡)のように動かされている国家)」を成立させます。
〈ナポレオン〉統治下のプロイセンでは,
〈
シュタイ
ン
〉
(首相任1807~08)
【本試験H9オーストリアではない,
本試験H12「ドイツ国民に告ぐ」の講演をしていない】
【本試験H23】
は
農民解
放
【本試験H13時期(三十年戦争のときではない),本試験H23】
【本試験H6】
,都市の自治を推進しました。〈ナポレオン〉の圧力で〈シュタイン〉が辞任すると,今度は
〈
ハルデンベル
ク
〉(外相任1804~06,宰相任1810~22)
【本試験H9オーストリアではない】
【本試験H23】
が営業の自由,ユダヤ人解放,農民の領主に対する義務の廃止(ただし有償)といった近代化政策が実行に移されました。フランス支配を通して,否応(いやおう)なしに,新しい思想の影響を受け,また危機意識が生まれたのです。
この改革により土地を獲得して農奴ではなくなった農民は,代償として領主に土地の3分の1~2分の1や村の共同地を取られ,細々とした農地で生活が成り立つわけもなく,領主のもとで働く労働者(農業労働者)となりました。こうして,かつて農奴を用いてグーツヘルシャフト(農場領主制)
(⇒1200年~1500年の東ヨーロッパ)
を経営していたユンカー(領主層)は農業労働者による経営を始め,また新たに土地を購入してユンカーになる資本家も現れました(いわゆる
"
ユンカー経
営
")。結局本質的には何も変わっていないという結果です。
それでも,このようにフランスを見本に改革をすすめていけば,いつかドイツでも産業革命(工業化)が起きる。そうすれば,従来の身分制度が崩れ,今よりももっと自由な市民による社会が生まれるだろうという期待が持たれていました。しかし,誰でも自由に取引きができ
る
市民社
会
がもしやって来たら,その分,新たな争いごとが増えるおそれもあります。そんな新しい時代に求められる道徳について構想したのが
,
東プロイセ
ン
の中心都市ケーニヒスベルクで活動した
〈
カン
ト
〉(1724~1804)です
【本試験H12マルクス・ダーウィン・ベンサムではない】
【本試験H13ソクラテス,孔子,釈迦ではない】
。彼は,
(
大
陸
)
合理
論
【本試験H12】
の〈デカルト〉のように「法則は理性(アタマ)だけで導き出すことができる」とも,
(
イギリ
ス
)
経験
論
【本試験H12】
の〈ロック〉
【追H21アメリカ独立宣言に影響を与えたか問う】
のように「人は経験を通じてのみ世界を認識することができる」ともせず,その両者の折衷(せっちゅう)案を考え
,
ドイツ観念
論
【本試験H12】
と呼ばれる学派の祖となります。これまでの哲学者は,この世の中にある物が,人間の心の中の像にスクリーンのように映ることで,"物がある!"と認識できるのだと考えていましたが,〈カント〉はそれをひっくり返して
(
コペルニクス的転
回
といいます),人間のほうが認識の枠組みをフル活用して対象を捉えようとしているんじゃないか,と考えたのです。そして,人間はたしかに,感性(時間や空間を認識)や悟性(量・質・関係・様相(状態)を認識)を組み合わせて,この世で起きている現象について認識することはできる。つまり,人間が"認識できた!"と思っているものは,所詮人間の認識枠組みによって再構成されたものに過ぎないわけで,本当にそ
の
物自
体
を認識できているわけではないんだと考えたのです。人間の理性には,認識できる領域とできない領域がある。そのように吟味すること
を
批
判
と呼び,彼は『純粋理性批判』(1781),『実践理性批判』(1788),『判断力批判』(1790)を発表しました
【本試験H13「人間の認識能力に根本的な反省を加え,批判哲学を確立した」かを問う】
。
〈カント〉の影響を受けたドイツ人
【追H28フランスではない】
の
〈
フィヒ
テ
〉(1762~1814)
【本試験H12〈シュタイン〉ではない】
【追H19,H28人権宣言を起草していない,H29ルイ14世の支配に対抗したわけではない】
は,〈ナポレオン〉占領下のベルリンで,
「
ドイツ国民に告
ぐ
」
【本試験H12時期(19世紀前半か問う)】
【追H19,H29】
という連続講演を行い,自信をなくしている人々に「〈ナポレオン〉によってドイツ人は"統一"を失ってしまった。ドイツ統一のために立ち上がろう。自分たちは"ドイツ人"なんだ!」という意識を盛り上げました。実際には,「ドイツ」という国が"統一"されていたことは一度もなかったわけなのですが...。
また,ドイツ人の哲学者
〈
シェリン
グ
〉(1775~1854)は,イェーナ大学に
〈
ヘーゲ
ル
〉(1770~1831) を講師として招いた人物です。のちに〈ヘーゲル〉は,自由に活躍できるようになった個人が,どうやったら理想の社会をつくりあげていくことができるのかということを,突き詰めて考えました。彼は,世の中は何かが生まれると,それに対立するものによって否定され,ぶつかりあうことでより高い段階に発展する。それを繰り返していくと,やがて社会は発展していく。この世界には,人類の社会を発展させる見えない力
(
絶対精
神
)が存在していて,人類は「自由」を最終ゴールとして進歩していくのだ,と考えました。彼は世界史とは『自由の意識が前進していく過程』と断言しています。
人類の歴史は「絶対精神」に導かれ「自由」を目指して進歩していく...そんな〈ヘーゲル〉の考えに影響を受けながらも,「ヘーゲルの考える
「
絶対精
神
」は,抽象的でよくわからない。人間の社会を動かす力を,もっと客観的に考えることはできないか」と考えたのが
〈
フォイエルバッ
ハ
〉(1804~1872)です。「人間主義的な唯物論」と説明されることが多いです
彼の考え方を受け継いだのが
〈
マルク
ス
〉(1818~83)
【本試験H2】
で,人間の社会や政治・思想は経済的な関係(生産関係)が変化することによって進歩していくと考えました。そして,その最終段階では
,
共産主
義
にもとづく理想の社会が出現すると予想したのです。共産主義の社会とは,階級の存在しない社会のことです。
『
歌の
本
』
【本試験H15,本試験H18『若きウェルテルの悩み』『ファウスト』ではない】
【立命館H30記】
を著したロマン主義の詩人
〈
ハイ
ネ
〉(1797~1856)
【本試験H10ロマン主義かどうかを問う】
【本試験H15時期と地域(19世紀前半のドイツ),本試験H18ゲーテではない】
は,〈マルクス〉との交流も持っていました。彼は1830年代~50年代にかけて盛んになったドイツの若手の詩人中心の「青年ドイツ派」(若きドイツ)という運動にも参加。文学によって政治に参加し,絶対主義国家に対し抵抗し,自由を求めました。
一方,〈マルクス〉
【本試験H19フーリエではない】
は国を越えて社会主義運動を起こそうとして1864年にロンドン
【東京H26[3]】
【本試験H27】
で
国際労働者協
会
(
第一インターナショナ
ル
)
【東京H26[3]】
【本試験H3時期(19世紀後半か),本試験H8,本試験H12 時期(19世紀後半か問う)】
【本試験H14第一次大戦「直前」に国際労働運動を指導していたわけではない,本試験H19,H27】
を設立し,個人の革命家や様々な団体を集めました。
しかし
,
アナーキス
ト
(政府をこの世からなくすことで理想の社会をつくろうとした人々)の
〈
バクーニ
ン
〉(1814~76)らとの内部対立や,パリ=コミューン
【東京H28[3]】
を支援したことから各国で弾圧を受けて崩壊しました。国際的な社会主義運動は,ドイツの社会民主党が主導し、パリ
【追H26】
で結成された1889年
の
第二インターナショナ
ル
【本試験H14第一次大戦「直前」に国際労働運動を指導していたかを問う,本試験H19ソ連の設立ではない】
【追H9コミンテルンではない,国共合作を支援していない、
追H26】
に受け継がれました。
文学の世界では,はじめはギリシア・ローマの文学を受け継いだ格調高
い
古典主
義
【本試験H13バルザックは古典主義ではない】
がブームでしたが,
〈
シラ
ー
〉(1759~1805)や
〈
ゲー
テ
〉(1749~1832)
【
本試
験H
10】
【本試験H19ハイネとのひっかけ】
【法政法H28記】
はおおよそ1767年~1785年までの間
に
疾風怒濤運
動
(シュトゥルム=ウント=ドランク)という運動で,「理性よりも感情のほうが大事だ!」と訴え,〈シラー〉は『群盗』『ヴァレンシュタイン』,〈ゲーテ〉
【本試験H29シラーではない】
は『若きウェルテルの悩み』
【本試験H18】
『
ファウス
ト
』
【本試験H18,H29】
を著しました(この2人は文学史のカテゴリーで
は
古典主
義
【本試験H10自然主義ではない】
に分類されることもあります)。
また代表作に『青い花』がある
〈
ノヴァーリ
ス
〉(1772~1801)も,ロマン主義に分類される作品を多数残しています。
○176
0
年
~
181
5
年のヨーロッパ バルカン半島
バルカン半
島
...①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア
バルカン半島の大部分はオスマン帝国の支配下にありますが,ヨーロッパ諸国の啓蒙思想や民族主義思想の影響を受け,自分たちの民族や宗教の意識が次第に高まっていきます。
○176
0
年
~
181
5
年のイベリア半島
イベリア半
島
...①スペイン,②ポルトガル
◆
七年戦争の敗戦後,スペインでは啓蒙主義的な改革がおこなわれた
〈カルロス3世〉(位1735~59)の代に参戦し
た
七年戦
争
(1756~63)では,スペインは新大陸への進出を強めていたイギリスを"共通の敵"とするフランス側に立ち,イギリスに対抗しようとしました。
しかし,戦争の結果フランス,スペイン,イギリスの間で締結され
た
パリ条
約
【名古屋H31史料】
では,
①フランス→イギリス:北アメリカ
の
カナ
ダ
と,北アメリカにあ
る
ミシシッピ川以東のルイジア
ナ
【追H20スペインにわたったわけではない】
②
スペイ
ン
→イギリス:北アメリカ
の
フロリダ
③フランス
→
スペイ
ン
:北アメリカにあ
る
ミシシッピ川以西のルイジア
ナ
【追H9スペインはルイジアナを失ったわけではない】
④フランス→イギリス:フランスに占領されてい
た
ミノルカ
島
(メノルカ島)
⑤フランス→イギリス:アフリカ大陸のセネガル
現⑥フランス→イギリス:カリブ海のトバゴ
①~⑥のような領土の変更が取り決められました
【追H9フランスは中米で覇権を確立していない,オランダは南アフリカに植民地を獲得していない】
。
イギリスに対して新大陸
の
フロリ
ダ
【明文H30記】
を割譲することになったスペインの支配層の中には,「イギリスに対抗するためには,古臭い制度を廃して社会改革や政治的・経済的な近代化を進め,国内をまとめるべきだ」という意見が出てくるようになります。
1766年にマドリードで起きた食糧暴動をきっかけに本格的な改革
(
ブルボン改
革
(スペイン語の読みで「ボルボン改革」))が始まり,暴動の陰謀を企んだという罪を着せられたイエズス会が国外追放され財産を没収されました。イエズス会はローマ教皇庁の影響力を強く受けており,中央集権的な社会改革を進めようとした支配層にとって邪魔な存在となっていたのです。
植民地にも,ブルボン(ボルボン)改革の波が及びます。従来は大西洋における貿易はセビーリャ港(1717年以降はカディス)が独占していましたが,イギリスなどによる密貿易や海賊行為を完全に押さえることができず苦慮していました。そこで1765年以降,スペインとアメリカ大陸との自由貿易が順次許可されていきました。これにより大西洋を取り巻く貿易額は格段に拡大していきます。
また,アメリカの植民地は「海外諸県」という呼び名に変えられ,植民地の支配方式も変更されました
。
ペルー副王
領
から,すでに1717年
に
ヌエ
バ=
グラナダ副王
領
が分割されており,1776年に
は
リ
オ=デ=ラ=
プラタ副王
領
が新しく設けられました。
中央集権的な改革への反発と,啓蒙思想の広がりを背景として
,
クリオーリ
ョ
(植民地生まれのスペイン系の人々)やによる反乱も起きています。また,1781年には先住民が植民地を支配するスペイン人官僚やクリオーリョに対して大反乱
(
トゥパ
ク=
アマルの反
乱
)も起きています。
さらに,1783年に北アメリカの13植民地がイギリスから独立したことは,スペインと新大陸の植民地に甚大な影響を与えました。
◆
スペインはフランス革命と〈ナポレオン〉による占領を経て,自由主義的な動きが高まった
そんな中,〈カルロス4世〉(位1788~1808)が父の座を継ぐと,翌年1789年に隣国フランスで
は
フランス革
命
が勃発。啓蒙主義的なブルボン(ボルボン)改革を進めていたスペインでは,革命を防ぐために政策が一転して保守化していきます。〈カルロス4世〉が政治的な能力に欠けていたため,王妃やその寵愛を受けていた宰相〈ゴドイ〉が実質的に実権を握る時代となりました(1789~98,1800~1808)。〈ゴドイ〉は「上からの近代化」を急速に進め,さまざまな改革を実行しつつ,〈ルイ16世〉を保護しようとしましたが,1793年に〈ルイ16世〉が処刑されるとフランスの国民公会とスペイン王国は戦争を開始。このとき,カタルーニャ地方の民衆のうち自由主義的な人々はフランス側について,スペインに挑みました。
しかし,のちに〈ナポレオン〉の時代には,1805年にイギリスとスペインの連合艦隊
が
トラファルガーの海
戦
【追H25】
【東京H29[3]】
で敗れると,スペインは劣勢に立たされます。〈ナポレオン〉はイギリスの同盟国であったポルトガルを押さえるためにスペインの〈ゴドイ〉に対して軍隊の通過権を要請し,これを受けたがためにスペインは〈ナポレオン〉による軍事的な進出を受けることになりました。反〈ゴドイ〉派は〈フェルナンド7世〉(位1808,1814~33)を新国王に立てたものの,〈ナポレオン〉により廃位され,代わって6月に彼
の
兄
〈
ジョゼ
フ
〉を〈ホセ1世〉(位1808~13)として即位させ,ボナパルト朝を樹立しました。これに先立つこと1ヶ月前の5月3日には,蜂起を起こしたマドリード住民の銃殺刑がとりおこなわれ,〈カルロス4世〉の宮廷画家であった
〈
ゴ
ヤ
〉(1746~1828)
【本試験H4】
が「5月2日の蜂起」,「5月3日の処刑」
【本試験H4図版 ナポレオン軍の侵入に対する蜂起か問う。諸国民戦争・スペイン継承戦争・三十年戦争に関する絵画ではない】
(スペインのプラド美術館所蔵)と題した絵画を発表しています。
ボナパルト朝の樹立直後からスペイン各地で様々な独立運動が起きていました。1810年にはカディスで議会が開かれ,国民主権の原則が確認されました。この議会にはアメリカ大陸の代表も参加しており,こうした自由主義的な動きはアメリカ大陸のスペイン植民地の独立運動にも影響を与えることになります。なお,カディス議会では,自由主義的な
181
2
年憲
法
(
カディス憲
法
)が制定されました。
このスペイン独立戦争に対して
〈
ナポレオ
ン
〉は大規模な陸軍を動員しますが,1811年以降は小さな部隊が敵の戦力を撹乱させる「ゲリラ戦」(ゲリラは,「ゲラ」(スペイン語で"戦争")に縮小語尾がついたもの)により悩まされるようになり,ロシア遠征のためにスペインの兵力が削減されるとイギリスの支援するスペイン軍が反撃する形となり,1813年には〈ホセ〉が退位。1814年には国境付近のカタルーニャから撤退しました。
しかし,元国王の〈フェルナンド7世〉は自由主義者を弾圧して復位し,1810年に招集されたカディス議会で制定されていた自由主義的なカディス憲法(
181
2
年憲
法
)を無効とし,復位しました。「フランス革命の影響をなくし,革命前の体制
(
アンシャ
ン=
レジー
ム
)」に戻すための政策が実行され,それに対する自由主義者たちの反発は日増しに高まっていきました。
○176
0
年
~
181
5
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
西ヨーロッ
パ
...現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
・
176
0
年
~
181
5
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現①
イタリア
イタリアは,複数の国家が割拠する状態でした。
このうち,北西部で
は
サルデーニャ王
国
が台頭します。
しかし,フランス革命後の1796年に
〈
ナポレオ
ン
〉がイタリアに進出。
当時,オーストリアに服属していたミラノのほか,教皇領の北部の諸小国は〈ナポレオン〉を,オーストリアの支配からの"解放者"として支持。
これに対してオーストリアは,ヴェネツィア共和国の協力によりイタリアに進出。ヴェネツィアは,1797年のカンポ=フォルミオの和約で,オーストリア領として譲渡されています(のち,1805年にフランスの支配する「イタリア王国」に譲渡)。
〈ナポレオン〉は1797年に北イタリア地域を
,
チザルピーナ共和
国
として一括支配。
翌年にはローマも占領しました。
1802年にはチザルピーナ共和国をイタリア共和国(首都はミラノ,大統領はナポレオン)に再編し,1805年にはイタリア王国(首都はミラノ,国王はナポレオン)とします。
南部
の
ブルボン朝ナポリ王
国
は,1806年に〈ナポレオン〉に占領され,初めナポレオンの兄〈ジョゼフ〉がナポリ王(位1806~1808)に,のち〈ジョゼフ〉がスペイン王となると義弟〈ミュラ〉(位1808~1815)が継いでいます。
・
176
0
年
~
181
5
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現②
サンマリノ
1631年に教皇により独立が認められていたサンマリノは,このときから共和国でした。
〈ナポレオン〉時代にも,〈アントニオ=オノフリ〉(1759~1825)の外交努力により,独立を維持しています。
・
176
0
年
~
181
5
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現③
ヴァチカン市国
教皇〈クレメンス13世〉(任1758~1769)は,当時のヨーロッパの諸王国
で
イエズス
会
を排斥する動きが高まっていことに対し,1765年の回勅でイエズス会を擁護しています。
次の教皇〈クレメンス14世〉(任1769~1774)は,諸王国における反イエズス会の動きにあらがうことはできず,1773年
に
イエズス会を解
散
させました。
教皇〈ピウス6世〉(任1775~1799)のときに
は
フランス革
命
が勃発。フランス軍によりローマが占領される中,1799年に死去。
教皇〈ピウス7世〉(任1800~1823)は,1801年にフランスの〈ナポレオン〉との間
に
コンコルダー
ト
を成立させ,1804年には戴冠式にも出席。〈ナポレオン〉が自らの権威を利用する姿にショックを覚えます。
のち〈ナポレオン〉は教皇領を奪ったため,教皇は彼を破門。教皇は〈ナポレオン〉により1814年まで幽閉されました。
・
176
0
年
~
181
5
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現④
マルタ
地中海の中央部の要衝に浮かぶマルタ島は,1798年に〈ナポレオン〉がエジプト遠征の際に占領。マルタ騎士団はロシア皇帝〈パーヴェル1世〉(位1796~1801)に保護を求めました(彼は騎士団の総長となっています)。
〈ナポレオン〉の権力が衰えると,1814年のパリ条約でマルタはイギリスに併合されました。イギリスにとってマルタ島は,インドへの道(インド=ルート)の上に位置する商業的・軍事的な重要地点だったのです。
・
176
0
年
~
181
5
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現⑤
モナコ
グリマルディ家のモナコ公はフランス王国の臣下の地位にありましたが,独立は保っていました。
しかし,フランス革命中にはフランス共和国により占領を受けます。
・
176
0
年
~
181
5
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現⑥
アンドラ
アンドラのウルヘル司教は,フランス国王ととも
に
共同大
公
の地位にありました。
しかし,1793年の〈ルイ16世〉の処刑により,フランス国王=アンドラ大公が不在に。アンドラとフランス共和国との関係は断絶されましたが,のち〈ナポレオン〉が関係を修復。共同大公の制度が復活します。
・
176
0
年
~
181
5
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現⑦
フランス
フランス革命が勃発する
【追H28時期を問う】
引き続
き
啓蒙思
想
が,フランスの伝統的な政治や社会に対する批判を強めていました。拠点となったところには,貴族や市民の社交の場であ
る
サロ
ン
【本試験H12】
や
,
カフ
ェ
(
コーヒーハウ
ス
)
【本試験H12】
があります(パリのカフェ=プロコーブが有名)。啓蒙思想家
〈
ヴォルテー
ル
〉(1694~1778)
【本試験H12『経済表』を著していない】
は,仲間と議論を交わしながら,新大陸産
の
ココ
ア
入りコーヒーを1日40杯飲んだと言われています。
〈ジャン=ジャック
・
ルソ
ー
〉(1712~1778)
【本試験H8啓蒙思想が,フランス革命に影響を与えたかを問う】
【追H9時期:「フランス革命の思想的基盤となった」時期に関するか問う】
は,啓蒙思想家に分類されますが,どちらかというとパリのカフェやサロンとは距離を置き,音楽や恋愛小説執筆に没頭した自由人でした。
彼の著作である
『
社会契約
論
』(1762)
【本試験H2ロックの著書ではない】
【追H9『リヴァイアサン』ではない】
は,当時から注目されていた論文ではありませんが,後世に与えた影響は計り知れません。
これは,"王のいない政治"がどうやったら実現可能かプランを示したものです。彼は,「そもそも社会は,人々が「どういう社会をつくっていきたいのか」という思いにもとづいて社会契約を結んだ上で,作られるべきだ」と考えます(社会契約説
【追H20スコラ哲学(スコラ学)の主張ではない】
)。ただ,「社会を作るからといって,メンバーの自由や個々の利益は奪いたくない。でも,国としてのまとまりは必要だ。だから,メンバーは "みんなの共通の利益" を代表する
"
一般意
志
"のもとでまとまるべきだ」と主張したのです。彼は,この「一般意志」がどういったものか,丁寧に説明を試みます。
また,彼は,人為的な要素を排した自由教育にも興味を持ち,新たな時代に対応した教育論
『
エミー
ル
』も著しました。のちに,ドイツ人哲学者
〈
カン
ト
〉(1724~1804)が,日課も忘れて読みふけることになる書物です。〈ルソー〉はほかに
『人間不平等起源論』
【本試験H2「人間の不平等は私有財産を是認する社会体制から生じたとした」ことを問う】
【追H21、H28シェイエスの著作ではない】
も著しています。
〈ルソー〉は1778年に亡くなりましたが,彼の思想は行き続けます。
「
フランス革
命
」
【東
京
H12[1
]
指定語句
】
の勃発は,もはや時間の問題でした。
イギリスの産業革命(工業化)が急ピッチで進むなか,一刻も早く自国の技術革新を達成して生産性を高め,より多くの商品をより安く生産する仕組みをつくらなければ,経済的にも政治的にも支配されてしまうかもしれない...他国は警戒感を強めていました。
しかし,古い体制(フランスで
は
アンシャ
ン=
レジー
ム
(旧体制)といいます
【追H26「フランス革命以前のフランス」】
)においては,国民は身分や職業ごとに分かれバラバラの状態でした。国王がトップにいて,その次に聖職者
(
第一身
分
),次に貴族
(
第二身
分
)がおり,平民
(
第三身
分
【追H24貴族ではない、H26第二身分ではない】
)が続きます。みなそれぞれの身分・家系・職業・教会のことを考えていて,これではまとまるはずがありません。
しかし,時代は産業化の時代です。第三身分
の
資本
家
(
市
民
,フランス語
で
ブルジョワジ
ー
)を中心に,自由な競争によって技術革新を起こして産業革命(工業化)を実現させなければ,フランスの市場はやがてイギリスの製品に飲み込まれてしまう危険性がありました。
自由な考えを持つ資本家たちは厳しい競争を勝ち抜いた努力の成果(=財産)を社会的に認められることなく,フランス社会は依然として国王・聖職者・貴族を中心とした体制が続いていました。もちろん,聖職者や貴族の中にも,同様の危機感を抱いていた人々もいます。
「これからの時代は,家柄や身分によって人生が決まる時代ではない。それではイギリスとの競争に負けてしまう。これからの時代は,人々が自由に競争をしてその能力を活かし,結果として手にした財産の多さによって,権利が与えられるようにするべきだ」と
,
自由主義
者
はこのように主張します。
ここでいう
「
自
由
」というのは,「空を自由に飛びまわりたい」という言葉のように,のんびりとしたイメージではありません。「自由にやってもいいが結果は自分で責任をとりなさい」ということです。弱い立場にある貧しい人々(都市の下層民や農村の農奴)にとっては,自由主義は厳しい考え方なのです。
一方,富裕ではない人々が求めた理想は,「自由」ではなく,
「
平
等
」でした。従来,都市で商工業を営んでいた手工業者にとっても,互いに生産量や価格・営業時間の協定を結びながら助け合う
「
ギル
ド
」
【本試験H21自由競争を保障する組織ではない】
という組織にとっても,自由に競争することは価格競争により倒れる親方が出るおそれもあり,受け入れがたい考え方でした。
産業化の競争の時代にあっては,フランスは一つの国として団結しイギリスに対抗する必要がありました。その中で,フランス人の団結心を強めることが主張され,同胞(兄弟,仲間)に対する愛
(
友
愛
)が大切だという価値観が生まれていきます。
「自由」を主張すれば,「平等」がかないません。「平等」を主張すれば,その「友愛」の精神がフランス人だけなのか,フランス人以外の者も含むのかという問題とぶつかります。「友愛」を主張すれば,「自由」な競争の生む格差に対処できません。当時のフランスは,相互に矛盾し合うこの3つのキーワードをさまざまな人々がいろんな形で主張していく激動の時代にありました。
ただし,フランスはイギリスに全く遅れをとっていたわけではありません。例えば,学問の分野では,注目すべき業績を起こした人々が多くいます。
例えば,
〈
ラプラー
ス
〉(1749~1827)が星雲が凝縮することで太陽系ができたのだという説(星雲説)を提唱し,確率論の研究も行い,"フランスのニュートン"とも言われました。 化学の分野では
〈
ラヴォアジ
ェ
〉(ラヴォワジエ,1743~94)
【本試験H2ボイルとのひっかけ】
【追H9,追H20】
が質量不変の法則
【本試験H2ボイルの法則ではない】
【追H9血液循環原理の発見ではない】
【本試験H16種痘法ではない】
【追H20万有引力の法則ではない】
を提唱しましたが,徴税請負人という立場が批判されフランス革命の中,ギロチンで処刑されてしまうことになります。
◆海外貿易の自由化が進む一方、国内改革で行き詰まり、特権身分の反抗が動乱につながる
自由貿易を推進するが、国内改革に失敗する
王室の状況に目を移しましょう。
七年戦
争
では,イギリスがオランダとプロイセンと組み,フランスはオーストリア・ロシアと組みました。後者のチームが敗北。フランスは植民地の多くを喪失し,財政再建が必要となりました。
〈
ル
イ
1
6世
〉(位1774~92)は,先進的な重農主義(自由放任主義
【追H21自由放任主義を批判してはいない】
)の経済学者
〈
テュルゴ
ー
〉(1727~81)
【追H21】
,次に
〈
ネッケ
ル
〉(1732~1804)を財務総監(ネッケルは外国人のため財務長官)として
,
ギルドの廃
止
(のちフランス革命の間に廃止されることになります
【本試験H28】
)や
,
国内関
税
(フランス国内の商品の移動にかかる関税
)
の廃
止
(こちらもフランス革命により廃止)について考えさせました。
すでに先代の〈ルイ15世〉(位1715~1774)の時代には、財政の悪化したフランス東インド会社の活動は停止。西インド貿易に従事していいた貿易商人や海外貿易への投資をすすめようとする人々の要求が取り入れられ、〈ルイ16世〉の代の1775年には
東インド貿易が正式に自由化
されました。同じ時期に政府が独占権を与えていたイギリス東インド会社とは対照的で、自由貿易という点ではフランスのほうがイギリスよりも進んでいたわけです。1787年以後、貿易額もオランダ東インド会社を上回る規模でした
(注)
。
このように〈ルイ16世〉は,学者の意見をとりいれつつ経済の立て直しを図っていたわけなので,〈エカチェリーナ2世〉のよう
に
啓蒙専制君
主
の一人に数えてもよいのではないかという意見もあるんです
("アホなルイ16世がフランス革命で倒された"というのは,ちょっと単純すぎる説明です)
。
(注)羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.337。
しかし、問題だったは国内の制度改革です。
財務総監〈ネッケル〉らの改革もなかなか進まなかったため,国王は、1783年に財務総監に就任した〈カロンヌ〉(1734~1802、財務総監任1777~81、88~89、89~90)の「第一身分と第二身分も含む全身分から上地上納金をとるべきだ」という意見を、臨時で組織した名士会で承認させようとします。しかし、「それはおかしい」と,第一身分・第二身分
【共通一次 平1:免税特権を持っていたか問う】
が反対。彼らの拠点である高等法院は,〈カロンヌ〉をやめさせて名士会も解散。
代わって〈ルイ13世〉以降ずーっとひらかれていなかった
【共通一次 平1
】
三部
会
【
本試験H12
「封建的特権の廃止を決定した」か
問う】
【本試験H16ルイ16世による召集】
【追H24三部会を召集したのはルイ14世ではない,H28封建的特権の廃止を決議したか問う。決議したのはその後の国民議会】
を開催したほうがよいのではないかということになりました。国王ははじめ第一身分・第二身分の意見に反対しますが,三部会を開く方向で妥協する方向をとり,
〈
ネッケ
ル
〉を財務総監にもう一度就任させ,改革を続行させようとしました。
1789年5月に招集されましたが,新税をとりたてられたくない両身分に対し,市民の属する第三身分は採決方法について異議を申し立て,三部会とは別に
「
国民議
会
」
【共通一次 平1:バスティーユ牢獄事件の結果,成立したわけではない】
を創設しました。このときの第三身分は,都市の銀行家・産業資本家・地主を中心とする大ブルジョワジーや,医師・教員・弁護士・記者といった専門職を営む小ブルジョワジーが中心でした。資本家の中には,1786年にイギリスと結ばれた自由貿易を認める条約
(
英仏通商条
約
【本試験H2】
)で,イギリスから安価な繊維製品が流入し打撃を受けた者もおり,経済的に苦しい状況なのに「第一身分と第二身分は何もしてくれない」と考える第三身分も少なくありませんでした
【本試験H2イギリスから安価な繊維製品がフランスに流入し,フランス工業が打撃を受けたことを問う】
。
彼ら
は
球戯
場
(テニスコート
)
の誓
い
【本試験H27ネーデルラントではない】
で
憲法の制
定
まで国民議会を解散しないことを誓いました。この頃,〈シェイエス〉(1748~1836)
【追H28『人間不平等起源論』は書いていない。それはルソー】
という聖職者のパンフレット『第三身分とは何か』
【追H21】
は第三身分を支持する内容であり,広く読まれました。
国王による憲法なき絶対王政を終わらせ,古くさい中世の身分制社会を廃止し,その能力に応じて自由に社会的に上昇可能な社会をつくることを目指したのです。国民議会は,7月9日以降は
「
憲法制
定
国民議会」
【慶文H30記】
と呼ばれます。
そんな中,7月11日,国王は反対派に押されて,改革をめざしていた財務長官の
〈
ネッケ
ル
〉(1732~1804)を罷免しました。第三身分出身の〈ネッケル〉が首にされたことに絶望したパリの民衆は,7月14日
に
バスティーユ監獄(牢獄
)
【セA H30ヴェルダンにはない】
を襲撃しました
【共通一次 平1:国民議会の成立より前ではない】
【H29共通テスト試行 図版と時期】
【追H25ナポレオン3世による建設ではない】
。
100年後の1889年にはパリ
で
第二インターナショナ
ル
が結成され,200年後の1989年に
は
東欧革
命
や
天安門事
件
【セA H30】
が起こるなど,後世に
も
フランス革
命
【本試験H6産業革命も同時に進行しているわけではない】
がはじまった"特別な年"として記憶されることになります。
「パリの市民が国王に抵抗した」という知らせはまたたく間にフランス全土に広がり,人々の心の中には「悪いのは国王,第一身分,第三身分だ」という構図が生まれます。
そして,1785年の旱ばつや1788年の天候不順などの不作と食料価格の高騰に苦しんでいた農村で,農民たちが一種の群集心理(パニック状態)に陥り領主の館を襲う
「
大恐
怖
」という反乱があちこちで起こりました。急速に悪化する治安に対して,国民議会
は
有
償
ではありますが
「
封建的特権の廃
止
」
【本試験H9無償で廃止されたわけではない】
を宣言し(8月4日)
【本試験H12三部会が「封建的特権の廃止を決定した」か問う】
【追H28三部会が「封建的特権の廃止」を決議したか問う】
,領主の人格的な支配を否定しました。ただ,領主が地代をとる権利は,まだ容認されていました。
さらに8月26日には,アメリカ独立戦争にも参加した自由主義貴族の
〈
ラ=
ファイエッ
ト
〉
【共通一次 平1:アメリカ独立戦争に参加したか問う】
【本試験H26リンカンではない】
【追H30ナポレオンではない】
の起草した
「(フランス
)
人権宣
言
」(人と市民の権利宣言,
英語ではThe Declaration of the Rights of the Man and of the Citizen
)
【東京H30[1]指定語句】
【本試験H14】
【追H18】
【慶文H29】
が国民議会
【本試験H14】
で採択され,従来の身分制度を真っ向から否定しました
【本試験H14】
。
しかし,前年の不作から食料高騰に苦し
む
女
性
を中心とするパリの市民は,1789年10月5日に武装してヴェルサイユ宮殿まで行進しスイス人傭兵を殺害して宮殿を襲撃,国王らをパリに連行しました
(
ヴェルサイユ行
進
)。〈ルイ16世〉がパリに戻れば食料も一緒に戻ってくると信じられたので,国王は"パン屋の主人"とあだ名されました。
第一身分の聖職者に対しては,1789年11月に聖職者の〈タレーラン〉(1754~1838,のちにウィーン体制時代に外相として活躍する人物です)の主張によ
り
教会財産の国有
化
が決議され(実施は90年),1790年7月に
は
聖職者民事基本
法
(聖職に関する民事基本法;僧侶民事基本法)によって聖職者を公務員化し,カトリック教会はフランスの管理下に置きました。僧侶は「精神的な軍人」なのだから,国家に仕える身であるべきだという理屈です。しかしのちにローマ教皇やフランスの聖職者の多くがこれにNOを突きつけ,基本法に従う宣誓派と抵抗する忌避派が対立しました。
没収された教会財産を担保として債権の「アシニア」が発行されました(のちに紙幣として流通し,乱発により価値が著しく下落することになります)。
聖職者は財産
も
十分の一
税
をとる権利も失ってしまったため,公務員になりさがったわけです。これに反対する教皇(当時は〈ピウス6世〉(位1775~99))派の聖職者は,ドイツのトリーア選帝侯を拠点とした貴族とともに反革命勢力を形成していきました。
また,国民議会
は
ギルドを廃
止
【本試験H2コルベールのときではない】
【本試験H22】
し自由な経済を実現させようとしました。
さらに,国王の権力をコントロールすることを目指して,1791年
【追H25】
に三権分立を定め
た
立憲君主
政
【追H25共和政の憲法ではない】
をフランスの政治制度とし
,
制限選挙
制
【本試験H14】
による議会が制度化されました (
179
1
年憲
法
)
【本試験H14】
。「人権宣言」はその前文となっています。「人権宣言」の「人権」の中に「女性」の権利が含まれていないということを批判し「女の人権宣言
【東京H30[1]指定語句(女性史)】
」を執筆した女性に,〈オランプ=ド
=
グージ
ュ
〉(1748~93)がいます。
フランス革命の担い手は,上の階級から下の階級へのだんだん下がっていきます。
上の階級は「自由」を主張しましたが,下の階級は「平等」を主張します。
中世の身分制度を崩して「平等」を主張するには,かなり過激な社会の改変が必要となりますから,一筋縄にはいきません。上の階層は,すでに手にした土地や資本を手放さまいと必死になりますから。
1791年憲法をもとに,同年10月1日
に
立法議
会
と呼ばれる議会が招集されました。この憲法は,そもそ
も
制限選
挙
が規定されていたので,一定の財産をもつ者でなければ,議員になることができませんでした。
第一身分・第二身分を中心とした「上」の身分の人々を中心とした
,
フイヤン
派
(フイヤン=クラブ,1791年パリのフイヤン修道院に本部を置いていたグループで,ジャコバン=クラブの中の右派である〈ラ=ファイエット〉(1757~1834)や〈シエイエス〉(1748~1836)の1789年クラブと,貴族特権の廃止と議会制の立
憲
君
主主義を主張した〈バルナーブ〉らの三頭派が合わさって成立しました)
は「もう憲法をつくって,自由な社会を話し合いでつくる準備が整ったのだから,革命はこれで"おしまい"にして,国王を中心としたフランスを維持しようじゃないか」と主張しました。彼らは立法議会の中の右翼(議会正面から見て右側を陣取っていたことから,このように呼ばれます)を占めます。
しかし,フイヤン派よりも「下」の身分に属し,資本家も含
む
ジロンド
派
は,「革命はまだ"おしまい"じゃない。今の選挙制度では財産資格が厳しく,民主的ではない。もっと民主化を図るべきだ!」と主張し,次第に保守的なフイヤン派を圧倒していくようになりました。
さらにジロンド派は「せっかく王を縛る憲法を制定したのに,外国がそれをじゃましようとしている。国王の妻の実家のあるオーストリアを早めににつぶしておくべきだ」と,オーストリアとの開戦を主張し,1792年4月にジロンド派が多数を占める立法議会
【本試験H19国民議会ではない】
は
オーストリアに宣戦布
告
をしました。
フランス国内のジロンド派に対抗する王党派などの勢力も「ジロンド派主導の戦争はどうせ負ける。負けてくれれば革命は終わる」と考え,戦争に賛同しました。
しかし,この戦争では,かつてオーストリア継承戦争と七年戦争では犬猿の仲であったプロイセン王国が,オーストリア大公国とタッグを組んだため(どちらも君主国なので,フランスの革命に対抗したのです),フランスは苦戦します。
プロイセンとオーストリアとの戦争がうまくいかない理由,をジロンド派は次のように考えました。
「国王の軍隊の中に,"裏切り者"がいるに違いない。作戦計画を漏らしているのだ。フイヤン派は,国外の革命を阻止するために,国外のオーストリアによって革命を代わりにつぶしてもらおうとしているのではないか...」
こうして訪れた1792
年
8
月
1
0日
。パリの民衆により構成された国民衛兵やフランス各地の義勇軍がテュイルリー宮殿を襲撃し,衛兵を務めていたスイス人傭兵や貴族が多数殺害され,立憲君主派フイヤン派は壊滅しました。国王の一家は拘束されてタンプル宮に閉じ込められました。立法議会によ
り
王権の停止が宣
言
されます。
折しも同年9月20日,フランス軍はプロイセン・神聖ローマ帝国との戦闘に勝ちました。外国との革命戦争始まって以来の勝利でした。このときプロイセン川に従軍していた
〈
ゲー
テ
〉(1749~1832)は
「
ここから,そしてこの日から世界史の新しい時代が始ま
る
」という言葉を残しています。傭兵を雇って戦う国王や皇帝の時代はもう終わった。これからの時代は,国民が団結した強力な国家(国民国家(ネイション=ステート;nation state
【本試験H16リード文の下線部】
)の時代になるのだと直感したのでしょう。その翌日9月21日,初勝利の歓声があがる中,新憲法制定のために男子普通選挙制
【本試験H4七月革命後の実施ではない,本試験H12 パリ=コミューンが初の普通選挙の実施例ではない】
で選出された議員によ
り
国民公
会
が召集され
,
王権の停止が決
定
されました
【本試験H25国民議会ではない】
。この政体をフランス政治史では1度目の国王不在の時期ということ
で
第一共和
政
とよびます。
国民公会は翌年1793年1月には
〈
ル
イ
1
6世
〉
の処
刑
を決議し,セーヌ川沿いのコンコルド広場で執行されました
【本試験H19総裁政府の時ではない】
。
国民公会は,国内では「上」の階層の属するライバル政党をおさえ,同時に国外では革命を阻止しようとするオーストリア,プロイセン,スペインやイギリス(全部,君主の国)と戦争する必要にせまられていました。とくに〈ルイ16世〉の処刑は,周辺の君主国に衝撃をあたえ,イギリスの若手の首相
〈
ピッ
ト
〉
(1759~1806)
【本試験H3ウォルポールとのひっかけ】
【本試験H18アメリカ合衆国ではない】
は1793年
,
第一次対仏大同
盟
【本試験H3ウォルポールではない】
【本試験H18,本試験H26第一次世界大戦後ではない】
をヨーロッパ諸国と組みました。
ただ,ここでまた,「どこまで革命をすすめるか」という問題が浮かび上がります。ジロンド派は,フイヤン派よりも「下」の階級ではありましたが,資本家も多く属しており,さらに「下」の都市の民衆
は
山岳
派
(
ジャコバン
派
)という,さらに急進的な革命を主張するグループを形成しました。
ジャコバン派は急速に台頭し,やがてジロンド派を追放します
【本試験H10打倒したのは〈バブーフ〉ではない】
。中心となったのは
〈
ロベスピエー
ル
〉(1758~94)です。彼は,幼くして両親を失い,コレージュ卒業後,ルイ大王学院の奨学生となった苦労人です。ラテン語の優秀生として,ルイ16世の前で献辞を読んだこともありました。卒業後は故郷で弁護士を開業し,のち政治の世界に足を踏み入れました。民衆思いの彼は,しだいに過激化し,「危機に対処するためには,国家に強力な権力を与えることが必要」と考えるようになりました。そこで
,
公安委員
会
を中心に,領主制度が無償廃止されたり
(
封建的諸特権の無
償
【本試験H2時期(ジャコバン派支配のとき)
】
廃
止
【本試験H2これにより農民が保守化し「ナポレオンを支持する勢力の一つになった」か問う】
),最高価格が定められたりしました
(
最高価格
令
)。
メートル法
【追H18時期】
の採用が決定されたのも国民公会のときです(正式に採用されたのは総裁政府時代)。
また,1793年には国王の所蔵品に亡命した貴族やローマ=カトリックの没収財産を加えたコレクションを
,
ルーブル美術
館
として公開しました。美術館は国民主権のシンボルだったのです。
しかし,国内の急激な改革は,「上」の階級の人々を不安にさせ,"裏切り者"を探すために,反対勢力と目された人々は容赦な
く
ギロチ
ン
(断頭台)に送られました(
「
恐怖政
治
(テロル)」)
【追H21恐怖政治の終わった後,ジャコバン派が独裁体制を樹立したわけではない】
。伝統を根絶し,合理的な社会の建設を目指した彼らは,週を7日とするキリスト教のグレゴリオ暦をやめて週を十進法に合わせて10日とす
る
革命
暦
を導入したり
【追H26ドイツではない】
【本試験H14総裁政府の下で制定されたわけではない,本試験H19国民公会の時かを問う】
,キリスト教に代わり理性を崇拝する人工的な宗教を創設してノートルダム大聖堂で祭典を開きました
(
理性の祭
典
,1793年11月の祭典がピーク)
(注
)
。また,革命戦争の遂行のために
3
0
万人募兵
令
を発布し,徴兵制による国民皆兵を目指しました。
(注
)
〈ルソー〉の構想した「市民宗教」の思想の影響を受けています。なお,大聖堂の内部には〈フランクリン〉,〈ヴォルテール〉,〈ルソー〉,〈モンテスキュー〉の像が立てられていました。
平等な社会をつくろうとしたのに,人々の自由を奪ってしまう矛盾を招いたロベスピエールは,1794年
に
テルミドール9日のクーデ
タ
(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること)で銃弾を浴び,失脚しました。
〈ロベスピエール〉のいなくなった国民公会は,ジャコバン派よりも「上」の階級に主導権が戻ります。
179
5
年憲
法
【本試験H14】
が国民公会で制定され,独裁者が出ないように5人の「総裁」を置いた政府,
「
総裁政
府
」が成立しました。資本家の財産を守るために所有権が尊重され,「下」の階層が政治に参加してまた社会が混乱しないよう
に
制限選
挙
【本試験H14】
がとられました。
フランス革命の流れを単純に図式化すると,以下のようになります。
第一段階は
,
国王
派
v
s
フイヤン
派
。
聖職者・貴族が,自分たちの免税特権を守るために,国王の課税に対して反抗します。
↓
第二段階は
,
フイヤン
派
v
s
ジロンド
派
。
都市の市民(ブルジョワジー)が,聖職者・貴族の身分による社会のしくみに対して,自由を叫んで反抗します。
↓
第三段階では
,
ジロンド
派
v
s
ジャコバン
派
。
ブルジョワジーの自由主義に対して,より下層の民衆が平等を求めて抵抗します。
総裁政府の成立後も,混乱はまだ続きます。革命はまだ"おしまい"ではないと考える山岳派の残党や,革命を完全に"リセット"させようとす
る
王党
派
が,各地で衝突しています。王党派は,国民公会の末期にカトリック教会への弾圧や徴兵制に反対したヴァンデ地方の農民反乱
(
ヴァンデ反
乱
,1793~96)を支援し,総裁政府と激しく対立しました。
また,平等な社会を求める
〈
バブー
フ
〉
【東京H21[3]】
【本試験H2反乱は成功していない,本試験H10内容「総裁政府の下での革命の後退を阻止するための企てであった」か問う(ナポレオンの独裁を打倒しようとしたわけではない)】
も反乱を計画しますが,未然に発覚して処刑されています。
しかも同時に,依然として周辺諸国との戦争も続いている危機的状況です。
そこにさっそうと現れるのが,
コルシカ島
【本試験H16地図 シチリア島ではない(ナポレオン1世の出生地かを問う),本試験H20地図(のちの流刑先ではない)】
【追H24地図】
生まれの青年将校
〈
ナポレオ
ン=
ボナパル
ト
〉(1769~1821)
【東京H27[3]】
【追H30】
です。まず国内では1793年末にトゥーロン
で
王党派の反
乱
を鎮圧し,リヨンでも反乱を押さえます。次にイタリアに遠征し,フランス包囲を狙っていたオーストリアを撃破して講和条約を結び
,
第一回第仏大同盟を終
結
させました(イタリア戦役,1796~97)。
さらに,イギリスの産業化をじゃまするため,イギリスがインドに向かうルート(インド=ルート)を遮断しようとして,オスマン帝国
【本試験H16サファヴィー朝ではない】
領であっ
た
エジプ
ト
に
遠
征
【セ試行 ナポレオン3世は実施していない】
【本試験H18時期】
。これがきっかけ
で
第二回対仏大同
盟
(1798~99年)がイギリス主導で結成され,アブキール湾の海戦で破れました。このとき,〈ナポレオン〉
【東京H13[1]指定語句 エジプト史の論述】
軍はアレクサンドリア近郊のロゼッタ(現ラシード)で,黒い玄武岩を発見。こ
の
ロゼッ
タ=
ストー
ン
(石)
【東京H10[3]】
【追H27一部にギリシア文字が使用されているか問う】
【本試験H4楔形文字解読の契機ではない,本試験H9図版】
【本試験H13ナポレオン3世の遠征時ではない,本試験H15】
に刻まれた謎の文字(神聖文字
【共通一次 平1】
)を解読したのが,フランス
【共通一次 平1】
の天才的な言語学者
〈
シャンポリオ
ン
〉(1790~1832)
【共通一次 平1】
【中央文H27記】
です。
彼は,謎の2種類の文字(神聖文字
【本試験H9ペルシア文字ではない】
と神官文字
【本試験H9アラム文字ではない】
)の下に
,
ギリシア文
字
【追H27】
【本試験H9フェニキア文字ではない】
【本試験H15】
が刻まれていたことをヒントに,「ギリシア文字もアルファベットが,2種類の記号と対応しているに違いない」と考えました。
そして,その内容が,ヘレニズム時代のプトレマイオス朝
【本試験H9セレウコス朝やアンティゴノス朝ではない】
【追H30マヤ文明ではない】
エジプトの〈プトレマイオス5世〉が13歳で王位継承することを認めたものであると突き止めたのでした。
従来から古代エジプトに関する史料は,前3世紀頃のエジプトの神官〈マネトン〉(生没年不詳)の王の名前の記録が知られていました。しかし,「キリスト教の歴史がエジプトよりも古いのだ」と主張するキリスト教の教父らにより,正確な理解に至ることはありませんでした。
しかし,神聖文字の解読により従来の常識が崩されたことは,キリスト教徒の歴史観(世界の誕生から最後の審判まで
を
6千
年
とする,
「
〈ナポレオン〉の遠征も呼び水となり,ヨーロッパでは"古代のロマン"をかき立てるエジプト趣味が広まりました。しかし,その多くがロマン主義的なイメージに飾られたもので,事実に照らした理解とはほど遠いものであったのが実態です。
さて,イギリスに敗戦した〈ナポレオン〉ですが,1799年11月9日
(
革命
暦
8
年
ブリュメー
ル
(
霜
月
)
1
8日
),パリに舞い戻ってクーデタ(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること)を起こし,財政が悪化し人気が低迷してい
た
総裁政
府
【本試験H19立法議会ではない】
と議会(五百人会と元老院)を打倒しました。こうして,自分を含む3人の「統領」が政治をおこなう
「
統領政
府
」
【本試験H14これ以降の政体の変遷を問う】
を発足させました(1799年に新憲法を発足させました)。
このクーデタ
を
ブリュメー
ル
1
8
日のクーデ
タ
【セA H30イタリアではない】
といいます
【※以外と頻度低い】
。
〈ナポレオン〉の支配の特色は,軍事力によって国民の「安全」を確保した上で(1801年のオーストリアとの講和,1802年のブリテン島・アイルランドとの講話
(
アミアンの和
約
)),フランスのあらゆる階層をひきつける"八方美人"のような政策にありました。
例えば,1800年
の
フランス銀
行
【追H30 ルイ14世の施策ではない】
の設立は,資本家の支持を受けます。
また,1801年にローマ教皇〈ピウス7世〉(位1800~23)
と
政教条
約
(コンコルダート)を結んだことは,国内の聖職者にとっても朗報でした。1790年に聖職者民事基本法によって聖職者は公務員となり,ローマ教会はフランスの管理下に置かれたほか,フランス革命中にはグレゴリオ暦
を
革命
暦
に改めるなどの,非カトリック的な政策がめじろおしで,フランスとローマ教皇は断絶状態だったのです。こうして,敬虔な信徒である農民たちも,〈ナポレオン〉の支持者となっていきました。
周辺諸国との戦争状態にピリオドを打ち,世の中を安定させたことも,自由に移動して商品を取引する産業資本家が彼を支持する要因になりました。
〈ナポレオン〉の急成長ぶりをみたイギリスの首相〈ピット〉は,「1798年にアイルランドで独立をめざす反乱が起きた。カトリック教徒の多いアイルランドは,同じカトリックのフランスと組んでいるに違いない。アイルランドとフランスとの関係を断つ必要がある!」と,1801年
に
アイルランドを併
合
。こうして,すでにスコットランドとイングランドが同君連合を組むことで成立していた「大ブリテン王国」(イギリス)は,アイルランドと合併し
,
大ブリテン及びアイルランド連合王
国
(the United Kingdom)ができました。イギリスの国旗であるユニオン=ジャックは,もともとイングランドの赤十字(背景は白),スコットランドのナナメ白十字(背景は青)が重ねられていましたが,ここにアイルランドの赤いナナメ十字(背景は白)が加わることになります。
一方の〈ナポレオン〉は,1802年の憲法
で
終身統
領
となり,1804年には「所有権の不可侵」「法の下の平等」
【追H28「法の
前
の平等」という理念に基づくか問う】
「家族の尊重」などを定め
た
民法
典
【本試験H3「ナポレオン法典」。ナポレオン3世によるものではない】
【追H18時期、H24「ナポレオン法典」時期を問う,H28「ナポレオン法典」】
を発布。時代の大きな流れをくみとり,従来の身分に基づく社会のしくみから,各人の能力にもとづいて自由に経済活動ができ,社会的に評価されるような新たな社会を組み上げようとしました。ただし女性の権利は制限され,一家を代表する男性が家父長として強い権利を持つ内容でした。
このフランス民法典で定められたルールは,到来する資本主義社会に対応するための内容でした。契約とはどうすれば成立するのか,所有権はどうやって確定され保護されるのか,こういったことをしっかりと定め,資本主義という「ゲーム」の「ルール」を定めたわけです。これにより,資本家たちが安心して企業を起こす前提条件が整います。
なお,この頃〈ナポレオン〉の懸賞に応募した〈アペール〉(1749~1841)が1804年
に
瓶
詰
を発明し,軍隊の糧食として活用されるようになっています。
そして,同年1804年に満を持し
て
皇帝に即
位
【本試験H14時期(統領政府以降の政体の変遷を問う)】
しました。このとき,彼はローマ教皇から冠を取って,それを自分で自分の頭の上に乗せています。その光景は,ギリシア・ローマの文化の影響を受けて調和を重んじ
た
古典主
義
【H29共通テスト試行】
の宮廷画家
〈
ダヴィ
ド
〉
【本試験H31「ナポレオンの戴冠式」を描いたか問う】
に,ローマ帝国時代を彷彿とさせるような表現で描かせました。彼は,ナポレオンのアルプス越えの絵
【追H24リード文で図版が使用】
も描いています。
皇帝即位の知らせを聞いて失望したといわれるのが,作曲家の
〈
ベートーヴェ
ン
〉(1770~1827)
【追H18】
です。平民の彼は,彼にフランス革命の精神である"平等"を期待していたのですが,それは誤解だったということがわかると,〈ナポレオン〉に捧げるつもりだった交響曲の譜面の表紙を破いたのだと伝えられます。彼の時代にはすでに鍵盤楽
器
ピア
ノ
が普通に使われるようになっていて,「エリーゼのために」といっ
た
ピアノ
曲
が作曲されるようになりました。ピアノの普及とともに,象牙の需要が高まりました。20世紀にかけて,推定3万頭
の
アフリカゾ
ウ
が殺されたといいます。
なお,オーストリアの
〈
シューベル
ト
〉(1797~1828)
【追H26ロマン派の音楽家か問う(正しい)】
は,ナポレオン戦争期のウィーンで小学校教師・ピアノ教師として,多数の歌曲や交響曲を書いた"庶民派"の作曲家です。"歌曲の王"と称されロマン派に分類されます。
さて,〈ナポレオン〉の皇帝即位をイギリスは非常に警戒し,1805年に
は
第三次第仏大同
盟
によって,オーストリアやロシアとともにフランスを包囲しようとしました。〈ナポレオン〉はイギリスを打倒できませんでしたが(1805
年
トラファルガーの海
戦
で敗れる
【本試験H29】
【追H25】
),同じ1805年にアウステルリッツでロシア
【本試験H22】
の〈アレクサンドル1世〉とオーストリア〈フランツ1世〉の連合軍に勝利し
【本試験H22】
,1807年にはロシアとプロイセン
と
ティルジット条
約
で講和しました。敗れたプロイセンやロシアの支配する領域には,フランスの支配が及ぶ「傀儡国家(かいらいこっか。バックにフランスがついており,操り人形(傀儡)のように動かされている国家)」を成立させます。
〈ナポレオン〉は,伝統的な身分制度にかわって,能力主義的な近代市民社会の精神をヨーロッパ各地に広める役割を果たしました。しかし,一方で新たな考え方に 感化された進出先の民族にとっては,〈ナポレオン〉自身が伝統的な支配を振りかざす"古い存在"に映り,「他の民族に支配されたくない!」とい
う
民族主
義
(
ナショナリズ
ム
【東京H18[1]指定語句】
)的な考えを主張するようになっていきました。
例えば,スペインでは,1808年に〈ナポレオン〉の兄が王に就任すると大規模な反乱
(
スペイン反
乱
,1808~14)
【本試験H23時期】
が勃発し,ゲリラ戦によってフランスを苦しめました。このときスペイン人がフランス軍に銃殺されようとしているシーンを描いたのは宮廷画家であった
〈
ゴ
ヤ
〉(1746~1828)です(作品名は『マドリード,1808年5月3日』)。
〈ナポレオン〉
【本試験H28ナポレオン3世ではない】
はユーラシア大陸
【本試験H21アメリカ合衆国ではない】
へのイギリスの製品をブロックしようとして,1806年にベルリン
【東京H14[3]】
で
大陸封鎖
令
【東京H14[3]】
【追H18時期、H24時期がフランス革命~第一帝政時代か問う】
を発布しましたが,農業国のプロイセン,オーストリア,ロシアにとってはいい迷惑です。サトウキビの輸入がストップしたために,寒冷地でもよく育
つ
封鎖を破ってイギリスと取引をしたロシアに対して〈ナポレオン〉は1812年に遠征に踏み切りました
(
ロシア遠
征
)。しかし,ロシア軍が住民を疎開させて火を放ったモスクワに引き込まれたフランス軍は,極寒のために退却をせまられます。
『不可能だと貴官より報告されても,その言葉はフランス語ではない』とは,1813年に補給品を断られたときの〈ナポレオン〉の手紙です。"余に不可能の文字はない"で有名なセリフですが,実際には大ピンチのときの言葉のようです。
パリに帰ってこれたフランス軍は,当初の60万からたったの5000人となりました
(
モスクワ遠
征
)。〈ナポレオン〉が弱っているところを,オーストリア,ロシア,プロイセン連合が反撃し,1813
年
ライプツィヒの戦
い
(
諸国民の戦
い
)
【本試験H16年号「1813」を問う】
でフランスを破り,1814年
に
パリは陥
落
しました。
ナポレオンは,一度地中海
の
エルバ
島
【本試験H20地図(コルシカ島ではない)】
に流されますが脱出し,1815年3月20日に復位します。しかし,6月18
日
ワーテルローの戦
い
で敗北し,同22日にあっけなく退位しました。このナポレオンが再起をかけた期間を
,
百日天
下
といいます。
後継者に指名されていた〈ナポレオン2世(ジョセフ)〉が,形式的にフランス皇帝を継ぎますが,7月8日に,〈ルイ16世〉の弟
〈
ル
イ
1
8世
〉(位1814~15,15~24)がフランス王に即位し,ブルボン朝
【本試験H23ヴァロワ朝ではない】
の
復古王
政
時期(統領政府以降の政体の変遷を問う)がはじまりました。エルバ島に流されたナポレオンは,1815年に支持者にともなってパリに再入城して権力の座にしがみつきますが
(
百日天
下
),ワーテルローの戦いでイギリスとプロイセンに敗れて退位し,大西洋の絶海の孤
島
セントヘレナ
島
に流されました。死因についてのフランスの公式見解はヒ素による中毒死です。壁紙に塗られた美しい緑色のヒ素由来の顔料に,カビがついたことでガスが発生したのではないかという説もあります。
なお,ナポレオンの子〈ジョセフ〉(7月7日まで皇帝でした)には妻子がなく,母がハプスブルク家の〈マリ=ルイーズ〉であったことから,ハプスブルク家に引き取られ,オーストリアで亡くなりました。したがって,今後もしも〈ナポレオン〉の跡を継ぐことができる人物がいるとすると,それは甥(おい)の〈ルイ=ナポレオン〉(のちの
〈
ナポレオン3
世
〉
)
【本試験H3,本試験H7】
ということになりました。〈ナポレオン〉はフランス人に「夢」を見させてくれたということで,退位後も「〈ナポレオン〉はすごかった」という"ナポレオン神話"が語り継がれ,支持者は根強く残っていくのです。
・
176
0
年
~
181
5
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
⑧
アイルランド
,⑨
イギリス
176
0
年
~
181
5
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現⑨
イギリス スコットランド
1782年までには,スコットランドの氏族たちの伝統であ
る
バグパイ
プ
や
キル
ト
衣装が禁止され,特に〈ジョージ3世〉(位1760~1820)以降は,イングランドへの同化が求められていきます。
スコットランドの中でもイングランド側に近いローランドでは,イングランド文化の影響が強く,重商主義を批判した〈アダム=スミス〉(1723~1790)や,哲学者〈ヒューム〉(1711~1776)などのスコットランド啓蒙と呼ばれる新進気鋭の思想が育まれたほか,蒸気機関を改良した〈ワット〉(1736~1819)のように国内外のビジネスに挑戦する者もいました。
産業革命の波が欧米に波及し,各地で自由主義と保守主義の対立が勃発する。依然としてアジアの経済は盛ん。交通革命により,帆船は蒸気船に,馬・ラクダは鉄道に交替する。
◆
ユーラシア大陸・アフリカ大陸
・政権の中心が,ユーラシアの遊牧民エリアから,沿岸地帯に移る。
・ヨーロッパ勢力が海の道に参入し,各地に拠点を設ける。
◆
南北アメリカ大陸
南北アメリカ大陸では,ヨーロッパからの植民者の独立が進む。
○181
5
年
~
184
8
年のアメリカ 北アメリカ
モンロー主義の下,太平洋方面に領土を拡大する
・
181
5
年
~
184
8
年のアメリカ 北アメリカ
現①
アメリカ合衆国
イギリスからの独立を勝ち取ったアメリカ合衆国は,人口の増加にともない領土を拡大する必要から,先住民のインディアン諸民族の地域への進出を本格化させていきました。スペイン植民地だっ
た
フロリ
ダ
では,スペインと組んだセミノール人との間第一次セミノール戦争(1817~18)が勃発します。司令官は,
〈
モンロ
ー
〉大統領(任1817~25)に命じられた
〈
ジャクソ
ン
〉
【東京H19[3]】
(のちの大統領(任1829~37))
【追H18,H21】
です。敗れたセミノール人はその後も,さらに2度
の
セミノール戦
争
(1835~42第二次,1855~58第三次)を戦うことになります。アメリカの関わった戦争としては,最も長期間にわたるものでした。
こうした内政問題もあり,建国の父・初代大統領
〈
ワシント
ン
〉(任1789~97)
【セA H30】
は,アメリカは"内向き"の国であるべきだ,と考えていました。"新大陸"に位置するアメリカは,アメリカ大陸の防衛に専念するべきであり,"旧大陸"のヨーロッパと関わるべきではないという考え方です。
旧大陸には貴族制度や領主制度の長い歴史がありましたが,アメリカには貴族や領主制度もありません。まったく新しい価値観によって生まれたアメリカが,ヨーロッパの国際政治にかかわることによって,予期せぬもめごとに巻き込まれることを恐れたということでもあります。
この"内向き"政策を
「
孤立主
義
」といい,1812年に始まっ
た
アメリ
カ=
イギリ
ス(
米
英)
戦
争
の勝利の後,アメリカの基本的な外交方針になっていきます。
"内向き"なアメリカにとっての一番の心配事は,インディアン諸民族の抵抗です。また,中米・南米の多くが,スペインやポルトガルの植民地であったことも悩みのタネでした。しかし,ヨーロッパにナポレオン旋風が巻き起こり,スペインやポルトガルがナポレオンに屈すると,植民地だった地域が次々に独立を開始しました。
それに対してヨーロッパで,ウィーン体制を推進していた〈メッテルニヒ〉は,独立を阻止する動きをみせたため,1823年に
〈
モンロ
ー
〉大統領(任1817~25)が「今後ヨーロッパ
【本試験H19アジアではない】
は,アメリカ大陸
【本試験H19アフリカ大陸ではない】
に植民したり,政治に首を突っ込んだりしないでほしい」と,議会に送る教書のなかで述べました
(
モンロー宣
言
(教書)
【東京H10[1]指定語句】
【本試験H19,本試験H23時期】
【名古屋H31史料・時期】
)。そうすれば,かわりにヨーロッパ諸国の争いにも介入しないわけなので,大規模な軍隊を維持しておく必要もなくなります。
1818年には,イギリスとの協定で,北緯49度線をアメリカ合衆国とカナダとの境界にすることになりました。
また,1819年に
は
スペイン王
国
【本試験H3メキシコではない】
【追H24フランスではない】
か
ら
フロリダ半
島
周辺
【本試験H3】
【追H19地図,H24】
【明文H30記】
を買収
【追H24】
しています。
米英戦争後,インディアン諸民族はますます劣勢になっていきました。1830年には
〈
ジャクソ
ン
〉大統領(任1829~37)
【追H21、H28】
が
,
インディアン強制移住
法
【東京H25[3]】
【追H21,H30】
【上智法(法律)他H30】
に署名し,先住民
を
ミシシッピ川以
西
【追H19地図、H28以「東」ではない】
【H29共通テスト試行】
に置いたインディアン準州(現在のオクラホマ州)
の
保留
地
に移住させ,白人社会に同化させようとする政策が実施されていきました。〈ジャクソン〉は
,
白人男子普通選
挙
を実現させ
【本試験H25ホームステッド法とは関係ない】
【追H21女性ではない、H28】
,その政策は
"
ジャクソニア
ン=
デモクラシ
ー
"と讃えられた一方で,黒人
【追H28】
や先住民
【追H28】
には参政権は与えられませんでした。
また、1813~14年には,インディアン
の
クリーク
人
,1817~18年にはフロリダのインディア
ン
セミノール
人
に対する戦争を指揮したように,インディアンに対しては超強硬派でした。1838年~39年に,1300キロメートルもの道を移住させられた12000人中8000人以上
の
チェロキー
人
が犠牲者となり,そのルートは
「
涙の旅
路
」として記憶されています。
また,さらなる進出にともない
,
大平
原
北部
の
スー
人
,
コマンチ
人
,
シャイアン
人
といった狩猟生活を行う民族は,馬を利用するようになっており,騎馬によってアメリカ合衆国の人々(アメリカ人)の進出に激しく抵抗するようになっていきました。彼らは,夏至の頃に大自然の力を回復させるためにおこな
う
サ
ン=
ダン
ス
という儀式を行うことで有名です。
また,南西部
の
アパッチ
人
も沙漠などでしばしばアメリカ人を襲撃しました。
1845年には,すでにメキシコからの分離を勝ち取り独立していたテキサス共和国を,アメリカ合衆国が併合する形で
,
テキサ
ス
【本試験H3イギリスからの購入ではない】
【本試験H24米墨戦争の結果ではない,本試験H25時期,本試験H31米墨戦争の原因か問う】
【追H20米英戦争の結果ではない】
が
併
合
されました。
1846年には,米英戦争の後イギリスとアメリカが共同で領有していたオレゴン
【追H19地図】
が,オレゴン協定によって北緯49度線を境にカナダとアメリカ合衆国に分けられることになり,現在のワシントン
,
オレゴ
ン
,アイダホが成立しました。
さらに,1848年
【本試験H10時期(191世紀半ばか)】
に現在
の
カリフォルニ
ア
【追H19地図、H27スペインから獲得したのではない】
【本試験H3スペインと戦ったのではない】
,ネヴァダ,ユタ,アリゾナ周辺をメキシコから買収します
【本試験H6 「19世紀初頭にアメリカ合衆国を代表する貿易港に発展した」わけではない】
。
カリフォルニア
【本試験H10】
が州に昇格したのは,金が見つかり
(
ゴール
ド=
ラッシ
ュ
【東京H14[1]指定語句】
)
【本試験H5 16世紀以降に大量の金が東アジアに流れ込んでいない,本試験H10時期(19世紀半ばか)】
【本試験H22アメリカ「西部」かどうかを問う】
【セA H30グラフ(ゴールド=ラッシュの時期を問う)】
人口が激増した
【本試験H10】
からです。多くの人は"時すでに遅し"で金を採掘できずじまい,49年に到着した人々は「もう遅いよ」ということで"フォーティーナイナーズ"とあだ名されました。
同じ頃,ミシシッピ川流域では淡水真珠が発見され,パール=ラッシュが勃発。ティファニー社がさまざまなブローチを生産し,第二次世界大戦後にプラスチック製ボタンが隆盛となるまで栄えます
(注
)
。
(注)山田篤美『真珠の世界史』中公新書,2013,p.122。
この時期のアメリカ合衆国では〈エドガー=アラン=ポー〉が「アッシャー家の崩壊」(1839),「モルグ街の殺人」(1841),「黄金虫」(1843)を著し"推理小説の父"とされています。科学的な知見を小説に織り込む試みは,のちフランスの〈ジューヌ=ヴェルヌ〉(1828~1905)にも影響を与えました。
カナ
ダ
では,イギリスからの移民が増加し,カナダにおけるイギリス系住民が増えていきました。また,1846年にイギリスで輸入穀物に関税をかけ
る
穀物
法
が撤廃された
【本試験H24穀物法は「輸入穀物の関税を撤廃していた」わけではない】
【早・政経H31 年代】
ことで,モントリオールで木材や小麦を輸出していた商人は打撃を受けます。
○181
5
年
~
184
8
年の中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ
◆
中央アメリカ,カリブ海,南アメリカのスペイン・ポルトガル植民地生まれの白
人(
クリオーリ
ョ)
が,本国からの独立運動を成功させ
た
【共通一次 平1:クリオーリョが「独立運動に反対した」わけではない】
スペインやポルトガルの植民地であった「ラテン=アメリカ」ではスペイン,ポルトガルからの独立運動がいよいよ本格化します。アメリカ合衆国と同じように
,
植民地生まれの白
人
(
クリオーリョ
【東
京
H10[1
]
指定語句
】
)が主導し,この時期に9つの共和国と1つの帝国(ブラジル帝国)が成立しました。
いずれの国で
も
自由主
義
が重視されたものの,イギリスの強い影響下に置かれます。産業革命(工業化)が軌道に乗っていたイギリスは,自由に製品を売ることができる相手として,中央・南アメリカの新興国家を選んだわけです。
同時に,これら諸国は工業製品の原料や農産物,畜産物の仕入先にもなりました。独立を支援
【共通一次 平1:反対して干渉したわけではない】
したのはイギリスのトーリー党(〈リヴァプール伯爵〉(任1812~27)内閣の自由主義派
〈
カニン
グ
〉
外
相
(外相任1807~09,22~27,首相任27)です
【本試験H18ジョゼフ=チェンバレンではない】
。〈カニング〉は,市場拡大をねらって,ラテン=アメリカのスペイン植民地の独立運動を援助しました(〈カニング〉外交)
【本試験H5】
。
○181
5
年
~
184
8
年のアメリカ 中央アメリカ
中央アメリ
カ...
現在
の①
メキシコ
,②
グアテマラ
,③
ベリーズ
,④
エルサルバドル
,⑤
ホンジュラス
,⑥
ニカラグア
,⑦
コスタリカ
,⑧
パナマ
・
181
5
年
~
184
8
年のアメリカ 中央アメリカ
現①
メキシコ
メキシコではメスティーソとインディオの独立運動を,クリオーリョが鎮圧し,地主寡頭制の下で輸出向け作物の増産が図られた
◆
メキシコ
は
182
1
年に独立する
さて,メキシコ(スペイン語ではメヒコ)でも
〈
イダル
ゴ
〉神父(1753~1811)が農民中心の独立運動を起こしました。1810年の「ドロレスの叫び」演説で独立を訴えますが,クリオーリョを運動に巻き込むことができず1811年に処刑されました。でも結局クリオーリョが反乱を起こして,1821年に独立を達成しました。
メキシコは1821~23年に共和政をとり,1822年には中央アメリカのコスタリカ,ニカラグア,ホンジュラス,エルサルバドル,グアテマラとともに中央アメリカ連邦を形成しています。1823年~24年に帝政となるも,1824年には共和政に戻ります(~1864年)。首都はメキシコシティで〈サンタ=アナ〉(1794~1876)が独裁権を握りました。
1845年にアメリカ合衆国はメキシコからテキサスを併合
【本試験H31ほか】
。この直後にアメリカ合衆国では,自国の領土を拡大していくのは
"
マニフェス
ト=
ディスティニ
ー
"
【追H27アメリカ合衆国か問う】
【東京H19[3]】
(明らかな運命,明白なる天命)だという論調が展開されました。1846年~48年
に
アメリ
カ=
メキシコ戦
争
(米墨戦争)
【本試験H2アメリカ独立戦争ではない】
【本試験H31テキサス併合がきっかけか問う】
【追H18米西戦争とのひっかけ】
が起こり,メキシコはカリフォルニアとニュー=メキシコ
【明文H30記】
をアメリカ合衆国に奪われ,領土は従来の3分の1となりました。
・
181
5
年
~
184
8
年のアメリカ 中央アメリカ
現②
グアテマラ
,③
ベリーズ
,④
エルサルバドル
,⑤
ホンジュラス
,⑥
ニカラグア
,⑦
コスタリカ
現在
の
グアテマ
ラ
,
エルサルバド
ル
,
ホンジュラ
ス
,
ニカラグ
ア
,
コスタリ
カ
はグアテマラ総督領としてスペインによる植民地下にありました。
しかし〈ナポレオン〉により本国スペインが占領されると,クリオーリョ(アメリカ大陸生まれの白人)を中心に独立を求める動きが活発化し,1821年にグアテマラ総督領は独立しました。同年にメキシコに建国されたメキシコ帝国に一時併合されますが,1823年にアメリカ合衆国をモデルとし
た
中央アメリカ連
合
として独立しました
(1823~25は三頭政治,1825~29に〈ファゴアガ〉大統領が就任)
。しかし,エルサルバドルとグアテマラの間の内戦により1839年に崩壊し,グアテマラ(1839~大統領制),エル=サルバドル(1841~大統領制),ホンジュラス(1839~大統領制),ニカラグァ(1838~大統領制),コスタ=リカ(1825~国家元首制)に分裂しました
(注
)
。
イギリ
ス
の武装船団の進出の進んでいたユカタン半島のカリブ海に面する南東
部
ベリー
ズ
には,1763年以降イギリスの植民が進み,1798年には事実上イギリスの植民地となっていました。しかし,スペインから独立した隣接す
る
グアテマ
ラ
(1824~39は中央アメリカ連合州)との国境をめぐる紛争は続きました。
(注)中央アメリカ連合と,各国の年号は参照 増田義郎「世界史のなかのラテン・アメリカ」増田義郎・山田睦男編『ラテン・アメリカ史Ⅰ メキシコ・中央アメリカ・カリブ海』山川出版社,1999,pp.76-86。
○181
5
年
~
184
8
年のアメリカ 南アメリカ
カリブ
海
...現在の①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島
・
176
0
年
~
181
5
年のアメリカ カリブ海
現③
バハマ
バハマ
は
イギリス
領
です。
・
181
5
年
~
184
8
年のアメリカ 南アメリカ
現⑪
マルティニーク島
フランスはマルティニーク島で黒人奴隷を使っ
た
サトウキビのプランテーショ
ン
を続行し,大儲けしていました。1848年に二月革命により成立し
た
第二共和
政
が,奴隷制を廃止するまで続きます。
○181
5
年
~
184
8
年のアメリカ 南アメリカ
・
181
5
年
~
184
8
年のアメリカ 南アメリカ
現①
ブラジル
◆
ブラジルではクリオーリョの支持を受け,平和裏に「ブラジル帝国」が成立する
ポルトガルの王子がブラジル皇帝に即位する
ポルトガル
【本試験H22スペインではない】
王室は,〈ナポレオン〉戦争中に摂政〈ジョアン〉を中心にブラジルのリオ=デ=ジャネイロに遷都していました。自由貿易のパートナーとしてイギリスの経済圏に組み込まれていったポルトガル王室支配下のブラジルでは,摂政であった〈ジョアン〉が〈ジョアン6世〉(温厚王,位1816~26)として即位。しかし,植民地生まれのポルトガル人(クリオーリョ)は,イギリスと協力関係を結ぶイベリア半島から渡ってきた半島人との間には亀裂が生まれるようになっていきました。イギリスは奴隷制廃止の方針をとっていましたが,クリオーリョたちはプランテーションに多数の奴隷を使っていたからです。
1820年にポルトガルでは立憲君主制を実現させようとする革命が起きると,1821年にようやく〈ジョアン6世〉はポルトガルに帰還することになります。このとき,皇太子〈ドン=ペドロ〉はブラジルにとどまりましたが,ポルトガル本国側がブラジルを"植民地"に降格させようとしていることが発覚すると,ブラジル生まれのポルトガル人
(
クリオーリ
ョ
)たちは〈ドン=ペドロ〉をかついで独立を宣言。こうして〈ペドロ1世〉を"皇帝"(位1822~31)とす
る
ブラジル帝
国
が成立しました。ポルトガル本国はこれを1825年に承認し,帝政はこの後1899年まで続きます。
ほとんど平和裏に独立を達成したブラジルの例は,ラテン=アメリカでも珍しいものです。帝政は,ポルトガルの王室出身者を担ぎ上げたクリオーリョにより支えられており,プランテーションの所有者による支配が継続していくことになったわけです。国内には多種多様な民族・人種が混在し,ブラジルとしてのまとまりを維持することはカンタンではありませんでした。2010年現在のブラジルの人種構成は
,
白
人
47.
7%
,白人と黒人の混血
(
ムラー
ト
)
43.
1%
,
黒
人
7.
6%
,アジア系1.1%,先住民0.4%となっています
(注 The World Fact Book,Central Intelligence Agencyによる)
。
1824年には中央集権的な憲法が成立し,地方では中央政府に対する反乱も起きました。特に以前からスペインとの間で領土問題が起きていた南部ではアルゼンチンの支援を受けて独立が宣言され,1828年にイギリスが調停する形
で
ウルグアイ東方共和
国
が建国されました。
1831年に支配に対するクリオーリョの抵抗が強まると〈ペドロ1世〉は,たった5歳の〈ペドロ2世〉に譲位してポルトガルに帰国。以降は摂政による統治(1831~40年)となりました。この間,ブラジル各地で政府に対する反乱が多発します
(1824年・1837年に北東部で反乱,1835~40年にアマゾン川流域で反乱,1835~45年に南部で反乱,1839年に北部で反乱,1842年に南部の内陸ミナス=ジェライスで自由派による反乱)
。摂政制という不安定な政治体制の下,国内ではブラジル国内に連邦制をしいて共和政を実現させようとするグループ,憲法を制定し皇帝による支配を実現させようとするグループ,〈ペドロ1世〉にポルトガルからもう一度来てもらい絶対主義的な支配を復活させようとするグループなどに分かれ,ブラジルという国の方向性をめぐる争いが続きましたが,結局は〈ペドロ2世〉が1841年から親政することで決着がつきます。
〈ペドロ2世〉(位1831~89,親政は1841~89)は国内のさまざまな勢力をまとめようと尽力し,自由党と保守党のバランスを重視して,まず1844~48年の間は自由党に政権を担当させました。また,経済的に
は
コーヒ
ー
産業を発展させ鉄道を敷設させ,ポルトガルからは多くの移民を受け入れました。数百万人の移民はブラジルに"ヨーロッパの風"を吹き込ませることとなり,自由主義的な制度やヨーロッパの近代的な文化の定着もすすんでいきました。一方で,奴隷制への取締りを強化したイギリスとの対立も生まれます。
・
181
5
年
~
184
8
年のアメリカ 南アメリカ
現③
ウルグアイ
,④
アルゼンチン
ウルグアイとアルゼンチンは、白人中心に独立する
アルゼンチ
ン
では,スペインからの自治・独立を求める動きが,アメリカ大陸生まれの白人(クリオーリョ)を中心に盛り上がっていました。しかし,ヨーロッパ文化が根付いたブエノスアイレスと,内陸のガウチョ(牧畜民)らの世界との間には歴然とした違いがあり,両者をまとめて「ひとつの国家」として自治・独立を達成しようとするには,大きな課題が待ち受けていました。さらに,独立国家の体制をどうするかをめぐり,「インカ皇帝を復活させるべき」「共和政にするべき」「スペイン王を迎えるべき(これは独立運動家の
〈
サ
ン=
マルティ
ン
〉が主張しました)」など,さまざまな意見がありました。
そんな中,1816年に南アメリカ連合州
(
リ
オ=デ=ラ=
プラタ連合
州
)の独立宣言が先住民の言語であるケチュア語とスペイン語で発表され,インカ皇帝の復活が決められました。
しかし,この独立を主導したブエノスアイレスのクリオーリョたちは,内陸部からに畜産物を輸出し,ヨーロッパから工業製品を輸出する自由貿易を推進したため,「それでは輸入品により内陸部の手工業が壊滅し,安い価格で畜産物(皮革製品,塩漬けした加工肉)が買い叩かれるだけだ」と内陸部の諸都市はブエノスアイレス主導の国づくりに真っ向から対立します。
内陸部の諸州は自由貿易に対して保護貿易を主張し,大土地所有者の持っていた権利を守ろうとしました。そのためには少数の大土地所有者たちが少数で政権をまわすほうが,都合がよかったわけです。
南アメリカ連合州(リオ=デ=ラ=プラタ連合州)内部での争いが続く中,スペインからの独立を守るため,周囲の諸地域をスペインから解放するための戦いが続けられました。1817年にはチリへの遠征が独立運動家
〈
サ
ン=
マルティ
ン
〉
【追H27アメリカ合衆国の独立の指導者ではない】
により試みられ
,
チ
リ
ととも
に
ペル
ー
をスペインから解放します。
その一方で,地方諸州の攻撃により,ブエノスアイレス主導の南アメリカ連合州(リオ=デ=ラ=プラタ連合州)は1820年に崩壊。
しかし,地方諸州とブエノスアイレスの対立が決定的となる中,ラ=プラタ川の向こう側にあるバンダ=オリエンタル(現在のウルグアイに相当)を取り替えそうという機運がが盛り上がり,1825年には独立(1822年)間もな
い
ブラジ
ル
との戦争(ブラジル戦争)となりました。
ブラジルに対してともに戦う中で連邦は「アルヘンティーナ」と改称。しかし1828年にイギリスが介入する形で,バンダ=オリエンタルは
「
ウルグアイ東方共和
国
」として独立することになりました。
ラ=プラタ川の向こう側の領域を「ウルグアイ」として独立する形で失ったアルゼンチンでは,ブエノスアイレス主導の国家建設に反対する連邦派の〈ロサス〉が1829年に主導権を握り,1832年に全アルゼンチンを統一しました。
〈ロサス〉時代には,ブラジルとの間に位置するウルグアイとをめぐる領土紛争が激化し,この地への進出をねらうイギリスとフランスも敵に回すことになりました。しかし,1833年にはマルビナス(英語名
は
フォークラン
ド
)
諸
島
がイギリスに占領されています
(のち,1980年代にこの島をめぐってイギリスとの戦争が起きました⇒1979~現在の中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ>アルゼンチン)
。
・
181
5
年
~
184
8
年のアメリカ 南アメリカ
現⑤
チリ
独立後のチリはイギリスの経済圏に組み込まれる
◆
チリでは安定した中央集権的な政府の下で,イギリスとの経済的な関係が強まった
独立を勝ち取っ
た
チ
リ
では,独立運動に関わった〈オイヒンス〉の独裁政権(1819~23)に続き,自由主義派と保守派との対立が続きました。しかし1830年に保守派が勝利し,1833年に憲法が発布。カトリックを保護して〈ポルターレス〉(1793~1837)の下で中央集権的な安定した体制が1860年まで続きました(ポルターレス体制と呼ばれます)。
この間,イギリスとの関係を強め,工業製品を輸入し一次産品が輸出されました。チリの支配層はこうしたイギリスとの貿易の利益にあずかることになります。
1836年にはペルー=ボリビア連合に宣戦布告し,1839年にペルー=ボリビア連合を崩壊させました。
・
181
5
年
~
184
8
年のアメリカ 南アメリカ
現⑥
ボリビア
,⑦
ペルー
◆
〈ボリバル〉と〈サ
ン=
マルティン〉を中心に独立戦争が遂行された
ボリビア、ペルーの白人中心にスペインから独立
さて,その頃,アルゼンチンでも独立運動が勃発。その知らせを聞いて,急きょ留学中のスペインからふるさとに舞い戻ったのが,同じくクリオーリョの軍人
〈
サ
ン=
マルティ
ン
〉(1778~1850)です。スペインに残っていれば出世間違いなしのはずであった彼は,「ラテンアメリカ統一」という夢をかかげて,動き出します。彼の計画は,アルゼンチンを拠点にし
,
チ
リ
と
ペル
ー
を解放したのち,ペルーの高地地方(現在のボリビア)を解放するというもの。
チリとペルーを解放後,なかなかボリビアを攻めることができず困った〈サン=マルティン〉は,北部で活躍していた〈シモン=ボリバル〉と会談し,「俺を部下にしてくれ!」と頼み込んだそうです。しかしながら,ボリバルは共和主義,サン=マルティンは君主主義だったためにお互いの考えには溝があったのも事実。提携構想は流れてしまいました。
〈サン=マルティン〉が落とせなかったペルーの高地地方
(
アル
ト=
ペル
ー
)の解放を託された〈ボリバル〉は,1825年にスペイン
【追H25オランダではない】
軍を破り,独立と南アメリカからのスペイン軍の撤退を勝ち取りました。この地は〈ボリバル〉の名前にちなんで
,
ボリビ
ア
と名付けられました。
ボリビアの初代大統領には〈シモン=ボリバル〉がむかえられました。この地を近代化させるため,スペイン系の支配層やカトリック教会の持っていた特権を取り上げる改革が行われました。
やがて,彼の部下たちの間に意見の対立が生じ始めるなか,〈ボリバル〉は後任に副官であった〈スクレ〉(終身大統領任1826~28)を据え,教会財産の没収などの中央集権化が推進されました。
このように
,
今後の中央アメリカ~南アメリカの政治の基本軸は,スペイン支配時代の遺
産(
カトリック教会や大土地所有
制)
を温存する保守派と,それを解体してヨーロッパやアメリカ合衆国といった先進国との自由な貿易を認めようとする自由主義派という2つの勢力の力関係によって動いていくことになります
。
自由な貿易を認めれば農地や鉱山を持つ大土地所有者は潤いますが,他方で輸入品によって伝統的な手工業や農業が破壊される恐れもあり,これにスペイン系のクリオーリョから先住民に至るまで複雑な民族構成がからんで,さまざまな利害が交錯することとなったわけです。
ボリビ
ア
でもパン=アメリカ主義を唱える〈ボリバル〉に対する反対派が台頭し
,
ペル
ー
では〈マル〉(任1827~29)と〈ガマーラ〉(任1829~33)が,〈ボリビア〉による大コロンビアへの併合をやめさせようとボリビアに軍事的に進出。これによりボリビアの〈スクレ〉大統領(任1826~28)は辞任し,ペルーでも地方に有力者が台頭して混乱の時代となりました。
そんな中,ボリビアの〈サンタ=クルス〉(任1829~39)がペルーに軍事的に進出し,ペルーとボリビアを合わせました
(
ペル
ー=
ボリビア連
合
)。彼はインカの王族を祖先にもつ母と,スペイン系の父の子として生まれました。
しかし,〈ポルターレス〉率いる隣
国
チ
リ
との対立が強まり,1836年にはチリからの宣戦布告を受け戦争が始まり,1839年にペルー=ボリビア連合は崩壊。〈サンタ=クルス〉はヨーロッパに亡命しました。
その後
,
ペル
ー
では〈ガマーラ〉大統領(1839~41)の下で,ボリビアを再び併合しようと図りましたが,彼は1841年に戦士。翌年,和平が結ばれました。戦後のペルーでは混乱が続きましたが,混乱を収拾した〈カスティーヤ〉(1797~1867)が大統領となり,中央集権と近代化を推進しました。
一方
の
ボリビ
ア
では,ペルーの軍事的な進出により混乱し,独裁政権が成立することになります。
・
181
5
年
~
184
8
年のアメリカ 南アメリカ
現⑧
エクアドル
,⑨
コロンビア
,⑩
ベネズエラ
◆
ベネズエラ,コロンビア,エクアドルは大コロンビアとして独立したが,のち分裂した
白人中心に独立・形成した大コロンビアは分裂へ
ベネズエ
ラ
ではすでにクリオーリョの
〈
ミラン
ダ
〉(1750~1816)が,ベネズエラ解放運動をおこしていました。彼はスペイン軍に入隊し,アメリカ独立戦争にも参戦,さらにフランス革命にも参加しているという強者です。その彼がベネズエラでスペイン人を追放し,革命政府を樹立していること耳にし,
〈
シモ
ン=
ボリバ
ル
〉(1783~1830)は運動に参加しました。彼は指導者とし
て
コロンビ
ア
をまず独立させ,ベネズエラとあわせ
て
大コロンビ
ア(
グラ
ン=
コロンビ
ア)
共和
国
としました。これを拡大させていけば,いつかは
「
パ
ン=
アメリカ主
義
」(アメリカは一つにまとまるべきだという考え)が実現できるというわけです。彼の名は,現在のベネズエラの正式名称「ベネズエラ=ボリバル共和国」にも使われています
【本試験H22ボリバルはキューバを独立させていない】
。
◆
〈ボリバル〉のパ
ン=
アメリカ主義に対する抵抗から,大コロンビア共和国が解体。ペルーは混乱するボリビアに進出して連合を形成した
こうして個々の地域を解放していった〈ボリバル〉は,やがて「旧スペイン植民地を一つにまとめる構想」を抱くようになります。これ
を
パ
ン=
アメリカ主
義
を提唱といい,アメリカ合衆国に接近して1826年にパナマ会議を開催しました。彼は手始めに第コロンビア共和国にペルー,ボリビアを合体させようと考えていたようですが,実現には程遠く,1830年には大コロンビア共和国
が
ベネズエ
ラ
,
コロンビ
ア
,
エクアド
ル
に分解し,失意のうちに引退しました。
なお,『種の起源』で進化論を論じた
〈
ダーウィ
ン
〉(1809~1882)
【追H29】
は,1831年から海軍のビーグル号に乗って大西洋,太平洋(1835年
に
ガラパゴス諸
島
,ニュージーランド,1836年にオーストラリアのシドニー)各地を訪れ,進化論の着想を得ました。
◆
大コロンビアは分裂し,自由主義派と保守派の対立を経て,少数の有力者による支配が強まる
1819年に成立し
た
大コロンビ
ア
(グラン=コロンビア
)
共和国
は
,独立後に内紛が生じて〈ボリバル〉のリーダーシップが低下すると,1829年
に
ベネズエ
ラ
,1830年
に
エクアド
ル
が分離独立しました。残された部分は1831年
に
ヌエ
バ=
グラナ
ダ
となり,最終的に解体しました。
カリブ海沿岸
の
ベネズエ
ラ
では初代の〈パエス〉大統領(任1831~35)が,中央集権的な〈ボリーバル〉派のやり方に対して地方の独立を重視する政策をとり,教会特権が廃止され,コーヒーやカカオの輸出で経済的には恵まれた出だしとなりました。しかし,独裁化する〈パエス〉のやり方に対し,自由党が結成され抵抗を強めます。1847年には〈モナガス〉将軍が大統領に就任(任1847~51)し
,
奴隷制を廃
止
し自由主義政策をとりました。自由主義的な政策をとる〈モナガス〉兄弟による専制的な政権が,この後1858年まで続くことになります。
パナマを含
む
コロンビ
ア
はヌエバ=グラナダ共和国として〈サンタンデル〉(位1833~37)大統領の下で再出発を果たし,工業化を進めていきました。
赤道直下
の
エクアド
ル
では保守派の〈フローレス〉(任1830~35)の下でカトリックが保護されましたが,のち自由主義派の政権(任1835~39)に代わった後,また〈フローレス〉(任1839~45)となり専制化していきます。これに対して1845年に反〈フローレス〉の革命が起き,保守派への揺れ戻しが起きました。のち自由主義派と保守派の内紛や,周辺諸国との戦争により,エクアドルは内外をめぐって動揺します。
○181
5
年
~
184
8
年のオセアニア ポリネシア
ポリネシ
ア
...①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島,フランス領ポリネシア,③クック諸島,④ニウエ,⑤ニュージーランド,⑥トンガ,⑦アメリカ領サモア,サモア,⑧ニュージーランド領トケラウ,⑨ツバル,⑩アメリカ合衆国のハワイ
・
181
5
年
~
184
8
年のオセアニア ポリネシア
現①
チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島
この時期のイースター島の住民は,寄港したフランスやロシアと接触しています。
・
181
5
年
~
184
8
年のオセアニア ポリネシア
現②
フランス領ポリネシア
タヒチ王国がフランスに保護国化される
1803年にポマレ朝をひらいた〈ポマレ2世〉(位1803~1821)は,イギリスの支援の下,着々と近代化を推進。
次の〈ポマレ3世〉(位1821~1827)はなんと1歳で王位を継ぎ,6歳で亡くなります。そりゃ目を付けられますよね。1826年にはアメリカ合衆国との通商条約が締結されています。日本よりも30年近く早い締結です(1858年日米修好通商条約)。
後を継いだのは親戚の〈ポマレ4世〉(位1827~1877)という女性。彼女の長い在位の中で,イギリスやフランスの「布教」名目の進出が本格化していきます。
フランスは女王不在時に摂政との間に保護国化を認める条約を締結。保護国化への抵抗が,周辺の島々も巻き込んだフランスとの戦争に発展(1843~1847
,
フラン
ス=
タヒチ戦
争
)。1847年にフランスが勝利。しかしイギリスからの外交的圧力や,女王〈ポマレ4世〉の絶大な人気を背景に,すぐさま併合することはありませんでした
(注
)
。
(注)春日直樹『オセアニア・オリエンタリズム』世界思想社,1999,p.75~p.76。
・
181
5
年
~
184
8
年のオセアニア ポリネシア
現③
クック諸島
この時期のクック諸島について詳しいことはわかっていません。
・
181
5
年
~
184
8
年のオセアニア ポリネシア
現④
ニウエ
この時期のニウエについて詳しいことはわかっていませんが
,
トン
ガ
の王権の勢力が及んでいました。
・
181
5
年
~
184
8
年のオセアニア ポリネシア
現⑤
ニュージーランド
この頃,ニュージーランドにヨーロッパから商人や宣教師が訪れるようになっています。1822年にウェズリー派が訪れ,その後カトリックも布教されました
。
マオ
リ
【セ試行「ニュージーランドの先住民」】
の中にはイギリスを訪れる者も現れ,ニュージーランドのアイランズ湾周辺のンガプヒ族の大首長〈ホンギ=ヒカ〉は宣教師とともにイギリスで〈ジョージ4世〉に謁見しています。彼は帰国時の1821年に銃が与えられ,それがもとで他部族との戦争に発展,〈ホンギ=ヒカ〉による領土拡張の野望は1828年まで続きました。
1831年にはフランスの軍艦がニュージーランドに訪れると,イギリスの宣教師・商人とともに現地の首長らは「イギリスに助けを求めよう」という合意をしました。この提案が国王に伝わると1833年に駐在事務官〈バズビー〉がニュージーランドにやって来て,「ニュージーランドの独立を,イギリス国王に認めてもらえば安全は確保される。独立宣言に署名してほしい」と首長らに訴えます。1835年,こうして首長34人の署名により,ニュージーランド部族連合国が成立したのです。もちろんこれには,ニュージーランドを自国の支配下に置きたいイギリスの思惑が絡んでいました。
一方,イギリス商人もニュージーランドを新たな資源獲得地として注目しており,1838年にはニュージーランド会社が設立され,ニュージーランドの北島と南島にまたがる広大な土地が買収されました。会社の手引きにより,ニュージーランドへの移民も続々と到着していきます。
この動きをイギリス政府
【H29共通テスト試行】
は憂慮。〈ホブソン〉代理総督が派遣され,1840年にマオリ
【セ試行 絶滅していない】
【本試験H21オーストラリアの先住民ではない,H29共通テスト試行】
の首長たちを集め,アイランズ湾のワイタンギで条約を結びました。
これにより,マオリの主張はすべての権利をイギリス国王(王冠)に全面的に譲渡されることが合意されました。その内容がわかっていれば,マオリの首長たちも反対できたはずですが,条約内の「主権」という言葉の翻訳が,マオリ人にはわからない造語によって表現されたため,その解釈をめぐるギャップが生まれることになります。
ともかく,こ
の
ワイタンギ条
約
によってニュージーランド全土がオーストラリアのニュー=サウス=ウェールズ植民地から分離して独立した植民地となり,〈ホブソン〉は初代総督に任命されることとなったのです。
・
181
5
年
~
184
8
年のオセアニア ポリネシア
現⑥
トンガ
イギリスの探検家〈クック〉が1773年・1773年にトンガの島々に来航。島民の対応が「友好的」であったとされることから,フレンドリー諸島と呼ばれるようになります。
・
181
5
年
~
184
8
年のオセアニア ポリネシア
現⑦
アメリカ領サモア,サモア
1787年にフランスの探検家〈ラ=ペルーズ〉(1741~1788?)がアメリカ領サモアに寄港したとき,島では内戦が起こっていたといいます。
・
181
5
年
~
184
8
年のオセアニア ポリネシア
現⑧
ニュージーランド領トケラウ
イギリスの〈バイロン〉(1723~1786)が1765年にトケラウを発見したときには,住民の存在は記録されていません。
・
181
5
年
~
184
8
年のオセアニア ポリネシア
現⑨
ツバル
イギリスの〈バイロン〉(1723~1786)が1764年に通過しています。
・
181
5
年
~
184
8
年のオセアニア ポリネシア
現⑩
アメリカ合衆国のハワイ
探検家〈クック〉が来訪した頃ハワイで王朝が統一
この時期にオセアニア全域を探査したのが,イギリス人の探検家
〈
キャプテ
ン=
クッ
ク
〉(1728~79)でした。
1778年
に
ハワ
イ
に到達し,航海のスポンサーである〈サンドウィッチ伯爵〉の名をとってサンドウィッチ諸島と命名します(〈クック〉は住民との争いの中で命を落としています)
(注
)
。
(注)「パンに具をはさむサンドウィッチの語源は,この〈サンドウィッチ伯爵〉」ということになっていますが,真偽は不明。Britannica はこの説をとっています(
https://www.britannica.com/topic/sandwich
)。
〈クック〉が訪れたころのハワイでは,島ごとに王がいて争いが絶えない状況でした。そんな中,ハワイ島を中心にして全諸島の覇権を握ったのは
〈
カメハメハ1
世(
大
王
)
〉(1736?/58?~1819)です。各島に知事を置き,貿易を管理して
,
白
檀
(びゃくだん)という香料貿易を振興しました。
ハワイ諸島には高い山と,豊かな川があるために,灌漑農耕に向いており,タロイモの栽培や豚の飼育,魚の養殖により,高い生産性を誇っていました。そのため,人口密度が高くなると,余った資源を自分のものにして働かなくなった人々が高い階級を独占し,首長や王が人々や資源を管理する国家が生まれていたのです。
○181
5
年
~
184
8
年のオーストラリア
オーストラリ
ア
へのイギリス人の入植は,当時
は
流
刑
(るけい,犯罪者を島流しにすること)制度によるものでしたが,19世紀前半を通して,次第に囚人の人口に占める割合は減っていきました。
ニューサウスウェール
ズ
(南東部)への植民が急速に進行し,囚人ではない人々の人口がほとんどを占めるようになりました。1850年にはオーストラリア初の大学であ
る
シドニー大
学
が設立され
,
鉄
道
も敷設されていきました(1855年にニューサウスウェールズ初の鉄道が敷設)。1851年には,ニューサウスウェールズ州とビクトリア州で金鉱が見つかり
,
ゴールドラッシ
ュ
が起きました
(
オーストラリアのゴールドラッシ
ュ
)
【追H20時期(19世紀か)】
。移民の増加により
【追H20】
人口が急激に増加したシドニーでは,急速に工業化が進んでいきます。
1863年にはタスマニア島
【本試験H26ドイツ領ではない】
で先住民が絶滅しました。冷凍船の発明にともない,オーストリアやニュージーランドからは食肉の輸出も始まっています。
○181
5
年
~
184
8
年のオセアニア メラネシア
メラネシ
ア
...①フィジー,②フランス領のニューカレドニア,③バヌアツ,④ソロモン諸島,⑤パプアニューギニア
・
176
0
年
~
181
5
年のオセアニア メラネシア
現②
フランス領のニューカレドニア
その後ニューカレドニアの諸民族は,香木の一種であ
る
白
檀
(ビャクダン;サンダルウッド)の交易場所や捕鯨基地を求めてやってきたヨーロッパ人と接触しています。
○181
5
年
~
184
8
年のオセアニア ミクロネシア
ミクロネシ
ア
...
①
マーシャル諸島
,②
キリバス
,③
ナウル
,④
ミクロネシア連邦
,⑤
パラオ
,⑥
アメリカ合衆国領の北マリアナ諸島・グアム
・
181
5
年
~
184
8
年のオセアニア ミクロネシア
現①
マーシャル諸島
1778年にイギリスの〈サミュエル=ウォリス〉がロンゲラップ環礁とロンゲリック環礁(ビキニ環礁の近くです)を,タヒチからテニアン島への航行中に発見。1788年にはイギリス海軍の〈トマス=ギルバート〉と〈ジョン
=
マーシャ
ル
〉の下で測量がなされます。その後はロシアも来航しています。
・
181
5
年
~
184
8
年のオセアニア ミクロネシア
現②
キリバス
ヨーロッパ人の植民は始まっていません,来航が増えていきました。
・
181
5
年
~
184
8
年のオセアニア ミクロネシア
現③
ナウル
ヨーロッパ人の植民は始まっていませんが,来航が増えていきました。
・
181
5
年
~
184
8
年のオセアニア ミクロネシア
現④
ミクロネシア連邦
ヨーロッパ人の植民は始まっていませんが,来航が増えていきました。
コスラエ島には王国が栄えており,王宮や王墓,住居の跡(レラ遺跡)が残されています。
・
181
5
年
~
184
8
年のオセアニア ミクロネシア
現⑤
パラオ
ヨーロッパ人の植民は始まっていません,来航が増えていきました。
・
181
5
年
~
184
8
年のオセアニア ミクロネシア
現⑥
アメリカ合衆国の北マリアナ諸島・グアム
この地域
は
スペイ
ン
の支配下にあります。1740年に,北マリアナ諸島
の
チャモロ
人
はグアムに移住させられたとみられます。
中国・ロシアによる中央ユーラシア分割がすすむ
・
181
5
年
~
184
8
年の中央ユーラシア タリム盆
地(
1840〜42年のアヘン戦争により疲弊した清は,新疆やコーカンドの商人に対する課税を強化したため,イスラーム教徒(回民と呼ばれました)による反乱が起こるようになっていきます。
・
181
5
年
~
184
8
年の中央ユーラシア タリム盆地~アム川・シル川流域
新疆を通して清との交易をおこない力を増していたウズベク人の一派
の
コーカンドのハー
ン
は1830年に,タリム盆地の西部の都市カシュガルを占領します。コーカンドの進入に対して,清は有効な対応を打てず,一説には新疆における有利な条件を清に約束させたといいます(1835年)。
しかしこのへんから
,
ロシア帝
国
によるトルキスタンへの進出が加速します。1839年にロシアはヒヴァ=ハーン国に遠征したのは序の口。中央ユーラシアの覇権をめぐる,ロシアとイギリスの
「
グレートゲー
ム
」といわれる争いに勝利するには,トルキスタンは絶対に確保しなくてはならない場所とされたのです。
・
181
5
年
~
184
8
年の中央ユーラシア 現カザフスタン
16世紀末からウラル山脈を越えてシベリアに進出したモスクワ大公国,のちのロシア帝国は,1820年代に入るとカスピ海〜アラル海〜バルハシ湖の北部に広がるカザフ草原のハーンたちを直接支配下に置くようになり,セミパラチンスク州などの州に分割されました。カザフ人たちは,タリム盆地で勢力を拡大していた,ウズベク人の一派のコーカンドのハーンを警戒していたのです。こうして,カザフ草原にロシア帝国の支配が及ぶことになると,遊牧民が従来のルートで遊牧することができなくなることもありました。また,このころには,タタール人によりイスラーム教の布教が進み,従来の伝統宗教からの改宗が進んだり,スラヴ人の農民が移住してきたりしました。そうなると,カザフ人のなかには不満も出てくるようになり,カザフ語の普及などを通し,カザフ人としての意識がだんだんと形作られるようになっていきました。
○181
5
年
~
184
8
年のアジア 東アジア・東北アジア
東アジア・東北アジ
ア
...
①
日本
,②
台
湾(注),③
中国
,④
モンゴル
,⑤
朝鮮民主主義人民共和国
,⑥
大韓民国 +ロシア連邦の東部
○176
0
年
~
181
5
年のアジア 東北アジア
◆
女真の清と,西方から拡大したロシアが対峙し,互市では非公式な交易もおこなわれていた
女真の清と,東方進出したロシアが対峙
西方から拡大し
た
ロシア帝
国
が,あっという間にベーリング海にまで到達。1689年には中国との間
に
ネルチンスク条
約
【本試験H5時期(17世紀末か)】
,1727年に
は
キャフタ条
約
【本試験H8】
を締結し,取り急ぎ国境を取り決めて,指定された地点における自由な交易を認め
る
◆
ロシアの進出を受け,トナカイ遊牧民と狩猟採集民が支配下に入る
ロシアが沿海州への進出を狙いつつある
西方からロシア帝国が東進し,トナカイ遊牧を営
む
ツングース
人
,
ヤクート
人
はおろか,ベーリング海峡周辺の古シベリア諸語系
の
チュクチ
人
や,カムチャツカ半島方面
の
コリャーク
人
も支配下に入っています。
○181
5
年
~
184
8
年の東アジア
◆
イギリスとの「アヘン戦争」に敗北し,ヨーロッパ諸国との通商が始まった
イギリスによるアヘンの密貿易は,清の深刻な社会問題を引き起こしました。とはいえ,アヘンは危険な薬物ですし,密貿易も問題です。はじめは東インド会社が担当していましたが,イギリス国内で資本家が参政権を獲得(1830年の七月革命の影響を受けた,1832年
の
第一回選挙法改
正
)してからは,資本家寄りの自由主義的な政策がつよまり,「東インド会社にアジア貿易を独占させるのはずるい」という意見が出ました。そこで,1833年には東インド会社の対中国貿易独占権廃止(1834年に実施)となり,それ以降
は
ジャーディン・マセソン商
会
がアヘン密輸を担当するようになりました。イギリスは,民間の商人を「カントリー=トレーダー」として,貿易許可を与えていたのです。
中国にはアヘン中毒者が激増。これを見かねた第8代
〈
道光
帝
〉(位1820~50)は,湖広総督でアヘン禁止派だった
〈
林則
徐
〉(りんそくじょ,1785~1850)を欽差大臣に任命します。〈林則徐〉は広州のアヘンを廃棄処分とし
【本試験H10:イギリス向けアヘン輸出を厳禁したわけではない】
,このニュースが半年後にイギリスに伝わると
(この時期の情報伝達速度を物語っています)
(注
)
,これを口実にイギリス政府
は
アヘン戦
争
(1840~1842年)
【セ試行】
【追H27イギリスのアヘン貿易の禁止が原因ではない】
【東京H14[1]指定語句】
を起こしました。
イギリス国内では反対意見もありましたが,開戦。蒸気船の威力にジャンク船がかなうわけがなく,清は敗北し,1842年
に
南京条
約
【セ試行 北京条約ではない】【本試験H6香港をイギリスに割譲した
】
【東
京
H8[1
]
指定語句
】
【追H30天津条約ではない】
を締結します。このときに中国がイギリスに割譲したのが
,
香
港(
ホンコ
ン)島
です
【本試験H10アヘン戦争後に「租借地」となったわけではない(「割譲された」が正しい)】
。また,自由貿易の障害とされ
た
公
行(
コホ
ン
)
【本試験H10
】
を廃
止
,賠償金の支払い,さらに広州・厦門(かもん,アモイ)・福州(ふくしゅう)・寧波(ねいは,ニンポー
【早政H30】
)・上海(シャンハイ)
の
5港を開
港
しました
【本試験H18天津は含まれていない(天津は長江河口ではない)】
【追H30】
。
南京条約に入れそびれた様々な取り決めは,1843年
の
五
港(
五
口)
通商章
程
や
虎門
寨
(こもんさい
)
追加条
約
で定められました
【Hセ10「南京条約など
により,開港や領事裁判権をイギリスに認めた」か問う。「など」の中に翌年の2つの取り決めが含まれるから適当というわけですが,「など」という表現は微妙です】
。また,清
【本試験H23中華民国ではない】
は1844年にはアメリカ
【追H21】
と
望
厦
(ぼうか
)
条
約
【本試験H23】
【追H21】
,フランス
と
黄
埔
(こうほ
)
条
約
【本試験H24イギリスではない】
を結んでいます。これらを締結した女真(女直)人の〈耆英〉は,のちに自殺に追い込まれています。
◆
「海関」の置かれていた上海が,列強に租借され,東アジアの交易拠点に急上昇する
上海の租界は,交易の拠点・革命勢力の拠点に
現在の上海の夜景スポットとして名高い「外灘(ワイタン)」地区には,1845年の清による
しかし,南京条約の締結後も,イギリスの期待どおりには工業製品の中国向
け
輸出は増えませんでし
た
【本試験H5直後から中国がイギリス綿製品の市場となったわけではない,本試験H10期待どおりに増えたわけではない】
。
上海の租界には,中国各地から移住者が移り住み,出身地別に街区に勢力圏がつくられていきました。このうち,〈
(注)木畑洋一「グローバル・ヒストリーと帝国,帝国主義」水島司編『グローバル・ヒストリーの挑戦』山川出版社,2008年,p.96。
・
181
5
年
~
184
8
年の東アジア 現①日本
◆
アメリカやイギリスの進出が活発化,日本は海防を強化していった
捕鯨ブームと中国市場進出を受け,欧米船が接近
この時期の欧米では,クジラの中でも上質な油(鯨油)をとることのでき
る
マッコウクジ
ラ
が,ビジネスのターゲットとなります。
灯りのための燃料や,機械にさす潤滑油として欧米でヒット商品となっていたのです。すでにイギリスの捕鯨船は,アメリカの独立戦争開始後には南太平洋で捕鯨をしており,独立戦争後にはアメリカ東海岸を拠点とするアメリカ合衆国の捕鯨船も活発化。1791年には南アメリカ大陸南端のホーン岬経由で太平洋に至ります。さらに北進,西進し,突き当たったのが日本近海の通商"ジャパン=グラウンド"。クジラの格好の漁場として注目されていました
(注
)
。
(注)後藤敦史「18~19世紀の北太平洋と日本の開国」,桃木至朗・秋田茂『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会,2013,p.196。
1816年イギリスは琉球王国に通商してほしいとお願いしますが失敗。しかし,1818年にはイギリスの海軍将校〈ゴルドン〉が通商目的で浦賀に入港,1822年にはイギリスの捕鯨船が浦賀に補給を求め入港
(注
)
,1824年にはイギリス船が常陸に上陸し水戸藩が尋問後に釈放(大津浜事件,水戸学の〈藤田幽谷〉(1774~1826)はこれを批判します),同年には薩摩の宝島(たからじま)に上陸したイギリス船が島民との間に交戦しています(宝島事件)。大津浜では村民がカタコトの英語でコミュニケーションをとっていたことから,すでに洋上で頻繁に接触していたことを物語ります
(注
)
。
(注)後藤敦史「18~19世紀の北太平洋と日本の開国」,桃木至朗・秋田茂『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会,2013,p.197。
また,北方では1821年に松前奉行
(まつまえぶぎょう。初め蝦夷奉行(1802),のち箱館奉行,さらに松前奉行と改称)
が廃止され蝦夷地が松前藩に返還されていましたが,1824年にはイギリス船が東蝦夷地に来航。
一連のイギリス船の活動を受け,1825年に幕府は,接近する船が捕鯨船であることや国際情勢を踏まえた上で
,
異国
船(
無二
念)
打払
令
を出し,沿岸のロシア,イギリス,アメリカ船を発見したら「有無に及ばず一図に打ち払」う(上陸したら逮捕か射殺する)ことを命じました。
なお,1823年にはドイツ人医師
〈
シーボル
ト
〉(1796~1866)が来日し,長崎のオランダ商館の医師として着任。1824年には塾をひらいて〈高野長英〉(1804~1850),〈伊東玄朴〉(いとうげんぼく,1800~1871)らに西洋医学を講じます。しかし出国時に日本地図
(幕府天文方の〈高橋景保〉(たかはしかげやす,1784~1829)に贈られた〈伊能忠敬〉の日本・蝦夷の地図)
を持ち出そうとしたため,〈シーボルト〉は国外追放,門下も処罰されました
(〈高橋景保〉は獄死)
。1828年に帰国しています。
しかし1837年に今度はアメリカ商船
の
モリソン
号
が浦賀沖に接近し,現在の愛知県の漂流民3名(〈音吉〉,〈岩吉〉,〈久吉〉)と熊本県の漂流民4名の計7名を返すから通商をしてほしいと要求しました。しかし,沿岸から砲撃されて鹿児島に移動後,薩摩藩兵が砲撃しマカオに至りました。
〈高野長英〉は『夢物語』の中で鎖国政策を批判し,幕府の目付〈鳥居耀蔵〉(とりいようぞう,?~1874)により蛮社の獄(1839,ばんしゃのごく)という思想弾圧を受け,同じく尚歯会(しょうしかい)に属する『慎機論』(1837,未完成)の〈渡辺崋山〉(わたなべかざん,1793~1841)とともに投獄されました(〈渡辺〉は自殺,〈高野〉は脱獄したが江戸で見つかり自殺)。
そんな中,アヘン戦争(1840~42)で清が敗北した情報が知れ渡ると,いよいよ危機感が高まり,1841年に老中
〈
なお,1844年に中国との間に望厦条約を結んだアメリカ合衆国は,太平洋を横断する航路の開拓に前向きとなっていました
(注
)
。1846年には今度はアメリカ合衆国の海軍士官
〈
ビッド
ル
〉(1783~1848)が浦賀に来航して通商を要求,幕府はこれを拒否しています。
(注)「異国船の渡来と浦賀」横須賀市
,
https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2490/tokubetuten/16.html
(注)後藤敦史「18~19世紀の北太平洋と日本の開国」,桃木至朗・秋田茂『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会,2013,p.207。のち,〈ペリー〉と同時期に,航路開拓の調査のため,北太平洋測量艦隊が派遣されています。当時は捕鯨資源が減少していたこともあり,アメリカ合衆国の漁場は20世紀初めには北極海にまで到達するようになっていきます。
・
181
5
年
~
184
8
年のアジア 東アジア
現①
日本 小笠原諸島
小笠原諸島は1675年に江戸幕府が調査船を送り,日本領とする碑を設置。「ブニンジマ」(無人島)と呼ばれていました。
しかし,1830年には,ハワイから白人5人,ポリネシア人25人が入植し,「ボニン・アイランズ」(Bonin-Islands)と呼ばれます。
・
181
5
年
~
184
8
年のアジア 東アジア
現①
日本 南西諸島
◆
琉球王国に対する通商が要求され,幕府はこれを黙認し西欧との通商が始まった
琉球王国の「開国」を,江戸幕府は黙認する
外国船の来航は止まらず,1844年にはフランス船アルクメーヌ号が琉球王国の那覇港に入港。通商を要求しています。アヘン戦争の際に強硬策をとったために清がひどい目にあったことを知っていた薩摩藩の担当者は柔軟な対応をとりました。1844年にはイギリスも琉球王国に通商を要求しており,薩摩藩は幕府の許可を得てフランスとイギリスの間の通商を許可しています。
○181
5
年
~
184
8
年のアジア 東南アジア
東南アジ
ア
...現在の①ヴェトナム,②フィリピン,③ブルネイ,④東ティモール,⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア,⑧カンボジア,⑨ラオス,⑩タイ,⑪ミャンマー
イギリス植民地
現①ブルネイ、⑥シンガポール、⑦マレーシア、⑪ミャンマーを中心に
◆イギリス東インド会社の〈ラッフルズ〉は、アジアの交易の要衝としてシンガポールに注目した
「東洋の交易拠点」を押さえていったラッフルズ
現在のシンガポールは当時イスラーム王朝であるジョホール王国〔ジョホール=スルタン国
(注1)
〕の領土で、19世紀初頭に150人ほどの住民がいたと考えられています。うちマレー人が130人、20人が中国人で、中国人は南西端へ流れるシンガポール川河口付近で漁業をおこないジャングルを開墾して農業をおこなっていたほか、ジョホール水道に面する北部一帯は海賊の拠点となっていました
(注2)
。
植民地行政官の
〈
ラッフル
ズ
〉
(1781~1826、世界一大きな花「ラフレシア」を発見した調査隊のリーダーでもあります)
は,シンガポールを支配していたジョホール王が別の島に居住し、オランダの支配下にあることがわかると、この王と対立していた弟を持ち出します。すなわち、弟のほうを「正統な王」と承認し、年5000ドルの年金を支払う代わりに、シンガポール川の河口付近一帯を東インド会社の領土とすることを認めさせたのです
(注3)
。
こうして1819年にジョホール王か
ら
シンガポー
ル
【セ試行 オランダの拠点として建設されたのではない】
【本試験H16時期】
を条約により割譲させ領有。そんなことしたらオランダも黙っていないわけですし、〈ラッフルズ〉の行為も東インド会社本部の承認を得ていない越権行為です。
しかしシンガポールを占領した既成事実を盾に、イギリスはスルターンと新たに年1万8000ドルを支払う条件で契約し、シンガポール全島がイギリス東インド会社の領土となりました
(注4)
。
1824年マラッカ海峡よりも東側をイギリス,西側をオランダとす
る
英
蘭(
ロンド
ン)
協
約
をオランダ王国
【本試験H13フランスではない】
と結びました。
歴史上,こんなところに境界線が引かれたことは一度もなかったわけですが,この取り決めがのちのマレーシアとインドネシアの国境線のもとになっていくのです
【本試験H13】
。
1826年には
,
ペナ
ン
【東京H19[3]】
,
マラッ
カ
【東京H19[3]】
,
シンガポー
ル
【東京H19[3]】
を
海峡植民
地
【東京H14[1]指定語句】
【追H30スペインの植民地ではない】
(Straits Settlements)として統合し,関税を課さな
い
自由貿易
港
にしました。
インド東インド会社のベンガル総督府(カルカッタにあります)の管轄の下、海峡植民地の知事は当初ペナンのジョージタウンに駐在しました。のちシンガポールの重要性が高まると、1832年にシンガポールに移されます
(注5)
。
これにより,中国や東南アジアの船は,バタヴィアではなく,海峡植民地に来航するようになり,交易が活発化しました。イギリスの自由貿易政策による,オランダつぶしですね。特に,マラッカ海峡の南端に位置したシンガポールは,貿易の中心地として,ペナンをしのぐようになり,1845年にはシンガポールの総人口の過半数は中国人になりました。また,インド人も労働者として移住してくるようになりました。 こうしてシンガポールには,多くの人種が混ざり合う多彩な社会が形成され、1842年にイギリスの植民地となる中国の
香港
とともにアジアの自由貿易ネットワークの拠点となっていくのです。
しかし、これら3拠点は自由港であり関税収入はのぞめず、1833年に東インド会社の貿易独占権が廃止されると、東インド会社にとっての海峡植民地の重要性は低下していきました。
一
方
マレー半
島
では
,
ス
ズ
【慶商A H30記】
鉱山の開発も進みました。1810年にイギリス
で
缶
詰
が発明され,ヨーロッパでのスズの需要が高まったことが背景にあります。中国人やインド人の労働者がスズ鉱山で働きました。中国人の増加を背景にし,ムラユ人諸国の内紛は,マレー半島全域に広がっていくことになります。気候の適し
た
天然ゴ
ム
【慶商A H30記】
のプランテーションの導入も始まりました
【本試験H17コーヒーではない】
。マレー半島で生産された資源はシンガポールで輸出され、鉱山会社、ゴム会社、貿易会社、銀行、保険会社がシンガポールに置かれ、マレー半島のイギリス植民地との経済的結び付きが強まっていきます
(注6)
。
(注1) 「スル
ターン
」はスンナ派の政治権力者、君主に与えられた称号ですが、「スル
タ
ン」(長母音ではない)は東南アジアの島々がイスラーム化するプロセスで、在地の君主が王権の正統性を強めるために名乗ったものです(大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』「スルタン」の項目、岩波書店、2002年、p.544)。
ジョホール王国は、ムラカ〔マラッカ〕王国の〈スルタン=マフムード=シャー〉が、マレー半島を南下し、ビンタン島を都として建設したものです。17世紀の初頭からオランダと協力し、1641年のオランダのムラカ占領を支援し、マレー半島南部からスマトラ島中部にかけての一大貿易拠点となりました。1670年前後から衰退し初め、1699年に〈スルタン=マフムード〉殺害事件により、ムラカの王統は断絶します。1819年にイギリス人〈ラッフルズ〉がジョホール王からシンガポール島を獲得し、その後、オランダとイギリスの間の英蘭条約によって1824年マレー半島南部のジョホール王国と、リアウ諸島とスマトラ中部のリアウ王国の分離が決定されました。つまり、このときにオランダとイギリスの間にとりきめられた国境線が、のちの
インドネシアとマレーシアの国境線
となるわけです。(大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』「ジョホール王国」の項目、岩波書店、2002年、p.503)。
(注2) 岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.4。
(注3) 岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.8。
(注4) なおこのときすでに〈ラッフルズ〉は帰国(1823年)しており、全島が植民地化されたときのシンガポールの総督は第二代〈クロウファード〉です。岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.9。
(注5) 岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.17。
(注6) 岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.23。
ビル
マ
では,1752年
に
コンバウン
朝
(1752~1885)がおこっていましたが,イギリス東インド会社がインドの植民地化を加速するのをみて,コンバウン王はベンガル東部の割譲を要求しました。イギリス側はそれを拒否したため,1822年にビルマ軍がインドに進入,アッサムなどを占領しました。1824年か
ら
第一次イギリ
ス=
ビルマ戦
争
【東京H23[3]3次まで続くか問う】
が始まりました。1826年の停戦条約で,コンバウン朝
【本試験H3タウングー朝ではない】
のビルマは最南部の地域(アラーカーン,テナーセリウム)をイギリスに奪われました。
●181
5
年
~
184
8
年のインド洋海域
インド洋海
域
...インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島,モルディブ,イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域,マダガスカル,レユニオン,モーリシャス,フランス領マヨット,コモロ
マダガスカル
イギリスやフランスの進出という危機を前に,メリナ人を統一しメリナ王国の初代国王となった〈ラダマ1世〉(位1810~1828)は,イギリスに接近して軍事・教育・経済の西欧化を進めました。これには保守派の反発も大きく,マダガスカルの社会情勢は不安定なものになっていきます。
商業活動が発展し各地で新国家が建設されるが,民族間の抗争がヨーロッパの進出に利用される
○181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 東アフリカ
東アフリ
カ
...①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ
◆
東アフリカではアラブ人の奴隷貿易が栄える
ザンジバルが,インド洋奴隷交易の中心となる
東アフリカ
の
スワヒリ地
域
では従来から
の
金
や
象
牙
に加えて奴隷交易が活発化。現在のタンザニアにあ
る
ザンジバル
島
は,奴隷交易の中心地にのし上がりました。1839年に送り出された奴隷は1年で4万人に達するといいます
(注
)
。1840年にアラビア半島東岸
の
オマー
ン
が進出し,アラブ人によるインド洋奴隷交易が本格化します。
奴隷は内陸のザンビア東部,マラウィ,モザンビークから奴隷が多数積み出されました。
(注)栗田和明『マラウィを知るための45章 第2版』明石書店,2010,p.44
・
181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 東アフリカ
現①
エリトリア
現在のエリトリアの地域には,14世紀にティグレ人などがミドゥリ=バリ(15世紀~1879)という国家を建設しています。
この時期には〈ムハンマド=アリー〉統治下のエジプトの進出が強まっています
・
181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 東アフリカ
現②
ジブチ
現在のジブチ周辺では,奴隷交易が営まれています。
・
181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 東アフリカ
現③
エチオピア
エチオピア高
原
に16世紀以降,東クシュ系の半農半牧
の
オロモ
人
が進入し,打撃を受けてい
た
エチオピア帝
国
は,この時期には比較的平和な時期を迎えています。
・
181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 東アフリカ
現④
ソマリア
,⑤
ケニア
,⑥
タンザニア
東アフリカはオマーンの保護下に入っている
東アフリカのインド洋沿岸には,アラビア半島北東部マスカットを拠点とす
る
オマーン王
国
が
〈
サイイ
ド=
サイー
ド
〉(位1806~1856)の下で進出し,アラブ人などによ
る
奴隷交
易
が営まれていました。
現・タンザニアを構成す
る
ザンジバル
島
には,1830年代にオマーンの王宮が建設されています(◆世界文化遺産「ザンジバル島のストーン・タウン」,2000)。
・
181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 東アフリカ
現⑦
ブルンジ
,⑧
ルワンダ
,⑨
ウガンダ
象牙の乱獲からアフリカゾウの個体数が激減する
ヴィクトリア湖北西部(アルバート湖畔)に
は
ブニョロ王
国
が栄えています。
ヴィクトリア湖西部
の
ブガンダ王
国
は
,
象
牙
や
奴隷交
易
で栄えてブニョロ王国から自立しています。
19世紀には象牙の需要が高まり,インド洋岸
の
ザンジバ
ル
などからキャラバンも組まれるようになります。獲れば売れるの
で
銃火
器
でアフリカゾウが乱獲され,個体数は激減していきます。
○181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 南アフリカ
南アフリ
カ
...①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ
・
181
5
年
~
184
8
年の南アフリカ
現①
モザンビーク
ポルトガルはザンベジ川流域に植民する
ポルトガル王国は,南東部(インド洋側)のザンベジ川流域を中心に現在
の
モザンビー
ク
を植民地化していっています。奥地からは奴隷や金が積み出されています。
・
181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 南アフリカ
現②
スワジランド
スワジランド王国の支配が確立する
スワジランド王国の〈ソブーザ1世〉(位1815~1836)は,南方
の
ズールー王
国
の拡大から独立を守っています。
・
181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 南アフリカ
現③
レソト
レソト王国の〈モシュシュ1世〉(位1822~1870)は南方
の
ズールー王
国
の拡大に直面し,ングニ人の進出も受けましたが,独立を守っています。
・
181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 南アフリカ
現④
南アフリカ共和国
ズールー王国が軍事拡大し民族間の抗争が起こる
現在の南アフリカには,バントゥー系の農耕民が南端付近まで進出し,バントゥー語群のングニ人(そのうち
の
コーサ
人
)に,ナタール地方にはバントゥー系のングニ人(そのうち
の
ズールー
人
)が分布していて,国家を形成しています。
このう
ち
ズールー王
国
は〈シャカ〉(位1817~1828)王のときに周辺に軍事的に急拡大していきました。
ケープタウンに入植したヨーロッパ人(主にオランダ系。フランスのユグノーも含む)は支配領域を拡大し,中にはケープタウン北方の牧草地に武装して進出し,先住
の
コイコイ
人
を駆逐して,牧畜エリアを広げていく者もいました。
それに対しバントゥー系
の
コーサ
人
が行く手を阻み,1779年以降,100年間にわたって戦争が勃発します(コーサ戦争)。
◆
ナポレオン戦争後,ケープ植民地がイギリス領となると,先住のボーア人は北上する
イギリス人がケープへ,ボーア人は北
へ"
トレッ
ク
"
ナポレオン戦争中にイギリスが上陸していたオランダ
領
ケープ植民
地
は,ウィーン会議の結果,イギリスの領有となりました。
先住のオランダの人々のうち,内陸に入った者たちは
「
ボーア
人
」と呼ばれ,奴隷を使って農牧業を展開していました。フランス人やベルギー人の移民の末裔も含まれ,現在では一般的にアフリカーナーと呼ばれます
(注
1)
。
しかし,1833年にイギリスが世界中すべての植民地における奴隷制を廃止すると,ケープ植民地の東部に済んでいたボーア人の農民は生きるすべをなくすことになります(ボーア人の中には,ケープタウンにのこった富裕な人々(職人,商人,下級官吏,比較的富裕な農民)もいます)。貧しい農民のボーア人たちは,ウシ
と
マレー半島から連れてこられた奴
隷
を連れて北上を開始したのです。これ
を
グレー
ト=
トレッ
ク
といいます。
移住の末に「トレック=ブール」と呼ばれたアフリカーナーは,1838年にナターリア共和国を建国するも,4年後にはイギリスの植民地となりました。その後,さらに北部の高地草原地帯に移動していきます
(注
2)
。
このボーア人の移住に対し危機感を強めたのが,南アフリカ南東部で
〈
シャ
カ
〉王(位1816~1828)の下で拡大していたバントゥー諸語系
の
ズールー王
国
です。ボーア人は戦闘に勝利し,さらに北上をすすめていきます。
(注)前川一郎『イギリス帝国と南アフリカ―南アフリカ連邦の形成 1899~1912』ミネルヴァ書房,2006,p.24。
(注2)前川一郎『イギリス帝国と南アフリカ―南アフリカ連邦の形成 1899~1912』ミネルヴァ書房,2006,p.13。
・
181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 南アフリカ
現⑤
ナミビア
ナミビアの海岸部に
は
ナミ
ブ
砂漠が広がる不毛の大地。
先住のサン人の言語で「ナミブ」は
「
何もな
い
」という意味です(襟裳岬と同じ扱い...)。
そんなナミビアにもバントゥー系の人々の居住地域が広がり,バントゥー語群
の
ヘレロ
人
も17~18世紀にかけて現在のナミビアに移住し,牧畜生活をしています。ナミビア北東部のアンゴラとの国境付近のヘレロ人の一派は〈ヨシダナギ〉(1986~)の撮影で知られ
る
ヒン
バ
です。
1830年代にはイギリスと現・ドイツのキリスト教伝道協会がナミビアの地を訪れています。
・
181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 南アフリカ
現⑥
ザンビア
この時期のザンビアには,北部
に
ルン
ダ
王国,北東部に
は
ベン
バ
人の国家,東部に
は
チェ
ワ
人(現在のマラウイの多数派民族)の国家,西部に
は
ロ
ジ
人の国家が分布しています。
内陸に位置するザンビアにアラブ人やポルトガル人が訪れたのは,沿岸部に比べて遅い時期にあたります。
・
181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 南アフリカ
現⑦
マラウイ
この時期のマラウイには大きな政治的組織はありません。
・
181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 南アフリカ
現⑧
ジンバブエ
ロズウィ王国がポルトガルの新入を阻む
ジンバブエの南部高原地帯に
は
ロズウィ王
国
がポルトガル勢力を阻んでいました。
この時期には南方のズールー王国が
〈
シャ
カ
〉王の下で強大化していましたが,そこから自立した将軍〈ムジリカジ〉が北方に移動して,ヌデベレ王国を建国。
さらに同時期にはケープタウン方面からオランダ系
の
アフリカーナー
人
〔ボーア人〕が北上しており,両者に押されたロズウィ王国は,ヌデベレ王国により占領されます。
ヌデベレ王国の〈ムジリカジ〉はブラワヨを建設して拠点とし,軍事力を強めでアフリカーナー人に対抗しました。
・
181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 南アフリカ
現⑨
ボツワナ
ボツワナの大部分は砂漠
(
カラハリ砂
漠
)や乾燥草原で,農耕に適さず牧畜や狩猟採集が行われていました。
バントゥー系
の
ツワナ
人
は農耕のほかに牧畜も営み,ボツワナ各地に首長制の社会を広げています。
先住のコイサン系
の
サン
人
も,バントゥー系の諸民族と交流を持っています。
ケープタウ
ン
から北上するヨーロッパ系住民との接触も起こるようになっています。
○
181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 中央アフリカ
中央アフリ
カ
...
現①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン
この時期になっても,コンゴ盆地のザイール川上流域に広がる熱帯雨林の世界は,"闇の世界"として,ヨーロッパ人にはほとんど知られずにいました。ザイール川の上流とナイル川の上流部は「つながっているのではないか?」という説もあったほどです。イスラーム商人の流入や,ヨーロッパ人によ
る
奴隷貿
易
に刺激された奴隷狩りなどの外部の影響を受けながらも,バントゥー系の小さな民族集団が,焼畑農耕を営みながら住み分けていました。
アンゴ
ラ
にはポルトガルの植民が進んでいましたが,17世紀中頃には新たに進出したオランダとの間で抗争も起きています。17世紀後半にはコンゴ王国の王権はあって無いような状態となり,コンゴ盆地には諸王国が分立していました。
・
181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 中央アフリカ
現①
チャド
ボルヌ王
国
(14世紀末~1893)が強大化し,西方のハウサ諸王国と交易の利を争っています。
・
181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 中央アフリカ
現②
中央アフリカ
ボルヌ王
国
(14世紀末~1893)が強大化し,西方のハウサ諸王国と交易の利を争っています。
・
181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 中央アフリカ
現③
コンゴ民主共和国
,④
アンゴラ
,⑤
コンゴ共和国
,⑥
ガボン
コンゴ盆地に
は
ルンダ王
国
と
ルバ王
国
が栄えます。
ギニア湾沿岸のコンゴ川下流
は
コンゴ王
国
が支配し,南方
の
ポルトガル領アンゴ
ラ
と対抗しています。ポルトガル,イギリス,フランスなどのヨーロッパ諸国は,アンゴラのルアンダ港を初めとするギニア湾沿岸から奴隷を積み出しています。
・
181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 中央アフリカ
現⑦
サント
メ=
プリンシペ
ギニア湾の小島は環境破壊ではげ山に
サントメ=プリンシペは,現在のガボンの沖合に浮かぶ火山島です。
1470年
に
ポルトガ
ル
人が初上陸して以来,1522年にポルトガルの植民地となり,
火山灰土壌を生かし
た
サトウキビのプランテーショ
ン
が大々的に行われました。
しかし過剰な開発は資源を枯渇させ
,生産量は18世紀にかけて激減。17世紀前半には一時オランダ勢力に占領され,イギリスやフランス勢力の攻撃も受けるようになります。
サントメ=プリンシペは,代わって奴隷交易の積み出し拠点として用いられるようになっていきます。
・
181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 中央アフリカ
現⑧
赤道ギニア
現在の赤道ギニアは,沖合のビオコ島と本土部分とで構成されています。
15世紀の後半にはポルトガル人〈フェルナンド=ポー〉(15世紀)がビオコ島に到達し
,
ポルトガ
ル
領となっています。
・
181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 中央アフリカ
現⑨
カメルーン
現在のカメルーンの地域は,この時期に強大化し
た
ボルヌ帝
国
の影響を受けます。
カメルーンの人々はポルトガルと接触し,ギニア湾沿岸
の
奴隷交
易
のために内陸の住民
や
象
牙
(ぞうげ)などが積み出されていきました。
○181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 西アフリカ
西アフリ
カ
...現在の①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ
イスラーム改革運動を掲げた新国家が樹立される
・
181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 西アフリカ
現①
ニジェール
,②
ナイジェリア
,③
ベナン
ベニン王国
ニジェール川下流域(現在のナイジェリア南部)では,下流
の
ベニン王
国
(1170~1897)が15世紀以降ヨーロッパ諸国との奴隷貿易で栄えます。デフォルメされた人物の彫像に代表され
る
ベニン美
術
は,20世紀の美術家
〈
ピカ
ソ
〉(1881~1973)らの立体派に影響を与えています。
ダホメー王国
その西の現在の
③
ベナ
ン
の地域にフォン人
の
ダホメー王
国
(18世紀初~19世紀末)があり,東にいたヨルバ人のオヨ王国と対立し,奴隷貿易により栄えます。
オヨ王国
17世紀には,ベニン王国の西(現在のナイジェリア南東部)でヨルバ人によ
る
オヨ王
国
(1400~1905)が勢力を拡大させました。もともとサハラ沙漠の横断交易で力をつけ,奴隷貿易に参入して急成長しました。1728年には,ベニン王国の西にあっ
た
ダホメー王
国
を従えています。
◆
イスラーム教をよりどころに,従来の王国に対する抵抗運動が起きる
フラニ人による西アフリカの国家再編が起きる
ニジェールからナイジェリアにかけての熱帯草原〔サバンナ〕地帯には
,
ハウサ人の諸王
国
が多数林立していました。ハウサ王国はチャド湖を中心とするボルヌ帝国と,西方のニジェール川流域のソンガイ帝国の間にあって,交易の利を握って栄えていたのです。
そんな中,
②
ナイジェリ
ア
北部のハウサ人の地域では
,
トゥクルール
人
のイスラーム神学者〈ウスマン=ダン=フォディオ〉(1754~1817)が「ジハード」(聖戦)を宣言。王に即位して,周辺のハウサ諸王国を次々に併合していました。これ
を
フラニ戦
争
(1804~1808)といい,建てられた国はソコトを都としたの
で
ソコト帝
国
(ソコト=フラニ)といいます。
ニジェール川流域では
,
セグー王
国
,
マシナ王
国
がありましたが,この地
の
フラニ
人
(フルベ人,自称
は
プール
人
)もソコト=フラニの改革の刺激を受けています
(注
)
。
これにより,広範囲がイスラームの支配者で統治されたことで,牧畜民と農耕民の双方に利益が還流され
(注
2)
,サハラ交易は活発化していきました。
(注1)ジェレミー・ブラック,牧人舎訳『世界史アトラス』集英社,2001,p.167。
(注2)現在の同地域n牧畜民・農耕民の物・サービスの移動を通した相互関係は,嶋田義仁『牧畜イスラーム国家の人類学―サヴァンナの富と権力と救済』世界思想社,1995,p.256,263図表を参照。
(注3)この時期のフラニ人(プール人)の聖戦に題材をとった小説に,マリのフラニ人作家〈アマドゥ=ハンパテバー〉(1900?~1991)の『アフリカのいのち―大地と人間の記憶/あるプール人の自叙伝』新評論,2002という好著があります。
・
181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 西アフリカ
現④
トーゴ
,⑤
ガーナ
ギニア湾沿岸には,現在の
⑤
ガー
ナ
を中心
に
アシャンティ王
国
(1670~1902)
【東京H9[3]】
が奴隷貿易によって栄えました。アシャンティ人の王は「黄金の玉座」を代々受け継ぎ,人々により神聖視されていました。
海岸地帯は「黄金海岸」と呼ばれ
,
イギリス領黄金海
岸
〔ゴールド=コースト〕となっています。
現在の
④
トー
ゴ
は,アシャンティ王国やダホメー王国の影響下にありました。
・
181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 西アフリカ
現⑥
コートジボワール
ヨーロッパ人によって
「
象牙海
岸
」と命名されていた現在のコートジボワール。
コートジボワール北部
,
ブルキナファ
ソ
からマリにかけてニジェール=コンゴ語
族
マンデ
系
のコング王国。コートジボワール東部にニジェール=コンゴ語
族
アカン
系
のアブロン王国などが栄えています。
・
181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 西アフリカ
現⑦
リベリア
現在
の
リベリア共和
国
【本試験H5 19世紀に奴隷貿易のための植民地となったのではない】
【東京H7[3],H19[3]】
のある地域では,1816年にアメリカ合衆国
の
アメリカ植民協
会
が,奴隷から解放された黒人をアフリカに返そうとする計画を建てました。1820年に黒人88名が西アフリカに移され,「リベリア共和国(英語ではライベリア)」の建設が始まりました。リベリアとは「自由な」という意味のラテン語からとられており,15世紀以降にヨーロッパの探検者によって「胡椒海岸」と名づけられた地域でした。
1824年にはアメリカ合衆国の第5代大統領
〈
モンロ
ー
〉(任1817~25)の名にちなみ,首都はモンロヴィアと改称。当初から先住民との抗争が相次ぐ中,1847年にはアメリカ合衆国憲法を参考に独立を宣言しました。
・
181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 西アフリカ
現⑧
シエラレオネ
シエラレオネにはイギリスの交易所が沿岸に設けられ,奴隷交易がおこなわれていました。
・
181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 西アフリカ
現⑨
ギニア
現在のギニア中西部の高原には熱帯雨林と熱帯草原〔サバンナ〕が広がりフータ=ジャロンと呼ばれます。
この地の牧畜
民
フラニ
人
(自称
は
プール
人
)は,1725年
に
フー
タ=
ジャロ
ン
王国を建国し,イスラーム教を統合の旗印として周辺地域に支配エリアを広げていきます。
・
181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 西アフリカ
現⑩
ギニアビサウ
現在のギニアビサウにはポルトガルが「ビサウ」を建設し,植民をすすめています。
・
181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 西アフリカ
現⑪
セネガル
,⑫
ガンビア
セネガ
ル
に
は
フラン
ス
の植民がすすんでいます。
西端
の
セネガ
ル
はゴレ島を拠点に奴隷貿易の拠点として発展しますが,1848年のフランス第二共和政
は
奴隷貿易を廃
止
しました。
フランスの交易拠点であるサン=ルイの商館長にはフランスから派遣された人物が任命されましたが,1758年には現地人の混血者とヨーロッパ出身者によるサン=ルイ市会ができており,自治組織も次第に形成されていきました。1840年のフランスにおける政令により,サン=ルイには独自の議会設置が認められ,議会の長にはフランスから派遣される総督が任命され,議員はフランス人の居住者と現地人から形成されていました
(注
)
。
(注)小林了編著『セネガルとカーボベルデを知るための60章』明石書店,2010年,p.24。
・
181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 西アフリカ
現⑬
モーリタニア
現在
の
モーリタニ
ア
にはヨーロッパ諸国の植民は進んでいません。
・
181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 西アフリカ
現⑭
マリ
フラニ人がニジェール流域で自らの国家を樹立
ニジェール川沿岸部のセグーでは,ニジェール=コンゴ語族メンデ系のバンバラ人
が
バンバラ王
国
(セグー王国,1712~1861)を建国しています。
このバンバラ人の王国に貢納を課されていた牧畜
民
フラニ
人
(フルベ人,自称
は
プール
人
)は,自立を求めイスラーム改革運動を掲げて「ジハード」(聖戦)を起こし,西方
で
ソコト帝
国
を樹立していたトゥクルール人の聖職者〈ウスマン=ダン=フォディオ〉の弟子となった〈セク=アマドゥ〉(位1818~1845)の指導下に
,
マシナ王
国
(1818~1862)が建国されます
(注
)
。
・
181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 西アフリカ
現⑮
ブルキナファソ
ニジェール川湾曲部の南方に位置する現在のブルキナファソには
,
モシ王
国
が栄えていました。
○181
5
年
~
184
8
年の北アフリカ
北アフリ
カ
...現在の①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア
フランスがアルジェリアに出兵する
・
181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 北アフリカ
現①
エジプト
◆
エジプト総督が自立を求めて第一次エジプ
ト=
トルコ戦
争
(183
1~
33
)
を起こすと列強が介入する
〈ナポレオン〉による占領と撤退後の混乱の中,エジプトで「総督」に就任した〈ムハンマド=アリー〉(1769?~1849)は,オスマン帝国からの自立を進めるとともに,商品作物の栽培と専売による収益を利用して西洋式軍隊(1822年に徴兵制を導入)や国営工場,ヨーロッパ的な教育施設や出版施設を設立し,中央集権的な「エジプト国民」の国家を建設していました。独自の財源を持ち,ヨーロッパ諸国からの借金に頼らなかった点が,同時期のオスマン帝国との違いですが,エジプトの農業はヨーロッパを中心とする世界経済への従属下に置かれていくことになります。
さらに〈ムハンマド=アリー〉
は
シリ
ア
の行政権を要求します。1831年にシリアとアナトリア半島に進出して戦端が開かれるや,なんとオスマン帝国は今までさんざん戦ってきたロシアに助けを求めました。「ロシアが南下しては困る!」とイギリス,フランス,オーストリアは反対にエジプト側について,オスマン帝国に干渉しました。これ
が
第一次エジプ
ト=
トルコ戦
争
です。
結局,両者は1833年にキュタヒヤ条約により和平を結び,〈ムハンマド=アリー〉は要求通りエジプトとシリアを割譲してもらいました,1836年に〈ムハンマド=アリー〉はフランスに古代エジプトのオベリスクをプレゼントしています。今でもパリのコンコルド広場に建っています。
ところが,オスマン帝国とロシアの間に1833年に
,
ウンキャ
ル=
スケレッシ条
約
が結ばれると,事態は急変します。この条約は,オスマン帝国が支援をしてくれたロシアに対して
,
ボスフォラス海峡とダーダネルス海峡の独占通行
権
を与えるものでした。イギリス,フランス,オーストリアは,ロシアの南下を許すことになるとして,条約の成立に断固反対しました。
なお,1838年にはイギリスとオスマン帝国の間に通商条約が締結されています。これによりオスマン帝国は関税自主権を喪失し,外国製品の輸入によって在来の産業が破壊されていくことになりました。
◆
第二次エジプ
ト=
トルコ戦
争
(183
9~
1840
)
にも列強が介入した
しかし戦後になって〈ムハンマド=アリー〉は,「一代限りでは満足できない。世襲権が欲しい」と主張。再度オスマン帝国と開戦しました。
エジプトは,初めはフランスの支援を受けていたので強気だったのです。
しかし,「今度エジプトが勝ってしまうと,オスマン帝国が一気に崩壊してしまう。助けたフランスの地位も高くなる。さらに,そのすきにロシアが南下してしまうかもしれない。オスマン帝国を助けているの国がロシアだけだと,助けた代わりとしてロシアはオスマン帝国から領土を獲得して一気に南下してしまうかのうせいがある」と恐れたイギリス,オーストリアは,こぞってオスマン帝国側を支援しました。
1840年
に
ロンドンで会
議
【本試験H18時期】
が開かれ,イギリス,ロシア,オーストリア,プロイセンととも
に
ロンドン四カ国条
約
(1841年にはフランスも参加)を結びました。この中で,〈ムハンマド=アリー〉
【本試験H19アブデュル=メジト1世ではない】
に
は
エジプト総督世襲
権
が与えられましたが,スーダン以外の支配地は認められませんでした。エジプトには市場開放が求められ,ナイル川流域の農作物がヨーロッパを中心とする世界経済に一層巻き込まれていくことになりました。
エジプトがロシアと個別に結んでいたウンキャル=スケレッシ条約は破棄され,ロシアの南下政策は失敗。さらに,〈ムハンマド=アリー〉を介してシリアに手をのばそうとしていたフランスの野望も撃沈です。
このロンドン会議をとりきったのは,やり手のイギリス外相
〈
パーマスト
ン
〉(外相在任1830~34,35~41,46~51,首相在任55~58,59~65)です。1839~40年というと,アヘン戦争にむかって大忙しの時期。そんな中で,ロシアの南下とフランスのエジプト・スーダン・シリアへの勢力圏の拡大を同時にブロックした彼の外交は,
「
パーマストン外
交
」ともいわれる見事なものでした。
一方,オスマン帝国は港湾施設や鉄道といった近代的なインフラをイギリスやフランスに借金し,その資本を導入することで建設しようとしました。しかし,この外債の導入が,のちに財政を逼迫(ひっぱく)させていくことになります。こうして,オスマン帝国は領土的には植民地とされることはありませんでしたが,イギリス,フランスに対し経済的に従属していくことになったのです。
・
181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 北アフリカ
現②
スーダン
,③
南スーダン
現在のスーダン,南スーダンは〈ムハンマド=アリー〉
の
エジプ
ト
の支配下に入ります。
南西部
の
ダルフー
ル=
スルターン
国
は進出に抵抗します。
・
181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 北アフリカ
現④
モロッコ
,⑤
西サハラ
モロッ
コ
では,サハラ沙漠の交易ルートを握ったアラウィー家が17世紀後半に頭角を現していました
(
アラウィー
朝
)。ヨーロッパ諸国の進出が活発化すると,〈スライマーン〉(位1792~1822)は鎖国政策をとり対応しました。
・
181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 北アフリカ
現⑥
アルジェリア
フランス勢力を〈アブ
ド=
アルカーディル〉が抵抗
アルジェリ
ア
の地中海沿岸は
,
アルジェの海
賊
の根城となっていました。交易のため地中海を航行する必要の合ったアメリカ合衆国は1815年にアルジェに遠征して,海賊行為をやめるよう協定を結びました。しかしそれでもアルジェの海賊活動はやまず,翌年にはオランダ・イギリス艦隊が攻撃したものの,それ以降も続きました。
フランスではブルボン復古王朝の〈ルイ18世〉を継いで,弟の
〈
シャル
ル
1
0世
〉(位1824~30)
【本試験H23ルイ=フィリップとのひっかけ】
が国王に即位しました。彼は即位すると厳しい制限選挙をしき,絶対王政を復活させようとしたので,国内の自由主義者の反発を受けます。〈ポリニャック〉首相(任1829~30)の反動的な政策への批判も高まると,批判を逸らすため
に
アルジェリアに出
兵
しました
【本試験H5,本試験H12時期(1880年代ではない)】
【追H25フランスか問う。オランダ、ドイツ、フランス、ベルギーではない】
。
マルセイユ商人の支持を背景に,アルジェの海賊に対する報復をおこなうというのが名目でした。フランスの進出に対し,地方で名望のあったアラブ系部族
〈
アブ
ド=
アルカーディ
ル
〉がアラブ系とベルベル系を率いて1832~1847年まで激しく抵抗しました。彼は一時はアルジェリアの3分の2を占領し国家組織を形成しましたが,鎮圧されました
(注
)
。アルジェリアは1834年にフランスに併合されました(
アルジェリアの植民地化
)
【H30共通テスト試行 アルジェリアを植民地化したのはド=ゴールではない】
。
(注)マグレブ地方の住民の多くはアラブ系やベルベル系で,テュルク(トルコ)系は少数派でした。古くからマグレブ地方で商業活動に従事したユダヤ教徒のほか,キリスト教諸国のレコンキスタ(再征服運動,国土回復運動)でイベリア半島を追われたユダヤ教徒(1492年のスペインのユダヤ教徒追放令)やイスラーム教徒も移住していました。なお,〈アブド=アルカーディル〉の父はスーフィズムの教団であるカーディリー教団の指導者でした。
・
181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 北アフリカ
現⑦
チュニジア
チュニジ
ア
はオスマン帝国
の
チュニス
州
とされて間接統治されていましたが,1705年に騎兵隊長官〈フサイン〉が実権を握ってから,1957年まで続くフサイン朝が成立し,事実上オスマン帝国から自立していました(1956年にチュニジアは王国として独立,1957年に王政が廃止されて共和国となります)。フランスがチュニジア国境付近まで迫ると,安全保障のためオスマン帝国に接近するようになります。チュニジアの支配者はオスマン帝国のタンジマートにならって近代化政策を実施していきました。
・
181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 北アフリカ
現⑧
リビア
リビ
ア
西部のトリポニタニアでは,地方を支配していたテュルク系の〈カラマンリー〉が実権を握り1722年にスルターンによりパシャに任命されて以降,1835年まで彼の一族がパシャの地位を占めました(カラマンリー朝)。しかしオスマン帝国が1835年にカラマンリー家を滅ぼし,リビアを支配下に置きました。
フランス革命とナポレオン戦争のごたごたの後,ヨーロッパの王侯貴族が集まって,革命以前の秩序をとり戻すために会議をひらきました。主導権をとったのはオーストリアのウィーンです。
ハプスブルク家のオーストリアは,フランス革命により,ブルボン家に嫁がせた〈マリ=アントワネット〉が処刑され,さらにナポレオン戦争でも大きな被害を受けるなど,さんざんな目にあっています。また,なんといっても1806年には,ハプスブルク家から,皇帝を代々出し続けてい
た
神聖ローマ帝国が滅
亡
させられたということが大きい。ですから,会議で大きな声をあげることができたわけです。
オーストリアは,1804年に〈ナポレオン〉が皇帝となったときに,同年オーストリア皇帝を名乗っていました。1806年に,神聖ローマ帝国内の領邦が,「もうオーストリアには頼れない。〈ナポレオン〉を皇帝として,彼に守ってもらおう」と考え,バイエルン
【慶文H30記】
を中心とし
て
ライン同
盟
【本試験H26】
【本試験H6年代,本試験H8】
【早法H28[5]指定語句,論述(ナポレオン支配からドイツ帝国成立までの経緯を,オーストリアの役割に留意して述べる)】
を結成したため,同年
,
神聖ローマ帝国は解
体
しました
【本試験H14ナポレオンは神聖ローマ帝国を復活させていない】
【本試験H8「ライン同盟結成によって最終的に解体した」か問う】
。滅亡後も,オーストリアは「皇帝」を名乗り続け,もう一人の「皇帝」〈ナポレオン〉と戦い続け,最終的にナポレオンを退位させることに成功したわけです。
「ナポレオン後のヨーロッパの秩序をどうするか」ということで開かれたの
が
ウィーン会
議
【追H20】
です。主導権を握ったのはオーストリアで外相(のち宰相)を務めた
〈
メッテルニ
ヒ
〉(1773~1859)
【追H28アルジェリアに出兵していない】
【本試験H17時期(19世紀後半ではない)・工業化を推進していない】
です。もともと神聖ローマ帝国という"ありがたい"国家の皇帝をつとめていたオーストリアですから,会議の主導権を握ろうとするのも当然です。でも,やっかいなことに〈ナポレオン〉を倒すのに貢献した国は,ほかにもあります。
例えば,ロシアはモスクワ遠征によって,〈ナポレオン〉没落のきっかけをつくりました
。
諸国民戦
争
(1813)では,オーストリア,プロイセン,ロシアが活躍。さらにイギリスはワーテルローの戦いでとどめを刺しましたね。
そして,最後にフランス革命最大の"被害者"であるブルボン家のフランス。フランスの外相
〈
タレーラ
ン
〉(1754~1838)
【共通一次 平1】
は,「ブルボン家はわるくない。自由を叫んだり,王のいうことを聞かないやつらがわるいんだ! フランス革命の起きる前の状態に戻しましょう」という
「
正統主
義
」
【共通一次 平1】
【追H18】
をスローガンにした巧みな外交で,各国の要求をうまく調整して国境線を確定させていきました。
どれかの国の領土が広くなりすぎないように,バランスが重視されました。A国がB国から領土を得たとしたら,B国はC国から領土をもらう。そのかわりに,C国はA国から領土をもらう...というようにです。これのような国際秩序のつくり方を,
「
勢力均
衡
」といいます。しかし,こんなことやっていたら,当然ながらなかなか決まりません。動かないわりには,夜には舞踏会(ぶとうかい)ばかりやって,ぐるぐる回っている。この様子を,当時の参加者が
「
会議は踊る,されど進ま
ず
」
【本試験H31ウィーン会議を風刺したものか問う】
と表現したわけです。
しかし,時代は確実に変化しています。
イギリスでは産業革命(工業化)が起き,商品をつくることで資本(元手となるお金)をふやしていこうとする,新しいタイプの商売人であ
る
産業資本
家
が,政治に参加するようになっていきます。〈ナポレオン〉は,安くて高品質のイギリス製品がフランスの産業を破壊しないように1806年にベルリン
【東京H14[3]】
で
大陸封鎖
令
【東京H14[3]】
【追H24時期】
を発布しました。グローバリゼーション(お金や商品が国境を越え,地球全体に広がっていくこと)は,このときから大きな政治課題になっていたのです。
しかし,ウィーン体制は,こうした「自由にビジネスがしたい!」という声を封じ込めようとしました。自由=よいもの,という考え方は,国内にいる自分の国をもたない民族たちの独立運動を刺激させてしまうのではないかと,各国の君主は恐れたからです。
さて,このウィーン体制は,ヨーロッパに再度革命が起こらないように形成されたものでしたが,産業社会に変化しつつあった当時の情勢を止めることはできず,人々が自由を求める声を止めることはできなくなっていました。
自由を求める思想は,かつてはフランス革命に影響もを与え
た
啓蒙思
想
でした。しかし
,
人間の理
性
を重視しすぎる啓蒙主義の考え方に対しては,反発も生まれるようになっていました。
そこで,「人間の理性によって考え出された『カンペキ』には,どこか『人間味』がない。啓蒙主義は「人間の理性をフル回転すれば,理想の社会がつくれる」と主張したが,これからはもっと
「
感情や個
性
」
【本試験H15時期(18世紀末から19世紀前半ではない(それは古典主義)),H29共通テスト試行】
を重視するべきじゃないだろうか」と考える人々が増えていきました。
このような考え方に基づく芸術・文学を
,
ロマン主
義
【本試験H13写実主義ではない,本試験H15古典主義・自然主義ではない,H29共通テスト試行 古典主義・社会ダーウィニズム・印象派ではない】
【追H21 19世紀の歴史学について,ロマン主義(やナショナリズムの高揚)の影響下に歴史研究が発達したか問う。正しい】
【大阪H31 記述(1822年頃のパリで発売されたカレンダーにみられるギリシアとオリエントの対比を題材に、ロマン主義的の動向について説明させる)】
といいます。
例えば美術では,「民衆を導く自由の女神」
【本試験H4図版(直接的に問うものではない)】
【追H30図版 シャルル10世亡命と関連することを答える】
で知られるフランスの画家
〈
ドラクロ
ワ
〉(1798~1863)
【追H20時期,H30】
が有名です。
人々の血が流れる革命の中に美しい女神が現れる構成からは,見せかけの調和ではなく,おどろおどろしさ
【追H20「人間の醜さや苦悩」】
の中に美を求める姿勢がみてとれます。文学では
『
レ=
ミゼラブ
ル
』
【追H20『戦争と平和』ではない】
で知られるフランスの国民的作家
〈
ユゴ
ー
〉(ユーゴー,1802~85)
【本試験H13リード文の下線部(解答には必要なし)】
【追H20】
,音楽ではポーランド出身の
〈
ショパ
ン
〉(1810~49)が代表格です
(映画「レ=ミゼラブル」(2012英))
。
◆181
5
年ウィーン体制の発足直後
ドイ
ツ
では,イエナ大学などの学生組合
(
ブルシェンシャフ
ト
【本試験H4七月革命の影響ではない,本試験H10カルボナリとのひっかけ】
【本試験H16農民政党ではない・地域】
)が,ドイツの統一・自由を掲げて集会を開いて,現体制を批判しました。初めは黙ってみていたメッテルニヒでしたが,1819年にチェコのカールスバートにドイツ連邦の10政府の代表をあつめて,大学の教育内容の監視や出版物の検閲を決議しました。これ
を
カールスバート決
議
といいます。さらにフランクフルトの連邦議会でその内容を採択しました。
スペイ
ン
スペインでは,軍の将校の
〈
リェ
ゴ
〉(リエーゴ,1785~1823)率いる舞台が1812年マドリードに入城しました。1808~14年のスペイン反乱のときに制定されたカディス憲法の復活を,国王〈フェルナンド7世〉(1784~1833)に要求し認めさせます。彼は憲法を復活させ(1812年自由主義憲法)自由主義的な政府を樹立しましたが,五国同盟がこれに介入しようとしました。しかし,自由主義色のつよくなっていたイギリスがこれに反対して足並みがそろわなくなっていたところに,ブルボン家のフランスがスペインに出兵し,自由主義政府を倒しました。〈リェーゴ〉はマドリードのセバダ広場で絞首刑となりました。
イタリ
ア
分裂していたイタリアでは,秘密結
社
カルボナ
リ
(炭焼党)
【東京H21[3]】
【本試験H10スパルタカス団,ブルシェンシャフト,フェビアン協会ではない
】
【
本試
験H
19】
というグループが活動します。スパゲッティみたいな名前ですが,カルボナーラの語源はまぶされた黒コショウが炭のように見えることから。結成されたのは,ナポリタン,いや,ナポリです。当時のナポリはウィーン体制によってブルボン家となっていました。〈カルボナリ〉は1820年,スペインの自由主義的な動きに刺激されて活動を開始。カルボナリのメンバーだった若手将校が立ち上がって,ナポリに入城しました。「スペインで認められたカディス憲法を,ナポリでも認めてほしい」と主張したカルボナリの内部では,王を廃止するか存続させるかで内部対立が起き,結局翌年にオーストリアが干渉して,失敗に終わりました。
ロシ
ア
ロシアでも,若手の将校が立ち上がりました。国を変えるには武力が必要ですから,いずれの国でも実力行使に出るのは軍,それもまだ地位も名誉もない若手将校が多い。やはり若い頃の感動や衝撃というのは,心にしみつくものです。かつてナポレオンと戦った若手将校が,負かしたとはいえ敵国フランスの先進的な考え方を知れば知るほどに,大きな影響を受けます。かつて〈エカチェリーナ2世〉が啓蒙主義者〈ヴォルテール〉から教えを受けたように,ロシアの貴族や軍人にとっての憧れの対象はフランスでした。「なぜロシアは遅れているのか?」という問いは,今後もロシアを縛りつづけることになりますが,このときの彼らはこう考えます。「ロシアが遅れているのは,皇帝が専制政治をしているからだ。それに農奴制がのこっているから,産業も発展しない」。
しかし,ロシア人以外の民族も支配していたロシアが自由主義をとり,国民の声を聞き始めたら,きっと一気に分裂してしまうおそれもあった。そこで,皇帝は専制政治を崩しません。
しかし,皇帝
〈
アレクサンドル1
世
〉が亡くなると
【本試験H10ナロードニキにより暗殺されたわけではない】
,改革派は12月に武装蜂起を起こしました。このグループは
,
デカブリス
ト
(
1
2
月
党
)
【東京H21[3]】
【本試験H3ナロードニキとのひっかけ,本試験H10ステンカ=ラージン乱,プガチョフの乱,ジャックリーの乱ではない】
【追H20ウィーン体制下ではない】
と呼ばれます。反乱の最中に皇帝に就任した
〈
ニコライ1
世
〉(位1825~55)は,これを鎮圧し,首謀者は絞首刑に,関わったものをシベリアに流します。彼のあだ名は「ヨーロッパの憲兵」。ヨーロッパ諸国で革命運動が起きると,軍を出して干渉するようになります。
なお,この時期にさまざまなジャンルで作品を残し,ピョートル大帝の像をたたえた詩『青銅の騎士』や『オネーギン』
【本試験H15ゴーリキーとのひっかけ】
をはじめ,のちのロシア文学に大きな影響を与えた
〈
プーシキ
ン
〉(1799~1837)が活躍しています。
◆182
0
年
~
183
0
年
ラテンアメリカでスペインとポルトガルからの独立運動が起きるようになるのは,この時期です。〈メッテルニヒ〉はこれを押さえ込もうとしますが,アメリカとイギリスの後押しにより,ラテンアメリカ諸国は無事独立をすることができました。
オスマン帝国
オスマン帝国にも,自由主義・国民主義の考えが飛び火します。当時のオスマン帝国は,バルカン半島全域におよんでいましたが,その多くはスラヴ系の民族でした。
はじめに革命の火の手があがったのはギリシアです。古代ギリシア以来大変ご無沙汰しているギリシアですが,地中海の海上交通の要衝に位置することもあり,マケドニアの〈フィリッポス2世〉以降というもの,ローマ帝国,東ローマ帝国の支配を受け,最終的にオスマン帝国の支配下にはいりました。
「1民族1国家」という国民主義
(
ナショナリズ
ム
)の影響を受けたギリシア人は,かつてのギリシア人の勢力範囲(かつてギリシア人が植民市を建設した地域)に,オスマン帝国
【本試験H12ロシアではない】
から独立しギリシアという国家をつくろうという運動をおこし,1821年に武装蜂起を開始,1822年1月
に
ギリシア独立宣言を発
表
,1829年までつづ
く
ギリシア独立戦
争
【
本試験H3時期を問う(ギリシア独立戦争,エジプト=トルコ戦争,オーストリア=ハンガリー帝国によるボスニア=ヘルツェゴビナの併合の順を問う),
本試験H5】
【本試験H18,本試験H27時期,本試験H31オーストリアからの独立ではない】
となりました。
戦争中にオスマン帝国
【追H29オーストリア帝国とのひっかけ】
が,キオス島というところで20,000人(諸説あり)を虐殺したことを題材にとった作家
〈
ドラクロ
ワ
〉(1798~1863)
【追H29ルノワールとのひっかけ】
は,これを「キオス島の虐殺」
【追H29図版(作者と虐殺した国を問う)】
として展覧会に出品し,ある意味彼は"戦場カメラマン"として,ギリシアの惨状をヨーロッパに伝えることになったのです。当時のヨーロッパでは,自国の文化の源流がギリシアにあるんじゃないかというロマン主義的な風潮が流行していましたし,何もわるいことをしていない一般市民がイスラーム教徒によって攻撃されていることに義憤を燃やした人々が,義勇兵としてギリシアに向かいました。
『チャイルド=ハロルドの遍歴』『ドン=ジュアン』で知られるイギリスのロマン主義
【本試験H10写実主義ではない】
の詩人
〈
バイロ
ン
〉
(1788~1824)
【本試験H3ロビンソン=クルーソーの著者ではない,本試験H10】
【本試験H16イギリスのロマン主義かを問う,本試験H18トゥルゲーネフではない】
もギリシア救援に向かった一人
【本試験H18】
。結局彼は熱病にかかってなくなっていますが,ギリシアの激戦地では,彼の慰霊碑に今でも花がたむけられています(〈バイロン〉と交流のあった女性作家に『フランケンシュタイン』(1818)で知られる〈シェリー〉(1797~1851)がいます)。
1827年,ナヴァリノの海戦(ペロポネソス半島の西南部)で,オスマン帝国・エジプトの連合軍を,イギリス・フランス・ロシアがギリシア側にたって撃破し,1829年にアドリアノープル条約でギリシアの自治を承認させました。結局,イギリス・フランス・ロシアは,ロンドン会議で,ギリシアの独立を正式に認めました。ここにはプロイセンとオーストリアは入っていません。
イギリス
【本試験H5】
・フランス
【本試験H5】
・ロシア
【本試験H5】
も,「ギリシアがかわいそうだから」助けたわけではなく,「助けておけば,独立した後で,いうことをきかせることができる」という思惑あってのことです。イギリス・フランスは地中海からインド洋に向かう通商路の中継地点を確保したいという思惑があり,ロシアにとっては南下の足がかりを得たいという思惑があったのです。
◆183
0
年 フランス七月革命
ウィーン体制ではフランスにブルボン朝が復活し,〈ルイ18世〉が即位しました。〈ルイ16世〉の息子〈ルイ17世〉はフランス革命中にタンプル塔に閉じ込められ,わずか10歳で病死していました。過酷な虐待を受けていたといわれています。〈ルイ18世〉は,フランス革命が勃発すると,神聖ローマ帝国の選帝侯の一つであるトリール大司教のもとに亡命し,難を逃れていました。
〈
ル
イ
1
8世
〉
【本試験H13ルイ16世ではない,本試験H14時期(統領政府以降の政体の変遷を問う)】
はフランス国王に即位すると,選挙権を全国民の0.3%に限定する制限選挙を実施します。一般民衆が政治に関わることに対するアレルギーがあるのですね。また,自分と同じように海外に亡命していた王侯貴族を暖かく迎え,革命前の絶対王政をふたたび復活させようとしました。
〈ルイ18世〉の次代は,弟の
〈
シャル
ル
1
0世
〉
(位1824~30)
【追H28メッテルニヒとのひっかけ】
【本試験H4】
【本試験H23ルイ=フィリップとのひっかけ】
【追H30】
が国王に即位しました。彼は即位すると厳しい制限選挙をしき,絶対王政を復活させようとしたので,国内の自由主義者の反発を受けます。
〈ポリニャック〉首相(任1829~30)の反動的な政策への批判も高まると,批判を逸らすため
に
アルジェリアに出
兵
しました
【追H28メッテルニヒの施策ではない】
【本試験H5】
。マグレブ地方の住民の多くはアラブ系やベルベル系で,テュルク(トルコ)系は少数派でした。古くからマグレブ地方で商業活動に従事したユダヤ教徒のほか,キリスト教諸国のレコンキスタ(再征服運動,国土回復運動)でイベリア半島を追われたユダヤ教徒(1492年のスペインのユダヤ教徒追放令)やイスラーム教徒も移住していました。フランスの進出に対し,アラブ系の
〈
アブ
ド=
アルカーディ
ル
〉がアラブ系とベルベル系を率いて1832~1847年まで激しく抵抗しました。
アルジェリア出兵後も民衆の不満はおさまらず1830年にパリで革命が起き,倒されました
(
七月革
命
)
【セ試行 二月革命とのひっかけ】
【本試験H12】
【本試験H13時期(1802~85),本試験H23ルイ=フィリップが廃位されたわけではない】
。新たに王に選ばれたのは,ブルボン家の遠い親戚にあたるオルレアン家の
〈
ル
イ=
フィリッ
プ
〉(位1830~48)
【本試験H4】
【本試験H23】
【追H18】
【立教文H28記】
です。
〈ルイ=フィリップ〉による王政
を
七月王
政
といいます
【本試験H12「共和政が実現するには至らなかった」か問う】
【本試験H14時期(統領政府以降の政体の変遷を問う)】
【追H30ドラクロワの絵画の関連を問う】
。
彼を持ち上げたのは銀行家たちでした。銀行の頭取(とうどり)レベルの大金持ちだと思ってください。王権神授説をとらず,自分は「フランス国民の王」だとアピールし期待を集めたのですが,しだいに批判的な勢力が拡大していきました。
七月革
命
の影響は
,
ポーラン
ド
,ポーランドと同君連合を組んでい
た
リトアニ
ア
にも波及しました。当時の両国は,事実
上
ロシ
ア
の支配下にありました
【共通一次 平1:ワルシャワ大公国ではなく,ポーランド立憲王国だった】
。ロシア皇帝がポーランド王を兼ねる同君連合
(
ポーランド立憲王
国
【本試験H5国王はロシア皇帝が兼ねたか問う】
)だったのです。
ここで1830年
に
十一月蜂
起
ともいわれ
る
ポーランド・リトアニアにおける反
乱
【追H18】
がおきます。しかし,ロシア皇帝兼ポーランド王
〈
ニコライ1
世
〉による鎮圧を受け,多く
の
ポーランド
人
や
リトアニア
人
が祖国をあとにしました。当時ウィーンに滞在していたロマン派のポーランド人作曲家
〈
ショパ
ン
〉(1810?~1849)も,風当たりが強くなってフランスのパリに避難し,その地で反乱失敗の知らせを聞きます。翌31年に仕上げた
『
革命のエチュー
ド
(練習曲)』は,この悔しさと怒りに基づくものだとも言われています。この時代以降,多くのポーランド人やリトアニア人が,アメリカ合衆国にも移住しています(現在のアメリカ合衆国の人口の3%がポーランド系です)。
スペイ
ン
ではブルボン家の〈フェルナンド7世〉(位1808,1813~33)による反自由主義的な政治が続いていましたが,彼が死去すると王位継承問題に加えスペインに自由主義を導入するかしないかをめぐっ
て
カルリスタ戦
争
(1833~76)という三度の内乱が勃発しました。
ドイツ連邦の中では
,
ザクセ
ン
と
ハノーファ
ー
で
立憲君主
政
が樹立されています。
・
181
5
年
~
184
8
年のヨーロッパ 中央ヨーロッパ
現⑦
ドイツ
時代のまとめ
(1) 「産業革命」の進展により成長し
た
産業資本
家
と
労働者階
級
が対立したが
,
自由主
義
を唱える前者が国家権力とも結び付き成長していった。
(2) 「産業革命」の進展ととも
に
国民国
家
が形成されたが,国家建設をめざす民族の運動
(
ナショナリズ
ム
)の多くは実現しなかった。
【大阪H30論述:人口調査(センサス)の手法が確立されていったのが,1848年革命以降であることを踏まえ,欧米各国で人口調査が確立されていった背景を,国民国家の形成と関連づけて述べる問題。産業社会の成立と国民国家の成立を背景に,納税・徴兵制・初等教育の確立のため個人の掌握,国民意識・国語統一のため母語・民族意識の調査が必要になった旨を述べる】
解説
アメリカ合衆国で
は
南北戦
争
を経て産業革命(工業化)を達成。中央アメリカ・南アメリカではイギリスの資本に対する従属が進む。
東南アジアでは,ヴェトナムがフランスの進出を受け,マレー半島から島しょ部にかけてはイギリスとオランダが進出,ビルマはイギリスが進出している。中国ではアロー戦争の敗北により新たな開港・不平等条約の締結を迫られる。南アジアのインドではイギリス支配に対す
る
インド大反
乱
【東京H20[1]指定語句】
【本試験H8】
が鎮圧され,ムガル帝国が滅亡した。西アジアではオスマン帝国領内
の
東方問
題
が激化し,ロシア帝国の南下を阻止するヨーロッパ諸国がイギリスを中心に介入し,ヨーロッパ諸国間に軍事同盟が締結されていく。
アフリカの探検も進展し,イギリスは南アフリカのケープ植民地で先住のオランダ
系
ボー
ア
〔アフリカーンス
〕
人
を圧迫する。
西ヨーロッパを中心
に
国民国
家
への統合が進み,非ヨーロッパ世界の秩序にも影響を与えた。イタリアは統一運動により1861年に建国
(
イタリア王
国
),ドイツでもプロイセンを中心に統一運動が進み,末期にフランスとの戦争後
に
ドイツ帝
国
を建国する。
◆
西ヨーロッパを中心に国民国家への統合が進み,非ヨーロッパ世界の秩序にも影響を与える
西欧を中心に,国民国家への統合が進む
この時期は,15世紀半ば以降に世界の各地域に形成されていた広域的な政治的秩序が,ヨーロッパで形成されていった
「
国民国
家
」
(内部の住民を,まとまった「国民」に統合していくことにより成り立たせる主権国家)
によってバラバラに再編されていく時期といえます。
ヨーロッパでは,すで
に
産業革
命(
工業
化
)
を達成していたイギリスに続き,フランス,ベルギー,オランダといった西ヨーロッパの諸国で工業化が進展していきました。イギリスは自由貿易のルールを世界各地に要求して物流ネットワークを拡大させていき,多くの地域が西ヨーロッパを頂点として経済的な"役割"を分担しているような形に編入されていきました
(
垂直的な分業体
制
といいます)。
アメリカ合衆国の歴史社会学者の〈ウォーラーステイン〉(1930~)は,この様子を,西欧を中心とする「世界 = 経済」(world-economy)が,旧来のユーラシア大陸の「世界 = 帝国」(world-empire)
を
包み込んでい
く
過程ととらえ,しだいに現在につながる「近代世界システム」(the modern world-system)が形成していったのだと1970年代に主張し,強い影響力を持ちました。
しかし,19世紀末にかけて「ヨーロッパ」が主導することで地球全体にグローバルな物流ネットワークが広がっていくのはたしかですが,非「ヨーロッパ」地域であるアジア,アフリカ,アメリカ,オセアニアが受け身の立場
で
包み込まれていっ
た
わけではありません。
「
国民国
家
」に再編されつつあったヨーロッパ諸国は,15世紀半ば以降に世界各地に生まれていた秩序に影響を与え,それに対し非「ヨーロッパ」地域の国家や非政府組織はさまざまな対応を試みていくことになるのです。
ある国家は,西ヨーロッパ諸国の「国民国家」の考え方を受け入れ「近代化」を果たし,またある国家は外圧に押されて政治的な干渉を受けることになります。この過程で,西ヨーロッパの国民国家は,ヨーロッパの外部に支配を拡大させ,やがて
「
帝
国
」を形成していくことになるのです。
非「ヨーロッパ」地域の諸国家は西ヨーロッパ諸国から借款(しゃっかん)を受けたり,資源供給・市場開放したりすることで経済的に従属していきます
(注
)
が,特に東アジア・東南アジアでは工業化に成功し
た
日
本
や華僑(中国系住民)やインドの商人を中心に,アジアの域内貿易を次第に活性化させていきました。
(注)例えば,イギリスが南アメリカのアルゼンチンの農牧業の産品・加工品の輸出を通して,経済的な影響力を強めていたことを,「イギリスはアルゼンチンを植民地として取り込んだ(公式帝国(formal empire)に取り込んだ)のではなく,経済的な勢力圏に取り込んだ(非公式帝国(informal empire)に取り込んだ)と説明する研究者もいます。
ヨーロッパ内の地域では1848年~49年の自由主義・民族主義的な運動が起き,多くが成果を挙げられなかったものの,さまざまな民族を支配する帝国に対する揺さぶりが始まっていきました。
また,資本主義に対抗する思想として多様な社会思想が芽生えましたが,なかで
も
社会主
義
を推し進めて最終的には階級や国家を消滅させようと考えた〈マルクス〉(1818~1883)
の
共産主
義
が注目されました。
この時期に南北戦争("内戦",1861~65)を経験したアメリカ合衆国は南北戦争を経て国家と市場の統一が進み,急速な経済成長を遂げました。西部開拓が進み太平洋側にも進出をしたことで,北アメリカ大陸の東西沿岸に広がる広大な国家に発展していくことになります。
ヨーロッパやアメリカ合衆国では,自然科学の研究成果が次々に技術に応用され,その多くが植民地支配に利用されていきました。社会科学の知識もヨーロッパ(特に西ヨーロッパ)が優れているという思想に利用され,非ヨーロッパの国・地域が劣っているという思想も形成されていきます(本文
の
社会ダーウィニズ
ム
を参照)。
中央アメリカ・カリブ海・南アメリカの諸国では,スペインに代わってイギリスに対する経済的な従属が進んでいきました。国内では,しばしば社会的に上層に位置する白人系(アメリカ大陸生まれの白人系住民
。
クリオーリ
ョ
)が権威主義的な支配体制を確立し
,
自由主
義
派により国外の資本と結びついた一次産品の輸出が目指されますが,それに反対す
る
保守主
義
派との対立も深まっていきます。
アジア諸国はヨーロッパによる従属が強まり,イギリス・フランス・オランダ・ロシアを中心に植民地・勢力圏が広げられていきました。その一方で,南アジアのインドや,東南アジアの植民地を含めたアジアの地域内交易は,急速な近代化に向かっていた日本
(
日本の近代
化
)の積極的な参入もあり,ますます活況を呈していくこととなります。
中央ユーラシアではロシアの東方進出と南下に対し,海上覇権を握るイギリスが対立をはじめ,内陸部の遊牧民の政権の多くがロシアの従属下に入っていきました。この対立を中央ユーラシアをめぐるイギリスとロシアの
"
グレー
ト=
ゲー
ム
"ともいいます。
オセアニアではオーストラリアとニュージーランドがイギリスによって国際経済に結び付けられ,島しょ部に対するヨーロッパ諸国の進出も本格化していきます。
アフリカではヨーロッパ諸国による中央部の探検が本格化し,内陸部の領域支配が強まると,各地の政権や住民による抵抗運動が起きています。
○184
8
年
~
187
0
年のアメリカ 北アメリカ
・
184
8
年
~
187
0
年のアメリカ 北アメリカ 現①アメリカ合衆国
◆
1
アメリカ合衆国の金と石油が,世界に大きな影響を与えた
アメリカで金と石油が見つかり,西部拡大が加速
金と石油。この時期にアメリカ合衆国で発見されたこの2つの鉱産物が,世界に大きな影響を与えることになります。
まずは金(きん)。
1848年には,カリフォルニア州で金鉱山が発見され,多くの人が一攫千金をもとめて押し寄せ
る
ゴール
ド=
ラッシ
ュ
が起きました。噂を聞いて集まった人々が着いた頃には,すでに取り分はほとんどなく,"あと(18
49
年)からやってきた奴ら"ということで,彼らは"フォーティーナイナーズ"とからかわれました。
この頃,日本の漁師
〈
ジョン萬次
郎
〉(中濱萬次郎,なかはままんじろう,1827~1898)は,出漁中に遭難して伊豆諸島の鳥島(とりしま)に漂着し,1841年にアメリカ合衆国の捕鯨船に救出され,船長の保護の下,マサチューセッツ州で英語で多くの学問を修めました。彼は帰国資金を得るために1850年にカリフォルニア州にわたり,ゴールド=ラッシュの恩恵を受けています(1851年にハワイ経由で帰国)
。
現在
の
カリフォルニ
ア
,ネヴァダ,ユタ,アリゾナ周辺は,メキシコから買収され,アメリカ合衆国の領土となっています。
次は
,
石
油
。1859年に〈ドレーク〉大佐(1819~1880)という人物が,ペンシルヴァニア州のタイタスビルで油田を採掘しました。初めはエンジンのような動力向けの使用ではなく,ランプに使用するものでしたが,19世紀末に自動車のエンジンが発明されると,"石油の世紀"といわれる20世紀の幕開けとなります。
西部への進出は
,
インディアン戦
争
も激化させました。1862年に
は
ナバホ
人
が沙漠に強制移住させられ,1868年に故郷に帰ることを許されますが,すでに住み着いてい
た
ホピ
人
との間の争いが始まります。1864年には,コロラド州で無抵抗のシャイアン人らが襲撃される
,
サンドクリークの虐
殺
が起きています。
◆
2
アメリカ合衆国は太平洋に進出し,琉球王国と日本を開国させる
アメリカは捕鯨と市場獲得のため,太平洋を超える
新たにカリフォルニアを獲得したアメリカ合衆国。
北東アメリカにいるロシア帝国
(
アラス
カ
にいます)の進出に対抗してラッコなどの毛皮交易を支配下に置きつつ,中国市場をにらんで,北太平洋蒸気船航路の実現が構想されました
(注
)
。
そのため,太平洋に展開す
る
海
軍
の建設が急がれました。
蒸気船による艦隊の司令官となったのが,
〈
マシュ
ー=
ペリ
ー
〉(1794~1858)。希望峰まわりでマラッカ海峡を通っ
て
琉球王
国
に通商を要求しつつ,
1853年,54年の江戸時代末期の日本に「開国」を要求しにやって来ます。アメリカが日本を必要としたのには「捕鯨の基地を獲得するため」「中国との蒸気船航路の石炭補給地を確保するため」といった動機がありました
。
しかし,それと同時にアメリカが西に拡大すればするほど不安要因となったのは,ロシア帝国
が
アラス
カ
を領有していたことです。モンロー宣言には,ロシアが北アメリカ太平洋側に南下することへの牽制(けんせい)という意味合いもあったのです。
(注)後藤敦史「18~19世紀の北太平洋と日本の開国」,桃木至朗・秋田茂『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会,2013,p.186。
1854年
に
日米和親条
約
【セA H30時期】
,1858年
に
日米修好通商条
約
【東京H20[1]指定語句】
が締結されました。日米修好通商条約を締結した駐日公使〈ハリス〉は,1850年に南鳥島での漂流中にアメリカ船に救助されアメリカ国民となっていた〈ジョゼフ=ヒコ〉(浜田彦蔵,1837~97)を神奈川領事館の通訳として採用しています
。
◆
3
西漸運動によりインディアン諸民族の居住地を奪い,ヨーロッパ諸国からの移民を受け入れた
西部のインディアンを追放し,新移民を受け入れる
アメリカは西へ西へと領土を広げていきました
(
西漸運
動
といい,その最前線
を
フロンティ
ア
といいます)が,先住民のインディアン諸民族の居住地を奪いながらの拡大で,インディアンは指定された保留地に移動を余儀なくされたのでした。
白人の圧倒的な支配を目の当たりにしたインディアン諸民族は,救いを信仰に求めました。1869年には西部のパイユート人の予言者が「ゴースト=ダンスを踊れば,死者がこの世に戻り,白人を追い出してインディアンの社会が復活される」と説き,インディアン諸民族の間で大流行します。
"内向き"なアメリカは,ヨーロッパからの移民の受け入れをストップしたわけではありません。初期の移民は,イギリスやドイツからの移民(旧移民)が多かったのですが,だんだんとイタリアなどの南欧,東欧,ロシアからの移民
(
新移
民
)
【追H20時期(19世紀前半ではない。19世紀後半である)】
が増えていきました。 旧移民はプロテスタント(新教徒)が多かったのに対し,新移民は,南欧はカトリック,東欧・ロシアは正教会やユダヤ教徒が多く,アメリカは多様な宗教とルーツをもつ人々の集まりになっていったわけです。やがて,カトリックであるアイルランド系の人々も1840年代
の
ジャガイモ飢
饉
【東京H7[3],H19[1]指定語句「アイルランド」】
【H29共通テスト試行】
(大飢饉;アイルランド語でアン=ゴルタ=モー(An Gorta Mór);英語でThe Great Famine)をきっかけに拡大します。原因は,ジャガイモの伝染病(アメリカ起源のジャガイモ疫病)の流行です
(注
)
。
(注)伊藤章治『ジャガイモの世界史―歴史を動かした「貧者のパン」』中公新書,2008,p.61。感染が爆発的に広まった一因として,収量の多い品種に偏って栽培されていたため遺伝的多様性が低かったことが挙げられています(チャールズ・マン,鳥見真生訳『1493〔入門世界史〕』あすなろ書房,2017,p.158)。
代わりに穀物(パン)をイギリスから輸入しようとしたのですが,1815年に地主
【追H30産業資本家ではない】
を保護するために
【本試験H5自由貿易主義に則り輸入を促進するためのものではない】
制定されてい
た
穀物
法
【本試験H2時期(18世紀末の制定ではない),本試験H5】
のせいで価格が高くなっており,手に入れることができなかったのです。その上,賃料が払われないとの理由で,地主から土地を奪われる者も多く,事態は余計に悪化。イギリス政府(保守党の〈ピール〉首相(任1834~35,1841~46))も,アイルランドに対して根本的な対策を講じようとはしませんでした。
アイルランド人のうち20%(80万人から100万人)が餓死・病死し,200万人が島外に移住したとみられます。その子孫の一人が,ケネディ家です。パトリックは事業に成功して下院議員となり,その子〈ジョゼフ〉は〈フランクリン=ローズヴェルト〉に実業家として資金提供,そのまた息子は大統領にのぼり詰めます(
〈
ジョ
ン=F=
ケネデ
ィ
〉(任1961~63))(『タイタニック』(1997米)には〈モネ〉(1840~1926)の絵を所有する主人公のジャックとローズが,二等船室のアイルランド人たちと踊り騒ぐシーンが出てきます。なお豪華客船タイタニックは1912年に沈没しました)。
こうした,多くの移民を受け入れるとともに,民主化もすすんでいきます。
〈
ジャクソン大統
領
〉(任1829~37)は男子普通選挙を導入。ヨーロッパと比べると,驚くべき早さでの実現です。
◆
4
アメリカ合衆国独自の文学,音楽,思想が発達した
「アメリカ」文化が成長する
長い伝統を持たないアメリカ合衆国でも,しだいに独自の文化が生み出されるようになっていきます。
音楽ではアイルランド移民系の
〈
フォスタ
ー
〉(1826~64)が,アメリカ南部をテーマに黒人ゴスペル風のヒット曲「おおスザンナ」(1848)「スワニー河」(1851)などの親しみやすい歌を書きました。当時は,白人が顔を黒塗りにするミントレル=ショーという見世物が人気で,黒人の文化を取り入れて,新しい芸術をつくろうという動きがあったのです。
また,文学では
〈
ホーソ
ン
〉(1804~64)は『緋文字』(ひもじ),
〈
ホイットマ
ン
〉(1819~92)の『草の葉』が作られました。〈ソロー〉(1817~62)は『森の生活』野中で,物質文明と距離を置き,自然と調和した暮らしの魅力を伝え
,
エコロジー思
想
や
自然保護運
動
の先駆となりました。手付かずの大自然の残されていたアメリカならではの気づきでしょう。
◆
5
経済制度・奴隷制をめぐる南北対
立
【共通一次 平1
】
が,南北戦争に発展した
南北戦争を経て,西部を含む国民統一に向かう
さて,アメリカ合衆国の本格的な工業化は
,
南北戦争
【東
京
H10[1
]
指定語
句
,H20[3
]】
【H30共通テスト試行 アテネの内戦ではない】
【早法H30[5]論述(南部・北部の状況)】
という内戦により,北部の白人(アメリカ大陸生まれの白人
(
クリオーリ
ョ
))が主導する形で達成されることになりました。
南北戦争の背景には,北部と南部の政治・経済状況の違いがありました。
北
部の諸州は,産業革命
【早法H30[5]指定語句】
を達成したイギリスの技術を導入し,工業中心の経済となっていました
。
南
部は18世紀末以降
,
綿花プランテーショ
ン
【東京H20[1]指定語句】
【追H9 19世紀前半の南部で綿花が主要な輸出品であったか問う】
【本試験H27】【H30共通テスト試行 統計読み取り(綿糸価格が低下していった理由の一つが「
アメリカ合衆国
」(インドではない)の「
黒人奴隷
を大農園で働かせる制度」(農奴ではない)であることを推論する】
【上智法(法律)他H30】
が経済の中心で,北部にとっては自由
な
労働
者
が,南部にとって
は
奴
隷
【本試験H14】
【早法H30[5]指定語句「奴隷制」】
が欠かせませんでした。
北部の工場主たちは「奴隷を働かせるよりも,働きたい人を自由に募集して雇ったほうが,コストがかからない」と考えていましたし,南部が奴隷制をとっているせいで南部の黒人を労働力として使えないことに,不満をもっていたのです。また,イギリスに工業化で遅れをとっている北部にとっては輸入品に関税をかけたいところ
(
保護貿
易
)
【本試験H3・本試験H12南部は「保護貿易」を主張していない】
【上智法(法律)他H30】
。しかし南部にとっては,綿花のお得意様であるヨーロッパ諸国と自由な貿易関係を維持したいだけでなく,イギリス製の安くて質の良い鉄鋼や綿織物がほしい
(
自由貿易
【東
京
H10[1
]
指定語句「自由貿易主義」
】
【本試験H3・本試験H12南部は「保護貿易」を主張していない】
【本試験H14】
【早法H30[5]指定語句】
)。
統一的な保護貿易を行うために,北部は連邦政府の力を強くす
る
連邦主
義
【本試験H3】
【早法H30[5]指定語句】
をとりますが,南部はそれをきらって州の自治
【上智法(法律)他H30】
を大幅にみとめ
る
州権主
義
【本試験H3】
をとります。
北部と南部の諸州には,ざっとみてもこれだけの対立点があり,北部は共和党
【本試験H3】
支持者,南部は民主党
【本試験H3】
支持が優勢となっていったのです。
さて,アメリカ合衆国の西部では,人口が増え新しい州を設置する際に,その州で奴隷制を認め
る
奴隷
州
【東京H25[1]指定語句】
【上智法(法律)他H30】
とする,認めな
い
自由
州
とするかを決めることになっていました。
だからこそ北部と南部の州は,競うように西部開拓をすすめていったのです。なぜそれが大問題になるのか?
それはアメリカ合衆国の連邦政府のうち,上院は各州から2名ずつが均等に議員に選出されることになっていたからです。奴隷を認める奴隷州と,禁ずる自由州の数が同じなら,アメリカ合衆国としての意見は拮抗(きっこう)して結論が出ぬまま終わるわけですが,どちらかが増えてしまうと大問題なわけです
(映画「それでも夜は明ける」(2013米英)には1841年にワシントンD.C.で誘拐され南部で売られた自由身分の黒人の実話を基にしています)
。
奴隷制度廃止運動も活発化し,南部から北部やカナダに奴隷を移送する組織
「
地下鉄
道
(地下鉄組織)」(Underground Railroad,本当に地下に道があったわけではありません)が奴隷の解放に寄与しました
(これを支援した黒人女性〈ハリエット=タブマン〉(1820?~1913)は出エジプトの〈モーセ〉とも呼ばれ,2020年に黒人女性初のアメリカ合衆国紙幣(20USD)の顔となる見込みです)
。1859年には白人の運動家〈ジョン=ブラウン〉(1800~1859)がヴァージニア州で反乱を起こし,同年に処刑されています。
かくして,運命の時がやってきます。
1860年の大統領選挙では民主党の候補が分裂した影響で,奴隷制に否定的な
【本試験H12奴隷制擁護を唱えていない
】
共和
党
【本試験H9】
から立候補した
〈
リンカ
ン
〉(任1861~65)
【本試験H9共和党か問う】
【セA H30初代大統領ではない】
が当選したのです。
彼は,翌年3月の就任演説で「南部諸州に直接的にも間接的に干渉するつもりはない」と訴えました。しかしそのかいもなく,彼の当選に反対する
南部
11州
【本試験H12カリフォルニア州は南部の側についていない(カリフォルニア州は自由州)】
【追H18「北部諸州」ではない】
【上智法(法律)他H30「南部諸州」】
はアメリカから離脱して1861年
,
アメリカ連合
国
(南部連合(Confederate States of America))
【上智法(法律)他H30】
をリッチモンド
【本試験H14北部の首都ではない】
【上智法(法律)他H30】
に建て,やり直し選挙の結果
〈
ジェファーソ
ン=
デイヴィ
ス
〉(任1861~65)が当選しました。
〈リンカン〉は丸太小屋に生まれ,ほとんど正式の教育を受けることはありませんでした。イリノイ州で雑貨屋を経営したり,郵便局長をしたりしながら法律を学び,弁護士を開業した苦労人です。1856年に共和党に入って,1858年には上院議員選挙で落選をしましたが,民主党のダグラスとの討論会で有名となり,1860年の大統領戦争に当選しました。選挙キャンペーン中に,少女からの「ヒゲを生やした方がかっこいい」という手紙をきっかけにあごひげを蓄えるようになった逸話が有名です。
奴隷制廃止運動の機運をつくりあげたといわれるベストセラー
『
アンク
ル=
トムの小
屋
』(1851~52)
【本試験H8コモン=センスではない】
【本試験H26】
の著者,
〈
スト
ウ
〉
(1811~96)
【本試験H8コモン=センスではない,H12「ストウ夫人(ハリエット=ビーチャー=ストウ)が奴隷制廃止ロンギに大きな影響を与えた」か問う】
【本試験H26ヘミングウェーではない】
は,南北戦争中に〈リンカン〉のもとを訪れています。リンカンは歓迎して,社会を大きく動かした夫人をたたえたといいます。この本は南部のほとんどの州で禁書となっています
(注
)
。
(注)亀井俊介『アメリカ文化史入門―植民地時代から現代まで』昭和堂,2006,p.100。
北部の〈リンカン〉大統領は,1862年に
は
ホームステッド
法
【東京H7[3]】
【本試験H3】
【本試験H18西部開拓が進展したかを問う・H23,本試験H26男子普通選挙とは関係ない】
【上智法(法律)他H30】
により,開拓した農民に無償で土地にを与えることを定め,西部の人々の北軍
【上智法(法律)他H30】
への支持を取り付けます。約800メートル四方(160エーカー)の土地を開拓し,そこに5年続けて住めば与えられるというもの。碁盤(ごばん)の目のように土地割りがされた名残が,今でもアメリカ合衆国の中西部に残されています
(
タウンシップ
制
といいます)
(注
)
。
(注)なお,1861年にはカンザス,アイオワ,ネブラスカでジャガイモのち上部分を葉脈と茎を残して食べ尽く
す
コロラドハム
シ
(北アメリカ原産)という甲虫が猛威をふるっていました。1870年には中西部に広がり,のち大西洋岸に拡大します(1877年にドイツでも確認)。この駆除には,ヒ素と銅の化合物パリスグリーンが用いられましたが,この農薬自体も人体に有害であったことに加え,1912年以降は耐性を持つ昆虫も出現するようになります(チャールズ・マン,鳥見真生訳『1493〔入門世界史〕』あすなろ書房,2017,p.160)。
さらに,イギリスが南部を支援する可能性が浮上したことから,〈リンカン〉
【本試験H26ラ=ファイエットではない】
は1863年に
は
奴隷解放宣
言
【本試験H12南北戦争中にリンカンが出したか問う】
【本試験H26,H29共通テスト試行 奴隷解放宣言の結果,南北戦争がはじまったわけではない、H30共通テスト試行 「国を二分した内戦の中」のアテネで出されていない】
【上智法(法律)他H30大統領就任に際して発したわけではない】
を発表し,南部の奴隷(黒人だけでなく混血の人々も含む)は解放されました。しかし,じつは北部にも奴隷州がありましたが,そこでは解放はされませんでした。〈リンカン〉も実際には奴隷解放論者ではなく,「奴隷制はいけない」という人道的な理由を持ち出すことで,イギリスやフランスが南部を支持しにくくするためのものだったと考えられます。もともとの理由は「保護貿易vs自由貿易」「奴隷制廃止vs賛成」という経済的な理由だったんですけどね。
◆
6
戦後,北軍は南部を占領し制度を改革するが,撤退後は南部で黒人差別が再強化される
戦後も,黒人差別はなくならず
1863年に〈リンカン〉大統領
【追H29】
がペンシルヴェニア州
の
ゲティスバー
グ
(北軍が敗退した激戦地
【本試験H14】
)で行った戦死者を追悼する演説は,アメリカ国民に今なお語り継がれる名文句「Government of the people, by the people, for the people
(
人民の人民による人民のための政
府
)
【追H29リンカンによるものか,この演説が南北戦争中か問う】
」を残しています。
南北戦争での死者数は約62万人。
第一次世界大戦のアメリカ人の死者は11.2万人。
第二次世界大戦のアメリカ人の死者は32.2万人。
なんと,二度の大戦を合計するよりも多くのアメリカ人が,亡くなっているのです。
戦争は結果的に北部の勝利で終わり,アメリカ合衆国分裂の危機は回避されました。しかし,これだけ多くの国民が亡くなったからこそ,新しい国家はどうあるべきかを訴える必要性があったからこそ,〈リンカン〉は『戦うことにより,自由の精神をはぐくみ,自由の心情にささげられたこの国家(=アメリカ合衆国)が,あるいは,このようなあらゆる国家が,長く存続することは可能なのかどうかを試しているわけである』と訴え,『これらの戦死者の死を決して無駄にしないために,この国に神の下で自由の新しい誕生を迎えさせるために,そして,人民の人民による人民のための政治を地上から決して絶滅させないために』
(注
)
,この土地を守り抜こうと訴えたのです。
こうした使命感を抱く北部は,敗れた南部を1877年まで占領することになるのです。
(注)「ゲティスバーグ演説 (1863年)」,アメリカンセンターJAPAN https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/2390/
南部では黒人に対し「自由」を与える政策が実施されます。
しかし,土地を獲得した黒人は少なく,獲得できたとしても小区画に分けられ,農機具・種子・肥料・住居・が貸し出されるものの,収穫の一定の割合を地主に納める
【上智法(法律)他H30】
分益小作人
(
シェ
ア=
クロッパ
ー
【上智法(法律)他H30】
)として貧しい生活を強いられます
【本試験H3「自立的な生活が営めるようになった」わけではない】
。これをシェア=クロッピングといいます。プランター(地主)にとっては,かつての奴隷だった黒人を「労働者」として現物支給で雇うことができるし,黒人にとっては自分の住居に住んで自分の区画を耕せるということで,Win-Winのようですが,長い間奴隷身分であった黒人が身の回りのものを揃えるのには,どうしてもプランターから予定される収穫物をカタにして,利子つきのツケで商品を借りる必要がありました(注:クロップ=リーン制)。これでは実質的な独立は保障できませ
ん
(
注1)
。
負けた側の南部も,北部に対する反感はなくなったわけではなく,現在でもミシシッピ州やフロリダ州の旗を見ると,アメリカ連合国の旗のデザインが組み込まれていることからもわかります。
〈リンカン〉大統領によって1863年に出されてい
た
奴隷解放宣
言
によって,黒人(混血の人々も含む)は奴隷ではなくなりました。南部が北部に復帰する前の1865年には,憲法修正第13条が批准され,憲法においても奴隷制が廃止されました(このときまで北部には2州だけ奴隷制を認めていた州がありました)
【本試験H9共和党・民主党の議会討論を通じて廃止されたわけではない】
。1868年には憲法修正第14条で市民権,1870年に第15条で選挙権も与えられています
【本試験H12「南北戦争の結果,アメリカでは,黒人とともに女性も選挙権を獲得した」わけではない】
。
北部では戦後,黒人の状況を改善する施策も導入されましたが,1867年の州選挙のころから雲行きが怪しくなり,北部諸州で共和党に代わって民主党が大幅に進出するようになります。1868年の大統領選挙は,南部の黒人の「自由」をめぐる戦いとなり,テロ組織(クー=クラックス=クラン〔KKK〕)による選挙妨害も起こります。結果として北部の共和党候補〈グラント〉(任1869~)が圧勝しまし
た
(
注2)
。
1883年に連邦最高裁が「各州には憲法修正第14条よりも強い権限がある」という判決を出して以降,南部の諸州
は
白人と黒人を分離する州
法
(いわゆるジム=クロウ法)
【上智法(法律)他H30】
を制定していったため,バス,鉄道,学校,食堂などの公共交通・公共施設で黒人・白人を隔離したり,選挙権
【上智法(法律)他H30被選挙権だけではない】
・被選挙権が制限され,黒人差別はその後も根強く残りました
【共通一次 平1「黒人への差別や迫害は根強く残った」か問う】
。
(注)紀平英作『新版世界各国史24 アメリカ史』山川出版社,1999年,p.203。
(注)紀平英作『新版世界各国史24 アメリカ史』山川出版社,1999年,p.202。
こうして,南北戦争後のアメリカ合衆国では,南部と北部の白人どうしが和解をし,黒人を排除しつつ国内市場が統一されていきました。産業革命(工業化)が進展し,19世紀末に
は
イギリスやドイツを抜く世界最大の工業
国
となりました。
自動
車
の発明
【本試験H7年代を問う】
で石油への需要が高まり,アメリカ合衆国では1859年
に
原油の機械掘
り
が始まり,"黒いゴールドラッシュ"の時代を迎えます。
1867年に
は
アラスカをロシアから買
収
【本試験H29カナダが買収したのではない】
【追H24】
し,ロシア帝国による北部からの脅威はなくなりました。
1869年に敷設され
た
大陸横断鉄
道
【本試験H3,本試験H6年代(南北戦争後か問う)】
【東京H7[3],H15[3]地図から1869年開業の路線を選ぶ】
【追H9時期。ペリー日本来航,ハワイ併合との順序、H27「最初の大陸横断鉄道」の完成とともにフロンティアが消滅したのではない】
【H30共通テスト試行 1860年代の西部で、「中国人移民のための労働力需要を支えた」か問う(パナマ運河ではない)】
【上智法(法律)他H30※】
は,東部の工業と西部の資源を結びつけ,アメリカ合衆国の経済的統一に大いに貢献しました
【本試験H3】
。それにともない
,
巨大企
業
(複数の企業が合わさったトラスト
【本試験H5】
や,連合したカルテル)も形成されていくこととなります。
大陸横断鉄道にの建設には,中国から「輸出」された肉体労働者(苦力
,
クーリ
ー
【東京H25[1]指定語句「年季労働者(クーリー)」】
)や,アイルランド人の移民
【東京H25[1]指定語句「白人下層労働者」】
が携わりました。
すでに選挙権を獲得していた男子の労働者の間には,巨大企業の独占に反対する動きが起き,反トラスト法の制定につながっていきました。
※ニューオーリンズとロサンゼルスを結ぶ区間が開通したわけではない。東からアイルランド系移民(正しい),西からは中国系のクーリー(苦力)(正しい)が労働力となり,建設が進み,ユタ州プロモントリーで結ばれた(正しい)。
・
184
8
年
~
187
0
年のアメリカ 北アメリカ
現②
カナダ
東西の英仏住民対立を経て,カナダ自治領が成立
1841年に西部のイギリス系住民主体のアッパー=カナダ〔上カナダ〕と,東部のフランス系住民主体のロワー=カナダ〔下カナダ〕が統合することで
,
連合カナ
ダ
が成立していましたが,民族対立が悩みのタネでした。まず首府を,旧アッパー=カナダの西カナダに置くか,旧ロワー=カナダの東カナダにするのかをめぐっても紛糾。ケベック,トロントなどを転々とします。
さらに,イギリス系,
1848年にカナダ連合法が改定され,英語だけでな
く
フランス
語
も公用語として規定されました。同年には責任政府も成立しています。
また,アメリカ合衆国との関係にも苦慮します。連合カナダの実業家の中には,アメリカ合衆国との自由な貿易を望む声もあり,1854年米加互恵通商条約が締結。
その後,1857年にはブリティッシュ=コロンビアのフレイザー川の金鉱(前年に発見)でゴールド=ラッシュが起こり,1858年にはニュー=ファンドランドとイギリス間に初の大西洋海底ケーブルが完成しています
1861年にアメリカ合衆国
で
南北戦
争
が勃発すると,「中立」の立場をとったイギリスに対する北部の敵視が強まり,連合カナダとアメリカ合衆国との関係は悪化。アメリカ合衆国の中には「カナダ併合論」も高まります。
アメリカ合衆国の拡大の危機が高まる中,イギリスは植民地を守るために重い腰を上げ,連合カナダだけではなく沿岸のニューブランズウィック,プリンスエドワード島,ノヴァスコシアを含めた連邦結成が検討され始めます。
しかし,ノヴァスコシア,ニューブランズウィック,プリンスエドワード島の3植民地は,従来ほとんどカナダとの結びつきがなく,アメリカ合衆国との関係のほうが緊密でした。しかし,1866年に米加互恵通商条約がアメリカ合衆国によって廃止されたことを受け,3植民地も連合カナダに接近。
1865年にプリンスエドワード島で行われたシャーロットタウン会議で3植民地だけの同盟案を棚上げし,1866年のケベック会議でニューファンドランドを含む5植民地政府代表
が
ケベック決
議
を採択。
これは,イギリス系住民の多い西カナダ
を
オンタリオ
州
,フランス系住民の多い東カナダ
を
ケベック
州
とし,この2州が中心となって,沿岸の3植民地や人口希薄地帯の西部を取り込む中央集権色の強いものでした。
当然,沿岸3植民地ではケベック決議に反対。そこで,1865年に連邦推進派の〈マクドナルド〉(のちの初代首相)はイギリスに政治的圧力をかけるよう要請。本土から遠いプリンスエドワード島とニューファンドランドを除く,連合カナダ+ノヴァスコシア+ニューブランズウィックによる連邦結成が本格化。1867年に,イギリス領北アメリカ法(ブリティッシュ=ノース=アメリカ=アクト)が成立・発効しました。
カナダ側は「カナダ王国」という国名を希望しましたが,イギリス外相は拒否。
あくまで"植民地"としてカナダを死守したいイギリス政府は,「自治領」(ドミニオン)という語句を旧約聖書の『詩篇』からひねり出し
,
カナダ自治
領
【H30共通テスト試行 カナダは「イギリス連邦の成立まで、イギリスに従属する植民地であった」わけではない】
と命名し,同年成立しました。
カナダ連邦が成立したのと同年に,アメリカはロシアか
ら
アラス
カ
を購入しています。
つまり,北アメリカ北部の植民地をまとめ上げた
「
カナ
ダ
」は,第一に,連合カナダで既得権益を持つ指導者が,アメリカ合衆国からの圧力を受ける中で,独立を守ろうとして成立したものです。そして,第二には,イギリスがカナダを植民地として手放したくないがために成立させたという側面があります。
当時の総人口350万人。そのうち,イギリス系は60%,フランス系はケベック州を中心に3分の1。先住民は3万人です。
1868年にイギリス議会でルパーツランド法が制定され,1870年に
は
ハドソン湾会
社
から購入し
た
ルパーツラン
ド
(ハドソン湾沿岸の広大な地域)と北西領が
,
ノースウェスト準
州
としてカナダ自治領に編入されます。
(参考)木村和男編『新版世界各国史23 カナダ史』山川出版社,1999,p.163~p.183。
○184
8
年
~
187
0
年のアメリカ 中央アメリカ
中央アメリ
カ
...①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ
◆1
9
世紀中頃よりイギリス,フランス,ドイツ,アメリカ合衆国の経済的な進出が進み,南アメリカはヨーロッパに農産物・鉱産物を輸出し製品を購入する市場になっていく
一次産品の輸出に依存する経済により南アメリカでは中産層が拡大せず,植民地時代からの支配者であるクリオーリョが大土地所有制度を維持する
中米は,ヨーロッパの原料供給地・市場となる
多くの独立後のラテンアメリカ諸国では,一部の大地主などの有力者が強権的な支配体制を築きました。
彼らは国内の天然資源をイギリスなどに輸出することで利益を得ており
,
自由主
義
を推進します。一握りの有力者が中米の政治の支配権を握っていくのです
(
自由主義寡頭制支
配
)。
・
181
5
年
~
184
8
年のアメリカ 南アメリカ
現⑪
マルティニーク島
フランスはマルティニーク島で黒人奴隷を使っ
た
サトウキビのプランテーショ
ン
を続行し,大儲けしていました。1848年に二月革命により成立し
た
第二共和
政
が,奴隷制を廃止するまで続きます。
・
184
8
年
~
187
0
年のアメリカ 中央アメリカ
現①
メキシコ
◆
独立したメキシコはアメリカ合衆国に領土を割譲され,インディオ出身の自由主義者が土地改革を行うが,フランスの介入を受ける
領土縮小したメキシコは,フランスの進出を受ける
◆
メキシコは,米墨戦争でカリフォルニアなど広大な領土を失う
メキシ
コ
は,1845年
に
テキサ
ス
【追H18米西戦争での獲得領土ではない】
を失うと,アメリカ合衆国との戦争(アメリカ=メキシコ戦争
,
米墨戦
争
,1846~48)
【本試験H23時期】
【追H18米西戦争とのひっかけ】
【上智法(法律)他H30「メキシコとの戦争」】
が勃発しました。
テキサスは,すでにメキシコから分離・独立して「テキサス共和国」
【上智法(法律)他H30】
となっており,その政府がアメリカ合衆国に併合を要請
【上智法(法律)他H30】
したことで,アメリカが併合を宣言したという経緯があります。
しかし,アメリカ合衆国に敗れ
,
カリフォルニ
ア
【本試験H22】
【上智法(法律)他H30フロリダは含まれない】
など領土の大半を失ったメキシコ
【上智法(法律)他H30メキシコ政府は,1830年代にアメリカ系住民のテキサスへの移住を推奨していたわけではない】
。
◆
インディオの〈フアレス〉が大統領に就任するが,英・西・仏が干渉する
インディオ出身の
〈
フアレ
ス
〉が大統領に就任し,1857年に憲法を制定しました。彼は自由主義的な考えを持ち,大土地所有者に財産が集中する状況を批判にします。当時の南アメリカで大土地を持っている代表格は,キリスト教の教会です。そこで1857年憲法では教会の財産にメスを入れ,土地改革を実施しました。
しかし,これがもとで内紛が勃発し,そこへ1861年にイギリス・スペイン・フランスが介入。
◆186
1~
186
7
年 フランス干渉戦
争(
メキシコ出
兵
)
1864年にはフランスがオーストリアのハプスブルク家出身の〈マクシミリアン〉を連れてきて,メキシコ帝国を建国します。当時のフランスは皇帝〈ナポレオン3世〉の時代。フランスの市場拡大をねらった行為でした。しかし住民の抵抗や国際的批判を受け,〈マクシミリアン〉は処刑され,1867年には共和制に戻っています
(
メキシコ出
兵
)
【追H9 19世紀末のメキシコは世界最大の石油の生産国であったわけではない】
。
この間,メキシコの大統領の座にとどまり続けたのは〈フアレス〉(任1858~1872)です。
〈フアレス〉政権が復活する
フランス勢力を追い払った〈フアレス〉は,軍部の影響力を薄めるために軍縮を進めるとともに,メキシコの近代化をはかっていきます。
・
184
8
年
~
187
0
年の 中央アメリカ 現②グアテマラ
,③
ベリーズ
,④
エルサルバドル
,⑤
ホンジュラス
,⑥
ニカラグア
,⑦
コスタリカ
中央アメリカでは統一の動きは見られず
中央アメリカは中央アメリカ連邦共和国(1824~39)が崩壊すると
,
グアテマ
ラ
,
エルサルバド
ル
,
ニカラグ
ア
,
ホンジュラ
ス
,
コスタリ
カ
の間には抗争が続きます。
そんな中,アメリカ合衆国の〈ウィリアム=ウォーカー〉(1824~60)は,中央アメリカの抗争に介入することで,国家を領有して利益を得ようと画策しました。保守派との争いが続いていたニカラグアの自由党は〈ウォーカー〉を傭兵として招き,間もなく大統領に就任して実権を掌握。ニカラグアに太平洋と大西洋を結ぶ運河を建設し,カリブ海の中心として発展させることを夢見ます。
この〈ウォーカー〉(任1856~57)のニカラグアは,コスタリカを中心とする他の中央アメリカ諸国により崩壊しました。
その後の中央アメリカにも統一の兆(きざ)しはなく,輸出用のプランテーションが発展していきました。
グアテマラのお隣
の
ベリー
ズ
にはイギリスが植民を進めており,1862年にはジャマイカ総督下にイギリス王冠植民地であ
る
英領ホンジュラ
ス
を樹立しています(その後,1884年に単独の植民地となります)。
○184
8
年
~
187
0
年のアメリカ カリブ海
カリブ
海
...現在の①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島
・
184
8
年
~
187
0
年のアメリカ カリブ海
現①
キューバ
スペイン領
1804年に革命が起きて独立したハイチに代わり,世界最大
の
サトウキ
ビ
生産国となっていたスペイン植民地
の
キュー
バ
。
タバコ生産も盛んとなり,次第にスペインからの独立運動も活発化していきます。
そんな中,1853年に
〈
ホ
セ=
マルテ
ィ
〉(1853~1895)が誕生。のちの独立運動家であり,作家です。
1868年にスペインからの独立運動がはじまると,彼はすぐに身を投じ,翌年には投獄されています。
・
184
8
年
~
187
0
年のアメリカ カリブ海
現②
ジャマイカ
イギリス領
イギリスの植民地として多数の黒人奴隷が導入されてい
た
ジャマイ
カ
。
1807年に奴隷貿易が禁止,1833年に奴隷制が廃止されると,今度はインドやアフリカからの年季奉公人(期限付きの契約の労働者)がジャマイカに移動して来るようになります。
一方,解放された黒人奴隷には依然として十分な参政権が与えられず,経済的自立からは程遠い状況でした。
1868年には〈ポール=ボーグル〉(1822~1865)という聖職者が,黒人の参政権を求めて暴動を起こす事態に発展。総督は徹底的にこれを鎮圧しましたが,その内容をめぐって,イギリスでは議論もわき起こります。
結局,しっかりとしたイギリス本国による支配を望むジャマイカの農場主の声が反映され,1866年にジャマイカはイギリス
の
直
轄
植民地となりました。
・
184
8
年
~
187
0
年のアメリカ カリブ海
現③
バハマ
イギリス領
バハ
マ
はイギリスの植民地支配を受けていますが,アメリカ合衆国にほど近いこともあり,両国の間で交易を巡るトラブルも起きます(1840年のエルモッサ事件と1841年のクリオール事件)。
アメリカでの南北戦争(1861~1865)中は,バハマは南軍の拠点として発展。
しかし,バハマの社会は少数の白人,混血の人々と,大多数の黒人との間に大きな亀裂があり,統一に向けた支障となっていきます。
・
184
8
年
~
187
0
年のアメリカ カリブ海
現④
ハイチ
独立
1804年に独立を果たしていたイスパニョーラ島西半
の
ハイ
チ
ですが,複数の政権が樹立され混乱に陥っていました。
このうち,〈ボワイエ〉(?~1850)が,スペイン系の大農園主によってイスパニョーラ島の東半に建国されていた政権(のちのドミニカ共和国)を倒して併合し,1822~1844年まで島を統一しました。
この〈ボワイエ〉の独裁に対し,内外で抵抗する動き(1844年
に
ドミニカ共和
国
がハイチから独立)も起きますが,この混乱を〈フォースタン〉が収拾し,1849年に自ら皇帝〈フォースタン1世〉に即位してハイ
チ
帝
国
を建国。結局,1859年に倒れます。
共和政に戻ったハイチは,産業も未熟でフランスへの賠償金支払いにも苦しみ,不安定な政治も続きました。
・
184
8
年
~
187
0
年のアメリカ カリブ海
現⑤
ドミニカ共和国
ハイチ
領→
スペイン
領→
独立
イスパニョーラ島の東半には,西半のハイチによる支配が及んでいましたが,1844年に支配を脱し,1845
年
ドミニカ共和
国
として独立します。
のちに保守派の大統領がスペインへの併合を求め,スペインによる植民地となりますが,独立戦争の結果1865年に再び独立を果たします。
・
184
8
年
~
187
0
年のアメリカ カリブ海
現⑤
アメリカ領プエルトリコ
スペイン領
スペインの植民地となっていたプエルトリコ島では,サトウキビのプランテーションは発達せず,黒人奴隷はあまり使用されませんでした。次第にスペインからの独立運動も起きるようになっていきます。
・
184
8
年
~
187
0
年のアメリカ カリブ海
現⑥
アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島
小アンティル諸島の最北端,プエルトリコ島の東方に位置す
る
ヴァージン諸
島
。
デンマーク領
そのうち西側に位置する現在
の
アメリカ領ヴァージン諸
島
は,当時
は
デンマー
ク
領。黒人奴隷を導入したプランテーションが行われていました。
イギリス領
東側に位置する,現在
の
イギリス領ヴァージン諸
島
でも,黒人奴隷を導入したプランテーションが行われています。
イギリス領
その南に位置するの
が
アンギラ
島
。イギリスの植民地支配下に,南方
の
セントクリストファ
ー=
ネイビ
ス
による管理下に置かれています。
・
184
8
年
~
187
0
年のアメリカ カリブ海
現⑦
セントクリストファ
ー=
ネイビス
イギリス領
セントクリストファー
島
と
ネイビス
島
は,イギリスの植民地支配下にあります。
・
184
8
年
~
187
0
年のアメリカ カリブ海
現⑧
アンティグ
ア=
バーブーダ
イギリス領
アンティグア
島
はイギリスの植民地
。
バーブーダ
島
はイギリスの貴族(コドリントン家)の私領でしたが,のちイギリスに併合されます。
・
184
8
年
~
187
0
年のアメリカ カリブ海
現⑨
イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島
イギリス領
モンサラッ
ト
〔モントセラト〕島は,イギリスの植民地。
フランス領
グアドルー
プ
島は,フランスの植民地です。
・
184
8
年
~
187
0
年のアメリカ カリブ海
現⑩
ドミニカ国
イギリス領
現
・
ドミニカ
国
はイギリスの植民地です。
・
184
8
年
~
187
0
年のアメリカ カリブ海
現⑪
フランス領マルティニーク島
フランス領
マルティニーク
島
はフランスの植民地です。
1848年の二月革命により成立し
た
第二共和
政
では黒人奴隷の廃止が決められました。しかし,その後実施が延期されたことから,たまりかねた黒人奴隷による反乱が発生します。
・
184
8
年
~
187
0
年のアメリカ カリブ海
現⑫
セントルシア
イギリス領
セントルシ
ア
はイギリスの植民地です。
・
184
8
年
~
187
0
年のアメリカ カリブ海
現⑬
セントビンセント及びグレナディーン諸島
イギリス領
セントビンセントおよびグレナディーン諸
島
はイギリスの植民地です。
・
184
8
年
~
187
0
年のアメリカ カリブ海
現⑭
バルバドス
イギリス領
バルバド
ス
はイギリス領です。
・
184
8
年
~
187
0
年のアメリカ カリブ海
現⑮
グレナダ
イギリス領
グレナ
ダ
は,イギリス領です。
・
184
8
年
~
187
0
年のアメリカ カリブ海
現⑯
トリニダー
ド=
トバゴ
イギリス領
トリニダード
島
と
トバゴ
島
は,ともにイギリス領です。
・
184
8
年
~
187
0
年のアメリカ カリブ海
現⑰
オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島
オランダ領
ベネズエラの西部沖に浮かぶ島々。
西
の
ボネール
島
はオランダ領。黒人奴隷が導入され,塩の生産が行われていました。
中央
の
キュラソー
島
もオランダ領。黒人奴隷が導入されています。
東
の
アルバ
島
もオランダ領です。
○184
8
年
~
187
0
年のアメリカ 南アメリカ
南アメリ
カ
...①ブラジル,②パラグアイ,③ウルグアイ,④アルゼンチン,⑤チリ,⑥ボリビア,⑦ペルー,⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネズエラ,⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ
・
184
8
年
~
187
0
年のアメリカ 南アメリカ
現①
ブラジル
ゴムとコーヒーに湧くブラジル
ブラジ
ル
では,〈ペドロ2世〉は国内のさまざまな勢力をまとめようと尽力していました
。
コーヒ
ー
産業が発展し,食肉,製糖,木綿工場なども設立されていきました。
また,天然ゴムの栽培・出荷も右肩上がり。1856年から1896年にかけて輸出量は10倍に増え,アマゾン川加工のベレンは天然ゴムのおかげで金融センターに成長していきました(注)。
(注)ゴムによる繁栄は,1876年にイギリスの産業スパイが禁を破って天然ゴムを国外に持ち出すまで続きます。1897年には早速イギリスの植民地のセイロン島とマレーシアでも栽培が開始されます。チャールズ・マン,鳥見真生訳『1493〔入門世界史〕』あすなろ書房,2017,p.160。
その労働力として導入された数百万人
の
移
民
はブラジルに"ヨーロッパの風"を吹き込ませることとなり,自由主義的な制度やヨーロッパの近代的な文化の定着もすすんでいきました。
一方で,奴隷制への取締りを強化したイギリスとの対立も生まれます。
奴隷制を温存していた北アメリカのアメリカ合衆国でも
,
南北戦
争
(1861~65)中に1863年に
は
奴隷解放宣
言
が〈リンカン〉大統領(位1861~65)によって発表されました。南北戦争が終わってみると,南北アメリカで奴隷制をやっているのはブラジルの他
に
キュー
バ
くらい。
次第に奴隷制に対する反対運動も盛り上がっていきました。
これにもっとも大きな影響を与えたのはフランスの実証主義者
〈
コン
ト
〉(1798~1857)
【追H25分類学(リンネ)ではない】
です。
〈コント〉は人類の社会が「秩序と進歩」に向かって段階的に発展していくはずだと信じ,経験に即して社会をバージョンアップしていこうと訴えました。
現在のブラジル国旗のデザインをよくみると,〈コント〉の"合言葉"である
「
秩序と進
歩
」という言葉が記されているのがわかります。
1850年以降,フランスのイエズス会によるアマゾニアの住民への布教活動が活発化しています。
・
184
8
年
~
187
0
年のアメリカ 南アメリカ 現②パラグアイ
戦争に負け、現在の領域がほぼ確定する
この時期、1864年には独裁者〈ロペス〉率いるパラグアイが軍事的に拡大しようとしたのに対して,アルゼンチン・ウルグアイ・ブラジルが対抗しました(パラグアイでは「三国同盟戦争」といいます
(注)
)。これに敗北したパラグアイの国境線は、ほぼ今日のものと同じものです。
(注)田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、p.30。
○184
8
年
~
187
0
年のオセアニア ポリネシア
ポリネシ
ア
...①チリ領イースター島,②イギリス領ピトケアン諸島,フランス領ポリネシア,③クック諸島,④ニウエ,⑤ニュージーランド,⑥トンガ,⑦アメリカ領サモア,サモア,⑧ニュージーランド領トケラウ,⑨ツバル,⑩アメリカ合衆国のハワイ
◆
太平洋の島々にイギリス,フランス,アメリカが捕鯨の基地・グアノ採掘を求めて進出する
欧米は,ポリネシアにクジラとグアノを求める
工業化・都市化がすすむにつれ,増えゆく人口を支えるための食糧が自国だけではまかないきれなくなった,欧米の先進工業国。
そこで目を付けたのが
,
化学肥
料
の原料となる硝石の素(海鳥の糞
(
グア
ノ
))。これで生産性をアップさせ,収穫量の限界を突破することに成功
(注
1)
。
グアノから
は
火
薬
の原料も抽出できるから,一石二鳥です。
グアノを重視したアメリカ合衆国は1856年にグアノ島法を制定。アメリカ国民がグアノのある島に到達したらアメリカが領有できることとなり,1903年までに66の島と環礁が領有されました。しかし,多くは放棄され,うち9島がアメリカ領となりました
(注
2)
。
(注1)人口の増加の勢いに,食糧増産の勢いは追いつけないので,人口は必ずどこかで行き詰まるとする「マルサスの罠(わな)」の考えが破られたわけです。これ以前の農業は,地面を一生懸命ガリガリ耕して,丹念に植物を育てる営み。それが化学肥料の登場により,種をどさっとまいて,そこに「栄養分を畑にどさっとまく行為」が,新しい時代の農業になっていきます(チャールズ・マン,鳥見真生訳『1493〔入門世界史〕』あすなろ書房,2017,p.154)。
(注2)チャールズ・マン,鳥見真生訳『1493〔入門世界史〕』あすなろ書房,2017,p.154。
・
184
8
年
~
187
0
年のオセアニア ポリネシア
現①
チリ領イースター島
,②
イギリス領ピトケアン諸島,フランス領ポリネシア
フランスの支配圏が拡大する
①
イースター
島
(ラパ=ヌイ島)ではペルー人による島民の奴隷狩りが深刻化しています。
②
イギリス領ピトケアン諸
島
は1829年にイギリス領と宣言。島民は1789年のイギリス船バウンティ号の反乱を起こした船員の子孫です。
②
フランス領ポリネシ
ア
は,すで
に
マルキーズ諸
島
(1842)がフランスに領有され,1858年に
は
トゥアモトゥ諸
島
もフランス領となります。
タヒチ
島
は1843~1847年のタヒチ=フランス戦争の結果,フランスの保護国となっています。
イギリスからの外交的圧力や,女王〈ポマレ4世〉の絶大な人気を背景に,すぐさま併合することはなかったフランス。その背景には,1848年には二月革命が起きて,七月王政が倒れるという国内情勢もありました。
・
184
8
年
~
187
0
年のオセアニア ポリネシア
現③
クック諸島
,④
ニウエ
③
クック諸
島
には1858年にラロトンガ王国が成立しています。
④
ニウ
エ
は現地の首長により統治されています。
・
184
8
年
~
187
0
年のオセアニア ポリネシア
現⑤
ニュージーランド
N
Z
は独立した英植民地になるが,マオリの抵抗も
ニュージーランドは1840年
の
ワイタンギ条
約
によってニュージーランド全土がオーストラリアのニュー=サウス=ウェールズ植民地から分離して独立した植民地となり,〈ホブソン〉は初代総督に任命されていました。ニュージーランド会社は1858年には解散。広大な土地は移住者の手に渡り,自作農が増加。階級社会が支配的なイギリスと違い,ニュージーランドには比較的平等な白人により構成される社会が発展していくことになります。
ニュージーランドには,当初は北島・南島とスチュアート島の3つの州がありました。しかしスチュアート島は北島に編入され,1852年には州は6箇所に分かれることになり,各州の大幅な自治が認められることとなりました(この地方分権的な制度は1876年まで続きます)。
各州の上には全体議会がもうけられましたが,マオリの議席は1867年までは0でした(1867年に4議席が割り当てられるにとどまります)。最初の全体議会は1854年に開催されています。
その間,マオリはヨーロッパから持ち込まれた感染症により人口が激減し
【セ試行 絶滅していない】
,1840年に8万人と推定される人口は,1891年には4万2000人にまで落ち込みます。また,ワイタンギ条約では「マオリが売りたいといったときのみ土地を購入でき,国王に先に購入する権利がある」という内容が規定されていたにもかかわらず,彼らの土地はたくみに買い占められ,イギリス人の手にわたることになっていきました。それと同時に,マオリらは自らの土地を守る運動を開始。1858年にはワイカトの諸部族の合意によって,〈テフェロフェロ〉
が
マオリの
王
に選出され〈ポタタウ〉王を名乗ります。イギリス国王に対抗するために,自分たちの王を推戴したわけです。マオリの諸部族とイギリス本国・ニュージーランド政府の連合軍との戦闘をよく戦い抜きますが,多くの犠牲者を生んでいます
また1865年には
「
先住民土地
法
」が制定され,土地がマオリの個人所有ということになり,国王の土地先買権が廃止されました(先住民土地法廷も設置)。共同体による所有から個人所有に切り替えさせることによって,マオリの土地を購入しやすくしたのです。
この時期には,オーストラリアか
ら
牧
羊
も導入され,1850年代に50万頭であった羊は,1870年には300万頭に膨れ上がります。羊毛生産のほか林業も盛んで,金鉱も1840年代に発見されています(最盛期は1866年頃)。金鉱の労働者として流れ込んだのは中国人でした。
(参考)山本真鳥『世界各国史 オセアニア史』山川出版社,2000,pp.178~190
・
184
8
年
~
187
0
年のオセアニア ポリネシア
現⑥
トンガ
イギリス人の支援で,トンガが統一され王国に
現
⑥
トン
ガ
諸島では国王による統一が,ヨーロッパからの商人・宣教師の来航の影響で混乱に向かいます。キリスト教のメソジスト派と結んだ〈タウファアフ=トゥポウ〉(1845~1893)は,イギリス人から武器の供給を受けて全トンガを1852年に武力を用いて統一します。
・
184
8
年
~
187
0
年のオセアニア ポリネシア
現⑦
アメリカ領サモア,サモア
現
⑦
サモ
ア
には捕鯨(ほげい)の基地としてアメリカ合衆国,ドイツ,イギリスが進出しています。
・
184
8
年
~
187
0
年のオセアニア ポリネシア
現⑧
ニュージーランド領トケラウ
現
⑧
トケラ
ウ
は18世紀後半にイギリスによってすでに発見されていました。
・
184
8
年
~
187
0
年のオセアニア ポリネシア
現⑨
ツバル
現
⑨
ツバ
ル
はサンゴ礁島で資源に乏しく "うま味"に欠けるため,本格的な欧米勢力の進出は遅れます。
○184
8
年
~
187
0
年のオセアニア オーストラリア
オーストラリアでゴール
ド=
ラッシュが起き人口急増
【追H27 19世紀のオーストラリアから、イギリスが羊毛を輸入していたか問う(正しい)】
オーストラリアでは,イギリスによ
る
ニューサウスウェール
ズ
(南東部)への植民が急速に進行し,囚人ではない人々の人口がほとんどを占めるようになりました。1850年にはオーストラリア初の大学であ
る
シドニー大
学
が設立され
,
鉄
道
も敷設されていきました(1855年にニューサウスウェールズ初の鉄道が敷設)。1851年には,ニューサウスウェールズ州とビクトリア州で金鉱が見つかり
,
ゴールドラッシ
ュ
が起きました
(
オーストラリアのゴールドラッシ
ュ
【追H29】
)。移民の流入
【追H29】
により人口が急激に増加したシドニーでは,急速に工業化が進んでいきます。
1863年にはタスマニア島
【本試験H26ドイツ領ではない】
で先住民が絶滅しました。冷凍船の発明にともない,オーストリアやニュージーランドからは食肉の輸出も始まっています。
○184
8
年
~
187
0
年のオセアニア メラネシア
メラネシ
ア
...①フィジー,②フランス領のニューカレドニア,③バヌアツ,④ソロモン諸島,⑤パプアニューギニア
・
184
8
年
~
187
0
年のオセアニア メラネシア
現②
フランス領のニューカレドニア
ニューカレドニアはフランス領になる
②
ニューカレドニ
ア
(ヌーヴェルカレドニ島)は
,
白
檀
(ビャクダン;サンダルウッド)の交易場所や捕鯨基地として注目され,1853年にフランス領となっています。
しかし先住民族はヨーロッパ人の持ち込んだ感染症にかかって人口を減らし,抵抗も起きるようになりました。のちには,住民が奴隷として連れ去られ,フィジーやオーストラリア北部のプランテーションに従事させられる「ブラックバーディング」とい
う
奴隷交
易
も横行します
(
南太平洋の奴隷交
易
)
(注
)
。
(注)Ben Doherty, 'Full truth': descendants of Australia's 'blackbirded' islanders want pioneer, The Guardian, Aug 24, 2017(
https://www.theguardian.com/australia-news/2017/aug/24/full-truth-needs-to-be-told-descendants-of-blackbirded-south-sea-islanders-want-memorials-amended
)
・
184
8
年
~
187
0
年のオセアニア メラネシア
現③
バヌアツ
バヌアツのあるニューヘブリディーズ諸島は,イギリスとフランスとの間の争奪の的となっています。
・
184
8
年
~
187
0
年のオセアニア メラネシア
現④
ソロモン諸島
ソロモン諸島にはイギリスが進出をすすめています。
・
184
8
年
~
187
0
年のオセアニア メラネシア
現⑤
パプアニューギニア
パプアニューギニア
の
東
半
の
南
部に
は
イギリ
ス
が進出をすすめています。
パプアニューギニア
の
東
半
の
北
部に
は
ドイ
ツ
が進出をすすめています。
パプアニューギニア
の
西
半には
,
オラン
ダ
が進出をすすめています。
住民たちにとっては,いきなり来たヨーロッパ人に対し「???」という状況でしょう。
○184
8
年
~
187
0
年のオセアニア ミクロネシア
ミクロネシ
ア
...①マーシャル諸島,②キリバス,③ナウル,④ミクロネシア連邦,⑤パラオ,⑥アメリカ合衆国領の北マリアナ諸島・グアム
○184
8
年
~
187
0
年のアジア 東アジア・東北アジア
東アジア・東北アジ
ア
...
①
日本
,②
台
湾(注),③
中国
,④
モンゴル
,⑤
朝鮮民主主義人民共和国
,⑥
大韓民国 +ロシア連邦の東部
○184
8
年
~
187
0
年のアジア 東北アジア
◆
ロシア連邦が沿海州に南下し,太平洋進出のための海軍基地を建設する
ロシアはウラジヴォストークを建設,太平洋へ進
出
。
ロシアは清がアロー戦争(1856~1860)に忙殺されているタイミングをねらい,1860年
に
北京条
約
【早法H30[5]指定語句】
を締結して清か
ら
沿海
州
【東京H26[1]指定語句】
を獲得します。ここに建設され
た
ウラジヴォストー
ク
【追H28 金(きん)がひらいた港ではない】
は,ロシアの太平洋進出の足がかりとなっていきます。
このことは,日本にとって安全保障上の喫緊の脅威と認識されました
。
◆
ロシアは北アメリカのアラスカをアメリカ合衆国に売却した
ロシアは沿海州~ベーリング海まで支配下に置く
西方からロシア帝国が東進し,トナカイ遊牧を営
む
ツングース
人
,
ヤクート
人
はおろか,ベーリング海峡周辺の古シベリア諸語系
の
チュクチ
人
や,カムチャツカ半島方面
の
コリャーク
人
も支配下に入っています。
ベーリング海対岸のアラスカは1867年にアメリカ合衆国に売却したため,ロシアとアメリカ合衆国との境界線は今日にいたるまで,ベーリング海の西側に確定することになりました。
○184
8
年
~
187
0
年のアジア 東アジア
・
184
8
年
~
187
0
年のアジア 東アジア 現①日本
1848年に北アメリカ
の
カリフォルニ
ア
で金鉱が発見されるや
(
ゴールドラッシ
ュ
)
(
#日本
〈ジョン萬次郎〉については⇒1848~1870の北アメリカ アメリカ合衆国を参照
)
,またたく間にフロンティア
【本試験H3】
【共通一次 平1】
が太平洋に到達しました。これを「フロンティアが消滅した」
【本試験H3】
【追H24時期は20世紀前半ではない】
と表現します。
アメリカ合衆国は中国との貿易中継地
や
捕
鯨
(ほげい。元乗組員〈メルヴィル〉(1819~91)の小説『白鯨』(1851)が有名です)基地として日本を重視し,1853年にアメリカ東インド艦隊の司令長官
〈
ペリ
ー
〉
【追H9時期。大陸横断鉄道開通,ハワイ併合との順序】
に〈フィルモア〉大統領の国書を持たせて派遣し,老中〈阿部正弘〉はこれを仕方なく受け取りました。1854年に再来日した〈ペリー〉は
,
日米和親条
約
を締結
【本試験H13時期(19せいき 後半)・フランスとの条約ではない】
。ここでは,通商は許可されませんでしたが,下田・函館の開港,漂流民救助,下田に領事を置くこと,片務的最恵国待遇(ほかの国ともっといい条件で条約を結んだら,自動的にアメリカ合衆国にも同じ内容を適用)などを定めました。
こうして,日本の「鎖国」体制は幕を閉じたのです。
同じ年には,イギリス
と
日英和親条
約
,ロシアの使節〈プチャーチン〉
と
日露和親条
約
,オランダと
は
日蘭和親条
約
が締結されました。
イギリスが日本に接近しなかったのは,すでに1840~42年
の
アヘン戦
争
で中国を得ていたからでしょう。〈ペリー〉が日本に来航した際には,イギリスはロシアと
の
クリミア戦
争
(1853~56)に力を割いていました。しかし,極東で敵国ロシアと戦うためには,日本との補給も必要になると考え,英国東インド中国艦隊司令〈スターリング〉(1791~1865)が締結しました。イギリスに対しては,函館と長崎が開港されました。
さらにアメリカ合衆国は1858年
に
日米修好通商条
約
案として,神奈川(実際には横浜1859開港後に下田を閉鎖)・長崎(1859)・新潟(1860)・兵庫(実際には神戸1863)・江戸(1862)・大阪(1863)などの開港場の新たな設定と,完全な自由貿易,アメリカ人の居留地を置くこと,治外法権(日本で罪を犯したアメリカ人を日本人が裁くことができない),協定関税(日本が自分で関税を決めることができない)などを要求しました。
困った幕府の老中首座〈堀田正睦〉は,〈天皇〉に許しを得ようと相談しましたが,天皇はこの条約を拒否。相手方の事情をよく知る将軍家は「これではまずい」と感じ,譜代大名筆頭の彦根藩主
〈
井伊直
弼
〉を大老に就任させ,交渉に当たらせました。アメリカ合衆国は,「イギリスとフランスが来る前に,アメリカと条約を結んでおいたほうがよい」と説き,結局〈天皇〉のゆるし(勅許)のないままに条約が承認されました。その直後,イギリス,ロシア,オランダ,フランスの艦隊がやって来て,同じ内容の条約を締結することになったのです
(
安政の五カ国条
約
)。〈井伊直弼〉は勅許なしの承認を批判する勢力を粛清し
,
安政の大
獄
を実施しました。
1860年には〈
◆
アメリカの進出は一旦小康状態となるが,条約勅許問題は地方下級武士による倒幕に発展する
南北戦争で米の進出は止まり,日本は倒幕運動へ
アメリカ合衆国で1861
に
南北戦
争
(1861~1865)が勃発すると,アメリカ合衆国の日本への積極進出は一時的にやみます。戦後も西部と南部の開発が優先され,海運業は衰退。1869年
の
スエズ運
河
の開通にともない,ヨーロッパとアジアを結ぶ航路はイギリスに軍配が上がることとなります(アメリカはフロンティアの「消滅」する1890年代以降,起死回生を図っていきます)。
欧米諸国との条約の締結に対して盛り上がっていったのは,武士階級によ
る
1860年には〈井伊直弼〉(いいなおすけ)が桜田門外の変で暗殺されると,跡を継いだ〈安藤信正〉は,〈孝明天皇〉の妹〈和宮〉を将軍〈徳川家茂〉と結婚させて,失墜した幕府の権威を公家の力によって盛り返そうとしました。
しかし,ロシア海軍が対馬を占拠し,1862年に坂下門外の変で〈安藤〉は負傷。そんな中,薩摩藩主の実父〈島津久光〉は勅命を受けて,〈一橋慶喜〉を将軍の後見職につけ,朝廷と提携する形で文久の改革を行いました。
また〈吉田松陰〉の門下である長州藩の〈久坂玄瑞〉と〈高杉晋作〉らは,武力により外国船を打払うことで,日本の軍事力を西洋化するべきと主張します。彼らは民衆だけでなく朝廷の支持を受け,1862年に朝廷の圧力によって幕府は〈孝明天皇〉に攘夷を約束します。
長州藩はこの日以降,下関海峡を通行する外国船への砲撃を始めました。しかし,将軍と天皇を頂点とする公武合体をつくりあげたかった〈孝明天皇〉は,1863年に会津藩と薩摩藩の軍事力によって,攘夷派の長州藩とそれに協力する公家を京都から追放
(
八月十八日の政
変
)。
これに対し,イギリスは,1862年のブリテン島・アイルランド人殺傷事件(生麦事件)を口実に薩摩藩を報復砲撃
(
薩英戦
争
)します。また,1864年には長州藩に対して,イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四か国連合艦隊が下関の砲台を全て破壊しました
(
四国連合艦隊下関砲撃事
件
)。
これにより「攘夷なんて不可能だ」と身にしみて実感した両藩は,これ以降互いに接近を開始します。
1865年には,イギリス・フランス・オランダの三国艦隊(アメリカの代表も参加していた)が大阪湾に進入し,攘夷派の長州藩を攻めに大坂に来ていた〈徳川家茂〉に対して,「天皇に条約を
この一連の動きを見て,ようやく〈孝明天皇〉は条約を勅許し,1866年
に
こうして,日本は植民地化こそまぬがれたものの,不公平な形で
,欧米の主導する資本主義システムに組み込まれることになったわけです。これを受け,欧米諸国に対し一刻も早くフェアトレードを求めるため,ヨーロッパに認められる形に国家を近代的に整備し,外交交渉をすすめて行く道を選ぶべきだと考える勢力が台頭していくことになります。
1866年1月に京都
で
〈
それを認めない幕府軍と,新政府軍とあいだに内戦(
・
184
8
年
~
187
0
年のアジア 東アジア 現③中国
◆
アロー戦争の敗北により,列強と新たな不平等条約が結ばれた
イギリスは一連の条約によって貿易高が上がると思っていたのですが,実際にはそうでもなかったため,条約の改定を虎視眈々と狙っていました。そんなとき
,
アロー号事
件
【追H24英仏のアフリカでの衝突事件ではない】
が起きました。広州で,怪しい船が発見され,ただちに清の官憲がチェックをおこなったところ,乗組員は「イギリス船籍」を名乗ります。しかし,確認が取れなかったため,中国人の船員12名を拘束し,うち3人を海賊の容疑で逮捕しました。
当時,広州に派遣されていたイギリスの領事は〈パークス〉(1828~85)です。彼は4歳で母を,5歳で父を亡くし,姉を頼って13歳で清のマカオに渡り,中国語を学びなが外交官のもとで働く道を選んだ苦労人。アヘン戦争の調印にも立ち会い,若干15歳でイギリス領事館で働くようになったのが1843年のことです。
〈パークス〉はアロー号事件のさいに,清の官憲によってイギリス国旗が引きずり下ろされたことに注目し,「これはイギリスに対する侮辱である」と厳重抗議しました。実際には,アロー号のイギリス船籍としての有効期限は事件当時には切れていたので,法的な問題点はなかったとみられます。
本国の議会で開戦案が否決されると,〈パーマストン〉首相は議会を解散。新たに招集された議会の承認を得るだけでなく,当時海外進出に積極的であった
〈
ナポレオン3
世
〉のフランス
【追H21ポルトガルではない】
を誘い込みます。
こうして起きたのが第二次アヘン戦争ともいわれ
る
アロー戦
争
【
本試
験H2
参戦国を問
う,
本試
験H
10アロー戦争を契機に太平天国との戦争を始めたわけではない,本試験H12時期(1880年代かを問う)】
です。
ちなみにフランス
【本試験H3】
の参戦の口実は,広西省におけるフランス人宣教師殺害事件
【本試験H3】
でした。
英仏連合軍の攻撃により広州が占領され,1858年には一
旦
天津条
約
【本試験H3】
【追H30上海など5港の開港は認めていない】
【京都H19[2]条約締結地「天津」を答える】
【明文H30記】
が結ばれることになりましたが,批准書の交換の寸前に清軍が外交使節を砲撃したことで,戦争が再開。結果的に清が破れ,1860年
に
北京条
約
が結ばれました
【セ試行 アヘン戦争の講和条約ではない
】
【
本試
験H3
南京条約ではない
,
本試験H10太平天国との間に結ばれたわけではない,本試験H12キリスト教布教の自由を認めたか問う】
【本試験H29時期】
。
北京条約の内容は,以下のような項目です。
・アヘン貿易の公認
・ヨーロッパ諸国の主権国家体制であった外国公使を外国に駐在させるという仕組みの導入(北京に駐在)
【セ試行 】
・
キリスト教布教の自
由
(布教の名目
で
内
地
ま
で
旅
行
できるようになります)
【京都H19[2]「内地旅行」を答える】
【本試験H12キリスト教布教の自由を認めたわけではない】
【本試験H21認めたのはネルチンスク条約ではない】
【明文H30問題文】
・開港場の追加(沿岸の天津だけでなく
・南京などの長江沿岸の内陸の河港(かわみなと)にも拡大)
また,イギリスは香港北部
の
九
龍(
きゅうりゅう,クーロ
ン)
半島南
部
【立教文H28記】
を割譲してもらい,香港植民地を拡大します。また,従来のよう
な
朝
貢
【京都H19[2]】
による外交関係を見直し,ヨーロッパ諸国と対等に外交をするための役所として
,
総理各国事務衙
門
(総理衙門(じむがもん))が設立されました
【京都H19[2]】【東京H20[1]指定語句】
【本試験H24】
(皇帝の謁見儀礼についても、従来の「三跪九叩頭の礼」をあらため、1873年には「鞠躬五回」となります
(注)
)。
アロー戦争のどさくさに紛れて,ロシアも極東に南下しています。〈ニコライ1世〉が設置したシベリア総督に就いていた
〈
ムラヴィヨ
フ
〉(1845~1900)
【本試験H24世紀を問う】
は,まず,1858年
に
アイグン条
約
【本試験H3北京条約とのひっかけ】
【本試験H29明代ではない】
を締結し
,
アムール
川
【本試験H18】
以北の領土を獲得し,念願のアムール川河口にまで進出することに成功。さらに,日本海に面す
る
沿海
州
【東京H26[1]指定語句】
は,中国との共同管理地に設定しました。 さらに,1860年
の
北京条
約
【本試験H3アイグン条約ではない】
ではそ
の
沿海
州
【本試験H3アムール川以北の地ではない
】
も獲
得
しました
【本試験H15地図(沿海州の位置を問う),本試験H17内容を問う】
。
沿海州を獲得したということは,次は朝鮮半島や日本への進出にリーチをかけたということになります。沿海州から北海道まで,最短ルートで300kmです。もし朝鮮半島の南部の釜山まで南下をしたとしたら,直線距離で対馬まで約65kmです。英仏間のドーバー海峡の30kmの2倍ではありますが,日本にとっては安全保障上,きわめて問題です,しかも当時の日本は近代国家の建設途中。ムラヴィヨフは沿海州の南端に、ロシア語で「東方を征服する」という意味
の
ウラジヴォストー
ク
(ヴラディ=ヴォストーク)
【本試験H14時期(19世紀)】
という軍港を建設しました。イスタンブールの金角湾によく似て,奥まで細く陥入した入り江があることから,天然の良港であり,冬でも凍らない不凍港(ふとうこう)でもあります。今後のロシアの極東進出の拠点となりました。
アヘン戦争の後,中国の民衆の生活は悲惨で,各地
で
捻
軍
(ねんぐん)などの集団による農民反乱が起きました。その動きとも連動しながら,
〈
洪秀
全
〉
【追H20】
の立ち上げ
た
上帝
会
(拝上帝会)
【本試験H12「白蓮教から派生した宗教結社」ではない】
とい
う
キリスト
教
【本試験H12白蓮教ではない】
的な宗教結社による反乱が起きました。スローガンは
「
滅満興
漢
」(めつまんこうかん)
【本試験H10義和団事件のスローガン「扶清滅洋」とのひっかけ】
をスローガンに掲げ,満洲人の支配に抵抗します
【追H20キリスト教などの西洋的な建物・文化を破壊する仇教運動ではない】
。
広西省金田村(きんでんそん)ではじまった蜂起はまたたく間に広まり,南京を占領し,太平天国
【本試験H3東学党,義和団,白蓮教徒ではない】
の首
都
天
京
(てんけい)
【京都H19[2]現在の地名「南京」を答える】
【本試験H9拠点は成都ではない】
【セA H30華北ではない】
と名付けました。
理想社会の実現のため,女真(女直)人の風習をとりやめ(辮髪を廃止したため"長髪賊"
【本試験H3】
と呼ばれました)
【本試験H11「長髪の禁止」をしたわけではない】
,女性の足の発育をさまだげ自由を奪う
纏足
(てんそく)を禁止
【本試験H11】
,当時はびこっていたアヘンの禁止,さらに天朝田畝制度(てんちょうでんぽせいど。(男女区別なく,年齢に応じた平等な土地の分配
【本試験H11「土地の均分」がされたか問う】
を主張しましたが未実施に終わります)などが掲げられました
。
男女平
等
【本試験H11】
も掲げられましたが,指導者は男性ばかりでした。
あまりに大規模なスケールとなっ
た
太平天国の
乱
(たいへいてんごくのらん、1851~62)
【本試験H3,本試験H9】
【H29共通テスト試行 年代(グラフ問題)】
【追H21地図(進出の経路を問う)、H25】
を清の正規軍(緑営(りょくえい),八旗(はっき))は鎮圧することができず,地方の郷紳による義勇軍であ
る
郷
勇
【追H25】
が活躍しました。
有名なものは,以下の2つ。
・湖南省の
〈
曾国
藩
〉
(そうこくはん,1811~72)
【本試験H6】
【H27京都[2]】
【明文H30記】
によ
る
湘
軍
(しょうぐん)
・安徽省の
〈
李鴻
章
〉
(りこうしょう,1823~1901)
【本試験H8扶清滅洋を掲げていない】
【東京H29[3]】
によ
る
淮
軍
(わいぐん)です。
「清にはもはや太平天国を鎮圧する余裕などない」。
そう感じた列強は,租借地
の
上
海
での自国民の安全をはかるため,アメリカの
〈
ウォー
ド
〉(1831~62)が西洋式軍隊であ
る
常勝
軍
【
本試
験H
10外国人が指揮するか問う】
【本試験H19インド大反乱とは関係ない,H30】
を結成し
,
太平天
国
と戦います。
兵士は中国人傭兵が主体で,常勝軍はEver Victorious Armyの漢訳です。上海防衛戦を戦いましたが1862年に〈ウォード〉は戦死しています。このとき中国にいた長州藩士の〈高杉晋作〉は,西洋の軍事力を目の当たりにし,のちに奇兵隊を結成することになります。
〈ウォード〉の戦死後はイギリスの
〈
ゴード
ン
〉(1833~85)
【本試験H30】
が指揮しましたが,彼はのちにスーダン
の
マフディー
派
【本試験H5】
との戦いで殉死しています。
太平天国は指導者内部の争いもあり,鎮圧されましたが,清における政治的な混乱は長期化します。
(注) 鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.266。
◆
漢人官僚が西洋の技術を導入する洋務運動を起こしたが,政治制度の近代化は遅れた
洋務運動は本格的な近代化に至らなかった
アヘン戦争のさなか,公羊学(くようがく)者の
〈
魏
源
〉(ぎげん,1794~1856)は『海国図志』(1843年初版)をあらわし,いかに中国の技術がヨーロッパに立ち遅れているかを訴えました。
彼は,アヘン戦争開戦のきっかけとなったアヘン没収・廃棄を支持した欽差大臣
〈
林則
徐
〉(りんそくじょ,1785~1850)の友人で,〈林則徐〉は〈魏源〉に外国情報に関する資料を提供したこともあります。魏源は「西洋人の進んだ技術を用いて,西洋人を制するのだ」と訴え,女真(女直)人支配に焦りを感じる漢人官僚たちに改革の必要性を感じさせました。
漢人官僚というのは太平天国の乱を鎮圧して台頭した
【本試験H11 当時(1871年前後)の中国の近代政策を,太平天国の鎮圧を機に台頭した漢人官僚が推進したか問う
】
〈李鴻章
〉
【東京H29[3]】
,〈曽国藩〉,〈左宗棠〉(さそうとう,1812~85),〈張之洞〉(ちょうしどう,1837~1909)
【東京H27[3]】
らのことです。17歳,28歳,27歳,3歳 ...アヘン戦争勃発時の4人の年齢をみると
(〈張之洞〉は,アロー号事件のときに18歳)
,1つ世代が下にあたる〈張之洞〉をのぞき,清の技術がヨーロッパに圧倒される様子を,まざまざと目撃しているわけです。彼らは「西洋の軍事技術を積極的に導入して,国を強くしよう」
(
中体西
用
【追H29時期(清代か問う)】
【立教文H28記】
)考えのもと
,
洋務運
動
【本試験H6時期(太平天国後の「開元の治」ではない),本試験H9[22]このときに科挙を廃止したわけではない,
本試験H11 当時(1871年前後)の中国の近代化政策として「欧米諸国から近代的な産業技術を導入することを図った」かどうか問う】
をおこないました。
彼ら漢人官僚は,故郷では
富国強兵という観点からみれば、1880年代までに編成された広東水師・福建水師・北洋水師は当時のアジア最強の艦隊でした。1884年~1885年の清仏戦争で福建水師は壊滅しましたが、全局においては互角であったといいます
(注1)
。
しかし、中国における
近代的な軍隊の国家的統一
は、日本やオスマン帝国のようにちゃんと整備されず、「有力官人の私的軍隊的性格」の強いもので、日本の「維新」のような体制変革をともなわない「体制内変革」でした
(注2)
。
また、日本のようにヨーロッパの事情に通じた人が改革を主導するのではなく、一部の体制側の漢人官僚が改革を主導したことも、挙国一致ですすめられた日本の近代化との大きな違いと言えるでしょう
(注3)
。
そもそも洋務運動の「洋」も、ニュアンスとしては伝統的な「夷」(い)という意識と同じように使われており、1858年の天津条約第51条において、「
夷
務」を「
洋
務」とか「外国事件」とする旨が明記されたため「洋」があてられたに過ぎないのです
(注4)
。
(注1)神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.211。高橋孝助「中華帝国の近代化と再編」(歴史学研究会編 講座世界史3『民族と国家―自覚と抵抗』東京大学出版会、1995年)を引いて。
(注2) 鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、pp.266-267。
(注3) なかにはアメリカ合衆国のイェール大学で法学を学んだ〈容閎〉(ようこう、1828~1912)や、フランスで法学を学んだ〈曽紀沢〉(そうきたく、1839~1890。曽国藩の息子) のような人物もいましたが、前者は駐米講師、後者は駐仏・駐露行使となるにとどまり、改革の中心に座ることはありませんでした。鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.266。
(注4)神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.210。高橋孝助「中華帝国の近代化と再編」(歴史学研究会編 講座世界史3『民族と国家―自覚と抵抗』東京大学出版会、1995年)を引いて。
・
184
8
年
~
187
0
年のアジア 東アジア
現⑤・⑥
朝鮮半島
1862年には壬戌民乱が起き,南部一帯の民衆が抵抗しました。1863年に国王〈哲宗〉(チョルジョン,位1849~63)がなくなるとつぎの国王には,
〈
高
宗
〉(ゴジョン,位1863~97)が就任しました。当時権力をふるっていた安東金氏を抑えようと,遠い家柄から選ばれた国王でした。その父が〈興宣君〉で,〈大院君〉と呼ばれることになりました。まだ国王は幼かったため、この
〈
大院
君
〉(興宣大院君,こうせ
ん
だ
いいんくん;フンソンデウォングン,1820~1898)
【本試験H31欧米諸国の開国要求を受け入れていない】
が摂政として国政の実権を握ることとなりました。
19世紀には,全州李氏の次に,安東金氏が高位を占めるようになっており,〈大院君〉は安東金氏の勢力を弱めるために官制改革を断交。また,王権を強化するために,地方にあった両班層の教育機関である書院を廃止し,さらに両班から新税を徴収しました。
○184
8
年
~
187
0
年のアジア 東南アジア
◆ヨーロッパ諸国による植民地支配が本格化したが,タイは柔軟な外交・改革により回避した
東南アジ
ア
...①ヴェトナム,②フィリピン,③ブルネイ,④東ティモール,⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア,⑧カンボジア,⑨ラオス,⑩タイ,⑪ミャンマー
・
184
8
年
~
187
0
年のアジア 東南アジア
現①
ヴェトナム
,⑧
カンボジア
フランスは戦争によりインドシナに武力進出する
ヴェトナ
ム
は,1802年以来
,
阮
朝
(げんちょう)越南国(えつなんこく)が統一をしていました。しかし,1844年にフランスは,アヘン戦争(1840~42)後の清と個別に結んだ黄埔条約を中国進出の足がかりとしようとすると,ヴェトナムの戦略的な重要性が高まっていきます。
「何か攻める理由がないか」と考えていたフランスは,ヴェトナムで捕らえられていたフランス人宣教師の解放を口実に進出を開始。ときの皇帝
〈
ナポレオン3
世
〉が,1858年に阮朝と開戦しました。
1862年
に
サイゴ
ン
で
条
約
が締結され,メコン川下流
の
コーチシナ東
部
の割譲,メコン川の自由な通行,3港の開港,賠償金の支払いが取り決められました。この露骨な進出に対し,割譲された領土の返還交渉がパリでおこなわれたものの,1867年に
は
コーチシナ西
部
も武力併合し,メコン川下流の三角州地帯はすべてフランスの植民地となってしまったのです。
その間,1863年に
は
カンボジ
ア
がフランス
【セA H30イギリスではない】
によって保護国化されました。
こうしたフランスの進入を受け,1867年に中国の太平天国にも参加していた客家(ハッカ)出身の軍人
〈
劉永
福
〉(りゅうえいふく,1838~1917)
【本試験H13】
ヴェトナムの阮朝の下で,1867年に農民主体の私兵
(
黒旗
軍
【本試験H13】
)を率いてフランス軍と戦う準備を整えていきました。
○184
8
年
~
187
0
年のアジア 東南アジア
現②
フィリピン
フィリピンでは輸出向け農園支配が強まっていく
フィリピンでは1850年代後半から,本格的に輸出向けの商品作物生産が始まっていきました。砂糖
(
サトウキ
ビ
からつくります)
,
マニラ
麻
(ロープの材料,アバカともいう)
【慶商A H30記】
,
タバ
コ
が輸出品の85%を占めました。
特にアメリカとイギリス向けの輸出が多く,イギリスからの輸入が多くを占めていました。
こうして大土地所有
の
アシエンダ
制
が拡大していきます。
○1848
年~
1870
年のアジア 西アジア
・
181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 南アフリカ
現③
レソト
レソト王国の〈モシュシュ1世〉(位1822~1870)が独立を維持しています。
・
184
8
年
~
187
0
年のアフリカ 南アフリカ
現④
南アフリカ共和国
先住のオランダ系
【セ試行 オランダ人の子孫か問う】
の人々は
「
ボーア
人
」
【セ試行】
と呼ばれ,奴隷を使って農牧業を展開していました。しかし,1833年にイギリスが世界中すべての植民地における奴隷制を廃止すると,ケープ植民地のボーア人は生きるすべをなくすことに...。
そこでボーア人たちは,ウシを連れて北上を開始したのです。これ
を
グレー
ト=
トレッ
ク
といいます。
しかし,このボーア人の移住に対し危機感を強めたのが,南アフリカ南東部で拡大していたバントゥー諸語系
の
ズールー王
国
です。ボーア人は戦闘に勝利し,さらに北上をすすめていきます。
こうしてボーア人
【本試験H4】
が建設したのが
,
トランスヴァール共和
国
(1852)
(注
)
【追H27オランダが併合したのではない】
【本試験H4】
【東京H7[3]】
と
,
オレンジ自由
国
(1854)
【追H27オランダはオレンジ自由国を併合していない】
【本試験H4】
だったのです。しかし,ここでダイヤモンドと
(注)正式名称は「南アフリカ共和国。The South Africa Republic。」前川一郎『イギリス帝国と南アフリカ―南アフリカ連邦の形成 1899~1912』ミネルヴァ書房,2006,p.25。
・
181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 南アフリカ
現⑤
ナミビア
ナミビアの海岸部に
は
ナミ
ブ
砂漠が広がる不毛の大地。
先住のサン人の言語で「ナミブ」は
「
何もな
い
」という意味です(襟裳岬と同じ扱い...)。
そんなナミビアにもバントゥー系の人々の居住地域が広がり,バントゥー語群
の
ヘレロ
人
も17~18世紀にかけて現在のナミビアに移住し,牧畜生活をしています。ナミビア北東部のアンゴラとの国境付近のヘレロ人の一派は〈ヨシダナギ〉(1986~)の撮影で知られ
る
ヒン
バ
です。
1830年代にはイギリスと現・ドイツのキリスト教伝道協会がナミビアの地を訪れています。
・
184
8
年
~
187
0
年の南アフリカ
現⑥
ザンビア
,⑦
マラウィ
このころ,現ザンビア東部やマラウィは,アラブ人による奴隷交易の奴隷供給先となっており,マラウイ湖畔の支配者や,チェワ人の首長が,住民をつかまえて商人に売り渡していました。
この時期のザンビアには
は
ロ
ジ
人の国家などがありますが,内陸に位置するザンビアにアラブ人やポルトガル人が訪れたのは,沿岸部に比べて遅い時期にあたります。
モザンビークとタンザニアの国境付近からマラウイ湖に1840年ころに移動したヤオ人は,アラブ人から武器を入手し,住民を襲ってアラブ人に売却していました
(注
1)
。南アフリカのズールー人の王国から逃げたンゴニ諸族の一派も,19世紀前半にマラウィ湖南部に北上し,住民に対する攻撃をしています
(注
1)
。
イギリスにより派遣されたスコットランド人の探検家・宣教師
〈
リヴィングスト
ン
〉
【東京H19[3]】
は,ヴィクトリア滝の発見後,ザンベジ川の支流シーレ川をさかのぼり,マラウイ湖に至りました。1861年にマラウイ湖畔のコタコタというところで奴隷交易に関わる指導者と,奴隷交易をやめるよう交渉しています
(注
2)
。奴隷交易は19世紀後半にキリスト教の宣教による効果もあり,次第に下火となっていきました。
(注2)栗田和明『マラウイを知るための45章』明石書店,2010,p.46
(注2)栗田和明『マラウイを知るための45章』明石書店,2010,p.45Z
・
181
5
年
~
184
8
年のアフリカ 南アフリカ
現⑨
ボツワナ
ボツワナの大部分は砂漠
(
カラハリ砂
漠
)や乾燥草原で,農耕に適さず牧畜や狩猟採集が行われていました。
バントゥー系
の
ツワナ
人
は農耕のほかに牧畜も営み,ボツワナ各地に首長制の社会を広げています。
先住のコイサン系
の
サン
人
も,バントゥー系の諸民族と交流を持っています。
ケープタウ
ン
から北上するヨーロッパ系住民との接触も起こるようになっています。
○184
8
年
~
187
0
年のアフリカ 中央アフリカ
中央アフリ
カ
...現在の①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン
この時期になっても,コンゴ盆地のザイール川上流域に広がる熱帯雨林の世界は,"闇の世界"として,ヨーロッパ人にはほとんど知られずにいました。ザイール川の上流とナイル川の上流部は「つながっているのではないか?」という説もあったほどです。イスラーム商人の流入や,ヨーロッパ人によ
る
奴隷貿
易
に刺激された奴隷狩りなどの外部の影響を受けながらも,バントゥー系の小さな民族集団が,焼畑農耕を営みながら住み分けていました。
アンゴ
ラ
にはポルトガルの植民が進んでいましたが,17世紀中頃には新たに進出したオランダとの間で抗争も起きています。17世紀後半にはコンゴ王国の王権はあって無いような状態となり,コンゴ盆地には諸王国が分立していました。
・
184
8
年
~
187
0
年のアフリカ 中央アフリカ
現①
チャド
ボルヌ王
国
(14世紀末~1893)が強大化し,西方のハウサ諸王国と交易の利を争っています。
・
184
8
年
~
187
0
年のアフリカ 中央アフリカ
現②
中央アフリカ
ボルヌ王
国
(14世紀末~1893)が強大化し,西方のハウサ諸王国と交易の利を争っています。
・
184
8
年
~
187
0
年のアフリカ 中央アフリカ
現③
コンゴ民主共和国
,④
アンゴラ
,⑤
コンゴ共和国
,⑥
ガボン
コンゴ盆地に
は
ルンダ王
国
と
ルバ王
国
が栄えます。
ギニア湾沿岸のコンゴ川下流
は
コンゴ王
国
が支配し,南方
の
ポルトガル領アンゴ
ラ
と対抗しています。ポルトガル,イギリス,フランスなどのヨーロッパ諸国は,アンゴラのルアンダ港を初めとするギニア湾沿岸から奴隷を積み出しています。
・
184
8
年
~
187
0
年のアフリカ 中央アフリカ
現⑦
サント
メ=
プリンシペ
ギニア湾の小島は環境破壊ではげ山に
サントメ=プリンシペは,現在のガボンの沖合に浮かぶ火山島です。
1470年
に
ポルトガ
ル
人が初上陸して以来,1522年にポルトガルの植民地となり,
火山灰土壌を生かし
た
サトウキビのプランテーショ
ン
が大々的に行われました。
しかし過剰な開発は資源を枯渇させ
,生産量は18世紀にかけて激減。17世紀前半には一時オランダ勢力に占領され,イギリスやフランス勢力の攻撃も受けるようになります。
サントメ=プリンシペは,代わって奴隷交易の積み出し拠点として用いられるようになっていきます。
19世紀後半にポルトガルによる奴隷貿易は廃止されましたが,奴隷制が継続してい
た
ブラジ
ル
向けに奴隷輸出は続いていました(ブラジルでは1888年に廃止)。
・
184
8
年
~
187
0
年のアフリカ 中央アフリカ
現⑧
赤道ギニア
現在の赤道ギニアは,沖合のビオコ島と本土部分とで構成されています。
現在
の
赤道ギニ
ア
はイギリスの奴隷交易の拠点となっていましたが,1843年イギリスが撤退すると代わっ
て
スペイ
ン
が農業プランテーションのために植民を進め,1844年以降,ギニア湾に浮かぶビオコ島での開発を進めていきました。1850年代に入ると大陸側のリオムニへの植民も進めていきます。
・
184
8
年
~
187
0
年のアフリカ 中央アフリカ
現⑨
カメルーン
現在のカメルーンの地域は,この時期に強大化し
た
ボルヌ帝
国
の影響を受けます。
カメルーンの人々はポルトガルと接触し,ギニア湾沿岸
の
奴隷交
易
のために内陸の住民
や
象
牙
(ぞうげ)などが積み出されていきました。
○184
8
年
~
187
0
年のアフリカ 西アフリカ
西アフリ
カ
...①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ
イスラーム改革運動を掲げた新国家が樹立される
・
184
8
年
~
187
0
年のアフリカ 西アフリカ
現①
ニジェール
,②
ナイジェリア
,③
ベナン
ベニン王国
ニジェール川下流域(現在のナイジェリア南部)では,下流
の
ベニン王
国
(1170~1897)が15世紀以降ヨーロッパ諸国との奴隷貿易で栄えます。デフォルメされた人物の彫像に代表され
る
ベニン美
術
は,20世紀の美術家
〈
ピカ
ソ
〉(1881~1973)らの立体派に影響を与えています。
ダホメー王国
その西の現在の
③
ベナ
ン
の地域にフォン人
の
ダホメー王
国
(18世紀初~19世紀末)があり,東にいたヨルバ人のオヨ王国と対立し,奴隷貿易により栄えます。
オヨ王国
17世紀には,ベニン王国の西(現在のナイジェリア南東部)でヨルバ人によ
る
オヨ王
国
(1400~1905)が勢力を拡大させました。もともとサハラ沙漠の横断交易で力をつけ,奴隷貿易に参入して急成長しました。1728年には,ベニン王国の西にあっ
た
ダホメー王
国
を従えています。
◆
イスラーム教をよりどころに,従来の王国に対する抵抗運動が起きる
フラニ人による西アフリカの国家再編が起きる
ニジェールからナイジェリアにかけての熱帯草原〔サバンナ〕地帯には
,
ハウサ人の諸王
国
が多数林立していました。ハウサ王国はチャド湖を中心とするボルヌ帝国と,西方のニジェール川流域のソンガイ帝国の間にあって,交易の利を握って栄えていたのです。
そんな中,
②
ナイジェリ
ア
北部のハウサ人の地域では
,
トゥクルール
人
のイスラーム神学者〈ウスマン=ダン=フォディオ〉(1754~1817)が「ジハード」(聖戦)を宣言。王に即位して,周辺のハウサ諸王国を次々に併合していました。これ
を
フラニ戦
争
(1804~1808)といい,建てられた国はソコトを都としたの
で
ソコト帝
国
(ソコト=フラニ)といいます。
ニジェール川流域では
,
セグー王
国
,
マシナ王
国
がありましたが,この地
の
フラニ
人
(フルベ人,自称
は
プール
人
)もソコト=フラニの改革の刺激を受けています
(注
)
。
これにより,広範囲がイスラームの支配者で統治されたことで,牧畜民と農耕民の双方に利益が還流され
(注
2)
,サハラ交易は活発化していきました。
(注1)ジェレミー・ブラック,牧人舎訳『世界史アトラス』集英社,2001,p.167。
(注2)現在の同地域n牧畜民・農耕民の物・サービスの移動を通した相互関係は,嶋田義仁『牧畜イスラーム国家の人類学―サヴァンナの富と権力と救済』世界思想社,1995,p.256,263図表を参照。
(注3)この時期のフラニ人(プール人)の聖戦に題材をとった小説に,マリのフラニ人作家〈アマドゥ=ハンパテバー〉(1900?~1991)の『アフリカのいのち―大地と人間の記憶/あるプール人の自叙伝』新評論,2002という好著があります。
・
184
8
年
~
187
0
年のアフリカ 西アフリカ
現④
トーゴ
,⑤
ガーナ
ギニア湾沿岸には,現在の
⑤
ガー
ナ
を中心
に
アシャンティ王
国
(1670~1902)
【東京H9[3]】
が奴隷貿易によって栄えました。アシャンティ人の王は「黄金の玉座」を代々受け継ぎ,人々により神聖視されていました。
海岸地帯は「黄金海岸」と呼ばれ
,
イギリス領黄金海
岸
〔ゴールド=コースト〕となっています。
現在の
④
トー
ゴ
は,アシャンティ王国やダホメー王国の影響下にありました。
・
184
8
年
~
187
0
年のアフリカ 西アフリカ
現⑥
コートジボワール
ヨーロッパ人によって
「
象牙海
岸
」と命名されていた現在のコートジボワール。
コートジボワール北部
,
ブルキナファ
ソ
からマリにかけてニジェール=コンゴ語
族
マンデ
系
のコング王国。コートジボワール東部にニジェール=コンゴ語
族
アカン
系
のアブロン王国などが栄えています。
・
184
8
年
~
187
0
年のアフリカ 西アフリカ
現⑦
リベリア
1847年にアメリカ合衆国のアメリカ植民協会によって建国が支援され
た
リベリア共和
国
【本試験H5 19世紀に奴隷貿易のための植民地となったのではない】
【東京H7[3],H19[3]】
では,初代大統領に〈ロバーツ〉(任1848~56)が就任しました。しかし,政権をとっ
た
アメリカ系黒
人
(アメリカ合衆国の解放奴隷をルーツとする人々)は,先住の諸民族を支配する構図となり,先住民の抵抗も強まっていきます。
・
184
8
年
~
187
0
年のアフリカ 西アフリカ
現⑧
シエラレオネ
シエラレオネにはイギリスの交易所が沿岸に設けられ,奴隷交易がおこなわれていました。
・
184
8
年
~
187
0
年のアフリカ 西アフリカ
現⑨
ギニア
現在のギニア中西部の高原には熱帯雨林と熱帯草原〔サバンナ〕が広がりフータ=ジャロンと呼ばれます。
この地の牧畜
民
フラニ
人
(自称
は
プール
人
)は,1725年
に
フー
タ=
ジャロ
ン
王国を建国し,イスラーム教を統合の旗印として周辺地域に支配エリアを広げていきます。
・
184
8
年
~
187
0
年のアフリカ 西アフリカ
現⑩
ギニアビサウ
現在のギニアビサウにはポルトガルが「ビサウ」を建設し,植民をすすめています。
・
184
8
年
~
187
0
年のアフリカ 西アフリカ
現⑪
セネガル
,⑫
ガンビア
セネガ
ル
に
は
フラン
ス
の植民がすすんでいます。
西アフリカ西端の
⑪
セネガ
ル
では,1840年に交易拠点のサン=ルイに議会が設置され,フランスから派遣される総督が議長を務め,現地人とフランス人居住者から議員が選出されました。1848年にフランスで二月共和制が始まると,サン=ルイやゴレ島の住民は「コミューン」としてフランス本国の自治体と同等の権利を要求するようになりました。
(注)小林了編著『セネガルとカーボベルデを知るための60章』明石書店,2010年,p.19。
・
184
8
年
~
187
0
年のアフリカ 西アフリカ
現⑬
モーリタニア
現在
の
モーリタニ
ア
にはヨーロッパ諸国の植民は進んでいません。
・
184
8
年
~
187
0
年のアフリカ 西アフリカ
現⑭
マリ
フラニ人がニジェール流域で自らの国家を樹立
ニジェール川沿岸部のセグーでは,ニジェール=コンゴ語族メンデ系のバンバラ人
が
バンバラ王
国
(セグー王国,1712~1861)を建国しています。
このバンバラ人の王国に貢納を課されていた牧畜
民
フラニ
人
(フルベ人,自称
は
プール
人
)は,自立を求めイスラーム改革運動を掲げて「ジハード」(聖戦)を起こし,西方
で
ソコト帝
国
を樹立していたトゥクルール人の聖職者〈ウスマン=ダン=フォディオ〉の弟子となった〈セク=アマドゥ〉(位1818~1845)の指導下に
,
マシナ王
国
(1818~1862)が建国されます
(注
)
。
・
184
8
年
~
187
0
年のアフリカ 西アフリカ
現⑮
ブルキナファソ
ニジェール川湾曲部の南方に位置する現在のブルキナファソには
,
モシ王
国
が栄えていました。
○184
8
年
~
187
0
年のアフリカ 北アフリカ
北アフリ
カ
...①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア
・
184
8
年
~
187
0
年のアフリカ 北アフリカ
現①
エジプト
◆
アメリカ合衆国の南北戦
争
(186
1~
1865
)
勃発を受け,エジプトが綿花栽培地として注目される
綿花の産地となったエジプトにスエズ運河ができる
ムハンマド=アリー朝
の
エジプ
ト
は,1840年
の
ロンドン四カ国条
約
でエジプト総督の世襲権を獲得したもの
の
スーダ
ン
以外の支配地域は放棄し,市場開放が求められました。エジプトには1838年にオスマン帝国がイギリスと結んだ不平等な通商条約が適用されましたが,ナイル川流域の農作物の生産力はきわめて豊かであり,アメリカ合衆国で南北戦争(1861~65)が勃発すると,価格の高騰す
る
綿
花
供給の代替地として大注目されました。綿花輸送のために南フランスのマルセイユと地中海沿いのアレクサンドリア,さらにスエズとインドのボンベイの間に蒸気船航路がつくられ,カイロとアレクサンドリア,カイロとスエズの間に鉄道が開通しました。さらに1869年には地中海と紅海・インド洋を結
ぶ
スエズ運
河
が,エジプト政府とフランス政府が大株主となったスエズ運河株式会社により設立・運営されました(イギリス政府は運河株を購入しませんでした)。
インド支配を進めていたイギリスが地中海と紅海~インド洋を直結させる鉄道を計画していたのに対し,〈ナポレオン3世〉支配下のフランスで
は
スエズ運
河
の建設がフランスの
〈
レセップ
ス
〉の外交交渉によって実現。話に応じた当時のエジプト「総督」〈サイード=パシャ〉(位1854~1863)は,エジプトの農民を無償徴用して多数の人命が失われ,財政も悪化しました。〈レセップス〉は〈サイード〉の家庭教師を務めたことがあり,〈ナポレオン3世〉の妻〈ウジェニー〉とも親しくしていました。この"コネ"により〈レセップス〉は1858年に設立し
た
スエズ運河会
社
を通してフランス・エジプトから資金を調達することに成功。運河は1869年に完成し,オープンセレモニーではイタリアの〈ヴェルディ〉作曲の「アイーダ」が演奏されています。
完成後まもなく,日本
の
岩倉使節
団
【セA H30】
がスエズ運河を通っています。〈
・
184
8
年
~
187
0
年のアフリカ 北アフリカ
現④
モロッコ
モロッ
コ
では,サハラ沙漠の交易ルートを握ったアラウィー家が17世紀後半に頭角を現していました
(
アラウィー
朝
)。ヨーロッパ諸国の進出が活発化すると,〈スライマーン〉(位1792~1822)は鎖国政策をとり対応しました。19世紀後半にイギリス(1856),スペイン(1860~61),フランス(1863)が相次いで不平等な通商条約を結ぶと,ヨーロッパ諸国に従属していくようになりました。
スペインはモロッコへの軍事的進出をおこない,1859~60年の戦争で
「
スペイン領モロッ
コ
」(地中海沿岸のセウタからメリーリャと,現在のモロッコ南部の
「
西サハ
ラ
」にわたる領域)を形成しました。
・
184
8
年
~
187
0
年のアフリカ 北アフリカ
現⑥
アルジェリア
アルジェリ
ア
【本試験H8】
ではフランスの進出に対し,地方で名望のあったアラブ系部族
〈
アブ
ド=
アルカーディ
ル
〉がアラブ系とベルベル系を率いて1832~1847年まで激しく抵抗しましたが鎮圧されました
(注
)
。1848年にはアルジェリアにフランス本国と同じ「県」が置かれ
,
フラン
ス
【本試験H8】
人入植者
(
コロ
ン
)によって支配されました。コロンによって農場や工場が建設され近代化が進む一方で,当初は住民は従来の現地支配層により管理されました。
〈ナポレオン3世〉は
「
同化政
策
」(アルジェリア人をフランス人と同等に扱い,フランス文化に溶け込ませる政策)をとり,アルジェリア人にフランス国籍を認めましたが,現地支配層はそれに反発し,普仏戦争で〈ナポレオン3世〉が敗北するとアルジェリアに共和政を打ち立てる運動が起きました(アルジェ=コミューン)。
・
184
8
年
~
187
0
年のアフリカ 北アフリカ
現⑦
チュニジア
チュニジ
ア
のフサイン朝は,オスマン帝国のタンジマートにならって近代化をすすめ,1861年には憲法を公布しました(1864年に停止)。しかし急速な近代化は財政を圧迫し,ヨーロッパ諸国から借金をしたために1869年に破産してイギリス・フランス・イタリアによる財政管理状態に陥りました。
・
184
8
年
~
187
0
年のアフリカ 北アフリカ
現⑧
リビア
リビ
ア
西部のトリポニタニアは,1835年以降オスマン帝国の支配下に置かれました。
○
184
8
年
~
187
0
年のヨーロッパ 東ヨーロッパ
東ヨーロッ
パ
(注)
...①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
(注)冷戦中に「東ヨーロッパ」といえば,ソ連を中心とする東側諸国を指しました。ここでは以下の現在の国々を範囲に含めます。バルカン半島と,中央ヨーロッパは別の項目を立てています。
クリミア戦争のさなかの1855年,ロシア皇帝
〈
ニコラ
イ1世
〉(位1825~55)はインフルエンザで亡くなります。代わって即位したのが
〈
アレクサンドル2
世
〉
【本試験H9】
【本試験H14ニコライ1世ではない】
【追H19】
です。彼は「ロシアが負けたのは,フランスやイギリスに比べて遅れているからだ」と自覚し,貴族の反対を押し切って1861年に
は
農奴解放
令
【本試験H6農民への土地の無償分与ではない,本試験H9】
【本試験H13時期(クリミア戦争の敗北後),本試験H14時期(19世紀)】
【追H19】
を発布します。
こういう内容です。
まず,農民に貴族(領主)の土地を有償
【本試験H6無償ではない】
で分け与え,自由な身分としました。
しかし,「有償」といっても,農民がポンと土地代を支払えるわけがありません。そこで,土地を得たい農民は従来からあ
る
ミー
ル
を改編した農村共同体に入って,みんなで協力して支払う制度にしました。「農奴解放」といっても,自由になった農民が自由の土地を手にするのは難しかったのです。結局ロシアでは,19世紀後半になっても,都市労働者は全人口の5%にとどまりました。知識人(インテリゲンツィア)
【追H9】
の中には,1860~70年代に,〈チェルヌイシェフスキー〉らを中心に,農村共同体に直接入り込み農民を教育することで,西ヨーロッパとは異なる形で平等な社会を作ろうとする運動が起きました。
農村共同体(ミール)
【本試験H6】
を基盤とし「人民の中へ
(
ヴ=
ナロー
ド
)」
【本試験H10「1870年代に多くの青年・学生が農村に入り,革命を宣伝しようとした」ものか問う,時期を問う(フランス資本の導入(露仏同盟締結)以降ではない)】
をスローガンにした彼ら
は
ナロードニ
キ
【追H9】
といわれました
【本試験H3デカブリストではない,本試験H6,本試験H12「農村共同体(ミール)を基盤にして社会を改革しようとした」か問う】
【本試験H22 時期1848年ではない】
。
しかし,理想を追い求めるあまり,挫折した者は急激に社会を変えよう
と
テロリズ
ム
に走る派閥(人民の意志(1879年結成)皇帝〈アレクサンドル2世〉
【本試験H10アレクサンドル1世ではない】
を暗殺しました)も現れるようになります。
農奴が領主の支配を離れると,地方自治をする必要が出てきたため,1864年には地方自治機関
の
ゼムストヴ
ォ
を設置しました。また,1870年に
は
都市
法
も制定し,都市の自治組織も整備しました。
このような改革姿勢に対し,「〈アレクサンドル2世〉は自由を認めてくれる皇帝なのかもしれない」と期待を持ったのは,バルト海から黒海まで広い範囲を支配してい
た
ポーラン
ド=
リトアニア連合王
国
の領域内にいた
,
ポーランド
人
,
リトアニア
人
,
ベラルーシ
人
(リトアニア大公国の領域内にいたスラヴ人)
,
ウクライナ
人
(だいたいポーランド王国の領域内にいたスラヴ人)たちです。
1861年にロシアで発布された農奴解放令がポーランドでは未実施だったこともあり,ポーランドでは1863年にロシア帝国からの完全独立を求める反乱を起きましたが,ロシアにより鎮圧されてしまいました
(
一月蜂起,
ポーランド反
乱
)
【本試験H6「汎スラヴ主義の強い影響下で起こった」わけではない】
【本試験H16時期・フランスからの独立ではない,本試験H22 19世紀後半に独立を回復していない】
。
ポーランド=リトアニアの反乱をきっかけに,〈アレクサンドル2世〉
【本試験H6】
は自由主義的な姿勢を弱めることに。
ポーランドとリトアニアでは徹底的
に
ロシア化政
策
(ポーランド語,リトアニア語,ルテニア語(現在のベラルーシ語のもと)による教育の禁止)がすすめられ,さまざまな面でポーランド人の文化が抑え込まれていきました。
このとき迫害を受けた父母を持つ〈マリア=スクウォドフスカ〉
(
マリ
ー=
キュリ
ー
【東京H30[1]指定語句(マリー)】
【本試験H17 X線の発見ではない,本試験H23レントゲンではない】
,キュリー夫人,1867~1934)
【本試験H8】
は,故郷を離れフランスのパリで学び,フランス人の夫とともに放射性物質
の
ラジウ
ム
【本試験H8】
と
ポロニウ
ム
を発見し(1898)
【本試験H17X線ではない】
,ノーベル賞を受賞しました。
リトアニアの北方
の
ラトビ
ア
も,18世紀以
降
ロシ
ア
【本試験H16オスマン帝国の支配下ではない】
の支配下に置かれていましたが,ロシア化政策が強まるにつれ,19世紀後半からはラトビア語文学も作られるようになり,「ラトビア人意識」が高まっていきました。しかし,中世にドイツ騎士団が支配していた影響から,ドイツ系の住民
(
バル
ト=
ドイツ
人
)も多く,国民的としての統一はスムーズにはいきませんでした。
その後皇帝〈アレクサンドル2世〉は,父〈ニコライ1世〉が果たせなかった南下にリベンジを賭けるようになっていきます。
ロシアでは,西欧諸国と比べた発展の"遅れ"に対して目を背けず,汚い部分も含めて"ありのまま"に描くことで,人々に問題に気づかせることができるのではないかと考える
「
写実主
義
」に分類される作家が現れていました。
早くには
〈
トゥルゲーネ
フ
〉(1818~33)
【本試験H18バイロンとのひっかけ】
の『猟人日記』(農奴制を批判)・『父と子』(主人公の思想はニヒリズム)。その後,
〈
ゴーゴ
リ
〉(1809~52)の『検察官』『死せる魂』,
〈
ゴーリキ
ー
〉(1868~1936)の『どん底』
【本試験H15『オネーギン』ではない】
,
〈
ドストエフスキ
ー
〉(1821~81)
【追H20ユーゴーとのひっかけ、H28魯迅とのひっかけ(『狂人日記』は書いていない)】
の『カラマーゾフの兄弟』
(注
)
,『罪と罰』,
〈
トルスト
イ
〉(1828~1910)
【追H20ユーゴーとのひっかけ】
の
『
戦争と平
和
』
【追H20ユーゴーの作品ではない】
,
〈
チェーホ
フ
〉(1860~1904)の『桜の園』が代表です。
(注)青空文庫『カラマーゾフの兄弟』 https://www.aozora.gr.jp/cards/000363/card42286.html
○
184
8
年
~
187
0
年のヨーロッパ 中央ヨーロッパ
中央ヨーロッ
パ
...①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ ※これらは現在の中央ヨーロッパにある国家の名称ですから,この時期に同じ領域の国家があったわけではありません。本文に示した番号(上記①~⑦に対応)は,おおむね現在の国家が位置する領域を指して用いていますが,完全に一致するわけではありません。
・
184
8
年
~
187
0
年のヨーロッパ 中央ヨーロッパ
現①
ポーランド
ポーランド王国では,ロシア帝国が君主を兼ねる政体が続いていました。
〈アレクサンドル2世〉(位1855~1881)がクリミア戦争後に近代化に向けて自由化政策をとると,「〈アレクサンドル2世〉は自由を認めてくれる皇帝なのかもしれない」と支配下にあった諸民族の期待を生みました。
かつてバルト海から黒海まで広い範囲を支配してい
た
ポーラン
ド=
リトアニア連合王
国
の領域内にいた
,
ポーランド
人
,
リトアニア
人
,
ベラルーシ
人
(リトアニア大公国の領域内にいたスラヴ人)
,
ウクライナ
人
(だいたいポーランド王国の領域内にいたスラヴ人)たちもそうです。
1861年にロシアで発布され
た
農奴解放
令
がポーランドでは未実施だったこともあり,ポーランドでは1863年にロシア帝国からの完全独立を求める反乱を起きましたが,ロシアにより鎮圧されてしまいました
(
一月蜂起,
ポーランド反
乱
)
【本試験H6「汎スラヴ主義の強い影響下で起こった」わけではない】
【本試験H16時期・フランスからの独立ではない,本試験H22 19世紀後半に独立を回復していない】
。
ポーランド=リトアニアの反乱をきっかけに,〈アレクサンドル2世〉
【本試験H6】
は自由主義的な姿勢を弱めることに。
ポーランドとリトアニアでは徹底的
に
ロシア化政
策
(ポーランド語,リトアニア語,ルテニア語(現在のベラルーシ語のもと)による教育の禁止)がすすめられ,さまざまな面でポーランド人の文化が抑え込まれていきました。
このとき迫害を受けた父母を持つ〈マリア=スクウォドフスカ〉
(
マリ
ー=
キュリ
ー
【東京H30[1]指定語句(マリー)】
【本試験H17 X線の発見ではない,本試験H23レントゲンではない】
,キュリー夫人,1867~1934)
【本試験H8】
は,故郷を離れフランスのパリで学び,フランス人の夫とともに放射性物質
の
ラジウ
ム
【本試験H8】
と
ポロニウ
ム
を発見し(1898)
【本試験H17X線ではない】
,ノーベル賞を受賞しました。
・
184
8
年
~
187
0
年のヨーロッパ 中央ヨーロッパ
現②
チェコ
,③
スロヴァキア
,④
ハンガリ
ー
(当時はクロアチアとスロヴェニアを含みます
)
,⑤
オーストリア
◆
都市改造された帝都ウィーンは,中央ヨーロッパう随一の国際色豊かな都市として発展へ
オーストリ
ア=
ハンガリー二重帝国が成立する
ハプスブルク家のオーストリアは,1866年に普墺戦争
【追H29】
で敗北すると支配下に置いていたハンガリー人による自治要求をおさえることが困難となり,1867年に西部
の
ハンガリーを除外した領
域
((a)ハプスブルク家世襲領と,(b)ボヘミア・モラヴィア・シレジア・ガリツィア・ブコヴィナ・アドリア海沿岸)と,東部
の
ハンガリ
ー
の同君連合として再編成されました。
この"妥協"のことをドイツ語
で
アウグスライ
ヒ
(
妥
協
),ハンガリー語でキエジェゼーシュ(妥協)と呼び,成立した国家
は
オーストリ
ア=
ハンガリ
ー
【東
京
H8[1
]
指定語句
】
二重帝
国
と呼ばれます。
オーストリア皇帝として即位していた
〈
フラン
ツ=
ヨーゼフ1
世
〉(位1848~1916)が,1867年にハンガリー国王に即位し,帝国の初代皇帝にも即位することで成立しました。
皇帝・王は,ウィーンの旧市街を囲っていた城壁を取り除き,リンクシュトラーセという環状道路を建設。近代的な施設を建設し,都市改造に取り組みました(◆世界文化遺産「ウィーンの歴史地区」,2001)。
両国共通の皇帝の下には外相・陸相・蔵相には共通大臣が置かれ,西部のオーストリア
(多様な領域を含むため,各地に配慮して1915年までは「オーストリア」とは呼ばれませんでした)
と東部のハンガリーの各首相をあわせて共通閣議が設けられました。分担金はオーストリア70%,ハンガリー30%の比率。
なお,東部のハンガリーに
は
クロアチ
ア=
スラヴォニ
ア
(現在のクロアチアとスロヴェニア)が含まれ,この地域でのクロアチアの地方公用語としての使用や,部分的な自治が認められていました。
・
184
8
年
~
187
0
年のヨーロッパ 中央ヨーロッパ
現⑦
ドイツ
この時期に隣国フランスの急成長に対し危機感を高めていたのが,
〈
ビスマル
ク
〉(1815~98)
【早法H28[5]指定語句】
です。1862年にプロイセンの首相に就任(任1862~90)し,1864年
に
デンマーク戦
争
【追H19】
で
ホルシュタイン州とシュレスヴィヒ
州
を獲得
【本試験H30】
。
さらに1866年にプロイセン=オーストリア戦争
(
普墺戦
争
)に勝つ
と
ドイツ連邦を解
体
し
【追H29】
【本試験H13敗れていない・統一ドイツへのオーストリア編入を断念したわけではない】
,マイン川よりも北の諸領邦・都市の連合国家
(
北ドイツ連
邦
【本試験H14ドイツ(ヴァイマル)国とのひっかけ】
)をつくります。オーストリアは,領内のマジャール人の不満を押さえ込むことができなくなり,1867年にハンガリーに自治権を与え
,
オーストリ
ア=
ハンガリ
ー(
二
重)
帝
国
としました。
北ドイツ連邦に加盟していなかったのは
,
バイエル
ン
【慶文H30記】
をはじめとする南ドイツの諸邦です。これらの国家はカトリックであり,ルター派が多数の北部とは異質でした。しかし,南ドイツ諸邦とっての悩みは,隣国フランスの脅威です。
「フランスとの戦争になったら,北ドイツ連邦を頼るしかないのではないか」
南ドイツ諸邦は悩みます。
そんな中,1868年空位になっていたスペイン王位に
,
ホーエンツォレルン
家
(プロイセン国王の血筋です)をつける案が浮上。フランスは「そうなると,プロイセンの王家に,東西を挟まれることになる。反対だ!」と主張。結局スペイン王には〈ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世〉の次男が就任しましたが,疑心暗鬼のフランスはその後もプロイセンと交渉を続けます。交渉の場は,ドイツの温泉地エムス。保養中の〈ヴィルヘルム1世〉と「直接交渉させてほしい」というフランス大使を,皇帝は拒否しました。
すでにアメリカの
〈
モース
〔モールス
〕
〉(1791~1872)
【本試験H11】
【追H20コッホではない、H27電話機の発明ではない】
が,点と線の組合せによ
る
モールス電
信
(1838年頃まで)
【東京H15[1]指定語句「モールス信号」】
とい
う
有線電
信
【追H27電話機ではない】
【本試験H11:電話機ではない】
を実用化させていました。エムスでの交渉結果はすぐに電報で〈ビスマルク〉に送られます。受け取った〈ビスマルク〉は,「〈ヴィルヘルム1世〉が,フランス大使を追い返した」というところにポイントをしぼり,メディアに情報を流しました。それを聞いたフランス国民は「なんて失礼な国王だ!」と戦争賛成に世論が傾き,それに押されて〈ナポレオン3世〉も開戦を決意しました。
〈ビスマルク〉はフランスをけしかけるために電報を利用し,「フランスが攻めてくるから,一緒に戦おう」と南ドイツ諸邦の支持を得ようとしたのでした。
事前に周到な準備を重ねていた〈ビスマルク〉にとって,欲しかったのは「フランスのほうから攻めてくる」という状況だったのです。〈ビスマルク〉の画策していたとおり,7月19日にフランス議会が参戦を決議し,プロイセンに宣戦布告。〈ナポレオン3世〉は用意不足を自覚しつつ進軍し,プロイセンは「電撃戦」によって迎えました。結果的に〈ナポレオン3世〉も捕虜となりました
(
普仏戦
争
)
【本試験H27勝利していない】
。
アルザス地方とロレーヌ地
方
【本試験H12時期(1880年代ではない)】
【本試験H24ウィーン体制の結果ではない】
も,プロイセンにより占領されました。
プロイセン国王
〈
ヴィルヘルム1
世
〉(プロイセン王在位1861~88)は,1871年にフランス
の
ヴェルサイユ宮
殿
で,南ドイツ諸邦を含
む
ドイツ帝
国
(1871~1918)
【本試験H14ドイツ(ヴァイマル)国とのひっかけ】
の初代皇帝(位1871~88)に即位しました
【本試験H18】
。
このとき宮殿を戴冠式に使用したことは屈辱的な行為として,フランス国民の記憶に刻まれることになります。
ドイツ帝国は外見的立憲政治といわれ,一見憲法にもとづき議会による政治が行われているように見えますが,実態は皇帝に責任を負
う
宰
相
が立法権を管理することができ,議会は形だけの組織に過ぎませんでした。議会に
は
連邦参議
院
と,下院
の
帝国議
会
【本試験H19】
があり,帝国議会の提出した法案を連邦参議院が批准(ひじゅん)する仕組みになっています。帝国議会の議員
は
男子普通選
挙
【本試験H19】
で選ばれますが,連邦参議院の議員は22の君主国と3自由市の代表で構成されていました。
アルザス地方とロレーヌ地方は,ドイツ帝国の領土となりました。ロレーヌ地方に住んでいたルクセンブルク生まれの
〈
シューマ
ン
〉(1886~1963)はドイツ国民となり,のちにフランスの政治家(外務大臣)となりドイツ・フランスの和解を呼びかけ,"欧州連合の父"される人物です。
のちに,〈ビスマルク〉は語っています。
「統一ドイツが出来上がるためには,その前に普仏戦争が起こらねばならない事は分かっていた」
外側に敵を作ることで,一気に国民の統一を図ろうとしたわけです。
また,ロマン主義
【追H21】
やナショナリズム
【追H21】
の高揚の影響下に,内側でも「ドイツ人
【追H21フランスではない】
らしさとは何か?」というテーマが,様々な分野で検討されました。
歴史学では
〈
ラン
ケ
〉(1795~1886)
【本試験H28,本試験H31】
【追H21】
が「それは本来いかにあったか」をスローガンに,厳密な史料批判
【本試験H31】
に基づく近代的な歴史学研究法(近代歴史学
【本試験H31】
)を始めました
【本試験H28時期】
。
なお,〈ランケ〉の弟子の〈ルートヴィヒ=リース〉(1861~1928)は,明治時代の帝国大学のお雇い外国人となり,初の「史学科」を開いています
。
また,ドイツの
〈
ドロイゼ
ン
〉(1808~84)は「ヘレニズム」という歴史的な概念を提案しました。
〈
サヴィニ
ー
〉(1779~1861)は,その民族にはその民族の歴史に基づいた法があるべきだとい
う
歴史法
学
を主張し,ローマ法を中心とする従来の法学の伝統に対抗しました。
文学では
〈
グリム兄
弟
〉(兄ヤーコプ1785~1863,弟ヴィルヘルム1786~1859)が〈サヴィニー〉の影響からドイツ各地の昔話の収集を始め『グリム童話集』としてまとめ,ドイツ語の言語学的な研究も行い『グリム=ドイツ語大辞典』を編纂しました(完成は死後の1960年)。彼らは言語や昔話の中に,ドイツ人の民族らしさがこめられていると考えたのです。
音楽界ではザクセン王国生まれの
〈
シューマ
ン
〉(1810~56)が,多くのピアノ曲・歌曲・交響曲を残し
,
ロマン
派
の代表とされます。作曲家の
〈
ヴァーグナ
ー
〉(1813~1883)
【本試験H16オランダのロマン主義ではない・本試験H18】
は,ロマン派の歌劇(オペラ)を楽劇(がくげき)
【本試験H18】
に高め,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の物語にテーマをとった「ニーベルンクの指輪」で有名です。
また,科学分野での発達も進み,
〈
マイヤ
ー
〉(1814~78)
【本試験H17ファラデーではない】
と
〈
ヘルムホル
ツ
〉(1821~94)
【本試験H1
1
:無線通信を発明していない】
【本試験H17ファラデーではない】
【追H20コッホではない】
は
エネルギー保存の法
則
【本試験H17】
をそれぞれ発見(1842)・体系化(47)しました。また,
〈
リービ
ヒ
〉(1803~73)
は
有機化
学
を体系化し,化学合成や農薬開発に貢献しました。
またドイツの
〈
ジーメン
ス
〉(1816~92)は,発電機(1867)を発明しました。のちに,イギリスの
〈
ファラデ
ー
〉(1791~1867)
【本試験H17】
の発明した電磁誘導現象
【本試験H17エネルギー保存の法則ではない】
を利用して,電磁力の力で動力を得ることに成功し,1879年に
は
電気機関
車
(1879)も発明しています(営業運転は2年後から)。
○
184
8
年
~
187
0
年のヨーロッパ バルカン半島
バルカン半
島
...①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア
すでにギリシャは独立していましたが,その他多くの地域はいまだにオスマン帝国の領域下にあります。
しかしオスマン帝国の力が弱まるのに従って,ヨーロッパ勢力がその支配地域に付け込み,互いに争う
「
東方問
題
」がバルカン半島を揺さぶっていました。
現・ギリシャ
の
クレタ
島
はオスマン帝国の支配下にありましたが,1866年にオスマン帝国支配に対する反乱が起こりますが鎮圧されます。
○
184
8
年
~
187
0
年のヨーロッパ イベリア半島
・
184
8
年
~
187
0
年のヨーロッパ イベリア半島 現①スペイン
◆
スペインでは国民統合が進まず,経済的にも外国資本への従属が進んだ
スペインでは外国資本への従属がすすむ
スペインでは〈イサベル2世〉(位1833~68)の即位を巡って起きた第一次カルリスタ戦争(1833~30)中に,1837年に国民主権をうたった新たな憲法が制定されていました。しかし,スペインにおける国民的な意識の形成は進まず,さまざまな地域言語が残りスペイン語も普及しませんでした。19世紀末にはカタルーニャ
(
カタルーニャ
語
を話します)やバスク
(
バスク
語
を話します)における民族主義が活発になっていくことになります。
1850年代末から60年代初めにかけて自由主義派の連合政権ができ,セウタをめぐるモロッコとの戦争(1859~60),フランス・イギリスとともに行動し
た
メキシコ出
兵
(1861~62),1844年にハイチ(ハイティ)から独立していたサント=ドミンゴの併合(1861~65)など,対外的な進出も積極的におこないました。
一方,1851年にはローマ教皇庁との間の宗教協約(コンコルダート)によりスペインの国教であることが確認されて,教育や聖職者への俸給など国家と教会との関係は一段と深まっていきました。国教がしっかりと定まっていれば国家の統一が保たれるようにも思えますが,「正しい教え」をめぐって国内の対立を引き起こすマイナス要因でもありました。
1850年代~60年代にかけて鉄道の敷設がブームとなり,外国資本を導入してさまざまなインフラが整備されていきました。それと引き換えに国内の鉱山などの採掘権が譲渡され,先進の列強諸国への従属も強まっていきます。
1868年,〈イサベル2世〉の下の穏健派の政権が革命により倒れ,続いて即位した新国王も退位して1870年
に
第一共和
政
(1870~73)が樹立されました。
・
184
8
年
~
187
0
年のヨーロッパ イベリア半島 現②ポルトガル
ポルトガルはイギリスへの経済的従属がすすむ
ポルトガ
ル
では,刷新党と歴史党によるイギリス流の二大政党制が定着しました。1851年に成立した刷新党の〈サルダーニャ〉内閣は,外資を導入して交通・通信などのインフラ整備に取り組み,1856年には初の鉄道が開通されました。工業化のスピードは非常に遅く,イギリスを中心とする外国資本への従属が進んでいきました。
○
184
8
年
~
187
0
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
西ヨーロッ
パ
...①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
・
184
8
年
~
187
0
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ 現①イタリア
イタリア半島は,ウィーン議定書の取り決めにより,複数のに国家に分裂した状態となっていました。
北西には
,
サルデーニャ王
国
【本試験H16地図(サルデーニャ島の位置)】
。
北東には,ロンバルディア=ヴェネト王国(オーストリア皇帝が王位を兼ねています)。
中央部には,ローマ教会
の
教皇国
家
。
南部には,ブルボン家
の
両シチリア王
国
。
ほかにも大小の国々がありました。
イタリアでも統一を求めたり,自由をもとめたりする運動が起きていましたが,七月革命(1830年)・二月革命(1848年)に刺激されて起こった
,
カルボナ
リ
や
青年イタリ
ア
【共通一次 平1】
などの
「
下からの統
一
」運動は組織内の内紛もあり失敗してしまいます。
例えば1849年には教皇国家において共和派の運動が盛り上がると1848年に教皇〈ピウス9世〉はナポリに亡命し,1849年に共和派主導の男子普通選挙により成立した議会
で
ローマ共和
国
【共通一次 平1】【本試験H10】
の建国が宣言されました。かつ
て
青年イタリ
ア
【共通一次 平1】
【本試験H16】
を率いていた
〈
マッツィー
ニ
〉
【共通一次 平1】【本試験H7ガリバルディではない,本試験H10ガリバルディ,人民戦線政府を樹立した人,アメリカ独立戦争の義勇兵ではない】
【本試験H16】
(1805~1872)は,革命の"広告塔"として招かれ,執政官に就任しましたが,同年フランス軍
【本試験H10】
に鎮圧されました。
共和主義的な運動がことごとく失敗していく一方で,
「
上
(支配者
)
からの統
一
」を目指す動きはなかなか活発化しませんでした。
期せずして"イタリア統一"を担っていくことになったのは,オーストリアから領土を奪って北イタリア地域に拡大しようとした,イタリア半島の付け根に当たる北西部
と
サルデーニャ
島
【本試験H20地図】
を領土とす
る
サルデーニャ王
国
でした(当初からイタリア半島統一をねらっていたわけではありません)。
道のりは順風満帆なものではありませんでした。
オーストリアを追い出
し
ロンバルディ
ア
と
ヴェネツィ
ア
を獲得しようとした国王〈カルロ=アルベルト〉(位1831~49)は,オーストリアと戦って大敗を喫しています。
立て直しをはかったのが,
サルデーニャ
王国の自由主義者
〈
カヴー
ル
〉(1810~61)
【本試験H9ドイツではない。ビスマルクとのひっかけ】
です。彼は1852年に首相に就任し,「イタリアも,イギリスやフランスにならって,自由主義を認め,産業化をすすめる必要がある。だが,そのためには,フランスとオーストリアを同時に"敵"に回すことはできない。フランスの協力が必要だ」と考えました。
〈カヴール〉は,フランスの〈ナポレオン3世〉
に
ニー
ス
【東京H30[3]】
と
サヴォ
ワ
を割譲すると約束(1858年,プロンビエールの密約)し,フランスとともにオーストリアと開戦。これが1859年に始ま
る
イタリア統一戦
争
【共通一次 平1】
【本試験H15スペイン王位の継承問題とは無関係】
です。サルデーニャ王国は,オーストリアからロンバルディアを併合しますが,そのとき〈ナポレオン3世〉はハッとします。
「このままサルデーニャ王国が南下すれば,教皇国家が飲み込まれてしまう。そうしたら,国内のカトリック勢力の支持を失ってしまうのでは...」と考えた〈ナポレオン3世〉は,突如オーストリアと休戦してしまいます(ヴィラフランカの休戦)。あとちょっとのところで,統一計画は頓挫してしまったのです。
しかし,この頃から統一に向けた動きが広がっていきました。北部から中部にかけての小国では,反乱によって新たな政府が樹立。さらに,
〈
ガリバルデ
ィ
〉(1807~82)
【本試験H7 1848年にローマを占領していない。マッツィーニとのひっかけ】
【セA H30】【法政法H28記】
は義勇軍(赤シャツ隊
【セA H30】
)を組織して,1860年に両シチリアを獲得。これらの地域では住民投票によって,サルデーニャ王国への併合が決まります。
外国人(北部ではオーストリア人,南部ではフランス人)による支配よりも,サルデーニャ王国を選んだわけです。
こうしてサルデーニャ国王の
〈
ヴィットーリ
オ=
エマヌエーレ2
世
〉(位1861~78)
【本試験H12時期(19世紀後半か問う)。国王は〈ヴィルヘルム1世〉ではない】
【本試験H27ローマ進軍は組織していない】
が国王となって1861年
に
イタリア王
国
が成立しました。ですから,イタリア王国とは"
サルデーニャ
王国"の拡大ともいえます。
イタリア統一期に活躍した作曲家に,
〈
ヴェルデ
ィ
〉(1813~1901)がいます。もともとは,ミラノのスカラ座で活躍したオペラ歌手でしたが,従来の劇を改革し,スケールの大きなオペラを作り上げました。代表作は古代エジプトを部隊にした
「
アイー
ダ
」で
,
スエズ運
河
開通記念のカイロ大歌劇場開場式のために作曲されたオペラですが...現在はサッカー日本代表の応援歌です。また「バビロン捕囚」をテーマにした「ナブッコ」の挿入歌,「行けわが想いよ黄金の翼に乗って」は,イタリアの"第二の国歌"のような扱いとなっています(バビロンから故郷イェルサレムを想う ヘブライ人の哀怨を歌う)。
その後,1866年の普墺戦争(ふおうせんそう)の際にオーストリアか
ら
ヴェネツィ
ア
を獲得し,1870~71年の普仏戦争(ふふつせんそう)の際に
は
ロー
マ
の
教皇国
家
【本試験H16トリエステではない】
を占領し,領域を広げました。
しかし,イタリア語を話す人々がすべてイタリア王国の領域内に居住していたとは限りません。イタリア王国の外のイタリア語話者の多い地区は
"
未回収のイタリ
ア
"
【追H27シチリアは含まれない】
【本試験H24サルデーニャ島は含まれない】
と呼ばれ
,
南チロ
ル
【本試験H24地図上の位置を問う,H31仏伊間の対立ではない】
,
トリエス
テ
【本試験H16普仏戦争のときに併合していない,本試験H31フランス・イタリア間の対立ではない】
,
イストリア半
島
の併合が王国の今後の目標となりました。
また,統一戦争時の混乱から,多く
の
イタリア移
民
がアメリカ合衆国に渡っていきました。特に工業化の遅れた南部出身者が多く,19世紀前半までにアメリカに移り住んだ移民(旧移民,the old immigrant)と区別し,東欧系の移民とともに
「
新移
民
」(the new immigrant)
【追H20時期(19世紀前半ではない)】
と呼ばれることがあります。
・
184
8
年
~
187
0
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現④
マルタ
イギリスに併合されていたマルタ島は,その商業的・軍事的な重要地点として活用されていました。1869年
に
スエズ運
河
が開通すると,ジブラルタル海峡とエジプトの中間地点に位置するマルタ島の重要性は,さらに高まりました。
・
184
8
年
~
187
0
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現⑦
フランス
「自由な競争が認められ,成功した人は,従来のように身分ではなく,才能や財産によって評価される」そんなしくみが,イギリスの社会を変えつつありました。政治家にのぼりつめた成功者は,自由な社会をつくるために新たな法律をつくり,ビジネスチャンスを求めて,国の力で海外に市場や支配地を求めるようになっていきます。イギリス製品を"自由"に売り込み,その原料や,農業をやらなくなった分だけ必要になった農産物の輸入を"自由"におこなう
(
自由貿
易
)を,武力を用いて他国(インドのムガル朝や,中国の清)に求めていく手法を
,
自由貿易帝国主
義
と呼ぶ研究者もいます。
この時代に国を股にかけて活動したのが,ユダヤ人
の
ロスチャイルド
家
です。すでに18世紀後半にドイツのフランクフルトで〈マイアー・アムシェル・ロートシルト〉(1744~1812)が,貴族への貸付を行うユダヤ人銀行家
(
宮廷ユダヤ
人
)として成功してました。彼の5人の息子は,フランクフルト・ウィーン・ロンドン・ナポリ・パリに支店を開業。1842年からはドイツの鉄道建設事業に投資をし,巨利を得ます。ロンドンとパリのロスチャイルド家は,のちに日露戦争のときに日本に巨額の貸付けを行ったことで知られます。ロスチャイルド家のような大銀行資本が,政府と結びついていく時代の到来です。
安くて質の良いイギリス製品が,黙ってみていればドバドバと流入してくる現状に,プロイセンはさすがに焦りを感じていました。1851年にはロンドン
で
第一回万国博覧
会
(万国産業製作品大博覧会)
【東京H20[1]指定語句】
【本試験H25,H29共通テスト試行 1932年ではない】
【追H19。H30】
が開かれ,入場者600万人以上という大成功を収めます。このとき,プロイセン
も
クルップ
社
の巨大な大砲を展示し,"軍国主義"的なイメージを来場者に与えることになりました。
会場には,鉄骨とガラスを使った大規模
な
水晶
宮
(クリスタル=パレス)
【追H19,H25リード文・図版[3-C],H30】
という建築物が登場し,国内外の人々を驚かせました。鉄を用いた建築技術や,照明技術の発達により,19世紀後半には大規模な建築物が次々と作られることになっていきます。
これに焦ったフランスの自由主義者(産業資本家)は,ナポレオンの甥(おい。ナポレオンの息子(〈ナポレオン2世〉)には,妻子がいなかったため,甥が選ばれたのです)である
〈
ル
イ=
ナポレオ
ン
〉
【本試験H7】
を支持し,1852年には
〈
ナポレオン3
世
〉(位1852~70)とし
て
第二帝
政
を開始します(一度目は
〈
ナポレオン1
世
〉)
【H14時期(統領政府以降の政体の変遷を問う)】
。
二月共和政となっ
た
フラン
ス
では,臨時政府が
〈
ル
イ=
ブラ
ン
〉(1811~1882)
【本試験H12】
【追H9】
の学説を実践にうつし
,
国立作業
場
(こくりつさぎょうじょう,Atelier national)を設置しました
【本試験H12】
。しかし,国立作業場の実態は"自転車操業"状態であり
,
閉
鎖
に追い込まれました。こうした失政により急速に支持を失い
,
四月選
挙
で敗退。労働者ら
は
六月暴
動(
六月蜂
起)
【本試験H7 1848年にルイ=ナポレオンが鎮圧したわけではない】
を起こし社会不安が起きる中,11月には新しい憲法(三権分立)が制定されました。新憲法の下で立法議会の選挙が行われると,保守的な旧・王党派の秩序党が勝利。秩序党は労働者や農民の権利を縮小するため,1850年に国民の選挙権を制限する方針を示しました。
そこに現れたのがナポレオンの甥
〈
ル
イ=
ボナパル
ト
〉(1808~1873)
【本試験H13時期(1802~85)】
です。彼は「男子普通選挙を守る!」とアピールし,圧倒的支持のもと1851年にクーデタを成功させ立法議会を解散し,人民投票でも圧倒的な賛成を受けました。さらに,1年後の1852年には帝政復活を人民投票で実現し,なんと皇帝に即位しました
(
第二帝
政
)。これが
〈
ナポレオン3
世
〉(位1852~70)です。彼は,国内の多様な集団の利害を,一見民主的な手続きをとりつつ,〈ナポレオン〉の甥という権威のもとで巧みにコントロールする政治手法(いわゆる"ボナパルティズム")を用いました。フランスの国際的・経済的な発展を望んでいた多くの国民によって,彼の体制は支持されました。
当時の資本家や政治家の注目を集めていたのは
〈
サ
ン=
シモ
ン
〉(1760~1825)
【追H9ラッダイト運動を指導していない】
の考え方
(注
)
。彼は言います。
「豊かになれば貧しさは消滅し,貧富の差もなくなる。政府は積極的に産業の振興につとめるべきだ」
〈ナポレオン3世〉は「産業者」が政府に参加して経済を成長させるべきだ」と考える経済学者らをブレーンにつけ,経済改革を断行しました。例えば
,
スエズ運
河
【東京H15[1]指定語句】
【本試験H14地図】
建設(1869年開通
【本試験H18時期,H29時期】
)を主導した
〈
レセップ
ス
〉(1805~94)
【追H9 パナマ運河を建設していない】
も〈ナポレオン3世〉のブレーンとなったサン=シモン主義者の一人です。
鉄道網を整備したり,金融機関をつくって企業に投資する資金を確保したりなどして,1830年代に始まってい
た
産業革
命(
工業
化)を
いよいよ本格化させ1860年代に
は
完
了
させました(フランスの産業革命(工業化)の進行は比較的ゆっくりとしたペースです)。当時に社会福祉を充実させる政策もとっていきます。
(注)同時期の社会思想家に,『愛の新世界』を著した
〈
フーリ
エ
〉(1772~1837)
【追H9二月革命後のフランス臨時政府に参加していない】
がいます。彼は『四運動の理論』(1808)において,社会にも自然科学のように運動の法則があると主張し,理想的協同体(ファランジュ)の建設をめざしましたが,同時代に評価はかんばしくありませんでした。
1860年になると,〈ナポレオン3世〉はいっそう自由主義的な政策をとるようになっていきました(自由帝政ともいわれます)。やはりサン=シモン主義者の経済学者・政治家の〈シュヴァリエ〉(1806~79)は,「すでにフランスは自由貿易をするための体力が整った。保護貿易はやめ,自由貿易のほうが国にとってメリットが大きい」と考え,自由貿易を推進す
る
英仏通商条
約
を結びました。
一方,この頃,画家の
〈
クール
ベ
〉(1819~77)は「石割り」で,民衆の生活の苦しさを描いています。このように社会問題をありのままに表現しようとする美術は,「写実主義」と分類することが多いです。ほかに,七月王政に対する風刺版画で有名な
〈
ドーミ
エ
〉(1808~79)が知られます。
しかし,産業革命(工業化)により都市化が進むに従い,伝統的な農村の風景にこそ"忘れてしまった人間らしさ"があるのではないかと考える人々も現れます。代表的
な
自然主
義
の画家に,バルビゾン村の貧農の農作業を描いた「落ち穂拾い」
〈
ミレ
ー
〉(1814~75)
【本試験H18ルノワールではない】
や,風景画を描いた
〈
コロ
ー
〉(1796~1875)がいます。
一方〈ナポレオン3世〉は,1853~1856年
【京都H19[2]年号】
の
クリミア戦
争
【京都H19[2]】【東京H20,H26[1]指定語句】
【追H9】
【早法H30[5]指定語句】
で,イギリス
【追H9】
・
サルデーニャ
ととも
に
ロシ
ア
【本試験H27ロシア側ではない】
【追H9】
の〈ニコライ1世〉(1868~1918,位1894~1917)と戦い,圧倒的な覇権を誇っていたイギリスにすり寄り,ロシアの南下を防ごうとしました(ロシアの皇帝は途中から〈アレクサンドル2世〉
【本試験H25クリミア戦争を始めたのはニコライ1世】
)。
また,1859年
の
イタリア統一戦
争
,1856~60の清(しん)と
の
アロー戦
争
【本試験H12時期(1880年代かを問う)】
,1862年
の
インドシナ出
兵
などなど,海外進出を加速させていきます。1861~67年には
,
南北戦
争
(1861~65)中のアメリカ合衆国のスキをついて,メキシコへの市場進出をねら
い
メキシコ出
兵
【本試験H6ヴィルヘルム1世によるものではない】
【本試験H13時期(19世紀後半),本試験H19時期】
もしています(これは最終的には失敗して撤退)。
1867年にはパリで万国博覧会がひらかれました。これには日本(江戸幕府と薩摩藩と佐賀藩)が初めて出展し,
"
ジャポニス
ム
"(日本趣味)が流行するきっかけとなり,フランスの美術界(とくに後の印象派)に影響を与えます。なおこのとき派遣された〈徳川昭武〉(徳川慶喜の弟,1853~1910)は,フランス滞在中に大政奉還の知らせを知りますが,そのままパリでの留学を続け,1868年に帰国しています
。
この時期に隣国フランスの急成長に対し危機感を高めていたのが,
〈
ビスマル
ク
〉(1815~98)
【本試験H9】
【早法H28[5]指定語句】
です。1862年にプロイセンの首相に就任(任1862~90)し,1864年
に
デンマーク戦
争
で
ホルシュタイン州とシュレスヴィヒ
州
を獲得
【本試験H30】
。さらに1866年にプロイセン=オーストリア戦争
(
普墺戦
争
)に勝って
【本試験H13敗れていない・統一ドイツへのオーストリア編入を断念したわけではない】
,マイン川よりも北の諸領邦・都市の連合国家
(
北ドイツ連
邦
【本試験H14ドイツ(ヴァイマル)国とのひっかけ】
)をつくります。オーストリアは,領内のマジャール人の不満を押さえ込むことができなくなり,1867年にハンガリーに自治権を与え
,
オーストリ
ア=
ハンガリ
ー(
二
重)
帝
国
としました。
北ドイツ連邦に加盟していなかったのは
,
バイエル
ン
をはじめとする南ドイツの諸邦です。これらの国家はカトリックであり,ルター派が多数の北部とは異質でした。しかし,南ドイツ諸邦とっての悩みは,隣国フランスの脅威です。
「フランスとの戦争になったら,北ドイツ連邦を頼るしかないのではないか」
南ドイツ諸邦は悩みます。
そんな中,1868年空位になっていたスペイン王位に
,
ホーエンツォレルン
家
(プロイセン国王の血筋です)をつける案が浮上。フランスは「そうなると,プロイセンの王家に,東西を挟まれることになる。反対だ!」と主張。結局スペイン王には〈ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世〉の次男が就任しましたが,疑心暗鬼のフランスはその後もプロイセンと交渉を続けます。交渉の場は,ドイツの温泉地エムス。保養中の〈ヴィルヘルム1世〉と「直接交渉させてほしい」というフランス大使を,皇帝は拒否しました。
すでにアメリカの
〈
モー
ス(
モール
ス
)
〉(1791~1872)
【追H20コッホではない】
が,点と線の組合せによ
る
モールス電
信
(1838年頃まで)とい
う
有線電
信
を実用化させていました。エムスでの交渉結果はすぐに電報で〈ビスマルク〉に送られます。受け取った〈ビスマルク〉は,「〈ヴィルヘルム1世〉が,フランス大使を追い返した」というところにポイントをしぼり,メディアに情報を流しました。それを聞いたフランス国民は「なんて失礼な国王だ!」と戦争賛成に世論が傾き,それに押されて〈ナポレオン3世〉も開戦を決意しました。
〈ビスマルク〉はフランスをけしかけるために電報を利用し,「フランスが攻めてくるから,一緒に戦おう」と南ドイツ諸邦の支持を得ようとしたのでした。事前に周到な準備を重ねていた〈ビスマルク〉にとって,欲しかったのは「フランスのほうから攻めてくる」という状況だったのです。〈ビスマルク〉の画策していたとおり,7月19日にフランス議会が参戦を決議し,プロイセンに宣戦布告。〈ナポレオン3世〉は用意不足を自覚しつつ進軍し,プロイセンは「電撃戦」によって迎えました。結果的に〈ナポレオン3世〉も捕虜となりました
(
普仏戦
争
)
【本試験H27勝利していない】
。
アルザス地方とロレーヌ地
方
【本試験H24ウィーン体制の結果ではない】
も,プロイセンにより占領されました。
プロイセン国王
〈
ヴィルヘルム1
世
〉(プロイセン王在位1861~88)
【本試験H6メキシコ出兵をおこなっていない】
は,1871年にフランス
の
ヴェルサイユ宮
殿
で,南ドイツ諸邦を含
む
ドイツ帝
国
(1871~1918)
【本試験H14ドイツ(ヴァイマル)国とのひっかけ】
の初代皇帝(位1871~88)に即位しました
【本試験H6国民投票によるものではない】
【本試験H18】
。このとき宮殿を戴冠式(たいかんしき)に使用したことは屈辱的な行為として,フランス国民の記憶に刻まれることになります。
・
184
8
年
~
187
0
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
⑧
アイルランド
,⑨
イギリス
産業革命(工業化)の結果,19世紀後半には大半の人が都市に住むようになり,ロンドンの人口は膨れ上がっていきました。都市労働者の通勤が増加したことで,馬車の利用が増え,1858年には(馬糞による)大悪臭といわれ
る
公
害
が発生。1832,48,65年に
は
コレ
ラ
も発生しました。そこで,生物学の発展で感染症の発生を防
ぐ
公衆衛
生
の必要性が知られるようになると,下水道や上水道の整備が急ピッチに進み,1863年には世界最初
の
地下
鉄
(ロンドン=アンダーグラウンド,チューブ)が運行,1891年まで
に
下水
道
が整備されていくことになりました。しかし,石炭の煤(すす)が原因
の
スモッ
グ
の問題はながらく解決されませんでした。
ただ,「地下鉄」といっても,その経路は地表すれすれの浅い路線に限られ,動力も蒸気力でした。しかし,動力に電気が用いられた地下鉄道
【東京H15[3]】
が開発されると,1890年にはテムズ川底を横切る路線も開業します(パリは1900年,ベルリンは1902年,ニューヨークは1904年)。
イギリスでは1856年に〈ベッセマー〉(1813~98)が,安価に鋼を大量生産できるベッセマー法を完成させました。今後
,
鋼
はさまざまな巨大建造物(工場・高層ビル・鉄道・自動車・蒸気船),さらにもちろん軍事技術に応用されていくことになります。
また,世界初の実用
的
海底ケーブ
ル
が1850年にイギリスのドーバーとフランスのカレーの間にしかれました(翌年開局)
。
大西洋横断ケーブ
ル
も1858年に開通(直後に停止,1865年に復活)。これらの有線通信は,イギリスが世界中を植民地支配するにあたっても,大変便利な科学技術となりました。
そんな中,
〈
ベンサ
ム
〉の主張してい
た
功利主
義
を発展させたのが,イギリスの
〈
J.S.ミ
ル
〉(ジョン=ステュアート=ミル,1820~1903)
【慶文H29】
です。彼は
〈
ダーウィ
ン
〉
【追H29】
の
進化
論
【追H29】
や,〈イエス〉の隣人愛の思想の影響を受けながら,人間は良心を持っているのだから外部から強制されなくても自然
と
社会全体の幸
福
を高めていくことができる存在だと主張しました。主著は
『
自由
論
』(1859),『功利主義論』(1861)で,1865年には下院議員に当選し,選挙法改正運動でも活躍しました。
しかし,実際には資本主義社会はさまざまな問題も生み出していたのですが,功利主義の思想家
〈
スペンサ
ー
〉(1820~1903)は,人類の社会はどんどん良くなっていくものだから
(
社会進化
論
),必ず解決できるはずだと論じました。このように,ノリにのっているイギリスの思想では,ある意味"楽観的な"思想が主流だったのです。
産業革命(工業化)が進行し,農村部の人々が都市部に移動すると,もともと農村で行われていたスポーツが都市の中流・上流階級にも伝わるようになりました。交通革命によって遠距離移動がカンタンになると,中・上流階級の通
う
パブリックスクー
ル
や
大
学
同士の交流試合も増えていきます。ただ,そうした伝統的なスポーツはちょっと暴力的で,お祭り騒ぎからケンカ騒ぎに発展してしまうこともしばしばだったことから,"お行儀よく紳士的に"競技を行うためにルールの策定が必要になりました。例えば,1863年にロンドンでフットボール・アソシエーションが設立され,今日
の
サッカ
ー
が生まれました。また
,
テニ
ス
は1873年に軍人〈ウィングフィールド〉が考案し,1877年に第一回ウィンブルドン選手権が開催されました。
こうしてスポーツは,統一の規格への標準化が進んで,フェアプレーの精神が強調されていくようになるとともに,酒や遊びに気を取られるのではなく,マジメでちゃんとした青少年育成のための手段と考えられるようになっていきます。また,国家も,軍事力増強のために"健康で力強くたくましい"男子を育てる手段として重視するようになっていきます。
・
184
8
年
~
187
0
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ 現⑩ベルギー
,⑪
オランダ
,⑫
ルクセンブルク
1839年に独立が正式に認められた低地地方南部のベルギーはイギリスとフランスの間でうまくバランスをとろうとし,事実ベルギー国王〈レオポルド1世〉は,〈ヴィクトリア女王〉の親戚であるとともに,フランス七月王政の王〈ルイ=フィリップ〉の娘と結婚しています。
独立後のベルギーにはイギリス・フランスからの資本が投下さ
れ
産業革
命(
工業
化
)
が起きました。国内では石炭が産出され鉄鋼業も栄えます。1850年にはベルギー国立銀行も設立されました。
1865年にはその子
〈
レオポルド2
世
〉(位1865~1909)が王位を継承しました。
ルクセンブル
ク
では国内に鉄鉱石が発見され,1834年に発足し
た
ドイツ関税同
盟
の一員として工業化を進めていきました。
なお,1860年には日本の〈
○
184
8
年
~
187
0
年のヨーロッパ 北ヨーロッパ
北ヨーロッパ...
①
フィンラン
ド
,
②
デンマー
ク
,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン
・
184
8
年
~
187
0
年のヨーロッパ 北ヨーロッパ
現①
フィンランド
大公をロシア皇帝が兼ね
る
フィンランド大公
国
では,従来のスウェーデン語(フィンランド貴族はスウェーデン語を話していました)でもなくロシア語でもない,フィンランド語による独自の文化を守ろうという運動が起きています。それに対し,スウェーデンやデンマークではスカンディナヴィアの一体性を説
く
スカンディナヴィア主義
も
唱えられ,フィンランド人の民族意識は東(=ロシア)と西(=フランスを初めとする西欧),またはスカンディナヴィアという共通項とフィンランドという独自性をめぐって揺れ動いていました。
またフィンランドの南部にはスウェーデン語を母語とするスウェーデン系フィンランド人も居住していましたが,1809年にフィンランド大公国が建設されると,これを建設したロシアは彼らを「フィンランド人」として統治に組み込みました(例えば,のちにキャラクター「ムーミン」を生み出した絵本作家の〈トーベ=ヤンソン〉(1914~2001)も,スウェーデン系フィンランド人です
【本試験H30地理B】
)。
大陸で,ロシアとオスマン帝国に対するイギリス・フランスを中心とす
る
クリミア戦
争
(1853~56)
【東京H20,H26[1]指定語句】
が勃発すると,北ヨーロッパのバルト海に戦場が波及するのを恐れ,スウェーデンとデンマークは中立を宣言しています。クリミア戦争後にロシア皇帝〈アレクサンドル2世〉(位1855~81)は自由化を進め,フィンランドでは議会・地方自治・教育・金融制度といった近代化改革が進行し,フィンランド語の地位向上も約束されました。
・
184
8
年
~
187
0
年のヨーロッパ 北ヨーロッパ
現②
デンマーク
1846年にイギリス
が
穀物法を廃
止
したことを受け
,
デンマーク王
国
はイギリス向けの農産物輸出を本格化させていきました。1864年にはプロイセンとの戦争でスレースヴィとホルステン(ドイツ語ではシュレスヴィヒとホルシュタイン)を失うことになるものの,教育機会にも恵まれた自作農らによる積極的な荒れ地の開墾
と
畜産・酪
農
の発展が進められ,協同組合を設立して輸出を増やしました。デンマークで生産されたベーコンやバターは,"イギリス人の朝食"にとって欠かせないものとなりました
(注
)
。
(注)百瀬宏・熊野聰・村井誠人『世界各国史21北欧史』山川出版社,1998,p.247。
・
184
8
年
~
187
0
年のヨーロッパ 北ヨーロッパ
現③
アイスランド
デンマークの支配におかれてい
た
アイスラン
ド
はイギリスへの接近を図り,漁業や食品加工業によって国力を高めつつ,1843年に復活した諮問議会
の
アルシン
グ
を中心に,デンマークからの独立志向を強めていきました。
デンマークは17世紀前半に西アフリカに進出し1659年にギニア会社を設立,現在のガーナの黄金海岸に植民地を建設していました,1850年にイギリスに売却されました。
また,カリブ海では現在のハイチ(ハイティ)のあるイスパニョーラ島の東にあるプエルトリコ島のさらに東に広が
る
ヴァージン諸
島
の西半を獲得し,アフリカから輸入した黒人奴隷を使ったサトウキビのプランテーションで栄え,奴隷貿易は1807年に廃止されていましたが,奴隷制は1848年に廃止されました。インド東南のベンガル湾上に浮かぶニコバル諸島は1868年にイギリスに売却されました。
フランスの二月革命を震源としてヨーロッパ全域に自由主義と民族主義を求める動きが広がりましたが,ユトランド半島
の
南ユラン問
題
(スレースヴィ(シュレスヴィヒ)とホルステン(ホルシュタイン)の帰属をめぐる対立)を抱えるデンマーク以外では情勢は比較的落ち着いていました。
デンマークでは,〈クリスチャン8世〉(位1839~48)に代わった〈フレデリク7世〉(位1848~63)がスレースヴィ=ホルステン公国の併合を表明すると,1848~52年に第一次スレースヴィ=ホルステン(シュレスヴィヒ=ホルシュタイン)戦争が勃発。両者は成果を得ないまま,ロンドンで講和しました。
大陸で,ロシアとオスマン帝国に対するイギリス・フランスを中心とす
る
クリミア戦
争
(1853~56)が勃発すると,北ヨーロッパのバルト海に戦場が波及するのを恐れ,スウェーデンとデンマークは中立を宣言しています。
その後,1863年にデンマーク王国はホルステン(ホルシュタイン)をデンマークから切り離し,スレースヴィ(シュレスヴィヒ)はデンマークに残すという方針に憲法を改正。それに反発したプロイセンの〈ビスマルク〉首相は王位継承規定が先のロンドンでの講和の規程に反していると主張し,オーストリアを誘って開戦し
,
第二次スレースヴ
ィ=
ホルステ
ン
(シュレスヴィヒ=ホルシュタイン
)
戦
争
(いわゆ
る
デンマーク戦
争
)が始まりました。〈ビスマルク〉は,スレースヴィユトランド半島の付け根を獲得することで,北海とバルト海を結ぶ運河を建設したかったのです。降伏したデンマークは,ホルシュタインをオーストリアの管理下,シュレスヴィヒとキール港をプロイセンの管理下に置き,ラウエンブルクをプロイセンに買収させました。しかしオーストリアのホルシュタイン管理をめぐる対立からプロイセンはオーストリアと対立,1866年
の
普墺戦
争
(プロイセン=オーストリア戦争)に発展しました。
その後のデンマーク人にとって,デンマーク人の住むスレースヴィ(シュレスヴィヒ)北部の返還が,政治的な宿願となりつつ,先述のように内政と国力の充実が優先されるようになっていきます。このへんの話は宗教家〈内村鑑三〉(うちむらかんぞう,1861~1930)によって感銘をそのままに『デンマルク国の話』で語られています
(注
)
。
(注)内村鑑三『デンマルク国の話』青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000034/card233.html
。以下,青空文庫より引用「デンマークは1864年,ドイツ,オーストリアに迫られて開戦に追い込まれる。敗戦によって国土の最良の部分を失ったこの国は,困窮の極みに達する。そのヨーロッパ北部の小国が後に,乳製品の産によって,国民一人あたりの換算で世界でももっとも豊かな国の一つとなった。荒れ地を沃野に変えて国を蘇らせたのは,天然と神に深く信頼し,潅漑と植林の技術をもって樹を植える事に取り組んだ人の営為だった。」
・
184
8
年
~
187
0
年のヨーロッパ 北ヨーロッパ
現⑤
ノルウェー
ノルウェー王
国
は1814年以
降
スウェーデン王
国
との「同君連合」をとっていましたが,それも名ばかりで,外交権はスウェーデンが持ち,スウェーデン優位の体制となっていました。
・
184
8
年
~
187
0
年のヨーロッパ 北ヨーロッパ
現⑥
スウェーデン
大陸で,ロシアとオスマン帝国に対するイギリス・フランスを中心とす
る
クリミア戦
争
(1853~56)が勃発すると,北ヨーロッパのバルト海に戦場が波及するのを恐れ,スウェーデンとデンマークは中立を宣言しています。クリミア戦争後にロシア皇帝〈アレクサンドル2世〉(位1855~81)は自由化を進め,フィンランドでは議会・地方自治・教育・金融制度といった近代化改革が進行し,フィンランド語の地位向上も約束されました。
欧米諸国で国民国家の形成がすすみ,帝国主義的進出をはかるようになる。アフリカとオセアニアの分割が本格化し,列強(欧米の大国)は第一次世界大戦に突入。反戦運動からロシアで社会主義勢力が政権を実現するが,民族運動は各地で抑圧される。
時代のまとめ
(1)
「
大不
況
」と新産業の出現により巨大企業と金融資本が結びつき
,
帝国主
義
が推進される。アメリカ合衆国
【本試験H4産業革命の始まりの時期】
とドイツ
【本試験H4産業革命の始まりの時期】
を中心
に
第二
次
【追H20
】
産業革
命(
工業
化
)
【本試験H6】
が起き,イギリスは「世界の工場」の座を降りた
【本試験H6第二次産業革命の結果,イギリスが「世界の工場」になったわけではない】
。代わって,イギリス帝国は保険・運輸・サービスなどによる収入を確保するとともに,インドからの「本国費」で輸入超過の赤字を穴埋めしていた。
(2) 一方,アジアの域内貿易は盛んで,植民地エリートの中から反植民地運動も芽生える。1880年代以降,西ヨーロッパ諸国により徹底的に植民地支配を受けたアフリカ大陸でも,支配への抵抗運動が生まれている。
(3) 「世界分割」に乗り遅れたドイツは「再分割」を要求。紛争の国際的な解決をめざす動き
【早法H30[5]指定語句 論述(19世紀末~1920年までの代表的な動き・内容を述べる)】
もあったが
,
第一次世界大
戦
【追H30グラフ読み取り:年号を問う】
に向かうことになる。高度に発達した科学技術により新兵器が生み出され,未曾有の死傷者を出した。他方,ロシアでは社会主義革命
(
ロシア革
命
)が成功し,先進資本主義国との対立をもたらした。
解説
◆
「大不況」と新産業の出現により巨大企業と銀行資本が結びつき,帝国主義が推進された
先進工業国で大不況後に金融資本の形成が進む
1873年にはウィーンにおける株価暴落に始まる
「
大不況
」
【本試験H5「1870年代に起こった恐慌」がトラストなどによる資本と企業の集中・独占を促したか問う】
が始まり,1896年まで続く世界的な経済危機となりました。
この不況の原因は複合的ですが,70年代前半に,欧米各国
で
金本位
制
が採用され,従来は高かった銀の価値が暴落したこと
。
第二次産業革
命
【東京H9[3]】
【追H20】
により重化学工業がさかんになったことで,従来型の産業(繊維工業や農業)がふるわなくなったことなどが関係しています。
新たな産業には,以前よりも多額の資本が必要となったため,資金調達のために産業は銀行資本との結びつきを深め,独占的な金融資本
【本試験H5トラストなどによる資本の企業の集中・独占,本試験H6「独占資本」】
を形成するようになっていきます。
国内だけでは資源と人口に限りがありますから,欧米(のちに日本)の諸国は競って海外の領土支配に乗り出したり
,
勢力
圏
を広げて鉄道や工場を建てる直接投資を進めたりしていきます。つくった物を単純に外国に運んで売るのではなく,生産設備を建設するなど資本を外国に投入することを
「
資本輸
出
」
【本試験H6】
といいます。
日本はヨーロッパ向けに生糸を生産していましたが,生糸価格が暴落すると日本で生糸生産に携わっていた豪農が没落するきっかけとなりました。フランス向け生糸を生産していた秩父の生産者は,1882年にリヨン製紙取引所での生糸価格が大暴落により打撃を受け,1884年の大規模な農民蜂起
(
不況を解決するため,1880年代以降になると,ヨーロッパやアメリカ(欧米)に台頭した
「
国民国
家
」群は,アフリカ,アジア,太平洋,カリブ海へと進出をし,植民地にしたり勢力圏に加えたりするようになっていきます
(
世界分
割
)。このように,産業化を背景にして対外進出を積極的に行う動き
を
帝国主
義
といいます
【本試験H6「帝政」をとる帝国主義陣営と,「共和政」をとる反帝国主義陣営との間で対立が深まったわけではない。帝国主義諸国の国内で,軍部・特定政党による独裁化がすすみ議会政治が衰退したわけではない】
。
世界史の中に,広大な領域を支配する「帝国」は数多く存在しましたが,この時期のように「国民国家」が競い合って国外に進出し,異なる人間集団をさまざまな形で支配下に置いていくようになるのは,この時期に特有の現象といえます。「国民国家」群は,国内の住民を「国民」として統合しながら,国外の植民地等の住民を本国の「国民」とは別の枠組みで支配することにより,本国と植民地の住民の間にはさまざまな
「
帝国意
識
」が形成されていきました。
1880年代以降は,特にアフリカに関心が集中します。
通貨の価値を裏付けるものとして,重要性の高まってい
た
金
(きん)を獲得するためです。
中央ユーラシアでもイギリスとロシアが
"
グレー
ト=
ゲー
ム
"と呼ばれる勢力圏争いの火花を散らし,短期間で近代化を達成し大陸進出を狙う日本はイギリス側について日露戦争(1904~05)を戦うことになります。
(注)脇田修・大山喬平他編『日本史B 新訂版』実教出版,2017年,p.247。
◆
アメリカ合衆国とドイツを中心に第二次産業革命が起きた
石油と電気の時代がやってきた
産業革命(工業化)を達成したイギリスを追いかけて,ヨーロッパ諸国やアメリカも"追いつけ追い越せ"で産業革命(工業化)を成功させていきます。19世紀後半には
,
ドイ
ツ
と
アメリカ合衆
国
が,イギリスを追い抜く勢いをみせ,科学技術の発達により動力が石炭・蒸気力か
ら
石
油
・
電
力
にシフトすると
,
重化学工
業
【追H20】
を専門とするより大規模な企業が登場して急速に工業化をすすめるようになっていきました
(
第二次産業革
命
【東京H9[3]】
【追H20】
)。日本も「大不況」(1873~96)の際の銀価格の低下を追い風に輸出を増やし,松方デフレから回復,産業革命(工業化)へとつながっていきます
(
日本の産業革
命(
工業
化
)
)。
巨大企
業
の発展で中小企業がつぶれたり,都市の発達で農業に携わっていた人々が失業したりすると,仕事にあぶれた人たちはやむを得ず国を離れて,外国を目指しました。彼
ら
移
民
の向かった先として人気だったのはアメリカ合衆国。"自由の国"アメリカでアメリカン・ドリームをつかむことを夢見て,大西洋を横断した移民が初めに降り立つのはニューヨークのエリス島。近くには1886年にフランスから贈られた自由の女神像がたっています。19世紀後半から第一次世界大戦にかけ,ヨーロッパからアメリカ大陸にはじつに5000万人が移動したと計算されており
(注
)
,特に多くの移民を受け入れたアメリカ合衆国における社会の多様性が高まりました。一方,巨大企業の経営陣は,大量の原料を輸入するために海外の植民地の獲得を政府に要望するようになっていきます。
1890年代
【上智法(法律)他H30大陸横断鉄道開通から約20年後か問う】
に
フロンティアが消
滅
したアメリカ合衆国は"太平洋側"への進出を積極化させ,カリブ海,オセアニアや東南アジア,東アジアへの進出を加速。海軍力の大幅な増強が叫ばれたのも,この時期です(大海軍論
【上智法(法律)他H30】
)。
1914年
【追H25】
に
は
大西
洋
【セA H30地中海】
と
太平
洋
【セA H30紅海】
を直結させる
【H30共通テスト試行 大陸横断鉄道とのひっかけ(時期的に1860年代ではない)】
【追H9コロンビアが建設してアメリカ合衆国が占拠したわけではない,イギリスの資金による建設ではない,フランス人レセップスの建設ではない。アメリカ合衆国が運河地帯を租借して建設したか問う, H25,H29時期を問う】
を開通させ,次第に"太平洋国家"を目指すようになっていきます。
(注)木畑洋一「グローバル・ヒストリーと帝国,帝国主義」水島司編『グローバル・ヒストリーの挑戦』山川出版社,2008年,p.97。
◆
イギリス帝国による覇権が拡大する一方で,アジアの域内貿易は盛んで,植民地エリートの中から反植民地運動も芽生える
イギリスの
従来,「イギリスの産業革命の結果,インドを初めアジアの伝統的な工業は衰退した」という説明がなされることが少なくありませんでした。
しかし,それでは19世紀後半に,アジア各地で工業化が進み,商人のネットワークが張り巡らされていた事実を説明することはできません。
ある時点で,ある要因により,"勝ち組"の欧米と,"負け組"のアジアが
「
分
岐
」したという説明も,同様です。
もちろん,19世紀後半のイギリスは,地球規模の影響力を行使することのできる唯一の国家でした。こういう国家のことを,覇権国家
〔
ヘゲモニ
ー
国家〕といいます。
影響力には軍事力のようなハード面だけでなく,リンガ=フランカ〔国際公用語〕としての英語や,安全な海運,世界標準時,
自由貿易
のルール
【H30共通テスト試行 統計読み取り(綿糸価格が低下していった理由の一つが「保護貿易によって、輸入品の価格が下がったこと」ではなく、自由貿易が進展したことであると推論する】
,決済手段としてのポンドといったソフト面も含みます。
この時代を読み解くには,世界の覇権を握るイギリスが地球規模で提供したソフト,ハード両面の制度の下で,その恩恵にあずかりながら植民地インドや日本の実業家が,工業化を発展させていった事実を整理する必要があります。いたずらに,「帝国主義によってアジアの発展は遅れた」ということはできませんが,イギリスが自由貿易体制を世界各地の植民地内外に広めていっ
た
からこ
そ
,綿業を基軸とし,それを呼び水として消費財に拡大したアジアの工業化や,日本,清と香港,東南アジア,植民地インド一帯のアジア間交易は発展していったのだとも考えられます。
(注1)秋田茂「綿業が紡ぐ世界史」,桃木至朗・秋田茂『グローバルヒストリーと帝国』名古屋大学出版会,2013,p.262。
イギリスは17世紀~20世紀末にかけて,①世界各地
の
白人定住植民
地
(
自治
領
;ドミニオン)...オーストラリア,カナダ,ニュージーランド,②非「ヨーロッパ」諸地域
の
植民
地
(英領インド,マラヤ,香港など)により構成され
る
イギリス帝
国
(いわゆる
「
大英帝
国
」)を形成していきました。特に19世紀後半~20世紀前
半
【東
京
H8[1]1
9
世紀中頃か
ら
2
0
世
紀
5
0
年代までの「パク
ス=
ブリタニカ」の展開と衰退について述べる問題
】
のイギリスがつくりあげた国際秩序
を
パク
ス=
ブリタニカ
【東
京
H8[1
]
指定語句
】
といいます。
この国際秩序を維持するためにイギリスは,コストのかかる官僚組織や軍事力を用いて各地の植民地を支配しながら,同時にさまざまな "しくみ" を構築していきました。
・自由貿
易
【東
京
H8[1
]
指定語句
】
のルール(国際取引法など
の
国際
法
)
・物流ネットワーク(世界各地を結ぶ定期航路)
・国際経済制度(金と兌換(だかん)できるポンド(スターリング)を基軸通貨とする国
際
金本位
制
の仕組み,ロンドンのシティを中心とする国際金融業)
・国
際
郵
便
制度
・
国際標準時
・国際共通語(リンガ=フランカ)として
の
英語
・通信ネットワーク(海底電信網や通信社によるニュース情報(1851年にロイター通信が設立されています))
・安全保障制度
(
王立海
軍
や
インド
軍
(陸軍)を世界規模で配置し
,
スエズ運河ルー
ト
と
喜望峰周りルー
ト
を保護)
世界各地の取引に使われたのはイギリス
の
ポン
ド
(スターリング
)
手
形
であり,19世紀末~20世紀初めには世界の経済をポンドが巡る多角的な決済機構が成立していました。この時期のイギリスは"世界の工場"というよりは"世界の銀行"であったといえます
(この時期のイギリス経済を,歴史学者〈ケイン〉と〈ホプキンズ〉(1938~)は
「
ジェントルマン資本主
義
」と表現しています)
。
イギリスは日本同様,島国であるため食糧を輸入したり工業製品の原料を輸入する必要があり,貿易赤字(輸入>輸出。つま
り
輸入超
過
)にありましたが,鉄道敷設
【東京H15[3]】
な
ど
海外投
資
による利子・配当金収入や保険金,船の運航費,それにインドから送られる本国費によっ
て
穴埋
め
していくようになります。
イギリスが「世界の工場」から「世界の銀行家」になっていく境目は1870年代の「大不況」以降のこと。マンチェスターの製造業を中心とする「モノの輸出」から,ロンドン
の
シテ
ィ
の金融業者中心とする「カネ・サーヴィスの輸出」。この変容後のイギリスの経済構造を,〈P.ケインズ〉と〈A.G.ホプキンズ〉は,
「
ジェントルマン資本主
義
」と表現しました。
陸軍の主体となったインド軍とともに,この時期のイギリスにとってのインドはまさに"生命線"だったのです。
イギリスによる世界各地の国家・植民地同士を結ぶ貿易のもとでも
,
アジアの地域内では盛んに貿易が行われていまし
た
。中国人,インド人,日本人の出稼ぎ労働者が各地で生産に携わり,各地の商人も工業化を進め,資本を蓄えていきました
アジア間交易が盛んになればなるほど,「ゲームのルール」を整備しているイギリスは儲かります。
すなわち,交易の利便性を高めるために港湾・鉄道・電信網などのインフラ整備のために株式や債権を発行したり,商社の取引手数料・海運収入を得ることで,先のロンドンのシティの金融業者の元に利益が舞い降りていくシステムとなっているのです。
この過程で,アジア内部には,商品作物・穀物の生産や天然資源の採掘に携わる地域と,金融に携わる地域,輸入代替工業(輸入品を自国で生産する工業)を盛んに進めていく地域といった違いがみられるようになります。宗主国が特定の集団を経済的に優遇したり,外部から労働者を連れてきたりしたことで,アジアの伝統的な社会にも変化がもたらされました。
植民地を含めたアジア内部での綿業を中心とする交易
(
アジア間交
易
)が活発に行われることで,日本だけでなく植民地統治下のインドや東南アジア各地,一部が欧米の勢力圏に置かれた清の商工業者が競って交易活動に従事し,アジア各地
で
民族資本
家
が成長していきました。宗主国と植民地住民の間に新たなエリート階層を形成し,植民地経営に協力する者だけでなく,民族独立運動を推進する主体も現れるようになりました
(
反植民地主
義
,
反帝国主
義
)。
近代化による改革を説くグループと,「伝統に戻るべきだ」と考えるグループ,さらに両者をうまく折り合わせようとするグループなどが各地で活動をすすめます。
ただ,いち早く近代化を推進していた日本はイギリスにとって格好のパートナーとして目をつけられることになります。
例えば,日本は日清戦争(1894~95)の賠償金をポンドで受け取っていますが,これはそのままイングランド銀行の日本銀行の講座に外国為替基金として預託されたのです。この基金を金準備に,1897年に日本銀行は従来の銀本位制から金本位制に転換することができたわけです
(注
)
。これにより日本はイギリスのポンドを中心とする国際的な決済の仕組みの一員に加わり,イギリスにとっても金準備を維持するためには好都合でした。ポンドは金との兌換(だかん)が保証された通貨だったので,イギリスがしっかりと金を準備しておかなければ,ポンドの国際的な信用が下がってしまうからです。イギリスは金融面で日本との関係を緊密にする一方で,1902年には日本の軍事力によってロシア帝国の南下をおさえようと日英同盟を締結しています(1905,1911に改定・更新)。日露戦争の戦費調達にあたって,イギリスにおけるユダヤ系のマーチャント=バンカー等から多額の外債を発行し,イギリス製の軍艦や装甲巡洋艦を購入することができたのも,日本とイギリスの緊密な連携関係が背景にあったのです。
第一次世界大戦後のパリ講和会議では,民族自決の適用はヨーロッパに限定されましたが,戦後に設立された国際連盟で,日本は常任理事国
【本試験H5ソ連とアメリカは常任理事国ではない】
の地位を得ています。このときに事務次長の一人に選ばれたのが著書『武士道』で世界的に知られていた
〈
(注)秋田茂「アジア国際秩序とイギリス帝国,ヘゲモニー」水島司編『グローバル・ヒストリーの挑戦』山川出版社,2008年,p.107。
世界分割に乗り遅れたドイツは
「
再分
割
」を要求し
,
第一次世界大
戦
を誘引します。
また,先進資本主義国の"最終形態"である帝国主義戦争に反対したロシアの社会主義者が,第一次世界大戦中に資本主義に代わる新たな体制を打ち立て
る
ロシア革
命
を成功させたことは,世界各地の植民地に反対する運動や資本主義を批判する運動に大きな影響を与えました。第一次世界大戦後に開催されたパリ講和会議では,資本主義的な経済の立て直しと延命が目的とされ,社会主義の考え方と鋭く対立しました。
◆
近代科学技術・思想がヨーロッパによる支配を支えたが,第一次世界大戦における大量殺戮を招いた
植民地から輸入された原料で生産された製品が欧米の国民生活を向上させていくと,19世紀前半のように
労働者vs資本家
という戦いの構図がだんだん薄れていきます。生活レベルが上がり,労働者がだんだんと現状に満足していくようになったからです。資本家と戦うよりも,給料アップを目指して,資本家と"なあなあ"の関係を築いたほうがマシだと感じる労働者が増えたのです。
国家は,国民の多数を占めるようになっていた労働者のご機嫌をとるために,「社会福祉」を重んじるようになっていきます。例えば,年金・保険制度の充実です。国や企業は
,
余
暇
を労働者に奨励し,週末になると海水浴やスポーツ,旅行など
の
レジャ
ー
が盛んになっていきます。労働者が,週末に酒や賭け事等いかがわしいことに手を出さないようにし,ちゃんとした遊びを提供したほうが治安も良くなりますから。
こうして,だんだんと欧米各国の内部で,労働者も資本家も"みな一つの国民"という意識が強まっていったのもこの時期です。さらに通信社や新聞社の発達によって,メディアを通して世界各地の植民地の様子が伝えられるようになると,
「
野
蛮
」なアジア・アフリカ・太平洋・ラテンアメリカに比べて,欧米諸国はきわめて
「
文
明
」的である!という優越意識も同時に芽生えるようになっていきます。
科学者の中には,うさんくさい証拠を並べ立てて,欧米の白色人種のほうが,黒人や黄色人種よりも生物学的に優秀だと主張するも現れました。特に,生物学者
〈
ダーウィ
ン
〉
(1809~82)
【本試験H12カントとのひっかけ】
【追H20時期(19世紀後半~第一次世界大戦),追H29】
の
進化
論
【追H20,追H29】
(『種の起源』(1859))における適者生存(環境によりよく適応できた種が生き残る)の説が,人種間や人間社会の優劣にも都合よく適用されていきました
(
社会ダーウィニズ
ム
といいます
【H29共通テスト試行 内ロマン主義ではない】
)。また,発表当時は注目されませんでしたが,〈メンデル〉(1822~84)
【本試験H17 時期】
【追H19】
が現在のチェコ
で
遺伝の法
則
性
【本試験H17相対性理論ではない】
【追H19、H25相対性理論ではない】
を発見しています。
たしかに,ヨーロッパは,コミュニケーション手段や軍事力の分野において,ヨーロッパ以外の地域を圧倒していきました。1874年
に
万国郵便連
合
が結成されたことで,世界中どこでも郵便が送られるような制度が整えられていきました。また,1880年代に〈ハイラム=マキシム〉(1840~1916)により発明され
た
マキシム機関
銃
【追H29ナポレオン戦争のときには開発されていない】
は,植民地支配に強力に貢献しました。
電信技術の発達もめざましく,アメリカの
〈
ベ
ル
〉(1847~1922)
【本試験H11:モールスではない】
【追H20コッホではない】
は1876年
に
電話
機
【本試験H11】
を発明しました。さらにイタリアの
〈
マルコー
ニ
〉(1874~1937)
【東京H15[1]指定語句
】
【
本試
験
H1
1
:ヘルムホルツではない,本試験H12】
は1895年
に
無線電信
機
【
本試
験
H1
1
:ヘルムホルツではない,本試験H12時期を問う(19世紀後半)】
を発明しています
(1896年に電信装置を携えてロンドンに渡り,イギリスで特許を取得しました)
(注
)
。
こうした科学技術の発達は第一次世界大戦で遺憾なく発揮され,未曾有(みぞう)の犠牲者をもたらすことになります。
(注)『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.123
交通機関の発達としては,アメリカの
〈
ライト兄
弟
〉(兄1867~1912,弟1871~1948)が初
の
動力飛行
機
【本試験H2時期(第一次世界大戦後ではない)】
「フライヤー1号」(1903)を発明しました。一生涯で特許を1300もとったアメリカの
〈
エディソ
ン
〉(1847~1931)
【追H27】
【本試験H21自動車の大量生産方式ではない】
は,蓄音機
(フォノグラフ。ただし実用化に寄与したのはドイツ出身のアメリカ人〈ベルリナー〉(1851~1929)のレコード盤式蓄音機グラモフォン(1887))
,
電球
【追H27「電灯」】
,
映
画
【追H30時期(19世紀初頭ではない)】
を発明しています。「天才とは1パーセントのひらめきと99パーセントの汗からなる」は,小学校を中退して発明家となった彼の名言です。
このような対外進出と同時に,ヨーロッパ各国は国内で起きている"労働者vs資本家"の対立軸の代わりに
「
国民国
家
」の仲間意識を作り上げることによってまとめ上げようとしました。「みんな同じ国民なんだから」という理屈で,国内の少数派を押さえ込むことで,国内のさまざまな立場の人々を"一枚岩"にまとめあげようとしていったのです。
帝国主義による植民地の取り合いをめぐる対立は,アジアやアフリカ,バルカン半島,中央ユーラシアで激しくなりましたが,この時期には従来は足を踏み入れることができなかっ
た
極地探
検
も"国家プロジェクト"として積極的に行われました。
まずは,寒い地域への到達。アメリカ人の
〈
ピア
リ
〉はグリーンランドを探検し,3回目の挑戦
で
北極
点
に史上初めて到達しました(1909)
【追H27クックではない】
。さらに,ノルウェーの
〈
アムンゼ
ン
〉(1872~1912)
【H30共通テスト試行 時期(14世紀あるいは1402~1602年の間ではない)】
は,1911
年
南極
点
に初めて到達しました。イギリス人の
〈
スコッ
ト
〉(1868~1912)は,2度目の南極探検で南極点に到達しましたが,帰りに遭難死しました。
北極も南極も過酷な環境です。しかし,北極点に立つと,ユーラシア大陸全域と北アメリカ大陸を,そして南極点に立つとアフリカ大陸・南アメリカ大陸や,インド洋や大西洋などを射程範囲に修めることができます。戦略的に重要視されたわけです。
このように列強は急速に対外拡大を進めていたものの,19世紀末からは好景気がつづきヨーロッパやアメリカの中心地では大きな戦争は起こりませんでした。
しかも,生活水準はどんどん上がり,国民は日進月歩で進展していく科学技術の恩恵を受け,都市の生活を謳歌するようなっていきました。都市の人々は,多くの人々の群れの中にあって,だんだんと自分の考えを主張するというよりは,他の人の動きを見ながら,自分の考えを決定していく傾向が見られるようになっていきます。経済が発展していくにつれ,可もなく不可もないそれなりの生活を送ることができ
る
中間
層
が20世紀にかけて生まれていきました。彼らは国家によ
る
社会福
祉
を受けながら
,
消
費
(買い物)を楽しむようにもなっていきます。このような社会
を
大衆社
会
といい,
「
総力
戦
【東京H18,H30[1]指定語句】
」となる第一次世界大戦では社会主義の政党,労働組合も国家に協力する動きもみられました。
◆
西ヨーロッパ・中央ヨーロッパを中心とする国際的な運動が盛り上がる
この時期には,ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国を中心として,世界のさまざまな制度を標準化しようとする動きがみられました。例えば,世界中に植民地を持つイギリスのロンドン近郊グリニッジを通る子午線(経線)が1884年の国際会議
で
本初子午
線
として定められ,この線を基準に各国・各植民地の標準時が決められていきました。
1899年と1907年の2回にわたり,オランダのハーグ
【本試験H5アムステルダム,パリ,ジュネーヴではない】
で
万国平和会
議
【本試験H5】
【早法H25[5]指定語句】
が開かれ,戦争にかかわる国際法が多く定められました。また,戦争の被害者が増大するなか,スイスの実業家〈アンリ
=
デュナ
ン
〉(1828~1910)が1863年
に
国際赤十
字
【本試験H8】
を設立しました。彼はイタリア統一戦争時にソルフェリーノの戦いの激戦地で救援活動に当たり,国を越えた医療の協力関係の必要性を痛感したのです
。
第一回ノーベル平和
賞
を受賞しています。
各地で盛んになっていたスポーツ競技の国際大会を設立しようとする動きも高まり,フランスの〈クーベルタン男爵〉(1863~1937)が,古代ギリシアで行われていたに古代オリンピックを復活させる形
で
近代オリンピッ
ク
を提唱し,1896年に
は
第一回アテ
ネ(
アテーナ
イ
)
【東京H14[3]
】
大
会
が開かれました。 帝国主義に反対しつつ,労働者の国際的な連帯を生み出そうとしたのが,1889年にパリ
【追H26】
で成立し
た
第二インターナショナ
ル
【追H26】
です
。
ドイツ社会民主
党
(
SP
D
,エスペーデー)を中心とし
,
第一インターナショナ
ル
とは異なり個人資格ではなく,イギリス労働党やフランス社会党などの1国1政党が中心となって,社会主義の運動を世界に広げようとしました。しかし,第一次世界大戦の開戦時には,「今は自分の国のために戦うべきだ」という世論が大きくなり,第二インターナショナルは分裂してしまいます
【本試験H9 開戦直後,各国の社会主義政党は一斉に反戦運動を展開したわけではない】
。
◆191
4
年
~
191
8
年 第一次世界大戦
【本試験H29年代を問う】
【追H29年代を問う】
「総力戦」が,人類の社会を大きく変えた
この項では
,
第一次世界大
戦
にともなう世界的な動きを,まとめて扱っていきます。
オスマン帝国で1908年
に
青年トルコ革
命
がおきると,混乱に乗じ
て
オーストリアは,ボスニア州とヘルツェゴヴィナ
州
(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ
)
を併
合
しました。この2つの州にはスラヴ系の住民が多かったので,ロシアだけでなく南スラヴのリーダーを自任してい
た
セルビ
ア
を中心に,オーストリアへの反発が高まりました。
対抗し
た
ロシ
ア
【本試験H26フランスではない】
は1912年に,バルカン諸国をまとめ
(
バルカン同
盟
)
【本試験H25】
,オスマン帝国と戦って独立を勝ち取らせようとしました。みごと独立が成功すれば,ロシア「助けてあげたのだからいうことをきけ」と言えるわけです。バルカン同盟に参加したのは,ドナウ川沿いのセルビア,ドナウ川下流のブルガリア,アドリア海沿岸に近いモンテネグロ(ボスニア・ヘルツェゴヴィナに接する)そして,ギリシア(すでにオスマン帝国から独立済み)です。
オスマン帝国が,イタリアとの戦争
(
イタリ
ア=
トルコ戦
争
,1911~12)に追われていたすきを狙い,1912年に宣戦
(
第一次バルカン戦
争
),ロシアのバックアップしたバルカン同盟側が勝利します。
しかし,せっかく獲得した領土をめぐって,ブルガリア vs 他の3か国の争いに発展してしまいます
(
第二次バルカン戦
争
)。
敗れた
【本試験H13勝利していない
】
ブルガリ
ア
【本試験H13第一次大戦ではドイツ側に立って参戦したかを問う】
は,ロシアではなくオーストリアとドイツ側に接近するようになっていきました。
そんな中1914年6月,オーストリアの皇帝位の継承者夫妻が,1908年に併合したボスニア=ヘルツェゴヴィナ(のちのユーゴスラヴィアの一部)を訪問しにやって来ました。その際,「ボスニア=ヘルツェゴヴィナはセルビアに含めるべきだ。同じスラヴ系として,オーストリアが許せない」とするセルビア人の民族主義者が,公衆の面前でオーストリアの帝位継承予定者夫妻を2発の銃弾で暗殺してしまいました。これ
を
サライェヴォ事
件
【本試験H15のちのユーゴスラヴィアで発生したかを問う】
といいます。この日はセルビアにとって重要な祝祭日である聖ヴィトゥスの日であるとともに,1389年にコソヴォの戦いでオスマン帝国に敗北した日でもあり,民族的に重要な日と考えられており,2人の訪問はセルビア民族主義者の愛国感情を逆撫(さかな)でする形となったのです
(注
)
。
(注)ちなみにグレゴリオ暦ではこの日は6月28日ですが,正教会はユリウス暦を使い続けていたのでズレが生じ,6月15日に当たります。
サライェヴォ事件に対して,7月末,オーストリアはセルビアに対して宣戦布告しました。オーストリアをドイツも支援して参戦します(ドイツとオーストリアは三国同盟を結んでいます)。
すると,セルビアはバルカン同盟に所属していますから,後ろ盾のロシアはセルビアを支援します。
(2)
ドイ
ツ=
オーストリア
v
s
セルビ
ア=
ロシア
そうすると,露仏同盟,英露協商が適用され,イギリスとフランスも参戦します。
(3)
ドイ
ツ=
オーストリア
vs
セルビ
ア=
ロシ
ア=
フラン
ス=
イギリス
さらに,イギリスの同盟国である日本も参戦します(1902年日英同盟)。
(4)
ドイ
ツ=
オーストリア
v
s
セルビ
ア=
ロシ
ア=
フラン
ス=
イギリ
ス=
日本
また,オスマン帝国とブルガリアは,ドイツ=オーストリア側で参戦。
(5)
同盟
国(
中央同盟
国)
:
ドイツ,オーストリ
ア
【本試験H9ロシア側ではない
】
,ブルガリ
ア
【本試験H9
】
,オスマン帝
国
【本試験H9ロシア側ではない。同盟国側にスイス,イタリア,ベルギーはない】
協商
国(
連合
国)
:
セルビア,ロシア,フランス,イギリス,日本
さて,ドイツはかねてから立案していた作戦どおり,「短期戦」で決着をつけようとしていました。短期間でフランスに進入するためにドイツをはじめとする同盟国
【本試験H15】
がとったのは,1839年以来永世中立国であっ
た
ベルギーに進
入
【本試験H15】
すること。一気に北フランスに入ろうとしたのです。しかし,フランスは1914年9月
の
マルヌの戦
い
【本試験H31】
でこれを防ぎ
【本試験H31防げなかった(=ドイツの進撃を阻止できなかった)わけではない】
,ドイツ軍とフランス軍は地中に溝を掘って,相手の出方をうかがいながら一進一退を繰り返すことになりました。地上に出てしまうと,機関銃
【追H29ナポレオン戦争時に開発されていない】
,
戦
車
(
タンク
【本試験H9】
【本試験H27】
。1916年のソンムの戦いでイギリス軍により使用開始)などの攻撃を受ける恐れがありましたし,空か
ら
飛行
機
【本試験H2時期(動力飛行機は第一次世界大戦後に発明されたのではない),本試験H9】
によって偵察
【本試験H9】
や爆撃(空爆)
【本試験H9】
を受ける可能性もあります。この溝(みぞ)のことを塹壕(ざんごう)といいます。
雨がたまってビショビショになり感染症が蔓延し,冬は凍えるほど寒くなるという過酷な環境に対応するために,トレンチ(塹壕)コートという軍服が考案されました。
この塹壕
に
毒ガ
ス
(
化学兵
器
)
【本試験H9】
が投入されては一巻の終わりです。ドイツの化学者〈ハーバー〉(1868~1934)らによる開発の成果は,1915年にイーペルの戦いでのフランスに対する塩素ガスの攻撃で遺憾なく発揮されました。〈ハーバー〉は化学肥料などに使用される窒素化合物を生成するためのハーバー=ボッシュ法の開発の功績がみとめられ,1918年にノーベル賞を受賞していますが,"化学兵器の父"ともいわれます
(20世紀末の日本でオウム真理教が長野県と東京都で一般市民に対して使用し
た
サリ
ン
は,第二次世界大戦中にドイツが量産を計画した化学兵器です)
。
これらの新兵器によって,従来の戦争とは比べ物にならないほど,死者数が膨れ上がりました。戦争の悲惨さは,ドイツの作家
〈
レマル
ク
〉(1898~1970)の『西部戦線異状なし』にも描かれています。科学技術の発達によって,戦場における大量殺害が可能となってしまったのです。戦場から帰ってきた兵士には,塹壕で砲撃の爆音を聞き続けた恐怖から精神的な後遺症(シェル=ショック)といった精神疾患を患う者も多く,夢分析で知られる
〈
フロイ
ト
〉(1856~1939)
【追H25】
による
精神分析
学
【追H25】
研究な
ど
精神医
療
が発展していきました。その後の第二次世界大戦にいたると,大量殺害の現場は,一般庶民の暮らす町にも及んでいくことになります。
当初の「電撃戦」プランの狂ったドイツは,ロシアに対する東部戦線(フランスに対する戦線を西部戦線といいます)では,1914年8月
に
タンネンベルクの戦
い
でロシアを破ることに成功。この時の将軍〈ヒンデンブルク〉(1847~1934)
【東京H12[2]】
は,のちにドイツの大統領となる人物です。ちなみにこの地では1410年にも「タンネンベルクの戦い」があって,ポーランドとリトアニア軍が,ドイツ騎士団に勝った戦いでした。この時は負け戦でしたが,「その雪辱をついにはらした!」ということで,その勝利はドイツで祝福されました...が,その後はロシアの"冬将軍"の到来もあり,東部戦線も膠着状態がつづきます。膠着状態になればなるほど,戦場に送る兵士や武器・弾薬・物資の補給が間に合わなくなっていくのは必至です。
そこで各国は,「国内で働ける者には,男でも女でも全員働いてもらおう」とい
う
総力
戦
【東京H18[1]指定語句
】
体
制
がとられました。女性も武器工場で働いて,戦争遂行に貢献したことで,戦後には女性を含む参政権の拡大を図る国が増えました。
また,「海外の植民地も本国のために協力をするべきだ」と物資の供給や徴兵を要求しました。しかし,植民地における民族運動の高まっている中で,下手に刺激をするのは危険と考えた西欧諸国は,「協力してくれれば,戦後に自治・独立を約束するよ」と飴をちらつかせて,協力を求めます。戦後にその約束をなかったことにしたり場当たり的な約束をしたりした結果,余計に民族運動が激しくなったり(インド自治・独立運動),新しい民族紛争が起きる原因を作ってしまった例もありました
(
パレスチナ問
題
がもっとも有名な例です)。
さて,戦争の推移にあたって,3つの重要なトピックがあります。
イタリアは,三国同盟を結んでいたのでドイツ,オーストリア側に立って参戦するものと思われましたが,なんと協商国側で参戦しました。「未回収のイタリア」問題をめぐって,オーストリアと対立していたイタリアを,フランスが引き込んだのです。ロンドン秘密条約という密約によって成立しました。
(2)
アメリカ合衆国がヨーロッパの戦争に参戦した
また,ドイツ
【本試験H9アメリカではない】
【本試験H29イギリスではない】
が
「
無制限潜水艦作
戦
」
【本試験H9】
【本試験H18時期キール軍港の反乱後ではない】
という,敵国に関連すると見られる船を民間船も含めて手当たりしだい警告なしで攻撃する作戦をとった(1915年のルシタニア号撃沈事件)ことが引き金となり,アメリカ合衆国が協商国(連合国)側
【本試験H12】
に立って参戦します。ヨーロッパ大陸の国際対立に関与しない代わりに,ヨーロッパによるアメリカ合衆国への関与を拒否する
「
モンロー主
義
」は幕を閉じ,代わりにアメリカ合衆国は"民主主義の兵器廠(へいきしょう,武器庫)だ!"という使命感が喧伝(けんでん)されていきました。
アメリカ合衆国は,その経済力を"武器"に,イギリスやフランスに多額の貸付を行いました(戦債の発行)。戦後のアメリカ合衆国は,その借金の"回収"もあって,一層力を付けていくことになります。
(3)
ロシア帝国が滅亡した
さらに,協商国側で参戦していたロシアでは,国内での反戦デモが革命に発展し,最後の皇帝〈ニコライ2世〉が退位して,ロマノフ朝が滅びました
(
ロシア第二革
命
のうち
の
三月革
命
)。
しかし新政府は戦争継続の方針をとったため,社会主義者を中心とする反発が続き,11月には
〈
レーニ
ン
〉(1870~1924)と〈トロツキー〉(1879~1940)らが新政府を打倒し,1918年3月にはドイツと単独講和しました
(
十一月革
命
)。
つまり,ドイツが負けるまで,みんな(三国協商)で最後まで頑張ろう!と言っていたところ,ロシアが「いち抜けた」と言って,勝手にドイツと仲直りしてしまったということで,協商国側に大きな衝撃を与えました。
〈レーニン〉らの政府は,戦後の世界についての構想を発表。これが「
平和に関する布告
」と「
土地に関する布告
」
【追H26ロシア革命で出されたか問う】
【本試験H23中国で出されていない】
【同志社H30記】
です。
これに対抗してアメリカ合衆国の大統領〈ウィルソン〉(任1913~21)が発表したのが,
「
十四か
条
」
【東京H18[1]指定語句】
【本試験H5いずれも実現しなかったわけではない】
【本試験H30エカチェリーナ2世ではない】
【早法H27[5]指定語句】
という指針です。
ドイツは,〈レーニン〉のロシア
(
ロシア革命政
府
)と講和を結んだことから「東部戦線」がなくなったので,フランスとの「西部戦線」に残りのパワーをつぎ込もうとしましたが,アメリカも加わった連合軍(協商国軍)に反撃を受け,ブルガリア→オスマン帝国→オーストリア→ドイツの順に降伏していきました。
ドイツ帝国で
は
キール軍
港
で水兵が戦争続行に反対し蜂起
したことがきっかけとなって
【本試験H12】
【本試験H24時期・イタリアではない,H29,H29共通テスト試行 史料】
革命が勃発し,最後の皇帝〈ヴィルヘルム2世〉はオランダに亡命,ドイツ帝国は共和国になりました。最終的に降伏したのは,このドイツの共和国政府です。
(4)
従来のヨーロッパ文明や価値観を疑う風潮が生まれた
第一次世界大戦の"悪夢"を経験した若者たちの間には,希望に満ちあふれているように思えたヨーロッパの文明や科学技術に対し,"疑いの目"を向ける者も現れるようになりました。
ヨーロッパの芸術家の中には旧来の価値観を否定しようとする運動(フランス
の
ダダイス
ム
)が生まれました。フランス生まれの〈デュシャン〉(1887~1968)は,ダダイスムとも交流を持ちながら,独創的な作品を製作。1917年に「泉」という既製品の便器にタイトルを付けただけの作品を発表。その後も"芸術"そのものを疑う活動を続け
,
現代美
術
に大きな影響を与えました。
○187
0
年
~
192
0
年のアメリカ 北アメリカ
・
187
0
年
~
192
0
年の北アメリカ
現①
アメリカ合衆国
◆1
9
世紀末にアメリカ合衆国は世界第一位の工業国となる
アメリカ合衆国は世界一位の工業国に上り詰める
1873年~1896年の世界的な経済危機
(
「大不況
」
)
をきっかけに,中小企業を吸収した大企業が巨大化します。
アメリカ初
の
トラス
ト
【上智法(法律)他H30内容を選択】
である石油企
業
スタンダード・オイル
社
(1870設立)
の
ロックフェラー財
閥
(〈ロックフェラー〉(1839~1937)ドイツに逃れたフランスのユグノー系移民),銀行家で多業種に進出したメロン財閥(〈メロン〉(1855~1937))黒色火薬・ダイナマイトを扱い,後にポリマー
や
ナイロ
ン
【東京H9[3]】
(20世紀前半に発明された合成繊維
【本試験H2718世紀ではない】
)・合成ゴムなどの化学製品も製造し
た
デュポン財
閥
,銀行家で鉄鋼
業
USスチー
ル
(1901設立)も設立し
た
モルガン財
閥
(〈J・P・モルガン〉(1837~1913)
(注
)
),ポーツマス条約後
に
南満洲鉄
道
への進出を要求した(失敗)鉄道王〈ハリマン〉(1848~1909)
の
ハリマン財
閥
,カーネギー製鋼会社で成功したスコットランド遺民の〈カーネギー〉(1835~1919)
【本試験H21リード文】
の
カーネギー財
閥
など,名だたる富豪が輩出されました。富裕層は節税目的も兼ねて財団を設立し,文化施設や教育施設を創建するな
ど
慈善活
動
(フィランスロピー)をおこないました。
(注)
〈J・P・モルガン〉の甥は1901年の来日中に出会った京都の祇園の芸姑〈お雪〉(モルガンお雪,1881~1963)と1904に結婚。しかし排日移民法により帰化はゆるされず,夫の死後はフランスに移住,その後日本に帰国するも財産を差し押さえられるなど,波乱万丈の人生を追っています
。
企業が巨大化するに従い書類仕事(デスクワーク)も膨大になっていき
,
事務
職
や
企
画
・
営業
職
など
の
ホワイトカラ
ー
【本試験H21リード文】
と呼ばれる労働者も増えていきました
(
産業構造の転
換
【本試験H21リード文】
)。企業の収益が増えるにつれて労働者の収入も増え,人口におけ
る
中産
層
(ミドル=クラス)の厚みが増えていきました。同時に,いかに効率よく多くの社員を働かせるかというマネジメント
(
近代経営
学
)が注目されるようになっていきます(『マネジメント』で有名な〈ドラッカー〉(1909~2005)は1939年にナチスの迫害を逃れアメリカに移住することになります)。
ヨーロッパに比べ由緒正しい「伝統」を持たないアメリカ合衆国では,なんでも「まずはやってみよう」という精神が強く,それが思想にも影響します。19世紀後半にはプラグマティズムという思想が発展し,何が真理かは「有用性」によって決まる,科学的な知識や道徳は「問題解決」のための「道具」だ,という論を展開。〈パース〉(1839~1914)や〈ジェームズ〉(1842~1910,主著『プラグマティズム』),〈ジョン=デューイ〉(1859~1952,主著『民主主義と教育』)が知られます。
◆
「新移民」に対する迫害や規制がもうけられる
「新移民」が規制される
連邦政府は自由放任主義(歩国は経済に関することは放っておいたほうがよいという考え)をとっていたため,しだいに労働者の問題が深刻化していきました。南・東ヨーロッパを中心とし
た
新移
民
【東京H11[3]北・西欧からは「ドイツ人」,南欧からは「イタリア人」が多い】
を受け入れ,彼らを低賃金労働者として働かせたことも,都市
に
スラ
ム
(不良住宅地区)が発達する原因となります。ヨーロッパ諸国にとってのアメリカ大陸は,"国内問題のはけ口"だったのです。
しかし,
中国人
を始めとするアジア系
移民
の増加
【H30共通テスト試行 1860年代の西部での大陸横断鉄道の建設」のための労働力需要を支えたか問う】
により「アジア系移民が白人の仕事を奪う」という主張も生まれました。カリフォルニアのゴールド=ラッシュのときに大量の移民がアメリカに渡って以降,国内の騒乱(太平天国の乱)を避けて移住する者が増えていきました。1875年の移民法ではアジア系(ターゲットは中国・日本その他の東洋の国)からの女性移民を禁止しました。そうすれば同じ出身の移民同士で結婚ができなくなり,人口も増えないだろうと考えたのです。1882年に
は
クーリ
ー
(
苦
力
)とよばれた労働者など中国人移民が一括禁止されました
【東京H24[1]指定語句「アメリカ移民法改正(1882年)」】
【上智法(法律)他H30アイルランド移民ではない】
。
彼らの上陸したニューヨークや,カリフォルニア州のサンフランシスコには,現在でも大規模
な
チャイナタウ
ン
がみられます。中国人移民
は
会
館
や
公
所
を設立し,同族や同郷どうしでまとまって暮らしていました。中国では同じ省(しょう)出身の中でも方言の違いから言葉が通じない場合もあるので,異国の地であっても出身地別のまとまりが重要になります。
1885年には,ハワイ王国と日本の間で,日本人の契約移民をハワイのサトウキビのプランテーションに派遣できる取り決めがなされました。その後,ハワイ王国がアメリカ合衆国の領土になると,日本人はアメリカ西海岸に渡り,農業労働者になっていきました。1882年に禁止された中国移民の代わりに,日本人労働者が増えましたが,日露戦争で日本がロシアに勝つと,「黄色人種の拡大がヨーロッパ文明を危うくする」という根拠のない
「
黄禍
論
」(こうかろん)も盛り上がっていたこともあり,白人労働者の"仕事を奪う"日本人移民を追い出そうとする運動が盛り上がりました。1907年に日米紳士協定が結ばれて,日本人の労働移民に対するパスポートの発給数が制限されることになりました。
なお、1910年代に〈ドリュー=アリ〉(1886~1929?)が布教活動し、アメリカ=ムーア科学寺院を創設。「ニグロ」(黒人の蔑称)ではなく「誇り高いムーア人」というアイデンティティをかかげ、十数の都市の黒人コミュニティに勢力を広げました
(注)
。
19世紀末は金融資本家と政治家がつるみ経済格差が広がったことから,その風潮は当時の小説家〈マーク
=
トゥウェイ
ン
〉(1835~1910『トム=ソーヤーの冒険』で有名)により
「
金ぴか時
代
」とも揶揄(やゆ。からかうこと)されています。労働者の権利を求める運動も起こり,1886年にはユダヤ人〈サミュエル=ゴンパーズ〉(1850~1924)を会長として熟練労働者の労働組合であ
る
アメリカ労働総同
盟
(
AF
L
)
【本試験H26時期。20世紀ではない】
【上智法(法律)他H30 CIO,IWW,労働代表委員会ではない】
が結成されました。中央部の大平原から,西部のロッキー山脈の東部のグレートプレーンズにかけては,広大な領土で気候に合わせたトウモロコシ,小麦,大豆などの栽培(適地適作)が行われ
"
世界の穀
倉
"となりました。
開発がすすむにつれて環境破壊も問題となり,環境保護に対する意識も高まりました。1892年には世界最初の国立公園であ
る
イエローストーン国立公
園
が設置されています。自然保護団体シエラ=クラブを中心として,カリフォルニア州のヨセミテ渓谷を含む一帯を国立公園にする運動が起こされています(1890年に設立されていたヨセミテ国立公園に1906年にヨセミテ渓谷などを統合)。
そこで,20世紀初めにかけて「国は経済にもっと干渉して社会問題を調整するべきだ」とい
う
革新主
義
【追H28人種差別への反対から起きたわけではない】
【本試験H31内容を問う(企業の独占が推進されたわけではない)】
【上智法(法律)他H30】
を打ち出して大統領となる者が現れました。政権にとってもっとも心配だったのは,労働者が放っておけば社会主義になびいてしまう可能性があったことです。ヨーロッパ諸国は,国内では国民を一致団結させ
(
国民国
家
),国外への植民地獲得を目指す
(
帝国主
義
)ことで国力を強めようとしていましたから,国内における労働者vs資本家の対立はなんとしても避けなければなりません。こうして,民間の経済活動は放っておけばなんとかなるという自由放任主義は転換され,連邦政府が企業の独占や鉄道料金などの分野にさまざまな規制をかけていくようになりました。
(注) 正統派イスラームとは異なり、キリスト教の影響も受けたものでした。大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』岩波書店、2002年、p.52。
バスケ,バレー,野
球...
スポーツが整備されていく
また,この時代
に
スポー
ツ
の全国的な団体の整備が進んでいきました。酒や遊びに気を取られるのではなく,マジメでちゃんとした青少年育成のために,スポーツが重視されるようになっためです。また,国家も,軍事力増強のために"健康で力強くたくましい"男子を育てる手段として重視するようになっていきます。
例えば,1891年に
は
バスケットボー
ル
がカナダ人体育教師〈ネイスミス〉(1861~1939)により考案されました。1895年に
は
バレーボー
ル
がアメリカ人〈モーガン〉(1870~1942)によりニューヨークで考案されます。また,1830年代頃にアメリカ合衆国北部で成立したといわれ
る
野
球
は,1869年に世界初のプロ球団(シンシナティ=レッドストッキングス)が設立,1871年には世界初のプロ野球リーグが設立されました(1876年にナショナルリーグ(大リーグ(メジャーリーグベースボール)に引き継がれました)。1877年に第一回ウィンブルドン選手権が開催されていたテニスは,1881年に全米テニス協会が設立され全米オープンの元となる大会も開催され,ルールの統一が進みました。
インディアンの抵抗が終結する
アメリカの帝国主義は,西部
の
フロンティアの消
滅
以降加速します。アメリカ合衆国は広大な面積を保有す
る
大陸国
家
のようにみえますが,実際には西部と東部沿岸部に人口が集中し,中央部は人口があまり分布していません。
沿岸部の安全保障を図るためには海への進出が必要だという,海軍の〈マハン〉(1840~1914。主著は『海上権力史論』(1890))
の
地政
学
(国家の力関係を,地理的な位置関係によって説明し,政治・軍事戦略に活かそうとする学問)的な主張により,海軍が増強されていくことになりました。
中央部
の
大平
原
では,アメリカ合衆国の入植者の乱獲によ
り
バッファ
ロ
ーが絶滅寸前となり,獲物の減った大平原のインディアンの人口も減少を続けます。
1876年にゴールドラッシュが現在のノースダコタ州やサウスダコタ州で起きると(ダコタ=ゴールドラッシュ),この地に居住してい
た
スー
人
との間に戦争が起きました(ぶブラックヒルズ戦争(1766~77))。〈カスター〉中佐(1839~76)は,スー人,シャイアン人らがサン=ダンスの儀式をしているところを狙いましたが,ラコタ人の戦士〈クレイジー=ホース〉(1840?~77?)の参加もあり失敗,部隊は全滅します(リトルビッグホーンの戦い)。1890年には,死者が復活し白人を追い出すとの信仰に基づくゴースト=ダンス
(⇒1848~1870の北アメリカ)
の儀式をとりおこなっていた無抵抗
の
スー
人
約300名
が
ウンデッ
ド=
ニーで虐
殺
されると,大平原のインディアンの抵抗は終結しました。
南西部でも,アパッチ人の戦士〈ジェロニモ〉(1829~1909。「酋長」ではありません)などの抵抗がありましたが1886年に降伏しています。それ以降は,インディアン庶民像の組織的な抵抗はなくなりました。
従来はインディアン諸民族は「保留地」に移動させられ,部族単位に土地が割り当てられていました。しかし,インディアンの保留地で金などの資源が新たに発見されると,1887年にインディアン一般土地割当法
(
ドーズ
法
)が制定され,「土地はインディアン個人のもの」とされていきました。このときにインディアンの世帯に与えられたのはホームステッド法(1862)
【東京H7[3]】
と同じ160エーカー。同時に,幼い頃からインディアンを親元から離し,インディアン寄宿学校で"アメリカ人として"教育していく政策(同化政策)も推進されました。
最後の"
(注1)ジャレド・ダイアモンド,秋山勝訳『若い読者のための第三のチンパンジー』草思社文庫,2017,pp.293-295。
この時期には
,
黒人に対する差別に反対する運
動
もみられるようになりました。1910年には黒人の〈デュボイス〉(1868~1963)が中心となり全国黒人地位向上協会(NAACP)が設立されています。
アメリカ合衆国は,南
の
カリブ
海
と西
の
太平
洋
の2方向に向けて拡大をすすめ,19世紀末には海軍を増強するべきだという主張が強まりました。もともとアメリカ合衆国は,常備軍を置かない伝統でしたが,海軍の規模は徐々に大きくなっていきました。カリブ海は「アメリカの裏庭」として強力に進出し,巨大な市場である中国に対してはヨーロッパ諸国や日本を牽制していきます。後者については,
〈
マッキンリ
ー
〉・
〈
セオド
ア=
ローズヴェル
ト
〉大統領ののもとで国務長官を務めた
〈
ジョ
ン=
ヘ
イ
〉(1838~1905)は中国に対し
て
〈
マッキンリ
ー
〉大統領(任1897~1901)
【本試験H26「棍棒外交」を推進していない】
【追H24棍棒外交を展開していない】
は共和党の人物。1898年に,キューバのハバナ港に停泊中のメイン号が爆破され,根拠がないまま新聞が「スペインによる陰謀だ」と世論をあおり
,
アメリ
カ=
スペイ
ン(
米
西)
戦
争
に発展し,勝利しました。世論をあおったのは,新聞王〈ハースト〉(1863~1951)の新聞記事でした。
スペインは,カリブ海
の
プエルトリ
コ
(アメリカが獲得)
【本試験H26ドイツ領ではない】
【追H20スペイン領となったわけではない】
や
キュー
バ
(アメリカが保護国化)を失ったことで,1492年の〈コロン〉以来のカリブ海におけるスペイン支配は,ここでおしまいです。アメリカはキューバに対し
て
プラット条
項
と呼ばれる「財政や外交にアメリカが口出しをする権利」を,憲法に明記させました。実質,保護国化です。なお
,
保護
国
というのは,外交権や行政権など,ほんらいはその国が持っているべき権力の一部を,外国によって奪われている国のことです。
また,〈マッキンリー〉
【本試験H19セオドア=ローズヴェルトではない】
のとき
に
ハワイ王国を併
合
しています。
〈
セオド
ア=
ローズヴェル
ト
〉(任1901~09)
【本試験H5】
【本試験H19ハワイを併合していない】
も共和党の人物。
「
棍
棒
(ビッグスティック
)
外
交
」
【本試験H26マッキンリーではない】
【追H24マッキンリーではない】
といって,武力をちらつかせて,中米諸国(グアテマラ,ベリーズ,エルサルバドル,ホンジュラス,ニカラグア,コスタリカ,パナマや,カリブ海の島々)に対する勢力圏を広げていきます。
この帝国主義的
【本試験H5反帝国主義的ではない】
な方針を
,
カリブ海政
策
といいます。その目玉
が
パナマ運
河
の建設です
【H30共通テスト試行 大陸横断鉄道とのひっかけ(時期的に1860年代ではない)】
【追H9コロンビアが建設してアメリカ合衆国が占拠したわけではない,イギリスの資金による建設ではない,フランス人レセップスの建設ではない。アメリカ合衆国が運河地帯を租借して建設したか問う, H25,H29時期を問う】
。
1903年にコロンビアから運河地帯を独立させて永久所有権を獲得し,次の民主党〈ウィルソン〉大統領のとき1914年に完成させています。また,太平洋の向こう側にある巨大な中国市場への進出を狙い,1905年7月に桂=タフト協定という外交上の覚書(おぼえがき)を交わして日本の朝鮮での指導権を認める代わりに自国のフィリピンの優越を認め合い,日露戦争の講話条約(1905年9月のポーツマス条約)の間を取り持ち,東アジアの情勢にも関わろうとしました。
また,ドイツが1905年
に
第一次モロッコ事
件
【本試験H5】
【追H24英仏のアフリカでの衝突事件ではない】
で
モロッ
コ
のスルターンを支援する動きを見せると,それを止めるために1906年
に
アルヘシラス国際会
議
を提唱するなど,ヨーロッパ列強の関係にも首をつっこみました。
19世紀末にはイギリスに代わって世界一の工業国に上り詰めていったアメリカ合衆国
【追H25フランス、イタリア、ロシアではない】
。
しかし国内では大企業の独占を批判し,1890年に制定され
た
シャーマン反トラスト
法
を適用してロックフェラー(1839~1937)のスタンダード石油を33社に分割する命令も出されています。
ロックフェラーは1860年代に精油事業を開始し,1880年代までに全国の95%を独占す
る
巨大企
業
に成長させていたのです。彼は解体を機に引退し,シカゴ大学などの研究機関の創立や慈善事業に努めました。アメリカの富豪にはこのようなノブリス・オブリージュ(豊かな者にはそれ相応の社会貢献をする義務があるという意味)の伝統があるものの,経済格差はひらきます。
〈
タフ
ト
〉大統領(任1909~13)(共和党)のときには,中米諸国と中国の投資をさかんに行い
「
ドル外
交
」といわれました。
〈
ウィルソ
ン
〉大統領(任1913~21)は民主党の大統領として,
「
新しい自
由
」
【慶文H30記】
というスローガンを掲げて就任しました。これは共和党の革新主義と似通った考え方で,やはり国家が民間の経済を調整するべきだという主張です。海外への投資が増え,ますます巨大化していた銀行や企業の独占状態を制限するとともに(クレイトン反トラスト法),関税を引き下げ,鉄道労働者の8時間労働などで労働者を保護しました。彼の在任中には,禁酒を定める憲法が修正されています
(
禁酒
法
【追H27アメリカ合衆国の法か問う】
)。
外国に対しては,中米諸国やカリブ海への進出を引き続き進め
,
ハイ
チ(
ハイテ
ィ
)
,
ドミニ
カ
,
キュー
バ
に派兵し
,
メキシコ革
命
にも自国に有利になる側を支援するなどの干渉をしました。その口実として「アメリカの民主主義を世界に布教しようとしているんだ」と主張しました。これを
「
宣教師外
交
」
【慶文H30記】
といいます。生まれたばかりの国家であるアメリカ合衆国は,「伝統」がない代わりに,時代を越えて正義とされるような「理念」を重視する傾向があります。今後もアメリカ合衆国の指導者は,「理念」を旗印に「敵」を設定し,国外に進出していくようになるのです。
20世紀は"映像の世紀"と言われます
。
映
画
技術
【本試験H11:問題文で「19世紀末に発明された」と言及】
を発明していた
〈
エディソ
ン
〉(1847~1931)は,1908年にトラストを設立して映画業界を支配下に置こうとしました。それに対し,中小の映画業者は西海岸に移住し,1911年にカリフォルニア
の
ハリウッ
ド
に初の映画スタジオができました。移住してきた俳優や製作者には,ユダヤ系やイタリア系などの新移民が多かったのが特徴です。例えば,ユダヤ系ドイツ人の〈カール=レムリ〉(1867~1939)は,1912年に映画会社8社と合併し,ユニバーサル映画を設立しています。
○187
0
年
~
192
0
年のアメリカ 中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ
◆
中央アメリカ,カリブ海,南アメリカが天然資源の産地として,世界市場に包み込まれていった
冷凍船により南米の肉がヨーロッパ人のお腹へ
1870年代
に
冷凍
船
が発明されると,南アメリカのアルゼンチンなどで大規模な牧畜業が盛んになり,赤道を超えてヨーロッパに冷凍輸出されるようになりました。この冷凍食肉が,産業化のすすんでいたヨーロッパの人口増を支えたのです。
ラテンアメリカからは,ほかにも世界市場のため
に
小
麦
,
コーヒ
ー
【本試験H11アメリカが原産地ではない】
,
砂
糖
,
綿
,
天然ゴ
ム
のような農産物
,
硝
石
,
銅
,
石
油
,
銀
といった鉱産物が輸出されました。海鳥やアザラシの糞が長い年月を積もり積もった物(窒素化合物,リン酸塩を含む)で,有機肥料として用いられ
る
グァ
ノ
(ケチュア語の「糞」に由来)もエクアドル,ペルー
【追H27 19世紀のイギリスがペルーから輸入していたのはグァノであって麻ではない】
,チリの沿岸で産出されます。
これらの採掘・生産は近代的な方式でなされたものではなく,独立直後から続く不公平な社会関係にもとづいていたため,世界市場との関係が深まれば深まるほど,少数の大土地所有者や大商人に富が偏って蓄積されていくという矛盾(むじゅん)がありました。
しかも,同時に外国資本による進出が強まり,1910年にはなんとアメリカ合衆国の資本家が,メキシコの全資産の実に90%(!)を支配するに至りました。こうした矛盾に対し,1910年に始ま
る
メキシコ革
命
のように下層の民衆の抵抗運動や社会改革も起きるようになっていきます。
◆
南アメリカにはヨーロッパからの移民が急増し,アメリカ合衆国による干渉も強まった
「母をたずねて三千里」はイタリア移民のお話
この時期には国外からの移民も急増します。ヨーロッパ(スペイン,ポルトガル,イタリア,さらに中欧・東欧)からブラジルやアルゼンチンへの流れが大多数で,さらに少数ですがアジア(中国,日本,インド)からの移民がいました。1871年からの40年間に,ブラジルには200万人,アルゼンチンにはじつに250万人のヨーロッパ人が移住してきたのです。日本で1970年代に放映されたアニメに『母をたずねて三千里』という作品がありますが,これはアルゼンチンの首都ブエノスアイレスに出稼ぎ出たまま行方のわからない母を,1882年にイタリアのジェノヴァから少年マルコが探しに行く物語です。1908年には,日本から笠戸丸による第一
回
ブラジル移
民
が実施されています。
ラテンアメリカには,ヨーロッパだけではなくアメリカによる経済的な進出も強まっていきました。1889年以降
,
パ
ン=
アメリカ会議
【東
京
H10[1
]
指定語句
】
を定期開催し,ラテンアメリカを勢力圏に入れようとしていきます
【本試験H25アメリカ合衆国の勢力拡大を牽制することが目的ではない】
。モンロー主義(ヨーロッパはアメリカに首をつっこむな!という方針)は,だんだんと"ラテンアメリカに首をつっこむな!アメリカ合衆国の庭付きプールだ!"という主張に変化していったのです。
アメリカは,20世紀初めには,大西洋から直接太平洋に抜けるため
の
パナマ運
河
を建設するために,コロンビアからパナマ地方を独立さ
せ
パナマ共和
国
とし,運河条約を締結してパナマ運河地域の恒久的な管理権を獲得します。運河は1914年に完成しました。
○187
0
年
~
192
0
年のアメリカ 中央アメリカ
中央アメリ
カ
...①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ
◆
一次産品の輸出に依存する経済により中央アメリカでは中産層が拡大せず,植民地時代からの支配者であるクリオーリョが大土地所有制度を維持したが,社会改革運動も起きた
その中で,各国内では労働者階級が形成にされていくと,従来の保守主義(大土地所有者を中心とする伝統的な社会を守ろうとする考え),自由主義(ヨーロッパ諸国への一次産品を推進する考え)に代わり,労働者や中産層が社会の変革を叫ぶ声も挙がるようになっていきます。1880年以降はアメリカ合衆国の経済進出が加速。1889~90年にかけてアメリカ合衆国〈ブレーン〉がワシントン
で
第一回パ
ン=
アメリカ会
議
を開催しますが,経済的な統合には失敗しています。
・
187
0
年
~
192
0
年のアメリカ 中央アメリカ
現①
メキシコ
メキシコに対するフランスの進出は失敗し
,
2
0
世紀初頭にはメキシコ革命が起きた
1877年に
〈
ディア
ス
〉大統領が大統領に就任し独裁政治(1877~1880,1884~1911)を展開。この間に外国資本の導入がすすみ,サトウキビ,タバコ,綿花,銀,銅,石油の輸出が進みました。欧米の資本を導入して近代化をすすめましたが,1910年に
〈
マデ
ロ
〉(1873~1913,大統領任1911~13)を中心に〈ディアス〉
【本試験H29】
を打倒す
る
メキシコ革
命
が引き起こされました。
しかし,例によって,社会改革をどこまですすめるかということをめぐり激しい対立が起き,一時農民運動の指導者である
〈
サパ
タ
〉(1879?~1919)
【本試験H29】
【追H18】
と〈ビリャ〉(1878~1923)が1914年末に首都を占領する事態となりましたが,アメリカの〈ウィルソン〉大統領による軍事干渉もあって,1917年に民主的な憲法が制定されると,そこで落ち着きました。この憲法には,土地改革や労働者の権利などが定められています。〈サパタ〉はその後も貧農を中心として農民軍を指揮し,のちに反対派に暗殺されています。芸術家
〈
シケイロ
ス
〉(1896~1974)は,革命によってもたらされた新しい考え方と,スペイン人に植民地化される前のメキシコ独自の文化や歴史について,文字の読めない人々にわかりやすく伝えようと
,
メキシコ壁画運
動
を始めました。いまでも,メキシコ各地に原色の力強い巨大な壁画が残されています。
・
187
0
年
~
192
0
年のアメリカ 中央アメリカ
現④
エルサルバドル
,⑤
ホンジュラス
,⑥
ニカラグア
輸出用作物のプランテーションが進んでいた中央アメリカでは,エルサルバドルを中心に中央アメリカの連邦を再建しようとする動きが強まります。1896年に
は
エルサルバド
ル
,
ホンジュラ
ス
,
ニカラグ
ア
の3国で中央アメリカ大共和国(Greater Republic of Central America)を建国し,首都はホンジュラスに置かれましたが,1898年に崩壊しました。
エルサルバド
ル
では,1913年~23年にかけて〈メレンデス〉一族から大統領が輩出されることが多くなり,コーヒーのプランテーションが経済の中心となりました。
・
187
0
年
~
192
0
年のアメリカ 中央アメリカ
現⑧
パナマ
パナマ運河建設を計画するアメリカ合衆国の圧力により,コロンビアからパナマが分離独立した
コロンビアでは,1880年代には自由主義派の中の穏健派と,保守派の〈ヌニェス〉(任1880~82,84~86,87~88,92~94)による強権的な長期政権の下
,
コーヒー輸
出
産業が盛んとなり
,
鉄道建
設
ブームも起きました。経済成長を背景に,中央集権的な政府が必要との意見が強まり,1886年にはコロンビ
ア
共和
国
となりました。〈ヌニェス〉のやり方に対しては自由主義派の中の急進派による反発もあり,1899年~1902年の間に大規模な内戦に発展。
そんな中,カリブ海から太平洋に進出する思惑を持っていたアメリカ合衆国
が
パナマ地
峡
を削っ
て
パナマ運
河
を建設する計画を実行するため,1903年
に
パナ
マ
をコロンビアから分離独立させました。
○187
0
年
~
192
0
年のアメリカ カリブ海
カリブ
海
...①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島
◆
カリブ海地域ではイギリスによる支配が続く
しかし
,
カリブ海地
域
では,いまだにイギリスによる植民地支配が続いており,しだいに反植民地主義の運動が始まります。イギリス領トリニダードのアフリカ系弁護士
〈
エリッ
ク=
ウィリアム
ズ
〉(1911~81)
(注
)
【セA H30リード文】
は,1900年にロンドンでパン=アフリカ会議を開いて,人種差別に反対しました。
(注)〈ウィリアムズ〉はのちにカリブ海のトリニダード=トバゴ共和国初代首相となる人物でもあり,黒人奴隷交易で蓄積された資本がイギリス産業革命(工業化)を可能にしたという,いわゆる"ウィリアム=テーゼ"を論証した歴史学者でもあります。博士論文は『資本主義と奴隷制』
【セA H30リード文】
。彼の著作や関連資料は1999年にユネスコの『世界の記憶』(記憶遺産)に登録されています。
・
187
0
年
~
192
0
年のアメリカ カリブ海
現①
キューバ
キュー
バ
では,1886年までアフリカ出身の奴隷を用いたサトウキビ=プランテーションと製糖業が行われていましたが,次第にアメリカ合衆国の投資家が砂糖産業に進出。砂糖企業が結集して設立されたアメリカン=シュガー=リファイニング社は,キューバのサトウキビ産業を支配するにいたりま。1898年
の
米西戦
争
でアメリカ合衆国が勝利し
,
パリ条
約
によりスペインはキューバに対するすべての主権を放棄し無期限の保護国化(第1条),カリブ海のプエルト=リコ島や西インド諸島,オセアニアにあるマリアナ(ラドロネス)諸島のグアム島
【追H24米英戦争で獲得したのではない】
(第2条),フィリピン諸島(第3条)をアメリカに譲りました。
アメリカ合衆国軍は1903年にキューバを撤退しましたが,独立後
の
キュー
バ
の憲法にはアメリカ合衆国はキューバ政府に対して口出し(「干渉する権利」
(第3項)
)を認める
「
プラット条
項
」が組み込まれていました。
アメリカ合衆国からキューバには,サトウキビを中心とするに産業に莫大な投資がなされており,これをみすみす手放すわけにはいかなかったのです。キューバのグアンアタナモ湾はアメリカ合衆国が租借し,現在もグアンアタナモ海軍基地として維持されています。
・
187
0
年
~
192
0
年のアメリカ カリブ海
現③
バハマ
バハマ
は
イギリス
領
です。
・
187
0
年
~
192
0
年のアメリカ カリブ海
現⑤
アメリカ領プエルトリコ
プエル
ト=
リ
コ
は米西戦争の結果,スペインからアメリカ合衆国の領域となりました。アメリカ合衆国向けの砂糖産業が発展し,1917年にはアメリカ合衆国の市民権が与えられています。
・
187
0
年
~
192
0
年のアメリカ カリブ海
現⑪
フランス領マルティニーク島
フランス領
マルティニーク
島
ではフランスの植民地として,サトウキビのプランテーションが行われていました。
フランスが第三共和制になると,マルティニーク島の黒人にもフランスで認められている様々な権利が与えられるようになります。
フランス人と同じように住民を扱うことで,不満をやわらげ,同じ仲間意識をもたせようとする政策を
「
同化政
策
」といいます。同化政策の背景には,フランス人はカリブ海の人々よりも「進んでいる」という優越意識や,「カリブ海の人たちが遅れているのは"かわいそう"だ。われわれフランス人がなんとか手を差し伸べてやろう」という
「
文明化の使
命
」の意識があったのです。
しかし,1902年にはプレー火山が大噴火し,島の中心部が崩壊し,3万人が亡くなる壊滅的な被害を受けます
。
○187
0
年
~
192
0
年のアメリカ 南アメリカ
南アメリ
カ
...①ブラジル,②パラグアイ,③ウルグアイ,④アルゼンチン,⑤チリ,⑥ボリビア,⑦ペルー,⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネズエラ,⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ
・
187
0
年
~
192
0
年の南アメリカ
現①
ブラジル
◆輸出の利権を握った3州の政治家が、ブラジルの政治・経済に強い影響力を握った
コーヒー農園主と輸出業者中心の共和国
帝政が続いていたブラジルでは1888年にようや
く
奴隷制が廃
止
されました。
しかし,帝政を支えていた地主層の支持を失い,共和主義を支持する軍人によるクーデタによって1889年には共和政に移行
。
ブラジル連邦共和
国
(旧共和国;第一共和政,~1930年)となりました。
国旗には独立時の空に浮かぶ星座が,フランスの社会学者
〈
コン
ト
〉(1798~1857)の「秩序と発展」という言葉とともにデザインされています。独立時の指導者の多くが,人類の進歩を信じる〈コント〉の実証主義にあこがれていたからです。2代にして最後の皇帝〈ペドロ2世〉(位1831~89)は最終的にイギリスの軍艦に乗ってヨーロッパに亡命しました
(注1)
。
こうして共和政が始まったブラジルではさまざまな近代化政策が実行されていきますが,その内実は地主たちに権力の集中する寡頭制(オリガーキー)に過ぎませんでした
(
注
2
)
。
帝政時代には中央集権的であった政治制度は,1891年の新憲法の下で地方分権的な連邦共和政になり
,
ブラジル合衆
国
という国名になりました。直後に陸軍によるに政治への介入が強まりますが,1894年に文民の大統領が就任します。
「地方分権」的というのはどういうことかというと、各州の権限が強く、連邦制でありながら中央政府が各州を統一の方針によってまとめることが難しいということです。
特に、コーヒーのプランテーションと牧畜の盛んなミナスジェライス州と、輸出・金融業の栄えるサンパウロ州の発言権が非常に高く、大統領のほとんどがこの2州とリオデジャネイロ州から輩出されました。
コーヒーの木は1890年にサンパウロ州で2億本あったものが、1905年には6億8900万本にまで急増
(注3)
。サントス港もこのころ建設され、コーヒーの積出港として発展します。政府は工業製品や食料品を輸入し、その関税収入を頼りにしていましたが、輸入品の購入にはコーヒー輸出で獲得した外貨があてられました
(注4)
。まさにこの時期のブラジルは"コーヒーで持っていた"のです。
1886年以降、アメリカ合衆国の成長による需要増と、現・スリランカの病害による生産減を受け、コーヒー価格が上昇しますが、1895年に国際的な供給超過によって価格が暴落。このとき政府(〈プルデンテ=デ=モラエス〉政権(任1894~1898)と〈カンポス=サーレス〉政権(任1898~1902))はブラジル通貨の切り下げによって乗り切ろうとしたため、インフレが低所得者を直撃しました
(注5)
。1898年に〈サーレス〉大統領は、イギリスの銀行ロスチャイルドとの間に債務返済の一時停止を合意しています
(注6)
。
20世紀初めの〈アルヴェス〉政権(任1902~1906)のときには、潤沢な資金で首都の公衆衛生・都市改造事業をおこない、有名なコパカバーナ街区が整備され、黄熱病などの撲滅が推進されました。これらは住民の移動をともなう強権的なもので、貧しい住民は中心街から排除されて丘の上や湿地帯にスラム(ファベーラ)を形成していきました
(注7)
。
しかし、この〈アルヴェス〉政権に抵抗して、サンパウロ、ミナスジェライス、リオデジャネイロ3州の知事が、コーヒーの価格を維持するために外国から融資を受け余ったコーヒーを買い取って貯蔵することなどを決めたため、ブラジルのコーヒー産業は余計に海外資本の資本を受けることとなります
(注7)
。
ブラジルのコーヒー産業を支えていたもう一つの要因は、豊富な移民労働力です。
もともと奴隷にプランテーションで働かせていたブラジルの農園主ですから、移民に対する仕打ちも相変わらず劣悪で、これを問題視したイタリアは1902年にブラジル移民を禁止する2度目の決定をしています。1910年代の移民の総数を占めていたのはイタリア人で、さらにポルトガル人、スペイン人、ドイツ人、オーストリア人、日本人、ロシア人、シリア・レバノン人が続きました
(注8)
。
1906年にはサンパウロ州政府は植民・労働局、1907年には移民監督極が設置されました。
1908年に
は
日本人移
民
の第一弾781名が笠戸丸によってサン=パウロ州のサントス港に上陸しています
(⇒1870年~1920年のアジア 東アジア 日本)
。1908年~1914年までにサンパウロにやって来た日本人移民は1万5000人。1914年に助成が打ち切られますが、大戦中にヨーロッパからの移民が途絶えたので1917年に再開。1920年までに1万3000人を越える日本人移民が移住しました
(注9)
。
その後サントスは第二次世界大戦までの間,日本人移民の町として発展していきます
。
1914年に第一次世界大戦が勃発すると,中立政策がとられました。しかし,1917年にブラジルの商船がドイツの潜水艦によって撃沈されると,南アメリカで唯一の参戦国となりました。
戦争が終わるとにヴェルサイユ会議に参加し
,
国際連
盟
にも加盟しています。
(注1) 逆に言えば、ブラジルの奥地に住む先住民は「近代」的ではないものというレッテルを貼られ、迫害を受けることに。それに対する抵抗運動が各地で起きています。ブラジル南東部がコーヒー産業に湧いていたころ、ブラジル北東部は悲惨な干ばつに何度も見舞われていました(1877~1879年に死者30万人、1888~1889、1898、1900、1915年にも干ばつが襲います)。義賊(民衆の"味方")的な盗賊団が横行する中、奥地住民を神秘的なカトリック教会指導者〈コンセリェイロ〉(1830~1897)による大規模な反乱がバイーア州で起きます(1893~1897年、カヌードスの反乱)。同様の宗教的な運動はセアラー州南部で、千年王国的な農民反乱(「コンテスタード」、1912~1916年)がサンタカタリーナ州で起き、両方とも共和国政府により鎮圧されています。
共和国による先住民への迫害を『奥地』(オス=セルトンイス、1902年)に著したのは〈エウクリーデス=ダ=クーニャ〉、当時としては珍しい社会派の作家です(シッコ・アレンカール他、東明彦他訳『世界の教科書シリーズ7 ブラジルの歴史―ブラジル高校歴史教科書』明石書店、2003年、p.409,411,420-421)。
(注2) 堀坂浩太郎『ブラジル―飛躍の奇跡』岩波書店,2012年,p.15。
(注3) シッコ・アレンカール他、東明彦他訳『世界の教科書シリーズ7 ブラジルの歴史―ブラジル高校歴史教科書』明石書店、2003年、p.367。
(注4) 上掲書、、p.368。
(注5) 上掲書、p.371。
(注6) 上掲書、p.371。
(注7) 上掲書、p.402。
(注8) 上掲書、p.372。
(注9) 上掲書、p.374。
(注10) 上掲書、pp.376-378。
・
187
0
年
~
192
0
年のアメリカ 南アメリカ
現②
パラグアイ
パラグアイの大部分が周辺国家に分割される
パラグアイは1864~1870年,周囲のアルゼンチン,ボリビア,ブラジルと
の
三国同盟戦
争
により,すでに〈ロペス〉大統領(任1862~1869)が死去。国土の大部分が分割され,首都
の
アスンシオ
ン
も占領下に置かれています。
・アルゼンチンとボリビアは,現・パラグアイ北部のグランチャコを獲得
・ブラジルは現・パラグアイ東部を獲得
・アルゼンチンは現・パラグアイ南部を獲得
戦争により約50万の人口は約20万に激減。ブラジルのコーヒー=プランテーションに連行されるパラグアイ人もおり,混乱の中でもともとほとんどが国有であったパラグアイの土地は,アルゼンチンやイギリスなど海外資本により買い占められました。自由貿易が強制され,海外からの移民も増加していきます。
1887年に保守的なコロラド党と自由党が結成され,周辺国家の介入を招きます。1904年には自由党が政権を獲得し,1936年まで続きます。
現・パラグアイ北部のチャコ地方をめぐり,ボリビアとの紛争が勃発しています。
・
187
0
年
~
192
0
年のアメリカ 南アメリカ
現③
ウルグアイ
ウルグアイはブラジルとアルゼンチンの緩衝国家に
ラプラタ川下流のウルグアイは,三国同盟戦争(パラグアイ対,アルゼンチン・ブラジル・ボリビア)後,1875年~1890年まで軍事政権が続きます。
1880年代以降,南ヨーロッパを中心に移民が多数到来し,ヨーロッパ資本の導入された大農園
(
エスタンシ
ア
)で,ヨーロッパ向けの畜産物が生産されました。
この背景には,大規模な牧草地で大量の家畜を管理するため
の
有刺鉄
線
の発明(1867年にアメリカ合衆国で発明)と,新鮮さを保ち輸送することのでき
る
冷凍
船
の発明(1870年代に実用化)がありました。
音楽のジャンルの一
つ
タン
ゴ
が生まれたのは,この時期のウルグアイかアルゼンチンです。
1903年に政権に就いた保守派のコロラド党〈バッジェ〉(任1903~07,11~15)は,途中ブランコ党との内戦を乗り越え,特に第二次政権時代(1911~1915)には労働者の保護や社会保障の整備を進めていきます。
・
187
0
年
~
192
0
年のアメリカ 南アメリカ
現④
アルゼンチン
アルゼンチンは移民を受け入れ,インディオを制圧する
1864年に起きた三国同盟戦争は1870年にブラジル,アルゼンチン,ウルグアイ側の勝利で終結しました。敗北し
た
パラグア
イ
は国民の半数が亡くなる壊滅的な被害をこうむり,実質的にイギリスとアルゼンチンによる支配を受けることとなります。
1862年に「アルゼンチ
ン
共和
国
」として国家が統一されたアルゼンチンでは,1880年
に
ブエノスアイレ
ス
が首都となりました。その過程で内陸部の牧畜民ガウチョの文化を「遅れた(野蛮な)文化」とみなす見方が生まれ,彼らに対する弾圧が強まっていきます。
また,この頃にパタゴニアでインディオたちと結んだフランス人が独立王国を建設したことから,アルゼンチン政府はパタゴニアの制圧作戦を開始。草原地帯(パンパ)の先住民(とく
に
マプーチェ
人
)に対する制圧が実行され,広大な領地は輸出作物や畜産物を生産するための土地として収奪されていきました。
19世紀末には,イギリスの資本
と
ヨーロッパ移
民
がアルゼンチンに流入していき,イギリスを初めとするヨーロッパ諸国から巨額の貸付が行われました
。
冷凍
船
が発明されたことでアルゼンチンの牛肉が新鮮さを保ったままヨーロッパの食卓にのぼることが可能となったため,アルゼンチンの経済的な地位はぐんと上がりました。イギリスにとってみれば余った資本をアルゼンチンに投下すれば漏れなくもうかったわけで,鉄道敷設やヨーロッパ風の建築もブームとなりました。
ヨーロッパ移民やインディオの制圧作戦を背景に,アルゼンチンは
「
南米のパ
リ
」とうたわれるほどの白人国家となっていきます。
アルゼンチンは,第一次世界大戦においては中立政策をとりました。
・
187
0
年
~
192
0
年のアメリカ 南アメリカ
現⑤
チ
リ
◆
チリはグァ
ノ(
肥料の原
料)
をめぐってボリビアと争い,敗北したボリビアは内陸国家となる
チリは,グアノをめぐりホリビアと争う
チ
リ
【追H27 19世紀のイギリスはペルーから麻を輸入していたわけではない】
で
は
銅
(1860年代に世界生産の4割のシェアがあった)や小麦の輸出で栄え,鉄道などのインフラが整備されていきました。教会の特権をめぐる自由党と保守党との対立ののち,1861~91年には自由主義派の政権となりました。
1879年にはペルー,ボリビア
と
硝
石
をめぐっ
て
太平洋戦
争
(1941~45年の太平洋戦争とは別物。「硝石戦争」ともいいます)を戦い,勝利。1883年にペルーとチリ間に講和条約が結ばれ,チリはペルーから領土の割譲を受けました。また,1884年にボリビアとチリ間にも休戦が成り,チリは太平洋岸のアントファガスタを領有したことで,ボリビアは海への出口を失いました(アリカ港の使用は認められます)。こうして内陸国となったボリビアが,現在でもティティカカ〔チチカカ〕湖
(湖面の標高3812メートル。大型船の航行できる湖としては世界最高地点にある)
に海軍を保有しているのには,こういった事情があったのです
(注1)
。
1886年には〈バルマセーダ〉政権(1886~91)が成立し,ヨーロッパにならった近代化を進めるとともに,硝石産業を国有化してチリの企業に払い下げました。払い下げへの反発から支持を失った〈バルマセーダ〉は自殺しますが,彼の政策は国外勢力に対抗してチリの産業の自立を図ったものとして重要です。
彼の死後は大統領の権限が弱まり,硝石や銅の輸出業者が議会を通じて支配層を形成していきます
。
硝石ビジネ
ス
がイケイケドンドンとなるなか,やがてチリ政府の歳入のほとんどが硝石に依存するようになっていきます
(
注
2
)
。1890年以降は労働者による社会運動も高まりをみせるようになります。
一方,1880年代に南部
の
マプーチェ
人
とも戦ってこれを制圧し,領域を南にも拡大させていきました。"お得意様"だったイギリス帝国が自前で硝石を獲得する先を探した結果,目をつけた先はオセアニアの小
島
ナウル
島
でした
(⇒1870~1920のオセアニア ミクロネシア。1888年にドイツ領。1914年にイギリスが支配下に置き,1920年からイギリス・オーストラリア・ニュージーランド委任統治領となり,リン採掘権はイギリスにありました)
。
(注1) 1904年に正式にボリビアに割譲。ボリビアはそのかわり、ポトシからアリカまでの鉄道整備を保障されました。真鍋周三編著『ボリビアを知るための68章』明石書店、2006年、p.134。
(注2)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.352。
・
187
0
年
~
192
0
年のアメリカ 南アメリカ
現⑥
ボリビア
,⑦
ペルー
◆
ボリビアでは錫,ペルーではグァノや硝石の輸出経済が栄え,それを推進する政権が成立する
ボリビア・ペルーは鉱産資源の輸出ブームで反映
政権が混乱し
た
ボリビ
ア
でも,1860年代以降に硝石・グァノの開発,1870年代に銀の採掘が進み,共有地を失った先住民らが鉱山や農場で働く日雇い労働者となっていきました。鉱山の利権を持つ者や農場主は独裁権を握った軍人指導者
(
カウディーリ
ョ
;カウディーヨ)
(
注
1
)
と結びついていました。
ボリビアでは始め保守党の支配が1899年まで続きましたが,チリとの太平洋戦争に敗れると,新興
の
錫
(すず)鉱山主の支持を得た自由党が勢力を伸ばします。
自由党員の拠点はラパスで、このときの反乱を「連邦革命」と呼びます。
独立当初の首都は「スクレ」と憲法に明記されていますが、このときに
首都がラパスに移転
されることになりました(現在でも三権の一つである最高裁はスクレにあります)
(注2)
。
当時のヨーロッパでは缶詰や軽金属の合金の需要が高まっており,錫ブームが到来。
「連邦革命」の3年後には錫が輸出額で銀を抜きます(20世紀ボリビアは「錫の世紀」
(注3)
)。
1899年に自由党の〈パンド〉(任1899~1904)が成立し,錫輸出産業と結びついた支配層を形成していきました。自由党政権は1920年にクーデタで倒されるまで続きます。この間、インフラや都市の近代化が進みますが、錫財閥+大地主+一部の支配層(弁護士や政治家)による寡頭政治を背景に身分制は維持され、先住民共同体の解体とアシエンダ(大土地所有制)の拡大は信仰しました
(注4)
。
錫に依存する輸出経済は典型的な「
モノカルチャー経済
」であり、ボリビアの足かせとなっていきますが、他のラテンアメリカ諸国と異なるところは、鉱山の多くが外資ではなく民族資本により開発されたところにあります
(注5)
。
なお、1899年には北部に入植したブラジル人ゴム業者が分離運動を起こし、ボリビアは敗北。1903年の条約でアクレ地方をブラジルに割譲。さらに1904年には太平洋戦争で失った海岸部をチリに正式に割譲する条約を結び、その代わりチリはラパスから海岸部のアリカへの鉄道感性を保障し、錫を輸出するためのインフラ整備が進められていきました
(注6)
。
(注1) カウディーヨは,「地方または国の政治で勢力をもつボス」。増田義郎「世界史のなかのラテン・アメリカ」増田義郎・山田睦男編『ラテン・アメリカ史Ⅰ メキシコ・中央アメリカ・カリブ海』山川出版社,1999,用語解説p.99。
(注2) 真鍋周三編著『ボリビアを知るための68章』明石書店、2006年、p.132。
(注3) 真鍋周三編著『ボリビアを知るための68章』明石書店、2006年、p.132。
(注4) パティーニョ、アラマヨ、ホッホチルドの三大財閥。真鍋周三編著『ボリビアを知るための68章』明石書店、2006年、p.133。
(注5)真鍋周三編著『ボリビアを知るための68章』明石書店、2006年、p.133。
(注6)真鍋周三編著『ボリビアを知るための68章』明石書店、2006年、p.134。
ペル
ー
では,肥料となるグァノや硝石の採掘や,砂糖や綿花のプランテーションが盛んとなり,外国への一次産品の輸出でもうける経済構造ができあがっていきました。それにともない現れた新興の資本家(新興輸出業者や輸出用の農場主)らの支持により,1872年~76年に輸出経済を推進する文民党(シビリスタ)政権が成立しました。
1879年にはペルー,ボリビア
と
硝
石
をめぐっ
て
太平洋戦
争
(1941~45年の太平洋戦争とは別物。「硝石戦争」ともいいます)を戦い,勝利。1883年にペルーとチリ間に講和条約が結ばれ,チリはペルーから領土の割譲を受けました。また,1884年にボリビアとチリ間にも休戦が成り,チリは太平洋岸のアントファガスタを領有したことで,ボリビアは海への出口を失いました(アリカ港の使用は認められます)。こうして内陸国となったボリビアが,現在でもティティカカ〔チチカカ〕湖
(湖面の標高3812メートル。大型船の航行できる湖としては世界最高地点にある)
に海軍を保有しているのには,こういった事情があったのです。
1884年には,都市の中産階層の支持を得た民主党(デモクラタ)も結成。1895~99年には太平洋戦争から続いていた軍人支配に代わって,文民の民主党〈ピエロラ〉政権が成立しました。このの政権の下で外国資本を積極的に招致して近代化を推進しました。しかし実際には政権を支持していたのは輸出産業でもうけていた勢力であり,外国資本に従属する構図はますます深まっていきました。
20世紀に入ると,砂糖と綿花のプランテーションが拡大。民族運動や社会主義的な運動も起こるようになります。
1904年には太平洋戦争でボリビアが失った海岸部を正式に獲得する条約をボリビアと結んでいます
(注1)
。
なお,1866~1869年には,ペルーの再征服をねらったスペインとの最後の戦争が起き,南アメリカ諸国が勝利し,これをもって南アメリカ諸国はスペインからの独立が確実なものとなります。
(注1)真鍋周三編著『ボリビアを知るための68章』明石書店、2006年、p.134。
・
187
0
年
~
192
0
年のアメリカ 南アメリカ
現⑧
エクアドル
,⑨
コロンビア
,⑩
ベネズエラ
◆
ベネズエラ,コロンビア,エクアドルでは自由主義的な専制政権が生まれ,保守派と抗争する
輸出産業と結んだ有力者による不安定な政権続く
かつて〈シモン=ボリーバル〉(1783~1830)
【本試験H10】
により統一された大コロンビア共和国は,1830年
に
ベネズエ
ラ
,
ヌエ
バ=
グラナ
ダ
(現コロンビア)
,
ベネズエ
ラ
の3国に解体していました。いずれの国でも中央集権的な保守派と,自由貿易を推進する自由主義派との政治的対立が起きる中,天然資源の輸出に依存する少数の有力者による政権が台頭していました。
このうちカリブ海沿岸
の
ベネズエ
ラ
では,自由主義的な政策をとる〈モナガス〉兄弟による専制的な政権が,この後1858年まで続きました。その後は連邦制をとる自由主義的な〈カストロ〉政権(任1858~59)が,保守派との対立を生み,1863年まで連邦(長期)戦争と呼ばれる内紛に発展。結局〈ファルコン〉政権(任1863~68)のときにベネズエラ連邦が成立し,1870~88年の間は自由主義的な〈ブランコ〉(任1870~77,79~84,86~88)の下,少数の有力者による長期政権が成立し,反教会的な自由貿易を推進する政策がとられました。この保守派政権は1888年にクーデタで崩壊,連邦議会により選出された〈パウル〉政権(任1888~90)は自由化を進め,改憲をめぐる内紛をおさめた〈クレスポ〉将軍が大統領に就任(任1892~94,94~98)すると
,
コーヒーの輸
出
が活況を呈し,1890年代には輸出の約80%を占めるほどとなり,陸上輸送のために外資を導入し
た
鉄道建
設
も盛んとなりました。しかし,19世紀末からコーヒー価格が低迷すると1899~1903年に内乱が起こり,1899~1935年までの間,牧場労働者出身の〈カストロ〉と〈ゴメス〉(1908年にクーデタで実権を握ります)が独裁者となってベネズエラを専制支配する結果となりました。しかし,ベネズエラでは外債が積み上がり返せなくなった借金が問題となり,1902年にはイギリス,イタリア,ドイツが"借金取り"としてベネズエラを海上から攻撃する事態に発展。これに対しアメリカ合衆国の
〈
セオド
ア=
ローズヴェル
ト
〉大統領(任1901~09)は「カリブ海に警察権を及ぼすことができるのはアメリカ合衆国だけだ」と,ヨーロッパ諸国による南アメリカ攻撃を牽制(けんせい)しています。
パナマを含
む
コロンビ
ア
は
,
ヌエ
バ=
グラナダ共和
国
として〈サンタンデル〉(位1833~37)大統領の下で再出発を果たし,工業化を進めていきました。しかしヨーロッパの二月革命などの自由主義的な政治思想が伝わると,〈ロペス〉政権(任1849~53)が成立し
,
奴隷制の廃
止
やカトリック教会への対抗を含む自由主義的な政策がとられました。しかし地主,カトリック教会は土地を守るために自由党に反対しました。一方,イギリス製品により在来産業が破壊されることに反対した手工業者の政治勢力は,クーデタによって〈ロペス〉の後任の〈オバンド〉(任1853~54)政権を倒し,保守的な〈メロ〉政権(任1854~55)を樹立しました。自由派・保守派がともに〈メロ〉政権を倒すと,1857年に連邦制をと
る
グラナダ連
邦
となり,1863年には国名
を
コロンビア合州
国
としました。こうして,かつての大コロンビア共和国の構成国の中で,コロンビアはもっとも地方分権が進み自由主義的な国家となったのです。
エクアド
ル
では,19世紀末まで保守派の政権が続いていました。海岸部のグァヤキルは,輸出の拠点として急成長しており,グァヤキルを中心とする自由党は首都キト(キート)の保守派政権を攻撃して,商人〈アルファーロ〉が大統領に就任(1896~1901,06~11)し,自由主義的な政策をとりました
。
カカオ輸
出
が好調で鉄道建設ブームも起き,のちに主要な産業となる石油開発も始まりました。〈アルファーロ〉は反教会政策を初めとし,イギリスやアメリカ合衆国の資本を導入して自由主義的な政策を展開しました。彼は1912年に暗殺されていますが,自由党政権は外資導入・輸出産業推進の政策を1925年まで積極化させていくことになります。
◆
パナマ運河を計画するアメリカ合衆国の圧力により,コロンビアからパナマが分離独立する
アメリカは運河のためにパナマを分離独立させる
コロンビアでは,1880年代には自由主義派の中の穏健派と,保守派の〈ヌニェス〉(任1880~82,84~86,87~88,92~94)による強権的な長期政権の下
,
コーヒー輸
出
産業が盛んとなり
,
鉄道建
設
ブームも起きました。経済成長を背景に,中央集権的な政府が必要との意見が強まり,1886年にはコロンビ
ア
共和
国
となりました。〈ヌニェス〉のやり方に対しては自由主義派の中の急進派による反発もあり,1899年~1902年の間に大規模な内戦に発展。
そんな中,カリブ海から太平洋に進出する思惑を持っていたアメリカ合衆国
が
パナマ地
峡
を削っ
て
パナマ運
河
を建設する計画を実行するため,1903年
に
パナ
マ
をコロンビアから分離独立させました
【H30共通テスト試行 大陸横断鉄道とのひっかけ(時期的に1860年代ではない)】
【追H9コロンビアが建設してアメリカ合衆国が占拠したわけではない,イギリスの資金による建設ではない,フランス人レセップスの建設ではない。アメリカ合衆国が運河地帯を租借して建設したか問う, H25,H29時期を問う】
。
・
187
0
年
~
192
0
年の南アメリカ
現⑪
ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ
インド,ジャワ,中国などから労働者が移動する
ガイアナ
イギリス領
ガイアナはイギリスの植民地支配の下,プランテーションの地主優位の体制となっています。また,イギリス領であったインドからは,年季奉公人とし
て
インド人労働
者
が移送されています。
こうしてガイアナには,少数の白人,多数のアフリカ系,インド系,さらに先住民という複雑な民族構成ができあがっていくのです。
しかし,20世紀に入ると労働者や中産階層の不満が高まり,1905年にジョージタウンの港湾労働者,続いてジョージタウン近郊のルインベルト農場で暴動が起こりました。イギリス軍により鎮圧され,死傷者を出しています。暴動の参加者の多くは
,
アフリカ系のガイアナ
人
でした。
第一次世界大戦中には,ガイアナの人々もイギリス軍への参加を求められました。1917年にはインド側からの批判もあって,インド人の年季奉公人のガイアナへの移送が非合法化されています。
また1917年には初の労働組合が結成されています。
スリナム
オランダ領
1863年に制度的に
は
奴隷制が廃
止
されたものの,アフリカ系の元奴隷の多くの状況は劣悪です。賃労働になったとはいえ,プランテーションにおける労働は続きます。
また,現在のインドネシアを植民地
(
オランダ領東イン
ド
)としていたオランダは,そこから主
に
中国
系
住民が奴隷に代わって年季奉公人として移送するようになります。1916年まで
は
インド
系
年季奉公人も多く導入されました。1890年以降
は
ジャワ
島
からの年季奉公人も増えます。
こうしてスリナムには,少数のオランダ系支配層と,多くのアフリカ系
(
マルー
ン
と呼ばれます),ジャワ系,中国系,インド系
(
東インド
系
と呼ばれます),先住民で構成される複雑な社会が組み上がっていくのです。
2012年現在のスリナムの人口比率は,インド系27.4%,アフリカ系21.7%,クレオール(黒人と白人の混血)15.7%,ジャワ系13.7%となっています。
(注
)Hindustani (also known locally as "East Indians"; their ancestors emigrated from northern India in the latter part of the 19th century) 27.4%, "Maroon" (their African ancestors were brought to the country in the 17th and 18th centuries as slaves and escaped to the interior) 21.7%, Creole (mixed white and black) 15.7%, Javanese 13.7%, mixed 13.4%, other 7.6%, unspecified 0.6% (2012 est.
)
,
https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ns.html
。
フランス領ギニア
フランス領ギニア〔ギュイヤンヌ〕は,隣国スリナムやブラジルとの間に,1853年に発見され
た
金
鉱をめぐる紛争を抱えています。
金鉱の位置する南
部
アマ
パ
地方ではフランス人の入植者により,独立ギアナ共和国(1886~1891)が一時期建国されています
。
天然ゴ
ム
の国際的な需要の高まりもあり紛争は長引きますが,1900年の調停でブラジル領とされます。
◆
イギリス・フランス・ドイツ・アメリカ・オーストラリアなどによる植民地化がすすむ
ヨーロッパ諸国の「オセアニア分割」が本格化する
○187
0
年
~
192
0
年のオセアニア ポリネシア
◆
ポリネシアは英仏のほか
,
1
9
世紀末にアメリカ合衆国が食い込むように進出する
ミッドウェー,ハワイ,パルミラ,東サモアは米領に
ポリネシア...①チリ領イースター島,②イギリス領ピトケアン諸島,フランス領ポリネシア,③クック諸島,④ニウエ,⑤ニュージーランド,⑥トンガ,⑦アメリカ領サモア,サモア,⑧ニュージーランド領トケラウ,⑨ツバル,⑩アメリカ合衆国のハワイ
・
187
0
年
~
192
0
年のオセアニア ポリネシア
現①
チリ領イースター島
現①チリ領
土
イースター
島
の島民のほとんどは1877年にペルー人により奴隷として連行されますが,最終的に1888年に島はチリ領となります。島民はハンガロアという地区に押し込められ,チリ政府はイギリスの羊毛会社に島の土地を売却し,4万頭の羊が飼育される大牧場となるのです
(注
)
。
・
187
0
年
~
192
0
年のオセアニア ポリネシア
現②
ピトケアン諸島,フランス領ポリネシア
,③
クック諸島
,④
ニウエ
②
ピトケアン諸
島
はすでに1829年にイギリス領。
②
フランス領ポリネシ
ア
は,すで
に
タヒチ
島
(1842)
【セA H30フランス領か問う】
,
マルキーズ諸
島
(1842)
,
トゥアモトゥ諸
島
(1858)がフランス領。この頃フランスのポスト印象派
〈
ゴーギャ
ン
〉(ゴーガン,1848~1903)は二度に渡りフランス領ポリネシアにわたり,タヒチ島やマルキーズ諸島を訪れ,現地で亡くなっています。
なお,フランス領ポリネシアの北西に位置するフェニックス諸島(イギリス),ライン諸島北端のクリスマス〔キリティマティ〕島(イギリス)は,ともにイギリス領となっています(現・キリバス)。クリスマス島の北のパルミラ島(1897)はアメリカ領です。
③
クック諸
島
のラロトンガ王国は1888年にイギリスの保護国となり,1901年にニュージーランドの属領となりました。
④
ニウ
エ
では1876年に現地の国王が支配権を握りますが,1900年にイギリスが保護国化,1901年にニュージーランドの属領となります。
・
187
0
年
~
192
0
年のオセアニア ポリネシア
現⑤
ニュージーランド
1858年にはワイカトの諸部族の合意によって,〈テフェロフェロ〉がマオリの王に選出され〈ポタタウ〉王を名乗ります。イギリス国王に対抗するために,自分たちの王を推戴したわけです。マオリの諸部族とイギリス本国・ニュージーランド政府の連合軍との戦闘
(
土地戦
争
)をよく戦い抜きますが,多くの犠牲者を生んでいます。1881年にはマオリ王は政府との和解交渉を受け入れています。
1870年頃からイギリスの資金を導入した鉄道・道路のインフラ整備が政府により進められ,電信線も敷設されました。しかし,中央政府が近代化を進めようとすると,今までの地方分権的な制度とのバッティングが起きるようになり,1876年に地方分権的な制度は廃止されました。
開発が急速にすすみ,1870年代初期には国民一人当たりの所得は世界トップレベルとなっていました。しかし,1870年代後半には羊毛価格の下落,金の生産の減少,オーストラリアの銀行の破産が続き,不況の時代を迎えます。
そんな中,ニュージーランドの経済を救ったの
は
冷凍
船
の登場です。羊毛輸出に依存していた畜産業は,1880年代以降はヨーロッパ向け
の
ラム
肉
輸出に舵をきることとなったのです。1895年~1907年は好景気に戻っていきます。
政治的には1879年に
は
普通選挙
法
が制定されました。1891年以降は,小農と都市労働者を基盤とする自由党による政党内閣が成立し,1912年にかけて自由主義的な政策をとっていきます。政府の政策により大土地所有者の手から土地が手放され,農民に分配されていきました。
しかし自由党の政策に不満を感じる農民は「改革党」を支持するようになっていきます。
また,産業の進展にともない労働者向けの制度の整備もすすみ,社会保障制度も充実していきました。なお,1893年には女性選挙権も認められています。世界的にみてもかなり早い時期の承認となりますが,女性の被選挙権が認められるのは1919年で,実際に女性議員が選ばれるのは1933年のこととなります
(参考 山本真鳥『世界各国史 オセアニア史』山川出版社,2000,pp.190~193)
。
1895年には,増加していた中国人移民をターゲットとし,受け入れを制限する法律案が提出されましたが,イギリス本国はこれを認めなかったため実現はしませんでした(日本をパートナーとして重視していたイギリスの意向とみられます)。その
後
移民制
限
は,言語能力をみるテストにより実施され,徐々に中国人に対する締め出しが進んでいきます。
1899年にイギリスは南アフリカ戦争を開始しましたが,ニュージーランドはこれに兵を送っています(マオリ兵の派遣は見送られました)。20世紀に入ると14~20歳の全男子による国防義勇軍が結成されています。その後,第一次世界大戦が1914年にはじまると,マオリたちの中には「自分たちもイギリスのために戦って株を上げることで,ニュージーランドの中での地位を高めよう」と考える人々も現れます。ヨーロッパ式の教育を受けたエリートからなる青年マオリ党です。ニュージーランド軍は,ドイツ領であった西サモアのアピアに戦わずして上陸。その後はさらにアンザック(ニュージーランドとオーストラリアの連合軍)が,オスマン帝国との戦いで多くの犠牲者を出しています(2721人が戦死)
(参考 山本真鳥『世界各国史 オセアニア史』山川出版社,2000,pp.196~198)
。
(注)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.7。
・
187
0
年
~
192
0
年のオセアニア ポリネシア
現⑦
アメリカ領サモア,サモア独立国
サモアはドイ
ツ(
の
ち
NZ
)
とアメリカに分割される
⑦
サモア諸
島
(現アメリカ領サモア(東サモア)とサモア(西サモア))には
,
サモア王
国
がありました。しかし,1889年にサモア王国,アメリカ,ドイツ,イギリスの中立共同管理地域となりました。
1899年には
,
ドイツ領西サモ
ア
・
アメリカ領東サモ
ア
に分割されています。
しかし
,
第一次世界大
戦
でのドイツの敗北を受け,1919年
の
ヴェルサイユ条
約
で西サモアは国際連盟委任統治領となり,その統治
は
ニュージーラン
ド
に任されました。
サモアの人々の頭越しに,その支配者がヨーロッパで開催された国際会議で決定されたわけです。
・
187
0
年
~
192
0
年のオセアニア ポリネシア
現⑧
ニュージーランド領トケラウ
⑧
トケラ
ウ
は1889年にイギリスの保護国となり,1916年にはギルバート=エリス諸島に組み込まれています。
・
187
0
年
~
192
0
年のオセアニア ポリネシア
現⑨
ツバル
⑨
ツバ
ル
は,1892年にエリス諸島と命名され,北部のミクロネシアに属するギルバート諸島(現在のキリバス)とともに
,
ギルバートおよびエリス諸
島
として支配されることになりました。イギリスの保護領です。
・
187
0
年
~
192
0
年のオセアニア ポリネシア
現⑩
アメリカ合衆国のハワイ
ハワ
イ
には,1885年に第一回の日本移民
(
日系ハワイ移
民
)が上陸しました。19世紀後半になるとアメリカ合衆国の進出が激しくなり,1893年にはアメリカ合衆国は海軍を派遣し,最後の女王
〈
リリウオカラ
ニ
〉(位1891~93)を幽閉し,現地でサトウキビ・プランテーションをおこなっていたアメリカ人農園主らの支持で傀儡(かいらい)政権であ
る
ハワイ共和
国
を建国。
女王は1893年に退位を迫られ,反逆罪を背負って王宮に幽閉されることとなります。彼女が若い頃につくったとされる
「
アロ
ハ=
オ
エ
」には,アメリカ合衆国の進出を受け衰える王国への悲しみが漂っています。この曲はそんな実情とは裏腹に,アメリカ合衆国で19世紀末にヒットし,観光産業と結びついて商業的
な
ハワイア
ン=
ミュージッ
ク
が形成されていくことになります。
その後,
〈
マッキンリ
ー
〉大統領(任1897~1901)は,1898年
に
ハワイ共和国をアメリカに併
合
します
【追H9大陸横断鉄道開通とペリー日本来航との順序】
【本試験H21スペイン領だったわけではない】
。
ハワイ共和国の大統領をいとこにもつアメリカ人〈ドール〉は,1901年にハワイアン・パイナップル社を設立しパイナップルの缶詰を製造し,"パイナップル王"と称されました(「Dole」のシールのバナナで有名な,現在のドール=フード=カンパニー)。
○187
0
年
~
192
0
年のオセアニア オーストラリア
オーストラリア大陸に初めて探検したヨーロッパ人は,オランダ人の
〈
タスマ
ン
〉
【本試験H29スタンリーとのひっかけ】
(1603?~1659以前?1661以前?)の一団でした。しかし〈クック〉(1728~1779)の航海後,18世紀後半にイギリスが領有し,初めは罪人を島流しにする場所として使われていました。しかし,だんだんと自分から移り住む者も増え,19世紀中期
に
ゴール
ド=
ラッシ
ュ
【本試験H5 16世紀以降の東アジアに金が流入していない】
が起きると,600部族に分かれていた先住民
の
アボリジナ
ル
(アボリジニ)
【本試験H27】
を迫害しながら,発展がすすんでいきました。
18世紀に30万人いた人口は,1901年の国勢調査では約6万と,5分の1以下に激減してしまいます。
1860年代から真珠を生み出すシロチョウガイ採取が,北岸のアラフラ海で盛んとなりました。しかし,アボリジニーは泳ぐことに慣れていなかったため,フィリピン人,マレー人やオセアニアの人々が潜水夫として従事しました。
1883年になると日本人が採用され,和歌山県,愛媛県,広島県,沖縄県から漁夫が出稼ぎに向かいました。拠点は,ケープヨーク半島とニューギニア島の間にあるトレス海峡に浮か
ぶ
木曜
島
と,オーストラリア北東岸のブルーム。1900年代初めには日本人町も建設されるようになっています
(注
1)
。
1901年に
は
オーストラリア連
邦
(ニューサウスウェールズ,西オーストラリア,南オーストラリア,ヴィクトリア,クイーンズランド,タスマニアの6州)として,大英帝国内の自治領として認められました。
1903年
の
移民法で有色人種の入国が禁
止
されましたが,日本人は真珠採りのために木曜島・ブルームに限って滞在が許可されます
(注
2)
。
(注1)山田篤美『真珠の世界史』中公新書,2013,p.125。
(注2)山田篤美『真珠の世界史』中公新書,2013,p.126。
ニュージーランドとオーストラリアからは,第一次大戦が始まるとイギリス軍の指揮下で合同軍(ANZAC
(
アンザッ
ク
)軍団)が編成され,戦地に派遣されました。特に,
対
オスマン帝
国
戦では,ダーダネルス海峡を突破してマルマラ海に進入してコンスタンティノープルを占領する作戦に参加しました。
こ
の
ガリポリの戦
い
では,オスマン帝国の指揮をドイツの将軍がとり,
〈
ケマ
ル=
パシ
ャ
〉(1881?~1938,のちのトルコ共和国の建国者)も参加し,最終的にイギリスとアンザックが多数の犠牲者を出して敗北。彼らはソンムの戦いなどの激戦に投入され,さらなる犠牲者を生みました。上陸作戦の開始日である4月25日は,アンザック=デーとしてオーストラリア,ニュージンランドなどの国民の祝日となっています
(⇒187
0~
192
0
のアジア 西アジア トル
コ
)
。
○187
0
年
~
192
0
年のオセアニア メラネシア
メラネシア...①フィジー,②フランス領のニューカレドニア,③バヌアツ,④ソロモン諸島,⑤パプアニューギニア
英支配下でメラネシアにアジア系移民が移動する
イギリスは19世紀後半に
,
フィジ
ー
,ニューギニア島南東部,ソロモン諸島などを領有しています。フィジーはサトウキビのプランテーションで栄えます。
1879年にはフィジー
に
インド人移
民
【明文H30記フィジーに限らず,19世紀半ば以降のインド人出稼ぎ労働者の急増に関する問い】
が導入されるなど,アジア系移民がオセアニア地域に流入していきました。
・
187
0
年
~
192
0
年のオセアニア メラネシア
現①
フィジー
イギリス領
現
①
フィジ
ー
諸島は1874年にイギリスの植民地となります。1879~1916年の間
に
サトウキビのプランテーショ
ン
の働き手としてインドからのヒンドゥー教徒やイスラーム教徒の移民が導入されました。
これにともない,先住のポリネシア人に加えてインド人の人口が急増し,フィジー社会は根本的な変化を経験することとなるのです。
・
187
0
年
~
192
0
年のオセアニア メラネシア
現②
フランス領のニューカレドニア
フランス領
現②
フランス領のニューカレドニ
ア
(ヌーヴェルカレドニ)は,すでに1853年にフランス領
【本試験H20イギリス領ではない】
となっています。
・
187
0
年
~
192
0
年のオセアニア メラネシア
現③
バヌアツ
イギリス・フランス共同統治領
現在
③
バヌア
ツ
のあるニューヘブリディーズ諸島は,イギリスとフランスの共同統治となっています。
・
187
0
年
~
192
0
年のオセアニア メラネシア
現④
ソロモン諸島
イギリス領
現在の
④
ソロモン諸
島
は1899年にイギリス領となりました。
・
187
0
年
~
192
0
年のオセアニア メラネシア
現⑤
パプアニューギニア
ニューギニア島は英独蘭に3分割される状態に
現⑤パプアニューギニアの東半の南部は,1884年にイギリス領となっています。
それに食い込む形でオセアニア分割に新規参入したのはドイツです。ドイツは⑤パプアニューギニア東半の北部を領有するとともに,1884年にビスマルク諸島(もちろん〈ビスマルク〉首相に由来)を獲得しています。
一方,東南アジア
に
オランダ領東イン
ド
を経営す
る
オラン
ダ
は,すでに1828年に
は
ニューギニア島の西
半
分を併合していますから,ニューギニア島はオランダ,ドイツ,イギリスによって三分割される形となったわけです。
○187
0
年
~
192
0
年のオセアニア ミクロネシア
◆
米西戦争敗北によりスペイン領からアメリカ・ドイツ領に転換,大戦後には日本が委任統治へ
スペインから米・ドイツへ,ドイツから日本領へ
ミクロネシ
ア
...①マーシャル諸島,②キリバス,③ナウル,④ミクロネシア連邦,⑤パラオ,⑥アメリカ合衆国領の北マリアナ諸島・グアム
ドイツは国内統一に出遅れたため,太平洋への進出も出遅れます。
19世紀後半になって太平洋のうちメラネシア西部と,ミクロネシアの諸島を領有していきました。1885年には
①
マーシャル諸
島
を獲得。なお,マーシャル諸島北東
の
ミッドウェー諸
島
(1867),北方
の
ウェーク
島
(1889)はすでにアメリカ合衆国の領土となっていました。
ドイツ
【追H9日本,アメリカ,イギリスではない】
は,米西戦争(1898)
で
アメリ
カ
に負けたスペインから,1899年に
④
北マリアナ諸
島
(グアムを除いたマリアナ諸島)と,カロリン諸島
【追H9】
(現
④
ミクロネシア連
邦
),
⑤
パラオ諸
島
を売却され,獲得しています。
スペインは
⑥
グア
ム
をアメリカ合衆国に割譲しています
【追H24米英戦争の結果ではない】
。
③
ナウ
ル
は1888年にドイツ領となり,20世紀に入って化学肥料の原料とな
る
リン鉱
石
の採掘が始まります。1914年にイギリスが支配下に置き,1920年からイギリス・オーストラリア・ニュージーランド委任統治領となり,リン採掘権はイギリスにありました。採掘には中国人労働者が用いられていました。小島の森林は伐採され,採鉱により環境破壊が進みました
(注
)
。
②
キリバ
ス
のうち,1900年にはイギリス資本のパシフィック=アイランズ社が,近隣の現キリバス共和国のオーシャン島のリン鉱山を購入しています。
やがてオセアニアのドイツ植民地は,ドイツ
が
第一次世界大
戦
(1914~1918)で敗れると,国際連合の委任統治領に代わります。
ミクロネシアは日本の,ドイツ領ニューギニアはオーストラリア
の
委任統治
領
となりました。日本はついに"南の島"への進出を始めるのです。
ミクロネシアの
⑤
パラ
オ
には日本の南洋庁が置かれ,日本による統治が始まりました。パラオには,現在でも日本語が公用語とされている州があるほどです。
(注)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.354。
中国・ロシアによる中央ユーラシア分割が完了
中央アジ
ア
...①キルギス,②タジキスタン,③ウズベキスタン,④トルクメニスタン,⑤カザフスタン,⑥中華人民共和国の新疆ウイグル自治区+⑦チベット,⑧モンゴル
・
187
0
年
~
192
0
年の中央ユーラシア
現①
キルギス
,②
タジキスタン
,③
ウズベキスタン
,④
トルクメニスタン
,⑤
カザフスタン
,⑥
中華人民共和国の新疆ウイグル自治区
◆
東トルキスタンはイギリスとロシアによるグレー
ト=
ゲームの争奪地となる
中央ユーラシアには,ティムール帝国を崩壊させ
た
ウズベク
人
【慶文H29】
が,チンギス=カンと〈ムハンマド〉の末裔たるハーンを担いで,3つの国家を形成していました。
・ヒヴァ=ハーン国
・ブハラ=ハーン国
・コーカンド=ハーン国
【追H20】
これら3つの国家です。
一方,この頃ロシア帝国は,ユーラシア大陸全域で南下を試みており,その影響はこの地域にも及ぶこととなります
(#漫画 〈森薫〉の漫画
『
乙嫁語
り
』はこの時期(クリミア戦争後)の中央アジアを舞台としています)
。
ロシアの南下を嫌うイギリスとの間に"グレート=ゲーム"と呼ばれる,中央ユーラシアを舞台にした列強の領土争いが進行していくのです。
◆
一時,新疆のウイグルがイギリスの支持を背景に清の支配を追放することに成功
〈ヤークー
ブ=
ベク〉のカシュガル王国が一時独立
疲弊した清に対し
,
新
疆
(しんきょう)
の
ウイグル
人
イスラーム教徒は各地で反乱を起こしていました。そのうちタリム盆地西部の反乱軍は
,
コーカンドのハーン
国
に応援を頼むと,軍人
〈
ヤークー
ブ=
ベ
ク
〉が,1865年にカシュガルに派遣されました。
彼は次々に反乱勢力を鎮圧し,1870年に天山山脈以南のタリム盆地を征服しました。
一方ロシアはイリ地方
【東京H26[1]指定語句】
に進出。これ以降
を
イリ事
件
といいます。イリ地方というのは,天山山脈から北のバルハシ湖へと注ぐイリ川流域のエリアです。
ロシアの南下を嫌い,清の勢力をタリム盆地から排除したかったイギリスは,この事態を歓迎。〈ヤークーブ=ベグ〉政権を承認し,これを支援します。
しかしそれに対して清は1876年に欽差大臣〈左宗棠〉(さそうとう,1812~1885)を派遣し,〈ヤークーブ〉軍を破ります。イギリスはこれを憂慮し,清の朝廷の中でもイギリスに対する対応策をどうするか意見が分かれました。
清にとってのもうひとつの悩みのタネは,タリム盆地に進出しようとしてい
る
ロシ
ア
の出方です。ロシアは同じ頃,1877~1878年にオスマン帝国との戦争
(
露土戦
争
)に追われ,タリム盆地における紛争に本腰を入れることができていない状況でした。
ロシアとの開戦を主張する〈左宗棠〉の意見に反し,1879年にイリ地方の西部・南部を割譲する条約が結ばれ,全面戦争は回避。
1881年には最終的
に
イリ条
約
【追H21時期(19世紀後半か問う)】
が結ばれ,国境が確定されました(1881
年
イリ事
件
)。
この中で,イリ地方の一部は清に返還されたものの,イリ地方の西部はロシアに割譲され,ロシアはあわせて賠償金と通商上の利権を獲得しました。
戦後,清は新疆への統治を強めるとともに,漢語を押し付けるなどの政策をとりました。その結果,新疆の地域では清への反感が高まっていきました。また,ロシアは占領地を失ったものの,ロシアの領土に編入されていたタタール人やウズベク人が,新疆に対して商売をするようになると,「パン=イスラーム主義」の情報なども伝わって来るようになります。ロシアと清との貿易で力をつけた商業資本家たちは,自分の子どもをロシアやオスマン帝国に留学させるようになっていきました。ロシアは,1873年にヒヴァを占領し
,
ヒヴ
ァ=
ハーン国を保護国
化
【本試験H15・H18・H30】
しました。軍人
〈
ヤークー
ブ
〉を派遣してい
た
コーカン
ド=
ハーン
国
も,1876年にロシアの攻撃や,領内のクルグズ人の反乱により滅び,ロシア
の
支配下に置かれまし
た
【京都H19[2]】
【本試験H15・本試験H18】
【追H20時期(19世紀以降),併合したのはソヴィエト連邦ではない】
。ロシア軍の軍政に対する反発も起こり,1898年にはフェルガナ
の
アンディジャ
ン
で,ロシア軍に対するイスラーム教徒の反乱が起きています。
1911年に辛亥革命が起きて清が倒されると,新疆でも1912年に独立運動が起きてウルムチに政権が建てられましたが,漢人の〈楊増新〉により事実上「独立政権」が樹立されて住民による運動はおさえられ,清の政策を引き継ぐ体制が続きました。この漢人政権は
,
中華民
国
政府との関係も維持していました。
◆
ヨーロッパや日本により,中央アジアの学術的な探検が組織される
敦煌文
書(
もんじ
ょ)
が発見される
なおこの頃,敦煌(とんこう)
の
莫高
窟
(ばっこうくつ)の未知のスペースに隠されていた大量の仏典(敦煌文献)が1900年に発見されたという情報を聞きつけ,イギリスの探検家
〈
スタイ
ン
〉(1862~1943)が来訪。
1906年からの第二回探検(第一回は1900年)の成果として,敦煌の文書を持ち帰っています。
フランスの〈ペリオ〉(1878~1945)も遅れて敦煌に入り,文献の一部を持ち帰っています。
なお,同時期に日本の浄土真宗本願寺派の僧〈大谷光瑞〉(おおたにこうずい)も,3度に渡る探検をしています(1902~04,1908~09,1910~14)
(注)
。
敦煌文書からは,従来は中国の漢字史料以外は知られていなかった西域諸国の歴史的な事実が次々に明らかになっていきます。現在ではイギリスの大英図書館,フランス国立図書館などに保管されています。
(注) 大谷探検隊によりトゥルファンでは規定通りではないものの
均田制
が実施されていたことが明らかになりました。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.79。
・
187
0
年
~
192
0
年の中央ユーラシア
現⑧
モンゴ
ル(
中華人民共和国の内モンゴルを含
む
)
◆
外モンゴルではチベット仏教の活
仏(
かつぶ
つ)
が皇帝に推され,政権が樹立される
中華民国成立後,外モンゴルに政権が生まれる
モンゴル高原では,1911年
に
辛亥革
命
が起きて清が倒されると,「清の皇帝が倒されたのだから,モンゴル人と清との関係はなくなった」とみなし
,
外モンゴ
ル
【本試験H19】
のハルハ地方のチベット仏教の僧侶によって独立が宣言され
【本試験H19辛亥革命のときかを問う】
,新しい政権が建てられました。
彼らはチベット仏教で〈ブッダ〉の生まれ変わりとされ
る
活
仏
〈ジェブツンダムバ=ホトクト8世〉(チベット人です)を皇帝
(
ボグ
ド=
ハー
ン
)として選ぶことで,清支配下にあったモンゴル人を統一しようとしたのです。
彼らが恐れていたのは,〈孫文〉を中心とする中華民国(1912~)が,清の支配を引き継いでモンゴルを支配し続けること。そこで清に対抗するために,ロシア帝国からの軍事的な支援を求めるようになったのです。
ところが,この動きを警戒したのは,当
時
日露戦
争
に勝利し,大陸への進出を見据えていた日本でした。
「ボグド=ハーン政権がロシアの支援を受けてしまえば,ロシアの事実上の南下につながってしまう」
こう考えた日本側は,ロシア側と調整。
日露戦争で負けたロシアも争いは望まず,ひとま
ず
内モンゴ
ル
(モンゴル高原南部)を,ロシアと日本とで勢力圏に分けることにしました。
しかしその上で,ロシアと中華民国は〈ボグド=ハーン〉政権に介入し,一気に関係は複雑化。1915年のキャフタ協定で一応その存在は中華民国とロシアによって認められましたが
,
中華民国の宗主権下にある外モンゴル
の
〈
ボグ
ド=
ハー
ン
〉
政
権
の領域は,あくまで「外モンゴル」のみとされ,「内モンゴル」は除外される形となりました
(
自治の対象外となった内モンゴ
ル
)。
その後,1917年にロシア革命によってロシア帝国が崩壊すると急展開をむかえます。
ロシア帝国が倒されたことで,日本は「革命の阻止」を口実に勢力を北に拡大。〈ボグド=ハーン〉政権の領域は,日本と中華民国が進出を受ける可能性が出てきます。
そんな中,シベリアのバイカル湖周辺のモンゴル人
(
ブリヤー
ト
=モンゴル人)が,モンゴル人の自治を守り独立をめざすための運動を起こします。
1920年には中国を排除しようとす
る
モンゴル人民
党
が結成され,これを革命ソヴィエト政権が支援。モンゴルにとってソヴィエトは"助け船"であったわけです
【本試験H11「長く国境を接するソ連からの政治的影響を,中国本土からの影響よりも強く受けていた」のはモンゴルであって,チベットではない】
。
・
187
0
年
~
192
0
年の中央ユーラシア
現⑦
中華人民共和国のチベット
チベッ
ト
は,インドの植民地化を進め,ロシアの南下を阻止しようとしていたイギリスにとって,戦略的に重要な場所にありました。
清はチベットに対する宗主権を主張していたものの,チベットはあくまで「独立」を主張。
イギリスはロシアが勢力を及ぼすのを避けるため,チベットの独立を認めることで言いなりにした上で,清にもチベットに対する宗主権を認める "二枚舌外交"を展開していました。
1903~1904年にはチベットを攻撃しラサに入城した上で1904
年
ラサ条
約
を結びチベットが独立状態にあることを示しました。
しかし一方,1907年
の
英露協
商
では,清がチベットの宗主権を持っていることを承認しています。
1911年
に
辛亥革
命
が起きて清が倒されると,
〈
ダライラ
マ
1
3世
〉を中心に独立運動が始まりますが,1913年には,イギリスと中華民国とチベットの3者間
で
シムラ会
議
が開かれ "中国の宗主権のもとで自治が認められる"という曖昧な取り決めがありました。
しかし国境線に関して不満であった中国は代表を引き上げ,条約はイギリス・チベット間のみの締結となり,最終的に中国側は調印を拒否。チベットの地位をめぐる国際的な合意は得られぬまま持ち越しということになりました。
なお,黄檗宗の僧〈河口慧海〉(かわぐちえかい,1866~1945)は,日本人として初めて1901年にチベットのラサを訪れ,翌年まで1年余り滞在し,『西藏旅行記』(1904)を出版しています
(注
)
。
(注)河口慧海「チベット旅行記」青空文庫(
https://www.aozora.gr.jp/cards/001404/files/49966_44769.html
)。冒頭部分は,以下の通りです(太字は筆者による)。
「チベットは厳重な
る
鎖
国
なり。世人呼んで世界
の
秘密
国
と言う。その果たして然しかるや否やは容易に断ずるを得ざるも,天然の嶮(けん)によりて世界と隔絶し,別に一乾坤(けんこん)をなして自ら仏陀(ぶっだ)の国土,観音の浄土と誇称せるごとき,見るべきの異彩あり。」
○187
0
年
~
192
0
年の東アジア・東北アジア
東アジア・東北アジ
ア
...①日本,②台湾,③中華人民共和国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国 +ロシア連邦の東部
○187
0
年
~
192
0
年の東北アジア
◆
日清戦争,日露戦争,ロシア革命を経て,沿海州は革命勢力の支配地域となった
清が滅び,沿海州は赤軍の支配地域となる
女真(女直,ジュルチン)を支配層とする清は,日清戦争(1894~1895)を経て19世紀後半に弱体化し,1912年に滅びました。
その間,女真の根拠地
の
日本は清の最後の皇帝
〈
◆
沿海州~ベーリング海峡までの地域は,赤軍の支配地域となる
沿海州~ベーリング海も赤軍の支配地域となる
イェニセイ川からレナ川周辺でトナカイ遊牧を営
む
ツングース
人
,
ヤクート
人
,ベーリング海峡周辺の古シベリア諸語系
の
チュクチ
人
や,カムチャツカ半島方面
の
コリャーク
人
は,ロシア帝国に代わって,革命勢力である白軍の支配下に入ります。
○187
0
年
~
192
0
年のアジア 東アジア
西洋技術の導入が図られるが,保守派の抵抗も
アロー戦争(1856~60)や太平天国の乱(1851~62)の鎮圧を通して欧米の軍事力の威力を思い知った清の指導者は,女真(女直)人ではなく漢人官僚を中心に,清の産業・軍事技術の近代化を目指
す
洋務運
動
【本試験H10立憲君主政を求める運動ではない】
を始めました。
〈
〈西太后〉は,漢人官僚
〈
李鴻
章
〉(1823~1901)
【東京H29[3]】
の軍事力を頼って,洋務運動を支持・推進しました。しかし,依然として欧米との不平等条約は改定されず
【本試験H11 当時(1871年前後)に不平等条約が改定され欧米諸国との対等な外交関係が樹立されていたか問う】
,
"
同治の
(注)『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.123。
(1) 1884~1885年 清仏戦争
【本試験H10 時期:1850~60年代ではない】
でフランス(第三共和政)に敗北し,ヴェトナムの
(2) 1894~1895年 日清戦争で日本(大日本帝国)に敗北し,朝鮮の宗主権を喪失。
1392年以来続いていた朝鮮王朝では,1811~1812年に大規模な農民反乱が起こりました。中央支配層
の
両
班
(ヤンバン)の権力闘争や腐敗に対する批判が,重税に苦しむ農民反乱と結びついたのです。指導者の
〈
洪景
来
〉(ホンギョンネ,こうけいらい,1780~1812)は一時現在の北朝鮮北部を制圧しましたが,王朝軍に殺され反乱も鎮圧されてしまいました。
〈
崔済
愚
〉(チェジェウ,さいせいぐ,1824~64)は1860年,「キリスト教に代表される西洋の思想の次には,東洋の思想の時代がやってくる」と主張し,
「
東
学
」
【追H26農民戦争を1894年に起こしたか問う】
【本試験H6】
【セA H30】
を旗印に儒教・仏教・道教
【本試験H6キリスト教と民間信仰・儒教を結びつけたわけではない】
【セA H30ゾロアスター教の影響は受けていない】
を融合して,ヨーロッパ批判だけでなく儒教道徳を押し付ける朝鮮王朝批判を展開しましたが,弾圧されます。
そのころ朝鮮王朝
【本試験H10 1870年代の朝鮮の宗主国が清か問う】
第26代の王は
〈
高
宗
〉(〈李太王〉,在位1863~1907)でしたが,実権は
〈
大院
君
〉(たいいんくん,1820~98)がにぎっていました。〈大院君〉はアメリカやフランスの来航に対しあくまで攘夷(じょうい。外国勢力を打ち破ること)を主張しました
【本試験H13フランスは朝鮮を開国させていない,H31開国要求を受け入れたわけではない】
【本試験H3「李氏朝鮮」は鎖国攘夷政策をとったが,清の宗主権を否定し,清がこれを認めることはなかった。また,開化政策をとり鎖国攘夷派により失脚もさせられていない】
。
しかし,〈大院君〉の息子である〈高宗〉の后の
〈
閔
妃
〉(ミンビ,びんひ,1851~95)一派が〈大院君〉を失脚させ,1873年に〈閔妃〉一族が政治に介入します。これ
を
閔妃政
権
といい,日本から軍事顧問を招いて軍事力の西洋化をすすめました。
しかし,日本
【本試験H10イギリスではない】
【本試験H13フランスではない】
は1875年
に
江華島事
件
【東京H20[1]指定語句】
を起こし,翌1876年に日本側の全権日本側全権〈黒田清隆〉(くろだきよたか,1840~1900),〈井上馨〉(いのうえかおる,1836~1915)と朝鮮側全権〈
申櫶
〉(しんけん,1810~1884)らとの間
に
日朝修好条
規
【セA H30日清修好条規ではない,アメリカ合衆国が開国させていない】
が結ばれ,朝鮮を開国させました
【本試験H13時期(19世紀後半)】
。軍艦で威圧する砲艦外交によって,日本がかつてアメリカ合衆国の〈ペリー〉から受けたのと同じようなことがなされたわけです。
日朝修好条規では
,
朝鮮は自主の
邦
とされたものの
,
日本の領事裁判権を認め
る
(第10款「日本國人民朝鮮國指定ノ各口ニ在留中若シ罪科ヲ犯シ朝鮮國人民ニ交渉スル事件ハ總テ日本國官員ノ審斷ニ歸スヘシ」)
などです。また,すでに日本公館のあった釜山(プサン)以外の2港の開港と通商も求められ
(第4・5款)
,結局,元山(ウォンサン)・仁川(インチョン)が開港されました。付属第7款では,開港場での日本の貨幣の使用も可能となりました。朝鮮側には同様の条項がないので,日朝修好条規は不平等条約といえます。
こうして従来の中国の皇帝を中心とする従来
の
冊封体
制
(さくほうたいせい)を切り崩し,ヨーロッパ式の外交のルールにのっとり,日本側に有利な日朝の政治・通商関係をつくろうとしたのです。
「どうしてそんな条約を日本と結んだんだ!」と〈閔妃〉一族に対する不満が,軍隊の反乱として現れました。「〈大院君〉にもう一度政治の舞台に戻ってもらおう」と担ぎ出し,〈閔妃〉一族や日本人が殺されました(1882
年
壬午軍
乱
)。
これに対し,「宗主権を持っているのだから出兵をするのは当たり前」という清と,「〈閔妃〉一族や日本人保護のため軍隊を派遣するのは当たり前」という日本が同時に朝鮮に出兵する事態に。結局〈閔妃〉一族を助けたのは清で,このとき〈大院君〉は清によって捕まえられました。助けられた〈閔妃〉一族は,その後清と結びつくようになります。
こうして,「日本と結びつくのは危ない。やはり清を頼りにして,保護してもらうべきだ」と考える〈閔妃〉政権に対し,「日本のように朝鮮を近代化するべきだ。そのために日本と協力しよう
【追H20敵対したわけではない】
」とい
う
開化
派(
独立
党
)
【追H20】
の対立が始まります。
開化派の
〈
金玉
均
〉(1851~94)
【本試験H3日朝修好条規に対し反日クーデタを起こしていない,大院君は開化政策をとろうとしていない】
や〈朴泳孝〉(1861~1939)らが首都の漢城で,〈閔妃〉政権を一時的に崩壊させるクーデタ(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること)が起きました。1884年
の
甲申政
変
です。結局これも清が鎮圧して,失敗に終わります。
ただ,朝鮮半島で何かが起きるたび,日本と清の軍隊が場当たり的に派遣され,「戦争一歩手前」の事態に発展していては,毎回冷や汗モノです。
そこで,1885年
の
天津条
約
では「いったん日本の清も朝鮮から撤退して,今後出兵するときには,必ず事前に通告するようにしましょう」という内容が取り決められました。
○187
0
年
~
192
0
年のアジア 東アジア
◆
朝鮮をめぐり日清戦争が起き,日本が勝っ
た
【H29共通テスト試行 風刺画・時期(第二次大戦中ではない)】
日清戦争で勝利した日本は、工業化を推進する
東学
【追H26農民戦争を1894年に起こしたか問う】
【H29共通テスト試行 時期(当時の朝鮮はまだ日韓協約を締結していない),H29共通テスト試行 ヨーロッパの政治思想の吸収・国民国家の建設・社会主義とは無関係】
はヨーロッパや日本の進出に抵抗し(「斥洋倭」(ちくようわ)がスローガン),朝鮮王朝をも批判する教義により,広範囲に支持者を増やしていました。
閔妃政権は東学に弾圧を加えますが,1894年2月に朝鮮半島東南部の全羅道で,地方幹部の〈全琫準〉(チョンボンジュン;ぜんほうじゅん)
【東京H21[3]】
【本試験H12蒋介石ではない】
率いる
農民軍が政府軍を倒して拡大していくと,自力で鎮圧するのは無理とみた閔妃政権は清の
〈
袁世
凱
〉(えんせいがい)
【東京H27[3]】
に派兵を求めました。それに対抗し,日本政府も公使館と現地の日本人を保護するという名目で出兵しました。
当時の農民軍は,東南部の全州で政府軍に包囲されており,清と日本が出兵したことを聞くと,6月10日には農民軍と政府軍との間で
「
全州和
約
」が結ばれ,農民軍は撤退しました。
和約が成ったので閔妃政権は日本と清に撤退を求めましたが,日本政府は清に反乱の鎮圧と朝鮮の内政改革を提案しました。この時点ですでに日本は仁川,漢城を占領していました。日本軍は武力を背景に政府軍を武装解除し,〈大院君〉を支持して閔妃政権を倒しました。
さらに日本の艦隊は清の北洋艦隊を攻撃(豊島(プンド)沖の開戦し,1894
年
日清戦
争
【追H26農民反乱をきっかけにはじまったか問う】
が勃発しました。日本は朝鮮政府(開化派政権)・地方官庁に圧力をかけつつ,平壌の戦い,黄海海戦に勝利しましたが,民衆の間には日本に対する抵抗運動も置きていました。〈全琫準〉率いる朝鮮半島東南部の全羅道の農民軍は,日本と結んだ政権(開化派政権)と日本に対する蜂起を10月に再び起こしましたが,1895年1月には鎮圧されました。日本は清と戦いつつ,朝鮮半島で農民軍とも戦い,朝鮮政府に対する日本の圧力を高めていったわけです。
1895年4月
に
下関条
約
【本試験H13日露戦争・第一次大戦・日中戦争による獲得ではない,本試験H15】
【追H20これに対し五四運動は起きていない】
が締結され,日清戦争は終わりました。この中
で
朝鮮が清から独立しているこ
と
【本試験H15地図(朝鮮の位置を問う)】
,日本への賠償金の支払い
,
遼東半
島
・
台
湾
【本試験H5】
【本試験H13】
・澎湖(ほうこ)諸島
【本試験H19日露戦争による獲得ではない】
の日本への割譲が決まりました。こうして清は朝鮮に対する宗主権を失いました。
日本は莫大な賠償金(2万両(テール))を元手に,産業革命(工業化)をいよいよ本格化させていきます。また,清における鉱山の採掘権・鉄道の敷設権も獲得しました。
閔妃政権はこれを機に,日本ではなくロシアに接近することで,日本の進出を押し止めようとしていきます。これをみた日本公使〈三浦梧楼〉(みうらごろう)は1895年10月に〈大院君〉を支援し,王宮の京福宮で〈閔妃〉を殺害しました
(
○
187
0
年
~
192
0
年のアジア 東アジア
◆清は欧米・日本の経済的な従属下に置かれ,知識人の間に危機感が生まれ
る
「日本に倒せるなら,
清に恩を売ったロシアは,1896
年
ウラジヴォストー
ク
【東京H15[3]】
に向け
た
東清鉄道の敷設
権
【本試験H6清の国営事業として建設されたのではない】
【立教文H28記「東清」】
を獲得し,1898年に
は
旅
順
【東京H26[1]指定語句】
【本試験H20時期】
や
大
連
【本試験H20時期】
など
の
遼東半島南
部
を租借します。
その頃,ロシアが動きます。
1896年〈高宗〉をロシア公使館に避難させ、〈金弘集〉(1842~1896)政権を倒して親ロシアの新政権を成立させたのです。これを露館播遷(ろかんはせん;俄館播遷)といいます。
その後1897年に〈高宗〉は慶運宮にうつって元号を「光武」とし、国号を「大韓」(テハン,だいかん)と改め,〈高宗〉は皇帝に即位しました
(
大韓帝
国
【京都H19[2]】
【追H9朱子学と書院の栄えた時代ではない,H30大
韓
民
国ではない】
)
(注1)
。
その後,朝鮮の利権をめぐって日本とロシアは譲歩をしつつ,次第に対立を深めていきます。大韓帝国の中では、ロシアに接近しようとする皇帝に対し、独立を守り抜こうとする独立協会が設立され、全部ハングル文字で書かれた『独立新聞』を創刊。しかし政府に弾圧されます
(注2)
。
さて中国では,その後立て続けに欧米・日本によって勢力圏が事実上決められていきました。
・1898年にドイツ
【立教文H28記】
は山東半島南東部
に
膠州
湾
(ジャオジョウワン,こうしゅうわん)
【本試験H14フランスではない,本試験H15時期(19世紀末),本試験H25】
を租借
・1898年にイギリスは,山東半島の東部
に
威海
衛
(いかいえい)
【本試験H25時期】
と九龍半島の新界を租借
。
長江流
域
【セ試行 時期(19世紀末までにか)】
も勢力圏に加えます。
・1899年フランス
は
広州
湾
(グワンジョウワン,こうしゅうわん)を租借していきました
・日本は,1895年に獲得していた台湾の対岸にあ
る
福
建
【本試験H15イギリスの勢力圏ではない・地図】
を勢力圏に入れていきます。
「
勢力
圏
」というのは,他国の進出をブロックすることができる地域のことをいいます。「中国分割」というのは,中国の清の主権を奪
う
「植民地化」ではな
く
,そこに鉄道を敷設したり鉱山を採掘したり,工場を建設したりする利権を,ヨーロッパ諸国が獲得していったことを意味します。
ヨーロッパ諸国が中国に勢力圏を広げていくことに不快感を示したのはアメリカ合衆国です。事実上この「中国分割(中国の領土が租借されたり勢力圏に組み込まれたりしていったこと)」に乗り遅れたアメリカの〈マッキンリー〉大統領は,国務長官(外務大臣のこと)である
〈
ジョ
ン=
ヘ
イ
〉
【本試験H25】
(1838~1905)の作成し
た
中国の人々にとって「中国分割」の事態はとりわけ深刻に受け止められました。ヨーロッパで流行してした社会進化論の影響もあり,「このままでは優れた人種であるヨーロッパによって中国が滅んでしまう」という言説もみられました。特に,外国に留学した漢人エリートたちの中には「同じアジア人である日本の明治維新に見習おう」という動きが生まれ
,
変法運
動
(へんぽううんどう)へとつながっていきました。
(注1)鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.270。
(注2)鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.270。
○187
0
年
~
192
0
年のアジア 東アジア
◆
日本の明治維新を見本とする改革
(
変法運
動
)
が起きたが,保守派により中止される
1888年に編成された清
の
北洋艦
隊
は,日清戦争の黄海海戦・威海衛海戦で壊滅。生みの親である
〈
李鴻
章
〉(1823~1901)
【東京H29[3]】
,山口県の下関で条約を結んだ張本人でもあり,洋務運動の成果であ
る
北洋艦
隊
が壊滅したことで,彼の権威は失墜しました。
ただ,彼はそれでも〈西大后〉に可愛がられ,政治の舞台からは完全に退くことはありません。彼は「日本の次に脅威になるのはロシアだ。そのためには,ロシアと仲良くしておいて,日本の進出に対抗したほうがよい」との考えから,1896年には満洲におけるロシアの権益
(
東清鉄道の敷設
権
)をみとめる内容の露清密約が結ばれました。これが後の1898年の旅順・大連の租借につながります。
時の皇帝は第11代
〈
光緒
帝
〉
(こうしょてい,位1875~1908)
【共通一次 H1 清朝の最後の皇帝ではない。満州事変の原因・結果に関連しない】【本試験H11清朝の最後の皇帝ではない】
【H30共通テスト試行 この「清国皇帝」は政治改革を阻もうとしたわけではない】
です。
とりわけ日清戦争での敗北にショックを受けた清の漢人官僚のなかに,「洋務運動のように形だけ西洋技術をとりいれても無駄だ。もっと根本的に政治制度をつくりかえよう。そのときにモデルにするのは日本の明治維新だ」というグループが台頭してきました。
〈
康有
為
〉
(こうゆうい,1858~1927)
【H30共通テスト試行 史料を読み、康有為の「国政の改革」の時期を判断する】
【早・政経H31蘭亭序の作者ではない】
や
〈
梁啓
超
〉(りょうけいちょう1873~1929)
【本試験H11 胡適とのひっかけ】
【追H21孫文とのひっかけ】
・〈譚嗣同〉(たんしどう,1865~98)ら
の
公羊学
派
(くようがくは)によ
る
変法運
動(
変法自強運
動
)
【本試験H9ヴェルサイユ条約に反対したものではない】
【H30共通テスト試行 史料から時期を判断する】
です。公羊学派というのは『春秋』を革命の書として,「儒教はもともと社会を変えようという考えだったじゃないか。社会改革を積極的に行おう」という儒教のグループです。〈康有為〉は1888年に北京で〈光緒帝〉に改革の必要性を書面で訴えましたが,保守派は相手にせず,日清戦争を迎えます。敗戦後に〈康有為〉の弟子〈梁啓超〉
【追H21】
が1895年に強学会を建てると,〈康有為〉とともに出版活動を活発におこない,湖南省など一部の地方の官僚の中は,公羊学派の説を取り入れた改革をおこなう者も現れました。
この動きをみた〈光緒帝〉は〈康有為〉を取り立て,伝統的な制度を廃止し,近代的な学校(京師大学堂(けいしだいがくどう))の建設や科挙の改革を通し
て
立憲君主
制
をめざ
す
変
法
が始まりました。これを
,
戊戌の変
法
【H30共通テスト試行 康有為の「国政の改革」】
といいます。
しかし,〈李鴻章〉の跡継ぎである〈袁世凱〉
【東京H27[3]】
に支援された〈西太后〉
【本試験H8】
らの保守派
【H30共通テスト試行 「旧守派」は共和国の樹立を目指していない】
にはばまれて,〈光緒帝〉は幽閉され,〈康有為〉・〈梁啓超〉
【追H21】
は日本に亡命するという結果に終わりました
(
戊戌の政
変
【本試験H8】
【H30共通テスト試行 史料から時期を判断する】
)。こうして"改革"が失敗すると,危機感を持った知識人・学生の間には"革命"が選択肢に急浮上することになります。
○187
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年
~
192
0
年のアジア 東アジア
◆
欧米・日本の進出に対する民衆反乱である義和団事件が鎮圧され,清はさらなる従属下に置かれた
列強の進出が進むなか,1858年の天津条約で認められた「キリスト教布教の自由と宣教師の保護」にもとづいて欧米各国の宣教師が各地でキリスト教を布教していました。それに対抗する民衆運動を
,
仇教運
動
(きゅうきょううんどう,教案)
【追H20太平天国は無関係】
【立教文H28記】
といいます。
もちろん,キリスト教だけではなく,欧米によって伝統的な社会経済が壊されたことへの不満も大きいものでした。欧米の資本が導入されて,鉄道や蒸気船,電信が採用されるようになると,従来の車夫(人力車の運転手),船頭(せんどう)や飛脚が失業するようになります。また,鉄道の敷設が,伝統的な寺院や墓地を破壊することもありました
【本試験H10「キリスト教会や鉄道を破壊した」か問う】
。地方の官僚たちにはこの仇教運動を黙認する者も多かったのですが,都の北京にほど近い山東省の巡撫(じゅんぶ,長官のこと)に対し,「中国に滞在してい
る
公使館
員
を守るため,山東省で急拡大してい
る
義和
団
の動きを止めてほしい」とヨーロッパ諸国が要請するようになります。
義和
団
【本試験H8時期(同治中興の前ではない)
】
【
本試
験H
19】
とは,反清・反欧米の集団で
「
扶清滅
洋
」(ふしんめつよう)
【本試験H8李鴻章ののスローガンではない,本試験H10太平天国のスローガンではない】
【本試験H19】
をスローガンにかかげ,ヨーロッパ諸国の進出に抵抗するために武術し
た
白蓮
教
(びゃくれんきょう)の一派でした。「洋」といっても、その中には日本も含まれていました
(注)
。
ヨーロッパ諸国の圧力を受けて清朝は巡撫は罷免し,代わりに〈袁世凱〉が就任すると,義和団は北京へと移動するようになりました。ドイツが勢力圏とした山東半島で武装蜂起すると,そのまま北京に迫る勢いを見せました。
〈西太后〉は,はじめは義和団側について「義和団なら,ヨーロッパ諸国を追い出してくれるかもしれない」とばかり思い,ヨーロッパ諸国の軍を攻撃しドイツ公使が殺害,さらに列強に宣戦します。こうして,北京の公使館地区を包囲した義和団に対し
,
日露英仏米独伊墺
の
8か国連合
軍
【本試験H8西太后はこれを破っていない,本試験H10西太后が派遣を要請したわけではない】
【本試験H19ポルトガル軍は参加していない】
【早・法H31】
が
公使館
員
を守るために共同出兵しました(ほかにオランダも)
【本試験H20時期】
。しかし,多くの地方長官は清の宣戦布告に従うことなく,治安の維持に務めて連合軍との戦いを避けました。あわてた清は,遅ればせながら義和団の鎮圧にまわりましたが,反乱の責任をとって1901年に清は連合国
と
北京議定
書
(辛丑和約(しんちゅうわやく))
【京都H19[2]】
【本試験H8】
【追H21】
を結びました。この中では
,
外国軍隊の北京公使館区
域
(および北京と海港の間
)
駐兵
権
【本試験H19上海ではない】
【追H21「外国軍の北京中流」】
や莫大な賠償金(4億5000万両の39年払い)などが決められ,中国
の
半植民地
化
は決定的なものとなりました。
(注)永原陽子「南アフリカ戦争とその時代」歴史学研究会 編 講座世界史5『強者の論理―帝国主義の時代』東京大学出版会、1995年。
○187
0
年
~
192
0
年のアジア 東アジア
◆
イギリスとの中央ユーラシアの取り合いが太平洋沿岸にまで広がり,日露戦争の引き金となる
東アジアには朝鮮や中国東北地方(満洲)をねらう日本とロシアの対立という構図が生まれていました。
義和団事
件
(1900~1901)の勃発時,アメリカはアメリカ=フィリピン(米比)戦争でフィリピンの植民地化をすすめ,イギリスは南アフリカ〔ブール〕戦争で南アフリカの植民地化をすすめていました。ですから,中国に派兵する余裕があまりありません。
義和団事件が終わってもなかなか中国東北地方〔満洲〕から撤退しようとしないロシア
【追H20「アメリカ合衆国の東アジア進出に対抗して」ではない】
を警戒したイギリスは,1902年1月
に
日英同
盟
【本試験H5 1920年代ではない,本試験H9,
本試験H12】
【追H18、H20】
【中央文H27記】
を結ぶことで,日本の軍事力によってロシアの南下を阻止する戦略に出ました。
日英同盟は,ロシアを仮想敵国(将来日本かイギリスがロシアと戦争したら,共同して戦うぞという国)とする同盟で,従来
「
光栄ある孤
立
」を旗印に他国と同盟を結ぶことを極力避けていたイギリスがその政策を180度転換したわけです。イギリスの政治的な後ろ盾を得た日本は,日銀副総裁の
〈
高橋是
清
〉(たかはしこれきよ,1854~1936)がイギリスのユダヤ人資産家
(
ロスチャイルド
家
)とロンドンで会談して戦争に向けた資金の提供も受け,万全の体制をとっていきます。
日本とロシアの思惑に挟まれ
た
大韓帝
国
(1897年に改称)は皇帝権を強化し,列強の進出を打破しようとしました。民衆の間にも抵抗運動が起きています。
しかし,1904年に日本は日本陸軍は海軍の護衛を受けながら朝鮮の仁山に上陸し,翌日にかけて旅順港の攻撃と仁川沖海戦をもっ
て
日露戦
争
【本試験H2イギリス・フランスがともに日本を支援したか問う,本試験H12時期(軍事費が1904~05年に多いことを読み取る)】
が始まりました。中立をとっていた韓国の漢城は日本に占領され
,
日韓議定
書
の調印を迫られました。
ロシアはこのまま援助を受けずに単独でたたかうことを避け,応援が来るまでなんとか旅順港を死守しようとしました。その後日本陸軍は陸からの旅順攻略を主張しましたが,海軍は「陸軍の援助などいらない」と主張し,対立。しかし,ロシアがバルト海の艦隊を日本海に向かわせていることがわかると,海軍は陸軍に旅順攻略を助けてもらう案を承知します。多大な犠牲を払い旅順の攻略には成功しましたが,ロシアのバルト海艦隊は日本に迫っています。そんな中,1905年3月には奉天会戦で陸上での決戦を制し,1905年5月には
〈
東郷平八
郎
〉(1847~1934)を司令官とする日本海軍が
,
バルチック艦
隊
を撃破することに成功しました
(
日本海海
戦
)。
その直前1905年1月に
は
第一次ロシア革
命
が勃発していて
(
血の日曜日事
件
),戦争の終結が難しくなっていました。1905年6月には,黒海艦隊で戦
艦
ポチョムキン号の反
乱
も起きています。実はこうした「革命を起こさせて,ロシアを内側から崩壊させる」作戦も,陸軍のスパイである〈明石元二郎〉(1864~1919)により秘密裏に遂行されていたといわれています。
とはいえ長期化する戦争が財政を圧迫していた日本は,アメリカ合衆国の後ろ盾を得て,有利な形で早期決着を図ろうとします。1905年7月には,
〈
桂太
郎
(かつらたろう)〉首相(兼臨時外相,任1901~06,08~11,12~13)とアメリカの特使〈タフト〉陸軍大臣の間
に
桂・タフト協
定
が結ばれ,アメリカにフィリピンでの支配権を認めるかわりに,日本の韓国(1897年から朝鮮王朝は,
大
韓
帝
国
と名前を変えています)での支配権を認めてもらうことに成功しました。
そして,1905年9月,アメリカ
【本試験H10イギリスではない】
大統領の
〈
セオド
ア=
ローズヴェル
ト
〉(愛称はテディ,任1901~09)
【追H21】
による調停を受け
,
ポーツマス条
約
【本試験H10イギリスの調停ではない】
【本試験H13下関条約ではない,本試験H16中国とアメリカが結んだわけではない】
が結ばれて講和しました
【追H21日清戦争の講和ではない】
。〈ローズヴェルト〉は1906年にノーベル平和賞を受賞しています。
日本の全権は〈小村寿太郎〉(1855~1911),ロシア全権は
〈
ヴィッ
テ
〉(祖先であるオランダ語読みはウィッテ,1849~1915)
【中央文H27記】
です。条約において,日本の韓国に対する
「
指導,保護および監
督
」の権利が認められます。指導,保護,監督...拡大解釈が可能なように,あえてあいまいにな言葉にしているわけです。さらに
,
遼東半島南
部
を租借し,ロシアがもっていた利権(東清鉄道の支線であるハルビン~長春~大連~旅順間
の
南満洲鉄
道
【共通一次 平1:日露戦争の後「日本は南満州鉄道株式会社(満鉄)」を作っていたか問う】
)を受け継ぐこと
。
南樺
太
(サハリン)
【本試験H24樺太全島ではない】
を日本に割譲すること。沿海州の漁業権を日本が獲得することなどが取り決められました。このときに日本の製紙会社は,樺太に進出し,針葉樹林からパルプ生産が可能となりました。また,漁業権獲得は,日本の水産企業をうるおしました。
なお、日露戦争(1904~05)で日本が効果的に大砲や機関銃,巨大な火砲を備えた軍艦
(
大艦巨
砲
)を使用したことは,第一次世界大戦(1914~18)以降における各国の戦法に影響を与えました。ドイツやイギリスも負けじと建艦競争を進め,"敵国よりもでかい軍艦を作らなければ勝てない!"とい
う
大艦巨砲主
義
へとつながっていきました。
◆日露戦争における日本の勝利は、世界各地の抑圧されていた民族に影響を与えた
日本の戦勝は、各地の民族運動に影響を与える
日露戦争での日本の勝利は,世界各地に大きなインパクトを与えました。
まず,日本のロシアに対する勝利は,ヨーロッパ列強による支配下にあった民族を勇気づけました
(
日露戦争の影響を受けた反帝国主義・民族主義運
動
)。
オスマン帝国
〈エンヴェル=パシャ〉(1881~1922)らが1908年
に
青年トルコ革
命
を起こし,スルターンの
〈
アブデュルハミト2
世
〉(位1876~1909)の専制政治を廃位します。「青年トルコ」とは「青年イタリア」などにならった,ヨーロッパ側の呼び名です。
イラン
トルコ同様,ロシアの南下に苦しめられていたイランでも,1906~1911年に幅広い階層が参加し
た
イラン立憲革命
【東京H14[1]指定語句】
【本試験H10イギリスとトシアの干渉によって挫折したか問う】
【追H25イランの憲法はアジア最初の憲法ではない】
が起きましたがロシアの侵攻により鎮圧されました。
インド
インドでは国民会議
派
カルカッタ大
会
が〈ティラク〉(1856~1920)
【追H27】
らの主導により開かれ,イギリスの
ベンガル分割令
【追H24時期(プールナ=スワラージ、ガンディー暗殺との時系列)】
に対抗して反英民族運動
【追H27】
を盛り上げます。
ヴェトナム
ヴェトナムでは,
〈
ファ
ン=
ボ
イ=
チャ
ウ
〉(1861~1940)
【追H25ホー=チ=ミンとのひっかけ】
【本試験H10】
ら
が
ドンズ
ー(
東
遊
)
運動
【追H25,H27】
【本試験H10内容も】
【H30共通テスト試行インドネシアではない】
を組織します。
中国
中国では
〈
孫
文
〉
(1866~1925)
【本試験H6,本試験H12蒋介石ではない】
【本試験H14維新会を指導していない・共産党を国民党から追放していない・白話運動の中心ではない】
が東京で日本人のアジア主義者の〈宮崎滔天〉(みやざきとうてん,1871~1922)
【H30共通テスト試行 『三十三年之夢』でフィリイピンの独立運動を支援するくだりが出題される】
の支援を受け
て
中国同盟
会
【東京H21[3]】
【本試験H9重慶が結成地ではない
,
本試
験H
10,本試験H12】
【明文H30記】
を結成しています。
フィンランド
また,ウィーン議定書でロシアの支配下におかれ,フィンランド語禁止のロシア化政策が強要されてい
た
フィンランド大公
国
(君主はロシア皇帝)では,日露戦争中にロシア人の総督の暗殺事件が起きています。その後も自治・独立運動は続き,独立がかなうのは1917年のことになります。作曲家
〈
シベリウ
ス
〉(1865~1957)は「フィンランディア」1900年に作曲しましたが,独立運動を盛り上げるおそれがあるとして弾圧されています。そして,ロシア革命をきっかけとして1917年
に
独立宣
言
を出し,パリ講和会議
で
フィンランド共和
国
の独立が認められました
【本試験H16ソ連の解体時ではない,本試験H25第二次大戦中ではない】
。
○187
0
年
~
192
0
年のアジア 東アジア
◆
日本は大韓帝国
(
韓
国
)
を植民地化した
日露戦争で,日本の「指導,保護および監督」におかれるまでの朝鮮は,じわりじわりと日本による進出がすすんでいました。1894年の日清戦争まで一旦もどってみましょう。
1895年に清が日清戦争で敗北すると,〈閔妃〉政権は「清はもう頼れない。ロシアに鞍替えして,日本に対抗しよう」としました。
これに対し,日本側は1895年になんと〈閔妃〉を殺害してしまいます。
この事態に,朝鮮は「朝鮮はどこの国のものでもない。もはや中国の朝貢国でもないし,日本にも従わない」ということを示すため,国王の〈高宗〉は皇帝を宣言し,1897年
に
大韓帝
国
と改称(通称は「韓国」。現在の「大韓民国」とは区別してください)します。つまり,この時期の東アジアには,ヴェトナムの阮朝,清,大日本帝国,大韓帝国...と皇帝を名乗る国がいくつも立ち並んでいたことになり,それほど清の威厳が失墜していたということがわかります。
大韓帝国ではこの時期に近代化に向けた改革がなされました(1897~1907年,光武改革)が,日本の進出は止まりませんでした。1904年1月に中立宣言をしていた韓国の仁川に対し2月8日に日本は派兵し,翌9日に仁川沖海戦・旅順港攻撃を実施しました。日本は漢城を占領し,大韓帝国政府
に
日韓議定
書
に調印させ,日本は韓国内の軍事行動の自由や「便宜」を与えること,内政干渉の権利などを認めさせました。朝鮮半島北部でロシア軍と日本軍は対峙し,1904年5月末には
,
第一次日韓協
約
【本試験H24時期(19世紀末ではない)】
で,韓国に日本人財政とアメリカ人外交顧問などを派遣し,内政への支配を強めました。これにより1904年11月には政府から貨幣発行権を奪い,1905年には韓国警察や電信・郵便・電話も監督下に置きました。
大韓民国では日本の軍事的進出に対する抵抗運動も起きましたが,〈宋秉畯〉(ソンビョンジュン;そうへいしゅん)の一進会のように日本との協力を説く組織もありました。
1905年4月に日本は韓国を保護国化する方針を閣議決定し,アメリカ合衆国との桂=タフト協定(7月),イギリスとの第二回日英同盟(8月)により,ロシアとのポーツマス条約(9月)列強の承認を得て外堀を埋めていきました。
日露戦争後1905年11月には,〈伊藤博文〉特派大使による〈高宗〉と,外部大臣〈朴斉純〉(パクチェスン)や〈李完用〉(イワニョン)ら各大臣への圧力の結果
,
第二次日韓協
約
(乙巳(いっし)保護条約)が締結され,韓国の外交権を日本が掌握しました。独立国家にとって「どこの国とどう付き合うか」ということは重要な主権の一つです。それが失われたということですから,これをもっ
て
保護国
化
です。「保護」というと「守っている」イメージがあるかもしれませんが,国家を保護するとは"主権の一部をコントロールする"="言いなりにする"という意味があります。これにより漢城には1906年
に
統
監
(とうかん,初代統監は〈伊藤博文〉)がおかれ,韓国政府は統監におうかがいを立てなければ,他国と条約を結ぶことができなくなりました。
この事態に対する反対運動が日本憲兵隊により鎮圧される中,大韓帝国
【本試験H27清ではない】
の皇帝
〈
高
宗
〉(李太王,在位1863~1907)は,1907年にオランダのハーグでアメリカ合衆国〈ジョン=ヘイ〉国務長官の提唱で開かれてい
た
第二回万国平和会
議
【本試験H27】
(第一回はロシア皇帝〈ニコライ2世〉の提唱で1899年に開催)に密かに代表者を派遣。全世界に大韓帝国の窮状を訴えようとしたのです
(注
)
。しかし,大韓帝国の外交権は日本に握られており,列強は〈高宗〉のいうことに耳を傾けることはなく,結局〈高宗〉は退位させられ,息子である〈純宗〉(スジョン;じゅんそう)が即位となりました。彼は日本の傀儡です。
(注)第一回では,ハーグ
の
常設仲裁裁判
所
設立につながった国際紛争平和的処理条約,「交戦国」「宣戦布告」「戦闘員」の定義や捕虜の取扱い,使用してはならない戦術について定め
た
ハーグ陸戦条
約
(陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約),「投射物および爆裂物
の
投
下
」「窒息性または有毒性
の
ガ
ス
の撒布」「ダムダム弾」の使用を禁止する宣言などが定められました。
反対運動が過激化する中で,1907年7月に〈伊藤博文〉統監と〈李完用〉首相
は
第三次日韓協
約
を締結。大韓帝国の内政権を日本
の
統
監
の指導下に起き,韓国警察・軍隊を解散しました
。
反日義兵運
動
という反日闘争
【東京H12[2]】
【本試験H10「日露戦争後,日本は朝鮮の反日運動を弾圧」したか問う】
が高まるなか,日本政府は韓国への派遣軍を増派し弾圧をすすめました。
また,愛国啓蒙運動をおさえようと,出版や教育の統制も行いました。
1909年7月日本による韓国の併合が閣議決定されます。そんな中,10月には満洲のハルビン駅で〈安重根〉(アンジュングン)が,初代統監〈伊藤博文〉
【本試験H16朝鮮総督府の総督ではない】
を暗殺しました。1910年8月に
は
韓国併合に関する条
約
【本試験H10時期(日露戦争後か問う)】
【追H24日韓基本条約ではない】
が公布され,韓国は植民地化されました
【本試験H16明治維新後に初めて獲得した海外領土ではない】
。統監に代わって,ソウルに
は
総
督
が置かれました
(
朝鮮総督
府
)。総督には武官が任命されました。
日本
は
土地調査事
業
(1910~18)によって土地所有権を確定し,税金を確実にとるしくみを作り,財政基盤を整備しました
【本試験H16併合と同時に創氏改名は実施されていない】
。また,米や綿花の強制栽培とともにダムや灌漑施設などのインフラを整備することで,日本への食糧の供給を増やしていきました。日本は始
め
武断政
治
【本試験H24羈縻政策ではない】
により民族運動を厳しく取り締まりました。
○187
0
年
~
192
0
年のアジア 東アジア
◆
清による政治改革は中途半端なまま,民族資本家が欧米から利権を取り戻す運動が始まる
清の対応に,「今さら感」がただよう
さて,義和団事件によって多額の賠償金を支払うこととなり,なおかつ首都に外国軍が駐留するという最悪の事態となった
〈
光緒
帝
〉(こうしょ;こうしょてい,位1875~1908)の清。これだけの目にあって,ようやく改革へと動き出します。これ
を
光緒新
政
【明文H30記】
といいますが,実権は〈西太后〉
【セA H30上海クーデタを起こしていない】
に依然として握られていました。
六
部
(りくぶ)が廃止されて行政機構が整理されるとともに,1905年
に
科挙が廃
止
されました
【本試験H9[22]洋務運動期ではない】
【本試験H23中華民国ではない】
【追H20】
【セA H30】
。また,1904年以降近代的な学校(新式学堂)が設立され,留学生の目的地として日本が選ばれると,「社会」をはじめとする多くの日本人の作った熟語が中国語に導入されるようになりました。中国の伝統社会を批判した小説家の
〈
魯
迅
〉(ろじん,1881~1936)
【本試験H6】
【追H20魯迅の著書は『水滸伝』ではない】
が現在の東北大学の医学部に留学していたように,この時期
の
留学
生
が,後に清を打倒する革命運動への参加や中華民国・中華人民共和国のリーダーになっていくことになります。日本の明治憲法を参考にし
た
憲法大
綱
(たいこう)を発表し,9年以内
の
国会開設も公
約
(のちに1913年開設が約束されましたが実現せず)しましたが,「立憲君主国家」は外見だけで,女真(女直)族の皇帝や皇族・官僚が支配を続ける点では,実質的に大きな変化がありませんでした。
また,ドイツから顧問を招いて,西洋式軍隊であ
る
新
軍
が設立されました。しかし,のちに清が滅ぶ辛亥革命の発端になったのは,この新軍の武装蜂起であったことは皮肉です。新軍のうちの
「
北洋
軍
」を指揮していたのが,
〈
これらの改革には莫大な費用がかかりましたが,その費用は地方に押し付けられることが多く,増税にあった農民の不満も高まりました。実際に新式の学校に通うことができたのは,一部の地方エリートにすぎなかったのです。こうして,中央の政府と地方のエリート,さらに農民との対立も深まっていきました。
1908年,〈西太后〉によって幽閉されていた〈光緒帝〉が死去すると,〈西太后〉は翌日死去しました。2人のあまりに死期が接近しているので,毒殺説すらあります。
代わって,2歳10ヶ月の
〈
溥
儀
(
宣統
帝
)〉
【早・法H31】
が即位しました。第12代にしてラストエンペラー
(最後の皇帝)です(映画「ラスト・エンペラー」(1987中伊英)は溥儀の即位からプロレタリア文化大革命までの中国現代史を描いています)
。
1911年に,最高機関であ
る
軍機
処
が廃止され,責任内閣制となりますが,満洲人貴族の影響力の強い内閣(親貴内閣(しんきないかく)といって閣僚13人中8人が満洲人(うち5人が皇族))であったため,「これでは何も変わっていないじゃないか!早くしないと本格的に植民地化されてしまう!」と,にわかに改革派の動きが激しくなっていきました。
もともとは医者であった
〈
孫
文
〉(孫中山,1866~1925)は,広東省
の
客
家
(ハッカ)出身です。客家とは,中国の南部の山間部に分布する漢民族の一派で,客家語を話し,客家文化を受け継ぎます。商業に従事することが多く,台湾や東南アジア各地にも移住し,独自のネットワークを持っているところが,しばしばユダヤ人と比べられます。
〈孫文〉は,ハワイにいた兄を頼り現地で進学・卒業し,帰国して香港の大学で医学を学び,マカオで医師として開業。
清に批判的な華僑
【本試験H6】
の支持を受け,革命運動を拡大していきます。
〈孫文〉
【本試験H4陳独秀ではない】
は,1894年にハワイ
【本試験H6】
で
興中
会
【本試験H4陳独秀が設立していない,本試験H6国民党ではない】
【本試験H14】
【追H21袁世凱が弾圧したわけではない】
を結成します。
しかし,出だしは不調で,翌年1895年に香港で拡大改組されました
(
注
1
)
。また,日本人の中には「ヨーロッパの進出に対抗するためにアジアを一つにまとめよう」という考えを持つものも多く,「そのためには弱体化した清を倒そう」と考える〈孫文〉を助ける者もいました(のちに首相になる犬養毅は家を提供した)。〈孫文〉は中国で2回挙兵しますが,いずれも失敗。
彼
【本試験H12蒋介石ではない】
はのちにアメリカとヨーロッパを旅しながら「排満興漢(はいまんこうかん)」
(注
2)
を唱え革命資金を集め,1905年には日本に戻り,日本のアジア主義者〈宮崎滔天〉(みやざきとうてん,1871~1922)
【H30共通テスト試行 著作が資料として出題される】
の協力で,3つの組織(〈孫文〉の興中会+〈黄興〉・〈宋教仁〉の華興会+〈章炳麟〉・〈蔡元培〉の光復会)を合わせ
て
中国同盟
会
【本試験H12】
を設立しました。東京での結成には,日露戦争での日本の勝利が強く影響しています。機関紙は『民法』(1905創刊)で〈
このときの〈孫文〉
【追H20】
は
「
三民主
義
」
【東
京
H8[1
]
指定語句
】
【本試験H13】
【追H20】
を基本理念として固め,具体的
に
四大綱
領
(駆除韃虜・恢復中華・創立民国・平均地権)規定しました。三民主義は
,
民
族
【本試験H13】
の独立
・
民
権
【本試験H13】
の伸長
・
民
生
【本試験H13】
の安定を指します。
(注1)『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.123
(注2)天児慧『中華人民共和国史 新版』岩波書店,2013年,p.3
○187
0
年
~
192
0
年のアジア 東アジア
◆
辛亥革命が起こり中華民
国(
共和
政)
が建てられたが,実権を握った軍人〈袁世凱〉が集権化をすすめた
清朝は,莫大な賠償金を支払うために自国にある鉄道や鉱山を列強に借金のカタ(担保)として与え,お金を借りようとしていました。借金を返すために,自分の家を担保にして,さらにお金を借りるようなものです。
しかし,担保に入れようとした鉄道は,中国人の資本家(民族資本家)や海外の留学生・革命家・企業家たちがお金を出し合って,列強に奪われていたものを回収している最中でした
(
利権回収運
動
【東京H14[1]指定語句】
)。清が1911年
に
幹線鉄道国有
化
【本試験H6】
【東京H20[3]】
を図り,四国借款団(英・米・独・仏)からお金を借りようとすると
,
新軍第八師団の工兵大隊が1911年10月10日
に
当時,〈孫文〉はアメリカにいましたが,12月25日に上海に帰国すると,〈孫文〉は革命派のリーダーとしてまつりあげられ,翌1912年1月1日,
〈
孫
文
〉
【東京H14[1]指定語句】
【本試験H11】
【追H24周恩来ではない】
は当時は臨時約法という暫定憲法をもと
に
臨時大総
統
【本試験H6,本試験H11】
【追H24周恩来が就任していない】
に任命され,中国史上最初の共和国であ
る
中華民
国
【本試験H6】
が
ただし,北京にはまだ清が存続していることに注意です。清は新軍の一つである北洋軍の指導者である〈袁世凱〉に革命の鎮圧を図りますが,〈孫文〉は〈袁世凱〉に「清を裏切って,中華民国に協力してくれたら,臨時大総統のポストをあげよう」とウラ取引きをしていましたから,〈袁世凱〉
【本試験H16】
は1912年に逆に
この一連の過程を
「
さて,国会議員の選挙が1913年に実施されると,半分近くが〈孫文〉
の
国民
党
(中国同盟会から発展) の議席となりました。しかし,国民党の総理(指導者)の〈宋教仁〉を暗殺されたことに対して第二革命が勃発します。〈袁世凱〉は議会を解散し正式な大総統に就任し
【本試験H11「袁世凱は,国民党の反対で,最後まで正式な大総統になれなかった」わけではない】
,臨時約法を否定し「新約法」によって自らの権限を強化しました。1914年に〈孫文〉は東京に亡命し
て
中華革命
党
という秘密結社をつくりました。
そんな中1915年には〈袁世凱〉が,日本
【追H21ロシアではない】
の大隈重信内閣との間
に
二十一カ条要
求
【追H19】
を取り交わし,日本のバックアップも得ます。
さらに皇帝宣言(帝政復活宣言
【追H21】
)をしたため
,
第三革
命
が勃発。1916年には即位しましたが,反発が激しくなったため取り消し,まもなく病死しました。後継者は,武昌蜂起(ぶしょうほうき)を指導した
〈
黎元
洪
〉(れいげんこう,1866~1928)ですが,実際には彼は傀儡(かいらい,操り人形のような人物ということ)で,各地に並びたつ軍閥による分裂状態となってしまいます。
そのうちの安徽派(あんきは)の
〈
段祺
瑞
〉(だんきずい,1865~1936,北洋軍時代からの〈袁世凱〉の側近です)はしばしば日本の支援を取り付けようとして,首相
〈
寺内正
毅
〉(てらうちまさたけ)が送ってきた実業家であり政治家(〈西原亀三〉)からお金を借りています(総額1億4500万円
の
西原借
款
)。
〈
この間に日本の進出も進み,1917年に
は
石
井=
ランシング協
定
で,日本がアメリカの門戸開放政策(中国はどの国にとっても開かれている国であるべきだという考え)を認める代わりに,アメリカが満洲と内モンゴル東部における日本の特殊権益を認めています。〈石井菊次郎〉は外務官僚出身で〈大隈〉内閣の外相(任1915~16)を務めた人物で,協定には特命全権大使として調印しました。〈ランシング〉
(任1915~20,辞任理由は国際連盟規約をめぐる〈ウィルソン〉大統領との対立でした)
は当時のアメリカの国務長官です。
○187
0
年
~
192
0
年のアジア 東アジア
◆
西洋の科学の刺激を受け新文化運動が始まり,列強の進出に反対する大衆運動も起きた
「中国がここまで衰えたのは,中国人の「考え方」そのものに問題があったためではないか? 儒教のテキストにとらわれて,自由な考え方ができなかったのが問題ではないか?」
そんな問題意識が知識人の間に共有されていくにつれ,第一次世界大戦中から従来の儒教文化を批判
【本試験H11:儒教に基づく民族主義を高揚させたわけではない】
す
る
新文化運
動
【本試験H24】
が始まっていきました。拠点となったの
は
北京大
学
【明文H30記】
です。
「儒教の影響を強く受けた伝統的な文章の書き方をやめて,話したり頭の中で考えたりしたとおりに,文章を書こう」
【共通一次 平1:漢字の略字化運動ではない】
という運動
(
白話運動
;文学革
命
)
【共通一次 平1:時期を問う(辛亥革命後か)】
【本試験
H6
文化大革命ではない,本試験H1
1
】
【本試験H24】
が
〈
胡
適
〉
(「こせき」と読みますが,慣用的に「こてき」とも読まれます,1891~1962)
【本試験H11梁啓超ではない】
【本試験H14孫文ではない】
【セA H30杜甫ではない】
により提唱されます。
彼はアメリカのコロンビア大学で,プラグマティズムの教育者
〈
デュー
イ
〉の門下で学んだ人物で
(⇒1870~1920の北アメリカ アメリカ合衆国)
,運動の開始は1915年とすることが普通です。1916年から北京大学の学長に就任し,白話運動を推進します。白話運動というのは,話し言葉と書き言葉を一致させようという言文一致運動のこと。中国では伝統的に儒教の経典の文章が良い文章とされてきましたが,これでは読みにくく,書き方にしばられて自由な発想ができない。そこで「話し言葉で書くべきだ」という運動を始めたわけです。こうした意見は,1917年に雑誌『新青年』2巻5号の「文学改良
(注)『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.124
〈
〈
李大
釗
〉(りたいしょう)は,マルクス主義
【追H28明(みん)代ではない】
を中国に紹介し,このときに彼の働く図書館で学んだのが
〈
毛沢
東
〉だったのです。
作家
〈
魯
迅
〉
【本試験H11:新青年についての問い】
【追H20、H28ドストエフスキーとのひっかけ】
は,かつて日本に留学し医学を目指しますが,中国に戻って1918年に
『
狂人日
記
』
【本試験H11:新青年についての問い】
【追H20『水滸伝』は彼の作品ではない、H28ドストエフスキーの作品ではない】
,1921年に『阿Q正伝』を著します。どちらも儒教や体制をたくみに批判する内容でした。
さて,1919年1月から始まったパリ講和会議により締結されたヴェルサイユ条約
【追H20下関条約ではない】
によれば,ドイツ
【本試験H25フランスではない】
の支配圏だった山東省
【本試験H7】
を日本の勢力下に置くものとされ
,
二十一条要求は撤廃されないま
ま
となりました
【本試験H5イギリスとフランスにより撤回されていない】
。
交渉に当たった政治家がやり玉に上げられ,労働者によるストライキにまで発展してしまったため,最終的に6月28日に調印を拒否し
【本試験H19時期,本試験H25調印していない】
,逮捕した北京大学
【本試験H25上海ではない】
の学生を釈放することで決着します。これ
を
五・四運
動
【共通一次 平1:五・三〇運動とのひっかけ】
【本試験H25,本試験H30年代が問われた】
【追H20下関条約に対する運動ではない】
【立命館H30記】
といいます。
〈孫文〉は五・四運動を見て,「民衆の力が,政治を動かした。これからの中国は,ようやく民衆が主人公になって,政治を変えていく時代になっていくはずだ」と感動し,秘密結社であっ
た
中華革命
党
を組み替えて,1919年
に
中国国民
党
【追H28時期を問う】
とします。
しかし,結局北京政府は,国際的な孤立を避けるため,ヴェルサイユ条約に調印しました。山東省の問題は棚上げにされたままです。
○187
0
年
~
192
0
年のアジア 東アジア
◆
朝鮮における「民族自決」の理念を掲げた反帝国主義運動は鎮圧された
朝鮮人の間でも,1918年1月にアメリカ合衆国〈ウィルソン〉大統領
が
十四カ
条
【本試験H5いずれも実現しなかったわけではない】
【東京H18[1]指定語句】
【早法H25[5],H26[5]指定語句】
でうたった
「
民族自
決
」
【早法H27[5]指定語句,論述(20世紀前半までの世界にどのように波及したか述べる)】
の原則に刺激され,内外で独立に向けた運動が活発化しました。上海の組織はパリ講和会議に代表を派遣して独立を請願し〈金奎植〉(キムギュシク;きんけいしょく,1881~1950)が独立請願を起草,アメリカ合衆国の朝鮮人組織は
〈
李承
晩
〉(イスンマン;りしょうばん,後の大韓民国の初代大統領
。
上
海
【東京H12[2]】
に亡命政権を樹立)
を代表に立てました(アメリカ合衆国政府により出国は拒否されます)。東京の留学生も1919年2月に独立宣言を発表しています。〈金奎植〉はパリに派遣されましたが,朝鮮を代表する資格は与えられませんでした。
朝鮮では1919年1月に〈高宗〉が亡くなると日本人による毒殺説がささやかれ,3月3日の葬儀に先立ちソウルの鐘路(チョンノ)パゴダ公園で独立運動家が集まり「独立宣言書」が読み上げられ,「独立万歳」が叫ばれました。参加していたのは東学から改称された天道教,キリスト教,仏教を代表するに運動家33名。起草したのは〈崔南善〉(チェナムソン;さいなんぜん,1890~1957)でした。
全国に広がるストライキやデモに対して朝鮮総督府は武力での鎮圧でのぞみ,同年6月には歩兵6個大隊が増派され,言論・集会の規制も強化されました。これを
,
三・一独立運
動
【本試験H16時期】
【本試験H7】
【早法H27[5]指定語句】
といいます。
これまでにない大規模な反乱に対し朝鮮総督府は,従来の強硬な姿勢を転換し,朝鮮人を日本文化に"同化"させることで,支配に対する不満をやわらげる方針をとります。〈斎藤実〉(さいとうまこと,位1919~27)総督の下,"内鮮融和"(日本と朝鮮の融和)が説かれるようになります。1922年の改正教育令では内鮮共学として日本語学習の時間が増やされ,1926年には京城帝国大学が設置されました。こういった政策を文化政治
【追H24皇民化政策ではない】
といいます。
また,言論・出版・集会・結社の規制がゆるめられ,社会運動も活発化。1925年に朝鮮共産党が結成されていましたが,こちらは弾圧されています。
この時期に三井系,日窒系などの日本企業が盛んに朝鮮に進出しています。また
,
シベリア出
兵
の際
に
米騒
動
が勃発したことを教訓とし,日本は1920年代に朝鮮の米作を品種改良・土地改良により奨励して米不足に備えようとしました。こ
の
産米増殖計
画
は,のちに世界恐慌の影響を受けるまで続けられ,生産高の約4割が日本向け輸出に振り向けられました(台湾でも同様の政策を行っています)。農業生産性が上昇し一部の地主が恩恵を受けた反面,貧しい農民の中には日本(1930年に29万8000人)や満洲(1930年に60万人)に出稼ぎに行く者もいました。日本における朝鮮人労働者の組織化も進んでいった一方,1923年の関東大震災では混乱の中で朝鮮人の殺害事件も起きています。
中華民国でもヴェルサイユ条約調印拒否運動とし
て
五・四運
動
が起きました。中国代表団は最終的に,結局調印を拒否しています
【本試験H26調印していない】
。
・
187
0
年
~
192
0
年のアジア 東アジア
現①
日本
◆
日本は,欧米の制度・文化を導入して近代化と中央集権化を図り,植民地化をまぬがれる
1867年
,
王政復古のクーデ
タ
により,維新政府は徳川幕府を滅ぼしました。しかし,統一軍隊の結成などをめぐり諸藩の対立は深まり,政府に批判的な〈
1871年に,新政府の首脳は,薩摩藩・長州藩・土佐藩の兵力を御親兵として上京させ
,
廃藩置
県
を断行しました。これにより,全国民を戸籍により一元的に支配する体制を作り上げました。一刻も早く不平等条約を改正し,欧米と対等な近代国家を建設するために,〈岩倉具視〉(いわくらともみ)を団長とす
る
岩倉使節
団
【セA H30】
がアメリカ合衆国とヨーロッパに向けて出発します。
「
文明開
化
」がスローガンとなり,中央集権国家を建設するために,インフラや法制度・教育制度が急ピッチで整えられていきました。
欧米への留学生も増加し,1871年には〈津田梅子〉がアメリカ合衆国への留学に旅立っています
【本試験H11リード文 1900年には女子英学塾を創設】
。
そんな中で1871年,宮古島の船が琉球王国に貢納に向かった帰りに漂流し,台湾に漂着し,そこで原住民に殺害されるとい
う
宮古島島民遭難事
件
【本試験H10「琉球人の殺害事件」】
が起きました。新政府が清に厳重抗議すると,清は「化外の地」(支配が及ばない地域)のことだからしょうがない,との回答。そこで日本は1874年に犯罪捜査などを理由に,台湾に出兵(警察ではなく軍)することを決定しました
(
台湾出
兵
)
【本試験
H
10】
【本試験H24時期(19世紀末)】
。
その間,新政府内部では,朝鮮半島に進出するかいなかをめぐ
る
征韓
論
で,対立が起きました。征韓論は封じ込まれましたが,石油などの資源の乏しい日本では,海外への領土拡大による発展を目指そうとする動きは今後も出ていきます。
1873年に〈西郷隆盛〉〈板垣退助〉〈江藤新平〉が一斉に下野。残った〈岩倉具視〉と〈大久保利通〉による政権は1873年に内務省の整備,1875年に千島樺太交換条約で国境問題を解決,同年には横浜からイギリス・フランス軍が撤退,1876年
に
日朝修好条
規
【本試験H3これに対し金玉均は反日クーデタを起こしていない】
で朝鮮王朝に不平等条約を認めさせました。
北方では,1875年にロシアの首都サンクトペテルブルク
で
樺太・千島交換条
約
が締結され
,
樺太の南半
分
はロシアに譲り
,
千島列
島
の全ては日本領となりました
【本試験H20時期】
。
琉球王
国
をどうするかについては,台湾出兵以降,話し合いが続けられていました。廃藩置県(はいはんちけん)
で
沖縄
県
【本試験H10】
【追H20日清戦争の結果ではない】
が設置されたことを,清はまだ認めていなかったことです。清はアメリカ前大統領の〈グラント〉(任1869~77,1822~85)に調停を求めたことから,日本の〈伊藤博文〉が日清交渉を始めます。日本側は宮古・八重山を中国へ引きわたす代わりに,清が日本に欧米並みの通商権を与えるという
「
分島・増約
案
」を提案し,清はこれに同意したものの,1881年の調印直前になり〈李鴻章〉(1823~1901)の意向で棚上げされ(分島問題),日清戦争にいたるまで曖昧な状態が続きました。
1876年には,小笠原諸島をイギリス・アメリカに日本領土であることを認めさせています。
しかし1876年から地租改正反対一揆が起こり,これと連動して熊本・秋月・萩で氏族の反乱が起きました。1877年には薩摩半島の士族が〈西郷隆盛〉の指導で反乱
(
西南戦
争
)を起こしましたが,鎮圧されます。
◆
日本はアジアの地域内貿易の繁栄と日清戦争の賠償金に支えられ産業革命を達成する
大阪の紡績業は「東洋のマンチェスター」に
この時期,イギリスの女性探検家・作家〈イザベラ=バード〉(1831~1904)は,1878年に東京から北海道にかけての地域を旅行しました。その著書『日本奥地紀行』は当時の習俗を生々しく書き残しています。
明治維新以前に諸藩で試みられていた産業技術の近代化が,政府の主導で大規模に行われていきました
(
殖産興
業
)。欧米から「お雇い外国人」という学者・技術者が,国費で招かれました。以前か
ら
綿
糸
生産はおこなわれていましたが,輸入綿糸の増加に対抗して明治政府は1878年に,本場イギリス
の
マンチェスタ
ー
からミュール紡績機を購入し官営工場を設立し,続々と民間に払い下げていきました。
とくに大阪(明治維新以降,大「坂」ではなく大「阪」と表記されるようになります)では,ヨーロッパの技術を取り入れた紡績業がさかんになっていました。1882年には,〈渋沢栄一〉(しぶさわえいいち,1840~1931)により,日本最初の蒸気力紡績会社であ
る
大阪紡績会
社
(現在の東洋紡)が設立されています。こうして大坂は
"
東洋のマンチェスタ
ー
"とうたわれるようになりました。
原料と製品の輸出入が盛んになるにつれ,海運業も発達していきます。1870年に〈岩崎彌太郎〉(いわさきやたろう)が九十九商会(後の三菱商会)を建て,当時の東アジアの海運を握っていた米国のPM社(パシフィック=メール=スティームシップ=カンパニー)に対抗し,1875年に日本~上海の定期便を就航。PM社の撤退後にも,イギリスのP&O社(ペニンスラー&オリエンタル=スティームナヴィゲーション=カンパニー)などが,インドのボンベイと日本を結ぶ航路を牛耳っていました。
郵便汽船三菱会社は,1885年に国内のライバル共同運輸会社と合併し
,
日本郵船会
社
に発展。 1893年には,ボンベイから綿糸の原料の綿花を輸入するため,神戸とインド
の
ボンベ
イ
を結ぶ航路を開通させています。インドで綿花を取り扱う民族資本であ
る
タタ商
会
が,「日本が定期航路に参入してくれたほうがイギリスによる独占が崩れ,運賃が安くなる」とし,日本を支援したのです
(⇒187
0~
192
0
のアジア 南アジア イン
ド
)
。
イギリスにとっても,インドの綿花が売れてくれたほうがインドが貿易黒字となり,インド政庁からイギリスに送金され
る
本国
費
(ほんごくひ)もアップするのでウハウハです。こうして,インドと日本で製造された綿糸は,中国市場をめぐって競争を繰り広げることになっていきます。
イギリスの経済的進出によっても
,
アジア地域内の貿易構
造
は崩壊したわけではなかったのです。植民地化された地域を含め,東アジア,東南アジア,南アジアの各地が,相互に依存し合いながら貿易関係を維持しました。インド人商人,中国人商人,大阪商人らが,香港・シンガポール・大坂・神戸などを拠点にさまざまな物資を取引します。
対外的には,日本は朝鮮をめぐり清と日清戦争(1894~95)を戦って,勝利を収めました。1895年4月の日清講和条約
(
下関条
約
)
【追H21ポーツマス条約ではない】
で,日本は台湾,遼東半島,澎湖(ほうこ)諸島を割譲されます。しかし,直後にドイツ,フランス,ロシアが遼東半島を清に返還するように要求
(
三国干
渉
)。その影響もあり,台湾の島民は同年5月
に
台湾民主
国
の樹立を宣言しましたが,南方を防衛していた
〈
沖縄では1898年に徴兵令が導入され,方言を使うことをやめさせたり,日本式の姓名に変更させたりしました。北海道では,1896年に徴兵令が導入され,1898年
に
北海道旧土人保護
法
により,アイヌ人を日本人に同化させるための政策が始まりました。
19世紀末にヨーロッパ列強による「中国分割」が始まる中,日清戦争の賠償金や遼東半島を返した際の代償金を元手に,極東に進出するロシアに対して軍事力が増強され,1897年に
は
義和団事
件
が起きると日本はイギリスから出兵するよう要請を受け,義和団を鎮圧するための連合軍に参加しました。イギリスは当
時
ボーア戦
争
のために余力がなく,アメリカもフィリピンの独立戦争鎮圧
(
◆
日本は大陸への進出を積極化させ,第一次世界大戦後にはオセアニアにも進出した
日本はユーラシア大陸東部,オセアニアに進出へ
ロシアの太平洋側への進出(南下)
【追H20アメリカ合衆国の東アジア進出ではない】
に対し,イギリスにとっての日本の地理的な重要性が高まり,1902年に
は
日英同
盟
【追H20】
が結ばれました。南アフリカ戦争で忙しかったイギリスは,日本にロシアの南下に対し対抗させようとしたのです。軍部は第一次〈桂太郎〉内閣に迫り,1904年御前会議(ごぜんかいぎ)で開戦が決定され,日本艦隊は仁川(じんせん,インチョン)にあったロシア軍艦を攻撃し,宣戦布告しました
。
日露戦
争
の結果,1905
年
ポーツマス条
約
が締結されました。内容は以下のようなものです。
・日本
は
韓国に対する指導・監督
権
【本試験H19】
を獲得
・日本は,旅順・大連ならびに付近の租借(そしゃく)権を獲得
・日本は,長春~旅順の間の鉄道・付属炭坑を獲得
・日本は
,
カラフ
ト(
樺
太
)
南部を獲得(もともとは樺太・千島交換条約でロシア領となっていました)
・日本は,ロシア沿海の漁業権を獲得
一方,日本は1910年にかけて,韓国(大韓帝国)の内政に干渉し,1910年
の
韓国併合条
約
を承認させて植民地化しました。同年に朝鮮総督府が置かれました。
こうして日本は,一気に帝国主義化を進めていきます。イギリスは韓国の保護権を認める代わりに,日英同盟の範囲をインド帝国にまで拡大しました(1905年
の
改正日英同
盟
)。これは,イギリスによるインドの植民地化を,日本も認めていたということです。アメリカも同様に,フィリピン支配を認める代わりに,韓国に対する優越権を認めてもらいます(1905年
の
桂=
タフト協
定
)。また,フランスのインドシナ支配を認め,中国の勢力圏を相互に認め合いました(1907年
の
日仏協
約
)。これを機に
,
ドンズ
ー(
東
遊)
運
動
【追H27】【明文H30記】
で留学中の独立運動家は国外追放の憂き目にあうことになります。
時同じくして,ドイツを包囲する必要に迫られたイギリス・フランスは互いに接近し1904年
に
英仏協
商
【追H18】
を結びます。
さらに1907年に
は
英露協
商
が結ばれ
,
チベッ
ト
(中国の宗主権を認めました)
・
アフガニスタ
ン
(イギリスの勢力圏としました)
・
カージャール
朝
(イギリスとロシアの勢力圏を決めました
(⇒1870~1920の西アジア)
)にかけての勢力圏が設定されました。
こうして別個に構築された英・仏・露
の
三国協
商
に加え,アメリカが満洲市場に参入するのに対抗するために,ロシアに接近し,1907年に第一
次
日露協
約
が結ばれました。両国は,1912年の第三次日露協約までに,満洲と外蒙古の勢力範囲を確定させていきました。しかし,それと同時に1907年には〈明治天皇〉に承認を受け
た
帝国国防方
針
で,陸軍はロシアを,海軍はアメリカを仮想敵国として軍拡が行われることになりました。海軍と陸軍は,互いに対抗しながら,より多くの予算を獲得するために対抗していくことになります。
◆
第一次世界大戦が勃発すると,日本は中国・山東半島とドイツ領の南洋諸島を占領した
日本の対外拡大を,大戦後にアメリカが警戒する
1914年に第一次世界大戦が勃発すると,日本はアジア・アフリカの市場に綿糸を,アメリカには生糸を輸出し,軍需物資もさかんに輸出しました。また
,
日英同
盟
【本試験H9「日英同盟にもとづいて参戦し」】
【本試験H27】
を理由に1914年8月にドイツに戦線し,ドイツの租借してい
た
山東半
島
【本試験H9,
本試験H12】
の
青
島
(チンタオ)
【本試験H9】
を占領しました。また,日本は,ドイツの領有していた赤道以北
の
マーシャル諸
島
【本試験H20フランスの領有ではない,本試験H26】
などドイツ
領
南洋諸
島
【本試験H18時期キール軍港での水兵反乱の後ではない・本試験H24】
も占領しました。イギリスの要請で日本軍艦が地中海の船団の護衛にもあたっています。
日本が南洋諸島に進出すれば,アメリカ領であるグアムやフィリピンと本土との間にジャマが入ることになります。それに加え,南洋諸島に生息す
る
アホウド
リ
などの海鳥からは,ヨーロッパ向け輸出用の婦人帽の羽飾り・剥製,それにリンや窒素がとれる糞
(
グァ
ノ
)がとれたことも,日米の摩擦を生む原因となっていきます。
ヨーロッパが戦場になっているすきに,日本
【追H21ロシアではない】
の第二次〈大隈重信〉内閣は1915年に〈袁世凱〉
【追H21】
に対し
て
二十一カ条の要
求
【追H19,H21】
を承認させました。大戦中には日本各地にドイツ人捕虜の収容所が建設され,一部では徳島で〈ベートーヴェン〉の交響曲第九番が日本で初めて演奏されたように一般市民との交流も行われました
【本試験H27リード文】
(注)
。
戦後
の
ヴェルサイユ条
約
により,日本
【本試験H5】
は山東半島と南洋諸島
【本試験H5】
の権益をドイツから継承しました。
1919年には,アメリカ合衆国の〈ウィルソン〉大統領のうたった民族自決に刺激された朝鮮で
の
三・一独立運
動
【本試験H16時期】
を弾圧し,中華民国でもヴェルサイユ条約調印拒否運動であ
る
五・四運
動
が起きました。中国代表団は結局調印を拒否しました
【本試験H26調印していない】
。
なお,第二次ロシア革命の勃発を受け,日本はアメリカ,イギリス,フランス,イタリア,カナダ,中華民国とともに
,
シベリ
ア
に
出
兵
し,日本は,石油産地である北樺太
(
南樺
太
は日露戦争で獲得していました)
や
沿海
州
は占領しました。ロシア帝国が滅ぼされたことで,北東アジアに支配圏を広げるチャンスと考えたのです。しかし
,
ソヴィエ
ト=
ロシ
ア
(のちソ連)がロシア帝国の領土をほとんど受け継いだため,ロシア革命の残党
(
白
軍
【慶文H30】
)とソヴィエト軍(赤軍)を巻き込んだ戦闘が続きました
(
シベリア出
兵
,1918~22)。これにより軍事物資となった米を買い占める商人が現れたため,全国各地
で
米騒
動
が起こりました。1920年には沿海州のアムール川河口のニコライエフスク(尼港(にこう))に駐屯していた日本人や現地住民が,ソヴィエト側についた集団により虐殺される事件も起きています(尼港(にこう)事件)。
(注)講和条約の締結後、1920年1月までに捕虜は母国へと出港しました。ドイツ館史料研究会編『「どこにいようと そこがドイツだ」―板東俘虜収容所入門(第4版)』鳴門市ドイツ館、2017年、p.121。
○187
0
年
~
192
0
年のアジア 東南アジア
東南アジ
ア
...①ヴェトナム,②フィリピン,③ブルネイ,④東ティモール,⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア,⑧カンボジア,⑨ラオス,⑩タイ,⑪ミャンマー
◆
西欧は原料供給地・市場として植民地の支配を強化し,インフラへの投資も盛んになった
現地エリート層が成長し,民族運動の母体となる
アジア間交易が盛んになり,英領シンガポールは中核に
1876年,イギリス人の〈ウィックハム〉〔ウィッカム〕がブラジルから天然ゴムの種の密輸に成功し,東南アジアでゴムノキの栽培が始まりました
(注
)
。
1888年にスコットランド人〈ダンロップ〉
が
空気入りタイ
ヤ
を発明したことで,需要が一気に増加し,自動車の普及がそれに拍車をかけました。ゴムにかぎらず,この時期の東南アジアでは,輸出用の一次産品の生産が急増しました。例え
ば
石
油
分野の開発も進み,イギリス資本のシェル(貝殻マークで有名)とオランダ資本のロイヤル=ダッチが,アメリカ資本
の
スタンダー
ド=
オイ
ル
に対抗するために合併し,1907年
に
ロイヤ
ル=
ダッ
チ=
シェ
ル
社となり,ほぼ独占状態となります。
19世紀後半には,ヨーロッパとアジアや,東南アジアの主要都市を結
ぶ
蒸気
船
の定期航路,それに各地
に
鉄
道
,
電
信
・
電
話
設備
,
学校教育制
度
も整備されるようになります。
また,植民地当局の人口調査により,民族・人種の分布が調べ上げられ,それを元に一部の民族・人種が優遇され,彼らの中か
ら
植民地エリート
層
が形成されていきます。彼らの中からはイギリス,オランダ,スペインといった宗主国の高等教育機関に,子どもを留学させる者も登場するようになり,西欧的な思想に影響されて民族意識を高め,植民地からの独立運動に加わる者も現れるようになっていきます
【大阪H30論述:植民地における民族・人種的分類に基づく人口調査が,東南アジアの植民地経営やのちの政治的動向に与えた影響を論じる。民族・人種分布の把握は分割統治に役立ち,植民地の社会を支配・被支配関係に分断させた。優遇され支配層に位置づけられた民族・人種からは,現地エリート層が形成され,植民地独立運動の指導者となる一方,独立後の民族・人種問題につながった】
。
(注)
〈チャールズ・マン〉はこの行為を
「
バイオパイラシ
ー
」と呼んでいます。バイオパラシーとは,「生物資源の盗賊行為。主に先進国が途上国の豊かな生物資源や遺伝資源,古くから伝わる薬草などの伝統知識を利用し,医薬品や食品開発を通じて利益を独占する行為を指す。」(デジタル大辞泉)。世界の一体化が加速するに従い,世界の植生の人為的な変化も大きくなっていきます
。
・
187
0
年
~
192
0
年の東南アジア
現①
ヴェトナム
◆
ヴェトナムの民族主義者は日本をモデルとした近代化を目指すが,日仏協約により挫折する
フランスの植民地化を受け,民族意識高まる
ヴェトナムでは,フランスによる植民地化がさらに続き,1883年と1884年の両年に結ばれ
た
ユエ条
約
【慶文H30記】
で
ヴェトナムを保護国
化
しました。
それに対し,ヴェトナム人と宗主国中国の反発が起き,1884年
に
清仏戦
争
(1884~85)
【本試験H3フランスはこのとき阮朝を倒してラオスを獲得したわけではない,本試験H10 時期:1850~60年代ではない】
が始まります。
しかし,フランス海軍は清の海軍を各地で撃破し,1885年にフランス公使〈パトノートル〉との間
で
天津条
約
【慶商A H30記】
が結ばれました。
1880年代までに編成された広東水師・福建水師・北洋水師は当時のアジア最強の艦隊でしたが、このうち清仏戦争で福建水師は壊滅。しかし、全局においては互角であったといいます
(注)
。
こうし
て
阮
朝
ヴェトナムは,カンボジアとともにフランスの保護国
(
フランス領インドシ
ナ
【本試験H3】
)となったほか,フランスは中国南西部の通商特権・鉄道敷設権を獲得しました。
のち
に
ラオ
ス
【本試験H3清仏戦争のときに獲得したのではない】
も,フランス領インドシナに併合されています。
フランスは,メコン川下流域の米を国際市場に輸出し,中南部では天然ゴムのプランテーションも展開されました
。
サイゴ
ン
には,ホテルやオペラ座,官公庁といったフランス風の建物が建てられました。植民地にみられる,こうした宗主国っぽい様式のことを,"コロニアル様式"といいます。
フランスの植民地化が進んだフランスでは,民族的な自覚も高まり
〈
ファ
ン=
ボ
イ=
チャ
ウ
〉(1867~1940)
【本試験H10】
【本試験H14孫文ではない】
【追H20】
が
維新
会
【本試験H10】
【本試験H14】
を結成して,
明治維新を達成した日本を模範にしよう日本に留学生を送る
【追H20
】
東
遊(
ドンズ
ー)
運
動
【明文H30記】
が起こりました。「遊」というのは「遊ぶ」という意味ではなく,「学ぶ」という意味。
〈ファン=ボイ=チャウ〉の向かった横浜には,当時は清
の
戊
戌
(ぼじゅつ
)
の政
変
で国を追われていた〈梁啓超〉(りょうけいちょう)がいて,
〈
大隈重
信
〉(おおくましげのぶ)や
〈
犬養
毅
〉(いぬかいつよし)と引き合わせてもらいます。
当時の日本では,アジア人がまとまってヨーロッパ勢力を追いだそうという思想を持つ人々
(
アジア主
義
者)の活動も盛んで,清に対する革命運動を目指していた中国人のために東京同文書院などの学校への留学を支援していました。〈ファン〉は日本滞在時に『ヴェトナム亡国史』を著しています。
同じようにヴェトナム人も日本に留学させようという支援の輪が広がり,〈ファン=ボイ=チャウ〉はヴェトナムの青年に向けて日本留学を働きかけると,約200名のヴェトナム人青年が参加。軍事教練も含めた教育体制が整えられました。
しかし1907年に日本とフランスとの間
に
日仏協
約
が結ばれると,事態は激変。フランスからの圧力を受け1908年に日本にいた留学生は日本政府に取締りを受け,下火になってしまいました
。
〈ファン=ボイ=チャウ〉やヴェトナム皇族〈クォン=デ〉(1882~1951)は,なんとか日本滞在を延長させようと模索。静岡県の現・袋井市浅羽の医師〈浅羽佐喜太郎〉(あさばさきたろう,1867~1910)の支援を得ますが,1909年に出国を余儀なくされました
(注2)
。
その頃,ヴェトナムでは
〈
ファ
ン=
チュ
ー=
チ
ン
〉(1872~1926)が,ヴェトナム語をローマ字で表記する「国語
(
クォッ
ク=
グ
ー
)」の普及や,近代的な思想・技術の教育を行う運動(維新運動)を指導しました。ヴェトナム語には声調がありますから,英語に補助的な記号を用いて発音を示します。たとえば,「ありがとう」という意味の「カムオンバン」は,「
cả
m
ơ
n
bạ
n」のように表記します。
1907年にはハノイ
に
東京義
塾
(トンキンギアトゥック)をひらいてヴェトナムの発展のために尽くしました。
その後もフランスによるヴェトナム民族運動への弾圧は続き,表現の自由は守られませんでした。また,第一次世界大戦では,ヴェトナムも5万の兵をヨーロッパに送り,不満も高まりました。
1912年には〈ファン=ボイ=チャウ〉らによ
り
ヴェトナム光復
会
【東京H21[3]】
という秘密結社がつくられ,反フランスの共和政国家の建設をめざす運動を展開しますが,弾圧の末,20年代半ばには消滅することになります。
(注1)神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.211。高橋孝助「中華帝国の近代化と再編」(歴史学研究会編 講座世界史3『民族と国家―自覚と抵抗』東京大学出版会、1995年)を引いて。
(注2) 浅羽佐喜太郎について,静岡県袋井市ウェブサイト,
http://www.city.fukuroi.shizuoka.jp/kanko_bunka/bunka/ijin/1425447016973.html
。
・
187
0
年
~
192
0
年の東南アジア
現②
フィリピン
フィリピン独立戦争は失敗し,アメリカ支配下に
スペイ
ン
【本試験H11:宗主国を問う】
が支配してい
た
フィリピ
ン
では,1880年の有産階級の息子を中心に,スペイン留学がブームになりました。異国の地でフィリピン人としての意識を強めた留学生たちは,故郷フィリピンの改革運動を推進していくようになります。
サトウキビのプランテーション業者の子として生まれた
〈
ホ
セ=
リサー
ル
〉(1861~1896)
【本試験H27】
は1887年『ノリ=メ=タンヘレ(私に触るな)』という小説で,スペインの大土地所有者として君臨していた修道会を批判し,フィリピン人に衝撃を与えました。「修道会による大土地所有は当たり前」「スペイン人による支配はどうにもならない」と感じていたフィリピン人に,社会改革を目指す意識が芽生えるようになったのです。
身の危険をかえりみず〈リサール〉は1892年帰国すると,フィリピン民族同盟を結成。しかしその4日後に,反逆罪でフィリピン南部のミンダナオ島に流刑になってしまいました。ともかく,その後に続く民族運動の基盤は,こうして〈リサール〉によって準備されたのです。
〈リサール〉の逮捕により,民族運動組織は秘密結
社
カティプーナ
ン
【慶商A H30記】
に発展。徐々に会員を増やしたカティプーナンでしたが,1896年に存在が明るみに出ると,3万人の会員は義勇軍を組織し,フィリピン革命の火の手が上がりました。いくつかの州ではスペインから解放されましたが,スペインからの援軍により1896年に〈リサール〉は処刑され,都市の急進主義者に支持を持つ創立者
〈
ボニファシ
オ
〉(1763~1838)と,大土地所有者のグループに属する会員
〈
アギナル
ド
〉(1869~1964)
【セA H30】
【本試験H2マラッカの人物ではない,本試験H10スペイン及びアメリカに対する独立運動の指導者ではない,シモン=ボリバルとのひっかけ】
との間に主導権争いが勃発。〈アギナルド〉の命令で1897年に〈ボニファシオ〉は銃殺されました。
1897年に革命政府はスペインと和平を結び,〈アギナルド〉は香港に亡命しましたが,その後も戦闘は継続していました。なんと,そこに介入してきたのがアメリカ合衆国です。アメリカは1898年にスペインとの戦争
(
米西戦
争
【追H9米西戦争の結果,フィリピンがアメリカ合衆国に領有されたか問う】
)を開始し,フィリピンでは〈アギナルド〉側を支援。
〈
アギナル
ド
〉
【上智法(法律)他H30】
は同年に革命政府の首都ブラカン州マロロス町に議会を設置し,1899年には憲法(マロロス憲法)を制定
。
フィリピン共和
国(
マロロス共和国;フィリピン第一共和
国
)
【上智法(法律)他H30】
が建てて,初代大統領に就任。
しかし,すでにアメリカはスペインとの戦争に勝利し、パリ条約(1898)によりフィリピンの領有権を獲得していたのです
【H30共通テスト試行 「アメリカとスペインが戦争し、スペインが敗れたが、その後は今度はアメリカと「自由のために」戦わざるをえなくなったという」趣旨の文章中の空欄に「アメリカ合衆国」と「スペイン」を当てはめる問題(「フィリピン人」(フィリピンの志士の一人)が自国の境遇について話しているくだりであるから、ロシア・日本、スペイン・清国、日本・清国は当てはまらない(資料中の前半部に、清国に関する記述があるため、それに引きずられると誤答となってしまう))】
。
ここで〈アギナルド〉のフィリピン共和国と日本との関わりについてもでみておきましょう。
〈アギナルド〉大統領は1898年に、腹心の〈ポンセ〉を日本に派遣。〈大隈重信〉(1838~1922)らの大物政治家らと親交を結びますが、〈青木周蔵〉外相(1844~1914)はアメリカ合衆国との関係の手前、深入りすることを懸念。しかし参謀総長〈川上操六〉(かわかみそうろく、1848~1899)を中心に、〈宮崎滔天〉(みやざきとうてん、1871~1922)らアジア主義者は裏ルートでフィリピンの革命政府に軍事支援をしようとしました。しかし武器を積んだ船は、東シナ海で沈没(布引丸事件)。〈宮崎滔天〉らによるフィリピン独立支援の夢はついえました(〈宮崎滔天〉はこのことについて自著『三十三年之夢』に記しています
【H30共通テスト試行 史料として出題される】
)。 なお、その後も新体詩運動の先駆者〈山田美妙〉(やまだびみょう、1868~1910)が〈アギナルド〉の伝記を出版するなど、日本の知識人の中にはフィリピンに熱い視線を送るものも少なくありませんでした。
1899年にアメリカはフィリピン共和国との戦闘を開始。1899~1902年にわた
る
米比戦
争
がはじまります。激しいゲリラ戦の中で、1901年に〈アギナルド〉は捕虜となり、フィリピンはアメリカの植民地に
【H30共通テスト試行 「スペインが去ったらこんどはアメリカ合衆国のために「隷属を強いられんとは」「いずくんぞ知らん」(誰が予想できただろうか)」という文章から、「隷属を強いられん」の意味が「植民地として統治される」であることを類推する問題(不平等条約で関税自主権を失う、アパルトヘイトによって差別される、大国の委任統治領とされる―いずれも無関係)】
。アメリカにとってフィリピンは,ロシアの南下に対応するための基地としても外すことができなかったのです。
フィリピンの植民地としての地位は、1905年に
桂タフト協定
の中で日本政府との間にも確認されました。
アメリカの支配下では,しだいに自治が認められたものの,アメリカ合衆国との自由貿易体制が作られ,サトウキビとマニラ麻
の
モノカルチャー経
済
がさらに進みました。英語による教育が導入され,アメリカ文化が浸透し,アメリカ製品の格好の市場になっていきました。一方で,強い影響力を持っていたカトリック教会による宗教教育は,そのまま重視されました。
一方で,キリスト教徒ではないイスラーム教徒
「
モ
ロ
」と区別され,植民地当局によって厄介者扱いされました。フィリピン南部
の
ミンダナオ
島
や,ミンダナオ島から南西のボルネオ島に向かってスールー諸島はイスラーム教徒の多く分布する地域であり,彼らを
「
フィリピン
人
」としてまとめて支配しようとすれば,そりゃあ問題が起きるのはあたりまえです。キリスト教徒のフィリピン人などを支配者につけたことで新たな混乱も起き,反政府運動がしばしば起きました
【大阪H30論述:植民地における民族・人種的分類に基づく人口調査が,東南アジアの植民地経営やのちの政治的動向に与えた影響を論じる。民族・人種分布の把握は分割統治に役立ち,植民地の社会を支配・被支配関係に分断させた。優遇され支配層に位置づけられた民族・人種からは,現地エリート層が形成され,植民地独立運動の指導者となる一方,独立後の民族・人種問題につながった】
。
・
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0
年
~
192
0
年の東南アジア 現③ブルネイ
ブルネイ含むボルネオ北部はイギリスの保護下に
ここでは,現在のブルネイを含むボルネオ島の北部周辺について見ていきましょう。
ブルネイ
ブルネイはイスラーム教徒のスルタンが支配する王国でした
(「スルターン」はスンナ派の政治権力者、君主に与えられた称号ですが、「スルタン」(長母音ではない)は東南アジアの島々がイスラーム化するプロセスで、在地の君主が王権の正統性を強めるために名乗ったものです。大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』「スルタン」の項目、岩波書店、2002年、p.544)。
。
サラワクとサ
バ
(現在のマレーシア)
ブルネイ周辺のサラワクとサバには多様な民族が居住していました。
たとえばサバの最大民族ドゥスン人は非ムスリム。ほかにムラト人も非ムスリムです。ほかに農業・商業・漁業に従事するバジャワ人などのマレー系の移民がいま
す
(
注1)
。
サラワクもサバもブルネイ王国が支配していましたが,14~16世紀に栄えた後,王国内の紛争にヨーロッパ勢力が介入して衰退。
19世紀前半に住民の反乱が起きると,ブルネイ王国のスルタンは鎮圧をイギリスの探検家に依頼。その功績をたたえてイギリス人の〈ジェームズ=ブルック〉にサラワク地方のラージャ(藩王)に任命していました。"白人の支配するイスラーム教の立憲君主国"という特異な国家です。
このサラワク王国ではこの時代にはその子〈チャールズ・ブルック〉 (位1867~1917) ,さらに第3代 〈ヴァイナー・ブルック〉(位1917~1946)に王位が継承されます。
その間1888年にこのサラワク王国は,すでに1877~78年にブルネイとスールーのスルターンから北ボルネオ会社に割譲されてい
た
サ
バ
(「北ボルネオ」。ボルネオ島の北端周辺),さら
に
ブルネイ王
国
と合わせ,イギリスの保護領
〔
イギリス領北ボルネ
オ
〕となりました。ただし,その後もサバの統治は北ボルネオ会社に任されていまし
た
(
注2)
。
現在では「サラワク」と「サバ」はともにマレーシアの一部となっていますが,もとを辿れば社会的にまったく異なる地域だったので
す
(
注3)
。
サバでは1912年に立法審議会が設立されますが,参加できたのは北ボルネオ会社の幹部と,大農園を所有していた中国人に限定されたものでし
た
(
注4)
。
(注1)田村慶子「マレーシア連邦における国家統一―サバ,サラワクを中心として」『アジア研究』35(1), pp.1-44, 1988年10月,p.5。
(注2)田村慶子「マレーシア連邦における国家統一―サバ,サラワクを中心として」『アジア研究』35(1), pp.1-44, 1988年10月,p.4。
(注3)田村慶子「マレーシア連邦における国家統一―サバ,サラワクを中心として」『アジア研究』35(1), pp.1-44, 1988年10月,p.1。
(注4)田村慶子「マレーシア連邦における国家統一―サバ,サラワクを中心として」『アジア研究』35(1), pp.1-44, 1988年10月,pp.4-5。
・
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年
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192
0
年の東南アジア 現④東ティモール
東西ティモールの国境線が蘭・葡により決められる
オランダとポルトガル間で東西に分けられていたティモール島について、1904年に新たにポルトガル=オランダ条約が結ばれ、国境が直線的に惹かれることとなりました。この国境線は第一次世界大戦前に確定し、今日のインドネシアと東ティモールとの国境線のベースとなります。
・
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年
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192
0
年の東南アジア
現⑤
インドネシア
,⑥
シンガポール
,⑦
マレーシア
シンガポールは「アジア間交易」のハブに発展へ
この時期には,イギリス帝国の提供する国際公共財や,インドと日本の綿紡績業の発展を背景に,アジア各地を綿製品や消費財が結ぶ「アジア間交易」が活況を呈します。
シンガポールはイギリスの直轄植民地であり,自由貿易港として「アジア間交易」のハブとして発展していきます。
スマトラ島では,1873年から
アチェ王国
とオランダとの戦争が始まりました。1903にオランダはスルタンを廃位しましたが,ウラマーの指導による戦闘は1912年まで続きました。パレンバンは1823年に,ジャンビ王国は1901年にスルタン制が廃止され,オランダの直接統治下に置かれました。
20世紀初頭には
バリ島
も支配下に置かれ,1910年代には,インドネシアの原型にあた
る
オランダ領東イン
ド
が完成しました。
植民地の完成に対し,住民の側からの抵抗運動も始まっていきました。「インドネシア」という呼び名も,この時期に「東インド」に対抗して掲げられたのです。すでに,19世紀末に中部ジャワでは農民
〈
サミ
ン
〉(?~1914)が農民らを指導として,自給自足の理想の農民世界の樹立を訴え,植民地政庁に抵抗する運動が置きていました
(
サミン運
動
)。本格的な民族運動は,1908年
の
ブデ
ィ=
ウトモ
(至高の徳という意味)が原点です。その後,1911年にジャワで結成され
た
サレカッ
ト=
イスラ
ム
(イスラム同盟)
【追H28イランではない】
【本試験H6】
【本試験H14時期,本試験H30バングラデシュではない, H29共通テスト試行 バルフォア宣言・フサイン=マクマホン協定とは無関係】
は,「イスラーム」による助け合いを説き,ジャワで急速に支持者を増やしました。当時は「インドネシア」を旗印にするよりも「イスラーム」を掲げたほうが,一致団結しやすかったのです。はじめはインドネシアの経済を牛耳ってい
る
華
僑
(中国系商人)
【本試験H17 ヨーロッパに植民地化された後,中国から移住し労働に従事する者が途絶えたというのは誤り】
に対する運動でしたが,1912年に〈チョクロアミノト〉(1882~1935)が主導権を握ると急拡大し,しだいに反オランダ的な団体に変化していきました。
こうした動きに対してオランダは,
「
倫理政
策
」といって「白人として,キリスト教徒として,われわれオランダ人の文明を,遅れた"野蛮"な東インドに与えるべきである」という政策をとるようになりました。住民の福祉
や
教
育
水準をアップさせることで,不満を封じ込めようとしたのです。西洋式の教育を受けたジャワの
〈
カルティ
ニ
〉(女性,1879~1904)は,ジャワ人としてのアイデンティティを持つことの大切さや,女性教育の重要性を主張しました。
「私たちはよく,ジャワ人よりも心はオランダ人に近いと言われます。そういう批判は心を痛めます! 私たちは西洋の思想や感覚に影響されているかもしれませんが,私たちの血,私たちの血管の中を熱く流れているジャワの血は消すことが出来ません。」(1901年の手紙)
彼らはやがて本格的な独立運動の指導者になっていくことになります
【本試験H11リード文に舟知恵・松田まゆみ訳『民族意識の母カルティニ』が使用】
。
一方、マレー半島では,ペナン・マラッカ・シンガポールの3拠点を統合した「海峡植民地」が、1867年以降
イギリス
【本試験H25フランスではない】
の植民地省の直接統治下(「Crown colony」(王冠植民地)という地位)に置かれていました。植民地省の下に海峡植民地総督が置かれ、それを行政評議会と立法評議会が補佐する大勢です
(注1)
。なおこの時期のシンガポールではすでに中国人人口が最も多く、中国人移民の保護を目的にした中国人保護局が設立されています
(注2)
。民族別に居住区が指定されていた名残は、今日のシンガポールの街区に「チャイナ・タウン」「リトル・インディア」「マレー街」「ブギス街」といった民族名が付けられたところに見られます。要するに分割統治です
(注3)
。一方で、ヨーロッパ人の新居住地として内陸の果樹園地帯が開発され(現在のオーチャード通り)、さらにシンガポール島東部のカトン一帯に中国人居住地が開発され、1850年代に、シンガポール島南端を起点とする放射線状の幹線道路が建設されていきました。シンガポールの現在の街づくりの起点は、イギリス植民地時代にあったのです
(注4)
。
経済発展の影では、日本(特に長崎の島原や熊本の天草を中心とする九州西部)からわたった日本女性が売春婦(
からゆきさん
)としてわたった例もありました。第一次世界大戦が終わると、シンガポール在住の日本人商社員などからの批判が出て、1920年に日本領事館が彼女たちの追放を決定しています
(注5)
。
この時期になると、イギリ
ス
海峡植民
地
の総督はさらに一歩進んで、ペラ,スランゴール,パハンのスルタンと,ヌグリスンビランの6人のムラユ人首長に各国内の権限を保障する代わりに,イギリスの保護下に置くという体制を作り上げていきました。
これ
を
マレー連合
州(
フェデレイティ
ド=
マレ
ー=
ステイ
ツ
)
【本試験H21】
といいます。首都
は
クアラルンプー
ル
です。The (Federated) Malay Statesの訳語ですので,マレー諸州のほうがよいかもしれません。
ジョホール
(注6)
や北部の3地域(クダ,クランタン,トレンガヌ)のように,これに参加しなかった地域
(
非連合
州
)も,20世紀初めには実質的にイギリスの支配下に組み込まれました。
こうして,海峡植民地(ペナン,マラッカ
,
シンガポー
ル
【本試験H2・本試験H11:1901年当時の宗主国を問う】
)+マレー連合州(フェデレイティド=マレー=ステイツ)+非連合州を合わせて
,
イギリス領マラ
ヤ
と呼びます。
イギリスは19世紀後半には,ボルネオ島にも支配圏を伸ばしました。
ブルネイ王に支配権を与えられたイギリスの冒険家〈ブルック〉が1841年以降王朝を開いてい
た
サラワ
ク
と,ブルネイ王国内
の
サ
バ
は北ボルネオ会社の支配下に入り,1888年にサバ,ブルネイ,サラワクは,すべてイギリス保護領になりました。
(注1) 岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.17。
(注2) 岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.18。
(注3) 岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.21。
(注4) 岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.22。
(注5) シンガポールの「からゆきさん」は1877年には14人、1903年には585人に達していました。岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.30。
(注6)1819年にイギリスはジョホール王からシンガポール島を獲得し、1824年に英蘭条約でマレー半島南部とスマトラ中部・リアウ諸島は分離されました。これが現在のマレーシアとインドネシアの国境線のベースです。ジョホール王はその後、上からの近代化をはかりながら政治的な独立を保ちますが、1909年にイギリス人の顧問官を受け入れ、政治の実権はイギリス人に渡すことになりました(現在は、連邦国家マレーシアを構成する州の一つです)。大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』「ジョホール王国」の項目、岩波書店、2002年、p.503。
・
187
0
年
~
192
0
年の東南アジア
現⑧
カンボジア
前の時代、カンボジア
【本試験H11:1901年時点の宗主国を問う】
国王〈ノロドム〉(1860~1904)は、シャムのチャクリ朝とヴェトナムの阮朝の干渉をブロックするために、フランス
【追H20アメリカではない】
に保護を求めていました。
しかし、フランスの干渉はエスカレートしていき、1884年にフランスのコーチシナ知事が、国王の地位を名ばかりのものにする条約の改定をせまりました。
拒否できなかった国王に対し反対運動も起きましたが、1884~1885年の阮朝をめぐる
清仏戦争
にフランスが勝利すると、1887年にはフランスの大統領によって
フランス領インドシナ
が形成されます。
フランス領インドシナは、主に①ヴェトナム北部のトンキンを保護領に、②ヴェトナム中部の阮朝を保護国にし、③ヴェトナム南部のコーチシナをフランスの直轄領としたもので、④カンボジア王国は保護国として一部に組み込まれてしまいました。
フランスは後継の国王として、〈ノロドム〉の息子ではなく、フランスに協力的な〈シソワット1世〉(位1904~1927)をサポートします。
・
187
0
年
~
192
0
年の東南アジア
現⑨
ラオス
ラオ
ス
【京都H19[2]】
では,ラーンサーン王国の分裂後,北部には
ルアンパバーン王国
、南部には
チャンパーサック王国
が並び立っていました。
この複雑な状況がフランスによる植民地化に有利に働き,1899年
に
フラン
ス
【追H20ポルトガルではない
】
領インドシナに併
合
されました。
国王の名目的な支配は残されましたが,フランス植民地省の管轄下に置かれています。
・
187
0
年
~
192
0
年の東南アジア
現⑩
タイ
シャ
ム
では
〈
ラーマ5
世
〉(チュラロンコン大王,位1868~1910)
【東京H27[3]】
【慶商A H30記】
が,近代化政策を進めました。インド側のイギリスと,インドシナ半島側のフランスに挟まれた緩衝地帯であったため
【慶商A H30記述(独立維持の理由を「緩衝」という語句を用いて)】
,国境付近の領土を英仏に割譲しながらも独立を守ることができました
【追H20フランスの植民地ではない】
。
王に謁見(えっけん)するときにひれ伏すなどの伝統的な儀礼や奴隷制を廃止し,外国人顧問を雇い西ヨーロッパの制度を参考にして鉄道・電信・郵便・司法・行政・教育などを刷新しました。
国王がバンコクに創設した学校は1917年にはチュラーロンコーン大学に発展しています。
・
187
0
年
~
192
0
年の東南アジア
現⑪
ミャンマ
ー
(ビルマ)
コンバウン朝
【本試験H3タウングー朝ではない】
のビルマでは,1885年
の
第三次ビルマ戦
争
【京都H19[2]】【東京H23[3]ビルマ戦争が3次まであったか問う】
【本試験H10「ビルマ戦争(1885年)で勝利したイギリスは不平等条約をビルマに強要した」か問う】
【上智法(法律)他H30スマトラ島の王国ではない】
で,イラワジ川上流部(上ビルマ)もイギリス
【本試験H3】
に併合され
,
コンバウン朝ビル
マ
は滅亡し
【本試験H3】
【東京H23[3]「1947年まで存続した」わけではない】
,1886年にイギリス
【本試験H11:1901年時点の宗主国を問う】
領
インド帝
国
の1州として併合されました
【本試験H17フランスに併合されたのではない】
。国王夫妻はインドのボンベイに流され,そこで亡くなりました。
○187
0
年
~
192
0
年のアジア 西アジア
西アジ
ア
...①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
187
0
年
~
192
0
年のアジア 西アジア
◆
オスマン帝国は英仏などの経済的支配下に置かれ,ドイツに接近して第一次大戦に敗れる
オスマン帝国の英仏への経済的従属進む
オスマン帝国のエジプト総督〈イスマーイール〉
(位1863~67,1867~79までは「
ついに1875年に
は
スエズ運河会社の株式はオスマン帝
国
【追H24「財政がほぼ破綻していたトルコ」
】
からイギリ
ス
【追H24
】
に売
却
されました。アメリカ合衆国の南北戦争(1861~65)以降上り調子だった綿花輸出量ものびなやみ,同年にはイギリス・フランスによって国家の財政が管理下におかれてしまいました。このピンチを救ったのが宰相の〈ミドハト=パシャ〉です。1876年
に
ミドハト憲
法
【東京H11[3]タンジマート後の推移を記述する,H20[1]指定語句】
【共通一次 平1:時系列(タンジマート,青年トルコ人革命との順)
】【
本試
験H
10日本の明治憲法を模範にしたわけではない(まだ明治憲法は制定されていない)】
【本試験H16時期(19世紀後半),本試験H29インドではない】
【追H18時期、H25アジア最初の憲法はイランの憲法ではない】
を発布し,二院制・責任内閣制を規定しました。
これはアジア史上初の憲法だったのですが,
〈
アブデュ
ル=
ハミト2
世
〉
【東京H15[3] 1883年に開業されたパリ発のオリエント急行の終着駅と,当時の元首を答える】
【本試験H30】
【立教文H28記】
が,露土戦争が起きたことを口実に,「戦争遂行のために指揮は自分がとるから宰相など必要ない」と,〈ミドハト=パシャ〉を辞めさせ,憲法を停止してしまいます。
これに抗議したのが
,
統一と進歩委員
会
(ヨーロッパ諸国では「青年イタリア」などにならって
「
青年トル
コ
」と呼ばれました)というグループです。
ヨーロッパ諸国の経済的な進出も強まります。1881年にはオスマン債務管理局が設立され,オスマン帝国の財政はイギリス,オランダ,フランス,ドイツ,イタリア,オーストリアとオスマン銀行による委員会に管理され,オスマン帝国は徴税の自由を失いました。借金を返済させるためにオスマン帝国の税金のとり方にまで干渉したのです
【本試験H12「(1871~79年前後の時期の)スエズ運河の建設やその株式の保有をめぐって,ドイツによる財務の管理を受けるようになった」か問う。管理したから「イギリスとフランス」だから「誤り」とのことだが,委員会にはドイツも参加していたので,この選択肢は正答となり,解答不能か】
。
さて,アジアの一つである日本が,オスマン帝国と"共通の敵"であるロシアに勝利(1905~06年日露戦争)した知らせに刺激を受け,オスマン帝国
の
統一と進歩委員
会
(青年トルコ)は,1908年
に
青年トルコ人革
命
【共通一次 平1:タンジマート,ミドハト憲法との時系列を問う】
【早・法H31】
を起こします。
〈
エンヴェ
ル=
パシ
ャ
〉(1881~1922)を指導者とし
て
ミドハト憲法を復
活
【早・法H31】
し,立憲君主制となりました。
日本が立憲君主制となったのは1889年の大日本帝国憲法ですから,19年遅れをとったということになります
【本試験H10ただし,ミドハト憲法は大日本帝国憲法にならって制定されたわけではない】
。
〈エンヴェル=パシャ〉は三頭政治をとって政治の表舞台には現れず,オスマン帝国の官僚層はそのまま残されます。その間〈エンヴェル〉は1909年からドイツにベルリン駐在武官として赴任。熱烈なドイツ支持者となって帰国します。
ちなみに,このとき〈アブデュル=ハミト2世〉は「ミドハト憲法を停止した」という悪行があるわけですから,議会で廃位
【早・法H31】
が決議されました。皇帝(スルターン)が廃止されたわけではありませんが,彼の弟〈メフメト6世〉は,オスマン帝国最後の皇帝(スルターン)に,彼の従弟は最後のカリフとなりました。
青年トルコは,「オスマン人」として多民族を支配しようとするオスマン帝国の指導者に反発し,「トルコ人」中心の近代的な国家をつくろうとしました。それに対し
て
アラブ
人
からは
,
アラブ民族主
義
に基づく運動が起こっていきます。各地にアラブ人の独立を目指す組織がつくられ,第一次世界大戦中にはイギリスがアラブ人に接近し,オスマン帝国を内側から崩壊させる作戦をとりました。
なお,青年トルコ革命の混乱の最中に
,
ブルガリ
ア
がオスマン帝国
【本試験H18オーストリア=ハンガリー二重帝国ではない】
から独立しました
【本試験H18,本試験H27】
。
187
0
年
~
192
0
年のアジア 西アジア
◆
オスマン帝国は中央アジアのテュルク系民族との提携をねらうも,失敗に終わる
エンヴェルのパ
ン=
テュルク主義,ケマルの西欧主義
1911年に現在のリビアをめぐ
る
トル
コ=
イタリア戦
争
に敗北し,1912年に
は
第一次バルカン戦
争
でも敗北。負け続きのオスマン帝国に対し〈エンヴェル=パシャ〉は1913年にクーデタを起こし,独裁権力を掌握。同年にはオスマン帝国のスルターンの娘と婚約,1914年に結婚し,権威付けもバッチリです。
しかし戦局は思うようにいかず,〈エンヴェル=パシャ〉は中央アジアのトルコ人との提携により,ロシアの挟み撃ちを狙うとい
う
パ
ン=
テュルク主
義
にもとづく壮大なプランを計画。もともと「トルコ人だけでまとまろう」という考え方は,クリミア=タタール人〈ギョクアルプ〉(1851~1914)によって主張されていたものです
(注
)
。
(注)『週刊朝日百科 世界の歴史』朝日新聞社,1991,p.B-709
中央アジアでは1917年のロシア革命後には革命ロシアの進出が本格化。タタール人やアゼルバイジャン〔アゼリー〕人,ウズベク人,バシキール人などによる独立運動の動きは活発化しますが,どのようにまとまるか,どのように独立するかをめぐって,統一的にすすめることは困難でした。
やがてテュルク人の民族運動も,ロシアの社会主義の影響を受けるようになり,〈スルターンガリエフ〉(1882~1940)をはじめとするタタール人の社会主義者が活躍しますが,民族主義的な要素と社会主義的な要素の両立も困難でした。のち〈エンヴェル〉(1881~1922)は,大戦中に成立したソ連に抵抗する運動に加わっていたところ,暗殺されています。
一方,西ヨーロッパ的な教育の影響を強く受けていた〈ムスタファ=ケマル〉は,大戦中か
ら
アンカ
ラ
を中心に連合国への抵抗運動をスタートさせていました。
彼は,「もうオスマン帝国のスルターンにはまかせられない。〈エンヴェル〉のいう「パン=テュルク主義」も非現実的だ。アナトリア半島のテュルク人だけで,西欧を見習って強い近代的国家を建設しよう」と呼びかけます。
こうして〈ケマル〉は,ユーラシア大陸に広がるテュルク人の世界とは別個に,アナトリア半島だけで西欧的な近代国家を建設していくことになるのです。
その実現のために解決すべき問題としては,①連合国との交渉を有利に進めること,②混乱に乗じてアナトリア半島に進出したギリシアを追い払うこと,そして,③オスマン帝国のスルターン(と同時にカリフ)の処遇を決めること,④イスラーム教と国家との関係を決めること,などがありました。
187
0
年
~
192
0
年のアジア 西アジア
◆
今日みられるアラブ諸国家の枠組みは、第一次世界大戦の結果できあがった
(注)
戦後イギリス・フランスは,オスマン帝国を分割した
オスマン帝国の第一次世界大戦への参戦
オスマン帝国は,第一次世界大戦(1914~1918)において、1914年11月にドイツ側の同盟国側
【本試験H31】
で参加します。しかし、バルカン半島、コーカサス地方、アラビア半島のいずれにおいても劣勢に立たされることになります。
オスマン帝国がもっとも憂慮していたことは,帝国領内で盛んになっていた民族運動が,敵である協商国(連合国)側と結び付くことでした。イギリスは,アラビア半島のアラブ人有力者たちに戦後の独立を約束することで「アラブの反乱」を起こさせようとしたのです
【本試験H12】
。当時のアラビア半島にはいくつかの有力者がいましたが,イギリスが選んだのは聖地メッカの太守を務めるアラブ人
【東京H8[1]指定語句「アラブ」(第一次世界大戦前後における旧来の帝国の解体の経過とその後の状況について)】
勢力
【H29共通テスト試行 オスマン帝国ではない】
の
〈
フサイン
=イブン=アリ
ー
〉(1853~1931)でした。
イギリスの「三枚舌」外交
1915年
の
フサイ
ン=
マクマホン協
定
【東京H8[3]ユダヤ人の建国を認めていない】
【本試験H3イギリスの関与を問う】
【本試験H15サイクス=ピコ協定ではない,H29共通テスト試行 史料(サイクス=ピコ協定ではない)】
で,アラブ国家の建設を認めました。彼の理解では,この"アラブ国家"の範囲は,シリア,イラク,パレスチナ,アラビア半島の広範囲にわたるものでした。
しかし翌16年には,ロシア帝国・フランスとイギリスとの間で,オスマン帝国領を分割する約束をしているし
(
サイク
ス=
ピコ協
定
),17年にはイギリス
【H29共通テスト試行 フランスではない】
はユダヤ人にパレスチナでの建国を認めているから
(
バルフォア宣
言
)
【本試験H3イギリスの関与を問う,本試験H9アラブ人に独立を認めたものではない】
【本試験H15フサイン=マクマホン協定・サイクス=ピコ協定ではない,H29共通テスト試行 史料(イギリスとアメリカ合衆国が共同で発表した宣言ではない),本試験H30内容が問われた】
,3つの互いに矛盾する内容の取り決めが,この3年に行われたことになります。これが世にいう,イギリスの"三枚舌外交"です。
イギリスが選んだ〈フサイン〉という男は,あの〈ムハンマド〉を輩出したハーシム家出身です。軍人の
〈
ロレン
ス
〉を派遣し,イギリスの軍事的支援により
「
アラブの反
乱
」が引き起こされました
(「アラビアのロレンス」(1962イギリス)にはのちのイラク国王〈ファイサル〉も登場します)
。1918年に〈ファイサル〉はダマスクスを占領し
,
アラブ民族主義
者
を集め
て
シリア王
国
の建国を宣言しました。
それをみて,アラビア半島の中央部リヤドのサウード家の
〈
イブ
ン=
サウー
ド
〉(アブド=アルアジーズ,1880~1953,国王任1902~53)
【本試験H16イブン=シーナーではない】
【追H20イブン=ルシュドではない】
は「〈フサイン〉はイギリスに利用されている。アラビア半島をまとめるのは,ワッハーブ派のサウード家だ」と,〈フサイン〉に対抗。彼は結局メッカを攻略
し
ヒジャー
ズ=
ネジド王
国
を建国します。
オスマン帝国の解体と英仏の委任統治領
第一次大戦後に開かれた1920年のサン=レモ会議では,現在のレバノン
と
シリ
ア
は「シリア」
【追H26】
とし
て
フラン
ス
【追H26】
【本試験H3】
の委任統治領,パレスチナ,トランスヨルダン(のちのヨルダン)とイラクはイギリスの委任統治領とすることが確定され,同年フランスはダマスクスに軍事進出して〈ファイサル〉のシリア王国を崩壊させました。
こうしてイギリスは
,
トランスヨルダ
ン
【本試験H3「ヨルダン」としてフランス委任統治領から独立したのではない】
【本試験H20イタリア領ではない】
と
イラ
ク
【本試験H3イギリス委任統治領ではない】
【本試験H14・H20ともにフランス領ではない】
を
委任統
治
(注
)
することに成功したのです。
しかも,アラブ人をハーシム家とサウード家に分裂させることによって,アラブ人が束になってかかってくるのを防ぐこともできました。典型的な"分割統治"ですね。こうして,イラクには1921年に〈ファイサル〉を王とす
る
イラク王
国
(完全独立は1932年)
【H29共通テスト試行 フサイン=マクマホン協定と最も関連が深い】
,1923年には〈アブドゥッラー〉を王とす
る
トランスヨルダン共和
国
(完全独立は1946年)が成立することになります。イギリスの本音は,地中海からペルシア湾に抜けるインド・ルートの確保にありました。
両者ともに国境線には伝統的な由緒があるわけではなく,まったくの"人口国家"として誕生しました。例えばイラクはバグダードやバスラといった都市以外に,シリアやアラビア半島につながる遊牧民
(
ベドウィ
ン
)の領域,南部
の
シーア
派
住民の領域,北部
の
クルド
人
【東京H25[3]】
の領域も含んでいたのです。
(注)国際連盟の監督下で,住民の自治を認めた上で,独立できる状態になるまで助言と援助を与えるという制度です。
一方,フランス
【本試験H16イギリスではない】
は
シリ
ア
(現在のシリア+レバノンの領域)を委任統治領とし
,
パレスチ
ナ
は国際管理としました。
ちなみに,ロシアでは,大戦中にロシア革命が起き,レーニンの革命政府は「平和に関する布告」で,領土を要求したり住民の意志に背くようなことはしたりしないとで表明し,この地域からは身を引きました。
このように一方的な線引きがなされた結果,例えば
「
クルド
人
」
【東京H25[3]】
は,トルコ・シリア・イラク・イラン等にまたがり分断され迫害を受けることになりました。
「
アルメニア
人
」の領域の多くも,サイクス=ピコ協定ではロシアの勢力圏に入っていましたが,結局トルコの支配下に置かれました。大戦中にはトルコ人によ
る
アルメニア人虐
殺
が起きています。
(注)エジプト社会経済史の長沢栄治(1953~)は、第一次世界大戦後に民族運動・民衆蜂起を鎮圧することで列強の支配を直接受けることとなった東アラブ地域で生まれた一群の領域国家を「アラブ諸国家システム」と呼んでいる。オスマン帝国という広域的なイスラーム帝国の秩序から切り離されて強められた「アラブ世界の統一」を求める動きと、英仏の委任統治によって押し付けられた分割支配という2方向の矛盾が、アラブ世界の構造を変化させてゆくこととなる。佐藤次高編『新版世界各国史8 西アジア史Ⅰ』山川出版社、2002年、p.452。
・
187
0
年
~
192
0
年のアジア 西アジア
現①
アフガニスタン
アフガニスタ
ン
は,インド防衛のためにイギリス
【本試験H2フランスではない】
が進出しました。ロシア対策ですね。1838~42年の第一
次
アフガン戦
争
【東京H26[1]指定語句「アフガニスタン」】
でイギリスは敗北,1878~1880年の第二次ではイギリスが勝利して保護国化しましたが,1919年の第三次ではアフガニスタンは主権を回復し,独立国家となりました。
・
187
0
年
~
192
0
年のアジア 西アジア
現②
イラン
イランのカージャール朝
【本試験H15サファヴィー朝ではない,本試験H17清ではない】
は,1828年には,ロシア
と
トルコマンチャーイ条
約
(イランなのに"トルコ"なので注意)
【東京H26[1]指定語句】
【本試験H17】
【追H21エカチェリーナ2世は結んでいない】
が結ばれ,カスピ海と黒海のあいだを占めてい
た
アルメニ
ア
【本試験H15ロシアが「領土」を獲得したかを問う】
を失いました。これは,治外法権を失う不平等条約でした
【本試験H10条約の名称は問わず】
。
その後,イギリスやロシアが進出したことに反発する,シーア派の一派
の
バーブ教
徒
【本試験H19,H25ディオクレティアヌス帝とは関係ない,H29共通テスト試行 ヨーロッパの政治思想の吸収・国民国家の建設・社会主義とは無関係,本試験H30】
が反乱をおこします(1848~1850年)が
,
カージャール
朝
に鎮圧されました
【本試験H18,H29共通テスト試行 この時点でカージャール朝はイギリスの保護国になっていたわけではない】
。その後,1891年に
は
タバ
コ=
ボイコット運
動
【東京H19[3]】
【追H27時期を問う】
【本試験H16地域・王朝】
【法政法H28記】
がおきます。カージャール朝が,イギリスにタバコを独占する利権を与えたことに反発したのです。運動を指導したのは,国境を越えてイスラーム世界を一つにまとめようとする
「
パ
ン=
イスラーム主
義
」
【本試験H25】
(「パン」は「1つ」という意味)を提唱した
〈
アフガーニ
ー
〉(1838~97)
【東京H19[3]】
【追H28「ムスリムの連帯を唱えた」か問う】
【本試験H25】
【法政法H28記】
です
(注
)
。彼は「ヨーロッパに勝つにはイスラーム教徒がヨコにつながるべきだ!」と主張し,エジプト
の
ウラービーの
乱
【追H28立憲制を求めたか問う】
【本試験H6成功していない,本試験H12「アラービー=パシャ」時期】
【本試験H18】
【セA H30時期】
を初め,当時のイスラーム世界のほとんどすべての抵抗運動に影響を与えました。
運動は失敗に終わりますが,イランでは日露戦争での日本の勝利に影響され
た
イラン立憲革
命
(1906~11)
【東京H14[1]指定語句】
【本試験H10「イギリスとロシアの干渉によって挫折した」か問う】
【本試験H16】
が起きましたが,1907年に
は
英露協
商
で南部はイギリス,北部はロシアの勢力圏としてロシアの介入が黙認され,1908年にはカージャール朝の国王はロシアの支援を求めて鎮圧しました。その後,タブリーズの市民の抵抗で1909年に立憲派が勢力を回復したものの,ロシア軍
【本試験H16フランス軍ではない】
により鎮圧されました。ロシアにとってはイランが王により支配されていたほうが,国民よって団結した国ができるよりも都合がよかったのです。
〈アフガーニー〉の弟子に,
〈
ムハンマ
ド=
アブドゥ
フ
〉(ムハンマド=アブドゥ,1849~1905)
【上智法(法律)他H30】
がいます。彼はエジプトのウラービーの乱にも関わり,「西洋文明はイスラームとは矛盾しない」と考え,イスラーム法を柔軟に解釈しようと呼びかけました。彼の説は中央アジア,南アジア,東南アジアにまで広まり,イスラーム世界の各地の改革派ウラマーや民衆の一体感を高めました。しかし,ヨーロッパ文明の生み出した「近代的」な制度や思想にイスラームを近づける考え方には,反対を唱えるウラマーも少なくありませんでした。このようにイスラームに価値を置き,社会を改革したり革命を起こそうとする思想を広
く
イスラーム主
義
といいますが,その内部には「どのような社会を理想とするか」をめぐる改革派と対立派の対立があったのです。
(注)アラビア語やペルシア語には,地名のあとに「イー」という語尾を付けると○○出身者という意味になるのですが(ニスバといいます),〈アフガーニー〉もアフガニスタンで生まれたとされ,現在はアフガニスタンに墓がありますが,イスラーム世界を股にかける活躍をした人物です。
・
187
0
年
~
192
0
年のアジア 西アジア
現③
イラク
イラ
ク
ではオスマン帝国による中央集権化がすすみ,1887年には北部のモースル,中央部のバグダード,南部のバスラの3州が設置されました。イギリスはイラク地域を「インドへの道」として重要視し,バスラにはイギリスの港湾が建設され蒸気船航路も開通させました。
その後、1914年に第一次世界大戦が勃発すると、オスマン帝国は1914年11月に中央同盟国側に立ち参戦します。
イギリスは、オスマン帝国の1914年11月の参戦直後に、イラクの
バスラ
にインド兵の軍隊を送り一次占領します
(⇒1870年~1920年のアジア 南アジア インド。インドは対戦への協力の見返りに戦後の自治を約束されていました)
(注)
。
しかしオスマン帝国は最終的に降伏。第一次大戦後に開かれた1920年のサン=レモ会議では,レバノンとシリアはフランスの委任統治領,パレスチナ,トランスヨルダン(のちのヨルダン)とイラクはイギリスの委任統治領とすることが確定され,同年フランスはダマスクスに軍事進出して〈ファイサル〉のシリア王国を崩壊させました。
こうして
,
トランスヨルダ
ン
【本試験H20イタリア領ではない】
と
イラ
ク
【本試験H14・H20ともにフランス領ではない】
を
委任統
治
(
注
2
)
することに成功したのです。しかも,アラブ人をハーシム家とサウード家に分裂させることによって,アラブ人が束になってかかってくるのを防ぐこともできました。典型的な"分割統治"ですね。こうして,イラクには1921年に〈ファイサル〉を王とす
る
イラク王
国
(完全独立は1932年)
【H29共通テスト試行 フサイン=マクマホン協定と最も関連が深い】
,1923年には〈アブドゥッラー〉を王とす
る
トランスヨルダン共和
国
(完全独立は1946年)が成立することになります。イギリスの本音は,地中海からペルシア湾に抜けるインド・ルートの確保にありました。
両者ともに国境線には伝統的な由緒があるわけではなく,まったくの"人口国家"として誕生しました。例えば「イラク」の領域はバグダードやバスラといった都市以外に,シリアやアラビア半島につながる遊牧民
(
ベドウィ
ン
)の領域,南部
の
シーア
派
住民の領域,北部
の
クルド
人
【東京H25[3]】
の領域も含んでいたのです。
(注1
)
佐藤次高編『新版世界各国史8 西アジア史Ⅰ』山川出版社、2002年,p.453。
(注2)国際連盟の監督下で,住民の自治を認めた上で,独立できる状態になるまで助言と援助を与えるという制度です。
・
187
0
年
~
192
0
年のアジア 西アジア
現④
クウェート
,⑤
バーレーン
,⑥
カタール
,⑦
アラブ首長国連邦
,⑧
オマーン
,⑨
イエメン
,⑩
サウジアラビア
オマーンが衰え,ペルシア湾諸勢力はイギリス保護下に
アラビア半
島
はイギリスが影響下に置こうとしたインドへの道(インドルート)に当たるため,オスマン帝国とイギリスとの間で海岸部をめぐり抗争が勃発しました。もともとペルシア湾はアラブ系諸勢力の海賊集団がうようよ活動していたことから「海賊海岸」と呼ばれていました。
イギリスは安全な航行を求め,アラビア半島の遊牧民諸集団の首長に接近し,19世紀前半以降,武力をちらつかせながらペルシア湾岸を含むアラビア半島沿岸を保護下に置いていきました。
◆現④
クウェート
,⑤
バーレーン
,⑥
カタール
,⑦
アラブ首長国連邦
,⑧
オマーンの保護国化
19世紀前半に
は
オマー
ン
が東アフリカのザンジバルにかけて海上帝国を築いていましたが,最盛期のスルターン〈サイイド=サイード〉(位1806~1856)が1856年に亡くなると,現・タンザニアのザンジバルとアラビア半島のオマーンは分離されます。
その後はイギリスの蒸気船を用いた海軍力に圧倒されていき,1891年にイギリスの保護国となりました。
この中には,1971年にアラブ首長国連邦として独立することにな
る
トルーシャ
ル=
オマー
ン
や, 1880年に保護下に置かれ
た
バハレー
ン
(バーレーン),1916年に保護下となっ
た
カター
ル
が含まれます。
1899年にはワッハーブ派の第二次サウード朝(1823~89)が,対立部族のラシード家に敗れると,サウード家の指導者
は
クウェー
ト
のサバーハ家に保護を求めます。同年
,
クウェー
ト
はオスマン帝国への対抗の必要からイギリスの保護下に入りました。これが現在につながるクウェートの成立です。
◆現⑩
サウジアラビア中央部では,サウード家が台頭していく
サウード家の勢力が台頭する
ラシード家に敗れ
た
サウード
家
の当主〈アブドゥルアズィーズ〉は1902年に,対立するラシード家からアラビア半島中央部のナジュド(ナジド)を奪回し,ハーシム家の当主〈フサイン〉からメッカを奪う動きをとっていきます。
メッカ(マッカ)とメディナ(マディーナ)の両聖都を抱えることから,スンナ派イスラームの保護者を自任するオスマン帝国の支配下に置かれていました。
しかし,オスマン帝国に対してアラビア半島の遊牧民の諸集団は,スンナ派の厳格な改革思想であ
る
ワッハーブ
派
を旗印にまとまりをみせるようになりました。
また
,
鉄
道
の敷設
や
蒸気
船
航路の開通にともないメッカ巡礼者が増えると,各地のスーフィズムの教団も盛んにメッカを訪れるようになっていました。各地のスーフィズム教団はワッハーブ派の改革運動の影響を受け,神秘主義的な教義のうち〈ムハンマド〉のスンナ(慣行)にそぐわないものの見直しを図る動きがみられるようになり,メッカでイドリース教団が,そこから分かれてリビア
で
サヌーシー教
団
が設立されました。
◆
第一次世界大戦中,イギリスはオスマン帝国内でアラブの反乱を支援する
英は「アラブの反乱」を支援し戦後の勢力拡大狙う
第一次世界大戦中に,イギリスはオスマン帝国を内側から崩壊させる作戦をたてました。
オスマン帝国領内に
は
アラブ
人
がいます。彼らに戦後の独立を約束することで「アラブの反乱」を起こさせようとしたのです
【本試験H12】
。
アラビア半島にはいくつかの有力者がいました。イギリスは誰を選んだかというと,メッカの太守を務めるアラブ人勢力
【H29共通テスト試行 オスマン帝国ではない】
〈
フサイ
ン
〉でした。1915年
の
フサイ
ン=
マクマホン協
定
【本試験H15サイクス=ピコ協定ではない,H29共通テスト試行 史料(サイクス=ピコ協定ではない)】
で,アラブ国家の建設を認めました。彼の理解では,この"アラブ国家"の範囲は,シリア,イラク,パレスチナ,アラビア半島の広範囲にわたるものでした。
しかし翌16年には,ロシア帝国・フランスとイギリスとの間で,オスマン帝国領を分割する約束をしているし
(
サイク
ス=
ピコ協
定
),17年にはイギリス
【H29共通テスト試行 フランスではない】
はユダヤ人にパレスチナでの建国を認めているから
(
バルフォア宣
言
)
【本試験H9アラブ人に独立を認めたものではない】
【本試験H15フサイン=マクマホン協定・サイクス=ピコ協定ではない,H29共通テスト試行 史料(イギリスとアメリカ合衆国が共同で発表した宣言ではない),本試験H30内容が問われた】
,3つの互いに矛盾する内容の取り決めが,この3年に行われたことになります。これが世にいう,イギリスの"三枚舌外交"です。
イギリスが選んだ〈フサイン〉という男は,あの〈ムハンマド〉を輩出したハーシム家出身です。軍人の
〈
ロレン
ス
〉を派遣し,イギリスの軍事的支援により
「
アラブの反
乱
」が引き起こされました
(「アラビアのロレンス」(1962イギリス)にはのちのイラク国王〈ファイサル〉も登場します)
。1918年に〈ファイサル〉はダマスクスを占領し
,
アラブ民族主義
者
を集め
て
シリア王
国
の建国を宣言しました。
それをみて,アラビア半島の中央部リヤドのサウード家の
〈
イブ
ン=
サウー
ド
〉(アブド=アルアジーズ,1880~1953,国王任1902~53)
【本試験H16イブン=シーナーではない】
は「〈フサイン〉はイギリスに利用されている。アラビア半島をまとめるのは,ワッハーブ派のサウード家だ」と,〈フサイン〉に対抗。彼は結局メッカを攻略
し
ヒジャー
ズ=
ネジド王
国
を建国します。
・
187
0
年
~
192
0
年のアジア 西アジア
現⑪
ヨルダン
,⑫
イスラエル
,⑬
パレスチナ
,⑭
レバノン
,⑮
シリア
シリアで高まるアラブ意識,トルコ主義に対抗
シリ
ア
では,アラブ人としての民族意識を高めようとする
「
アラブの覚
醒
」運動が起きていましたが,〈アブデュル=ハミト2世〉はそれを危険視し,1887年にシリア地域をアレッポ州,ダマスクス(シャーム)州,ベイルート州と,レバノン県,イェルサレム県に分割し,中央集権的に支配しようとしました。それに対してシリア地域のキリスト教徒やイスラーム教徒の間
で
アラブ民族主
義
の動きが高まっていきました。例えば〈カワーキビー〉(1840~1902)は,たとえイスラーム教徒であってもアラブ人と非アラブ人を区別するべきだと主張し,オスマン帝国への対決を鮮明にしました。
ユダヤ人がポグロムを逃れてパレスチナに逃れる
折から当時「国民国家」の建設が本格化していたヨーロッパ諸国では,国境を越えたつながりを持つユダヤ人に対する締め付けが強くなっていました。
その上,1882~1883年にロシア帝国領内
で
ポグロ
ム
という虐殺事件が各地で起こります。
東ヨーロッパ方面から逃れたユダヤ人は,パレスチナへの移住を開始していました。
1897年には世界シオニスト会議を開催した〈テオドール=ヘルツル〉の呼びかけでパレスチナへのユダヤ人入植が推進されたからです。
これが,のち
の
パレスチナ問
題
の起源となっていきます。古くから続いている対立のようにみえるパレスチナ問題は,実はこの時代が生み出した問題なのです。
◆オスマン帝国の「ジハード」宣言に対抗し、イギリスはアラブ人ムスリムの分断をはかった
イギリスの三枚舌外交の結果,アラブ統合は阻止
第一次世界大戦開戦直後の1914年11月に、イギリスがインド兵をイラクに送りバスラを一次占領すると、1915年2月にシリアのオスマン軍はシナイ半島をこえてスエズ運河地帯を攻撃します。イギリスの最重要拠点をねらったのです
(注1)
。
また、イギリスはオスマン帝国を内側から崩壊させる作戦をたてました。オスマン帝国領内にい
る
アラブ
人
の有力者に戦後の独立を約束することで「アラブの反乱」を起こさせようとしたのです
【本試験H12】
。これは開戦と同時にオスマン帝国がジハード(聖戦)を宣言して各地のムスリムを動員しようとしたことに対応したものです
(注2)
。
ですからイギリスは〈ムハンマド〉の血筋を引く名門でメッカの太守についていた
【H29共通テスト試行 オスマン帝国ではない】
〈
フサイ
ン
〉に目をつけたのです。
すでに1914年10月にイギリスのエジプト高等弁務官〈キッチナー〉は〈フサイン〉に親書を送り、「オスマン帝国のジハードに反応しない」方針をとっていました
(注3)
。1915年7月以降は新たにエジプト高等弁務官に着任していた〈マクマホン〉と書簡(しょかん)を交わし、その中でアラブ国家の建設と引き換えに、イギリス側に立つ参戦の約束をとりつけます
(
フサイ
ン=
マクマホン協
定
【本試験H15サイクス=ピコ協定ではない,H29共通テスト試行 史料(サイクス=ピコ協定ではない)】
)。彼の理解では,この幻の"アラブ国家"の範囲は,シリア,イラク,パレスチナ,アラビア半島の広範囲にわたるものでした
(注4)
。
しかし翌16年には,ロシア帝国・フランスとイギリスとの間で,オスマン帝国領を分割する約束をしているし
(
サイク
ス=
ピコ協
定
),17年にはイギリス
【H29共通テスト試行 フランスではない】
はユダヤ人にパレスチナでの建国を認めているから
(
バルフォア宣
言
)
【本試験H15フサイン=マクマホン協定・サイクス=ピコ協定ではない,H29共通テスト試行 史料(イギリスとアメリカ合衆国が共同で発表した宣言ではない),本試験H30内容が問われた】
,3つの互いに矛盾する内容の取り決めが,この3年に行われたことになります。これが世にいう,イギリスの"三枚舌外交"です。
イギリスが選んだ〈フサイン〉という男は,あの〈ムハンマド〉を輩出したハーシム家出身です。軍人の
〈
ロレン
ス
〉を派遣し,イギリスの軍事的支援により
「
アラブの反
乱
」が引き起こされました
(「アラビアのロレンス」(1962イギリス)にはのちのイラク国王〈ファイサル〉も登場します)
。
しかしこの反乱は決して"受動的"な動きではありません。反乱の指導者は、19世紀末のアラブ文芸復興運動(ナフダ)が育てた、明確な民族意識をもつ新世代の指導者たちでした。すでにアラブの独立をめざす複数の秘密結社
(イスタンブルのアラブ人によるカフターン会(1909)、パリのレバノン出身アラブ人による青年アラブ(1911)、イラク出身オスマン軍将校中心でイスタンブルで結成された聖約協会(1914))
が活動していたのです。「アラブの反乱」とは、こうしたアラブ民族主義グループがアラブ最大の名家であるハーシム家の当主〈フサイン〉のもとに結集して展開された政治運動であったわけです
(注5)
。
1918年に〈フサイン〉の三男〈ファイサル〉はダマスクスを占領し
,
アラブ民族主義
者
を集め
て
シリア王
国
の建国を宣言しました。
それを見たアラビア半島の中央部リヤドのサウード家の
〈
イブ
ン=
サウー
ド
〉(アブド=アルアジーズ,1880~1953,国王任1902~53)
【本試験H16イブン=シーナーではない】
は「〈フサイン〉はイギリスに利用されている。アラビア半島をまとめるのは,ワッハーブ派のサウード家だ」と,〈フサイン〉に対抗。メッカを攻略
し
ヒジャー
ズ=
ネジド王
国
を建国します。
◆列強の分割ラインに沿った形で、歴史的な「シリア」は南北に分断された
北半はフランス、南半とイラクはイギリスの委任統治
第一次大戦後に開かれた1920年のサン=レモ会議では、「歴史的なシリア」(歴史的に「シリア」と呼ばれた、現在のシリア・レバノン・ヨルダン・パレスティナ周辺の地域)とイラクが、大戦中に秘密裏に取り決められたサイクス=ピコ協定のラインに沿った形で分割されていきました。
レバノンとシリアはフランスの委任統治領,パレスチナ,トランスヨルダン(のちのヨルダン)とイラクはイギリスの委任統治領とすることが確定され,同年フランスはダマスクスに軍事進出して〈フサイン〉の三男〈ファイサル〉の建てていたシリア王国を崩壊させます。
こうして
,
トランスヨルダ
ン
【本試験H20イタリア領ではない】
と
イラ
ク
【本試験H14・H20ともにフランス領ではない】
を
委任統
治
(
注
6
)
することに成功したのです。
しかも,アラブ人をハーシム家とサウード家に分裂させることによって,アラブ人が結束することも阻止。典型的な"分割統治"ですね。
こうして,イラクには1921年に〈ファイサル〉を王とす
る
イラク王
国
(完全独立は1932年)
【H29共通テスト試行 フサイン=マクマホン協定と最も関連が深い】
,1923年には〈アブドゥッラー〉を王とす
る
トランスヨルダン共和
国
(完全独立は1946年)が成立することになります。イギリスの本音は,地中海からペルシア湾に抜けるインド・ルートの確保にあったのです。
両者ともに国境線には伝統的な由緒があるわけではなく,まったくの"人口国家"として誕生しました。例えばイラクはバグダードやバスラといった都市以外に,シリアやアラビア半島につながる遊牧民
(
ベドウィ
ン
)の領域,南部
の
シーア
派
住民の領域,北部
の
クルド
人
【東京H25[3]】
の領域も含んでいたのです。
(注1)佐藤次高編『新版世界各国史8 西アジア史Ⅰ』山川出版社、2002年、p.453。
(注2)佐藤次高編『新版世界各国史8 西アジア史Ⅰ』山川出版社、2002年、pp.453-454。
(注3)佐藤次高編『新版世界各国史8 西アジア史Ⅰ』山川出版社、2002年、p.454。
(注4)「アラブ領土」という表現に含まれるのは、マシュリク〔一般にエジプト以東のアラブ諸国を指します〕とアラビア半島からなる地域と考えられていました。佐藤次高編『新版世界各国史8 西アジア史Ⅰ』山川出版社、2002年、p.434。
(注5)佐藤次高編『新版世界各国史8 西アジア史Ⅰ』山川出版社、2002年、p.434。
(注6)国際連盟の監督下で,住民の自治を認めた上で,独立できる状態になるまで助言と援助を与えるという制度です。
・
187
0
年
~
192
0
年のアジア 西アジア
現⑯
キプロス
キプロス島はオスマン帝国の領土の支配下にありますが,東地中海の拠点としての重要性が高まり,ヨーロッパ列強が目をつけるようになっています。
露土戦
争
(1877~1878)の結果結ばれ
た
ベルリン条
約
(1878)により,オスマン帝国はキプロスを失い,イギリスが統治権を獲得しました。インドへの航路の拠点とするためです。
第一次世界大戦(1914~1918)が勃発すると,イギリス
は
キプロスを併
合
しています。
・
187
0
年
~
192
0
年のアジア 西アジア
現⑰
トルコ
◆
ヨーロッパ
の
187
3
年不況の影響を受け,オスマン帝国の経済は破綻し,ドイツに接近する
オスマン帝国は財政破綻,大戦に敗北し,国内に新政権が樹立される
オスマン帝国は相次ぐ戦争と近代化のためにヨーロッパ諸国からの借款(しゃっかん)を重ねていました。経済は西欧諸国への輸出向け作物が頼みとなり,農作物のモノカルチャー化も進んでいました。
そんな中,西ヨーロッパを震源地に
「
大不
況
」(
187
3
年恐
慌
,1873~1896)が起きると,農産物の買い取り価格が下落。
その煽りを受け1875年
に
国家財政が破
綻
,その後は過酷な財政管理を受けることとなります。
「このままでは,西ヨーロッパ諸国からの本格的な進出を受けてしまう...」
改革は"待ったなし"の状況となり,大宰相
〈
ミドハ
ト=
パシ
ャ
〉(1822~1884)はオスマン帝国憲法(いわゆるミドハト憲法)を発布。西ヨーロッパ風の近代国家であることを宣言し,オスマン帝国の臣民はイスラーム教徒であろうとなかろうと平等な
「
オスマン
人
」であることを規定しました
【追H28 19世紀以降のオスマン帝国でムスリムと非ムスリムの法的平等が認められたか問う】
。
しかしこの状況下で1877年にロシア帝国
が
露土戦
争
を開始すると,スルターン
〈
アブデュルハミト2
世
〉(任1876~1909)
は
サ
ン=
ステファノ条
約
を結んでロシアと講和を余儀なくされます。サン=ステファノはイスタンブールの近郊の地点であり,ここで和平を結んで置かなければ首都占領のおそれすらありました。〈アブデュルハミト2世〉は非常事態を宣言し,「ミドハト憲法の規定する議会を設置するような余裕などない」と
,
憲法の施行を停
止
。スルターンによる専制体制を復活しました。
1881年にはオスマン帝国のヨーロッパ諸国に対する債務管理のため
,
オスマン債務管理
局
が設立されて経済のコントロールが進む中,次第
に
民族資
本
も育っていきます。
民族資本のサポートを受け,ミドハト憲法の復活を望む人々は1889年に
「
統一と進歩委員
会
」を設立し,立憲政治を実現させようとするいわゆる
「
青年トルコ
人
」運動をすすめていきました。
1908年にはサロニカの「統一と進歩委員会」を支持する軍が武装蜂起して
,
ミドハト憲法の復
活
に成功。1913年には
〈
エンヴェ
ル=
パシ
ャ
〉(1881~1922)を中心に政権を獲得します。
1911年には伊土戦争でトリポリ,キレナイカがイタリアに奪われ,バルカン半島へのロシアの南下が強まる中,〈エンヴェル=パシャ〉を中心とする「統一と進歩委員会」政権
は
ドイツへの接
近
を画策。
◆第一次世界大戦に参戦したオスマン帝国は敗戦し、戦後は領土を英仏に分割される
ジハード宣言するも、イギリスがアラブ反乱を煽動
そして、1914年に始ま
る
第一次世界大
戦
では中央同盟国
(
同盟
国
)側について参戦。オスマン帝国は開戦とともにで「ジハード」(聖戦)を宣言し、各地のムスリムの動員を画策しました。イギリスはそれに対抗する形で、宗教的権威を持っていたメッカのアミールである〈フサイン〉に「アラブの反乱」を興させたのです
(注)
。
結果的にオスマン帝国は1918年10月30日に降伏します。
連合国によるオスマン帝国の「分割」の危機が高まる中,将軍
〈
ケマ
ル=
パシ
ャ
〉が1920年4月,独自にアンカラで新政府
(
トルコ大国民議
会
)を樹立し
,
セーヴル条
約
を結んで連合国の進駐をゆるすイスタンブルのスルターン〈メフメト6世〉と別行動を取り始めます。
なお,大戦中にはオスマン帝国軍によ
る
アルメニア虐
殺
が起きています
(⇒187
0~
192
0
のアジア 西アジア アルメニ
ア
)
。
(注)佐藤次高編『新版世界各国史8 西アジア史Ⅰ』山川出版社、2002年,pp.453-454。
・
187
0
年
~
192
0
年のアジア 西アジア
現⑱
ジョージ
ア(
グルジ
ア
)
19世紀後半,グルジアにはロシア帝国の資本が流れ込んで産業が発展していき,グルジア人の多くは不満を募らせています。土地改革はすすまず,多くの都市が地主の所有です。
"ロシア化"政策に対する反動から,「自分たちはグルジア人なのだ」という民族主義や社会主義の運動も盛んになっていきます。
この頃,のちのソ連共産党書記長となる〈ヨシフ
=
スターリ
ン
〉(1878~1953)がグルジアで誕生しています。彼の本名は「ジュガシヴィリ」。スターリンとは"鋼鉄の人"という意味のペンネームです。社会主義運動に携わるようになりますが,グルジアではメンシェヴィキが主流であったため,のちにボリシェヴィキへと離れます。
日露戦
争
(1904~1905)中には,労働者や農民が中心となって反政府運動が起こります。支配者であったロシアが日本に敗北したのですから好機です。
蜂起は鎮圧されたものの,グルジアにおける民族主義的な運動はますます高まっていきました。
続い
て
第一次世界大
戦
(1914~1918)では,オスマン帝国の〈エンヴェル=パシャ〉の軍の進出を受けます。これをロシア帝国がなんとか押しとどめますが,1917年
に
ロシア第二革
命(
三月革
命
)
が勃発すると,グルジア,アルメニア,アゼルバイジャンは革命勢力の統治下に置かれることになりました。
このときグルジアでは,念願
の
グルジア正教会の独
立
が認められています。
さら
に
ロシア第二革
命(
十一月革
命
)
でロシア帝国が滅亡すると,1918年3月にロシアの革命勢力と中央同盟国
〔
同盟
国
〕との間
に
ブレス
ト=
リトフスク条
約
が結ばれます。
その結果,グルジアには南からオスマン帝国軍が北上し,混乱をきわめる中,グルジアが主導して1918年4月
に
ザカフカース民主連邦共和
国
が建国宣言されます。
それでもオスマン帝国の進出は止まりません。ザカフカース民主連邦共和国の中でも,イスラーム教徒の多
い
アゼルバイジャ
ン
地方はオスマン帝国側に接近したため,1918年5月にグルジアはドイツに接近し
て
グルジア民主共和
国
の建国を宣言。
アルメニアとアゼルバイジャンは,オスマン帝国に接近してそれぞれ独立を確保したため,グルジア,アルメニア,アゼルバイジャンは結局3つのエリアに分かれる形となりました。
これら3エリアの位置す
る
ザカフカー
ス
地方をめぐっては,カスピ海沿岸のアゼルバイジャンの石油利権(当時,世界最大の採掘量を誇っていました)をねらう大国の思惑が渦巻いていたのです。成立したばかりのロシアのボリシェヴィキ政権も,アゼルバイジャン
の
バクー油
田
だけは,なんとしてでもおさえておきたいポイントでした。
グルジアでは1919年から土地改革が行われ,農民に土地が分与されました。議会の多数派はメンシェヴィキであり
,
ボリシェヴィ
キ
によ
る
ソヴィエ
ト=
ロシア政
権
と距離をとり,独立維持のために奔走します。しかし,当時のグルジア
は
イギリスの占
領
を受け,隣国アルメニアとの国境紛争も抱えていました。
そんな中,アゼルバイジャンとアルメニアは最終的に1920年
に
ソヴィエ
ト=
ロシア政
権
の支配下に置かれていくと,グルジアは追い詰められる形となり,ソヴィエト=ロシアによる支配は不可避の状態となっていました
(注
)
。
(注)1920年にアゼルバイジャン=ソヴィエト社会主義共和国,アルメニア=ソヴィエト社会主義共和国が成立。1921年にグルジア=ソヴィエト社会主義共和国が成立します。
・
187
0
年
~
192
0
年のアジア 西アジア
現⑲
アルメニア
◆
アルメニア人の民族的な自覚が高まる一方,「民族浄化
」(
ジェノサイ
ド)
を受ける
19世紀以降,アルメニアでは「自分たちはアルメニア人だ」という意識が高まりました。19世紀後半にはアルメニア人の資本家が成長し,コーカサス地方全体のうち商工業の70%,6つの銀行のうちの4銀行,不動産の半分を支配するにいたります
(注
1)
。また,19世紀半ば以降,アルメニアから欧米への出稼ぎも増加します。
しかし,その中で「グルジア人」との対立も生まれていきました。従来は「別の民族」という明確な区分は存在していなかったのですが,次第に「グルジア人」や「アゼルバイジャン人」との違いが形作られていくこととなりました。
アルメニアの都市カルスは,1877~78年の露土戦争後にロシア領となっていました。しかし,第一次世界大戦中にロシア革命が起きると,1918年3月にソ連がドイツと単独講和をした結果,カルスは(中央)同盟国のオスマン帝国に明け渡されることとなりました。これにより10万人以上のアルメニア人が難民となって避難することになります
(注
2)
。こうした難民を含めたアルメニア人が,オスマン帝国軍による大量殺害の対象となりました。オスマン帝国によるアルメニア人虐殺は大戦前にも起きていましたが,大戦中の虐殺は特に大規模なものとなります
(
オスマン帝国によるアルメニア人虐
殺
(ジェノサイド))。
大戦末期の1918年10月には連合国がオスマン帝国とムドロス協定を結びますが,それでもカルスからオスマン帝国軍が撤退することはありませんでした。1919年1月にはアルメニア支配を続けようと「南西コーカサス共和国」という国を樹立。
1920年8月に連合国とオスマン帝国の間
に
セーヴル条
約
が締結され,クルド人
【東京H25[3]】
とともにアルメニア人の民族自決がうたわれます。
そんな中,オスマン帝国内部に,イスタンブルの政府に対立す
る
アンカラ政
府
が樹立されており,このアンカラ政府が1920年にセーヴル条約の破棄を通告。カルスのアルメニア人を追放し侵攻して,多くの犠牲者を出しています。
一方,ボリシェヴィキにお
る
ソヴィエ
ト=
ロシア政
権
は1920年にアルメニアに進出して,この地にソヴィエト政権を樹立することに成功
。
アルメニ
ア=
ソヴィエト社会主義共和
国
が成立することになりました。
(注1)中島偉晴・メラニア・バグダサリアヤン編著『アルメニアを知るための65章』明石書店,2009年,p.76
(注2)中島偉晴・メラニア・バグダサリアヤン編著『アルメニアを知るための65章』明石書店,2009年,p.87
・
187
0
年
~
192
0
年のアジア 西アジア
現⑳
アゼルバイジャン
バクー油田持つアゼルバイジャンの独立は困難に
アゼルバイジャンのカスピ海沿岸
の
バクー油
田
は,当時世界最大の採掘量を誇っていました。
「石油の時代」が到来すると,ロシアはバクー油田の利権に目をつけ進出しますが,それに対してアゼルバイジャン人
〔
アゼリー
人
〕の民族意識は高まっていきます。
第一次世界大戦中(1914~1918)末期の1918年5月,アゼルバイジャン民主共和国が建国され,首都
を
バク
ー
に置きますが,イギリスの干渉を招き,結果的に1920年にはソヴィエト=ロシアの進出によ
り
アゼルバイジャ
ン=
ソヴィエト社会主義共和
国
が成立します。
●187
0
年
~
192
0
年のインド洋海域
インド洋海
域
...インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島,モルディブ,イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域,マダガスカル,レユニオン,モーリシャス,フランス領マヨット,コモロ
マダガスカ
ル
は
メリナ王
国
の支配下にありました。1868年に〈ラナヴァルナ2世〉(位1868~1883)が即位,死後に従妹が〈ラナヴァルナ3世〉(位1883~1897)として即位します。
しかし1890年に〈ラナヴァルナ3世〉はフランスに保護権を認め,1895年にはフランスにアンタナナリボが占領されました。1896年
に
フラン
ス
はマダガスカルの植民地化を宣言。1897年に〈ラナヴァルナ3世〉はレユニオン島に流され,メリナ王国は滅びました。
◆
医療・交通機関の発達により,西ヨーロッパ諸国によるアフリカ中央部への進出が本格化した
医療と交通の進歩が,「暗黒大陸」の探検を可能に
大航海時代以降,アフリカの沿岸部を中心にヨーロッパ人が進出を開始したため,港町についてはよく知られていました。しかし
,
コンゴ盆
地
を中心とする内陸部については謎もおおく
"
暗黒大
陸
"とまで呼ばれていました
【セ試行 15世紀頃からアフリカ内陸部の探検がポルトガル人によっておこなわれていたわけではない】
。
しかし
,
キニー
ネ
というマラリアの特効薬となる物質が発見された(1856)こともあり,アフリカ内陸部の謎に挑戦する探検家が現れるようになります。その代表が,イギリスの
〈
リヴィングスト
ン
〉(1813~73)
【東京H19[3]】
【本試験H21】
。彼はナイル川の水源をたどる旅に出て,失踪。イギリスのウェールズ出身でアメリカに渡っていたジャーナリスト
〈
スタンリ
ー
〉(1841~1904)が発見をし,世界的なスクープになりました。
ヨーロッパの列強は,「アフリカにもまだまだ知られていない土地がある」ことを知り,一斉にアフリカの内陸部に進出を開始。
1804年に〈トレヴィシック〉(1771~1833)により発明され
た
蒸気機関
車
も,アフリカ内陸部への物資輸入と資源輸出の格好の道具として利用されていきました。アフリカは台地上の地形をしているため,川をさかのぼったり運河を掘ったりすることでは内陸に進出しにくかったのです。
◆
列強によるアフリカの植民地支配の利害調整のため,ベルリン会議が開かれ,「アフリカ分割」が本格化した
コン
ゴ
をめぐってヨーロッパ諸国が対立をしたため,諸国の均衡(バランス)を重視するビスマルクがベルリンに各国を呼び,1884~85
年
ベルリン会
議
を開きました。
会議では,アフリカの土地を自分の植民地として主張するには「実効支配」が必要だという原則が決められました。つまり,ただ単に「ここは自分の植民地だ!」というのではなく,軍による治安維持や住民・旅行者の安全を確保できて初めて,自国の植民地として主張できるということです。どこからどこまでが,どの国の植民地なのかハッキリさせるために,地図上に明確な国境線が引かれはじめます。沿岸を確保できていれば内陸も支配できるとされたので,植民地の境界線は海岸部から内陸に向けて直線に引かれました。現在のアフリカの国境線に直線(数理的国境)が多いのは,この境界線をもとにアフリカ諸国が独立をしていったためです。
アフリカの植民地の取り合いは,基本的には"早いもの勝ち"ということにもなりました
(
先占の原
則
)。
◆
アフリカの植民地化をめぐり,先発のイギリス・フランスと,後発のドイツが鋭く対立した
1880年以降,アフリカを南北に縦貫させようとす
る
イギリスの縦断政
策
と
,
フランス・ポルトガル・ドイツなどの横断政
策
が激突するようになっていきました。
実際ドイツ
【本試験H8地図(ドイツのアフリカにおける植民地の分布)】
は,
ケニア
【追H18】
(イギリスが1885年に植民地化) とローデシア(ケープ植民地の北)の間に位置するタンガニーカに食い込むようにして,1885
年
ドイツ領東アフリ
カ
を建設します。これが現在のタンザニアです。
ドイツはほかにも南西アフリカ(1885年。現在のナミビア)
,
カメルー
ン
【本試験H16イタリアの植民地ではない,本試験H22,本試験H31ドイツ領か問う】
,トーゴを植民地化していきます。南西アフリカの反乱と,ドイツ領東アフリカ
の
マ
ジ=
マジ反
乱
(呪術的なグループを中心とした住民の反乱)に対しては,徹底的な殺戮(さつりく。1904~07年の南西アフリカでの数万人規模の虐殺は,20世紀最初
の
ジェノサイ
ド
(一つの民族をまるごと大量殺害すること)ともいわれています)をおこない鎮圧しました。
とくに英仏を焦らせたのは,2度
の
モロッコ事
件
【本試験H18】
【追H24英仏のアフリカでの衝突事件ではない】
です。1905年にドイツ皇帝〈ヴィルヘルム2世〉は,北アフリカのモロッコ
の
タンジー
ル
港に上陸し,ここを勢力下におこうとしていたフランスに対抗して
,
モロッ
コ
のスルターンを支援しました。
1906年にアメリカ合衆国大統領〈セオドア=ローズヴェルト〉の介入によ
り
アルヘシラス国際会
議
がひらかれ,フランスとイギリスは協調してドイツの要求をしりぞけます
(
第一次モロッコ事
件
【本試験H5アラブ人とフランス人との間にアフリカ東部の奴隷貿易をめぐって起きたものではない】
【追H24英仏のアフリカでの衝突事件ではない】
)。アメリカ合衆国が「ヨーロッパの政治には関わらない」とした1823年以降のモンロー主義を捨てていることがよくわかります。
1911年にもドイツはモロッコ
【中央文H27記】
のアガディール
【中央文H27問題文】
港に艦船を派遣していますが,中央アフリカ
の
フランス領コン
ゴ
(おおよそ現在のコンゴ共和国)の北部の支配を認められる代わりにモロッコへの支配圏は手放し,失敗に終わります
(
第二次モロッコ事
件
)。
◆
後発のイタリアは紅海沿岸,インド洋沿岸を植民地化したが,エチオピアでは失敗した
イタリアのエチオピア進出は失敗、リビアは獲得
イタリアも,植民地の再配分を要求した国の一つです。 "アフリカの角"の周辺への進出を狙ったイタリアは,紅海沿岸
の
エリトリ
ア
を1885年に,次にインド洋沿
岸
ソマリラン
ド
に対し1887年に郡司的に進出して,その後領有しています。
さらにエチオピア帝国の植民地化をめざしましたが,1896年にアドワの戦いでイタリア
【本試験H8イギリスではない】
を撃退しています。この結果,エチオピア帝国は
,
リベリア共和
国
(アメリカ植民協会により,黒人奴隷をアフリカ大陸に戻そうという運動で1847年建国された
【本試験H14植民地化されていない(オランダによる植民地でもない),本試験H21世紀を問う】
)と並び,アフリカ大陸で植民地化されていない国家
【本試験H29】
となりました
【追H27 19世紀のエチオピアから、イギリスは綿花を輸入していない】
。
ちなみにイタリア
【本試験H22ドイツではない】
は,北アフリカ
の
リビ
ア
(
トリポ
リ
地方
と
キレナイ
カ
地方)
【本試験H22】
をめぐり1911~12年にオスマン帝国と戦い
(
イタリ
ア=
トルコ戦
争
,伊土戦争),ここ
を
リビ
ア
として奪っています
【追H30】
。19世紀前半にメッカで創設されたサヌーシー教団
【H29共通テスト試行 史料(解答には不要)】
が,植民地支配に対して抵抗運動を試みましたが,鎮圧されました。
◆
欧米の思想の影響を受け,ヨーロッパからの独立を訴えるアフリカ人も現れた
アフリカ人の反植民地・反人種主義も起きる
すっかり植民地化されたアフリカでは,ヨーロッパに対する本格的な独立運動は起こりませんでしたが,アフリカで欧米の教育を受けた人々や,欧米生まれのアフリカ系の人々の中には,第一次世界大戦後にアメリカ合衆国大統領が提案した「民族自決」というキャッチフレーズの影響もあり,欧米でアフリカ人の人権を守ろうとする運動を起こす人が現れます。
ハーバード大学院に留学した,アメリカ系アフリカ人の
〈
デ
ュ=
ボイ
ス
〉(1868~1963)が,第一次世界大戦後のヴェルサイユ会議に出席して,アフリカ人の人権を訴えました。1919年にはパリでパン=アフリカ会議を主導し,奴隷の禁止や自治を訴えました。
また,イギリス領西アフリカでは,1920年に西アフリカ国民会議が結成されて,人種差別に反対しました。
1912年には,イギリス領内の自治領に昇格してい
た
南アフリカ連
邦
【本試験H2519世紀ではない】
で,アフリカ先住民民族会議が結成され,1923年に
は
アフリカ民族会
議
(ANC)
【追H30民族解放戦線ではない】
と改称され,住民を広く巻き込んだ運動を展開しました。のちに,〈ネルソン=マンデラ〉が主導権を握ることになる組織です。
なお,のちにインド独立運動の指導者となる〈ガンディー〉
【早・法H31】
は,1893年~1915年の間,ケープ植民地(途中か
ら
南アフリカ連
邦
【早商H30[4]記】
)
【早・政経H31ケニアではない】
で人種差別に反対する運動を起こしています。このときの経験が,のちの非暴力・不服従運動に生かされることとなります。
しかし,こうした動きが本格的なアフリカ独立運動,人種差別撤廃運動に発展していくのには,第二次世界大戦の終結を待たねばなりません。
○187
0
年
~
192
0
年のアフリカ 東アフリカ
東アフリ
カ
...
①
エリトリア
,②
ジブチ
,③
エチオピア
,④
ソマリア
,⑤
ケニア
,⑥
タンザニア
,⑦
ブルンジ
,⑧
ルワンダ
,⑨
ウガンダ
◆
ドイツ帝国はタンガニーカに進出し,住民の抵抗運動を鎮圧した
ドイツ帝
国
【東京H19[3]ルワンダ,ブルンジ,タンザニアを植民地化した国を答える】
は,ケニア(イギリスが1885年に植民地化)とローデシア(ケープ植民地の北)の間に位置す
る
タンガニー
カ
に食い込み,1885
年
ドイツ領東アフリ
カ
を建設します。現在のタンザニアの本土部分です。
ドイツ領東アフリカには,ヴィクトリア湖西岸にある,ツチ人
の
ルワンダ王
国
と
ブルンジ王
国
も含まれています。
現在のタンザニアの沿岸近くにあ
る
ザンジバル
島
の
スルターン
国
は,1890年にヘルゴランド=ザンジバル条約により,イギリス帝国の保護領になりました。しかしその後1896年のイギリス=ザンジバル戦争によりイギリスの領土に組み込まれました。この戦争は一説には宣戦布告から38分で終了し,世界最短の戦争として知られています。
ドイツ帝国は,ほかに南西アフリカ(1885年。現在のナミビア)
,
カメルー
ン
【本試験H16イタリアの植民地ではない,本試験H22】
,トーゴを植民地化していきました。しかし,南西アフリカでの反乱や,ドイツ領東アフリカ
の
マ
ジ=
マジ反
乱
(呪術的なグループを中心とした住民の反乱。「マジ」とはスワヒリ語で水を意味します)に対しては,徹底的な殺戮
(さつりく。1904~07年の南西アフリカでの数万人規模の虐殺は,20世紀最初
の
ジェノサイ
ド
(一つの民族をまるごと大量殺害すること)ともいわれています)
をおこない鎮圧しました。
フランスはジブチを植民地化する
フランスは,アフリカ大陸の東部,紅海沿岸
の
ジブ
チ
を植民地化し,これを西アフリカと連絡させようと,アフリカ大陸を横断する政策をとりました
(
横断政
策
)が,イギリスの縦断政策を前にして敗れます。
イタリアはエリトリア,エチオピア,ソマリア南部に進出する
エリトリ
ア
は,1846年~1885年にかけてエジプトのムハンマド=アリー朝の支配を受けていました。1888年にスーダンでマフディーの乱が起きると,エジプト支配は後退します。
前後してイタリアは1882年にエリトリアの領有を宣言し,1885年に占領しました。イタリアの進出に対してエチオピアとの戦争
(
エリトリア戦
争
)になりましたが,1889年にウッチャリ条約が結ばれて割譲を許しました。
その後エチオピアでは
〈
メネリク2
世
〉(位1889~1913)が即位すると,フランスの支援も得てに1895年にイタリアに対してエリトリアに関するウッチャリ条約の破棄を通告し
,
第一次エチオピア戦
争
が始まりました。すでに近代的な軍隊を整備していたエチオピアは,1896年3月
に
アドワの戦
い
で勝利し,イタリアに勝利しました。このときにエチオピアは南東部のオガデン地方を含む領有が認められましたが,エリトリアとエチオピアの国境はあいまいなまま残されました(これが20世紀末のエチオピア=エリトリア国境紛争の遠因となります
(⇒1979~現在のアフリカ)
)。
しかし〈メネリク2世〉が病に倒れると後継者をめぐる内紛が起きました。後継となった〈イヤス5世〉(位1913~16)はイスラーム教徒の信仰が厚かったため,エチオピア正教会を信仰する国内の領主の抵抗を招きます。オスマン帝国側に立ち第一次世界大戦に中央同盟国として参戦しようとすると,領主らによる抵抗で廃位され,〈メネリク2世〉の娘の女帝〈ザウディトゥ〉に代わりました。しかし実権は摂政を務めた皇太子〈ラス=タファリ=マコンネン〉(1892~1975,のちの皇帝
〈
ハイ
レ=
セラシエ1
世
〉(位1930~1974))が握っていました。
○187
0
年
~
192
0
年のアフリカ 中央アフリカ
中央アフリカ...現在の
①
チャ
ド
,
②
中央アフリ
カ
,
③
コンゴ民主共和
国
,
④
アンゴ
ラ
,
⑤
コンゴ共和
国
,
⑥
ガボ
ン
,
⑦
サント
メ=
プリンシ
ペ
,
⑧
赤道ギニ
ア
,
⑨
カメルーン
現在
の
サント
メ=
プリンシ
ペ
は16世紀以来,ポルトガルの植民地でした。
現在
の
赤道ギニ
ア
は,イギリスによる奴隷交易の拠点でしたが1843年に撤退すると,代わって1844年にスペインが農業プランテーション事業をおこなうためにビオコ島(植民地政庁はこちらに置かれます)を開発し,大陸側のリオムニの開発も進めていました。
コンゴ盆地にはベルギーが進出した
諸国の争いの的となっていた広大
な
コン
ゴ
盆地には,〈スタンリー〉に探検を依頼して領有を狙っていたベルギー国王(
〈
レオポルド2
世
〉(位1865~1909))が,私有地(!)
の
コンゴ自由
国
を建てることになりました。同時に,コンゴ盆地を通
る
コンゴ
川
は,列強が自由に航行することができると定められました。ベルギーの国王の"私有地"ということにしておけば,列強間の取り合いにはなりません。コンゴはいわば「緩衝地帯(クッション)」ということにしておいて,列強間の直接的な対立を避けたのです。
〈レオポルド2世〉はコンゴの人々を「文明化」することが目的だ!と本気で考えていましたが,実際に現地で起こっていたのは資源をめぐる住民に対する激しい搾取と暴力でした。「自由」国とは名ばかりで,住民は全然自由じゃないじゃないかという批判も受け,1908年にベルギーによる直轄植民地となりました(
③
ベルギー領コン
ゴ
)。
④
アンゴ
ラ
におけるポルトガル植民地では,住民を酷使したダイヤモンド鉱山やコーヒー・綿花などのプランテーションが行われました。ポルトガルからのアンゴラ移民も増加していきます。
さら
に
ドイツ帝
国
は,ケニア(イギリスが1885年に植民地化)とローデシア(ケープ植民地の北)の間に位置するタンガニーカに食い込み,1885
年
ドイツ領東アフリ
カ
を建設します。現在のタンザニアです。ほかに
も
南西アフリ
カ
(1885年。現在のナミビア),⑨中央アフリカ
の
カメルー
ン
【本試験H16イタリアの植民地ではない,本試験H22】
,西アフリカ
の
トー
ゴ
を植民地化していきます。カメルーンはドイツにより農業(カカオ,アブラヤシなど)や象牙交易の拠点として利用されました。
1911年にもドイツはモロッコのアガディール港に艦船を派遣していますが,中央アフリカの
⑤
フランス領コン
ゴ
(おおよそ現在のコンゴ共和国)の北部の支配を認められる代わりにモロッコへの支配圏は手放し,失敗に終わります
(
第二次モロッコ事
件
)。
第一次世界大戦後,旧ドイツ植民地
は
イギリ
ス
と
フラン
ス
の
委任統治
領
(事実上の勢力圏)になりました。
現在のコンゴ共和国,中央アフリカ共和国,ガボンは,フランス領赤道アフリカとなった
・
ガボ
ン
植民地
→現・⑥ ガボン共和国
・
中央コン
ゴ
植民地
→現・⑤ コンゴ共和国
・
ウバン
ギ=
シャ
リ
植民地
→現・② 中央アフリカ共和国
これらの地域には19世紀末に順次フランスが進出し,1910年
に
フランス領赤道アフリ
カ
としてまとめてフランスに支配されました。首都は中央コンゴ植民地のブラザヴィルに置かれます。
現在の
⑥
ガボ
ン
は1885年にフランスにより占領され
,
フランス領赤道アフリ
カ
の一部となりました(1910年)。医師
〈
シュヴァイツァ
ー
〉(1875~1965)は,現ガボンのランバレネで医療活動に従事し,「生命への畏敬」という思想を膨らませていきました(のち1952年にノーベル平和賞を受賞)。
○187
0
年
~
192
0
年のアフリカ 南アフリカ
南アフリ
カ
...
①
モザンビーク
,②
スワジランド
,③
レソト
,④
南アフリカ共和国
,⑤
ナミビア
,⑥
ザンビア
,⑦
マラウイ
,⑧
ジンバブエ
,⑨
ボツワナ
・
187
0
年
~
192
0
年のアフリカ 南アフリ
カ
現①
モザンビーク
1880年代以降
「
アフリカ分
割
」が本格化すると,アフリカ大陸中央部(大西洋側)
の
アンゴ
ラ
と,南東部(インド洋側)
の
モザンビー
ク
を東西に結ぼうとす
る
ポルトガルの横断政
策
は
,
イギリスによる縦断政
策
(南アフリカからエジプトの陸路・海路を結ぼうとする戦略です)と対立しました。
・
187
0
年
~
192
0
年のアフリカ 南アフリカ 現マダガスカル
フランスは,インド洋
の
マダガスカル
島
(1896年にメリナ王国を滅ぼしました)を植民地化しています
【本試験H29ドイツの植民地ではない】
。
・
187
0
年
~
192
0
年のアフリカ 南アフリカ
現④
南アフリカ
アフリカ南部では,1899~1902年にか
け
南アフリカ戦
争
【本試験H4】
【東京H22[1]指定語句】
【追H29】
が起き,この地にいたアフリカーナー (入植したオランダ人の子孫(ブール人))
【本試験H4】
の国家
(
トランスヴァール共和
国
(1852~1902)
【本試験H4,本試験H10】
【本試験H22】
【追H27、H29南アフリカ戦争の結果イギリスに併合されたか問う(正しい)】
と
オレンジ自由
国
(1854~1902))
【追H27】
がイギリス
【追H27オランダではない】
【本試験H10フランスではない】
により滅ぼされ,イギリス領
【本試験H8オランダ領ではない】
のケープ植民地
【本試験H22フランスではない】
に併合されました。
このとき,女性や子どもを含む一般のアフリカーナー(ブール人)たちは
,
強制収容
所
に詰め込まれて多数が命を落としました。のちのドイツのユダヤ人等の強制収容所の原型ともいわれます。このときに医療活動に赴いたのは,すでに『シャーロック=ホームズ』シリーズで成功していた小説家・医師〈コナン=ドイル〉(1859~1930)でした。『帝国主義論』を著した経済学者〈ホブソン〉(1858~1940)は「この巨大な義性はただ少数のイギリス金融資本の利益のために費やされたのである」と語っています。
イギリスがケープ植民地を狙ったのは,この地のケープタウン(
C
ape Town)とエジプトのカイロ(
C
airo)とインド帝国のカルカッタ(
C
alcutta)を結
ぶ
3C政
策
【追H27アフリカでフランスがとったのではない】
をとり,インド洋の周囲をとりかこもうとしていたためです。エジプトとケープタウンを南北に結ぶため,アフリカで
は
縦断政
策
ともいいます。
・
187
0
年
~
192
0
年のアフリカ 南アフリカ
現⑤
ナミビア
ドイツ帝
国
は,1885年
に
南西アフリ
カ
(現在のナミビア)を植民地化し,現地住民
の
反
乱
に対し徹底的な殺戮(さつりく。1904~07年の南西アフリカでの数万人規模の虐殺は,20世紀最初
の
ジェノサイ
ド
(一つの民族をまるごと大量殺害すること)ともいわれています)をおこない鎮圧しました。
・
187
0
年
~
192
0
年のアフリカ 南アフリカ
現⑥
ザンビア
,⑦
マラウイ
,⑧
ジンバブエ
ケープ植民
地
首相の
〈
セシ
ル=
ロー
ズ
〉は1889年
に
イギリス南アフリカ会
社
を設立し,1890年にはザンビア川流域の支配を進めていたロジ族の王〈レワニカ〉と協定を結んで
,
ザンベジ
川
一帯に支配権を拡大させます。
同年1890年にはポルトガルに圧力をかけ,内陸部(現在のザンビア・ジンバブエ・マラウイ)のポルトガル軍を撤退させました。こうして大西洋とインド洋を結ぶ「バラ色計画」が失敗し,ポルトガル王は国内で批判にさらされ,1910年の革命で退位しました。モザンビークにはイギリスやフランスの資本が投下され,ポルトガルの影響力は低下していきました。
現在
の
マラウ
イ
は鉱産資源・プランテーション用の大土地にも恵まれず,周辺のザンビアやジンバブエと比べると,白人の入植はすすみませんでした
(注
1)
。イギリス中央アフリカ保護領(1891~1907)が設立され,1907年に
は
ニヤサランド保護
領
となりました。ニヤサとはヤオ人の言葉で「湖」という意味で,この地域の人々の生活と密接な関係のあるマラウイ(タンガニーカ)湖からとられています。19世紀前半に活発化していたインド洋の黒人奴隷交易の奴隷供給先となっていたマラウイですが,19世紀後半にキリスト教の宣教による効果もあり,次第に下火となっていきます(1895年に絞首刑とされたアラブ人の奴隷商人がマラウィ最後の例とされます
(注
2)
。
第一次世界大戦前には,スコットランドの宣教団の〈ブース〉がアフリカ人側に立った運動を起こします。影響を受けた〈カムワマ〉は,マラウイで初めて植民地化に反対する運動を起こします(注3)。
(注1)栗田和明『マラウイを知るための45章』明石書店,2010,p.58
(注2)栗田和明『マラウイを知るための45章』明石書店,2010,p.47
(注3)栗田和明『マラウイを知るための45章』明石書店,2010,p.59
・
187
0
年
~
192
0
年の南アフリカ ボツワナ
現在のボツワナは1895年にイギリスによ
り
ベチュアナランド保護
領
となりました。
○187
0
年
~
192
0
年の西アフリカ
西アフリ
カ
...
①
ニジェール
,②
ナイジェリア
,③
ベナン
,④
トーゴ
,⑤
ガーナ
,⑥
コートジボワール
,⑦
リベリア
,⑧
シエラレオネ
,⑨
ギニア
,⑩
ギニアビサウ
,⑪
セネガル
,⑫
ガンビア
,⑬
モーリタニア
,⑭
マリ
,⑮
ブルキナファソ
フラン
ス
【本試験H8地図(フランスのアフリカにおける植民地の分布)】
は,北アフリカ方面からサハラ沙漠一帯に進出し,現在の
⑭
マリ共和
国
,
①
ニジェール共和
国
,
⑪
セネガル共和
国
,
⑮
ブルキナファ
ソ
に当たる地域に,植民地を拡大させていきました。
⑦
リベリア共和
国
では先住民との抗争が続き,1915年にはアメリカ出身の黒人による中央政府に反発する先住民の反乱も起きています。アメリカ系黒人は先住民をプランテーションなどで酷使していたことが背景にあります。
西アフリカ西端の
⑪
セネガ
ル
の住民には1872年に市民権が与えられ,フランス本国と同等の立場となりました。しかしこれにはカラクリがあります。フランスは都市部の住民を「市民」として扱うことでセネガルの支配に利用し,都市以外の人には「原住民法」という法律が設けられ,フランスの市民とは別の枠組みに置いたのです。
セネガル各地には現地人の王国がありましたが,順次フランスに滅ぼされていきました。1886年には沿岸部のカヨール(カジョール)王国の〈ラット=ジョール〉が殺害され,1890年にはセネガル南部も平定。1895年には
「
フランス領西アフリ
カ
」の総督部がセネガルのダカールに置かれました。
フランスはセネガルにあった王国の保有していた奴隷を解放しましたが,こうした解放奴隷は"セネガル兵"や下級官吏として,他地域の政権の平定や支配に利用され,フランス的な教育を施すことで「同化」をすすめていきました。1854年に就任した総督〈フェデルブ〉によ
り
落花
生
(らっかせい)の栽培が奨励されていましたが,フランス植民地政府は,落花生栽培を奨励したイスラーム教団をうまく利用していきます。民衆に広がるイスラーム教団の中には,〈ラット=ジョール〉王が師事していた宗教指導者の息子〈アーマド=バンバ〉のように多数の信者を率いる者もおり,フランス植民地政府は〈バンバ〉の教団がフランスに対する抵抗運動につながることを恐れ,1985年にガボンに流刑に処しています
(注
)
。
セネガル人は屈強なことで知られ,フランスの世界各地での軍事行動に精鋭部隊として利用されていきます。『星の王子さま』で知られる作家〈サン=テグジュペリ〉(1900~44)は,ダカールと南フランスのトゥールーズを結ぶ路線のパイロットでした。
(注)小林了編著『セネガルとカーボベルデを知るための60章』明石書店,2010年,p.35。1902年に帰国が許可されると,〈バンバ〉の教団(ムリッド教団(ムリディーヤ))はフランスとの協力姿勢に転換し,フランス植民地政庁の推進する落花生栽培を奨励するようになりました。フランスにとっては教団を介して民衆を農作業に従事させることができるわけで,「間接統治」に近い形となりました。
また,
〈
サモ
リ=
トゥー
レ
〉(1830?~1900)が建設していたイスラーム教
国
サモリ帝
国
(1878~98)も,フランスに滅ぼされています。
○187
0
年
~
192
0
年のアフリカ 北アフリカ
北アフリ
カ
...①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア
アフリカ各地では,ヨーロッパ人の持ち込んだ近代的な武器を戦力とした抵抗運動が,各地で起きました。
・
187
0
年
~
192
0
年のアフリカ 北アフリカ 現①エジプト
◆
「エジプト人のためのエジプト」を目指す初の民族運動は,武力鎮圧された
外債に苦しむエジプトはヨーロッパ諸国の管理下に
エジプ
ト
では1869年
【追H20時期(19世紀後半か問う)】
に
スエズ運
河
【東京H15[1]指定語句】
【追H20】
が開通し,フランス政府とエジプト政府の出資したスエズ運河株式会社により設立・運営されていました。1860年代以降
,
綿
花
のモノカルチャー経済が進んでいましたが,南北戦争後にアメリカ合衆国で綿花生産が再開されると国際価格が急落し,財政建て直しのためにエジプト政府は1862年に外債を発行。借金が積み上がると1875年にエジプト政府
は
スエズ運河株をイギリス政府に売
却
。さらに1876年にエジプト財政が破綻すると,ヨーロッパ列強の国際管理下に置かれ,イギリス人とフランス人が閣僚となって財政管理をする事態となりました。
そんな中,エジプトでは民族意識が高まり1879年にワタン(祖国)党が結成され,エジプト人将校で農民出身の〈アフマド=ウラービー〉(ウラービー=パシ
ャ
【東
京
H19[3],H8[1
]
問題文「アラービ
ー=
パシャ」
】
)により「エジプト人のためのエジプト」をスローガンとし
た
ウラービー運
動
【追H28立憲制を求めたか問う】
【本試験H6成功していない,本試験H12「アラービー=パシャ」の「民族主義的な反乱」の時期】
【本試験H16スルターン制を廃止していない・トルコではない,本試験H25時期】
【セA H30「ウラービー(オラービー)の反乱」】
が起きました。彼らは外国人の入閣している内閣を解散しエジプト人による議会を開設すること,憲法を制定
【追H28】
してムハンマド=アリー朝の総督の権利を抑えるべきことを主張しました。
しかし,借金が踏み倒されることを危惧した外国人の債権者たち
は
ウラービー運
動
に反対し,イギリスの軍事介入により運動が鎮圧されると,1882年
に
イギリ
ス
【本試験H12イギリスかを問う。時期】
はエジプトを事実
上
保護
国
にします(外交権を奪われた状態のことです)
【本試験H6成功していない】
。
宗主権は名目上オスマン帝国が持っていましたが,実際に占領していたのはイギリスであり,さまざまな形でエジプト政府に影響を及ぼしました。指揮した
〈
ウラービ
ー
〉(1841~1911)
【本試験H16】
は,セイロン島(現在のスリランカ)に流刑になりました。この事件については日本でも同情を混じえて盛んに報道され,同志社大学の創立者である〈新島襄〉は1884年にスリランカを訪れ実際に〈ウラービー〉と会談しています。
イギリス代表 兼 総領事〈クローマー卿〉は,1883~1907年の間にエジプトの事実上の支配者となり,エジプトを公式植民地としての支配ではなく"非公式"な方式でイギリスを中心とする世界経済に組み込んでいきました。この現実に対しエジプトでは反イギリスの民族主義運動がじわじわと復活し,〈ムスタファー=カーミル〉(1874~1908)らが「占領を革命で打破せよ!」と訴え活躍しました(1907年に国民党を結成)。
◆
第一次世界大戦後のにワフド党による民族運動が盛り上がり
,
192
2
年の名目的な「独立」へ
ワフド党の運動が実るが,英の経済支配は続く
しかし,第一次世界大戦が始まるとエジプトはオスマン帝国の宗主権から切り離され,イギリスによって完全に保護国下されました。
大戦後,〈サアド=ザグルール〉(1859~1927)はパリ講和会議にも代表団(ワフド)を送ろうとしてイギリスに阻止され,エジプトの独立は戦勝国に認められることはありませんでした。これが発端となり,〈サアド=ザグルール〉を指導者とす
る
ワフド
党
【東京H24[1]指定語句】
【本試験H16時期(第一次世界大戦後に運動を展開したか問う),本試験H18時期,本試験H24ワッハーブ党とのひっかけ】
【追H20地図問題(エジプトの位置問う(縮尺表示なし。「中東」ということは示されている))。ローザンヌ条約を締結した国ではない】
が結成され,1919年にカイロで革命を起こしました。彼は1921年にセーシェルに流されましたが,ワフド党による独立運動は続けられ,イギリスは1922年にエジプトの「独立」を宣言し,1923年には憲法も公布されました。しかし,「独立」は名ばかりのものであり,それ以降もイギリスによる経済的支配は続き
,
スエズ運河地帯の駐
留
も続きました。エジプトの民族主義者の間ではイギリスからの「完全」独立が,次なるスローガンとなっていきました。
・
187
0
年
~
192
0
年のアフリカ 北アフリカ スーダン
◆
スーダンは,近代化を目指すエジプトの財政基盤となった
エジプトの発展の犠牲となったスーダンの不満爆発
エジプトの南方,ナイル川上流
の
スーダ
ン
は,北部はアラブ系,南部は黒人系の人々が分布しており,地域的な一体性はありませんでした。
しかし,近代国家づくりに
これに対する抵抗から,「スーダン人」としての民族意識が次第に形成されていくことになります。
(注)『週刊朝日百科 世界の歴史112』朝日新聞社,1991,B-713。
また,イギリスの支配層はインドへの道の重要地点であ
る
スエズ運
河
の安全保障を図るため,ナイル川上流にあり綿花の栽培も可能なスーダンを押さえる必要性を主張していました。
船大工の子
〈
ムハンマ
ド=
アフマ
ド
〉
【東京H19[3]】
【本試験H8】
は,1881年にウラービー運動が起きるとイギリス
【本試験H18フランスではない】
の進出への抵抗運動をはじめました。彼は自身を「救世主」(マフディー)と称して,イギリス
【本試験H5,本試験H8イタリアではない】
に対するジハード(聖戦)とイスラーム国家の建設を訴えました
(
マフディー派の抵
抗
)
【本試験H16地域・H18,H29共通テスト試行 地図(アルジェリアではない),H29共通テスト試行 ヨーロッパの政治思想の吸収・国民国家の建設・社会主義とは無関係】
【本試験H5,本試験H8】
。鎮圧作戦にはかつて太平天国の乱の常勝軍で活躍した〈ゴードン〉率いる軍が投入されましたが,1885年にゲリラ戦で敗れ戦死しています。その後イギリスの〈キッチナー〉将軍により1898年には鎮圧され,スーダンは1899年に征服されます。これ以降のスーダン
は
イギリスとエジプトの共同統
治
【本試験H12「ムハンマド=アリーの子孫が,オスマン帝国スルターンの宗主権の下で,スーダンと併せて統治していた」か問う】
の下に置かれることとなりました
(
エジプ
ト=
スーダ
ン
)が,すでにエジプトの実質的な支配者はイギリスでしたから,スーダンも実質的にはイギリスの支配下に置かれたことになります。
なお,スーダンはフランスの横断政策
【本試験H5】
とイギリス
【本試験H13スペインではない,本試験H18ドイツではない】
の縦断政策
【本試験H5】
が真っ向から衝突した場ともなりました。1898年にスーダン
の
ファショダ
村
で戦闘に発展
(
ファショダ事
件
【東京H29[3]】
【本試験H5】
【本試験H13時期(19世紀後半),本試験H14地図(ケープ植民地ではない)】
【追H24】英仏のアフリカでの衝突事件か問う
)。
しかし当時の両国にとってのより大きな敵は,アフリカにもしのびよるドイツの存在。そこで,戦っている場合ではない」とフランス側が譲り,戦争の危機は回避されました。
・
187
0
年
~
192
0
年のアフリカ 北アフリカ モロッコ
モロッ
コ
では19世紀末からアラウィー朝の支配権が揺らぎ,1904年4月の英仏協商でフランスにモロッコの勢力圏が認められました。同じ年にはフランスとスペインがモロッコでの勢力圏を分け合っています。しかし1905年にドイツがモロッコのタンジールに進出し,1906年に国際会議でモロッコの独立,領土保全,門戸開放,機会均等が確認されました。しかし1911年にはドイツがアガディールに軍艦を派遣し,モロッコの反スペイン・反フランス運動を支援しようとしました。これに対してフランスはドイツに中央アフリカの今後の一部を与えることで妥協させ,モロッコ支配をあきらめさせました。フランスによる植民地化が進むと,1912年にアラウィー朝はフランスの保護国となりました。
スペイ
ン
【本試験H8地図(スペインのアフリカにおける植民地の分布)】
もモロッコへの軍事的進出をおこない,1859~60年の戦争で
「
スペイン領モロッ
コ
」(地中海沿岸のセウタからメリーリャと,現在のモロッコ南部の
「
西サハ
ラ
」にわたる領域)を形成していました。1920年にモロッコ北部では地方の名望家〈アブド=アルカリーム〉によるスペインからの解放戦争(リーフ戦争)が起き,リーフ共和国が建設されました。
・
187
0
年
~
192
0
年のアフリカ 北アフリカ 現⑥アルジェリア
アルジェリ
ア
では〈ナポレオン3世〉が「同化政策」(アルジェリア人をフランス人と同等に扱い,フランス文化に溶け込ませる政策)をとり,アルジェリア人にフランス国籍を認めていましたが,現地支配層の反発を生み
,
普仏戦
争
で〈ナポレオン3世〉が敗北するとアルジェリアに共和政を打ち立てる運動が起きましたが(アルジェ=コミューン),1871年には鎮圧されました。普仏戦争後にはアルジェリア人もフランスへの大規模な反乱(ムクラーニーの乱)を起こしましたが,こちらも1871年に鎮圧されました。その後もアルジェリア
の
フランス人入植
者
(
コロ
ン
)には本国と同等の権利が与えられましたが,アルジェリア人には同様の権利は保障されず1881年の原住民身分法で人権が厳しく制限されました。19世紀末にはコロンによる自治要求が高まり,フランスにとって対岸の「アルジェリアの自治・独立問題」は悩みのタネとなっていきました。
・
187
0
年
~
192
0
年のアフリカ 北アフリカ 現⑦チュニジア
フランスの支配下に置かれ
,
チュニジ
ア
は安全保障のためオスマン帝国に接近しました。しかし,フランスはベルリン会議の場でチュニジアを勢力圏とすることを列強に認めてもらった上で,1881年にチュニスにフランス軍を上陸させました。フサイン朝チュニジアは外交権と財政権をフランスに譲り渡し,1883年の協定でフランスの保護領になりました
(
チュニジアの保護国
化
【本試験H12時期(1880年代かを問う)】
)。フサイン朝のベイの地位は保障されましたが名目的なものでした。
・
187
0
年
~
192
0
年のアフリカ 北アフリカ
現⑧
リビア
リビ
ア
西部のトリポニタニアは1835年以降オスマン帝国の支配下に置かれていました。
しかし地中海を挟んで対岸のイタリア
【本試験H22ドイツではない】
は,北アフリカ
の
リビ
ア
(
トリポ
リ
地方
と
キレナイ
カ
地方)
【本試験H22】
への進出にを狙い1911~12年にオスマン帝国に突如宣戦し,リビアを植民地化しました
(
イタリ
ア=
トルコ戦
争
,伊土戦争)。
19世紀前半にメッカで創設されたサヌーシー教団
【H29共通テスト試行 史料(解答には不要)】
が,植民地支配に対して抵抗運動を試みましたが,鎮圧されています。
世紀末のヨーロッパに,西欧思想の相対化の動き
世紀
末
(文化史の文脈で「世紀末」(fin-de-siecle,ファン=ド=シエークル)というと19世紀末のことを指すことが多いです)
のヨーロッパでは「デカダンス」(衰退を意味するフランス語です)の風潮が流れ,伝統的な道徳に反する新しい美的センスを訴える人々が現れるようになります。思想家の中にも,社会の急激な変化がもたらしたマイナスの側面に目を向ける人も出てきました。
そんな思想家に,ドイツの
〈
ニーチ
ェ
〉(1844~1900)がいます。産業化や都市化の急速に進んだ社会において,ヨーロッパ人から生き生きとした活力が失われている原因を追究し,ヨーロッパの思想の持っていた悪い要素(キリスト教による道徳)を取り除き,"発想を転換"させることが必要だと主張しました。1882年に『権力への意志』,1885年に
『
ツァラトゥストラはこう言っ
た
』(ツァラトゥストラとは〈ゾロアスター〉のこと)を著しています。彼の思想には,ヨーロッパが〈プラトン〉以降積み上げてきた「哲学」自体をも突き崩すインパクトが秘められていました(反哲学)。
また,〈マルクス〉主義のよって立つ唯物論に対抗し,ドイツを中心に
「
新カント
派
」が影響力を持ちます。当時〈マルクス〉主義は「人間の思想・政治・社会・歴史は経済(人間と物との相互関係)によって決定されるのだから,"頭の中身"だけで理想の社会を語っても,現実の社会問題は解決されない。経済体制を変えるべきだ!」と,〈カント〉に連なる〈ヘーゲル〉らのドイツ観念論を批判していました。それに対して1870年~1920年には〈カント〉哲学の再評価が起き,マールブルク派の〈コーエン〉(1842~1918),〈ナトルプ〉(1854~1924)や,西南学派の〈ヴィンデルバント〉(1848~1915),〈リッケルト〉(1863~1963)が活動します。特に西南学派は,歴史というのは法則を打ち立てる(法則定立的な)自然科学とは違って「文化科学」と考えるべきで,一回限りの「個性記述」的な叙述を心がけるべきだと主張します。
また同じく〈マルクス〉主義に対抗し,物質的な分析では精神の世界はわからないとフランスの〈ベルグソン〉(1859~1941)が主張し,『物質と記憶』(1896),『創造的進化』(1907),『道徳と宗教の二源泉』(1932)などを発表し,1928年にはノーベル文学賞を受賞しています。
文学に社会批判などの「メッセージ性」が付け加えられることへの反発から,イギリスの作家
〈
ワイル
ド
〉(1854~1900)は,「芸術のための芸術」を提唱して『サロメ』などの作品を残しました。彼は耽美主義(たんびしゅぎ)に分類される芸術家です。
文学に社会批判などの「メッセージ性」が付け加えられることへの反発から,フランスの詩人
〈
ボードレー
ル
〉(1821~67)で,『悪の華』(1857)が有名です
。
象徴主
義
【本試験H13バルザックは象徴主義ではない】
というのは,「これ...一体何を表しているんですか...?」となってしまうような美術のことです。内容も「非道徳的」と考えられ,発禁処分になってしまいました。
デカダンスを代表するフランスの小説家〈ユイスマンス〉(1848~1907)は,小説『さかしま』(1884)を発表しています。
◆
ヨーロッパにドイツ・オーストリアの同盟と,フランス・イギリス・ロシアの同盟が形成される
孤高のイギリスが仏・露と接近し,ドイツと対決する
1870年~71年
の
普仏戦
争
(ふふつせんそう)により,プロイセン王国が中心とな
り
ドイツ帝
国
が成立すると,皇帝〈ヴィルヘルム1世〉に信任された
【本試験H13対立していない】
〈ビスマルク〉が中心となり,フランス共和国の反抗を防ぐとともに,フランスがロシア帝国と協力してドイツを"はさみうち"しないように,巧みな外交が展開されました。
しかし,1890年に〈ヴィルヘルム2世〉
【本試験H13ビスマルクと対立したか問う】
【追H20】
【セA H30】
により〈ビスマルク〉が辞職させられると,ドイツ
【追H20】
は
「
世界政
策
」
【H29共通テスト試行 時期(1846年の時期ではない)】
【追H20】
【セA H30】
をとってイギリス
【追H20】
と
の
建艦競
争
が激化していきます。
1891年にロシアとフランス
が
露仏同
盟
(注
)
を結ぶと,ドイツにとっての最悪の構図である,西のフランス・東のロシアの"はさみうち"の状態に陥ってしまいました。ロシアはフランスの資本を頼りにして,19世紀後半から〈ウィッテ〉蔵相により,極東への進出のために急ピッチでモスクワとウラジヴォストーク
【東京H15[3]】
を結
ぶ
シベリア鉄
道
が建設されていきました
【本試験H6時期(帝政ロシアの時代か問う)】
【本試験H2420世紀前半からではない】
。
【本試験H5 グラフ(1780年から1900年にかけての世界の工業生産額中に占める主要諸国の比率)をみて,ロシアを判別する。ほかにはアメリカ合衆国,フランス,イギリス】
(注)1891年に政治協定が成り,1892年以降軍事同盟としての取り決めがすすんでいき,1894年に最終的に決定されました。この間両者の同盟は秘密とされ,公表されたのは1895年のことです。『世界史年表・地図』吉川弘文館2014,p.123
さらに,イギリスがインド洋を取り囲
む
3C政
策
【本試験H2カルカッタがその一つか問う
】
【東
京
H8[1
]
指定語句
】
をとると,ドイツはオスマン帝国と提携してベルリンからイスタンブール(ビザンティウム)→バグダード方面に一気に抜けてペルシア湾に勢力圏を伸ば
す
3B政
策
を推進していきます。
こうして英独関係が悪化するなか,ロシアが東アジアに進出するのは防ぎたいイギリスは,1902年
に
日英同
盟
【本試験H51920年代ではない】
を結び,日露戦争では日本を支援しました。当時のイギリスは南アメリカ戦争で多忙な時期でもあり,"猫(日本)の手も借りたい"状況だったのです
。
日露戦争に敗れたロシアは,東アジアへの進出からバルカン半島への南下へと重点を切り替えたため,その後はバルカン半島が,列強間の争奪の舞台となっていきました。バルカン半島にはスラヴ系の住民が多く,スラヴの名の下にこれらを一つにまとめようという
「
パ
ン=
スラヴ主
義
」を推進し,ドイツ人の勢力圏として一つにまとめようとする
「
パ
ン=
ゲルマン主
義
」
【追H19パン=スラヴ主義を唱えたのはロシア】
と対立していくことになります。
当時アフリカなどで,ドイツとの対立を深めていたフランスは,ロシアを"共通の敵"としてイギリスに接近,1901年に親フランス派のイギリス国王〈エドワード7世〉(位1901~10)が即位し1903年には両国の元首が相互に訪問して結びました
(
英仏協
商
)。この中で「イギリス政府はエジプトの政治的現状を変更する意図を有しないこと」「フランス政府はモロッコの政治的現状を変更する意図を有しないこと」(つまりエジプトはイギリスの勢力下,モロッコはフランスの勢力下であること)を相互に確認しています
(横山信『西洋史料集成』平凡社)
。イギリスとフランスが協力して世界の帝国支配を進め,ドイツを締め出すための取り決めだったということができます。
さらにロシアも,バルカン半島においてドイツやオーストリアとの対立を深めていました。
日本に対する三国干渉(1896)
以来,ドイツはロシアに接近を図っていましたが,イギリスが1905年にロシアとの交渉を提案,日露戦争が終わると極東をめぐるイギリスとロシアの対立も薄れ,イギリスからロシアに対する資本輸出も進みました。
1907年にドイツ
【追H30ロシアではない】
が,カージャール朝から
バグダード鉄道
【東京H15[1]指定語句】
【追H18,H30】
敷設権を獲得したことも,イギリスの危機感をつのらせ,同年1907年
に
英露協
商
が成立しました。結果的に,イギリス・フランス・ロシアの参加国が提携することとなり
,
三国協
商
と呼ばれる陣営ができました。
それに対して,ドイツとオーストリア
【本試験H16日本ではない】
とイタリア
【本試験H13フランスではない】
は
三国同
盟
(1882年成立
【本試験H24時期(19世紀末)】
)という強い絆で結ばれていた...といいたいところですが,実はイタリアは
「
未回収のイタリ
ア
」問題でオーストリアとの関係が悪化し,フランスに接近していきます。その後の第一次世界大戦でもイタリアは,フランスの三国協商側で参戦しています。
○187
0
年
~
192
0
年のヨーロッパ 東ヨーロッ
パ
(注
)
(注)冷戦中に「東ヨーロッパ」といえば,ソ連を中心とする東側諸国を指しました。ここでは以下の現在の国々を範囲に含めます。バルカン半島と,中央ヨーロッパは別の項目を立てています。
①
ロシア連
邦(
旧ソ
連),②
エストニア
,③
ラトビア
,④
リトアニア
,⑤
ベラルーシ
,⑥
ウクライナ
,⑦
モルドバ
・
187
0
年
~
192
0
年のヨーロッパ 東ヨーロッパ 現①ロシア
◆
ロシアでは皇帝支配に反発する組織が設立され,第一次ロシア革命が起きた
日露戦争中の革命で国会開設も,改革は骨抜きに
ロシア皇帝
〈
アレクサンドル2
世
〉
【本試験H10アレクサンドル1世ではない】
の時代,
日本の岩倉使節団がペテルブルクを訪問し,このとき〈伊藤博文〉も彼に謁見しています
。
しかし彼は1881年に,社会改革をめざす暴力的な組織の一員により銃弾で暗殺されました。
代わって〈アレクサンドル3世〉(位1881~1894)が即位。
日本の〈伊藤博文〉は特命全権大使として彼の戴冠式に参加しています
。
1882~1883年にはロシア帝国で大規模なユダヤ人虐殺
(
ポグロ
ム
)が発生し,それから逃れたユダヤ人が西アジアのパレスチナへ移住を開始していました
(⇒1870~1920の西アジア)
。ヨーロッパ諸国からの移住も増え,1897年には世界シオニスト会議を開催した〈テオドール=ヘルツル〉の呼びかけでパレスチナへのユダヤ人入植が推進されていきます。のち
の
パレスチナ問
題
の起源です。
ロシアは1891年以降
の
露仏同
盟
締結以降,フランスからの援助を受け,産業資本主義が発達しようとしていました。
そんな中1894年11月に即位したのが
〈
ニコライ2
世
〉(位1894~1917)
【中央文H27記】
。日清戦争の最中,26歳の若さでの即位です。
彼は皇太子時代の1891年に日本を
(注)『週刊朝日百科 世界の歴史118』朝日新聞社,1991,p.C-741
都市部では短期間で工業が発達しましたが,外資系の企業の労働条件はひどく,20世紀にはいると労働者の中にはストライキを起こすものも現れました。農村でも,地主の支配に反対する運動が頻発していました。
ロシア帝国の政治を批判する組織がいくつか成立したのは,そんな状況下においてです。
まず,1898年
に
ロシア社会民主労働
党
【本試験H5】
【慶文H30】
(初めはロシア社会民主党)は現在のベラルーシにあるミンスク(当時はロシア帝国の領土)で結党に向けて動き出しましたが,直後に弾圧を受けます。
のち1903年にブリュッセルで始まりロンドンで終わった党大会において,〈レーニン〉,〈マルトフ〉(1873~1923),〈プレハーノフ〉によって再組織されますが,党員の資格を広げるか狭めるかをめぐり〈レーニン〉と〈マルトフ〉&〈プレハーノフ〉の間で対立が起き,のちに2つのグループに分裂
【本試験H5時期(第一次世界大戦の勃発後ではない)】
します。
・
〈
レーニ
ン
〉(1870~1924)
【追H20メンシェヴィキを指導していない】
を指導者とす
る
ボリシェヴィ
キ
【本試験H5】
【本試験H14のちの共産党かを問う】
【追H19】
と,
・
〈
プレハーノ
フ
〉(1856~1918)
【本試験H6】
を指導者とす
る
メンシェヴィ
キ
【本試験H5,本試験H6社会革命党ではない】
【本試験H14のちの共産党ではない】
【追H20レーニンは指導していない】
です。
のちにソ連を建設していくのは,ボリシェヴィキのほうです。
ほかに
,
社会革命
党
(エス=エル)
【本試験H6プレハーノフが指導者ではない】
【本試験H14のちの共産党ではない】
や
立憲民主
党
(カデット)
【本試験H14のちの共産党ではない】
がありました。
改革の必要性が叫ばれている中,1904年
に
日露戦
争
【明文H30記】
が勃発します。不利な戦いの中で,1905年1月22日にペテルブルク
で
血の日曜日事
件
【
本試
験H
10日露戦争中に起きたか問う】
【本試験H19日露戦争のきっかけではない】
【追H9】
が起きます
【H29共通テスト試行 図版と時期】
。司祭の
〈
ガポ
ン
〉(1870~1906)が率いたペテルブルクの民衆が,皇帝〈ニコライ2世〉に貧しさを訴えようとしたのですが,宮殿の警備隊が発砲し,死傷者が出たのです。これをきっかけにソ連各地で,農民・労働者・少数派の民族が蜂起を起こします。
モスクワでは労働者・農民・兵士
が
ソヴィエ
ト
(評議会)を建設しました。この評議会は,やがて労働者・農民・兵士が主体の国ができたときに,国の「議会」に発展するものになると,イメージされていました。 さらには海軍が反乱を起こし,事態はいっそう深刻化します。
自由主義者のグループも政治改革を求めるようになると,皇帝〈ニコライ2世〉は事態を収拾させるため
に
十月宣
言
(勅令)
【本試験H6】
【本試験H13農業改革ではない,本試験H30】
を発布し,国会
(
ドゥー
マ
)
【本試験H29ハンガリーではない】
をダヴリダ宮殿に開設
【
本試験H6,
本試験H10閉鎖されたわけではない】
【追H9閉鎖されたわけではない】
(注
)
,言論・集会の自由の承認を約束し,自由主義者の
〈
ウィッ
テ
〉
【中央文H27記】
を首相に任命します。
「自由主義」というのは,皇帝の専制政治に批判的な考えのこと。ドゥーマは一党独裁ではなく,帝政の支持者以外にも複数の政党が当選して,議論を戦わせていました。
(注)出題のヒント センター試験では,ドゥーマはロシア第一革命で「閉鎖」されがち。本当は「開設」。
この一連の革命運動
を
ロシア第一革
命
【追H9血の日曜日事件がきっかけか問う】
といいます。ニコライ2世は国会を開設したものの,立法権は制限されており,肝心の議員を選ぶ選挙制度も平等ではなく,革命運動がある程度しずまると,〈ニコライ2世〉は専制政治を復活しようとしました。この頃の皇帝夫妻は僧侶
〈
ラスプーチ
ン
〉(1869~1916)に心酔していたといわれます。
1906年に首相となった
〈
ストルイピ
ン
〉(1862~1911)
【本試験H12「土地改革によって富農を育成しようとした」か問う】
は,社会民主労働党や社会革命党を弾圧するとともに,専制政治を支持。農民が社会主義的な運動を支持しないように,農民たちを縛っていた農村共同体
(
ミー
ル
)
【追H21コルホーズ,ソフホーズではない】
を解体して自分の土地をもたせ,独立自営農民を育成しようとしました
【本試験H29レンテンマルクを発行した】
。独立自営農民が育てば農業の生産性が上がり,輸出用の作物を増産することもできますし,農民が商品を買うほどができるほどの余裕も生まれます。余裕が生まれれば,農業をせずに工場で働く労働者の候補にもなりえます。
しかし,長きにわたり領主の支配に服していた農民たちが,突然農村共同体を捨てて生活できるわけもなく,改革は不十分に終わりました。
◆
二月革
命(
ロシア暦では「三月革命
」)
により臨時政府が樹立したが,戦争継続に反対する左派が別の政府を樹立し分裂した
臨時政府が成立も,戦争は継続,反対派が抵抗
第一次世界大戦が開戦されてから,ロシア軍は連敗続きです。反戦機運
【本試験H9ヨーロッパの主要参戦国の中に「
この政権転覆のことを,ロシアで
は
三月革
命
といいます。ロシアでは,ローマ以来
の
ユリウス
暦
【本試験H23】
が使われていました
【追H26ロシアの暦は17世紀に廃止されていない】
。
一方,西ヨーロッパでは,1582年にローマ教皇
の
グレゴリウ
ス
1
3世
がうるう年を修正するため
に
グレゴリウス
暦
【本試験H23】
を導入していました(プロテスタントの国々は18世紀までユリウス暦を使い続けます)。この結果,うるう年を修正していないロシアのユリウス暦
(
ロシア
暦
【追H26】
)のほうが,グレゴリウス暦(現在,日本でも用いられている
「
西
暦
」)よりも13日おそくなってしまうので,「二月革命」と「三月革命」
【本試験H9】
の2つの呼び方があるのです。
され,これまで専制政治を批判していたドゥーマ(国会)の議員たちは,臨時政府を樹立しました。政府の主体になったのは自由主義を唱え
る
立憲民主
党
(カデット)などの議員です
。
社会革命
党
(エス=エル)も,この臨時政府を支持しました。
しかし臨時政府は,国民が望む「戦争の停止」を実現させることなく,戦争を継続しました。国内では,労働者や兵士の議会であるソヴィエトは引き続き活動しており,臨時政府とは「別の政府」のような状態になっていました
(
二重権力状
態
)。
弾圧を受けてスイスに亡命してい
た
ボリシェヴィ
キ
【本試験H9[38]ケレンスキーの敵対勢力ということを理解しておく必要あり。H9年度[38]はセンター試験世界史B史上最難問といってよい(※)】
に属する
〈
レーニ
ン
〉は,1916年に『帝国主義論』で「帝国主義とは資本主義の独占段階である」と論じ
,
産業資
本
と
銀行資
本
の結合し
た
金融資
本
が重要な役割を果たすようになること,そのような段階に移行した帝国主義諸国間に破滅的な世界戦争が起きるのは避けられないことなどを主張しました。彼は1917年4月に亡命先
の
スイ
ス
【同志社H30記】
から「封印列車」で帰国すると,「当面する革命におけるプロレタリアートの任務」と題して演説をおこない,「すべての権力をソヴィエトへ」と呼びかけ
る
四月テー
ゼ
【本試験H29】
を発表し,臨時政府への対抗を呼びかけました。
(※)「(...前略)前線では平和に関する布告や土地に関する布告が大熱狂をまきおこしつつある。ケレンスキーは,ペトログラードの火事と流血事件,【 】による婦女子の虐殺,という物語を塹壕に氾濫させつつある。...(後略)」 空欄【 】に入る語句を,①ツァーリ政府②ボリシェヴィキ③臨時政府④立憲民主党から選ぶ問題。
7月にボリシェヴィキが反乱をおこすと(七月蜂起),臨時政府の首相リヴォフ公は辞任し,おなじく立憲民主党の
〈
ケレンスキ
ー
〉(1881~1970)
【追H26コッシュートとのひっかけ】
【本試験H9引用文中に現れる。ボリシェヴィキの敵対勢力ということを理解しておく必要がある】
【本試験H31】
【同志社H30記】
が臨時政府の首相
【本試験H29,本試験H31「臨時政府を率いた」か問う】
になりました。
しかし〈ケレンスキー〉もボリシェヴィキの勢力拡大に対して有効な手立てが打てないとみると,8月陸軍総司令官の
〈
コルニーロ
フ
〉将軍(1870~1918)はボリシェヴィキの掃討
【本試験H10このときボリシェヴィキは臨時政府を支持していない】
のためペトログラードに向かいました。
〈ケレンスキー〉は当初〈コルニーロフ〉を支援しますが,「もしかすると自分自身も倒されてしまうのではないか...」と不安になり,〈コルニーロフ〉を解任してしまう。皮肉なことに,このことがボリシェヴィキの命を救ったことになり,9月にはボリシェヴィキの勢力が全国に拡大していきました。
◆
戦争を継続し,集権化に失敗した臨時政府は,左派による十月革
命
(ロシア暦では十一月革命
【本試験H19ドゥーマの開設の約束はしていない】
)
で打倒された
ボリシェヴィキが権力掌握し,大戦から離脱へ
1917年11月7日,ボリシェヴィキの〈レーニン〉と
〈
トロツキ
ー
〉(1879~1940)は武装蜂起をおこし臨時政府を打倒し,権力を握ります。翌日には,全土にあったソヴィエトをまとめ
る
全ロシ
ア=
ソヴィエト会
議
で新たな政権が樹立されました。戦争は依然として継続していましたが,そもそも大戦を初めたのは,今はなきロマノフ朝です。それを引き継いだ臨時政府が大戦を継続していたのですが,レーニンらはついに講和を宣言しました。
これを十一月革命,ロシア暦では
「
十月革
命
」
【本試験H6「二月革命」ではない】
といいます。
「
平和に関する布
告
」(1917年11月8日)
【東京H18[1]指定語句】
【本試験H24フランスではない】
【早法H27[5]指定語句】
では,すべての敵国に対し
て
無併
合
(領土を要求しない
)
・無償
金
(賠償金を請求しない
)
・民族自決の原
則
(民族が自らの意志に反して,他の民族に支配されない原則)を保障したことが重要です。大戦の原因となった帝国主義への批判でもありますね。この中では,オスマン帝国の跡地を分割しようとし
た
サイク
ス=
ピコ協
定
【本試験H3イギリスの関与を問う】
など,第一次世界大戦前後に交わされ
た
秘密外
交
【早法H27[5]指定語句】
が暴露されました。
また,
「
土地に関する布
告
」
【本試験H23中国で出されていない,H29】
【同志社H30記】
によって,「あらゆる地主的土地私有は無賠償で即時廃止される」とされ,地主の土地を無償で没収し,土地の私有権を廃止しました。これにより土地を没収された作曲家
〈
ストラヴィンスキ
ー
〉(1882~1971)は,その後フランス,さらにアメリカに移住し「火の鳥」「春の祭典」などの代表曲を生み出すことになります。
こうして,ソヴィエト政権
【本試験H18イギリスではない】
はドイツと休戦し,1918年3月に現在のベラルーシに位置するブレスト=リトフスク(現在のベラルーシ南西部の都市)
【本試験H31リード文】
【同志社H30記】
で
,
ブレス
ト=
リトフスク条
約
【本試験H9】
【本試験H13史料(ロカルノ条約の第1・2条)を読みロカルノ条約であると判断する,本試験H18時期】
を結んで講和しました。ソヴィエト政権にとって不利な内容でしたが,当時のソ連にはおつきあいのできる国が他にありませんでしたから,虫の息であったドイツと組むことで,イギリスやフランスを牽制するとともに,ドイツに恩を売ろうとしたのです。"嫌われ者同士仲良く"といった感じです。
◆
ボリシェヴィキは他の政党や反対派を武力で鎮圧し,一党独裁体制を樹立した
ボリシェヴィキによる一党独裁体制が形成
十一月革命以降,ソヴィエト=ロシアの国内で
は
憲法制定会
議
が開催されていました。はじめはボリシェヴィキ以外の政党も参加していましたが,農民の支持を集めていた社会革命党(エス=エル)など
の
他党を武力で追放・禁
止
し,ボリシェヴィキを中心として社会主義をめざす体制に組み替えられました。ボリシェヴィキは共産党と名前を変え,首都もペトログラードか
ら
モスク
ワ
に移転しました
【本試験H14時期(19世紀ではない)】
。
1918年にはボリシェヴィキ一党独裁体制となり,つぎつぎ
に
社会主
義
的な政策が導入されました。〈ケレンスキー〉は1918年にフランスに亡命しています。
なお,最後のロシア皇帝〈ニコライ2世〉の一族は,1917年3月の退位の後,8月にシベリアのトボリスクに流されていましたが,1918年7月16日に皇后と5人の子どもたちとともにエカテリンブルク銃殺されています。その遺体は,1989年に公表されるまで非公開とされ続けます。
(注)
「社会主義」と「共産主義」について
ここでいう
「
社会主
義
」とは,〈レーニン〉の考え方では
「
共産主
義
」の前段階のことを指します。〈レーニン〉はドイツの
〈
マルク
ス
〉の考え方を土台にして,自分の考え方を混ぜて発展させましたから,共産主義のことを〈マルクス〉=〈レーニン〉主義ともいいます。
共産主義とは,財産を「共同所有(みんなのもの)」として,平等な社会をめざす考え方です。英語ではコミュニズムと言いますが,ラテン語の「コムーネ(共有)」を語源とします。しかし,平等な社会を実現させるためには,みんなで分け合うことができるだけの豊かな生産物が確保されている必要がありますね。
そのためにマルクスは,まずは絶対君主を資本家(ブルジョワジー)が倒し,民主主義を実現させている必要があると考えました。民主主義といっても,参加できるのはブルジョワジーだけですので,ブルジョワ民主主義といいます。
資本家は,「封建」的な地主や商人を倒しますが,しだいに労働者階級が成長し,資本家と敵対するようになります。さらに,資本家はビジネスのために世界各地に投資し,政治に参加して国家を動かし,市場や原料供給地を獲得するために植民地を獲得するようになっていく。〈レーニン〉は,これを
「
帝国主
義
」と呼び,世界大戦の原因でもあると考えました。
ここに至って二段階目として,労働者(プロレタリアート)が,暴力革命によって資本家(ブルジョワジー)の支配する体制を倒す時がやってくるとされました。
この過程において,本来であれば労働者階級
(
プロレタリアー
ト
)が主体となっていくのが理想ではありますが,民衆を指導する人はどうしても必要です。〈レーニン〉は,プロレタリアートの中から自分を含めた少数精鋭の指導者がその任務にあたるべきだと考えました。これ
を
プロレタリアート独
裁
といいます。こうして,共産党が中心になって共産主義のための準備をしていきます。例えば,土地を地主から没収して農民に配ったり,企業・銀行を国家が管理したりといった施策です。
しかし,平等な社会の実現には,生産力のアップが不可欠です。また,同時に生産にかかわる人々の間の矛盾(支配する人と支配される人との間の対立)を解消していく必要もあります。準備段階の間に生産力をアップさせつつ,資本家や地主のいない体制をつくりあげていく。こうして社会主義が完成すれば,次の段階の共産主義に移行できる,というのがシナリオです。高い生産力さえあれば,〈マルクス〉が
「
各人は能力に応じて働き,必要に応じて受け取
る
」と言ったような理想的な社会が登場するとされたわけです。そのためには発想の大転換が必要となりますから,思想や教育がたいへん重視されるようになっていきます。
◆
〈レーニン〉の政府は戦時共産主義という厳しい政策をとり,対ソ干渉戦争を戦った
革命を守るため,戦時共産主義による厳しい統治
〈レーニン〉は社会主義を世界中の他の地域でも実現させようと考えていました。「ヨーロッパにはすでに資本家階級が生産力をアップさせ,労働者階級の人口も増えているのだから,いつどこで革命が起きてもおかしくない」と考えたわけです。考えてみると,ロシアはヨーロッパの中でも「遅れた」部類。資本家による革命(市民革命)が不十分なまま,労働者階級による革命が遂行されたようなものです。不利な条件で革命を起こしたソヴィエト=ロシアにとって,革命を成功させた"模範事例"が必要とされました。
1919年3月,モスクワで世界革命を推進す
る
第三インターナショナ
ル
(
コミンテル
ン
)
【本試験H10
】
【
本試
験H
19第二インターではない,本試験H25第二次大戦中ではない】【H30共通テスト試行 戊戌の変法やフィリピン革命の時期ではない】
【セA H30コメコンとのひっかけ】
【中央文H27記】
が創設されました。しかし,敗戦国ハンガリー,ドイツでは,支援もむなしく革命は失敗。アジアでの支援も中国やモンゴル以外は失敗に終わりました
【本試験H31レーニンは「一国社会主義」ではない】
。
さらに追い打ちをかけるように,資本主義諸国や旧ロマノフ朝,それにボリシェヴィキによって追放された政党が,反革命の勢力を形成し,ソヴィエト=ロシアを苦しめます。とくに資本主義諸国(第一次世界大戦の連合国)は,1918~22年
,
対ソ干渉戦
争
【本試験H15,本試験H24】
に乗り出し,シベリアなどに軍を派遣して革命を崩壊させようとします。
特にフランスにとっては,露仏同盟以来さんざん投資をしてきた企業が国有化されてしまうという危機感がありました。日本も,これを北東アジアに支配権を広げる良い機会ととらえ
,
北樺
太
や
沿海
州
を占領しました
(
シベリア出
兵
【本試験H24】
)
(注)
。
ソヴィエト政府
【セA H30】
【追H30】
は
赤
軍
【セA H30】
(赤色は共産党のシンボルカラーです)を組織し
,
非常委員
会
(チェカ)
【本試験H14 1936年憲法による設立ではない】
【追H30】
が国内の反革命運動を取り締まりました。また,農村からは穀物を強制徴発して都市や兵士に配給す
る
戦時共産主
義
がとられました。過酷な徴発により,数百万人の餓死者が出るなど深刻な状況に陥り,1921年頃には共産党独裁への反抗の動きも出ていきました。
そこで〈レーニン〉は,対ソ干渉戦争が落ち着くと,いったん企業の国有化を緩め,農民に余った生産物を自由に市場で販売することを認めて,大企業・銀行・貿易を除いて中小企業が私的に営業することも許可しました。これ
を
新経済政
策
(NEP,ネップ)
【東京H11[3]内容を問う】
【本試験H6「資本主義的な経営の復活を一時認めた」か問う(ネップという語句は示さず),本試験H10時期(1930年代ではない)】
といいます。
「平等な社会の実現のためには,生産力アップが不可欠」というわけで,まずは経済の回復を優先させるため,「やる気」が出るように中小企業の営業を許可したり余った穀物を市場で販売するのを許可しました
【東京H11[3]記述(NEPの内容)】
。多少の貧富の差には目をつむったわけです。しかし,従来考えられていたように農産物の強制徴発がなくなったわけではなく,農民の負担は過酷なものとなりました。
(注)
なおこのとき、中央アジアから革命を逃れて来たイスラーム教徒のタタール人がシベリアに移住。日本政府がビザを発給し、神戸と東京に移住。東京では1938年に
東京ジャーミイ
というモスクが建設されることになります
【セ追H25リード文[3-B] 神戸モスクについても言及】
。
・
187
0
年
~
192
0
年のヨーロッパ 東ヨーロッパ 現②エストニア
,③
ラトビア
,④
リトアニア
バルト三国がロシア帝国から独立する
さて,ロシア革命に刺激されたバルト海東岸
の
エストニ
ア
,
ラトビ
ア
【本試験H16】
,
リトアニ
ア
では,1918年2月にロシア帝国
【本試験H16オスマン帝国ではない】
から
の
独立宣
言
が発表されました。
バルト三国
【東
京
H8[1
]
指定語句
】
の独立は,第一次世界大戦の戦勝国により認められ,北か
ら
エストニア共和
国
,
ラトビア共和
国
,
リトアニア共和
国
の独立が承認されました。
○187
0
年
~
192
0
年のヨーロッパ バルカン半島
バルカン半
島
...
①
ルーマニア
,②
ブルガリア
,③
マケドニア
,④
ギリシャ
,⑤
アルバニア
,⑥
コソヴォ
,⑦
モンテネグロ
,⑧
セルビア
,⑨
ボスニ
ア=
ヘルツェゴヴィナ
,⑩
クロアチア
,⑪
スロヴェニア
◆
バルカン半島はオスマン帝国から順次自立し,大戦後に新興国の独立ラッシュを迎えた
バルカンの民族主義に,帝国主義が干渉,大戦へ
1870~71年には,クリミア戦争の宿敵ナポレオン戦争が,普仏戦争で敗れています。勝ったプロイセンと,オーストリアとの間には,1873年
に
三帝同
盟
を結んでいます
【本試験H19神聖ローマ帝国とビザンツ皇帝との間ではない】
【追H18】
。
ロシアの今度の作戦は,オスマン帝国内にいるスラヴ系の諸民族の独立運動を助けるというものでした。
⑨
ボスニ
ア=
ヘルツェゴヴィ
ナ
,
②
ブルガリ
ア
,
⑧
セルビ
ア
,
⑦
モンテネグ
ロ
などの独立運動を支援することで,独立後に「助けてあげた代わりにいうことをききなさい」と迫ろうとしたのです。
オスマン帝国は敗北し,1878年
に
サ
ン=
ステファノ条
約
【東京H29[3]】
【早法H30[5]指定語句】
【追H30これによりロシアの南下政策は阻止されていない】
が結ばれました。
ここでは
①
ルーマニ
ア
【本試験H15ソ連から独立して成立したわけではない】
【セA H30のちベルリン会議でも承認されたか問う】
,
⑧
セルビ
ア
,
⑦
モンテネグロを独
立
させます。ルーマニアとセルビアはオーストリア(オーストリア=ハンガリー帝国)と接していますから,同じく南下を狙っていたオーストリアvsロシアの構図が強まり,今後バルカン半島が
"
ヨーロッパの火薬
庫
"
【本試験H4石油利権は関係ない】
【H29共通テスト試行 風刺画・時期(第二次大戦中ではない)】
と呼ばれるきっかけとなります。また,モンテネグロを獲得したことで,ロシアはここを利用してアドリア海に出ることが可能になりました。
②
ブルガリ
ア
【本試験H13オスマン帝国最盛期の領域に含まれていたかを問う(含まれていた)】
はこのときに領土を拡大させ,オスマン帝国内の自治という名目で,実際にはロシア
の
保護
国
となりました。
これをみたイギリスも黙っていません。当時の首相は保守党の大物
〈
ディズレー
リ
〉(1804~1881)です。オーストリアもロシアに対して言いたいことはたくさんありますから,これではまとまらない。まとまらなければ,ヨーロッパのバランスが崩れてしまい,ロシアの南下も許してしまう。一番困るのは,三帝同盟(1873年にオーストリアとプロイセンと締結)内の仲間割れです。オーストリアがオスマン帝国を支援し,ロシアがバルカン半島の諸民族を独立させるのを阻止しようとすれば,オーストリアとロシアの仲が悪くなり,三帝同盟は崩壊してしまう。
そこで登場したのが
〈
ビスマル
ク
〉
【東京H20[1]指定語句】
【早法H30[5]指定語句】
です。プロイセン王国の首相ビスマルクは1871年にフランスとの戦争に勝利し,その勢いでドイツを一気に統一し,ドイツ帝国の皇帝
〈
ヴィルヘルム1
世
〉の即位を補佐しました。彼の基本政策は,フランスとロシアの勢力を抑え,ドイツが"はさみうち"になることを回避することです。
もしこの問題に首をつっこんで,ロシアの南下を阻止してしまったら,ドイツはロシアとの関係を損ねることになってしまうわけですが,ロシアの南下を許してしまえば,大切な同盟国であるオーストリアとロシアとの関係も悪くなってしまいます(1873
年
三帝同
盟
)。
しかし,ドイツの指導者にも,南下の野望はある...。利害は複雑ではありましたが,〈ビスマルク〉は
「
誠実なる仲買
人
」と自称し
て
ベルリン会
議
【東京H26[1]指定語句「ベルリン会議(1878年)」】
【本試験H18時期,早政H30史料】
【中央文H27記】
を開催し
,
ベルリン条
約
【本試験H6クリミア戦争の戦後に結ばれた条約ではない】
【早法H30[5]指定語句】
を結ばせます。つまり,「私はどの国の側につこうとしているわけではないですよ。
ヨーロッパ全体の平和のことを考えているんですよ」とアピールしつつ,ロシアの南下を抑えるため
,
イギリ
ス
に
キプロス
島
の行政権(統治権)
【本試験H13オスマン帝国最盛期の領土に含まれるかを問う(含まれる),本試験H18時期,本試験H20地図】
を与えて管理してもらい,オーストリアには
⑨
ボスニ
ア=
ヘルツェゴヴィ
ナ
の両州の行政権を与え
【本試験H15ボスニア=ヘルツェゴヴィナはオーストリア=ハンガリー帝国から独立していない】
,オーストリアのご機嫌もとるという離れわざです。
⑨
ボスニ
ア=
ヘルツェゴヴィ
ナ
は,ボスニア(中世にボスニア王国(1377~1463)が栄えたドナウ川に注ぐボスナ川沿いの地域)と,山脈に区切られた反対側のヘルツェゴヴィナ(アドリア海に注ぐネレトヴァ川沿いの地域。ボスニア王国の支配下にあった)を合わせた地域名です。
2地域には,長らくオスマン帝国の支配下に入っていたことから,ムスリムも分布しています。オーストリアが獲得した「行政権」と
は
ベルリン条
約
によると「軍隊を駐留させ軍事力を維持する権利」を意味します。結果的にロシアとドイツの関係は悪化していきます。
サン=ステファノ条約で認められた
,
ルーマニア,セルビア,モンテネグロの独
立
【本試験H6「ルーマニア,モンテネグロなどの独立」(選択肢に「など」を用いるのは不適である)】
は
,
ベルリン条
約
でも承認されましたが
【本試験H6】
,〈ビスマルク〉の調停するベルリン条約により,ロシアの南下政策は阻止される形となりました。
1908年にはボスニア=ヘルツェゴヴィナはオーストリア=ハンガリー二重帝国
に
併
合
されています
【本試験H3時期を問う(ギリシア独立戦争,エジプト=トルコ戦争,オーストリア=ハンガリー帝国によるボスニア=ヘルツェゴビナの併合の順を問う)】
。
◆
対ロシアのバルカン同盟は,内紛によりヨーロッパの帝国主義諸国の争いに巻き込まれる
バルカン同
盟
v
s
ロシアから,ドイツ側のブルガリ
ア
v
s
その他のロシア側へ
オーストリアの南下に対抗し
た
ロシ
ア
【本試験H26フランスではない】
は1912年に,バルカン諸国をまとめ
(
バルカン同
盟
)
【本試験H5オーストリアに対抗してロシアの指導下に結成されたか問う,クリミア戦争に乗じてオスマン帝国と戦ったのではない】
【本試験H25】
,オスマン帝国と戦って独立を勝ち取らせようとしました。みごと独立が成功すれば,ロシア「助けてあげたのだからいうことをきけ」と言えるわけです。
バルカン同盟に参加したのは,ドナウ川沿いの
⑧
セルビ
ア
,ドナウ川下流の
②
ブルガリ
ア
,アドリア海沿岸に近い
⑦
モンテネグ
ロ
(ボスニア・ヘルツェゴヴィナに接する)そして,
④
ギリシ
ア
(すでにオスマン帝国から独立済み)です。
オスマン帝国が,イタリアとの戦争
(
イタリ
ア=
トルコ戦
争
,1911~12)
【本試験H5クリミア戦争ではない】
【追H30時期(年代)を問う】
に追われていたすきを狙い,1912年に宣戦
(
第一次バルカン戦
争
),ロシアのバックアップしたバルカン同盟側が勝利します。
しかし,せっかく獲得した領土をめぐって,
②
ブルガリ
ア
vs 他の3か国の争いに発展してしまいます
(
第二次バルカン戦
争
)
【追H30バルカン戦争で,トルコはイズミルを回復していない】
。
敗れた
【本試験H5】
【本試験H13勝利していない】
②
ブルガリ
ア
【本試験H5】
【本試験H13第一次大戦ではドイツ側に立って参戦したかを問う】
は,ロシアの属する三国協商側ではなく,オーストリアとドイツの属する三国同盟側に接近するようになっていきました
【本試験H5三国同盟側に接近したのではない】
。
◆
緊張の高まるバルカン半島で,二発の銃弾が,バルカン半島をめぐる争奪戦の口実となった
勢力均衡による安全保障が,連鎖的に崩壊する
そんな中1914年6月,オーストリアの皇帝位の継承者夫妻が,1908年に併合した
⑨
ボスニ
ア=
ヘルツェゴヴィ
ナ
(のちのユーゴスラヴィアの一部)を訪問しにやって来ました。その際,「ボスニア=ヘルツェゴヴィナはセルビアに含めるべきだ。同じスラヴ系として,オーストリアが許せない」とするセルビア人の民族主義者が,公衆の面前でオーストリアの帝位継承予定者夫妻を2発の銃弾で暗殺してしまいました。これ
を
サライェヴォ事
件
【本試験H15のちのユーゴスラヴィアで発生したかを問う】
と
【中央文H27記】
いいます。この日はセルビアにとって重要な祝祭日である聖ヴィトゥスの日であるとともに,1389年にコソヴォの戦いでオスマン帝国に敗北した日でもあり,民族的に重要な日と考えられており,2人の訪問はセルビア民族主義者の愛国感情を逆撫(さかな)でする形となったのです
(注
)
。
(注)ちなみにグレゴリオ暦ではこの日は6月28日ですが,正教会はユリウス暦を使い続けていたのでズレが生じ,6月15日に当たります。
サライェヴォ事件に対して,7月末,オーストリアは
⑧
セルビ
ア
に対して宣戦布告しました。オーストリアをドイツも支援して参戦します
(ドイツとオーストリアは三国同盟を結んでいました)
。
こうしてイギリス,フランス,ロシア
の
協商
国
(連合国)が,ドイツ,オーストリア,オスマン帝国
の
同盟
国
(中央同盟国)を挟む形の対立関係が戦争に発展し,世界各地のヨーロッパの植民地や勢力圏も含
む
第一次世界大
戦
へと発展していったのです。
もちろん初めから"第一次世界大戦"という名称があったわけでもなく,これが未曾有の世界大戦となるとは,同時代の人には思いもよらないことでした。
「サライェヴォ事件」は第一次世界大戦の"きっかけ"ではあるものの,直接的な原因ではありません。何が第一次世界大戦を引き起こしたのか。同時代から,さまざまな見解が発表されてきましたが,第一次世界大戦が"避けられないストーリー"ではなく,重要なことは必ずしも各国政府が大規模な戦争を計画的に望んでいたわけではなかったということです
(注
)
。
列強の金融資本が国家と結び付き発達するにつれて,オスマン帝国をめぐる経済的な対立が高まっていたことも要因の一つです。また,ナショナリズムの高まりにより,国際的な社会主義運動による反戦運動も実現には至りませんでした。サライェヴォ事件から約1か月,「平和」を叫んだフランス社会党の
〈
ジャ
ン=
ジョレ
ス
〉(1859~1914)は1914年7月末に国家主義者による銃弾に倒れています。その翌日から,フランスは総動員体制に入っていくことになります。
(注)ウィリアム・マリガン,赤木完爾・今野茂充訳『第一次世界大戦への道:破局は避けられなかったのか』慶應義塾大学出版会,2017。
・
187
0
年
~
192
0
年のヨーロッパ バルカン半島 現④ギリシャ
王政をとっていた
④
ギリシ
ャ
は,ヨーロッパ諸国による介入を背景とした共和派と王政派との対立により混乱が続いていました。
共和派で首相の
〈
ヴェニゼロ
ス
〉(1864~1936)は協商国側での参戦を望んだものの,ギリシャ国王〈コンスタンティノス1世〉(任1913~17,20~22)や軍は中立政策を主張し対立。大戦の影響が強まると〈ヴェニゼロス〉は協商国側に接近し,亡命した〈コンスタンティノス1世〉に代わり1917年に参戦し,戦勝国となりました。
〈ヴェニゼロス〉はパリ講和会議
で
大ギリシア主
義
(
メガ
リ=
イデ
ア
)の理念のもとアナトリア半島沿岸の割譲を要求しましたが叶(かな)わず
,
ギリシ
ア=
トルコ戦
争
(1919~1922)を始めましたが,選挙で敗北して1920年に退陣し,〈コンスタンティノス1世〉が復位しました。
この間,オスマン帝国の支配下にあっ
た
クレタ
島
では,ギリシア王国への編入を求める運動が起き,1888年にはオスマン帝国が出兵しました。それに対しギリシアの民族主義者は1896年にクレタ島を占領します。
ヨーロッパ列強にとってクレタ島は東地中海の交易の重要地点。
1898年にはオスマン帝国の下での自治権が付与され,「クレタ州」となり,ギリシャ国王〈ゲオルギオス1世〉の次男が総督を務めます。それ以降ギリシアの影響がさらに強まり,1913年の第一次バルカン戦争でギリシャ領となりました。
○187
0
年
~
192
0
年のヨーロッパ 中央ヨーロッパ
中央ヨーロッパ...①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ(旧・西ドイツ,東ドイツ)
・
187
0
年
~
192
0
年のヨーロッパ 中央ヨーロッパ 現⑦ドイツ
遅れをとっているドイツでは,〈ビスマルク〉
【本試験H10】
【早法H30[5]指定語句】
宰相が主導して,ヨーロッパ列強の力のバランスをとりながら,
"
鉄血政
策
"を掲げて軍事力を増強し,巧みな外交術でドイツを強国へと導いていきました
。
社会主義者鎮圧
法
【本試験H12のちに廃止されたかを問う(廃止されました)】
【本試験H28】
【追H25ヴィルヘルム2世が「制定」したか問う(廃止が正しい)】
ドイツ社会主義労働者党
【本試験H10】
を初めとする社会主義者の運動をおさえたり
【本試験H19社会主義者を支援していない】
,南部のカトリック教徒
【本試験H24ユダヤ人ではない】
の政党であ
る
中央
党
(ビスマルクの推進した政教分離に反対)と対立
(
文化闘
争
)
【本試験H9ビスマルクが,カトリック教徒と対立・妥協を繰り返しながら巧みに国家を運営したか問う】
しました。しかし,南部のローマ教会は,弾圧を受けても依然として多くの信仰を集め続けました。
一方,彼
は
社会保険
法
を制定することで,国民の福祉を高め,労働者の支持を取り付けようとしました。彼の政策は,よく"アメとムチ"と表現されます。
しかし,1888年に
〈
ヴィルヘルム2
世
〉(位1888~1918)
【本試験H17フリードリヒ2世とのひっかけ・オーストリア継承戦争を戦ってはいない】
【追H25】
【中央文H27記】
が〈ヴィルヘルム1世〉の後を継ぐと,ビスマルクが精緻に組み上げていった国際秩序がガタガタと崩れ去っていきます。〈ヴィルヘルム2世〉は,〈ビスマルク〉がロシアと締結してい
た
再保障条
約
【本試験H14ナチスとは無関係,本試験H24】
の更新を拒み,さら
に
社会主義者鎮圧法に反
対
【追H25制定していない】
するなど,〈ビスマルク〉と対立し,1890年には彼を辞職させ,宰相は〈カプリヴィ〉(任1890~94)に代わりました。
後を継いだ〈カプリヴィ〉宰相は,〈ヴィルヘルム2世〉の統治の下,ドイツ社会民主党との関係を修復させ
(
社会主義者鎮圧法の廃
止
【本試験H9ビスマルクが社会主義者と対立・妥協を繰り返しながら巧みに国家を運営したか問う,
本試験H12「社会主義者鎮圧法のために第一次世界大戦後まで社会主義政党が誕生しなかった」わけではない】
),労働者の権利を向上させる政策をとって,国内をまとめようとしました。
また,対外的には海軍を大拡張してイギリスに真正面から対抗する計画(
「
世界政
策
」
【本試験H24ビスマルクの政策ではない】
)を推進するとともに,イギリスとの関係改善にも取り組みました。1890年にはイギリスとの間で,ドイツが北海のヘルゴランド島,イギリスが現在のタンザニア沖のザンジバル島の支配を認め合う条約(ヘルゴランド=ザンジバル条約)が結ばれました。一方で,ドイツ領の南西アフリカ(現在のナミビア)から,ドイツ領東アフリカ(タンガニーカ)へのルートを確保するために,南西アフリカの領土を内陸部に細長く延長させて併合しました(現在のカプリヴィ回廊)。
1890年に社会主義者鎮圧法が廃止されると労働運動も盛り上がっていき
,
社会民主
党
(SPD,エスペーデー)
【本試験H12イギリスではない(イギリスは労働党)】
【追H20】
が議席をのばしました。SPDは1912年に帝国議会で第一党になっています。当初は「"革命"によって社会主義を実現しよう」とする方針でしたが,のちに
〈
ベルンシュタイ
ン
〉(1850~1932)のように「〈マルクス〉の考えにこだわらず,これに修正を加えよう。革命ではなく,議会の議席を増やすことを通して法による制度の"改革"をめざし,社会主義を実現させよう」とす
る
修正主
義
(リヴィジョニズム)
【追H20】
があらわれるようになります。
◆
工業化を推進したドイツでは科学技術の研究が発達した
19世紀末にかけ,ドイツの工業生産は右肩上がり。生活水準も上がり,今の体制をぶっ壊す"革命"よりも,今の体制を残したまま悪い部分をなおそうとする"改革"が望まれたのです。この時期に,ドイツ人の科学者たちは,さまざまな技術を編み出すとともに,学問でもドイツ人は目覚ましい業績をあげるようになっていきました。
科学技術は植民地の支配にも遺憾(いかん)なく利用されました。蒸気機関車・電気機関車(電車)の発明により,植民地へのヒト・モノの輸送や内陸部・山岳部からの資源の積出しが容易になっていきました。また,ヨーロッパの科学の知識は,アジア人・アフリカ人・アメリカ大陸の先住民・オセアニア人が,ヨーロッパ人に劣るという前提のもとに組み上げられ,ヨーロッパ人の人種主義を支える役目も果たしていきます。
1895年
,
X
線
【本試験H23ラジウムではない】
を発見した
〈
レントゲ
ン
〉(1845~1923)に,〈ヴィルヘルム2世〉が祝電を送っています。生きた人間の骨を透かす技術は,一大センセーションを巻き起こしましたが,彼自身は注目を浴びるのを避けて断り,1901年の第一回ノーベル物理学賞受賞のスピーチも断っています。X線は,第一次世界大戦の戦傷者の治療に役立つことになります。
生理学の分野ではすでにフランスの〈パストゥール〉(1822~95)が細菌学の基礎を築き,狂犬病の予防接種(1885)を開発していました。さらに,ドイツの
〈
コッ
ホ
〉
(1843~1910)
【本試験H2ジェンナーではない】
【追H20,ベル,ヘルムホルツ,モールスではない,追試H29細菌学を発展させたか問う】
が
,
結核
菌
(1882)
【本試験H2発見者を問う】
,
コレラ
菌
(1883)
【本試験H2発見者を問う】
【追H20】
を発見し,人類とこれらの細菌との長い戦いに終止符を打ちました。
なお,1885年にドイツに留学し〈コッホ〉に師事したのが
,
ペスト菌を発
見
し
,
破傷
風
の治療法を開発した
〈
〈
ジーメン
ス
〉(1816~1892),〈ファラデー〉の発明した電磁誘導を利用して,電磁力の力で動力を得ることに成功し,1879年に
は
電気機関
車
(1879)も発明しています(営業運転は2年後から)。
ドイツの
〈
ディーゼ
ル
〉(1858~1913)は,ガソリン機関に比べ熱効率の高いディーゼル機関を発明し,工場や交通機関に用いられるようになっていきました。
また
〈
ベン
ツ
〉(1844~1929)は1885年に初のガソリン自動車の3輪車を発明し,同年には
〈
ダイムラ
ー
〉が2輪車・翌年に4輪車を発明しました。こうして,20世紀の主役になってい
く
自動
車
【本試験H7年代を問う】
は,イギリスなどに遅れて発達したドイツやアメリカ合衆国の主要産業となっていくのです。また,燃料としてガソリンが用いられたことから,石油への需要が高まり,アメリカ合衆国では1859年
に
原油の機械掘
り
が始まり,"黒いゴールドラッシュ"の時代を迎えることになります。
○187
0
年
~
192
0
年のイベリア半島
イベリア半
島
...
①
スペイン
,②
ポルトガル
・
187
0
年
~
192
0
年のヨーロッパ イベリア半島 現①スペイン
スペインでは1868年,〈イサベル2世〉の下の穏健派の政権が革命により倒れ,続いて即位した新国王も退位して1870年
に
第一共和
政
(1870~73)が樹立されていました。しかし1875年に〈アルフォンソ12世〉(位1875~85)が復位すると,1890年代には保守党と自由党の平和的な政権交代が続き,ようやく政治は安定をみました。
しかし,カリブ海
の
キュー
バ
で1895年に独立を求める反乱が起きると,キューバの輸出全体の9割の砂糖を輸入していたアメリカ合衆国は独立運動に接近して「反スペイン」と「民主化」を求めるキャンペーンを実施。1898年にキューバに停泊していたアメリカの戦艦メイン号が爆発・沈没すると,それを「スペインの犯行」としたアメリカ合衆国はスペインに対する戦争を開始し,スペインの敗北に終わりました。これ
を
米西戦
争
【追H18スペインはテキサスを失ったわけではない,H21】
といい,講和条約
は
パリ条
約
といいます。
パリ条約の結果は以下の通りです。
・
グア
ム
【セA H30】
→無償でアメリカ合衆国に割譲
・
フィリピ
ン
→有償でアメリカ合衆国に割譲
【追H9】【追H21】
・キューバ→独立(ただし,アメリカ合衆国の影響下に置かれることになります)
この敗北をみて,スペインではバスクやカタルーニャにおける民族主義が高まり,王政と時の政権に対する批判も高まって,ますます分裂傾向が加速していきました。
カタルーニャ地方では,19世紀末~20世紀初頭にかけてモデルニスムという新たな芸術・建築を目指す運動が盛り上がり,民族運動とも結びつきました。バルセロナには
〈
アント
ニ=
ガウデ
ィ
〉(1852~1926)が現れ,カサ=ミラ,グエル公園,グエル邸,サグラダ=ファミリア贖罪聖堂,カサ=ヴィセンス,カサ=バトリョ,コロニア=グエル聖堂など,自然をモチーフに斬新な曲線を主体とした建築物を残しました(◆世界文化遺産「アントニ=ガウディの作品群」,1984)。
1886年に即位した〈アルフォンソ13世〉(位1886~1931)の下で二大政党制が続き,1910年~20年代に工業化・都市化が進みました。第一次世界大戦で中立国となったことから輸出経済が好調となり,輸入品を自国で生産する動きも進みました。
一方で,民族主義が共和主義や農民や労働者による社会主義とも結びついて,反体制的な動きが活発化するようになります。1917年のロシア革命の影響も少なくありません。
・
187
0
年
~
192
0
年のヨーロッパ イベリア半島 現②ポルトガル
1870年以降には
,
ポルトガ
ル
か
ら
ブラジ
ル
への移民が急増。ヨーロッパの列強がアフリカ分割を開始すると,1886年に南アフリカ南部に植民地帝国を建設する構想「バラ色地図」を公表しました。これは進歩党内閣の外相〈ゴメス〉がドイツとフランスに根回しした上で,アフリカ南西部のアンゴラから現在のザンビアやジンバブエを通って南東部のモザンビークを横断する「ポルトガル領南アフリカ」の地図を作成したもので,この地図が「バラ色」で塗られていたため,その呼び名があります。しかし,イギリス
の
縦断政
策
と真っ向から対立するこの計画は,1890年にイギリスの圧力に屈して現在
の
ジンバブ
エ
と
マラウ
イ
からポルトガル軍は撤退。これを推進していた国王の威信は低下します。1891年にはポルトにおいて共和主義者が初めて反乱を起こしています。
反政府運動が盛り上がる中,1908年には国王〈カルロス〉(位1889~1908)が王太子とともに暗殺され,代わって〈マヌエル2世〉(1908~1910)が即位。しかし1910年に首都リスボンで共和派の軍人が反乱を起こすと国王は亡命し,〈ブラガ〉が臨時大統領となっ
て
第一共和
政
が成立しました。1911年には憲法(1911年憲法)が制定され,〈アリアーガ〉が大統領に就任しました。王党派による抵抗が起きる中,1913年には民主党の〈コスタ〉内閣が成立。1914年から始まる第一次世界大戦に際しては,スペインはポルトガルとともに中立を宣言しましたが,王党派と共和派の間の抗争により不安定な情勢が続きました。
○187
0
年
~
192
0
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
西ヨーロッ
パ...
現在
の①
イタリア
,②
サンマリノ
,③
ヴァチカン市国
,④
マルタ
,⑤
モナコ
,⑥
アンドラ
,⑦
フランス
,⑧
アイルランド
,⑨
イギリス
,⑩
ベルギー
,⑪
オランダ
,⑫
ルクセンブルク
・
187
0
年
~
192
0
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ 現①イタリア
サルデーニャ王
国
が拡大する形で国家統一し
た
イタリア王
国
【本試験H12時期(独立は19世紀後半か問う)】
では,工業地帯の北部と農業地帯の南部との間の経済格差が大きな問題として残りました。1880年代にはガリバルディのシチリア占領にも参加した経験を持つ,南イタリアのナポリ出身
〈
クリス
ピ
〉首相(1819~1901,在任87~91,93~96)が,中央集権化を図り,国内の社会主義運動を弾圧して統一を進めました。国内の団結を図るため,反フランス政策をってドイツとの三国同盟(1882結成)を強化。また,1890年にはアフリカ大陸の紅海に面す
る
エリトリ
ア
を植民地化,さら
に
エチオピ
ア
に進出しました。
しかし,エチオピア帝国
【東京H19[3]】
は軍隊の近代化を進めており,1896年に
は
アドワの戦
い
で
イタリ
ア
【本試験H5 19世紀にイタリアの植民地になっていない,本試験H8イギリスではない】
に大敗し撤退
【本試験H16敗退したかを問う】
,〈クリスピ〉も辞任しました。エチオピアは
,
リベリ
ア
と並びアフリカ大陸の中でも珍しく植民地化を免れた国の一つです。
のち,1892年に就任した〈ジョリッティ〉首相の下,社会主義勢力から右翼に至るまでの国内のさまざまな勢力をたくみに操り,行政権を拡大させていきました。
しかし,南部の経済的な遅れは後を引き,多数の国民がアメリカ合衆国へに移民として出国しました
(
イタリア人移
民
)。
ローマ教皇
領
は,近代化にともなう世俗化の進行に頭を悩ませていました。しかし,「変化する時代に合わせ,変えるべきところは変える必要があるのだ」とする主張も強まり,1891年に〈レオ13世〉(位1877~1903)はレールム=ノヴァールムという回勅を発表。
これにより,ローマ=カトリック教会は,近代的な価値との共存を模索していくようになります。
・
187
0
年
~
192
0
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現④
マルタ
イギリスに併合されていたマルタ島は,その商業的・軍事的な重要地点として活用されていました。1869年
に
スエズ運
河
が開通すると,ジブラルタル海峡とエジプトの中間地点に位置するマルタ島の重要性は,さらに高まりました。
第一次世界大戦中のマルタには多数の傷病兵が収容され,"地中海の看護師"と呼ばれました。しかし同時に,大戦中に起きたマルタ島民の反イギリス闘争で犠牲者が出たことは,現在でも国民の祝日(6月7日)として記念されています。
・
187
0
年
~
192
0
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現⑦
フランス
科学技術の発達が進み,社会は目まぐるしく変化していました。科学的な事実を小説に織り込み"SFの父"ともいわれる〈ジューヌ=ヴェルヌ〉(1828~1905)の『海底二万里』(1869)や
『
八十日間世界一
周
』(1873)は広く読まれ,科学技術によりますます広がっていく人間の想像力を刺激しました。
フランス
は
普
仏
(プロイセン=フランス
)
戦
争
【本試験H19】
時の〈ナポレオン3世〉の退位で第二帝政は崩壊。パリでは労働者階級を主体とする民衆が政権を打ち立て,〈ビスマルク〉と講和した共和派の〈ティエール〉(1797~1877
,
第三共和
政
大統領在任1871~73)らの建てた臨時政府と対立しました。
このパリの労働者政権
(
パ
リ=
コミュー
ン
【東京H28[3]】
【本試験H3サン=シモンは経験していない,本試験H12フランス史上初の普通選挙を実施したか問う(フランス革命の国民公会の成立前と,1848年の二月革命後にすでに実施されています)】
【本試験H13,本試験H26時期】
【追H20】
)は「あっさり講和するなど許せない」「パリの自由だけは守る」と決起しましたが,臨時政府により鎮圧されました。このとき八月十日事件の舞台となったテュイルリー宮殿は消失しています。
その後のフランスでは,(1)ナポレオン派のグループ,(2)ブルボン家を推すグループ,(3)オルレアン家を推すグループの3派が,今後のフランスの在り方をめぐって争っていました。しかし,最終的には共和政を推すグループが多数派を占め,1875年に
は
第三共和政憲
法
が制定されました
【本試験H16年号「1875年」を問う,本試験H19】
【セ試行 第三共和政は現在まで続いていない】
。
急激な社会の変化を受けて,芸術界の中にも新たな運動を起こす人々が現れます。フランスの美術界は,芸術アカデミーにいる大御所が指導権を握っていました。また,美術の主流は社会をありのままに描こうとうす
る
写実主
義
で,心の内にあらわれる心象風景は軽視される風潮にありました。
これに対抗したのが,のちに
「
印象
派
」
【H29共通テスト試行 ロマン主義ではない】
【追H29ロマン主義とのひっかけ】
と呼ばれることになる
〈
マ
ネ
〉(1832~83),
〈
モ
ネ
〉(1840~1926),
〈
ルノワー
ル
〉
(1841~1919)
【本試験H18自然主義(写実主義)ではない・『
この頃活動していた作曲家の
〈
ドビュッシ
ー
〉(1862~1918)も,東洋の音階をとりいれるなどして,従来の西洋音楽にはなかった音楽を作り上げており,美術家とひとくくりにし
て
印象派音
楽
と呼ばれるようになりました。
ちなみに彼の交響詩「海」の表紙には,〈葛飾北斎〉の浮世絵が刷られています
。
印象派音楽の作曲家としてもうひとりバスク系の〈ラヴェル〉(1875~1937)の名前もあげておきましょう(代表曲はピアノ曲「亡き王女のためのパヴァーヌ」(1899)・「水の戯れ」(1901)、管弦楽曲「スペイン狂詩曲」(1908初演)・バレエ音楽「ダフニスとクロエ」(1912初演)・「ボレロ」(1928))。
1889年にパリ万博に日本美術が大規模に展示されたこともあり,「浮世絵」の画法が一層注目されました。大胆なタッチで知られるオランダ出身の
〈
ゴッ
ホ
〉(1853~90)は,絵画の中に浮世絵の作品を登場させていることで知られます
。彼は
〈
ゴーガ
ン
〉(1848~1917)と共同生活を南フランスで送りますが,意見が合わず絶交。その後,精神不安定な中も作品はつくられつづけ,37歳でピストル自殺をするに至りました。2人は,「サント=ヴィクトワール山」の
〈
セザン
ヌ
〉(1839~1906)と合わせ
て
後期印象
派
(ポスト印象派
(注)
)に分類される画家です。
(注)「後期」というのは「ポスト」の誤訳が定着してしまったもの。あえて訳すなら「印象派-後」派という感じ。
そんな中は,イギリスを筆頭にヨーロッパ諸国が産業革命(工業化)を背景としたアジア・アフリカ・太平洋への進出を加速させていました。国民が一丸となってまとまり,海外に植民地を獲得しようとする動きが強まっていたのです。例えばこの時期から20世紀までにフランスは
,
インドシ
ナ
(現在のヴェトナム,カンボジア,ラオス
【京都H19[2]】
),アフリカ
の
マダガスカ
ル
【本試験H19ドイツではない,本試験H20地図】
,
サハラ沙
漠
周辺の広大な領土,南太平洋
の
ポリネシ
ア
(20世紀後半にフランスの核実験場となる)などを獲得していきます。
しかし,共和政には反対意見も多く,先程の(1)~(3)のグループが王政・帝政を復活させようとする動きも加速し,政治はなかなかまとまりません。
混乱の中で,ユダヤ系軍人に対する冤罪(えんざい)事件
(
ドレフュス事
件
(1894))
【セ試行 ブーランジェ事件とのひっかけ】【本試験H3ナポレオン3世により解決されていない,本試験H9時期(19世紀後半か)】
【本試験H23,H30】
【中央文H27記】
や,陸軍関係者によるクーデタ未遂事件
(
ブーランジェ事
件
(1886~89)
【セ試行 ドレフュス大尉の判決に関する事件ではない】
)
【追H20時期(第二帝政下ではない)、H24英仏のアフリカでの衝突事件ではない】
も起きています。ドレフュス事件に際しては,『居酒屋』『ナナ』で有名
な
自然主
義
【本試験H11】
【追H20ロマン主義ではない】
の作家の
〈
ゾ
ラ
〉
(1840~1902)
【東京H25[3]
】
【
本試験H11:ロマン主義ではない,本試験H12】
が「余は弾劾す(私は弾劾する)」と,濡れ衣を着せられた〈ドレフュス〉を味方しました。〈ドレフュス〉は南アメリカのギアナに流されたのち1899年に再審が実現し,1906年には無罪となっています。
な
お
自然主
義
とは,"きれいごと"を描くロマン主義に反発し,社会のさまざまな問題
を
自然科学の知識にもとづい
て
【本試験H12「科学的観察を重んじる,ゾラなどの自然主義文学が台頭した」か問う。時期(19世紀後半か問う)】
正確に記述し,社会をよくしていこうとする文学ジャンルのことです
【本試験H15ロマン主義ではない】
。
フランスが国としてまとまろうとすればするほど,ユダヤ人への迫害も強まり,ユダヤ人たちの中には「自分たちは"フランスのユダヤ人"ではなく,パレスチナを故郷とする"ユダヤ人"なんだ!」と考える人々も出てきました。フランスやイギリスが国民により構成されたまとまりのある国家を建設しているように,「ユダヤ人の国家」を建設するべきだという思想
を
シオニズ
ム
といいます。ドレフュス事件の取材にもあたった新聞記者で1896年に『ユダヤ人国家』を著したハンガリーはブダペストの生まれの〈テオドール
=
ヘルツ
ル
〉(1860~1904)は,1897年にスイスのバーゼル
で
第一回シオニスト会
議
を開催しました。自分たちの国家をどこへ建設するべきか,議論が活発化していきました。背景には,当時ロシアを中心とする東ヨーロッパで起きていたユダヤ人迫害
(
ポグロ
ム
)に対する危機感もありました。
さらに産業革命(工業化)の進行にともない労働者が増え,労働運動もヒートアップしていきます。フランスの労働運動の特色は,イギリスのように政党が中心となったのではなく,労働組合が直接行動によって革命を起こそうとした点にあります。全国レベルで労働者が働くことを拒否して,雇い主に改革を迫ることを,ゼネ=ストといいます。ゼネ=ストによって一気に社会に革命を起こそうとする運動を
,
サンディカリズ
ム
といいます。労働者の運動が鎮静化するのは,1905年にフラン
ス
社会
党
【追H20パリ=コミューンは組織していない】
が成立してからのことです。
1905年には,政治へのカトリックの介入を防ぐ
,
政教分離
法
が発布されました。ローマ=カトリックは国境を越える宗教なので,国民が一致団結するべきだとする国家(国民国家)にとって,ふさわしくないと考えられたのです。これ以降,フランスでは公共の場における宗教的な要素の禁止が厳しく守られてきましたが,20世紀後半にイスラーム教徒の人口が増えると,フランスの政教分離の在り方に問題が出てくることになります。イスラーム教は,生活の中に宗教的な要素が強く結びついているためです。
このころの思想界では,
〈
ベルクソ
ン
〉(1859~1941)が『創造的進化』(1907)を著しています。また科学者としては
,
細
菌
の研究をした
〈
パストゥー
ル
〉(1822~1895)が有名です。彼により,細菌が病気の原因であることが突き止められ,その予防や殺菌法(牛乳などに用いられる低温殺菌法は,彼の名前をとって英語でpasteurize(パストゥーライズ)といいます)が確立されました。これにより,前700万年前から続く人類と細菌との戦いは,新たな局面を迎え,衛生環境の向上によって人類の寿命
の
高齢
化
と人口の激増
(
人口爆
発
)がもたらされることになります。
また,放射能が1896年にフランスの〈ベクレル〉(1852~1908)によって発見され,1898年に
〈
キュリー夫
妻
〉
【本試験H8】
がラジウム
【本試験H8】
を発見しています。
さて,1914年にサライェヴォ事件が起きるとに,国際関係に緊張が走ります
。
第二インターナショナ
ル
を中止とする国際的な社会主義運動による反戦運動も,ナショナリズムの高まりには対抗することができませんでした。
サライェヴォ事件から約1か月,「平和」を叫んだフランス社会党の
〈
ジャ
ン=
ジョレ
ス
〉(1859~1914)は1914年7月末に国家主義者による銃弾に倒れています。その翌日から,フランスは総動員体制に入っていくことになります。
・
187
0
年
~
192
0
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
⑧
アイルランド
,⑨
イギリス
1873年の大不況により,つぶれてしまった中小企業を大企業が飲み込み,企業は巨大化していきました。科学技術もさらに発達し,鉄鋼や化学製品などの重化学工業も発達していきます。科学小説
(
S
F
,エスエフ)という分野も,この時期のイギリス人
〈
ウェル
ズ
〉(1866~46)が始めた分野です(『タイムマシン』(1895),『透明人間』(97),『宇宙戦争』(98))。また,医師業のかたわら小説を執筆した〈コナン=ドイル〉(1859~1930)も恐竜の登場する『失われた世界』(1915)というSF小説,推理小説『シャーロック=ホームズ』シリーズ(1887~1927)を残し,国民的な作家となりました。
さらに,海外では圧倒的な海軍力によって,世界各地に自由な貿易を要求し,自国に有利な体制を作り上げようとしました。
しかし,植民地があまりに広くなりすぎてしまったため,支配にかかるコストが高く付くようになってしまいました。そこで,"重荷を降ろす"ように,植民地をランク付けして,植民地の人々に政治を任せられる部分は,任せるようになっていきました。例えば,白人植民者の多い地域
,
カナ
ダ
はいち早く1867年
に
自治
領
(ドミニオン)
の
カナダ連
邦
【本試験H25イギリス連邦の一員ではない。まだイギリス連邦はない】
になっています。ただ,カナダはフランス人が早くから入植した地域なので,今日に至るまで,東部に行けばいくほどフランス系住民が多いのが特徴です。1926年にカナダ
が
イギリス連
邦
の一員として正式に独立した際には
【本試験H2519世紀ではない】
,イギリスの旗入りのデザインの国旗が使われていましたが,フランス系住民のことを考えて,1965年には,特産物のサトウカエデ(メイプルツリー)の葉がデザインされた国旗に変えられました。
のちに,白人植民者の多
い
オーストラリア連
邦
(1901)
【本試験H14時期は第二次大戦後ではない,本試験H27時期】
,
ニュージーラン
ド
(1907)
【追H30】
,
南アフリカ連
邦
(1910)も,順次
,
自治
領
(ドミニオン)に昇格していきました。
しかし,その他の地域では厳しい植民地支配が続きました。世界中に植民地を持つイギリスのロンドン近郊グリニッジを通る子午線(経線)が1884年の国際会議
で
本初子午
線
として定められ,この線を基準に各国・各植民地の標準時が決められていきました。ついに世界は"時間の一体化"の段階に進んでいくのです。
植民地で,イギリス式の教育を受けたり留学した人々の中から,植民地支配に反対する動きが起こりました。例えば,カリブ海出身のアフリカ系である
〈
ウィリアム
ズ
〉は,1900年にはロンドン
で
パ
ン=
アフリカ会
議
を開きました。これには,カリブ海の出身者だけでなく,アフリカ人たちも参加し,人種差別や植民地支配に反対をしました。
また,1912年には南アフリカ連邦
で
アフリカ民族会
議
(初めは南アフリカ先住民会議という名称~1913年)
【追H30民族解放戦線ではない】
がつくられています。南アフリカでは1913年に原住民土地法が制定されるなど,差別が強化されていました。
さて,植民地の支配方式をめぐっては,イギリス国内で二大政党
(
自由
党
【早政H30】
と
保守
党
【早政H30】
)間の対立がありました。
1868 ★保守党〈ディズレーリ〉内閣→1868~74 ☆自由党〈グラッドストン〉内閣→1874~80 ★保守党〈ディズレーリ〉内閣→1880~85 ☆自由党〈グラッドストン〉内閣→1885~86 ★保守党〈ソールズベリ侯爵〉内閣→ 1886 ☆自由党〈グラッドストン〉内閣→1886~92 ★保守党〈ソールズベリ〉内閣→1892~94 ☆自由党〈グラッドストン〉内閣 →1894~95 ☆自由党〈ローズベリ伯爵〉内閣 → 1895~1902 ★保守党〈ソールズベリ〉内閣 →1902~05 ★保守党〈バルフォア〉内閣→1905~08 ☆自由党〈キャンベル〉内閣 →1908~15 ☆自由党〈アスキス〉内閣 のように, ★→☆→★→☆...の政権交代が続きます。
自由
党
の
〈
グラッドスト
ン
〉(任1868~74,80~85,86,92~94)内閣
【本試験H21マクドナルド内閣ではない】
【早政H30】【明文H30記】【中央文H27記】
【※センターでは意外と頻度低い】
のときには,労働組合法
【本試験H3労働党内閣のときではない】
【本試験H31時期を問う(17世紀)】
により労働組合が合法化されました
【本試験H31「組合の法的地位が認められた」か問う】
。
保守
党
【セA H30労働党ではない】
の
〈
ディズレー
リ
〉首相(任1868,1874~80)
【セA H30】
【早政H30】
の時代の対外政策は,以下のようなものです。
(1)1875年
【追H20時期(19世紀前半ではない)】
に
スエズ運
河
【本試験H14地図】
【追H20】
会社の株を買収し
【本試験H14】
。フランスの〈レセップス〉が必死に集めたフランス個人投資家と〈ムハンマド=アリー〉の出資金で1869年に開削したスエズ運河は,当時経営難に陥っており,当のフランスも普仏戦争後の莫大な賠償金とパリ=コミューンの成立による政情不安定な状況でした。エジプトがスエズ運河会社株を売りに出そうとしている裏情報は,ユダヤ人のロスチャイルド家経由で〈ディズレーリ〉の耳に届き,機敏な判断でロスチャイルド家からの融資により株式を購入して経営権を乗っ取ることに成功しました。そのとき〈ディズレーリ〉から女王に送られた手紙には「ただいままとまりました。運河は陛下(へいか)のものです」(You Have It, Madam)という言葉が。
(2)1877年
,
インド帝
国
(
英領イン
ド
)
【本試験H3】
【追H18統計の読み取り】
が成立。
(3)ロシア=トルコ戦争に介入して,ロシアの南下を防ぎ,インド・ルートを保障。
1880年代には,自由党
の
第二次グラッドスト
ン
(1880~85)内閣が,エジプト
の
ウラービーの
乱
(1881~82)
【本試験H12「アラービー=パシャ」時期】
を鎮圧して支配下におきます。
スーダン
の
マフディー派の抵
抗
(1881~1899)
【本試験H5】
の鎮圧のために,太平天国で活躍した〈ゴードン〉を派遣(のち戦死)したのも,アフリカの植民地分割に関す
る
ベルリン会
議
(1884~1885)が開かれたのも,〈グラッドストン〉のときです。
1895年には
〈
ジョゼ
フ=
チェンバレ
ン
〉(1836~1914)
【本試験H18カニングとのひっかけ,本試験H27アメリカ合衆国の人物ではない】
【追H20労働党ではない】
が,第三次〈ソールズベリー〉内閣の植民地大臣になると,ダイヤモンド鉱山業で莫大な財を成し1890年にケープ植民地首相となっていた"アフリカのナポレオン"ともいわれた
〈
セシ
ル=
ロー
ズ
〉(1853~1902)
【東京H24[3]】
【H29共通テスト試行 風刺画・時期(第二次大戦中ではない)】
との連携を強めていくようになりました。彼の設立したデビアス社は「永遠の輝き」のキャッチフレーズでおなじみの,巨大ダイヤモンド企業です。〈セシル=ローズ〉は初めオランダ系のアフリカーナー(ボーア人)の地主と提携して先住民を抑える政策をとっていましたが,しだいにアフリカーナー(ボーア人)の建国した国家(ダイヤモンド鉱山が発見されていました)に対する欲求が強まっていきました。〈ローズ〉は「夜空に多くの星がある。私は惑星をも併合してみたい」とまで言っています
(注
)
。
(注)当時のイギリスの支配層には,アフリカ大陸のエジプトのカイロ(
C
airo)と南アフリカのケープタウン(
C
apetown)を縦に結びつけ,さらにインド帝国のカルカッタ(
C
alcutta)
【本試験H2】
と結び,インド洋を取り囲む形で支配下におさめる野望がありました。これを日本で
は
3C政
策
【本試験H2】
【本試験H13ドイツの政策ではない】
と呼んでいます。〈セシル=ローズ〉語録 「われわれは原料がたやすく手に入る新しい土地を見つけなければならない。そして,同時に植民地の先住民から安い労働力を徴発しなければならない。しかも,植民地はわれわれの工場での余剰商品を投げ売りする場でもなければならない」参照 クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.358。
1895年末には〈ローズ〉の設立した南アフリカ会社の〈ジェームソン〉率いる部隊がトランスヴァール共和国
【本試験H10】
に侵入しましたが,失敗しました(ジェームソン侵入事件)。これに対し1896年1月にドイツの〈ヴィルヘルム2世〉がトランスヴァール共和国に送った祝電が世間にバレたことで,イギリス世論の対ドイツ意識が悪化(クリューガー電報事件)。英独関係に亀裂が入りました。〈ローズ〉も同月に支持を失い辞任すると,イギリス
【本試験H10フランスではない】
本国(ほんごく
(注
)
)の〈ジョゼフ=チェンバレン〉植民相が積極的にケープ植民地に介入し
,
南アフリ
カ
(
ボー
ア
)
戦
争
【本試験H10戦争の名称は問われない,本試験H12時期(軍事費が1900~01年に多いことを読み取る)】
が引き起こされました。
(注)本国というのは,植民地を支配する国のことです。例えばアメリカ13植民地の本国は,イギリスでした。宗主国という言葉とほぼ同じです。
これに対抗しようとしたドイツ帝国は,首都ベルリンからオスマン帝国のイスタンブール(旧名はビザンティウム)を通り,イラクのバグダードに向かってペルシア湾からのインド洋進出を狙っており
(
3B政
策
【本試験H13 3C政策ではない】
),英独関係は緊迫化していきました。「より大きな軍艦を作れば戦争に勝てる」と信じられ,1906年にケタ外れの大きさを誇るドレッドノート級戦艦が建造されると
,
建艦競
争
はさらに激化しました。
この時代は
〈
ヴィクトリア女
王
〉
(位1837~1901)
【本試験H6】
【早・政経H31即位年代】【中央文H27記】
が君臨したことから
「
ヴィクトリア時
代
」とも呼ばれ,自由党と保守党が対立する二大政党政治が展開された時代でした。1899年にはロンドンの人口は600万を超える世界最大の都市となります。
〈ヴィクトリア女王〉の家族は,従来の"スキャンダル"続きの王室とはうって変わり,"慈悲深い母親""清純な妻"
【H29共通テスト試行 女性も家庭の外で働くことが望ましいという価値観ではない】
,
"
イギリスの中産階級の家族の象
徴
"
【H29共通テスト試行 リード文の下線部・図版】
というイメージが国民の間に広まりました
【本試験H25リード文】
。
彼女の家柄経由でドイツから持ち込まれ
た
クリスマスのシーズンにモミの木を飾る習
慣
は,この頃イギリスにも広まったのです。彼女は女性だったため,ハノーファー選帝侯を兼任することはありませんでしたが,子どもや孫たちはヨーロッパの王家に嫁いでいったため,"ヨーロッパの祖母"ともいわれ,ドイツ皇帝〈ヴィルヘルム2世〉も彼女の孫にあたります。また,〈ヴィクトリア女王〉の肖像は植民地の硬貨などのデザインにも用いられ,世界中の植民地をまとめる"帝国の母"でもありました
【本試験H25リード文】
。
1877年に
は
インド帝
国
【本試験H3,本試験H6】
【本試験H19ムガル帝国ではない】
の皇帝
【本試験H3ムガル皇帝の子孫が皇帝になったのではない,本試験H6】
【本試験H13】
も兼ねていますが,現地を訪れることは一度もありませんでした。
◆
工業製品に反発する運動や,環境を保護する運動が現れた
アー
ル=
ヌーヴォーとナショナ
ル=
トラスト
国内では,大企業の発展にともない,さまざまな運動が起きていました。
どこもかしこも,工場で作られた無機質な日用品ばかり。それに対して1880年に
〈
ウィリア
ム=
モリ
ス
〉(1834~1896)は
,
アー
ツ=
アン
ド=
クラフト運
動
を起こし,かつて中世の職人によってつくられていた製品の中の美を再評価し,自然をモチーフにしたデザインの壁紙,カーペット,織物などを提案しました。彼は"近代デザインの父"ともいわれます。この運動に,工場制機械工業で失った人間らしさを取り戻そうというメッセージを込めていたのです。
のちに1890年代~1910年にヨーロッパで流行し
た
アー
ル=
ヌーヴォ
ー
(植物の文様が特徴です)という芸術運動にも,大きな影響を与えます
(注
)
。
(注)ベルギーのブリュッセルに建設された〈ヴィクトール=オルタ〉(1861~1947)による邸宅は,鉄やガラスの組み合わせにより植物的な曲線を可能にし,アール=ヌーヴォーに大きな影響を与えました(◆世界文化遺産「建築家ヴィクトール=オルタによるおもな邸宅(ブリュッセル)」)。
また産業革命(工業化)以降進んでいった環境破壊に対し,環境保護の意識も高まっていきます。1895年にはロンドンのスラム問題に取り組んだ社会運動家の〈オクタヴィア=ヒル〉(1838~1912)らにより,土地や建物の環境や景観を保護するために買い上げて保存する運動
(
ナショナ
ル=
トラスト運
動
)がスタートしました。
◆
選挙法改正により選挙権が労働者に拡大され,労働者政党も結成された
選挙権が広がり,政党による穏健な運動が主流に
労働者の権利の保護や,選挙法の改正
【早法H29[5]指定語句「選挙法改正」】
をめざす運動も盛んになっています。そこで,地主の支持を受けてい
る
保守
党
の〈ダービー〉内閣(任1852,1858~59,1866~68)は,産業資本家の支持を受けてい
る
自由
党
に対抗し,増加する都市労働者からの票をゲットするために,1867年
の
第二回選挙法改
正
で,都市労働者
【本試験H25農業労働者ではない】
に選挙権を与えました。彼らは,1848年にもっとも盛り上がっ
た
チャーティスト運
動
の担い手であり,彼らの不満を封じ込めるねらいもありました
【本試験H9自由党・保守党の対立で,選挙権の拡大が阻まれたわけではない】
。
しかし,これに対抗した自由党の
〈
グラッドスト
ン
〉内閣は1884
年
第三回選挙法改
正
で農業労働者
【本試験H23】【本試験H25女性ではない】
と鉱山労働者に選挙権を認めました。彼は,労働組合法で労働組合を合法化,アイルランド土地法で小作料を引き下げ,義務教育法
(
教育
法
【本試験H3ウォルポール首相ではない】
)
【本試験H21】
で義務教育を無償化するなど,国民の支持を取り付けるさまざまな法を制定していきました。
例えば,社会主義者
〈
ウェッ
ブ(妻
)
〉により
,
フェビアン協
会
【本試験H10カルボナリとのひっかけ
】
【
本試
験H
30時期】
という知識人中心の社会主義団体が結成されています。アイルランド出身の劇作家
〈
バーナー
ド=
ショ
ー
〉(1856~1950)や
〈
ウェッ
ブ(夫
)
〉(1858~1943)がメンバーです。議会を通して
「
福祉国
家
」をつくり,社会主義の実現をめざす穏健派です。
また,労働組合も作られていましたが,労働者の政党がなかったため,1900年
に
労働代表委員
会
が組織され,1906年
に
労働
党
【本試験H5,本試験H12社会民主党ではない】
に発展しました(労働党は結党を1900年としています)。こちらも議会を通じてゆっくりと社会主義を実現しようとする穏健派です
【本試験H12「様々な社会政策の実現を目指した」か問う】
。
1905年の自由党内閣は,「もはや労働者の動きを無視することはできない」と考え,労働党の協力を得ることにしました。1911年に
は
国民保険
法
(疾病保険・失業保険を含む
)
が制定されるなど国民の社会保障が進みましたが,当時はドイツが海軍を拡張していた時期でもあり,予算確保の必要です。そこで,高額所得者への税率アップや相続税の税率アップによってまかなおうとしましたところ,案の定,保守党議員の多い上院が反対しました。これに対し1911年に
〈
アスキ
ス
〉内閣(1908~12)
は
議会
法
【追H30】
を成立させ,予算案&法案の可決について「下院>上院」
【追H30上院優位ではない】
の原則を確立することに成功しました。
また,〈グラッドストン〉内閣のときからの懸案事項だっ
た
アイルランド自治法
案
【本試験H30】
【早政H30】
は,ようやく1914年に法律として成立。しかし,イギリス人の入植者が多い北部アイルランド(イギリス国教会多数)は反対し
,
アイルランド独
立
(アイルランドはカトリック多数)と対立しました。アイルランド独立派
は
シ
ン=
フェイン
党
【追H27ビルマではない】
【本試験H4アイルランドの親英派による結成ではない。反英派である】
を中心に独立運動を展開しますが,結局自治法は第一次世界大戦勃発を口実に延期されます。
これに対し独立過激派が1916年に武装蜂起
(
イースター蜂
起
)を起こすも,鎮圧されるという流れです。
国民全員が何らかの形で動員され
る
総力
戦
【東京H18[1]指定語句】
である第一次世界大戦が1914年に始まると,女性も軍需工場などでの人手として活躍することになり
【本試験H9「軍需工場でが生産に従事する国もあった」か問う】
【本試験H15第一次大戦中に欧米の参戦国で女性の職場進出が進んだ国もあるか問う】
,1918年に
は
第四次選挙法改
正
で21歳以上の男子と,
3
0
歳以上の女子にも参政
権
が与えられました
【本試験H11「第二次世界大戦以前に,ヨーロッパで,女性が選挙権を持っている国はなかった」か問う,本試験H12 1918年に女性が参政権を獲得したか問う】
【大阪H31 論述(古代ギリシアの民主政と比較しつつ、近現代の西欧の参政権の範囲の変遷について述べる)】
。
・
187
0
年
~
192
0
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ 現⑩ベルギー
ベルギー王国では自由主義が発展し,アフリカの植民地支配がすすみ,国内では政教分離に対する保守派との対立が生まれた
低地地方南部
の
ベルギー王
国
では,1865年にはその子
〈
レオポルド2
世
〉(位1865~1909)が王位を継承しました。1876年に中央アフリカ協会を設立しアフリカへの植民地進出を本格化させ,〈スタンリー〉に中央アフリカを探検させています。
ベルギー
【セA H30】
国王〈レオポルド2世〉はコンゴ盆地一帯
を
コンゴ自由
国
(1885~1908)
【本試験H8地図上の位置】
【セA H30ナイジェリアではない】
として,自身の私領として
コンゴから
は
ダイヤモン
ド
の原石が輸出され,アントウェルペンはダイヤモンドの研磨・加工産業の中心地となりました。ダイヤモンド産業に従事していたのは,この地に多く住むユダヤ人でした。
◆
永世中立国宣言をしていたベルギーは,第一次世界大戦でドイツの侵攻を受けた
〈アルベール1世〉(位1909~34)のときに第一次世界大戦が起こり
,
永世中立
国
を宣言していたのにもかかわらず,ドイツ帝国による侵攻を受け,国土の大部分が占領されました。
第一次世界大戦後には,ドイツの植民地だったアフリカ
の
ルワン
ダ
と
ブルン
ジ
を,国際連盟の委任統治領として獲得しています
(⇒1870~1920のアフリカ 東アフリカ)
。
・
187
0
年
~
192
0
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ 現⑪オランダ
,⑫
ルクセンブルク
◆
オランダでは自由主義による政教分離政策に対し,宗教勢力との対立が続いた
オラン
ダ
と
ルクセンブル
ク
は国家連合を形成していました。ドイツの工業地帯における産業革命(工業化)の恩恵を受け,工業化が進展。自由主義的な思想が台頭するとともに,子どもたちに宗教教育をおこなうべきかいなかを巡る論争が続いていました。政教分離を進めようとする自由主義政権に対し,オランダ国内のカトリックとプロテスタント勢力(両者は
一方,工業化の進展にともな
い
労働
者
階級の人口も増え,労働党が結成されています。政府も国力を高めるため,国内の問題を解決して国をまとめる必要に迫られ,1909年に義務兵役制,1913年に義務教育を導入し,1917年の憲法で公立学校と宗教系の学校の同権が定められました(現行のオランダ憲法の第23条)。また,参政権を要求する労働者の不満が爆発するのをおそれ,1917年には男子普通選挙権・比例代表制が議会で承認され,1919年に
は
女性参政
権
と1日8時間労働制が制定されました
【本試験H11「第二次世界大戦以前に,ヨーロッパで,女性が選挙権を持っている国はなかった」か問う】
。
第一次世界大戦(1914~1918)が起こると,1914年7月末には戦時体制をとりましたが,オランダは戦場にはなりませんでした。
◆
ルクセンブルク大公国とオランダ王国の国家連合は
,
189
0
年に解消した
ルクセンブル
ク
はドイツとの経済的な協力関係を強め,国内の鉄鉱石を周辺のザールやロレーヌの石炭と結びつけ,工業化が推進されてきました。1890年にネーデルラント連合王国(オランダ王国)国王 兼 ルクセンブルク大公が亡くなり娘がオランダ王位を継ぐと,女系の継承を認めていないルクセンブルクは,新たにドイツの領邦君主(ナッサウ=ヴァイルブルク家)の〈アドルフ〉を招いて大公としました。
これをもってルクセンブルクとネーデルラントとの同君連合は幕を閉じます。
第一次世界大戦が起きると,8月2日にドイツ軍はルクセンブルクにフランスへの「通過」のために侵攻しました。ルクセンブルクは中立を守りますが,大戦中には国のあり方をめぐり国論が割れます。王制に反対する共和派の暴動で〈マリー=アデライド〉大公が退位すると,1919年に妹の〈シャルロット〉が大公に即位(任1919~1964)。結局,大公による支配は維持されました。1918年にはドイツ関税同盟から脱退しています。
(注)見原礼子「公教育におけるムスリムの学びの条件――フランス・ベルギー・オランダの比較分析」,大芝亮・山内進(編著)『衝突と和解のヨーロッパ――ユーロ・グローバリズムの挑戦』ミネルヴァ書房,2007年,pp.253~286。
○187
0
年
~
192
0
年の北ヨーロッパ
北ヨーロッ
パ
...
①
フィンランド
,②
デンマーク
,③
アイスランド
,④
デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島
,⑤
ノルウェー
,⑥
スウェーデン
スウェーデン,デンマーク,ノルウェーは,この時期に畜産・林業・水産・鉱業などを発展させていきました。 帝国主義時代にあって各地で国策によ
る
探
検
が行われていましたが,ノルウェーの
〈
アムンセ
ン
〉(1872~1928)は1911年に人類史上初め
て
南極点に到
達
し,スウェーデンの
〈
ヘディー
ン
〉(1865~1952)は中央アジアを探検し楼蘭の遺跡や,その付近にある枯渇したロプノール湖の調査からロプノールが「さまよえる湖」であることを発見しました。
1912年
に
スウェーデ
ン
,
デンマー
ク
,
ノルウェ
ー
はヨーロッパで戦争が起きた場合に
は
中
立
の立場をとり,もし中立をとらない場合は事前に通知をすることを互いに約束しました。
1914年に第一次世界大戦が勃発すると,取り決めどおり三国は中立を宣言しました。しかしドイツはイギリスがバルト海に入って来れないように,デンマークの領海に機雷(きらい)を設置させてほしいと要求。占領も辞さないとの要求に屈したデンマークの〈クリスチャン10世〉(位1912~47)は,ドイツの要求をのみました。同じ要求はスウェーデンにも向けられ,スウェーデンも要求を飲みました。
イギリスはこれら「中立」国を通して物資がドイツに運び込まれることを恐れ,取締りを強化しましたが,それが逆に1917年2月のドイツ
の
無制限潜水艦
戦
を招きます(ノルウェーの船舶の半分が失われました)。スウェーデンもノルウェーも物資不足が深刻化し,スウェーデンは船舶を協商国に貸す代わりに協商国から食糧を輸入します。
大戦
は
総力
戦
【東京H18[1]指定語句】
となり女性の社会進出が積極化し,国民をまとめるため
に
女性参政
権
が導入されていきました。1906年にはヨーロッパで初めて,完全
な
女性参政
権
がロシア従属下のフィンランド大公国で認められ,大戦中のノルウェーでは1913年
に
女
性
に
も
参政
権
が認められました。デンマークでは1915年に完全
な
女性参政
権
が,その下で自治が認められていたアイスランドでも同年
に
女性参政
権
が認められました。1919年にはスウェーデン
で
女性参政
権
が認められました(初の選挙は1921)
【本試験H11「第二次世界大戦以前に,ヨーロッパで,女性が選挙権を持っている国はなかった」か問う】
。
・
187
0
年
~
192
0
年のヨーロッパ 北ヨーロッパ 現①フィンランド
フィンランドでは1899年にフィンランド労働党が結成されましたが,のちにロシア革命の影響も受けてのちに急進化していきます。「ロシア化」を進めるロシアに対する抵抗運動も発展し,1904年にはフィンランド積極的抵抗党が,ポーランド人とも連携したテロ行為により独立を目指しました。日本の外交官〈明石元二郎〉もこの組織の指導者〈コンラッド=シリアクス〉と接触していたことがわかっており,内側からのロシア帝国の崩壊を狙う工作をしていたとみられます(注)。1904年2月に日露戦争が勃発し,6月にはフィンランド総督が青年により暗殺され,日本との戦争に苦戦するロシアに対する抵抗の機運は高まりました。1905年10~11月にはフィンランドで「大ストライキ」が起き,独立要求が高揚,従来の身分制議会が再編され
,
女性参政
権
を認める一院制の国民議会が成立しました
【本試験H11「第二次世界大戦以前に,ヨーロッパで,女性が選挙権を持っている国はなかった」か問う】
。しかしその後は揺り戻しで,またロシアによる独立運動の抑圧が強まりました。
(注)石野裕子『物語 フィンランドの歴史』中公新書,2017年。
一方,ロシアの支配下にあっ
た
フィンランド大公
国
は第一次世界大戦中は軍事基地として使用されました。1917年にロシアで二月革命がおきたのをきっかけに,社会民主党を中心に内閣が組織されます。社会民主党はロシアの革命勢力に接近したため,保守派はロシアの〈ケレンスキー〉の臨時政府と接近して社会民主党の勢力を削ぎ,ロシアの十月革命後の12月に保守派を中心とする〈スヴィンフッヴド〉を首班とする内閣
が
独立を宣
言
しました。ソヴィエト=ロシアは
「
民族自
決
」の原則を打ち出していましたから独立は承認されたものの,フィンランド国内の革命勢力と
の
内
戦
は続き,結果的に〈スヴィンフッヴド〉政権により鎮圧されました。内戦終結後には,ソ連との間の東カレリアをめぐる国境問題が持ち上がりました。東カレリアは,北極海の一部(白海)に面する地域で,民族的にもフィンランドに近く,フィンランドの民族叙事詩『カレヴァラ(カレワラ)』のルーツがあるとされた地域だったため,フィンランド人の民族意識の高まりとともに領土問題に発展したのです。
・
187
0
年
~
192
0
年のヨーロッパ 北ヨーロッパ 現②デンマーク
デンマー
ク
では1864年のプロイセンに対する敗戦後は,対外進出よりも小さな国土を充実させる政策に転換し,イギリスへの輸出向けに荒れ地の開墾
や
畜
産
・
酪
農
の近代化に取り組みました。1882年には初の酪農協同組合ができ,全国に普及していきました。イギリスにとってデンマークは新鮮な乳製品・畜産物の"供給地"として欠かせない存在となっていったのです
(1914年のデンマークの輸出向け農産物の6割がイギリス向けでした)
。同時に,1890年代には工業化生産も拡大しました。
なお,デンマークは,カリブ海では現在のハイチ(ハイティ)のあるイスパニョーラ島の東にあるプエルトリコ島のさらに東に広が
る
ヴァージン諸
島
の西半を獲得し,アフリカから輸入した黒人奴隷を使ったサトウキビのプランテーションで栄えました。奴隷貿易は1807年に廃止されていました奴隷制は1848年に廃止されました。1917年の国民投票でアメリカ合衆国に売却され,アメリカ領ヴァージン諸島となりました。
・
187
0
年
~
192
0
年のヨーロッパ 北ヨーロッパ 現③アイスランド
デンマーク支配下
の
アイスラン
ド
では,諮問議会のアルシングを中心に自治・独立に向けた世論が高まりました。1871年にデンマーク議会はアイスランド憲法を制定しましたが,地方行政権の一部が認められたにとどまります。水産業の発展,教育機関の整備も進む中,北アメリカへの移民も増加しました。
アイスラン
ド
は大戦中にデンマークとの交通が途絶し,協商国を支援して繁栄しました。これによりかえって自立が加速し,国民投票の圧倒的賛成を受けて1918年にデンマークの国王との同君連合とし
て
アイスランド王
国
が独立しました。国王にはデンマークの〈クリスチャン10世〉が1944年まで即位しました。
・
187
0
年
~
192
0
年のヨーロッパ 北ヨーロッパ 現⑤ノルウェー
ノルウェ
ー
はこの時期,タラ・ニシン・クジラの漁業と食品加工業(缶詰・鯨油),林業と木材加工業(木材パルプは新聞用紙に利用されました),海運業で発展しました。
ノルウェーの中南部には,窒素固定によ
る
合成肥
料
製造の工場(ノシュク=ハイドロ社)が大規模な水力発電所(スウェルグフォス発電シュオ)とともに建設され,当時の世界の高い農業需要にこたえました(◆世界文化遺産「リューカン・ノトッデンの産業遺産」)。
ノルウェ
ー
【早政H30】
はスウェーデンとの同君連合下に独自の政府と議会を持っていましたが,1905年にスウェーデンとの同君連合を解消し
て
独
立
【追H19】
【早政H30】
し,デンマーク王家の〈カール〉が〈ホーコン7世〉(位1905~57)として即位しました。
・
187
0
年
~
192
0
年のヨーロッパ 北ヨーロッパ 現⑥スウェーデン
スウェーデ
ン
は,木材加工業
と
鉄鉱
石
の鉱業,さらにそれに促された機械工業で栄えました。
フィンランドはロシアの支配下にありながら,ヘルシンキを中心とした鉄道網が敷設され,木材加工業や機械工業が発達していきました。
工業化の進展とともに労働者階級が増え労働問題・社会問題も起こりました。この時期には北ヨーロッパからの南北アメリカ大陸への移民も増加しましたが,国内の生活に不満を持つ人々が外国に移住することで"ガス抜き"の役割
(注
)
を果たしたともいえます
(スウェーデン人が最も多く1840~1914年に110万5000人が移民しました)
。 南部には北アメリカに向け
た
無
線
局が建設され,スウェーデン系移民に祖国のニュースを伝える役目を果たしました(◆世界文化遺産「ヴァールベリのグリメトン無線局」,2004)。
この時期のスウェーデンでは劇作家・小説家
〈
ストリンドベ
リ
〉(1849~1912)が自然主義小説・劇(『令嬢ジュリー』(1888))で活躍し,晩年には象徴的な作品も残しました。1871年にはデンマーク女性協会が設立されるなど女性運動も盛んで,ノルウェーの劇作家
〈
イプセ
ン
〉(1828~1906)
【追H19】
は『人形の家』(1879)で「妻」「母」としての人生から「人間として」の人生を生きるため,夫と子を捨てて家を出ていく女性の姿を描きました。『子供の世紀』を著して児童教育に影響を与えたスウェーデンの〈エレン=ケイ〉(1849~1926)は女性運動でも活躍しました。なおスウェーデンには『叫び』で有名な画家
〈
ムン
ク
〉(1863~1944)が,内面の不安を象徴的に表現した作品を制作しています。
また,社会主義の思想も伝わり労働運動が起こされるようになり,1871年にデンマーク社会民主党(インターナショナルのデンマーク支部),1887年にノルウェー労働党,1889年にスウェーデン社会民主労働党(社会民主党),それぞれ勢力を拡大させていき,のち
に
福祉国
家
の建設を推進していきました。いずれも革命による階級闘争というよりは,議会を通した社会民主主義路線をとりました。議会民主政治も発展し,ノルウェーは1884年に北ヨーロッパで始めて議院内閣制をはじめました。
1908年にイギリスが西経20度から西経80度の部分の領有を宣言します。
各国が南極点への到達一番乗りを狙い,国家プロジェクトとして探検家を送り込む中,ノルウェーの
〈
アムンセ
ン
〉(1872~1928)が1911年に人類史上初の南極点到達を成し遂げます。
一方,1912年にイギリスの海軍軍人
〈
スコッ
ト
〉(1868~1912)も南極点に到達しましたが,帰り道に遭難して亡くなりました。
なお,〈スコット〉が南極点に到達する一日前には
〈
白瀬
矗
〉(しらせのぶ,1861~1946)が南極大陸に上陸。カラフト犬とともに西経156度周辺を「大和雪原(やまとゆきはら)」領有宣言しています
。
第一次世界大戦後には集団安全保障体制にもとづく国際社会の形成がすすむが,世界各地に英仏が植民地を持つ体制は変わらず,社会主義とファシズムが台頭。アジア,アフリカの民族運動組織が形成され,反帝国主義運動が動き出す。
時代のまとめ
(1)
第一次大戦後のヨーロッパで
は
ヴェルサイユ体
制
【慶
文
H3
0
記】
,東アジア・太平洋で
は
ワシントン体
制
が定められ,勢力圏の再編
成(
墺・露・独
「
帝
国
」の解
体)
と現状維持が国際社会で決められた。
(2
)
第一次世界大戦後も,「民族自決
」
(Self-determination
)
の原則は
【早
法
H27[5
]
指定語句 論
述
(2
0
世紀前半までの世界にどのように波及したか述べ
る)
】
,アジア・アフリカの諸地域には適用されなかった
(3)
第一次大戦後の世界では
,
社会主
義
と
ファシズ
ム
が,資本主義体制のオルタナティ
ヴ(
代替の政治思想・運
動)
として注目され,互いに対抗しつつ勢力を伸ばしていく。
第一次世界大戦後,ロシア帝国,オーストリ
ア=
ハンガリ
ー(
二
重)
帝国
【本試験
H7
パリ講和会議で決まる。帝国は存続していない】
,ドイツ帝国,オスマン帝国が崩壊し,各地
の
民
族
が自分たちの固有の政治的なまとまりを求め
る
ナショナリズ
ム(
国民主
義)
に基づき,領域内で支配的な民族によって形成された主権国
家(
国民国
家
)
を単位とし
て
国際社
会
が形成される時代が本格的に到来しました。しかし,一般的に領域内には複数の民族が居住することは普通で,民族の定義も単純に割り切れるものではなく言語,宗教,歴史的な事情により揺れ動くものでした。領域内の民族構成を支配的な民族にとって都合のよいものとするため,大戦後には戦勝国と敗戦国との間で領土の交換ととも
に
住民交
換
(
強制的な住民移
動)
も行われるなど,従来は存在しなかった民族同士の対立が国際・国内政治の争点とされるようになっていきました。
第一次大戦前には,欧米列強同士
で
軍拡競
争
や
秘密外
交
がエスカレートし第一次大戦を招いたことへの反省から
,
集団的安全保障体
制
であ
る
国際連
盟
【東
京
H18[1
]
指定語句】
が成立しました。一方で,国際連盟
は
資本主
義
経済
や
帝国主
義
支配を継続させようとする旧態依然の体制でもあり,戦勝国の中には敗戦国の旧植民地
を
委任統治
領
として勢力圏に加えた国もありました。
「
戦間
期
」(
191
8~
193
9
)
の前
半
(191
8~
1929
)
には,戦勝国により厳しい戦後処理を受けた敗戦国の力は押さえられましたが,後
半
(192
9~
1939
)
には
「
再分
割
」の要求が過激化し
,
第二次世界大
戦
につながっていきます。
各民族に国民国家の形成を認め
る
民族自
決
の原則は,欧米・日本の植民地統治下のアジア,アフリカには適用されなかったため,各地の現地エリート
層(
官僚や民族資本家,留学
生)
を中心に帝国主義に反対す
る
民族運
動
が噴出し
,
ソ
連
(192
2~
1991
)
を中心とす
る
社会主
義
(
共産主
義)
思想と結びつく地域も増えていきました。この時期の社会主
義(
共産主
義)
は少なくとも外部から見ると資本主義に代わる社会制度・価値観としての魅力を十分に備えていたのです。
◆
ヨーロッパではヴェルサイユ体制,東アジア・太平洋ではワシントン体制が定められ,勢力圏の再編成と現状維持が国際社会で決められる
第一次世界大戦末期,全世界
を
スペインか
ぜ
(
インフルエン
ザ
)
のパンデミッ
ク(
世界的大流
行)
が襲いました。死者
は
500
0
万から1億ともいわれ
,
191
8~
2
0
年にかけて猛威をふるいました。社会学者〈マック
ス=
ヴェーバー
〉
(186
4~
1920
)
も,感染して亡くなっています。
そんな中
,
191
9
年1月,第一次世界大戦の敗戦国ドイツの処理について話し合うために,フランス
の
パリで講和会
議
が開かれました。舞台は,かつてドイツ帝国成立の式典が行われたヴェルサイユ宮殿で
す(
フランスに勝ったプロイセンは,ヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝の戴冠式を行っ
た)
。フランスはかつての恨みを,同じ場所で晴らしたことになります。
講和の内容の基本原則は,アメリカ合衆国の〈ウィルソン〉大統領
【本試験
H4
セオド
ア=
ルーズヴェルトではない】
の
「
十四カ
条
」です。アメリカの資金力が勝利に貢献したことから,アメリカの発言権は強かったのです。
〈ウィルソン〉大統領は,古いヨーロッパ流の国際政治を打ち破る,新しい時代の国際政治の仕組みを,アメリカ主導でつくっていこうとしました。その典型的なアイディアが
「
国際連
盟
(
リーグ・オブ・ネイション
ズ)
」です
【東
京
H18[1
]
指定語句】
【本試験
H
1
7
問題文の下線部】
。すべての国が加盟し,世界平和を乱す行為をした国を,その他の加盟国
で"
おしお
き"
することができるというものです。こ
の
集団的安全保
障
という考え方は,すで
に
1
8
世紀ドイツの哲学者
〈
カン
ト
〉
(184
4~
97
)
が『永久平和のために』で提唱していました。
帝国主義時代には
「
秘密外
交
」が当たり前のようにおこなわれていました。内緒で結ぶ条
約(
密
約)
がはびこれば,それだけ国家間の争いの種になります。これからは,重要なテーマはしっかりと「国際社会」の場でオープンに話し合うべきだとされたのです。
このように,第一次世界大戦を引き起こし
た"
古
い"
要素を検討し,それに代わる新しい価値観を提唱していきました。
「各国が関税を高く設定したことで,経済的な争いが戦争に発展するのではないか,関税障壁を廃止していくべきだ」
「諸国家間の軍事力のバランスを取ろうとして「他国が戦艦を増やしたから,自国も負けない分だけ増やそう」という調整を続けた結果,軍備拡大につながってしまったのではないか。軍備を縮小させていくべきだ」
「大戦中にドイツがとった無制限潜水艦作戦は,自由な貿易に対するとんでもない障害だ
。"
海はみんなのも
の"
とい
う
海洋の自
由
が,世界の経済の発展にとって重要だ」
「植民地をイギリスやフランスが持ちすぎている。その取り合いや不公平から第一次世界大戦が始まった。植民地問題を公正に解決するべきだ」
「オーストリア帝国,オスマン帝国,ロシア帝国が敗北した。古いヨーロッパの国家が滅んだ後,そこに住んでいる民族たちに,自分たちの国づくりについての権利を与えようじゃないか」
〈ウィルソン〉の提唱した「十四か条」には,こういったさまざまな新しい論点が盛り込まれていたのです。
191
9
年6月,パリの郊外に〈ル
イ
1
4
世
〉(任
164
3~
1715
)
が建造した豪華なヴェルサイユ宮殿で,ドイツを含む関係各国
は
ヴェルサイユ条
約
【本試験
H4
全同盟国に対する戦後処理を決定したものではな
い(
ドイツに対する条
約)
】
【早
法
H26[5
]
指定語句】
を調印しました。ただし,アメリカ合衆国は調印したものの上院の反対で批准していません。
ヴェルサイユ条約の第一章
は
国際連
盟
【東
京
H18[1
]
指定語句】
【
追
H
9
コミンテルンではない】
に関する規約なので,これに批准していないということは,国際連盟にも加盟できないということになります
【本試験
H
1
7
「設立時からアメリカ合衆国が加盟していた」は誤り】
。
では,アメリカ合衆国はドイツと講和をしていないということでしょうか? 実は,次の共和党
〈
ハーディン
グ
〉大統
領(任
192
1~
23
)
のときに,米独平和条
約
(192
1年)
が結ばれています。
中華民国は,会議には参加しましたが,山東半島を日本が占領している問題が解決されていなかったために,調印せずに帰っています。のち
に
192
2
年に中独平和条約を個別に結んでいます。
なお,労働者の権利を国際的に保護していこうとする附属機関とし
て
191
9
年
に
国際労働機
関
(
IL
O
,アイエルオ
ー)
【本試験
H
2
1
】
も設立されていま
す(
の
ち
194
6
年には国際連合の専門機関になりまし
た)
。
さてヴェルサイユ条約により,形成された安全保障体制のことを
,
ヴェルサイユ体
制
【慶
文
H3
0
記】
と呼びます。
これにより,
ドイツはすべての植民地を喪失
【本試験
H
1
7
ドイツ領の「一部」ではなく「全部」。時期も第二次世界大戦後ではない】
【本試験
H7
一部を保持していない】
。ドイツの植民地だったところは、イギリスとフランスを中心に
「
委任統治領
」
【H30共通テスト試行 フィリピンは無関係】
として暫定的に統治されることとなりました。
さらに,フランスは普仏戦争のときにドイツ帝国に取られ
た
アルザ
ス
地方
と
ロレー
ヌ
地方を奪回しました。
また,ドイツのフランスへの進入を防ぐため,ラインラントを非武装化し,ドイツ
の
軍備も制
限
します
【本試験
H
2
6】
(
徴兵制廃止,陸
軍
1
0
万人以下,異海軍の制限,新兵
器(
戦車・軍用機・潜水
艦)
の保有禁
止)
。さらに極めつけ
は
巨額の賠償
金
【本試験
H
1
4
時
期(
第二次大戦後ではな
い)
】
の支払いで
す
(132
0
億金マル
ク
)
【本試験
H5
「フランスはドイツの復興を支援するため,ドイツに対する賠償請求権を放棄した」わけではない】
。
敗戦国のオーストリ
ア(
サ
ン=
ジェルマン条約
【本試験
H
1
3
史
料(
ロカルノ条約の第1・2
条)
を読みロカルノ条約であると判断する】
【追H18
】
)
,ハンガリー
【本試験
H7
ブルガリアではない
】
(
トリアノン条約
【本試験
H7】
)
,ブルガリ
ア(
ヌイイ条
約)
,オスマン帝
国(
セーヴル条
約)
も,別個に講和条約が結ばれました。その結果,これらの国々の領土も縮小され,今まで支配されていた諸民族が独立国家を樹立しました
(注)
。
(注)サン=ジェルマン城は、フランスのパリの西方19 kmにある王宮。ヌイイは、パリの西方約7kmにある都市ヌイイ=シュル=セーヌ。セーヴルもパリ近郊の都市。トリアノンは、ヴェルサイユ宮殿のトリアノン離宮のうちのグラン=トリアノン宮殿(プチ=トリアノンではない)。
北から順に,フィンランド,エストニア,ラトビア
【本試験
H
1
5
ソ連の成立に加わったわけではない】
,リトアニア,ポーランド,チェコスロヴァキア
【本試験
H
1
5
地図】
【追H19】
,ハンガリー
【本試験
H
1
5
地図】
,ユーゴスラヴィアです
【本試験
H
1
5
地
図(
第一次世界大戦前の各地域で最も多い民族を示した分布
図(
チェコ系,スロヴェニア系,ドイツ系,ハンガリー系住民の分布に注目す
る
)
)
,H29共通テスト試行 地
図(
第一次世界大戦後のヨーロッパ各国の国境線を選
ぶ)
】
。
これらの国々の独立を認めたのには,革命の起きたロシアから社会主義が入ってこないようにするため
の"
防波
堤"
の役割もありました。なお,ドイツを本土とプロイセンとに分断するため,バルト海に通じ
る
ポーランド回
廊
【本試験
H
1
3
時
期(
第二次大戦後ではな
い)
】
が与えられています。
少なくとも900万人(民間人を含む)が亡くなった第一次世界大戦は,人類史上もっとも多い死者数を出した戦争であり,それだけに各国は再び恐ろしい戦争が起きないように
協調外交
をとりました。
1921~22年には,アメリカ合衆国の〈
ハーディング
〉大統領(任1921~23)が,ワシントンにアメリカ,イギリス,フランス,日本などの9か国を集めて
ワシントン会議
【本試験H18ロンドンではない,本試験H26】
を開きました。ここでは
ワシントン海軍軍備制限条約
【本試験H17ブリュッセル条約ではない】
【上智法(法律)他H30】
と,中国における主権尊重・領土保全を定めた
九か国条約
【本試験H25】【本試験H27時期】
,さらに太平洋の現状維持を定めたアメリカ・イギリス・フランス・日本の
四カ国条約
【本試験H18】
が結ばれました。九カ国条約・四カ国条約は,ともに日本の中国大陸・太平洋への進出に"釘を刺す"ものでした。このような,中国大陸・太平洋地域
【上智法(法律)他H30欧米ではない】
における,アメリカ合衆国主導の安全保障体制を
ワシントン体制
【上智法(法律)他H30】
といいます。
○192
0
年
~
192
9
年のアメリカ 北アメリカ
・
192
0
年
~
192
9
年のアメリカ 北アメリカ
現①
アメリカ合衆国
アメリカ合衆国は,黄金
の
2
0
年代を迎える
◆
アメリカは工業・金融ともに経済大国となり,孤立主
義
(ヨーロッパから距離を置くべきだという考え
)
的な大衆社会が成立した
アメリカ合衆国はかつて,ヨーロッパのイギリス,フランス,ドイツから巨額の資金を借りることで,産業を発展させた国でした。国際間の資金の貸し借り(「借款」(しゃっかん)といいます)をみたときに,借りている額>貸している額となる国を債務国といいます。アメリカは1914年の時点では35億ドルの債務国でした。
それが一転,第一次世界大戦大戦中に協商国に大量の物資・戦債を与えたため,戦後には「貸している額>借りている額」となり,130億ドル
の
債権
国
【本試験H4】
【本試験H31債務国ではない】
【上智法(法律)他H30】
となったのです。西ヨーロッパから借款の返済として多くの資金
が
ロンド
ン
から大西洋を越え
て
ニューヨー
ク
【本試験H4】
の
ウォール
街
【本試験H14】
に流れ込み,余った資金を国内外に貸し付ける金融ビジネスが発展していきます。
しかし,伝統的にアメリカは,戦争後にはすぐに兵隊の動員を解除することが普通であり,アメリカ大陸の外の戦争に関与することを嫌う世論
(
孤立主
義
)も根強かったため,連邦議会の上院の反対によっ
て
国際連
盟
に加盟することができませんでした(なんと上院の議員の2/3以上の賛成がなければ,他国との条約を批准(認めること)することができなかったのです。当時の上院は,中間選挙で負けたために〈ウィルソン〉大統領(任1913~21)
【本試験H9】
の属する民主党
【本試験H9共和党ではない】
の議員だけで2/3の議席を確保することができていませんでした)。
国際連盟の提唱者である〈ウィルソン〉の出身国が,国際連盟に加盟することができないという事態です。
国務長官〈ヒューズ〉(任1921~25,〈ハーディング〉,〈クーリッジ〉大統領時代)も,アメリカ合衆国は軍事力によって世界覇権を握るのではなく,債権国としての国力を利用して,民間の経済活動によって世界の安定を図るべきだと考えていました。
大戦後のアメリカ合衆国は,保守的な雰囲気を反映し3代連続共和党の大統領が続きます(〈ハーディング〉(任1921~23),〈クーリッジ〉(任1923~29),
〈
フーヴァ
ー
〉(任1929~33))
【共通一次 平1】
【本試験H6モラトリアムを出したか問う】
【追H24世界恐慌対策としてドイツの賠償金支払いなどの1年間停止を宣言したか問う】
。
「孤立主義」は根強かったものの,中国大陸や太平洋への進出の動きのみられた日本をおさえこむ必要性が意識されていました。上院の反対によ
り
国際連
盟
に加盟できなくなった以上,共和党政権はなんらかの形で"代替プラン"を国民に示す必要に迫られます。
そこで提唱されたのが「軍縮」会議を開く形で,日英同盟を廃棄させ,中国の門戸開放(もんこかいほう)を実現させ,日本の軍事力をおさえる「新世界秩序」を建設するという作戦です。この国際会議
を
ワシントン会
議
(1921年11~1922年2月)といい,〈ハーディング〉政権の国務長官〈ヒューズ〉が主催しました。
また,イギリスやフランスには,戦債(借金)の返済も強く迫り続けます。イギリスやフランスはドイツに対する賠償金を要求したため,特にドイツができるだけ早く復興して,賠償金を支払える能力に達することがアメリカ合衆国にとって重要となったのです。
そこで,1923年にはシカゴの銀行家〈ドーズ〉(1865~1951)率いる委員会ができ
,
ドーズ
案
(プラン)
【本試験H4】
が翌1924年に採択されました(1925年のノーベル平和賞を受賞)。
・アメリカの銀行がドイツに250億ドルを融資する (ドイツの復興を助ける)
・ドイツから英仏への賠償金の金額・期間を緩和する (復興したドイツが英仏に賠償金を払う)
・第一次世界大戦の連合国は,アメリカに戦債を支払う (貸した資金がアメリカに返済される)
こうした資金の流れは1929年に世界恐慌が勃発するまでは,ヨーロッパの再建とアメリカ合衆国への戦債の返済にある程度功を奏します。
アメリカ合衆国のヨーロッパに対する介入はこの後も続けられ,1928年に
は
ケロッ
グ=
ブリアン条
約
【追H29「不戦条約(ブリアン=ケロッグ条約)」。時期を問う(第二次世界大戦後ではない)】
が提案され,当初は15か国の締結国間で対外紛争の解決する手段としての戦争が禁止されました(ただし強制力はありませんでした)。
また,共和党政権時代には,アメリカ合衆国の市場を守るため
に
高関税政
策
がとられました。
◆
"
黄金
の
2
0
年
代"
のアメリカ合衆国では大衆消費社会が成立したが,社会の保守化が進んだ
この時期のアメリカは「黄金の20年代」「永遠の繁栄」とも言われ,アイルランド移民の子
〈
フォー
ド
〉(1863~1947)
【本試験H21】
【追H24】
がベルトコンベヤ
【東京H16[3]オートメーション,または流れ作業方式】
の
自動車の大量生産方
式
【H29共通テスト試行 写真】
【追H24 時期18・19世紀ではない】
を実現したのを代表として,自動車や家電製品
【上智法(法律)他H30冷蔵庫や洗濯機】
の労働者によ
る
大量生産・大量消
費
の時代が到来していました
【H29共通テスト試行】
。
フォード=システムの導入は,都市労働者に労働時間の短縮と賃金上昇がもたらしただけではなく,農村にも影響を与えています。農業用
の
二輪駆動トラクタ
ー
(フォードソン)の大量生産にも道をひらいたのです。内燃機関で駆動するトラクターは大戦中に,ドイツの潜水艦による海上攻撃で穀物不足・労働力不足に悩まされていたイギリスを救い,さらにソヴィエト政府も1919年にフォードソンと契約し,のちのソ連政府による農業集団化に一役買うこととなります
(注
)
。
(注)藤原辰史『トラクターの世界史』中公新書,2017,p.31,p.68。
また,第一次世界大戦中に軍需工場などの職場の働き手
【本試験H11】
として活躍し
た
女性の参政
権
が承認されます(1920年の憲法修正19条)
【本試験H15第二次世界大戦後ではない,本試験H26時期】
【追H21ジャクソン大統領のときではない】
。家電製品の普及にともない,女性の社会進出もすすみました
【本試験H11「1920年代になると,家電製品の普及が家事労働の軽減をもたらし,女性の社会進出の可能性を広げた」か問う】
。
ラジオ放
送
【追H27普及の時期が1920年代のアメリカの大衆文化か問う】
【上智法(法律)他H30 年代(1920年代)】
を通した加熱するスキャンダラスな報道,喜劇王〈チャップリン〉(1889~1977)に代表されるハリウッド
の
映
画
【追H24 19世紀前半にアメリカで大衆娯楽となったのではない、H27時期が1920年代のアメリカの大衆文化か問う】
【上智法(法律)他H30「トーキー」と呼ばれる有声映画を含む】
,ホームラン王〈ベーブ=ルース〉(1895~1948)に代表され
る
野
球
などのスポーツ,トランペット奏者〈ルイ=アームストロング〉(1900~71)やニューヨークのハーレム地区のナイトクラブ(コットンクラブ。南部の"綿花"地帯に由来する名前です)のデューク=エリントン楽団に代表される黒人
の
ジャズ音
楽
【追H27時期が1920年代のアメリカの大衆文化か問う】
【上智法(法律)他H30ロックなどの大衆音楽ではない】
(注)
、
〈
ディズニ
ー
〉(1901~1966)によるアニメーション映画(ミッキーマウスを主人公とするモノクロのトーキー(音声入り)映画『蒸気船ウィリー』は1928年11月18日に初公開),コカ=コーラなど,「アメリカ的な文化」の多くがこの時代に生まれ,定着していきました。20世紀後半にかけてアメリカ経済の急拡大とともに全世界に広がり,アメリカ文化が世界各地で見られるようになっていくことになります。
"永遠の繁栄"を背景にして,アメリカ人には自国を誇る強い意識もみられるようになり,アングロ=サクソン系(イギリスから渡ってきた人々)の白人でプロテスタントを信仰する人々(ホワイト=アングロ=サクソン=プロテスタント。頭文字をとっ
て
WAS
P
(
ワス
プ
)という)の価値観が,もっとも「アメリカらしい」とかんがえられるようになり,「WASPではない」人々がしばしば排斥の対象になりました。1920年に
は
女性に参政
権
が与えられました
【本試験H11「第二次世界大戦以前に,ヨーロッパで,女性が選挙権を持っている国はなかった」か問う,本試験H12南北戦争の結果ではない】
【上智法(法律)他H30実現しなかったわけではない】
。
たとえば白人ではない=黒人への過激な排斥運動(代表的な運動には
,
ク
ー=
クラック
ス=
クラ
ン(
日本は,第一次世界大戦後のパリ講和会議で,人種差別撤廃を提案していましたが,アメリカ合衆国の上院などの反対によって否決されています。
また,酒類の製造・販売・運搬・輸出入(バーで飲むのはダメ。家飲みはOK)を禁じ
る
禁酒
法
【上智法(法律)他H30】
もそのような雰囲気の中で制定されましたが,取締りは万全ではなく"ザル法"と呼ばれ,かえって密造・密輸業を営む地下組織(ギャング)の力が強まり,シカゴでは酒の密売で成長したギャングのボス
〈
ア
ル=
カポ
ネ
〉も絡むギャング同士の抗争が起きました(1929年の聖バレンタインデーの虐殺)。〈カポネ〉は1932年に脱税で逮捕されました。
物質的な文明がアメリカ社会を覆う中,それに疑問を投げかけた人々もいました。第一次世界大戦の"悪夢"を経験した若者たちの間には,この時期のどんちゃん騒ぎに対して"疑いの目"を向ける者も少なくなかったのです。こうした1920年~1930年代の世代を"失われた世代(ロストジェネレーション)"と呼ぶことがあります。代表格は,その名の由来となった
〈
ヘミングウェ
イ
〉(1899~1961),〈フィッツジェラルド〉(1896~1940)がいます。〈フィッツジェラルド〉の『マイ=ロスト=シティ』では,黄金の20年代の状況が冷静に描かれています。
第一次世界大戦後,旧来の価値観を否定しようとする運動は芸術家にもみられました。フランス生まれの〈デュシャン〉(1887~1968)は,1917年に「泉」という既製品の便器にタイトルを付けただけの作品を発表。その後も"芸術"そのものを疑う活動を続け
,
現代美
術
に大きな影響を与えました。
1928年の選挙では共和党の
〈
フーヴァ
ー
〉
【共通一次 平1】
【本試験H6】
【追H24世界恐慌対策としてドイツの賠償金支払いなどを1年間停止したか問う】
が民主党候補に圧勝しました。彼は鉱山技師から億万長者になった"アメリカン=ドリーム"を象徴する人物であり,圧倒的な人気を誇ったまま大統領に就任しました(任1929~1933)。アメリカ合衆国は世界史において初めて,貧困に対する勝利を得ることができると彼が演説した1年後,1929年10月24日に,株価の大暴落(「暗黒の木曜日」)が発生することになるのです。
(注) ジャズについて補足。ジャズがアメリカ合衆国南部で生まれたのは確かだが、源流をたどるのはむずかしい。西洋楽器(ヨーロッパ音楽)とアフリカ系アメリカ人の音楽がミックスされて生まれたというのが一般的な理解です。発祥の地とされるニューオーリンズで、オリジナルディキシーランドジャズバンドという白人のバンドが1916年に結成されており、この独特なスタイルが1920年代に発展していきました。
○192
0
年
~
192
9
年のアメリカ 中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ
◆
アメリカ合衆国の経済的進出に対し,労働運動やナショナリズムも高まった
第一次世界大戦中,中央アメリカ・カリブ海・南アメリカの地域は戦場にはならず,軍需物資を供給する場所として,好景気を迎えました。アメリカ合衆国の共和党政権は,海兵隊をカリブ海
の
キュー
バ
と
ドミニ
カ
,中央アメリカ
の
ニカラグ
ア
から撤退させています。
しかし,アメリカ合衆国の中南米への経済進出は止まらず,労働運動やナショナリズムが高まります。大戦中にアメリカ合衆国の中南米への影響力が強まりましたが,労働者による社会主義的な運動や,自国の資源を守ろうとするナショナリズムの動きも高まります。ソ連の第三次インターナショナルの影響から,1928年にはラテン=アメリカ労働組合(CSLA)が成立しています。
同じく1928年年開かれた第六回パン=アメリカ会議では,パン=アメリカ連合が国連の常置委員会の一機構に位置づけられることになり,各国に連絡機関としてパン=アメリカ委員会が設置されました。また,急速な経済のグローバル化に対応し,各国
の
国際私
法
のズレを統一させるためブスタマンテ法典が制定されました。
1928年のケロッグ=ブリアン協定(パリ不戦条約)には,ラテン=アメリカからも翌年の発効までの間にキューバ,ドミニカ共和国,グアテマラ,ニカラグア,パナマ,ペルーが署名しています。
しかし,1929年の世界恐慌を受けて輸出量が激減し,各国経済は打撃を受けることになります。
○192
0
年
~
192
9
年のアメリカ 中央アメリカ
中央アメリ
カ
...①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ
・
192
0
年
~
192
9
年のアメリカ 中央アメリカ
現①
メキシコ
1917年に憲法が制定されたメキシコでは,制定に関わった〈カランサ〉大統領(任1917~1920)と〈オブレゴン〉将軍の対立が起き,将軍のクーデタで〈カランサ〉は退陣,1代おいて,〈オブレゴン〉(任1920~24)が大統領に就任しました。
1917年の憲法では教会よりも国家の権限が強く,〈カリェス〉大統領(任1924~28)の反カトリック政策に反発し,内戦状態となりました。1928年には〈オブレゴン〉が再選されますが,カトリック支持者により暗殺されています。〈カリェス〉は退任してからも,メキシコの政界に力を及ぼし続けます。
このような内紛の背景には,メキシコの資源を巡るアメリカ合衆国の進出もありました。メキシコでは1918年に石油・鉱山の国有化が宣言されていましたが,アメリカ合衆国の圧力もあり1921年には終息。しかし,1927年に再び国有化が宣言されると,アメリカ合衆国は再びこれに干渉しています。
○192
0
年
~
192
9
年のアメリカ カリブ海
カリブ
海
...①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島
・
192
0
年
~
192
9
年のアメリカ カリブ海
現③
バハマ
バハマ
は
イギリス
領
です。
・
192
0
年
~
192
9
年のアメリカ カリブ海
現⑪
フランス領マルティニーク島
マルティニーク島ではフランスによる白人優位の社会が続き,サトウキビ・プランテーションが主力産業となっています。
○192
0
年
~
192
9
年のアメリカ 南アメリカ
南アメリ
カ
...①ブラジル,②パラグアイ,③ウルグアイ,④アルゼンチン,⑤チリ,⑥ボリビア,⑦ペルー,⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネズエラ,⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ
・1920年~1929年の南アメリカ 現①ブラジル
ブラジ
ル
は,1914年に第一次世界大戦が勃発すると,中立政策をとりました。しかし,1917年にブラジルの商船がドイツの潜水艦によって撃沈されると,南アメリカは唯一の参戦国となりました。戦争が終わると
に
ヴェルサイユ会
議
(パリ講和会議,1919年1~6月)に参加し
,
国際連
盟
にも加盟しましたが,常任理事国入りが拒否されると脱退を選びました。
第一次世界対戦中にはヨーロッパへの輸出が増加し,輸入を代替する工業も発展しました。都市化が進むに連れて労働者の運動が活発化するようになります。ブラジルの経済を特に支えていたの
は
コーヒ
ー
で,農園は内陸部にも広がっていきました。
また、第一次世界大戦が終わると、途絶えていたヨーロッパから移民が再開され、日本人移民への助成は再停止。しかし、当時人口が急増していた日本政府は、アメリカ合衆国とペルーが移民を停止したためにブラジル移民への助成をスタートさせ、すでに発足していた海外興行株式会社(1917年に政府が移民会社を統合して設立。略称K.K.K.K.)がブラジル移民を独占する形で、1926年以降に移民が再び増加。これが第二期の
日本のブラジル移民
です
(注1)
。
移民たちは既存のプランテーションではなく、独自に入植地(ブラジルの日系社会では「植民地」と呼ばれました)を開拓し、イタリア人、ポルトガル人、スペイン人、ドイツ人とともに日本人にも小土地所有者や工業事業所の経営者が増えていきました
(注2)
。
経済的な発展によってブラジルの市場が統一されていくと,"ブラジル人意識"(ナショナリズム)もしだいに高まっていきました。ブラジルは"ヨーロッパ"なのか? それとも"ラテン=アメリカ"? "ブラジル"?。白人? 黒人? インディオ? ――こうした議論はやがて,ブラジルは"さまざまな人種が混ざりあった国だ"という認識へと発展していきます
(ブラジルは,しばしば「オス=ブラジスos brasis」という複数形によってその多様性が表現されてきました
(
注
3
)
)
。
他方で,1924年以降,経済的に台頭してい
た
サ
ン=
パウ
ロ
州
(20世紀初頭にはブラジルのコーヒー生産の70%を占めていました)
やミナス=ジェライス州の出身者が中央政府を牛耳っていたことへの反感も、もちろんありました。
地方の諸州では宗教的な大規模反乱も起きていますが、すべて鎮圧されています。
また、都市部は近代化が進み、中間層・実業家といった新しい階層が生まれつつありました。
こうした地方の不満や、新しい都市部の中間層・実業家らの声をも拾い上げていくことになるのが,のちの
〈
ヴァルガ
ス
〉(1883~54,大統領人1834~45,50~54農牧業が中心のリオ=グランデ=ド=スル出身)だったのです。
(注1) シッコ・アレンカール他、東明彦他訳『世界の教科書シリーズ7 ブラジルの歴史―ブラジル高校歴史教科書』明石書店、2003年、p.378。
(注2) シッコ・アレンカール他、東明彦他訳『世界の教科書シリーズ7 ブラジルの歴史―ブラジル高校歴史教科書』明石書店、2003年、p.379。
(注3) 堀坂浩太郎『ブラジル―跳躍の奇跡』岩波書店,2012年,p.19。
・
192
0
年
~
192
9
年のアメリカ 南アメリカ
現④
アルゼンチン
第一次世界大戦後のアルゼンチンでは,急進党を中心に石油の国有化や労働者の保護政策がとられました。ヨーロッパからの移民の流入もとまらず,アルゼンチンの音楽「タンゴ」がヨーロッパやアメリカ合衆国でブームとなっています。
・
192
0
年
~
192
9
年のアメリカ 南アメリカ
現⑤
チリ
チ
リ
はヨーロッパに大量
の
硝
石
(しょうせき)を輸出していましたが,第一次世界大戦後には合成窒素肥料が登場したことから需要が減少します。左派寄りの政策をとった〈アレサンドリ〉(任1920~24年)は保守派の抵抗にあって軍人に政権を譲りましたが,改革派の軍人〈イバーニェス〉がクーデタを起こして実権を握り,復帰した〈アレサンドリ〉が再度に辞任すると1927年に大統領に就任(任1927~31)。大規模な公共事業を行いつつ,労働運動を弾圧する政策をとりました。
そんな中,アメリカ合衆国の資本が,世界最大の露天掘り銅山のチュキカマタをはじめとするチリの銅山に本格的に進出していきます。
・
192
0
年
~
192
9
年のアメリカ 南アメリカ
現⑥
ボリビア
,⑦
ペルー
ペル
ー
では,1919年に就任した〈レギーア〉大統領は,1920年憲法によって数々の社会改革を実行しました。
自由党政権の続いてい
た
ボリビ
ア
では1920年にクーデタが起き,1920~30年代には農場経営者や都市中間層の支持を受けた共和党政権となります。
チ
リ
は,第一次世界大戦後に輸出の花形であった硝石の国際価格が下落し,打撃を受けました。
○192
0
年
~
192
9
年のアメリカ 南アメリカ
現⑧
エクアドル
,⑨
コロンビア
,⑩
ベネズエラ
エクアド
ル
では経済の"頼みの綱"であったカカオの国際価格が下落し,ゼネストが宣言されると,金融資本家に支持された自由党成建は労働者の運動を押さえ込もうとしました。これに対し,1925年に,労働者や中間層に支持された青年将校によるクーデタが起き,〈アヨラ〉政権(任1925~31)労働者を保護する改革が行われました。
コロンビ
ア
ではアメリカ合衆国との関係を改善し,外資を導入した近代化が進みます。1921年にパナマの割譲に関する賠償金や借款がアメリカ合衆国から導入され,インフラ建設が進みますが,外国に対する債務は積み上がっていきました。
ベネズエ
ラ
では独裁者〈ゴメス〉(任1908~14,22~29,31~35)による支配が続いています。彼はアメリカ合衆国との関係を改善し,1914年にマラカイボ湖で発見され
た
油
田
を外資(ロイヤルダッチ=シェル,スタンダード=オイル,ガルフ石油)を導入して採掘し,ベネズエラは世界最大の"石油輸出"国となりました。1930年にはベネズエラの輸出総額の83.2%を石油輸出が占めるという状況です
(注
)
。
(注)増田義郎編『新版世界各国史26 ラテン・アメリカ史Ⅱ』山川出版社,2000年,p.308。
○192
0
年
~
192
9
年のオセアニア ポリネシア
ポリネシ
ア
...①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島,フランス領ポリネシア,③クック諸島,④ニウエ,⑤ニュージーランド,⑥トンガ,⑦アメリカ領サモア,サモア,⑧ニュージーランド領トケラウ,⑨ツバル,⑩アメリカ領ハワイ
○192
0
年
~
192
9
年のオーストラリア
○192
0
年
~
192
9
年のオセアニア メラネシア
メラネシ
ア
...①フィジー,②フランス領のニューカレドニア,③バヌアツ,④ソロモン諸島,⑤パプアニューギニア
○192
0
年
~
192
9
年のオセアニア ミクロネシア
ミクロネシ
ア
...①マーシャル諸島,②キリバス,③ナウル,④ミクロネシア連邦,⑤パラオ,⑥アメリカ合衆国領の北マリアナ諸島・グアム
②
キリバ
ス
のうち,1900年にはイギリス資本のパシフィック=アイランズ社が,近隣の現キリバス共和国のオーシャン島のリン鉱山を購入し,採掘が進められています。
③
ナウ
ル
は1920年からイギリス・オーストラリア・ニュージーランド委任統治領となり,リン採掘権はイギリスにありました。採掘には中国人労働者が用いられていました。小島の森林は伐採され,採鉱により環境破壊が進みました
(注
)
。
クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,pp.354-355。
○192
0
年
~
192
9
年の東アジア・東北アジア
東アジア・東北アジ
ア
...①日本,②台湾(注),③中国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国 +ロシア連邦の東部
○192
0
年
~
192
9
年の東北アジア
◆
日清戦争,日露戦争,ロシア革命を経て,沿海州はソ連の支配地域となった
満洲をめぐり,ソ連・日本が対峙する
沿海州はソ連の支配地域に入ります。
日本は清の最後の皇帝
〈
◆
沿海州~ベーリング海峡までの地域は,ソ連の支配地域となる
沿海州~ベーリング海はソ連の支配下に置かれた
イェニセイ川からレナ川周辺でトナカイ遊牧を営
む
ツングース
人
,
ヤクート
人
,ベーリング海峡周辺の古シベリア諸語系
の
チュクチ
人
や,カムチャツカ半島方面
の
コリャーク
人
は,ソ連の支配下に置かれ行政区分に組み込まれています。
○192
0
年
~
192
9
年のアジア 東アジア
・
192
0
年
~
192
9
年のアジア 東アジア
現①
日本
大戦と震災の衝撃が、日本社会を動かした
第一次世界大戦の勝利により,日本はようやく欧米と肩を並べ"一等国"になったのだというムードが広がりました。第一次世界大戦後のパリ講和会議では
,
人種差別撤廃を提
案
していましたが,アメリカ合衆国の上院などの反対によって否決されました。
第一次世界大戦後に,〈吉野作造〉(1878~1933)や〈美濃部達吉〉(みのべたつきち,1873~1948)の影響下に
,
大正デモクラシ
ー
という運動が起きました。労働者の運動も盛んになり,1921年に
は
日本労働総同
盟
が設立されました。農民運動も盛んになり,小作争議が増えるなか,1922年に〈賀川豊彦〉(1888~1960)らによって日本農民組合が作られました。部落差別撤廃運動や,女性解放運動も連動します。1920年に〈市川房枝〉(1893~1981),〈平塚らいてう〉(1886~1971)が新婦人協会を設立,1922年には全国水平社が設立されました。
社会主義の動きも活発化し,1920年に社会主義者を集めて日本社会主義同盟が作られましたが,治安警察法で結社が禁じられました。1922年には,非合法でありながら〈堺利彦〉(さかいとしひこ,1871~1933),〈山川均〉(やまかわひとし,1880~1958)により,マルクス=レーニン主義に立
つ
日本共産
党
が設立されました。
第一次世界大戦後は,アメリカ合衆国は軍縮の提案をワシントンで行いました。日本,イギリス,フランス,イタリア,中国,オランダ,ポルトガル,ベルギーが招致(しょうち)され,1921年~22年に
,
ワシントン海軍軍縮条
約
【本試験H4】
で日・米・英・仏・伊の主力艦
【本試験H4アメリカとイギリスの主力艦保有を同比率としたか問う】
【本試験H13補助艦ではない】
のトン数の制限が決められました。
また,太平洋地域の日・米・英・仏の勢力圏の現状維持
(
四カ国条
約
),そして全参加国による中国の主権の尊重,門戸開放・機会均等の原則の確認
(
九カ国条
約
)も締結されました。
四カ国条約の結果,日英同盟は1923年に終了しました。九カ国条約では,日本の満洲とモンゴルにける勢力圏が暗黙のうちに認められる形となっていました。また,山東半島の返還について日中で競技され,1922年
に
山東半島から撤
退
しました
。
海軍軍縮条
約
にともない,海軍と陸軍で大規模な軍縮がおこなわれました。
1923年
,
関東大震
災
が関東一帯を襲い,日本経済に暗雲が立ち込めます。このときに政府の発行した「震災手形」が原因で,1927年に
は
金融恐
慌
が起きました。〈田中義一〉内閣は,緊急勅令によって収束させましたが,中小の企業が倒れ,三井・三菱・住友・第一・安田といった巨大財閥の経済界支配が加速しました。1925年に
は
普通選挙
法
とセット
で
治安維持
法
が制定され,無産階級が政治の舞台に進出することは押さえられるなど,言論と社会運動はおさえられました
【本試験H29】
。一方,ロシア革命以降
,
北樺
太
やシベリアに出兵していた日本は,1925年に撤兵
し
ソ連と国
交
を結んでいます。
〈田中義一〉内閣は同時に中国への進出を図り,1927年に
は
北
伐
【本試験H12】
中の
〈
蒋介
石
〉
【本試験H12】
軍と交戦しましたが,失敗。〈蒋介石〉がそのまま満洲に迫ると,これをなんとか阻止しようとしますが,〈田中義一〉内閣は手を打てません。そこで関東軍高級参謀
〈
河本大
作
〉大佐(1882~1955)は,〈田中〉内閣とは別のプランを建てます。〈蒋介石〉に敗れて奉天に逃げてきた満洲軍閥〈
同年,日本は山東からも撤兵し,ようやく国民政府を承認したのでした。
〈
張作
霖
〉爆殺事件に対して〈昭和天皇〉(1901~1989,在位1926~1989)から叱責を受けた〈田中〉内閣は,1929年7月2日に総辞職しました。世界恐慌が,刻一刻と迫っていました。
なお,1926年には〈高柳健次郎〉(1899~1990)が世界初のブラウン管による映像の伝送・受信実権を成功させています。"テレビの時代"は,すぐそこです。
○192
0
年
~
192
9
年のアジア 東アジア
現②
台湾
日本の開発が進む影で、先住民の弾圧も起きる
日本統治下の台湾では,1930年秋に先住民による蜂起(
一方,日本の資本が投下され,工業化やインフラ整備が進んでいました。
台湾南部の嘉南平野に当時としては世界最大の烏山頭ダムを建設した土木技師〈
○192
0
年
~
192
9
年のアジア 東アジア
現③
中国
◆
〈孫文〉の死後,国民政府の〈蒋介石〉は「訓政」によって中央集権化を進める
蒋介石が国民党による独裁をすすめていく
そのころロシアでは,第一次世界大戦の末期である1917年に共産主義革命が起きて,ロマノフ朝が倒されていましたよね。孫文は,ロシアのソヴィエト政権から「中国も共産主義やってみない?」と誘いを受けます。社会主義革命を世界に広める機関であ
る
コミンテル
ン
の方針で,外務人民委員代理(外務次官)の
〈
カラハ
ン
〉(1889~1937)は1919年に「今までロシア帝国が条約により中国から得た利権をすべて放棄する」という宣言を,北京政府と〈孫文〉率いる広東政府に向けて発表。
ソ連側にはパリ講和会議に不満を持つ中国の北京政府を抱き込むとともに,〈孫文〉を中国共産党との接近させる思惑(おもわく)があったのです。
1921年には上海で,〈陳独秀〉(ちんどくしゅう,1879~1942),〈李大釗〉(りたいしょう,1889~1927),〈毛沢東〉(もうたくとう,1893~1976)らが1921年
,
中国共産
党
をコミンテルンの支援のもとで結成しました
【本試験H24時期(第一次大戦中ではない)】
。
〈孫文〉は「いまは立場の違いなど関係ない。軍閥を倒すことが先決だ。そのためには,新しくできたソヴィエトのロシアや,国内の共産党とも手を組むべきだ」と考えたのです。
1923年に〈孫文〉は,ソ連の外交官(中国大使)の〈ヨッフェ〉(1883~1927)と話し合い(孫文=ヨッフェ会談),ソ連が中国の半植民地運動を支援する意思を確認し,中国国民党との提携を呼びかけます。〈孫文〉がソ連と提携することに対し〈蒋介石〉は黙っていたものの,〈孫文〉の死後,本音(反共産主義)が爆発することになります。
「欧米・日本の帝国主義諸国と"仲良し"の北京政府と正面切って戦うためには,中国国民党の軍編成を改革する必要がある」ということで,コミンテルンの工作員
〈
ボロディ
ン
〉(1884~1951)が,1923年に〈孫文〉の軍事顧問 兼 国民党最高顧問に就任しました。
このような強力なソ連のバックアップのもと,1924年に
は
中国国民党一全大
会
が開催され,「中国共産党の党員は,党員資格を維持しながら,個人的に中国国民党に加盟することができる」ということになりました。この時期には中国共産党を中心に
「
連ソ・容共・扶助工
農
」
【本試験H19時期】
【立命館H30記「扶助工農」を答える】
を打ち出され,ソ連と連携して共産党を受け容れ,労働者・農民を助けることが推進されていきます
(このいわゆる「三大政策」は〈孫文〉自身が述べたものではありません)
。また,黄埔軍官学校を設立し,軍隊の育成を図りました。この校長に就任したのが
〈
蒋介
石
〉で,政治部主任が
〈
周恩
来
〉でした。このようにして,国民党と共産党が提携したことを
,
第一次国共合
作
といいます。
1924年には日本の神戸でアジア主義者の〈頭山満〉(とうやまみつる)と会談し,日本との提携をも呼びかける「大アジア主義講演」をおこなっています。
◆
北京の実権を握った軍閥〈馮玉祥〉は〈溥儀〉を追放,〈孫文〉が亡くなると〈蒋介石〉が台頭する
〈孫文〉から,〈蒋介石〉へ
北京では軍閥〈
〈馮玉祥〉は〈孫文〉を北京に招き,革命勢力と軍閥同士の大同団結を模索しますが,周辺諸国の介入や軍閥同士の不和もあり,
1925年3月,〈孫文〉は北京で亡くなります。遺言は「革命未だ成らず」。〈孫文〉の後継者として頭角を現したのは,ソ連・共産党嫌いの
〈
蒋介
石
〉(チャン=チェーシー)でした。
かつて日本にも留学したことがあり,ここで当時革命運動をしようとしていた〈孫文〉の仲間で交遊を深めました。その後も常に〈孫文〉とともに行動し,革命運動を続け,〈孫文〉から絶大な信頼を得ます。1923年
の
孫
文=
ヨッフェ会
談
でソ連との提携が成ると,〈蒋介石〉はソ連で軍事学を学びました。帰国後の1924年に中国国民党第一回全国代表大会で,中国国民党と中国共産党
が
第一次国共合
作
を実現させると,革命軍をつくって中国北部を支配している軍閥を倒すための革命軍が組織され,軍人の養成のため
に
黄埔軍官学
校
が設立されました。その校長に就任したのが〈蒋介石〉でした。
1925年に〈孫文〉が亡くなると,その一番弟子として,北方の軍閥の討伐,つま
り
北
伐
【本試験H12】
の遂行を目標に掲げて,〈孫文〉の握っていた権力を一手に集めていきました。〈蒋介石〉は,上海の証券取引所にも出入りして革命資金を集めたことがあるように,浙江省の資本家
(
浙江財
閥
)とも深い関係を持っていました
【本試験H30中国共産党との関係はない】
。ですから,平等な社会を実現させようとする共産党と折り合えるはずもなく,のちに〈蒋介石〉は共産党の弾圧にまわり,国共合作を解消させることになります。
◆
〈孫文〉の死後,〈蒋介石〉主導で北
伐
【本試験H12誰が指導したか問う
】
が開始され,共産党と国民党が分離した
〈蒋介石〉により北伐が完成,共産党の討滅へ
上
海
【立命館H30記】
の日本人が経営する工場で,中国人の労働者が日本や帝国主義に反対するデモを起こしました。翌月の3月の〈孫文〉が死去。その後も運動は続き,5月30日に,租界のイギリス人の警官がデモ隊に発砲したことで多数の死傷者が出てしまいます
(
五・三〇運
動
【東京H28[3]】
【共通一次 平1:上海クーデタ,武昌蜂起,五四運動ではない。内容も問う】
【本試験H16満洲事変に抗議したわけではない】
【立命館H30記】
)。
〈蒋介石〉は,孫文亡き後,黄埔軍官学校の卒業生を中心に国民革命軍を組織し,第一軍司令官(のち総司令)として,孫文が夢見てい
た
「北洋軍閥と帝国主義者が我々を包囲している!国民革命の精神を集め,孫文の遺志を完成しようではないか!」
1926
年
広
州
【立命館H30記】
を出発した〈蒋介石〉は,各地の軍閥を次々に倒していきました。地主の支配に苦しんでいた農民の多くも,〈蒋介石〉側についていき,各地に国民党の旗である
「
青天白日
旗
」が掲げられていきました。
さて,国民党は長江の中流域にある武漢を占領することに成功しましたが,〈蒋介石〉らの右派(共産主義からは距離を置いているグループ。中国国民党が多かった)は別の場所(南昌)にいて,武漢には左派(共産主義を支持するグループ。中国共産党が多かった)が集まっていました。
ソ連のコミンテルンの工作員〈ボロディン〉(1884~1951)は,「この際,蒋介石を倒してしまえばいいじゃないか」と,左派のグループを支援します。中国でも共産主義革命を起こさせるのが,コミンテルンの目的ですから。左派のリーダーとして,フランスに滞在していた
〈
汪兆
銘
〉を中国に呼び返しています。
この様子をみていた〈蒋介石〉は,「武漢は共産党にのっとられた!」と思いはするものの,北伐はまだ終わっていないのだから,ここで仲間割れしては北部の軍閥政権を倒すことはできないと,ぐっとこらえます。「しかたがない...とりあえず全体会合は武漢で開こう」と妥協をしますが,腹の中ではいつ共産党を追放してやろうかと,準備をはじめていました。1927年に武漢で開かれたこの会合では,共産党員が党や政府の重役につくことが決定し,「これでは国民党が共産党,そしてそのバックについているソ連に乗っ取られてしまう」と危機感を感じた〈蒋介石〉は,ついに行動に移します。
1927年3月に,南京・上海をたてつづけに占領した国民革命軍は,4月12日に突如,共産党関係者を攻撃しました。そして,「上海の列強の皆さん。われわれ国民党はあなたがたを攻撃はしません。共産党のようにストライキもさせません」とアピールし,欧米諸国をバックにつけることにも成功。国民党によって共産党員
【追H28】
は弾圧され,第一次国共合作は解消されてしまいました。
これ
を
上海クーデ
タ(
四・一二事
件
)
【追H28時期を問う】
【共通一次 平1:五・三〇運動とのひっかけ】
【本試験H14孫文ではない】
【セA H30】
【早・法H31】
といいます。
武漢政府に参加していた国民党の左派
(国民党員なのだけれども,共産主義グループに共感している人たち。たとえば
〈
汪兆
銘
〉)
は,〈蒋介石〉に降伏し
,
南京国民政
府
【追H20北京に国民政府は樹立していない、H25時期が20世紀前半か問う】
【早・政経H31上海クーデタにより樹立されたこと、浙江財閥の支援があったことを問う】
に吸収されました。
中国共産党は,8月・9月に朱徳を中心に武装蜂起しますがいずれも失敗し(南昌蜂起・秋収蜂起),それ以降は国民党からの攻撃をおそれて,"山"に入ります。人里離れた山ですので,自給自足の厳しい暮らしを送っていきます。ひとまずの拠点は湖南省の境に近い,江西省
の
井崗
山
(せいこうざん)です。
〈蒋介石〉は共産党に弾圧を加え,「純・国民党」のメンバーによる北伐を再開したのですが,障害が発生しました。
「〈蒋介石〉が中国を統一してしまったら,今まで北京の軍閥政府(段祺瑞)などと仲良く癒着していたおかげでもらっていた利権がなくなってしまうかもしれない...。北伐
【追H20】
に対抗して自国の勢力圏を守るために出兵しよう」と,〈田中義一〉内閣が1927~28年
に
山東出
兵
【追H20】
をおこなったのです。ちなみに,すでに1926年から元号は「昭和」。
〈蒋介石〉は日本軍と正面で戦ったら元も子もないと,武力衝突の起き
た
済
南
(さいなん
)
事
件
【立命館H30記】
で気づきます。日本軍を避けながら北京に向かった〈蒋介石〉は,当時北京を支配していた
〈
張作
霖
〉と戦って,1928年についに北京の軍閥政府を倒しました。
〈張作霖〉は,満洲方面の奉天軍閥の首領です。「〈蒋介石〉に北京を奪われるなよ」と日本から期待をかけられていた〈張作霖〉は,〈蒋介石〉に敗れたので,すでに用無しです。満洲の奉天に帰る列車が爆破され,死亡しました。満洲を担当領域とする日本
の
関東
軍
【立命館H30記】
の謀略です。父を消された子の〈張学良〉は「いつか日本にカタキを打つぞ」と,父の敵であった〈蒋介石〉と結び,北伐は終わりました。
北伐の完成とともに中国国民党は軍政を終了させ,〈孫文〉のプランに従って民主主義を達成するまでの過渡期とし
て
訓
政
(くんせい)の段階に移行が進められていきました。訓政というのは,中国の国民にいきなり民主主義を導入してもうまくいかないだろうから,まずは中国国民党が中心に政治をおこない,国民に民主主義を教え込んでいこうというやり方のことです。
・
192
0
年
~
192
9
年の東アジア
現④
モンゴル
モンゴル高
原
では,モンゴル人民党を中心にソ連共産党を"助け舟"として,独立を目指す動きが進んでいました。1921年のモンゴル人民党党大会で臨時政府が樹立されると,ソ連共産党の援助で中国勢力が排除され,モンゴル人民党の政権が独立しました。そのまま国家元首にとどまっていた〈ジェブツンダムバ=ホトクト〉(位1911~24)が亡くなると, 1924年
に
モンゴル人民共和
国
(モンゴル人民党は人民革命党
【東京H12[2]】
に改称)が成立
し
【東
京
H8[1
]
指定語句「モンゴル」
】
【本試験H15 1950年代初めの成立ではない,本試験H17時期(20世紀後半ではない),本試験H30時期】
,活仏を君主としない社会主義国となったのです。ソ連は,外モンゴルに対する中華民国の宗主権を認めていたため,モンゴルはソ連の一部にはなりませんでした。モンゴルでは,王公やチベット仏教への弾圧が強まり,
〈
チョイバルサ
ン
〉
【東京H12[2]】
【慶商A H30記】
による独裁化も進みました("モンゴルのスターリン"ともいわれます)。
ただ,第二次世界大戦以前にモンゴル人民共和国を承認していたのはソ連のみで,中華民国も独立を認めていませんでした。
○192
0
年
~
192
9
年のアジア 東南アジア
◆東南アジアでは社会主義思想が民族運動と結びつき,国民意識を形成する動きもみられた
東南アジ
ア
...①ヴェトナム,②フィリピン,③ブルネイ,④東ティモール,⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア,⑧カンボジア,⑨ラオス,⑩タイ,⑪ミャンマー
・
192
0
年
~
192
9
年のアジア 東南アジア
現①
ヴェトナム
フランス支配下のヴェトナムでは,1930年に
〈
グエ
ン=
ア
イ=
クオッ
ク
〉(のち
の
ホ
ー=チ=
ミ
ン
)
【東京H28[3]】
【追H25東遊運動を進めていない(ファン=ボイ=チャウとのひっかけ)】
のもと,ヴェトナム共産党が組織されました。彼はフランスに渡ってフランス共産党に入党し,1924年にモスクワのコミンテルン第五回大会に参加した活動家です。すでに1924年に
は
ヴェトナム青年革命同志
会
を広州で立ち上げていました。しかし,彼が渡航先の香港でイギリスに逮捕されると,運動は一旦下火になりました。
・
192
0
年
~
192
9
年のアジア 東南アジア
現②
フィリピン
フィリピ
ン
では,アメリカの共和党政権(1921~32)の政策により,独立は認められませんでした。フィリピン人の中にも「独立すれば砂糖をアメリカに輸出する特権がなくなってしまう」ことをおそれる大地主たちによる反対もあり,独立運動には"一枚岩"になりにくい構造がありました。
・
192
0
年
~
192
9
年のアジア 東南アジア 現③ブルネイ
ブルネイでは〈ムハンマド=ジャマルル=アマル2世〉(位1906~1924)と、〈アマド=タジュディン〉(位1924~1950)にスルタンとしてイギリスの保護下で支配しています。
〈ムハンマド=ジャマルル=アマル2世〉のときにイスラーム法が公式に導入されました。
・
192
0
年
~
192
9
年のアジア 東南アジア 現④東ティモール
東ティモールはポルトガルの植民地となっています。
同じ島の西部(西ティモール)はオランダの植民地です。
・
192
0
年
~
192
9
年のアジア 東南アジア 現⑥シンガポール、⑦マレーシア
すでに(1)海峡植民地(ペナン,マラッカ
,
シンガポー
ル
【本試験H2・本試験H11:1901年当時の宗主国を問う】
)+(2)マレー連合州(フェデレイティド=マレー=ステイツ)+(3)非連合州を合わせて
,
イギリス領マラ
ヤ
が形成されていました。
また、イギリスは19世紀後半には,ボルネオ島にも支配圏を伸ばし,1888年にサバ,ブルネイ,サラワクは,すべてイギリス保護領になりました。
マレー半島では、気候の適し
た
天然ゴ
ム
【慶商A H30記】
のプランテーションや世界最大の埋蔵量を持つスズの生産がさかんで
【本試験H17コーヒーではない】
、マレー半島で生産された資源はシンガポールで輸出され、鉱山会社、ゴム会社、貿易会社、銀行、保険会社がシンガポールに置かれ、マレー半島のイギリス植民地との経済的結び付きが強まっていきました。
1924年にシンガポールとマレー半島を直接結ぶ橋(コーズウェイ)ができると、政治的な中心地としてのクアラルンプールに対し、シンガポールはいわば経済的な中心地となります
(注1)
。
シンガポールの住民の半数以上が中国人で、民族・言語・宗教によって分節された「モザイク社会」が形成されていきました。中国人は出身地ごとに強固な集団を維持するのが普通でしたが、マレー人と結婚するなどしてマレー人の風習を受け入れた中国人は「プラカナン」(男性はババ、女性はニョニャ)と呼ばれるようになります
(注2)
。
シンガポールの経済発展の影では、日本(特に長崎の島原や熊本の天草を中心とする九州西部)からわたった日本女性が売春婦(
からゆきさん
)として渡った例もありました。第一次世界大戦が終わると、シンガポール在住の日本人商社員などからの批判が出て、1920年に日本領事館が彼女たちの追放を決定しています
(注3)
。
(注1) 岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.23。
(注2) 岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.36。
(注3) 岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、pp.30-31。
・
192
0
年
~
192
9
年のアジア 東南アジア 現⑧カンボジア
カンボジア王国は
フランス領インドシナ
の一部に編入され、保護国となっていました。
国王〈シソワット1世〉(位1904~1927)はフランスによる支配に協力的でしたが、王には名目的な存在で、実権はフランス人総督が握っていたのです。
1927年に息子〈シソワット=モニヴォン〉(位1927~1941)が即位しました。
・
192
0
年
~
192
9
年のアジア 東南アジア 現⑨ラオス
ラオス北部の
ルアンパバーン王国
と、ラオス南部の
チャンパーサック王国
は、それぞれ
フランス領インドシナ
の一部に編入され、保護国となっていました。
・
192
0
年
~
192
9
年のアジア 東南アジア 現⑩タイ
この時期のタイを支配していたのは
チャクリ朝
(
シャム王国
)です。
1925年に〈ラーマ7世〉(プラチャーティポック、位1925~1935)が即位しました。
しかし、専制君主制に対する批判も出るようになり、立憲君主制をめざす人民党が1927年に結成されています。
・
192
0
年
~
192
9
年のアジア 東南アジア 現⑪ミャンマー
この時期のビルマは
イギリス領インド
の1州となっています。
・
192
0
年
~
192
9
年のアジア 東南アジア
現⑤
インドネシア
この時期も,オランダ領東
○192
0
年
~
192
9
年のアジア 南アジア
南アジ
ア
...
①
ブータン
,②
バングラデシュ
,③
スリランカ
,④
モルディブ
,⑤
インド
,⑥
パキスタン
,⑦
ネパール
・
192
0
年
~
192
9
年のアジア 南アジア
現③
スリランカ,
この時期
の
セイロン
島
は
イギリス
領
です。
・
192
0
年
~
192
9
年のアジア 南アジア
現②
バングラデシュ
,⑤
インド
,⑥
パキスタン
◆
第一次大戦後もインドの独立は達成されず,インドの独立運動が激化する
インドは第一次世界大戦でイギリス
【本試験H12ドイツではない】
に協力したものの,戦後の自治の約束は守られませんでした。イギリスの発布し
た
ローラッ
ト
法
【追H27第二次世界大戦後ではない】
【早・政経H31 年代】
や
アムリットサル事
件
【早・政経H31 年代】
に対し,
〈
ガンディ
ー
〉は
,
第一次非暴力・不服従運
動
(1919~22)を展開します。〈ガンディー〉の考え方はこうです。
「この宇宙や人間の根源には,唯一絶対の真理がある。それを正しくとらえること(サティヤーグラハ)が必要だ。不正を正すためにはブラフマチャリヤー(自己浄化。物質的な欲望に惑わされないこと)と,アヒンサー(不殺生)を守るべきだ。」
「自分をコントロールし,すべての人間を愛する。そうすることで迫害を受けても,屈することなく受け止めよう。やがて相手は,自分のほうがまちがっていたのだと,気づくだろう。」
〈ガンディー〉の運動で有名なのは,綿糸の手紡ぎ車
(
チャル
カ
)を回す運動です。イギリスの機械式綿布が流入して以来,ほこりをかぶっていた糸車をもう一度回し,インド人の手で綿布を織ろうと呼びかけたのです。
また,ときを同じくして,第一次世界大戦で敗戦国となったオスマン帝国
の
カリ
フ
を守ろうという運動がインドのムスリムにも飛び火し,戦勝国のイギリスに対する抵抗運動が起こります。〈ガンディー〉は,イスラーム教徒のこ
の
ヒラーファト運
動
にも協力していましたから,一時的に全インド=ムスリム連盟も〈ガンディー〉に協力したのですが,農民が警官を殺害するに至ると,〈ガンディー〉は運動の停止を宣言。
〈ガンディー〉はイスラーム教徒との提携も呼びかけましたが,
〈
ガンディ
ー
〉
の思想はヒンドゥー教の色彩も強かっ
た
ことから,イスラーム教徒の中には「同じインド人であっても,宗教が違うのだから別々の民族として国家を建設するべきだ」という考えも強くなっていきました。近現代のインドで,宗教や宗派,カーストに基づき集団どうしがまとまり,他集団と対立していく動き
を
コミュナリズ
ム
(宗派主義)と呼ぶことがあり,現在でも依然としてみられる現象です。
全インド=ムスリム連盟
【追H24】
の〈ジンナー〉
【追H24ネルーではない】
も,〈ガンディー〉の運動から距離をとるようになり,ここからしばらく反英運動は下火になってしまいます。
1927年になり,ようやくインド統治法を改正するためにイギリスから憲政改革調査委員会
(
サイモン委員
会
)が組織されるのですが,委員に1人もインド人が含まれていなかったことから,反英運動が再燃。1928年にインドに上陸したときには「サイモン帰れ!」の大合唱。反対運動に加わっていたインド人がイギリス人警官に殺害される事件も起き,インド国民会議派や全インド=ムスリム連盟の中でも,どのように対応するべきか意見は割れてしまいます。
そんな中,1929年に国民会議派
の
ラホール大
会
が開催され,議長
〈
ネル
ー
〉
【追H24全インド=ムスリム連盟を指導していない】
は
「
プール
ナ=
スワラー
ジ
(完全独立)」を主張
【本試験H15プールナ=スワラージに反対したわけではない】
【追H24時期(ガンディー暗殺、ベンガル分割令との時系列)】
しますが,「まずは自治を目標にするべきだ」という勢力もいて,意見がまとまりません。
○192
0
年
~
192
9
年のアジア 西アジア
◆
オスマン帝国崩壊後に各地に近代的な国家が成立するが
「民族」問題が生まれ欧米列強の経済的支配続く
西アジ
ア
...①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ(注),⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
◆
オスマン帝国領のう
ち"
肥沃な三日月地
帯"
が英仏の委任統治領となった後,独立に向かったが,英仏の影響力は残された
パレスチ
ナ
(ヨルダン川の西部)
【本試験H5地図・イギリスの勢力圏】
,
ヨルダン川の東
部
【本試験H5地図・イギリスの勢力圏】
(パレスチナ側から見てヨルダン川の向こう側(trans-)ということで,トランスヨルダンと呼ばれました)
,
シリ
ア
【本試験H5地図・フランスの勢力圏】
,
イラ
ク
【本試験H5地図・イギリスの勢力圏】
では,イギリスとフランスによって"むりやり"勢力圏が確定されたため,従来はこのような境界を越tえて分布していた民族や宗派がバラバラに分断され,互いに対立するようになっていきます。
・
192
0
年
~
192
9
年のアジア 西アジア
現①
アフガニスタン
アフガニスタ
ン
は1919年にイギリス
と
第三次アフガン戦
争
【東京H26[1]指定語句「アフガニスタン」】
を戦った後に
,
完全独
立
しました。立憲君主制を樹立し,近代化につとめましたが,地理的に中央ユーラシアとインドの中間地点にあることから,今後も大国の思惑に左右され続けることになります。
・
192
0
年
~
192
9
年のアジア 西アジア
現②
イラン
◆
イラン高原ではパフレヴィー朝が成立し近代化を進めたが,イギリス・ロシアへの従属は続いた
パフレヴィー朝が,近代的な「イラン」を建設する
イラン立憲革
命
が失敗に終わると,イラン北部は事実上ロシア軍の支配下に置かれ,イラン南部はイギリス軍が中立地帯近くにまで軍を進めていました。第一次世界大戦が始まると1914年にイラン政府は中立を宣言しましたが,イギリスとロシアへの対抗からイランの政権にはドイツへの接近を図ろうとする動きもありました。
しかし,西隣のオスマン帝国がドイツ側(中央同盟側)で参戦したために,イランはイギリスとロシアがそれを押しとどめるための戦場となり,大きな被害をこうむりました。
弱腰のテヘラン政府に対する抵抗運動が強まり,イラン人の国家の独立を主張するジャンギリーというグループの活動がギーラーン地方で活発化しました。
そんな中,1919年8月に不平等なイラン=イギリス協定が結ばれ,イランはイギリスとロシアの緩衝地帯として設定されました。イランではソ連の支援を受けた労働者による共産党の活動とともに,イギリスに対する反対運動が各地で盛り上がっていきます。テヘラン政府は実権をなくし,地方ではアゼルバイジャン地方でテュルク系のアゼルバイジャン人の政権も樹立されました。
このような混乱の中,強力な軍隊によりイラン国内をおさめようとする運動が高まり,テヘランで1921年にクーデタが起きました。この主力となったのが,
〈
レザ
ー=
ハー
ン
〉が指揮をとるガッザーク部隊であり,実権掌握後はイギリスとの協約の破棄やソ連への接近(ロシア側に有利な友好協定に調印)といった政策を打ち立てました。
1925年にガージャール朝は国民議会によって廃止されることが決定され,〈レザー=ハーン〉は同年12月に
〈
レザ
ー=
シャ
ー=
パフラヴィ
ー
〉(位1925~41)として即位することになり,1926年には戴冠式をおこないました。こうしてできたの
が
パフレヴィー
朝
【本試験H7】
【H29共通テスト試行 バルフォア宣言やフサイン=マクマホン協定とは無関係】
【H27京都[2]】
です。「シャー」という古代ペルシアの王の称号を用いたのは,古代のサーサーン朝のイメージを用いて「イラン人意識」を前面に押し出すことで,クルド人
【東京H25[3]】
やアゼルバイジャン人などの「非イラン人」を抑圧(よくあつ)し,「イラン人の国家」としてのまとまりを強めようとしたからです。
『王の書』(シャー=ナーメ)がイランの国民的な詩人として扱われるようになったのも,この時期からです。月名も,アラビア語の月名からイランの太陽暦であるジャラーリー暦に由来するペルシア語の名称に改められました。
従来はバラバラだった軍隊を統一し,義務徴兵制をしいて国軍を建設し,地方の反政府勢力を次々に鎮圧していきました。法・行政・司法の西欧化(近代化
【本試験H7】
)も推進し,イスラームと国家を切り離そうとしました(政教分離)。
1928年には不平等条約を撤廃し近代化を推進していきましたが,国内の石油はイギリス企業に握られていました。
○192
0
年
~
192
9
年のアジア 西アジア
現③
イラク
イラ
ク
は,第一次世界大戦後にイギリスの委任統治下で1921年にイラク王国が成立しました(完全独立は1932年)。ヨルダン川以西のトランスヨルダンには,1923年に委任統治下でトランスヨルダン王国が成立します(完全独立は1946年)。
○192
0
年
~
192
9
年のアジア 西アジア
現⑨
イエメン
イエメ
ン
北部は1918年にイエメン王国として独立しています
。
イエメ
ン
南部のアデン地方は,インド洋交易の基地として重要視され,1937年にイギリスの直轄植民地となりました。
○192
0
年
~
192
9
年のアジア 西アジア
現⑩
サウジアラビア
アラビア半島ではサウード家がヒジャーズ地方を併合した
ラシード家に敗れ
た
サウード
家
の当主〈アブドゥルアズィーズ〉はアラブ遊牧民の戦力を利用し1902年に,対立するラシード家からアラビア半島中央部のナジュド(ナジド)を奪回し,1924年にハーシム家の当主
〈
フサイ
ン
〉からメッカを奪い
,
ヒジャーズ地方を併
合
しました。のち
の
サウジアラビ
ア
(1932年に改称)
【追H20イブン=ルシュドによる建設ではない】
です。
○192
0
年
~
192
9
年のアジア 西アジア
現⑬
パレスチナ
パレスチ
ナ
は,第一次世界大戦後にイギリスの委任統治領となり,大戦中の
「
バルフォア宣
言
」
【本試験H9アラブ人に独立をみとめたものではない】
に基づき,シオニズ
ム
【東
京
H8[1
]
指定語句
】
(イェルサレムの"シオンの丘"の地にユダヤ人国家を建設しようとする運動)の影響を受けたユダヤ人の移民が増加しました。彼らはまずテルアヴィヴの港ヤッファに上陸し,乾燥地に灌漑(かんがい)を広げてオレンジの栽培などを行うようになりました。しかし,しだいにアラブ人との土地をめぐる争いも激化し,1928年~29年には,イェルサレム
の
嘆きの
壁
で祈りを強行したことでイスラーム教徒との間の武力衝突も起きています。
こうして,オスマン帝国時代にはイスラーム教徒,キリスト教徒,ユダヤ教徒が混在し共存していたパレスチナに,新たな民族対立が生まれました。
・新たに移住してきたユダヤ人→
「
ユダヤ
人
」
・もともとパレスチナに住んでいたイスラーム教徒,キリスト教徒,ユダヤ教徒→
「
パレスチナ
人
」(アラブ人)
という区別です。
こうして現在も未解決であ
る
パレスチナ問
題
が発生したわけです。
・
192
0
年
~
192
9
年のアジア 西アジア
現⑯
キプロス
キプロス島は第一次世界大戦中に
,
イギリ
ス
領として併合されていました。
○192
0
年
~
192
9
年のアジア 西アジア
現⑰
トルコ
◆
オスマン帝国が崩壊し,トルコは政教分離の原則によりヨーロッパ的な近代国家を建設した
〈
ムスタフ
ァ=
ケマ
ル
〉
【本試験H16ウラービーではない】
【追H29】
【セA H30初代大統領か問う】
【上智法(法律)他H30】
(1881?~1938)は現在のギリシア出身で,軍人になるため士官学校に進んでいた頃から,〈アブデュル=ハミト2世〉の専制政治に不満をいだいていました。その後はイスタンブルの陸軍大学に進み,西欧風の教育を受けフランス語にも堪能でした。
オスマン帝国が第一次世界大戦でドイツ側にたって参戦すると,〈ムスタファ=ケマル〉はニュージーランドやオーストラリア軍も参加したアナトリア半島上陸作戦を食い止め,名声を高めます(ガリポリの戦い)。
しかし大戦でドイツ側が大敗北すると,オスマン帝国は英仏と講和の話し合いを初めます。「青年トルコ」政府は崩壊,
〈
エンヴェ
ル=
パシ
ャ
〉はモスクワに亡命してしまいました。ギリシアも,かつて「イオニア植民市」の分布していたアナトリア半島のエーゲ海沿岸
の
イズミ
ル
(スミルナ)を占領してしまう。
最後の皇帝(スルターン)〈メフメト6世〉は,ほとんど英仏の言いなり状態で,1920年には領土の削減・治外法権の承認・軍備縮小を盛り込ん
だ
セーヴル条
約
【本試験H13ローザンヌ条約,パリ条約ではない】
を結ばされてしまいます。
この条約では,トルコ南東部のフランス
【本試験H20】
の委任統治
領
シリ
ア
【本試験H20】
,イギリス
【本試験H20フランスではない】
の委任統治
領
イラ
ク
【本試験H20】
との国境付近
に
クルド
人
【東京H25[3]】
の
「
クルディスタ
ン
」を建国するための地域が盛り込まれていました
【本試験H13問題文(解答には必要なし)】
。のちにこの案
は
ローザンヌ条
約
(1923)
【追H26ロカルノ条約とのひっかけ】
【本試験H13セーヴル条約ではない】
が結ばれたことで,セーヴル条約とともに"幻"となり,以後クルド人の独立問題に尾を引いていきます。
オスマン帝国の帝国議員は「このままでは英仏に占領され,帝国領がバラバラにされるかもしれない」と危機感を抱きます。英仏は皇帝にプレッシャーをかけ,英仏に抗議をしようとしている帝国議会を解散させ,イスタンブールを占領してしまいました。そこで議員たちは
,
アンカ
ラ
に逃げ,ムスタファ=ケマルの力を頼るようになっていきました。ケマルは,アンカラ
で
トルコ大国民議
会
を開き,支持を得ます。オスマン帝国のスルターンは,「オスマン帝国が多少バラバラに分割されて,英仏に占領されてもかまわない。自分のスルターンの位だけは守っておきたい」と考え弱腰だったのに対し,トルコ大国民議会は「あくまで英仏を追い出すべきだ。これは祖国解放戦争だ!」と主張。議長に就任した〈ケマル〉は内閣を組織し,戦争を指揮するために独裁体制をしきます。
1922年,アンカラの政府は,アナトリア半島沿岸都市イズミルを占領していたギリシア王国軍を撃退し
(
ギリシ
ア=
トルコ戦争,希
土(
き
と)
戦
争
),連合国と休戦協定を結びました(イズミルのあるエーゲ海沿岸にはギリシア語を話す住民がいました)。つまり,オスマン帝国がなしえなかったことを,〈ケマル〉の軍は成功させることができたわけで,一気に〈ケマル〉は救国の英雄となりました。
1922年にトルコ大国民議会は,カリフであると同時にスルターンであった〈メフメト6世〉の地位のうち
,
スルターンの地位の廃
止
を決議
【本試験H3,本試験H12時期(第一次大戦「後」かを問う)本試験H16エジプトのウラービーによる廃止ではない】
し,スルターン(皇帝)を失っ
た
オスマン帝国は滅亡しまし
た
【本試験H3】
【追H25時期が「第一次世界大戦を経て」か問う】
。カリフとしての〈メフメト6世〉(位1918~22)の地位は保障されましたが,彼は国外に亡命。カリフの地位は〈アブデュルメジト2世〉に受け継がれましたが
,
アンカ
ラ
【本試験H25】
に首都を置いた〈ケマル〉の新政権はイスラーム教とは無関係の「世俗共和政」を打ち立てる方針でした。
この一連の政治変動
を
トルコ革
命
といいます
【法政法H28記】
。
1923年7月には連合国と
も
ローザンヌ条
約
【追H20】
を結び,セーヴル条約で縮小された領域を奪回することに成功しました。ローザンヌ条約の下で,1923年10月に
に
トルコ共和
国
【追H29】
【東京H22[3]】
が建国され(初代大統領は〈ムスタファ=ケマル〉
【追H29】
),1924年に
は
カリフ制を廃
止
しました
【追H20地図問題(トルコ共和国の領域),第一次世界大戦後ローザンヌ条約を締結したか問う】
。
この条約では,セーヴル条約で設定されてい
た
クルド
人
【東京H25[3]】
の
「
クルディスタ
ン
」建設がなかったこととされ,クルド人の居住地域はトルコ共和国,シリア,イラク,パフレヴィー朝ペルシア(イラン)などに分かれました。これがその後も続
く
クルド人独立問
題
の本格的な始まりです。
さらに〈ケマル〉は,自分が党首である共和人民党の一党独裁体制
【本試験H7スルターン制の下ではない】
を確立し,圧倒的な権力のもとで,さまざまな近代化
【本試験H7】
政策を実現させていきます。例えば,1925年からは女性解放の諸政策(頭をおおうチャドルの廃止,一夫一婦制
,
女性参政
権
),1928年には文字改革(1928)でアラビア文字
【本試験H6,
本試験H8 アラビア文字の図版から選ぶ。契丹文字ではない】
を廃止
し
ラテン文
字
【本試験H6,
本試験H8 ラテン文字の図版から選ぶ(Yeni Düşünceの記事の転用とみられる)。キリル文字ではない】
のアルファベットを採用(文字革命
【本試験H6】
)。右から左に向かって書くアラビア文字から,左から右に向かって書くラテン文字への変更は,まさに革命的な変化です。たとえば,トルコは「Türkiye(テュルキイェ)」と表記されることになりました。
他にも,カレンダーもイスラーム暦からグレゴリウス暦へ切り替えるなど,トルコはヨーロッパ文明への旋回を始めます。
このような業績から,1934年には,議会がケマルに対し
「
アタテュル
ク
(トルコの父)」を与えました。
上からの改革により近代化がすすめられていった点は日本によく似ていますが,伝統的なイスラーム教徒からの反発や,テュルク(トルコ)人を優先する政策に対す
る
クルド
人
【東京H25[3]】
などの少数民族の対立といった課題は残されることになります。
○192
0
年
~
192
9
年のアジア 西アジア 現⑰ジョージ
ア(
グルジ
ア),⑱
アルメニア
,⑲
アゼルバイジャン
アルメニ
ア
人は黒海とカスピ海の間にある,カフカズ(英語で
は
コーカサ
ス
)
山
脈
(5642メートルのエリブルース山が最高地点です)の南に分布する民族です。古代のアルメニア王国は,かつてローマ帝国やササン(サーサーン)朝の支配を受けましたが,民族的な伝統(アルメニア語,アルメニア正教)を守り続けています。オスマン帝国,イランのカージャール朝,1828年
の
トルコマンチャーイ条
約
【東京H26[1]指定語句】
以降
は
ロシア帝
国
の支配を受けますが,第一次世界大戦のときに英仏に支援されて独立運動を起こしました。
第一次世界大戦後のセーヴル条約では,クルド人とともにアルメニア人の民族自決がうたわれていました。しかし,1920年には「アンカラ政府はセーヴル条約を無効とする」として,アルメニア人をカルスから追放し,のち占領しました。逃げ遅れた市民6000人が虐殺されています
(
アルメニア人虐
殺
)。アルメニアの首都イェレヴァンの政府ではソ連に接近する動きもあり,トルコ共和国としてはアルメニアにソ連が南下することを恐れたという事情があります。
アメリカ合衆国のでアルメニア人組織はこの動きに抗議しましたが,アメリカ合衆国政府は「イラク北部の石油」をめぐる取引を重視するスタンダード石油の圧力もあり,トルコ共和国政府に対してアルメニア独立を働きかけることはしませんでした。
アルメニアでは結局ソ連の支援を得て,アルメニア人を主体とするボリシェヴィキ軍がアルメニア=ソヴィエト社会主義共和国を樹立しました。1921年には露土和親条約が締結され,カルスとアルダハンはトルコ,バトゥミはソ連の領土ととりきめられました。
(注)ローザンヌ条約では37~42条に「信仰上・人種上の権利を保障する対象となる少数民族」とのみ記載されるにとどまりました。
1922年12月にシベリアから日本が撤退すると,同年12月30日
に
ソ
連
(
ソヴィエト社会主義共和国連
邦
)が成立しました。これには,各民族が形成していたソヴィエト社会主義共和国を,ロシア人のソヴィエト社会主義共和国に自治国として参加させる形式がとられました。
例えば,ポーランドとロシアの狭間に位置す
る
ベラルー
シ
の,ベラルーシ=ソヴィエト社会主義共和国が,ロシア=ソヴィエト社会主義共和国と統合して,ソ連を形成したわけです。あくまで「自治国」という形式をとったわけですが,"ロシア帝国"の支配を受け継いだ面も大きく,実際にはロシア人のソヴィエト社会主義共和国が強い力を持っていたため反発もありました。
ほかに,黒海沿岸
の
ウクライ
ナ
=ソヴィエト社会主義共和国がソ連に加入しましたが,現在のジョージア(2015年までは「グルジア」)は猛反発し,最終的にアルメニアとアゼルバイジャンをあわせ
て
ザカフカー
ス
=ソヴィエト社会主義共和国が形成されることで決着しました。2015年以降,ロシア語的な「グルジア」という国名から,「ジョージア」という英語名に変更したのにも,反ロシアの国柄があらわれているといえます。
ソ連はほんらい,国家としてのまとまりよりも農民や労働者階級の団結を主張していましたから,民族主義(民族ごとに団結したり,国家を作ろうとしたりする考え)との相性はあまりよくありませんでした。しかし,民族主義を弾圧すると大変なことになるというのは,ポーランドの支配を通して思い知っていましたので,ソ連を構成するロシア人以外の地域では自治を認め,ロシア語以外の言語の使用も認められていました。1920年代には各共和国で「土着化」政策がとられ主要民族が重用されるなど,比較的緩やかな民族政策が採用されていました
(注
)
。1927年にはに反帝国主義民族独立支持同盟がコミンテルン(共産主義インターナショナル)の指導の下,ベルギーはブリュッセルで開催され,植民地支配下にあった37の地域代表が集まりました。この時期のソ連は,イギリスやフランスを中心とする帝国主義体制に反対する上で,中心的役割を果たそうとしていたのです。
(注)世界恐慌後に〈ヒトラー〉がドイツで政権を握ると,ソ連は資本主義国と接近し,民族政策も民族主義を押さえつける方向に転換していきます。
●192
0
年
~
192
9
年のインド洋海域
インド洋海
域
...インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島,モルディブ,イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域,マダガスカル,レユニオン,モーリシャス,フランス領マヨット,コモロ
・
192
0
年
~
192
9
年のインド洋海域 マダガスカル
マダガスカ
ル
はフランスの植民地です。
○192
0
年
~
192
9
年のアフリカ 中央アフリカ
中央アフリ
カ
...現在の①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン
現在のコンゴ共和国,中央アフリカ共和国,ガボンは,フランス領赤道アフリカとして支配された
・
ガボ
ン
植民地
→現・⑥ガボン共和国
・
中央コン
ゴ
植民地
→現・⑤コンゴ共和国
・
ウバン
ギ=
シャ
リ
植民地
→現・②中央アフリカ共和国
・
チャ
ド
植民地
→現・①チャド共和国
これらの地域
は
フランス領赤道アフリ
カ
としてフランスに支配されています。首都は中央コンゴ植民地のブラザヴィルに置かれていました。
現在のコンゴ民主共和国は,
③
ベルギー領コン
ゴ
として植民地化されています。
現在の
⑦
サント
メ=
プリンシ
ペ
はポルトガルの植民地,
⑧
赤道ギニ
ア
はスペインの植民地です。
現在の
⑨
カメルー
ン
は,ドイツ植民地を引継ぎ,1922年にフランス(約9割の面積)とイギリスの国際連盟の委任統治領となっていました。
現在の
④
アンゴ
ラ
ではポルトガルが,住民を酷使したダイヤモンド鉱山やコーヒー・綿花などのプランテーションが行われました。ポルトガルからのアンゴラ移民も増加していました。
○192
0
年
~
192
9
年のアフリカ 西アフリカ
西アフリ
カ
...①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ
現在の
①
ニジェール共和
国
,
③
ベナ
ン
,
⑥
コートジボワー
ル
,
⑪
セネガル共和
国
,
⑬
モーリタニ
ア
,
⑭
マリ共和
国
,
⑮
ブルキナファ
ソ
は
,
フラン
ス
の植民地支配を受けていました。
現在の
②
ナイジェリ
ア
,
⑫
ガンビ
ア
はイギリス領です。
黄金海岸(現在の
⑤
ガー
ナ
)はイギリス領(イギリス領ゴールドコースト)でした。
ロックフェラー医学研究所の研究員であった〈野口英世〉(1876~1928)は1927年にガーナにわたり,当時は治療法のなかっ
た
現
⑧
シエラレオ
ネ
はイギリス領でした。
現
④
トー
ゴ
は旧ドイツ領で,西部はイギリス,東部はフランスの委任統治領となりました。西部のイギリス側はイギリス領ゴールドコースト(現在のガーナ)に併合されています。
現
⑩
ギニアビサ
ウ
はポルトガル領でした。
現
⑦
リベリア共和
国
では依然とし
て
アメリカ系黒
人
が中央政府を主導しています。アメリカ系黒人が,先住民を天然ゴムのプランテーションなどで酷使していたことが明るみに出ると,国際社会からの非難を浴びることになります。
現
⑪
セネガ
ル
の都市部の住民には1872年に市民権が与えられ,フランス本国と同等の立場となっていました。「市民」として扱われた者はフランスへの留学の切符をつかむ者もあり,パリでの世界各地の黒人との出会いを通じて,黒人らしさを積極的に打ち出し西欧の文明に対抗する
"
ネグリチュー
ド
"という思想運動を発展させていくことになります。
○192
0
年
~
192
9
年のアフリカ 北アフリカ
北アフリ
カ
...①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア
・
192
0
年
~
192
9
年のアフリカ 北アフリカ
現①
エジプト
第一次世界大戦(1914~1918)中は,イギリス側に立ちオスマン帝国と戦っていたエジプト。
戦後の1922年に
,
エジプト王
国
が成立しましたが,イギリスの影響は残されました。
・
192
0
年
~
192
9
年のアフリカ 北アフリカ
現②
スーダン
,③
南スーダン
スーダン
は
イギリ
ス
と
エジプ
ト
(1922年以降はエジプト王国)の共同統治下に置かれています。
スーダンにおける民族運動が活発すると,北部と南部を分断する統治が実行にうつされました。
・
192
0
年
~
192
9
年のアフリカ 北アフリカ
現④
モロッコ
,⑤
西サハラ
モロッコはフランスとスペインが進出していました
。
フランス領モロッ
コ
ではアラウィー朝が保護国となっていました。
南部
の
スペイン領モロッ
コ
は,地中海沿岸のセウタからメリーリャと,現在のモロッコ南部の
「
西サハ
ラ
」にわたる領域です。1920年にモロッコ北部では地方の名望家〈アブド=アルカリーム〉によるスペインからの解放戦争(リーフ戦争)が起き,リーフ共和国が建設されましたが,1926年に崩壊しました。その後もモロッコでは抵抗運動が起き続けます。
スペインはモロッコ南部の沿岸地域を20世紀初めから「スペイン領西アフリカ」として植民地化しています。これはのち
の
西サハ
ラ
となります。
・
192
0
年
~
192
9
年のアフリカ 北アフリカ
現⑥
アルジェリア
アルジェリ
ア
はフランスの支配下に置かれています。
・
192
0
年
~
192
9
年のアフリカ 北アフリカ
現⑦
チュニジア
フサイン朝
の
チュニジ
ア
は1881年の占領以後,フサイン朝のベイの地位が保障される形で保護領となっています。
・
192
0
年
~
192
9
年のアフリカ 北アフリカ
現⑧
リビア
イタリア領となってい
た
リビ
ア
では,神秘主義教団のサヌーシー教団がオスマン帝国とともに抵抗運動を続け,イタリアと戦いました。1920年に停戦したものの,1922年にローマ進軍で〈ムッソリーニ〉がイタリアの政権をとると再びサヌーシー教団との戦闘が始まります。教団指導者の〈ムハンマド・イドリース〉(1889~1983,のちのリビア独立時の国王)がエジプトに亡命した後も,教団の〈オマル=ムフタール〉(オマー=ムクターとも。1862~1931)は抵抗運動を続けました(#映画「沙漠のライオン」リビア・米1981では,サヌーシー教団が否定的に描かれています)。
○192
0
年
~
192
9
年のヨーロッパ 北ヨーロッパ
北ヨーロッパ...
①
フィンラン
ド
,
②
デンマー
ク
,
③
アイスラン
ド
,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,
⑤
ノルウェ
ー
,
⑥
スウェーデン
北ヨーロッパでは普通選挙制度をはじめとする政治改革が進んだが,小党が分立する不安定な状況が続いた
・
192
0
年
~
192
9
年のヨーロッパ 北ヨーロッパ 現①フィンランド
フィンラン
ド
では,国内の保守派を中心とする内閣によりロシアからの独立が達成されました。
・
192
0
年
~
192
9
年のヨーロッパ 北ヨーロッパ 現②デンマーク
デンマー
ク
では,かつてプロイセンとの戦争(1864プロイセン=デンマーク戦争)で奪われたスレースヴィ(ドイツ語でシュレスヴィヒ)で1920年に国際監視委員会の下で住民投票が実施され,北部スレースヴィの約16万4000人がデンマークに"復帰"しました。南スレースヴィはドイツへの帰属を求めましたが,デンマーク系住民の多い都市(フレンスブルクなど)をめぐり内閣への批判が集まり,選挙の後に国王〈クリスチャン10世〉が総辞職を命令しました。国内では政府に批判的な左派や右派も台頭していました。
・
192
0
年
~
192
9
年のヨーロッパ 北ヨーロッパ 現⑤ノルウェー
ノルウェ
ー
は,大戦中に協商国に協力したことが認められ,スカンディナヴィア半島北方,グリーンランドの東方に位置するスピッツベルゲン(スヴァールバル)諸島を割譲され,1925年から支配しました。
・
192
0
年
~
192
9
年のヨーロッパ 北ヨーロッパ 現⑥スウェーデン
スウェーデ
ン
は,第一次世界大戦にとられた「中立」政策を見直す動きから,1920年
に
国際連
盟
に加盟して集団安全保障体制に参加しました。同年には,デンマーク,ノルウェー,フィンランドも国際連盟に参加しています。
すでに1908年にイギリスが南極の一地域の領有権を主張していましたが,これに加えニュージーランド,フランスも領有権を主張します。
世界恐慌をきっかけに,英仏中心の帝国主義体制への反発がヨーロッパの戦争に発展。社会主義勢力と対立しつつファシズムが台頭し,日本を中心とするアジア・オセアニアの戦争と結びつき,第二次世界大戦となる。アジア,アフリカの民族運動組織が成長し,大戦後の独立運動の母体となる。
時代のまとめ
(1
)
世界恐慌によりブロック経済化が進む
1929年にアメリカ合衆国で起きた株価の暴落をきっかけとして,ソ連をのぞく世界各地に不況が連鎖しました
(
世界恐
慌
)。世界各地に植民地を持つ西ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国は,自国の通貨や貿易を保護することで恐慌を乗り切ろうとした。
(2)
社会主義勢力とファシズム勢力の動きが活発化し,両者の提携により第二次大戦が勃発する
資本主義経済圏の外部にあっ
た
ソ
連
は,世界恐慌の影響を免れた。一方,特に第一次世界大戦で多額の賠償金を課せられ
た
ドイツ
国
(いわゆる「ワイマール共和国」)の国内情勢は厳しく,日本,イタリアの政府とともに世界経済の再編と植民地の再分割を求めるようになり
,
ヴェルサイユ体
制
・
ワシントン体
制
の破棄を強硬した。
ヨーロッパにおける戦争は,ドイツとソ連によるポーランドへの軍事進出に始まる。
(3)
アジアでは恐慌後も域内貿易が盛んだが,各地で民衆の抵抗が相次ぐ
不況の打破をめざす日本の大陸進出は,第二次大戦と結び付く
世界恐慌の影響を受け,インドの塩の行進,仏領インドシナのゲティン=ソヴィエト,フィリピンのサクダル蜂起,英領ビルマのサヤーサンなど,民衆の抵抗が相次ぐ。
一方,アジア諸国の域内貿易は好調で,東アジアの域内貿易は増加している。日本の帝国内にあった台湾では1920年代以降,朝鮮では1930年代以降に日本から資本財を導入することによって工業化が進んでいく。
また,不況の煽りをうけた日本政府は大陸への軍事進出を目指し,アジアにおける戦争が勃発。のちにオセアニアへと拡大していくことになる
(
アジ
ア=
太平洋戦
争
)。日本,ドイツ,イタリアが軍事同盟を結んでいたことから,関係各国が次々に参戦し,史上最大規模の参戦国・地域をともな
う
第二次世界大
戦
となる。
(4)
第二次世界大戦は「ファシズム
」(
全体主
義)
対「民主主義
」(
自由主
義)
の対立の構図となり,米ソは英仏中心の植民地体制を切り崩し,戦後の国際政治・経済を主導しようと企図する
第二次大戦は,当初中立を保っていたアメリカ合衆国がソ連と提携して参戦することで,構図が大きく変わる
。
アメリカ合衆
国
,
イギリ
ス
,
ソ
連
の指導者は「自由」と「民主主義」を守るため
,
全体主
義
をとる枢軸国(ドイツ,イタリア,日本)と戦っているのだと,戦争目的を思想によって表現したのである。
しかし,いずれの国家でも「総動員体制」がとられ「国民文化」が絶対視され,人的資源確保のために社会保障制度を拡充していく反面,国家の権力が増大していった点は共通している。
アメリカ合衆国やソ連の指導者には,西ヨーロッパ諸国を国際政治・経済・社会の表舞台から退場させようという思惑もあり,第二次世界大戦後に多くの植民地を解放させ
(
脱植民地
化
),自国の勢力圏に加えようという考えがあった。
(5)
第二次大戦中には民族運動が盛り上がるが,即時の独立は実現されなかった
第二次世界大戦中には世界各地の植民地で,独立を見据えた民族運動が本格化する。しかし,枢軸国やアメリカ合衆国やソ連が独立運動を利用し
て
植民地の利
権
を確保しようとするケースも多く,第二次世界大戦後の独立後にも多くの課題を残す。
こうして第二次世界大戦末期には,アメリカ合衆国(1945年に核保有),イギリス,ソ連の意見対立も表面化し,イギリスが劣勢となる形でアメリカ合衆国 対 ソ連の「冷戦」を迎えることになる。
◆
第一次大戦の戦後処理への批判から,ソ連・ドイツが主導し第二次世界大戦が勃発する
ドイツとソ連は
,
独ソ不可侵条
約
の秘密協定によってポーランドを分割占領。ソ連は北方のフィンランドと戦争を開始し,レニングラードよりも北の国境地帯(カレリア)をフィンランドから奪いました(第一次ソ連=フィンランド戦争(冬戦争),1939~40)。このことが原因で
,
ソ
連
は1934年に加盟してい
た
国際連盟を除
名
されます。のちに第二次ソ連=フィンランド戦争(継続戦争)も起き,やむなく"敵の敵は味方"の論理でドイツを頼って,ともにソ連と戦いました。これが原因でフィンランドは第二次世界大戦の敗戦国となります。
1939年にソ連は
,
バルト三
国
(
エストニ
ア
,
ラトビ
ア
【本試験H29】
,
リトアニ
ア
)も占領しました。しかしのちに独ソ戦が始まると,1941~44年に今度はドイツがバルト三国に侵攻し,占領下に置きました。
ドイツ占領下のリトアニア(在カウナス日本領事館)で,ポーランドから逃れてきたユダヤ人に対し,外務省の訓令に逆らって出国ビザを発給したのが"日本のシンドラー"
〈
杉原千
畝
〉(すぎはらちうね,1900~86)です
。しかし
,
エストニ
ア
,
ラトビ
ア
,
リトアニ
ア
は1944年からはソ連によって再占領されることになります。ソ連の占領によって,中世以来この地に分布していたドイツ系住民(バルト=ドイツ人)は,西方に追放されていきました
(
ドイツ人追
放
【本試験H5出題トピック】
)。
ドイツは,第一次世界大戦のときには,西のフランス,東のロシアとの二正面作戦を強いられました。しかし,今回はソ連とは独ソ不可侵条約を結んでいますから安心です。
1940年,ドイツ
は
デンマー
ク
,
ノルウェ
ー
,さら
に
オラン
ダ
,
ベルギ
ー
(第一次世界大戦に続きまたもや!)
【本試験H15】
に侵攻しました。オランダとベルギーは中立国であったにもかかわらずです
。
スウェーデ
ン
は中立を保っています
【本試験H21ドイツに占領されていない】
。
そんな中,イタリアは,ドイツ側に立って参戦しました。
同年6月に
は
パリを陥
落
させ,フランスは降伏。ヒトラーはこのとき,敵国フランス人といえども敬愛していた〈ナポレオン〉を,パリ市内のアンヴァリッドの地下墓地に埋葬しました。
パリが陥落すると,日本
は
フランス領インドシ
ナ
に進駐しました。
ドイツは,西北部を占領し,南部に親ドイツ派の
〈
ペタ
ン
〉
将
軍
(1856~1951)
【東京H12[2]】
【本試験H30〈ブルム〉とのひっかけ】
を首班とす
る
ヴィシー政
府
【東京H12[2]】
【本試験H3親ナチスか問う。ヴィシー政府は第四共和政ではない】
【本試験H13イギリスに亡命していない,本試験H26アヴィニョンではない】
をたてて,統治させました。フランスの
〈
ド=
ゴー
ル
〉
将軍(1890~1970)
【本試験H6】
【本試験H26ペタンではない】
は,ロンドン
【本試験H6ヴィシーではない】
で
自由フランス政
府
【本試験H6】
【追H30ドラクロワとの関連を問う】
という亡命政権を樹立し,ラジオでフランス国民
に
レジスタン
ス
(抵抗運動)を呼びかけました。臨時政府には『人間の条件』で知られる小説家の〈アンドレ
=
マルロ
ー
〉(1901~76)が入閣。レジスタンスの呼びかけには,アナール派という歴史学派の始祖である〈マルク=ブロック〉が参加しています。
1940年にイギリスの首相は
〈
チャーチ
ル
〉(任1940~45,51~55)
【東京H22[3]】
に代わっていました。フランスとイギリスは,ドーバー海峡をのぞむダンケルクに追い詰められて撤退(ダンケルク大撤退)を余儀なくされました。〈チャーチル〉は国民を励ましつつ,ドイツによる空爆に耐え,上陸を阻止しました(#映画「ダンケルク」英米仏蘭2017)。
ドイツはこの頃,各地に強制収容所と絶滅施設を建設し
,
ユダヤ
人
,ソ連人,シンティ
や
ロ
マ
(ヨーロッパでは両者を総称しジプシーと呼ばれます)やドイツ人の政治犯,障害者などを移送しました。「ユダヤ人」の大虐殺といわれますが,ほかの人々も優生思想(ドイツ人にとって"劣った"形質をもつとされた人々は,生まれるべきではないという思想)に基づいて大量に殺害されていった点は重要です。この政策決定は,1942年のヴァンゼー会議でなされたことがわかっています。
強制収容
所
【立命館H30記】
は,ナチスが政策に掲げてい
た
ユダヤ人民族抹
殺
(
"
最終的解
決
")のために使用され,最大のものはポーランド
【共通一次 平1:ソ連・チェコスロヴァキア・ハンガリーではない】
【本試験H6オランダではない】
南部のオシフィエンチム(ドイツ名
は
アウシュヴィッ
ツ
)にあります
【東京H17[1]指定語句】
【共通一次 平1】
【本試験H4ピカソのゲルニカの題材ではない,本試験H6】
【本試験H23第一次大戦中ではない,H31】
(世界文化遺産(負の遺産)「アウシュヴィッツ・ビルケナウ:ナチス・ドイツの強制絶滅収容所(1940~1945),1979」)。
ユダヤ人の計画的な大量虐殺のこと
を
ホロコース
ト
【本試験H31】
【東京H23[3]】
(またはショアー)といいます。ポーランド
【東京H12[2]】
は最も多くのユダヤ人が虐殺された地でした。
また,ドイツのファシズム政策への反対や,反ユダヤ主義の迫害から,多くのユダヤ人がナチスの支配地域から亡命していきました
【セ試行】
。
ドイツの小説家
〈
トマ
ス=
マ
ン
〉(1875~1955)
【立命館H30記】
や,一
般
相対性理
論
(1916)
【本試験H17】
で知られる物理学者〈アインシュタイン〉
【東京H7[3]】
【セ17
メンデル
とのひっかけ,本試験H30亡命について問われた】
【追H25
メンデル
ではない】
,超現実派の画家〈シャガール〉(1887~1985),『悲しき熱帯』で知られ
る
構造主
義
的文化人類学者の〈クロード
・
レヴ
ィ=
ストロー
ス
〉,近代経営学を確立し『マネジメント』で有名な社会生態学者の〈ドラッカー〉(1909~2005)といった人々が,アメリカ合衆国に逃れました。しかし,文化人の中には哲学者
〈
ハイデガ
ー
〉(1889~1976)のように,ナチスを支持した者もいました。
なお,1939年にポーランド南部のクラクフの工場で闇商売をしていたナチ党員の
〈
シンドラ
ー
〉(1908~74)は,ポーランドのゲットーのユダヤ人を労働者として働かせ,ドイツ軍向けの"軍需工場"操業をしていました。彼はのちのち,自分の資産をなげうって取引きをし強制収容所に送られてしまったユダヤ人の労働者たちを,救うことになります(1993年にユダヤ系アメリカ人〈スティーヴン=スピルバーグ〉(1946~)によりユダヤ系のユニバーサル=ピクチャーズから映画化)。
40年9月には
,
日独伊三国同
盟
が締結され,ドイツとイタリアがヨーロッパ起こしている戦争と,日本が中国方面で起こしている戦争がリンクした瞬間です。
アメリカの〈フランクリン=ローズヴェルト〉(位1933~45)大統領は41年1月に
「
四つの自
由
」を発表。
「言論及び表現の自由,信教の自由,欠乏からの自由,軍事的進出の恐怖からの自由」の大切さを訴えます。これま
で
中立
法
によって,世界の情勢に首を突っ込んでこなかったアメリカですが,3月に
は
武器貸与
法
【本試験H30】
を成立させて,イギリスや,ソ連(6月以降)に大量の武器を提供しはじめました。つま
り
第二次大戦後期のアメリカ合衆国はソ連の同盟国だったので
す
。
ヒトラーは,バルカン半島にも進出し,41年春までにハンガリー,ルーマニア,ブルガリアを枢軸国に参加させ,ユーゴスラヴィアとギリシアを占領しました。これに対し,スラヴ系の国々をドイツが確保したことに反発したソ連は,41年4月
に
日ソ中立条
約
を結びます
【本試験H24時期(第二次大戦前)】
。日本とは39年にモンゴル
で
ノモンハン事
件
という交戦があり,日本軍が壊滅的敗北をしましたが,ソ連としては今後のドイツとの戦闘に備え,日本方面の兵力を減らす意図があったのです。日本としても,東南アジアに資源を求め進出するためには,北方の兵力を減らす必要がありました。こうして7月に,フランス領インドシナ南部に進駐。これに対してアメリカは,アメリカにある日本の資産凍結,日本への石油輸出の全面禁止
【本試験H4太平洋戦争の「きっかけの一つ」か問う】
の措置をとります。
すでに4月から,日本とアメリカとの交鈔は始まっていました。〈近衛文麿〉(このえふみまろ、1891~1945)首相は,中国からの撤退(満洲を除く),三国同盟離脱,フランス領インドシナからの撤退といった譲歩プランを用意して,ローズヴェルトとの会談を申し込んでいたのですが,アメリカは拒否をしました。一方、同年9月には御前会議で、アメリカ合衆国・イギリス・オランダとの戦争に備える「帝国国策遂行要領」が決定
(注)
。進展がみられないまま11月26日に,アメリカの要求を全面的に受け入れさせる
「
ハ
ル=
ノー
ト
」が,国務長官〈ハル〉(1871~1955)から渡され,日米交渉は行き詰まります。
12月8日未明(日本時間)に,日本はイギリスの植民地マレー連合州(フェデレイティド=マレー=ステイツ)の北端コタバルに上陸し(マレー作戦),ハワイ
の
パー
ル=
ハーバ
ー
(真珠湾)
【本試験H27】
に奇襲攻撃し,戦艦ウェスト=ヴァージニアなどを破壊します(ハワイ時間は12月7日)。これは,イギリスからの独立戦争・米英戦争以降,アメリカ本土が直接外国に攻撃された数少ない例であり,アメリカ国民に衝撃を与えました。日米交渉打ち切りの通告が,奇襲の後に手渡されたことは,事実上の宣戦布告とみなされ,アメリカの世論を沸騰させました。真珠湾攻撃によって,アメリカにおける孤立主義的な考えがようやくおさまり,世論が一致して戦争に向かうようになったことも事実です。
アメリカも日本に同日宣戦布告し
,
太平洋戦
争
【東京H22[1]指定語句】
がはじまりました。三国軍事同盟が適用され,ドイツとイタリアもアメリカに宣戦布告し,アメリカはドイツとも戦うことになりました。
41年8月,〈ローズヴェルト〉はイギリス首相〈チャーチル〉と大西洋上で会談し,今後の方向性についてイギリスの同意を取り付けます。
アメリカ政府には,第一次世界大戦のときに,アメリカ大統領〈ウィルソン〉大統領が戦後の主導権をとれず,委任統治領や賠償金問題などについて英仏の意見が尊重された苦い経験があります。しかし,今回はあらかじめアメリカ政府の意向が通るように,
「
大西洋憲
章
」
【東京H17[1]指定語句】
【本試験H9「平和機構の設立方針」が示されていたか問うが消去法で解答可】
【本試験H17国際連盟は大西洋憲章にもとづいて設立されていない】
【追H20発表したのはトルーマン大統領ではない】
という形で,戦後の主導権をアメリカ政府が握ることができるような内容を盛り込んだのです。例えば,民族自決や自由に貿易をする権利といった内容は,世界中に植民地をもちブロック経済によって自由貿易をシャットアウトしているイギリス政府に対する牽制(けんせい)球だったのです。
(注)鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.303。
◆
イギリス・ソ
連(
寝返
り)
・アメリ
カ(
参
戦)
を中心とする連合国が形成され,戦後秩序をめぐる対立が起きた
1941年6月,ドイツとソ連の同盟が崩れ,つい
に
独ソ
戦
が始まります。
ドイツは一時モスクワに迫りましたが,押し返され,41年末からはソ連が優勢となっていきます。
1941年12月のマレー作戦,真珠湾攻撃以降,日本軍は東南アジア各地に進出し,ヨーロッパの植民地からの住民の解放と「大東亜共栄圏」の建設を訴えましたが,支持は得られず,抗日運動が勃発するようになりました。
42年6月に日本は
,
ミッドウェー海
戦
【本試験H14】
の空母戦でアメリカに敗北
【本試験H21日本は勝利していない,H29アメリカは敗北していない】
。43年2月にガダルカナル島(オーストリア北東部のソロモン諸島南部の島)。太平洋の島々をホップしながら日本の勢力を押し返し,44年にフィリピンに上陸。グアム島やサイパン島などを拠点にして日本への本土空爆も激しくなっていきます。
43年初め,ソ連軍
が
スターリングラードの戦
い
【本試験H4】
【本試験H30】
【追H25】
【立命館H30記】
で,ドイツを撃破します
【本試験H4ドイツは勝利していない】
。都市に住む住民の多くが犠牲となった,史上まれに見る悲惨な戦闘でもありました。
43年7月,連合国軍
は
シチリア
島
【本試験H16地図(連合軍が上陸したかを問う)】
に上陸し〈ムッソリーニ〉は失脚,新政府の
〈
バドリ
オ
〉政権
【本試験H30スペインではない】
は9月に連合国に無条件降伏します。〈ムッソリーニ〉はドイツに救出され北部で存続を図りますが,45年4月に市民による抵抗
(
パルチザ
ン
)により処刑されました。46年には王政が国民投票によって廃止され(賛成54%という僅差!),イタリア
は
共和
国
となりました。
連合国の主要国は,43年11月
に
カイロ会
談
(アメリカ・イギリス・中華民国
【本試験H13中国の代表も参加したかを問う】
)
【本試験H13ソ連のスターリンは参加していない,本試験H29】
で対日処理方針を決め,台湾などの日本領の返還が決定されました
【本試験H13】
。
さらに同月
,
テヘラン会
談
(アメリカ・イギリス・ソ連)
【本試験H4「第二戦線」の協議はヤルタ会談ではない】
で,ドイツへの作戦について決定。ソ連は,さっさとドイツを倒すために,米・英に北フランス上陸作戦
【本試験H4】
をしてもらいたかったのですが,なかなか実行に移されぬまま。特にイギリス〈チャーチル〉は,ソ連がドイツとの戦いで消耗すれば,ソ連が東ヨーロッパやドイツを解放することができず,米・英が東ヨーロッパやドイツを勢力圏に加えることができると考えていたのです。
結局,米・英が西からドイツを攻撃する
「
第二戦
線
」
【本試験H4】
が実現するのは,1944年6月
【本試験H6年代】
のこと
。
ノルマンディー上陸作
戦
【本試験H6北アフリカ,ダンケルク,シチリアではない】
,いわゆる"史上最大の作戦"です。
激戦の末,8月に連合軍によりパリは解放されました。
1944年9月にドイツは
V
2
ロケッ
ト
を戦闘に使用しますが,時すでに遅し,本格的な"ロケットの時代"は第二次世界大戦後に到来することとなります。
1944年11月には,〈フランクリン=ローズヴェルト〉が前例のない4回連続大統領当選(4選)を果たしています。
第二次世界大戦には
,
インディア
ン
も兵士として貢献し,インディアン国民会議団が結成され,権利向上に向けて動き出しています。
45年2月
,
ヤルタ会
談
(アメリカ,イギリス,ソ連)が行われ,ドイツ降伏語の処理について話し合われました
(注
)
。
懸案事項となっていたのは「東ヨーロッパやドイツをどちらの勢力圏に加えるか」。
これについては秘密協定が存在したことがわかっています。その取り決めが冷戦期にヨーロッパを二分した「鉄のカーテン」の元になっていきますので
,
冷戦
は"
ヤルタから始まっ
た
"
とみることもできます。
さらにこの会談には,日ソ中立条約を結んでいたはずのソ連が,それを破って日本に参戦するという秘密協定も含まれていました
(
ソ連の対日参
戦
)。
○192
9
年
~
194
5
年のアメリカ 北アメリカ
・
192
9
年
~
194
5
年のアメリカ 北アメリカ
現①
アメリカ合衆国
◆
世界恐慌により資本主義国家は管理通貨制度に移行し,「大きな政府」化する
アメリカ合衆国が「世界恐慌」の震源地となる
1929年の10月24日,アメリカ合衆国のニューヨーク
【本試験H9ロンドンではない】
のウォール街にあ
る
ニューヨーク株式市
場
で株価が暴落し(暗黒の木曜日),突如として
"
永遠の繁
栄
"は終わりを告げました
。
世界恐
慌
のはじまりです
【本試験H7時期を問う,本試験H9】
【H29共通テスト試行 時期(1932年ロサンゼルス五輪の出場国数が少ない理由と考えられる)】
【追H18フーヴァー大統領のときか問う】
。よく取り上げられるウォール街の写真は翌日25の金曜日に撮られたもので,週明けの28~29日はさらなる暴落が待っていました。
都市では銀行が閉鎖・倒産し,失業が拡大しました。農村でも農産物価格の下落で,農民の生活は窮乏しました。農業不況には,大平原一帯を襲った大砂嵐(ダスト=ボウル)も影響を与えました
(映画「インターステラー」2014米のモチーフとして使用されています)
。そんな中,大企業によって土地を奪われ移住を迫られた農民の厳しい暮らしが
〈
スタインベッ
ク
〉(1902~68)の『怒りの葡萄(ぶどう)』に描かれています。
アメリカには世界の資本が集まっていたため,アメリカの金融機関が倒れると,関連取引をしていた全世界の金融機関にも影響が及んでいきました。なお1929年3月に着工していたニューヨークの当時世界一の高さを誇
る
エンパイ
ア=
ステー
ト=
ビルディン
グ
は,1931年に完成したものの,空き部屋ばかりという状況でした(1972年まで世界最高)。
不況の波はドイツや英仏も広がり,ドイツの賠償金支払いや英仏の戦債支払いが滞りそうになると,〈フーヴァー〉大統領(任1929~33)
【共通一次 平1:ウィルソン,トルーマン,アイゼンハウアーとのひっかけ】
【本試験H6】
【追H24ドイツの賠償金支払いなどを1年間停止したか問う】
は1931年にこれらを1年間猶予する宣言を出しました
(
フーヴァ
ー=
モラトリア
ム
【本試験H6
】
【
本試
験H
13第二次大戦後ではない】
【追H19】
)。各国は対応に追われ,1932年に開かれたジュネーヴ軍縮会議も大した進展もなく終わってしまいます。
1920年代の共和党政権以降,高関税政策がとられていましたが,特に〈フーヴァー〉政権下で制定された1930年のスムート=ホーリー関税法は,平均関税率が38~42%と効率なもので,世界恐慌によって滞った各国間の貿易の規模を,より縮小させる結果を生みました。〈フーヴァー〉は1932年になると大企業への支援,金融機関に対する緊急貸出をおこなうなど,従来の自由放任政策を大きく転換。しかし効果は薄く,各地に出現した家なし失業者の居住区は"フーヴァー村",新聞紙は"フーヴァー毛布(ブランケット)",お金の入っていないポケットが裏返しに飛び出た様子を"フーヴァー旗(フラッグ)",穴が開いた靴先を覆うダンボールは"フーヴァーダンボール(カードボード)",ガソリンが買えずに馬に繋がれた自動車は"フーヴァー自動車"とあだ名されました。
植民地を世界各地に持っていた英仏は,自分の植民地内では他国
【共通一次 平1:自国との通商に高い関税をかけたわけではない】
に対して高い関税をかけることで経済活動をブロックし,植民地との経済連携を強めて自国の経済を立ち直らせることができましたが
(
ブロック経
済
【共通一次 平1:イギリスにおける具体例を問う】
【本試験H5 17世紀後半から19世紀前半にかけてインド市場を「ブロック経済政策」によって支配したわけではない】
),植民地が十分になかったドイツ,イタリア,日本は対応に苦慮し,やがて国家が圧倒的な権力をもちいて国民をまとめあげ
(
全体主
義
。イタリアのファシスト党の思想・運動であった
「
ファシズ
ム
」も,同じような意味で使われることがあります),武力で国外に植民地を求める動きに発展していきます。1931年9月の
〈フーヴァー〉の対策が批判される中おこなわれた1932年
【本試験H14時期(在任中に世界恐慌は始まっていない)】
の選挙で
は
民主
党
【本試験H14共和党ではない】
に追い風が吹き,
〈
フランクリ
ン=
ローズヴェル
ト
〉(1882~1945,在任1933~45)
【本試験H5,本試験H9時期(1930年代か)】
【追H19】
が当選。3月に着任しました
(当時までは大統領の着任は3月,現在は1月です)
。1921年にポリオという感染症に罹(かか)ったために半身が不随(ふずい)になりましたが,政治家としての資質あふれる人物でした。大統領候補の指名受諾演説で初め
て
新規まき直
し
(
ニューディー
ル
)
【本試験H5,本試験H9時期(1930年代か)】
【追H19】
【上智法(法律)他H30革新主義とのひっかけ】
と銘打った政策を発表し,実行にうつします。
ニューディール政策では,恐慌の原因がアメリカ国内にあるとされ,政府が強力な権力を発揮して,国民生活や経済活動に介入して国難を乗り切ろうとしました。この政策には,コロンビア大学の〈モーリー〉(1886~1975)らの影響が大きく,従来の自由放任的な姿勢を改めました
(イギリスの経済学者
〈
ケイン
ズ
〉(1883~1946)による『雇用・利子及び貨幣の一般理論』が出版されたのは1936年のこと。彼は政府が公共事業などでお金を積極的に使うことによって人々の持っているお金を増やし,景気を回復させることができると説きました。しかし,ニューディール政策では〈ケインズ〉の主張するような「政府の支出により有効需要を生み出す」形の財政政策は導入されませんでした
(注
)
)
。
これ以降のアメリカ合衆国では,政府が積極的に経済に介入するようになっていきます。このような政府を
「
大きな政
府
」といいます。国民の不安を取り除くため〈ローズヴェルト〉は当時普及が進んでいた新メディアであ
る
ラジオ放
送
を使い,直接国民に語りかけました。これを炉辺談話(ろへんだんわ)といい,のちのちまで合計27回実施されました。
まず,3月にすべての銀行を閉鎖し,緊急銀行救済法により安全と認められた銀行から営業を再開させました。同時に,州政府や失業者の対策も進められていきます。
工業製品の生産に関して,企業同士が協議して価格を決める(カルテル)を容認し,行き過ぎた価格競争に歯止めをかけるなどの施策を盛り込んだ
,
全国産業復興
法
(NIRA)
【東京H26[3]】
【追H9大統領を問う、H19】
が制定され,全国復興局が設置されました。従来は企業の集中を防ぐためカルテルには規制がかけられていましたが,「今は非常事態なので,反トラスト法の適用からは除外する」という内容です。また,全国産業復興法の中で,労働者の団結権,団体交渉権が認められ,労働時間や最低賃金の保証も定められました。これにより民主党支持の労働者は増加していきます。金融業界に対しては,連邦証券法(1933)や証券取引法(1934)によって監督を強化しました。
農業分野では,生産の調整と,暴落していた農産物価格
の
引き上
げ
を図ったのが
,
農業調整
法
(
AA
A
,トリプルエー) です
【東京H26[3]】
【本試験H21引き下げではない】
【追H9大統領を問う、H19,H25】
。「つくり過ぎ」によって農産物価格が低下していた面があったため,作付面積を減らすことと引き換えに,農民に直接補助金を与えたのです。西部の農村地帯は,日照りと強風により大量の砂が長期間にわたり吹き飛んだ(ダスト=ボウル)ことで,世界恐慌後も深刻な被害が続きました。
また
,
テネシー川渓谷開発公
社
(TVA))
【
本試
験H
10時期(1930年代か問う)】
【本試験H29時期,H31「エネシー川流域開発公社」により雇用の拡大が図られたか問う】
を設立し,国が率先して民間電力会社よりも安い水力発電可能な多目的ダムを建設することで,電力の価格にも介入します。
こうした政策の結果,アメリカ合衆国の経済は1934年には早くも回復。しかし,産業界は政府の介入に対して「やりすぎだ」「もう十分だ」という声もあがるようになります。労働者からも「お金持ちから自分たちに金をよこせ」と再分配を求めるようになります。反〈ローズヴェルト〉勢力の活動も活発化し,連邦最高裁判所もNIRAとAAAに対してそれぞれ1935年,1936年に違憲判決を下しています。
これに対して〈ローズヴェルト〉は失業者や労働者の本格的な救済を開始。労働者に労働組合の設立
(
団結
権
【本試験H26】
)と団体交渉権を認めた1935年
の
ワグナー
法
【本試験H10ドイツの賠償支払の一年間延期を認めるものではない
】
【
本試
験H
14・H21・H26】
【追H9大統領を問う、H19】
(全国労働関係法案)を支持し,1935年には非熟練労働者による労働組合であ
る
産業別組織会
議
(CIO)が成立しました。同年に
は
社会保障
法
に署名し,連邦政府によ
る
老齢年
金
制度を含む,社会保障制度が整備されました。
(注)〈ケインズ〉に対して古典派経済学に立った経済学者〈ピグー〉(1877~1959)は『厚生経済学』(1920)を著し,「正の外部効果(市場を介さずに良い影響を与えること)に対しては補助金を交付し,負の外部効果(市場を介さずに悪い影響を与えること)に対しては課税するべき」と主張しました。この課税を「ピグー税」といいます。
・
192
9
年
~
194
5
年のアメリカ 北アメリカ
現①
アメリカ合衆国
◆
世界恐慌後のアメリカ合衆国は,やがて自由貿易政策に転換していく
英などのブロック経済に対し関税引下げを推進
〈ローズヴェルト〉は当初,アメリカの経済は世界経済と切り離せば良くなると考えていたのですが,〈ハル〉国務長官はブロック経済化がすすむ世界経済の真っ只中で,「関税の引き下げ」による自由貿易の推進を提案
。
互恵通商協定
法
(ごけいつうしょうきょうていほう)を制定し,大統領の権限によって関税を引き下げることを可能としました。
ラテンアメリカ諸国に対しても〈フーヴァー〉政権のときのように内政への軍事的な介入はせず,キューバに対して
は
プラット条項を廃
止
します。しかし,経済的には砂糖産業などにおいてアメリカ合衆国への従属は続きました
【共通一次 平1「経済的には,合衆国に従属していた」か問う】
。
1936年には
,
パナ
マ
の運河地帯の主権はパナマにあることが認められました。また
,
ソ連を承
認
するなど(1933)
【本試験H15時期(1930年代)
】
善隣外
交
【東京H11[3]】
【本試験H14,本試験H26カストロではない】
【追H21トルーマン大統領ではない】
(Good Neighbor Policy)を推進しました。これはかつての〈セオドア=ローズヴェルト〉の「棍棒外交」のように武力によって他国の政治に干渉するのではなく,自由な貿易を拡大させることによって利益を得ようとする政策への転換でもあります。
他国に内政干渉ばかりしていると,戦争に巻き込まれる恐れも高まります。当時のアメリカ国民の間には,またも
や
孤立主
義
的なムードが高まっていました
(注)
。
そんな中1935年に議会
は
中立
法
を制定して,国外で起きている戦争の当事者国にアメリカ船籍の船舶が交戦国に武器を輸出しました。1936年には交戦国に借款することを禁止,1937年に
は
スペイン内
戦
(1936~39)を念頭に置いて「内戦」している国にも中立法を適用します。
なお,米西戦争で獲得してい
た
フィリピ
ン
に対しても,タイディングス=マクダフィー法によって自治を認め10年後に独立させることを約束しましたが,日本の占領によって延期されました。
(注) 1930年代に、〈イライジャ=ムハンマド〉の布教活動で、北部都市にイスラーム教徒人口が拡大。1930年に、デトロイトの黒人ゲットーで「アッラーの教え」を説き始めた〈ファード〉(1877?~?)も支持を集め、集会所は「テンプル=オブ=イスラーム」と呼ばれた。やがて、アメリカ合衆国の黒人ムスリム最大の組織「
ネーション=オブ=イスラーム
」に発展する。大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』岩波書店、2002年、p.52。
・
192
9
年
~
194
5
年のアメリカ 北アメリカ
現①
アメリカ合衆国
◆
〈ローズヴェルト〉大統領は大統領権限を強化し,中立政策を転換して参戦に踏み切った
大統領派の「リベラル」は大きな政府を推進する
〈ローズヴェルト〉による急進的な政策には批判も高まりましたが,1936年の大統領選挙では民主党の圧勝と大統領の再選に終わりました。この勝利には,従来の支持層である西部の中小農民,南部・大都市の移民に加え,労働者,低所得者,北部の黒人,中間層にわたる広範な連合(
「
ニューディール連
合
」)による新たな支持が背景にあります。二期目の〈ローズヴェルト〉も低所得者に対して,最低賃金・労働時間の規制,小作農に対する自作農化の推進といった「社会民主主義的」ともいえる政策をすすめていきました。こうした〈ローズヴェルト〉政権の政治・経済思想は
「
リベラリズ
ム
」と呼ばれ,大きな政府を目指すニューディールをすすめる〈ローズヴェルト〉派は
「
リベラ
ル
」と呼ばれるようになっていきました(これは20世紀後半以降の日本における「リベラル」の意味合いとは異なるものです)。国際政治の緊迫していた1930年代後半には,共和党と民主党保守派(反黒人派)の連合した反ニューディール派の勢力も議席をのばし,1938年の中間選挙では民主党が勝利したものの議席を減らしました。1939年には大統領補佐官が設置され大統領権限を強化しましたが,国民健康保険を含む福祉国家の建設は成功に至りませんでした。
1937年7年
の
盧溝橋事
件
【共通一次 平1:満州事変の原因ではない】
以降,日本は中国への軍事的進出を強めます。アメリカ合衆国の国民の孤立主義(アメリカ国外のことには関与しないという考え)的な風潮は強く,〈ローズヴェルト〉は日本に対する非難をしたものの,国内世論を気にしてしばらく静観するほかありませんでした。
しかし,日本は1938年11月に大東亜共栄圏を発表し,1939年には日米通商航海条約の破棄を通告,1940年9月にはフランス領インドシナ北部への進駐,1941年7月に南部に進駐しました。それに対してアメリカ合衆国は,国内にある日本資産を凍結し,日本に向けた石油の輸出を全面的に禁止しました
【セA H30 時期(日本への石油禁輸が実施された時期)】
。
それに前後して1941年4月からは〈ハル〉国務長官が,日本との交渉
(
日米交
渉
)を進めていました。アメリカ合衆国は日本の中国,南部仏印からの撤退,三国同盟からの離脱を要求し,1941年11月26日にいかなる妥協も許さないにいわゆる〈ハル=ノート〉が手渡されるに至って,12月1日に日本はアメリカ合衆国との開戦を決定しました。開戦に至る道筋には日米ともに紆余曲折(うよきょくせつ)があり,双方の政権担当者が当初から開戦を支持していたわけではありませんでした。
さらに時を同じくしてヨーロッパでも,1939年
【追H21イタリアではない】
にドイツがポーランドに侵攻すると,みるみるうちにフランスが降伏。日本とドイツ,イタリアが日独伊三国軍事同盟で結びつくと,アジアの戦争がヨーロッパの戦争と結合することになりました。
ここへきて1939年11月
に
中立法を改
正
し,イギリスを支援するために交戦国に武器を輸出できることになりました。1940年の大統領選挙で史上初の三選を果たした〈ローズヴェルト〉は,1941年1月に
「
四つの自
由
」(言論および表現の自由,信教の自由,欠乏からの自由,軍事的侵略の恐怖からの自由)
【追H9〈ローズヴェルト〉が主張したものか問う】
を主張し,ドイツのファシズム(全体主義)に対抗し,アメリカ合衆国がイギリスを守るための「民主主義の兵器廠(へいきしょう)」になることを主張し,1941年3月には連合国への武器貸与・譲渡を可能とす
る
武器貸与
法
【東京H27[3]】
を成立させました。これにより,ドイツとの戦争を開始し連合国側に加わっていたソ連に対する軍事支援が可能となりました。1941年8月
の
大西洋
・
192
9
年
~
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5
年のアメリカ 北アメリカ
現①
アメリカ合衆国
◆
真珠湾攻撃を契機にアジア・太平洋とヨーロッパにおける戦争に関与し,戦後の世界構想へ
大戦に参加し,英仏の植民地帝国の解体をめざす
1941年
【慶文H30年号】
12月8日(アメリカ合衆国の時間では7日),ハワイの真珠湾攻撃がおこなわれて2400人超が犠牲となりました。〈ローズヴェルト〉は真珠湾攻撃の実施された12月7日を「不名誉として記憶されることになる日(a date which will live in infamy)」と演説して対日開戦の機運を盛り上げ,議会の承認を得て
(共和党で平和主義者の〈ジャネット=ランキン〉(1880~1973)ただ1人のみ反対)
,12月9日にアメリカ合衆国が日本に宣戦布告しました。日独伊三国軍事同盟に基づいて,12月11日にはドイツ・イタリアもアメリカ合衆国に宣戦布告。
こうしてアメリカ合衆国
は
アジア・太平洋における戦
争
(アジア太平洋戦争;太平洋戦争
【東京H22[1]指定語句】
;大東亜戦争(「大東亜戦争」は,1941年12月12日に日本の情報局が「今次の対米英戦は支那事変を含めて大東亜戦争と呼ぶ」)と発表し公式の名称となりました)
と
ヨーロッパにおける戦
争
の両方に関わることとなったのです。すでに1940年9月に史上初の徴兵法が成立しており,志願兵を含めると戦時中に約1635万人が徴兵されました。国民の士気を盛り上げるためにハリウッドの映画監督も協力し,「カサブランカ」(映画1942年米)などがつくられました
(フランスのヴィシー政権を批判するシーン等があります)
。
戦時中にアメリカ合衆国にいた日系人に対する弾圧も強まり,1942年2月以降に内陸の沙漠地帯などに強制移住させられました。日系アメリカ人の芸術家〈イサム=ノグチ〉(1904~1988)もこのとき志願して拘留されています
。
総力
戦
体制が強まるなか,黒人組織は積極的に戦争に協力し,それによって国内における地位向上を目指そうとしました。また,軍需工場では女性も活躍し,女性の志願兵も25万人にのぼりました。
〈ルーズヴェルト〉には
,
イギリ
ス
や
ソ
連
を中心とする連合国に加わることで世界の経済秩序を
「
自由な通
商
」を可能にする体制に「つくり変えよう」とする意図がありました。そのためには,イギリスやフランスが築き上げてきた帝国主義的な植民地体制
(
植民地帝
国
)を解体していく必要があります。イギリスに対しては戦争支援の見返りに,戦後にアメリカの商品に対するイギリス帝国の広大な市場を開放することを求めていたのでした。
1942年1月に連合国26か国はワシントンD.C.で連合国共同宣言を発表。ファシズム諸国に対する戦争目的を明確化しました。これには〈蒋介石〉も参加しています。
イギリスのポンド(£)に代わって,アメリカ合衆国のドル($)を世界の自由な通商におけ
る
基軸通
貨
(キー=カレンシー)とするべく,1944年7月
に
ブレトン=ウッズ会
議
【本試験H10】
で
国際復興開発銀
行
(
IBR
D
,アイビーアールディー,のちの世界銀行(ワールド=バンク))
【東京H11[3]】
【本試験H10時期(1944年のブレトン=ウッズ会議で設立されたか問う)】
と
国際通貨基
金
(
IM
F
,アイエムエフ)
【東京H11[3]】
の設立が決定されました。
戦争の早期終結のために〈ローズヴェルト〉はヨーロッパへの北からの上陸作戦
(
第二戦
線
【本試験H4第二戦線の協議はヤルタ会談で話し合われていない】
)に意欲的でしたが,イギリスがソ連の勢力を警戒したことから第二戦線の構築は見送られ,実現することになったのは1944年6月になってからでした。
世界の秩序を完全に「作り変える」ためには,ファシズム(全体主義)側であるドイツ,イタリア,日本を徹底的に叩きのめす必要があるという主張も出てきます。そこで1942年以降には極秘で莫大な資金が投入されて研究開発が進められた,1945年に
「
原
爆
」という形で実を結ぶことになります。
戦時下のアメリカ合衆国では連邦政府の支出が跳ね上がり(1939年は89億ドル→1945年は952億ドル),戦時生産局を中心に大企業が中心になって軍事物資が大量生産され,軍部・政府・産業界のつながりが強化されました(やがて
「
軍産複合
体
」(Military-industrial complex,MIC)と呼ばれ,強い政治的な力を持つに至ります)。
1944年8月にはアメリカ,イギリス,ソ連,中華民国の代表がワシントン郊外にあ
る
ダンバート
ン=
オーク
ス
で
会
議
【本試験H31オタワ連邦会議ではない】
を開き
,
国際連
合
(
U
N
,the United Nations)
【早法27[5]指定語句】
の設立が構想されました。戦後世界の主導権を握る国をどうするかをめぐっては議論がありましたが,結局は大国が主導する制度となり,1945年6月に
は
国際連合憲
章
が採択されます。ニューヨークに置かれた本部ビルには,小アジアのハットゥシャから出土したアマルナ文書の粘土板のレプリカが飾られています。アマルナ文書は,エジプト新王国とヒッタイト王国との間に前1286年頃に締結された史上初(史上最古)の国際条約です。
議論の進む中でアメリカ・イギリスは,ソ連に対するポーランド問題やドイツの戦後問題をめぐる対立は残されており,1945年2月
の
ヤルタ会
談
【本試験H4】
ではポーランドで戦後に自由選挙が実施されるという形で一応はまとまりました
【本試験H4「第二戦線」の形成は協議されていない】
。
しかし,すでに会議中に衰弱していた〈ローズヴェルト〉は4月12日に心臓病で死去。副大統領の
〈
トルーマ
ン
〉
(任1945~53)
【東京H24[3]】
【共通一次 平1:フーヴァーとのひっかけ】
【追H21】
が職務を交替しました。
前後して1945年3月26日には日本に対する沖縄戦(~6月28日)が始まり,ミクロネシアのマリアナ群島から飛び立ったB-29による本土攻撃も前年1944年10月から激しさを増しました。ヨーロッパでは1945年に5月8日にドイツが降伏し,7月に
は
ポツダム会
談
が開かれ,日本に降伏をすすめ
る
ポツダム宣
言
が発表されました。〈トルーマン〉は戦後の日本に対する優位を不動のものとするため,8月6日に人類史上初めて原子爆弾を実戦において,それも一般市民の生活する大都市
・
広
島
に対して使用しました。8月8日には,ヤルタ会談での決定に基づき,ソ連
が
日ソ中立条
約
を破棄して日本に参戦。8月9日は原子爆弾
を
長
崎
市に投下。8月10日には日本の御前会議(ごぜんかいぎ)において,国体護持(天皇中心の体制を守ること)を条件にポツダム宣言の受諾を決定し,8月14日に受諾しました。8月15日にラジオ放送(玉音放送,ぎょくおんほうそう)を通して国民にその事実を伝えましたが,指揮系統の混乱からポツダム宣言受諾の知らせが伝わらない戦地では,依然として戦闘が続けられていました。
○192
9
年
~
194
5
年のアメリカ 中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ
◆
世界恐慌後も強権的な政権が支持を集めるが,社会改革に向けた運動も起こる
経済をたてなおす一方,アメリカの介入が強まる
世界恐慌の影響を受け輸出額の激減した諸国では,国際収支の悪化(輸出額<輸入額となり赤字になること)を防ぐため,従来はヨーロッパやアメリカから輸入していた製品を,自分の国でつくろうとする努力が見られるようになります。これ
を
輸入代替工
業
といいます。中央・南アメリカの諸国は,第二次世界大戦では戦火を免れたことと,ヨーロッパ諸国が戦場となったことで輸入がとどこおったためです。
とはいえ,世界恐慌の影響から失業者も発生し,ストライキや革命をめざす動きもみられるようになると,外国の資本と結びついた大土地所有者や大商人は,強い権力で国内の運動を押さえ込むことのできる指導者を求めるようになります。中央アメリカから南アメリカにかけての,こうした強権的な実力者のことをカウディーヨ
(
カウディージ
ョ
)といいます。彼らは,国内の中間層や労働者の票を集めるために,社会保障を充実させる政策
(
社会政
策
)をとり,それがますます財政赤字を深刻化させていくことになります。
工業化が進展しても国内市場の規模は小さく,国を超えた経済圏をつくる取り組みもうまくはいきませんでした。依然として天然資源が輸出産業の中心であり,工業に用いる原料・機械の輸入にもお金がかかるため貿易収支は悪化に向かい,アメリカ合衆国に対する負債も増加し,インフレが問題となります。
外資の導入に対しては,"自国の資源は自民族が守る"という
「
資源ナショナリズ
ム
」の思想も起こり,メキシコでは土地改革や鉄道・石油の国有化が図られていきます。
一方,1930年代半ばにヨーロッパ情勢の雲行きが怪しくなってくると,1936年〈フランクリン=ルーズベルト〉大統領は平和のための特別パン=アメリカ会議の開催を要請。"何か"が起きた場合は,アメリカ州諸国の間が結束して,紛争の平和的な解決を共同で目指そうという条約の草案が採択されました。第二次世界大戦開戦直前の1938年の第8回パン=アメリカ会議(開催地はリマ)では,アメリカ合衆国が中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ諸国に対して「自分の側について戦ってくれること」を確認し,リマ宣言が採択されました。
日本軍の攻撃が始まると,1941年にはパナマ,コスタリカ,ドミニカ共和国,エルサルバドル,ハイチ,ホンジュラス,ニカラグア,グアテマラ,キューバ。1942年にはメキシコ,ブラジル。1943年にはボリビア,コロンビア。1944年にペルー。1945年にエクアドル,パラグァイ,ウルグァイ,ベネズエラ,アルゼンチン,チリ。以上の諸国
が
連合
国
側に立って参戦しました。
○192
9
年
~
194
5
年のアメリカ 中央アメリカ
中央アメリ
カ
...現在の①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ
・
192
9
年
~
194
5
年のアメリカ 中央アメリカ
現①
メキシコ
◆
〈カルデナス〉の国有化政策で民族資本が成長,クリオーリョやメスティーソの資本家が育つ
メキシコで石油・鉄道の国有化などが実行される
メキシコでは1934年に
〈
カルデナ
ス
〉大統領(任1895~1970)が就任すると,「資源ナショナリズム」(自国の資源は自民族のもの!とする考え)な動きが活発化し,土地改革や石油・鉄道の国有化が推進され,1939年には石油の国有化が宣言されています。
自主的な外交を推し進めた〈カルデナス〉は,ソ連からの
〈
トロツキ
ー
〉(1879~1940)の亡命を受け入れています(1940年に暗殺)。メキシコ滞在中に〈トロツキー〉は第四インターナショナルを立ち上げています。
しかし〈カルデナス〉が1940年に引退し,中道
(ちゅうどう。左派=改革派でも右派=保守派でもないということ)
のメキシコ革命党〈カマチョ〉(任1940~46)の下で,〈カルデナス〉政権がすすめていった急激な改革をゆるめ,対米関係も改善し,1941年には連合国側に立っての参戦を決定しました。彼は社会改革をおこないながら,メキシコの工業化に尽力していきます。この過程で,大土地所有者の下で働く先住民は貧しさを強いられます。
・
192
9
年
~
194
5
年のアメリカ 中央アメリカ
現②
グアテマラ
米の支援する〈ウビコ〉軍事政権が君臨する
1931年にアメリカ合衆国の支援により〈ホルヘ=ウビコ〉(任1931~1944)が大統領に就任。中央アメリカ史上もっとも強権的な政治がしかれます。
"中米のナポレオン"との異名も持つ〈ウビコ〉はアメリカ合衆国
の
ユナイテッ
ド=
フルーツ
社
と癒着(ゆちゃく)し,果物
や
コーヒ
ー
の輸出向け農園では厳しい労働条件が放置されて貧富の差が開きます。
そんな中1944年にグアテマラで革命が起き,1944~1945年の軍事政権の後,自由選挙によって〈アレバロ〉が大統領に就任。ここからの諸改革は"グアテマラの春"とも呼ばれます。
・
192
9
年
~
194
5
年のアメリカ 中央アメリカ
現③
ベリーズ
イギリス領であったベリーズ。
マホガニ
ー
(高級家具用の木材)の輸出に依存していたベリーズは世界恐慌の痛手に加え,
1931年には過去最悪級のハリケーンに襲われます
。マホガニー農園ではデモも起き,1941年には労働組合が合法化。
・
192
9
年
~
194
5
年のアメリカ 中央アメリカ
現④
エルサルバドル
コーヒー頼みのエルサルバドルで,左右の対立が激化
エルサルバド
ル
では,世界恐慌の影響からコーヒー価格が暴落して混乱が広がると,政権に抵抗する共産党が活発化しました。そんな中,軍人〈マルティネス〉(大統領代行任1931~34,大統領任35~44)が後任に指名され,共産党を徹底的に弾圧し,多数の農民を虐殺しました。
1932年に日本が満洲国の建国を宣言すると,エルサルバドルは日本の次に承認しています(実質,世界で初めて満洲国を承認した国
(⇒1929~1945の日本)
)。ただ,第二次世界大戦では連合国側について戦いました。
〈マルティネス〉は1944年に起きた労働争議を受けて辞任します。
・
192
9
年
~
194
5
年のアメリカ 中央アメリカ
現④
エルサルバドル
⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ
○192
9
年
~
194
5
年のアメリカ カリブ海
カリブ
海
...①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島
・
192
9
年
~
1194
5
年のアメリカ カリブ海
現③
バハマ
バハマ
は
イギリス
領
です。
・
192
9
年
~
194
5
年のアメリカ カリブ海
現⑪
フランス領マルティニーク島
マルティニーク島ではフランスによる白人優位の社会が続き,サトウキビ・プランテーションが主力産業となっています。
第二次世界大戦中には,フランス第三共和政がナチス=ドイツによって倒れると,ヴィシー政府の支配下となります。
しかし,末期にレジスタンスの成果が実り,自由フランスの側に立ち枢軸国勢力を追い出します。
○192
9
年
~
194
5
年のアメリカ 南アメリカ
・
192
9
年
~
194
5
年のアメリカ 南アメリカ
現①
ブラジル
◆
世界恐慌によるコーヒー価格の暴落から,地主支配に異議を唱えた〈ヴァルガス〉が開発を優先する独裁体制をしいた
反地主の〈ヴァルガス〉が強権的に開発を進める
ブラジ
ル
では,コーヒーを中心とする順調な経済を背景にして中央政府を牛耳っていたサン=パウロ州やミナス=ジェライス州に対する,地方諸州の不満が高まっていました。
1929年の世界恐慌の影響で,コーヒーの国際価格が暴落。これをチャンスと見たのが,地方の牧場生まれで,リオ=グランデ=ド=スル州知事出身の
〈
ヴァルガ
ス
〉(1883~1954,任1930~45,51~54)です。彼は大統領選挙に出馬するも落選し,その不正を訴えて政治に不満を持っていた軍部とつるんで蜂起を起こし,臨時大統領に就任されました。これを1930年のヴァルガス革命といいます。
彼を支持していたのは都市の中間層や労働者であり,サン=パウロやミナス=ジェライスといった一部の大都市ではなく,"ブラジル国民"全体のことを考えようとい
う
ナショナリズ
ム
によって,支持を集めました。
日系ブラジル人たちも、こうした国民化政策の影響を強く受け、1940年代を通じて徐々にブラジル人としての自覚を持つようになっていきました
(注)
。
サン=パウロ出身の農園主・銀行家を蔵相に,ミナス出身者を閣僚に採用するというバランス感覚も忘れませんでした(サン=パウロで1932年に反乱が起きていますが,失敗に終わります)。1934年には新憲法が制定され,〈ヴァルガス〉は正式な大統領に就任し,強力な権力を手にします。彼の政権では革命に功績のあった青年将校が多数採用され,その後も大きな影響力が残されました。
1930年代なかばには,1922年に結成されてい
た
ブラジル共産
党
への弾圧も強め,ソ連によ
る
人民戦
線
の呼びかけに応じた左派勢力を一掃するため,36年に共産党を解散しています。1937年には新憲法が制定されて,完全な独裁体制(エスタード=ノーヴォ;新国家)がしかれました。彼は
,
ナショナリズ
ム
を高めて国民を統合させようとし,サン=パウロ州立大学(1934),ブラジル大学(1938)。が設立されましたコーヒー経済に頼るだけではなくブラジルの工業化を推進しようとし,鉄道や発電所などのインフラの整備も進めました。また,北部
の
アマゾン川流
域
(アマゾニア)の開発計画も進めていきます。
ヨーロッパで第二次世界大戦(1939~45)が勃発すると,〈ヴァルガス〉は連合国側で参戦しました。しかし,独裁に対する批判は高まり,戦後の1945年10月に軍のクーデタにより追放されます。
(注1) シッコ・アレンカール他、東明彦他訳『世界の教科書シリーズ7 ブラジルの歴史―ブラジル高校歴史教科書』明石書店、2003年、p.382。
◆
オセアニア西部にも第二次世界大
戦(
日本の進
出)
の被害が及ぶ
オセアニアも,アジア・太平洋戦争の戦場に
日本(大日本帝国)は1941年以降,戦線をオセアニアにも拡大。1943(昭和18)年9月末の御前会議で,「帝国戦争遂行上太平洋及印度洋方面ニ於
テ
絶対確
保
スヘキ要域ヲ千島,小笠原,内南洋(中西部)及西部「ニューギニア」「スンダ」「ビルマ」ヲ含ム圏域トス」とされたためです。この範囲
は
絶対国防
圏
と呼ばれました。
しかし,進出先のオセアニアの防衛や航路などの確保は進まず,戦争末期にはアメリカ合衆国による激しい進出を受け,ミクロネシア
の
マリアナ諸
島
を失ったことによ
り
B-2
9
による本土爆撃が可能となりました。
この過程で多数の兵士・民間人が犠牲となりましたが,オセアニアの住民(グアム
の
チャモロ
人
など)も戦闘に巻き込まれたことは見落とされがちです
(注
)
。
(注)戦後は観光地となった北マリアナ諸島のグアム。この地の慰霊の対象は戦後しばらくは日本・連合国の兵士であり,すぐさまチャモロ人を含む慰霊は営まれませんでした。渡辺尚志編『アーカイブズの現在・未来・可能性を考える』法政大学出版局,2016。
○192
9
年
~
194
5
年のオセアニア ポリネシア
ポリネシ
ア
...
①
チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島,フランス領ポリネシア
,③
クック諸島
,④
ニウエ
,⑤
ニュージーランド
,⑥
トンガ
,⑦
アメリカ領サモア,サモア
,⑧
ニュージーランド領トケラウ
,⑨
ツバル
,⑩
アメリカ領ハワイ
⑦
西サモ
ア
は,国際連盟のニュージーランド委任統治領
。
東サモ
ア
はアメリカ合衆国領です。
(1889年にサモア王国,アメリカ,ドイツ,イギリスの中立共同管理地域→1899年ドイツ領西サモア・アメリカ領東サモアに分割→1919年ニュージーランドの委任統治→1945年西サモアは国際連合信託統治→1962年西サモア独立→1967年東サモア自治政府→1997年西サモアはサモアに改称)。
ニュージーランド自治
領
(Dominion of New Zealand)は,1931年
の
ウェストミンスター憲
章
により,イギリス王冠への忠誠の下,イギリス本国とおおむね対等の立場を手に入れました。
こうしてイギリスは,本国
と
植民
地
とのタテの関係を持つ従来の
「
帝
国
」構造に加え,王冠への忠誠の下で本国と対等な地位とされ
た
自治
領
(
ドミニオ
ン
)とのヨコの関係を持つ
「
ブリティッシ
ュ=
コモンウェル
ス
」(British Commonwealth of Nations) という2つの構造を持つこととなっていきます。
○192
9
年
~
194
5
年のオセアニア オーストラリア
オーストラリア連邦(Commonwealth of Australia)は,1931年
の
ウェストミンスター憲
章
において,イギリス本国と王冠への忠誠の下で対等な自治領(ドミニオン)として認められました。オーストラリアは,ブリティッシュ=コモンウェルスのメンバーとして,イギリス本国とおおむね対等な立場を手に入れたのです。
こうしてイギリスは,本国
と
植民
地
とのタテの関係を持つ従来の
「
帝
国
」構造に加え,王冠への忠誠の下で本国と対等な地位とされ
た
自治
領
(
ドミニオ
ン
)とのヨコの関係を持つ
「
ブリティッシ
ュ=
コモンウェル
ス
」(British Commonwealth of Nations) という2つの構造を持つこととなっていきます。
なお,オーストラリア北部海域では,日本人潜水夫による真珠採取が続けられています(注)。
(注)「アラフラ海から珊瑚かいへ (1〜3)」,大阪朝日新聞 1942.3.16-1942.3.18 (昭和17),
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00504024&TYPE=HTML_FILE&POS=1&TOP_METAID=00504024
。
○192
9
年
~
194
5
年のオセアニア メラネシア
メラネシ
ア
...①フィジー,②フランス領のニューカレドニア,③バヌアツ,④ソロモン諸島,⑤パプアニューギニア
○192
9
年
~
194
5
年のオセアニア ミクロネシア
ミクロネシ
ア
...①マーシャル諸島,②キリバス,③ナウル,④ミクロネシア連邦,⑤パラオ,⑥アメリカ合衆国領の北マリアナ諸島・グアム
③
ナウ
ル
は1920年からイギリス・オーストラリア・ニュージーランド委任統治領となり,リン採掘権はイギリスにありました。採掘には中国人労働者が用いられていましたが,アジア・太平洋戦争の開始にともない,日本
が
現②
キリバ
ス
のオーシャン島とともに占領下に置くと中国人労働者やヨーロッパ人は非難し,島民もカロリン諸島に強制移住されました
(注
)
。
②
キリバ
ス
のうち,1900年にはイギリス資本のパシフィック=アイランズ社が,近隣の現キリバス共和国のオーシャン島のリン鉱山を購入し,採掘が進められています。
1931年にオーストラリア航路の航海士〈丹下福太郎〉がパラオで真珠貝の漁業を開始。これによりパラオのシロチョウガイが真珠採取の拠点となり,三井物産神戸支店が貝ボタンの原料とするためアメリカ合衆国に輸出します。日本の南洋庁はパラオの真珠採取を奨励しますが,オーストラリアはこの動きを問題視し,周辺海域の日本船を拿捕しています
(注
)
。
(注)山田篤美『真珠の世界史』中公新書,2013,p.126~p.127。
◯192
9
年
~
194
5
年のアジア 東アジア・東北アジア
◆
日本は満洲から中国本土に侵攻し日中戦争を起こすが,国内勢力の提携,連合国による国民党の支援により敗北する
〈蒋介石〉の
この時期に,日本は中国本土に軍事侵攻します。
初期の頃は中国側は〈蒋介石〉の中華民国政府が中国共産党討伐を優先し,日本との軍事的衝突を避ける政策(安内攘外の政策)がとられました。
1934年に中国共産党の討伐に勝利すると
(注
)
,1910年代から関係良好であったドイツとの関係を深め,軍事顧問団を受け入れています。日本の姿勢にも,1937年の日中戦争の起点とされる
(注)和田春樹他編『岩波講座 東アジア近現代通史 第5巻 新秩序の模索――1930年代』岩波書店,2011,p.26。
その経緯を順にみていきましょう。
1929年7月,〈浜口雄幸〉(はまぐちおさち)内閣(1929~31)が成立しました。
〈幣原喜重郎〉(しではらきじゅうろう,1872~1951)外相は,1930年にイギリスとアメリカの主導す
る
ロンドン海軍軍縮会
議
【本試験H13ワシントンではない】
で締結され
た
条
約
【本試験H17ブリュッセル条約とのひっかけ】
に参加し,「補助艦」
【本試験H13】
(駆逐艦,重巡洋艦・軽巡洋艦)の保有数に制限をかけることを承認しました
【本試験H18四か国条約は結ばれていない】
。
比率は,潜水艦の比率は米英日=10:10:10,駆逐艦の比率は10:10
:
7
でした。しかし,重巡洋艦(軽巡洋艦は( )内)の比率が,10:8.1(13.4):
6.02
であったことに対して海軍軍令部や野党からの批判が起こりました。「相手に対して発揮する破壊力は,保有する軍事力の2乗になる」というランチェスターの法則をもとに,10:7なら100:49でなんとかなりそうだが,10:6では100:36になり大違いだと主張したのです。
〈浜口雄幸〉は同年東京駅で狙撃され,翌31年に死去しました。しかし,1930年3月に世界恐慌が日本に波及し,日本全土の小作農・労働者の生活を直撃しました。都市部の中間層(中小の商工業者)も,農村の中間層(自作農)は「こんなに地方は深刻な状況になっているのに,財閥や政党政治は何もしてくれない」と,政府に対して批判的になっていきます。
このころ,〈蒋介石〉の国民政府によって統一された中国では,資本主義的な取引は認められています。1931年には,満洲鉄道と並行した鉄道を新たに敷設する計画が,国民党中央委員の〈張学良〉(1901~2001)らによって作られています。広い中国の「国語」を統一しようという動きも,文学革命の〈胡適〉(1891~1962)以来進められ,1932年には『国音常音字彙』により
,
北京
語
を基にした現在の中国の標準語
「
普通
話
(プートンホア)」や台湾の「国語」の原型ができています。
1935年にはイギリス
【東京H11[3]】
とアメリカ
【東京H11[3]】
の支援の下,「
また、清朝末期に結ばれた列強との不平等条約の改正も進められていきました(国権回復運動)
【早・政経H31「南京国民政府は諸外国との条約改正を進めたが、関税自主権は回復できなかった」じは誤り】
。
(注)和田春樹他編『岩波講座 東アジア近現代通史 第5巻 新秩序の模索――1930年代』岩波書店,2011,p.26。
日本には「日本の不況(当時の日本は不況続きで,農村は飢饉などが多発し悲惨な状況でした)を解決するには,満洲や外蒙古
(
満
蒙
)に進出するしかなく,そのためには〈蒋介石〉の政権と戦うしかない」と考える人たちが出てきていました。
その一派が起こしたのが
「
柳条湖事
件
」(1931年,実行犯は関東軍)で,それ以降日本軍は満洲一帯を軍事的に占領し,
「
満洲
国
」の建国を宣言しましたが,国際社会による承認は得られませんでした(1931~1933
年
満洲事
変
)
【本試験H17国際連盟は満洲国を承認していない】
。国際連盟が真相究明のため派遣し
た
リットン調査
団
の報告に対し,日本は1933年に国際連盟を脱退することで答えました。
さらに,満洲近くの河北省を,〈蒋介石〉に支配下から切り離す「華北分離工作」をすすめていきました。〈蒋介石〉は,当時は共産党を退治するのに手一杯で,日本と戦争をする体力はありませんでした。1933年
に
塘沽停戦協
定
(タンクー,とうこ)が結ばれたので,普通はこの段階を日中戦争には含めません。この協定により中国軍は長城より南に撤退し,日本も満洲国に退くことで,日中の間には非武装地帯が設定されることになり,東北地方の三省と熱河省の占領が事実上認められた形になりました。しかし,日本側の中国への圧迫は続き,河北省に1935年に
は
冀
東
(きとう
)
防共自治政
府
という傀儡政権(かいらいせいけん)を樹立させています(~1938年)。
〈蒋介石〉が日本の進出に対して宥和的な政策をとったのは,当時の中国国民党が各地に拠点を築いていた中国共産党と戦うためでした。
"
―まずは国内の安全をはかり,その上で外から来る日本をブロックする。〈蒋介石〉のプランです。
国内の国民党政権を守るために共産党を攻撃することを,囲剿(いそう)といいます。
中国共産党は,〈毛沢東〉
【本試験H12蒋介石ではない】
【本試験H21周恩来ではない】
を主席とする1931年
【共通一次 平1:年代】
に
中華ソヴィエト臨時政
府
【共通一次 平1:時期が1930年代か問う】【本試験H12】
を
瑞
金
(ずいきん)
【共通一次 平1:時期が1930年代か問う】
【本試験H29重慶ではない】
に樹立していましたが,山奥での自給自足にも限界があり,100万人以上の国民党の軍隊が投入されると,共産党の軍隊
(
紅
軍
(こうぐん,1927年成立))はついに持たなくなりました。
そこで共産党は瑞金の政府を捨て,1934~1936年にかけて国民党軍と戦いつつ中国西部のけわしい山間部を通って大雪山脈(最高峰は7556m)を抜け,黄河上流
の
延
安
(えんあん)
【本試験H27長安ではない】
にかけて1万2500kmの決死の移動をおこないました。これ
を
長征
(ちょうせい。西遷;大西遷都とも
【本試験H12時期(「日中間の全面戦争」の開始に伴って実施されたわけではない)】
【追H18地図(地動経路)、H20 時期(1950年代ではない)】
)といいます。初め8万人超いた兵力は,延安到着時に数千人になっていました。また,この移動の途中におこなわれた遵義会議では,誰が共産党のリーダーになるかをめぐって話し合われ,
〈
周恩
来
〉が批判のやり玉にあげられ,〈毛沢東〉を支持。紅軍の建設者・指導者である〈朱徳〉も〈毛沢東〉を支持したため,以後は〈毛〉が実権を握ります。
1935年
【共通一次 平1:年代】
には中国共産党
【本試験H12提唱したのは中国共産党か問う】
の〈毛沢東〉
【本試験H12孫文ではない】
が「共産党も国民党も協力して日本と戦おうじゃないか!」(抗日民族統一戦線
【本試験H12袁世凱による仲介ではない】
)という文書を,国民党向けに発表しました
(
八・一宣
言
)
【共通一次 平1:内容を問う】【本試験H12満州事変のきっかけではない】
【本試験H29国民党が出したわけではない】
。
さて,共産党の延安到着後の1936年
【共通一次 平1】
,〈蒋介石〉は延安に移った共産党を攻撃するよう,〈張学良〉に期待をかけており
,
西
安
(かつて
の
長
安
【本試験H27】
)に軍の視察に入ったところ,逆に国民党
【共通一次 平1:共産党ではない】
の〈張学良〉と〈楊虎城〉によって
〈
蒋介
石
〉は監禁
【共通一次 平1】
されてしまいます。「いつまでも共産党と仲間割れをしている場合ではない。本当の敵は中国だ」と蒋介石を説得したのです。これ
を
西安事
件
といいます
【共通一次 平1】
【本試験H22地図(西安の位置)】
【追H19】
。説得に応じた〈蒋介石〉は,共産党との協力に転じました。
この間,日本は「華北分離工作」(中国北部一帯を日本軍の勢力下に置く作戦)を進めていました。
1937年の7月7日,いよいよ北京郊外の盧溝橋で日本と国民党軍との軍事衝突が起き
(
盧溝橋事
件
【本試験H12】
),日本と中華民国との本格的な戦闘に突入していきます
(注
)
。
両国はこの時点では宣戦布告していませんが,事実上この時点から全面戦争に発展していきますので,一般に1937年
が
日中戦
争
の開始年とされます。
盧溝橋事件をきっかけに,中国側では本格的
に
第二次国共合
作
の組織構築が進んでいきました
【共通一次 平1】
。共産党の軍隊(紅軍)は,八路軍(華北中心),新四軍(華南中心)として,国民政府の指揮下に組み込まれました。
日本軍は次々に都市を占領していきました。1937年に
は
南京を陥
落
し(南京攻略戦)
【本試験H18】
,
南京事
件
(南京虐殺)
【本試験H4ピカソのゲルニカの題材ではない】
を起こしています。南京国民政府は首都
を
漢
口
(かんこう)
【本試験H9上海ではない】
に移し,日本軍がそこを攻撃すると,さら
に
この間,日本の〈近衛文麿〉首相は,「日本の東亜新秩序(東アジアから欧米勢力を追い出した後で,日本が中心になって建設するとされた新しい秩序)建設に協力するならば,和平について話しあおうじゃないか」(第二次近衛声明)と呼びかけました。すると,上海クーデタ(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること)のときに〈蒋介石〉に降参し,日本との和平を主張していた
〈
汪兆
銘
〉(おうちょうめい)
【追H19】
は日本に接近します。こうしてできたのが1940年
の
南京国民政
府
です
【本試験H22地図】
。実際には日本の傀儡政権(対日協力政権)
【本試験H29】
に過ぎません。
なお,日本軍は,ドイツ
の
ゲルニ
カ
爆撃
【本試験H4】
【本試験H31】
(ピカソがこれをテーマに絵を描いたことで有名)に続く航空機による大規模な都市の爆撃を,重慶に対して行っています(重慶爆撃)。
日本が植民地化していた朝鮮では、戦況が緊迫化するにつれ、朝鮮総督府は創氏改名
【追H24】
や神社参拝強制
【追H24】
などの皇民化政策
【追H24文化政治ではない】
を展開しました。
中国の国民政府はアメリカ・イギリスの援助も受けながら耐え忍び,〈蒋介石〉は1943年に,第二次世界大戦後の東アジアの勢力について決め
る
カイロ会
談
に出席しました。〈汪兆銘〉政権は1944年に崩壊します。
日本は1942年
の
ミッドウェー開
戦
での敗北を機に,次々とアジア・太平洋地域の拠点を失っていきました。1945年にアメリカ合衆国によ
り
広
島
・
長崎に原子爆弾が投
下
【本試験H4ピカソの絵画の題材ではない】
されると,「黙殺」していた連合国
の
ポツダム宣
言
をようやく受諾し,無条件降伏しました。
◯192
9
年
~
194
5
年のアジア 東南アジア
東南アジ
ア
...①ヴェトナム,②フィリピン,③ブルネイ,④東ティモール,⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア,⑧カンボジア,⑨ラオス,⑩タイ,⑪ミャンマー
◆
日本
は"
大東亜共栄
圏"
建設をうたって東南アジアに侵攻したが,軍政に対する抵抗を生み,敗戦とともに撤退する
なお,「東南アジア」という名称は,第二次世界大戦のときに,連合国により1943年に現在のスリランカのコロンボに設置された
「
東南アジア司令
部
(コマンド)」が語源です。今では当たり前になった地域のまとまりですが,この言葉の歴史は浅いのです。略称であるSEACは,当時のアメリカ軍の間では「Save England's Asian Coloinies(アジアのイギリス植民地を救え!)」という意味じゃないかという冗談もあったそうです
(注
)
。
(注)木畑洋一『20世紀の歴史』岩波新書2014,p.160
・
192
9
年
~
194
5
年のアジア 東南アジア 現②フィリピン
独立が約束されるが、日本の占領を受けた
フィリピ
ン
では,世界恐慌の影響で,不況にあえぐアメリカの農家がフィリピンから関税なしで砂糖やココナツ製品が輸入されるのを防ぐため,フィリピンを植民地から切り離す(=独立させる)運動を起こしました。1933年に就任した〈フランクリン=ローズヴェルト〉大統領のとき,1935年
に
タイディング
ズ=
マクダフィー
法
が制定され,10年の移行期間ののちの1946年のフィリピン共和国の独立が認められました。その代わり,フィリピンからアメリカに輸出する製品には関税がかかることになるという内容でした。独立準備政府(コモンウェルス政府)が発足されたものの,アメリカに対する経済的な依存は続き,前途多難な状況でした。
アメリカの植民地だったフィリピンは,日米戦争による被害をもろに受けることになりました。
1942年1月2日に日本軍は、フィリピンのマニラに進軍。2月にシンガポール、3月にビルマのラングーンを占領し、5月には米軍司令官〈マッカーサー〉の拠点であったフィリピンのコレヒドール要塞を陥落させます
(注)
。
1942年に日本の支配に抵抗する抗日人民軍(フク団
,
フクバラハッ
プ
)が結成され,ゲリラ部隊によって各地を解放しようとしました
【本試験H16第二次大戦中に抗日運動が起きたかを問う】
。
一方,アメリカ軍は1944年10月に
レイテ島に上陸
し,敗れた日本は制空権・制海権を喪失。1945年2月にマニラは再占領されました。このときの戦闘でアメリカの砲火や日本軍による攻撃で,一般市民に10万人ともいわれる犠牲が出ています。各地を解放したフク団は,共産主義勢力の拡大を恐れたアメリカの
〈
マッカーサ
ー
〉(1880~1964)により武装解除され,その後も弾圧対象となり,戦後には内戦に発展します。
(注)鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.304。
・
192
9
年
~
194
5
年のアジア 東南アジア 現④東ティモール
第二次世界大戦では日本に一時占領される
東ティモールを植民地支配していた
ポルトガル
は、第二次世界大戦中は「中立」政策をとっていました。
オランダ、オーストラリアの軍が保護占領しますが、ティモール島の戦いにより日本に占領されます。
しかし日本の敗戦するとオーストラリア軍が占領し、さらにポルトガルによる支配が復活しました。
・
192
9
年
~
194
5
年のアジア 東南アジア 現③ブルネイ
、⑤
インドネシア
,⑥
シンガポール
,⑦
マレーシア
マレー半島上陸により太平洋戦争が始まる
現在のマレーシアやシンガポールを中心とする地域では、(1)海峡植民地(ペナン,マラッカ
,
シンガポー
ル
【本試験H2・本試験H11:1901年当時の宗主国を問う】
)+(2)マレー連合州(フェデレイティド=マレー=ステイツ)+(3)非連合州を合わせて
,
イギリス領マラ
ヤ
が形成されていました。
また、イギリスは19世紀後半には,ボルネオ島にも支配圏を伸ばし,1888年にサバ,ブルネイ,サラワクは,すべてイギリス保護領になりました。
シンガポールは、マレー半島地域の一次産品生産と結びつき、アジア貿易をと拠点となる貿易港・金融中心地に発展。その担い手となっていたのは
華僑
(かきょう)の起業家と、労働力となったクーリー(主に中国人ですが、インド人やマレー〔ムラユ〕人もいました)です
(注)
。
(注1)たとえば現在も巨大な規模を維持する、ゴム関連企業グループを創設したリー=コンチェン一族がいます。岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.28。
現在
の
インドネシ
ア
ではオランダからの独立運動が継続されていましたが,そんな中,日本軍の侵攻を迎えることになります。
1941年12月8日午前2時15分,日本軍
は
マレー半島コタバ
ル
に上陸。これは
,
真珠湾攻
撃
の1時間5分前です。12月10日には、イギリス海軍の軍艦プリンス=オブ=ウェールズとレパルスを撃沈させ制海権を奪い、マレー半島の東西沿岸を南下。
1月31日にジョホールバルの王宮に陣を構え、2月8日
に
シンガポー
ル
を占領
【本試験H14,本試験H25時期】
,2月15日にイギリス軍は無条件降伏しました。さらに3月にはジャワ島を占領します
これ以降の日本占領期をシンガポールではその期間から「三年八ヶ月」
(注)
と呼びます。
シンガポー
ル
は昭南島と名前を改められ、昭南特別市政庁として日本の軍政の中心地となりました。この地域に
は
華
僑
が多数居住していたため,ムラユ〔マレー〕人とインド人を優遇しました。
中国人住民は攻撃の対象となり、1942年2~3月には多数の華僑に対する虐殺事件が起きたほか、日本軍に対する強制的な献金が要求されました
(注2)
。
日本は中国人だけでなく、イギリス人と英語を話す中国人(クイーンズ=チャイニーズとして区別されました)は「アジア人」ではないとして排除し、ムラユ〔マレー〕人とインド人を優遇したのです。しかし後者からもやがて反日運動が起きるようになります
(注3)
。
日本の目的は,石油,ゴム,スズ,ボーキサイトなどの資源の獲得であり,長期化している満洲や中国との戦いを解決するために必要と考えられました。これらの地域では1942年から軍政がしかれ,天皇を礼拝する政策,日本語による精神教育など,日本への文化的な強制を含む政策がとられました。
しかし、この苦難を通じて、シンガポールの一部住民の中に「外部の民族による支配」に対する疑問と「シンガポール人意識」が芽生えていくことにもなります。
(注1) 岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.42。
(注2) 日本側の証言によれば5000~6000人ほど。虐殺を追及した側は4~5万人が殺害されたと主張しました。のち、1962年にシンガポール東海岸一帯が整地された際に、大量の白骨が出現。これは中国人粛清の犠牲者のものでいたが、イギリスが1951年の対日講和条約(サンフランシスコ条約)で日本に対する賠償を請求する権利を放棄していたので、シンガポールの華人が賠償金を請求する権利は形式的にはありませんでした。しかし長年にわたる交渉の末、日本が占領時に中国人に課した「強制献金」の額5000万シンガポールドル(約60億円)を、無償・有償協力金をして支払うことで1967年に決着。同年には華人系住民により慰霊碑が建てられました。岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、pp.46-47,53。
(注3) 岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.55。
・
192
9
年
~
194
5
年のアジア 東南アジア 現⑩タイ
シャ
ム(
タ
イ)
は立憲君主制に移行し,日本に協力
シャ
ム
では
,
チャクリ
朝
の絶対王政がしかれていましたが,1929年の世界恐慌のあおりを受け,輸出品の主力である米の価格が下落。
官僚のリストラなどによる対応が国王・王族に対する批判を集め,1932年
の
人民
党
の
〈
プリーディ
ー
〉(1900~1983)や
〈
ピブー
ン
〉(1897~1964)らによる政変(タイ立憲革命,1932年クーデタ)が起きました。〈プリーディー〉らは憲法を起草し,国王〈ラーマ7世〉に署名を迫ります。これによりシャムは
,
立憲君主
政
に移行しました。
しかし,〈プリーディー〉がソ連の国家運営に影響を受けた政策を実行に移そうとすると,人民党政権内部での内部分裂が起き,穏健派であった〈マノーパコーン〉首相(1884~1948)は1933年に議会を停止。〈プリーディー〉はフランスに亡命しました。
しかしその後,同年に〈プリーディー〉は新政権により呼び戻されます。
〈ラーマ7世〉(位1925~1935)はイギリスに身を寄せ,1934年に退位を宣言。新政権を認めないという意志のあらわれでした。
当時9歳の〈ラーマ8世〉(位1935~1946)も国外に滞在する,事実上国王が国内にいない状況となります。1931~1933年の満洲事変に際しては,1933年2月にリットン調査団報告関連の決議を棄権。
1941年に太平洋戦争が勃発すると,タイは日本の軍事進出に協力。12月に日タイ攻守同盟を締結しました
(注)
。
1942年に〈ピブーン〉首相はイギリスとアメリカ合衆国への宣戦を余儀なくされました(〈ラーマ8世〉はスイスに留学していたため,国王が直接宣戦布告したわけではありません)。1943年11月に王族の〈ワンワイタヤコーン〉外相(1891~1976)は,東京で開催され
た
大東亜会
議
に参加。共同で大東亜共同宣言を発表し,欧米の帝国主義からアジアを解放することを戦争の大義とします。
これに対し,〈ピブーン〉に批判的な〈プリーディー〉は抗日運動を組織します。
戦局の悪化とともに,1944年に〈ピブーン〉首相は辞任。
〈ラーマ8世〉は1945年12月にタイに帰国。〈プリーディー〉は政治的な影響力を復活させます。
(注)鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.304。
・
192
9
年
~
194
5
年のアジア 東南アジア
現⑪
ミャンマー
ビル
マ
は,英領インド帝国の1州として1886年に併合されていましたが
【本試験H21】
,1937年に自治領に昇格しました。イギリスは,ビルマ支配のために,多くの民族どうしを対立させる戦略をとりました。「分割統治」ですね。
例えば,従来は別々の言葉を話してい
た
カレン
人
に対してキリスト教を布教することで一体感を高め,「自分たちは,仏教徒のビルマ人とは違うんだ」という意識をつくらせました。また,従来には共存していたモン人やアラカン人に対するマイナスイメージも,植民地統治下でつくられていったものです。
ビルマは米の輸出国として,重要な戦略的意味を持っていました。その労働力として,インド移民が導入されることになりました。特に,インドにほど近
い
アラカン地
域
では,インド東部のベンガルからの移民が増え,先にいた仏教徒の多いアラカン人との対立が起こるようになりました。これがのちに
「
ロヒンギャ問
題
」につながっていきます(ただし「ロヒンギャ」と呼ばれている全ての人が,この時期のベンガルからの移民とは限りません)。
イギリス支配下
の
ビル
マ
では,1930年に「我らのビルマ協会
(
タキン
党
)」
【東京H21[3]】
【慶文H30記】
が〈タキン=バ=タウン〉によって結成され,社会主義を受け入れながら,反帝国主義の独立運動が進められました。彼らは国名として
「
ビル
マ
(
バマ
ー
)」
【慶文H30記 1989年にはミャンマーと国名が改められたが,改称前の名称は何かという問い】
を使うことを決め
,
ビル
マ
(
バマ
ー
)
人
という呼び名で自分たちを呼びました。「バマー」とは「ミャンマー」の話し言葉で,少数民族も含めた「バマー」の統一が意図されていましたが,結局
は
ビルマ
人
が中心になった独立運動が進められていくことになります。
太平洋戦争が始まる直前の1940年6月,日本の陸軍大佐〈鈴木敬司〉は,は独立運動家
〈
アウ
ン=
サ
ン
〉を中国で拉致し,「独立を支援するがどうか?」と東京で説得しました。のちに陸軍と海軍のトップの了承を得て,1941年には「南機関」というビルマの独立支援機関を設立するに至りました。日本はビルマから極秘にタキン党員を中国に脱出させ,軍事訓練を受けさせ,〈アウン=サン〉を含むこの"30人の志士"がビルマ独立義勇軍として1942年に日本軍とともにビルマに侵攻しました。
しかし,日本はイギリスの植民地軍を追い払うや,1943年まで軍政をしき,同年8月1日に形ばかりの"独立"を認めました。大東亜共栄圏の中での独立に過ぎず,日本軍の駐留は続き,傀儡政権に過ぎません。ここに〈アウン=サン〉による,秘密裏の抗日運動が始まりました。1944年に
「
反ファシスト人民自由連
盟
(AFPEL)」(ビルマ語ではパサパラ)が結成され,45年に一斉に蜂起しました。
日本軍による軍政下では,経済が統制され,戦局の悪化にともない食料や物資の生産・流通が滞るようになっていきました。ビルマへの補給のため
に
タ
イ=
ビルマ鉄
道
(泰緬(たいめん)鉄道)が建設され,連合軍の捕虜(イギリス,アメリカ,オランダ,オーストラリアの各軍人)やマラヤを中心とする労働者(労務者(ロームシャ)と呼ばれました。タイを除き東南アジア各地から18万人ともいわれる人々が雇用されました)の多くが犠牲となりました
(映画「戦場にかける橋」(1957英米)の舞台となっています)
。
日本軍は,インド人のイギリスからの独立運動を助け,英領インド帝国の内側から植民地を解放させようと,インド人投降兵を中心
に
インド国民
軍
を組織し,1943年に元インド国民会議派議長
〈
チャンド
ラ=
ボー
ス
〉を支援し
て
自由インド仮政
府
を結成させました。しかし〈ネルー〉,〈ガンディー〉は日本軍への協力に反対。1944年にビルマからインドへの直接侵攻を図っ
た
インパール作
戦
は大失敗し,連合国軍兵士や日本軍兵士とともにインド国民軍も犠牲となりました。
◯192
9
年
~
194
5
年のアジア 南アジア
南アジ
ア
...現在の①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール
・
192
9
年
~
194
5
年のアジア 南アジア
現③
スリランカ
イギリス領
の
セイロン
島
をめぐり,第二次世界大戦中に日本とイギリスとの間に海戦が勃発(1942年4月,セイロン沖海戦)。日本が勝利しています。
・
192
9
年
~
194
5
年のアジア 南アジア
現⑤
インド
◆
大戦後の独立が決定されるが,各地で宗教・宗派による分断が深刻化していく
イギリスによる独立運動の押さえ込みと分断工作が続く中,一見インドの独立とは関係のなさそうな「塩」を持ち出して,独立運動の分裂を食い止めようとしたのが〈ガンディー〉です。
"塩は人間にとって不可欠なもの。それを専売制にし,インド人が自由に塩をつくる権利を奪っているイギリスに反対しよう" と国内外の報道陣を呼び,海まで塩税に反対するデモ行進を企画したのです。
〈ガンディー〉
【追H27】
により
「
塩の行
進
」
【東京H26[3]】
【H29共通テスト試行 ジャガイモではない】
【追H27】
【早・政経H31 年代】【早商H30[4]記】
を実施された翌年の1931年
(注)
にロンドン
で
円卓会
議
【本試験H16時期(1920年代ではない)】
が開かれると,〈ジンナー〉は出席を求められますが,その内容に幻滅し,ロンドンでそのまま働くことを決意しました。しかし,インドのムスリムたちからの期待もあって,1934年にインドに帰国すると,本格的に「インドのイスラーム教徒は,インドとは別の「民族」として,別の国をつくるべきだ」という考えを唱えはじめます。
(注)第一回は国民会議派不参加のまま1930年11月1~1931年1月に開催。1931年9~12月に第二回,1932年11~12月に第三回。「円卓会議の時期は何か」と問う場合,1930~32年までの開きがあることに注意。『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.122
1935年には「
193
5
年インド統治
法
(新インド統治法)」
【本試験H11「新インド統治法(1935年)という表記。インドを自治領としたか問う】
【本試験H14独立を約束していない,本試験H16 独立を認めていない】
【早・政経H31 年代】
が制定され,地方の州の
自治は認められましたが,相変わらずインドはイギリス人の総督と植民地政庁による支配が続きました。いくら州の自治が認められても,総督により州知事をやめさせることもできるわけです。自治といっても南アフリカやオーストリアのように,現地の人々による代表が統治機構に加われる
「
自治
領
」とは程遠いものでした
(注
)
。このとき制定された478条の憲法は,長ったらしいだけで制限事項が満載でした。
(注)南アフリカやオーストラリアは白人の人口が多い植民地だったため,外交権をのぞく広範な自治が認められたのです。
第二次世界大戦中のインドは,連合国から見れば戦略的に重要な位置にあったわけですが,国民会議派の〈ネルー〉や〈ガンディー〉は,独立を認めてくれなければ協力をしないという構えでした。
そんな中,イギリスのインド政庁は
,
全イン
ド=
ムスリム連
盟
に接近していくようになります。1940年に全インド=ムスリム連盟は,「パキスタン決議」を発表し,ムスリムが多い地域をインドと分離させるべきだと,初めて公的に宣言しました。イギリス側は,全インド=ムスリム連盟側につくことで
,
インド国民会議
派
に圧力をかけ,戦争への協力を引き出そうとしていたのです。
1941年に日本とアメリカ・イギリス・オランダが戦争を開始すると,日本軍は1942年にはビルマに向かい,インド国境への進入をもくろみました。日本は,投降したインド兵ら
を
インド国民
軍
という義勇軍に仕立て上げ,国民会議派の
〈
チャンド
ラ=
ボー
ス
〉に指導させていました。
この情報を得たアメリカ合衆国の〈フランクリン=ローズヴェルト〉は介入し,イギリスは使節を派遣し,戦後の自治を約束しました。しかし〈ネルー〉は,「イギリスのせいでこんなことになったのだ。ただちにインドから出て行け」と,「インドから出て行け
(
クイッ
ト=
インディ
ア
)
」
運
動
が始まりました。しかし,〈ガンディー〉〈ネルー〉は逮捕され,国民会議派は非合法化され,運動は分解しました。
日本のインド進入作戦(インパール作戦)は1944年に失敗し,「インドから出て行け」運動も収束しました。
・
192
9
年
~
194
5
年のアジア 南アジア 現⑦ネパール
ネパール王
国
は,1923年イギリスとの条約により独立国として承認されました。
●192
9
年
~
194
5
年のインド洋海域
インド洋海
域
...インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島,モルディブ,イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域,マダガスカル,レユニオン,モーリシャス,フランス領マヨット,コモロ
イギリスはインドをはじめとするアジアへの航路を確保するためインド洋の島々に目をつけ,1810年にイギリス領モーリシャスとしてディエゴガルシア島を含む島々を領有してました。その後はインド軍の小部隊が駐屯していましたが,1942年には撤退しています。
フランスの植民
地
マダガスカ
ル
は,第二次世界大戦中に本国フランスがドイツに占領(1940)されると,ナチ党のドイツの傀儡政権であ
る
ヴィシー政
権
(ヴィシー=フランス)をフランスとして承認。
枢軸国に接近したマダガスカルに,大日本帝国が近づくことを恐れたイギリスや南アフリカ連邦は,1942年5~11月にマダガスカルの戦いで,ヴィシー=フランスと大日本帝国と戦い,マダガスカルを死守します。インド洋の航路をめぐる戦いです。
(注)木畑洋一「ディエゴガルシア―インド洋における脱植民地化と英米の覇権交代」『学術の動向』12(3), 2007年,pp.16-23。
○192
9
年
~
194
5
年のアジア 西アジア
西アジ
ア
...①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ
(注)
,⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
(注)パレスチナを国として承認している国連加盟国は136カ国。
◆
パレスチナを除き委任統治領では自治・独立が認められたが,石油資源や戦略拠点をめぐる欧米諸国の介入は続く
テヘランを首都として1925年に成立してい
た
パフレヴィー朝ペルシ
ア
では,1935年に国号が「
②
イラ
ン
」に改められました。イランとはペルシア語で「アーリヤ人の国」を意味し,「アーリヤ」の語源は"高貴な"という意味です。「ペルシア」とはヨーロッパ人による外からの呼び名であり,自称に戻そうとしたのです。こうしてイランの民族意識を高め,ヨーロッパ諸国の進出に対抗しようとしたわけです。
1920年代以降,工業化に重点が置かれ,多数の政府系工場や鉄道が建設・敷設されていった一方,農業分野の近代化は遅れました。
アング
ロ=
イラニアン石油会
社
(AIOC)により国内の石油を握るイギリスと,南下政策を進めるソ連による干渉は依然として続き,皇帝
〈
レザ
ー=
シャ
ー
〉(1925~1941)は,アメリカ合衆国への接近が失敗すると,ドイツのナチス政権と提携することを決断。第二次世界大戦が勃発しても,表向き
は
中
立
を保っていました。
1941年6月に独ソ戦が始まりソ連がイギリス側の連合国に加入すると,アメリカ合衆国はソ連も含めた援助を本気で検討するようになります。
この時点でアメリカ合衆国の〈ルーズヴェルト〉大統領
【本試験H4】
は中立国であるにもかかわらず,イギリスの〈チャーチル〉首相
【本試験H4】
と話し合い発表された8月9日~12日
に
大西洋憲
章
【本試験H4チャーチルとルーズヴェルトによる宣言か問う】
【追H20】
において,"アメリカとイギリスは領土を広げようとしているんじゃなくて,世界の自由と平和を守ろうとしているんだ"と戦争目的をアピール。
その上,ソ連へのインド洋から武器・物資を提供するため,8月25日にイギリス・ソ連によ
る
イラン進
駐
が始まりました。
すでにアメリカ合衆国
は
武器貸与
法
(1941.3)によってイギリス,ソ連などの連合国への武器・物資の提供が可能となっており,中立国とは言い難い状態です。アメリカは,イラン=ルート(いわゆる「ペルシア回廊」)を通し
て
ソ
連
を支援するとともにペルシア湾岸の油田を押さえることで,ドイツを"挟み撃ち"にしようとしたのです。
1941年9月〈レザー=シャー〉はイギリスとソ連の圧力に屈して息子に譲位し,南アフリカに亡命。イギリス軍とソ連軍がテヘランを占領する中,
〈
モハンマ
ド=
レザ
ー=
シャ
ー
〉(1941~1979)が第2代シャー(皇帝)に即位しました。
イランは1943年9月に連合国に加わりドイツに宣戦布告,11月にはテヘラン会談でアメリカの〈フランクリン=ルーズベルト〉大統領,イギリスの〈チャーチル〉首相,ソ連の〈スターリン〉書記長の"ビッグスリー"が初めて同席し,イランの独立を確認しました。しかし大戦が終わっても,国内の石油利権はしぶとく狙われ続けます。
イギリスの委任統治領となっていた
③
イラ
ク
は,1932年に〈ファイサル1世〉(かつてのヒジャーズ王国の〈フセイン〉の3男)が即位し
,
イラク王
国
として完全独立を果たしました
【本試験H19第二次世界大戦後ではない】
。
一方,現
⑪
ヨルダ
ン
の
トランスヨルダ
ン
は,1946年までイギリスの委任統治が続きました。
フランスの委任統治領となっていた
⑮
シリ
ア
では1936年に自治権が承認されましたが,委任統治は1946年まで続きます。
一方,同じくフランスの委任統治領となっていた
⑭
レバノ
ン
は1941年に独立宣言を出し,1943年
に
レバノン共和
国
として完全独立しました。
アラビア半島では,1924年にハーシム家の当主
〈
フサイ
ン
〉からメッカを奪っていたイブン=サウード家の〈アブドゥルアズィーズ〉が
,
ヒジャーズ地方を併
合
。1932年には国名を「サウード家のアラビア」を意味す
る
サウジアラビ
ア
に改称します
【本試験H16時期(第二次世界大戦後ではない)・地域】
【H27京都[2]】
。
イエメ
ン
北部は1918年にイエメン王国として独立しています。イエメン南部
の
アデ
ン
地方は,インド洋交易の基地として重要視され,1937年にイギリスの直轄植民地となっていました。
⑬
パレスチ
ナ
には,ユダヤ人の入植が続いており,1929年の「嘆きの壁事件」など,先住のパレスチナ人(イスラーム教徒だけとは限らず,キリスト教徒・ユダヤ教徒もいる)との衝突が発生するようになっています
【東京H12[2]受け入れ制限の理由を説明する問題】
。1939年にイギリスは,パレスチナに受け入れるユダヤ人の数を制限しました。
・
192
9
年
~
194
5
年のアジア 西アジア
現⑯
キプロス
キプロス島はイギリスに併合され,第二次世界大戦中はイギリス海軍の要塞となっています。
・
192
9
年
~
194
5
年のアジア 西アジア 現⑰トルコ
共和人民党による一党独裁体制つづく
トルコでは〈
ケマル=アタテュルク
〉(1881~1938)が中心となり、世俗的な国家がつくられていきました。その6原則は、共和制、トルコ国民国家(トルコ人の国づくり)、人民主権、国家主導経済、政教分離、社会改革です(この世界観をケマリズムと呼び、1937年の憲法改正・共和人民党綱領に盛り込まれました)
(注1)
。
1920年代には反帝国主義・民族解放運動的な性格を持っていた国づくりは、1930年代になるとトルコ言語・文化純化運動と国家主義の強化に向かいます。
実際に建国後の23年間は共和人民党の一党独裁体制。〈アタテュルク〉による「複数政党制はトルコにとってはまだ早い」という判断からでした。
個人崇拝はあったものの、〈スターリン〉のような血の粛清はなく、〈ヒトラー〉や〈ムッソリーニ〉のように終身独裁者にはなりませんでした
(注2)
。
なお、1935年には
アヤ=ソフィア
(元、ハギア=ソフィア)が世俗の博物館にされています。
〈アタテュルク〉は1938年に死去。
その後軍部と官僚は、第二次世界大戦中も国家主導の体制を支持し続けました。
(注1) 大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』「ケマリズム」の項目、岩波書店、2002年、p.357。
(注2) 山内昌之は、この〈アタテュルク〉のあり方を「トルコを最短距離で西欧型の議会制民主主義にたどりつかせる権威主義支配の特異な実験」と表現しています。大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』「ケマリズム」の項目、岩波書店、2002年、p.357。
・
192
9
年
~
194
5
年のアジア 西アジア
現⑱
ジョージ
ア(
グルジ
ア),⑲
アルメニア
,⑳
アゼルバイジャン
なお,第二次世界大戦中には,クルド人の居住地域とテュルク系の居住地域で独立運動が起き,それぞれアゼルバイジャン国民政府とコルデスターン共和国が樹立されましたが,戦後に崩壊しています。
カフカース山脈の南の3国は
,
ザカフカー
ス=
ソヴィエト社会主義共和
国
としてまとめてソ連の構成国となっていました。
この時期のアルメニアでは合成ゴムなどの化学工業,繊維工業が発展し,都市化が進展しました。
コルホーズ(集団農場)も徐々に拡大され,1930年初めには全世帯数の30%にのぼりました。しかし,社会主義化に対する反発もおき,1936~38年には反対派を「人民の敵」とみなして追放・処刑する
「
大粛
清
」のターゲットとなります。
1936年にはザカフカース社会主義共和国連邦は解体され,もとの⑰ジョージア(グルジア
)
=ソヴィエト社会主義共和国,⑱アルメニア=ソヴィエト社会主義共和国,⑲アゼルバイジャン社会主義共和国に戻されています。
○192
9
年
~
194
5
年のアフリカ 東アフリカ
東アフリ
カ
...
①
エリトリア
,②
ジブチ
,③
エチオピア
,④
ソマリア
,⑤
ケニア
,⑥
タンザニア
,⑦
ブルンジ
,⑧
ルワンダ
,⑨
ウガンダ
・
192
9
年
~
194
5
年のアフリカ 東アフリカ
現①
エリトリア
イタリア領
エリトリアは1885年以降,イタリアの植民地となっていました。しかし第二次世界大戦中,1941年にイギリスにより解放され,軍政下に置かれます。
・
192
9
年
~
194
5
年のアフリカ 東アフリカ 現②ジブチ
フランス領
ジブチは1896年以降,「フランス領ソマリ」としたフランスの植民地となっていました。
・
192
9
年
~
194
5
年のアフリカ 東アフリカ
現③
エチオピア
独立を維
持→
イタリア領
エチオピアでは〈タファリ〉が摂政として女帝を補佐する形で実権を掌握し,1930年に
〈
ハイ
レ=
セラシエ1
世
〉(位1930~74)として皇帝に即位し,以後長期間にわたりエチオピア帝国に君臨しました。1931年には大日本帝国憲法(1889年)をモデルとしたエチオピア史上初の憲法を制定しました。
しかし,1935年にはファシスト党政権〈ムッソリーニ〉
【追H27】
率いるイタリア王国が再度エチオピアに軍事的に進出
(
第二次エチオピア戦
争
)
【共通一次 平1:時期を問う(日独伊防共協定の締結・ドイツの国際連盟脱退との順番)】
【追H27】
【H30共通テスト試行 移動方向を問う(ヨーロッパから北アフリカへの移動か問う)】
。毒ガスを使用したイタリア軍を前に〈ハイレ=セラシエ1世〉はイギリスのロンドンに亡命し,1936年に首都アディスアベバも陥落しました。こうして1941年までの間,エチオピアはイタリア領となりましたが,1941年にイギリス軍により解放されると,〈ハイレ=セラシエ1世〉は帰国を果たしました。
・
192
9
年
~
194
5
年のアフリカ 東アフリカ
現④
ソマリア
イギリス領
ソマリア北部は1886年にイギリスによ
り
イギリス領ソマリラン
ド
として植民地化されています。
イタリア領
ソマリア南部は1908年にイタリア
が
イタリア領ソマリラン
ド
として植民地化しました。
第二次世界大戦中にはイタリアがソマリランドの全域を一時占領しましたが,イギリスにより再占領されました。
ソマリアには多数の氏族が割拠する状況で,統一した抵抗運動はみられませんでした。
・
192
9
年
~
194
5
年のアフリカ 東アフリカ
現⑤
ケニア
イギリス領
ケニアはイギリスの植民地
(
イギリス領東アフリ
カ
)となっていましたが,キクユ人を中心に独立に向けた動きも始まります。1942年には,のちの初代大統領
〈
ケニヤッ
タ
〉(1897?~1978)のケニア=アフリカ同盟の母体となる組織が成立しました。
〈ケニヤッタ〉はモスクワとロンドンに学び,第二次世界大戦中にはイギリスで生活していました。カリブ海のトリニダード=トバゴ出身の〈ジョージ=パドモア〉(1902~59)の影響を受け,パン=アフリカ主義の思想を固め,1945年10月にはイギリスのマンチェスターで第五
回
パ
ン=
アフリカ会
議
を開催しています。
・
192
9
年
~
194
5
年のアフリカ 東アフリカ
現⑥
タンザニア
イギリス領
タンザニアの大陸
部
タンガニー
カ
は,イギリスによる委任統治下にありました。
ザンジバル島
の
ザンジバル王
国
は,イギリスにより保護国化されていました。
・
192
9
年
~
194
5
年のアフリカ 東アフリカ 現⑦ブルンジ
,⑧
ルワンダ
,⑨
ウガンダ
イギリス領
ウガン
ダ
は1894年以降イギリスの保護領となっていました
(
ウガンダ保護
領
)。
ベルギー領
ドイツ領東アフリカの地域のうち,タンガニーカはイギリスの委任統治領として分離され,現在
の
ルワン
ダ
と
ブルン
ジ
の地域
は
ベルギ
ー
の委任統治領となっていました(ルアンダ=ウルンディ,1924~1945)。
ベルギーの統治下では,従来は区別の曖昧であった「フツ」と「ツチ」という住民グループを,「人種」的な概念を利用して明確に区分されます。多数派のフツ人は,ツチ人のルワンダ国王の支配下に置かれ,両者の間には従来みられなかったような対立意識が形作られていきました。
○192
9
年
~
194
5
年のアフリカ 南アフリカ
南アフリ
カ
...
①
モザンビーク
,②
スワジランド
,③
レソト
,④
南アフリカ共和国
,⑤
ナミビア
,⑥
ザンビア
,⑦
マラウイ
,⑧
ジンバブエ
,⑨
ボツワナ
・
192
9
年
~
194
5
年のアフリカ 南アフリカ
現①
モザンビーク
ポルトガル領
モザンビー
ク
は1942年にポルトガルの直轄地となります。
・
192
9
年
~
194
5
年のアフリカ 南アフリカ
現②
スワジランド
イギリス領
スワジ王国は,1902年以降イギリス高等弁務官領となっています。
・
192
9
年
~
194
5
年のアフリカ 南アフリカ
現③
レソト
イギリス領
ソト人の王国は,1868年以降イギリスの保護領(1871~1884は植民地。イギリス領バストランド)となっています。
・
192
9
年
~
194
5
年のアフリカ
現④
南アフリカ
,⑤
ナミビア
南アフリカ連邦はイギリスの自治
領(
ドミニオ
ン
)
世界恐慌後の1931年
に
ウェストミンスター憲
章
が採択されました。これは1926年と1930年のイギリス帝国会議における決議を定めた法律で,世界各地にある白人が支配するイギリス帝国の植民地の地位を
,
イギリス国王への忠
誠
と引き換えにイギリスとおおむね対等な主体とするものでした。これにより「自治領」には,従来のようにイギリスの法がそのまま適用されるのではなく,独自の立法権や外交権を持つことができるようになりました。
こうしてイギリスは,本国
と
植民
地
とのタテの関係を持つ従来の
「
帝
国
」構造に加え,王冠への忠誠の下で本国と対等な地位とされ
た
自治
領
(
ドミニオ
ン
)とのヨコの関係を持つ
「
ブリティッシ
ュ=
コモンウェル
ス
」(British Commonwealth of Nations) という2つの構造を持つこととなっていきます。
こうして
,
南アフリカ連
邦
もイギリスとは別個の主権国家として認められるようになり,第二次世界大戦でも連合国として参戦しています。
ナミビアは南アフリカ連邦による委任統治
ナミビ
ア
では,南アフリカ連邦による委任統治が続けられています。
・
192
9
年
~
194
5
年のアフリカ 南アフリカ 現⑥ザンビア
,⑦
マラウイ
,⑧
ジンバブエ
イギリス領
現ザンビ
ア→
北ローデシア,現シンバブ
エ→
南ローデシア,現マラウ
イ→
ニヤサランド
北ローデシ
ア
(現在のザンビア)は1924年にイギリスの保護領に
,
南ローデシ
ア
(現在のジンバブエ)は,1923年に白人による住民投票でイギリスの自治植民地となっていました。
ニヤサラン
ド
(現在のマラウイ)は,いずれもイギリスの保護領として支配されていました。
北ローデシア
は
銅
の採掘で経済が発展します。
のちにマラウイの初代大統領になる〈バンダ〉は,1938年にスコットランドのエジンバラで診療所を開業し,彼のロンドンの家には後のケニア初代大統領〈ケニヤッタ〉も訪れていました。1943年にはマラウィでニヤサランド=アフリカ会議(NAC)が結成され,独立運動が目指されます。
・
192
9
年
~
194
5
年のアフリカ 南アフリカ 現⑨ボツワナ
イギリス領
この時期には,ボツワナのバントゥー語系民族のツワナ人の意見をまとめる機関が設けられました。第二次世界大戦にはツワナ人の多くも海外で兵として戦い,その中で民族意識が高まっていきました。
○192
9
年
~
194
5
年のアフリカ 中央アフリカ
中央アフリカ...現在の
①
チャ
ド
,
②
中央アフリ
カ
,
③
コンゴ民主共和
国
,
④
アンゴ
ラ
,
⑤
コンゴ共和
国
,
⑥
ガボ
ン
,
⑦
サント
メ=
プリンシ
ペ
,
⑧
赤道ギニ
ア
,
⑨
カメルーン
◆
現在のコンゴ共和国,中央アフリカ共和国,ガボンは,フランス領赤道アフリカとして支配された
・
ガボ
ン
植民地
→現・⑥ガボン共和国
・
中央コン
ゴ
植民地
→現・⑤コンゴ共和国
・
ウバン
ギ=
シャ
リ
植民地
→現・②中央アフリカ共和国
・
チャ
ド
植民地
→現・①チャド共和国
これらの地域
は
フランス領赤道アフリ
カ
としてフランスに支配されています。首都は中央コンゴ植民地のブラザヴィルに置かれていました。
現在のコンゴ民主共和国は,
③
ベルギー領コン
ゴ
として植民地化されています。
現在の
⑦
サント
メ=
プリンシ
ペ
はポルトガルの植民地,
⑧
赤道ギニ
ア
はスペインの植民地です。
現在の
⑨
カメルー
ン
は,ドイツ植民地を引継ぎ,1922年にフランス(約9割の面積)とイギリスの国際連盟の委任統治領となっていました。
④
アンゴ
ラ
ではポルトガルが,住民を酷使したダイヤモンド鉱山やコーヒー・綿花などのプランテーションが行われました。ポルトガルからのアンゴラ移民も増加しています。
○192
9
年
~
194
5
年のアフリカ 西アフリカ
西アフリカ...
①
ニジェー
ル
,
②
ナイジェリ
ア
,
③
ベナ
ン
,
④
トー
ゴ
,
⑤
ガー
ナ
,
⑥
コートジボワー
ル
,
⑦
リベリ
ア
,
⑧
シエラレオ
ネ
,
⑨
ギニ
ア
,
⑩
ギニアビサ
ウ
,
⑪
セネガ
ル
,
⑫
ガンビ
ア
,
⑬
モーリタニ
ア
,
⑭
マ
リ
,
⑮
ブルキナファ
ソ
※○の中の数字は下記文中の記号と対応しています
現在の
①
ニジェール共和
国
,
③
ベナ
ン
,
⑥
コートジボワー
ル
,
⑪
セネガル共和
国
,
⑬
モーリタニ
ア
,
⑭
マリ共和
国
,
⑮
ブルキナファ
ソ
は
,
フラン
ス
の植民地支配を受けていました。
②
ナイジェリ
ア
,
⑫
ガンビ
ア
はイギリス領でした。
黄金海岸(現在の
⑤
ガー
ナ
)はイギリス領(イギリス領ゴールドコースト)でした。
⑧
シエラレオ
ネ
はイギリス領でした。
④
トー
ゴ
は旧ドイツ領で,西部はイギリス,東部はフランスの委任統治領となりました。西部のイギリス側はイギリス領ゴールドコースト(現在のガーナ)に併合されています。
⑩
ギニアビサ
ウ
はポルトガル領でした。
アメリカ合衆国の黒人保護グループの支援により独立していた
⑦
リベリア共和
国
では,依然としてアメリカ系黒人が中央政府を主導していました。アメリカ系黒人が,先住民を天然ゴムのプランテーションなどで酷使していたことが明るみに出ると,国際社会はこれを非難,国際連盟の調査を受けて大統領は辞任しました。
第二次世界大戦で連合国側に立ったリベリアでは,1944年に当選して以降,アメリカ系黒人の〈ダブマン〉(任1944~71)が27年間にわたって大統領を務めます。彼は,アメリカ系黒人と先住の諸民族間の融和に努め,外資を導入してリベリアの開発を推進していきました。
⑪
セネガ
ル
の都市部の住民には1872年に市民権が与えられ,フランス本国と同等の立場となっていました。「市民」として扱われた者はフランスへの留学の切符をつかむ者もあり,パリでの世界各地の黒人との出会いを通じて,黒人らしさを積極的に打ち出し西欧の文明に対抗する
"
ネグリチュー
ド
"という思想運動を発展させていくことになります。この中にはカリブ海のマルティニーク島出身の〈エメ=セゼール〉(1913~2008『帰郷ノート 植民地主義論』(1939)の中で初めて"ネグリチュード"という言葉を編み出します)と交流し,1960年に独立するセネガル共和国の初代大統領となる〈サンゴール〉(1906~2001)の姿もありました。
・
192
9
年
~
194
5
年のアフリカ 北アフリカ 現⑥アルジェリア
フランス領
アルジェリ
ア
はフランスの支配下に置かれています。
・
192
9
年
~
194
5
年のアフリカ 北アフリカ 現⑦チュニジア
フサイン朝
の
チュニジ
ア
は1881年の占領以後,フサイン朝のベイの地位が保障される形で保護領となっています。
・
192
9
年
~
194
5
年のアフリカ 北アフリカ
⑧
リビア
リビ
ア
はイタリアによる植民地支配を受けていましたが,南部のフェザーンと東部のキレナイカではサヌーシー教団の指導者〈オマール=ムフタール〉(1858~1931)による抵抗運動が起きていました(1931年に処刑)。また西部のトリポリタニアでもベルベル人による抵抗運動が起きました。
イタリアはこれらを鎮圧しますが,第二次世界大戦ではリビアは連合国のイギリスとの間の激戦地となりました。イタリアの降伏後,リビアはイギリスとフランスが共同で統治しました。
◆
世界恐慌の影響がヨーロッパに広がると社会主義とファシズムの政党が台頭した
社会主義とファシズムの政党が台頭する
世界恐慌の影響を受けたヨーロッパでは
,
社会主
義
と
ファシズ
ム
の政党が台頭します。
ドイ
ツ
への世界恐慌の影響は,アメリカ合衆国に次いで深刻で,1932年の失業者は30%超(600万人!)であり,これはアメリカの最悪の失業率25%を超えています。この事態に,ヴァイマル憲法で定められ
た
大統領緊急
令
により,少数派による内閣が組織され,政治に国民の多数派の声が通らなくなっていきます。
「この一大事に,社会民主党や従来の保守的な政党は何もしてくれない」という思いを抱く国民が増え
,
共産
党
と,
〈
ヒトラ
ー
〉
【立命館H30記】
を指導者とす
る
ナチ
党
(
国民社会主義ドイツ労働者
党
【立命館H30記】【慶文H30記】
)
【本試験H14ソ連と再保障条約は結んでいない】
(注)
の支持率が上がっていきました。ナチ党は1932年の総選挙で第一党となり,共産党をおそれる人々の支持を得て,1933年1月に内閣を組織します。さらに,2月に
は
国会議事堂放火事
件
【立命館H30記】
を
共産
党
【立命館H30記】
の陰謀として弾圧を開始,3月に
は
全権委任
法
【東京H12[2]】
【追H9〈ローズヴェルト〉大統領の制定ではない】【追H21「ナチスの一党独裁」の結果「全権委任法」が成立したわけではない。逆】
【立命館H30記】
によって政府に立法権を与えました。政府が立法権を得るということは,三権分立の否定です。
こうして
,
一党独
裁
【立命館H30記】
体制を形成し,34年に
〈
ヒンデンブル
ク
〉大統領
【東京H12[2]】
【本試験H14】
(1847~1934)が亡くなると大統領を兼務し
,
総
統
(そうとう,フューラー)
【本試験H14】
という名の国家元首となりました。
こうした日本・イタリア・ドイツの行為に対して,アメリカ合衆国
は
中立
法
(交戦国への武器輸出・借款の禁止)が制定されていたために,有効な対策をとることができないでいました。
(注)ナチスの訳語は、かつて定着していた「国
家
社会主義ドイツ労働者党」から「国
民
社会主義ドイツ労働者党」という正確なものに変わってきています。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.232。
●192
9
年
~
194
5
年のヨーロッパ
◆
〈ヒトラー〉は人種・民族・文化の「画一化」を進める一方,非政治的な手段で労働者の支持を得た
〈
ヒトラ
ー
〉の思想は強い人種主義に基づいており,その実現のためには暴力的な手段も辞さないものでした。 "優秀"な「ドイツ人種」以外の「人種」(ユダヤ人
や
ロ
マ
(ジプシー))
(注
)
,さらに「ドイツ人種」の中でも"劣等"である障害者(身体障害者や知的障害者)を迫害し,各地につくられた強制収容所送りにしました。1933年3月には初の強制収容所がミュンヘン郊外のダハウ(ダッハウ)に作られました。同年4月にはユダヤ人から官職を奪い,1935年にはニュルンベルク法によりユダヤ人から市民権を剥奪し,ドイツ人との結婚を禁止しました。1938年11月にはユダヤ商店や寺院(シナゴーグ)の大規模な破壊運動も起きています(この事件は散らばったガラスの破片のイメージから"水晶の夜"と呼ばれています)。
〈ヒトラー〉政権は,ドイツ表現主義の絵画・映画・音楽や抽象絵画,黒人音楽(ジャズ),女性の社会進出,同性愛といったヴァイマル共和国時代に流行ったものを「ドイツ的ではない」「ユダヤ的」なものとレッテル貼りし,悪影響を除去して「正常化」させようとしていきました。
(注)ロマは北インドをルーツとする民族で,伝統的に移住生活を行ってきました(ヨーロッパでは「ジプシー」と偏見をもって総称されることが多いですが,その中には多数の民族が含まれています)。現在のヨーロッパでもロマの権利が十分に保障されている状況とはいえず,彼らに対する迫害の事実には明るみに出ていない部分が数多く残されています。
反対意見を抹殺するために,秘密警察(ゲシュタポ)
【本試験H6イタリアの秘密警察ではない】
【立命館H30記】
,親衛隊(SS),突撃隊(SA)が組織され,政府の大衆宣伝によって国民の文化が徹底的にコントロールされました。当初は国民を大会やパレードに動員することが試みられましたが,次第に国民の意識が政治から遠ざかると,娯楽や余暇の提供や生活水準の向上によって支持を取り付けるようになっていきました。
例えば,戦車も通れる速度無制限の自動車専用道
路
アウトバー
ン
【東京H20[3]】
【本試験H14,H29共通テスト試行 アメリカ合衆国の道路ではない】
な
ど
四カ年計
画
による大規模な公共事業
【本試験H14】
によって,失業率を下げようとし,1937年頃には完全雇用をほぼ達成しました。また,レクリエーション施設の建設や社会保障も充実させていきます。自動車や海外旅行,観劇やスポーツ(テニス,スキー)などは資本家階級のものというイメージが強かったのですが,ナチスは労働者階級にも歓喜力行団(喜びを通じて力を。ドイツ労働戦線の部局)を通して労働者にこうした余暇・娯楽を提供することに努めました。 しかし,ドイツ内部でも抵抗の動きはあり,例えばドイツのプロテスタント教会は,
〈
バル
ト
〉(1886~1968)が中心となり,ナチスに反対する告白教会を設立しています。
(注)山本秀行『ナチズムの時代』山川出版社,1998年,pp.52-62。
●192
9
年
~
194
5
年のヨーロッパ
◆
ソ連は社会民主主義政党にも反ファシズムの連帯を呼びかけ,ドイツを封じ込めようとするも失敗
ヨーロッパ諸国が世界恐慌の影響を受けていたころ,〈スターリン〉独裁化のソ連で
は
第二次五カ年計
画
(1933~37)
【本試験H14時期(1936年憲法制定後の開始ではない),本試験H29時期】
が実行に移されていました
【本試験H9グラフ読み取り(ソ連・ドイツ・イギリス・アメリカの工業生産額の合計に占める各国の比率の推移をみて,ソ連が世界恐慌の影響を受けていないこと等をもとに判別する)】
。はじめは日用品などの軽工業の発展が目指されましたが,ヨーロッパでファシズムが台頭すると,軍事部門の比重が高まります。そんな中1935年,ソ連
の
コミンテル
ン
は
「
社会民主主
義
とも協力し
て
ファシズ
ム
【本試験H14ワシントン体制ではない】
を倒そう!」とい
う
人民戦線戦
術
を各国の共産党や,共産党以外の左派勢力
【本試験H14労働組合ではない】
に訴えはじめました。
共産主
義
は,〈レーニン〉や〈スターリン〉の考えでは,革命によってま
ず
社会主
義
を実現し,そしてその先に待っている階級のない理想社会
(
共産主
義
)を実現しようとする考えや運動です。
一方
,
社会民主主
義
は,議会を通して合法的に社会主義を実現しようとする考えや運動のことです。
両方とも
「
社会主
義
」と呼ばれることもありますし,資本主義諸国はソ連の体制を指して
「
共産主
義
」と呼んだので,使う人によって対象範囲が変わることもあるので注意が必要です。
共産主義と社会民主主義の間には考え方に溝がありました。共産主義にとって社会民主主義は,資本家とつるむ"弱腰"で"優柔不断"なやつらに映ったのです。
しかし,世界恐慌以降ファシズムがヨーロッパで拡大している以上,「そうした違いにこだわっているヒマはない」「左派の勢力がみんなで結集すれば,ファシズムに立ち向かえるのだから,各国
で
反ファシズム統一戦
線
をつくるべきだ」と呼びかけるに至ったわけです。
ヨーロッパでこの呼びかけに応じた事例が2例あります。
フラン
ス
では社会党の
〈
ブル
ム
〉
【本試験H5,本試験H10マッツィーニとのひっかけ】
を首相として,左派の政党が結集し
た
人民戦線内
閣
【本試験H5,本試験H10】
が誕生。しかし1年で崩壊します。
●192
9
年
~
194
5
年のヨーロッパ
◆
スペインではファシズム諸国とソ連の支援を受けた2勢力による代理戦
争(
スペイン内
戦)
が勃発
問題なの
は
スペイ
ン
です。
人民戦線政府が発足したものの,大地主や教会や軍部といった保守的な勢力は軍人の
〈
フラン
コ
〉将軍(1892~1975)
【共通一次 平1:人民戦線を指導したわけではない】
を頼りにモロッコで反乱を起こしたのです。両者の戦闘(
スペイン内戦
【追H25時期を問う】
)はスペイン全土に波及し,無関係なドイツとイタリアがフランコ将軍を支持したため,内戦は泥沼化。〈ロバート=キャパ〉(1913~54)といった報道カメラマンも現地の様子を克明に記録し,世界に配信しました。
そんな中,ドイツがスペイン北
部
バスク
人
地域(ビスカヤ県)におある小さな
町
ゲルニ
カ
【本試験H4】
【本試験H14フランスではない,H31第二次世界大戦終結前か問う(正しい)】
を空襲して多くの犠牲者を出しました。新兵器の"実験"だったといわれていますが、バスクの自治の象徴とみなされていた「ゲルニカの楢(なら)の木」は爆撃によって焼かれることなく残っています。
キュビスム(立体派)の画家
〈
ピカ
ソ
〉
(1881~1973)
【
本試
験H
4
,
本試
験
H1
1
】
【本試験H14】
は
「
ゲルニ
カ
」
【本試験H4,本試験H11】
【本試験H14】
という絵に,反戦のメッセージを込めました。〈フランコ〉
【追H21】
の支援を機に接近したドイツ
【追H21】
とイタリア
【追H21】
は,1936年10月
に
ベルリ
ン
【本試験H13ミュンヘンではない】
=
ローマ枢
軸
という協力関係を形成しています。
スペイン内戦には,国際的
な
義勇
軍
【共通一次 平1】
【本試験H26】
とソ連が,ファシズムに反対し
【共通一次 平1】
人民戦線側に立って参戦します。国際義勇軍には,ノーベル文学賞をとったアメリカの小説家
〈
ヘミングウェ
ー
〉
(1899~1961)
【本試験H26『アンクル=トムの小屋』の作者ではない】
や〈アンドレ
=
マルロ
ー
〉も参加しました。これに対し,イギリスとフランス
【本試験H26】
は介入することなく静観(不干渉政策
【共通一次 平1:積極的に人民戦線を支援したわけではない】
【本試験H23ドイツとイタリアではない,H26】
【追H18】
)。
アメリカ合衆国
【共通一次 平1:中立の立場をとったのは「ソ連」ではない】
も,孤立主義的な世論を背景
に
中立
法
(交戦国への武器輸出・借款の禁止)が制定されていたので,スペイン内戦に対して有効な対策はとれませんでした。
結局1939年に保守派の〈フランコ〉が勝ち
【本試験H23時期,H30人民戦線政府は勝利していない】
,なんと1975年まで独裁政治が続きます。なお,スペイン内戦6か月前に
,
超現実
派
(シュルレアリスム)のスペイン人画家
〈
ダ
リ
〉(1904~1989)が「内乱の予感」(茹でた隠元豆のある柔らかい構造)を描きました。ポルトガルも同様に,33年から独裁政治が始まりました。
スペイ
ン
は,第二次世界大戦に
は
中立
国
という立場を取りましたが,実際には枢軸国側を支援していました
。
ポルトガ
ル
も
中
立
を維持しました
【本試験H27ソ連に占領されていない】
。
●192
9
年
~
194
5
年のヨーロッパ
◆
ドイツ,イタリア,日本を中心にイギリス,フランスを中心とする帝国世界が暴力的に否定されていった
1935年前後から,ドイツによるヴェルサイユ体制の破壊と,日本によるワシントン体制の破壊が進行していきます。
まず日本の関東軍が,1931年に
イタリアの〈ムッソリーニ〉政権は,1935年
に
エチオピア帝
国
【東京H19[3]】
に
進
出
し翌年に36年
に
併
合
しました
【本試験H14,本試験H18ドイツではない,本試験H22】
。エチオピアは住民の抵抗を抑え込むために無差別爆撃を実施し,毒ガスも使用するなど暴力的な手段がとられました。
これに対し,国際連盟は経済封鎖しましたが,英仏は併合を承認してしまいます。37年に国際連盟を脱退したイタリアは,同年,日本とドイツ
と
日独伊防共協
定
【共通一次 平1:イタリアのエチオピア侵略,ドイツの国際連盟脱退との時系列】
【本試験H4時期(第二次世界大戦勃発に先立って締結されたか問う)】
を締結します(すでに日本とドイツは1936年に日独防共協定
【追H21日独防共協定の締結後に国際連盟を脱退したわけではない。その逆】
を結んでいました)。
「防共」(共産主義,つまりソ連の拡大を防ぐ)という名目にしておけば,英仏やアメリカといった資本主義国も,文句は言うまいという作戦です。これにより,日独伊
の
三国枢
軸
が完成したわけです。
33年に首相に就任していたヒトラーは,同
年
国際連盟を脱
退
します
【共通一次 平1:イタリアのエチオピア侵略,防共協定の締結との時系列を問う】【本試験H9時期(1930年代)】
【本試験H13時期(1930年代)】
【追H18】
。35年
に
ザー
ル
を住民投票
【本試験H13時期(1930年代)】
によって併合したことは,ヴェルサイユ条約にのっとった行為でしたが,35年3月には条約に違反し
て
再軍
備
【本試験H3】
【立命館H30記
】
を宣
言
し
,
徴兵制を復
活
【セA H30ナチ党が復活したか問う】
しました。
また,イギリス,フランス,イタリアの3か国は,35年4月イタリアの保養地ストレーザに集まり,ドイツの再軍備を抗議する声明を発表しました。この3カ国の連携
を
ストレーザ戦
線
といいます。
ドイツと接するフランスも警戒を強め,35年5月,有効期限5年
の
仏ソ相互援助条
約
を結び,ドイツの拡大を阻止しようとします。ちなみにこの前年の34年9月には,フランスの外交努力もあり,ソ連の国際連盟加入が実現していました。
しかし,こうしたドイツ包囲網は,長くは続きませんでした。
35年6月にイギリスは,なんとドイツの再軍備を承認してしまうのです。なぜか。資本主義国イギリスにとって,社会主義国ソ連が西へと拡大してくるほうが,ヒトラーのドイツよりも警戒すべきことだったのです。ドイツが軍備を増強して,ソ連に立ち向かう力をつけていてくれたほうが良いと考えたイギリス政府は,35年6月
に
英独海軍協
定
【追H21】
によって,ドイツにイギリスの35%の海軍の保有を認めたのです。
ドイツはさらに,フランスがソ連と仏ソ相互援助条約を結んだのは,ヨーロッパの平和を確保しようとするロカルノ条約の精神にそむくものだとして,36年3月にロカルノ条約
【追H26ローザンヌ条約ではない】
を破棄し,非武装地帯とされ
た
ラインラントに軍を進
駐
させてしまいます
【追H26ローザンヌ条約を破棄したのではない】
【本試験H13時期(1930年代)】
【立命館H30記】
。こうしてヴェルサイユ体制は有名無実のものとなったのです。
●192
9
年
~
194
5
年のヨーロッパ
◆
資本主義国との協調関係をとっていたソ連はドイツとの提携に方針転換し,ヨーロッパにおける戦争が始まる
社会主義のソ連と,ファシズムのドイツが提携する
ヨーロッパ情勢が緊迫化するなか,1936年にソ連の憲法(いわゆる「スターリン憲法」)
【本試験H14】
を制定していた〈スターリン〉は,1937年から38年にかけて〈ブハーリン〉ら反対派に対す
る
大粛
清
(
大テロ
ル
)
【本試験H10〈フルシチョフ〉の指揮下ではない。時期は1930年代なので正しい】
を始めました
【本試験H14「大規模な粛清をおこなった」かを問う】
。反対派を大量に逮捕し,ソ連における非ロシア人を始めとする157万人が枢軸国のスパイの罪状などで逮捕され,68万人が銃殺されたといいます。強制収容所では,シベリア地域の労働力として働かされました。
1938年にはドイツは同じドイツ人の国家で,ヴェルサイユ条約で合併が禁止されてい
た
オーストリアを併
合
します
【本試験H6イタリアは占領していない】
【本試験H27ソ連による併合ではない】
。このときウィーンのドイツ系市民の多くはドイツ軍の進攻をたいまつ行列で歓迎。その様子に刺激され、のちにノーベル文学賞を受けるユダヤ系〈エリアス=カネッティ〉(1905~1994)が『群衆と権力』を著しました
(注)
。
つづいて,チェコスロヴァキア
【セA H30ルーマニアではない】
の西
部
ズデーテン地
方
(ドイツ人が多く居住)
【東京H19[3]】
【共通一次 平1】
【本試験H5】
【本試験H13ポーランドの地方ではない】
【追H18】
を割譲要求します。チェコスロヴァキアは拒否しますが
,
この会議に呼ばれなかった
【共通一次 平1】
ソ連の〈スターリン〉は,「自分が呼ばれなかったのは,やはり英仏がドイツに力をつけさせて,ソ連を攻撃させようとしているに違いない」とみて,英仏への不信をつのらせていくことになります。
ドイツの拡大は止まらず,39年3月にチェコを占領(ベーメン地方,メーレン地方は保護領)し,スロヴァキアを保護国としました
(
チェコスロヴァキア解
体
【共通一次 平1】
【本試験H27】
)。このとき
に
スロヴァキ
ア
はスロヴァキア共和国(独立スロヴァキア,1939~1945)とされチェコと分離されましたが,大戦後にはドイツの"傀儡国家"とみなされ,敗戦国として処理されることはありませんでした
(存在しなかったことになりました)
。
一方チェコは消滅したので,パリ(のちロンドン)に〈ベネシュ〉を中心にチェコスロヴァキア亡命政府が樹立されました。〈ベネシュ〉(チェコスロヴァキア外相1918~35,首相21~22,大統領35~38,45~48)はソ連により解放されたスロバキア(1944年解放)とチェコ(1945年解放)に舞い戻り,亡命政府の帰国を宣言しましたが,次第にソ連の肝いりの共産党に押されていくことになります。
また,39年3月に
は
リトアニ
ア
の
メーメ
ル
(ドイツ人が多かった)を併合し,ポーランドに対し
て
ダンツィ
ヒ
港
【本試験H13ドイツはポーランドに割譲していない】
【追H20地図問題】
と,東プロイセンへの陸上交通路を要求します。ヴェルサイユ条約では,独立したポーランドに,海への出口
(
ポーランド回
廊
)が確保されていて,それによりドイツは東プロイセンへが飛び地となっていました(回廊列車は運行されていました)。ポーランド攻撃に備え,ドイツとイタリアは1939年8月に独伊軍事同盟を結び,ベルリン=ローマ枢軸(1936)を発展させました。
すでにソ連の英仏に対する不信は高まっており,ドイツとの外交的接触を模索。それが第二次世界大戦の始まる直前に結ばれた1939年8月
の
独ソ不可侵条
約
につながります
【本試験H20第二次大戦後ではない,H29共通テスト試行 風刺画(「(ドイツとソ連の)ハネムーンはいつまで続くのか」)・時期】
【立命館H30記】
。なんと,ファシズムと共産主義が提携してしまうという,予想だにしていなかった展開です。
慌てたイギリスとフランスは
,
ポーランドと相互援助条
約
を締結しますが,9月1日
に
ドイ
ツ
,保護国化していたスロヴァキア,それ
に
ソ
連
は
ポーランドに侵
攻
【共通一次 平1:時期(独ソ不可侵条約から独ソ開戦までの間に起きたか)】
【本試験H22ポーランドがドイツに侵攻したわけではない】
。
そして,9月3日に英仏がドイツに宣戦し,すでにアジアで進行していた戦争に並行してヨーロッパでも戦争が始まりました
【本試験H4イギリス,フランス,ソ連は,大戦が勃発するとすぐに同盟関係を結んだわけではない】
。
9月3日には,イギリス国王〈ジョージ6世〉(位1936~52)が言語療法士とともに
当初はドイツと英仏との間に大きな戦闘はなく(それゆえ"奇妙な戦争"と呼ばれました),アジアの戦争とヨーロッパの戦争は直接結びついてはいませんでした。1940年4月以降,ドイツは本格的な戦闘を開始し,ヨーロッパの広い範囲がドイツ支配下となりました。1940年6月にはパリが陥落して北部はドイツの占領下となり,フランス南部には親ドイツの傀儡政権
(
ヴィシー政
府
【東京H12[2]】
)が樹立されました。〈ヒトラー〉の快進撃をみたイタリアは1940年6月に参戦。9月に
は
日独伊三国同
盟
が締結されましたが,この時点でもアジアの戦争とヨーロッパの戦争の結びつきははっきりとはしていません。
重要な転換点は,1941年6月
に
独ソ
戦
の開始です
【本試験H4「日本は独ソ戦が始まると,シベリアに攻め込んだ」のではない(日ソ中立条約を想起する)】
。
ドイツがバルカン半島に軍事進出
【本試験H6】
したことも,ソ連との亀裂をうみました。
日本は〈ヒトラー〉のソ連方面への征服欲を過小評価しており,1941年4月に
は
日ソ中立条
約
【追H20 時期(1950年代ではない)】
を締結していました。
しかしドイツがソ連との戦闘を開始すると1941年7月に関東軍特種演習と称してソ連との戦争の準備を始めました。結局ソ連との戦争は回避する方向に方針が動き,1941年のマレー半島上陸・真珠湾攻撃をもってアメリカ合衆国との戦争が開始されました。今まで正式に連合国に属さないままで支援をしていたアメリカ合衆国は,いよいよアジアのみならず太平洋における戦争に参入し,同時にヨーロッパにおける戦争にも加わることになりました。こうして名実ともに地球規模の
「
第二次世界大
戦
」の構図が完成されたのです。
(注)鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.301。
●192
9
年
~
194
5
年のヨーロッパ
◆
「ファシズム諸国」も「反ファシズム諸国」も国内外で暴力的な手段を無制限に発達させていく
海の戦争から,空の戦争へ
1941年
の
大西洋憲
章
【東京H17[1]指定語句】
【本試験H9「平和機構の設立方針」が示されていたか問うが,消去法で解答可】
【追H20】
では,ドイツ・イタリア・日本などとの戦いは「世界征服をのぞんでいるに野蛮で残酷な力との共通の戦い」と意味付けられ
,
ファシズム諸国に対する反ファシズム諸国の戦
争
という色彩が共有されていきました。
しかし,両者ともに1870年以降の世界に形成されていった帝国による世界各地の諸民族の支配を明確に否定することはなく,むしろ帝国が建設される中でエスカレートしていった暴力的な手段が,さらにむき出しになっていきます。
例えば,参戦国の使用し
た
戦略爆
撃
や
毒ガ
ス
,さらにはアメリカ合衆国の投下し
た
原子爆
弾
といっ
た
無差別大量殺り
く
を可能とする兵器。ドイツにおけるに絶滅収容所を筆頭に,各地に設けられた捕虜収容所における壮絶な実態などです。
「ファシズム諸国」の指導者はこうした暴力的な手段に訴えて,イギリスやフランスを中心に組み上げられた世界規模の植民地体制を再編しようと考えていました。日本は大東亜共同宣言によって「大東亜共栄圏」
(注
)
の建設が目指され,独立指導者らによる理念の上での賛同は得られましたが,少なくとも日本占領下における実態としては南方占領地行政実施要領にあるように民族主義を抑圧し資源の獲得が重視され,戦況が悪化するにつれて住民の抵抗を生みました。ドイツにおける「人種主義」も極めて強いもので,"劣等"民族とされたユダヤ人やスラヴ人,ロマ(ジプシー)の捕虜や一般市民は容赦なく殺害されていきました。一方,「反ファシズム諸国」において
る
も,ソ連が1940年4~5月にポーランド将校15000人を大量虐殺した事実も明らかになっていますし(カティンの森事件),原子爆弾の投下により日本の広島・長崎の住民が無差別に虐殺されました。
(注)アジアとの連帯
(
大アジア主
義
)により"ヨーロッパ中心の世界史"を転換しようとする試みには,明治時代以降様々な潮流がありました。当時の日本の思想家の中にも,京都学派の哲学者〈西谷啓治〉(1900~1990)のように,近代ヨーロッパ文化を克服し,新たな世界史を切り開く道筋を立てようとする動きがありました(1942年の「近代の超克」シンポジウム)。
なお,独ソ不可侵条約
の
秘密議定
書
には,ナチス・ドイツ
が
リトアニ
ア
,
ラトビ
ア
,
エストニ
ア
のバルト三国
と
フィンラン
ド
をソ連の支配下と認める文言が入っていました。1940年にはソ連の圧力により,北か
ら
エストニ
ア=
ソヴィエト社会主義共和
国
【本試験H22】
,
ラトビ
ア=
ソヴィエト社会主義共和
国
,
リトアニ
ア=
ソヴィエト社会主義共和
国
が成立し,ソ連の構成国となりました。事実上
の
バルト三国の併
合
です
【共通一次 平1:時期を問う(独ソ不可侵条約の締結から独ソ開戦までの間か)】
【本試験H5第二次世界大戦勃発後にポーランドに併合されたわけではない】
【本試験H15ソ連の結成に加わったわけではない,本試験H20・H24】
。
○192
9
年
~
194
5
年のヨーロッパ バルカン半島
【本試験H5 第二次世界大戦前におけるバルカン半島の宗教分布をみて,カトリック,プロテスタント,ギリシア正教,イスラム教の分布を判別する】
バルカン半
島
...現在の①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア
・
192
9
年
~
194
5
年のヨーロッパ バルカン半島
現①
ルーマニア
バルカン半島東北部
の
ルーマニ
ア
では〈カロル2世〉(位1930~40)の下で,権威主義的な支配を進めました。それに対し,ファシズムの思想を持つ「鉄騎団」という組織が支持を集めますが,1938年に鉄騎団を含む全政党が禁止され,指導者も殺害されました。
〈カロル2世〉は枢軸国側に接近しましたが,これによりルーマニアはベッサラビアとブコヴィナをソ連に,ハンガリーにトランシルヴァニアの北部を,ブルガリアに南ドブロジャ(ドブルジャ)を割譲することになります。〈カロル〉への批判は強まり,彼に代わった〈ミハイ1世〉(位1927~30,1940~47)の下で軍人の〈アントネスク〉首相が日独伊三国同盟に加盟し,国民投票により「国家指導者」に就任して独裁を行いました。こうしてルーマニア
は
枢軸
国
【本試験H6】
となります。
彼の治世では,ルーマニア国内のロマ(いわゆるジプシー)やユダヤ教徒が,強制収容所に送られ殺害されています。
大戦末期には〈ミハイ1世〉がクーデタを起こして連合国側に立つことを宣言しましたが,最終的
に
ソ連の占
領
を受けることになりました。
・
192
9
年
~
194
5
年のヨーロッパ バルカン半島
現②
ブルガリア
バルカン半島南東部
の
ブルガリ
ア
では,左派や支配下にあったマケドニア人組織によるテロが起き,不安定な情勢が続いていました。そんな中,軍部では危機を解決するために権威主義的な政府を樹立しようと1934年にクーデタを起こし,軍人の〈ゲオルギエフ〉政権(在任34~35,44~46)の成立を国王〈ボリス3世〉(位1918~43)に認めさせました。
しかし翌1935年に国王は〈ゲオルギエフ〉を追放し国王独裁をしき,ドイツやイタリアに接近。
第二次世界大戦に際して
は
枢軸
国
側
【本試験H6】
で参戦し,ギリシャ王国とユーゴスラヴィア王国の一部を支配しました。
しかし1944年にソ連の攻撃を受けて降伏し,敗戦国となります。
この間1943年には国王は幼少の〈シメオン2世〉(位1943~46)に交替しています。
・
192
9
年
~
194
5
年のヨーロッパ バルカン半島 現③マケドニア
現在のマケドニアにあたる地域は、1910年代の2度のバルカン戦争によって、ギリシャ王国、ブルガリア王国、セルビアに分割され、第一次世界大戦後にセルブ=クロアート=スロヴェーン王国(1929年よりユーゴスラビア王国)の一部となっています。
・
192
9
年
~
194
5
年のヨーロッパ バルカン半島
現④
ギリシア
バルカン半島南部
の
ギリシ
ア
では,1935年に国王〈ゲオルギオス2世〉(位1922~24,35~47)が復位し,翌36年には陸軍大臣の〈メタクサス〉(位1936~41)を首相に任命し,独裁を承認しました。〈メタクサス〉は国王の権威を背景にファシズム的な政策を実施します。第二次世界大戦の開戦当初は中立の立場をとりましたが,1940年に〈ムッソリーニ〉のイタリアが提携を求めると,親英派の〈ゲオルギオス2世〉とともに拒否したため,イタリアの宣戦布告を受けました。
連合国側に立ったギリシアは1941年にドイツによる侵攻を受け,国王や首相
は
クレタ
島
に避難しました。その後クレタ島も戦場となった(1941年5~6月
の
クレタ島の戦
い
)ので,さらに政府はエジプトのカイロに避難することになります。
しかし,共産党系のパルチザンや共和派,王党派の抵抗運動によって1944年後半には枢軸国の勢力が押し出されました。
しかし,次なる問題は大戦後のギリシアの政権をどの勢力が担うか,という問題です。
共産党系の組織が政権を握れば,事実上ソ連の南下に等しいとみなしたイギリス首相〈チャーチル〉はいわゆる
「
パーセンテージ協
定
」により,バルカン半島へのロシアの南下阻止に乗り出します。1944年10月にはイギリス首相〈チャーチル〉からソ連の〈スターリン〉に向けて送られた
,
「(
ソ連
は)
ルーマニア
の
9
0
%を支配,我
々(
イギリ
ス)
はギリシャ
を
90
%
支配。ユーゴスラビアは半々でどうか?
」
という書簡における手書きの取り決めのことです。こうして戦後のギリシャにおける共産党勢力の締め出しが始まっていくのです。
・
192
9
年
~
194
5
年のヨーロッパ バルカン半島
現⑤
アルバニア
バルカン戦争西南部
の
アルバニ
ア
では1928年以降〈ゾグ1世〉による強権的な王政が続いていました。彼はイタリアの影響力を薄めようとしましたが,〈ムッソリーニ〉は1939年にアルバニアに軍隊を進めてティラナを陥落させ,〈ゾグ〉はギリシアに亡命して復活をうかがいます。イタリア王〈ヴィットーリオ=エマヌエーレ〉(イタリア国王位1900~46,アルバニア王位39~43)が国王を兼任することになりました。
・
192
9
年
~
194
5
年のヨーロッパ バルカン半島
現③
マケドニア
,⑥
コソヴォ
,⑦
モンテネグロ
,⑧
セルビア
,⑨
ボスニ
ア=
ヘルツェゴヴィナ
,⑩
クロアチア
,⑪
スロヴェニア
バルカン半島中央
部
セルビア
人=
クロアチア
人=
スロヴェニア人王
国
では,国王〈アレクサンダル1世〉が政治の混乱を解決するために,憲法停止・議会解散・政党禁止・国王独裁に転換し,地域間の対立をなくすため州を機械的に設定・再編し「ユーゴスラヴィア人」意識を高め中央集権的な国家とするため,
「
ユーゴスラヴィア王
国
」と改称しました。これには当然反発も生まれ,1931年には新憲法を発布し二院制の議会も設置されました。しかし世界恐慌のあおりも受け,経済は混乱。国王独裁に対抗する勢力としては農民党のほか,1932年にクロアチア独立を目指して設立されたウスタシャという組織が有力でした。1934年に〈アレクサンダル1世〉は外遊中に暗殺され,幼年の息子〈ペータル2世〉(位1934~45)が継ぎ1941年まで摂政が補佐する体制となりました。第二次世界大戦が始まると〈ペータル2世〉はイギリスの支援を背景にドイツ・イタリア・日本の枢軸国との同盟に反対し,1941年に枢軸国との同盟を主張する摂政を追放し親政を開始。それに続きドイツは1941年4月からユーゴスラヴィアへの侵攻を開始しユーゴスラヴィアを分割して,クロアチア人の傀儡政権(クロアチア独立国。ウスタシャが中心)を建てました
(傀儡政権とみなされたため,戦後は敗戦国として処理はされませんでした)
。
ユーゴスラヴィ
ア
【追H21スイスではない】
では,セルビア人中心の解放をめざすチェトニクや,〈ヨシップ=ブロズ〉
(
ティト
ー
,1892~1980)
【追H21、H28】
を中心とする社会主義的な革
命
パルチザ
ン
【追H21、H28】
が抵抗運動を進め,枢軸国を押し出すことに成功しましたが,この中でチェトニクによるイスラーム教徒やクロアチア人に対する虐殺事件も起きています。
ユーゴスラヴィアの一部であ
る
モンテネグ
ロ
は,イタリアとドイツの侵攻を受けイタリアの支配下となり,イタリア王〈ヴィットーリオ=エマヌエーレ〉(位1941~43)がモンテネグロ王を兼ねました。パルチザンによる抵抗により1944年には枢軸軍が撤退し,ユーゴスラヴィアに復帰しました。
○192
9
年
~
194
5
年のヨーロッパ イベリア半島
イベリア半
島
...現在①スペイン,②ポルトガル
・1929年~1945年のヨーロッパ イベリア半島 現①スペイン
スペイ
ン
では,独裁政権を樹立していた〈プリモ=デ=リベーラ〉が1930年に辞任し,後任の〈ベレンゲール〉将軍が王政を維持しようとしましたが,共和政を推す民衆のデモに押されて国王〈アルフォンソ13世〉は退位し
,
第二共和
政
が樹立されました。
しかし,新政権は貧困層を重視し,左派の運動も急進化。カトリック教会との関係も悪化して政治が混乱するなか,経済界や保守的な勢力は王政やカトリック支持にまわり始めます。1933年には〈プリモ=デ=リベーラ〉の息子がファシスト政党
の
ファランヘ
党
を立ち上げています(翌34年に国民サンディカリスト攻撃会議と合同し,左派に対抗。のちに〈フランコ〉将軍が党首となり政権をとります)。
そんな中,1931年~33年に首相を努めた〈アサーニャ〉(1880~1940)は,1936年に人民戦線が勝利すると大統領に就任します。それに対抗した
〈
フラン
コ
〉将軍(1892~1975)との間に,1936~39年の間
,
スペイン内
戦
【共通一次 平1】
が勃発。〈フランコ〉将軍はスペイン領であったモロッコでクーデタを起こし,のちに政府首班・最高司令官に就任しました。
第二共和政は地方分権的な政策を取っていたこともあり、カタルーニャとバスク地方は、人民戦線の共和国側に立って戦います。
バスク地方はバスク民族主義党の下、1936年に自治政府を樹立していました。しかし、1937年4月に小都
市
ゲルニ
カ
が〈フランコ〉を支援したドイツによる空爆を受け、中心都市のビルバオも6月に〈フランコ〉に占領されました。その後、自治政府は亡命政府を樹立し、国外に拠点を移すことになります(のち1959年にバスク民族主義党から分離した急進派が「バスク祖国と自由」(ETA)です)。
彼は内戦の終結後に実権を握り,1937年にはファランヘ党以外の政党が禁止されて全体主義的な独裁政権を樹立しました。〈フランコ〉はドイツの〈ヒトラー〉と提携して枢軸側に立ちますが,第二次世界大戦では中立を守りましたが,枢軸国寄りの姿勢は戦後,国際社会の批判を浴びることになります。
・1929年~1945年のヨーロッパ イベリア半島 現②ポルトガル
ポルトガ
ル
では軍事政権が樹立され混乱していましたが,政権に招かれた財政学教授の
〈
サラザー
ル
〉(1889~1970)が財政政策で成功を収めて台頭し,1932年に首相に就任しました。1933年には強力な行政権を規定する憲法が公布され,権威主義的な「エスタード=ノヴォ」(新体制)が発足しました。この体制ではイタリアのファシズムの影響を受けつつも,これとは距離を置き,労働者が雇用者と協調する組合主義(コルポラティヴィズム)が採用されました。これは,教会や農業を含む国内の様々な組合が,名目的
に立法府に参加する仕組みです。〈サラザール〉は1936年には外相・陸海軍相も兼任し,独裁体制を確立。
しかし,1936年にスペインで内戦が勃発すると,〈サラザール〉は〈フランコ〉を支持します(1938年に〈フランコ〉の政府を承認,1939年に相互不可侵条約を締結)。第二次世界大戦にあたっては,ポルトガルとスペインはそろって中立を宣言しますが,当初は枢軸国,のちに連合国に接近することで独立を保ちました。
○192
9
年
~
194
5
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
西ヨーロッ
パ
...①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
・
192
9
年
~
194
5
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ 現①イタリア
イタリア国王の信任を得て実権を握っていた独裁者〈ムッソリーニ〉(1883~1945)は、ドイツと同盟を結び第二次世界大戦を戦います。
当初「英仏」vs「独伊」の戦争であった対戦は、フランスの占領(1940.6.22)と独ソ戦(1941.6.22)日米開戦(1941.12.8)を経て「米英ソ」(連合国)vs「日独伊」(枢軸国)という構図に変化していました。
イタリアの〈ムッソリーニ〉は、「スラブ人の壊滅」と「ドイツ人の生存圏の獲得」を思想的なこだわりとしていた〈ヒトラー〉の独ソ戦に協力して派兵しますが、
スターリングラードの攻防戦
(1941.6.28~1943.2.2)での壊滅的な被害を受け、イタリア軍は撤退。
同時期には北アフリカ戦線でもドイツ・イタリア両軍はイギリス(とオーストラリア・ニュージーランド・インド帝国・南アフリカ連邦)にエジプトの
エル=アラメインの戦い
(第一次1942.7、第二次.10~11)で決定的な敗北を喫していました。1942年11月には
アメリカ合衆国
の加わった連合軍がモロッコとアルジェリアに上陸(トーチ作戦)、さらに国内都市の空爆も激しくなり、国民の間の厭戦気分(えんせんきぶん)も強まります。さらに連合国はシチリア島に上陸(1943.7.10~8.17)。
それでも〈ムッソリーニ〉は単独講和を含めた休戦を決断しなかったため、戦争責任を追及されることを恐れた国王(サヴォイア家)や軍部「休戦派」によるクーデタ計画も持ち上がっていました。苦境を認識していた〈ムッソリーニ〉は、最高諮問機関のファシズム大評議会に参加し、そこで採択された「首相退任要求決議」(グランディ決議)を受け入れます。これを受け〈ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世〉は7月25日〈ムッソリーニ〉を首相から解任し、逮捕。〈ムッソリーニ〉が首班として指名した元・陸軍元帥の〈バドリオ〉(1871~1956)に身柄を引き渡しました。
しかし、〈バドリオ〉と連合国との休戦交渉はまとまらず、9月8日に連合国軍はイタリア政府の休戦とイタリア軍の無条件降伏を公表してイタリア南部に上陸。
国民の間には、〈ムッソリーニ〉に反対し王政の廃止と共和政を掲げるグループの動き(パルチザン)も活発化。
イタリアが戦線から離脱するのではないかと恐れたドイツの〈ヒトラー〉は、〈ムッソリーニ〉の救出計画を指示します。1943年9月に救出された〈ムッソリーニ〉は、9月18日に共和ファシスト党を立ち上げドイツの後ろ盾の下で王政を廃止した「イタリア社会
共和国
」としてローマ以北のイタリア半島を拠点に延命を図りました。事実上のイタリア内戦(1943~1945年)です。
最終的に〈ムッソリーニ〉は1945年にパルチザンによって愛人〈クララ=ペタッチ〉とともに逮捕され,直後の裁判の結果、銃殺されました。
・
192
9
年
~
194
5
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ 現②サンマリノ
この頃のサンマリノはサンマリノ=ファシスト党(PFS)が統治し、イタリアのファシスト党との友好関係を保っていました。
一方で、第二次世界大戦には参戦せず中立政策をとります。
〈ムッソリーニ〉の逮捕後にサンマリノ=ファシスト党は解散しますが、連合国の攻撃を受けるなど混乱が続きます。
・
192
9
年
~
194
5
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ 現③ヴァチカン市国
1929年2月に教皇〈ピウス11世〉(位1929~1939)の全権代理〈ガスパッリ〉枢機卿は、イタリア王国の〈ムッソリーニ〉と間に「ヴァチカン市国」の独立を認める3つの条約(
ラテラノ
〔ラテラン〕
条約
)を結びました。
教皇庁にとっては、広大な教皇領の返還をあきらめることを意味していましたが、イタリアがローマ教皇庁の独立を認めないという状況(「ヴァチカンの囚人」)は、これで解消されます。
ローマ教皇庁は〈ムッソリーニ〉のファシスト党には批判的な姿勢をとっていましたが、ドイツのカトリック政党であるドイツ中央党の党首〈パーペン〉(1879~1969)が、1933年のナチ党の政権獲得時において副首相となったとき、〈ピウス11世〉はその反共産主義に共感してナチ党を承認するコンコルダート(政教条約)を結んでいます。しかし、その後のナチ党はカトリック教徒の弾圧を強めていきます。
ナチ党とのコンコルダート(ライヒスコンコルダートといいます)の締結を主導したのは、枢機卿時代の次代教皇〈ピウス12世〉(位1939~1958)でした。〈ピウス12世〉は第二次世界大戦中にあって中立を保ったことには、戦後になって批判もあります。
・
192
9
年
~
194
5
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現④
マルタ
この頃の,マルタ島はイギリス帝国の一部です。
マルタ島はイタリア半島とアフリカ大陸の間に位置し,第二次世界大戦においてはイタリアやドイツと北アフリカとの連絡を断つ上で重要な役割を演じます。
マルタ島にはイギリスの地中海艦隊が置かれ,そのためイタリアやドイツの空襲も受けました。マルタは1940~42年の第二次マルタ攻囲戦を耐え,結果的にイギリスは地中海の制海権を守り抜くことができました(艦隊本部は空襲を避け,1937年にエジプトのアレクサンドリアに移転しています)。
・
192
9
年
~
194
5
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ 現⑤モナコ
この次代のモナコ公は〈ルイ2世〉(位1922~1949)です。
モナコを文化都市にするために尽力し、1929年には第一回モナコ=グランプリ(自動車レース)が開催されています。
第二次世界大戦中は中立を保ちますが、国民の多くはイタリア系であったため、1943年にイタリア軍がモナコを占領するとファシスト政権が成立します。
しかしイタリアで〈ムッソリーニ〉政権が倒れると、代わってナチ=ドイツの国防軍に占領されました。
・
192
9
年
~
194
5
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ 現⑥アンドラ
アンドラはスペイン内戦(1936~1939年)において中立を維持。
第二次世界大戦(1939~1945年)においても中立を維持します。
・
192
9
年
~
194
5
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現⑦
フランス
人民戦線結成の呼びかけに対しフランスでは1935年には5月にソ連
と
仏ソ相互援助条
約
が結ばれドイツの東西からの"挟み撃ち"が企図され,1935年7月に社会党,急進社会党,共産党によって人民戦線が結成されました。
1936年には選挙で人民戦線が勝利し,社会党の
〈
ブル
ム
〉首相(1872~1950)を中心とす
る
人民戦線内
閣
【本試験H3成立の背景に,ナチスの政権成立への衝撃があるか問う】
が成立しました。人民戦線とは,ソ連が「世界中の反ファシズム勢力が結集して,ファシズムに対抗しよう!」と結成を呼びかけた組織です。右翼組織を解散させるなどの政策を実施しましたが,その後にスペイン内戦への対応をめぐる分裂で,1938年には解体されました。
作家たちも立ち上がりました。〈ベートーヴェン〉をモデルにしたといわれる『ジャン=クリストフ』(1904~12)を著したフランスの
〈
ロマ
ン=
ロラ
ン
〉(1866~1944)
【本試験H16ドイツの古典主義ではない】
,『ブッデンブローク家の人々』(1901)・『魔の山』(1924)で知られるドイツの
〈
トーマ
ス=
マ
ン
〉(1875~1955)
【本試験H16フランスの写実主義ではない】
,『車輪の下』(1906)で知られるドイツの
〈
ヘルマ
ン=
ヘッ
セ
〉(1877~1962)らは,作品を通して,いずれもヨーロッパ文明の問題点を描き出し,ファシズムに反対しました。
1930年には,北ヨーロッパのデンマーク,スウェーデン,ノルウェーに,ベネルクス三国(ベルギー,オランダ,ルクセンブルク)を合わせたオスロ=グループ(のち1932年にフィンランドも準加盟)が,世界恐慌に対して小国どうし政治面・経済面で連携するために結成されました。
・
192
9
年
~
194
5
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現⑧
アイルランド
,⑨
イギリス
◆
〈マクドナルド〉挙国一致内閣は緊縮財政とブロック経済政策により,恐慌を切り抜けようとした
金本位制を停止し,ポン
ド=
ブロックを形成する
イギリスで
は
第二
次
〈
マクドナル
ド
〉
内
閣
が組織されましたが,失業保険の削減問題をめぐり労働党と対立しました
【本試験H21労働組合を合法化したのは1871年の労働組合法】
。そこで〈マクドナルド〉は保守党にバックアップされ
て
挙国一致内
閣
【共通一次 平1】【本試験H9時期1930年代か】
【本試験H29】
を組織しました。このように,国内の諸政党が一丸となって「国家のために」危機にあたる状況は,各国で見られるようになっていきます。1931年には
,
金本位制を停
止
しました
【本試験H22復帰ではない,H29】
。
1932年にカナダ
の
オタ
ワ
でひらかれ
た
連邦会
議
【共通一次 平1】
【本試験H
6
自
由
貿易体制の堅持を確立していない】
【本試験H31「イギリス連邦経済会議(オタワ連邦会議)」。ダンバートン=オークス会議とのひっかけ】
では,イギリス連邦以外に高い関税を課す保護貿易的
な
スターリン
グ=
ブロッ
ク
(ポンド=ブロック)
【共通一次 平1】
【本試験H5時期(17世紀後半~19世紀前半)の海外貿易とは無関係】
【本試験H31経済ブロックの形成を推進したか問う】
が成立しました。ブロック経済
【共通一次 平1】
の典型例です。
その後,1935年には保守党の内閣が成立し,ドイツに頑張ってもらうことによって,ソ連の西ヨーロッパへの進出を食い止めようという期待から,ドイツの対外進出に対して"甘い"政策をとるようになります。こ
の
宥
和
(ゆうわ
)
政
策
が,のちにナチ党のヒトラーの対外進出を招いたと,よく批判されます。
◆
フランスもブロック経済政策をすすめる一方,ソ連の人民戦線の影響も受けることに
フランスも世界恐慌への対応策として,イギリスと同様
に
フラ
ン=
ブロッ
ク
【追H27 1930年代であることを問う】
【本試験H22】
を形成するようになりました。第一次世界大戦の記憶も新しかった当時,不況の最中(さなか),ドイツで〈ヒトラー〉ら極右勢力が成長するのに危機感を感じる人々は左翼勢力の結集を模索していました。
そんな中,ソ連では1935年のコミンテルン第七回大会で「人民戦線」の結成が呼びかけられます。もともとソ連は1920年代には議会を通じた社会改革をめざ
す
社会民主主
義
の政党のことを「資本家にすり寄り
,
ファシズ
ム
と手を結ぶ勢力」として敵視す
る
社会ファシズム
論
が主流で,社会改革を目指そうとする左翼勢力の中でも比較的穏健な社会民主主義の政党とは距離をとっていました。しかし,急激なファシズム勢力の成長を前に,「ファシズムに反対する勢力は"この指とまれ"」という戦略へと転換されたわけです
(注
)
。
(注)なおソ連は1934年に国際連盟に加盟し,「反ファシズム」の名目で資本主義諸国への接近も始めています
(
ソ連の国際連盟への加
盟
)。しかしこの時期以降のソ連はかつてのロシア帝国のように領域内の民族運動を抑圧し対外膨張を進める帝国主義的な野心を強めていくようになっていきます。
イギリスでは〈ジョージ5世〉の時代に,
〈
マクドナル
ド
〉(位1929~1935)が世界恐慌に対する対処を実施。次に〈ボールドウィン〉(位1935~1937)が首相となります。
国王が〈ジョージ6世〉に代わると,
〈
ネヴィ
ル=
チェンバレ
ン
〉(位1937~1940)首相
【東京H19[3]】
【共通一次 平1:チャーチルではない】
【追H30労働党内閣ではない】
が
1940年7月~1941年5月の間,ロンドンを含むイギリスへの空爆が起こります(バトル=オブ=ブリテン)。その被害は,のちのドイツのドレスデン空爆や東京大空襲に比べると軽微です。
国民の動員が進むとイギリスは中央集権化も進み,従来のように自助努力や慈善活動などを中心とした福祉から,国民から統一的な福祉政策への転換を求める声が高まっていきました。そこで労働党の影響を受けた自由党の〈ベヴァレッジ〉が「すべての人を対象にした」「均一給付・均一拠出」を基本とする「社会保障のナショナル=ミニマム」を掲げた
「
ベヴァレッジ報
告
」を提言。
これに対し保守党は非現実的であるとして反対しますが,1945年に第二次世界大戦のヨーロッパ戦線が終了すると戦時連立内閣は役目を終え,〈チャーチル〉首相による暫定内閣が発足しました。しかし,福祉国家政策に反対した保守党は7月26日の選挙で労働党に敗れ,労働党の
〈
アトリ
ー
〉(1945~1951)政権が発足しました。こうして,大戦を耐え抜いた〈チャーチル〉内閣は退陣することになったのです。
・
192
9
年
~
194
5
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現⑩
ベルギー
〈アルベール1世〉(位1909~34)が趣味の登山で遭難死すると,次の〈レオポルド3世〉(位1934~51)のとき,ロカルノ条約(1925)やフランスとの軍事協定(1920)を破棄し,ベルギー
は
永世中立
国
を再び宣言しました(1936)。ほどなくしてベルギーはまたしてもドイツの侵攻を受け,〈レオポルド3世〉は政府の意向に反してドイツに降伏しました。
・
192
9
年
~
194
5
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ 現⑪オランダ
第二次世界大戦では中立を宣言したものの、第一次世界大戦と同様にドイツによって1940年5月に突如占領されました。イギリスの女王〈ウィルヘルミナ〉(位1890~1948)はロンドンに亡命政府を樹立します。
1941年の日米開戦にあたっては日本に宣戦を布告しましたが、オランダ領東インドは日本軍によって占領されました。
ドイツの降伏後、女王はオランダに帰還します。
・
192
9
年
~
194
5
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ 現⑫ルクセンブルク
ルクセンブルクは非武装中立でしたが、1940年5月にドイツ軍が攻撃を開始したため〈シャルロット〉大公(位1919~1964)と政府はスペイン・ポルトガル経由でカナダに亡命します。
大戦中にルクセンブルクはドイツ併合の危機にさらされますが、亡命政府の支援を受けたレジスタンス運動も活発化し、1944年9月にはアメリカ合衆国軍によって解放されました。
大戦中に同じく亡命政府を建てていたベルギーとオランダとの結びつきが強まったことは、のちにこの3国(ベネルクス3国)の政治・経済的な同盟の締結へとつながります。
○192
9
年
~
194
5
年のヨーロッパ 北ヨーロッパ
北ヨーロッ
パ
...現①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン
1930年代前半のスウェーデン,ノルウェー,デンマークは,1929年にアメリカ合衆国で始まった世界恐慌の影響を受け,高い失業率(スウェーデン30%,ノルウェー・デンマーク40%)を記録しました。農民たちによる運動は,都市の労働運動と対抗する形で盛り上がりました。
1930年代後半になると経済は回復をみせ,スウェーデン,ノルウェー,デンマークでは社会民主主義をとる政権(デンマークとスウェーデンは社会民主党,ノルウェーは労働党と農民党の連立)の下
で
福祉国
家
路線がとられていきました。保守派が政権を握っていたフィンランドでも1937年に社会民主党が政権に参加
し
福祉国
家
路線をとりました。
1930年代に入りヨーロッパ情勢が不穏な動きをみせる中,イギリスやフランスがドイツやイタリアに対し
て
宥和政
策
をとっていたことに対し,北欧では「国際連盟に加盟していても,安全保障は得られないのではないか」という見方も出てきます。スウェーデン,ノルウェー,デンマーク,フィンランドは四カ国で協力して中立の立場をとろうとしましたが,当時のソ連はドイツによる攻撃を北ヨーロッパ諸国とイギリス,フランスとの集団安全保障による協力で防ごうとしており,「中立」などソ連にとっては
特にソ連がもっとも死守したかったの
は
フィンラン
ド
です。もしドイツ軍にバルト海からフィンランドに上陸されたら,大変なことになるからです。
デンマー
ク
【本試験H6】
と
ノルウェ
ー
【本試験H6】
は1940年にドイツ
【本試験H6ソ連ではない】
の侵攻を受けましたが
,
レジスタン
ス
活動の結果ドイツ軍は押し出されました。
スウェーデ
ン
は「中立国」
【本試験H4「中立を維持した」か問うものだが,実態は下記の通り微妙である(他の選択肢にあるように,中国,ポーランド,オーストラリアは中立国ではない)】
の立場をとっていましたが,フィンランド=ソ連間に
「
冬戦
争
」(1939~40)
【共通一次 平1:時期を問う(独ソ不可侵条約の締結から独ソ開戦までの間か問う)】
が始まると,スウェーデンは「非交戦国」であると宣言して,スウェーデン人が義勇軍がフィンランド側に参戦するなど援助をしました。
1939年には挙国一致内閣が組織されます。ほかにもスウェーデンはドイツ占領下のノルウェーやデンマークに対する援助や,ドイツからフィンランドへのドイツ武装師団の通過を認めるなど,事実上枢軸国への支援をおこなっていました。しかし1942年冬以降,ドイツの戦況が悪化すると,連合国側の指示に従うようになります。スウェーデンは枢軸国と連合国の狭間にあって,現実的なバランス感覚を発揮していたのです。
第二次世界大戦の序盤にドイツとソ連は
,
独ソ不可侵条
約
の秘密協定によってポーランドを分割占領しました。ソ連は北方
の
フィンラン
ド
と戦争を開始し
【共通一次 平1:時期(独ソ不可侵条約の締結から独ソ開戦までの間か問う)】
,レニングラードよりも北の国境地帯(カレリア)をフィンランドから奪いました(第一次ソ連=フィンランド戦争(冬戦争),1939~40)。これが原因で
,
ソ
連
は1934年に加盟してい
た
国際連盟を除
名
されます。
1941年6月に独ソ戦が始まると,フィンランドは「冬戦争」で失った領土を回復するために第二次ソ連=フィンランド戦争(「継続戦争」)を起こしました。 "敵の敵は味方"の論理でドイツを頼り,ともにソ連と戦ったことが原因でフィンランドは第二次世界大戦の敗戦国となります。フィンランドは枢軸国の一員としてでなく,「あくまで「冬戦争」の延長戦をたたかっているんだ」という認識からフィンランドでは「継続」戦争と呼ばれます。
アイスラン
ド
は,1918年以降デンマークとの同君連合を形成していました。世界恐慌の影響で国内の失業や倒産は深刻化し,政権も短期間の交替が続きました。
1940年4月にドイツが本国デンマークとノルウェーを占領すると,イギリスは5月にアイスランドに事前通知した上でを占領。さらに1941年にはアメリカ軍が代わりに駐留を開始し,かえって経済が活性化しました。本国デンマークが占領されているすきに,1944年の国民投票で97%の賛成多数で連合の解消が宣言され
,
アイスランド共和
国
が成立しました。北極海を挟みアメリカとソ連の間に位置するアイスランドは,その後もアメリカによって戦略的に重要視されていくことになります。
この時期には,南極大陸をめぐってイギリス,ニュージーランド,フランスが対立しています。
大戦後は,英仏中心の帝国主義体制が動揺し,核保有国のアメリカ・ソ連が新たな国際秩序の主導権を争った。しかし,アジア,アフリカ諸国の脱植民地化の実現は,一部にとどまる。
時代のまとめ
(1)
英仏中心の植民地帝国が崩壊し,米ソ冷戦がはじまる
5,000万人とも8,000万人とも推定される死者数(1940年の世界人口は約23億人
[国連経済社会局資料による]
)をもたらした第二次世界大戦の終結は
,
イギリスを初めとする西ヨーロッパ諸国による国際政治・経済の覇権の終わ
り
と
,
アメリカ合衆国・ソ連の二大勢力を中心とした国際政治・経済体制の始ま
り
でもありました。
アメリカの
「
封じ込め政
策
」(ソ連の社会主義勢力を世界各地で政治的・経済的に排除する政策)によって結び付けられたアジアを太平洋をまたぐ広大な貿易圏には,やがてアメリカの自由貿易体制に参入した敗戦国の日本(1952年までアメリカの主権下)が積極的に進出していくことになります。
(2)
世界各地で民族運動が始まるが,旧宗主国や米ソの介入を受ける
世界各地の植民地では独立に向け
た
民族運
動
も始まっていきますが,アメリカ,ソ連の思惑もあり,両者が複数の独立勢力を支援しようとした地域では激しい内戦が勃発することになります。
1948年には国際連合総会で「人類の良心を踏みにじった野蛮行為」が再度おこなわれることのないよ
う
世界人権宣
言
【追H24時期を問う(日本の国際連合加盟とサンフランシスコ会議との時系列)】
が決議され,「すべての人間は,生れながらにして自由であり,かつ,尊厳と権利とについて平等である。人間は,理性と良心とを授けられており,互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」ということが確認されました。また,1951年には難民の地位に関する条約
(
難民条
約
)が採択されています
(ただし,1951年1月1日以降に発生した難民には適用されないという制約がありました⇒1953~1979の世界 1967年に難民の地位に関す
る
議定
書
が締結され,制約は撤廃。条約(1951)と議定書(1967)を合わせて
「
難民条
約
」といいます)
。
ただし,実際には帝国主義時代以来の植民地体制は依然として続いていましたし
,
核兵
器
を保有するに至ったアメリカ
【本試験H4最初に開発・使用したか問う】
,イギリス,ソ連
【本試験H4ソ連も製造したことを問う】
が,積極的に各地の紛争の解決にかかわり,みずからの支配圏を拡大させようとしていきました。
核兵器にはその圧倒的な破壊力から,核兵器の非保有国に対して戦争の開始をためらわせる力
(
抑止
力
)があるとみなされ,実際に使用されることはありませんでした。核兵器は,人類の生存をも脅かすその圧倒的な威力ゆえ,"核は使わないことが前提"ともいわれます。しかし,核兵器による
"
恐怖の均
衡
"と呼ばれる状況の下,核保有国どうしの軍拡競争は熾烈(しれつ)化していきました。一方,原子力の"平和利用"
【本試験H4】
も第二次世界大戦後
【本試験H4時期】
にはじまり
,
原子力発電
所
が建設されていきます。
また,長期にわたる第二次大戦中には,科学者が核開発などの軍事技術のために総動員されました
。
コンピュー
タ
(
電子計算
機
)の発明もその一つです。1946年には初の電子コンピュータのエニアック(ENIAC)がペンシルヴァニア大学の研究者によって開発されました。その後さらなる軽量化・小型化が目指されるとともに,半導体を使用した電子回路の部品の小型化が進んでいきます。電気の流れをコントロールするために用いられ
る
トランジスタ
ー
は1948年にアメリカで発明されています。
解説
第二次世界大戦は,イギリスの指導者に不信感を抱いたソ連の指導者〈スターリン〉が,ドイツの指導者と結んだこと
(
独ソ不可侵条
約
【追H18レーニンのときではない】
)によってはじまりました。
当初,アメリカ合衆国はヨーロッパでの戦いには関わろうとしませんでしたが,日本との戦争が始まると,日本の同盟国であるドイツやイタリアとも戦うことになり,ヨーロッパの戦争が,アジア・太平洋の戦争とつながることになります。しかし,のちに一転してソ連はドイツとの戦争を開始
(
独ソ
戦
)。
ソ連の指導者は,アメリカとイギリスに「ドイツを西側からも追い込んでほしい」と要請しましたが,米・英はなかなか応じようとしません。
イギリスの首相〈チャーチル〉は,ドイツ占領下のギリシアやユーゴスラヴィアを,先にソ連に解放されてしまったら,これらの国は助けてくれたソ連のいうことを聞くようになるだろう。ポーランド,チェコスロバキア,ハンガリーも同じだ,とにらんでいました。
一方,ソ連の指導者〈スターリン〉は,なかなか動こうとしないイギリスに対して,イギリスはやはりソ連をつぶそうとしているのではないか,ドイツとの戦いを長期化させ共倒れをねらっているのではないかと,疑念を抱くようになります。
他方,日本との戦いに苦戦していたアメリカ合衆国の指導者層は,ソ連
に
日ソ中立条
約
を破棄させ,日本を背後から攻めてもらおうと考えるようになります。
こうして米・英とソ連の利害は一致し,ついに米英はドイツを背後から攻撃するための作戦が着手されます。これ
が
ノルマンディー上陸作
戦
【本試験H6】
です。戦争末期といえども,ドイツ軍はしぶとく抵抗をつづけたため,米英主体の連合軍は,この作戦に多くの人員を裂きました。
この間,ソ連は着々と東ヨーロッパへの進出をすすめ,東ヨーロッパ諸国をつぎつぎに解放していきました
。
ポーラン
ド
,
ハンガリ
ー
,
チェコスロバキ
ア
,
ルーマニ
ア
【本試験H15ルーマニアはソ連から独立して成立したわけではない】
,
ブルガリア,ユーゴスラヴィア,アルバニ
ア
に対するソ連の勢力圏への取り込みは,戦後しばらくの間は緩やかなものでした。多大な犠牲を払ったソ連は復興を第一目標とし,イギリスとアメリカとの協調関係を保とうとしたからです。
これらの諸国では,共産党が他の政党と連立し,資本主義でも社会主義でもないいわゆ
る
人民民主主
義
的な連立政権が建てられました。しかし,ポーランド,ユーゴスラヴィア,アルバニアでは戦時中から共産党が実権を握っており,ブルガリアやルーマニアは当初は連立政権といえるにものでしたが急速に共産党が権力を掌握していきました。これらの国をソ連が勢力下におくことで,ドイツが万が一この先また進出行為を働いた場合,それをせき止めるための「防波堤」にすることができると,〈スターリン〉は考えたのです。
ポーラン
ド
におけるソ連の支配固めは早くにすすんでいました。1944年に,ソ連が後押しするかたちで,ポーランドに親ソ政権(ソ連の協力する政権。のちの共産党政権。ルブリンに置かれた)が成立していました。しかしドイツ軍の支配地として残されていたワルシャワには1944年7~8月にソ連軍が侵攻し,それに合わせてポーランド人が立ち上がりました
(
ワルシャワ蜂
起
)。この蜂起を呼びかけたポーランド亡命政府(ロンドンにありました)を米・英が支援していたことから,ソ連はポーランド人への支援を停止,代わりにドイツに鎮圧させてしまいました。ワルシャワの伝統的町並みのほとんどが,このときに失われ,死者15万人以上を出しました(寄り道# 映画『戦場のピアニスト』(2002ポ・英・仏・独)は,この蜂起が舞台となっています)。
米英が支援するロンドンのポーランド亡命政府がポーランド政府なのか,それとも,ソ連の支援するポーランド政府が本当の政府なのか。イギリスの指導者
〈
チャーチ
ル
〉と,ソ連の指導者
〈
スターリ
ン
〉との間で火花が散らされました。
そこ
で
ヤルタ会
談
において,アメリカ合衆国は総選挙の実施を提案。しかし,その後も対立は続いたため,1945年4月
の
国際連合憲
章
を採択するため
の
サンフランシスコ会
議
【本試験H4ジュネーヴ会議ではない】
【本試験H17パリ会議ではない】
【追H24時期を問う(日本の国際連合加盟、世界人権宣言との時系列)】
には,ポーランドのみ代表を送れないことになりました。
その後,ソ連はロンドンの亡命政府関係者を帰国後に逮捕し,ポーランドにはソ連の支援する政府のみが残りました。アメリカの〈トルーマン〉大統領は強く反発しますが,対立は決定的なものとなりました。ちなみにポーランドの国境は
,
オーデ
ル=
ナイセ
線
を新たに引いてポツダム宣言により従来よりも西側にずらされました。
国際連
合
は1945年10月に,本部をアメリカ合衆国のニューヨークに置き発足しました
【本試験H17発足は日本の降伏前ではない】
。アメリカ合衆国
【本試験H4】
,イギリス
【本試験H4】
,フランス
【本試験H4】
,ソ連
【本試験H4】
,中華民国
【H
4
カナ
ダ
ではない,本試験H9中華人民共和国ではない】
は五大国
【本試験H4】
として,安全保障理事会の常任理事国となり
,
拒否
権
を行使する権限を得ます。日本では「国際連合」と翻訳されたこの組織は,中国語では「連合国」つまりUnited Nationsを指します。ですから,連合軍の敵国であったドイツ,イタリア,日本などは引き続き「敵国」とされ,加盟することはできませんでした
【本試験H9「第二次世界大戦の敗戦国も,国際連合に当初から加盟した」わけではない】
。
ドイ
ツ
は
アメリ
カ
【本試験H14】
,
イギリ
ス
【本試験H14】
,
フラン
ス
【本試験H14オーストリアではない】
,
ソ
連
【本試験H14】
に分割占領
【本試験H14時期(第二次大戦後),本試験H24】
されました。首都ベルリンも,西ベルリンはアメリカ,イギリス,フランスの管理下。東ベルリンはソ連の管理下に置かれました。まだ「ベルリンの壁」はありません。
イタリ
ア
は〈バドリオ〉新政権が国民投票を実施し,王政が廃止され共和政になりました。占領軍は,アメリカ合衆国とイギリスが中心となっており,アメリカ合衆国寄りの外交が進められていきます
。
日
本
の占領政策でも,同様にアメリカ合衆国が主導権を握りました。
以上の情勢をつぶさに観察していたのは,すでに首相の座をおりていたイギリスの
〈
チャーチ
ル
〉
【H29共通テスト試行】
【追H30クレマンソーではない】
です。彼は1946年3月,アメリカ合衆国のフルトン大学で行われた講演で,ソ連が東ヨーロッパから南ヨーロッパにかけて,勢力圏をしだいに拡大させている可能性があるが,中で何が起こっているのかはわからない。まるでヨーロッパには,バルト海からアドリア海にかけて南北方向に降ろされた
「
鉄のカーテ
ン
」
【本試験H5】
【H29共通テスト試行】
【追H30】
があるようだ,と指摘しました。
ソ連の拡大を食い止めたかったものの,もはやイギリスにはその力はありません。同じ頃,ソ連の動きを分析した長文電報をモスクワから送っていた〈ジョージ=ケナン〉は,1947年にXという匿名を使って『フォーリン=アフェアーズ』という外交専門誌に「拡大しようとしているソ連を阻止する必要がある」と主張。これを信じた
〈
マーシャ
ル
〉国務長官(任1947~49)が〈ケナン〉を登用したことが,
〈
トルーマ
ン
〉
大統
領
の
「
封じ込め政
策
」(containment policy,1947.3)
【H29共通テスト試行 発表したのはソ連ではない】
の発表へとつながったのです。〈トルーマン〉は,「世界中でソ連の共産主義が拡大している。ただちに食い止める必要がある」と議会への特別教書演説で訴えました。こ
の
トルーマ
ン=
ドクトリ
ン
【本試験H7】
【本試験H27,H31時期(第二次世界大戦終結前ではない)】
【追H18】
は,従来の国際社会の対立軸を一変させるほどのインパクトを持っていました。
つまり,従来は,
アメリカ+イギリス+ソ連+中華民国+ドイツ占領下のフランス=
「
民主主
義
」
ドイツ+イタリア+日本=
「
ファシズ
ム
」
...という対立構図だったのが
,
トルーマ
ン=
ドクトリ
ン
以降は,
アメリカ+イギリス+中華民国+フランス=
「
自由で民主的な
国
」
ソ連=
「
不自由な独裁国
家
」...のように変化していったわけです。
1947年6月には,〈マーシャル〉国務長官がヨーロッパ諸国に経済援助をす
る
マーシャ
ル=
プラン
【東
京
H8[1
]
指定語句】【名古
屋
H30[4
]
指定語句
】
【本試験H14時期(第二次世界大戦後)】
【追H18】
を,ハーバード大学卒業式演説の場を借りて発表しました。その頃のイギリスは47年8月にインドの植民地を放棄し,アメリカ合衆国の指導者も「もうイギリスを頼ることはできない」と感じるようになっていました。
こうして,ソ連の"対抗馬"としての役割は,完全にアメリカ合衆国に移っていったのです。さっそくアメリカ合衆国は,ソ連の地中海への南下を防ぐため
,
ギリシ
ア
【本試験H13ユーゴスラヴィア,イギリス,ドイツ連邦共和国ではない】
と
トル
コ
【本試験H13オーストリア,フランスではない】
の親米勢力に経済援助を実施しました。
アメリカは,イギリスが世界にある自国植民地との貿易から他国を排除していること
(
ブロック経
済
)を批判し,世界中で自由な貿易ができる仕組みをつくろうとしていました。新たな自由貿易体制においては,ドル
が
基軸通
貨
(キー=カレンシー)とされ,お金が足りない国にはアメリカ合衆国が中心となって出資す
る
IM
F
(アイエムエフ
,
国際通貨基
金
)
【追H27 時期が1940年代に設立されたことを問う】
【本試験H18ECの専門機関ではない】
や
,
IBR
D
(アイビーアールディー
,
国際復興開発銀
行
)が貸し出す機関をつくり,アメリカ合衆国が世界で投資をしやすい仕組みを整えました。また
,
GAT
T
(
ガッ
ト
,関税と貿易に関する一般協定)
【本試験H22】
が1947年に署名され,世界各国が輸入品に対し個別にかけている関税を,国際会議によって減らし
,
自由貿
易
【本試験H22・H26ともに保護貿易ではない】
を推進していくことが定められました。
◆
アメリカにとって原油の採掘とソ連の南下を食い止める基地として「中東」の重要性が高まる
同時にアメリカ合衆国は,1930年代から進めていたサウジアラビア王室〈サウード〉家と提携して設立した石油会社(1944年にアラビアン=アメリカン=オイル=カンパニー
(
アラム
コ
)と改称)によって原油採掘を本格化させました。油田が豊かなソ連の南下に対抗し,安価な石油によって世界規模の軍事的な優位を確立させようとしたのです。
西アジアから北アフリカにかけての旧オスマン帝国領や,パフレヴィー朝にかけての政権がアメリカ合衆国と良好な関係を築き情勢が安定していることが,石油の安定供給にとって最重要事項となりました。これらの地域は戦略上
「
中
東
」(Middle East)と一括して呼ばれることが多くなっていきました。「中東」イコール「石油のとれるところ」という構図やイメージも,このへんから一般化します。
◆194
7
年以降,米ソ両陣営の対立が深まる
アメリカの動きに対抗し,1947年9月,ソ連
は
コミンフォル
ム
(共産党情報局)
【本試験H15第二次大戦中ではない】
【追H9コミンテルンではない,国共合作を支援していない】
を,ポーランド,チェコスロヴァキア,ハンガリー,ユーゴスラヴィア,ルーマニア,ブルガリアを加盟国として組織しました。これらの国家は,地球にとっての月のように,ソ連にとっての
"
衛星
国
"になっていきました。逆にソ連のいうことを聞かなかった国は,ソ連に解放してもらわず,自力でナチスを追い出すことに成功した国,すなわちユーゴスラヴィアとアルバニアです。
ユーゴスラヴィ
ア
【追H28】
はソ連との対立がもとで,翌1948年
に
コミンフォルムから除
名
され
【追H28第二インターナショナルからの除名ではない】
【本試験H13時期(第二次大戦後かを問う),本試験H21地図上の位置も問う】
,大戦中にパルチザン
【追H28】
といわれる抵抗運動を率いた〈チトー
〉
大統
領
(1892~1980,在任1953~80)
【追H19,H28「ティトー」】
【本試験H12】
が自主路線を進めていきました。
さて,年が明けた1948年2月。アメリカ側に激震が走ります。
チェコスロヴァキアの共産党がソ連軍に支援をうけクーデタを起こしたのです。大戦中から亡命政府を樹立し活動していた〈ベネシュ〉大統領は失脚し,共産党だけの政権が樹立されました
(
チェコスロヴァキ
ア=
クーデ
タ
)
【名古
屋
H30[4
]
指定語句「チェコスロヴァキア」
】
。
チェコスロヴァキアの政変
【本試験H5】
を受け,「ソ連が西に攻めてくる」ことに危機感を持った西ヨーロッパ諸国は,48年3月
に
西欧同
盟(
WE
U
)
を結成
(
ブリュッセル条
約
【本試験H5】
【本試験H17海軍の軍備の制限に関する条約ではない】
)。英・仏に
,
ベネルクス三
国
(
ベルギ
ー
,
オラン
ダ
,
ルクセンブル
ク
)を加えた同盟です。ベネルクス三国は,大戦中にドイツの進入をゆるし,被害をこうむってきた小国でした。
さらに48年6月には,東ベルリンを管理してい
た
ソ
連
が
,
米
・
英
・
仏
が共同管理していた西ベルリン
【本試験H26ソ連の管理地区の地図上の位置】
でポツダム宣言に反して通貨改革が実施されたことに対抗し陸上交通路を封鎖
,
ベルリン危
機
(ベルリ
ン
封鎖
【名古
屋
H30[4
]
指定語句
】
)
【本試験H9年代を問う】
【本試験H16アメリカによる封鎖ではない】
が勃発しました。東ベルリンでソ連が社会主義的な政策を強めていたことに,西側諸国が懸念を示した結果です。
"第三次世界大戦"の開戦が懸念されましたが,米・英・仏が市民のために決死の食糧・物資空輸作戦を続けた結果,ソ連は封鎖を1年で解きました。しかし,もはやベルリンをめぐる両者の対立は決定的なものとなり,1949年1月にはソ連
【本試験H25アメリカではない】
が
コメコ
ン
(
COMECO
N
,経済相互援助会議。コメコンは西側諸国における通称)
【本試験H10時期(1950年代か問う),ブリュッセル条約により結成されたわけではない
】
【名古
屋
H30[4
]
指定語句
】
【セA H30コミンテルンではない】
で,東ヨーロッパ諸国との経済的連携を強化するようになっていきます。原加盟国はソ連,ブルガリア,チェコスロバキア,ハンガリー,ポーランド,ルーマニアです。直後にアルバニアが加盟(1962年に事実上脱退),さらに東ドイツ(1950),モンゴル(1962),キューバ(1972),ヴェトナム(1978)が加盟しました。ユーゴスラヴィアは準加盟国です。
49年4月に
は
西欧同
盟
の加盟国に加え,アメリカ合衆国,イタリア,カナダなどを構成国とす
る
NAT
O
(
北大西洋条約機
構
)
【本試験H9ロカルノ条約ではない
】
【名古
屋
H30[4
]
指定語句
】
が結成されます。西欧同盟も,「ソ連の進出を防ぐには,ヨーロッパだけでは無理だ。アメリカを引き込めば,核兵器の脅しも使える」と考えたのです。NATOの原加盟国は,ベルギー,オランダ,ルクセンブルク,イギリス,フランス,イタリア(ここまでECSEの原加盟国),ポルトガル,デンマーク,ノルウェー,アイスランド,カナダ,アメリカ合衆国です。
1949年5月には,英米仏の占領していたドイツ西部
は
ドイツ連邦共和
国
【本試験H14ドイツ(ヴァイマル)国とのひっかけ】
の成立を宣言し,ボンを首都としました。
しかし49年8月
,
ソ連は核兵
器(
原
爆)を
つい
に
保
有
してしまいます。
194
9年
【本試験H27】
10月にはソ連の占領下のドイツ東部
が
ドイツ民主共和
国
【本試験H14時期(第二次大戦後),本試験H27】
を宣言し,ドイツは真っ二つに分かれることになりました。
ヨーロッパにしのびよる"第三次世界大戦"の恐怖。二度の大戦で痛手を負ったヨーロッパが立ち直るためには"まとまる"しかない。1950年にはフランス外相
〈
シューマ
ン
〉(1886~1963)がドイツとフランスの和解を訴え,1952年のフランス・イタリア・西ドイツ・ベネルクス三国による,石炭と鉄鋼の共同管理を目的とす
る
ヨーロッパ石炭鉄鋼共同
体
(
ECS
C
)
【本試験H31EFTAに発展していない】
【東京H26[3]】
【早政H30】
へと発展しました。1957年3月に調印され1958年1月に発足した
(注
)
の
ヨーロッパ経済共同体
(
EE
C
)
【東京H17[1]指定語句】
【本試験H9イギリス中心の経済統合ではない】
へと発展します。また,同年に
は
欧州原子力共同
体
(ユーラトム
,
EURATO
M
)
【本試験H26EFTAではない】
【早政H30】
が結成され,将来石炭が枯渇してしまったときに備えて原子力エネルギーの開発を強力して行うことにしました。
(注)1年間の過渡期がおかれ正式発足は1959年1月とも。『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.124
その間,1952年
に
NATOにギリシア,トルコが加
盟
。
1954年に西ヨーロッパ諸国は
,
西ドイツの再軍
備
を認め(パリ協定)
,
西ドイツはNATOにも加
盟
しました。ドイツの軍事力が強化されるのを嫌っていたのは,もちろんソ連です。西ドイツの再軍備に対抗したソ連は1955年にワルシャワ条約に基づき
,
ワルシャワ条約機構
(WTO
,
ワト
ー
と読みます。1991解消)
【本試験H9年代を問う】
【本試験H24】
【セA H30中央条約機構ではない】
を発足させ,ポーランド
【本試験H24】
,チェコスロヴァキア,ハンガリー,ルーマニア,ブルガリア,アルバニア(1968年に脱退)に東ドイツを加えた軍事同盟をつくりました
【追H18独自路線をとったユーゴスラヴィアは加入していない】
。
こうして,ヨーロッパはアメリカ側とソ連側の2陣営にに分かれ,真っ二つに色分けされることになったのです。
第二次世界大戦後には,どうし
て
ナチ
ス
(ファシズム)が生まれてしまったのかを問う知識人が現れ,ドイツの〈ハイデガー〉に師事しアメリカに亡命した女性〈ハンナ
=
アーレン
ト
〉(1906~75)は『人間の条件』を
(映画「ハンナ=アーレント」はナチ=ドイツの戦犯とされた〈アイヒマン〉の裁判を傍聴し「イェルサレムのアイヒマン」を書き上げるまでの彼女を描いています)
,ドイツからアメリカに亡命したいわゆるフランクフルト学派の〈アドルノ〉(1903~69),〈ホルクハイマー〉(1895~1973)は『啓蒙の弁証法』を著しました。
○194
5
年
~
195
3
年のアメリカ 北アメリカ
・
194
5
年
~
195
3
年のアメリカ 北アメリカ
現①
アメリカ合衆国
〈
トルーマ
ン
〉大統領(任1945~1953)の任期中に「冷戦」が激化。
〈
アイゼンハワ
ー
〉大統領(任1953~1961)は初め「巻き返し政策」でソ連の影響力の削減に努める一方で,緊張緩和(「雪どけ」)も模索します。
・
194
5
年
~
195
3
年のアメリカ 北アメリカ
現②
カナダ
1960年代からケベック州で,フランス系の住民によ
る
ケベック州独立運
動
が始まりました,1971年には議会で
「
多文化主
義
」宣言が出されます。
○194
5
年
~
195
3
年のアメリカ 中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ
ペルーとエクアドルを除く南アメリカでは,大衆の支持を得た政権が中間層,労働者などの支持を得て社会保障を充実させ,工業化を進める政策をとっています。
しかし,工業化が進展しても国内市場の規模は小さく,国を超えた経済圏をつくる取り組みはすすみませんでした。
依然とし
て
天然資
源
が輸出産業の中心であり,工業に用いる原料・機械の輸入にもお金がかかるため貿易収支は悪化に向かい,インフレが問題となります。
各国の政権は国内の中間層や労働者の票を稼ごうと,トップダウンで社会保障を充実させる政策をとり,それがますます財政赤字を深刻化させていくことになります。
ラテンアメリカの大土地所有制
【本試験H6植民地時代からの大土地所有制は廃止されなかった】
は地主が輸出作物・鉱産資源を通じて外国の資本と結びついていたために,なかなか変わることがありませんでした。
第二次世界大戦前には,イギリスが7億4000万ポンドを投資していましたが,大戦後には2億7300万ポンド(1950年)に激減し,代わってアメリカ合衆国が,投資総額が93億ドル(1955年)に躍り出ました。アメリカ合衆国が現地の大地主と協力をして,ラテンアメリカ各地に工場を建設・農地や鉱山を開発し現地人に安い給料で働かせて,利益の多くを吸い上げたわけです。
アメリカ合衆国は〈トルーマン〉の提唱した
「
封じ込め政
策
」の一環として,1948年4月にコロンビアのボゴタの米州会議
で
米州機
構
(
OA
S
)
【本試験H29】
【追H18】
の憲章が締結されて,1951年に発効されました。このボゴタ憲章とともに,米州相互援助条約(リオ条約)と米州条約(ボゴタ条約)が結ばれ,原加盟国はアメリカ合衆国と,中央アメリカ・カリブ海・南アメリカの諸国25か国でした。「侵略された場合は共同行動を準備する」という米州機構を通じ,アメリカ合衆国は中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ地域にソ連の影響が及んで社会主義運動が起きないように圧力を強めていったのです。そして,たとえ手荒な政策をとる非民主的な政権であったとしても,国内の左派
(ここでは「社会主義的な」という意味)
勢力を押さえ込んでくれるならば,資金や軍備を提供してかわいがったわけです。
○194
5
年
~
195
3
年のアメリカ 中央アメリカ
中南米諸国
は"
バナナ共和
国"
状態に
中央アメリ
カ
...①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ
・
194
5
年
~
195
3
年の中央アメリカ 現①メキシコ
◆
あらゆる階層をとりこんだ制度的革命党による一党支配の下,経済成長が図られた
メキシコは,ポプリスモ政権が一党独裁
メキシコは1946年にメキシコ革命党(同年に制度的革命党(PRI)に再編)を率いた〈カマチョ〉大統領が,後任の〈アレマン〉を指名し大統領(任1946~1952)となります。メキシコの工業化のために,アメリカ合衆国と友好関係を築いて資本を導入し,鉄道やダムの敷設や輸出用作物農地の拡大,教育改革,観光産業の発展(アカプルコのビーチがセレブに人気となります)に取り組みました。初めて女性の参政権(地方参政権)が認められたのも〈アレマン〉政権のときのことです
(
メキシコの女性参政
権
)。
事実上の一党独裁である制度的革命党は,右派から左派まであらゆる階層をとりこみ,党の組織には労働組合,農民組織なども編入されています。
「
メキシコ革
命
で実現したことを制度化しよう」という理念のもと,さまざまな勢力を統合するために1929年につくられた政党です。職業や組合ごとに国民をまとめ,利益を配分する体制をコーポラティズムと呼んだりしますが,さまざまな階層の国民を取り込んだポピュリズム(スペイン語
で
ポプリス
モ
,に人民主義)と表現することもあります。というわけで,アメリカ合衆国ともソ連とも等距離に対応するという自主外交が,メキシコの特徴となりました。
・
194
5
年
~
195
3
年のアメリカ 中央アメリカ
現②
グアテマラ
◆
中米のグアテマラでは左派政権がアメリカ合衆国の介入によって倒された
アメリカが,グアテマラ左派政権を叩く
グアテマ
ラ
では1951年に選挙で選ばれた〈アルベンス
=
グスマ
ン
〉(任1951~54)による左派政権が生まれ,大土地所有に反対する土地改革をおこないました。グアテマラをはじめとする,アメリカ企業のユナイテッド=フルーツ社が大規模な農園を展開しており,こうした中南米諸国は"バナナ共和国"といわれるほどでした。
・
194
5
年
~
195
3
年のアメリカ 中央アメリカ
現③
ベリーズ
イギリスの植民地ベリーズでは独立の動きも起きますが,進出をねらう隣国グアテマラとの対立も生じます。
・
194
5
年
~
195
3
年のアメリカ 中央アメリカ
現④
エルサルバドル
エルサルバドルは政情不安が続く
エルサルバド
ル
では軍人〈マルティネス〉(任大統領代行1931~34,大統領35~44)による独裁が終わり,政情は不安定なままでした。
・
194
5
年
~
195
3
年のアメリカ 中央アメリカ
現⑤
ホンジュラス
ホンジュラ
ス
はニカラグアの
〈
ソモ
サ
〉
「
王
朝
」やエルサルバドルとの国境紛争を抱え,政情は不安定なままです。
・
194
5
年
~
195
3
年のアメリカ 中央アメリカ
現⑥
ニカラグア
ニカラグアは親米の〈ソモサ〉独裁体制に
ニカラグアの政治・経済・軍事は,アメリカ合衆国のバックアップの下,〈ソモサ〉(在1937~1947,1951~1956)大統領が実質的に握られています。
〈ソモサ〉自身も輸出作物の大農園主であり,ニカラグアの民衆が社会主義に染まるのを防ぐことができると,アメリカ合衆国からも期待を受けていたのです。
かつてのアメリカ合衆国大統領〈フランクリン=ルーズヴェルト〉も,こう語ったといいます。
「ソモサはクソ野郎だが
,
我々の側
の
クソ野郎だ。」(注)
ニカラグアは,やはり政情不安定であった隣国ホンジュラスとも交戦しています。
(注)《Somoza may be a son of a bitch, but he's our son of a bitch.》。Peter Winn"Americas: The Changing Face of Latin America and the Caribbean" University of California Press; Third edition, 2006, p.517..
・
194
5
年
~
195
3
年のアメリカ 中央アメリカ
現⑦
コスタリカ
コスタリカが常備軍を廃止,政治の安定化へ
戦後おこなわれた大統領選の結果をめぐり内政は混乱。内戦(1948年)の末に1949年に政権をとった〈フィゲーレス〉は国政改革に乗り出し,政争の元となり親米派であった軍隊を問題視し
,
常備軍を廃
止
。1951年には国民解放党を結成しています。
この間に,ニカラグアの〈ソモサ〉は旧政権派を支援し,国外からコスタリカに内政干渉・軍事進出をしますが失敗。
内戦を終結させ政治を安定化させることに成功したコスタリカは,以後経済成長に向かいます。
・
194
5
年
~
195
3
年のアメリカ 中央アメリカ
現⑧
パナマ
パナマ運河をめぐり,反米世論が高まっていく
パナマ運河地
帯
は,第二次世界大戦中に親米政権によりアメリカ合衆国に貸し出されていました(1942年にパナマは連合国側で参戦しています)。
戦後もパナマに駐留を続けたアメリカ合衆国は,運河地帯の貸出期間の延長を求めましたが,パナマ国民の反対もあって運河地帯の外からは撤退。
その後は,反米の姿勢をとる〈アリアス〉が大統領に就任しますが,パナマ運河返還をのぞむ国民の声も大きく,政情は不安定化します。
○192
9
年
~
194
5
年のアメリカ カリブ海
カリブ
海
...①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島
・
176
0
年
~
181
5
年のアメリカ カリブ海
現③
バハマ
バハマ
は
イギリス
領
のままとなっています。
・
194
5
年
~
195
3
年のアメリカ カリブ海
現⑪
フランス領マルティニーク島
マルティニーク島出身でフランスに留学し,精力的な活動をしていた文学者〈エメ=セゼール〉(1913~2008)は,1945年にマルティニーク島のフォール=ド=フランス市長に選出されます(任1945~2001)。
〈エメ=セゼール〉は,植民地の状態から独立するには,フランスの海外県としての独立を受け入れつつ,文化的にはフランスへの同化を拒む戦略をとるべきだとし,彼の1946年にマルティニーク島はフランス
の
海外
県
となります。しかし,1950年には表現の自由を制限する法案が提出され,〈エメ=セゼール〉は『植民地主義論』を執筆することになります。
○194
5
年
~
195
3
年のアメリカ 南アメリカ
南アメリ
カ
...①ブラジル,②パラグアイ,③ウルグアイ,④アルゼンチン,⑤チリ,⑥ボリビア,⑦ペルー,⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネズエラ,⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ
・
194
5
年
~
195
3
年のアメリカ 南アメリカ
現①
ブラジル
◆
独裁政権は軍により打倒されたが
,
195
0
年に復活し,資源ナショナリズム的な政策をとった
ブラジ
ル
では〈ヴァルガス〉大統領による長年の独裁に,第二次世界大戦後の軍のクーデタ(1945年10月)によって終止符が打たれました。
後を継いだのは陸軍大臣の〈ドゥトラ〉(任1946~51)。
彼の下で民主化政策が実行され,アメリカ合衆国との外交関係が築かれました。
しかし,その後1950年の国民投票の結果,〈ヴァルガス〉が再度大統領に返り咲きます。
〈
ヴァルガ
ス
〉(第二次 任1951~54)は以前の独裁色を弱め,左派に近い政策をとる選択をし,貧困層の支持を得たのです。
1953年に
は
国営の石油公
社
を設立し外国資本を締め出しましたが,1954年にピストル自殺を遂げました。〈ヴァルガス〉本人は,「陰謀」と遺言しています。
・
194
5
年
~
195
3
年のアメリカ 南アメリカ 現④アルゼンチン
アルゼンチ
ン
では,労働者の要求に寄り添うことで,軍事政権の中で最高実力者に躍り出た
〈
ペロ
ン
〉(任1946~55,73~74)が国民投票によって大統領に選出され,労働者だけでなく資本家からも絶大な支持を得ながら,アメリカ合衆国に対抗する政策を進めていました。具体的には,外資系企業を国有化して民族資本を基盤とする工業化を目指し,農地改革は行わない穏健な内容でしたが,反対派への弾圧はきわめて厳しいものでした。彼の夫人〈エビータ〉も慈善活動に尽力し,国民の絶大な支持を得ていたことで知られます。
しかし,1951年に再選された後にカトリック教会との対立を招いたことをきっかけに,支持が低下していきました。
・
194
5
年
~
195
3
年のアメリカ 南アメリカ
現⑤
チリ
,⑥
ボリビア
,⑦
ペルー
◆
ペルーでは軍部によるポピュリズム,チリでは新米政権が樹立されたが,ボリビアでは社会改革が実施された
チ
リ
では1938年に,左派が一致団結して急進党の〈アギーレ〉大統領を中心とする人民戦線内閣が成立していましたが,アメリカ合衆国による切り崩しもあり1941年に崩壊していました。戦後,急進党,社会党,共産党をまとめた〈ビデラ〉連立政権(任1946~52)は一転して親米路線に転換し,ソ連との国交を断絶。1948年には共産党が非合法化されました。
ボリビ
ア
では1951年に左派のMNR(国民革命運動)の候補〈パス=エステンソロ〉が大統領選で勝利しましたが,保守層の抵抗により軍部に政権が引き渡されると、軍部によりMNR(民族革命運動党)が非合法化されます。
それに対してMNR(国民革命運動)は、鉱山労働者と一部の国家警察の合流を得て反乱に成功。
亡命先から帰国した〈パス〉が大統領に就任(任1952~56,60~64,64,85~89)しました。
彼の下で,三大財閥の鉱山の国有化(有償。鉱業公社(COMIBOL)設立),普通選挙法の施行,大土地所有者の土地を収用して農民に与える農地改革、インディオに対する差別的な法律の撤廃など,さまざまな社会改革が断行されました
(注)
。
(注)「インディオ」という呼称は禁止され、「カンペシーノ」(農民)と改められ自作農となりましたが、階層的な社会構造は依然として残りました。真鍋周三編著『ボリビアを知るための68章』明石書店、2006年、pp.137-138。
ペル
ー
ではアプラ(アメリカ人民革命同盟)の支持を受けた国民民主戦線〈リベーロ〉(任1945~48)が大統領に就任しましたが,アプラ内の急進派による社会改革を求める動きが活発化すると,それを押さえようとする軍部が動き,〈オドリーア〉政権(任1948~56)が成立。輸出業で栄える資本家や産業資本家だけでなく都市の中間層や貧困層の支持をも得ながら,左派(アプラや共産党)を抑圧する政治
(
軍部ポピュリズム〔ポプリスモ
〕
)が展開されました。
オセアニアも「封じ込め」の舞台になる
1951年にオーストラリア (A) ,ニュージーランド (NZ) ,アメリカ (US) の3国は
,
太平洋安全保障条
約
(ANZUS,アンザス,アンザス条約)
【追H9アジア・オセアニア地域の協調関係や安全保障と関係あるか問う】
を締結し,ソ連を筆頭とする東側諸国の拡大に備えます。冷戦の波は,オセアニアにまで及んだのです。
オセアニアの島々の多くは植民地の地位に留まるか,国際連盟の委任統治領を引き継いだ国際連合
の
信託統治
領
として統治され続けます。
○194
5
年
~
195
3
年のオセアニア ポリネシア
ポリネシ
ア
...①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島,フランス領ポリネシア,③クック諸島,④ニウエ,⑤ニュージーランド,⑥トンガ,⑦アメリカ領サモア,サモア,⑧ニュージーランド領トケラウ,⑨ツバル,⑩アメリカ領ハワイ
⑦
西サモ
ア
は,1945年にニュージーランドによる委任統治領から国際連合の信託統治領に切り替わっています
。
東サモ
ア
はアメリカ合衆国領のままです。(1889年にサモア王国,アメリカ,ドイツ,イギリスの中立共同管理地域→1899年ドイツ領西サモア・アメリカ領東サモアに分割→1919年西サモアはニュージーランドの委任統治→1945年に西サモアは国際連合の信託統治→1962年西サモア独立→1967年東サモアに自治政府→1997年西サモアがサモアに改称)。
○194
5
年
~
195
3
年のオセアニア オーストラリア
1951年にオーストラリア (A) ,ニュージーランド (NZ) ,アメリカ (US) の3国は
,
太平洋安全保障条
約
(ANZUS,アンザス,アンザス条約)
【追H9アジア・オセアニア地域の協調関係や安全保障と関係あるか問う】
を締結し,主権を回復した日本に対する戦争に備えました。
○194
5
年
~
195
3
年のオセアニア メラネシア
メラネシ
ア
...①フィジー,②フランス領のニューカレドニア,③バヌアツ,④ソロモン諸島,⑤パプアニューギニア
・
194
5
年
~
195
3
年のオセアニア メラネシア 現⑤パプアニューギニア
ニューギニア島
の
北
東
部,ビスマルク〔ビスマーク〕諸島,
④
ソロモン諸
島
のうちブーゲンビル島は,オーストラリアの信託統治領となります。
ニューギニア島
の
南
東
部はオーストラリア領でしたが,1949年にニューギニア島の北東部も合わせて,パプアおよびニューギニア准州に再編。合わせて信託統治領とします。
○194
5
年
~
195
3
年のオセアニア ミクロネシア
ミクロネシ
ア
...①マーシャル諸島,②キリバス,③ナウル,④ミクロネシア連邦,⑤パラオ,⑥アメリカ合衆国領の北マリアナ諸島・グアム
現
①
マーシャル諸
島
,
④
ミクロネシア連
邦
,
⑤
パラ
オ
,
⑥
北マリアナ諸島・グア
ム
は,アメリカ合衆国直轄領(準州,1944~)
の
グア
ム
を除き,アメリカ合衆国
の
信託統治
領
として1947年に統治下に入りました(太平洋信託統治領)。これらの地域はもともと旧ドイツ領を大日本帝国が国際連盟から委任統治をまかされてい
た
南洋諸
島
でしたが,1944年にアメリカ合衆国が占領したため,その後も引き続きアメリカ合衆国の統治下となったのです。
③
ナウ
ル
では1947年にニュージーランド,オーストラリア,イギリスによる信託統治下に入りました。依然としてリンの採掘が盛んで,その輸出に過度に依存する経済構造が発展していきます。
③
ナウ
ル
と
②
キリバ
ス
のオーシャン島の住民は,日本が撤退した後に島に帰ることが許されますが,中国人労働者や白人との間には待遇の差別が残されました
(注
)
。一方,オーシャン島の住民はフィジーのランビ島に移住されたままでした。
(注1)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.355-357
中央ユーラシアの大部分はソ連,中国の支配下に
中央アジ
ア
...①キルギス,②タジキスタン,③ウズベキスタン,④トルクメニスタン,⑤カザフスタン,⑥中華人民共和国の新疆ウイグル自治区+⑦チベット,⑧モンゴル
・
194
5
年
~
195
3
年の中央ユーラシア
現①
キルギス
,②
タジキスタン
,③
ウズベキスタン
,④
トルクメニスタン
,⑤
カザフスタン,
1936年以来,現①キルギスはキルギス=ソヴィエト社会主義共和国として,ソ連の構成国となっています。
1929年以来,現②タジキスタンはタジク=ソヴィエト社会主義共和国として,ソ連の構成国となっています。
1924年以来,現③ウズベキスタンは,ウズベク=ソビエト社会主義共和国として,ソ連の構成国となっています。
1929年以来,現④トルクメニスタンはトルクメン=ソビエト社会主義共和国として,ソ連の構成国となっています。
1936年以来,現⑤カザフスタンは,カザフ=ソビエト社会主義共和国として,ソ連の構成国となっています。
・
194
5
年
~
195
3
年の中央ユーラシア
現⑥
中華人民共和国の新疆ウイグル自治区
新
疆(
東トルキスタ
ン)
の独立は実現せず
独立が宣言されていた「東トルキスタン共和国」のあ
る
新
疆
は,ヤルタ会談の秘密協定により,中華民国政府による支配が認められました。1946年の中華民国との和平協定によって,「共和国」のメンバーはイリに戻り,自治を受け入れることになります。
しかし,1949年
に
中華人民共和
国
の国共内戦の勝利が確定的になると,〈毛沢東〉は「共和国」のメンバーを北京に政治協商会議に誘います。直後,飛行機事故により首脳のほとんどが墜落死したとされ,生き残ったメンバーは中国共産党に従い,中華人民共和国の一部となる道を辿ります
【本試験H11「新疆は...中華人民共和国に帰属しなかった」わけではない】
。
・
194
5
年
~
195
3
年の中央ユーラシア
現⑦
中華人民共和国のチベット自治区
チベットは中華人民共和国の侵攻を受ける
チベットの〈ダライ=ラマ〉政権が実効支配していたのは,ラサを中心とする中央チベットにとどまり,アムド地方は青海省や四川省,カム地方は四川省や雲南省にかけて中華民国の支配下にありました。
1949年10月に中華人民共和国が成立すると,1950年
に
人民解放
軍
がチベットに侵攻し,1951年にラサを占領。
〈
ダラ
イ=
ラ
マ
1
4世
〉
【東京H12[2]】
は山脈を越えてインド国境付近に避難しました。
しかし,1951年の協議により中華人民共和国は〈ダライラマ〉の地位を認める代わりにチベット
【本試験H11モンゴルではない】
の外交権・軍事権を奪います。
チベットのラサに一旦戻った〈ダライラマ〉は,中国勢力による一層の進出に直面することになります。
・
194
5
年
~
195
3
年の中央ユーラシア
現⑧
モンゴル
内モンゴルと外モンゴルは完全に別々の道へ
モンゴル人民共和国は,〈蒋介石〉の中華民国に正式な政府とみなされていはいませんでした。
また,第二次世界大戦中に日本に協力して成立していた「蒙古聯合自治政府」は,1945年9月に「内モンゴル人民共和国」を樹立します。
内モンゴルの人々は,モンゴル人民共和国に対して「内モンゴルと外モンゴル(モンゴル高原)の統一」を要求しますが,ソ連と中華民国が1945年8月14日に中ソ友好同盟条約を結んで接近し,中華民国がモンゴル人民共和国を承認すると,内モンゴルは孤立。1945年11月には,〈ウランフ〉(1906~1988)が中心となって中国共産党に接近し,これに吸収される形で消滅します。
その後,1947年に内モンゴル自治政府が成立し,1949年10月に中華人民共和国が成立すると,12月に
は
内モンゴル自治
区
となります。自治区主席は〈ウランフ〉です。
○194
5
年
~
195
3
年の中央ユーラシア 北極海周辺
北極海を挟んで向き合う米ソが対立する
第二次世界大戦が終わると
,
北極
海
は米ソ冷戦に巻き込まれていきます(詳細は⇒
195
3~
197
9
の中央ユーラシア 北極海周
辺
へ)
○194
5
年
~
195
3
年のアジア 東アジア
東アジア・東北アジ
ア
...
①
日本
,②
台
湾
(注)
,③
中華人民共和国
,④
モンゴル
,⑤
朝鮮民主主義人民共和国
,⑥
大韓民国
※台湾と外交関係のある国は19カ国(ツバル,ソロモン諸島,マーシャル諸島共和国,パラオ共和国,キリバス共和国,ナウル共和国,バチカン,グアテマラ,エルサルバドル,パラグアイ,ホンジュラス,ハイチ,ベリーズ,セントビンセント,セントクリストファー=ネーヴィス,ニカラグア,セントルシア,スワジランド,ブルキナファソ)
・
194
5
年
~
195
3
年のアジア 東アジア 現①日本
1945年8月30日に,連合国軍最高司令官
〈
マッカーサ
ー
〉(1880~1964)
【セA H30時期】
が来日し,9月2日に東京湾上のミズーリ号上で降伏文書が調印されました。
署名したのは日本政府・天皇の代表である外相〈重光葵〉(しげみつまもる,1887~1957)と,大本営の代表である参謀総長〈梅津美治郎〉(うめづよしじろう,1882~1949)です。
連合国の代表として〈マッカーサー〉が,さらにアメリカ,イギリス,中国,ソ連,フランス,オランダ,カナダ,オーストラリア,ニュージーランドも署名しました。
降伏した相手は
,
ポツダム宣
言
を発したアメリカ,イギリス,中華民国,ソ連です。
この中で日本は,天皇と日本政府の主権を,連合国軍最高司令部のもとに置くことを約束しました。こうして,日本本土はアメリカ軍の間接占領下に置かれ,沖縄などの南西諸島は直接軍政下に置かれました。
こうして始まった戦後改革では,1946
年
農地改革
法
,1947年には主権在民(国民主権)
【本試験H29】
を定め
た
日本国憲
法
【東京H17[1]指定語句】
【本試験H29】
の施行など,日本が戦前の軍国主義的な国家ではなくなるよう,様々な制度が作られました。
また,戦争犯罪者に対して一審制
の
極東軍事裁
判
(いわゆる
"
東京裁
判
")
【本試験H30時期】
が実施され,連合国に「戦争犯罪人」として指定された日本指導者28人が,平和に対する罪(A級犯罪),人道に対する罪(C級犯罪),通常の戦争犯罪(B級犯罪)について裁かれました。平和に対する罪と人道に関する罪は大戦中に規定されていなかった犯罪であり,「ある行為を後から制定された罪で裁いてはならない」という法の不遡及(ふそきゅう)原則に反しているという批判もあります。なお,ナチス=ドイツの指導者に対す
る
ニュルンベルク裁
判
【本試験H4世界史上初めて戦争犯罪を裁く国際裁判であったか問う】
【本試験H31ハンブルクとのひっかけ】
【追H20地図問題】
で適用されたC級犯罪は極東軍事裁判での適用はありませんでした。
しかし,米ソ対立が始まり,1950年に朝鮮戦争が起きると,日本を後方支援のための国家にするため,再軍備に向けた占領政策が転換されました。同時に日本は,第一次世界大戦中の大戦景気と同じく
「
朝鮮特
需
」となり,経済復興の足がかりを得ました。
1951年に,アメリカ合衆国
の
サンフランシス
コ
で対日講和会議が開か
れ
サンフランシスコ平和条
約
【本試験H17時期】
が締結され,翌年の発効により日本は主権を回復しました
【本試験H17】
。しかし,ソ連はこれに調印せず,中華人民共和国
と
台
湾
【東京H17[1]指定語句】
政府は会議に参加しませんでした。1952年に日本は台湾政府と日華平和条約
【早法H26[5]指定語句】
を結んだため,中華人民共和国と敵対することになりました。また,ソ連との国交樹立も,先延ばしとなりました。
沖縄は依然としてアメリカの統治下にあり,アメリカ合衆国政府の任命する行政主席・副主席によ
る
琉球政
府
が発足しました
。
サンフランシスコ講和条
約
調印と同じ日
,
日米安全保障条
約
(1951発足
【本試験H5非同盟主義ではない,本試験H7,本試験H9年代を問う】
,1960改定)が結ばれていました。1953年以降沖縄の軍事基地が拡大され,島ぐるみ闘争が始まっていきます。
・
194
5
年
~
195
3
年のアジア 東アジア
現③
中華人民共和国
,⑤
朝鮮民主主義人民共和国
,⑥
大韓民国
第二次世界大戦の最終局面において,ソ連
は
満
洲
・
千島列
島
・
南樺
太
を占領しました。
1945年8月
,
朝鮮総督
府
はソウルにまでソ連が南下することを恐れ,民族運動家に治安維持を任せる動きをみせていました。アメリカもソ連が朝鮮半島を全部占領してしまうことを恐れ,8月16日に
「
北
緯
3
8
度
線
」をソ連とアメリカによる占領の分割線にしようと提案したようです。日本が植民地化していた朝鮮は
,
北
緯
3
8
度線以
北
はソ連
,
以
南
はアメリカが占領し
【本試験H30以北ではない】
,8月中には北朝鮮と南朝鮮における日本軍の武装解除が完了,1945年中には当時の朝鮮半島にいた日本の民間人・軍人の
「
引き揚
げ
」がほぼ完了しました。
一方,〈蒋介石〉が出席していたカイロ会談では,朝鮮は「自由且独立ノモノタラシムル(自由で独立のものにさせる)」とされていました。朝鮮総督府から治安維持を任された朝鮮人の独立運動家は,8月15日
に
朝鮮建国準備委員
会
を設立。しかし,左派から右派までの寄せ集めの組織であったために一部が分裂したものの,委員会が主導して9月に朝鮮人民共和国の建国が宣言されました。当時アメリカ合衆国に滞在していた〈李承晩〉が主席に選ばれましたが,アメリカ合衆国もソ連もこの国家を承認せず,"幻"の統一国家となりました。
ソ
連
【追H9中国ではない】
と
アメリカ合衆
国
【追H9】
は北朝鮮と南朝鮮に,それぞれ支配を及ぼそうとしていました。1945年12月
の
モスクワ外相会
議
(米・英・ソ)において朝鮮の信託統治と,その後の朝鮮民主主義臨時政府の樹立のプランが検討されました。それに対し,中国の重慶で臨時政府を築いていた〈金九〉(キムグ)は信託統治に反対,朝鮮共産党も反対しました。
しかし,冷戦の激化にともない,その後のアメリカ合衆国とソ連の話し合いは決裂が続き,南朝鮮におけるアメリカ軍政庁による共産党の弾圧も激しくなりました。インフレと食料不足により南朝鮮では大規模な民衆暴動が起きる中,〈李承晩〉はアメリカの軍政と共産主義に反対しつつ北朝鮮を除き南朝鮮だけの独立を主張しました。
北朝鮮では,「満洲で抗日パルチザン部隊を指導した」という"伝説"により理想化された
〈
金日
成
〉(キムイルソン,1912~1994)
【東京H17[1]指定語句】
が,朝鮮共産党北部朝鮮分局(の
ち
北朝鮮労働
党
)における頭角を現し,1946年に北朝鮮臨時人民委員会委員長に就任しました。彼は実際には中国共産党の東北人民軍幹部として戦っていたとされ,「「聖地白頭山(ペクトゥサン)で生まれた」とされる息子の〈金正日〉は,実際には父の軍事訓練時代に沿海州のハバロフスク近郊で生まれたといいます。"革命のために命を捧げて戦った"という伝説や,朝鮮人・女真人の発祥の地である"聖地"白頭山で生まれたという神話は,その後の〈金日成〉・〈金正日〉の指導体制における個人崇拝の中でつくられていったものです
(注
)
。
人民委員会は小作農に土地を分け与えつつ,アメリカ合衆国の軍政下に置かれている南朝鮮の解放を目指していきます。1947年には北朝鮮人民会議と北朝鮮人民委員会が組織されると,北朝鮮には南朝鮮とは別個の政権が事実上成立しました。
信託統治案に現実味がなくなると,1947年秋の国連総会で南北朝鮮で総選挙を実施するべきとの提案が可決されました。これを受け,アメリカ合衆国は南朝鮮単独で選挙を実施し,1948年8月15日
に
大韓民
国
(韓国)
【本試験H7年代】
の建国が宣言されました。憲法公布後に
〈
李承
晩
〉(イ=スンマン;りしょうばん,1875~1965)
【本試験H31日韓基本条約を結んでいない】
が大統領に選ばれました。南朝鮮だけの単独選挙に対し〈金九〉(キム=グ;きんきゅう,1876~1949)は,北朝鮮の〈金日成〉らと提携して統一朝鮮の樹立を目指しましたが挫折し,1949年に暗殺されました。
1948年2月には朝鮮人民軍が創設,9月ににソ連軍
【本試験H16中国ではない】
にバックアップされる形で
〈
金日
成
〉(キム=イルソン)
【本試験H27】
が
朝鮮民主主義人民共和
国
【本試験H27】
の建国を宣言しました。こうして朝鮮半島の北部にソ連の後押しを受けた社会主義国家が誕生したことに,アメリカの政権首脳は衝撃を受けます。1948~1949年までにソ連・アメリカ合衆国軍は朝鮮半島から撤退しましたが,ソ連・中華人民共和国の支援を受けた北朝鮮の軍事力が増強されていきました。
(注)徐大粛,古田博司訳『金日成と金正日―革命神話と主体思想 (現代アジアの肖像 6)』岩波書店,1996年。
一方
,
中
国
では"共通の敵"である日本が敗れると,国民党と共産党との間に内戦がおこりました。一時的に成立した停戦が崩れると
,
国共内
戦
【本試験H7年代】
【追H9国連は調停していない,米ソは厳正中立の立場をとっていたわけではない】
となり,富裕層である財閥に支持されていた
〈
蒋介
石
〉(1887~1975)の国民党政権に対して,農村部の貧困層に支持されていた
〈
毛沢
東
〉(1893~1976)率いる中国共産党が攻勢を強めます。「お金持ちには貧乏人の気持ちがわからない!」「政治にカネが絡んでいる!」という批判も強まり,国民党政権の支持は下がっていきました。
〈毛沢東〉は 「中国には中国の共産主義のやり方がある!農民と労働者は,手を組むことができるはずだ!」とい
う
新民主主義
論
を主張して,中国の農村部
【追H9都市部ではない】
を中心に「解放区」(共産党の支配地域)を増やしていきました。
第二次世界大戦中から,連合国は中国で社会主義革命が起きないように,〈蒋介石〉の国民党政権を政府と認め,これを援助してきました。しかし,1949年に〈蒋介石〉
は
台湾
島
【追H9「国民党は台湾に脱出し,中華民国政府の維持を図った」か問う】
【セA H30中国共産党ではない】
に逃げ,〈毛沢東〉が北京を首都とす
る
中華人民共和
国
を宣言
【本試験H7年号】
【本試験H14文化大革命によって成立したわけではない】
【追H19】
。これにより,国連の五大国の一つでありながら,中華民国政府は中国本土を支配することができないという状況になってしまいます。
〈毛沢東〉は国家主席,〈周恩来〉
【本試験H21】
【追H24中華民国の臨時大総統ではない】
が
首
相
(正式には国務院総理)という役職です。
内戦に敗れた〈蒋介石〉の国民党政権は,台湾に渡って,政権を維持します
(
台
湾
)。
【本試験H13「台湾に渡り,抗日戦を指揮した」わけではない】
。清の宮殿である紫禁城(しきんじょう)にあった宝物や文化財は,〈蒋介石〉によって南京や四川に運び出されていましたが,国共内戦が始まると一部は台湾に移送されたため,現在では主に北京の故宮博物院と台湾・台北の国立故宮博物院に分かれて保管されています
(台湾の国立故宮博物院には,周代の青銅器,南宋代の龍泉窯(りゅうせんよう)
の
青
磁
,明代にイスラーム諸国向けに輸出されたペルシア語入
の
染
付
(そめつけ,青花)の青花波斯文蓮花盤,清代では豚肉の煮込みそっくりの肉形石や,白菜そっくりのヒスイ製
の
翠玉白
菜
(すいぎょくはくさい)などが展示されています)
【追H29北京と台湾に2つの故宮博物院があることに関するリード文】
。
成立後の中華人民共和国では,1950年
に
土地改革
法
【早法H23[5]指定語句】
によって地主制を廃止。
戦争中には日本と日ソ中立条約を結ぶなど敵対勢力であったソ連
【本試験H22アメリカ合衆国ではない】
との間に,1950年
,
中ソ友好同盟相互援助条
約
(1950発足,1980解消)
【本試験H7】
【早法H26[5]指定語句 論述(中国をめぐる外交関係の展開)】
を結びます。
相互援助条約とは敵国("敵国"は日本とその同盟国と想定されていました)から進出を受けたら,相互に援助することを約束した条約のことです。
このとき〈毛沢東〉は,モスクワのクレムリン(ソ連共産党の中枢があるロシア帝国時代の宮殿)の〈スターリン〉(1878~1953)に直々に会いに行っています。
1949年の中華人民共和国の成立を見た朝鮮民主主義人民共和国の
〈
金日
成
〉
(キム=イルソン,きんにっせい,1912~94,首相48~72・国家主席72~94,朝鮮人民軍最高司令官50~91,朝鮮労働党中央委員会委員長49~66・総書記66~94)
は,この勢いで朝鮮半島の統一を目論(もくろ)みます。
〈金日成〉
の
朝鮮民主主義人民共和
国
は南
の
大韓民
国
に対し1950年6月25日に軍事進出し,ソウルを占領。瞬く間に朝鮮半島南部のプサン(釜山)に到達しました (1950~53
,
朝鮮戦
争
【本試験H7年代,本試験H9「1年以内」に終結していない】
)。
この自体に,連合国を中心とする集団的安全保障機関であ
る
国際連
合
の出番がやってきました。進出行為をした北朝鮮に対し,アメリカの
〈
トルーマ
ン
〉大統領は安全保障理事会の招集を要求し,武力制裁を提案。イギリスとフランスは1949年に成立していたNATO(ナトー,北大西洋条約機構)の加盟国でもありますし,中華民国の〈蒋介石〉政権も同じ連合国側の立場のアメリカの意見に同調しました。
それに対しソ連は,安全保障理事会を「欠席」。五大国には拒否権がありますから,1か国でも反対すれば安全保障理事会の決議は成り立たないわけですが,ソ連は「欠席」したわけなので拒否権は発動できません。
結局ソ連抜きで決議は可決され
【本試験H17否決されていない】
,アメリカ軍
【追H21】
を主体とす
る
国連
軍
【本試験H9介入があったか問う】
【追H21】
が組織されました。国際連合憲章の7章には,「平和に対する脅威,平和の破壊及び進出行為に関する行動」という項目があって,本来は安全保障理事会が指揮をとることになっているのですが,ソ連が出席していない中での可決という例外事態がいきなり発生してしまったこともあり
,
アメリカ
軍
が指揮をとることになりました。
当時,日本を占領していた在日アメリカ軍や,フィリピンとタイも派兵しました。アメリカ合衆国軍はまず7月1日に南部の釜山(プサン)をに上陸し,連合国軍最高司令官の〈マッカーサー〉率いる「国連軍」の派遣も7月7日に決まりました。しかし北朝鮮は8月18日に釜山を占領し,朝鮮半島のほぼ全域をおさえました。
しかし,9月15日に「国連軍」は,ソウル(6月28日に北朝鮮が占領)に近い仁川(じんせん,インチョン)への上陸作戦を成功させ,9月28日にソウルを奪回。朝鮮民主主義人民共和国は北へ北へと追い詰められます。無抵抗な市民が犠牲となったことを主題に,立体派の画家〈ピカソ〉は「朝鮮の虐殺」(1951)を描いています。
すると,その先にあるのは中華人民共和国です。しかし,中華人民共和国
【本試験H23中華民国ではない】
は正式に参戦することはなく100万人もの
「
義勇
軍
」が派遣されました。
結局〈スターリン〉の死(1953年)をきっかけに,1953年7月
に
板門
店
(はんもんてん,パンムンジョム)
で
朝鮮休戦協
定
が結ばれました。板門店は北緯38度上にありますが,南北の軍事境界線は"ほぼほぼ
"
北
緯
3
8度
線上です。締結時のアメリカ合衆国大統領は〈アイゼンハウアー〉
【共通一次 平1:フーヴァーとのひっかけ】
【本試験H4アイルランド系カトリック教徒ではない】
,ソ連は〈フルシチョフ〉第一書記です。1953年10月にはアメリカ合衆国が韓国との間
に
米韓相互防衛条
約
を結び,米韓同盟を発足させています。
この間,大韓民国の〈李承晩〉は大統領に権限を集中させる新憲法を公布し,1952年に直接選挙により大統領に就任しました。1952年には「海洋主権宣言」を発表し,一方的に設定した李承晩ラインの内側の漁業管轄権を主張し,ラインを超えた日本漁船を拿捕(だほ)する強硬策に出ました。経済的には朝鮮戦争中に激しいインフレが起き,1950年に経済を安定させるために韓国銀行(朝鮮銀行から改称)の権限を強化し1952年にはデノミネーション(通貨単位の変更)も行っています。
・
194
5
年
~
195
3
年のアジア 東アジア
現④
モンゴル
(⇒1945年~1953年の中央ユーラシアも参照)
戦後,中華民国は
,
内モンゴ
ル
【本試験H11外モンゴルではない
】
の自
治
を認めました
【本試験H11ダライ=ラマの亡命問題は関係ない】
。
しかし,同時にそれは,モンゴル人民共和国と内モンゴルの分裂状態を固定化することとなっていきます。
外モンゴル
の
モンゴル人民共和
国
に対するソ連の影響力は高まり,行政・外交・安全保障などさまざまな面で規制を受ける"衛星国"となっていきます
【本試験H11「長く国境を接するソ連からの政治的影響を,中国本土からの影響よりも強く受けていた時期があった」のはモンゴルであって,チベットではない】
。
・
194
5
年
~
195
3
年のアジア 東南アジア
現②
フィリピン
フィリピン諸島では,アメリカ合衆国が保留していた独立の約束を果たし,46年
に
フィリピン共和
国
の独立を認めました。しかし,アメリカに有利な通商法やアメリカ軍基地の設置が認められ,アメリカに依存するモノカルチャー経済も続きました。国内の政策は親米反共で,ゲリラ戦によって各地で日本と戦っ
た
フク
団
が弾圧されました。フク団はフィリピン共産党の支援を受けており,アメリカの情報機関CIAの援助を受けた〈マグサイサイ〉国防長官(のちに大統領)は,フク団の弾圧後に土地改革をすすめ,農民の支持を吸収していきました。しかし,土地を持たない農民もなお多く,社会不安は残り,徐々に反米ナショナリズムも強まっていきました。例えば英語のかわりに,タガログ語をベースにしたピリピノ(フィリピノ)語が国語とされ,その話者は増加していきました。
1950年に朝鮮戦争が起きると,フィリピンもアメリカ合衆国の「封じ込め政策」の一環に加わり,派兵しました。
前途多難となったのは,インドシナ半島です。1945年9月に〈ホー=チ=ミン〉がヴェトナム民主共和国を建設し,大統領に就任しましたが,フランスはこれをゆるさず
,
インドシナ戦
争
に発展しました(1946~54)
【本試験H5ヴェトナムの戦争相手国を問う】
。
・
194
5
年
~
195
3
年のアジア 東南アジア
現④
東ティモール
,⑤
インドネシア
オラン
ダ
【追H9フランスではない】
は,1945年8月17日に
〈
スカル
ノ
〉により独立宣言が読み上げられ
た
インドネシ
ア
を認めず,軍を出動させました。こ
の
インドネシア独立戦
争
【本試験H10「独立宣言後,武力で独立を阻むオランダとインドネシア共和国軍との間で,戦争が始まった】
ののち,49年
に
インドネシア連邦共和
国
(1950年に単一のインドネシア共和国となります)が成立しました。初代大統領は〈スカルノ〉
【上智法(法律)他H30 メガワティ,スカルノ,ユドヨノ,カルティニではない】
です。
こうして,もともとはマレー(ムラユ)人の分布していた東南アジアの島しょ部は,イギリス領だった地域はマレーシアとシンガポールに
,
ジャワ
島
【本試験H11:ジャワ島が現在のマレーシアの1州かどうか問う】
やスマトラ島などオランダ領だった地域はインドネシアに分断されていくのです
【本試験H6カリマンタン(ボルネオ)島全域がインドネシア領となったわけではない】
。
独立したインドネシアの〈スカルノ〉
【H30共通テスト試行 どちらかというと「国民の政治的な権利を抑圧しながら、国家主導の経済開発を目指した」とはいえない。〈ナセル〉(エジプトの戦後指導者)ではない】
は建国五原則(「パンチャシラ」。唯一神への信仰、インドネシア民族主義、国際主義・人道主義、全員一致の原則、社会の福利)
【H30共通テスト試行 解答には不要】
を基本とし、
「
多様性の中の統
一
」
【H30共通テスト試行 解答には不要】
を国是とし,広範囲にわたる島しょ部をまとめるために,イスラーム教徒や軍,共産党,中国系住民などの多様な主体を絶対的な権力により束ねていこうとしました
【H30共通テスト試行 1950年に制定された「パンチャシラ=ガルーダ」と呼ばれる国章が題材として取り入れられる】
。
・
194
5
年
~
195
3
年のアジア 東南アジア
現③
ブルネイ
,⑥
マレーシア
,⑦
シンガポール
また
,
イギリス領マラ
ヤ
は日本軍の撤退後に1946年
に
マラヤ連
合
(Malayan Union)が成立しました。それまでマレー半島本土の大部分はマレー連合州、ペナン・マラッカ・シンガポールは海峡植民地として別個の植民地単位であったわけですが、イギリスはこのときペナン、マラッカをマレー半島本土に合体させてマラヤ連合としたのです
(注1)
。
こうしてシンガポールを単独の直轄植民地としたことには、イギリスは華僑に市民権を与えて協力関係を深めつつシンガポールを軍事・経済拠点として維持したことがありました。
しかし,植民地体制を今後も維持するのは現実的ではありませんし、マラヤ連合の体制はマレー半島のスルタンたちの権力を弱め、華人をのさばらせるとして反発も強まります。
なお「華人」といっても一枚岩ではなく、やがて独立の父となる〈
リー=クアン=ユー
〉(華人四世)のように英語のエリート教育を受けた集団や、華語教育を受けた集団。中国との結びつきを重視する集団や、シンガポールへのナショナリズムを持つ集団。シンガポールに社会主義国家を建設しようとした集団(マラヤ共産党、1948年6月にイギリス人を追放するための武装蜂起をして失敗)など、多様な集団がいました。
さて、イギリスのマラヤ連合をつくる動きにムラユ〔マレー〕人による反発が強まると,イギリスは1948年にはペナン,マラッカを含めたイギリスの保護
領
マラヤ連
邦
(Federation of Malaya)に移行します。
マラヤ連邦では、華僑に対する市民権は一転して認められず、ムラユ〔マレー〕人のスルタンの権力が強化されました。
しかしマラヤ連邦に
は
シンガポー
ル
は含められず、依然として英国王直轄地として別に統治され続けました。1948年には立法評議会がつくられ、制限選挙で議員の一部を選ぶことになりました
(注3)
。
(注1) 岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.60。
(注2) 岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、pp.61-64。
(注3) 岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.60。
・
194
5
年
~
195
3
年のアジア 東南アジア
現⑩
タイ
タ
イ
王国(ラタナコーシン朝)では日本の撤退後もチャクリ朝の立憲王政が続いています。
1950年に朝鮮戦争が起きると,タイもアメリカ合衆国の「封じ込め政策」の一環に加わり,朝鮮半島に派兵しています。
・
194
5
年
~
195
3
年のアジア 東南アジア
現⑪
ミャンマー
ビル
マ
では,抗日運動に活躍したパサパラという組織により指導者に立てられてい
た
ビルマ
人
【セA H30ヴェトナムではない】
の
〈
アウ
ン=
サ
ン
〉(1915~47)
【セA H30】
が,イギリスにより交渉相手に選ばれ,イギリスは
,
ビル
マ
独立を認めました。しかし,〈アウン=サン〉は閣議中に部下に殺害され,タキン党出身の
〈
ウ
ー=ヌ
〉(任1948~58)が後継となり,1948年にイギリス連邦を離脱し
て
ビルマ連
邦
として独立を果たしました。
しかし,アヘン栽培地帯である北部
(
ゴールデ
ン=
トライアング
ル
)は,大陸反攻をめざす〈蒋介石〉派の勢力,ビルマのシャン州の分離独立派(シャン州独立軍),カチン州の分離独立派,ビルマとタイの共産党ゲリラ,ビルマが支援する地方勢力の軍などがひしめく,とんでもない状況となっていました。
〈
ウ
ー=ヌ
〉首相の下,ビルマ国軍はこの地域の少数民族への攻撃を続けるとともに,上座仏教を保護し,仏教徒を信仰しない少数民族の反発を生みました。
このビルマ国軍は,日本により近代的な軍事訓練を受けたタキン党の元・義勇軍が基になっており,少数民族・ビルマ共産党に対する軍事行動が続いたため,強大な軍事力を持つ軍は政治に口出しするようになっていきました。
国軍はその過程で
〈
ネ=
ウィ
ン
〉大将(1910~2002)により,ますますビルマ人色の強いものとなっていきます。
○194
5
年
~
195
3
年のアジア 南アジア
南アジ
ア
...①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール
・
194
5
年
~
195
3
年のアジア 南アジア
現①
ブータン
ブータ
ン
王
国
は〈ジグミ=ワンチュク〉国王(位1926~1952)が統治しています。
南部のインド帝国(1877~1947)がイギリスから独立したのにともない,1949年にインド=ブータン条約が締結され,インドとの関係を強化。北方から中華人民共和国が拡大するのに備える意図がありました。次代の〈ジグミ=ドルジ=ワンチュク〉(位1952~1972)は,1953年にブータン国民議会(the National Assembly of Bhutan)を設置するなど,ブータンの近代化に尽力していきます。
・
194
5
年
~
195
3
年のアジア 南アジア
現②
バングラデシュ
,⑥
パキスタン
イギリスは,第二次世界大戦前はインドに対して債権国だったのですが,戦後は一点して債務国に転落していました。1946年頃から宗教の違いをめぐる内戦に発展し,混乱をきわめていたため,一刻も早い幕引きを狙ったのです。最後の総督〈マウントバッテン〉(1900~79)は,「イスラーム教徒とヒンドゥー教の住民の分布によって,インドを分割すればいいじゃないか」と提案し,パンジャーブ地方とベンガル地方はそれに基づき分割されました。
こうして,イスラーム教徒が多数派の地域は,1947年8月15日に
,
パキスタ
ン
として独立しました。パキスタンからインド方面には,ヒンドゥー教徒やシク教徒が難民として退去して移住してきました。その過程で,略奪や武力衝突が起き,インド最北部
の
カシミー
ル
の帰属を巡って10月に
は
印パ戦
争
に発展していくことになります。
初代大統領は全インド=ムスリム連盟
【追H24】
の指導者
〈
ジンナ
ー
〉(任1947~1948)
【追H24】
【上智法(法律)他H30】
。パキスタンの公用語は,英語とウルドゥー語です。独立時点ではま
だ
イギリス連
邦
(ドミニオン。世界各地にイギリスの勢力圏に残すため,旧植民地を寄せ集めたグループのことです)内の自治領に過ぎませんでした。しかし,独立の1年後に〈ジンナー〉は病死しました。ちなみにパキスタンという国名は,パンジャーブのP,北部に住むアフガーン人のA,カシミールのK,シンドのS,バローチスターンのTANといわれており,まさに人口的につくられたイスラーム教徒の国といってよいでしょう。パークは「(イスラーム教徒だけの)清浄な」という意味で,スタンはペルシア語で「~が多いところ」という接尾語です。
・
194
5
年
~
195
3
年のアジア 南アジア
現③
セイロ
ン(
のちのスリラン
カ
)
イギリス
【本試験H17フランスではない】
の植民地だっ
た
セイロ
ン
は,1948年にイギリス
【本試験H20ドイツではない】
連邦内の自治領として独立しました。
多数派で上座仏教を信仰す
る
シンハラ
人
を優遇する政策がとられ,1949年には主にヒンドゥー教徒であ
る
タミル
人
が選挙権を失っています。
・
194
5
年
~
195
3
年のアジア 南アジア
現④
モルディブ
モルディ
ブ
は世襲制の君主国が支配していましたが,1887年以来イギリスの保護国となっています。しかし,1953年に君主制が廃止され共和国となります。
・
194
5
年
~
195
3
年のアジア 南アジア
現⑤
インド
インドは,1947年8月15日にインド帝国から,イスラーム教徒の多い
【本試験H6地図(現在のイスラム教の分布地域を選ぶ)】
パキスタンと分離する形で,独立しました。最後の総督は〈マウントバッテン〉で,イギリスの〈アトリー〉内閣のときの決定でした。
インド初代首相は〈ネルー〉です。インド帝国時代に残されていた560余りの藩王国は,インドとパキスタンに併合されました。イスラーム教の藩王国だったハイダラーバードは,インドが1958年に武力併合しましたが
,
カシミー
ル
の対応が問題となりました。藩王はヒンドゥー教徒だったのでインドが併合しようとしましたが,住民の4分の3がムスリムだったので,1947年10月か
ら
第一次イン
ド=
パキスタン戦
争
に発展しました。
イスラーム教徒
【本試験H12「イスラム教徒」の国として成立したかを問う】
が多い地域
が
パキスタ
ン
【本試験H12】
として新たに国境が設定されたため,パキスタンのヒンドゥー教徒はインドへ,インドのイスラーム教徒はパキスタンへ移住を開始します。この数百万の大移動の混乱のさなか,各地で衝突が起こり,難民を満載した列車(難民列車)が現れました。
こうした中でも〈ガンディー〉は最期までイスラーム教徒とヒンドゥー教徒の融和を説き続けます。しかし、1948年に暴力的
な
ヒンドゥー教
徒
【本試験H11:「イスラム教の急進的信者」ではない】
【追H24時期(プールナ=スワラージの決議、ベンガル分割令との時系列)】
によって暗殺され,生涯を閉じました。「マハトマ」(偉大なる魂)と称せられ,国葬にされています。
初代〈ネルー〉首相は,大混乱に陥った独立直後のインドをまとめるには「反英」でも「非暴力」でもなく,宗教にとらわれない
「
政教分離主
義
(セキュラリズム)」が必要だと考えました。また,1951年からは第一次五カ年計画を開始し,社会主義型の計画経済を進め,鉄鋼を中心とする重工業の発展を目指しましたが,農業や綿工業の近代化には着手が遅れ,地主制(ダミンダーリー)の廃止も州の担当とされ,進展しませんでした。1951年~52年には第一回総選挙が行われ
,
インド国民会議
派
が圧倒的多数で勝ちました。
インドは中央政府の下に
,
言
語
を基礎にした14の州(当時)が置かれることになりました。例えば,南西部のケーララ州はマラヤーラム語,マドラス州(のちのタミル=ナードゥ州)はタミル語というようにです。
インド憲
法
は1949年に成立(1950年発布)されました。起草委員会の議長が,不可触賤民出身の〈アンベードカル〉であることからもわかるように,独立後のインドでは不可触賤民が
「
指定カース
ト
」と呼ばれ,地位の向上(留保措置(リザーベーション))が図られました。インドを共和国であると宣言し,イギリス連邦に属しながらも,イギリス国王への忠誠義務は負わないとされました。また,下院の多数が首相を選出し,形式上の元首として大統領を置く議院内閣制がとられ,普通選挙制の導入にともないインドは巨大な有権者を抱える民主主義国家となったのです。
ただし,貧困の問題は深刻でした。1948年以降,インドのコルカタ(カルカッタ)で貧しい人々,ハンセン病患者,不治の病を抱えた人々("死を待つ人々"),孤児への支援活動(1950年に「神の愛の宣教者会」を設立)をおこなったのが,旧ユーゴスラヴィア生まれのカトリック修道女
〈
マザ
ー=
テレ
サ
〉(1910~97)です(1979年にノーベル平和賞を受賞)。
・
194
5
年
~
195
3
年のアジア 南アジア
現⑦
ネパール
ネパール王国のシャハ王家は,1846年以来,宰相を担当するラナ家の傀儡となっていました。
しかし,1947年にはネパール国民会議派,1949年にはネパール共産党が結成され,1951年に〈トリブパン〉国王が亡命先のインドから帰国し,ラナ家を排除して王政に復帰しました(ネパールの王政復古)。
●194
5
年
~
195
3
年のインド洋海域
インド洋海
域
...①インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島,②モルディブ,③イギリス領インド洋地域,④フランス領南方南極地域,⑤マダガスカル,⑥レユニオン,⑦モーリシャス,⑧フランス領マヨット,⑨コモロ
◆戦後もイギリスはインド洋を取り囲む香港からアラビア半島のアデン,東アフリカのモンバサに至る広大な地域を勢力下に置き続けた
イギリス・フランスによるインド洋の覇権は続く
・
194
5
年
~
195
3
年のインド洋海域 現①インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島
ニコバル諸島とアンダマン諸島は大戦中に日本軍が占領し,自由インド仮政府国家主席であった〈チャンドラ=ボース〉により名目的に領有されました。
インドから囚人が送られる流刑地として機能していました。
しかし日本が撤退すると,代わって,イギリス領インド帝国が領有します。
その後アンダマン諸島とニコバル諸島は,1950年にともにインドの連邦直轄領となりました。
・
194
5
年
~
195
3
年のインド洋海域 現②モルディブ
モルディ
ブ
は世襲制の君主国が支配していましたが,1887年以来イギリスの保護国となっています。しかし,1953年に君主制が廃止され共和国となります。
・
194
5
年
~
195
3
年のインド洋海域 現③イギリス領インド洋地域
現在の「イギリス領インド洋地域」(チャゴス諸島など)はイギリスの植民地でした。モーリシャスとあわせて支配されています。
・
194
5
年
~
195
3
年のインド洋海域 現④フランス領南方南極地域
現在の「フランス領南方南極地域」はフランスの植民地でした。
・
194
5
年
~
195
3
年のインド洋海域 現⑤マダガスカル
マダガスカ
ル
は
フラン
ス
第四共和政の植民地支配下にありました。
・
194
5
年
~
195
3
年のインド洋海域 現⑥レユニオン
レユニオンは1946年にフランスの海外県となっています。製糖産業がさかんです。
・
194
5
年
~
195
3
年のインド洋海域 現⑦モーリシャス
モーリシャスは,現在の「イギリス領インド洋地域」(チャゴス諸島など)とあわせて支配されています。
・
194
5
年
~
195
3
年のインド洋海域 現⑧フランス領マヨット
マヨットは1946年にフランスの自治領になりました。
・
194
5
年
~
195
3
年のインド洋海域 現⑨コモロ
コモロはフランス領のままです。
(注)木畑洋一「ディエゴガルシア―インド洋における脱植民地化と英米の覇権交代」『学術の動向』12(3), 2007年,pp.16-23。
○194
5
年
~
195
3
年のアジア 西アジア
西アジ
ア
...①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ
(注)
,⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
(注)パレスチナを国として承認している国連加盟国は136カ国。
◆
パレスチナ問題が中東戦争に発展しイスラエルが建国。アメリカ合衆国にとって原油の採掘とソ連の南下を食い止める基地として「中東」の重要性が高まる
イスラエルが建国され,「中東」が紛争地帯に
石油資源と海上交易路をめぐり大国の思惑が絡む
西アジアでは,イラン(1907),イラク(1927),バハレーン(1932),サウジアラビア(1938),クウェイト(1946)に大量の石油の埋蔵が確認されていました。
大戦後のアメリカ合衆国は,1930年代から進めていたサウジアラビア王室〈サウード〉家と提携して設立した石油会社(1944年にアラビアン=アメリカン=オイル=カンパニー
(
アラム
コ
)と改称)によって原油採掘を本格化させました。油田が豊かなソ連の南下に対抗し,安価な石油によって世界規模の軍事的な優位を確立させようとしたのです。
西アジアから北アフリカにかけての旧オスマン帝国領や,パフレヴィー朝にかけての政権がアメリカ合衆国と良好な関係を築き情勢が安定していることが,石油の安定供給にとって最重要事項となりました。これらの地域は戦略上
「
中
東
」(Middle East)と一括して呼ばれることが多くなっていきました。「中東」イコール「原油のとれるところ」という構図やイメージも,このへんから一般化します。
この原油に目をつけたのが,アメリカ合衆国です。
アメリカの介入の背景は,第二次世界大戦後のイギリスとフランス
の
中
東
における影響力の低下と軌を一にしています。
1945年には,すでに独立を達成していたサウジアラビア,イエメン,トランスヨルダン(1946年にイギリスから「ヨルダン」
【本試験H3】
として独立),イラク,シリア(1946年にフランス
【本試験H3イギリスの委任統治ではない】
【本試験H16イギリスではない】
から独立),レバノン,エジプトの諸国
が
アラブ連
盟
を設立し,共同歩調をとる準備をしています。
それに先立つ第一次世界大戦の最中のこと。
当時イギリス
は
フサイ
ン=
マクマホン書
簡
【本試験H3イギリスが関与したことを問う】
を通しアラブ人国家建設を約束していました。
しかし,その2年後に
は
バルフォア宣
言
【本試験H3イギリスの関与を問う,本試験H9アラブ人の独立をみとめたものではない】
を通しユダヤ人国家をパレスチナに建設することを,パレスチナにユダヤ人国家を建設しようとす
る
シオニス
ト
に対しても同時に約束していたのです。
バルフォア宣言に基づき次々にユダヤ人が植民を進める中,国際連合は「アラブ人とユダヤ人の国家に分割したらどうか」とい
う
パレスチナ分割
案
【本試験H15】
を採択しました。ナチス=ドイツにおけるユダヤ人迫害によって,国際世論もユダヤ人側に同情を寄せていました。
パレスチナ分割案に対し,1948年
に
シオニズム
【東
京
H8[1
]
指定語句
】
(
イェルサレ
ム
の"シオンの丘"の地にユダヤ人国家を建設するべきだという考え)の立場をとるユダヤ人たちがパレスチナに侵攻。同
年
イスラエル国
の建国を宣
言
しました
【本試験H3フランスの委任統治領から独立したのではない,本試験H6時期(第一次世界大戦後ではない)】
【本試験H15第一次中東戦争のきっかけとなったことを問う,H29共通テスト試行 バルフォア宣言と関係がある】
。これに対し周辺のアラブ諸国により構成され
た
アラブ連
盟
が反対を表明し
【本試験H23承認していない】
,パレスチナ戦争
(
第一次中東戦
争
)が始まりました。
結果はイスラエルの圧勝でアラブ側が敗北し,100万人
の
パレスチナ難
民
【本試験H4】
【東京H17[1]指定語句】
が発生しました
【本試験H12「アラブ側が敗北し,多くの人々が難民となった」か問う】
。その多くを受け入れ,現在でも国民の約半数をパレスティナ人が占めるのは,隣国
の
ヨルダ
ン=
ハシミテ王
国
【本試験H4トルコ,イラン,アメリカ合衆国ではない】
です。
このような状況に対し,エジプトの
〈
ナセ
ル
〉
(1918~70,在任1956~70)
【東京H13[1]指定語句,H27[3]】
【本試験H10初めて立憲運動が起きたわけではない】
【本試験H15イスラエルとの平和条約を結んでいない】
【H30共通テスト試行 スカルノとのひっかけ。インドネシアの指導者ではない】
【本試験H6】
は,すでに1953年にクーデタ(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること)で王政を打倒
(
エジプト革
命
)
【本試験H6】
。
別々の国に分断されてしまったアラブ人諸国家に向けて,「アラブ人は一致してイスラエルやその支援勢力と戦うべきだ」
と
アラブ民族主
義
を呼びかけました。
・
194
5
年
~
195
3
年のアジア 西アジア
現①
アフガニスタン
バーラクザイ
朝
アフガニスタン王
国
は1933年以来〈ザーヒル=シャー〉(位1933~1973)の支配下にありました。
王はスンナ派を保護し,国内のイスラーム勢力と歩調を合わせつつ,パシュトゥーン人中心の政治運営を進めていきました。そのことが,世俗的な国家を目指そうとする人々やパシュトゥーン人以外の民族の不満を高めることとなっていきます。
・
194
5
年
~
195
3
年のアジア 西アジア
現②
イラン
パフレヴィー
朝
イラ
ン
では,第二次世界大戦中に
,
クルド
人
の居住地域とテュルク系
の
アゼルバイジャン
人
の居住地域で独立運動が起き,それぞれアゼルバイジャン国民政府とコルデスターン共和国が樹立されましたが,戦後に崩壊しています。
戦後のイランの政治は安定せず,1940年代末からはインフレも進行していきました。
しかし,原油の生産が急発展し。1951年に
〈
モサデ
グ
〉(モサッデグ)首相(任51~52,52~53)
【本試験H4ホメイニとのひっかけ】
【上智法(法律)他H30】
が
石油国有化
法
により,イギリス系企業の石油会社を国有化
【本試験H4】
【上智法(法律)他H30】
しました。しかし〈モサデク〉は間もなく1953年に失脚。これには,アメリカ合衆国の諜報機関であ
る
CI
A
(アメリカ中央情報局)やイギリス政府の関与がありました。
〈モサデグ〉の失脚後,国に接収されていたアングロ=イラニアン石油会社は復活し,翌年1954年にはブリティッシュ=ペトロリアムが設立されています。
・
194
5
年
~
195
3
年のアジア 西アジア
現③
イラク
◆
第一次中東戦争では,ハーシム家のヨルダン,ナセルのエジプト,因縁のサウジと協調できず
イラク王国でも,反英・アラブ民族主義の動き高まる
イラク王国では大戦中に,イギリス側について枢軸国と戦おうとする勢力
(
親
英派)と,枢軸国についてイギリス支配から脱却しようとする勢力
(
反
英派
,
アラブ民族主
義
者など)が争い,1941年にはイギリスによって反英派が爆撃を受ける事態に発展していました(1941年に親英派がクーデタにより反英派によって引きずり降ろされたため)。
イラクは枢軸国と連合国のまさに"
大戦後もイギリスの駐留は続く状態の中,イラク王国は1946年にアラブ連盟に参加し,1948年に建国宣言され
た
イスラエル
国
と対立。1948年に
は
第一次中東戦
争
を戦い,敗れます。
「同じアラブ人どうし,協力してイスラエルと戦おう!」
こうしたアラブ民族主義の願いは,しかし,どうにもこうにも上手くいきません。
・かつてヒジャーズ王国のハーシム家〈フセイン〉を攻撃し
た
サウジアラビア王
国
とは因縁の仲。
・同じハーシム家
の
ヨルダ
ン=
ハシミテ王
国
とは,親戚間のしがらみもありウマが合わず。
・ムハンマド=アリー朝を倒しエジプト共和国を樹立した
〈
ナセ
ル
〉は,自身
が
アラブ民族主
義
の中心と考えている。
こんな状況下で,アラブ人が一致団結するのは簡単ではありません。
しかも,エジプトで革命が起きると,イラクでも王政に対する批判も生まれ,「イギリスから距離を置くべきだ」という声も上がるようになっていきました。
・
194
5
年
~
195
3
年のアジア 西アジア
現④
クウェート
クウェートはイギリスの保護下に石油採掘が進む
クウェートはサバーハ家の首長〈アフマド〉(位1921~1950)の支配の下,イギリスの保護国となっていました。
次の〈アブドゥッラー3世〉(位1950~1965)の支配期には,かつて最大の産業であった真珠漁に代わる新たな産業として,イギリスとアメリカの石油会社の出資したクウェート石油による原油採掘がすすみ,1946年には圧倒的埋蔵量を誇るブルガン油田の採掘が開始されています。
・
194
5
年
~
195
3
年のアジア 西アジア 現⑤バーレーン
この時期のバーレーンはイギリスの保護国のままです。
・
194
5
年
~
195
3
年のアジア 西アジア 現⑥カタール
この時期のカタールはイギリスの保護国のままです。首長の〈アリー・ビン・アブドゥッラー・アール=サーニー〉(位1949~60)は石油輸出に目を付け,これを振興させる政策をとり,空港・水道などのインフラを整備していき近代化をすすめます。
・
194
5
年
~
195
3
年のアジア 西アジア 現⑦アラブ首長国連邦
現在のアラブ首長国連邦は,イギリス政府の保護下にありました。石油開発はまだ本格化していません。
・
194
5
年
~
195
3
年のアジア 西アジア 現⑧オマーン
この時代のオマーンはイギリスの保護下に置かれていました。
主な国家は2つあり,海岸のマスカットのオマーン=スルターン国(当時のスルターンは〈サイード=ビン=タイムール〉(位1932~70))と,内陸のニズワを首都に置くオマーン=イマーム国が対立している状況です。
・
194
5
年
~
195
3
年のアジア 西アジア 現⑨イエメン
北イエメンはオスマン帝国領でしたが,第一次世界大戦後に,イエメン王国として独立。隣接するサウジアラビアとの領土をめぐる戦争(1834年,サウジ=イエメン戦争)も起きていました。
イエメン王国の王にはシーア派の一派であるザイード派のイマームが就いています。
南イエメンはイギリスの保護領でした。
・
194
5
年
~
195
3
年のアジア 西アジア 現⑩サウジアラビア
サウジアラビアの国王〈アブドゥルアズィーズ〉(位1932~1953)は,豊かな石油資源を背景にアメリカ合衆国とイギリスと良好な関係を維持していました。
大戦後の1946年以降は石油開発が再開し,影響力を強めます。
しかし,国王は1953年に崩御すると,多数の息子たちどうしに国家のポストを与え,バランスをとろうとします。
同年,長男〈サウード〉(位1953~1964)が即位しました。
・
194
5
年
~
195
3
年のアジア 西アジア 現⑪ヨルダン
イギリスの委任統治領であったトランスヨルダン王国は,第二次世界大戦が終わると後の1946年に独立します。
1949年には,王家の「ハーシム」という名にちなみ国名を「ヨルダン=ハシミテ王国」と改めました。
1949年にイスラエルが建国され,パレスチナ戦争〔第一次中東戦争〕が起きると,ヨルダンはパレスチナのアラブ人の難民を多数受け入れるとともに,1950年に
は
ヨルダン川の西岸地
区
(イェルサレムを含む)を併合しました。
・
194
5
年
~
195
3
年のアジア 西アジア 現⑫イスラエル,⑬パレスチナ
パレスチナには大戦中からヨーロッパや北アフリカのユダヤ人が移住していましたが,この時代になると先住のアラブ人との間に争いが起きるようになっていました。
国際連合による解決は失敗し,1948年
に
イスラエルの建
国
が
宣
言
されると,同年から周辺のアラブ人の諸国との戦争となりました(パレスチナ戦争;第一次中東戦争)。
しかし戦争はイスラエルの勝利に終わります。
・
194
5
年
~
195
3
年のアジア 西アジア 現⑭レバノン
すでに大戦中にフランスの委任統治が終了し独立していたレバノンは,
は第二次世界大戦中の1941年6月8日に,本土がドイツ軍の占領下にあり,亡命政府となった自由フランスの統治下にあったシリア,レバノンの独立宣言とともに終了した。1941年9月27日にシリアが,同年11月26日にレバノンが独立を布告した。連合国として自由フランスを支援していたイギリスは独立布告後すぐに独立を承認し,ドイツ軍の侵攻に備えて1942年初期に軍人を両国の公使に派遣し両国を支援した。
第二次世界大戦後のレバノンは金融や観光などの分野で国際市場に進出して経済を急成長させ,ベイルートは中東のパリと評されるほど中東及び地中海有数の国際的リゾート地として,数多くのホテルが立ち並ぶなど大いにぎわっていた。
・
194
5
年
~
195
3
年のアジア 西アジア 現⑮シリア
1946年にフランスから独立していたシリア共和国は,当初から国内のアラウィー派のイスラーム教徒による反乱が起きるなど,政情は不安定でした。
1948年の第一次中東戦争にもパレスチナ側に立ち参戦しましたが,1949年には軍事クーデターが勃発。その背後にはアメリカ合衆国の諜報機関(CIA)の関与があったといわれています。
・
194
5
年
~
195
3
年のアジア 西アジア 現⑯キプロス
キプロス島はイギリスに併合され,第二次世界大戦中はイギリス海軍の要塞となっていました。
・
194
5
年
~
195
3
年のアジア 西アジア 現⑰トルコ
この時期のトルコは建国以来の伝統であった「中立」政策を転換し,アメリカ合衆国の「封じ込め政策」の一翼を担います。
〈メンデレス〉首相(任1950~60)は初の自由選挙で当選し,1952年には北大西洋条約機構(NATO)に加盟しました。
・
194
5
年
~
195
3
年のアジア 西アジア 現⑱ジョージア(グルジア)
グルジアは,グルジア=ソビエト社会主義共和国としてソ連を構成する1つの国となっています。
グルジアはソ連の指導者〈スターリン〉の出身地。彼の右腕であった〈ベリヤ〉(1899~1953)も同じくグルジア人です。
第二次世界大戦中に,この地の多くの少数民族は強制的な移住の対象となり,大戦後にも影響を残します。また,グルジア人によるソ連に抵抗する運動も起きています。
・
194
5
年
~
195
3
年のアジア 西アジア 現⑲アルメニア
アルメニアは,アルメニア=ソビエト社会主義共和国としてソ連を構成する1つの国となっていました。
この時期のアルメニアは,アメリカ合衆国側の陣営についたトルコ共和国との対立を深めます。
・
194
5
年
~
195
3
年のアジア 西アジア 現⑳アゼルバイジャン
アゼルバイジャンは,アゼルバイジャン=ソビエト社会主義共和国としてソ連を構成する1つの国となっていました。
アフリカの独立は進まなかった
戦後
の
国際連
合
はアメリカ合衆国やソ連の主導の下,世界各地のイギリスやフランスを中心とする植民地の独立を勧告しました。従来の植民地経済でアメリカ製品を売り込みたいアメリカ合衆国と,イギリスやフランスに抵抗する住民たちに社会主義的な政権を樹立してほしいソ連の思惑(おもわく)が背景にあります。
ただ植民地の独立は遅々として進まず,1951年にイタリア
【本試験H5オランダではない】
の植民地だっ
た
リビ
ア
が独立
【追H27第二次世界大戦後か問う】
【本試験H5】
しているほかは,独立に向けた動きは本格化しませんでした。
○194
5
年
~
195
3
年のアフリカ 東アフリカ
東アフリ
カ
...①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ
・
194
5
年
~
195
3
年のアフリカ 東アフリカ
現①
エリトリア
エリトリ
ア
ではイタリアからの解放後にイギリスの軍政が続いていましたが,国際連合の決議を受けて,1952年にエチオピアと合わせて連邦制を成立されました。しかし,これに対するエリトリアの住民の反発は少なくなく,後に禍根を残すことになります。
・
194
5
年
~
195
3
年のアフリカ 東アフリカ
現③
エチオピア
1941年までイタリアに併合され,イギリスに解放され
た
エチオピ
ア
では亡命先のロンドンから帰国した
〈
ハイ
レ=
セラシエ1
世
〉(位1930~19)が君臨していました。皇帝はみずからの神格化をすすめて民衆による熱狂的な支持(ラスタファリ運動といいます)も得るとともに,アメリカ合衆国に接近して資本を導入し,戦前よりも権力を強化します。
・
194
5
年
~
195
3
年のアフリカ 東アフリカ
現④
ソマリア
ソマリ
ア
は1950年には独立までの準備の間,イタリアが国際連合の信託統治をすることになりました。
・
194
5
年
~
195
3
年のアフリカ 東アフリカ
現⑤
ケニア
イギリス領東アフリカ(現在
の
ケニ
ア
)では,
〈
ケニヤッ
タ
〉がケニア=アフリカ人同盟(KAU)の党首に就任しました。イギリスはこの地域の中でも土壌の豊かで気候の良い高地を重点的に占領しており,白人高地
(
ホワイ
ト=
ハイラン
ド
)と読んでいました。ここから追い出された住民の反発は当然ながら高まり
,
キクユ
人
を中心に土地を取り返そうとする運動が過激化していきました。こ
の
マウマウ反
乱
(1952~57年)に対し,イギリス植民地当局は非常事態宣言を出して対抗し,〈ケニヤッタ〉を中心人物とみなして逮捕し,ケニア=アフリカ人同盟も弾圧しました。抵抗運動は次第に東アフリカの独立を求める運動に発展していくことになります。
・
194
5
年
~
195
3
年のアフリカ 東アフリカ
現⑥
タンザニア
大陸部はイギリスによる国際連合 信託統治
領
タンガニー
カ
として,沿岸のザンジバル島のザンジバル王国はイギリスの保護国として支配されました。イギリスは,この2か所のほかウガンダとケニアを含め,共通通貨東アフリカ=シリングを導入しました。
第二次世界大戦後にはタンガニーカ=アフリカ人協会(1929年に設立,のちのタンガニーカ=アフリカ人民族同盟(TANU))の活動が活発化していきました。この頃,のちに初代大統領となる
〈
ニエレ
レ
〉(1922~1999)はウガンダとスコットランドで学び,1952年に帰国して教師となっていました。
・
194
5
年
~
195
3
年のアフリカ 東アフリカ 大湖地
方
(
⑦
ブルンジ
,⑧
ルワンダ
,⑨
ウガン
ダ
)
1946年には国際連合が
,
ルワン
ダ
,
ブルンデ
ィ
のベルギーによる信託統治を決定しました(従来は国際連盟の委任統治領でした)。
○194
5
年
~
195
3
年のアフリカ 南アフリカ
南アフリカ...①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ,⑩マダガスカル
・
194
5
年
~
195
3
年のアフリカ 南アフリカ
現①
モザンビーク
1951年にはポルトガルの植民
地
モザンビー
ク
と
アンゴ
ラ
が,ポルトガルの海外州となりました。ポルトガルは海外植民地を「海外州」と呼び替えることで,国際社会の批判を交わそうとしたのです。
・
194
5
年
~
195
3
年のアフリカ 南アフリカ 現②スワジランド
スワジランドではイギリスの支配が続いています。
・
194
5
年
~
195
3
年のアフリカ 南アフリカ 現③レソト
レソトではイギリスの支配が続いています。
・
194
5
年
~
195
3
年のアフリカ 南アフリカ
現④
南アフリカ連邦
,⑤
ナミビア
南アフリカ連
邦
【セA H30】
では,少数の白人による「原住民(Native)」や,有色人種(Coloured)の隔離政策
(
アパルトヘイ
ト
【本試験H4インド人移民のカースト制度のことではない】
【セA H30】
【東京H7[3]】
【H30共通テスト試行「特定の居住地に強制移住させる」のは、1920年代アメリカ合衆国の移民法ではない】
(Apartheid「人種隔離」)が,アフリカーナー(オランダ人入植者にルーツを持つ人々)の支持を受けた国民党によって本格的に導入されていきました。
ナミビ
ア
は南アフリカ連邦に委任統治が任されていましたが,第二次世界大戦が終わると国際連盟がなくなったので,南アフリカ連邦は委任統治をやめ,これを併合しました。国際連合は「ナミビアは今後は国際連合の信託統治にするべきだ」と勧告しましたが,南アフリカ連邦は従わず,占領を継続させました。
・
194
5
年
~
195
3
年のアフリカ 南アフリカ
現⑥
ザンビア
,⑦
マラウイ
,⑧
ジンバブエ
北ローデシア(現在のザンビア)は1924年にイギリスの保護領に,南ローデシア(現在のジンバブエ)は,1923年に白人による住民投票でイギリスの自治植民地となっていました。
ニヤサランド(現在のマラウイ)は,いずれもイギリスの保護領として支配されていましたが,ニヤサランド=アフリカ会議(1943結成)による独立運動も始まっていました。
・
194
5
年
~
195
3
年のアフリカ 南アフリカ
現⑨
ボツワナ
ベチュアナランド保護領(現在のボツワナ)は,南アフリカ連邦のイギリス人によって支配されていました。
・
194
5
年
~
195
3
年のアフリカ 南アフリカ 現⑩マダガスカル
1946年
に
マダガスカ
ル
で,革新民主運動党(MDRM)が結成され独立を目指し,1947~1948年にはフランス支配に反対する蜂起も起きています。
○194
5
年
~
195
3
年の中央アフリカ
中央アフリカ...現在の①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン
現在のコンゴ共和国,中央アフリカ共和国,ガボンは,フランス領赤道アフリカとして支配された
中央アフリカは仏・ベルギー・ポルトガルが支配続ける
・
ガボ
ン
植民地
→現・⑥ガボン共和国
・
中央コン
ゴ
植民地
→現・⑤コンゴ共和国
・
ウバン
ギ=
シャ
リ
植民地
→現・②中央アフリカ共和国
・
チャ
ド
植民地
→現・①チャド共和国
これらの地域
は
フランス領赤道アフリ
カ
としてフランスに支配されています。首都は中央コンゴ植民地のブラザヴィルに置かれていました。
第二次世界大戦後にフランス本国で第四共和政が成立すると,フランス議会への代表派遣が認められるようになり,自治・独立に向けた運動も生まれていきます。
現在のコンゴ民主共和国は,
③
ベルギー領コン
ゴ
として植民地化されています。
現在の
⑦
サント
メ=
プリンシ
ペ
はポルトガルの植民地,
⑧
赤道ギニ
ア
はスペインの植民地です。
現在の
⑨
カメルー
ン
は,ドイツ植民地を引継ぎ,1922年にフランス(約9割の面積)とイギリスの国際連盟の委任統治領となり,1946年には新たに発足した国際連合の信託統治領となりました。
④
アンゴ
ラ
ではポルトガルが,住民を酷使したダイヤモンド鉱山やコーヒー・綿花などのプランテーションが行われました。ポルトガルからのアンゴラ移民も増加していました。
○194
5
年
~
195
3
年の西アフリカ
西アフリカ...
①
ニジェー
ル
,
②
ナイジェリ
ア
,
③
ベナ
ン
,
④
トー
ゴ
,
⑤
ガー
ナ
,
⑥
コートジボワー
ル
,
⑦
リベリ
ア
,
⑧
シエラレオ
ネ
,
⑨
ギニ
ア
,
⑩
ギニアビサ
ウ
,
⑪
セネガ
ル
,
⑫
ガンビ
ア
,
⑬
モーリタニ
ア
,
⑭
マ
リ
,
⑮
ブルキナファソ
西アフリカの独立は進まず
この時期,現在の
①
ニジェール共和
国
,
③
ベナ
ン
,
⑥
コートジボワー
ル
,
⑪
セネガル共和
国
,
⑬
モーリタニ
ア
,
⑭
マリ共和
国
,
⑮
ブルキナファ
ソ
は
,
フラン
ス
の植民地支配を受けていました。
1948年に
は
セネガ
ル
で〈サンゴール〉(1906~2001)がセネガル民主連合(BDS)を立ち上げました。1946年には現在
の
マ
リ
のバマコでアフリカ民主連合(RDA)が結成され,フランスからの独立運動を主導していきました。
⑨
ギニ
ア
では1947年にギニア民主党(PDG,ギニア進歩党から改称)の書記長に
〈
セ
ク=
トゥー
レ
〉が就任し,独立運動を主導しました。
②
ナイジェリ
ア
,
⑫
ガンビ
ア
はイギリス領でした。
黄金海岸(現在の
⑤
ガー
ナ
)はイギリス領(イギリス領ゴールドコースト)でしたが,有力者により統一ゴールド=コースト会議(UGCC)が開かれ,1949年にはアカン人の鍛冶屋の家に生まれ
た
(注
)
〈
エンクル
マ
〉(ンクルマ,1909~72)
【追H30デクラークではない】
の指導する労働者の支持を受けた会議人民党(CPP)が成立し,1951年の議会選挙で勝利。〈エンクルマ〉は1952年にゴールド=コーストの初代首相に就任しました。
イギリス領であった
⑧
シエラレオ
ネ
では1950年にシエラレオネ人民党(SLPP)が結成されています。
④
トー
ゴ
は旧ドイツ領で,西部はイギリス,東部はフランスの委任統治領となりました。西部のイギリス側はイギリス領ゴールドコースト(現在のガーナ)に併合されています。
⑩
ギニアビサ
ウ
はポルトガル領でした。
⑦
リベリア共和
国
では,1944年に当選して以降,27年間にわたって大統領を務めたアメリカ系黒人の〈ダブマン〉(任1944~71)は外資を導入してリベリアの開発に努めます。
1948年には便宜地籍船(べんぎちせきせん)制度を導入。アメリカ合衆国が中心となって資本が投下されていきました。
ほかの植民地と違い,植民地化の影響を受けていないように見えますが,内部にはアメリカ系黒人と先住の諸民族との間の対立関係があり,のちのち大きな亀裂をもたらすことになります。
(注
)
「エンクルマ」の項目,西川正雄『角川世界史辞典』角川書店,2001年。
○194
5
年
~
195
3
年のアフリカ 北アフリカ
北アフリ
カ
...
①
エジプト
,②
スーダン
,③
南スーダン
,④
モロッコ
,⑤
西サハラ
,⑥
アルジェリア
,⑦
チュニジア
,⑧
リビア
・
194
5
年
~
195
3
年のアフリカ 北アフリカ
現①
エジプト
エジプ
ト
ではムハンマド=アリー朝の王国が続いていましたが,自由将校団が1952年に革命を起こして〈フアード2世〉(任1952~53)は退位し
,
エジプト共和
国
が成立しました
(
エジプト革
命
)。自由将校団の首班は〈ナギーブ〉(1901~1984)で1952年に首相,1953年に大統領に就任しました。
・
194
5
年
~
195
3
年のアフリカ 北アフリカ
現②
スーダ
ン
(
③
南スーダ
ン
)
スーダ
ン
は1956年までイギリスとエジプトの共同統治下にありましたが,ウンマ党による独立運動も始まっていました。
・
194
5
年
~
195
3
年のアフリカ 北アフリカ
現④
モロッコ
,⑤
西サハラ
モロッ
コ
ではアラウィー朝の〈ムハンマド5世〉(位1927~53)が独立運動を推進し,1953年にフランスにより廃位されました。
スペインはモロッコ南部の沿岸地域を20世紀初めから「スペイン領西アフリカ」として植民地化しています。これはのち
の
西サハ
ラ
となります。
・
194
5
年
~
195
3
年のアフリカ 北アフリカ
現⑥
アルジェリア
アルジェリ
ア
はフランスの支配下に置かれています。
・
194
5
年
~
195
3
年のアフリカ 北アフリカ
現⑦
チュニジア
フサイン朝
の
チュニジ
ア
は1881年の占領以後,フサイン朝のベイの地位が保障される形で保護領の扱いとなっています。
・
194
5
年
~
195
3
年のアフリカ 北アフリカ
現⑧
リビア
リビ
ア
はイギリスとフランスにより共同統治されていましたが,国連の決議により1951年
に
リビア連合王
国
【追H27第二次世界大戦後か問う】
としてイタリアから独立しました。連合王国を構成するのは,東部のキレナイカ首長国西部のトリポリタニア,南部のフェッザーンの3州です。
独立運動に尽力し,1916~1923年にイタリアの保護下で名目上のアミール(首長)を務めていたサヌーシー教団の指導者(第4代シャイフ)が,新たに〈イドリース1世〉(位1951~69)として国王に即位していま
す
(注
)
。
(注
)
「ムハンマド=イドリース」の項目,西川正雄『角川世界史辞典』角川書店,2001年。
○194
5
年
~
195
3
年のヨーロッパ 東ヨーロッパ
東ヨーロッ
パ
...冷戦中に「東ヨーロッパ」といえば,ソ連を中心とする東側諸国を指しました。ここでは以下の現在の国々を範囲に含めます。バルカン半島と,中央ヨーロッパは別の項目を立てています。
①
ロシア連
邦(
旧ソ
連),②
エストニア
,③
ラトビア
,④
リトアニア
,⑤
ベラルーシ
,⑥
ウクライナ
,⑦
モルドバ
・
194
5
年
~
195
3
年の東ヨーロッパ 現①ロシ
ア(
ソ
連
)
ソ連の最高指導者は〈ヨシフ=スターリン〉。第二次世界大戦が終わると,東ヨーロッパに勢力圏を及ぼすことに成功し,アメリカ合衆国・イギリスを中心とする西側諸国との直接的な戦争のない対立(冷戦)を生みました。
ただし,バルカン半島
の
ユーゴスラビア
【名古
屋
H30[4
]
指定語句
】
の
〈
チト
ー
〉
【追H21】
は,ソ連の影響力行使に反対しコミンフォルムを追放され,ソ連との国交も断絶しています。
東方では,連合国軍が分割占領していた朝鮮半島の支配をどうするかという問題をめぐり,モスクワ三国外相会議の案(アメリカ・ソ連・イギリス・中国による信託統治)が,米ソ共同委員会が決裂したことによりパーになり,連合国の管理下で南北共同選挙をおこなう計画もかなわず,1948年に朝鮮半島北部のソ連占領地域で朝鮮民主主義人民共和国が成立しました。1949年に中国共産党の一党独裁制である中華人民共和国が成立すると,これ
と
中ソ友好同盟相互援助条
約
【早法H26[5]指定語句,論述(中国を巡る外交関係の展開)】
を結び,東側陣営にとりこみました。〈毛沢東〉は当初は"向ソ一辺倒"を掲げ,ソ連の支援の下,ソ連型の国家建設を目指すことになります。
1950年には朝鮮民主主義人民共和国が朝鮮半島統一を目指し大韓民国を軍事侵攻。〈スターリン〉は〈金日成〉に支援を要請されましたが,核保有国どうしの対決を避けて参戦はしませんでした。〈毛沢東〉も,建国間もない中華人民共和国が参戦するにあたり,アメリカ合衆国との直接対決を避けるため,人民解放軍の派遣ではなく義勇兵という形で軍を編成し,朝鮮民主主義人民共和国を支援しました。
そんな中,
〈
スターリ
ン
〉は1953年
に
死
去
します。
・
194
5
年
~
195
3
年の東ヨーロッパ 現②エストニア
,③
ラトビア
,④
リトアニア
バルト三国ではソ連による社会主義化が進んだ
エストニアでは,1944年9月,ドイツ軍の撤退とソ連の再占領の間のほんのスキマに,「エストニア共和国」として独立国家が樹立されました。せっかく樹立された国を守るために抵抗した共和国軍の奮闘もむなしく,数日後にはソ連に再占領を受けました。
というわけで,これ以降はエストニア=ソヴィエト社会主義共和国となっています。
ラトビアは1940年以降ソ連領となり,ラトビア=ソビエト社会主義共和国としてソ連の構成国となりました。1941~44年はドイツの占領下に入りますが,1944年のソ連に再び占領されています。
リトアニアは1940年以降リトアニア=ソビエト社会主義共和国としてソ連の構成国となり,1941年~1944年までドイツの占領下を受けた後,ソ連に再び占領されました。
・
194
5
年
~
195
3
年
の⑤
ベラルーシ
,⑥
ウクライナ
,⑦
モルドバ
ベラルー
シ
は第二次世界大戦中の1941年にドイツに占領され,1944年にソ連が奪還しました。ポーランド人は歴史的に,ベラルーシからウクライナにかけての広い地域に分布していましたが,第二次世界大戦後にポーランドとソ連の境が大きく西側に移動されると,ベラルーシの領土内にいたポーランド人は移動を余儀なくされています。「ベラルーシ人」が誰なのかという定義は,今なお明確とはえませんが,このときにベラルーシにとどまった人々やユダヤ人,または移住してきたロシア人が人口の多くを占めるようになっていきます。
ウクライ
ナ
のウクライナ=ソヴィエト社会主義共和国は,第二次世界大戦後もソ連の構成国の一つとして,"大ロシア"(ロシア)に対する"小ロシア"(ウクライナ)の地位にとどまりました。
モルド
バ
は,もともとルーマニア人のモルダヴィア公国でしたが,オスマン帝国の支配に入った後,1812年にロシアに割譲。その後,第一次世界大戦後にルーマニア領になって,1940年に今度はソ連の領土に。こういう経緯から住民の多くはルーマニア語を話すのに,支配者がロシア人という構図が生まれます。
○194
5
年
~
195
3
年のヨーロッパ バルカン半島
バルカン半
島
...
①
ルーマニア
,②
ブルガリア
,③
マケドニア
,④
ギリシャ
,⑤
アルバニア
,⑥
コソヴォ
,⑦
モンテネグロ
,⑧
セルビア
,⑨
ボスニ
ア=
ヘルツェゴヴィナ
,⑩
クロアチア
,⑪
スロヴェニア
・
194
5
年
~
195
3
年のヨーロッパ バルカン半島 現①ルーマニア
第二次世界大戦で枢軸国側についたルーマニアでは,大戦末期に革命が起きて連合国側につきますが,大戦後にベッサラビア地方とブコヴィナ地方をソ連に奪われました。国王〈カロル2世〉は支持を失い,1947年には人民政府が樹立されて王政が廃止され,ルーマニア人民共和国が建てられました。
・
194
5
年
~
195
3
年のヨーロッパ バルカン半島 現②ブルガリア
第二次世界大戦で枢軸国側についていたブルガリアは,1944年にソ連による軍事侵攻を受けます。同年にクーデタが起き,ソ連側に立ちドイツと戦うことになります。大戦後は祖国統一政府が樹立され,国民投票で王政が廃止。ブルガリア人民共和国が建国され,ブルガリア共産党による一党独裁制となり,〈ディミトロフ〉が首相に就任されました。
・
194
5
年
~
195
3
年のヨーロッパ バルカン半島 現④ギリシャ
・
194
5
年
~
195
3
年のヨーロッパ バルカン半島 現⑤アルバニア
・
194
5
年
~
195
3
年のヨーロッパ バルカン半島 現③マケドニア
・⑥
コソヴォ
・⑦
モンテネグロ
・⑧
セルビア
・⑨
ボスニ
ア=
ヘルツェゴヴィナ
・⑩
クロアチア
・⑪
スロヴェニア
〈チトー〉は1937年代末にユーゴ共産党の書記長に任命され,1941年からはパルチザン戦争の最高司令官として活躍しました
(
注
1
)
。 当初はソ連型の社会主義国を建設しようとしますが,パルチザンとしてドイツと戦う過程ですでににさまざまな社会改革がおこなわれていたユーゴスラヴィアでは,共和国間の国境紛争や民族問題をたくみに調整しながら,次第に「自主管理」を基本とする独自の社会主義をつくっていくことになります。
まず1945年3月に〈チトー〉
【追H21】
首班の国民統一戦線ができましたが,事実上は共産党が実権を握る人民戦線であり,1945年11月の選挙で共産党の一党支配が確定しました。基幹産業の国有化が推進され土地改革もおこなわれました。
1946年にユーゴ連邦人民共和国憲法が制定され,新たなユーゴの国のかたちが決まります。6つの共和国と,ハンガリー人の分布す
る
ヴォイヴォディ
ナ
自治州,アルバニア人の分布す
る
コソヴ
ォ
=メトヒヤ自治区(この自治州・自治区はセルビア共和国に含まれます)により構成されるソ連をモデルにした連邦制をとり,連邦中央が強大な権限を持っていましたが,民族の自治は認められます。ヴォイヴォディナとコソヴォが設定されたのには,連邦内の最大の共和国であるセルビアの力を押さえようというユーゴ共産党指導部の思惑があったといいます
(
注
2
)
。
ユーゴスラヴィアは当初はソ連や東ヨーロッパの国々と友好関係を築いていましたが,〈チトー〉は〈スターリン〉によるスラヴ人をまとめて支配下に置こうとする方針に反発し(〈スターリン〉にはユーゴとブルガリアをあわせて南スラヴ連邦を形成しようとする目論見がありました),1948年6月のコミンフォルム(共産党・労働者党情報局)の第二回会議でユーゴに対する批判が繰り広げられた結果
,
ユーゴスラヴィアはコミンフォルムから除
名
されまし
た
【名古
屋
H30[4
]
指定語句「ユーゴスラヴィア」
】
。
除名されたユーゴスラヴィアはソ連・東ヨーロッパから切り離された結果,ソ連型の社会主義国づくりからの方向転換を図り,「中央からの司令によって各企業が生産する」のではなくて,「各企業が労働者評議会を設立し,自分たちで生産目標を立て自分たちで管理をする」方式をとりました。これ
を
自主管
理
とといいます(1950年に自主管理法が制定されています)。1953年1月には新たに分権的な憲法が制定され,中央集権的なソ連との違いは一段と鮮明になりました。
外交的にはソ連側にもアメリカ合衆国側にもつかない
「
非同盟政
策
」が目指され「積極的平和共存」を掲げ,冷戦真っ只中のヨーロッパにあって異彩を放ちます。
(注1)柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』岩波書店,1996年,p.104。
(注2)柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』岩波書店,1996年,p.107。
○195
3
年
~
197
9
のヨーロッパ 西ヨーロッパ
西ヨーロッ
パ
...
①
イタリア
,②
サンマリノ
,③
ヴァチカン市国
,④
マルタ
,⑤
モナコ
,⑥
アンドラ
,⑦
フランス
,⑧
アイルランド
,⑨
イギリス
,⑩
ベルギー
,⑪
オランダ
,⑫
ルクセンブルク
・
194
5
年
~
195
3
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現④
マルタ
第二次世界大戦で重要な役割を演じたマルタでは,住民による自治・独立要求が高まっていました。
・
194
5
年
~
195
3
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現⑧
アイルランド
,⑨
イギリス
1945年7月26日の総選挙で「福祉国家政策」を掲げた労働党が勝利し,
〈
アトリ
ー
〉内閣
【追H30】
が発足しました。
〈アトリー〉内閣は,労災法(1946)・国民保険法(1946)・国民保険基金の設立(1946)・国民扶助法(1947)・国民年金法(1948)を相次いで成立させ,国民保険サーヴィス法(1946)では医療費の無料化も実現します
【追H30「社会福祉制度の充実が進められた」か問う】
。
また,イングランド銀行を国有化し,石炭・鉄道・運河・運輸・電気などの基幹産業・インフラに関わ
る
民間企業
を
相次い
で
国有
化
していきました。
イギリスには戦地から若者が戻り,空前のベビーブームを迎え,ニュータウンが建設されていきました。1947年に金融危機が起きると,1948年にアメリカ合衆国によ
る
マーシャ
ル=
プラ
ン
を受け入れます。
もはやイギリスには世界各地に広がる植民地帝国を維持する余裕はなく,1947年に
は
インド帝
国
をインド・パキスタンに分離させて独立する形で手放し
【追H27東インド会社から独立したわけではない】
,同年にはパレスチナの取り扱いを国際連合に委託。ギリシア,トルコに対する支援も停止しました。イギリス帝国の"店じまい"に代わって国際政治をとりまとめようとした資本主義国がアメリカ合衆国でした。
1950年に労働党が僅差で勝利しましたが,朝鮮戦争への派兵で財政が逼迫すると批判が集まり,1951年の総選挙で
〈
チャーチ
ル
〉の保守党政権への揺れ戻しが起きます。
なお,1952年12月にはロンドンで石炭由来の大気汚染物質の影響で深刻なスモッグが発生し,1万人以上が亡くなっています。これを受け,大気汚染対策の重要性がようやく認識されるようになっていきます。
・
194
5
年
~
195
3
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現⑩
ベルギー
,⑪
オランダ
,⑫
ルクセンブルク
1948年3月
に
西欧同
盟(
WE
U
)
を結成
(
ブリュッセル条
約
【
本試
験H
10時期(1950年代か問う),コメコンが結成されたわけではない】
【本試験H17海軍の軍備の制限に関する条約ではない】
)。英・仏に
,
ベネルクス三
国
(
ベルギ
ー
,
オラン
ダ
,
ルクセンブル
ク
)を加えた同盟です。ベネルクス三国は,大戦中にドイツの進入をゆるし,被害をこうむってきた小国でした。
ベルギーは二度の大戦でドイツの侵攻を受けた苦い経験から,1949年に永世中立国政策を放棄します。
○194
5
年
~
195
3
年のヨーロッパ 北ヨーロッパ
北ヨーロッパ...
①
フィンラン
ド
,
②
デンマー
ク
,
③
アイスラン
ド
,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,
⑤
ノルウェ
ー
,
⑥
スウェーデン
・
194
5
年
~
195
3
年のヨーロッパ 北ヨーロッパ
現①
フィンランド
フィンラン
ド
は,連合国側に立ったソ連と「冬戦争」「継続戦争」(⇒1929~45の北ヨーロッパ)を戦ったため枢軸国に位置づけられ敗戦国となり,領土も失いました。戦後のフィンランドはソ連寄りの外交路線をとり,アメリカ合衆国によるソ連「封じ込め政策」の一環であ
る
マーシャ
ル=
プラ
ン
も参加を辞退しています。ソ連とは友好協力相互援助条約を締結し,同盟関係を結びました。
・
194
5
年
~
195
3
年のヨーロッパ 北ヨーロッパ
現②
デンマーク
ドイツの占領を受け
た
デンマー
ク
では,戦後復興が進められ,アメリカ合衆国
の
マーシャ
ル=
プラ
ン
の参加を受け入れています。
・
194
5
年
~
195
3
年のヨーロッパ 北ヨーロッパ
現③
アイスランド
アイスラン
ド
は1940年にイギリスによる占領を受け,1941年からはアメリカ軍が駐留しました。1944年に国民投票でデンマークから独立し,アイスランド共和国が成立。独立後も基地貸与を望んだアメリカを拒否しましたがキェプラヴィーク空港の使用は許可され,冷戦が激しくなるとともにアメリカ軍の駐留は継続されました(1951年からはアメリカ軍がアイスランド防衛隊として駐留(2006年まで))。アメリカ
の
マーシャ
ル=
プラ
ン
を受け入れ,1949年にはNATOに加盟し,その安全保障の下に入りました。アイスランドは北極海を挟みアメリカとソ連の間に位置するため,戦略的に重要視されたのです。
・
194
5
年
~
195
3
年のヨーロッパ 北ヨーロッパ
現⑤
ノルウェー
ドイツの占領を受け
た
ノルウェ
ー
では,戦後復興が進められました。ともにアメリカ
の
マーシャ
ル=
プラ
ン
の参加を受け入れています。ノルウェーでは労働党が議席を増やしています。
・
194
5
年
~
195
3
年のヨーロッパ 北ヨーロッパ
現⑥
スウェーデン
スウェーデ
ン
は第二次世界大戦では名目上「中立」
【本試験H4中立を維持したか問う。オーストラリア,中国,ポーランドは中立ではない】
を保ち直接の戦場にはならなかったので,戦後の復興も早く,いち早
く
福祉国
家
の国づくりを進めることができました。アメリカ
の
マーシャ
ル=
プラ
ン
の参加を受け入れています。
南極大陸を巡っては,各国が領有権を主張する状況にあります。
オーストラリアの主張する領土がもっとも広く,ほかに,南極探検をおこなっていたイギリス,,ニュージーランド,フランス,ノルウェーのほか,チリやアルゼンチンが主張します。
なお,日本が領有を主張していた領土は,敗戦にともない放棄させられています
。
(参考)領有権を主張した国々
1908年,イギリス 西経20度から西経80度
1923年,ニュージーランド 西経150度から東経160度
1924年,フランス 東経142度2分から東経136度11分→フランス領南方南極地域として
1933年,オーストラリア 東経160度から142度2分,東経136度11分から東経44度38分
1939年,ノルウェー 東経44度38分から西経20度
1940年,チリ 西経53度から西経90度
1942年,アルゼンチン 西経25度から西経74度
英仏中心の帝国主義体制が崩壊し,核保有国のアメリカ・ソ連が「冷戦」を通して新たな国際秩序の主導権を争った。アジア,アフリカ諸国の多くが脱植民地化を実現するが,欧米主体の世界経済構造からの脱却が課題となる。
時代のまとめ
(1)
「冷戦」構造が再編され,多極化が進む
1953年の〈スターリン〉の死と,それに続く
「
スターリン批
判
」により,社会主義圏に組み込まれていた東ヨーロッパではソ連に対する自由化を求める動きが起こり,中華人民共和国と
の
中ソ対
立
【早法H26[5]指定語句「中ソ論争」】
に発展しました。社会主義諸国が分裂する中
,
ヴェトナム戦
争
の失敗にともないアメリカ合衆国が中華人民共和国と国交を回復し,国際関係はますます複雑化しました。
また,第二次世界大戦で戦場となったヨーロッパのフランス,西ドイツの経済成長とヨーロッパ統合の推進,日本の高度経済成長の達成な
ど
多極
化
が進みます。
1973年の石油危機とヴェトナム戦争の失敗以降,アメリカ合衆国の経済的な覇権は揺らぎます。そして,ブレトン=ウッズ会議(1944)により決定され導入された,アメリカ合衆国の発行するドルを国際的な基軸通貨とす
る
固定相場
制
【本試験H10下線部】
は,変動相場制に移行していったので。
(2)
独立した発展途上国では,輸入代替工業化と「緑の革命」が推進される
第三勢
力
(「ソ連側にもアメリカ側にも付かないよ」という勢力
)
が形成されるが,大国が介入する
また,アジア,アフリカを中心
に
脱植民地
化
が進み,アメリカやソ連の影響を拒む
「
第三勢
力
」(第三世界)の形成を目指す運動も起こりました。
しかし,独立勢力や新政権・反政府勢力をアメリカ,ソ連,中華人民共和国などの大国が支援することも多く,経済的利権をめぐる大国や周辺国によ
る
代理戦
争
に発展する例も多くみられました。
輸入代替工業化を強引に進めるため,「開発独裁」が広がる
アメリカ合衆国を中心とする資本主義経済圏に取り込まれた地域では,しばしば民主化を抑え込む中央集権的な政府の下で,
「
輸入代替工業
化
」(国外から製品を輸入する代わりに自前で生産すること)による経済成長が目指されました。これ
を
開発独
裁
といいます。先に産業革命(工業化)を達成した国々は西欧・アメリカ合衆国・日本といった温帯地域(北)に多く,遅れをとった国々が熱帯地域(南)に多いことから,地球レベルの経済的格差から生じるさまざまな問題が
「
南北問
題
」
【本試験H9米ソの政治・経済体制の違いのことではない】
と呼ばれることになります。これは1959年のイギリスのロイズ銀行会長が講演においてこれからは南の世界へ
の
開発援
助
が重要だと提言したことが始まりといわれます。
南北問題が意識される中,アメリカ合衆国の経済学者〈ロストウ〉(1916~2003)は『経済成長の諸段階』(1960)を著し,「貧しい国が成長するためには,伝統的社会→離陸(テイクオフ)のための先行条件
→
離
陸
→成熟への前進→高度大衆消費社会」(経済発展段階説)の道のりをたどるのだと論じ,アメリカ合衆国による世界各国への援助政策にも大きな影響を与えました。1961年には「国連開発の10年」宣言が出され,1964年
に
国連貿易開発会
議
(UNCTAD,アンクタッド)が開催されて同年の総会決議により常設機関となりました。鉱産資源や農産物といった一次産品の生産国は,それらを「買ってくれる」先進国に対して,「買ってもらう」側の下の位置になりがちです。しかし,「買ってくれる」先進国の需要に合わせて商品価格が決まるということは,一次産品に依存する国々にとっては一国の経済に影響を与える大問題です。そこで,発展途上国の生産国が中心となって,一次産品の価格をとりきめるためのグループ
(
資源カルテ
ル
)が次々に結成されていきました。石油に関す
る
OPE
C
が有名ですが,バナナのUPEB,天然ゴムのANRPC,南洋材のSEALPA,銅のCIPECなどがあります。
一方で,ソ連の側もアメリカ合衆国に負けじと援助をちらつかせ,独立後の国々に社会主義的な国家運営をするように迫ります。
ただ,東アジア・東南アジア地域では,第二次世界大戦前から地域内の市場が形成されていた点も見逃せません。
第二次大戦後には,敗戦国の日本がアメリカの自由貿易体制に参入したことから,日本を中心とする自由貿易圏が形成されていくことになります。
高度経済成長を遂げた日本から資本がアジアの地域にも投下されることで,日本に続いて経済成長を達成するアジア諸国・諸地域
(
アジ
ア
NI
Es
【東京H28[1]指定語句】
【セA H30】
)も現れるようになっていきます。
一方,事実上たった一つの政党が政府と人事権を握るシステムを形成してきたソ連や中華人民共和国では,理想化された社会主義政策が失敗し,1970年代末に中華人民共和国では市場主義の部分的な導入に踏み切ることになります。
「緑の革命」が推進され農業生産性が高まるが,負の側面ももたらす
アジアの発展途上国の中には,工業化の進展のためには農業生産性を高めることが不可欠との立場から
「
緑の革
命
」(green revolution)という品種改良や技術革新を導入する国も現れます。
①品種改良
(注
)
②化学肥料の使用
③化学農薬
これらを通して近代的な農業が目指されましたが,一方で伝統的な共同体が崩れ貧富の差が広まったり,生態系に合わせた持続可能な農業ができなくなったり,または,過剰な開発や大量の取水によって土地が荒れて砂漠化したりするケースも出てきます。
化学肥料についても,先進国の企業が生産するわけですので,工業製品=肥料製造をする先進国と,それを買わざるをえない発展途上国の上下関係は固定化されてしまいます。
(注)1960年代後半に,フィリピン
の
国際イネ研究
所
(IRRI)が 「IR8」 という多収穫品種を開発します。単位面積当りの収量を飛躍的に向上させ,「奇跡の米」とうたわれました。
(3)
アメリカ文化が世界中に広がり科学技術が高度化,環境問題が認識され始める
この時期は,アメリカ合衆国の文化
(
アメリカ文
化
)が,特に西側諸国を中心に世界中に広がった時代でもあります
。
マクドナル
ド
(1940年創業)
,
コ
カ=
コー
ラ
(1892年設立)に象徴される大量生産・大量消費社会は,とどまることなく発展を続けました。1863年に生産が可能になっ
た
アルミニウ
ム
は,缶ジュースの缶として大量生産されるようになりました。アルミニウムは
,
現代建
築
の家屋・アパートの窓枠や,自動車・航空機にも使用されるようになり,20世紀は「石器時代」「青銅器時代」「鉄器時代」に続く"アルミニウム時代"ともいえるかもしれません("プラスチック(石油)時代"といっても良いかもしれませんが)。音楽の世界では〈エルヴィス=プレスリー〉(1935~77)やビートルズらによ
る
ロッ
ク
というジャンルが生まれ,ビートルズの元メンバーだった
〈
ジョ
ン=
レノ
ン
〉(1940~80)や
〈
ボ
ブ=
ディラ
ン
〉(1941~)のように,反戦運動など政治を風刺する音楽を制作する者も現れました。また,工業製品のデザイン技術が発達し,大量生産的で無味乾燥なデザインを風刺した〈アンディー=ウォーホル〉(1928~87)のポップアート(トマト缶のパッケージや女優〈マリリン=モンロー〉を素材としました)や,芸術本来の原始的な力強さを復活させようとした〈岡本太郎〉(1911~96)の芸術作品が注目されました。
1945年~1953年に開発が進んでいたコンピュータ(電子計算機)を,離れた場所どうしで交信させる技術が開発されていくのもこの時期です。1960年代末にはARPANET(アーパネット)というコンピュータ間のパケット通信がアメリカで実用化されましたが,複数のネットワークどうしの通信(インターネット
【追H27時期が1920年代のアメリカの大衆文化か問う(誤り)】
)は,まだ開発の途上にありました。
また,1953年のアメリカ合衆国の〈ワトソン〉(1928~)とイギリスの〈クリック〉(1916~2004)
が
DNAのらせん構
造
を明らかにして以来,生物学の研究が急激に進んでいきます。
一方で,この時期に
は
公害問
題
や地球レベル
の
環境問
題
が,人間の経済活動によって引き起こされることがようやく認識されるようになっていきます。
例えば,石炭や石油が無限に存在するものではなく,やがて枯渇するおそれがあるという説も提唱されるようになり,1972年に
は
ローマクラ
ブ
(1970年発足)というシンクタンク(研究機関)が
『
成長の限
界
』を発表し,資源が有限であることを世界に警告しています。
また,19世紀末以降,農業生産を爆発的に高め
た
化学肥
料
や
農
薬
について
も
生態
系
(エコシステム)に対する悪影響が指摘されるようになります。特に,農薬として使用されてい
た
DD
T
の危険性
(注
)
を指摘したアメリカの生物学者〈レイチェル=カーソン〉(1907~1964)の
『
沈黙の
春
』(1962)は大きな影響を与えました。
また,国際社会
は
国際連
合
(本部はアメリカ合衆国のニューヨークにあります)を中心として,さまざまな人権を保障するための活動を続けています。すべての人類が平等に持っているべき基本的な人権が守られなかったから,2度の大戦が起きてしまったのだという反省に基づくものです。
1975年には国際連合の提唱によりメキシコで第一
回
国際女性会
議
【立教文H28記】
が開催され,1979年に
は
女性差別撤廃条
約
【東京H30[1]指定語句】
が成立し,女性の人権を向上させようとする運動が盛んになっていきます。
○195
3
年
~
197
9
年のアメリカ 北アメリカ
・
195
3
年
~
197
9
年のアメリカ 北アメリカ
現①
アメリカ合衆国
〈アイゼンハワー〉はソ連
に"
巻き返せ
ず
"
1953年1月に共和党の
〈
アイゼンハワ
ー
〉(1890~1969,在任1953~61)が,大統領に就任しました。ノルマンディ上陸作戦を指揮した人物です。そして,3月5日に〈スターリン〉が死去します。〈アイゼンハワー〉は
「
ドミノ理
論
」(ある国で社会主義革命が起きると"ドミノ倒し"のように周辺国につぎつぎに波及していくという理論)の信奉者であり,
「
巻き返
し
」(Rollback
)
政
策
をかかげて,同盟国を経済的・軍事的に支援しました。57年にはアイゼンハワー=ドクトリンを出し,核兵器の力を頼りにソ連の影響力が中東に及ぶことを阻止しようとしました
【本試験H26協調外交を推進していない,ドイツ人ではない】
。
しかし,1959年1月にはカリブ海のキューバで〈カストロ〉らによる革命が起き親米政権が倒され,3月にはソ連のルナ2号が月面に着陸。アメリカ合衆国政府は危機感を強め,〈フルシチョフ〉は訪米してキャンプ=デーヴィッドで〈アイゼンハワー〉と会談しました
(
キャン
プ=
デーヴィッド会
談
)。また,この間,ヨーロッパにおける経済統合もすすみ,イギリスも1960年に北欧諸国ととも
に
EFT
A
(ヨーロッパ自由貿易連合)
【本試験H31 ECSCを基にしていない】
を形成します。1960年2月にはフランスの〈ド=ゴール〉政権の下で核実験に成功。
1956年の『経済白書』が「もはや戦後ではない」
(1人当りの実質国民総生産(GNP)が戦前の水準を超えたということ)
とうたったように,日本の経済成長もすすんでいます
。
アフリカ諸国でも1960年に独立ラッシュ(アフリカの年)を迎え,1960年9月にはOPEC(石油輸出国機構)が成立するなど,第三諸国の影響力も上昇していました。"雪どけ"には,〈スターリン〉の死だけはなく,アメリカ合衆国の"劣勢"も影響していたのです。
◆
国際経済が多極化する中,〈ケネディ〉は開発援助により資本主義圏をまとめようとしたが暗殺
多極化する世界,破局手前のキューバ危機
15年前の第二次世界大戦終了時には思いもよらなかった構図となっていた国際社会。
そんな中,テレビ中継による大統領候補同士の公開討論で,"頼もしさ"や"新しさ"をアピールしたことで支持率を上げたのは,民主党から出馬した若手の
〈
ケネデ
ィ
〉(1917~63,在任1961~63)
【追H19】
。若手と言っても,アイルランド移民としてアメリカに渡り財を成した〈ケネディ〉家は名門中の名門です。
彼は
「
ニューフロンティア」政
策
を旗印に,史上最年少,そして史上初めて
の
アイルランド
系
【本試験H4
】
カトリック教
徒
【本試験H4】
として大統領に就任しました
【本試験H7ヴェトナム反戦運動の支持を受けて当選したわけではない】
。
〈ケネディ〉政権は,発展途上国の社会主義化を防ぐためには,〈アイゼンハワー〉政権のときのようにただ単に援助するのではダメで,その国の体制が経済をしっかり開発することができるよう後押しをすることが大切だと考え,
「
進歩のための同
盟
」(アライアンス=フォー=プログレス)を掲げました。
例えば,1961年に
は
OEC
D
(オーイーシーディー、経済協力開発機構)が立ち上げられ,先進国による発展途上国の援助により,独立した旧植民地がソ連側のいうことをきかないよう,つなぎとめようとしました。
これはかつてのマーシャル=プラン受け入れ機関であるOEEC(ヨーロッパ経済協力開発機構)にアメリカ合衆国とカナダが加わったもの。本部はパリに置かれ,
"
先進国クラ
ブ
"ともいわれます。
しかし,62年にはソ連のミサイル基地が,合衆国と目と鼻の先にあるキューバに設置されていることが判明します。ソ連に対して撤去を要求しましたが,核戦争一歩手前の緊迫した状況となりました。しかし,ソ連はミサイルを譲歩したため,事なきをえました。これ
を
キューバ危
機
【本試験H31時期を問う(チェルノブイリ原発事故・日中平和友好条約との前後関係)】
【H30共通テスト試行 (「キューバ危機」という語句は使われず)「ソ連のミサイル基地が建設され、アメリカ合衆国との間で緊張が高まった」のはインドネシアではない】
といいます。
冷や汗をかいた両国は,首脳間にホットライン(直通電話)を引きました。さらに,1963年にはアメリカ,ソ連,イギリスの間
に
部分的核実験禁止条
約
が結ばれました。
黒人やインディアンの運動が盛り上がる
〈ケネディ〉は国内における人権問題にも,積極的に解決しようとしました。バスや公共施設の利用,学校入学や就職,参政権などにおいて,南部で強く残されていた黒人を差別する制度や法律を廃止するための運動
(
公民権運
動(
市民権運
動
)
)
【追H28】
【H29共通テスト試行】
【早政H30】
が,
〈
マーティ
ン=
ルーサ
ー=
キン
グ
〉
(
キング牧
師
,1929~68)
【追H28公民権運動を主導したか問う】
【本試験H9「非暴力による人種差別撤廃の運動」を行ったか問う】
【H29共通テスト試行】
【セA H30】【慶商A H30記】
を中心にすすめられました。インドの〈ガンディー〉の非暴力主義の影響を受け,1963年8月には首都ワシントンDC
【セA H30】
で
ワシントン大行
進
というデモをおこない,白人のハリウッド俳優〈チャールトン=ヘストン〉(1923~2008)を含む20万人以上の先頭に立ち,《I have a dream》(わたしには夢がある
【セA H30】
)で知られる演説を行いました。1964年にはノーベル平和賞を受賞しています
(なお,マーティン=ルーサーとは〈マルティン=ルター〉(1483~1546)のことですが,彼自身はルター派ではなく南部バプテスト連盟です)
。
また,黒人たちの運動
(
ブラッ
ク=
パワー運
動
)に刺激され,インディアンの権利回復運動
(
レッ
ド=
パワー運
動
)も盛り上がり,1961年には全米インディアン若者会議が結成され,「インディアン人権宣言」が起草されています。のち1968年には全米最大の組織となっ
た
アメリ
カ=
インディアン運
動
(AIM)が結成され,運動は過激化していきました。
〈ケネディ〉は1963年に暗殺されました。容疑者とされた人物〈オズワルド〉が逮捕直後に暗殺されるなど不可解な点も多く,様々な憶測を生みました(映画「JFK」(1991米))。1964年に,副大統領から昇格した
〈
ジョンソ
ン
〉(1908~73,在任1963~69)
【本試験H10時期(1930年代ではない)】
のもと
で
公民権
法
が制定されました。〈ジョンソン〉は「偉大な社会」(グレート=ソサイエティ)
【上智法(法律)他H30革新主義とのひっかけ】
をスローガンにし,国内の経済格差をなくそうとして社会福祉を充実させました。このことが後に,莫大な財政赤字へとつながっていくのでした。
なお,〈キング牧師〉は68年にテネシー州のダラスで暗殺されてしまいました(
ケネディ大統領の暗殺
【追H19時期】
)。白人のキリスト教徒との協力関係を築いた〈キング牧師〉とは一線を画した方針で黒人差別反対運動を行った人物に,ブラック=ムスリム(黒人イスラーム教徒)の指導者
〈
マルコム
X
〉(1925~65) がいます。
彼はアフロ=アメリカン統一組織(ネーション=オブ=イスラーム)を設立しましたが,反対派に射殺されました(映画「マルコムX」(1992米))
(注)
。
なお,1968年のメキシコシティ=オリンピックでは,メダルを受けたアフリカ系アメリカ人選手らが,表彰状で黒い手袋で拳をあげるポーズをとり,差別に抗議しています(ブラックパワー=サリュート)
【H29共通テスト試行 題材】
。
(注) 大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』岩波書店、2002年、p.52。
ヴェトナム戦争
は"
泥
沼"
化していく
アメリカの赤字が積み上がっていったもう一つの理由は,インドシナ半島
【本試験H17バルカン半島ではない】
におけ
る
ヴェトナム戦
争
の開始です
【東京H7[3]】
【本試験H23時期】
。その口火を切ったのは,
〈
ケネデ
ィ
〉大統領(任1961~63)です。
彼は南ヴェトナムに"軍事顧問団"を送り込みましたが,実はこれはアメリカ陸軍特殊部隊群というゲリラ戦を得意とする組織に属する人たちでした。実戦が始まったのは
〈
ジョンソ
ン
〉大統領(任1963~69)
【本試験H14ケネディではない】
のときです。アメリカ合衆国
【追H27フランスではない】
政府は、トンキン湾事件を口実に65年から北ヴェトナムを空爆しました
(
北
爆
【
本試
験H
10時期(1950年代か問う),本試験H12「アメリカによる空爆を免れた」わけではない】
【本試験H14時期】
)。
当時の南ヴェトナムでは,アメリカ合衆国の支援する〈ゴー=ディン=ジエム〉政権(任1955~63)が独裁体制をしき資本主義体制を守っていましたが,共産党の指導で1960年に組織され
た
ベトコ
ン
(
南ヴェトナム解放民族戦
線
,NLF)
【追H27タイと連携していない、H28】
【慶文H30記】
が,北ヴェトナム〔ヴェトナム民主共和国
【追H27】
〕の支援を受けて反政府のために抵抗運動・一斉蜂起を開始。
ベトコンと北ヴェトナムは68年1月のテト攻勢により勢力を強め,北ヴェトナムを甘く見ていたアメリカ軍を圧倒し,ヴェトナム戦争は泥沼化していきました。1968年3月にはアメリカ陸軍の歩兵師団が南ヴェトナムのソンミ村で無抵抗の農民504人を虐殺しました
(
ソンミ村虐殺事
件
)。現場の悲惨な写真が戦場ジャーナリストにより公表され,反戦の機運に影響を与えました。
財政悪化に苦しむアメリカでは,68年に共和党の
〈
ニクソ
ン
〉(1913~94,在任1969~74)
【本試験H4アイルランド系カトリック教徒ではない】
【本試験H18】
が大統領に就任しました(映画「ニクソン」(米1995))。国内では,若者世代を中心とし
た
ヴェトナム反戦運
動
【本試験H7ケネディは反戦運動の支持を受けたのではない】
が盛り上がり,その動きは1969年のウッドストック=ロックフェスティバルという野外フェスで最高潮に達しました。〈ニクソン〉大統領はヴェトナム戦争の長期化にともなう財政赤字を背景に,1970年に「同盟国に対する防衛費を減らし,防衛費は同盟国によって負担してもらう」というニクソン=ドクトリン
【早法H26[5]指定語句】
を発表します。
人類が月面に到達する
前後しますが,戦後推進されていたアメリカ合衆国による宇宙開発計画は,1966年にソ連がルナ9号を月面着陸させたことに対する危機感もあり,1969年7月にソ連に先駆け
た
人類初の月面着
陸
に実を結びました
【本試験H14ソ連が初めてではない】
。
なお、1968年にはアポロ8号が宇宙から初めて「地球の出(で)」を撮影した写真が公開され、人々に衝撃を与えました
そしてアポロ11号
【追H28ソ連ではない】
の搭載した月面着陸船イーグルによって,〈アームストロング〉船長(1930~2012)と〈オルドリン〉大佐(1930~)が月面に着陸
【追H28】
。宇宙服を着用して歩行することに成功しました。
アメリカ合衆国は北京政府の国連代表権を承認へ
そんな〈ニクソン〉大統領の補佐官
〈
キッシンジャ
ー
〉(1923~)は,ニクソンにこのようなアドバイスをしました。
ヴェトナムから撤退するなら,同じ社会主義国である中華人民共和国と関係を改善させておいたほうがいい。国連の代表権を与えれば,中華人民共和国は納得してくれるだろう。さらに,ソ連とも交渉して核兵器を減らしていく。ソ連も財政的に厳しいのはわれわれと同じだ。こうして中国とソ連との関係を改善させておけば,北ヴェトナムへの支援が弱まる。北ヴェトナムをさらに追い詰めるために,ホーチミン=ルートと呼ばれるラオスやカンボジア方面の補給路を攻撃しておいたほうがいい。そして,すべての後始末は南ヴェトナムに任せよう。
まず,1971年1月の世界選手権大会(名古屋)に中国は参加。さらに2月に中国はアメリカ合衆国の卓球チームを北京に招待
(
ピンポン外
交
)。続く,同年10月
に
中華人民共和国は国連代表権を獲
得
【本試験H24時期】
します。この措置は中華人民共和国と友好であったアルバニアの提案なので,「アルバニア決議」ともいわれます。1972年2月に〈ニクソン〉は中華人民共和国をアメリカ合衆国大統領として初めて訪問
(
ニクソンの訪
中
(
ニクソ
ン=
ショッ
ク
)
【本試験H26時期・本試験H27時期】
)。メディアは,コートを着込んで北京郊外の万里の長城を歩く大統領夫妻を映し出します。
一方,1972年に米ソ
【追H29】
は第一次戦略兵器制限交渉
(
SAL
T
Ⅰ
,ソルト=ワン)
【追H29「戦略兵器削減交渉」(SALT)の時期は「両大戦間期」ではない】
【本試験H4「米ソ間」の「戦略兵器制限交渉(SALT)」が東西間の緊張緩和とともに始められたか問う】
に調印し,同年に発効させています。
国際政治が一気に動く中,1973年
に
パリ〔ヴェトナム〕和平協
定
【追H20】
で北ヴェトナムと南ヴェトナムの停戦と,アメリカの撤退
【追H20】
【セA H30ソ連ではない】
が決められました。「アメリカはヴェトナムから手を引く。今後はヴェトナム人で解決してくれ」ということです。〈キッシンジャー〉は1973年にベトナム戦争の和平交渉が評価されてノーベル平和賞を受賞していますが...。
1975年に北ヴェトナム
【追H28】
とベトコン
【追H28】
が南ヴェトナムの首都サイゴン
【追H28「陥落」させたことを問う】
を占領,1976年に
南北が統一
され
て
ヴェトナム社会主義共和
国
【セA H30「ソ連」の撤退後の成立ではない】
が成立
【追H19時期】
。最終的にヴェトナムは社会主義国化したのです。
〈ニクソン〉大統領は,経済的にも大きな方針転換を迫られます。1971年に,金とドルの交換停止
【本試験H10】
を発表
(
ド
ル=
ショッ
ク
)
【追H27時期を問う(1970年代か)】
【本試験H10ヴェトナム戦争を一つの契機とするか問う】
【本試験H18】
したのです。国際的な為替はのちに
,
変動相場
制
に移行することになり,金と交換可能なドルを基軸通貨とする国際経済体制は崩壊しました
【本試験H14時期(ニクソン政権下)】
。
そんな中,1972年の大統領選挙で,共和党陣営が民主党本部のあったウォーターゲート=ビルを盗聴していた疑惑への関与が高まり,〈ニクソン〉大統領
【追H24】
は1974年8月に
任期半ばで辞任
【追H24】
する前代未聞の事態に。これ
を
ウォーターゲート事
件
【追H24】
といいます。
後を継いだのは副大統領の〈フォード〉です。
なお,1973年の第一回石油危機に対しては,1974年に〈キッシンジャー〉国務長官の提案で
,
IE
A
(国際エネルギー機関)をOECD(経済協力開発機構)の附属機関として設置しています。
・1953年~1979年のアメリカ 北アメリカ 現①カナダ
カナダでは、1969年に公用語法が制定され、英語とフランス語を公用語とする二言語政策を採用することになりました
【H30共通テスト試行 題材となる(ヨーロッパ人による入植以降の北アメリカ大陸の歴史を反映したものであり、近年では外国からの移民の増加に伴って、英語・フランス語以外の言語を第一言語とする人々が増加の傾向にあることが、2011年国勢調査で申告された第一言語(母語)の比率統計とともに紹介された)】
。
○195
3
年
~
197
9
年のアメリカ
中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ
ペルーとエクアドルを除く南アメリカでは,大衆の支持を得た政権が中間層,労働者などの支持を得て社会保障を充実させ,工業化を進める政策をとっていました。
しかし,工業化が進展しても国内市場の規模は小さく,国を超えた経済圏をつくる取り組みもうまくはいきませんでした。依然として天然資源が輸出産業の中心であり,工業に用いる原料・機械の輸入にもお金がかかるため貿易収支は悪化に向かい,インフレや貧困層の増加が問題となっていきました。
キューバ革命に刺激されたグループが各地で活動を開始し,カトリック教会からも貧困撲滅に向けた
「
解放の神
学
」
(植民地などで差別を受けている民族の解放の考え方として,キリスト教の福音を読み直そうとする思想。1960年代以降台頭していきました)
を提唱する者も現れます。
ペルーとエクアドルを除く南アメリカでは,大衆の支持を得た政権が中間層,労働者などの支持を得て社会保障を充実させ,工業化を進める政策をとっていましたが,ペルーとエクアドルでも1960~1970年代に軍事政権により同様の政策がとられるようになります。
1950年代末以降,ペルーの沿岸都市とアマゾン流域を舞台とする『緑の家』で知られるペルーの〈バルガス=ヨサ(リョサ)〉(1936~,2010年にノーベル文学賞を受賞)や,『百年の孤独』で知られるコロンビアの
〈
ガルシ
ア=
マルケ
ス
〉(1928~,1982年にノーベル文学賞を受賞)など,ラテン=アメリカ独自の"マジック=リアリズム"と称される文学者が注目を集めるようになりました。
○195
3
年
~
197
9
年のアメリカ 中央アメリカ
中央アメリ
カ
...①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ
◆
アメリカとソ連と
の"
雪解
け"
の影響から,反米運動が盛り上がる
1960年には,メキシコ,コスタリカ,ホンジュラス,ニカラグア,パナマの5か国より自由貿易や経済統合をめざす協力組織として中米共同市場(CACM)が形成されています。同年には,アメリカ依存の経済構造からの自立をめざすラテン=アメリカ自由貿易連合(LAFTA)がモンテビデオ条約により形成され,中央アメリカからはメキシコが原加盟国となりました(他一方,はアルゼンチン,ブラジル,チリ,メキシコ,パラグアイ,ペルー,ウルグァイ)。
1959年
の
キューバ革
命
【追H20】
,1961年のキューバの社会主義宣言をきっかけに,反米の機運が高まり,1961年にはメキシコでラテン=アメリカ平和会議が開催されています。
1964年には反米の運動が起き,アメリカ兵によりパナマ人が殺害されました(1月9日はパナマで「Martyrs' Day」として記念されています)。アメリカ合衆国はパナマ運河地帯を占領。1965年にはパナマ
は
アメリカとの運河条約を破
棄
しました。1967年のラテン=アメリカ14か国による核兵器の禁止条約(いわゆる
「
トラテロルコ条
約
」)がメキシコで調印されたのも,このような機運によるものです。
・
195
3
年
~
197
9
年のアメリカ 中央アメリカ
現①
メキシコ
一党支配の下で,文民支配が実現し,経済成長を果たした
事実上の一党独裁である制度的革命党は,右派から左派まであらゆる階層をとりこみ,党の組織には労働組合,農民組織なども編入されています。
「
メキシコ革
命
で実現したことを制度化しよう」という理念のもと,さまざまな勢力を統合するために1929年につくられた政党です。職業や組合ごとに国民をまとめ,利益を配分する体制をコーポラティズムと呼んだりしますが,さまざまな階層の国民を取り込んだポピュリズム(スペイン語
で
ポプリス
モ
,に人民主義)と表現することもあります。というわけで,アメリカ合衆国ともソ連とも等距離に対応するという自主外交が,メキシコの特徴となりました。
キューバ革命で核兵器使用が現実味を帯びる中,中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ各地で反米運動が高まる中,1967年にはラテン=アメリカ14か国による核兵器の禁止条約(いわゆる
「
トラテロルコ条
約
」)がメキシコで調印され,ラテン=アメリカに非核地帯が設定されました。トラテロルコというのはメキシコ外務省の所在地の地名です(メキシコ外交官〈ロブレス〉(1911~1991)はのちに1982年のノーベル平和賞を受賞しています)。
なお,1968年にはラテンアメリカ初の開催とな
る
メキシコシティ五
輪
を実現させています。
・
195
3
年
~
197
9
年のアメリカ 中央アメリカ
現②
グアテマラ
グアテマ
ラ
では1951年に選挙で選ばれた〈アルベンス=グスマン〉(任1951~54)による左派政権が生まれ,大土地所有に反対する土地改革をおこないました。グアテマラをはじめとする,アメリカ企業のユナイテッド=フルーツ社が大規模な農園を展開しており,こうした中南米諸国は"バナナ共和国"といわれるほどでした。しかし,〈アルベンス=グスマン〉による土地改革の手が外資系企業にまで伸びると,1954年,アメリカ
は
中央情報
局(
CI
A
)
の力で,アメリカの言うことを聞く親米政権(親米(しんべい)とはアメリカ合衆国の支援・協力関係にあること)を樹立させました。〈アルベンス=グスマン〉はメキシコに逃亡し,農園はユナイテッド・フルーツ社に返還されました。こののちグアテマラでは,1991年まで軍事独裁政権が続くことになります。
・
195
3
年
~
197
9
年のアメリカ 中央アメリカ
現
④
エルサルバド
ル
,
⑤
ホンジュラ
ス
,
⑥
ニカラグ
ア
,
⑦
コスタリカ
エルサルバド
ル
,
ホンジュラ
ス
,
ニカラグ
ア
,
グアテマ
ラ
,
コスタリ
カ
の5か国は1961年には中米共同市場が発足させ,地域の経済協力を進めようとしました。しかし,工業化の面でエルサルバドルはその中心を占めるようになっていき,ホンジュラスとの対立が生まれました。また,エルサルバドルからの移民のホンジュラスへの流入も問題となっていました。
○195
3
年
~
197
9
年のアメリカ カリブ海
カリブ
海
...①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島
◆
カリブ海地域ではイギリスからの独立が進むが,アメリカ合衆国の介入も続く
英領カリブ海植民地の「西インド連邦」構想は失敗
1959年にキューバで革命が成功し,1961年に社会主義化を宣言。1962年にキューバ危機に発展します。
その後,カリブ海地域のイギリス植民地では,1958~1962年に
「
西インド連
邦
」という形で島々がセットになって独立しようとする政体がつくられました。しかし加盟国間の対立もあって瓦解し,その後は主にイギリス連邦の一員という形での独立ラッシュが続きます。
1962年には
②
ジャマイ
カ
,
⑯
トリニダー
ド=
トバ
ゴ
がイギリスから独立。
1966年に
⑭
バルバド
ス
がイギリスから独立。
1973年に
③
バハ
マ
がイギリスから独立。(1964年に自治権獲得)
1974年に
⑮
グレナ
ダ
がイギリスから独立。
いずれ
も
イギリス連
邦
の一員の立憲君主国です。
・
195
3
年
~
197
9
年のアメリカ カリブ海
現①
キューバ
キューバ革命が成功し,社会主義化する
◆
キューバでは,アメリカ合衆国の資本と結びついた大土地所有制を崩す革命が成功した
グアテマ
ラ
では,1954年にアメリカ合衆国の企業の土地を国有化した〈グスマン〉政権が倒されていました。「自分の国の資源は,自分の国のものだ」という考え方を
「
資源ナショナリズ
ム
」といいます。その考え方が否定されたわけです。これにショックを覚えたのが,アルゼンチン人の
〈
ゲバ
ラ
〉(1928~67)
【セA H30】
です
(映画「モーターサイクル・ダイアリーズ」(2004アルゼンチン等)は日記を基に青年時代のアメリカ南米旅行を描いています。「チェ(28歳の革命,39歳 別れの手紙)」(2008米仏西)の二部作は革命を挟んだゲバラの伝記映画です)
。
グアテマラ新政権により命を狙われたためメキシコに亡命。そこで
〈
カスト
ロ
〉(任1959~2008)
【本試験H26アメリカ合衆国の人物ではない】
と出会います。実は〈カストロ〉はサトウキビ農園主の息子。彼は大学時代から政治活動に参加し,1950年から弁護士として貧しい人々のために活動していました。
「ラテンアメリカから,アメリカ合衆国の資本をとりのぞき,キューバ人の国をつくるには,武力闘争しかない」
――二人はそれを実行にうつし,1959年に少数精鋭でキューバに乗り込み,
〈
バティス
タ
〉親米政権(任1940~44,52~59)を倒します
(
キューバ革
命
【追H20 時期(1950年代か問う)】
)。
さっそくアメリカ系の企業を国有化すると,1961年にアメリカがキューバからの砂糖の輸入を停止し,打撃を与えようとしました。そこで,同年,キューバ
は
社会主義国家宣
言
をし
【本試験H15】
,ソ連側のグループにつくことを表明しました。
◆
キューバのミサイル基地をめぐり米ソが鋭く対立する
「キューバ危機」に全世界が固唾をのむ
1962年,キューバにソ連がミサイル基地を配備していることが発覚しました
【本試験H24時期】
。アイルランド系アメリカ人により創立され
た
ロッキード
社
の
U-2偵察
機
(上空25000mをスパイ飛行できる)からの空中写真が決め手でした。ミサイルに核兵器を詰めば,アメリカ本土が射程範囲に入ることになり,激震が走りました。「全面核戦争」の危機の勃発です。しかし,アメリカ合衆国の〈ケネディ〉はミサイル基地の撤去を要求,海上封鎖を行いました。空軍はキューバの攻撃を主張しましたが,〈ケネディ〉の冷静な判断と,ソ連のフルシチョフがこれを受け入れたことで,衝突は回避されました。この"13日間"を
「
キューバ危
機
」
【本試験H9年代を問う】
といいます。
第三次世界大戦が起こる危機に見舞われたことで,冷や汗をかいた米ソの指導部は,63年にホワイト=ハウスとクレムリンの米ソ首脳の間にすばやいコミュニケーションが図れるようにホット=ラインという直通通信線を設置しました
(1967年の第三次中東戦争のとき,初めて使用されたといわれます)
。また,63年に
は
部分的核実験禁止条
約
(PTBT)
【本試験H5中国は加わっていないことを問う,本試験H7】
に米・英
【慶商A H30記】
・ソが署名しました。地下を除く
【本試験H7地下は禁止されていない】
核実験を禁止したことから,これに調印すれば地下での実験も難しい狭い国では核実験が困難になったため,ある程度の効果はありました。しかし,大国は依然として核実験を継続していますし,フランスと中国はこれに署名せず,やがて核兵器を保有することになります。
・
195
3
年
~
197
9
年のアメリカ カリブ海
現②
ジャマイカ
イギリス領ジャマイカは,ケイマン諸島とタークス=カイコス諸島とともにイギリスの植民地「ジャマイカ」を構成していました。
★1958年~1962年
に
西インド連
邦
の構成国となります。1961年にジャマイカとトリニダード=トバゴが対立の末に分離独立を達成します(ケイマン諸島と,タークス=カイコス諸島は除く)。
ジャマイカはアルミニウムの原料であ
る
ボーキサイ
ト
の原産地です。しかし,国際価格は「アルコア」など欧米の多国籍企業のグループが支配していました。
それに対し左派の〈マンリー〉首相は資源カルテルであるボーキサイト生産国機構(IBA)を結成し,対抗しました。
・
195
3
年
~
197
9
年のアメリカ カリブ海
現②
バハマ
現
③
バハ
マ
は,1973年の独立から進歩自由党の〈リンデン=ピンドリング〉首相(任1973~1992)が長期に渡って政権を握ります。
・
195
3
年
~
197
9
年のアメリカ カリブ海
現④
ドミニカ共和国
左派政権の樹立を阻止するためアメリカ軍が介入
現
⑤
ドミニカ共和
国
では軍人の〈トルヒーヨ〉大統領による強力な独裁政権(任1930~38,42~52)が続いていましたが,
彼が1961年に暗殺されると,1963年に大統領選挙によって左派政権が成立しました。左派政権は新憲法を定めて土地改革に着手すると,軍部がクーデタで阻止し,政情は不安定化。
しかしそれに対し,新憲法の復活を掲げた陸軍によるクーデタが再び起こり,内戦が勃発しました。
アメリカ合衆国の〈ジョンソン〉大統領は「反共」を掲げてドミニカに侵攻します
(
ドミニカ侵
攻
)。
・
195
3
年
~
197
9
年のアメリカ カリブ海
現⑤
アメリカ領プエルトリコ
独立運動が激化していたプエルトリコは,すでに1952年にアメリカ
の
コモンウェル
ス
とされ,内政の自治権が与えられていました。
コモンウェルスというのは,内政自治が認められるものの,アメリカ合衆国憲法と連邦法が適用され,元首はアメリカ合衆国大統領,主権はアメリカ合衆国にあるという地位です。
そんな状況下で,プエルトリコ人がアメリカ合衆国の下院を襲撃する事件も起きています。
アメリカ合衆国では
「
進歩のための同
盟
」という政策がとられ,発展途上国を工業化させることで不満を封じ込める作戦をとっていきます。
プエルトリコ内では,自治の拡大を目指すグループと現状維持グループとの間の対立も生じます。
・
195
3
年
~
197
9
年のアメリカ カリブ海
現⑥
アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島
アメリカ
領
ヴァージン諸島は,1954年の自治法によりアメリカ合衆国の自治的・未編入領域となっています。
◇
イギリス
領
ヴァージン諸島は
,
英領リーワード諸
島
の一つでした。
1960年に単独の植民地となり,1967年に自治を獲得します。
1958年~1962年にカリブ海のイギリス植民地により結成された西インド連邦には加盟していません。
議会の多数党の党首が,イギリス王の代理人(総督)により任命される形をとる,イギリスの海外領土の一つです。観光業と租税回避地(タックス=ヘイヴン)として急成長を遂げていきます。
◇
イギリス領アンギラ
島
は
,
英領リーワード諸
島
の一つでした。
★その後,1958年~1962年
に
西インド連
邦
を構成。1961年にジャマイカとトリニダード=トバゴが対立の末に分離独立し,翌年には瓦解,イギリスの直轄植民地に戻ります。
1967年にセントクリストファー島とネイビス島と合わせ,「セントクリストファー=ネイビス=アンギラ」という単位でイギリスの自治領となります。しかし,アンギラ島住民はこれに反対し,アンギラ共和国として独立宣言。これをイギリスが鎮圧し,失敗します。
その後,1976年に自治権が付与されますが,イギリス領のままにとどまっています。
・
195
3
年
~
197
9
年のアメリカ カリブ海
現⑦
セントクリストファ
ー=
ネイビス
◇セントクリストファー=ネイビスは
,
英領リーワード諸
島
の一つでした。
★1958年~1962年
に
西インド連
邦
を構成。1961年にジャマイカとトリニダード=トバゴが対立の末に分離独立し,翌年には瓦解,イギリスの直轄植民地に戻ります。
その後,1967年に「セントクリストファー=ネイビス=アンギラ」という単位でイギリスの自治領となります。しかし,アンギラがこの措置に抵抗したため,イギリスが派兵して鎮圧する事態に発展します。
・
195
3
年
~
197
9
年のアメリカ カリブ海
現⑧
アンティグ
ア=
バーブーダ
★1958年~1962年
に
西インド連
邦
を構成。1961年にジャマイカとトリニダード=トバゴが対立の末に分離独立し,翌年には瓦解し,イギリスの直轄植民地に戻ります。
1967年に自治権を獲得。特にアンティグア島で独立の機運が高まります。
・
195
3
年
~
197
9
年のアメリカ カリブ海
現⑨
イギリス領モントセラト
◇イギリス領モントセラトは
,
英領リーワード諸
島
の一つでした。
★1958年~1962年
に
西インド連
邦
の構成国となります。1961年にジャマイカとトリニダード=トバゴが対立の末に分離独立し,翌年には瓦解し,イギリスの直轄植民地に戻ります。
モンサラットは,議会の多数党の党首が,イギリス王の代理人(総督)により任命される形をとる,イギリスの海外領土の一つとなります。
・
195
3
年
~
197
9
年のアメリカ カリブ海
現⑩
ドミニカ国
◇ドミニカは
,
英領リーワード諸
島
の一つでした。
★1958年~1962年
に
西インド連
邦
の構成国となります。1961年にジャマイカとトリニダード=トバゴが対立の末に分離独立し,翌年には瓦解し,イギリスの直轄植民地に戻ります。
1967年に自治を獲得し,1978年にイギリス連邦内の立憲君主制国家として独立します。
・
195
3
年
~
197
9
年のアメリカ カリブ海
現⑪
フランス領マルティニーク島
マルティニーク島は〈エメ=セゼール〉の主導下に,フランスの海外県となっていました。
スターリン批判後,1956年のハンガリー事件に対してフランス共産党が静観したことを批判し,〈エメ=セゼール〉は同年にフランス共産党を脱退。
1958年にはみずからマルティニーク進歩党を立ち上げ,自治をスローガンに掲げて強い影響力を持ち続けています。
・
195
3
年
~
197
9
年のアメリカ カリブ海
現⑫
セントルシア
◆セントルシアは
,
英領ウィンドワード諸
島
の一つでした。
★1958年~1962年
に
西インド連
邦
の構成国となります。1961年にジャマイカとトリニダード=トバゴが対立の末に分離独立し,翌年には瓦解し,イギリスの直轄植民地に戻ります。
その後1967年に自治領となり,1979年に独立を達成します。
・
195
3
年
~
197
9
年のアメリカ カリブ海
現⑬
セントビンセント及びグレナディーン諸島
◆セントビンセント及びグレナディーン諸島は
,
英領ウィンドワード諸
島
の一つでした。
★1958年~1962年
に
西インド連
邦
の構成国となります。1961年にジャマイカとトリニダード=トバゴが対立の末に分離独立し,翌年には瓦解し,イギリスの直轄植民地に戻ります。
・
195
3
年
~
197
9
年のアメリカ カリブ海
現⑭
バルバドス
◆バルバドスは
,
英領ウィンドワード諸
島
の一つでした。
1961年には自治を獲得しています。
一方で,周辺のカリブ海諸国も合わせた独立が企図され,
★1958年~1962年
に
西インド連
邦
の構成国となります。1961年にジャマイカとトリニダード=トバゴが対立の末に分離独立し,翌年には瓦解し,イギリスの直轄植民地に戻ります。
その後,1962年に自治を再獲得,1966年に独立を達成しています。
・
195
3
年
~
197
9
年のアメリカ カリブ海
現⑮
グレナダ
◆グレナダは,
,
英領ウィンドワード諸
島
の一つでした。
★1958年~1962年
に
西インド連
邦
の構成国となります。1961年にジャマイカとトリニダード=トバゴが対立の末に分離独立し,翌年には瓦解し,イギリスの直轄植民地に戻ります。
・
195
3
年
~
197
9
年のアメリカ カリブ海
現⑯
トリニダー
ド=
トバゴ
◆トリニダード=トバゴは
,
英領ウィンドワード諸
島
の一つでした。
★それが,1958年~1962年
に
西インド連
邦
の構成国となります。
しかし,1961年にジャマイカとトリニダード=トバゴが対立。その後,1962年
に
トリニダー
ド=
トバ
ゴ
として分離独立しました。
1976年に共和制に移行しています。
・
195
3
年
~
197
9
年のアメリカ カリブ海
現⑰
オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島
1954年にベネズエラ沖のアルバ島,ボネール島,キュラソー島と,そのはるか北方に位置するリーワード諸島の3島を合わせ,「オランダ領アンティル」が形成されます。
○195
3
年
~
197
9
年のアメリカ 南アメリカ
南アメリ
カ
...
①
ブラジル
,②
パラグアイ
,③
ウルグアイ
,④
アルゼンチン
,⑤
チリ
,⑥
ボリビア
,⑦
ペルー
,⑧
エクアドル
,⑨
コロンビア
,⑩
ベネズエラ
,⑪
ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ
・
195
3
年
~
197
9
年の南アメリカ 現①ブラジル
ブラジルでは左派寄りのポピュリズム政権が続くが
,
196
4
年以降は軍政に転換した
1950年の国民投票の結果,
〈
ヴァルガ
ス
〉が再度大統領に選ばれました。〈ヴァルガス〉は以前の独裁色を弱め,左派に近い政策をとる選択をし,貧困層の支持を得たのです。1953年には国営の石油公社を設立し,外国資本を締め出しました。しかし,〈ヴァルガス〉本人が「陰謀」と遺言する事件をきっかけに,1954年にピストル自殺を遂げました。
彼の死後も1964年までは,トップダウンで社会保障制度や労働立法によって貧困層の支持を取り付けるという,左派寄りのポピュリズム的な政権(幅広い大衆の支持を受けた政権)が続きます。ナショナリズムを打ち出し,外国勢力を"敵"とみなす政治手法は,大衆に対する受けが良いのです。
1957年には新大統領の下で,建築家〈ニーマイヤー〉(1907~2012)や〈ルシオ=コスタ〉(1902~1998)のプランの下,新首
都
ブラジリ
ア
の建設が始まり,1960年には遷都されました。上空からみると飛行機型になるのが特徴です。このブラジリアを中心として,各地に交通インフラも整備されていきます(◆世界文化遺産「ブラジリア」,1987)。
この年には〈アントニオ猪木〉(1943~)が家族でサンパウロに移住し,コーヒー園で生計を立てはじめています(1960年に〈力道山〉(1924~63)に見出されて帰国しデビュー)
。後継の大統領の下で順調な経済成長が実現していきましたが,1960年代に入ると経済成長率は頭打ちとなり
,
農地改
革
を
石油産業の国有
化
を含む抜本的な改革が模索されるようになります。これに対し,アメリカ合衆国の支持を受けた軍部がクーデタを起こし,1964年
に
軍事政
権
を樹立しました。軍事政権の下では左派の運動が弾圧され,外国資本を誘致することでの経済開発が推進されていくことになります。これに対し,弾圧を受けた共産党は各地でゲリラ活動を引き起こしました。
しかし,軍事政権の下では「ブラジルにの奇蹟」ともいわれる年率平均10%の高度経済成長が実現。1973年の石油危機まで好況は続きました。
石油危機後は成長率がにぶり,インフレが進行。その一方で,1970年代後半には,アマゾン横断道路が完成,また,ブラジルからベネズエラへの縦断道路も完成しています。また,バイオエタノール燃料の開発,大西洋沿岸部の海洋油田の開発,中央高原のサバンナ(セラード)における農業などもこの時期に着手され,
NI
Cs
(新興工業国群,のちの
NI
Es
;ニーズ;新興工業経済群)にもリストアップされるようになります。1974年には日本の〈田中角栄〉首相がブラジルを訪問するなど,日本との結びつきを強化し始めるのも,この頃のことです。
・
195
3
年
~
197
9
年の南アメリカ 現④アルゼンチン
アルゼンチンでは外資を導入する軍部と,民族資本を推進する〈ペロン〉派の対立が続いた
民族資本による工業化を図ろうとした
〈
ペロ
ン
〉政権(任1946~55,73~74)は軍事政権によりクーデタで打倒され,1955年外資を導入することで工業化を果たす路線に転換されました。しかし,政権が不安定化すると1966年に軍部は再度クーデタを起こし〈オンガニーア〉将軍が大統領に就任し,労働運動を押さえながら国家主導の工業化を目指しました。しかし,農民,労働者や学生による抵抗運動が激化すると1970年に退陣。後継も軍人が継ぎましたが,国民の間に〈ペロン〉派を推す動きが強まり,1973年に〈ペロン〉派(ペロニスタ党)政権が復活しました。
しかしこの政権は左派のゲリラに甘く,急進的な政策を実行したために,ペロニスタ党内部でも意見が割れ,結局1973年に
〈
ペロ
ン
〉本人が大統領に"返り咲き"を果たしました。しかし彼は1974年に病死し,後を継いだ〈イサベル〉夫人は政治的な失敗を重ね,再び軍事政権に逆戻りすることとなりました。
・
195
3
年
~
197
9
年の南アメリカ 現⑤チリ
,⑥
ボリビア
,⑦
ペルー
ペルー,チリは「進歩のための同盟」を受け入れ,ボリビアでも左派の影響力は弾圧されていった
チ
リ
では,アメリカ合衆国の提唱した
「
進歩のための同
盟
」が〈フレイ〉政権(任1964~70)の下で実行されました。〈フレイ〉はキリスト教民主党を率い,「銅山のチリ化」(銅山を外国資本からチリ資本にすること)が「自由の中の革命」というスローガンの下で,ゆるやかに進められていきました。アメリカの資本が導入されて工業化が進められましたが,農地改革は不十分なまま残されました。
ボリビアで軍政が始まり、国家主導の改革続く
ボリビ
ア
では〈パス〉政権により社会改革(「ボリビア革命」ともいわれます)が行われていました。
経済政策の失敗からインフレが発生すると、〈シレス=スアソ〉(任1956~60)がアメリカとIMFの支援のもとで経済を安定化させようとします。それに労組や農民層が講義すると、2期目の〈パス〉政権(任1960~64)がアメリカの支援で軍を再建。
アメリカはボリビアが共産主義になびかないように、集中的に援助することで、アメリカ陣営につなぎとめようとしたのです。この姿勢は〈ケネディ〉大統領による「
進歩のための同盟
」にも引き継がれ、援助慣れの元凶となっています
(注1)
。
しかし、第3次〈パス〉政権が成立すると、革命運動は完全に分裂。〈パス〉はみずから再建した軍によるクーデタで失脚し、1964~1982年にわたる軍政が始まりました
(注2)
。
軍事政権の首班であった〈バリエントス〉
(1919~1969,軍事政権64,大統領任1964~65,2人大統領制任65~66)
はインカ帝国の公用語であったケチュア語が話せたことから,広範な農民層の支持を受け,ボリビアの大統領に上り詰めました。
そんな中
,
キューバ革
命
を成功させていた
〈
チ
ェ=
ゲバ
ラ
〉(1928~67)
【セA H30】
が,革命を南アメリカに拡大させようとして1966年に拠点をボリビア東部サンタクルスに移し,ボリビア民族解放軍(ELN)を組織し,武装蜂起を計画します。しかしながら農民層の支持は得られず
(注3)
、1967年にアメリカ合衆国の後押しを受けた〈バリエントス〉政権により武装解除され,〈ゲバラ〉も銃殺されました。
〈バリエントス〉が1969年に航空機事故で亡くなると,後任の〈オバンド〉大統領(任1969~70)は左派のMNRに対する弾圧を弱める姿勢をみせましたが,内紛で辞任。
その後軍人の〈トレス〉大統領(任1970~71)のときにソ連に接近しましたが,1971年に〈ウーゴ=バンセル〉大佐のクーデタにより差は政権は崩壊し,〈バンセル〉政権(任1971~78)の下で労働運動は抑えられ外国資本の導入によって経済を浮揚させる政策がとられました。
しかしそれにより
累積債務が拡大
し,政治的にも1974年以降の〈バンセル〉政権による労働運動の弾圧への抵抗も強まると,アメリカ合衆国の
〈
カータ
ー
〉大統領
【本試験H9共和党ではない】
が
"
人権外
交
"と称してボリビアに民主化を要求しました。
しかし,その後もクーデタが頻発して短命の軍部政権が続き,経済も頭打ちとなっていきます。
(注1)真鍋周三編著『ボリビアを知るための68章』明石書店、2006年、p.139。
(注2)真鍋周三編著『ボリビアを知るための68章』明石書店、2006年、p.139。
(注3)真鍋周三編著『ボリビアを知るための68章』明石書店、2006年、p.139。
ペル
ー
では,〈プラード〉政権(任1956~62)の下で左派のアプラ(APRA)が合法化されていました。反米・反帝国主義を掲げるアプラを,輸出業を中心とする資本家の支持を受けた〈プラード〉政権が合法化したのは,〈プラード〉政権側が,「非合法化しないこと」を交換条件としてアプラを丸め込んだからです。この政権下では土地改革などの社会改革は進まず,農民による闘争も起きていました。また,アプラと〈プラード〉派の間に対立が起きると,1956年に軍部が介入し,憲法と議会が停止されて軍事評議会が立ち上げられました。軍事政権は農地改革を実施し,農民に農地を有償で再分配しました。
1963年には都市中間層や新興資本家の支持を置けた人民行動党(AP)の〈ベラウンデ〉(任1963~68,80~85)が
「
進歩のための同
盟
」
(
注
1
)
を掲げていたアメリカ合衆国と協力関係を築きながら,ペルーの近代化に向けた取り組みを推進していきました。しかし,アメリカ系の石油会社との交渉をめぐるスキャンダルがきっかけで,1968年に軍部がクーデタを起こし,1968年にアメリカ合衆国に亡命しました。
軍部の〈アルバラード〉政権は反米主義を打ち出し,外国資本に支配されていた基幹産業の国有化や農地改革が断交されました。中華人民共和国(1971),ソ連(1972),キューバ(1972)と国交を回復させるなど,社会主義圏への接近を加速させます。〈アルバラード〉政権は「従属理論」の影響を受けていました
(
注
2
)
。しかし,石油危機にともなう世界不況や政府の汚職が明らかになる中,軍部による無血クーデタが起き,親米の〈モラレス〉政権(任1975~80)が成立しました。しかし国際収支が悪化して国家財政がIMFの管理下に置かれる中,民政への復帰が目指されるようになっていきました。
(注1)ラテン=アメリカ諸国の近代化が遅れたままだと,共産主義の勢力が広がる恐れがあるとみたアメリカ合衆国は,各国の保守派と手を結び社会改革や工業化などをするように義務付け,資本をジャブジャブと注いていきました。同時に,左派ゲリラを鎮圧させるための軍部への援助もおこなわれました。ラテン=アメリカ〈ケネディ〉大統領が提唱し,1961年に米州機構の経済社会理事会で「ラテンアメリカ経済社会の発展のための10か年計画」として採択した憲章に基づきます。
(注2)後進国の発展が遅れているのは,先進国の発展のために後進国が「従属」する構造があるからだ,とする経済理論です。後進国が発展するためには,その構造そのものを変える必要があると主張されました。代表的な論者にドイツの〈フランク〉(1929~2005),エジプトの〈アミン〉(1931~),ブラジル大統領にもなった〈カルドーゾ〉(1931~)らがいます。
オセアニアの独立は,アジアやアフリカよりも時期が遅れます。サンゴ礁によってできた島も多く,農業を含めた産業が貧弱で,人口も少ない。せっかく独立しても,よその国に出稼ぎに行って得たお金を本国に送金する場合が多く,海外援助によって得た資金を,人口の割に高い比率を占める官僚が国の政治や経済を動かしている国が少なくありません。このような経済を,移民(migrationのMI),送金(remittanceのR),援助(aidのA),官僚制(bureaucracyのB)の頭文字をとってMIRAB経済ともいいます。
そんな中,独立への動きもすすみますが,独立してもコプラ
(ココヤシの果実の胚乳を乾燥させたもの。圧搾するとコプラ油がとれ,マーガリンや石鹸の原料になります)
産業が脆弱なため,ニュージーランドやオーストラリアへの移民・出稼ぎによって生計を立てる国も少なくありません。
○195
3
年
~
197
9
年のオセアニア ポリネシア
ポリネシ
ア
...①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島,②フランス領ポリネシア,③クック諸島,④ニウエ,⑤ニュージーランド,⑥トンガ,⑦アメリカ領サモア,サモア,⑧ニュージーランド領トケラウ,⑨ツバル,⑩アメリカ領ハワイ
・
195
3
年
~
197
9
年のオセアニア ポリネシア 現①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島
①イースター島は1888年以降チリ領。ピトケアン諸島はイギリス領です。
・
195
3
年
~
197
9
年のオセアニア ポリネシア 現②フランス領ポリネシア
1949年にフランス海外領土となっていたフランス領ポリネシアは,1957年に自治権を獲得しています。他方,ムルロア環礁はフランスの核実験場として使用され,深刻な汚染をもたらしています。
・
195
3
年
~
197
9
年のオセアニア ポリネシア 現③クック諸島
1901年以降,クック諸島はニュージーランドの属領となっていました。1946年には立法評議会が設立され,自治政府の設立が準備され,1964年にはニュージーランド国会によって憲法が承認され,1965年に内政自治権を獲得。ニュージーランドとの自由連合となりました。
・
195
3
年
~
197
9
年のオセアニア ポリネシア 現④ニウエ
1901年以降,ニュージーランドの属領として,ニウエはクック諸島の一部を構成していました。
1974年以降はニュージーランドとの自由連合を結ぶ国となります。
・
195
3
年
~
197
9
年のオセアニア ポリネシア 現⑤ニュージーランド
ニュージーランドの経済は,イギリス市場向けの酪農・畜産物の輸出が活況を呈し,生活水準も世界トップクラスに上昇しました。
しかし,ターニング・ポイントは1973年
の
イギリスのEC加
盟
でした。
イギリス史上を失い,石油危機の影響を受け,ニュージーランド経済は悪化していきます。
・
195
3
年
~
197
9
年のオセアニア ポリネシア 現⑥トンガ
トンガは1958年にイギリスとの条約によって自治が認められ,1965年に即位した〈トゥポウ4世〉のとき1970年にイギリス連邦内
で
独
立
しました。
・
195
3
年
~
197
9
年のオセアニア ポリネシア 現⑦アメリカ領サモア,サモア
アメリカ合衆国はサモア(東サモア)をアメリカ合衆国に編入しようとしましたが,首長の反対により頓挫。1967年からは憲法が制定され自治をおこなっていますが,アメリカ合衆国が自治法を制定していないため「国際連合非自治地域リスト」に記載されています。
一方,西サモアはニュージーランドによる国際連
合
信託統治
領
となっていましたが,1962年に独立。1970年にはイギリス連邦に加盟しています。
(1889年にサモア王国,アメリカ,ドイツ,イギリスの中立共同管理地域→1899年ドイツ領西サモア・アメリカ領東サモアに分割→1919年ニュージーランドの委任統治→1945年西サモアは国際連合信託統治→1962年西サモア独立→1967年東サモア自治政府→1997年西サモアはサモアに改称)。
・
195
3
年
~
197
9
年のオセアニア ポリネシア 現⑧ニュージーランド領トケラウ島
トケラウ島は,1948年以来,ニュージーランド領となっています。
・
195
3
年
~
197
9
年のオセアニア ポリネシア 現⑨ツバル
現在のツバルは,北部のギルバート諸島(現在のキリバス)とともに
,
ギルバー
ト=
エリス諸
島
としてイギリスに植民地支配を受けていました。
しかし,ギルバート諸島の住民はミクロネシア系であり,ポリネシア系のツバルは1974年の国民投票でギルバート諸島の分離を決定。
1978年にイギリス連邦の一員とし
て
独
立
を果たします。
とはいえ,産業基盤の脆弱なツバルのサンゴ礁の島々では,総督府が置かれた首都フナフティ環礁のフォンガファレ島を含め,漁業を主体とする伝統的な生活が維持されます。
・
195
3
年
~
197
9
年のオセアニア ポリネシア 現⑩アメリカ領ハワイ
1950年代の市民権運動(公民権運動)を通じて1959年にアメリカ合衆国の50番目の州に昇格しており,リゾート地としての開発が進み観光業が主要な産業となっているほか,アメリカ合衆国の太平洋軍の基地が置かれています。ホノルルに大規模なアラモアナ=ショッピングセンターが開店したのも1959年のことです。
1970年代以降,日本人のパッケージ・ツアーによる観光客が増加する一方で,ハワイの先住民の文化は観光客のイメージに合わせる形で変容・衰退していきました。1978年にハワイ州政府はハワイ人問題事務局を設置し,ハワイのポリネシア系先住民の伝統文化や言語(ハワイ語)の保護や振興にあたっています。1978年にはハワイ語が州の公式言語となっています。
○195
3
年
~
197
9
年のオーストラリア
オーストラリアでは
,
アボリジナ
ル
(アボリジニ)や
【本試験H27】
アジア系移民に対する差別的な政策
(
白豪主
義
【H29共通テスト試行 資料と議論】
)が推進されてきましたが,1967年の国民投票
で
アボリジナ
ル
(アボリジニ)にも国民としての権利が与えられることになりました。
○195
3
年
~
197
9
年のオセアニア メラネシア
メラネシア...①フィジー,②フランス領のニューカレドニア,③バヌアツ,④ソロモン諸島,⑤パプアニューギニア
○195
3
年
~
197
9
年のオセアニア ミクロネシア
ミクロネシア...①マーシャル諸島,②キリバス,③ナウル,④ミクロネシア連邦,⑤パラオ,⑥アメリカ合衆国領の北マリアナ諸島・グアム
1968年にはイギリスか
ら
ナウ
ル
が独立。
1975年
に
パプアニューギニ
ア
がオーストラリアから独立。
1976年に
,
ギルバー
ト=
エリス諸
島
が,ミクロネシア系
の
キリバ
ス
とポリネシア系
の
ツバ
ル
に分離し,それぞれ79年と78年に独立しました。1978年にイギリスか
ら
ソロモン諸
島
が独立しました。
③
ナウ
ル
と
②
キリバ
ス
のオーシャン島の住民は,日本が撤退した後に島に帰ることが許されますが,中国人労働者や白人との間には待遇の差別が残されていました。島民による権利獲得運動は1968年の独立,1970年のリン鉱石採掘事業の管理権獲得に実ります。ナウルの島民の生活水準は高く,鉱山の採掘権料と利益のおかげで,ほとんど働かずして西洋風の生活を享受するようになりました
(注
)
。一方,オーシャン島の住民はフィジーのランビ島に移住されたままとなっています。
(注1)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.355-357
中央ユーラシ
ア
...
①
キルギ
ス
,
②
タジキスタン
,
③
ウズベキスタ
ン
,
④
トルクメニスタ
ン
,
⑤
カザフスタ
ン
,⑥中華人民共和国
の
新疆ウイグル自治区
○195
3
年
~
197
9
年の中央ユーラシア
現⑥
中華人民共和国の新疆ウイグル自治区
新疆は,中華人民共和国のもと,1955年
に
新疆ウイグル自治
区
となりました。文化大革命のときには,古くさい習俗を打ち壊そうというスローガンのもとで,モスク破壊やコーラン焼却など,イスラーム教徒への迫害が起き,深刻な亀裂をもたらしました。
○195
3
年
~
197
9
年の中央ユーラシア 北極海周辺
北極海を挟んで向き合う米ソが対立する
この時期
の
北極
海
も,米ソ冷戦と無縁ではありませんでした。
北極点からみるとアメリカ合衆国とソ連は,北極海を挟んで隣り合う位置にあるからです。
北極海周辺には西側と東側諸国の軍事基地が建設されていき,その範囲は氷島(北極海に浮かぶ氷でできた島)の上にまで及びます。
西側諸国の飛行機はソ連の領空を飛ぶことができないため,航空機は北極圏を飛ぶ航路が主流でした。
また海では氷を砕いて進むことのできる船(砕氷船)の開発がすすみ,1958年にはアメリカ合衆国の世界最初
の
原子力潜水
艦
であ
る
ノーチラス
号
が,太平洋から北極点を通過し,グリーンランドに抜けることに成功しました。このとき「ノーチラス,北90度」という電信をおくったことで知られます。
○195
3
年
~
197
9
年のアジア 東北アジア・東アジア
東アジア・東北アジ
ア
...①日本,②台湾
(注)
,③中華人民共和国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国
※台湾と外交関係のある国は19カ国(ツバル,ソロモン諸島,マーシャル諸島共和国,パラオ共和国,キリバス共和国,ナウル共和国,バチカン,グアテマラ,エルサルバドル,パラグアイ,ホンジュラス,ハイチ,ベリーズ,セントビンセント,セントクリストファー=ネーヴィス,ニカラグア,セントルシア,スワジランド,ブルキナファソ)
◆
「スターリン批判」によりソ連圏で反ソ運動が起き,中国とは中ソ対立が起きた
スターリン批判で,東側陣営に亀裂が走る
1953年にソ連の最高指導者
〈
スターリ
ン
〉(共産党書記長1922~53,人民委員会議議長41~53,ソ連閣僚会議議長41~53,国家防衛委員会議長41~46
)
が死
去
しました。
これにより,冷戦は1950年代から60年初めにかけて
「
雪ど
け
」
【本試験H10時期(1950年代か問う)】
ムードとなり
【本試験H14このときWTOは解体されていない】
,1946年から続いていたインドシナ戦争が,54年
の
ディエ
ン=
ビエ
ン=
フーの戦
い
でフランス軍の大敗
【本試験H27勝利していない】
をみたことをきっかけに
,
ジュネーヴ国際会
議
で休戦協定(ジュネーヴ休戦協定
【本試験H16これにより南北ヴェトナムは統一されていない】
【追H30】
)が結ばれました。
ヴェトナムは北緯
17
度線
【追H30】
が南北の境界となり,南部に
は
ヴェトナム共和
国
が成立し,アメリカ合衆国に支援された親米派の〈ゴー=ディン=ジエム〉(1901~63,在任1955~63)が大統領に即位しました。それに対し,〈ホー=チ=ミン〉率いる北部
(
ヴェトナム民主共和
国
)は,ソ連と中国が支援したため,ヴェトナムは南北に引き裂かれることになりました。
このジュネーヴ国際会議では,前年に独立してい
た
ラオ
ス
と
カンボジ
ア
が,独立国として承認されています。 さらに54年4月~7月に,ジュネーヴでの26か国の外相会議で,インドシナ戦争と朝鮮戦争の休戦が決まったことをきっかけに,55年5月
に
ジュネーヴ四巨頭会
談
がひらかれ,米〈アイゼンハワー〉首相・英〈イーデン〉首相・仏〈フォール〉首相・ソ〈ブルガーニン〉首相の4首脳が
,
ポツダム会
談
以来初めて一堂に会し
,
平和共存路
線
【本試験H14】
を共有しました。
〈スターリン〉亡き後に権力をにぎったのは
〈
フルシチョ
フ
〉(1894~1971,在任1953~64)です。
就任直後の8月には,物理学者
〈
サハロ
フ
〉(1921~89)の技術で
,
水素爆
弾
実験を行っています。
56年にソ連共産党大会で〈スターリン〉時代の「個人崇拝」をひかえめに批判。大会最終日の秘密報告で,名指し
で
スターリン批
判
をし,独裁や個人崇拝の実態を暴露しました
【H29共通テスト試行 これにより東西関係が緊張したわけではない】
。彼自身も〈スターリン〉時代の過酷
な
粛
清
(ライバルを処刑・追放すること)に関わっていたわけですが,暴露することによってのライバルたちを蹴落とそうとしたのです。
この秘密報告は,アメリカ国務省の知るところとなり,翻訳されて世界中に配信され,中華人民共和国にも影響を与えました。
中国共産党は,個人崇拝を批判した内容が,中国で"〈毛沢東〉批判"につながることを恐れます。また,ソ連がアメリカ合衆国
と
平和共存路
線
を打ち出したことも,中華人民共和国にとって寝耳に水の話でした。
〈毛沢東〉は,1956年に「漢字簡化方案」を制定し,漢字を簡略化することで,農民識字率をあげようとするなど,社会主義国家の実現に向け改革を進めていました。〈蒋介石〉のうつった台湾では実施されなかったため,台湾の漢字(繁體字(はんたいじ))と中華人民共和国の漢字
(
簡体
字
)
【共通一次 平1:白話運動とは関係ない】
は,現在にいたるまで別々になっています。
〈毛沢東〉は1956年に百花斉放・百家争鳴(ひゃっかせいほうひゃっかそうめい)を打ち出し「共産党に対する批判をなんでもしていいよ!」と意見を求めておきながら,1957年に反右派闘争により批判をした"反体制派"を一斉追放。
その上で〈毛沢東〉
【追H27】
は1958年
に
第二次五カ年
計
画
【早法H23[5]指定語句】
の一環として
「
大躍
進
」政策
【追H9失敗し,ソ連から多額の経済援助を受けたわけではない、H27毛沢東時代であることを問う】
を打ち出して,社会主義国家の建設を急ぎました。彼は,農業・工業を生産する職場を基礎に,役所・学校・兵隊をワンセットにし
た
人民公
社
を,中国全土に設立していきました
【本試験H17時期(20世紀前半ではない)・毛沢東が建設したことを問う】
【追H9時期を問う】
。農業を集団化させると同時に,工業生産も確保しようしようとしたこの政策は大失敗に終わり,毛沢東の威信は低下します。
ソ連との対立も深まり
(
中ソ対
立
(
論
争
)
【本試験H23文化大革命以後に始まっていない】
【早法H30[5]指定語句】
),60年にはソ連の技術者が中国から引き上げられてしまいました
【追H9時期を問う,積極的な対外開放政策がとられたわけではない】
。
キューバに建設されたソ連のミサイル基地は,結局62年に撤去されました。ソ連"水爆の父"〈サハロフ〉の働きかけもあり,63年に
は
アメリ
カ
【東京H29[3]】
・
イギリ
ス
【東京H29[3]】
【慶商A H30記】
・
ソ
連
【東京H29[3]】
の間
で
部分的核実験禁止条
約
(
PTB
T
)
【東京H29[3]】
が締結されましたが,これをみた中国は「ソ連はアメリカ合衆国のいいなりだ」とますますソ連への批判を強めます。ソ連は,中国を"極左冒険主義"(さすがに過激で非現実的)だと名指しで批判すると,互いを公開で批判する事態に発展してしまいました。
64年
に
中華人民共和国は核実
験
を断行,核保有国になります。69年には,アムール川の支流で,1860年
の
北京条
約
【本試験H10】
以降中ソの国境となってい
る
ウスリー
川
に浮かぶ珍宝島(ダマンスキー島) での武力衝突
(
中ソ国境紛
争
【本試験H26時期】
)へとエスカレートしていきます。
1966年からは「大躍進」の失敗後に政治の最前線から退いていた〈毛沢東〉が自分の権力を取り戻そうと
【本試験H22これで失脚したわけではない】
,
紅衛
兵
【本試験H23文化大革命に対抗する組織ではない】
を用いて反対派を失脚させる運動を起こしました。これ
を
プロレタリア文化大革
命
【本試験H6魯迅は無関係(文学革命とのひっかけ)】
【本試験H14文化大革命により中華人民共和国が成立したわけではない,本試験H24新文化運動とのひっかけ】
【追H9時期を問う(1950年代ではない),大躍進政策とのひっかけ】
といいます(1966~76)
(「さらば,わが愛/覇王別姫」(1993香港・中国)に文化大革命の様子が描かれています)
。
「社会主義化がうまくいかないのは,この国にまだ"資本主義的"な考え方をするやつらがいるからだ」と考えたのです。しかし,頭の中で何を考えているかなどわかりませんから,「あいつは資本主義的なやつだ!」と証拠をでっち上げて集団で攻撃すれば,すぐに追い落とせます。"走資派(実権派)"(資本主義へと走る奴)
【本試験H23】
と名指しされた
〈
これにより中国全土は大混乱に陥りましたが,この間に「アルバニア決議」により中華人民共和国は国連代表権を獲得し,1972年にアメリカ合衆国大統領と会談し国交が正常化
(
上海コミュニ
ケ
)。アメリカ合衆国の方針転換を追って,
同年には日本の〈田中角栄〉首相との日中共同声明が発表されています
。
国際政治が激しく変動する中,〈毛沢東〉の後継者と目されていた〈
その後1976年に〈毛沢東〉が亡くなると,「四人組」が逮捕され,プロレタリア文化大革命は大きな
その後の中華人民共和国は,社会主義国家でありながら経済の「自由化」を模索していくこととなります。
○195
3
年
~
197
9
年のアジア 東アジア
現①
日本
日本はアメリカ合衆国との同盟の下で,中東からの安価な原油を基盤に,製造業中心の高度経済成長を達成した
1952年に主権を回復した日本は,米ソの冷戦構造の中で,アメリカ側の体制に組み込まれていきました。50年代には,終戦直後の戦後改革によりいったん民主的になった制度を,もう一度国家権力を強化した制度に戻そうとする動き
「
逆コー
ス
」が見られました。また,
1954年のマーシャル諸島(現在のマーシャル諸島共和国)
の
ビキニ環
礁
(◆世界文化遺産「ビキニ環礁―核実験場となった海」,2010)におけるアメリカ合衆国の水爆実験
【本試験H17時期(80年代ではない),H29共通テスト試行時期(1932年ではない)】
の被害を受け
た
第五福竜丸事
件
により,反核運動が盛り上がりました。ビキニ環礁では計23回の核実験のために住民の強制退去が行われ,現在でも居住できない島もあります。水素爆弾「ブラボー」によりできた直径2kmのブラボー=クレーターも残されています。
1955年に第一回原水爆禁止世界大会が広島で開催され,同年には哲学者〈ラッセル〉(1872~1970)と科学者〈アインシュタイン〉(1879~1955,署名後,約1週間後に死去)
【東京H7[3]】
が核の平和利用を訴え
た
ラッセ
ル=
アインシュタイン宣
言
が発表されました。1957年にはカナダ
で
科学
者
【本試験H23】
〈湯川秀樹〉(1907~81),〈朝永振一郎〉(1906~79),〈ボルン〉(1882~1970)らによ
り
パグウォッシュ会
議
が開かれ核兵器廃絶を訴えました
【本試験H4第三世界の指導者による開催ではない,本試験H7】
【本試験H23】
。この会長を務めたイギリスの物理学者〈ロートブラット〉(1908~2005)は1995年にパグウォッシュ会議とともにノーベル平和賞を受賞しています。
〈鳩山一郎〉内閣(1954~56)は,
〈
吉田
茂
〉内閣(1948~54)が日本国憲法を改正せずに,アメリカに追従し
て
再軍備路
線
をとったことを批判し,憲法を改正してソ連と中華人民共和国とも接近するべきだと主張しました。
経済界を支配する大企業も,当時勢力を増していた革新勢力である社会党(左派・右派に分かれていた)などの拡大をおそれ,保守勢力である日本民主党と自由党の合同を提案するようになります。1955年2月総選挙では,革新勢力が1/3以上の議席を獲得していたのです。憲法を改正するためには2/3以上の議席が必要です。
1955年10月,左右の社会党が統一して日本社会党ができました。
それに対抗して,1955年11月〈岸信介〉が日本民主党と自由党を合わせ,自由民主党を立ち上げました。
結局,1956年7月の参院選でも革新勢力が1/3以上の議席を獲得したため,憲法改正にはいたらず,この状況は以降も続きました。1955年に始まった,憲法を改正できそうで改正できない絶妙な保守勢力と革新勢力のバランスを「
5
5
年体
制
」と呼ぶようになりました。
1956年10月にはソ連の〈フルシチョフ〉と
の
日ソ共同宣
言
【本試験H24時期(国際連合加盟前)】
によって,日本はソ連との戦争を終結させました。これにより,12月に日本
は
国際連合に加
盟
【本試験H24】
【追H24時期を問う(世界人権宣言、サンフランシスコ会議との時系列)】
することができました。
1957年に
〈
岸信
介
〉内閣(きしのぶすけ,在任1957~60)が成立します。彼は「保守本流」という派閥に属し,経済発展を優先し,アメリカに安全保障を"肩代わり"してもらうべきことを主張しました。弟は〈佐藤栄作〉(さとうえいさく,後の首相),孫は〈安倍晋三〉(あべしんぞう,こちらも後の首相)です。
1960年
に
日米安全保障条約の改
定
を達成すると,〈岸信介〉内閣(きしのぶすけ,1957~60)は総辞職し,〈池田勇人〉内閣(いけだはやと,在任1960~64)に代わりました。高度経済成長の時代を迎えていた日本は,60年代始めに自由貿易の国際的な取り決めに従うようになり,1964年に
は
東京オリンピッ
ク
を開催しました。ギリシャのオリンピアにあるヘラ神殿の前で採火された聖火は,アメリカの施政下にあった沖縄も,島民の複雑な思いを背景としつつ通過しています。日の丸の掲揚が制限されていましたが,アメリカ合衆国はこのときの掲揚を黙認します
(注
)
。
1965年には大韓民国の〈朴正煕〉政権
【本試験H31李承晩ではない】
と
日韓基本条
約
【本試験H31】
【追H24植民地化する条約ではない】
を結び,日本は韓国を「朝鮮半島の唯一の合法政府」と認め,国交を正常化させました。大韓民国は,総額8億ドルの援助資金と引き換えに,戦前の被害に関する賠償請求権を放棄しました。これにより大韓民国は
「
漢
江
(ハンガン)
の
奇
跡
」と呼ばれる経済成長を迎え,70年代には
新興工業経済地域
の一つに数えられるようになります。また,韓国は「反共産主義」を名目に,アメリカ合衆国の始めたヴェトナム戦争に兵士を多く派遣しました。
(注)共同通信社『ザ=クロニクル戦後日本の70年 4 1960-64 熱気の中で』共同通信社,2014,p.124
1965年からは沖縄か
ら
ヴェトナム戦
争
に出撃する爆撃機が出るようになり,沖縄返還運動が盛んになっていきます。沖縄は1969年にアメリカ合衆国
〈
ニクソ
ン
〉大統領(任1969~74)と〈佐藤栄作〉首相(さとうえいさく,在任1964~72)が共同声明で1972年の返還を約束し,71年の沖縄返還協定で,1972年
【セA H30年代(日中国交正常化と同年か)】
に日本に返還されました
(
沖縄返
還
)。アメリカ合衆国による政策により,米中が接近し,1972年
【セA H30年代】
に〈田中角栄〉首相(任1972~74)が日中共同声明
【本試験H22日中平和友好条約ではない】
で
日中国交正常
化
【セA H30年代】
を達成しました
【本試験H22日中平和友好条約により日中国交正常化されたわけではない】
。このときに上野動物園に贈られたのが「カンカン」(♂,~1980)と「ランラン」(♀,~1979)です。
1965年に名神高速道路,69年東名高速道路が開通し,自動車の普及
(
モータリゼーショ
ン
)が進みました。都市部の過密化,地方の過疎化も次第に進行していきました。また,高度経済成長の裏で
,
水俣
病
(みなまたびょう。企業の化学工場から出された有機水銀に汚染された魚を食べた人々やその子どもに,中毒症状や重篤な神経障害が現れたもの)などの深刻
な
公
害
が発生し,1970年に公害対策基本法が制定され,71年に
は
環境
庁
が発足しました。のち2013年に熊本で署名された国際的に水銀を規制する条約は,
「
水俣条
約
」と名付けられています。
しかし,1973年のオイル=ショック以降,先進国は世界的に不況の波に襲われます。日本で
は
狂乱物
価
(インフレ)となり,1974年に参議院選挙に敗北した自民党の〈田中角栄〉首相(任1972~74)は退陣しました(のち76年にロッキード事件で逮捕)。〈三木武夫〉内閣(みきたけお,1974~76),1978年
に
日中平和友好条
約
【本試験H22これで国交正常化したわけではない】【本試験H26時期】
を締結した〈福田赳夫〉内閣(ふくだたけお,在任1976~78),〈大平正芳〉内閣(おおひらまさよし,1978~80)はいずれも短命に終わっています。
この頃,従来の国民の福祉を充実させようとする
「
福祉国
家
」政策は,各国で再検討されるようになっていました。「国の支出をできるだけ減らし,自由な競争を促進して,民間の活力を高めることで国を発展させていこう」とい
う
新自由主
義
的な政策をとる国家が増えていきます。
・
195
3
年
~
197
9
年の東アジア 現②台湾
台湾は1954年、アメリカ合衆国と相互防衛条約を調印し、自由主義陣営に身を置いて大陸の中華人民共和国と対峙します。
その後、1955年には中国対立の浙江省・大陳列島の領有権を喪失。国共内戦の停戦の取り決めは結ばれないまま、
台湾国民政府
が実効支配する地域は、台湾を中心とする地域(「中華民国自由地区」)に限定されることとなりました(台湾本島、台湾本島の付属島嶼、澎湖諸島、中国大陸沿岸の馬祖列島・烏坵島・金門島、南シナ海の東沙諸島、南沙諸島の太平島・中洲島)。
しかし、中国大陸を実効支配しているのは
中華人民共和国
政府ですから、こうして互いの正当性を否定する「
2つの中国政府
」が存在する状態が生まれることとなったわけです。
台湾海峡をめぐる緊張はその後も続き、1958年には中華人民共和国との交戦も起きています(金門砲戦)。
さらに、1970年代の国際情勢の急変の影響を受け、台湾をめぐる情勢は大きな転換点を迎えました。1971年の国際連合総会で、アルバニアが提案した中華人民共和国に「中国」の代表権を与えようという案(
アルバニア決議
、「国府追放、北京招請」案)が可決されると、台湾の国民政府がが「中国」の代表権を失ってしまったのです。
台湾はこうして国連から脱退。1972年には日本が中華人民共和国との間に国交を樹立したため、日本政府と台湾国民政府は断交に至ります。
同年に行政院長に就任していた〈蒋介石〉総統の息子である〈蒋経国〉(しょうけいこく、1910~1988、中華民国総統任1978~88)は、1973年に大規模なインフラ開発計画「十大建設」をスタート
【一橋H31 蒋経国『わが父を語る』の一部が使用され、論述(台湾と中華人民共和国の関係と1949年に至る変遷)】
。
「台湾の危機をのりこえ、大陸を取り返す(
大陸反攻
)ためには、重工業主体の工業化のためのインフラを建設する必要がある」との認識からでした(これがのちに台湾がアジアNIEsに数えられる基盤となります)。
1975年に〈蒋介石〉が亡くなると、取り急ぎ〈厳家淦〉副総統が総統に格上げされましたが、中国国民党主席に就任していた息子〈蒋経国〉が1978年に総統に就任。
台湾の国際的な地位向上に努めます。
・
195
3
年
~
197
9
年の東アジア
現③
中華人民共和国
建国間もない中国は,〈毛沢東〉を中心に社会主義の確立を急ぎます。
1953年に,国が主導して経済を発展させるための
第一次五カ年計画
(~1957)
【追H27 四つの現代化により始まったのではない】
を立案。
1954年には中華人民共和国憲法が制定されました。
朝鮮戦争の終了と「雪解け」の影響を受け,1956年には「百花斉放・百家争鳴(ひゃっかせいほう・ひゃっかそうめい)」と呼ばれる自由化政策がとられますが,翌年からは「自由化」を唱えた勢力が政治の表舞台から追放されます(反右派闘争(1956~57))。
1958年からは「
大躍進
」
【追H24韓国ではない、H27】
をかかげた第二次五カ年計画が始まり,農村の集団化が急ピッチで進められていきます。農民たちは「
人民公社
」
【追H27】
という政治=経済=社会単位に組み込まれ,収穫物のノルマが課されるとともに,鉄鋼の生産までが割り当てられました。
当然農民に鉄鋼を生産させるなど無理な話であり,自然災害も重なってこの政策は大失敗。
〈毛沢東〉は1959年に国家主席の座を〈劉少奇〉(りゅうしょうき;リウ=シャオチー)に譲ります。
そんな中,チベット動乱と呼ばれる事件が起こります。
すでに1951年の「チベット平和解放に関する
1
7
条協
議
」においてチベットは中国に対して,外交権・軍事権を失うことを認めるかわりに,
〈
ダラ
イ=
ラ
マ
1
4世
〉(位1940~)による支配を承認されていました。もはやチベットにとってはギリギリ綱渡りの状態です。
そこに中華人民共和国にとって,チベットの伝統的な制度は「革命に反する古くさい文化」に映るわけです。社会主義的な考え方を植え付けようとする動きに,チベット人の反乱が勃発すると,1959年に
〈
ダラ
イ=
ラ
マ
1
4世
〉
は
インドに脱
出
し,亡命政権を樹立しました
【本試験H30亡命先はアメリカではない】
。これ以降,彼はインドのダラムサラに逃れているわけです。チベット難民も発生し,インド側になだれ込みました。こうしてチベットは軍事的に中華人民共和国の領土とされたのです
【本試験H2020世紀に反中国運動があったかを問う】
。
さて,1959年に国家主席に就任した〈劉少奇〉は調整政策を行い,大躍進政策によって荒廃した農村を救おうとしました。
折しも1956年にソ連で「スターリン批判」が起きると,中華人民共和国との関係が悪化しており,1959年6月
(注
)
には中ソ国防用新技術協定が破棄され,のちにソ連の技術者が中国から引き上げられていました。1969年にはソ連との国境付近の珍宝島〔ダマンスキー島〕での武力衝突に発展(ダマンスキー島事件)。
一方,1962年にはインドとの国境紛争も起こっています。
こうした対外関係の緊張を背景に,1964年には初の原爆実験に成功。
そんな中,政治の表舞台に返り咲こうとする〈毛沢東〉による運動が始まります。
〈毛沢東〉は自らの思想(毛沢東思想)を掲げ,「資本主義的な支配者(=〈劉少奇〉や〈鄧小平〉(とうしょうへい;トンシャオピン))を追い出し,労働者と農民の文化を復活させよう!」と,青少年を中心とする大衆を動員しました。これを
プロレタリア文化大革命
といい,1976年まで続きました。
プロレタリア文化大革命の間,〈毛沢東〉とその妻を中心とするグループ(四人組)が政治の実権をにぎり,反対勢力は容赦なく追放されました。
そんな中で文化が発展するわけがなく,少数民族たちも自らの文化を捨てるよう要求されるなどの憂き目を見ます。
ただ,〈毛沢東〉はすべての実権をにぎっていたわけではなく,首相の座は〈周恩来〉にありました。〈周恩来〉はアメリカ合衆国とソ連との関係悪化を読み取り,逆にアメリカ合衆国と関係を改善することでソ連に対抗しようとして,アメリカ合衆国大統領補佐官〈
キッシンジャー
〉に接近。1971年には国際連合の代表権を獲得し,1972年2月には〈
ニクソン
〉大統領が中国を訪問し1972年9月にはそれに続いて日本と中華人民共和国との国交が正常化されました。
また,1975年には新憲法が採択され,〈周恩来〉は「まだまだ中国は遅れている」として「
四つの現代化
」(農業・工業・国防・科学技術)
【追H27 これにより第一次五カ年計画が始まっていない】
を打ち出します。
一方,〈毛沢東〉が後継者とみなしていた軍の実力者〈
林彪
〉(りんぴょう)が航空機の墜落事故で亡くなり,1976年1月に〈周恩来〉,9月に〈毛沢東〉が相次いでなくなります。
〈周恩来〉が亡くなったときには,天安門広場で自由化を求める人々の騒擾事件がありましたが鎮圧され,同年10月に〈毛沢東〉夫人の〈江青〉(こうせい;チャンチン)ら
「四人組」が逮捕
され,約10年にわたったプロレタリア文化大革命はようやく幕を閉じました。
新たに共産党主席となった〈
華国鋒
〉(共産党主席 任1976~81,首相任1976~80)
(注
)
は,1978年12月に,すでに〈周恩来〉によって提起されていた「四つの現代化」を強調。彼は必ずしも,〈毛沢東〉・〈周恩来〉や,プロレタリア文化大革命を批判することはありませんでした。
1978年には日本の〈福田赳夫〉首相との間に日中平和友好条約
【本試験H31時期を問う(チェルノブイリ原発事故・キューバ危機との時期並び替え)】
が結ばれています。
しかし,役職には就かなかったものの,強力な実権をにぎりつつあった〈
鄧小平
〉(とうしょうへい)が,しだいに中国に部分的に「資本主義」の要素を導入しようと動いていくことになります。
(注)『タペストリー16訂版』,2018,帝国書院,p.295。
・
195
3
年
~
197
9
年の東アジア
現④
モンゴル
モンゴルはソ連との関係を維持し,ソ連と中華人民共和国との「中ソ対立」
(
中ソ論
争
【早法H26[5]指定語句】
)が起きても,モンゴルはソ連側にまわりました。1962年にはアジア唯一
の
COMECO
N
(コメコン) 加盟国となり,ソ連圏との結びつきは強化されました。
・
195
3
年
~
197
9
年の東アジア
現⑤
朝鮮民主主義人民共和国
,⑥
大韓民国
◆
情勢が安定した韓国は軍事政権の下,日本からの資本・技術移転が進み発展を始めた
1950年
の
朝鮮戦
争
【本試験H10時期(1950年代か問う),休戦後まで日本の独立が遅れたわけではない】
において,中華人民共和国が100万人の義勇軍を南下させたため,1951年1月にソウルが北朝鮮に再占領されました。「国連軍」司令官〈マッカーサー〉は中華人民共和国に対する核兵器の使用を提案しますが,〈トルーマン〉大統領によって拒否され
【本試験H12核兵器は使用されていない】
1951年4月に解任。その後は〈リッジウェイ〉司令官の下
,
北
緯
3
8
度
線
を挟んで一進一退を繰り返し,休戦を公約とした〈アイゼンハワー〉政権の発足と〈スターリン〉の死去をきっかけに1953年7月27日に北緯38度線の南にあ
る
板門
店
(パンムンジョム;はんもんてん)で休戦協定が調印されました。朝鮮戦争の死者数は,民間人を含めると200万人にのぼるといわれており,南北朝鮮の間で生き別れとなった"離散家族"を生みました。
・
195
3
年
~
197
9
年の東アジア
現⑤
朝鮮民主主義人民共和国
北朝鮮は自力で社会主義化を図ろうとしたが経済は停滞し,国民の動員が強められた
朝鮮戦争の過程で,ソ連をバックに付けた〈金日成〉首相に権力が集中し,権力の奪い合いの結果,1958年には国内における主導権をほぼ確立しました。
すでに企業・鉱山・銀行などは国有化され,1953年からは農業の集団化が進められていき,社会主義家が進められました。計画経済の下で,ソ連・中華人民共和国の援助を受けながら重工業化が進められました。1953年に〈スターリン〉が死去し1956年にスターリン批判が明るみに出ると,中華人民共和国とソ連の外交関係が悪化。間に挟まれる形の北朝鮮は,どちらかに接近するともう片方に睨(にら)まれてしまう困難の中,両者とバランスをとりながら独自の社会主義路線をつくろうとし,1956年からは「千里馬
(
チョルリ
マ
)
運
動
」が始められ,生産力の向上が推進されました。
この過程で,北朝鮮の経済は朝鮮労働党の指導者による直々の「現地指導」に基づき,国民が農業・工業分野の生産に関わるトップダウンの管理方法が確立されていきます。しかし,外国からの資本や資源(特に石油)を導入せずに自力で計画経済による工業化・社会主義化を図る取り組みは,早くも1960年代後半には行き詰まりを見せ,〈金日成〉は国民の動員を「主体
(
チュチ
ェ
)
思
想
」というイデオロギーによって一層強めていきました。お隣の韓国は日本やアメリカにすり寄ることで工業化を果たしているが,北朝鮮は違う。北朝鮮は〈マルクス〉=〈レーニン〉の思想を北朝鮮に創造的に適用した〈金日成〉の「偉大な思想」により自力で発展することが可能だ,といった考えです。「主体思想」は〈金日成〉に対する個人崇拝を生み,アメリカ合衆国と韓国に対する強硬姿勢をもたらしました
(1972年には憲法が改正され,主体思想が明記され,〈金日成〉は国家主席に就任しました)
。1970年代に入って一時的に韓国との関係が改善しましたが,1973年の金大中事件をきっかけに強硬姿勢に逆戻りしました。
1967年頃から〈金日成〉の息子
〈
金正
日
〉(キムジョンイル)の存在感が増し,〈金日成〉に代わって主体思想を正確に理解し,国民を指導する立場を自任するようになっていきました。1969年には朝鮮中央テレビが開局し,主体思想の普及に貢献しました。しかし1970年代後半には計画経済に遅れが目立つようになり,韓国との格差は決定的となっています。なお,1970年代から1980年代にかけて,韓国に対する工作に利用するために日本人を北朝鮮に組織的に拉致していたことが明らかになっています
(2002年の日朝首脳会談で〈金正日〉が関与を認めました)
。
・
195
3
年
~
197
9
年の東アジア
現⑥
大韓民国
朝鮮戦争からの復興のために,アメリカ合衆国は大規模な援助を実施しましたが,援助物資は一部企業グループに横流しされ財閥が形成されていきました。軽工業を中心として輸入品を自国で生産する動きもにぶく,工業化は進展しませんでした。
一方,1950年代末にかけて〈李承晩〉大統領による強権政治への批判が強まり,1960年の大統領選挙での不正が引き金となり市民や学生によるデモが拡大。4月26日に議会とアメリカ合衆国が圧力をかけると,〈李承晩〉は4月27日に大統領を辞任し,5月にアメリカ合衆国に亡命しました。これ
を
四月革
命
といいます。
議院内閣制を定めた新憲法の下,野党であった民主党〈張勉〉内閣が発足し,国政の安定化に努めるとともに,北朝鮮との融和も主張しました(国連の監視の下,韓国憲法により南北統一選挙の実施を公約)。
しかし,北朝鮮との融和策は軍部の不評を買い,経済の悪化にも歯止めがかからず,1961年にはついに軍部の若手将校によるほぼ無血のクーデタが起きました(5.16クーデタ)。最高指揮官は〈朴正煕〉(パクチョンヒ)
【追H21クーデタによって政権を獲得したか問う】
少将らで,軍事革命委員会(のち国家再建最高会議)を組織して非常戒厳令を発令し,〈張勉〉は辞任し,〈尹潽善〉(ユンボソン;いんふぜん)大統領は残留しました。同年7月には
〈
朴正
熙
〉が国家再建最高会議議長に就任しました。1961年には反政府の動きを弾圧するために諜報機関である中央情報部(KCIA)が創設され,1962年には大統領にも就任しました。
これに対し〈ケネディ〉大統領は,国内をコントロールできない政権よりは,強権により国内の資本主義的な発展をすすめることのできる政権のほうがマシであると判断し,〈朴正熙〉政権を支持しました。発展途上国の社会主義化を防ぐためには,〈アイゼンハワー〉政権のときのようにただ単に援助するのではダメで,その国の体制が経済をしっかり開発することができるよう後押しをすることが大切だと見なしたのです。開発優先の強権的な政治体制のことを
「
開発独
裁
」ということがあります
(注
)
。
(注)曺喜昖は,〈朴正熙〉がとった反共・開発動員体制の背景は,植民地化を経験した多くの地域に普遍的にみられる政治体制であるとみています。それは,いまだ社会の「近代化」を達成できない政府が,「近代化」という正常な状態を口実に,国民を強制的に動員ないしは自発的に参加させて社会を再組織するものでしたが,開発の犠牲となった人々の抵抗が,〈朴正熙〉に対抗する政治運動を生むこととなるのです。曺喜昖, 李泳釆・監訳,牧野波・訳『朴正煕 動員された近代化: 韓国,開発動員体制の二重性』彩流社,2013,p.120,122~123。
北朝鮮の〈金日成〉も〈朴正熙〉軍事政権の成立に対抗し,6月にソ連を訪問してソ連=北朝鮮友好強力相互援助条約を,7月には中華人民共和国との間に中朝友好協力相互援助条約を締結しました。これらは実質的には韓国に対する軍事同盟でした。
〈朴正煕〉大統領は〈李承晩〉時代の財閥への弾圧を強め,外国の資本を導入した輸入代替工業,さらには輸出志向型の工業化を進める政策をとろうとしました。しかし,アメリカ合衆国からの援助が減らされており,代わりにすでに高度経済成長を果たしていた日本から資本を導入するためには,日本との国交樹立が不可欠でした。日本側も輸出先として韓国市場を求めていました。
そこで,1965年
に
日韓基本条
約
【追H24植民地化する条約ではない】
が締結され,日本は韓国を「朝鮮半島の唯一の合法政府」と認め,国交を正常化させました。大韓民国は,総額8億ドルの無償経済協力・政府借款・商業借款と引き換えに,戦前の被害に関す
る
請求権を放
棄
しました。この中で,在日韓国人の永住権も承認されています。
日本との国交回復により,大韓民国は
「
漢
江
(ハンガン)
の
奇
跡
」と呼ばれる経済成長を迎え,70年代には新興工業経済地域の一つに数えられるようになります。韓国は「反共産主義」を名目に,アメリカ合衆国の始めたヴェトナム戦争に兵士を多く派遣し,「ヴェトナム特需」も経済成長を支えました。1970年からは日本企業から技術と借款を導入し,浦項(ポハン)に総合製鉄所が建設されました。
1970年代には北朝鮮との和平交渉や南北交流の拡大に向けた動きが活発化しました。しかし,1971年に大統領候補であった〈金大中〉(キムデジュン;きんだいちゅう)が東京でKCIAに拉致されたことに北朝鮮が抗議し,関係は冷却。同年には〈朴正熙〉大統領が非常事態宣言を発表し,1972年には非常戒厳令を公布。大統領の権限をさらに拡大して反対勢力を押さえ込み,南北の平和統一のために新憲法を制定しようとしました
(
十月維
新
)。同年に大統領に就任した〈朴正熙〉は「維新体制」のもとで輸出志向型の重化学工業化を一層推進していきました。1975年に現代(ヒュンダイ)自動車が初の国産車を製造し,三星(サムソン),ラッキー金星(クムソン,現在のLG),大宇(デウ)といった新興財閥が生まれました。首都ソウルへの人口一極集中も加速し,都市と農村の所得格差が拡大すると,1970年か
ら
セマウ
ル
(新しい村
)
運
動
が始められ,農業生産の近代化に向けた取り組みが行われていきます。
〈朴正熙〉政権の強権政治に対する批判も強まり,〈金泳三〉(キムヨンサム)を総裁とする新民党の反政府運動も活発化しました。1974年には〈朴正熙〉夫人が暗殺され,1979年には中央情報部長が会食中に〈朴正熙〉を射殺。実行犯を逮捕した〈崔圭夏〉(チェギュハ,さいけいか)首相が大統領を代行し,非常戒厳令を出しました。
○195
3
年
~
197
9
年のアジア 東南アジア
東南アジ
ア
...
①
ヴェトナム
,
②
フィリピン
,
③
ブルネイ
,
④
東ティモール
,
⑤
インドネシア
,
⑥
シンガポール
,
⑦
マレーシア
,
⑧
カンボジア
,
⑨
ラオス
,
⑩
タイ
,
⑪
ミャンマー
独立後の東南アジアは冷戦の影響を受け,「第三世界」を建設しようとする運動は米ソに切り崩され,米ソの勢力争いが起きた地域では内戦が起きた
・
195
3
年
~
197
9
年のアジア 東南アジア
現①
ヴェトナム
大国の介入を受け続けるカンボジアの悲劇
194
6~
195
4
年 インドシナ戦争
フランス領インドシナでは,ヴェトナム国を建てて勢力圏を維持しようとするフランスと,北部の
〈
ホ
ー=チ=
ミ
ン
〉の勢力との間で,泥沼の戦いが繰り広げられていました。しかし,1954
年
ディエ
ン=
ビエ
ン=
フーの戦
い
でフランス軍1万6000は降伏すると風向きが変わり,国際社会が介入する形で,決着が図られます。
1954年4月,ジュネーヴにアメリカ・イギリス・フランス・中華民国・ソ連が集まり協議した結果,ヴェトナムの独立が定められました。北緯17度線を停戦ラインとし,56年に国際社会の監視下のもとで選挙を行って,南北統一をしようということになりました。こうしてインドシナ戦争は終結したのですが,今度ヴェトナムに介入することになったのはアメリカ合衆国です。
196
0
年代
~
197
3
年 ヴェトナム戦争
ヴェトナムの社会主義国化を阻止するために,アメリカは南部の政権を支援し,北部の〈ホー=チ=ミン〉と対立。
〈
ジョンソ
ン
〉大統領
【本試験H10時期(1930年代ではない)】
は1965年に,北部のヴェトナム民主共和国の空爆を開始し
,
ヴェトナム戦
争
(
第二次インドシナ戦争ともいいます
)
が始まりました
【本試験H5ヴェトナム人の戦争相手国を問う(以前は対フランスであったことも)】
。
最新鋭の武器を投入したアメリカ合衆国に対し,〈ホー=チ=ミン〉はジャングルに地下トンネルを掘り,南部の抵抗勢力を支援するなど,あの手この手でゲリラ戦を敢行。
アメリカ軍は熱帯のゲリラ戦に苦しみ,戦況は泥沼化しました。現在ではクチというところで,実際に当時の地下トンネルに入ってみる体験もできます。
国内的にも批判が高まり,戦費も増大していたこともあって,〈ニクソン大統領〉は1973年に撤退を決め,「あとはヴェトナム人にまかせよう(ヴェトナム戦争のヴェトナム化政策)」としました。
197
8
年~現在 ヴェトナム社会主義共和国
1975年にサイゴンは〈ホー=チ=ミン〉のヴェトナム民主共和国が陥落し,1978年
に
ヴェトナム社会主義共和
国
が成立しました。南北統一は〈ホー=チ=ミン〉のほうに軍配が上がったのです。
フランスとアメリカとの一連のヴェトナム戦争によりヴェトナム全土は荒廃し,アメリカ合衆国の使用した化学兵器(ダイオキシン類を主成分とする
"
枯葉
剤
")によって,現在に至るまで重い後遺症を残したり,形態異状児を産んだ住民も多数出ています。また戦難を逃れて船で海上に脱出した人々
(
ボー
ト=
ピープ
ル
)が東シナ海や南シナ海を通り,日本にも到達しました。
中華人民共和国
は
カンボジ
ア
【追H20ラオスではない】
で〈毛沢東〉を信奉する
〈
ポ
ル=
ポ
ト
〉(1928~1998)
【追H20、H26ポーランドではない】
を支援し,ソ連の支援を受けるヴェトナム社会主義共和国を"挟み撃ち"しようとしていました。
〈ポル=ポト〉は「カンボジアでは全員が思想を改造し,農業に従事することで原始共産制による"みんな平等"の理想社会をつくることができる」と宣伝し,都市民を農村に集団移住させ批判する知識人や抵抗勢力を大量殺害しました。
1978年にヴェトナムはカンボジアに侵攻し親ヴェトナム政権を樹立しましたが,国際的批判にさらされヴェトナム社会主義共和国は,〈ポル=ポト〉派を支援していた中華人民共和国との間に1979年
に
中越戦
争
が勃発します。社会主義国どうしの戦争は,世界に衝撃を与えました。
アメリカ合衆国はカンボジアの反ヴェトナム勢力を支援したため,カンボジアは周辺国と大国による代理戦争の舞台に成り果てていきます。これがカンボジアの悲劇です。
・
195
3~
197
9
年のアジア 東南アジア 現②フィリピン
東南アジア集団防衛条約(SEATO)を締結す
る
フィリピ
ン
(米比相互防衛条約(1951)も締結しています)
と
タ
イ
は,アメリカ合衆国に軍事基地を提供し連携を維持しました。
・
195
3~
197
9
年のアジア 東南アジア 現③ブルネイ
イギリスの保護下にあったブルネイは、この時期マレーシアとの合併構想から離脱しています(マレーシアは、マラヤ、シンガポール、サバ、サラワクの4地域によって1963年に成立)。
・
195
3~
197
9
年のアジア 東南アジア 現④東ティモール
ポルトガルの植民地から、インドネシアの占領へ
東ティモー
ル
はポルトガルの植民地でしたが、1974年にカーネーション革命がポルトガルで起き独裁政権が崩壊。東ティモール独立革命戦線FRETILIN(フレティリン、当時はティモール社会民主協会(ASDT)という名称)が即時の独立を要求しました。
しかし、ポルトガルとの関係維持をめざすグループと、インドネシアへの併合をめざすグループの三つ巴となり、1975年にはインドネシア軍が西ティモールから東ティモールに侵攻を始めます。
それに対し、翌日フレティリンは首都のディリで「東ティモール民主共和国」の独立を宣言。しかしインドネシアの〈スハルト〉政権は東ティモールを制圧し、国連安全保障理事会からも即時撤退の決議を受けます。1976年にはインドネシアが
東ティモールを併合
宣言。
その後も抵抗は続きますが、東ティモールの住民の多数が命を落としました。
・
195
3~
197
9
年のアジア 東南アジア 現⑤インドネシア
インドネシ
ア
では経済が停滞し,議会制民主主義体制がゆきづまると,1950年代末より
〈
スカル
ノ
〉大統領が「指導される民主主義」を提唱しました。これは「インドネシアにはインドネシアのやりかたがある。西洋流の多数決による選挙ではなく,独立のリーダー〈スカルノ〉を中心に国をまとめるべきだ」という主張です。〈スカルノ〉は民族主義,宗教(イスラーム教),共産主義の政党が,一致団結してまとまるべきだという
「
ナサコ
ム
(
NASAKOM
。3つの単語の頭文字をとった造語)」体制を提唱しました。
しかし,1963年
に
マレーシア連
邦
が形成されると,〈スカルノ〉はこれを国内政治に利用します。 北ボルネオのサラワクやサバが,マレーシアに加入したことを「イギリスの陰謀」と非難し、実力でノマレーシア粉砕を目指す政策(コンフロンタシ)を打ち出し、実際にサバ、サラワク、マレー半島部に攻撃部隊を上陸させ、1963年に国交を断絶しています(のち回復)
(注)
。マレーシアという敵を外側につくることで,国内をまとめようとしたわけです。アメリカ合衆国も,〈スカルノ〉を,国内の共産主義者を操ることのできる実力者として見ていたふしがあります。
しかし,インドネシアの内側では,国営企業を牛耳る「軍」や大地主の多い「イスラーム」に対して,「共産党」が対立するようになっていました。そして迎えた1965年の9月30日(正確には10月1日未明)。"「将軍評議会」による〈スカルノ〉に対するクーデタを防ぐ"という名目のもと,共産党との関連があったとされる大統領親衛隊長〈ウントゥン〉中佐が権力を掌握しようとしましたが,陸軍の
〈
スハル
ト
〉将軍(1921~2008)により鎮圧されました。「反乱」を鎮圧した〈スハルト〉は,逆に権力を掌握し,「共産党の陰謀」であると発表。この後,「共産党員狩り」が起き66年までに45~50万人が殺され
,
共産党は壊
滅
しました
【本試験H14】
。1966年に〈スハルト〉は〈スカルノ〉から正式に権力を移譲され,1968年に〈スハルト〉は大統領に就任し
【本試験H26時期】
,反共・親米の「新体制」を打ち立てます。「国父」〈スカルノ〉は軟禁状態に置かれ,第3夫人の〈デヴィ=スカルノ〉はフランスに亡命,〈スカルノ〉は1970年に死去しました。この一連の騒乱を
「
九・三〇事
件
」
【本試験H10これをきっかけにスカルノが失脚したか問う】
【本試験H30時期(1965年)・共産党が壊滅したかを問う,本試験H29中国ではない】
【追H20共産党がこれをきっかけに弾圧されたか問う】
といい,インドネシアに暗い影を落としています。しかし,その発端となった"クーデタ"の首謀者がいったい誰だったのか,いまでもはっきりとはわかっていません。インドネシアで共産主義勢力が伸長するのを恐れた,アメリカの情報機関CIAが〈スハルト〉をエージェントとして実行させたと考える説すらあります。九・三〇事件後には各地で自警団などによる隣人の虐殺も発生したとみられ,インドネシアでこの事件について語るのは現在でも"タブー"となっています(当時「共産党員狩り」に関わった被害者・加害者を取材した異色ドキュメンタリー映画に,「アクト・オブ・キリング」(英・デンマーク・ノルウェー,2012)があります)。
ヴェトナム戦争が終わるとインドネシアとタイからは米軍が撤退し,それを受けてASEANは"中立化"を宣言しました。1976年には東南アジア友好協力条約(TAC)が締結され,紛争の平和的な解決が約束されると,先進国の投資や援助が急増することになります。
(注)岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.79。
・
195
3~
197
9
年のアジア 東南アジア 現⑥シンガポール、⑦マレーシア
すでにイギリスは、マレー半島の海峡植民地(ペナン、マラッカ)とマレー連合州であった地域をマラヤ連邦に改めていました。シンガポールは直轄植民地として、マラヤ連邦には加えられていません。
マレー半島のマレー〔ムラユ〕人のスルタンの権限が強化されたのに対し中国系住民の多
い
シンガポー
ル
では、マレー〔ムラユ〕人やイギリス人に対する反発が強まります。
なお「中国系住民」といっても一枚岩ではなく、やがて独立の父となる〈
リー=クアン=ユー
〉(1923~2015、華人四世)のように英語のエリート教育を受けた集団や、華語教育を受けた集団。中国との結びつきを重視する集団や、シンガポールへのナショナリズムを持つ集団。シンガポールに社会主義国家を建設しようとした集団(マラヤ共産党、1948年6月にイギリス人を追放するための武装蜂起をして失敗)など、多様な集団がいました。
おもに英語教育集団はイギリス的国家、華語教育集団(共産系)は中国的国家を志向しますが、両者は〈リー=クアン=ユー〉の仲介によって人民行動党として結集(1954年に結党)。大衆の基盤を持たぬ英語教育集団と、政治的な弾圧をかいくぐろうとした華語教育集団―この政治的なイデオロギーがまったく違う両者の利害が一致した結果です
(注)
。
1955年には自治政府が導入され、初の立法議会選挙がおこなわれます
(注)岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、pp.66-67。
一方1957年には
、
マラヤ連
邦
【本試験H18,H29共通テスト試行 バルフォア宣言・フサイン=マクマホン協定とは無関係】
としてイギリス連邦の一員として独立し,ムラユ〔マレー〕人やスルタンの権利が強化されます。政治的には王族の〈ラーマン〉首相(1903~1990,任1957~1970)率いるムラユ〔マレー〕人社会、華人社会、インド人社会の3つの社会が連携した連合党政権でした
(注1)
。
1959年にシンガポールは英連邦内の自治州となり、外交・国防を除く完全なない政治治験が付与され、普通選挙権も導入されます
(注2)
。この都市の選挙で人民行動党が、華人住民の支持を受けて圧勝。政権内では〈リー=クアン=ユー〉(李光耀)をはじめとする英語教育集団が握りましたが、共産主義グループとの対立は、マレー半島のマラヤ連邦と合併すべきかをめぐる議論を通じて1961年に表面化します。マレー半島の社会・経済的な結びつきを重視し大半の住民はマレーシアの一州としての独立を希望し人民行動党もそれを支持。それに対し共産主義グループは、反共産主義をとるマレーシアとの合併に反対します。
しかし国民投票の結果マレー半島との合併が支持され、マラヤ連邦
に
シンガポー
ル
,ボルネオ島
の
サラワ
ク
・
北ボルネ
オ
(サバ)が加わる形でイギリスから独立することになりました。これ
が
マレーシ
ア
とです
【本試験H11ジャワ島はマレーシアの1州ではない】
【追H20マレーシアの旧宗主国はイギリスか問う】
。合併前のシンガポールでは、人民行動党による共産主義グループの弾圧が実施されました
(注3)
。
なお、北ボルネオのサラワクやサバが,マレーシアに加入するかいなかをめぐっては,フィリピンやインドネシアが対立し,63年にともに国交を断絶しています(のち回復)。
しかし,当初からマレーシアの参加に抵抗のあったシンガポールでは,ムラユ人を優遇政策に反発がおこり,インドネシアによる攻撃やテロも発生。そんな中、マレーシアとの経済・政治的軋轢(あつれき)が深まると、1965年8月9日にマレーシア連邦の〈ラーマン〉首相がシンガポールの「追放」を国民に宣言。こうしてシンガポール州政府を率いる〈リー=クアン=ユー〉(李光耀)
は
シンガポー
ル
【追H28 20世紀後半の独立か問う】
【本試験H5】
【本試験H14,本試験H18 14・15世紀ではない,H31インドネシアからの独立ではない】
が
マレーシア連邦
【本試験H5】
【本試験H14・H18ともにマラヤ連邦ではない】
から分離独立
せざるを得なくなりました。東京23区ほどの面積、人口は189万人という小国はただちに国連に加盟。独立後の
〈
リ
ー=
クア
ン=
ユ
ー
〉(李光耀、1923~2015)
【上智法(法律)他H30】【慶商A H30記】
が
開発独
裁
(経済発展のために民主化をおさえる体制)を主導していくことになります
(注4)
。具体的には、人民行動党が一党支配体制を確立し、共産主義グループを支えていた華人労働者(労働組合を解散し政府主導の全国労働組合評議会を創設)・華語学校生(学生運動)・華人企業家(企業家団体)・華字新聞(マスメディア)を徹底管理していきました
(注5)
。またヨーロッパの小国スイスやイスラエルにならった国防体制をしき、1967年にはナショナル=サービスという国民徴兵制を導入しました
(注6)
。
こうしてマレーシアは経済的な結びつきの強かったシンガポールを失い,マレー半島の11州と,ボルネオ島のサバ州とサラワク州の連邦制をとる立憲君主国家となり,国家元首の国王は,マレー半島の9つの州(11州のうちペナンとムラカ(マラッカ)を除く)から5年ごとに互選されることになりました。イスラーム教が国教となり,ムラユ語が国語とされました。
(注1) マラヤ連邦独立の際には、マレー人の特別な地位の承認、マレー語の国語化のほか、イスラームの国教化と
スルタン制の存続
に成功した。それは彼が、マレー半島のクダーの王子だからである。大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』岩波書店、2002年、p.52「アブドゥル・ラーマン」の項。なお、「スル
ター
ン」はスンナ派の政治権力者、君主に与えられた称号ですが、「スル
タ
ン」(長母音ではない)は東南アジアの島々がイスラーム化するプロセスで、在地の君主が王権の正統性を強めるために名乗ったものです。大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』「スルタン」の項目、岩波書店、2002年、p.544。
(注2)岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.69。
(注3)1963年の州議会選挙では人民行動党が51議席中37議席を獲得。しかし共産主義グループも13議席(得票率33%)と高い支持を獲得していました。これには共産主義グループが中国文化を中国語方言で語ったことが、英語教育集団の主導する人民行動党に比べ大衆の共感を買ったことが背景にありました。岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、pp.76-77。
(注4)こうして、イギリスの支配したインドが、民族の対立を背景にパキスタンとインドに分離したように、マレーシア・シンガポールも2国家に分かれて独立することになりました。なお独立前の1962年にシンガポール東海岸一帯が整地された際、大量の白骨が出現。これは中国人粛清の犠牲者のものでいたが、イギリスが1951年の対日講和条約(サンフランシスコ条約)で日本に対する賠償を請求する権利を放棄していたので、シンガポールの華人が賠償金を請求する権利は形式的にはありませんでした。しかし長年にわたる交渉の末、日本が占領時に中国人に課した「強制献金」の額5000万シンガポールドル(約60億円)を、無償・有償協力金をして支払うことで1967年に決着。同年には華人系住民により慰霊碑が建てられました。岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、pp.46-47,53。
(注5)岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.91。
(注6)岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.109。
・
195
3~
197
9
年のアジア 東南アジア 現⑧カンボジア
1954年にインドシナ戦争休戦のための
ジュネーヴ会議
が開催され,カンボジアの独立の尊重,ヴェトミン軍のカンボジアからの撤退が決まりました。
カンボジアでは1955年に選挙が開かれることも決まりますが,カンボジアにはヴェトミン側に立って戦った兵士も多く帰還し,パリ帰りの急進派が議席を獲得する形勢となりました。
そんな中,〈シアヌーク〉国王は1955年に王位を父に譲ると,人民社会主義共同体(サンクム)を結成。挙国一致体制をとり,サンクム以外の政党を禁じました。父に王位を譲ったのは,憲法の制約から自らを外すためです
(注
)
。
〈シハヌーク〉
【追H29ベトナム国を建てていない】
は絶大な人気を盾に全議席を獲得。1957年に左派の民主党を解散させ,抵抗組織は地下活動に転じます。これが,のちの〈ポル=ポト〉を準備するのです。
(注)山田寛『ポル・ポト〈革命〉史―虐殺と破壊の四年間』講談社,2004,p.24~p.25。
〈シハヌーク〉翼賛体制は1960年代末まで続きます。国内では左派を弾圧しつつ,「中立」を称しながらアメリカ合衆国との対立を深め,中華人民共和国にも接近しバランスをとろうとしました。
一方,この頃1951年に結成されてい
た
クメール人民革命
党
の党員の多くは,教員として活動していました。その中で,パリ留学組の〈イエン=サリ〉,〈ポル=ポト〉が台頭。1960年にはカンプチア労働党と改称。しかし,その後は中華人民共和国との接近を強め,1966年頃には党名
を
カンプチア共産
党
(
クメー
ル=
ルージ
ュ
)と改称します。
そんな中,1970年3月,〈シハヌーク〉国家元首がフランス休暇旅行の帰りにソ連を訪れていたとき,アメリカ合衆国のCIAとの結びつきを得た〈ロン=ノル〉首相がクーデタを敢行。それに対して〈シハヌーク〉は中華人民共和国の〈周恩来〉の支援を受けて〈ロン=ノル〉打倒を宣言
。
カンボジア民族統一戦
線
が結成されます。
〈ロン=ノル〉首相は共和国を宣言して大統領に就任しますが,ヴェトナム系住民への虐殺事件も起き,〈ロン=ノル〉自身も1971年に脳卒中となり倒れ,政権はガタガタ
(注
1)
。〈ニクソン〉大統領は1970年に南ヴェトナム政府軍とアメリカ合衆国軍をカンボジアに投入されるも,カンボジア民衆の反感は高まる一方。〈ロン=ノル〉政権も劣勢に追い込まれ,国内に
は
クメー
ル=
ルージ
ュ
と
ヴェトナム共産党
軍
による「解放区」が拡大していきました。〈シハヌーク〉もごきげんです。
しかし,1972年頃からクメール=ルージュと,ヴェトナム共産党や〈シハヌーク〉派との間に対立がみえはじめます。1973年のパリ和平協定調印により,ヴェトナム共産党もカンボジアからの撤退を開始。1975年に〈ロン=ノル〉政府軍は完全に降伏し,内戦は集結しました。
プノンペンに入城してきたのは,
〈
ポ
ル=
ポ
ト
〉(1928~1998)
【追H20】
率い
る
クメー
ル=
ルージ
ュ
でした。彼は〈毛沢東〉思想の影響を受け
,
民主カンプチ
ア
を建国。すぐさま都市住民400万人
(注
2)
の即時強制退去が始まります。
「国民全員が農業に従事することで原始共産制による"みんな平等"の理想社会がつくれる」と宣伝し,都市民を農村に集団移住させ批判する知識人や抵抗勢力を大量殺害しました。〈ポル=ポト〉の政策は,伝統的な上座仏教を否定し(民主カンプチア新憲法20条),教育を否定し国民全員が肉体労働に従事(憲法前文),「新文化」を礼賛
し
植民地主
義
・
帝国主
義
に汚染された旧文化を否定(第3条),国際援助を拒否(第21条)するものでした。徹底的な「自立」にこだわる路線は,植民地時代のカンボジアの置かれた状態に対する,極端な形の"裏返し"でもありました。
餓死・栄養失調,病死を考慮し,粛清・処刑・虐殺の犠牲者を見積もっても,総数は150~200万人にのぼるといわれています。なお,1975年の総人口は789万人でした
(注
3)
。首都プノンペンのツールスレンの高校の校舎は尋問・拷問・虐殺の舞台となり,現在では「大量虐殺犯罪博物館」として公開されています。
〈ポル=ポト〉派の政権時代,〈シハヌーク〉はプノンペンに軟禁されていました。
1978年にヴェトナムはカンボジアに侵攻し〈ヘン=サムリン〉議長による親ヴェトナム政権を樹立しました。〈シハヌーク〉一家らは中国・北京に脱出,〈ポル=ポト〉は北西部に逃れてジャングルの奥に身を潜めました。ヴェトナムのカンボジア進出に対し,中華人民共和国とタイは〈ポル=ポト〉を支援。
カンボジア民衆にとっては「ようやく〈ポル=ポト〉政権が終わった...」という安堵が大きかったのですが,中華人民共和国による外交もあって,カンボジアに進出したヴェトナム社会主義共和国は国際的批判にさらされます。翌年には,中華人民共和国との間に1979年
に
中越戦
争
が勃発します。この社会主義国どうしの戦争は,世界に衝撃を与えました。
アメリカ合衆国はカンボジアの反ヴェトナム勢力を支援したため,カンボジアは周辺国と大国による代理戦争の舞台に成り果てます。これがカンボジアの悲劇です。
(注1,2)山田寛『ポル・ポト〈革命〉史―虐殺と破壊の四年間』講談社,2004,p.38~p.39,p.68,p.154。
・
195
3~
197
9
年のアジア 東南アジア
現⑪
ミャンマー
ビル
マ
では,タキン党出身の
〈
ウ
ー=ヌ
〉(1948~56,57~58,60~62)が,暗殺された〈アウンサン〉を引き継ぎ,イギリス連邦を離脱
し
ビルマ連
邦
として独立を達成していました。彼は上座部仏教を中心とした国づくりを進めていきました。
しかし,多民族国家であるビルマ連邦は,北部のアヘン栽培地帯
(
ゴールデ
ン=
トライアング
ル
)に独立を目指す,漢人系
の
コーカン
人
,モン=クメール系
の
ワ
人
やタイ系
の
シャン
人
などが分布しており,ここに初め中国国民党の残党やビルマ共産党
が
麻薬ビジネ
ス
で拠点を築き,ビルマ連邦政府と対立を深めていました。また,イギリス統治の影響を受けキリスト教徒の多かった南部
の
カレン
人
なども独立運動を起こします。
〈ウー=ヌ〉は,1954年
に
コロンボ会
議
【早商H30[4]記】
に参加し,翌1955年
に
アジ
ア=
アフリカ会
議
にも参加するなど,米ソから距離をとって「第三世界」を建設しようと試みました。しかし,国内の独立勢力との戦いの過程で国軍の発言権が増していき,タキン党出身の
〈
ネ=
ウィ
ン
〉大将が1958年に内戦を収める形で首相に就任しましたが。
混乱が収拾すると,1960年の総選挙で〈ネ=ウィン〉は一旦〈ウー=ヌ〉(1907~1995)に譲りましたが,今度は1962年に〈ネ=ウィン〉クーデタを起こして,革命評議会議長として大統領(任1962~81)兼首相となり,長期間にわたる軍事独裁政権が始まることになります。彼はビルマ社会主義計画党を立ち上げ,米ソと距離を置いて上座仏教の要素もミックスした"ビルマ流"の社会主義国家を建設しようとしながら,北部の少数民族や麻薬地帯に拠点を置く反政府勢力の掃討も続けられました。
1974年には新憲法を制定しビルマ連
邦
社会主
義
共和国を樹立しましたが,一党独裁体制や粛清,"鎖国"体制によって社会・経済が停滞していきました。
○195
3
年
~
197
9
年のアジア 南アジア
南アジ
ア
...①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール
・
195
3
年
~
197
9
年のアジア 南アジア
現①
ブータン
1964年には海外技術協力事業団の一員として〈西岡京治〉(1933~1992)がブータンに渡り,農業指導をはじめました。ブータン"農業の父"といわれます
。
・
195
3
年
~
197
9
年のアジア 南アジア
現③
スリランカ
セイロン島のセイロンでは,1956年にスリランカ自由党の〈バンラダナイケ〉首相がタミル人を排斥する政策
(
シンハ
ラ=
オンリー政
策
)をとり,上座仏教を保護し,シンハラ語を公用語に制定。これがのちのシンハラ人とタミル人の民族紛争の火種となります。彼はのちに暗殺されました。
1972年には第4首相〈バンラダナイケ〉の妻〈バンダラナイケ〉が第7代首相に就任。彼女も仏教を保護し,セイロンを共和制に移行させ,国名はスリランカ共和国としました。
そんな中,タミル人の分離独立派のうち暴力的な一派が,タミル人の建国を目指し活動を開始。
これがのち
に
タミ
ル=
イーラム解放の
虎
(LTTE)に発展します。
1977年以降は経済の自由化がすすめられる一方,1978年には大統領制をとる「スリラン
カ
民主社会主義共和
国
」と国名が改称されました。
・
195
3
年
~
197
9
年のアジア 南アジア
現④
モルディブ
モルディブは1887年以来イギリスの保護国となっていましたが,1953年に君主制が廃止されてモルディ
ブ
共和
国
となりました。しかし,その直後に君主制に逆戻り。1965年にスールタンを元首とするモルディブ
=
スールタン
国
として独立しました。
しかし,1968年には国民投票で再
び
共和
国
となっています。初代は〈ナシル〉(任1968~1978)大統領です。その後1978年に〈ガユーム〉が第2代大統領となっています。
なお,この時期のモルディブはイギリス連邦には加盟していません(加盟は1982年。脱退は2016年)。
・
195
3
年
~
197
9
年のアジア 南アジア
現⑤
インド
インドでは,国民会議派の
〈
ネル
ー
〉政権(任1947~64)が続き,1954年にはフランス領であっ
た
ポンディシェリ
ー
(タミル語でプドゥッチェーリ)
【東京H27[3]】
と
シャンデルナゴ
ル
(1952年に行政権を返還,ベンガル語でチョンドンノゴル)を,1961年にはポルトガル領であっ
た
ゴ
ア
を併合しました。
1962年には,世界がキューバ危機に注目する中,中国との間
に
中印国境紛
争
【本試験H15時期(ネルーの首相在任中かを問う)】
が勃発しています。チベットから〈ダライ=ラマ14世〉
が
イン
ド
【東京H12[2]】
に亡命してきたことで,中国とインドの関係も悪化。中国は,インドと対立したパキスタンを支援するようになり,中国との関係の悪化していたソ連はインドを支援するようになりました。インドは1974年に核兵器を保有するに至ったのは,この紛争がきっかけです。中国はカシミールの東部のアクサイチンを現在にいたるまで実効支配しています。
しかし,1964年に
〈
ネル
ー
〉が病気で亡くなり,後継者となった〈シャーストリー〉首相(任1964~66)は1966年に急死し,〈ネルー〉
【本試験H8】
の娘の
〈
インディ
ラ=
ガンディ
ー
〉
【本試験H15問題文(直接は問われていない)】
【本試験H8父がインド首相か問う。父はパキスタン大統領ではない,夫はセイロン(スリランカ)首相・バングラデシュ大統領ではない】
があとを継ぎました。彼女は旱魃(かんばつ)による食糧危機をなんとか乗り切りつつ,1965年から
は
第二次
印=
パ戦
争
が始まり,67年の選挙も惨敗,財政的にも政治的にも苦境となります。
彼女は
「
緑の革
命
」という農業部門の近代化により,農業生産の生産性を向上させ食料の安定供給を実現し,工業化の進展につなげようとしました。銀行を国有化するなどの社会主義的な政策をとり,国民の下層に訴える大衆主義(ポピュリズム)で,1971年の下院選挙では国民会議派の勢力を盛り返しました。71年
の
バングラデシュの独
立
【追H20独立はビルマからではなく,パキスタンから】
をめぐ
る
第三次
印=
パ戦
争
にも勝利しました。彼女は,1971年に米中接近に対抗し,米ソ平和友好協力条約を結んでいます。
しかし,石油危機の影響もあって経済は停滞したままでしたが,〈インディラ〉は非常事態宣言を発令して強権政治を行い,野党指導者らを投獄。こうした手法に批判が集まり,1977年の選挙
で
人民
党
(
ジャナター
党
)に政権が交代しました。こうしてインドにおけるインド国民軍派の一党優位政党制は幕を閉じたのです。
人民党の〈デサーイー〉首相は,もともと国民会議派でしたが,さまざまな勢力を結集した野党の連合政権的な特徴を持っていました。そこで,1979年には民衆党を結成した〈チャラン=シング〉が離脱し,首相に就任しました。初のバラモン階級ではない首相です。しかし,第二次石油危機の影響で1ヶ月足らずで崩壊し,80年の選挙では〈インディラ〉が首相に返り咲きました。同年には,人民党から離脱した人々
が
インド人民
党
(BJP;バラティア=ジャナタ党) を結成し,「ヒンドゥー教がインドのシンボルである」というヒンドゥー=ナショナリズムの運動を発展させていくことになります。
・
195
3
年
~
197
9
年のアジア 南アジア
現②
バングラデシュ
,⑥
パキスタン
インドから分離したパキスタンは政教分離を原則としたものの,新たな国づくりのために「イスラーム教徒であること」が国民の条件,国の根本とされるようになっていきました。1956年に制定された憲法で,国名
は
パキスタ
ン=
イスラム共和
国
とされました。
1958年には軍人
〈
アユー
ブ=
ハー
ン
(カーン)〉(首相在任1958,大統領在任1958~69)がクーデタ(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること)で独裁をしき,68年まで続きました。アメリカとの結びつきが強く(1972年にイギリス連邦を脱退),ソ連との結びつきの強いインドとの対立も背景にありました。インドと対立している中国とは友好関係を結んでいます。
インドとは,1947~48年,1965年,1971年の3度にわた
り
印パ戦
争
を起こしています。1度目の戦争は,北部
の
カシミール地
方
の領有権をめぐる争いです
(
カシミール紛
争
【東京H24[1]指定語句】
)。カシミール地方はインド帝国時代,ヒンドゥー教徒の藩王が治めていましたが,住民の多くはイスラーム教徒だったため,パキスタンとインドのどちらに帰属すべきか,いざこざが起きたのです。
3度目の戦争では,ベンガル人の多い西部のパキスタン(パキスタンはイスラーム教徒の多い地区で構成されていたため,ベンガルの東部も「東パキスタン」として,飛び地としてパキスタンの一員でした)の独立をインドが支援。1971年
に
バングラデシ
ュ
としてパキスタン
【本試験H16】
【追H20ビルマ(ミャンマー)ではない】
から独立しました
【本試験H16時期(1970年代)】
。
その後1977年には〈ブットー〉大統領が,〈ジアウル=ハック〉陸軍参謀長によるクーデタ後に処刑され,〈ハック〉による軍政が88年まで続きました。この間,パキスタンでは刑法にイスラーム教の厳格な規範が導入されるなど,イスラーム的な政策がとられました。〈ブット〉の娘〈ベーナジール=ブット〉はのちに,1989年首相となります。
・
195
3
年
~
197
9
年のアジア 南アジア
現⑥
モルディブ
モルディブは1887年以降,イギリスの保護国で,君主制がとられていました。
しかし1953年に共和政に移行し〈アミン〉が大統領に就任。しかし,1年足らずで崩壊し,王政復古。そのまま1965年にスルターンを君主とするモルディブ
=
スルターン
国
として独立しました。
その後,1968年に,国民投票で共和制に移行しています(モルディ
ブ
共和
国
)。イギリス連邦には加盟していません。
・
195
3
年
~
197
9
年のアジア 南アジア
現⑦
ネパール
1951年に宰相を独占していたラナ家を排除し,立憲君主政となっていたネパール。
1953年にニュージーランド出身の〈ヒラリー〉(1919~2008)とチベット人シェルパの〈テンジン〉(1914~1986)が,人類初のチョモランマ(エベレスト山)の登頂を果たします。
1955年に
〈
マヘンド
ラ
〉(位1955~1972)が国王に即位。1959年の総選挙でネパール国民会議派が政権をとると,1960年に国王は議会を解散。1962年の新憲法で政党が禁止され,国王に権力を集中させる「パンチャーヤト制」をはじめます。国王はヒンドゥー教を保護し,チベット仏教徒の不満も高まりました。
1972年には
〈
ビレンド
ラ
〉(位1972~2001)が国王に即位。国民の声をとりいれ,父の創始した「パンチャーヤト制」を改革する方針をとっていきます。
静岡県熱海市にある早咲きのヒマラヤザクラは,親日家である〈ビレンドラ〉が記念贈呈したものです
。
●195
3
年
~
197
9
年のインド洋海域
◆
インド洋は依然としてイギリスとフランスの勢力下にあるが,イギリスがスエズ以東からの撤退を決めると,アメリカ合衆国の進出も強まる
インド洋海
域
...インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島,モルディブ,イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域,マダガスカル,レユニオン,モーリシャス,フランス領マヨット,コモロ
イギリスに保護国化されてい
た
モルディ
ブ
ではスルターンを元首として独立し,1968年に国民投票によっ
て
モルディブ共和
国
となりました。1978年には初代〈ナシル〉大統領(任1968~78)から〈ガユーム〉大統領(任1978~2008)に交替し,長期政権を維持することになります。
モーリシャ
ス
は1814年からイギリス領となっていましたが,1968年に独立を果たしました。しかし,独立にあたっては,以下のような複雑な経緯を経験しています。
一方,1962年
に
中印国境紛
争
が起きると,アメリカ合衆国政府はインド洋の防衛をイギリスに任せるのではなく,アメリカみずから社会主義勢力から守ろうとする姿勢を強めるようになります。アメリカは1963年には第七艦隊の一部をインド洋に派遣し,イギリス・アメリカ間の交渉の末,1966年
に
ディエゴガルシア
島
はアメリカ合衆国に貸与されることになりました。モーリシャスの独立への準備も進んでいたので,イギリス政府はディエゴガルシア島のみをアメリカ合衆国に貸与するために,協定を結んでディエゴガルシア島を含むインド洋の島々をモーリシャスから分離させ,「インド洋英領」として自国領土とする周到さをみせています(代償金がモーリシャスに支払われました)。こうしてイギリスはアメリカ合衆国の力を借りることでインド洋での軍事的な支配を継続させようとし,アメリカ合衆国はイギリスの力を残しつつインド洋への軍事的な進出を図ろうとしたわけです。さらにイギリスは1971年にディエゴガルシア島の住民を,モーリシャス(一部はセーシェル)に強制移住させました
(注
)
。
(注)木畑洋一「ディエゴガルシア―インド洋における脱植民地化と英米の覇権交代」『学術の動向』12(3), 2007年,pp.16-23。
フランスの植民地支配下にあっ
た
マダガスカ
ル
は,1958年にフランス共同体内での自治が承認。1959年に初代大統領〈ツィラナナ〉(任1959~1972)が選出され,1960年の「アフリカの年」に「マダガスカル共和国」として独立を達成しました。
しかし,フランスの影響力は政治・経済・文化的に残されたままで,〈ツィラナナ〉に対する批判が1972年に暴動に発展。〈ツィラナナ〉は権限を軍に移譲し,社会主義政策がとられましたが,政情は不安定なまま。
1975年に元軍人の〈ラツィラカ〉が大統領に就任し,長期政権を実現。国名もマダガスカル共和国からマダガスカ
ル
民
主
共和国に変更され
,
外国資本を国有
化
して社会主義政策を実行し,東側諸国と友好関係を樹立しました。
マダガスカル島の東に位置す
る
レユニオン
島
は,フランスの領土です。
モザンビークの北部沖に位置す
る
コモロ諸
島
はフランスの保護領です。3億8000万年間存在している古代の魚「シーラカンス」が現存することでも有名ですね(1938年に発見)。
セーシェ
ル
はイギリス領です。
フラン
ス
は,レオユオン島のほか,インド洋の南部にアムステルダム島,クロゼ初頭,ケルゲレン諸島をフランス領南方=難局地域として領有しています。
○195
3
年
~
197
9
年のアジア 西アジア
西アジ
ア
...
①
アフガニスタン
,
②
イラン
,
③
イラク
,
④
クウェート
,
⑤
バーレーン
,
⑥
カタール
,
⑦
アラブ首長国連邦
,
⑧
オマーン
,
⑨
イエメン
,
⑩
サウジアラビア
,
⑪
ヨルダン
,
⑫
イスラエル
,
⑬
パレスチ
ナ
(注)
,
⑭
レバノン
,
⑮
シリア
,
⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
(注)パレスチナを国として承認している国連加盟国は136カ国。
ソ連の最高指導者
〈
スターリ
ン
〉書記長(任1922~1953)が亡くなって
"
雪解
け
"
【本試験H10時期(1950年代か問う)】
ムードの高まる中,1954年4月26日にスイスのジュネーヴでインドシナ戦争の和平交渉が始まりました。
旧宗主国が主導して和平交渉を進める中,「それじゃあ第二次世界大戦前と全然変わっていないじゃないか」と,インド,スリランカ,インドネシア,パキスタン,ビルマが立ち上がりました。4月28日~5月2日に,1954年に中華人民共和国の
〈
周恩
来
〉首相
【本試験H15毛沢東ではない】
が,インドの
〈
ネル
ー
〉首相(任1947~64)に働きかける形でスリランカのコロンボで5か国首脳が会談し(コロンボ会議
【早商H30[4]記】
)
,
平和五原
則
【本試験H9】
【本試験H17時期(1970年代ではない)】
【追H20】
【早商H30[4]記】
を発表したのです。
1
)
領土と主権の相互尊
重
(僕たちの領土に首突っ込まないでね)
2
)
相互不可
侵
(勝手に攻め込んだりしないでね。僕たちもしないから)
3
)
内政不干
渉
【追H20】
(僕たちの政治に首突っ込まないでね)
4
)
平等互
恵
(どちらかだけが得をするしくみはやめましょう)
5
)
平和共
存
(武力を行使することなく,平和でいきましょう)
【追H20自由貿易,民族自決,集団安全保障は含まれない】
要するに,19世紀以降,欧米がさんざんやってきた所業を,真っ向から批判したわけです。「ここは,アメリカ合衆国の勢力圏でも,ソ連の勢力圏でもないぞ!」と。アメリカ・ソ連のどちらの陣営にもつかなかった国を,そのどちらにも属しない,つまり第一でも第二でもないという意味で
「
第三世
界
」(サード=ワールド)と呼びます。5か国は,インドシナ戦争の早期停止や,仏領インドシナからのヴェトナム,カンボジア,ラオスの完全な独立を主張しました。
5月には,3月から起きてい
た
ディエンビエンフーの戦
い
【東京H24[1]指定語句「ディエンビエンフー」】
でフランス軍が大敗
。
ジュネーヴ休戦協
定
は7月21日に締結されインドシナ戦争は停戦,フランスは仏領インドシナから撤退しました。ヴェトナム,カンボジア,ラオスの独立は認められましたが,ヴェトナムは南北に分離することとなり,1956年7月に自由選挙が実施され統一されることが定められました。
しかし,フランスの撤退を機に東南アジアに社会主義化が広まることを恐れた西側諸国は,1954年9月にアメリカ合衆国,イギリス,フランス,オーストラリア,ニュージーランド,パキスタン,フィリピン,タイ
が
東南アジア条約機
構
(
SEAT
O
,シアトー(英語ではシートー)
【本試験H7】
【追H9アジア・オセアニア地域の協調関係や安全保障と関係あるか問う,H30時期】
,1954~77解消)という反共産主義の軍事同盟が結成されました。
こうして1955年にはアジア・アフリカの独立国が,インドネシアのバンドンで,反植民地主義のために一致団結するため
の
アジ
ア=
アフリカ会
議
(
バンドン会
議
)
【本試験H7非同盟諸国首脳会議ではない】
【本試験H25第二次大戦中ではない,H29共通テスト試行 オーストラリアの主催ではない】
【追H19】
を開きました。中国の周恩来,インドのネルー,さらにエジプトのナセル大統領も参加しています。日本も含めて29か国の参加国で,平和五原則をベースとし
た
平和十原
則
(世界平和と協力の促進に関する共同宣言)を宣言しました。アジア,アフリカ諸国は「みんなでまとまれば怖くない」という形で,大国に対抗しようとしたわけです。
なかでもエジプトはムハンマド=アリー朝の〈ファールーク1世〉(位1936~52)が支配していましたが,その親英的な姿勢には,批判が集まるようになっていました。そんな中
,
自由将校
団
という政治グループを結成した
〈
ナセ
ル
〉(1918~70)が,第一次中東戦争で活躍して人気となっていた〈ナギブ〉(1901~84)を自由将校団の団長に推し,〈ナセル〉とともに1953年に王政を倒すことに成功しました
(
エジプト革
命
)。
〈
ナギ
ブ
〉は初代首相・初代大統領を兼任しますが,〈ナセル〉は〈ナギブ〉を"独裁"と批判してクーデタを起こし,首相,次いで大統領に就任しました。
〈ナセル〉は,ナイル川上流
に
アスワ
ン=
ハ
イ=
ダ
ム
【本試験H29時期】
を建設する計画をすすめます。イギリスとフランスは,エジプトを支配下にとどめようと資金援助を画策しますが〈ナセル〉はそれを拒否。代わりにソ連を頼ったのです。
さらに1956年にはイギリスの駐留していたスエズ運河
を
国有化
【東
京
H8[1
]
指定語句
】
。それに対して英仏がイスラエルも交えてエジプトを攻撃しました
(
第二次中東戦
争
)。当初から反対していたアメリカが介入する形で停戦し
【本試験H15アメリカはイギリス・フランスに反対し,パレスチナに侵攻はしていない】
,エジプト
は
スエズ運河の国有
化
【東京H24[1]指定語句】
に成功したのです。
名声の高まったナセルは「アラブ人を一つにまとめよう!」と声をあげますが,なかなかそういうわけにはいきません。「封じ込め政策」の一環としてアメリカ合衆国は1955年
に
バグダード条約機
構
(中東条約機構,METO(メトー))を結成しました
【本試験H30ソ連は参加していない】
。参加国は,西からトルコ,イラク,イラン,パキスタンです。中東にソ連の影響力がおよぶことを防ごうとしたものですが,1959年にイラクで革命が起き(イラク革命),ソ連寄りの政策となると,イラク抜き
の
中央条約機
構
(
CENT
O
(セントー)
【セA H30ワルシャワ条約機構とのひっかけ】
,1959~1979イラン=イスラーム革命により解消)に縮小してしまいました。ソ連寄りの政権は,イラク,シリア,エジプトで,アラブ人の国々は,こうして米ソ冷戦の構図に巻き込まれていったのです。
イラクでも1958年に王政が廃止され
(
イラク革
命
),〈カーシム〉(1914~63,在任1958~63)により独裁体制がしかれました。その後63年に〈カーシム〉は追放・処刑され,社会主義的な政策をとるバアス党による新政府ができましたが,クーデタ(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること)が続き不安定でした。
イランでは,アメリカの資本がからんでいる石油会社と癒着した国王
〈
パフラヴィー2
世
〉(位1941~79)が,父の退位後に即位し,独裁体制をとるようになりました。
また,イギリスの保護下にあった地域が70年代初めにかけ次々と独立していきます。1961年には世界第2位の油田を持
つ
クウェー
ト
が,67年
に
南イエメ
ン
が,そして71年
に
カター
ル
,
バーレー
ン
,そし
て
アラブ首長国連
邦
【本試験H14時期(1970年代)】
が独立しました。
こうして中東は,石油の利権を通してアメリカ側につくサウジアラビア,イラン。そして,どちらかというとソ連側につくエジプト,シリア,イラクに分裂していきます。
さて,イスラエルの問題はどうなったでしょうか。1967年にエジプトはイスラエル軍に奇襲され
【本試験H15】
,これに対するエジプト,シリア,ヨルダンが敗北しました
(
第三次中東戦
争
【本試験H14第四次中東戦争ではない】
)。このときのイスラエル
【追H21ヨルダンではない】
の占領地は
,
シナイ半
島
【本試験H26第一次中東戦争ではない】
,
ヨルダン川西岸地
区
,
ガザ地
区
,
ゴラン高
原
【本試験H14第四次中東戦争ではない】
【追H21第3次中東戦争のときに,「ヨルダン」が占領したわけではない】
です
【本試験H15地図(このときの占領地域の位置がわからないと解答できない)】
。
併合されたヨルダン川西岸地区には
,
東イェルサレ
ム
も含まれます。「嘆きの壁」「岩のドーム」「聖墳墓教会」を含む東イェルサレムは1950年にヨルダン領になっていたところですが,イスラエルの占領下に置かれることになったのです。「嘆きの壁」の前のマガーリバ地区に住んでいた約650人のアラブ人の住居135戸は破壊され,広場がつくられました
(注
)
。
国連は決議を出し,イスラエルに占領地を返すように呼びかけ,アラブ人にはイスラエルの生存圏を認めるように求めました(国連安保理決議242号)。
(注)『週刊朝日百科 世界の歴史112』朝日新聞社,1991,p.B-732。
その後もパレスチナ人の急進派は,武力によるパレスチナの解放とパレスチナ国家の建設を目指し
,
パレスチナ解放機
構(
PL
O
)
【東京H7[3]】
【本試験H15】
【セA H30】
を中心としたゲリラ作戦を展開していきました(1964年に設立)。議長となったのは
〈
アラファ
ト
〉(任1969~2004)
【本試験H2519世紀のパン=イスラーム主義者ではない】
【追H18】
【セA H30】
です。
1993年に
は
パレスチナ暫定自治協
定
(いわゆる「オスロ協定」)
【本試験H15】
がアメリカ合衆国〈クリントン〉大統領の仲介の下,ワシントンD.C.でパレスチナの
〈
アラファ
ト
〉とイスラエルの
〈
ラビ
ン
〉首相との間で締結されました。これによ
り
パレスチナ自治政
府
が成立し,エジプトのシナイ半島に近
い
ガザ地
区
と,ヨルダン川西岸地
区
のイェリ
コ
での先行自治が認められました(イスラエルの〈ラビン〉と〈シモン=ペレス〉,パレスチナの〈アラファート〉は1994年にノーベル平和賞を受賞しました)。
パレスチナ自治政府は2012年に国際連合に国家として承認されましたが,日本やアメリカ合衆国は承認していません。この解放活動に加わった者の中には,主に18世紀以降のヨーロッパ人が東洋の姿を題材にした文学作品や学術研究のウラには,ヨーロッパ人=優れている=文明的で,東洋人=劣っている=野蛮という固定観念が前提にあったのだということを
『
オリエンタリズ
ム
』(1978)で暴いた
〈
エドワー
ド=
サイー
ド
〉(1935~2003)という思想家がいます。
パレスチナの解放に現実味がなくなるにつれて,アラブ諸国は「先進国の発展の基盤となっている石油価格を利用することで,先進国が応援しているイスラエルを揺さぶることができるのではないか」と考えるようになりました。1968年に
は
アラブ石油輸出国機
構(
OAPEC,オアペッ
ク
)
が設立され,先述のとおり,1971年までにはイギリスがアラビア半島に持っていた保護国も独立しました。
第三次中東戦争で失った領土を取り返そうと,エジプトの
〈
サーダー
ト
(サダト)〉大統領(任1970~81)
【上智法(法律)他H30】
は1973年にシリアと共同して,パレスチナ人の権利を取り戻すために,イスラエルを攻撃しました(
第四次中東戦争
)
【追H27 時期は1970年代ではない】
。
このときOAPECは,アラブ諸国側に立たない国家に対して石油輸出を制限
【本試験H9値下げ・過剰供給によるものではない】
す
る
「石油戦略
」
【本試験H4サウジアラビアなどのアラブ産油国はイスラエルを支援していない】
【本試験H15第三次中東戦争のときではない】
【慶商A H30記述(内容短文説明)】
を実施したため石油価格が高騰しました。これ
を
第一次石油危
機
(オイル=ショック)といいます。
第四次中東戦争の結果,占領地はパレスチナ側に返還されることはありませんでしたが,1974年にPLOは国際連合のオブザーバーとして認められました(会議の議決権は持たないが,参加することができる資格)。また,従来は欧米先進国が世界の石油の生産量や価格に,巨大石油会社
(
石油メジャ
ー
)を通じて影響力を及ぼしていましたが,発展途上国を中心とするOPEC(石油輸出国機構)が,石油の生産量・価格に対する発言権を高めることにもつながりました。
1974年に
は
国連資源特別総
会
が開かれ,新国際経済秩序(NIEO,ニエオ)の樹立に関する宣言が採択されました。この中で,先進国の多国籍企業の活動が制限されるべきこと,途上国の資源が安く買い叩かれることがないように特恵関税制度を設けて公平な貿易
(
フェ
ア=
トレー
ド
)がなされるべきこと,途上国の資源は途上国に主権があることなどが確認されました。
石油危機後の一連の経済的な変化にともない,日本を含む欧米では経済成長にブレーキがかかりました。そして,「福祉国家」や「大きな政府」と呼ばれる「社会福祉のために多くの予算をかける」路線から,
「
新自由主
義
」と呼ばれる「政府の予算や規制を減らし,民間企業の活動を活発化させようとする」路線に転換するきっかけにもなりました。
エジプトの
〈
サーダー
ト(
サダ
ト
)
〉大統領(エジプト大統領在任1971~81)
【本試験H15ナセルではない】
【追H21】
【上智法(法律)他H30】
は,1978年にはアメリカ合衆国の
〈
カータ
ー
〉大統領
【本試験H9】
の仲介
で
キャン
プ=
デーヴィッド合
意
を結び,1979年
に
イスラエルとの平和条
約
(
エジプ
ト=
イスラエル平和条
約
)
【本試験H15ナセルのときではない】
【追H21(名称は問わない)】
を成立させ
,
シナイ半
島
【東京H28[1]指定語句】
を取り戻しました
【追H21】
(エジプトの〈サダト〉とイスラエルの〈ベギン〉首相は1978年のノーベル平和賞を受賞,〈カーター〉大統領は退任後の2002年にノーベル平和賞を受賞)
。しかし事実上パレスチナ問題をうやむやにしたまま,イスラエルと和平を結んだエジプトに対して,アラブ世界からは当然ながら批判が相次ぎ,〈サーダート(サダト)〉大統領は1981年に暗殺されています。
こうして,アメリカ合衆国の後押しによるエジプトの離脱によって,パレスチナ問題をめぐるアラブ世界は,"一枚岩"ではなくなるのです。
・
195
3
年
~
197
9
年の西アジア 現①アフガニスタン
アフガニスタンの君主は従来のアミールから,1926年に「シャー」に変更しており,これ以降はアフガニスタン王国と呼ばれています。〈ザーヒル=シャー〉(位1933~1973)の支配下の1953年,ソ連に近い,国王のいとこ〈ダーウード〉が首相に就任すると,イスラーム教徒の指導者や国民の間で反発が強まりました。〈ダーウード〉はソ連の支援を受けて軍隊を近代化させようとしていたのです。〈ダーウード〉はウラマーの会議を弾圧すると,イスラームを学ぶマドラサの学生の反発も高まります。
そんな中1973年にクーデタを起こし,〈ザーヒル=シャー〉を追放して,共和制を樹立
。
アフガニスタン共和
国
の大統領に就任しました(大統領任1977~78)。〈ダーウード〉はイスラーム主義者や反対派を弾圧しましたが,1978年に軍によるクーデタが起きて殺害されます。
代わって〈タラキー〉(1917~1979)が,新たにアフガニスタ
ン
民
主
共和国の1978年に革命評議会議長・首相・大統領(任1978~79)に就任し,ソ連に接近して急激な社会主義化をすすめます。しかし1979年に副首相の〈アミーン〉との内部抗争が勃発すると,〈タラキー〉は〈アミーン〉により追放され,〈アミーン〉が革命評議会議長(任1978~1979)に就任しました。
しかし〈アミーン〉政権に敵対的なソ連は,アフガニスタンに軍事侵攻
(
ソ連のアフガニスタン侵
攻
)し,代わりに〈カールマル〉(位1929~96)を支援して革命評議会議長に就け,実権を握ることになります。
・
195
3
年
~
197
9
年の西アジア 現②イラン
1953年に民族主義者の〈モサッデグ〉首相は,アメリカ合衆国の諜報機関CIAの介入により逮捕され,
〈
モハンマ
ド=
レザ
ー=
シャ
ー=
パフラヴィ
ー
〉(位1941~79)が新首相を任命しました。シャー(国王)はこの"恩返し"にアメリカ合衆国を初めとする西側諸国に国内の石油利権を潤沢に供与。1955年にはイギリス,トルコ,パキスタン,イラクとともに中東条約機構
(
MET
O
,メトー)に加盟し,アメリカ合衆国を中心とする反共の役割を担うようになります。
1961年になるとシャー(国王)は国内の経済・社会の急速な西欧化・近代化を初め(
"
白色革
命
"と呼ばれました),農地改革とともに外資を呼び込んで石油採掘を推進しました。1973年の
第四次中東戦争
ではアメリカ合衆国側に立ち,石油戦略(イスラエルと親イスラエル諸国に対する石油の禁輸)は行わず,原油高の恩恵を受けました。
しかし,こうした近代化による発展の恩恵は貧困層には伝わらず,1978年になるとイスラーム教のウラマーの指導する反政府運動が活発化。1979年1月にシャー(国王)がイランを去り,代わって絶大な支持を受けたイスラーム教指導者〈アーヤトッラー
=
ホメイニ
ー
〉(1902~1989)が2月に亡命先のフランスから帰国し
,
イラ
ン=
イスラーム共和
国
【東京H28[1]指定語句】
の最高指導者となりました。これ
を
イラ
ン=
イスラーム革
命
といいます。
・
195
3
年
~
197
9
年の西アジア
現③
イラク
,④
クウェート
イラク王
国
は西側諸国に接近し,1955年にはイギリス,トルコ,パキスタン,イラクとともに中東条約機構
(
MET
O
,メトー)に加盟し,アメリカ合衆国を中心とする反共の役割を担うようになります。しかし,西アジアの中で〈ナーセル〉大統領率いるエジプトが1958年にシリアととも
に
アラブ連合共和
国
を結成して地域の覇権を確立しようとすると,同年にはおなじハーシム家の王家のヨルダンととも
に
アラブ連
邦
を組織しました。
しかし1958年には自由将校団がクーデタを起こして王制が倒れ,〈カーシム〉が首相に就任しました
(
イラク共和
国
)。〈カーシム〉はエジプトに対抗し,ソ連に接近。石油企業を国有化し,1960年には欧米の石油資本
(
石油メジャ
ー
)に反発するイラン,クウェート,アウジアラビア,ベネズエラの5か国がバグダードに集まっ
て
石油輸出国機
構
(
OPE
C
)を組織しています。そんな中,イギリスの保護領となっていたクウェートにイラク共和国が影響を及ぼそうとすると,イギリスはクウェートを支援して1961年に独立させています
(
クウェートの独
立
)。クウェートではサバーハ首長家による支配が続いていましたが,1962年に憲法が制定され,首長・国民議会・内閣による立憲君主制となりました。
しかし1963年には,反エジプト派の〈カーシム〉政権に対し,エジプトに接近す
る
バアス
党
によるクーデタが起こり,〈カーシム〉政権は倒れ,バアス党政権となりました。しかし同年には再度バアス党に反対するクーデタが起き,エジプトの〈ナーセル〉と友好関係を結ぶ政権に代わります。
その後,1968年には再度バアス党政権となり,1972年にはソ連と友好条約を締結しています。1973年の第四次中東戦争に際しては,他のOPEC諸国とともにイスラエルと親イスラエル諸国に対する"石油戦略"をとったことから第一次石油危機が勃発しました。
なお,1961~70年,1974~75年の2度に渡り,イランの支援する北部のクルド人(クルド民主党)を率いる〈バルザーニー〉(1903~1979)との間に,自治の是非を巡る戦争が勃発しました。クルド人の分布するイラク北部は産油地帯であり,イラク政府にとっては支配下に置きたい場所でした。この戦いのイラク側の司令官
〈
サッダー
ム=
フセイ
ン
〉(任1937~2006)
【東京H28[1]指定語句】
の影響力が増し,1979年に大統領に就任し実権を掌握することとなります。
・
195
3
年
~
197
9
年の西アジア 現⑤バーレーン
,⑥
カタール
,⑦
アラブ首長国連邦
1968年にイギリスはスエズ以東から軍事撤退することを表明。
イギリスの保護下にあっ
た
バーレーン王
国
はハリーファ家による立憲君主制の国家として1971年にイギリスから独立しました。
イギリスの保護下にあっ
た
カタール
国
は,1971年にイギリスから独立しました。
同じくイギリスの保護下にあったペルシア湾岸の首長国群(トルーシャル=オマーン)は
,
アブダビ首長
国
と
ドバイ首長
国
が主導し,1971年にシャールジャ首長国,アジュマーン首長国,ウンム=アル=カイワイン首長国,フジャイラ首長国が連合し
て
アラブ首長
国
(UAE)を結成。1972年にはラアス=アル=ハイマ首長国も加盟しました。当初はバーレーン王国とカタール国との連合も模索されましたが実現はしませんでした。
・
195
3
年
~
197
9
年の西アジア 現⑧オマーン
オマーン
国
(スルターン国)はイギリスの保護下にありましたが,1970年に皇太子によるクーデタで父王が追放され,1971年に独立しました。
・
195
3
年
~
197
9
年の西アジア 現⑨イエメン
イエメンの北部にはオスマン帝国の崩壊に合わせイマームによる王国が独立していましたが,1962年に軍が革命を起こして共和制となり
,
イエメ
ン=
アラブ共和
国
(
北イエメ
ン
)が建国されました。
1839年にイギリスの保護領となっていたイエメンの南部では,1962年に南アラビア連邦が成立し,1967年には南イエメン人民共和国としてイギリスの支配から脱します。1969年に社会主義政権となり,1970年
に
イエメン民主人民共和
国
(
南イエメ
ン
)に名称を変更。
冷戦構造に巻き込まれ,ソ連側の支援する南イエメンと,西側諸国の支援する北イエメンとの間に,たびたび抗争が起きました。
・
195
3
年
~
197
9
年の西アジア 現⑩サウジアラビア
サウジアラビア王国では1953年に初代国王〈アブドゥルアズィーズ=
イ
ブ
ン=
サウー
ド
〉(位1932~1953)が亡くなり
,
初代国王の息
子
の〈サウード=ビン=アブドゥルアズィーズ〉(位1953~64)が継ぎました。
1964年には,やは
り
初代国王の息
子
〈ファイサル=ビン=アブドゥルアズィーズ〉(位1964~75)が後を継ぎます。1973年にはOPECとともに
"
石油戦
略
"をとり
,
第一次石油危
機
を発生させました。
1975年に先代の王が暗殺されると,おなじ
く
初代国王の息
子
〈ハーリド=ビン=アブドゥルアズィーズ〉(位1975~1982)が就任しています。
・
195
3
年
~
197
9
年の西アジア 現⑪ヨルダン
,⑫
イスラエル
,⑬
パレスチナ
,⑭
レバノン
,⑮
シリア
ヨルダ
ン=
ハシミテ王
国
では暗殺されたハーシム家の
〈
アブドゥッラー1
世
〉(位1946~51)が,東イェルサレムへの進出を図って,暴力的なパレスチナ人によって暗殺されると,短期間の〈タラール1世〉(位1951~52)を経て,その子の
〈
フセイン1
世
〉(位1952~1999)が後を継ぎました。
ヨルダンは西側諸国との関係を深めますが,1967年の第三次中東戦争で
は
ヨルダン川西岸地
区
をイスラエルに占領されたため,多数のパレスチナ難民がヨルダン側に流入していました。
当初はヨルダン政府もヨルダン川西岸地区を取り返す強硬策をとろうとしていましたが,後に現実主義的な路線をとるようになり,あくまで強硬路線を続けようとしたPLO(とくにPLO内部の暴力的なPFLP)と対立。PFLPが1970年に同時ハイジャック事件を起こすと,ヨルダン政府は本部を首都アンマンに置いていたPLOに対して攻撃を仕掛けます(
「
黒い九
月
」
(
ブラックセプテンバ
ー
))。結局,エジプトの〈ナーセル〉大統領の仲介の下,PLOは本部をレバノンに移動させることとなりました。このときシリアはPLOを支援しヨルダンに侵攻していますが,のちに空軍軍人〈ハーフィズ=アル=アサド〉(大統領任1971~2000)がクーデタを起こして政権を樹立しています。
また,この事件の報復としてPLFPのメンバーは1972年に西ドイツで開催されたミュンヘン五輪の際,イスラエル選手団を殺害する事件を起こしています
(
ミュンヘンオリンピック事
件
)。
・
195
3
年
~
197
9
年の西アジア 現⑯キプロス
キプロスは1960年にイギリス連邦内の共和国として独立。
1963年以降,沿岸のトルコとギリシア間の領土争いを背景として,島に住むギリシア系住民とトルコ系住民との間で紛争が勃発
(
キプロス紛
争
)。
197
4年
に,ギリシアの軍事政権が介入してに南部に親ギリシア政権が樹立(キプロス=クーデタ)。トルコ系住民の多い北部をトルコが支援し,南部の親ギリシア政権とのにらみ合いが続きます。
・
195
3
年
~
197
9
年の西アジア 現⑰トルコ
トルコ共和国は西側諸国に接近し,1952年にNATOに加盟。1955年にはイギリス,トルコ,パキスタン,イラクとともに中東条約機構
(
MET
O
,メトー)に加盟し,アメリカ合衆国を中心とする反共の役割を担うようになります。
1960年には軍がクーデタ(5月27日クーデタ)を起こし,1961年には民政に移管。1971年には再び軍がクーデタを起こし政権が交替。1974年に
は
キプロ
ス
に軍事的に進出しています。
・
195
3
年
~
197
9
年の西アジア 現⑰ジョージ
ア(
グルジ
ア),⑱
アルメニア
,⑲
アゼルバイジャン
グルジア,アルメニア,アゼルバイジャンは,1922年
に
ザカフカス社会主義連邦ソビエト共和
国
を樹立してソ連の構成国となり,さらに1936年のスターリン憲法によりグルジア=ソビエト社会主義共和国,アルメニア=ソビエト社会主義共和国,アゼルバイジャン=ソビエト社会主義共和国に分離して,それぞれソ連の構成国となっていました。
しかし1953年
の
〈スターリン〉の死
去
にともない,ソ連の強権的な政策に対する批判が高まっていきました。労働者らを指導し,階級と国家のない社会を建設しようという当初のソ連の理念は,〈スターリン〉の独裁によりすっかり揺らいでいました。ロシアを中心とするソヴィエト連邦の権力は,ソ連共産党の少数の指導者の決定によってトップダウンで処理され,アルメニアの人々の意見は届かきません。アルメニアは独立した共和国というよりは「自治共和国」となっていたのです。
1956年2月に共産党第20回大会が開催されると,アルメニア出身の〈ミコヤン〉副首相がスターリン批判をし,それに〈フルシチョフ〉も続きました。〈フルシチョフ〉は「帝国主義が存在する限り,戦争は不可避」とした〈スターリン〉の思想を転換し「帝国主義との共存」を打ち立てます(平和共存)
(
注
1
)
。
この動きは抑圧されていたアルメニアにも広がり,1967年には初めて1915年ジェノサイド犠牲者碑の建設がゆるされました。「アルメニア人」としての意識を表現することが,ようやく認められたのです
(
注
2
)
。いままでは胸に記憶を秘めていたアルメニア人ジェノサイドによる元難民や遺族による運動も盛んになりますが,1973年にはアメリカ合衆国のトルコ総領事・副領事が暗殺される事態も起きています
(
注
3
)
。
1956年にはジョージア(グルジア)のトビリシで民衆によるデモが起き,軍により弾圧されています。
(注1)中島偉晴・メラニア・バグダサリアヤン編著『アルメニアを知るための65章』明石書店,2009年,p.105
(注2)中島偉晴・メラニア・バグダサリアヤン編著『アルメニアを知るための65章』明石書店,2009年,p.106
(注3)中島偉晴・メラニア・バグダサリアヤン編著『アルメニアを知るための65章』明石書店,2009年,p.106
サハラ以北の北アフリカでは,1951年にすで
に
リビ
ア
が独立をしていましたが,56年に
は
スーダ
ン
と
モロッ
コ
と
チュニジ
ア
が独立しました。
アルジェリアが独立するには,フランスと厳しい戦争を経る必要がありました
(
アルジェリア独立戦
争
【東京H24[1]指定語句】
)。泥沼化した戦争への対応からフランスでは第四共和政が吹っ飛び,フランス大統領〈ド=ゴール〉
が
第五共和
政
【東京H30[3]】
【本試験H19時期】
を成立させて,62年にエヴィアン協定を結び
アルジェリアの独立
達成に持ち込みました
【本試験H19】
【H30共通テスト試行 移動方向を問う(ド=ゴールはアルジェリアを植民地化していない)】
。
サハラ以南のアフリカでは,1957年
に
ンクル
マ
(エンクルマ,1909~72。在任1960~66)
【本試験H17アパルトヘイトと無関係,本試験H21】
がガーナ
を
イギリ
ス
からの独立に導きました。1958年に
は
ギニ
ア
【本試験H5】
が独立しています
【本試験H5ベルギーからの独立ではない】
。
17カ国が独立を達成した1960年
【本試験H24 1970年ではない】
は
「
アフリカの
年
」と呼ばれました。これら独立国は63年
に
アフリカ統一機
構
(
OA
U
)
を設立しました
【本試験H7軍事同盟ではない】
【本試験H24AUがOAUに発展したわけではない】
【追H20時期(1950年代ではない)】
。本部はエチオピアの首都アディスアベバです。OAU諸国の多くは,ソ連グループにもアメリカ合衆国グループにも属せず
,
第三勢
力
として活動していくことになりました。
しかし,60年
か
コンゴ動
乱
が起きるなど,天然資源をめぐって先進国が介入する事例は後をたたず,帝国主義時代に民族分布を無視して勝手にひかれた国境線が経済的な争いと結びつき,民族紛争も相次ぎました。
「世界経済というゲームのルールは,北側(欧米)がつくったものだ。このゲームは,最後には北側が有利となるようなルールになっている。だから,いくらがんばっても南側(アジア,アフリカ,ラテンアメリカ諸国)は豊かになれないのだ」
このような主張を
,
従属理
論
といいます。この考え方は,70年代末には歴史社会学者〈ウォーラーステイン〉(1930~)による「世界システム論」に発展していきました。北側(中核)が中心になって,南側(周辺)の国々との間に主従関係のような経済のしくみが生まれた。このしくみにおいては,北側は経済発展するが,南側は低開発の状態にとどまるというものです。特にアフリカは,植民地時代のモノカルチャー制度が残り,環境が破壊され,産業も未発達のまま。さらにさかのぼれば,大西洋の奴隷貿易によって,労働力がアメリカ大陸やヨーロッパに奪われたことも,傷跡として残っていると考えられます。
こうした構造を是正するため,国連が動きました。1963年に南側諸国が主導し
て
国連貿易開発会
議
(UNCTAD,アンクタッド)
【追H27 時期は1970年代ではない】
【本試験H17時期(20世紀後半かを問う)】
が設立。南北格差を生んでいる,不平等な国際分業体制を改めるための組織です。
1975年には
,
ポルトガ
ル
【本試験H5スペインではない】
で独裁政権が終わったことから
,
モザンビー
ク
【本試験H19時期を問う】
,
アンゴ
ラ
【本試験H5スペイン領ではない】
【本試験H21】
,サントメ=プリンシペ,ギニアビサウ
が
ポルトガ
ル
【本試験H21スペインではない】
から独立しました
【本試験H21年代を問う】
。
アフリカでは,「植民地時代に民族の分布を無視した国境線が引かれたために,民族紛争が起きている」という説明がよくされます。しかし,複数の民族が分布しているからといって,その国で常に紛争が起きているわけではありません。紛争の背景には植民地統治に起因する教育水準の低さ,政権による政策決定の誤り,冷戦対立の構図,資源をめぐる大国の進出による民族同士の分断など,さまざまな要因があることに注意しなければなりません。
なお,エジプトでアスワン=ハイ=ダムが建設された際,水没の危機にさらされた古代エジプトの遺跡を守る活動が呼び水となり,UNESCO(国際連合教育科学文化機関)の総会で
世界遺産条約
【名古屋H31世界遺産条約履行のための作業指針における登録要件が論述の題材となった】
が締結され,1978年には初めて
の
世界遺
産
【慶文H30記】
の認定が行われました。
人類誕生の地アフリカで,人類や地球の生み出す普遍的な価値を地球人の "共有財産"として守っていこうという動きが,始まったのです。
○195
3
年
~
197
9
年のアフリカ 東アフリカ
東アフリ
カ
...
①
エリトリア
,②
ジブチ
,③
エチオピア
,④
ソマリア
,⑤
ケニア
,⑥
タンザニア
,⑦
ブルンジ
,⑧
ルワンダ
,⑨
ウガンダ
・
195
3
年
~
197
9
年のアフリカ 東アフリカ 現①エリトリア
エリトリ
ア
は,国連決議に基づき1952年にエチオピアと合わせて連邦制を成立されました。しかし,これに対するエリトリアの住民の反発は少なくなく,アムハラ語の押し付けなどエチオピア中心の政策に対して,アラブ諸国の支援を受けたイスラム教徒を中心にエリトリア解放戦線 (ELF)が結成されて,自治を求める運動を展開するようになりました。しかし1962年にエチオピアはエリトリアを併合すると反政府運動は激しさを増し,紅海に面するエリトリアでの影響力行使をねらって,周辺諸国や大国が介入し,多数の反政府組織がつくられ混乱を深めていきました。
・
195
3
年
~
197
9
年のアフリカ 東アフリカ 現③エチオピア
エチオピ
ア
では,アメリカ合衆国に接近して資本を導入し,絶対的な体制を確立していた〈ハイレ=セラシエ1世〉(位1930~1974)は,民衆の熱狂的な支持(ラスタファリ運動)を背景に自らの神格化を進めていきました。カッファ地方(coffeeの語源です)で
の
コーヒ
ー
のプランテーションはアメリカ合衆国の資本を導入して開発が進み,イエメンのモカから大量のコーヒー豆が積み出されました。しかし,工業化の利益を受けることができたのはアディスアベバに限られ,さまざまな民族が分布するエチオピアではソ連の支援を受けた反体制派が次第に育っていきます。
なお,東京オリンピック(1964)で活躍した陸上競技選手〈アベベ〉(1932~1973)はローマ大会に続いて2回連続で優勝したエチオピアの代表選手として知られています。
石油危機の影響から物価が上昇し,1972年の旱魃(かんばつ),1973年の飢饉への対応も遅れ,国民の不満は高まります
(そんな中,皇帝がペットのライオンに肉を与える写真が公開され,革命の火種となりました)
。そして最終的に1974年に
は
エチオピア革
命
が起きて皇帝は退位し,マルクス主義に立つ社会主義国となりました。熾烈な権力闘争の末,実権を握ったのは
〈
メンギス
ツ
〉少佐(1937~)で
,
エチオピア人民民主共和
国
となりました。〈メンギスツ〉は1979年には民政移管にともない大統領に就任します。
新国家は「エチオピア人」の統合を推進し,アムハラ語やエチオピア正教の強制を行ったため,エチオピア北部からエリトリアにかけて分布するティグレ人の抵抗を生みました。
また,エチオピアの東南部
の
オガデン地
方
でも,反政府運動が激しさを増すようになります。この地域にはイスラーム教徒であ
る
ソマリ
系
の諸民族やオロモ人が分布していました。
・
195
3
年
~
197
9
年のアフリカ 東アフリカ 現④ソマリア
ソマリ
ア
では
,
イギリス領ソマリラン
ド
と
イタリア領ソマリ
ア
が1960年に独立を達成して,与党のソマリ青年同盟を中心に両者は
「
ソマリア共和
国
」に発展していました。ソマリア共和国は,「エチオピアにいるソマリ人もソマリアに含めるべきだ」
(
大ソマリア主
義
)と主張し,オガデンの住民を救おうと呼びかけるようになります。しかしソマリアには多数の氏族が並び立ち,民主主義的な政治を行おうにも到底まとまることが難しい状況でした。
そんな中,〈バーレ〉(1919~1995)少将が1969年にクーデタによりソマリア共和国で軍事政権を建てると,従来の氏族主義を改めて社会主義化を図り,「ソマリア民主共和国」と国名を変更。しかし,急激な近代化と中央集権化は旧来の氏族勢力やイスラーム教勢力の抵抗を生みました。
一方,〈バーレ〉は1977~79年にエチオピアとの間
に
オガデン戦
争
(最終的な停戦合意は1988年)を起こします。ソマリ人の住むオガデン地方
を
大ソマリア主
義
に基づき併合しようとしたのですが,エチオピア側にはソ連がつき,ソマリア側にアメリカ合衆国が立つ「代理戦争」に発展。敗北を喫した〈バーレ〉の権威は低下し,ソ連に対抗してアメリカ合衆国だけでなく,中華人民共和国やアラブ諸国との結びつきを強めていきました。この頃受けた多額の軍事支援は,〈バーレ〉政権の崩壊後に,ソマリア各地の氏族勢力の手に拡散されることになり,長期に渡る混乱の元となります。
・
195
3
年
~
197
9
年のアフリカ 東アフリカ 現⑤ケニア
ケニアでは反植民地運動であ
る
マウマウ反
乱
が起き,首謀者の一人として初代大統領となる〈ケニヤッタ〉も逮捕されています。鎮圧が続く一方で,次第にイギリス側の態度も和らぎ,1957年には史上初の議会の直接選挙が実施されます。1963年にはキクユ人の
〈
ケニヤッ
タ
〉を初代首相としてイギリスから独立,1963年にケニア共和国の初代大統領に就任し,イギリス連邦に加盟しました。
西側諸国との関係を深めた〈ケニヤッタ〉の政策に対し,左派でルオ人の〈オディンガ〉はケニア人民同盟(KPU)を結成して,キクユ人主体の政権に抵抗します。しかし,政権は野党を非合法化し一党制の国家が形成されていきました。1978年に〈ケニヤッタ〉が亡くなると,〈モイ〉副大統領が大統領に昇格します。
・
195
3
年
~
197
9
年のアフリカ 東アフリカ 現⑥タンザニア
ダンザニアでは,タンガニーカ=アフリカ人民族同盟(TANU)が中心となり独立運動が活発化し,1961年にアフリカ大陸側
の
タンガニー
カ
の独立が認められました。
1963年には沿岸のザンジバル島にあ
る
ザンジバル王
国
も主権を回復し,独立が認められました。
しかし,ザンジバル王国で翌1964年に革命が起きると
,
ザンジバル人民共和
国
が建国。アラブ人が排除されました。
ザンジバルの合併の申し入れに対し,タンガニーカ=アフリカ人民族同盟(TANU)の
〈
ニエレ
レ
〉が応じ,タンガニーカとザンジバル人民共和国が連合する形で,1964年にタンガニーカ=ザンジバル連合共和国が建国され,同年には
「
タンザニア連合共和
国
」と国名を改めました。タンガニーカ=アフリカ人民族同盟(TANU)はタンザニア革命党(CCM)に改組されました。
〈ニエレレ〉
は
パ
ン=
アフリカ主
義
(汎アフリカ主義)とアフリカ社会主義
(
ウジャマー社会主
義
)を掲げて,植民地主義や人種主義との対立を訴え,"国家の父""先生"とうたわれました。南部のモザンビークでは反政府組織のモザンビーク解放戦線(FRELIMO)を支援,ナミビアでも南西アフリカ人民機構(SWAPO)を支援しました。
彼は農村部にウジャマー村を建設して農業の集団化を進め,中華人民共和国の支援でタンザン鉄道を敷設しました。また,隣国のケニアが英語を公用語としたのとは対照的に,スワヒリ語の教育に力を入れました。しかし,1970年代に入ると急速な社会主義化には失敗がみられるようになっていきます。
1978年には,1971年以来関係の悪化していた隣国ウガンダの〈アミン〉大統領の攻撃を受けましたが,1979年にウガンダの首都を陥落させています(タンザニア=ウガンダ戦争)。
・
195
3
年
~
197
9
年のアフリカ 東アフリカ 大湖地
方
(
⑦
ブルンジ
,⑧
ルワンダ
,⑨
ウガン
ダ
)
ウガン
ダ
は1962年にイギリスからイギリス連邦の一員として独立しました。1963年には共和政となり,かつてのブガンダ王国の〈ムテサ2世〉が形式的な大統領に就任しました。しかし,1966年にはウガンダ人民会議の〈オボテ〉首相が大統領を追放し,自ら終身大統領に就任して社会主義国家の建設に向かいました。これに対し1971年に軍人〈アミン〉(1925~2003,任1971~79)がアメリカ合衆国を初めとする西側諸国の支持を受けクーデタで政権を奪い,反対勢力に対する厳しい処分で知られる恐怖政治をおこないました。〈アミン〉は政権末期の1978年にタンザニアを攻撃しましたが失敗し,権威を失っていきます。
ベルギーによりブルンジとともに植民地支配を受けてい
た
ルワンダ王
国
では,1959年に国王が亡くなると,これを暗殺とみたツチ人の抗議が高まり,多数派でありながら被支配層であったフツ人の抵抗も強まりました。1961年にベルギー側はクーデタを支援し,国民投票を実施して国王を廃位し,共和政に移行させました。
ブルンジと分離して1962年に独立すると,フツ人の〈カイバンダ〉が初代大統領(任1962~73)に就任しました。〈カイバンダ〉政権はツチ人を排除しながら,フツ人中心に経済成長に向けた政策を推進しました。しかし,軍人〈ハビャリマナ〉(任1973~1994)がクーデタで大統領に就任して一党独裁体制をしきます。
ブルンジ王
国
は,国王でツチ人の〈ムワンブツァ4世〉(1915~66)の下で1962年にベルギーから独立しました。王は立憲君主制を導入しましたが,多数はのフツ人との政治的なバランスをとることは容易ではなく,不安定な情勢が続きました。1966年に
は
フツ人による反
乱
が起き,〈ムワンブツァ4世〉は国外に逃亡しています。
息子が王位を継ぎましたが,ツチ人の軍人〈ミコンベロ〉がクーデタを起こして共和政を始め,大統領に就任(任1966~76)しました。〈ミコンベロ〉政権はフツ人を弾圧し,1972年のフツ人の反乱が失敗するとフツ人に対する虐殺を実施。しかし1976年には同じツチ人〈バガザ〉大佐のクーデタにより失脚し,〈バガザ〉による独裁体制がしかれることになります。
○195
3
年
~
197
9
年のアフリカ 南アフリカ
南アフリ
カ
...
①
モザンビーク
,②
スワジランド
,③
レソト
,④
南アフリカ共和国
,⑤
ナミビア
,⑥
ザンビア
,⑦
マラウイ
,⑧
ジンバブエ
,⑨
ボツワナ
・
195
3
年
~
197
9
年のアフリカ 南アフリカ
現①
モザンビーク
モザンビークでは1964年にソ連・中国・キューバなどの社会主義国の後援を受けて反政府組織(モザンビーク解放戦線(FRELIMO))が結成されました。FRELIMOは
,
南アフリ
カ
などの支援を受ける宗主
国
ポルトガ
ル
【本試験H31イタリアではない】
に対する武装闘争を続け,1974年にいわゆるカーネーション革命によりポルトガルの王政が倒れると,1975年にFRELIMO主導
で
独
立
しました。
しかし,一党制の社会主義政策をとったFRELIMO政府に対し,反共産主義をと
る
南アフリ
カ
やローデシア(1980年に成立した白人国家)の支援する反政府勢力との内戦が続きます
(
モザンビーク内
戦
)。
・
195
3
年
~
197
9
年のアフリカ 南アフリカ
現④
南アフリカ連邦/共和国
南アフリカ連
邦
は,1961年か
ら
南アフリカ共和
国
となりました。
南アフリ
カ
では1948年以降
,
黒
人
(ズールー人,ソト人,コーサ人,ンデベレ人,ツワナ人)
や
アジア
人
(インド系が主,ほかにマレー系。なお,日本人は"名誉白人"扱いをされていました)
,
カラー
ド
(白人とサン人・コイコイ人との混血やアジア人との混血など)など有色人種に対する差別的な体制が法的に確立され
,
白
人
(イギリス系やオランダ系アフリカーナー)優位の社会が築き上げられていました。大多数の黒人は隔離された居住区で暮らすことを強いられ,アフリカーンス語の教育を強制され,白人の農場や企業の下,低賃金で働かざるをえませんでした。
アパルトヘイト諸法に対する反対運動は1962年
に
アフリカ民族会
議
【追H30民族解放戦線ではない】
の〈マンデラ〉
【東京H25[3]】
の逮捕・拘禁以後は一時鎮静化しますが,〈スティーヴ=ビコ〉の活動により再び活発化。1968年に学生組織を立ち上げた〈ビコ〉は黒人意識(black consciousness)運動を唱え,強い影響力を持ちますが,1976年
に
アフリカーンス
語
【本試験H24リード文】
の強制に反発した黒人学生のデモに対する武力鎮圧で700名の死者が出る大惨事となり
(
ソウェト蜂
起
)
【本試験H24リード文】
,〈ビコ〉は1977年に拘束中の暴行で死去しました
(死因の真相を明らかにしない政府の虚偽を新聞記者〈ドナルド=ウッズ〉(1933~2001)が暴く過程が映画「遠い夜明け」(1987英)に描かれています)
。
・
195
3
年
~
197
9
年のアフリカ 南アフリカ 現⑥ザンビア
,⑦
マラウイ
,⑧
ジンバブエ
また,南アフリカ連邦の北にあ
る
南ローデシ
ア
(現在のジンバブエ)では,戦後に白人の移民が増加し,白人主導で産業が盛んになっていました。さらに北
の
北ローデシ
ア
(現在のザンビア)では銅の採掘が盛んで,東
の
ニヤサラン
ド
(現在のマラウイ)からの労働者が急増していました。
1953年にこれらの3地域を合体させ
た
ローデシ
ア=
ニヤサランド連
邦
が白人主導で建設されました。要するに,これによってマラウィは南ローデシアの白人政権によって間接的に支配されることとなったのです。それに対し各地で非白人による抵抗運動が勃発,1963年に連邦は解体されます。
マラウィで独立運動をすすめていたニャサランド=アフリカ会議の後進組織MCP(マラウィ議会党)が1961年の総選挙で大勝。これを受け1964年にニャサランド
は
マラウ
ィ
として独立することとなりました
(注
1)
。
しかし,独立後の
〈
バン
ダ
〉大統領はしだいに独裁政治に走り,反〈バンダ〉派勢力を抑えて一党制を宣言し,1971年に終身大統領となりました。この強権政治を可能にした背景には,マラウィが社会主義陣営に属するモザンビーク
(
FRELIMO政
権
)の隣に位置しながら,資本主義陣営の西側諸国と友好関係を結んでいたことがあります。マラウィは西側諸国から潤沢な支援を受け続けたものの,その富は国民の大多数には還元されることはありませんでした
(注
2)
。
同年1964年には,北ローデシア
は
ザンビ
ア
として独立します。
一方
,
南ローデシ
ア
でも黒人の権利回復をともなう独立が予定されていましたが,1965年に植民地政府の首相〈イアン=スミス〉(任1964~79)がイギリスから派遣された総督を追放し
,
ローデシア共和
国
の独立を宣言します。こうして,白人による人種差別が実施され続けたのです。
(注1)栗田和明『マラウィを知るための45章』明石書店,2010,p.61
(注2)栗田和明『マラウィを知るための45章』明石書店,2010,p.67
○195
3
年
~
197
9
年の中央アフリカ
中央アフリカ...現在の
①
チャ
ド
,
②
中央アフリ
カ
,
③
コンゴ民主共和
国
,
④
アンゴ
ラ
,
⑤
コンゴ共和
国
,
⑥
ガボ
ン
,
⑦
サント
メ=
プリンシ
ペ
,
⑧
赤道ギニ
ア
,
⑨
カメルーン
※ ○内の数字は以下の文中の記号に対応しています。
1960年には多数のアフリカ植民地が一斉に独立したため,
"
アフリカの
年
"と呼ばれます。
ギニア湾岸の
⑨
カメルー
ン
では,国際連合が信託統治となってい
た
フラン
ス
領の地域が独立しました。さらに翌年には,イギリス
領
カメルー
ン
となっていた南部とも合併しました。
また,フランス領赤道アフリカを構成していた以下の4地域は,以下のように独立しました。
・
ガボ
ン
植民地
→
⑥
ガボン共和
国
として独立(1960年)。
・
中央コン
ゴ
植民地
→
⑤
コンゴ共和
国
として独立(1960年)。1969年に「コンゴ人民共和国」と改称して,マルクス=レーニン主義(共産主義)の国づくりを進めますが,1977年に軍部のクーデタで打倒されました。
※〈ルムンバ〉(1925~61)の指導で1960年にベルギーから独立したコンゴ共和国とは別もの。
・
ウバン
ギ=
シャ
リ
植民地
→
②
中央アフリカ共和
国
として独立(1960年)。1965年にクーデタが起こり,〈ボカサ〉中佐(大統領任1966~76)による独裁政権となり,1976年には〈ボカサ1世〉(任1977~79,あだ名は"アフリカの〈ナポレオン〉")として,なんと「帝政」がしかれました(中央アフリカ帝国)。しかしあまりの強権支配に,国民とフランスの支持を失うと,1979年にクーデタが起き,初代大統領〈ダッコ〉(任1960~66,1979~81)が大統領に再任しました。
・
チャ
ド
植民地
→
①
チャド共和
国
として独立(1960年)。フランスの支援を受けた〈トンバルバイ〉政権に対し,北部のウランの利権を背景にイスラーム系住民が反政府運動を開始し,チャド内戦(1965~79)に発展します。しかし1975年のクーデタで〈トンバルバイ〉大統領(任1960~75)が暗殺されると,軍事政権は,反政府運動を支援していたリビアとの戦闘を開始します。
◆
ベルギーから独立したコンゴ共和国では,鉱産資源をめぐり米ソの代理戦争の舞台となった
しかし,ベルギー王国の植民地から1960年に独立した
③
コンゴ共和
国
では一気に情勢が不安定化します
(注
)
。
独立にあたりベルギー政府は資源豊富な南
部
カタンガ
州
を手放すまい
と
カタンガ
国
独立を支援したため,国際連合が国連軍を投入して介入したのです。しかし,ソ連はコンゴ共和国の初代首相
〈
ルムン
バ
〉(1925~61)を支援,アメリカ合衆国は〈カサブブ〉大統領を支援したために内部は混乱。
アメリカ合衆国に支援された国軍参謀総長
〈
モブ
ツ
〉(1930~97)がクーデタを起こして〈ルムンバ〉を逮捕し,1961年に処刑。〈モブツ〉が実権を握る中,和平交渉に向かったスウェーデン人の国連事務総長〈ハマーショルド〉(任1953~61)の飛行機が墜落し死去。ビルマ人の第3代事務総長〈ウ=タント〉(任1961~71)も一連
の
コンゴ動
乱
への解決に奔走しましたが,1965年の〈モブツ〉が再度クーデタを起こして大統領(任1965~1997)に就任し,憲法停止・議会解散の上,一党独裁体制を確立しました。
〈モブツ〉は初め反共産主義を掲げて西側(資本主義)諸国の支持を得て,財政支援やIMFなどからの莫大な融資を受けましたが,その多くが〈モブツ〉個人によって使われたといわれています。
(注)ベルギー領コンゴは独立後,コンゴ共和国(1960)→コン
ゴ
民
主
共和国(1964)
→
ザイー
ル
共和国(1971,〈モブツ〉政権下)→コン
ゴ
民
主
共和国(1997,〈カビラ〉政権下)のように国名が頻繁に変更されています。現在の英語名は「
D
emocratic
R
epublic of the Congo」なので,フランスから独立したコンゴ共和国と区別して,DRコンゴと呼ばれることもありますし,旧名「ザイール」が用いられることもあります。
◆
アンゴラでは独立後も,米ソや周辺諸国が鉱産資源の利権に介入し,長期の内戦が続いた
「アフリカの年」に独立を達成できなかったポルトガル植民地の
④
アンゴ
ラ
では,住民を酷使したダイヤモンド鉱山やコーヒー・綿花などのプランテーションが行われました。ポルトガルからのアンゴラ移民も増加していきます。1954年にはコンゴ川河口を北部の飛び地区域カビンダで油田が見つかり,石油採掘も本格化していきました。
それに対しアンゴラ植民地内には,反植民地主義を掲げた複数の組織ができました。
しかしながら,アメリカ(FNLA(アンゴラ民族解放戦線)を支援)と,ソ連・中国・キューバなど(MPLA(アンゴラ解放人民運動)を支援)が別々の組織への支援を実施。
1974年にポルトガルでカーネーション革命が起きて長期独裁政権が終わり,1975年には独立が達成されました。しかし,それとともに,2002年まで続く熾烈(しれつ)
な
アンゴラ内
戦
が勃発しました。「内戦」といっても,その実態は,アンゴラ国内の利権をめぐるアフリカ大陸内の国家間の関係や,大国間の代理戦争でした。
ギニア湾に浮かぶ島国である
⑦
サント
メ=
プリンシ
ペ
も1975年にポルトガルから独立しています。初代の〈コスタ〉大統領(任1975~1991)は一党体制による社会主義化を推進していきました。
スペイン植民地であった
⑧
赤道ギニ
ア
は,1959年にスペイン領ギニア,1963年に赤道ギニアと改称されて,スペインの自治州となりました。1968年
に
赤道ギニア共和
国
として独立を達成すると,〈ンゲマ〉(任1968~79)大統領の下でソ連に接近した社会主義化がすすめられていきました。
○195
3
年
~
197
9
年のアフリカ 西アフリカ
西アフリカ...
①
ニジェー
ル
,
②
ナイジェリ
ア
,
③
ベナ
ン
,
④
トー
ゴ
,
⑤
ガー
ナ
,
⑥
コートジボワー
ル
,
⑦
リベリ
ア
,
⑧
シエラレオ
ネ
,
⑨
ギニ
ア
,
⑩
ギニアビサ
ウ
,
⑪
セネガ
ル
,
⑫
ガンビ
ア
,
⑬
モーリタニ
ア
,
⑭
マ
リ
,
⑮
ブルキナファ
ソ
希望の光に燃えてヨーロッパ諸国から独立した多くの国では,"独立の父"が亡くなると(あるいは在任中に)早かれ遅かれクーデタが起き,軍事政権が樹立されていきました。
⑤
ガー
ナ
では1957年に
〈
ンクル
マ
〉(エンクルマ,1909~72,在任1960~66)
【本試験H17アパルトヘイトと無関係,本試験H21】
が
イギリ
ス
からの独立を実現させました。
1958年には
⑨
ギニア共和
国
がイギリスから独立しています。
1960年には同時多発的にアフリカ植民地が独立したことから
"
アフリカの
年
"と呼ばれています。
②
ナイジェリ
ア
は連邦制をとってイギリスから独立しました(ナイジェリア連邦共和国)。
③
ダオメ
ー
(英語ではダホメ。フランス語ではh音を発音しないのでダオメーとなります)
がダオメー共和国としてフランスから独立します(のち1975年
に
ベナ
ン
人民共和国と改称,1990年にベナン共和国)。
ギニア湾岸では,
④
トーゴ共和
国
がフランスから独立します。
「象牙海岸」と呼ばれていた地域は,
⑥
コートジボワール共和
国
としてフランスから独立します。当初は,コートジボワールの訳である「象牙(ぞうげ)海岸」が各国語で呼ばれていました(英語ではアイボリー=コースト,日本語では象牙海岸)が,植民地時代の歴史を嫌う共和国政府から使用をやめるよう通達があり,現在では意訳せずにそのまま「コートジボワール」と呼ばれます。
①
ニジェール共和
国
がフランスから独立します。
ニジェール川沿岸の周辺では
,
マリ連
邦
として現在のセネガルとマリがフランスから独立します。しかし直後に
⑪
セネガル共和
国
が分離独立し,
⑭
マリ共和
国
として再独立。セネガルは〈サンゴール〉(1960~80)により親仏路線がとられ,長期政権が実現しました。
オートボルタ共和国ががフランスから独立,直後に「清廉潔白な人の国」という意味を持つ
⑮
ブルキナファ
ソ
と改称しています。
⑬
モーリタニ
ア=
イスラム共和
国
は,フランスから独立しました。
17カ国が独立を達成した1960年
【本試験H241970年ではない】
は
「
アフリカの
年
」と呼ばれました。これら独立国は63年
に
アフリカ統一機
構
(
OA
U
)を設立しました
【本試験H24AUがOAUに発展したわけではない】
【追H20時期(1950年代ではない)】
。本部はエチオピアの首都アディスアベバです。OAU諸国の多くは,ソ連グループにもアメリカ合衆国グループにも属せず
,
第三勢
力
として活動していくことになりました。
なお,1961年には
⑧
シエラレオ
ネ
,1965年には
⑫
ガンビ
ア
がイギリスから独立しています。
また,19世紀前半に独立していた
⑦
リベリア共和
国
では,1944年に当選して以降,27年間にわたって大統領を務めたアメリカ系黒人の〈ダブマン〉(任1944~71)は外資を導入してリベリアの開発に努めます。先住の諸民族(クペレ人,クル人,ギオ人,マノ人,クラン人,イスラム教徒のマンディゴ人など)の地位を向上させるなど,国内の安定化に尽力しましたが,1971年に病死すると〈トルバート〉大統領が後任となりました。〈トルバート〉はソ連に接近し,アメリカ合衆国と距離を置く政策をとります。
◆
ポルトガルで長期独裁政権が倒れると
,
197
0
年代半ばに植民地が独立した
1975年には
,
ポルトガ
ル
でいわゆる"カーネーション革命"が起き独裁政権が崩壊したことを受け,ポルトガルの植民地帝国は世界各地で崩壊しました。アフリカでは
,
モザンビー
ク
【本試験H19時期を問う】
,
アンゴ
ラ
【本試験H21】
,
サント
メ=
プリンシ
ペ
,
⑩
ギニアビサ
ウ
が,相次い
で
ポルトガ
ル
【本試験H21スペインではない】
から独立しています
【本試験H21年代を問う】
。
○195
3
年
~
197
9
年のアフリカ 北アフリカ
北アフリ
カ
...
①
エジプト
,②
スーダン
,③
南スーダン
,④
モロッコ
,⑤
西サハラ
,⑥
アルジェリア
,⑦
チュニジア
,⑧
リビア
マグリブ諸
国(
モロッコ,チュニジア,アルジェリ
ア)
,スーダンが独立を果たした
サハラ以北の北アフリカでは,1951年にすで
に
リビ
ア
が独立をしていましたが,56年に
は
スーダ
ン
と
モロッ
コ
と
チュニジ
ア
が独立しました。
・
195
3
年
~
197
9
年のアフリカ 北アフリカ 現①エジプト
エジプトは1952年の革命で実権を握った
〈
ナーセ
ル
〉(ナセル,大統領任1956~70)以降,農業の近代化や工業化を推進するとともに,1956年
に
スエズ運河の国有
化
を宣言し,イギリスとフランス,イスラエルに対する外交的な勝利を引き出しました。こ
の
第二次中東戦
争
でイスラエルを撤退させたことから,〈ナーセル〉は"アラブ世界のリーダー"を自任するようになり,1958年に
は
シリ
ア
共和国ととも
に
アラブ連合共和
国
を形成しますが,1961年には崩壊。崩壊して「連合共和国」を名乗り続けましたが,1971年にはエジプト=アラブ共和国に戻しています。
・
195
3
年
~
197
9
年のアフリカ 北アフリカ 現②スーダ
ン
(
③
南スーダ
ン
)
スーダ
ン
はイギリスとエジプトの共同統治下にありましたが,ウンマ党を中心に独立運動が展開されていました。しかし独立運動は北部のアラブ人イスラーム教徒が主導していたため,南部の諸民族(伝統的な宗教やキリスト教を信仰していました)による抵抗が起き,1955~72年の間
,
第一次スーダン内
戦
が勃発しました。1956年にスーダン
は
スーダン共和
国
としてエジプト・イギリスから独立を達成。最初の総選挙ではイスラーム教系のウンマ党が勝利して〈カリル〉党首が首相に就任しましたが,南北の内戦を初めとする国内問題の危機を前に,1958年に〈アブード〉参謀総長によるクーデタで軍事政権(1958~1964年)が成立しました。彼は灌漑計画による綿花輸出を推進しましたが,しかしイスラム化を進めたため南部との対立は激化し,1964年に辞任しました。〈アブード〉の退陣後1965年には国民統一党とウンマ党の連立内閣が発足しましたが,1969年には再度〈ヌメイリ〉大佐による軍事クーデタで軍事政権が成立し革命評議会を中心とするスーダ
ン
民
主
共和国を成立させました。1971年以降は大統領に選出され,南部に自治権を与えて内戦を終わらせることに成功しました。しかし1975年に南北の境界付近のアビエイというところ
で
油
田
が発見されると,これが南北の新たな火種となっていきます。
・
195
3
年
~
197
9
年のアフリカ 北アフリカ 現④モロッコ
,⑤
西サハラ
モロッコではアラウィー朝の〈ムハンマド5世〉がフランスに一時廃位されていましたが,1955年に復位,1956年に独立を果たします。
スペイン
は
モロッコ南
部
の沿岸地域を20世紀初めから「スペイン領西アフリカ」として植民地化していました。しかし,スペインは1958年以降に領域をモロッコに返還。1975年には撤退しました。
スペイン撤退後のモロッコ南部は,翌年にモーリタニアとモロッコによって分割・併合されましたが,これに異議をとなえるアルジェリアはモロッコ南部の独立勢
力
ポリサリオ戦
線
を支援し,亡命政
権
サハ
ラ=
アラブ民主共和
国
がアルジェリアで成立しました。
モーリタニアはポリサリオ戦線の抵抗に苦しみ,併合した地域を1979年に放棄しています。
・
195
3
年
~
197
9
年のアフリカ 北アフリカ 現⑥アルジェリア
一方
,
アルジェリ
ア
が独立するには,フランスと厳しい戦争を経る必要がありました
(
アルジェリア独立戦
争
)。泥沼化した戦争への対応からフランスでは第四共和政が吹っ飛び,フランス大統領〈ド=ゴール〉
が
第五共和
政
【東京H30[3]】
【本試験H19時期】
を成立させて,62年にエヴィアン協定を結び
アルジェリアの独立
達成に持ち込みました
【本試験H19】
【H30共通テスト試行 移動方向(ド=ゴールはアルジェリアを独立させていない)】
。
・
195
3
年
~
197
9
年のアフリカ 北アフリカ 現⑦チュニジア
チュニジ
ア
はフランスの保護領の下でフサイン朝のベイが名目的な支配権を保っており,チュニジア王国として独立したものの1957年に制憲議会により王政は廃止され,共和制が樹立されました。
・
195
3
年
~
197
9
年のアフリカ 北アフリカ
⑧
リビア
リビアは1951年にリビア連合王国として独立していましたが,1969年に
〈
カッザーフィ
ー
〉(カダフィ,任1969~2011)"大佐"によるクーデタが起き,リビア=アラブ共和国となりました。彼は特異な社会主義思想
(⇒1979~現在の北アフリカ リビア)
を持ち,1970年代に外国資本の石油企業を国有化し,輸出産業による経済成長を図ります。
◆
「スターリン批判」によりソ連圏で反ソ運動が起き,中国とは中ソ対立が起きた
スターリン批判で,東側陣営に亀裂が走る
1953年にソ連の最高指導者
〈
スターリ
ン
〉(共産党書記長1922~53,人民委員会議議長41~53,ソ連閣僚会議議長41~53,国家防衛委員会議長41~46
)
が死
去
しました。
これにより,冷戦は1950年代から60年初めにかけて
「
雪ど
け
」
【本試験H10時期(1950年代か問う)】
ムードとなり
【本試験H14このときWTOは解体されていない】
,1946年から続いていたインドシナ戦争が,54年
の
ディエ
ン=
ビエ
ン=
フーの戦
い
でフランス軍の大敗
【本試験H27勝利していない】
をみたことをきっかけに
,
ジュネーヴ国際会
議
で休戦協定(ジュネーヴ休戦協定
【本試験H16これにより南北ヴェトナムは統一されていない】
【追H30】
)が結ばれました。
ヴェトナムは北緯
17
度線
【追H30】
が南北の境界となり,南部に
は
ヴェトナム共和
国
が成立し,アメリカ合衆国に支援された親米派の〈ゴー=ディン=ジエム〉(1901~63,在任1955~63)が大統領に即位しました。それに対し,〈ホー=チ=ミン〉率いる北部
(
ヴェトナム民主共和
国
)は,ソ連と中国が支援したため,ヴェトナムは南北に引き裂かれることになりました。
このジュネーヴ国際会議では,前年に独立してい
た
ラオ
ス
と
カンボジ
ア
が,独立国として承認されています。
1955年5
月
オーストリ
ア
の分割統治をやめ
,
中立
国
とする条約が米英仏ソの間で調印され,10月には連合軍が撤退しました。オーストリアでもドイツと同じく"ファシズム"や"ナチス"に関連した思想や,今後のドイツとの合併も厳しく禁止されました。中立国ですので,現在に至るまでオーストリアはNATOに加盟していません。
さらに54年4月~7月に,ジュネーヴでの26か国の外相会議で,インドシナ戦争と朝鮮戦争の休戦が決まったことをきっかけに,55年5月
に
ジュネーヴ四巨頭会
談
がひらかれ,米〈アイゼンハワー〉首相・英〈イーデン〉首相・仏〈フォール〉首相・ソ〈ブルガーニン〉首相の4首脳が
,
ポツダム会
談
以来初めて一堂に会し
,
平和共存路
線
【本試験H14】
を打ち出しました。
〈スターリン〉亡き後に権力をにぎったのは
〈
フルシチョ
フ
〉(1894~1971,在任1953~64)です。
就任直後の8月には,物理学者
〈
サハロ
フ
〉(1921~89)の技術で
,
水素爆
弾
実験を行っています。
56年にソ連共産党大会で〈スターリン〉時代の「個人崇拝」をひかえめに批判。大会最終日の秘密報告で,名指し
で
スターリン批
判
をし,独裁や個人崇拝の実態を暴露しました
【H29共通テスト試行 これにより東西関係が緊張したわけではない】
。彼自身も〈スターリン〉時代の過酷
な
粛
清
(ライバルを処刑・追放すること)に関わっていたわけですが,暴露することによってのライバルたちを蹴落とそうとしたのです。
この秘密報告は,アメリカ国務省の知るところとなり,翻訳されて世界中に配信されることになります。当然,〈スターリン〉に忠実に従っていた東ヨーロッパ諸国は,これにショックを受けました。
1953年6月には,東ドイツの東ベルリンで労働者による暴動が起きましたが,ソ連軍が出動して鎮圧されました(東ベルリンが暴動)。
1956年6月
に
ポーラン
ド
では,ポズナン(ポズナニ)
【本試験H14ハンガリーではない,H31ポーランドか問う・スターリン批判がきっかけか問う】
で労働者による自由を求める暴動が起きましたが,ポーランド政府の
〈
ゴムウ
カ
〉(1905~82)はこれを独力で鎮圧しました
(
ポズナ
ン
(ボズナニ
)
暴
動
) 。
1956年10月23日には,ハンガリーで暴動が起き,スターリンに反対していた〈ナジ〉(1895~1958,在任1953~55,56) が政権をにぎりました。おりしも10月29日か
ら
第二次中東戦
争
がはじまっていました。エジプトの〈ナセル〉大統領にしてみれば,世界中の目がハンガリーに向かっているすきを狙ったのです。11月に〈ナジ〉首相は,共産党以外の政党も認めること,ハンガリーを中立化させること,WTOから脱退することなどを宣言したため,ソ連はハンガリー人民共和国政府を支援し軍事介入に踏み切りました(鎮圧したのは,ワルシャワ条約機構軍ではありません)。
国際連合の安全保障理事会はソ連をハンガリーから撤退するべきという決議を出しましたが
,
ソ連の拒否
権
により否決。ソ連との関係をこじらせたくない〈アイゼンハワー〉大統領は,国際連合総会によるハンガリーの独立を守るための監視団の派遣にも消極的で,結果的に見放された〈ナジ〉首相は,2年後に処刑され,約2000人が処刑され,ソ連に友好的な首相に交替されました。このときに20万人のハンガリー人が亡命したといわれています
(
ハンガリー事
件
)
【本試験H22・H24ともに時期】
。
しかし,当時の軍事技術はアメリカ合衆国よりもソ連のほうが先を行っていました。1958年に
は
ICB
M
を保有し,史上初の人工衛
星
スプートニク1
号
の発射に成功,さらに人工衛星に犬を乗せて地球の周りを回らせました。1959年に〈フルシチョフ〉はアメリカを訪問し,人工衛星の模型を〈アイゼンハワー〉大統領にプレゼントする余裕ぶりです。1961年には
〈
ガガーリ
ン
〉(1934~68)による人類初の有人宇宙飛行にも成功しています(1963年には初の女性〈テレシコワ〉(1937~)による有人宇宙飛行に成功)。
〈フルシチョフ〉は,同年1961年には〈ケネディ〉とのウィーン会談で,西ベルリンからの米・英・仏の撤兵を要求し,国内の党大会でも再度スターリン批判を行いました。彼は,〈スターリン〉による個人崇拝や独裁を批判しただけで,社会主義や,さらに高いレベルの目標である共産主義の建設を批判していたわけではありません。〈スターリン〉に影響される前の,純粋な"本当"のマルクス主義を取り戻そうとしていたのです。
1961年10月には史上最大の水素爆弾の核爆発実験が,北極海に浮かぶノヴァヤゼムリャ島でおこなわれました。8月には
ベルリンの壁の建設
【追H19時期、H27時期を問う】
が始まっており,〈ケネディ〉大統領はイギリスの〈マクミラン〉首相とともに大気圏内での核実験停止と停止協定への同意を求めていた矢先のことでした。この50メガトン(第二次大戦で使われた火薬の送料のおよそ10倍)もの水爆は世界に衝撃を与えます
(注
)
。
(注)共同通信社『ザ=クロニクル戦後日本の70年 4 1960-64 熱気の中で』共同通信社,2014,p.58
1962年には,革命が起き
た
キュー
バ
にミサイル基地を建設したことが元で
「
キューバ危
機
」が起きるなど,「雪どけ」ムードは後退していきました。
キューバに建設されたソ連のミサイル基地は,結局62年に撤去されました。ソ連"水爆の父"〈サハロフ〉の働きかけもあり,63年に
は
アメリ
カ
【東京H29[3]】
・
イギリ
ス
【東京H29[3]】
【慶商A H30記】
・
ソ
連
【東京H29[3]】
の間
で
部分的核実験禁止条
約
(
PTB
T
)
【東京H29[3]】
が締結されました。
ハンガリー事件の後も,ソ連からの東ヨーロッパ諸国の離脱への動きは止まりませんでした。
61年に
は
アルバニ
ア
がソ連と断交し,62年にコメコンから脱退,68年にはWTOからも脱退しています。
一連の混乱を招いた〈フルシチョフ〉は,農業政策でも失敗を重ね,1964年に最高指導部から辞任の要求が出され,やむなく職を辞しました。ソ連の支配層は,再び〈スターリン〉のような人物が登場することを恐れ,一人の人物
が
第一書
記
と
首
相
(ソビエト連邦閣僚会議議長)を兼務しないようにしました。こうして
〈
ブレジネ
フ
〉 (1906~82,在任1964~82)
【本試験H30時期】
が第一書記,〈コスイギン〉(1904~80,在位1964~80)が首相に,〈ポドゴールヌイ〉(1903~83,在位1965~77)が最高会議幹部会議長を担当するトロイカ体制
(
三頭政
治
)が始まりました。
それでも,東ヨーロッパでの反ソ連の動きは止まらず,1968年
に
チェコスロヴァキ
ア
で
〈
ドプチェ
ク
〉(1921~1992,在任1968~69)
【東京H25[3]】
【本試験H30ブルガリアではない】
が「人間の顔をした社会主義」を訴え,自由化をすすめる改革を行い
「
プラハの
春
」
【追H21ハンガリーではない】
【早政H30論述(ソ連の対応と主張を説明する)】
と呼ばれました。しかし,〈ブレジネフ〉
【本試験H20ゴルバチョフではない】
はソ連軍が中心となったワルシャワ条約機構(WTO)軍を投入し,軍事介入して鎮圧しました
【本試験H14,H29共通テスト試行 ソ連は支持していない】
。「外国であってもソ連グループの一員なのだから,人の国であろうがおかまいなし。」この考え
を
ブレジネ
フ=
ドクトリ
ン
(制限主権論)
【早政H30】
といいます。このときソ連,ポーランド,ブルガリア,東ドイツ,ハンガリーが鎮圧に協力しました。
思想の統制はいまだ厳しく,作家〈ソルジェニーツィン〉(1918~2008)は,ソビエト連邦時代の強制収容所をテーマとした『収容所群島』や『イワン・デニーソヴィチの一日』でノーベル平和賞を受賞(1970)しましたが,1974年にソ連を追放されました(1994年に帰国)。
東ドイ
ツ
【東京H17[1]指定語句】
では,1949年~61年の間にじつに250万人もの東ドイツ市民が,西ドイツに逃げ込んでいました。西ドイツの経済的な繁栄が背景にあります。そこで
,
東ドイツ政
府
【本試験H24】
は,西ベルリンに通じる交通路を壁により阻止する政策をとり1961年8月中旬の夜間に,コンクリート製の有刺鉄線・監視塔付きの壁
(
ベルリンの
壁
)
【本試験H14ソ連との関係を断ったわけではない】
を建設しました
【本試験H24】
。その後,さらに電流の流れるフェンスも加わり,西ベルリンを囲い込む壁が完成してきました。
1970年代にはドイツの〈ブラント〉政権
【追H29】
が主導して東西の緊張緩和に努めました
(
東方外
交
)。1975年には,不測の事態に備えてヨーロッパの安全保障を図ろうと,フィンランドの首都ヘルシンキで全欧安全保障協力会議(Conference on Security and Cooperation in Europe,
CSCE
)にソ連も含めたヨーロッパ33か国(アルバニアは参加しませんでした),アメリカ合衆国,カナダの計35ヵ国の首脳が集まり
,
ヘルシンキ宣
言
が合意されています(ただし,CSCEには紛争を解決するための実行力はありません)。
1973年に第一次石油危機が起こると,フランスの〈ジスカール=デスタン〉大統領が主導し
て
第一回
第1
回先進国首脳会
議
が開催されました。同時にヨーロッパの経済統合も進展し,1973年にはイギリス
【セA H30年代を問う】
,デンマーク,アイルランドが加盟しています
(
拡大E
C
)。
○194
5
年
~
195
3
年のヨーロッパ 東ヨーロッパ
東ヨーロッパ...冷戦中に「東ヨーロッパ」といえば,ソ連を中心とする東側諸国を指しました。ここでは以下の現在の国々を範囲に含めます。バルカン半島と,中央ヨーロッパは別の項目を立てています。
①
ロシア連
邦(
旧ソ
連),②
エストニア
,③
ラトビア
,④
リトアニア
,⑤
ベラルーシ
,⑥
ウクライナ
,⑦
モルドバ
・
195
3
年
~
197
9
年
の①
ロシ
ア(
ソ
連
)
ソ連の最高指導者は〈ヨシフ=スターリン〉。第二次世界大戦が終わると,東ヨーロッパに勢力圏を及ぼすことに成功し,アメリカ合衆国・イギリスを中心とする西側諸国との直接的な戦争のない対立(冷戦)を生みました。
ただし,バルカン半島のユーゴスラビアの〈チトー〉
【追H21】
は,ソ連の影響力行使に反対しコミンフォルムを追放され,ソ連との国交も断絶しています。
東方では,連合国軍が分割占領していた朝鮮半島の支配をどうするかという問題をめぐり,モスクワ三国外相会議の案(アメリカ・ソ連・イギリス・中国による信託統治)が,米ソ共同委員会が決裂したことによりパーになり,連合国の管理下で南北共同選挙をおこなう計画もかなわず,1948年に朝鮮半島北部のソ連占領地域で朝鮮民主主義人民共和国が成立しました。1949年に中国共産党の一党独裁制である中華人民共和国が成立すると,これと中ソ友好同盟相互援助条約を結び,東側陣営にとりこみました。〈毛沢東〉は当初は"向ソ一辺倒"を掲げ,ソ連の支援の下,ソ連型の国家建設を目指すことになります。
1950年には朝鮮民主主義人民共和国が朝鮮半島統一を目指し大韓民国を軍事侵攻。〈スターリン〉は〈金日成〉に支援を要請されましたが,核保有国どうしの対決を避けて参戦はしませんでした。〈毛沢東〉も,建国間もない中華人民共和国が参戦するにあたり,アメリカ合衆国との直接対決を避けるため,人民解放軍の派遣ではなく義勇兵という形で軍を編成し,朝鮮民主主義人民共和国を支援しました。〈スターリン〉は1953年に死去します。
・
195
3
年
~
197
9
年の東ヨーロッパ 現②エストニア
,③
ラトビア
,④
リトアニア
バルト三国ではソ連による社会主義化が進んだ
エストニアでは,1944年9月,ドイツ軍の撤退とソ連の再占領の間のほんのスキマに,「エストニア共和国」として独立国家が樹立されました。せっかく樹立された国を守るために抵抗した共和国軍の奮闘もむなしく,数日後にはソ連に再占領を受けました。
というわけで,これ以降はエストニア=ソヴィエト社会主義共和国となっています。
ラトビアは1940年以降ソ連領となり,ラトビア=ソビエト社会主義共和国としてソ連の構成国となりました。1941~44年はドイツの占領下に入りますが,1944年のソ連に再び占領されています。
リトアニアは1940年以降リトアニア=ソビエト社会主義共和国としてソ連の構成国となり,1941年~1944年までドイツの占領下を受けた後,ソ連に再び占領されました。
・
194
5
年
~
195
3
年
の⑤
ベラルーシ
,⑥
ウクライナ
,⑦
モルドバ
ベラルー
シ
は第二次世界大戦中の1941年にドイツに占領され,1944年にソ連が奪還しました。ポーランド人は歴史的に,ベラルーシからウクライナにかけての広い地域に分布していましたが,第二次世界大戦後にポーランドとソ連の境が大きく西側に移動されると,ベラルーシの領土内にいたポーランド人は移動を余儀なくされています。「ベラルーシ人」が誰なのかという定義は,今なお明確とはえませんが,このときにベラルーシにとどまった人々やユダヤ人,または移住してきたロシア人が人口の多くを占めるようになっていきます。
ウクライ
ナ
のウクライナ=ソヴィエト社会主義共和国は,第二次世界大戦後もソ連の構成国の一つとして,"大ロシア"(ロシア)に対する"小ロシア"(ウクライナ)の地位にとどまりました。
モルド
バ
は,もともとルーマニア人のモルダヴィア公国でしたが,オスマン帝国の支配に入った後,1812年にロシアに割譲。その後,第一次世界大戦後にルーマニア領になって,1940年に今度はソ連の領土に。こういう経緯から住民の多くはルーマニア語を話すのに,支配者がロシア人という構図が生まれます。
○195
3
年
~
197
9
年のヨーロッパ バルカン半島
バルカン半
島
...
①
ルーマニア
,②
ブルガリア
,③
マケドニア
,④
ギリシャ
,⑤
アルバニア
,⑥
コソヴォ
,⑦
モンテネグロ
,⑧
セルビア
,⑨
ボスニ
ア=
ヘルツェゴヴィナ
,⑩
クロアチア
,⑪
スロヴェニア
・
195
3
年
~
1957
9
年のヨーロッパ バルカン半島 現③マケドニア
,④
ギリシャ
,⑤
アルバニア
,⑥
コソヴォ
,⑦
モンテネグロ
,⑧
セルビア
,⑨
ボスニ
ア=
ヘルツェゴヴィナ
,⑩
クロアチア
,⑪
スロヴェニア
1948年にコミンフォルムを除名され,ソ連やソ連と事実上一体化した東ヨーロッパの社会主義諸国とのつながりを失ったユーゴスラヴィアでは,「自主管理」という独自の社会主義による国づくりをすすめていました。また,外交的には「非同盟政策」をとり,「積極的平和共存」を掲げてソ連側(東側)にもアメリカ合衆国側(西側)にもつかない方針で,冷戦下のヨーロッパにあって異彩を放っていました。
1953年にソ連の最高指導者〈スターリン〉が死去。ともなってソ連は"(冷戦の
)
雪解
け
"
【本試験H10時期(1950年代か問う)】
といわれる緊張緩和に舵(かじ)をきり
,
ソ連との国交が正常
化
されました。また1955年にはソ連の最高指導者〈フルシチョフ〉第一書記がブルガーニン首相とともにユーゴスラヴィアの首都ベオグラードを訪れ,独立,主権,平等,内政不干渉をうたったベオグラード宣言を発表。翌年には今度はユーゴスラヴィアの〈チトー〉
【追H21】
大統領がモスクワを訪れています。
同時に「非同盟政策」も続け,インド,ビルマ連邦,エジプトを訪問し,1956年にはインドの〈ネルー〉とエジプトの〈ナーセル〉と会談。1961年にはユーゴスラビアの首都ベオグラード
【追H20サンフランシスコ,コロンボ,ロンドンではない、H28ユーゴスラビアか問う】
で
第一回
非同盟諸国首脳会
議
【追H28「主要先進国」首脳会議(サミット)ではない】
【本試験H7アジア・アフリカ会議とは別,本試験H9】
を開催しています。
国内では1963年に憲法を新しくして,ユーゴスラビア社会主義連邦共和国に国名を変更。国名には"社会主義"と銘打ったわけですが,経済的には市場社会主義をとることが規定され,市場原理を導入する柔軟さを持っていました。しかしこの動きに批判的な"チトーの右腕"〈ランコビッチ〉(副首相兼内相任1946~53,副大統領任1963~66)を〈チトー〉が解任すると,コソヴォのアルバニア人やボスニア=ヘルツェゴヴィナ共和国のイスラーム教徒
(1971年からは「ムスリム人」という区分が導入されるようになります)
が民族運動を起こしました。特にクロアチア共和国のクロアチア人は1970年~71年に自治を求める運動を活発化させ("クロアチアの春"),なんとか収拾させています。
(注
)
。
1974年に新たな憲法が制定され,いっそうの分権化を図るとともにユーゴスラヴィアの統合を強調します。ユーゴスラヴィアは〈チトー〉によって成り立っていたものとよくいわれるように,1974年には終身大統領に選出され,〈チトー〉その人が統合と民族間の調整の中心に位置づけられいきました(しかしこの〈チトー〉は1980年に死去することになります)。
(注)柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』岩波書店,1996年,pp.123-124。
・
195
3
年
~
197
9
年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現④
マルタ
第二次世界大戦に重要な役割を演じたイギリス領マルタ島は,1964年
に
マルタ
国
としてとしてイギリス連邦内の自治国となりました。
1971年にマルタ労働党の〈ドム=ミントフ〉(1916~)が総選挙に勝利すると,1976年に
は
マルタ共和
国
としてのイギリス連邦内での独立を宣言しました。
○195
3
年
~
197
9
年のイベリア半島
・
195
3
年
~
197
9
年のイベリア半島 現①ポルトガル
ポルトガ
ル
では1968年に
〈
サラザー
ル
〉(1889~1970,任1932~1968)による独裁体制が続いていました。しかし,国内外で反政府運動が勃発。特に植民地では現地の独立運動に共鳴した若手将校が〈サラザール〉政権を批判するようになります。国際社会からの批判も高まりますが,ポルトガルはなんとしてでも植民地の死守を図り,運動の鎮圧に取り組みました。戦争費用を捻出するため,外資を導入した工業化を推進するとともに,植民地の天然資源の開発がすすみました。工業化の進展により農業が衰退し,従来のブラジルに代わりフランスなどのヨーロッパへの移民が急増しました。
そんな中,〈サラザール〉が高齢のため引退すると,大学教授〈カエターノ〉が首相に就任しました。植民地における反ポルトガルの戦争が長期化し,軍事費が財政を圧迫する中,陸軍の若手将校による反政府運動が盛り上がり,1974年4月にリスボンを占領,〈カエターノ〉は辞任しました。新体制(救国軍事評議会)の議長に選出された〈スピノラ〉は独裁体制を支えていた制度を廃止し,釈放された政治犯がカーネーションとともに群衆に迎えられたことから,この政変を
「
カーネーション革
命
」とも呼びます。
臨時大統領〈スピノラ〉は挙国一致内閣をつくりましたが,クーデタを指導した軍(国軍運動)との間に内紛が起き,〈スピノラ〉の指名した〈カルロス〉内閣は総辞職し,国軍運動の〈ゴンザルヴェス〉を首相とする内閣が成立しました。〈スピノラ〉大統領は,この新内閣が共産主義の影響を受けることを恐れ抵抗を試みましたが,同年に辞任。新大統領の〈ゴメス〉参謀長は,1975年に「革命評議会」を中心に基幹産業の国有化と農地改革を実行しました。
若手将校の中には,植民地における独立運動の精神に感銘を受ける者も多く,早速ポルトガルの植民地帝国の"店じまい"にとりかかります。
西アフリカ
の
ギニ
ア=
ビサ
ウ
(1974),南東アフリカ
の
モザンビー
ク
(1974),西アフリカ
の
サ
ン=
ト
メ=
プリンシ
ペ
(1974)
,
カ
ボ=
ヴェル
デ
(1974),南西アフリカ
の
アンゴ
ラ
(1975)に,それぞれ独立協定が結ばれ,ポルトガルのアフリカにおける植民地はなくなりました。
東南アジアの東ティモールでは,独立協定の締結が難航。独立のあり方をめぐって3つのグループ
(独立派の「東ティモール独立革命戦線」vsポルトガルの自治州派の「ティモール民主連合」vsインドネシア併合派の「ティモール民主人民協会」
)が抗争し,1975年以降内戦に発展。同年にはインドネシアが介入し,翌年1976年に東ティモールの併合を宣言しました
(
東ティモール内
戦
)。
中国南部
の
マカ
オ
に対しては,1976年に自治を認めています。
ポルトガル政府の施策に対し,1975年の政権議会選挙では共産党に接近した国軍運動への反発が高まり,政府の実権は社会党などの穏健派や右派に移っていきました。1976年に民政移管となり〈エアネス〉将軍が大統領に進出され社会党の〈ソアレス〉が首相に任命されます。しかし,基幹産業の国有化と農地改革の失敗から経済は停滞し,植民地の喪失と石油危機後の不況も経済危機に追い打ちをかけました。そんな中,1976年に〈ソアレス〉内閣はEC(ヨーロッパ共同体)に加盟申請しました。ECからの援助金をあてにしたのです。
・
195
3
年
~
197
9
年のイベリア半島 現②スペイン
スペイ
ン
では〈フランコ〉による独裁が続いていました。
1959年に、弾圧を受けていたバスク人のバスク民族主義党から、バスク祖国と自由(ETA)が分離し、1973年には〈ブランコ〉首相を殺害するなどテロリズムを展開します。
1975年にフランコが死去すると、ブルボン家の〈フアン=カルロス1世〉(位1975~2014)が即位し、ブルボン朝が復活。民主化のプロセスが始動しました。
○195
3
年
~
197
9
年の北ヨーロッパ
北ヨーロッパ...
①
フィンラン
ド
,
②
デンマー
ク
,
③
アイスラン
ド
,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,
⑤
ノルウェ
ー
,
⑥
スウェーデン
◆
外交的には北欧均衡をとり,内政的には福祉政策を充実した
ノルディッ
ク=
バランスをとり,福祉国家の充実へ
冷戦期の北ヨーロッパ諸国は,対外的には「北欧均衡」(ノルディック=バランス)と呼ばれる東西の力関係を考慮して各国が異なる安全保障政策をとることで地域の安定を図りました。
そんな中,北ヨーロッパ諸国は1953年に北欧会議を開催し,地域協力の動きも生まれました(フィンランドはソ連を考慮して不参加。1955年に参加)。
1950年代の北ヨーロッパ諸国は,国内的には国有企業と私的企業が併存する混合経済体制の下,1950年代後半には輸出向けの工業発展
(製紙・パルプ・用材,スウェーデンの鉄鋼,ノルウェーの海運,デンマークの畜産)
が急速に伸びました。国民の経済的な平等を図るために課税や再分配を調整す
る
福祉政
策
が充実し,1960年代に黄金期を迎えました。国民の生活水準は向上し,かつてヨーロッパの辺境であった北ヨーロッパの経済的な水準は他地域を凌(しの)ぐレベルとなりました。
しかし,1970年代に世界的な不況の影響を受け,その体制にほころびがみえはじめます。
・
195
3
年
~
197
9
年のヨーロッパ 北ヨーロッパ
現①
フィンランド
フィンラン
ド
は1973年に社会民主党を中心とする中道左派連立政権が不況の解消に取り組みますが,1987年には保守政党の国民連合党が躍進して社会民主党との連立政権が成立しました(首相は国民連合党)。
・
195
3
年
~
197
9
年のヨーロッパ 北ヨーロッパ
現②
デンマーク
デンマー
ク
ではマーシャル=プランの受け入れで復興が推進されました。1953年に新憲法が発布されて,参政権の引き下げやオンブズマン制度が導入されました。ま
た
グリーンラン
ド
に「本国並み」の地位が与えられ,国会に2議席の代表を送ることができるようになりました。1957年の社会民主党を中心とした連立政権はEFTAに加盟し,国民年金など福祉国家政策も推進しました。1970年代に失業率が上昇し,福祉国家を推進してきた社会民主党が議席を失い,福祉国家に反対する進歩党が第二党に躍進しました。1975年に社会民主党を中心とした連立政権が発足し経済の立て直しに努めました。
・
195
3
年
~
197
9
年のヨーロッパ 北ヨーロッパ
現③
アイスランド
アイスラン
ド
は西側諸国の軍事機
構
NAT
O
の拠点として,アメリカ軍の駐留を受けました。1958年に漁業専管水域を4カイリから12カイリに拡大したことでイギリス海軍が出動する事態に発展しました(第一
次
タラ戦
争
,1958~61)。
・
195
3
年
~
197
9
年のヨーロッパ 北ヨーロッパ
現⑤
ノルウェー
一方
,
ノルウェ
ー
では1969年に北海で巨大な油田(エコフィスク油田)が発見されたことが,石油危機にともなう経済低調の救世主となりました。しかし1980年代後半の石油国際価格の暴落にともない,ノルウェー経済は打撃を受けました。1970年後半以降は保守党が躍進していきました。
・
195
3
年
~
197
9
年のヨーロッパ 北ヨーロッパ
現⑥
スウェーデン
スウェーデ
ン
では,1932年からほぼ一貫して社会民主党が政権の座にあり,福祉国家路線が進められました。しかし,1970年代にはその支持率が下がり,1976年の総選挙での敗北を受け,大戦後の〈エランデル〉長期政権(任1946~69)を引き継いでいた〈パルメ〉首相(任1969~76)が下野しました。その後は社会主義政党ではない政党による連立政権が続きます。
南極大陸をめぐっては,相変わらず各国が領有権を主張する状況です。
しかし冷戦の激化にともない,核実験場としての利用や放射性物質の廃棄などが懸念されるようになると,南極の扱いについて国際的な取り決めが必要とされるようになっていきました。
そこで,1959年
に
南極条
約
が,アメリカ合衆国,フランス,ベルギー,イギリス,ノルウェー,ソビエト連邦,アルゼンチン,チリ,ニュージーランド,オーストラリア,南アフリカ,日本
(日本は1951年のサンフランシスコ条約で南極大陸の領有を放棄していますが,南極条約には加わっています)
により採択され,平和的利用や科学的調査の自由と国際協力などが定められました。
とはいえ,アルゼンチンが領有主張する南極大陸の基地(ただし基地はイギリス領にあります)では,1978年に史上初めて南極大陸でアルゼンチン人の男児が出生。「赤ちゃんが生まれたのだから,南極大陸の領有が主張できる!」というのでしょうか...。
ソ連型の社会主義が失敗に終わり,アメリカ中心の市場経済が全世界規模に拡大する。アジア,アフリカでも経済成長を遂げる国家が台頭し多極化に向かうが,各国で市場経済や異文化への反発も表面化する。
時代のまとめ
(1)
ソ連を中心とする社会主義圏でも市場経済が導入され,「各国内の不平等」と「グローバルな不平等」が拡大している
地球レベルでの自由貿易がさらに進展した結果,先進国の企業も,厳しい競争にさらされることになり,経済格差が広がりました。また,重厚長大産業(鉄鋼・造船・金属)から軽薄短小産業(マイクロエレクトロニクス)へと産業の主力が変化する中で,企業の多くが国内よりも人件費の安い国外に生産拠点を移した結果,先進国内部の雇用が失われる現象
(
産業の空洞
化
)も問題になってきています。
多国籍企
業
の世界展開
や
労働力の国際的な移
動
も活発化し,先進国内では不景気や雇用不安やそれがもたらす経済格差(「各国内の不平等」
(
注
1
)
)を,移民労働者や外国文化の流入の責任とす
る
排外的なナショナリズ
ム
も目立っています。特に,単純な構図を表すキャッチフレーズを多用し国内の問題を外国人のせいにすることで票を集めようとする
,
ポピュリズ
ム
的な政治家・政党が支持を集める国・地域もみられます。
同時に,「グローバルな不平等」
(
注
1
)
も問題化しています。従来は「南北問題」の「南」側の発展途上国としてひとくくりにされていた国々の中から,技術革新によっ
て
新興
国
へとのし上がる国も出てきたのです。これにより,1990年代以降,新興国の中間層の所得が増えるとともに,それと連動して先進国の下位中間層の所得が低下し,先進国の富裕層がの所得が著しく上昇したと論じる研究者もいます
(
注
2
)
。
1970年代以降に経済成長を達成したアジアの
NIEs
【セA H30】
(ニーズ,
新興工業経済地域
【追H25】
。韓国,台湾
【セA H30】
,香港,シンガポール
【追H25】
)
【本試験H9[11]】
は,輸出向けの製造業で頭角を表し,それにASEAN(東南アジア諸国連合)の諸国や,市場経済を導入した中華人民共和国も追随しています。
代表的な新興国は2008年の世界経済危機に際し
て
G2
0
(ジー・トゥエンティ)を開催し,経済問題について協議するなど,国際的な存在感を増しています
(
注
3
)
。従来のように欧米と日本だけで世界経済を協議することが有効ではなくなっていることの現れです。
BRIC
s
諸国
【セA H30ベネズエラは含まない】
(ブリックス。ブラジル,ロシア,インド,中国,南アフリカ。南アフリカは加えない場合もある)の共通点は,領土が広大で資源が豊富,人口も多いことが挙げられます。このように,従来は「低開発」であった発展途上国が,21世紀初頭になると経済発展に成功するようになったのです。しかし,以前として「南側」の国々の中で
も
南南問
題
といわれる経済格差が問題となっています。
他方で,熱帯地域に多く分布する後発開発途上国や低所得国(LDCs,1人あたり国民純所得が825米ドル(2014年)以下の国)や,低中所得国(LMICs,826~3255米ドル),高中所得国(UMICs,3256~10065米ドル)なども依然として多く,世界の富の偏りは21世紀に入りますます拡大しているという議論があります。年間所得3000米ドルを下回る最底辺層
(BOP層(Base of the Economic Pyramid),ビーオーピー)
は,世界に40億人いるとされています。工業化の進展や農業生産性の向上などの面でアジアに遅れをとっているサハラ以南のアフリカ諸国(サブサハラ=アフリカ)には,2000年代以降は政治の安定,資源価格の高騰,民間消費の拡大を背景に経済成長への兆しがあります。
発展途上国の多くは先進国(アメリカ合衆国)の主導す
る
IM
F
(国際通貨基金)
や
世界銀
行
の融資を受けて国内の開発を進めた結果,1980年代には中央アメリカや南アメリカ諸国で累積債務問題が深刻化し,借款を返済できない状況に陥ってしまいました。IMFは金融支援をするにあたり,発展途上国の財政政策や金融政策にまで首をつっこ
む
構造調
整
政策をとるようになりましたが,市場開放を進めた結果,伝統的な産業の破壊や貧富の差の拡大といった問題を生み出し,批判も浴びています。
また,先進国では少子高齢化が進み,国家による社会保障制度の存続が危ぶまれています。一方,新興国や発展途上国では若年人口が急増し
(
ユースバル
ジ
),そのことが社会を不安定化させる要因になっているとの指摘もあります
(注
4)
。
(注1)脇村孝平「「南北問題」再考-経済格差のグローバル・ヒストリー」『経済学雑誌』118巻3・4号,pp.27~47(http://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/04516281-118-3-4-27.pdf)。
(注2)ブランコ・ミラノヴィッチ,立木勝訳『大不平等――エレファントカーブが予測する未来』みすず書房,2017年。
(注3)20か国は,アメリカ合衆国,イギリス,フランス,ドイツ,日本,イタリア,カナダの7か国にEUの1地域を合わせたG7に,ロシアを加えたG8(ロシアは2014年からはG8の資格が停止されています)に加え
,
中華人民共和
国
,
イン
ド
,
ブラジ
ル
,
アルゼンチ
ン
,
メキシ
コ
,
南アフリ
カ
,
オーストラリ
ア
,
大韓民
国
,
インドネシ
ア
,
サウジアラビ
ア
,
トル
コ
で構成されています。
すでに1999年から20か国・地域の財務大臣・中央銀行総裁会議が開かれていましたが,2008年からは20か国・地域首脳会合(G20首脳会合)もあわせて開かれるようになったのです
(注4)世界銀行 'Youth Bulge: A Demographic Dividend or a Demographic Bomb in Developing Countries?'
http://blogs.worldbank.org/developmenttalk/youth-bulge-a-demographic-dividend-or-a-demographic-bomb-in-developing-countries
,2012
一方で,政治家や金融資本家など一部の富裕層が,1970年代から自国の税負担を逃れて莫大な資産を租税回避地(タックス=ヘイヴン,税負担を低く設定している地域・国)に移動させる傾向もみられます。タックス=ヘイヴンの一つであるパナマの法律事務所が関わった顧客データ
(
パナマ文
書
)が2016年にインターネット上に公開され国際的な批判を呼び,一部の政治家は辞任を余儀なくされました。
急速な経済のグローバル化に対して,地産地消(ちさんちしょう)などを訴え
る
反グローバリズ
ム
(ローカリズム)の運動を起こす人々も,先進国を中心に現れるようになっています。また,タイ王国における〈タクシン〉派と反〈タクシン〉派の争いのように
(注
)
,多国籍企業の誘致や外資の導入による開発の是非が,発展途上国における政治の争点となる事態も増えています。
(注)末廣昭『タイ―中進国の模索』岩波書店,2009年。
(2)
気候変動を初めとする地球環境問題が国際政治を左右するようになった
また,グローバル化によって地球上のあらゆる地域で経済活動が発展するようになると,国境を越える地球環境問題が喫緊の問題として認識されるようになりました。
1970年代に,地球を取り巻き紫外線を吸収する役割を持
つ
オゾン
層
が,冷蔵庫の冷媒や電子部品の洗浄剤に使われていたCFC(クロロフルオロカーボン)や,消火剤のハロンにより破壊されるメカニズムが明らかになっていました。紫外線の増加にともなう健康被害や,生態系への悪影響を防ぐため,1985年にはオゾン層の保護のためのウィーン条約,1987年にはオゾン層を破壊する物質に関するモントリオール議定書が締結されました。
化石燃料の排出物に含まれる有害物質が雨となって降り注
ぐ
酸性
雨
についても,1979年には長距離越境大気汚染条約(ECE条約)が締結され,各地で観測と対策が続けられています。
環境問題に関する国際連合の会議としては,1982年に国連環境計画管理理事会特別会合(ナイロビ会議)が開催されました。また,ブラジルのリオデジャネイロで1992年6月に開催された
,
地球サミッ
ト
(国連環境開発会議)
【本試験H17時期(1990年代初めかを問う)】
では,現在の世代だけではなく未来の世代のことも考えようという
「
持続可能な発
展
」という理念が主張され,各国首脳も参加する大規模な国際会議となりました。地球サミットでは,環境と開発に関するリオ宣言が採択され
,
気候変動枠組条
約
,生物多様性条約,森林原則声明と,リオ宣言に基づく持続可能な開発を実施するための自主的行動計画である「アジェンダ21」が採択されました。
リオ会議で採択された気候変動枠組条約に基づき,毎年気候変動枠組条約の締結国会議が開催されるようになり,その第3会会議(COP3,コップスリー,1997年)において,地球温暖化の原因物質とされる温室効果ガス(二酸化炭素など)の削減目標を明記し
た
京都議定
書
【H29共通テスト試行 時期(1932年ではない)】
【中央文H27記】
が採択されました。
京都議定書の定める期限が切れてしまったので,2016年にはその後継とな
る
パリ協
定
が発効しました。ちなみに,1人あたり排出量が世界トップであるにもかかわらず,2017年にアメリカ合衆国
は
パリ協
定
を離脱しています。
また
,
人口爆
発
や気候変動の進展により,水資源の確保をめぐる争い("水戦争")や食糧問題も深刻化すると予想されています。ただ,世界全体の食糧が不足しているというわけではなく,発展途上国の食糧が大量に先進国の畜産業向けの飼料として輸出され,発展途上国の人々に十分に分配されないといった,構造的な問題が背景にあるのです
(注
)
。
(注)ジャン=ジグレール(勝俣誠監訳,たかおまゆみ訳)『世界の半分が飢えるのはなぜ
?
―ジグレール教授がわが子に語る飢餓の真実』合同出版,2003年。
(2)
文化のグローバリズムが進む一方で,マイノリティの文化や先住民文化が再評価され,世界各地の政府や非政府組織によりグローバル化を推進する動きだけでなく,対抗する動きも起こされている
経済のグローバル化の進展に伴い文化のグローバル化も進みました。また,情報通信技術の発達により,誰でも手軽に文化を発信したり,共通の分野に関心のある人々がつながったりすることができるようになったことで,日本発の漫画やアニメなど
の
サブカルチャ
ー
が注目されるようになりました。
また,情報通信技術の発達により,多様な価値観が人々の目に直接ふれるようになったことで
,
マイノリティ集
団
(民族的なマイノリティやジェンダー=マイノリティ)や障害者の権利も注目されるようになっています。その一方で,伝統的な文化と,新しい価値観との間でどのように折り合いを付ければよいかということも,多くの地域で問題になっています。
マイノリティ(少数派)集団の中には,国境を超えて文化や宗教といった自分たちのアイデンティティを守ろうという動きも見られるようになり,国際連合や各国政府によって先住民の権利が保障される動きもみられるようになります
(注)
。
一方で,20世紀末から21世紀初頭にかけての世界では,従来のような「国民国家」を中心とする国際体制が少しずつ変化し,中華人民共和国やロシア連邦といった国内に多くの民族をかかえる広大な国家が台頭するようになっています。
特に冷戦後には各地で大国の利害や経済的利権のからむ民族紛争が多発し,その多くが国境を超える複雑な原因を抱え,難民や国内避難民の数も増加しています(2015年に史上最多の6000万人に)。また,奴隷は19世紀を通じて廃止されたものの,今なお奴隷制と実態の変わらな
い
このような問題に対し,国連は,人々の人間としての生活が保障されるべきであるという
「
人間の安全保
障
(ヒューマン=セキュリティ)」という考えを打ち出すようになりました。国連や国家に代わって
,
非政府組
織
(
NG
O
)
【早政H30】
によって,市民が直接的に世界レベルの問題解決に貢献しようとすることも可能になってきました。国際赤十字
(1917,1944,1963(国際赤十字赤新月社連盟として)にノーベル平和賞を受賞)
や
国境なき医師
団
(MSF,1999年にノーベル平和賞を受賞)
による紛争地域における医療活動や,地雷禁止国際キャンペーン
(1992に設立,1997にノーベル平和賞を受賞)
,核兵器廃絶国債キャンペーン
(2007設立。2017ノーベル平和賞を受賞)
も注目されています。2010年代後半にはインターネットを介した資金集めの手段としてクラウド=ファウンディングも盛んになります。また,国連のUNESCOは1997年以降
,
世界記憶遺
産
(世界の記憶)
【東京H29[3]問題文】
というプロジェクトを始め,人類が長期に渡り記憶して後世に伝える価値があるとされる記録物が選ばれるようになっていきました(清の科挙合格者掲示,ハリウッド映画,『アンネの日記』
【本試験H6史料で使用】
や
インド洋大津波(2004)
など)。
(注)たとえば1989年には、国際労働機関が「
先住民条約
」として知られる第169号条約を採択しています。土地を、単なる私的所有の対象としてではなく生存領域としてみなすという内容です(真鍋周三編著『ボリビアを知るための68章』明石書店、2006年、p.94。)。
(4)
科学技術の高度な発達とともに,「リスク社会」の危険性が意識され始めた
舞台はサイバー空間,ミクロの世界,宇宙空間へ
20世紀後半以降の科学技術の革新を,コンピュータ
【東京H16[3]「新しい出版の形態を可能とした技術」の名称を答える】
や原子力技術,特にコンピュータやICT技術,インターネットや再生可能エネルギー技術に注目して,「第n次産業革命(工業化)」(n≧3)と呼ぶことがあります。2016年にスイスで開催された第46回世界経済フォーラム(いわゆ
る
ダボス会
議
)では,第三次産業革命(工業化)をインターネットとICT技術の普及,第四次産業革命(工業化)を「極端な自動化,コネクティビティによる産業革新」として議論が展開されました。
ダボス会議のいう「第三次産業革命(工業化)」にあた
る
情報通信革
命
は1980年代以降急速に伸展し,大量の情報を瞬時に処理するソフトウェアや端末の開発が進んでいきました。複数のコンピュータ(電子計算機)のネットワークをTCP/IPという通信の方式によってつな
ぐ
インターネッ
ト
が実現しました。1991年には〈ティム・バーナーズ=リー〉(1955~)らによ
り
ワール
ド=
ワイ
ド=
ウェ
ブ
(
WWW
)が開発され,複数のテキスト同士をリンクする仕組みも整備されていきました。これにより,1990年代にかけて民間における利用も進み,現実的な空間における取引だけでな
く
サイバー空
間
上で瞬時に取引をすることもできるようになりました。国際間の取引の信用を高めるため,1988年にはバーゼルの国際決済銀行が民間銀行の自己資本比率に関するルール(
2001年にはGoogleが創業し「世界中の情報を整理し,世界中の人々がアクセスできて使えるようにすること」を使命に掲げます。
GPS
(全球測位システム)の民間への普及も進んでいます。
情報通信革命の成果をさらに進展させ,コンピューター上の仮想空間をつく
る
V
R
(ヴァーチャル=リアリティ)や,現実世界の機械とネットワークをリンクさせることで効率的な仕組みを生み出
す
Io
T
(アイ=オー=ティー),さらに人類の認知・学習能力を備えたコンピューター=プログラム
(
A
I
,
人工知
能
)の開発などが2010年代以降いっそう加速しています。すでに特化型の人工知能は,大量のデータ(ビッグデータ)を分析させ,意味のある情報を取り出しながら(データマイニング),個別の領域について自己学習をすることが可能になりつつあります。
新技術
を
ロボッ
ト
分野
(注
)
における技術革新と組み合わせることで,人間の身体器官や感覚器官を拡張させることで,障害者や高齢者の身体能力の回復や改善ができるのではないかとも期待されています。また
,
ナノテクノロジ
ー
(原子や分子の規模で物質をコントロールするための技術)
と組み合わせることで,微小な医療用ロボットを体内に送り込むことで手術を実施しようとする試みも研究されています。
(注)ロボットとは人間と同じ振る舞いをする機械のこと。
生物学の分野では1992年にアメリカ合衆国で癌の遺伝子治療が実施され,1996年にはイギリスでクローン羊ドリーが誕生しました。グローバル化は学問の国際的な研究にも影響し,2003年に人間のDNAの解読を目指し
た
ヒトゲノム計
画
が完了し,2007年に日本の〈山中伸弥〉(1962~)が皮膚から人工多能性幹(iPS)細胞を生成するなど,遺伝子工学も急速に発展しています。2010年以降はゲノムそのものを操作し,特定のDNA塩基配列に関係する遺伝子を取り替えるなど
の
ゲノム編
集
の研究も進んでいます。2010年にはアメリカ合衆国の研究者が,人工的に合成したゲノムから完全なバクテリアを作り出すことに成功しています
(注
1)
。
物理学の分野では,物質の最小単位クォークの性質や作用に関する研究が進み,スイスのCERN (セルン,欧州原子核研究機構) 研究所が2008年9月に世界最大の粒子加速器「大型ハドロン衝突型加速器」の稼働を開始しています。
その一方で,情報工学の分野では,ネットワーク上の著作権の問題や,個人情報の保護などの問題も浮上。監視技術の高度化により、かつて〈ジョージ=オーウェル〉(1903~1950)が小説『1984年』で想像したような国家による国民の統制もSFではになくなりつつあります。
また、社会全体がコンピューターのシステムに依存することで,システム
が
サイバー攻
撃
を受けた場合,社会全体の機能が停止してしまうのではないかという危険性も指摘されています。
従来のような特定の分野に限定された特化型人工知能の導入が進むと,従来の産業構造が転換していくのではないかとか,あらゆる分野について認知処理が可能な汎用型人工知能が開発された場合,人類に対して計り知れない影響が与えられるのではないかといった議論も〈レイ=カーツワイル〉(1942~)らにより提起されています(シンギュラリティ(技術的特異点))。
遺伝子工学の分野では,研究の進展によって病気や寿命の問題が解決される可能性が出てきており,「人間とは何か」「生命とは何か」といった根本的な倫理
(
生命倫
理
)を再確認する必要性が叫ばれています。
このように,科学技術や経済・社会制度が高度に複雑化したことで,政治家や一般市民が専門家の知見を検証することは困難となる一方,"近代化の副産物"としての予測不可能
な
リス
ク
が人類社会を覆うようになっています(注2)。
(注1)
http://science.sciencemag.org/content/329/5987/52
(注2)ドイツの社会学者〈ウルリッヒ=ベック〉は,このような社会を「リスク社会」(危険社会)と表現しました。
(5)
人類には多くの未解決問題が残されている
2000年にニューヨークで開催された国連ミレニアム・サミットで採択され
た
国連ミレニアム宣
言
で挙げられた2015年までに達成すべき課題(1. 極度の貧困と飢餓の撲滅,2. 普遍的初等教育の達成,3. ジェンダーの平等の推進と女性の地位向上,4.幼児死亡率の削減,5. 妊産婦の健康の改善,6. HIV/エイズ,マラリアその他疾病の蔓延防止,7. 環境の持続可能性の確保,8. 開発のためのグローバル・パートナーシップの推進)には改善されたものもありますが,課題は残りました。
そこで,2015年の国連サミットでは,持続可能な開発のための2030アジェンダが採択され,2016年には
1
7
項目の持続可能な開発目
標
(
SDG
s
)が発効しました。具体的には,1. 貧困の撲滅,2. 飢餓撲滅,食料安全保障,3. 健康・福祉,4. 万人への質の高い教育,生涯学習,5. ジェンダー平等,6. 水・衛生の利用可能性,7. エネルギーへのアクセス,8. 包摂的で持続可能な経済成長,雇用,9. 強靭なインフラ,工業化・イノベーション,10. 国内と国家間の不平等の是正,11. 持続可能な都市,12. 持続可能な消費と生産,13. 気候変動への対処,14. 海洋と海洋資源の保全・持続可能な利用,15. 陸域生態系,森林管理,沙漠化への対処,生物多様性,16. 平和で包摂的な社会の促進,17. 実施手段の強化と持続可能な開発のためのグローバル・パートナーシップの活性化です。
このリストに挙げられた項目は,まさにホモ=サピエンス(人類)が人種・民族・国民を越えて共同作業をしなければ解決できない問題ばかりといえます。
◯197
9
年~現在のアメリカ 中央アメリカ
中央アメリ
カ
...①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ
・
197
9
年~現在のアメリカ 中央アメリカ
現①
メキシコ
◆一党体制の間に積み上がった財政危機を、政府は新自由主義的な政策での解決目指す
制度革命党の一党体制に反発が起きる
メキシコ
は
制度革命
党
の一党支配の下,アメリカ合衆国との関係を維持しつつ,第三世界とも連携した独自の外交を進めており,ニカラグア内戦を戦うサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)を全面的に支持します。
しかし,深刻化した対外債務が1982年に明らかになるとメキシコ経済は危機的な状況に陥り,制度革命党の〈マドリ〉大統領(任1982~1988)の下で国際通貨基金(IMF)による政策への介入を認め,新自由主義的な政策で財政改革を進めました。
そのしわ寄せは国民生活に及んだものの,1992年の選挙でギリギリ勝った〈サリーナス〉(任1988~1994)の下でも新自由主義は続行されていきます。その代表例が,1992年に締結されたアメリカ合衆国・カナダと
の
北米自由貿易協
定
(
NAFT
A
)
【本試験H23キューバは加盟していない,H25】
です(1994年に発効)。
これに対しサパティスタ民族解放軍(メキシコ革命の農民指導者
〈
サパ
タ
〉(1879~1919)
【本試験H10スペインお呼びアメリカに対する独立運動の指導者ではない,シモン=ボリバルとのひっかけ】
が由来です)というゲリラ組織は「アメリカから安価なトウモロコシが流入すれば,メキシコ最南部チアパス州
(
マヤ
人
が多い)の貧しい農民の暮らしは破壊される」と,締結したメキシコに対して宣戦布告。サパティスタはまもなく鎮圧され,対話路線に転換しています。
1994年には制度革命党の〈セディージョ〉(任1994~2000)が大統領に就任しますが,1994年に通貨危機が勃発。1997年にはチアパス州のインディオ住民に対する虐殺も起きています。
一党体制が終結も,貧困・移民・麻薬問題が課題
2000年の選挙で国民行動党(PAN)の〈ケサーダ〉(任2000~2006)が大統領に終結し,70年余りの一党独裁体制がようやく幕を閉じました。1910年の〈マデロ〉大統領以来、初めて野党から選出された大統領でした。
しかし,チアパス州のゲリラ組織との和平交渉は難航し,国内の貧困問題も大きな課題として残されたまま。職を求め,メキシコからのアメリカ合衆国への合法・非合法の労働力の移動が増えると,アメリカ国内ではヒスパニック系(スペイン語を話す人々)を制限しようとする動きが起きます。
2017年に就任した実業家出身の
〈
トラン
プ
〉大統領(任2017~)はメキシコとの国境の壁建設を命じるなど,移民を制限する政策をとりました。〈トランプ〉大統領はSNSを通した過激な発言で注目を集め,その政策は自国第一主義ともいわれます。
2006年に大統領に就任した国民行動党の〈カルデロン〉(任2006~12)政権以降は,アメリカ輸出向けの麻薬組織を撲滅するための
"
麻薬戦
争
"が深刻化しています。
・
197
9
年~現在のアメリカ 中央アメリカ
現②
グアテマラ
,③
ベリーズ
,④
エルサルバドル
,⑤
ホンジュラス
,⑥
ニカラグア
,⑦
コスタリカ
アメリカ合衆国にとって中央アメリカ諸国が社会主義化することは,どうにかして避けたい事態でした。
④
エルサルバド
ル
,
⑤
ホンジュラ
ス
,
⑥
ニカラグ
ア
,
②
グアテマ
ラ
,
⑦
コスタリ
カ
の5か国は1961年には中米共同市場が発足させて地域の経済協力を進め,アメリカ合衆国の資本が投下されて工業化が推進されていきました。
しかし,その過程で中央アメリカの経済の中心を占めるようになったエルサルバドルと,隣国ホンジュラスとの対立が生まれます。また,エルサルバドルからの移民のホンジュラスへの流入も問題となっていました。
そんな中,1970年にホンジュラスで農地改革が行われ,ホンジュラスからエルサルバドル移民が国外退去させられるのと同時期に,FIFAワールドカップの北中米カリブ予選が開催され,ホンジュラスでの対エルサルバドル戦で観客が暴徒化し死傷者が発生し,戦争へとエスカレートしました
(
サッカー戦
争
)。
サッカー戦争は約100時間で終わりましたが,戦後のエルサルバドルはホンジュラスからの移民の大量退去の影響から失業者にあふれ,大土地所有者への反発から左派の活動も活発化しました。1972年の大統領選挙に反対する左派ゲリラの活動が高まると,軍部と右派が結びついて全国で暴力的な行為がはびこり,1980年に国民の精神的な中心だった〈ロメロ〉大司教が暗殺されると,エルサルバドルは本格的な内戦に突入します
(
エルサルバドル内
戦
,1980~1992)。アメリカ合衆国の〈レーガン〉政権はエルサルバドルが社会主義化することを恐れて政府側を支援しました。
1979年
に
ニカラグア革
命
が起き
,
サンディニスタ民族解放戦
線
(FSLN)が,〈ソモサ〉による親米独裁政権を打倒しました。しかし,アメリカ合衆国はイランと裏取引して得た資金を流用してまで,反政府の民
兵
コント
ラ
を軍事支援し,サンディニスタ政権に対抗させます(この事実は1986年に発覚
し
イラ
ン=
コントラ事
件
としてスキャンダルとなりました)。サンディニスタ政権はエルサルバドル内戦にも関与し,エルサルバドルの反政府ゲリラを支援するなど,中央アメリカにおける内戦は国境を超える規模に発展していったのです。
1990年
の
ニカラグ
ア
選挙においては,アメリカ合衆国の支援する〈チャモロ〉が勝ち,サンディニスタの〈オルテガ〉大統領は敗北しました。しかし,反米の声は21世紀以降高まり,
〈
オルテ
ガ
〉(任1985~90,2007~)は2006年に再選を果たしています。
一
方
エルサルバド
ル
では,1992年に国際連合による和平が実現して,PKO(国連平和維持活動「国際連合エルサルバドル監視団」)が派遣されることで,エルサルバドル内戦は終結しました。1994年に総選挙が行われると,反政府ゲリラであったFMLNは第2党となり,政府側であった国民協和同盟の〈カルデロン〉(任1994~99)が大統領に就任し,アメリカと友好関係を結ぶ政策をとっています(2001年に通貨に米ドルを採用)。しかし,2009年にはFMLNの〈フネス〉が大統領に就任して政権交代を実現しました。
グアテマ
ラ
では1960年から続いていた典型的な米ソの代理戦争であ
る
グアテマラ内
戦
が1996年に終結しました。この間,軍事政権による人権侵害を実名で国際社会に告発した,マヤ系のインディオ女性〈リゴベルタ=メンチュウ〉は1992年にノーベル平和賞を受賞しています。
・
197
9
年~現在のアメリカ 中央アメリカ
現⑧
パナマ
パナマの〈トリホス〉将軍の軍事政権(任1968~1981)は,アメリカ合衆国の〈カーター大統領〉(任1977~81)との新運河条約(1977)に基づき,1979年に運河地帯の主権を回復させました。1981年に〈トリホス〉が死去すると,〈ノリエガ〉(1934~2017)が最高司令官として実権を握りました。彼が,南アメリカのコロンビア
(⇒1979~現在の南アメリカ コロンビア)
からアメリカ合衆国に麻薬を密輸するルートに関与していたことから,アメリカ合衆国の〈ブッシュ〉大統領は1989年
に
パナ
マ
に軍事侵攻し,〈ノリエガ〉を逮捕しました
(
パナマ侵
攻
)。その後1999年にアメリカ合衆国は旧運河地帯から完全に撤退しています。
2016年には,パナマもその一つであるタックス=ヘイヴンでの企業設立を手がける法律事務所(モサック=フォンセカ)から,世界各地の現旧指導者(イギリスの〈キェメロン〉首相も),富裕層,多国籍企業の役員を含む内部文書が流出しました。タックス=ヘイヴンへの資金の移動をめぐり,各国ではこの「パナマ文書」が問題化し,アイスランドの〈グンロイグソン〉首相(任2013~16)のように辞任に追い込まれた例も出ました。
・
197
9
年~現在のアメリカ 中央アメリカ
現③
ベリーズ
ベリー
ズ
は1981年にイギリスから独立し,イギリスの〈エリザベス2世〉を王とする立憲君主国となりました。首都はベルモパン。
○197
9
年~現在のアメリカ カリブ海
カリブ海諸国・地
域
...①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島
◆
イギリスからの独立が続く中,アメリカ合衆国からの介入も続く
1979年に,
⑫
セントルシ
ア
,
⑬
セントビンセント及びグレナディーン諸
島
がイギリスから独立(いずれもイギリス連邦に加盟)。
1981年には
⑧
アンティグ
ア=
バーブー
ダ
がイギリスから独立(イギリス連邦に加盟)。2017年にハリケーン・イルマにより国土が壊滅的な被害を受けています。
1983年には
⑦
セントクリストファ
ー=
ネイビ
ス
がイギリスから独立しています(イギリス連邦に加盟)。
いずれもかつてはサトウキビのプランテーションに依存していたためアフリカ系の民族が多く分布し,経済的には海外からの援助や観光に依存しています。
カリブ海の諸国・地域に対するアメリカ合衆国の介入は,この時期に入っても続きます。
⑮
グレナ
ダ
では1974年の独立後にクーデタでソ連・キューバの支援を受けた左派政権が樹立イされていましたが,その後起きた政変を機に1983年にアメリカ合衆国の〈レーガン〉大統領が軍事侵攻
(
グレナ
ダ
【東京H28[1]指定語句
】
侵
攻
)し,親米政権を樹立しました
(これを受け1984年のロサンゼルス五輪にはソ連ほか東側諸国がボイコットしています)
。
1994年にはカリブ海諸国の地域協力機構とし
て
カリブ諸国連
合
(ACS)が結成されました。加盟国は⑧アンティグア・バーブーダ,②ジャマイカ,③バハマ,⑭バルバドス,①キューバ,⑩ドミニカ国,⑤ドミニカ共和国,⑮グレナダ,⑦セントクリストファー・ネーヴィス,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑯トリニダード・トバゴ,④ハイチ。以上のカリブ海諸国のほか,中央アメリカのメキシコ,ベリーズ,コスタリカ,エルサルバドル,ホンジュラス,ニカラグア,パナマ,グアテマラと,南アメリカのコロンビア,ガイアナ,スリナム,ベネズエラから構成されています。
アメリカ合衆国は1992年に
①
キュー
バ
への経済制裁を強化しました。困ったキューバ政府は経済開放政策へと転換。2008年には〈フィデル=カストロ〉(1926~2016)が引退すると,弟の〈ラウル=カストロ〉(1931~)が国家元首・首相に就任しました。2015年には54年ぶりに,アメリカ合衆国との国交が回復されました
(
キューバの雪解
け
)。また,アメリカ合衆国へのメキシコや中央アメリカ,カリブ海諸国(ドミニカ共和国が多い)からの移民も増加しています。
⑤
プエルトリ
コ
は自治領(コモンウェルス)という位置付けで,アメリカ合衆国の州に昇格しようとするグループも国内に存在します。
・
197
9
年~現在のアメリカ カリブ海
現③
バハマ
バハ
マ
は,1973年の独立から進歩自由党の〈リンデン=ピンドリング〉首相(任1973~1992)が長期に渡って政権を握っていましたが,1992年以降は自由国民運動,2002年には進歩自由党,2007年に自由国民運動,2012年に自由国民運動が政権を獲得するなど,選挙による政権交代が続いています。
なお,イギリスと間の土地租借条約(1940)によって,アメリカ合衆国はグランド・バハマ島,エルセーラ島及びサン・サルバドール島に海軍基地を保有しています
(注
)
。
(注)「バハマ概況」在ジャマイカ日本国大使館(http://www.jamaica.emb-japan.go.jp/files/000253957.pdf)。
・
197
9
年~現在のアメリカ カリブ海
現④
ハイチ
ハイ
チ
(ハイティ)は1986年に独裁的な〈デュバリエ〉政権(任1971~86)が反乱により倒れた後,政情不安定になっていました。1990年に国際連合の選挙監視団の下で実施された選挙により1991年に
〈
アリスティ
ド
〉(任1991,93~94,94~96,2001~2004)が大統領に就任しましたが,同年の軍事クーデタにより〈アリスティド〉大統領はアメリカ合衆国に亡命。1993年にアメリカ合衆国は国連のミッションの一員としてハイチの内政に介入しましたが,軍事政権が退陣を拒否したため,1994年の安保理決議に基づきアメリカ軍を主力とする多国籍軍がハイチに侵攻し,〈アリスティド〉政権に戻りました。
しかし,2010年にマグニチュード7.0の巨大地震があり,死者30万人という空前の規模の犠牲者を出すと,国連や各国による復興支援活動が実施されました
。
・
197
9
年~現在のアメリカ カリブ海
現⑥
アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島
アメリカ
領
ヴァージン諸島は,1954年の自治法によりアメリカ合衆国の自治的・未編入領域となっています。
イギリス
領
ヴァージン諸島は,1967年に自治を獲得。議会の多数党の党首が,イギリス王の代理人(総督)により任命される形をとる,イギリスの海外領土の一つです。
観光業と租税回避地(タックス=ヘイヴン)として急成長を遂げています。
イギリス領アンギラ
島
は,1976年に自治権が付与され,1980年にセントクリストファー=ネイビスから分離されました。議会の多数党の党首が,イギリス王の代理人(総督)により任命される形をとる,イギリスの海外領土の一つです。
・
195
3
年
~
197
9
年のアメリカ カリブ海
現⑦
セントクリストファ
ー=
ネイビス
セントクリストファー=ネイビスは1983年にイギリス連邦内の立憲君主制国家として独立しています。
・
197
9
年~現在のアメリカ カリブ海
現⑪
フランス領マルティニーク島
マルティニーク島は〈エメ=セゼール〉の主導下に,フランスの海外県となっており,1958年に旗揚げされたマルティニーク進歩党が「自治」をスローガンに,同島に影響力を持ち続けています。
〈エメ=セゼール〉は2008年に死去。
世界同時不況(2008年)の影響を受け,2009年には島の経済に影響力を及ぼすフランス系と,それに比較して経済的に貧しい黒人系のルーツを持つ人々との対立も背景に,大規模なゼネ=ストが勃発しています。
○197
9
年~現在のアメリカ 南アメリカ
南アメリ
カ
...①ブラジル,②パラグアイ,③ウルグアイ,④アルゼンチン,⑤チリ,⑥ボリビア,⑦ペルー,⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネズエラ,⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ
・
197
9
年~現在の南アメリカ
現①
ブラジル
ブラジ
ル
では1964年から軍事政権による支配が続いており,外資の導入による経済発展が実を結んでいました。しかし,第一次石油危機後には成長率がにぶり,インフレが進行していました。先進国に対する債務も積み上がり
(
累積対外債
務
の問題),国内における貧富の差の拡大も問題でした。また,軍事政権の成立以降アマゾンの乱開発がエスカレートし,熱帯雨林の大規模な伐採や沙漠化が進行していました。
1980年代後半には民主化の機運が高まり,1985年には21年ぶりに文民大統領が就任しました
(
民政移
管
)。周辺諸国との関係の改善も図られ,1986年にはアルゼンチンとウルグアイとの間に共同市場を設けることが取り決められました。1989年9月にはアマゾン川流域の諸国(ベネズエラ,コロンビア,エクアドル,ブラジル,ボリビア,ガイアナ,スリナム)によっ
て
アマゾン条
約
が締結され,乱開発を抑制するための施策が決められました。
ブラジルでは,軍事政権がたおれ民主化が進んだものの,当面は軍事政権時代の外国に対する積み上がった債務
(
累積債
務
)と激化するインフレーションの収束に追われ,社会政策が追いつかずに大都市にはストリート=チルドレンがあふれ,不良住宅街(スラム)が広がるなど,貧富の差は拡大していきました。
1989年にはブラジルの〈コーロル〉大統領(任1990~92)が新自由主義的な政策をとりました。1991年にはアルゼンチン,ウルグアイ,パラグアイとの間に,将来的な関税の撤廃や自由化を進める南米共同市場(MERCOSUR
,
メルコスー
ル
)条約が締結されています。しかしインフレーションは進行し,経済成長率もマイナスを記録するなどし,1992年には辞任。
代わって92年に〈フランコ〉(任1992~95)が大統領に就きましたが,ハイパー=インフレは押さえられず,貧富の差も社会問題化しました。
94年に就任した〈カルドーゾ〉大統領(任1995~2003)も"ブラジル全土のために働く"をキャッチコピーとして新自由主義的な政策をとり,1995年にはアルゼンチン,ウルグアイ,パラグアイと南米南部共同市場
(
メルコスー
ル
)が結成されました。しかし,1998~99年
に
アジア通貨危
機
の影響を受けて,ブラジル通貨危機が起き,経済が混乱。こうした動きに対し,2002年に最貧困層出身の〈ルーラ〉(任2003~2011)が大統領になると,"皆のための国"というキャッチコピーの下,社会民主主義的な政策をとりながら経済成長を達成し2007年からは2期目を務め,2000年代前半には新興
国
BRIC
s
(
注
1
)
の一員として認められるようになりました。
2011年にはブラジル初でブルガリア系移民の2世の女性大統領〈ルセフ〉(任2011~)が就任し,"豊かな国と貧困のない国"が掲げられました
(
注
2
)
。2014年にはサッカーW杯(ワールド=カップ),2016年にはリオ=デ=ジャネイロ五輪の開催地となり,2022年には建国200年を控えています。
(注1)BRICsとはアメリカ合衆国の証券会社ゴールドマン=サックスが2003年に発表したレポートによる新興国をまとめた造語で,当初はブラジル,ロシア,インド,中華人民共和国を指しました。
(注2)堀坂浩太郎『ブラジル―跳躍の奇跡』岩波書店,2012,p.19。
・
197
9
年~現在の南アメリカ
現②
パラグアイ
パラグアイでは1954年以降,ブラジルの支援を受けた軍事政権の長期支配がつづいました。コロラド党の〈ストロエスネル〉(任1954~1989)は反共産主義・親アメリカ合衆国の政策をとり存続しますが,冷戦が崩壊するとアメリカ合衆国からも民主化の圧力を受け,クーデタにより失脚しました。
暫定的な軍事政権を経て,1993年に文民の大統領が就任しましたが,その後も軍の影響力は依然として残り,クーデタ未遂など不安定な政権が続いています。
2008年には中道左派の〈ルゴ〉(任2008~12)率いる野党連合「変革のための愛国同盟」が,貧困層向けの政策を掲げ,61年ぶりに政権交代を実現させました。しかし2012年に〈ルゴ〉大統領は弾劾され,副大統領が大統領に昇格。その後,2013年の選挙でコロラド党の〈カルテス〉(任2013~)が勝利し,外資を導入した経済発展と貧困層向けの政策を推進しています。
・
197
9
年~現在の南アメリカ
現③
ウルグアイ
ウルグアイは左派ゲリラの鎮圧作戦で軍部の影響力が高まり,1973年のクーデタで軍事政権となっていました。軍事政権では新自由主義的な経済政策がとられましたが,強権的な支配に対する国民の不満は高まり,1985年に民政に移管されました。
ウルグアイは1995年に発足する南米南部共同市場に加盟し,アルゼンチン,プラジル,パラグアイとともに域内の関税撤廃や域外共通関税を目指すことになりました。2005年にはウルグアイ初の左派政権が誕生し,現在に至ります。元左派ゲリラの〈ホセ=ムヒカ〉(任2010~15)は,"世界で最も貧しい大統領"として知られています。
・
197
9
年~現在の南アメリカ
現④
アルゼンチン
アルゼンチ
ン
では1976年~83年の間,親米の軍事政権が実権を握ります。
陸軍,海軍,空軍の総司令官は軍事評議会を形成し,〈ビデラ〉陸軍総司令官(任1976~81)が大統領に就任しました。〈ビデラ〉は左派勢力を弾圧し,官僚主導で市場経済を重視した工業化を進めました。しかし,外国製品との競争によって国内産業が打撃を受け,インフレが進み失業率も上昇,累積債務も増大する状況になると〈ビデラ〉は1981年に退陣し,〈ガルチェリ〉陸軍総司令官(任1981~82)が後を継ぎました。
アルゼンチン
【本試験H31ブラジルではない】
の軍事政権は高まる国民の不満を国外に"ガス抜き"させようと,1982年にイギリスが1833年以来占領していたマルビナス(英語名はフォークランド)諸島
【本試験H31】
を占領。アルゼンチン人の愛国心を利用して,難局を乗り切ろうとしました。こうし
て
イギリ
ス
【本試験H27ポルトガルではない,本試験H31】
との間に始まったの
が
フォークラン
ド(
マルビナ
ス)
紛
争
【東京H28[1]指定語句】
【本試験H27】
です
(日本はConflictを英訳して紛争ということが多いですが,国家間の戦争です)
。しかし軍部の誤算はイギリスの〈サッチャー〉政権が大量の軍を投入し,本気でこれを奪回しようとしたことでした。2ヶ月足らずでアルゼンチン側の敗北に終わり,戦後には国民の不満も高まり〈ガルティエリ〉は辞任。後任の〈ビニョーネ〉は1983年に民政移管に向けた大統領選を実施すると,ペロニスタ党を押さえて急進党〈アルフォンシン〉(任1983~89)が過半数の支持で当選しました。
〈アルフォンシン〉政権は軍事政権時代の指導者に対する弾劾
(〈ビデラ〉元大統領を終身刑としました)
や,1985年に民政移管していたブラジルとの経済統合に向けた話し合いなどに尽力し,累積債務とハイパー=インフレという"後始末"に追われますが
,
新自由主
義
的な経済政策が失敗して退陣。アルゼンチンの政権としては初めて,任期満了前に平和的に次の政権に交替しました。次の〈メネム〉大統領はハイパー=インフレの収束に追われ,電力・ガス・鉄道などの民営化に踏み切り,通貨改革によって物価の安定化に成功しました
(1989年に4923%だった消費者物価は,1991年には84%にまで低下)
。さら
に
南米南部共同市
場
(メルコスール)の設立に向けた動きや,核不拡散条約への加入(1995年)も行ったほか,アメリカ合衆国を中心とする外資を積極的に導入していきます。
しかし2001年の金融危機をきっかけに暴動も発生し,2003年には〈キルチネル〉大統領(任2003~2007)が通貨のペソ切り下げによって経済成長を実現しました。2007年にはその夫人〈フェルナンデス〉が大統領に就任しました。
・
197
9
年~現在の南アメリカ
現⑤
チリ
チリでは左派政権が軍事クーデタで倒され軍事政権が続いたが,近年は政権交代が安定化している
チ
リ
では,1969年に社会党と共産党が中心となって人民連合が形成されました。人民連合は,チリが帝国主義的な外国の勢力によって従属させられているとし,社会主義国家の建設を主張。
〈
アジェン
デ
〉
(アイェンデ,1908~1973)
【東京H24[3]】
【本試験H17時期(1960年代ではない)・地域,本試験H22】
【追H9フィリピン,インド,中国ではない】
【セA H30】
が選挙で指導者に選ばれ,1970年に大統領に就任しました。ただちに主要産業や銀行の国有化や,徹底した農地改革を進めていきました。特に1971年にはアメリカ合衆国系
の
銅
山が国有化されます。
しかし,社会主義的な政策はアメリカ合衆国ににらまれることとなり,CIA(中央情報局)の支援する軍人
〈
ピノチェ
ト
〉が1973年にクーデタ
【本試験H22】
を起こし,9月11日に〈アジェンデ〉大統領は銃殺されました。2001年の同時多発テロの9.11とは別に,この出来事を"ラテンアメリカの9.11"ということがあります。
〈ピノチェト〉はただちに国会と政党活動を禁止し,人民連合を解散させました。代わって新自由主義的な経済学者〈フリードマン〉の学説を教科書通り実行にうつし,国が経済に関わって調整するのではなく,全面的に市場(しじょう)メカニズムを信頼する経済政策をとりました。直後には経済成長に貢献し"チリの奇跡"とうたわれましたが,国内の製造業が破壊されるとともに外国に対する債務が累積していきます。
一方で〈ピノチェト〉軍事政権に対し民主化を求める運動も活発化し,1988年に国民投票で不信任の決議が多数となると,1989年に民政に移管するために大統領選挙が行われ,キリスト教民主党の〈エイルウィン〉大統領(任1990~94)が就任し,次の〈フレイ〉政権(任1994~2000)とともに新自由主義的な経済政策を続けました。しかし,2000年には社会党政権への揺り戻しが起き(〈ラゴス〉政権(任2000~06)),次の〈バチェレ〉(任2006~10)は中道左派の「民主主義のための政党」(コンセルタシオン)に支持され,チリ初の女性大統領として女性の権利拡大や社会保障改革を進めるとともに,経済成長を維持しました。2010年には中道右派の〈ピニェラ〉(任2010~14)政権,2014年には中道左派の〈バチェレ〉(任2014~18)が再選,2018年に〈ピニェラ〉(任2018~)が返り咲くなど,政権交代が続いています。
○197
9
年~現在のオセアニア ポリネシア
ポリネシ
ア
...①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島,②フランス領ポリネシア,③クック諸島,④ニウエ,⑤ニュージーランド,⑥トンガ,⑦アメリカ領サモア,サモア,⑧ニュージーランド領トケラウ,⑨ツバル,⑩アメリカ合衆国のハワイ
・
197
9
年~現在のオセアニア ポリネシア
現①
チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島
ポリネシアの最東端の
①
イースター
島
(ポリネシア語ではラパ=ヌイ)は,1888年以
来
チ
リ
領です。モアイ像が世界文化遺産となっており観光客でにぎわいますが,近年では住民による自治を求める運動もあります。1995年にはモアイ像などのラパ=ヌイ文化が,「ラパ=ヌイ国立公園」としてユネスコの世界文化遺産に登録されました。
2007年の改憲ではフェルナンデス諸島とともに,チリの「特別地域」に指定されています。
①
ピトケア
ン
諸島はイギリスの海外領土で,18世紀末にイギリス海軍の船舶(バウンティ号)で艦長に対する反乱を起こした人々の子孫がピトケアン島に暮らしています。
・
197
9
年~現在のオセアニア ポリネシア
現②
フランス領ポリネシア
西経120~150度付近の広範囲に広がる島々
(注
)
は,
②
フランス領ポリネシ
ア
として,フランスの海外領邦として自治権が認められています。このうちトゥアモトゥ諸島のムルロア環礁などでは,1996年までフランスによる核実験が実施され,国際的な非難を浴びています。
(注)ソシエテ諸島(タヒチ島など),オーストラル諸島(トゥブアイ諸島など),トゥアモトゥ諸島(ムルロア環礁など),ガンビエ諸島,マルキーズ(マルケサス)諸島により構成されています。
・
197
9
年~現在のオセアニア ポリネシア
現③
クック諸島
③
クック諸
島
は,1888年以降イギリスに,1901年以降
は
ニュージーラン
ド
により支配を受けていました。1946年には立法評議会が設けられ,1964年にニュージーランド国会によって憲法が制定されると,翌1965年に自治権を獲得し,ニュージーランドとの自由連合を形成しました
。
自由連
合
というのは,防衛と一部の外交をニュージーランドに担当してもらう国家関係のことです。しかし,1973年にはクック諸島がニュージーランドの合意を得ずに独立する権利が認められ,2001年にはクック諸島は「自由連合」の関係を終わらせて,独立国家
「
クック諸
島
」となりました。
・
197
9
年~現在のオセアニア ポリネシア
現④
ニウエ
現
④
ニウ
エ
は,クック諸島の一部として1901年以
降
ニュージーラン
ド
により支配を受けていました。しかし,1960年にはニウエ議会が設けられ,1974年には自治権を獲得し,ニュージーランド
と
自由連
合
の関係を結びました。イギリスの〈エリザベス〉女王を元首とする立憲君主制をとっています。
クック諸島もニウエも国土が狭く,ニュージーランドへの出稼ぎ労働者も多く,援助や海外からの送金により経済を成り立たせようとしています。
・
197
9
年~現在のオセアニア ポリネシア
現⑤
ニュージーランド
⑤
ニュージーラン
ド
は,イギリスとの経済関係を維持し福祉国家を建設しますが,1973年にイギリスがECに加盟したことで,ニュージーランドからイギリスへの農産物輸出は不振となりました。
1984年に労働党の
〈
ロン
ギ
〉(任1984~89)が首相に就任すると,新自由主義的な政策(国営企業の民営化)や大胆な規制緩和を行い,成果を挙げました。1987年にはニュージーランド非核地域・軍縮・軍備管理法を制定しています。
・
197
9
年~現在のオセアニア ポリネシア
現⑥
トンガ
⑥トンガ
の
トンガ王
国
は,1970年にイギリスの保護国から独立し,イギリス連邦に加盟しました。〈トゥポウ4世〉(位1965~2006)の長期にわたる在位を経て,〈トゥポウ5世〉(位2006~2012),〈トゥポウ6世〉(位2012~)に引き継がれています。国王が強い権力を持つ国政に対し,2000年代には反政府運動も起き,2006年には史上初の平民代表の首相が就任しています。
なお,1987年以来,日本の援助によりカボチャ栽培が始まり,現在では日本を主要輸出先として盛んに栽培されています
(注
)
。
(注)国立民族学博物館 森本利恵「「コラム」:日本かぼちゃのトンガ流通 誰の口に入る?トンガ産カボチャの行方」http://www.minpaku.ac.jp/research/education/university/student/project/gourmet/column/morimoto
・
197
9
年~現在のオセアニア ポリネシア
現⑦
サモア,アメリカ領サモア
⑦サモアの西部は1945年に国際連合の信託統治領となっていましたが,1965年に西サモアとして独立。1970年にイギリス連邦に加盟しました。1997年に
は
サモア独立
国
と改名しています。ニュージーランドと友好関係を結び,軍事を委託しています。一方,サモア独立国の南東
は
アメリカ領サモ
ア
で,1967年には自治政府ができていますが,正式な自治法は制定されていません。(1889年にサモア王国,アメリカ,ドイツ,イギリスの中立共同管理地域→1899年ドイツ領西サモア・アメリカ領東サモアに分割→1919年西サモアはニュージーランドの委任統治→1945年に西サモアは国際連合の信託統治→1962年西サモア独立→1967年東サモアに自治政府→1997年西サモアがサモアに改称)。
・
197
9
年~現在のオセアニア ポリネシア
現⑧
ニュージーランド領トケラウ
⑧ニュージーランド
領
トケラ
ウ
は1948年以降ニュージーランド領となっています。ニュージーランドとの自由連合を結ぶ動きもあります。
・
197
9
年~現在のオセアニア ポリネシア
現⑨
ツバル
⑨
ツバ
ル
は,1892年にギルバート=エリス諸島としてイギリスの保護領になり,1915年には植民地となっていました。
しかし,1975年にギルバート諸島(のち
の
キリバス共和
国
の一部)と分離し
,
ツバ
ル
と改称し,1978年に独立しました。イギリスの〈エリザベス2世〉を元首とする立憲君主制であり,島には総督が派遣されています。ツバルを構成する8つの主な島々には首長がおり,そのうちのフォンガファレ島に政府などの首都機能が集まっています。資源に乏しいため,財源の多くは海外からの援助,ツバルの経済水域での入漁料と外国漁船への出稼ぎ船員からの海外送金に依存しています。2000年には国連に加盟し
,
地球温暖化にともなう海面上
昇
の恐れを争点に,国際社会に二酸化炭素排出削減などを訴える積極的な外交活動をしています。
1998年からは日本のNGOツバルオーバービューがツバルでの支援活動を行っています
。
・
197
9
年~現在のオセアニア ポリネシア
現⑩
アメリカ合衆国 ハワイ
⑩
ハワ
イ
は,1970年代以降,日本人のパッケージ・ツアー客が増加し,リゾート開発が進む一方でハワイの伝統文化の変容が加速していきました。
○197
9
年~現在のオセアニア オーストラリア
白豪主義から,多文化主義のオーストラリアへ
オーストラリアは先住民や白人ではない人々に対する差別的な政策
(
白豪主
義
)を転換し,1970年代以降はアジア系の移民や世界各地の難民を受け入れ
,
多文化主
義
(マルチ=カルチュラリズム)の国づくりを推進していきました。
オーストラリアでは1983年から1996年まで労働党政権が続きました。
1973年にはシドニーに特徴的なデザインで知られるオペラハウスが完成しています(◆世界文化遺産「シドニーのオペラハウス」,2007。デンマーク人〈ヨーン=ウツソン〉(1918~2008)の作品)。
1993年は
「
世界先住民の
年
」とされ,オーストラリアでは先住民アボリジナルの権利回復が推進されていきます。
その後,自由党の〈ハワード〉政権(任1996~2004)は親米政策をとり,新自由主義的な経済政策をとりました。その後,2007年~2013年までは労働党政権に戻り,〈ラッド〉首相(任2007~10,13)は2008年に先住民の児童(いわゆる"盗まれた世代")を強制収容所に送ったかつての政策(1869~1969)について謝罪する演説を公式に行っています。2013年からは自由党が政権を担当しています。
○197
9
年~現在のオセアニア メラネシア
メラネシ
ア
...
①
フィジ
ー
,②フランス領のニューカレドニア,③バヌアツ,④ソロモン諸島,⑤パプアニューギニア
・
197
9
年~現在のオセアニア メラネシア
現①
フィジー
1970年にイギリスから独立した
①
フィジ
ー
では,メラネシア系
の
フィジー
人
が過半数を占めますが,1879年にサトウキビのプランテーションにおける導入が始まっ
た
インド
系
の移民の子孫も4割弱の人口を占めており,両者の政治的な対立が生じました。
1987年にインド系の閣僚が半数を占める連立政権ができると,軍によるクーデタが起きてイギリス連邦から離脱し,フィジー共和国となりました。
しかし1998年にはイギリス連邦に再加盟し国名をフィジ
ー
諸
島
共和国に変更。インド系とフィジー系の国民の融和が試みられ,1999年にはインド系の首相が就任しました。しかし2000年にフィジー系の武装グループが国会を占拠し非常事態宣言が出され,暫定政府を経て2001年の占拠でフィジー系の〈ガラセ〉(暫定首相任2000~2001,首相任2001~2006)が首相に就任しました。
〈ガラセ〉はフィジー系とインド系の対立を和らげようとしましたが,2006年には国会占拠事件をめぐり強硬派でフィジー系の〈バイニマラマ〉軍司令官(首相任2007~)が無血クーデタを起こし,2007年に暫定政権を樹立し,総選挙を実施しないまま実権を握り続けました。2009年にイギリス連邦の資格停止,2011年に国名はフィジー共和国に戻されています。
その後,2012年に〈バイニマラマ〉は態度を軟化させ,2013年には新憲法を公布しました。2014年の総選挙ではフィジーファースト(第一)党を率いる〈バイニマラマ〉首相が再任されましたが,閣僚にはインド系や混血の政治家も参加するようになっています。
・
197
9
年~現在のオセアニア メラネシア
現②
フランス領ニューカレドニ
ア
ニューカレドニ
ア
は1998年のフランスとの協定で自治を行った後,独立を問う国民投票が行われることになりました。
・
197
9
年~現在のオセアニア メラネシア
現③
バヌアツ
バヌアツは
,
英仏共同統治領ニューヘブリディーズ諸
島
として,イギリスとフランスの共同統治下であったため,イギリス系(派;英語話者)住民とフランス系(派;フランス語話者)住民の対立が長く続いていました。
結局,1980年にイギリス連邦内の共和国として独立することに。
首相に就任したのはメラネシア社会主義を掲げる〈ウォルター=リニ〉(任1980~1991)でした。彼はソ連の支援を受け,西側諸国の対立していたリビアとも国交を築き,核実験への反対,ニューカレドニア独立運動の支持など,独自色を強めます。しかし1991年にソ連の権威の失墜を背景に,解任されました。
主力産業は観光とコプラの生産で,国家財政は海外援助に依存しています。2015年にはサイクロン・パムにより大きな被害を受けています。
・
197
9
年~現在のオセアニア メラネシア
現④
ソロモン諸島
1976年に自治を獲得していたソロモン諸島は,1978年にイギリス連邦内の立憲君主国として独立しました。元首はイギリス国王です。
1997年の総選挙実施後,1998年にはガダルカナル島の民族グループがと隣の島であるマライタ島民族グループとの抗争が激化。しかし,ソロモン諸島には軍隊がありません
(
軍隊を有さない国
家
)。
2000年の和平締結後,国際選挙監視団の下で総選挙がおこなわれましたが,秩序回復が困難となったため,オーストラリアとニュージーランドが太平洋諸島フォーラム(PIF)加盟国の警察・軍隊をソロモン地域支援ミッション(RAMSI)として派遣。2006年の総選挙後も政情は混乱し,短命な政権が続いています。
・
197
9
年~現在のオセアニア メラネシア
現⑤
パプアニューギニア
1975年にパプアニューギニ
ア
独立
国
として独立。イギリス連邦内の立憲君主国であり,元首はイギリス国王です。
1980年代にはパプアニューギニア北東にあ
る
ブーゲンビル島で分離独立運
動
が勃発。この島にある銅山の利権をオーストラリアが保有していることを背景としています。1988年以来,ブーゲンビル革命軍の武装闘争が続きますが,1998年にはオーストラリアとニュージーランドが仲介して,政府と停戦合意。ブーゲンビル島では自治が認められており,独立に向けた住民投票も計画されています。
また,ニューギニア島西半の「西パプア」がインドネシア領となっていることも,長年の火種となっていましたが,パプアニューギニアは経済的な国益を優先し,ASEAN(東南アジア諸国連合)への加盟を目指しています。
近年は,インドネシアの歓心を買うため,西パプアの独立を支持しない方針をとるようにもなっています。東南アジアとオセアニアの"狭間"に立つパプアニューギニアは,太平洋諸島フォーラム(PIF)でも強い発言力を持っています。
○197
9
年~現在のオセアニア ミクロネシア
小国島嶼国の協力関係がすすむ
ミクロネシ
ア
...①マーシャル諸島,②キリバス,③ナウル,④ミクロネシア連邦,⑤パラオ,⑥アメリカ合衆国領の北マリアナ諸島・グアム
②
キリバ
ス
はギルバート諸島やフェニックス諸島など,広い範囲にわたる島々により構成された島国です。1892年より,南方のエリス諸島(のち
の
ツバ
ル
)とともにギルバート諸島がイギリスの保護領となり,1916年からはオーシャン島とともにギルバート=エリス諸島植民地となり,次第に周辺の島々が編入されていきました。1971年に自治が認められ,1978年にはエリス諸島がツバルとして分離独立,翌年にはギルバート諸島を中心に1979年にはイギリス連邦内
の
キリバス共和
国
として独立しました。
③
ナウ
ル
は,1947年以降イギリス,オーストラリア,ニュージーランドによる信託統治領となっていましたが,1968年にイギリス連邦の中の共和国として独立。鳥の糞が降り積もることにより形成されたリン鉱石の採掘により,高い生活水準を誇っていました。しかし1990年代になりリン鉱石の採掘量は激減し失業率がきわめて高い状態となっており,現在は国家財政の多くを海外からの援助に依存しています。
アメリカ合衆国が信託統治していたミクロネシアの地域は,1986年に
①
マーシャル諸
島
と
④
ミクロネシア連
邦
として独立しました。ただし,この2カ国は対等な関係を結びながら,外交や国防をアメリカ軍が担うという「自由連合」の形式をとっています
(1960年に国際連合の総会で決議された「植民地独立付与宣言」に基づく国家間の関係です)
。
⑤
パラ
オ
では1981年に憲法が発布され,自治政府が成立しました。自治政府はアメリカ合衆国との間に自由連合の関係を結ぶ方針を進め,1993年の住民投票で承認され,1994年にアメリカ合衆国から独立しました。
⑦北マリアナ諸島には,サイパン島,ティニアン島などが含まれ,1947年からアメリカ合衆国の信託統治領となっていました。その後1970年代に自治権を獲得し,アメリカ合衆国の市民権を持つ「コモンウェルス」の一つとなっていました。1978年には憲法が制定されています。
・
197
9
年~現在の中央ユーラシア
現②
タジキスタン
タジク=ソヴィエト社会主義共和国は1990年8月にソ連に対して主権を宣言し,翌1991年8月末に
「
タジキスタン共和
国
」に国名を変更し9月に独立を宣言しました。1991年12月にソ連が崩壊すると
,
独立国家共同
体
(
CI
S
)に加盟しています。
しかし,政府にとどまった共産党と野党のイスラーム政党との間でタジキスタン内戦となり,多数の犠牲者と難民を生み出しました。1994年からは国際連合タジキスタン監視団(UNMOT)が派遣され,1997年に国際連合が介入して停戦が合意されました。内戦中に選出された〈ラフモン〉(任1994~)による強権的な政権が続いています。
2015年には内務省特殊部隊の元司令官〈ハリモフ〉が,イスラーム国への参加を表明するなど,暴力的なイスラーム主義への接近も懸念されています。
・
197
9
年~現在の中央ユーラシア
現③
ウズベキスタン
ウズベク=ソビエト社会主義共和国では,1990年3月に〈カリーモフ〉が大統領に就任し,同年6月に主権が宣言され,翌1991年8月末に
「
ウズベキスタン共和
国
」として独立が宣言されました。1991年12月にソ連が崩壊すると
,
独立国家共同
体
(
CI
S
)に加盟しています。〈カリーモフ〉(任1991~2016)が2016年に亡くなると,〈ミルジヨーエフ〉大統領が後任に選出されています。
暴力的なうイスラーム組織,イスラム運動ウズベキスタン(IMU)が,イスラーム国との連携を表明しています。
・
197
9
年~現在の中央ユーラシア
現④
トルクメニスタン
トルクメン=ソビエト社会主義共和国は,1990年8月に主権を宣言し,10月に〈ニヤゾフ〉(任1990~2006)が大統領に選出されました。
1991年12月にソ連が崩壊すると,トルクメニスタンは新たに創設され
た
独立国家共同
体
(
CI
S
)に加盟したものの,1995年に「永世中立国」となり,2005年には準加盟国に移行しています。〈ニヤゾフ〉が2006年に死去すると,〈ベルディムハメドフ〉(任2006~)がその強権的な支配を引継いでいます。
・
197
9
年~現在の中央ユーラシア
現⑤
カザフスタン
カザフ=ソビエト社会主義共和国の第一書記であった〈ナザルバエフ〉は,1990年4月に大統領に就任,1991年10月に主権を宣言し,12月
に
カザフスタン共和
国
として独立を宣言しました。
当初はウクライナ,ベラルーシ,ロシアの間でソ連解体後の構想が進められていましたが,カザフスタンはこれを批判し,1991年12月にアルマ=アタでバルト三国を除くすべてのソ連加盟国を集め,ソ連の解体と独立国家共同体(CIS)の創設を決めました
(
アル
マ=
アタ宣
言
)。こうして,1991年12月末
に
ソ連が解
体
すると
,
独立国家共同
体
(
CI
S
)に加盟しました。
その後〈ナザルバエフ〉大統領(共和国大統領 任1991~)の長期政権が続いています。
・
197
9
年~現在の中央ユーラシア
現⑥
中華人民共和国の新疆ウイグル自治区
新疆ウイグル自治区には中華人民共和国からの漢人の植民がすすんでいます。これに対し,かつてこの地を実効支配してい
た
東トルキスタン亡命政
府
がアメリカ合衆国に,これとは別に世界ウイグル会議がドイツを拠点に独立運動を起こしています。
また,東トルキスタン=イスラム運動(ETIM)の活動も活発化し,暴力的なイスラームの国際テロ組織アル=カーイダやイスラーム国との連携も表明されています。
2009年には自治区の主都ウルムチでウイグル人への不当な扱いを批判する騒乱が起きますが,多くの死傷者を出し鎮圧されました(
200
9
年ウイグル騒
乱
)。
なお,2018年には,中華人民共和国の新疆ウイグル自治区における強引な同化政策などの人権侵害が明るみに出ると,トルコが政府が中国を厳しく非難するなど国際問題化しています。報道によると,中国当局は新疆ウイグル自治区のウイグル人を強制的に収容所に入れたり,恣意的に逮捕されています。
○197
9
年~現在のアジア 東南アジア・東アジア
◆
社会主義国でも市場経済が導入され,「開発独裁」により経済成長を果たす国・地域も現れる
市場経済の導入、地域統合がすすむ
中華人民共和
国
は,1976年に〈毛沢東〉が亡くなると,党主席の〈華国鋒〉(かこくほう,1921~2008)
【慶商A H30記】
は
プロレタリア文化大革
命
(1966~76)を収束させます。
「
四つの現代
化
」(農業・工業・国防・科学技術)を重視。
しかし,1981年6月に中国共産党は,〈毛沢東〉を「功績第一,誤り第二」として,プロレタリア文化大革命の間違いを認めました。こうして〈毛沢東〉派の〈華国鋒〉は降格され,代わって
〈
鄧小
平
〉(とうしょうへい,トンシャオピン,1904~97)
【追H19、H27 1978年以降改革開放をすすめたのが誰か問う】
【東京H28[1]指定語句】
が実権を握ります。
しかし〈鄧小平〉は自分が全面に出てくることはしません。党主席は〈胡耀邦〉に与え,自分は党中央軍事委員会主席に就任しました。"キングメーカー"と呼ばれるゆえんです。
〈毛沢東〉が理想主義とすると,彼はとても現実主義的な人物。
「市場経済的な要素を含めれば,みんなやる気が出る。やる気が出れば,国家の富は増える。そうすれば,国全体がうるおって,貧しい人にも良い影響を与える」と唱えます
(
先富
論
)。
1970年代末か
ら
改革開
放
【追H19「文化大革命の後」,H27】
【早法H23[5]指定語句】
政策をおしすすめました。ついに中国も
,
市場経
済
を部分的に導入することになったのです。人民公社を解体し
【追H9天安門事件により解体されたわけではない】
,農家請負制(生産責任制度)を導入して「余った分」は自由に市場で売れるようにして,農民のやる気を高めました。国営だった企業にも,同じように自由に工夫できる権限を与えました。また
,
経済特
区
には外資系企業を誘致しました。彼自身は1989年以降は公式に表舞台の役職にはつかず実働部隊を指名したため,"キングメーカー"の異名も持ちます。彼に可愛がられて後継に指名されたのが"第三世代"の〈
日本は1973~74年の第一次石油危機の影響を受け「低成長」といわれる時代に入りました。資源が高騰した分,省エネルギー技術を発展させるなど,新たな技術革新も続けられました。
日本企業が
,
韓
国
,
台
湾
,
シンガポー
ル
【本試験H14】
,
香
港
などに海外進出を初めていったのもこのころで,これらの地域
は
新興工業経済地
域
(
NIE
s
,(アジア)ニーズ
【本試験H14】
)と呼ばれました。
1985年
に
プラザ合
意
によって,ドル安・円高(日本は輸出不利,アメリカは輸出有利となった)となった日本企業は,製品を国内でつくって輸出するよりも,海外でつくって輸入したり別の国に売ったりしたほうがよいということで,アジア各地に生産拠点を移していくことになりました。日本から輸出できない代わりにアジア各地でつくったものを,迂回させてアメリカ合衆国に輸出する方式がとられたのです。
そんなわけで,すでに新興工業経済地域として発展していた,香港,台湾,シンガポール,韓国といっ
た
アジアNIE
s
の資本とともに,日本の資本が東南アジアのタイやマレーシアなどのASEAN諸国に流れ,それがもとで経済成長が加速していくことになりました。
この過程で,ASEANでは低価格の消費財が生産されるようになると,従来は低級品を生産していたアジアNIEsでも,付加価値の高い高級財が生産されるようになっていきます。こんなふうに,まずは日本,それを追いかけるようにアジアNIE,さらにASEAN...といったように,渡り鳥の雁(かり)がV字に列をなすように東アジア・東南アジア地域(経済的には一括して「東アジア」といわれることも多いです)が発展していく様子を,
「
雁
行
(がんこう
)
的発
展
」ということがあります。
ただ,経済を短期間で急速に成長させようとすると,どうしても中央集権的な権力が必要になります。外資を呼び込むにしても商法や民法といった法制度の整備や,統一的な経済政策をたてることも必要です。「輸出を主導して経済成長を実現させるためには,ある程度強いやり方(=民主化をおさえたやり方)で国内をまとめることも必要だ」とするこのような政治体制
は
開発独
裁
といい,各国で様々な方式がとられていきました。
冷戦終結の影響は,東アジア・東南アジアにも波及しました。
すでに1989年には
,
アジア太平洋経済協
力
(
APE
C
,エイペック)
【本試験H18ASEANから改組されていない,本試験H25オーストラリアが加盟していることを問う,H29共通テスト試行 白豪主義撤廃はAPEC開催の影響ではない】
がはじまっていました。東南アジアでは東南アジア諸国連合(ASEAN)が中心になって地域経済の統合がすすめられました。2005年に第一回東アジア首脳会議が開かれ,2015年にはASEAN経済共同体(AEC)が成立しました。
アメリカ合衆国は,中国との対決の必要性から,環太平洋経済連携協定(TPP)を推進し,太平洋をとりかこむ地域で,経済
を
自由
化
させようとしています。
これに対し中華人民共和国はユーラシア大陸全域をスケールとした新たな経済圏の建設を唱え,2014年に
は
アジアインフラ投資銀
行
(
AII
B
)を設立するとともに,特に発展途上国や新興国の政府との政治・経済関係を密にしています。中国政府は,自国の政治・経済体制を守るため,他国に対し「これだけは譲ることはできない」という利益のことを「核心的利益」と呼び,その実現のため
に
中央アジアへの影響力の拡
大
や南シナ海を含む太平洋やインド洋へ
の
海洋進
出
を進めています。アジアインフラ投資銀行には多くの新興国が参加し,ヨーロッパからもドイツ,イギリス,フランス,イタリアなどが参加していますが,日本とアメリカ合衆国は参加を見送っています。
経済が自由化されて,商品や資本が自由に国境を超えるようになっていけば,真っ先に影響を受けるのは伝統的な産業です。新しい文化がよそから入ってきたり,従来の共同体が環境破壊や資本の論理でつぶされていく事態も起こります
。
グローバル
化
を前に「どのような国づくりを進めるべきか」という議論は,東アジア・東南アジア各地でますます大きな政治上の争点となっていくのです。
なお,2003年には重症急性呼吸器症候群(SARS,サーズ)という感染症が,中国を出発点としてヴェトナム,シンガポール,台湾など東アジア・東南アジア各地に拡大し,各国政府は国境を越えた連携の必要性を痛感しました。その後も,鳥インフルエンザや新型インフルエンザなどの感染症の国境を越えた拡大事例は続いています。
○197
9
年~現在のアジア 東アジア
東アジア・東北アジ
ア
...①日本,②台湾
(注)
,③中華人民共和国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国
※台湾と外交関係のある国は19カ国(ツバル,ソロモン諸島,マーシャル諸島共和国,パラオ共和国,キリバス共和国,ナウル共和国,バチカン,グアテマラ,エルサルバドル,パラグアイ,ホンジュラス,ハイチ,ベリーズ,セントビンセント,セントクリストファー=ネーヴィス,ニカラグア,セントルシア,スワジランド,ブルキナファソ)
・
197
9
年~現在のアジア 東アジア
現①
日本
◆アメリカ合衆国との同盟関係を維持する国内外の政策を続け,外資の導入も進んだ
アメリカ主導によるグローバル化の波に直面する
〈大平〉首相の急死後の総選挙で,自民党は圧倒的多数を確保し,〈鈴木善幸〉内閣(すずきぜんこう,任1980~82)となります。1982年には〈中曽根康弘〉(なかそねやすひろ,任1982~87)が"戦後政治の総決算"を唱えて首相に就任しました。
アメリカ合衆国は,1973年の第一次オイル=ショック
【追H27時期が1970年代か問う】
や1979年のイラン革命による第二次オイル=ショック
【追H27時期は1970年代か問う】
,1979年のソ連のアフガニスタン侵攻などを受け,石油の安定供給やソ連対策のためには,中東の安定が不可欠と考え,米軍の配置立て直しに移ります。そのために重視されていったのが,日本との同盟関係です。1981年に〈鈴木善幸〉首相は日米関係を「同盟関係」と表現。1983年に
〈
中曽根康
弘
〉(なかそねやすひろ,任1982~87)首相は「運命共同体」と呼びました。また,1970年代末より,在日米軍に対する支出「思いやり予算」は年々増加し,日米共同作戦計画の立案も進みました。
〈中曽根〉首相は,国の支出を減らして
「
小さい政
府
」を目指し,民間の経済活動を活性化させようとする新自由主義的な政策を進めていきました。例えば,医療負担の引き上げや,国鉄・電電公社・専売公社など
の
民営
化
です。オイル=ショック後の低成長に対応して,終身雇用制度と年功序列制度も揺らぎ
,
パート労働
者
が増え,1985年には労働者派遣法が成立し
,
派遣労働
者
が増加していきました。
オイル=ショック後に産油国ではない発展途上国では債務が拡大したため,日本からの輸入額が減少しました。代わりの輸出先としてEC(ヨーロッパ共同体)やアメリカ合衆国への自動車や電化製品の輸出量が増えるとともに
,
貿易摩擦問
題
が起こりました。アメリカ合衆国は次第に閉鎖的な日本市場への批判を強めていき,日米構造協議(1989~90),日米包括経済協議(1993),年次改革要望書(1994~2008)などで政府に対する市場開放を要求するようになっていきました。
そんな中,1989年に
は
ベルリンの壁が崩
壊
し,1991年にソ連邦が解体され,米ソの冷戦は終結しました。
冷戦が終結すると,アメリカ合衆国がその圧倒的な軍事力により国際政治を支配する体制となりました。1991年に始ま
る
湾岸戦
争
【本試験H26時期】
では,日本は多国籍軍に130億ドルを支援しました。政府は戦後,海上自衛隊の掃海艇をペルシア湾に派遣しようとしましたが,実現はしませんでした。
アメリカ合衆国は,日本の自衛隊の海外派遣を求め,1992年に成立し
た
PK
O
(国連平和維持活動
)
協力
法
に基づく派遣がとられました。その最初の例が,1992年のカンボジアPKOでした。1998年には
〈
橋本龍太
郎
〉首相(はしもとりゅうたろう,任1996~98)が「日米安全保障共同宣言」で日米同盟の範囲を「地球的規模」に広げると表現しました。
冷戦期には,ソ連への対抗が最重要戦略でしたが,中近東(北アフリカ~西アジア)~南アジア~東南アジア~台湾~朝鮮半島を結ぶ
「
不安定な
弧
」と命名されたラインが,アメリカ合衆国の防衛線として重要視されるようになったことが原因です。こうした経緯から,1999年
に
周辺事態
法
が成立し,2001年のアメリカ同時多発テロ事件を受け,〈小泉純一郎〉内閣は特別措置法により海上自衛隊をインド洋に派遣し後方支援しました。また,2003年には特別措置法により,イラク戦争後の復興支援活動のため,陸上自衛隊がイラクに派遣され,市民に対する給水活動等に従事しました。また,米軍の機動力を向上させるため,各地で日本の自衛隊と米在日軍の両司令部の統合や,基地の移転が予定されています。また,自衛隊を米軍とともに戦闘に参加できるようにするには,憲法9条の改正が必要であり,アメリカ合衆国にとっての課題ともなっています。
冷戦終結にともない,55年体制が崩壊し,政党の大規模な再編が起きました。
しかし,
〈
細川護
熙
〉内閣(ほそかわもりひろ)では方針対立が顕在化します。
そこで自民党は1994年に日本社会党
〈
村山富
市
〉(むらやまとみいち)との連立政権(1994~96)を組むことで政権に返り咲きました。しかし1995年には都市直下型地震であっ
た
阪神淡路大震
災
への対応が影響して〈村山〉内閣は退陣します。
同年には,インド思想の影響を受けた宗教教団オウム真理教(1984成立1987改称)によるテロリズム
(
地下鉄サリン事
件
)が発生するなど世相に暗い影が立ち込めます
(教祖の〈麻原彰晃〉(1955~2018本名は 松本智津夫)を含む7人の死刑は2018年に執行)
。
代わって1996年に成立した
〈
橋本龍太
郎
〉内閣(はしもとりゅうたろう,1996~98)は,1998年に消費税を5%に増税し,平成不況が長期化する一因をもたらします。同時に〈橋本〉首相は
「
金融ビッグバ
ン
」を進め,銀行・証券・信託・保険の業務を,持ち株会社により統合することが可能になりました(金融システム改革法)。
その後の自民党は支持率が低迷しますが,公明党等との連立政権を組んで議席を確保します。2001年に就任した
〈
小泉純一
郎
〉首相(こいずみじゅんいちろう,任2001~06)は
,
郵政民営
化
などの新自由主義的な政策をとり,自民党支持者を増加させました。〈橋本〉内閣の「金融ビッグバン」も〈小泉〉内閣の「郵政民営化」も,アメリカ合衆国の金融資本による,日本に対する市場開放要求が背景にあります。
2009年には「55年体制」以降はじめての本格的な政権交代が成り,民主党政権
(2009~12,〈鳩山由紀夫〉政権(民主・社民(~2010.5)・国民新連立,任2009~2010),〈菅直人〉政権(民主・国民新連立,任2010~2011),〈野田佳彦〉政権(民主・国民新連立,任2011~2012))
が政権を担当しました。〈鳩山〉首相は普天間基地の県外移設の公約を撤回して退陣し,次の〈菅直人〉首相のときには2011年3月
の
東日本大震
災
やそれにともな
う
東京電力福島第一原発事
故
を経て,同年9月に〈野田〉首相が後任となりましたが,基本政策でゆきづまり国民の支持を失います。
そんな中,2012年の総選挙では,自由民主党の
〈
安倍晋
三
〉(あべしんぞう,任2006~2007,2012~)が圧勝して首相に就任し,公明党との連立政権を組み長期政権を実現しています。〈安倍〉首相は,「戦後レジーム」の転換をめざして改憲路線をすすめるとともに,2013年2月に金融緩和・財政出動・成長戦略を"3本の矢"とする「アベノミクス」を経済政策として打ち出しました。同年3月に
は
環太平洋経済連携協
定
(
TP
P
)への参加を表明,11月に国家安全保障会議(NSC)設置法・12月に特定秘密保護法を成立させています。
2014年4月には消費税を8%に引き上げ,原発の再稼働を方針とするエネルギー基本計画を閣議決定。同年7月には集団的自衛権の行使の容認を閣議決定。11月には2015年10月の消費税の10%引き上げ先送りを理由として衆議院を解散し,翌12月に首相に再任しました。2016年6月には18歳選挙権を認める法改正,9月には集団的自衛権の行使を容認する安保法を成立させています。12月に慰安婦問題をめぐる日韓合意が成立。2016年5月には伊勢志摩サミットが開催され,アメリカ合衆国の〈オバマ〉大統領が現職のアメリカ合衆国大統領としては初めて被爆地の広島を訪問しました。12月にはロシアの〈プーチン〉大統領が訪日し日露首脳会談を行い,同月にはハワイの真珠湾を〈オバマ〉大統領とともに訪問しました。2017年6月には,前年8月に生前退位の意向を表明していた〈今上天皇〉(1933~,位1989~2019)について,一代限りの生前退位を認める特例法を成立。同月には改正組織犯罪処罰法(テロ等準備罪法)を成立させています。
2018年10月には第4次安倍内閣(改造)が発足。2019年5月1日には〈今上天皇〉(明仁、1933~,位1989~2019)が退位し上皇となり、新天皇(徳仁(なるひと)、1960~、位2019~)が即位しました(新元号は「令和」)。
・
197
9
年~現在のアジア 東アジア
現②
台湾
台湾では1987年に1949年から続いていた戒厳令(かいげんれい)が解除され,本省人(ほんしょうじん,台湾出身者)としてはじめて
〈
李登
輝
〉(リートンフイ,りとうき,在任1988~2000)が台湾の総統
【早国H30国民党の総裁ではない(出題ミス)】
に就任し,民主化をすすめました
【追H27時期を問う(1970年代か)】
【本試験H29】
。
2000年には民進党の
〈
陳水
扁
〉(チェンショイピエン,ちんすいへん,在任2000~2008)が総統となり,1947年から続いていた国民党政権にピリオドが打たれました。中華人民共和国からの「独立」論が強まりましたが,2008年に中立的な立場をとった国民党の〈馬英九〉(マーインチウ,ばえいきゅう,2008~2016)が総統に当選すると弱まりました。〈馬〉は「三不(サンプー)」(台湾と中国を統一させない,台湾を独立させない,武力を行使しない)をスローガンに掲げています。2016年には民主進歩党の〈蔡英文〉(ツァイ=インウェン,さい えいぶん,2016~)が選出され政権が交替しましたが,彼女も台湾の独立は主張せず中立的な立場に立っています。
2019年5月には、台湾の立法院が同性婚を合法化する法案を可決。可決されたのは〈蔡英文〉総統の政府案がで、アジアで初めての同性婚の合法化となります。
・
197
9
年~現在のアジア 東アジア
現③
中華人民共和国
経済の自由化が進み、ユーラシア貿易圏を主導
1989年に東欧革命に触発されて起きた民主化デモは,軍隊によって鎮圧されました((第2次
)
天安門事
件
)
【本試験H22】
【追H9これにより人民公社が解体されたわけではない】
【セA H30平壌ではない】【立教文H28記】
【※センター試験では出題されていないことはないが頻度低い。政治的配慮か?】
。
1992年に
〈
鄧小
平
〉は
「
南巡講
話
」を発表し,市場経済を社会主義に利用することを正式に決定しました。これ
を
社会主義市場経
済
といいます。これ以降,中国は外資系企業を誘致して,低賃金で安価な製品(雑貨や衣料品。のち電化製品や自動車)を輸出するようになりました。
〈鄧小平〉の没(1997年)後は,
〈
江沢
民
〉(こうたくみん,チャン=ツォミン)(任1993~2003)がさらなる経済発展をすすめていき,かつてイギリスが19世紀にうたわれた
「
世界の工
場
」と称されるようになりました。1997年に
は
香
港
がイギリスに返還され,1999年に
は
マカ
オ
がポルトガル
【本試験H26】
に返還され
,
一国二制
度
(香港とマカオだけは,資本主義が認められるという制度)
【セA H30】
が継続されました。南部の臨海地方を中心とした発展に偏っていたため,2000年代に入ると「西部大開発」が進められました。内陸部と沿岸部の格差は拡大し,貧富の差は社会問題となっています。2001年には,1995年にGATT(ガット)を継承してい
た
世界貿易機
関
(WTO)
【追H27組織された時期を問う(1970年代ではない)】
への加盟も実現しました。また,中国共産党の改革にも熱心で,2002年には従来禁じられていた「資本家(私営企業家)」の入党が認められました。〈江沢民〉は2003年に国家主席に選ばれています。2003年には神舟5号が打ち上げられ,〈楊利偉〉中佐(1965~)による有人宇宙飛行に成功させています。
そこで2003年に国家主席に就任した
〈
胡錦
濤
〉(こきんとう,フー=チンタオ)(任2013~13)は格差の是正につとめ,2008年の北京オリンピック,2010年の上海万国博覧会を成功させ,新興
国
BRIC
s
の一員としても認められるようになりました。しかし,民主化は進展せず,国内にはチベット自治区におけ
る
チベット
人
(2008年チベット騒乱)と新疆ウイグル自治区におけ
る
ウイグル
人
の
民族問
題
(2009年ウイグル騒乱)や,民主化運動の指導者の弾圧などの問題も抱えています。
2013年に国家主席に就任した
〈
習近
平
〉(しゅうきんぺい,シー=ジンピン,在任2012~)は"第三世代"の〈
都市と農村との格差などの社会問題や,大気汚染などの環境問題を解決しながら,さらなる経済発展と国際的影響力の向上に努めています。ユーラシア大陸全体を一つの貿易圏としてまとめようとする
「
一帯一
路
」構想を2014年に打ち出しました。また,軍備を増強し,南シナ海への海上進出を進めた結果,周辺諸国との間で地下資源の採掘や漁業をめぐる対立が起きています。宇宙開発にも積極的で,2013年12月には嫦娥(じょうが)3号の月面着陸を成功させています。
・
197
9
年~現在のアジア 東アジア
現④
モンゴル
モンゴル人民共和
国
はソ連の衛星国家として一党独裁の社会主義体制を採っていましたが,ソ連でのペレストロイカ(改革)の影響を受け,民主化要求が高まりました。1991年にソ連が崩壊すると,1992年に新憲法が採択され複数政党の自由選挙がおこなわれるようになり,社会主義に代わって市場経済も導入されました
【東京H19[3]記述(ソ連崩壊後の変化)】
。
1992年には国号が「モンゴル国」に改められ,社会主義体制下では否定されていたモンゴル人の文化や歴史(〈チンギス=ハーン〉など)の見直しがすすむ一方,経済成長が続いています。
・
197
9
年~現在のアジア 東アジア
現⑤
朝鮮民主主義人民共和国
,⑥
大韓民国
韓国では
〈
朴正
熙
〉(パク=チョンヒ,在任1963~79)
【本試験H26時期,H29民主化は推進していない】
が1960年代に「漢江(ハンガン)の奇跡」という経済成長を成し遂げ。この時期ではインドネシアの
〈
スハル
ト
〉(任1968~1998)
【本試験H10インドネシア国民党の創設者ではない,スカルノとのひっかけ】
,シンガポールの
〈
リ
ー=
クア
ン=
ユ
ー
〉(李光耀、任1959~90),マレーシアの
〈
マハティー
ル
〉(任1981~2003)やフィリピン
【追H20タイではない】
の
〈
マルコ
ス
〉(任1965~1986)
【本試験H10スペイン及びアメリカに対する独立運動の指導者ではない】
【追H20】
が代表例です。先進国から企業や資本を導入して,輸出向けの製品を生産することで工業化が目指されました。
一方,朝鮮民主主義人民共和国では,〈金日成〉による独裁政治が維持されていました。
しかし1979年には中央情報部長が会食中に〈朴正熙〉を射殺。実行犯を逮捕した〈崔圭夏〉(チェギュハ,さいけいか)首相が大統領を代行し,非常戒厳令を出しました。しかし混乱の中で
〈
全斗
煥
〉(チョン=ドゥファン;ぜんどかん)
【東京H27[3]】
が軍の実権を握り,1980年2月に起きた学生ら10万人による民主化運動を武力で鎮圧し,約200人もの犠牲を出しました
(
光州事
件
【東京H28[1]指定語句】
)。首謀者として〈金大中〉に死刑が求刑されましたが,執行はされませんでした。
〈全斗煥〉は1980年9月に大統領に就任し,強権政治が続きました。彼の在任中には経済成長が実現して国際収支が改善し,1983年に大韓航空機撃墜事件(ルートを外れたサハリン上空で,ソ連の戦闘機に大韓航空機(民間機)が撃墜された事件)や,1983年のビルマにおける〈全斗煥〉暗殺未遂事件などが起きています。
経済成長の進展とともに富裕市民(「中産層」)からの民主化の要求も生まれ,〈全斗煥〉と長年行動を共にしてきた
〈
盧泰
愚
〉大統領(ノ=テウ)によって1987年
に
民主化が宣
言
されました。同年12月の新憲法下で行われた大統領選挙で,〈盧泰愚〉が野党の〈金泳三〉〈金大中〉らに勝利し,建国以来初めての選挙による政権交代が実現しました。〈盧泰愚〉が勝利し1988年にはソウル=オリンピックが開催され,1990年にソ連,1991年に北朝鮮(初の南北首脳会談とはなりませんでしたが
,
国連への南北同時加
盟
),1992年に中華人民共和国との国交を回復させるなどの成果を挙げたものの,野党が多数を占める国会で〈全斗煥〉や〈盧泰愚〉に対する不正追及の姿勢をみせると〈全斗煥〉は1988年に政治の舞台から引退し,政局が混迷する中で1992年に
〈
金泳
三
〉(キムヨンサム)が大統領に当選し,翌1993年に就任しました。32年ぶりの文民出身の大統領でした。彼は光州事件を民主化運動として再評価し,1995年には〈全斗煥〉と〈盧泰愚〉を逮捕しています。1996年にはOECD(経済協力開発機構)に加盟し国民所得も上昇しましたが,1997年には財閥の倒産を発端とした経済危機が発生し,1997年末からは通貨危機が始まっていました。
政党数が増加して政界再編が進む中,1997年に
〈
金大
中
〉(キム=デジュン,きんだいちゅう,在任1998~2003)が当選し,1998年に就任します。
タイのバーツ安に始ま
る
アジア通貨危
機
のあおりも受けウォン安が進行し,韓国政府
は
IM
F
(
国際通貨基
金
)に支援融資を要請。550億ドルの融資と引き換えにIMFによる厳しい韓国経済構造に対する介入が始まりました。〈金大中〉は禁止されていた日本大衆文化を解禁し,2002年の日韓共催ワールドカップも決定しました。また,北朝鮮に対しては,2000年に北朝鮮の
〈
金正
日
〉(キム=ジョンイル,最高指導者在任1994~)
【セA H30金日成ではない】
と会談(2000年の第一
回
南北首脳会
談
)し,南北融和の
「
太陽政
策
」
(〈イソップ〉(アイソポス,生没年不詳)の「北風と太陽」にちなむ)
をとりました。〈金大中〉は2000年にノーベル平和賞を受賞しています。
2003年には〈盧武鉉〉(ノムヒョン)が大統領に就任,2008年には〈李明博〉(イミョンバク)が大統領に就任しています。
北朝鮮では,1980年に〈金日成〉の息子〈金正日〉(キムジョンイル)が,朝鮮労働党の党中央委員会政治局常務委員,書記局書記,軍事委員会の委員に選出されました。これにより,事実上〈金日成〉の権力が息子に委譲される見込みとなりました。彼は「世襲」というよりは,厳しい権力闘争を勝ち抜いていった側面が強く
(注
)
,父の「主体思想」を体系化させたり,平壌に巨大な建築物を建設することで,自己の権威を高めようとしました。
1980年代以降は,ソ連,東欧,韓国や中華人民共和国との関係を持ち,資本を導入したり貿易を増加させたりすることで,経済の停滞を解決しようとしました。
1990年代初めにかけてソ連や東欧の社会主義国が崩壊すると,〈マルクス〉=〈レーニン〉主義の看板を外し,朝鮮独自の社会主義と充実し
た
国
防
によって,体制を維持していこうとしました。自由貿易地帯を設けたり法整備を進めたりする現実的な動きもみられましたが,北朝鮮に核兵器の開発疑惑が持ち上がるとアメリカ合衆国はIAEA(国際原子力機関)による査察受け入れを要求しまし,当初は受け入れを了承しました(1992~93年)が,1993年
に
NP
T(
核拡散防止条
約)
からの脱退を宣
言
。国連安全保障理事会も北朝鮮に対する査察を決議しましたが,1994年にはIAEAからも脱退。しかし同年,米朝基本合意によりアメリカ合衆国による原子炉管理の枠組みが定まり,問題は解決できたかのようにみえました。
1994年7月,〈金日成〉が死去すると,3年間の喪を経て1998年に
〈
金正
日
〉(キムジョンイル)は労働党総書記に就任し,国防委員会委員長に再任され,事実上父の権力を"世襲"することが明らかとなりました。農業政策の失敗などにより食糧問題が悪化する中,頼みの綱であった社会主義諸国が崩壊してしまい石油の輸入も止まってしまう危機的な状況に陥り,中国や韓国への「脱北者」(だっぽくしゃ)が増加していきました。1998年には弾道ミサイル「テポドン」の発射実験が行われています。
2000年に韓国の〈金大中〉が北朝鮮を訪問し
「
南北共同宣
言
」が発表され,韓国との間には一時融和ムードが広がりました。2002年には日本の〈小泉純一郎〉首相が北朝鮮を訪れ〈金正日〉と会談し,〈金正日〉は北朝鮮による日本人拉致への関与を認め,5人の被害者・家族が日本に帰国しました(〈小泉〉首相は2004年に再訪朝しています)。
2003年には核開発疑惑が再燃し,2003年以降,北朝鮮・韓国・アメリカ合衆国・ロシア連邦・中華人民共和国・日本
の
六カ国協
議
が開催され計画の全面的放棄を要求しました。しかし2005年には核保有を宣言し,その後も弾道ミサイル実験・核実験を繰り返し,"瀬戸際外交"を繰り返しています。「テロとの戦い」を推進するアメリカ合衆国の〈ブッシュ〉大統領は,イランとイラクとともに2002年に北朝鮮を「悪の枢軸;axis of evil」と名指ししました。
〈金正日〉の息子
〈
金正
恩
〉(キム=ジョンウン,在任2011~)が,2011年に朝鮮労働党の一党独裁を継承し最高指導者となり,2006年に北朝鮮が地下核実験を実施。中国を議長国とす
る
六カ国協
議
(米中露日韓北が参加)が開かれましたが,北朝鮮の態度はますます強硬化していきました。
しかし,2017年に韓国で北朝鮮に宥和的な〈文在寅〉(ムン=ジェイン1953~,任2017~)大統領が就任,2018年の韓国におけるピョンチャン(平昌)冬季オリンピックを契機として,北朝鮮と韓国の接近が進み,2018年4月27日には2000年・2007年に続く第三回の南北首脳会談が実現され,年内の朝鮮戦争(1950~53,1953年以降「休戦」状態が続いていました)の終結を視野に入れ
る
板門店宣
言
が発表表されました。
この合意文書は「朝鮮半島の完全な非核化」を共通の目的にすることとされ,韓国,アメリカ合衆国,または中華人民共和国を交えた会談の開催を推進することが盛り込まれています。
また,2018年5月にはアメリカの〈ポンペオ〉国務長官と会談。同月には,ロシアの〈ラブロフ〉外相と会談。さらに6月にはシンガポールを訪問し,シンガポール首相,続いてアメリカの〈トランプ〉大統領と史上初の米朝首脳会談を実施しました。さらに〈金正恩〉は中華人民共和国への接近も強めていますが,この間,日本との関係はほとんどありません。
一方,韓国では,第二次世界大戦中に日本企業が募集・徴用した労働者に対する個人的な賠償をめぐる問題が政治問題化し,2018年に韓国の大法院が日本企業(新日本製鐵(現:新日鉄住金))に対して賠償を求める判決を出したことから,日韓関係が揺らいでいます。2018年末には韓国海軍の駆逐艦が海上自衛隊のP1哨戒機に対して火器管制レーダーを照射したことも外交問題化し,世論・大法院と日本政府との間に〈文在寅〉(ムン=ジェイン,任2017~)首相は"板挟み"となっています。
(注)平井久志『北朝鮮の指導体制と後継――金正日から金正恩へ』岩波書店,2011年。
○197
9
年~現在のアジア 東南アジア
東南アジ
ア
...①ヴェトナム,②フィリピン,③ブルネイ,④東ティモール,⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア,⑧カンボジア,⑨ラオス,⑩タイ,⑪ミャンマー
東南アジアでは「雁行的」発展がすすむ
↓
図
「雁行的」発展
<
<
<
<
<
<
<
1985年
に
プラザ合
意
によって,ドル安・円高(日本は輸出不利,アメリカは輸出有利となった)となった日本企業は,製品を国内でつくって輸出するよりも,海外でつくって輸入したり別の国に売ったりしたほうがよいということで,アジア各地に生産拠点を移していくことになりました。日本から輸出できない代わりにアジア各地でつくったものを,迂回させてアメリカ合衆国に輸出する方式がとられたのです。
そんなわけで,すでに新興工業経済地域として発展していた,香港,台湾,シンガポール,韓国といっ
た
アジアNIE
s
の資本とともに,日本の資本が東南アジアのタイやマレーシアなどのASEAN諸国に流れ,それがもとで経済成長が加速していくことになりました。
この過程で,ASEANでは低価格の消費財が生産されるようになると,従来は低級品を生産していたアジアNIEsでも,付加価値の高い高級財が生産されるようになっていきます。こんなふうに,まずは日本,それを追いかけるようにアジアNIE,さらにASEAN...といったように,渡り鳥の雁(かり)がV字に列をなすように東アジア・東南アジア地域(経済的には一括して「東アジア」といわれることも多いです)が発展していく様子を,
「
雁
行
(がんこう
)
的発
展
」ということがあります。
ただ,経済を短期間で急速に成長させようとすると,どうしても中央集権的な権力が必要になります。外資を呼び込むにしても商法や民法といった法制度の整備や,統一的な経済政策をたてることも必要です。「輸出を主導して経済成長を実現させるためには,ある程度強いやり方(=民主化をおさえたやり方)で国内をまとめることも必要だ」とするこのような政治体制
は
開発独
裁
といい,各国で様々な方式がとられていきました。
しかし,1980年代末からは,経済発展とともに高等教育を受けた中産層も増加し,政権党以外に複数政党制を認めたり,政権交代を前提とした制度改革を進めようとす
る
民主
化
運動が盛んとなりました。1967年にインドネシア,マレーシア,シンガポール
【本試験H14】
,タイ
【慶文H30記 東南アジア大陸部の三国のうち,原加盟国を答える】
,フィリピン
【本試験H25カンボジアは原加盟国ではない】
により結成されてい
た
東南アジア諸国連
合
(
ASEA
N
,アセアン)
【追H9アジア・オセアニア地域の協調関係や安全保障と関係あるか問う,H30時期】
【本試験H18APECに改組されていない】
は,東南アジア地域の経済統合を目指すようになります。
しかし,1997年にはタイを中心
に
アジア通貨危
機
【慶文H30記】
が発生し,タイのバーツをはじめ各地の通貨の価値が下落しました。これをきっかけにASEAN(東南アジア諸国連合)に日・中・韓が協力するようになり,1997年夏以降,毎年開催されています。また,2005年からはASEAN10カ国に日・中・韓国,オーストラリア,ニュージーランド,インド,米国,ロシアを加えた東アジア首脳会議も開かれています。
2004年にはスマトラ島沖のインド洋を震源とする大地震により,インド洋沿岸を大津波が襲い,約22万人の死者を出しました(自然災害
スマトラ沖大津
波
)
。
2002年のSARS(重症急性呼吸器症候群)の東アジア・東南アジアでの大流行(医療
SARS
)
と合わせ,地域間の連携の必要性が再確認されるようになっています。
・
197
9
年~現在のアジア 東南アジア
現①
ヴェトナム
ヴェトナム戦争を経て1976年に南北が統一し,南北の統一選挙により社会主義国が成立しました。最高指導者〈レ=ズアン〉(ヴェトナム共産党中央委員会書記長 任1976~86)率い
る
ヴェトナム社会主義共和
国
は,建国直後の1978年にはカンボジア
【追H21ビルマ(ミャンマー)ではない】
との戦争を始め(~1989年に撤退),1979年にはカンボジアを支援していた中華人民共和国との間
に
中越戦
争
【追H21】
を引き起こし,勝利しました。
その後も,1988年には南シナ海
の
南沙諸
島
をめぐり再度戦争が起こっています。
1986年に〈レ=ズアン〉が死去し,後継の最高指導者〈チュオン=チン〉(1907~1988)市場経済を一部容認す
る
ド
イ=
モ
イ
(刷新)
【東京H24[1]指定語句,H30[3]】
【追H20ミャンマーではない,H24ヴェトナムか問う、H27マレーシア・ラオス・インドネシアではない】
【慶文H30記】
という政策が導入されるようになりました。対外的にも軟化し,1991年には中華人民共和国,1993年にはフランス,1995年にはアメリカ合衆国と国交を回復させています。
1995年にはASEANに加盟し,海外からの投資を呼び込むことで急速に経済発展を進めています。
・
197
9
年~現在のアジア 東南アジア
現②
フィリピン
フィリピ
ン
では,民主化運動の指導者〈ベニグノ=アキノ〉(1932~1983)が追放先のアメリカから帰国した際、マニラ空港で暗殺されたことをきっかけに,妻の〈コラソン
=
アキ
ノ
〉〔コリー=アキノ〕(1933~2009、任1986~1992)により,1986年ピープル=パワー(エドゥサ)革命が起こされました。
〈アキノ〉は国防軍の支持も得て
〈
マルコ
ス
〉
【追H20タイではない】
に代わって大統領に当選し,アメリカ海軍のフィリピン撤退や,非核憲法の制定を実施します。
1991年にルソン島
の
ピナトゥボ
山
が大噴火を起こし,成層圏にまで到達した噴煙の影響で地球全体の平均気温が約0.4℃低下しました。1993年の冷夏にともなう日本の米不足は,この記録的噴火が背景にあるとされます
。
フィリピン国内の経済格差は大きく,海外出稼ぎ労働者による送金が国家収入を支えている側面があります。またイスラーム教徒の多い南
部
ミンダナオ
島
における,暴力的なイスラーム組織 (モロ国民解放戦線など)の分離独立運動も依然として続きましたが,和平交渉に進展はみられます。しかし,1990年代以降成長したアブ=サヤフという組織は,国際テロ組織(イスラーム国)との関連も指摘され,2017年には軍事衝突も発生しました。
2016年に就任した〈ドゥテルテ〉大統領(任2016~)は国内の麻薬撲滅を積極的に推進しています。
・
197
9
年~現在のアジア 東南アジア
現③
ブルネイ
ブルネイは
,
ブルネ
イ=
ダルサラーム
国
【慶商A H30記 ASEAN原加盟国の次に加盟した国を答える(細かい)】
として1984年にイギリスより独立しました。立憲君主制ではあるものの,国王は絶対的な権力を維持しています。石油と天然ガスの輸出がもたらす潤沢な収入により,国民は高い社会福祉の水準にあります。
・
197
9
年~現在のアジア 東南アジア
現④
東ティモール
内戦が終わり、インドネシアの占領も終わる
東南アジアの東ティモールでは,独立協定の締結が難航。独立のあり方をめぐって3つのグループ
(独立派の「東ティモール独立革命戦線」vsポルトガルの自治州派の「ティモール民主連合」vsインドネシア併合派の「ティモール民主人民協会」
)が抗争し,1975年以降内戦に発展。同年にはインドネシアが介入し,翌年1976年に東ティモールの併合を宣言しました
(
東ティモール内
戦
)。
インドネシアとの紛争が続いていた東ティモールでは,1999年の住民投票の結果,2002年
に
東ティモー
ル
【本試験H18時期(20世紀後半ではない)】
【追H30時期】
がインドネシア
【本試験H18オランダではない】
から独立しました。
・
197
9
年~現在のアジア 東南アジア
現⑤
インドネシア
インドネシアは親米政策と外資の導入すすめ発展
インドネシアは1968年以降,軍人出身の
〈
スハル
ト
〉大統領(正式大統領任1968~1998)
【本試験H10スカルノとのひっかけ,インドネシア国民党の創設者ではない】
による親米政策と,外資の導入による強権的な国内開発をすすめていきました。しかし,1997年にタイを発端するアジア通貨危機の影響を受け,1998年にジャカルタで暴動が発生すると〈スハルト〉は退陣に追い込まれました。
後任には副大統領〈ハビビ〉(任1998~1999)が就任し,民主化を推進していきました。総選挙の結果,国民覚醒党の〈ワヒド〉(任1999~2001)が大統領となりました。その後,闘争民主党の〈メガワティ〉大統領(任2001~2004),民主党の〈ユドヨノ〉大統領(任2004~2014),闘争民主党の〈ジョコ=ウィドド〉(任2014~)と続きます。
2019年5月には、大統領選挙で〈ウィトド〉が再選されましたが、その結果をめぐり首都ジャカルタでは元軍人で〈スハルト〉大統領に近かった〈プラボウォ=スビアント〉派による反政府デモが勃発しています。
・
197
9
年~現在のアジア 東南アジア
現⑥
シンガポール
シンガポールは政府主導の開発政策を徹底する
シンガポー
ル
は小国ながら,
〈
リ
ー=
クア
ン=
ユ
ー
〉(李光耀、1923~2015,首相任1963~1990)による権威主義的な体制下で,金融・情報産業・中継貿易の拠点として経済成長を果たし
,
新興工業経済地
域
(NIEs)の一つ、世界有数の金融センターに数えられるようになっています。その中では、経済開発のために徹底した能力主義に基づく教育制度とエリート養成が戦略的に重視されてきました。
しかし冷戦が終わりに向かう1990年11月に〈リー〉は退任し、同月〈ゴー=チョクトン〉(吴
作栋
(呉作棟)、任1990~2004)が後継の首相に就任し、当初は「自由化」の路線をとりました。しかし〈リー〉は上級相に集団する形で影響力を残し、実質的には野党を抑圧する体制は続いたので、「ゴー率いるリー体制」ともいえます
(注1)
。実際にシンガポールでは他国でみられたような民主化運動は起きませんでした。
また小国であるインドネシアは、岩崎育夫によれば(1)自助努力による国防体制、(2)マレーシアとインドネシアとの共存関係、(3)ASEANを活用した地域諸国との協調・信頼関係、(4)最後の安全パイとしてのアメリカ合衆国―という四段構えからなっています
(注2)
。
反共産主義をとる周辺諸国との関係を重視する立場から、冷戦時代には中華人民共和国との関係には慎重で、ASEAN(東南アジア諸国連合)加盟国のインドネシアが1990年に中国との国交を樹立して、ようやく同年9月に国交を結びました。
また、アメリカ軍がフィリピンから撤退すると、1992年にシンガポールはアメリカ軍が港湾を利用することを申し出、1998年にはアメリカの空母・戦艦のシンガポール海軍基地への寄港を認めました。アメリカ合衆国を国防の後ろ盾に利用しようとしたものです。
2004年には〈ゴー〉の後継者として〈リー=クアン=ユー〉の長男〈リー=シェンロン〉(
李
显
龙、
1952~、任2004~)が首相に就任。人民行動党の一党独裁と、〈ゴー〉のとったアジア投資路線が継承されました。しかし、2011年総選挙で人民行動党が苦戦し、父〈リー=クアン=ユー〉はすべての政治・政府機関ポストから退任、その後2015年に亡くなりました。その後も〈リー=シェンロン〉首相は権威主義的な体制を維持し、「アジアだけでなく世界の自由主義国でも稀な超長期政権」が続いています
(注3)
。
(注1) 岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.156。
(注2) 岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.114。
(注3) 岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.184,221。
・
197
9
年~現在のアジア 東南アジア
現⑦
マレーシア
1981年に就任した
〈
マハティー
ル
〉首相(任1981~2003,2018~)は,マレー人優遇政策(ブミプトラ政策)を推進する一方,日本の経済発展を見習おうとす
る
ルックイースト政
策
を掲げ,長期政権を実現しました。その後〈ナジブ〉政権(任2009~2018)は外資を呼び込みクアラルンプールをイスラーム世界の金融センターにする計画を推進しましたが,2015年に不正資金をめぐるスキャンダルが発覚すると反政府運動が活発化。
2018年の選挙で野党連合が勝利し,高齢(なんと90代!)の〈
マハティール
〉首相が再任しました。史上初の選挙による政権交代です。腐敗の一掃を掲げ〈ナジブ〉前首相を訴追し、消費税も廃止。中国の巨大経済圏構想である「一帯一路」(いったいいちろ)に関連する「マレーシア東海岸鉄道計画」の事業規模を縮小させることにも成功しました。
・
197
9
年~現在のアジア 東南アジア
現⑧
カンボジア
カンボジ
ア
では依然として不安定な情勢が続いています。
1979年にヴェトナム軍がカンボジアに軍事進出し,
〈
ポ
ル=
ポ
ト
〉政権
【追H20ラオスではない】
を打倒すると,〈ポル=ポト〉政権を支援していた中国が報復としてヴェトナムを攻撃しました
(
中越戦
争
)
【本試験H24年代を問う】
。
その後
,
カンボジア内
戦
を経て1991年にはASEAN諸国が主導
し
カンボジア和平協
定
が結ばれ,1993年に立憲君主制
の
カンボジア王
国
が成立しました。
国内には内戦時代の爪痕が残り,多くの地雷が埋められています(1999年
に
対人地雷禁止条
約
が発効)。
1995年以来,〈フン=セン〉首相が政権を維持しており,2018年の総選挙でも再任が決まりました。
・
197
9
年~現在のアジア 東南アジア
現⑨
ラオス
ラオスでは1975年に社会主義国
の
ラオス人民民主共和
国
が成立し,マルクス=レーニン主義に基づくラオス人民革命党の一党独裁制がとられています。初代最高指導者は〈カイソーン・ポムウィハーン〉国家主席(任1975~1991)です。
しかし,1986年には1986年,新経済政策がとられ自由化が始まり,関係の悪化していた中華人民共和国と隣国のタイとも関係を改善。1997年にはASEANに加盟しました。1997年のアジア経済危機の影響を受けたものの,順調に経済成長を果たしていますが,以前として農業人口が7割占めており,工業化は遅れ消費財はタイからの輸入に依存しています。
・
197
9
年~現在のアジア 東南アジア
現⑩
タイ
タイ
は
チャクリ
朝
による立憲君主制が続き,アメリカ合衆国を初めとする西側諸国寄りの外交政策をとってきました。〈プレーム〉(首相任1980~88)軍事政権の下,1980年代後半から外資を導入した積極的な工業化を進めていきます。
1991年に軍事クーデタが起き1992年に総選挙が行われました。国軍の最高司令官〈スチンダー〉が選出されると,民主化を求める市民勢力との間で流血ざたとなりましたが(暗黒の5月事件),〈プミポン〉(ラーマ9世)が仲介することで解決に至りました。
1997年には投機的な資金の影響を受けてタイの通貨バーツの暴落し,周辺諸国に通貨危機・経済危機が広まりました
(
アジア通貨危
機
)。
2001年に実業家出身の
〈
タクシ
ン
〉(任2001~2006)が首相に就任すると,外資を積極的に導入し,国内向けには社会保険制度改革や公共事業を推進して支持を集めました。
しかし,強権的な手法や汚職疑惑が保守派の反発を生み,2006年の選挙は不正が疑われ,反〈タクシン〉派の動きが活発化しました。憲法裁判所により選挙が違憲とされると,2006年9月に陸軍によるクーデタが発生。軍政の後,2007年に〈タクシン〉派の首相(ソムチャーイ,任2008)に民政復帰しましたが,黄色いシャツがトレードマークの反〈タクシン〉派の人民民主連合(PAD)が主要施設を占拠して反政府運動を起こし,内政は混乱。
2008年に憲法裁判所の介入(司法クーデタ)で政権与党が崩壊すると,最大野党である民主党の〈アピシット〉政権(任2008~2011)が成立しましたが,今度は赤いシャツがトレードマークの反独裁民主戦線(UDD)が「民主的ではない〈アピシット〉政権を倒し,〈タクシン〉派を復活させよう」と主張し反政府運動を開始します。このUDDによるデモは2010年に入って過激化し,2011年に総選挙が行われると〈タクシン〉派のタイ貢献党が大勝する結果となり,〈タクシン〉の妹である〈インラック〉が首相(任2011~2014)に就任しました。〈インラック〉政権は内政の安定に務めましたが,2013年に〈タクシン〉の恩赦(おんしゃ)を目指すようになると,再び反政府デモが活発化。これを受け2014年に選挙が開かれましたが,憲法裁判所により無効と,〈インラック〉首相の職権乱用を認める判決を出したため〈インラック〉首相は失職しました。
同年に〈プラユット〉陸軍司令官(首相任2014~)がクーデタを起こし,軍事政権が成立しました。現在は民政移管の準備が進められており,2016年には国民投票を受けて2017年に新憲法が発布されています。
なお,2016年には長期にわたり君臨していた〈ラーマ9世〉(プーミポン,位1946~2016)が死去し,〈ラーマ10世〉(ワチラーロンコーン,位2016~)が即位しています。
・
197
9
年~現在の東南アジア
現⑪
ミャンマー
ミャンマーでは,社会主義的な政策をとっていた軍事政権が1989年に国名をミャンマーに変更
【慶文H30改称前の国名を問う】
。そんな中,民主化要求が高まったため自由選挙を認め,1990年の総選挙で全国民主連盟が80%の議席を獲得しました。
しかし,政権交代を拒否し,国民民主連盟の書記長
〈
アウ
ン=
サ
ン=
ス
ー=
チ
ー
〉
【慶文H30記】
を断続的に自宅軟禁状態に起きました(1991年にノーベル平和賞を受賞)。
彼女の父は独立の指導者
〈
アウ
ン=
サ
ン
〉であり,国民の支持も高く,非暴力民主化運動が実り,2010年に軟禁から解かれ,2016年に〈ティンチョー〉大統領のもとで外相・大統領府相・国家顧問に就任しました
(
事実上の〈アウ
ン=
サ
ン=
ス
ー=
チー〉政
権
)。2017年には,国内の
「
ロヒンギャ
族
」の武装勢力の掃討が,無差別の虐殺を招
き
国内避難
民
・難民を発生させていることから,国際的な批判が高まっています。ロヒンギャ族は,バングラデシュとの国境地帯に分布する,「ベンガルを出自とする人々」とされ,過激な上座仏教徒による迫害も受けています。
○197
9
年~現在のアジア 南アジア
南アジ
ア
...①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール
・
197
9
年~現在のアジア 南アジア
現①
ブータン
1907年以降,ブータンはワンチュク
朝
ブータン王
国
により統一されていました。1972年に王位を継いだ〈ジグミ=シンゲ=ワンチュク〉(位1972~2006)は国王の権限を弱める改革を実施しましたが,1989年以降,チベット系の文化・言語を優遇する政策をとり,ネパール系住民の反政府運動や難民
(
ブータン難
民
)を生み出しました。王は2006年に譲位し,〈ジグミ=ケサル=ナムギャル(ナムゲル)=ワンチュク〉(位2006~)が継いでいます。〈ナムギャル〉の下で2008年には初の憲法が公布され,立憲君主国となりました。
・
197
9
年~現在のアジア 南アジア
現②
バングラデシュ
1971年にパキスタンから分離独立したベンガル人を主体とす
る
バングラデシュ人民共和
国
では,アワミ連盟の〈ラフマン〉が首相(大統領任1971~72,75,首相任1972~75)に就任し国づくりを進めましたが,チッタゴンの先住民との内戦
(1992年に停戦,1997年和平協定)
が勃発して1975年にクーデタ〈ラフマン〉は暗殺されました。その後は軍事政権が続きますが民主化運動により1991年の総選挙でアワミ連盟を破ったバングラデシュ人民党の〈ジア〉(任1991~96,2001~2006)がバングラデシュで初の女性として首相に就任,1996年にはやはり女性でアワミ連盟の〈ハシナ〉(任1996~2001,2009~)が首相に就任しました。2006年には一時軍部が暫定政権を樹立しましたが,2008年の選挙で民政に移管されています。経済の水準は低く,貧困層向けの小口の金融(マイクロファイナンス)機関をおこなうグラミン銀行
(2006年に創設者〈ムハマド=ユヌス〉(1940~)とともにノーベル平和賞を受賞)
などの民間組織が,行政を補完している側面があります。
・
197
9
年~現在のアジア 南アジア
現③
スリランカ
スリラン
カ
では,少数派でヒンドゥー教徒の多
い
タミル
系
住民と,多数派で上座部仏教徒の多
い
シンハラ
系
住民との間に政治的な対立が生まれていました。
タミル系の暴力的な組
織
タミ
ル=
イーラム解放のト
ラ
(LTTE) が1983年から武装闘争を始める
と
スリランカ内
戦
に発展しました。
内戦はスリランカの枠を超え,インドにも波及します。
南インドにタミル人を抱えるインドが,スリランカ情勢に干渉したからです。
1987年にはインドから平和維持軍が派遣されましたが,1990年には撤退。
タミル人のLTTE側との和平交渉にあたっていた〈プレマダーサ〉大統領(任1989~1993)は1993年に爆弾テロで殺害され,紛争は泥沼化します。
1995年には停戦協定が結ばれましたが,同年にLTTEが破棄すると内戦は再開。
その後,再度の停戦と再開を経て,2009年に政府軍が勝利する形で内戦は終結をみました。
スリランカの財政は対外債務に多くを依存していますが,その多くを占めるのが中華人民共和国です。中国によるユーラシア南縁部への進出("真珠の首飾り"戦略と呼ばれます)を進めており,スリランカ政府は2017年には南部の港を中国の国有企業に貸し出しており,軍事利用を警戒するインドとの対立も起きています。
・
197
9
年~現在のアジア 南アジア
現④
モルディブ
インド洋の島国であ
る
モルディ
ブ
は1965年にスルターン国として独立していましたが,1968年に共和制となり〈ナシル〉大統領(任1968~78)が就任,1978年には〈ガユーム〉(任1978~2008)が就任して一党制の長期政権を実現しました。この間にモルディブはサンゴ礁の美しい景色を生かして観光を経済資源とすることに成功しています。
しかし〈ガユーム〉大統領の強権に対して民主化運動が起き,2008年には民主的な新憲法がつくられましたが,同年の選挙でモルディブ民主党の〈ナシード〉(任2008~12)に敗れ,交替しました。しかし与野党の対立が続き,2012年に〈ナシード〉が辞任し,副大統領の〈ワヒード〉(任2012~2013)が大統領に就任します。
そんな中で行われた2013年の大統領選挙では,復権をねらう元大統領で,モルディブ進歩党を創設していた〈ヤミーン〉(任2013~)が選出され,連立与党が成立しました。
モルディブの経済は観光業と水産業に依存しており,地球温暖化による海面上昇で国土の水没の危機があると,国際社会に訴えています。〈ヤミーン〉大統領は現代版シルクロード「一帯一路」構想を進める中華人民共和国との結びつきを強め,中国資本の導入に積極的。しかし中華人民共和国に対する債務は積み上がって経済的な従属が進み,港湾を中国の国有企業に貸し出しています。
そんな中2018年に最高裁が野党政治家の釈放・復職を要求すると,〈ヤミーン〉は非常事態を宣言して,野党寄りの〈ガユーム〉元大統領を拘束しました。それに対し,〈ヤミーン〉の異母兄(いぼけい)でイギリスに亡命中の〈ナシード〉元大統領はインド軍に支援を要請する事態となっています。
・
197
9
年~現在のアジア 南アジア 現⑤インド
21世紀に入り、「巨象」インドが経済的に台頭する
インドでは、憲法が政治権力をある程度コントロールする機能を果たし、この時期には選挙による選挙交替も定着していきます
(注1)
。
非同盟の立場をとりつつも計画経済をとってきたインドは,1980年代からは
「
緑の革命
」
という農産物の生産量をあげる品種改良や技術革新を進めました。効率重視の方策は農村部では貧富の差という"影"も落としていますが,その後の工業化の進展に寄与することになりました。
1977年の選挙で,インド国民会議派から政権交替を果たした人民党(ジャナタ党)の〈デーサーイー〉首相(1977~79)は,もともと国民会議派でしたが,さまざまな勢力を結集した野党の連合政権的な特徴を持っていました。そこで,1979年には民衆党を結成した〈チャラン=シング〉が離脱し,首相に就任しました。初のバラモン階級ではない首相です。
しかし,第二次石油危機の影響で1ヶ月足らずで崩壊し,80年の選挙では
〈
インディ
ラ=
ガンディ
ー
〉が首相に返り咲きました。同年には,人民党から離脱した人々
が
インド人民
党
(BJP)
【早商H30[4]論述 国民会議派に対抗する政治勢力を答える】
を結成し,「ヒンドゥー教がインドのシンボルである」とい
う
ヒンドゥ
ー=
ナショナリズ
ム
の運動を発展させていくことになります。このように,インドの人々が,宗教や宗派にもとづいてまとまろうとしていく考え
を
コミュナリズ
ム
といいます。BJPの母体でもある民族奉仕団(RSS)が,初等教育や女性の人権などの運動により,民衆レベルで支持を伸ばしていたのです。指導層はバラモン出身者が多く,イスラーム教徒への対抗意識から,ヒンドゥー=ナショナリズムを推進しています。1992年には『ラーマーヤナ』の主人公ラーマの生誕地であるアヨーディヤーのイスラーム教のモスクを破壊する運動が起き,暴動事件が起きました。
1980年に〈インディラ=ガンディー〉は再選されましたが,アムリットサルにあるシク教寺院を攻撃したことから,1984年
に
シク教
徒
により暗殺されてしまいます。後を継いだ息子の
〈
ラジーヴ・ガンディ
ー
〉(1944~1991,任1984~89)は
,
スリランカ内
戦
に介入し,インド平和維持軍を派遣しました。スリランカからタミル人が難民として移動してきたことに対応し,アメリカや中国が内戦に介入する前に内戦を収めようとしたのです。しかしその後,スリランカ情勢は泥沼化して1990年に撤退。さらに,スキャンダルで支持を失い,辞職後にはスリランカのタミル人の暴力的な組織
(
LTT
E
(
タミル・イーラム解放のト
ラ
))に暗殺されました(辞職後の1991年のことです)。
インド人民党は1998年に政権を掌握。〈ヴァージーペーイー〉首相(バジパイ,任1996,1998~2004)の下,パキスタンを牽制するために核実験を実施(
199
8
年インドの核実
験
)。ICT(情報通信技術)産業を育成し,アメリカ合衆国にも接近して経済の自由化を推進。こうして「巨象」
(注2)
インドは,2000年代前半には新興国
(
BRIC
s
【セA H30】
)の一員に数えられるようになりました
【早商H30[4]論述(1990年代のインドの政治・経済の状況)】
。
その後,2004年に国民会議派の〈マンモハン=シン〉首相(任2004~14)に政権交代しました。初のシク教徒の首相です。
2014年には再びインド人民党の〈モディ〉首相(任2014~)に交替しています。
インドは今なお多くの貧困層を抱え,その背景には根強いカースト制度の影響力があります。インドの人口の15%を占めるといわれるダリットは,かつて不可触賤民といわれ,カースト制度の底辺に属する人々です。彼らの地位向上運動も盛んになっています。
(注1)鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.368。
(注2)鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.370。
・
197
9
年~現在の南アジア
現⑥
パキスタン
パキスタ
ン
では,クーデタにより政権を掌握した陸軍参謀長〈ハック〉による軍政が88年まで続きました。しかし,国際的な批判も高まり,〈ブットー〉(1928~79,大統領在任71~73,首相在任73~77)の娘〈ベーナジール=ブットー〉(1953~2007,首相在任1988~90,93~96)がのちに,1989年に首相となりました。90年の総選挙でイスラーム民主連合の〈ジャトーイー〉政権(任1990),さらにパキスタン=ムスリム連盟の〈シャリーフ〉政権(任1990~93)に移行しました。1991年には「シャリーア施行法」が制定され,コーランやスンナの規定が最高法規とされました。同時期のインドではヒンドゥー=ナショナリズムが高揚していましたから,表と裏の関係にあるといえます。
1979年
に
ソ連がアフガニスタンに侵
攻
すると,アメリカはアフガニスタンのイスラーム教徒の義勇軍を支援しました。そのとき提供された武器や資金は,1989年にソ連が撤退した後
に
ターリバー
ン
政権がアフガニスタンに誕生したり国際テロ組
織
ア
ル=
カーイ
ダ
が生まれていく遠因となりました。
1998年にインドの核実験に対抗して
,
パキスタンも核実
験
を実施し
【本試験H24・H26ともに時期】
【追H20(19世紀以降のイスラーム諸国について適当なものを選ぶ)】
,緊張が高まりました。翌年には北部
の
カシミールで武力衝
突
(カルギル紛争)も起こっています。1999年に
〈
ムシャラ
フ
〉陸軍参謀長(首相在任1999~2002,大統領在任2001~2008)がクーデタで権力を掌握し,1990年以降の民政の時代が終わりました。アメリカ同時多発テロ事件とアフガニスタン侵攻が起きると,〈ムシャラフ〉はアフガニスタンのターリバーン政権ではなく,アメリカ合衆国に接近しました。国内のイスラーム原理主義的な勢力からの批判も高まり,2008年に辞任しました。
なお,中華人民共和国は2013年にパキスタンのグワーダル港の管理権を獲得し,港湾を開発しています。それに対しインド政府は中華人民共和国による軍事進出を警戒しています
(
中華人民共和国の海洋進
出
)。
〈マララ=ユスフザイ〉(1997~)は,パキスタン北部の女子学校に通学していた際,パキスタンにおける武装勢力ターリバーン運動が女子教育を妨害しようとしたことに対し,2009年に匿名でイギリス国営放送に批判メッセージを送り,のち実名を公表して講演活動を行いました。それに対し2012年(15歳のとき)にターリバーン運動から銃撃を受け負傷しましたが一命をとりとめ,2014年度のノーベル平和賞を17歳で受賞しています。
・
197
9
年~現在の南アジア
現⑦
ネパール
ネパールは立憲君主制をと
る
ネパール王
国
(
ゴルカ
朝
)により統治され,パンチャーヤト制という制度により国王に強大な権力が与えられていました。
しかし,1979年に民主化を求めるデモが起きて反政府運動に発展すると,〈ビレンドラ〉国王(位1972~2001)は1980年に憲法を改正しました。1990年には民主化運動が起き,ようやくパンチャーヤト制の廃止が宣言され,国民主権が認められました。1991年には複数政党制の下で総選挙が実施され,ネパール会議派の〈コイララ〉(任1991~94,98~99,2000~2001,2006~2008,2008)が首相に就任しました。
しかし,王制そのものを廃止しようとする勢力であるネパール共産党毛沢東派
(
マオイス
ト
)派が1996年に内戦を起こすと,ネパール各地で治安が悪化。方針をめぐる対立から王宮で〈ビレンドラ〉国王が王太子(父の死後,数日で死去)により殺害されたとされ,弟〈ギャネンドラ〉(位2001~2008)が国王に即位するという事態が起きます
(この事件には不審な点も多い)
。
ネパール内
戦
は多くの犠牲を出した後,2006年に包括的和平合意が成立しました。2007年に暫定憲法が公布され,国際連合によるミッション(UNMIN,2007~2011)が派遣され,2008年に実施された選挙により成立した制憲議会
で
王制の廃
止
と連邦民主共和制への以降が決定されました。
しかし憲法は制定されないまま,
2015年に首都カトマンズ周辺がネパール大地震(マグニチュード7.8)の被害を受け
,同年には復興を視野にいれ新憲法が公布されました。この地震では,ネパール最古の仏教寺院スワヤンブナートなど多くの世界遺産の建築物が被害を受けています。
○197
9
年~現在のアジア 西アジア
西アジ
ア
...①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ
(注)
,⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
(注)パレスチナを国として承認している国連加盟国は136カ国。
1979年代以降,西洋化への反動や,アメリカ合衆国の中東政策への反発から,伝統的なイスラームを基盤とした生活・文化・政治を復活させようとす
る
イスラーム復興運
動
が盛んとなりました。その影響は政治の世界だけにはとどまらず,日常生活の中にイスラームの習慣や伝統を復活させようとする運動も起きました。
例えば,1928年(一説には1929年)に設立されていた
(注)
エジプト
の
ムスリム同胞
団
は70年代以降,医療・教育・相互扶助といった社会奉仕活動を積極的に行い,人々の支持を拡大させていきました。ムスリム同胞団の理論的な支柱となった〈クトゥブ〉(1906~1966)は社会の正義はイスラーム法が施行されている地域でのみ実現されると主張しましたが,彼の思想はのちに
〈
ウサー
マ=
ビ
ン=
ラーディ
ン
〉(1957~2011)といったテロリズムを重視する暴力的なグループに影響を与えることになります。
1979年に
は
イラ
ン
【追H21イラクではない】
で
イラ
ン=
イスラーム革
命
が起き,シーア派指導者
〈
ホメイ
ニ
〉
【本試験H4】
の下でパフレヴィー朝が打倒されました。1980年~1988年にはアメリカ合衆国の支援を受けたイラクの〈フセイン〉政権との間
に
イラ
ン=
イラク戦
争
が勃発。
1990年8月2日に〈フセイン〉大統領は隣国クウェート
【追H9】
に侵攻し,同8日に併合を宣言。国際連合安全保障理事会は決議第660号により,イラクに撤退を勧告。イラクが従わなかったため,第661号による経済制裁
【追H9】
を加えます。それでも従わなかったため,決議第665号で加盟国海軍による禁輸執行措置(海上阻止行動)もとられ,さらには11月29日
,
安保理決議
第
67
8号
により,国連加盟国に「国際の平和と安全を回復するため必要なあらゆる手段」をとる権限を与えます。こうして,アメリカ軍を主体とする多国籍軍(湾岸多国籍軍)は,1991年1月17日に攻撃を開
始。戦闘は2月28日に終わり,4月に正式に停戦します。
国連によるイラクに対する経済制裁は戦後も続き,軍事施設をつくっていないか調べるための査察受け入れをめぐり,1998年にはミサイル攻撃がアメリカとイギリスによって実行に移されました。
その後,2001年にアメリカ同時多発テロ事件が起きると,容疑者とされた
〈
ウサー
マ=
ビ
ン=
ラーディ
ン
〉を匿っているとし
て
アフガニスタ
ン
【セA H30地図上の位置,イラクとのひっかけ】
に侵攻し
,
ターリバー
ン
政権を打倒しました。2003年には「大量破壊兵器」を保有しているとし
て
イラ
ク
【セA H30地図上の位置と政権を問う
】
戦
争
を開始しましたが,アフガニスタンと同様に戦後の占領政策に失敗し,のちに撤退を迫られました。
アメリカのイラクに対する一方的な介入は,各地イスラーム組織の反米思想にますます火をつけ,それらがもともと存在していた暴力的なグループの受け皿となるきっかけをつくりました。しかし,そのような動きはイスラーム教徒全体からみるときわめて少数であるにもかかわらず,「イスラーム」を「テロリスト」と結びつけたり,「イスラーム文明と非イスラーム文明との戦い(
「
文明の衝
突
」)」ととらえる言説が無数に生み出され,世界各地で大国によ
る
暴力や不寛
容
を正当化させていきます。
例えば,中華人民共和国やロシアでは国内の反体制派に対する鎮圧を
「
対テロ戦
争
」の一環と位置づけ,イスラエルでは「テロリスト」の活動を防ぐためパレスチナへの軍事侵攻や"安全フェンス"の建設による入植地の拡大が実行されていきました。イラク戦争にも正当な開戦理由といえるものはなく,「対テロ戦争」の名目でCIA(アメリカ中央情報局)が主導して開戦に持ち込まれたのだということが,のちに明らかになっています。
これらの過程で,アル=カーイダのメンバーや関連団体を自称する実行犯により,インドネシア・バリ(2002),スペイン・マドリード(2004),イギリス・ロンドン(2007),パキスタン・イスラマバード(2008),インド・ムンバイ(旧ボンベイ)(2008)の都市を狙ったテロリズムが起こされました。
2008年
に
世界同時不
況
が起きると,21世紀初頭の原油価格が上昇を受け波に乗っていた産油国の成長に,陰りが見え出します。
アラブ首長国連
邦
の
ドバ
イ
には,828mの超高層ビル(ブルジュ=ハリーファ)が2010年に完成しました(隣接する商業施設の一つに「イブン=バットゥータ」というショッピングモールがあります)。
しかし,前年の2009年に政府系企業が借金返済を先延ばしにする発表をしたことで,ドバイ政府に対する信用が低下し,先進国が「本当にドバイに資金を貸しても大丈夫なのだろうか?」と考え,世界の建設企業の株式などが急落する事件が起きています
(
ドバ
イ=
ショッ
ク
)。
2010年末以降,
「
アラブの
春
」といわれる民主化運動が,チュニジアにはじまり,エジプトやリビアに広がりました。長期独裁をしていた指導者は倒れましたが国内の混乱は長期化し,混乱収拾のために国民の権利を制限す
る
権威主
義
,あくまで暴力により思想を実現させようとす
る
テロリズ
ム
(ジハード主義),政治的・経済的権利をめぐって国外の支援を受けて宗派ごとに争
う
宗派主
義
の波が広がっています。
シリ
ア
では2011年に民主化デモ
を
アサド政
権
(任2000~)が武力で鎮圧し,周辺諸国の介入や,国境を超える暴力的なイスラームのテロ組織による干渉を招きました。〈アサド〉政権はシーア派の一派であるアラウィ派で,多数を占めるスンナ派の国民は経済的な不満を抱いていました。民主化を求める組織は「自由シリア軍」を形成しましたが,シリアの政府軍
は
ロシ
ア
や
イラ
ン
による支援を受け,反政府勢力
は
トル
コ
の支援を受け,主要な都市の多くが戦場となりました。2013年にはシリア政府が化学兵器を使用した疑惑が持ち上がり,シリアは安保理の決議を受けて査察を受け入れました。
一方,イラク戦争後
に
イラ
ク
の領内では,アメリカ合衆国の駐イラク米軍司令官で元CIA長官の〈ペトレイアス〉の主導により,〈ビン=ラディン〉の後継者〈ザワーヒリー〉(1951~)が指揮するとされるアル=カーイダに対抗する自警団的な組織(覚醒評議会)が設立されていました。そこで,イラクでの主導権を失ったアル=カーイダは拠点を隣国のシリアに移します。
2014年には,〈アブー=バクル=バグダーディー〉を指導者が自ら
を
カリ
フ
と宣言し,イスラーム過激派組織
「
イスラーム
国
」
(IS(アイエス);ISIL(アイシル))
の成立(建国)を宣言しました。イスラーム国は,アル=カーイダから分離して支配領域を広げていき,シリアでジハード主義を掲げる反政府組織「ヌスラ戦線」も,当初は「イスラーム国」に加わりました
(注
)
。
「イスラーム国」は湾岸戦争,イラク戦争以来のアメリカ合衆国に対する過激な思想を受け継ぎ,グローバル=ジハード(世界規模で非イスラーム世界に対して暴力闘争を目指す考え)を掲げ,インターネットを通して全世界に活動内容を配信。それに触発された人々の中には2015年のフランスにおけ
る
パリ同時多発テ
ロ
を初め,ベルギー,ドイツ,イギリス,スペインなど先進国の都市の住民を無差別に狙ったテロリズムを起こす者も現れています。これらの実行犯は「イスラーム国」本体からの組織的な指示を受けたというよりは,個人的に過激化し"一匹狼"(ローンウルフ)として犯行に至った者が少なくないとみられています。
(注)アブドルバーリ=アトラーン『イスラーム国』集英社,2015,p.113。
こうしてシリアでの内戦は,〈アサド〉政権と反政府派(自由シリア軍,クルド人勢力など)に関係国・勢力が介入するという構図にとどまらず,イスラーム国が全世界のイスラーム過激派に訴えかける形で拡大していったのです。2014年にイスラーム国はシリアのラッカ県を制圧。残虐な手法をインターネットを通じた映像で公開し,支持者をひきつけていきました。
これに対してロシアは2015年9月にシリアに軍事介入し,2016年にはシリア政府軍が各地で攻勢を強めましたが,同年にはトルコもシリアの反政府派(自由シリア軍)と連携し,イスラーム国やクルド人勢力に対する軍事介入を行っています。2017年4月にはシリア政府が再度化学兵器を使用した疑惑が起こり,アメリカ合衆国の〈トランプ〉政権はシリアをミサイル攻撃しました。同年10月にはイスラーム国の拠点ラッカが陥落し,イスラーム国は事実上崩壊しています。2018年1月には再度トルコがクルド人勢力に対して攻撃。同年2月以降は,シリア政府軍とそれを支援するロシアの化学兵器使用の疑惑をめぐり,イギリス・フランス・アメリカ合衆国がダマスクス東部の東グータに対してミサイル攻撃をしました。
以上の過程で,イスラーム教徒が少数派の地域では,過激
な
ジハード主
義
(テロリズムによる直接行動を正当化する思想・動き)が
,
イスラーム主
義
(欧米の近代化の思想・体制に対し,イスラームの思想・体制を見直そうとする思想・動き)やイスラーム教徒全体と十把ひとからげにされ,イスラーム教徒に対するヘイトスピーチやヘイトクライムを生んでいます。
(注)神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.230。
・
197
9
年~現在の西アジア
現①
アフガニスタン
アフガンにソ連,続いてアメリカが軍事進出する
アフガニスタン王
国
は国内に複雑な民族分布を抱えた国家でした。1973年にクーデタにより王政が廃止され,王族の〈ダーウード〉がアフガニスタ
ン
共和
国
の大統領に就任。
彼はイスラームにのっとった国づくりをすすめようとする勢力(イスラーム主義)と,ソ連の支援を受けて社会主義国をつくろうとする勢力(アフガニスタン人民民主党パルチャム派)の両派を弾圧したので,三つ巴(どもえ)の形成に発展。
1978年に〈ダーウード〉は暗殺され,1978年に社会主義政権が樹立され,アフガニスタ
ン
民
主
共和国となります。首相に就任したのは,アフガニスタン人民民主党パルチャム派と対立する,ハルク派でパシュトゥーン人(ギルザイ部族連合タラク部族ブラン氏族出身)〈タラキー〉(1917~1979)です。パルチャム派は急進派,ハルク派は穏健派です。
しかし,1979年にはパシュトゥーン人(ギルザイ部族連合ハルティ部族出身)〈アミーン〉(1929~1979)により〈タラキー〉は逮捕され,〈アミーン〉がで政権を獲得。しかし,それに対しイスラーム主義者が国外でジハードを宣言して結成し
た
ムジャーヒディー
ン
が対抗し,事態は泥沼化します。
アフガニスタンの混乱は,隣国イランの革命
(
イラ
ン=
イスラーム革
命
)とも連動していました。
これをみたソ連の〈ブレジネフ〉は,アフガニスタンにイスラーム教「原理主義者」を抑え込むことのできる強力な親ソ連政権が必要だと考え,1979年12月24日に軍事的に進出して,同27日に〈アミーン〉を暗殺。代わりにパシュトゥーン人(ギルザイ部族連合モッラヘル部族)〈カールマル〉(1929~1996)に政権を樹立させたのです。
これを,ソ連のアフガン侵攻
(
アフガニスタン侵
攻
)といい,アメリカ合衆国をはじめとする西側諸国との関係は一気に冷却。
「
新冷
戦
」と呼ばれる状況となりました。
このときアメリカ合衆国は反ソ連勢力ならなりふり構わず支援し,ムジャーヒディーンやハザーラ人に軍事援助をしています。
その後,1987年に〈ナジーブッラー〉が大統領(任1987~1992)に就任。1989年にソ連はアフガニスタンを撤退。今度は,国内の政権争い(アフガニスタン内戦)が始まると,ムジャーヒディーンは1992年にアフガニスタン
=
イスラム
国
を建て
,
タジク
人
を中心とするイスラム協会の〈ラッバーニー〉が大統領となります(任1992~2001)。
しかし,そこへパキスタン北西部から進出したのが
,
パシュトゥーン
人
主体
の
ターリバー
ン
という勢力。1996年にはカーブルを占領し,ターリバーンに対抗する勢力(「北部同盟」)との間で深刻な内戦に発展しました。
北部同盟には
,
タジク
人
のイスラム協会
,
ハザーラ
人
のイスラム統一党
,
ウズベク
人
のイスラム民族運動などが合流。複雑な民族構成ゆえの内戦でもありました。
ターリバーン政権下では厳格なイスラーム法に基づく支配が行われ,2001年にはかつて〈玄奘〉も旅行記に記録し
た
バーミヤンの石
仏
(世界文化遺産)を,「偶像」であるとして爆破されています。
同年9月11日にアメリカ合衆国で同時多発テロが勃発。その首謀者とされる〈ウサーマ=ビン=ラーディン〉をかくまっているとして,アフガニスタンのターリバーン政権はアメリカ合衆国の攻撃を受けます。アメリカ合衆国をはじめとす
る
有志連
合
軍は,国内の北部同盟とともにアフガニスタンに軍事侵攻(
200
1
年アフガニスタン侵
攻
)。同年11月にカーブルが陥落し,代わって〈カルザイ〉(1957~)に暫定政府(暫定行政機構議長)を樹立させました。〈カルザイ〉は,ドゥッラーニー部族連合ポーパルザイ部族カルザイ氏族出身で,2004年以降
,
アフガニスタ
ン=
イスラム共和
国
の正式な大統領も勤めます(任2004~2014)。
しかし,政府ポストの民族構成をめぐるバランスは難しく,アメリカ合衆国軍の駐留が継続する中でも,テロなどの治安の悪化に歯止めがかからず,ターリバーンとの和平交渉も難航しています。なお,アフガニスタンでは日本人医師〈中村
・
197
9
年~現代の西アジア
現②
イラン
イラン革命後,イスラーム共和制を導入する
1979年
に
イラ
ン
【追H21イラクではない】
=
イスラーム革
命
が起き,ウラマーの
〈
ホメイ
ニ
〉(1902~89)
【本試験H4石油国有化をしていない】
が指導者となって
,
イラ
ン=
イスラーム共和
国
が建国されました。イランは2005年に対外強硬派の
〈
アフマディネジャ
ド
〉(任2005~2013)が大統領に当選します。以前から疑惑が持ち上がっていた核開発や「核の闇市場」との関係について,2004年のパリにおけるイギリス,フランス,ドイツとの合意により核開発が停止されていました。ところが,〈アフマディネジャド〉はこれを2005年に再開させ,ウラン濃縮活動を行いました
(天然のウランには核分裂を起こさない性質のものも含まれているため,濃度を高めて核燃料として使用可能なものとする必要があります)
。これに対しイギリス,フランス,ドイツ,アメリカ合衆国,ロシア連邦,中華人民共和国の6か国が動き,2006年には国連安保理がウラン濃縮と再処理活動をやめるように決議をしました。しかし,それでも停止しなかったため,2007年・2008年に安全保障理事会は制裁決議を採択。しかし2009年以降もウラン濃縮活動を停止することはなく,アメリカ合衆国とEUを中心とした経済制裁が課されるとともに,解決に向けた動きが進められていきます。
そんな中,2013年には穏健派でシーア派のウラマーである〈ロウハニ〉(任2013~)に交替し,2015年7月には経済制裁の解除を見返りに核開発を制限する合意
(
イラン核合
意
)がアメリカ合衆国・イギリス・フランス・ドイツ・中華人民共和国・ロシア連邦・EU,イランとの間にウィーンで成立しました。しかし,核合意の内容を「甘い」とみるイスラエルは合意に反発し,推進した〈オバマ〉大統領との関係は悪化。
イランは,2016年1月にはサウジアラビアとの国交を断絶しました。2015年に始まっ
た
イエメン内
戦
で,イランが反政府側
の
フーシ
派
を支援していることも背景にあります。
2017年1月にアメリカ合衆国に〈トランプ〉大統領の就任後も,イランはミサイル発射実験を実施し,アメリカ合衆国は5月に再選された〈ロウハニ〉大統領を非難。2018年5月には「イラン核合意」には欠陥があるとして〈トランプ〉大統領は合意からの離脱を発表しました。その直後にはイランは,支援を続けるシリア
(アラウィー派の〈アサド〉政権を支援しています)
の領内からイスラエルの占領するゴラン高原をミサイルで攻撃しました。
・
197
9
年~現在のアジア 西アジア
現③
イラク
イランの隣国
の
イラ
ク
は,1980年にシーア派による革命の影響がおよぶことを恐れて,国境地帯を攻撃しました。バックにはペルシア湾岸諸国
(
湾岸協力理事
会
,
GC
C
)の支援がありました。イランのパフレヴィー朝のように,革命によって王政が倒されることをおそれ,イラクを支援してイランの革命の打倒をめざしたのです。これ
を
イラ
ン=
イラク戦
争
といいます。
イラクの山岳部の油田地帯に居住する少数民
族
クルド
人
は,イランと提携して〈フセイン〉政権に抵抗しました。しかし,1988年に停戦すると,〈フセイン〉政権はクルド人に対して化学兵器を使用して弾圧しました。
1990年にイラクの
〈
フセイ
ン
〉大統領(1937~2006)
はクウェートを侵攻しました。1980~88年
の
イラ
ン=
イラク戦
争
により財政が悪化し,隣
国
クウェート
国
の油田を獲得しようとしたものです。クウェート国はもともと遊牧民が定住していた地域に,1756年に成立した王朝が1914年にイギリスの保護国となり,1961年に独立。その当時からイラクとの国境紛争が続いていました。イラクのクウェート侵攻に対してアメリカ合衆国を中心とする多国籍軍が介入し,1991年
に
湾岸戦
争
【本試験H14冷戦終結前ではない,本試験H26時期】
が起きました。
アメリカやイギリスは,イラク国内
の
クルド
人
とシーア派住民に抵抗を呼びかけ,内戦が勃発しましたが,結局〈フセイン〉政権により鎮圧されました。抵抗に失敗したクルド人は,100万人以上
の
難
民
となってトルコやイランを目指したため,〈緒方貞子〉(任1991~2000
)
国連難民高等弁務
官
が,
同
事務
所
(UNHCR)の活動を指揮して,救援活動にあたりました。国連安保理
は
クルド
人
の保護を決議し,アメリカとイギリスが中心となってクルド人の帰国を助けています。
イラク北部にあるクルド人の分布地域には油田が多く立地し,アメリカ合衆国はクルド人を支援することで石油の利権をねらったと考えられています。実際に「クルド人保護」のためにイラク北部には飛行禁止区域が設定され,南部のシーア派住民が多い地域も同様に飛行禁止区域に設定されました。
湾岸戦争後も,国連によるイラクに対する経済制裁は戦後も続き,大量破壊兵器や軍事施設をつくっていないか調べるための査察受け入れをめぐり,1993年にはアメリカ,フランス,イギリス,1998年にはアメリカとイギリスにより,ミサイル攻撃が実行に移されています。
アメリカを中心とするイラクへの執拗な攻撃は,中東全体のアメリカに対する印象を悪化させることとなっていきました。つまり,アメリカ合衆国を,イスラーム教徒の世界に進出する"敵"とみなす言説が発展していくことになるのです。
1989年にソ連がアフガニスタンから撤退すると,ソ連と戦った義勇軍(ムジャーヒディーン)は故郷に帰国していきました。その中の一人がサウジアラビアの富豪
〈
ウサー
マ=
ビ
ン=
ラーディ
ン
〉です。彼は,アメリカ合衆国が中心となってイラクを攻撃した湾岸戦争をイスラーム世界に対する攻撃ととらえ,イスラーム世界を守るために世界各地を拠点とした「ジハード」を実行するべきだとする思想を形成し,国際テロ組
織
ア
ル=
カーイ
ダ
を立ち上げました。
2001年にアメリカ合衆国本土で同時多発テロを引き起こされると,アメリカ合衆国はその首謀者を〈ウサーマ=ビン=ラーディン〉と特定し,彼をかくまうアフガニスタンのターリバーン政権
【セA H30フセイン政権ではない】
に武力侵攻して政権を崩壊させました。
アメリカ合衆国はその後さらに2003年には,イラクが"大量破壊兵器を保有している"と主張し
て
イラク戦
争
【追H29】
を開始しました。イラク
の
政権は崩
壊
【追H29】
し2003年末に拘束された
〈
フセイ
ン
〉大統領
【追H29】
【セA H30ターリバーン政権ではない】
は,イラク高等法廷(「バグダード裁判」と言うことも)で死刑判決が下され,2006年に処刑されました。
・
197
9
年~現在のアジア 西アジア
現④
クウェート
1961年にイギリスから独立していたクウェートでは,首長サバーハ家による支配が続いています。
1990年には隣国イラクの〈フセイン〉政権が軍事的に侵攻し,一時イラクに併合されましたが,1991年
の
湾岸戦
争
によって独立が保たれました。
・
197
9
年~現在のアジア 西アジア
現⑤
バーレーン
シーア派が多数を占めるバーレーンは1971年に「バーレーン国」としてイギリスから独立していました。首長はスンナ派であったことからシーア派国民による民主化要求も高まり,2002年に絶対君主制から立憲君主制に移行し,バーレーン
王
国
となります。初代国王は〈アール=ハリーファ〉(首長任1999~,国王任2002~)です。
2011年にはさらなる民主化要求が強まり反政府デモが起きますが,鎮圧されて死傷者を生みました。
・
197
9
年~現在のアジア 西アジア
現⑥
カタール
カター
ル
はサーニー家の〈ハリーファ〉が父の外遊中に首長に就任(任1972~1995)。
1981年には湾岸協力会議(GCC)に加盟。
1995年にはサーニー家の〈ハマド〉が,父〈ハリーファ〉の外遊中に首長に就任(任1995~2013)。首都ドーハの開発に着手し,衛星テレビ
局
アルジャジー
ラ
の設立にも関わります。
2013年に父の譲位により,〈タミーム〉首長が就任(任2013~)。
2017年にはサウジアラビアやアラブ首長国連邦など中東諸国がカタールとの国交断絶を発表しました
(
中東諸国のカタールとの断
交
)。背景には,イランとサウジアラビアとの対立構図があるとみられています。
・
197
9
年~現在のアジア 西アジア
現⑧
オマーン
オマー
ン
は国王が首相・外相・財務相・国防相を兼ねる絶対君主制国家で,現国王は〈カブース〉(位1970~)です。
1981年に国家諮問評議会がつくられ,1991年に諮問議会に移行(選挙制)。1997年に設置された勅撰の国家評議会とともに二院制を形成しています。
2011年
の
アラブの
春
の影響を受け,国王は国家基本法を改正し,諮問議会・国家評議会に立法権と監査権が与えられました。
・
197
9
年~現在のアジア 西アジア
現⑨
イエメン
イエメ
ン
では1967年にイギリス領南アラビア保護領が,
南
イエメン人民共和
国
(南イエメン)として独立。
北に1962年に成立してい
た
イエメ
ン=
アラブ共和
国
(北イエメン)との間に,冷戦構造も背景とする南北対立が続きました。
1991年
に
イエメン共和
国
として南北統一が成り,北イエメンの〈サーレハ〉(任1990~2012)が大統領に就任。しかし,1994年に南イエメンが一時再独立するなど,支配は安定しません(1994
年
イエメン内
戦
)。
2011年の
「
アラブの
春
」の影響を受け,2012年に〈サーレハ〉大統領が退陣。〈ハーディー〉副大統領が暫定大統領に昇格しますが,2015年にシーア派の暴力的な組
織
フー
シ
がクーデタを起こし,〈ハーディー〉暫定大統領はアデンに逃れた後,サウジアラビアのリヤドに亡命。フーシ派の政権をイランが支持し,サウジアラビア 対 イランの対立構図がイエメンに持ち込まれる形となりました。イエメンでは深刻な食糧危機・感染症の蔓延が広がる中,アメリカ合衆国もイエメンに対し小型無人機(ドローン)による攻撃をおこなっています。
2017年6月には,フーシ派を支援するとされたカタールを,〈ハーディー〉暫定大統領がサウジアラビアなど湾岸諸国とともに断交(
201
7
年カタール危
機
)。サウジアラビアは,フーシ派を支援しているとしてイランを非難します。
なお,フーシ派側に立っていた前大統領〈サーレハ〉は,2017年にフーシ派により暗殺されています。〈サーレハ〉がサウジアラビアとの関係を回復させようとしたことが理由とみられます。
この一連の内戦の過程で,世界文化遺産に指定されたサナア旧市街の美しい街並みは,2015年以降「危機遺産」に指定されています。
・
197
9
年~現在のアジア 西アジア
現⑩
サウジアラビア
アラビア半
島
の
サウジアラビア王
国
で
は
サウード
家
による支配が続いていました。
国王は〈ハーリド〉(位1975~1982)から〈ファハド〉(位1982~2005)替わりますが,いずれも初代国王〈アブドゥル=アジーズ〉(位1932~1953)の息子にあたります。
各国王は各部族の長として君臨していて,閣僚ポストは各部族に分配されバランスをとる分権的な体制が構築されていました。
※初代〈アブドゥル=アジーズ〉(位1932~1953)→②〈サウード〉(位1953~1964)→③〈ファイサル〉(位1964~1975)→④〈ハーリド〉(位1975~1982)→⑤〈ファハド〉(位1982~2005)→⑥〈アブドゥッラー〉(位2005~2015)→⑦〈サルマン〉(位2015~)
1979年のイラン=イスラーム革命にあたり,シーア派の〈ホメイニ〉はサウード家のサウジアラビア(スンナ派に属する厳格
な
ワッハーブ
派
です)を名指しで批判。1979年にメッカで反体制派のイスラーム過激派によるモスクの占拠事件が起きると,サウジアラビアは暴力的なイスラーム主義者に資金を援助し,アフガニスタンに
「
ムジャーヒディー
ン
」として送り込みはじめました。ちょうど1979年12月から,ソ連がアフガニスタンに侵攻。イスラーム諸国からの集まった義勇軍との戦いへと拡大し,「無神論」的なソ連に対する「ジハード」に発展していきました。
〈ファハド〉国王は,2聖都(メッカ〔マッカ〕とメディナ〔マディーナ〕)の守護者を自任して,イスラーム世界における盟主を意識しますが,その一方で,1990~1991年の湾岸戦争のときにはアメリカ合衆国に国内の基地を提供して多国籍軍に参加。そのことがイスラーム主義者やシーア派のイランなどの中東諸国からの批判を集めることにもなりました。
次の〈アブドゥッラー〉国王(位2005~2015)は,諮問評議会の議員に女性を任命するなど女性の社会進出・教育に積極的で,中東諸国との連携も大切にする外交を展開します。2002年にはイスラエルとの紛争終結・和平合意・関係正常化に向けたアラブ連盟の
「
アラブ和平イニシアティ
ブ
」の採択において,指導的な役割を演じました。
石油資源を武器に,イランに敵対しつつ湾岸諸国と協調し,欧米と接近する穏健的な外交政策は,第3国王〈ファイサル〉の息子〈サウード〉によって推進されていましたが,2014年に健康上の理由で引退すると,サウジアラビアの外交政策は強硬路線へと舵(かじ)が切られます。
2015年に即位した〈サルマン〉(任2015~)は,2016年に脱石油の経済改革を推進する
「
サウジビジョ
ン
2030
」を発表。それと並行して「汚職撲滅」を口実に,自身と〈ムハンマド皇太子〉(1985~)への権力を集中させています。
体制に反対する報道への弾圧も強まっており,2018年10月には,トルコのサウジアラビア領事館内に訪れた後,反体制的なジャーナリスト〈ジャマル=アフマド=カショギ〉(1958~2018)が行方不明となり,トルコ側は大使館内で殺害されたとみています。
・
197
9
年~現在のアジア 西アジア
現⑪
ヨルダン
ヨルダ
ン=
ハシミテ王
国
はパレスチナ難民を受け入れつつも,イスラエルと友好関係を結ぶ政策をとり,1994年にはイスラエルを国家承認しています。
こうした態度をめぐっては,近隣のアラブ諸国やイスラーム主義組織からは批判の声もありますが,2011年の「アラブの春」騒乱のときにも,比較的小規模な抵抗運動の発生にとどまりました。
シリア内戦の勃発以降は
,
シリア難
民
の流入が相次ぎ,北部には最大のシリア難民キャンプであるザアタリ難民キャンプがあります。
・
197
9
年~現在のアジア 西アジア
現⑫
イスラエル
イスラエルは1979年
に
エジプ
ト=
イスラエル平和条
約
で,エジプトから国家承認されるとともに
,
シナイ半島をエジプトに返
還
しました。
一方,エジプト
の
ムスリム同胞
団
はパレスチナを平和的に支援していましたが,ムスリム同胞団のパレスチナ支部として1987年に武装闘争を目指
す
ハマー
ス
を創設しました。同年1987年にはパレスチナの入植地の一
つ
ガザ地
区
で投石やストライキなどによる抵抗運動
(
インティファー
ダ
)が勃発しました。
この動きに対し,アメリカ合衆国はパレスチナの代表として,ハマースではなく,〈アラファト〉
【セA H30】
の設立していた穏健
な
ファタ
ハ
を中心とす
る
パレスチナ解放機
構
(
PL
O
)
【セA H30】
を選びます
。
ヨルダン川西岸地
区
と
ガザ地
区
に「パレスチナ国家」を建設する道筋を示し,ノルウェーやアメリカ合衆国大統領〈クリントン〉
【追H30G.W.ブッシュではない】
が仲介となり1993年にパレスチナ人による暫定自治を認める合意
(
オスロ合
意
【追H30】
)に至り,PLOを基
に
パレスチナ自治政
府
が成立しました。しかし,パレスチナ内部では,「イスラエルからの完全解放」を求める過激派ハマースの動きが活発化していきます(2000年には第二次インティファーダが勃発)。
しかし,2001年9月にアメリカ合衆国で同時多発テロ事件が起きると,イスラエルの〈シャロン〉首相はパレスチナの過激派を「テロリスト」として非難し,静観する〈アラファト〉議長を批判。2002年3月にパレスチナに侵攻しました。
これを受けて2002年6月にアメリカ合衆国の〈ブッシュ〉大統領は,「イスラエルとパレスチナという二つの国家の平和的共存」を訴え,ロシアとヨーロッパ連合(EU)と国連とともに2003年4月に新たな和平プロセスを示しました。これ
が
中東和平のロードマッ
プ
です。
ロードマップでは,段階的にイスラエル軍を撤退させるとともに,パレスチナの過激派の活動をやめさせ,イスラエルの入植もやめさせるものでした。その上で,2003年に
は
パレスチナ国
家
を暫定的に樹立し,最終的に2005年までにパレスチナ国家の正式成立をめざすものです。
これについて2003年6月に〈ブッシュ〉大統領が仲介し,イスラエルの〈シャロン〉首相とパレスチナの
〈
アッバ
ス
〉首相が合意し,国連も2003年11月にイスラエルとパレスチナに対しロードマップを守る義務を課す決議をしました。〈アラファト〉の死後に〈アッバス〉は2005年1月に大統領に就任し,2005年9月にはイスラエル軍がガザから撤退します。
しかし,2006年1月にパレスチナで総選挙がおこなわれハマス(イスラエルに対して強硬的な政治組織)が圧倒的勝利。それに対してイスラエル側も「自衛」の名目で,入植地域を拡大するとともに
「
分離
壁
」("安全フェンス")を建設。イスラエルによるガザ侵攻や空爆も続き,対立が深刻化しています。
アメリカ合衆国の
〈
オバ
マ
〉政権は,中東和平に関して成果をあげられずに退任。続いて,2017年に就任した
〈
トラン
プ
〉大統領は,イスラエルの首都がイェルサレムであると宣言し,翌2018年には西イェルサレムにアメリカ大使館を移動させました。これに対しイスラエル軍はパレスチナのガザ地区で起きた民衆デモに対し発砲して死傷者を出しています。同年には,国内で「ユダヤ人」が唯一の自決権を持つとする
「
ユダヤ国家
法
」が成立し,国内の左派やパレスチナ人との対立を生んでいます
(注
)
。
(注)ユダヤ国家法。BBCニュース,2018.7.19(
https://www.bbc.com/news/world-middle-east-44881554
)。
・
197
9
年~現在のアジア 西アジア
現⑬
パレスチナ
,⑭
レバノン
パレスチ
ナ
ではイスラエルによる占領が続き,入植者も拡大していました。1979年にエジプトがイスラエルと和平条約を結ぶと,エジプト大統領〈サーダート〉(1918~1981)は暗殺されていまいます。暗殺を実行したのはジハード団という過激派です。
1982年にイスラエルが北方の
⑭
レバノンを侵
攻
(1982~1984)すると,レバノンではシリアとイランの支援によ
り
ヒズブッラ
ー
(ヒズボラ;神の党)が創設され,イスラエルの軍事進出に対抗しました。「自爆テロ」の手法を初めて用いたのはヒズブッラーです。
パレスチナ
一方,エジプト
の
ムスリム同胞
団
はパレスチナを平和的に支援していましたが,ムスリム同胞団のパレスチナ支部として1987年に武装闘争を目指
す
ハマー
ス
を創設しました。同年1987年にはパレスチナの入植地の一
つ
ガザ地
区
で投石やストライキなどによる抵抗運動
(
インティファー
ダ
)が勃発しました。
この動きに対し,アメリカ合衆国はパレスチナの代表として,ハマースではなく,〈アラファト〉
【セA H30】
の設立していた穏健
な
ファタ
ハ
を中心とす
る
パレスチナ解放機
構
(
PL
O
)
【セA H30】
を選びます
。
ヨルダン川西岸地
区
と
ガザ地
区
に「パレスチナ国家」を建設する道筋を示し,ノルウェーやアメリカ合衆国大統領〈クリントン〉
【追H30G.W.ブッシュではない】
が仲介となり1993年にパレスチナ人による暫定自治を認める合意
(
オスロ合
意
【追H30】
)に至り,PLOを基
に
パレスチナ自治政
府
が成立しました。しかし,パレスチナ内部では,「イスラエルからの完全解放」を求める過激派ハマースの動きが活発化していきます(2000年には第二次インティファーダが勃発)。
しかし,2001年9月にアメリカ合衆国で同時多発テロ事件が起きると,イスラエルの〈シャロン〉首相はパレスチナの過激派を「テロリスト」として非難し,静観する〈アラファト〉議長を批判。2002年3月にパレスチナに侵攻しました。
これを受けて2002年6月にアメリカ合衆国の〈ブッシュ〉大統領は,「イスラエルとパレスチナという二つの国家の平和的共存」を訴え,ロシアとヨーロッパ連合(EU)と国連とともに2003年4月に新たな和平プロセスを示しました。これ
が
中東和平のロードマッ
プ
です。
ロードマップでは,段階的にイスラエル軍を撤退させるとともに,パレスチナの過激派の活動をやめさせ,イスラエルの入植もやめさせるものでした。その上で,2003年に
は
パレスチナ国
家
を暫定的に樹立し,最終的に2005年までにパレスチナ国家の正式成立をめざすものです。
これについて2003年6月に〈ブッシュ〉大統領が仲介し,イスラエルの〈シャロン〉首相とパレスチナの
〈
アッバ
ス
〉首相が合意し,国連も2003年11月にイスラエルとパレスチナに対しロードマップを守る義務を課す決議をしました。〈アラファト〉の死後に〈アッバス〉は2005年1月に大統領に就任し,2005年9月にはイスラエル軍がガザから撤退します。
しかし,2006年1月にパレスチナで総選挙がおこなわれハマス(イスラエルに対して強硬的な政治組織)が圧倒的勝利。それに対してイスラエル側も「自衛」の名目で,入植地域を拡大するとともに
「
分離
壁
」("安全フェンス")を建設。イスラエルによるガザ侵攻や空爆も続き,対立が深刻化しています。
アメリカ合衆国の
〈
オバ
マ
〉政権は,中東和平に関して成果をあげられずに退任。続いて,2017年に就任した
〈
トラン
プ
〉大統領は,イスラエルの首都がイェルサレムであると宣言し,翌2018年には西イェルサレムにアメリカ大使館を移動させました。これに対しイスラエル軍はパレスチナのガザ地区で起きた民衆デモに対し発砲して死傷者を出すなど,混乱が広がりました。
レバノン
レバノンは1975年以降,激しい内戦を経験します
(
レバノン内
戦
,1975~1990)。
レバノン国内にはシーア派の暴力的なイスラム主義組
織
ヒズボ
ラ
が台頭し,これをイラン=イスラーム共和国(1979年建国)が支援。
イランの後押しを受けたヒズボラ
が
イスラエ
ル
への敵対姿勢を示すと,1982年にイスラエルがレバノンに侵攻
(
レバノン侵
攻
)。ベイルートを拠点としていたPLOを国外に追放し,レバノン南部に2000年まで駐留します。
混乱収拾のため,アメリカ合衆国やフランス,イギリスの多国籍軍も参加しましたが,隣国シリア(シーア派の一派アラウィー派の〈アサド〉政権)の支援もあり,多国籍軍は撤退。
1990年
に
シリアがレバノンを占
領
する形で,内戦は終結しました。
レバノンではスンナ派の〈ハリーリー〉首相(任1992~1998,2000~2004)の下で,シリア勢力を排除しつつ,レバノンの統一と復興が目指されました。
しかし,2004年に〈ハリーリー〉は爆弾テロで殺害。
「この黒幕はシリアなのではないか?」と,レバノンの民衆が反政府運動を実施
(
杉の革
命
(国旗のデザインであるレバノン杉から))し,反シリア派の政権となりました。
しかし,シリアに友好的なシーア派のイスラーム主義組織ヒズボラが,2006年7月にイスラエルを攻撃
(
ヒズボラのイスラエル攻
撃
)。これに対しイスラエルはレバノンに侵攻(
200
6
年レバノン侵
攻
)。その後,活発化したヒズボラの関与するとみられるテロが増加し,治安は一気に悪化。2009年には〈ハリーリー〉の子が首相に就任(任2009~2011,2016~)しましたが,ヒズボラやシリアの国政への干渉をめぐる混乱は続いています。
・
197
9
年~現在のアジア 西アジア
現⑯
キプロス
南部にギリシアの支援する政権
(
キプロス共和
国
)がクーデタにより樹立されていたキプロス島では,北部のトルコ系住民が反発。キプロス紛争(1974~1975)が勃発しました。
1975年に停戦したものの,1983年にトルコの支援の下,ニコシアを首都とする
「
北キプロ
ス=
トルコ共和
国
」が成立。この北キプロスを承認しているのはトルコ共和国のみであり,事実上
「
未承認国
家
」となっています。
2004年には南部のキプロス共和国がEUに加盟
(
キプロスのEU加
盟
)。2008年には検問所が撤廃され南北の往来が自由化。しかし2013年3月には金融危機(キプロス=ショック)が勃発するなど経済は不安定で,南北の統合も実現していません。
なお,キプロス島南部にはイギリス
が
アクロティ
リ
と
デケリ
ア
の基地を海外領土として領有しています。
・
197
9
年~現在のアジア 西アジア
現⑰
トルコ
1980年に軍による「9.12クーデタ」が起きますが,1983年に民政に移管。
この時期にはイスラーム主義を掲げる政党が支持を伸ばしていきます。
1999年にはEU加盟候補国に決定。2002年には公正発展党(AKP)が政権を獲得し,〈エルドアン〉(首相任2003~2014,大統領任2014~)が2000年代初め以降,国政を指導しています。
国内のクルド人問題の解決は難航し,シリアやイラクのクルド人勢力に対する越境攻撃も行っています。
2016年7月には軍によるクーデタが起きるも鎮圧され,市民にも死傷者が出ました(
201
6
年トルコにおけるクーデタ未
遂
)。非常事態宣言が発表され,クーデタに関与した軍人などへの大規模な粛清が実施されます。トルコ政府はクーデタの黒幕に,アメリカ合衆国に亡命中の宗教指導者〈ギュレン〉(1941~)の名を挙げています。
非常事態宣言は2018年7月に解除されますが,〈エルドアン〉による体制の強化が本格化しています。そんな中,アメリカ合衆国がトルコ製品に対する関税引上げを発表したことがきっかけで,トルコの通貨リラの対ドル相場が急落。市民生活にも影響が出ています。
・
197
9
年~現在のアジア 西アジア
現⑱
グルジ
ア→
ジョージア
グルジア
は"
ソ連離
れ"
をすすめ,「ジョージア」と改称する
グルジア=ソビエト社会主義共和国はソ連崩壊ととも
に
グルジア共和
国
として独立し,独立国家共同体(CIS)への加盟を,他のソ連構成国が足並みをそろえるなか,ただ一カ国だけ拒否します。
グルジアでは,「グルジア人」(主要民族
は
カルトヴェリ
人
とされました)としての民族意識が強調されていきました。
1992年に初代大統領〈ガムサフルディア〉に代わり,かつてソ連外相も務めた〈シェワルナゼ〉が大統領に就任すると,一時的にロシアとの関係を修復し,1993年にはCISに復帰しています。しかし,のちに〈シェワルナゼ〉は同じく反ロシアの姿勢を示すアゼルバイジャンのパイプラインを誘致し,1997年にはウクライナとモルドヴァも加えて,西ヨーロッパ諸国への接近と"ロシア離れ"を加速させました。
しかしロシア連邦はグルジアの自立の動きを食い止めようと,グルジアから事実上の独立を遂げている
「
アブハジア共和
国
」
「
南オセチア共和
国
」を公然と支援。これらの国家は国際的に独立が広く承認されていない未承認国家であり,ロシアの後ろ盾を武器にグルジアと対立します。
グルジアでは2003年に〈シェワルナゼ〉政権が民衆の抗議デモを受け退陣。これをバラ革命といいます。ロシアの制裁により電力供給がままならなかったグルジアの反政府勢力を支援していたのは,アメリカ合衆国です。2004年に大統領に就任した〈サアカシュヴィリ〉(任2004~07,2008~13)はアメリカ合衆国の支援を受けNATOへの加盟にも積極的。アメリカ合衆国によるミサイル配備が現実的となると,2004年にはグルジア
が
南オセチア共和
国
(ロシアが支援)に軍事進出する自体にエスカレートします。ロシアは,国際的にはグルジアの一部であるはずの南オセチアの住民を,"ロシア国民"として扱う処置を粛々とすすめていました。2008年にはグルジアと南オセチア紛争の戦争に,ロシアも介入。ロシアによるグルジアへの軍事侵攻で緊張は一気に高まります
(
ロシアのグルジア侵
攻
)。
その後の政権はロシアとの緊張緩和をすすめる一方,NATOへの加盟にも積極的であり,「コーカサスの十字路」に位置するジョージアは,ロシア連邦とアメリカ合衆国の戦略的な駆け引きの中心となっています。
なお,"ロシア離れ"の一環として,日本における国名の呼び方を,「グルジア」から,英語的な「ジョージア」に改めるよう,日本政府にはたらきかけ,2015年以降は「ジョージア」が日本における正式な呼称となっています。
オセット人
ソ連時代のグルジアでは,国内の少数民
族
オセット
人
の自治が認められていましたが,1990年にグルジアにより自治州が廃止。これに反対したオセット人が第一次南オセチア紛争を戦いますが,グルジア領にとどまりました。
この状況に対し,グルジアを通過する黒海パイプラインの利権を狙うロシア連邦はオセット人の独立運動を支援し,2008年にはグルジアとの第二
次
南オセチア紛
争
へとつながります。なぜ「南」オセチアという名称かというと,オセット人の分布が,「南」のグルジアと「北」のロシア連邦側に分断されてしまっていたからです。
承認する国はロシア連邦を含む4か国のみで,事実上
「
未承認国
家
」となっています。
アブハジア人
グルジアがソ連から独立すると,国内のアブハジア人の自治共和国を廃止。その直後
に
アブハジア
人
がグルジアから独立しようとする運動が起きます。
その後,2008年グルジア軍が南オセチアを攻撃したことで2008年に南オセチア紛争(上記)が勃発。
グルジアを通過する黒海パイプラインの利権を狙うソ連は,アブハジア人の独立運動を支援し,アブハジア共和国の建国を承認しました。承認する国はロシア連邦を含む4か国のみで,事実上
「
未承認国
家
」となっています。
・
197
9
年~現在のアジア 西アジア
現⑲
アルメニア
,⑳
アゼルバイジャン
ソ連から独立し
た
アルメニ
ア
と
アゼルバイジャ
ン
の間では,アゼルバイジャン内のアルメニア人多数派地域(ナゴルノカラバフ自治州)をめぐり
,
ナゴル
ノ=
カラバフ紛
争
も起きています。
1991年
に
アルメニア
人
住民を中心
に
ナゴル
ノ=
カラバフ共和
国
がアゼルバイジャンからの独立を宣言したことを発端するものです。1994年にはロシアが調停することで停戦され,2017年に
は
アルツァフ共和国と改称しまし
た
。しかし承認しているのは,グルジア〔ジョージア〕からの独立を宣言するアブハジア共和国と南オセチア共和国
(⇒197
9
~現在のグルジア〔ジョージア
〕
)
,さらにモルドバからの独立を宣言する沿ドニエストル共和国のみであり,事実上の
「
未承認国
家
」となっています。
●197
9
年~現在のインド洋海域
インド洋海
域
...インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島,モルディブ(→南アジア),イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域,マダガスカル,レユニオン,モーリシャス,フランス領マヨット,コモロ
インド洋の周辺国は,1995年に環インド洋地域協力連合(2003年以降は環インド洋連合に改称)を設立し,加盟国間の貿易と投資の活性化を図っています。加盟国は,インド,南アフリカ,オーストラリア,モーリシャス,ケニア,シンガポール,オマーン,インドネシア,マレーシア,スリランカ,マダガスカル,モザンビーク,タンザニア,イエメン,イラン,アラブ首長国連邦,タイ,バングラデシュ,セイシェル,コモロ,ソマリアです
(注
1)
。
インド洋では,1965年
に
モルディブ共和
国
がイギリスから独立しています
(⇒1979年~現在の南アジア)
。
1814年からイギリス領となってい
た
モーリシャ
ス
(マダガスカル島の東にあります)は,1968年に〈エリザベス2世〉を元首とするイギリス連邦王国モーリシャスとして独立していました。しかし1992年には共和制に移行しています
(
モーリシャス共和
国
)。
マダガスカル島の東に位置す
る
レユニオン
島
は,フランスの領土です。
モザンビークの北部沖に位置す
る
コモロ諸
島
はフランスの保護領でしたが,1975年にコモロ国として独立していました。独立後の政情は不安定で,1992年に複数政党制が導入されましたが,しばしば島ごとの自治を訴える政党と中央集権を目指す政党が対立しています。コモロ諸島の東部にあ
る
マヨット
島
はフランスが依然として領有しています。
セーシェ
ル
は1976年
に
セーシェル共和
国
としてイギリスから独立しますが,1977年にセーシェル人民統一党を設立し独立運動を指導した〈ルネ〉(任1977~2004)がクーデタを起こし,反米で社会主義的な一党独裁政権を樹立しました。〈ルネ〉は観光業・水産業を振興して経済を成長させた一方,国内では強権的な支配が行われていました。1991年には複数政党制に移行し,1993年には新憲法が制定されますが,その後も〈ルネ〉は2004年まで大統領を務めました。〈ルネ〉の辞任後,後任は〈ミッシェル〉(任2004~2016)で,〈ミッシェル〉は任期満了前に〈フォール〉大統領(任2016~)に引継いでいます。
かつては「帝国」支配の要としてインド洋の島々を勢力下に置いてい
た
イギリ
ス
ですが,このように次第にインド洋の島々をから手を引いていったわけです。しかし,影響力を全く手放したわけではありません。
イギリスは,インド洋の島々を,独立前のモーリシャスから分離し1965年か
ら
イギリス領インド洋地
域
として領有しています。このうちチャゴス諸島の中心であるディエゴガルシア島は,1960年代の交渉の末,アメリカ合衆国軍に貸し出されています
(注
2)
。1991年
の
湾岸戦
争
のときには多国籍軍によるイラク攻撃の基地として使用されたほか,2003年の海上自衛隊による米海軍艦艇への補給活動もディエゴガルシア島周辺で実施されました
(⇒1979年~現在の西アジア イラク,東アジア 日本)
。
しかし、このように戦略的な要衝であったインド洋にも変化が訪れます。
2019年5月には、同年2月の国際司法裁判所(ICJ)による勧告を受け、国連総会が英国に撤退を求める決議案を賛成多数で採択したのです。1965年に分離する形で独立したモーリシャスに、6カ月以内に返還するよう求めています(
チャゴス諸島のモーリシャスへの返還
)
(注3)
。
また
,
フラン
ス
は上記のレユニオン島,マヨット島のほか,インド洋南部にアムステルダム島,クロゼ諸島,ケルゲレン諸島をフランス領南方=南極地域として領有しています。
マダガスカ
ル
では民主化要求が高まり,1992年に国民投票によって憲法改正が承認され,国名が「マダガスカル共和国」に変更されます。1993年には〈ザフィ〉(任1993~1996)が大統領に就任し,〈ラツィラカ〉大統領(任1979~1993)の長期政権が崩壊しました。
しかし,1997年に〈ラツィラカ〉大統領が再選(任1993~2002)。後任には実業家の〈ラヴァルマナナ〉(任2002~2009)の選挙結果を認めず,国内は混乱します。
〈ラヴァルマナナ〉政権に対する批判を強めた,野党で首都アンタナナリボ市長の〈ラジョエリナ〉の所属するテレビ局が封鎖されたことに端を発し,反政府デモが多発。
この混乱の背景には〈ラヴァルマナナ〉大統領が韓国の民間企業に,農地を含む大規模な土地を無償で貸与する協定を結んだことがありました。
〈ラジョエリナ〉は軍の支持を得てクーデタを起こし,大統領(任2009~2014)に就任しました。2014年には平和的に〈ラジャオナリマンピアニナ〉政権に交替しています。
(注1) 外務省,https://www.mofa.go.jp/mofaj/s_sa/sea2/id/page3_002025.html
(注2) 木畑洋一「ディエゴガルシア―インド洋における脱植民地化と英米の覇権交代」『学術の動向』12(3), 2007年,pp.16-23。
(注3) 「国連総会、英撤退を要求 インド洋のチャゴス諸島」、2019年5月24日、日本経済新聞ウェブ版。https://www.nikkei.com/article/DGXMZO45207030U9A520C1000000/
1970年代以降,アフリカでは"保健革命"が起き,人口が急激に増加しました
(
人口爆
発
)。その結果,食糧不足にともな
う
飢
餓
が問題化しました。過耕作や過放牧にともない,荒れ地が広がったり,砂丘が移動または拡大したりするようになった地域も少なくありません。
アフリカでは,民族どうしが争い合っている面ばかりが注目されることが多いですが,その背景にある大国同士の利権争いや15世紀~19世紀
の
黒人奴隷貿
易
や,19世紀末の
「
アフリカ分
割
」のといった歴史的事情も含めて理解することが必要です。
なお,2010年代に入ると,マリ,ソマリア,ナイジェリアなどで
,
イスラームを掲げる暴力的な組
織
と民族運動が結びついたテロが発生するようになっています。
2011年にはアフリカ人女性として初めて
〈
ワンガ
リ=
マータ
イ
〉(1940~2011)が「持続可能な開発,民主主義と平和への貢献」によってノーベル平和賞を受賞しました。彼女は1991年に「指導者は不公平な政治経済システムこそが環境悪化と持続性のない開発モデルを促進していることをまるで理解していないようだ」と述べています。
2000年代に入ると,アフリカの「10億人市場」に注目する先進国・新興国企業が急増しています。全世界の年間所得が3000ドル以下の人々に向けた低所得者向けに,消費財市場を売り込もうとする,
「
BOPビジネ
ス
(ボトム=オブ=ピラミッド=ビジネス,経済的ピラミッドの底辺)」が盛んになっているからです。
なお,2002年に
は
OA
U
(アフリカ統一機構)
【追H9アジア・オセアニア地域の協調関係や安全保障と関係は関係ない,追H20時期(1950年代か問う)】
【本試験H31第二次世界大戦前ではない】
が発展改組されて
,
E
U
を参考にし
て
アフリカ連
合
(
A
U
)が生まれました
【本試験H24AUがOAUに発展したわけではない】
。55の国・地域が加盟する世界最大級の地域機関です
(注
)
。
(注)構成国は,アルジェリア,アンゴラ,ウガンダ,エジプト,エチオピア,エリトリア,ガーナ,カーボヴェルデ,ガボン,カメルーン,ガンビア,ギニア,ギニアビサウ,ケニア,コートジボワール,コモロ,コンゴ共和国,コンゴ民主共和国,サントメ=プリンシペ,ザンビア,シエラレオネ,ジブチ,ジンバブエ,スーダン,スワジランド,セーシェル,赤道ギニア,セネガル,ソマリア,タンザニア,チャド,中央アフリカ,チュニジア,トーゴ,ナイジェリアナミビア,ニジェール,ブルキナファソ,ブルンジ,ベナン,ボツワナ,マダガスカル,マラウイ,マリ,南アフリカ,南スーダン,モザンビーク,モーリシャス,モーリタニア,モロッコ,リビア,リベリア,ルワンダ,レソト,
西サハラです。
○197
9
年~現在のアフリカ 東アフリカ
東アフリ
カ
...
①
エリトリア
,②
ジブチ
,③
エチオピア
,④
ソマリア
,⑤
ケニア
,⑥
タンザニア
,⑦
ブルンジ
,⑧
ルワンダ
,⑨
ウガンダ
・
197
9
年~現在のアフリカ 東アフリカ 現①エリトリア
,②
ジブチ
,③
エチオピア
,④
ソマリア
エリトリア,エチオピア
1978年に従来は非同盟中立政策をとっていたエジプトが,アメリカ合衆国・イスラエルに接近すると,ソ連はこれに危機感を抱きます。そこで,ソ連はアフガニスタンからシリア,南イエメン,エチオピア,リビアを支援し,ソ連側の外交政策をとるように働きかけていきました(これらの国家を結ぶラインがソ連旗にみえる「鎌」の図案に似ているため,"赤い鎌"ともいわれます)。ソ連はもともとエリトリアやソマリアを支配していましたが,外交政策を転換してエチオピアの〈メンギスツ〉政権に肩入れするようになっていきます。
1985年にソ連で〈ゴルバチョフ〉が書記長に就任しペレストロイカが始まると
,
エチオピ
ア
でも自由化を求める声が高まっていきます。1988年には〈メンギスツ〉大統領を打倒するため,ティグレ人とアフハラ人とオロモ人の組織を大同団結させたエチオピア人民革命民主政権(EPRDF)が組織され,1991年5月にこれを打倒し,〈メレス〉書記長が就任しました。新国家では各民族の権利保護がうたわれ,1993年にはエリトリアの独立を問う住民投票の結果
,
エリトリアはエチオピアから分離独
立
しました。
エチオピアでは,暫定政府の下で新憲法が制定・公布され,1995年にはエチオピア連邦民主共和国となりました。
1995年にオロモ人出身者が大統領に就任すると
,
ティグレ
人
の〈メレス〉(任1995~2012)が首相に就任。エチオピア最大の民族集団
の
オロモ
人
の中からは,ティグレ人が政治・経済を牛耳っていることに反発が生まれていきます。
1998年にはエリトリアとの国境紛争が起きますが,2000年にアフリカ統一機構 (OAU) の介入で停戦します。そのアフリカ統一機構は2002年
に
アフリカ連
合
(AU)に発展し,本部はアディスアベバに置かれました。
エチオピアとエリトリアは,国境をめぐり1998年から軍事的な衝突が続いていましたが,2000年に和平合意。その後,2003年には国際仲裁裁判所が帰属を争っていた地域をエリトリア領としたことで,両国間は対立していましたが,2018年に就任し
た
オロモ
人
の〈アビー〉首相(任2018~)により,同年に両国の国交は正常化されています。
ソマリア
一方
,
ソマリ
ア
では〈バーレ〉大統領(任1969~1991)がソマリアの有力氏族の一つによる
「
統一ソマリ会
議
」いう反政府勢力によって1991年1月に追放されました。
しかし,5月には旧イギリス領であった北部
が
ソマリランド共和
国
として独立宣言(国家承認を全く受けておらず,事実上
「
未承認国
家
」)。
しかも「統一ソマリ会議」も分裂し,暫定大統領〈モハメド〉は〈アイディード〉将軍により首都を追放され,"三つどもえ"の構図となりました。
〈モハメド〉が国連PKOの派遣を要請すると,アメリカ合衆国を主力とする多国籍軍(第一次国際連合ソマリア活動)が1992年に派遣され,1993年には〈ガーリ〉国連事務総長(任1992~96)の推進した「平和強制部隊」による介入(第二次国際連合ソマリア活動)が大きな犠牲を払って失敗に終わり,1995年にはPKO部隊は撤退。ソマリアはますます混迷を極めていくことになります
(映画「ブラックホーク・ダウン」は第二次国際連合ソマリア活動をアメリカ合衆国側の視点から描いたものです)
。
1998年には北部プントランドの氏族も「プントランド共和国」として,自治政府の樹立を宣言。2000年代に入ると
,
ジブ
チ
で和平会議が開催されて〈ハッサン〉が暫定大統領(任2000~2004)となりました。しかし,国内にはこれを認めない氏族(〈アイディード〉派やソマリランド)が残り,無政府状態の地域の沿岸では海賊が沿岸を航行するタンカーや商船を襲撃する事態が激化しました。2009年にはアメリカ商船が襲撃されています
(映画「キャプテン・フィリップス」(2013米)はアメリカ商船側からこの「マースク・アラバマ号」の襲撃事件を描いたものです)
。また,2002年に南の隣国ケニアでテロが起きると,ソマリアのイスラーム過激派組織が首謀したのではないかという疑いも生まれました。
そんな中,首都モガディシュが危険な状態であったためにケニアのナイロビで開催された和平会議で,〈ハッサン〉の後任にプントランド共和国の大統領〈ユスフ〉(任2004~2008)が就任し,ソマリランドを除くソマリアの有力勢力によって暫定連邦政府が樹立されました。しかし,ケニアで成立した暫定政府にはソマリアを統治するだけの実力がなく,2006年に
は
イスラム法廷会
議
(1994年成立)が首都であるモガディシュを占領。イスラム法廷会議の勢力拡大を恐れたエチオピアは,ソマリアに軍事進出し,イスラム法廷会議をイスラーム過激派のアル=カーイダの関連組織とするアメリカ合衆国も,エチオピアの動きを支持しました。2007年にはイスラム法廷会議は掃討され,エチオピアは2009年にソマリアを撤退しました。
2009年には元イスラム法廷会議議長の〈シェイク=シャリフ=シェイク=アフマド〉(任2009~12)が大統領に就任し,国内の諸勢力の融和に努めましたが。しかしイスラム法廷会議のメンバー内部の急進派は,イスラーム過激派
の
ア
ル=
シャバ
ブ
に合流し,反政府活動やテロ活動
(2013年にケニアのショッピングモールを襲撃,2015年にはケニアの大学を襲撃)
を行っています。アル=シャバブは2008年以降ソマリア南部での支配領域を拡大し,2011年以降はケニアとソマリア暫定連邦政府が共同でアル=シャバブと戦いました。ソマリア暫定連邦政府は2012年にソマリア連邦共和国となり,〈ハッサン=シェイク=モハマド〉(任2012~17)が大統領に選出され,国際的にも認められました。後任は2017年から〈モハメド=アブドゥライ=モハメド〉(任2017~)が務め,アル=シャバブの鎮圧をおこなっています。
ジブチ
紅海の出口に位置するジブチは,アフリカ大陸とユーラシア大陸を結ぶ交通の要衝です。
ジブチ(旧称「アファル=イッサ」(1967~1977))は,1977年にフランスから独立を果たしますが,ソマリ系のイッサ人とエチオピア系のアファル人の対立が1991年に内戦に発展
(
ジブチ内
戦
)。イッサ人の〈グレド〉大統領(任1977~1999)は強権的な手法で長期政権を維持します。
後任の〈ゲレ〉大統領(任1999~)の下で内戦は2001年に終結。
隣国のエリトリアとの間に国境紛争を抱えています。
なお,2010年代以降,一帯一路構想を打ち出す中華人民共和国がジブチへの経済的・軍事的な進出を強めています
(注
)
。
(注)
'
Djibouti risks dependence on Chinese largesse',The Economist,2018.7 (https://www.economist.com/middle-east-and-africa/2018/07/19/djibouti-risks-dependence-on-chinese-largesse)
なお,2011年には東アフリカを記録的な旱魃が襲い,ソマリア,ケニア,エチオピアでは大きな被害が出ています。
・
197
9
年~現在のアフリカ 東アフリカ
現⑤
ケニア
1978年にキクユ人で"独立の父"
〈
ケニヤッ
タ
〉(1893~1978)が亡くなると,第二代大統領に副大統領
〈
モ
イ
〉(1924~)が昇格しました。彼は野党に対する圧力を強め,キクユ人を排除して自らの出身であるカレンジン人を優遇し,アメリカ合衆国を初めとする西側諸国と軍部に接近しました。1982年以降,ケニア=アフリカ民族同盟(KANU)による一党国家の体制となっていましたが,1992年には複数政党制選挙が復活されました。しかし野党が分裂したため,〈モイ〉はこの選挙と1997年の選挙で再選しました。
2002年にはKANUから離脱したグループと野党が結集(ナショナル=レインボー=コアリション,NARC)して,
〈
キバ
キ
〉(任2002~)が第三代大統領に当選し,政府の腐敗を一掃する政策を実施します。しかし,2007年の大統領選挙では〈キバキ〉の再選に不正があったとする野党の主張が暴動に発展し,野党オレンジ民主運動(ODM)率いるルオ人の〈オディンガ〉派との抗争に発展しました
(
ケニア危
機
,2007年選挙後暴力)。この中で,初代大統領〈ケニヤッタ〉の出自であるキクユ人をねらう農村部の焼き討ちや,キクユ人青年組織を名乗る団体による非キクユ人に対する報復も首都ナイロビや一部の地域で行われました
(注
)
。
〈アナン〉前国連事務総長とタンザニア連合共和国の〈キクウェテ〉大統領(任2005~15アフリカ連合議長を兼任)の調停により,〈オディンガ〉を新たに設置した首相職に就けることで〈キバキ〉大統領との和平が成立し,与党の国家統一党(PNU)と,オレンジ民主運動(ODM)の連立政権が樹立されました。
(注)津田みわ「「2007年選挙後暴力」後のケニア―暫定憲法枠組みの成立と課題」『アフリカレポートNo.50』2010年,p.10。
2010年代に入ると,無政府状態に陥った隣国ソマリアから過激派がケニア国内でテロ活動を行うようになり,イスラーム過激派組織のアル=シャバブの掃討作戦もおこなわれています
(⇒1979~現在の東アフリカ エチオピア,ソマリア,ジブチ,エリトリア)
。
・
197
9
年~現在のアフリカ 東アフリカ
現⑥
タンザニア
1978年にウガンダの〈アミン〉大統領がタンザニアを攻撃したため
,
ウガン
ダ=
タンザニア戦
争
(1978~79)が始まり,ウガンダの首都カンパラはタンザニアに占領され,〈アミン〉のタンザニアは敗北しました。
1970年代には建国期に多数建設されたウジャマー村における農業の失敗が報告されるようになり,1980年代以降には
〈
ニエレ
レ
〉大統領(任1964~1985)に対する批判も強まりました。
1985年に〈ニエレレ〉大統領が退任すると,与党タンザニア革命党でザンジバル出身の
〈
ムウィ
ニ
〉(任1985~1995)が大統領に就任し,〈ニエレレ〉によるウジャマー社会主義の見直しを図り,複数政党制も導入しました。次の
〈
ムカ
パ
〉大統領(任1995~2005)もタンザニア革命党から出て,外資を導入して経済成長に努めましたが,任期中の1998年には首都ダルエスサラームにあったアメリカ合衆国大使館爆破事件が起き,国際テロ組織アル=カーイダの犯行とされました。2005年には与党タンザニア革命党の〈キクウェテ〉(任2005~2015)が当選し,2008~2009年にはアフリカ連合の議長も務めて,隣国ケニアで起きた
200
7
年選挙後の暴
動
の調停に当たりました。2015年にはタンザニア革命党の〈マグフリ〉(任2015~)が就任し,汚職撲滅などの政策をすすめています。
・
197
9
年~現在のアフリカ 東アフリカ
現⑦
ブルンジ
,⑧
ルワンダ
,⑨
ウガンダ
ブルン
ジ
では1976年以降,クーデタで政権を握った軍人〈バガザ〉(大統領任1976~1987)による独裁体制がしかれ
,
ツチ
人
が優遇されました。しかし,1987年のクーデタで軍人〈ブヨヤ〉が政権を奪い,大統領に就任(任1987~1993)すると,フツ人も内閣に参加させるなど,ツチ人・フツ人の融和に努めます。しかし,1993年の選挙でフツ人の〈ンダダイエ〉が大統領に当選し,フツ人主体の国づくりを進めようとすると,同年にツチ人の過激派によって暗殺され,ブルンジは内戦状態に陥ります。これをみた〈ブヨヤ〉は1996年にクーデタで政権を握り,フツ人の〈ンティバントゥンガニャ〉大統領(任1994~96)に代わって暫定大統領(暫定1996~98,正式98~2003)に就任しました。混乱は継続しましたが,2000年にはタンザニアのアルーシャでの和平協定にこぎつけ,フツ人勢力と妥協する形で暫定政府が2001年に発足し,規定通り2003年にはフツ人の〈ンダイゼイエ〉(任2003~2005)が大統領となりました。2005年には内戦終結後初の民主的な選挙でフツ人の〈ンクルンジザ〉(任2005~)が当選しています。
ルワン
ダ
では軍人〈ハビャリマナ〉(任1973~1994)がクーデタで大統領に就任して一党独裁体制をしいていました。〈ハビャリマナ〉政権は次第にツチ人に対する抑圧を強め,1990年~1993年に
は
ツチ
人
主体のルワンダ愛国戦線 (RPF) と政府軍との間に内戦が始まりました
(
ルワンダ内
戦
)。〈ハビャリマナ〉はフツ人主体の民兵インテラハムウェを組織し,軍事支援をしていました。
1993年にいったん和平協定が結ばれましたが,1994年に〈ハビャリマナ〉が乗った飛行機がミサイルによる攻撃を受け,隣国のブルンジの〈ヌタリャミラ〉大統領とともに墜落死すると,1990年から94年にかけて
,
ルワン
ダ
で
ツチ
人
と
フツ
人
の対立が激化し,ツチ人が虐殺される事態に発展しました
(
ルワンダ内
戦
【本試験H30年代を問う】
)
(映画「ホテルルワンダ」(英・伊・南ア2004)にはフツ人の軍指導者〈ビジムング〉も登場します)
。しかし,その後に民族間の融和につとめ,2000年代に入ると安定し,経済発展にも成功しました。
○197
9
年~現在のアフリカ 南アフリカ
南アフリ
カ
...①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ
・
197
9
年~現在のアフリカ 南アフリカ
現①
モザンビーク
アフリカ南東部
の
モザンビー
ク
では,一党制の社会主義政策をとったFRELIMO政府に対し,反共産主義をとる南アフリカやローデシア(1980年に成立した白人国家)の支援する反政府勢力との内戦が続いていました
(
モザンビーク内
戦
)。1989年に社会主義政権が崩壊し,1994年に国連モザンビーク活動が監視下の総選挙でFRELIMOが勝利し,政権を獲得しました。
低開発が続いており,高い
HI
V/
AIDS
・乳児死亡率や低い識字率の克服が課題とされています。
・
197
9
年~現在のアフリカ 南アフリカ
現②
スワジラン
ド→
エスティワニ
スワジランドではイギリス連邦に加盟した形で,王政が続いています。
「スワジランド」というのはイギリス領だったときの呼称だったため,「民族の呼び名」に戻そうということで,2018年4月19日に独立50周年を記念して〈ムスワティ3世〉(位1986~)によって「エスティワニ王国」という呼称に変更されました。
国王は絶対的な権限を有しており,議会に実質的な立法権はありません。
・
197
9
年~現在のアフリカ 南アフリカ
現③
レソト
レソトではイギリス連邦に加盟した形で,セーイソ家による王政が続いています。
立憲君主制のため王には実権がなく,南アフリカ共和国などの周辺諸国との関係をめぐって政治情勢は不安定です。
例えば,独立後長期間にわたり与党の座にあったバソト国民党の〈レアブア=ジョナサン〉首相(任1965~1986)が南アフリカに反対する立場を強めると,南アフリカに支持された〈ジャスティン=レハンヤ〉によって政権は倒されました。
さらに新たに樹立された〈レハンヤ〉政権は,〈モシュエシュエ2世〉(位1966~1990,1995~1996)と関係が悪化すると,国王をオランダ亡命に追いやり,代わってその王太子を〈レツィエ3世〉として即位させることに成功。
しかし1991年には軍事評議会〈エリアス=ヤマエマ〉が,暫定的な行政のトップ(軍事評議会議長,任1991~1993)に就任。〈ヤマエマ〉は民主化を進めるとともに,〈レツィエ3世〉の求めに応じて全国王〈モショエショエ2世〉を帰国させ,1993年には総選挙を実施します。
この選挙でバトソ会議党(独立後の野党第一党)の〈ヌツ=モヘレ〉(任1993~1994)が政権をとりますが,その後,前王の再即位を求める〈レツィエ〉と政府の関係が悪化。〈レツィエ〉がクーデタを起こすと,周辺国の介入もあって1995年に〈モシュエシュエ2世〉が復位(在1995~1996)。しかし翌年,国王が交通事故死すると,国王は〈レツィエ3世〉(位1997~)に戻ります。
1998年に総選挙が行われると,レソト民主会議(LCD)が圧勝。選挙結果に不満な民衆により王宮が占拠され,クーデター未遂事件まで勃発。南部アフリカ開発共同体(SADC)の要請により,南アフリカ共和国とボツワナが軍を出して治安回復に向けた活動を翌年まで行いました。
その後,2014年には軍部によるクーデターが起きるなど,政治的には不安定な情勢です。
・
197
9
年~現在のアフリカ 南アフリカ
現④
南アフリカ共和国
南アでアパルトヘイトが廃止されたが格差は残る
南アフリ
カ
では1948年以降
,
黒
人
(ズールー人,ソト人,コーサ人,ンデベレ人,ツワナ人)
や
アジア
人
(インド系が主,ほかにマレー系。なお,日本人は"名誉白人"扱いをされていました)
,
カラー
ド
(白人とサン人・コイコイ人との混血やアジア人との混血など)など有色人種に対する差別的な体制が法的に確立され
,
白
人
(イギリス系やオランダ系アフリカーナー)優位の社会が築き上げられていました。大多数の黒人は隔離された居住区で暮らすことを強いられ,アフリカーンス語の教育を強制され,白人の農場や企業の下,低賃金で働かざるをえませんでした。
1980年代に入ってアパルトヘイトへの反対運動が活発化し,南アフリカ政府は国際的な経済制裁を受けるようになりました。これを受け〈ボータ〉政権は1985年に雑婚禁止法,背徳法,分離施設法を廃止,1986年にパス法を廃止しますが,根本的な改革には至りません。
しかし,1989年に就任した
〈
デクラー
ク
〉
【本試験H17エンクルマではない】
【追H30エンクルマではない】
政権はアパルトヘイトの廃止に向け動き出し,まず1990年にアフリカ民族会議(ANC)
【追H30民族解放戦線ではない】
や南アフリカ共産党を合法化し,〈
マンデラ
〉
【追H19】
【東京H25[3]】
を釈放します。
さらに1991年
に
アパルトヘイ
ト
【東京H7[3]
】
の廃
止
を宣言し,人種登録法・原住民土地法・集団地域法を廃止しました
【H29共通テスト試行 白豪主義の撤廃はアパルトヘイト撤廃による影響ではない、
H30共通テスト試行 フィリピンはアパルトヘイトは無関係】
。かつて反政府運動を行っていた〈マンデラ〉と〈デクラーク〉大統領は1993年にノーベル平和賞を受賞(受賞演説において運動家〈スティーヴ=ビコ〉の名が挙げられています
(⇒1953~1979のアフリカ 南アフリカ)
)。1994年には黒人でアフリカ民族会議の
〈
マンデ
ラ
〉(任1994~99)
【東京H25[3]】
が大統領に就いています。
しかし,改革は決して平坦なものではなく,人種間の不平等を解消する政策も行き詰まり,アフリカ民族会議の〈ムベキ〉大統領(任1999~2008)下でも黒人の高い失業率や,エイズの高い感染率はつづいています。しかし経済成長は順調で,2000年代前半にはBRICsの一つに挙げられるほどになりました。2008年には汚職疑惑を受け,副大統領の〈ズマ〉(2009~2018)が大統領に就任。しかし2018年にはインド系財閥の絡む汚職疑惑で起訴され辞任しました。
・
197
9
年~現在のアフリカ 南アフリカ
現⑤
ナミビア
南アフリカの事実上の支配下にあっ
た
ナミビ
ア
は,1988年に南アフリカにより独立に向けた動きがようやく認められました。1989年から国連の監視下で独立準備が始まり,同年の総選挙で南西アフリカ人民機構(SWAPO)が過半数を獲得し,1990年に独立しました。ナミビアはイギリス連邦に加盟しています。
・
197
9
年~現在のアフリカ 南アフリカ
現⑥
ザンビア
ザンビア共和国は1964年の独立以来,一党制を維持してきました。1970年代後半より銅の国際価格が低迷し,銅輸出に依存する経済は打撃を受けます。1990年に複数政党制に移行しました。経済的にはアフリカ大陸では高いレベルにあります。
新たに与党となった複数政党制民主主義運動の〈チルバ〉大統領(任1991~2001)は外資を導入した自由化を進めましたが,汚職が発覚するとクーデタ未遂も起きて内政は混乱します。後継には副大統領の〈ムワナワサ〉(任2002~2008)が就任。2006年大統領選挙でも,銅産業に関わる中国人労働者・企業の排斥を唱える野党〈サタ〉候補を破りますが,2期目の途中で病死しました。
その後,2011年には愛国戦線の〈サタ〉(任2011~14)が大統領に就任しますが,在任中に死去。その後は,〈サタ〉政権の閣僚であった〈ルング〉(任2015~)が大統領に就任しています。
・
197
9
年~現在のアフリカ 南アフリカ
現⑦
マラウィ
マラウィ共和国では,西側諸国との友好関係を背景に,〈バンダ〉による一党独裁制による長期政権が続いていました。しかし,1992年に政権への批判が暴動に発展し,1993年に複数政党制への移行を問う国民投票がおこなわれ,可決。1994年の選挙で南部中心の統一民主戦線(UDF)の〈ムルジ〉(任1994~1999,マラウィでは少数派のイスラーム教徒)が勝利して,第二代大統領に就任しました。しかし放漫な財政はなくなっていません(200年にベンツを39台購入
(注
)
)。〈ムルジ〉は二期を務めて退任,後継は第三代〈ムタリカ〉(任2004~2012)となります。2001年にマラウィを記録的な飢饉が襲い,2005年にも干魃による被害を受けます。この時,被害を目の当たりにした少年〈ウィリアム=カムクワンバ〉(1987~)は,手作りで風力発電の機器を発明したことで世界的に知られています。
〈ムタリカ〉は新党DPP(民主進歩党)を結成し汚職追放を唱えますが,2010年に女性副大統領の〈バンダ〉と対立,〈バンダ〉は新党である人民党を設立し,〈ムタリカ〉死去のため大統領に昇格しました(任2012~2014)。2014年からは民主進歩党の〈ムタリカ〉政権となっています。
(注)栗田和明『マラウィを知るための45章』明石書店,2010,p.68。
・
197
9
年~現在のアフリカ 南アフリカ
現⑧
ジンバブエ
1965年に独立し
た
ローデシ
ア
は少数の白人による政権が続き,同じくアパルトヘイト政策を進めてい
た
南アフリ
カ
とともに"反共産主義"を掲げて西側(資本主義)諸国と良好な関係を維持しました。1980年に〈ムガベ〉が首相(任1980~2017)に就任し
,
ジンバブエ共和
国
と改名しました。白人が所有する土地を接収することで農地改革をしようとしましたがなかなか実行されず,経済も混乱して2000年以降はインフレ率200万%超(2008年)という未曾有のハイパー=インフレが発生しました。後継をめぐる対立を背景に,〈ムガベ〉(1924~)は2017年に国防軍のクーデタを受けて退任し,〈ムナンガグワ〉第一副大統領が大統領に昇格しています。
・
197
9
年~現在のアフリカ 南アフリカ
現⑨
ボツワナ
初代大統領〈カーマ〉(位1966~80)は近隣の南アフリカやローデシア(現ジンバブエ)とは異なり人種差別に反対する政策をとりながら,南アフリカ資本を導入しつつ国内のダイヤモンド鉱山を開発し,収益をインフラや教育などに振り向けることで経済成長の実現に成功しました。政治的には複数政党制をとり,議会制民主主義を維持しました。
1980年には南部アフリカ開発調整会議(のちのSADCC(南部アフリカ開発共同体,1992~))を立ち上げ,南アフリカからの経済的な自立を目指し,本部をボツワナの首都ハボローネに置きました。〈カーマ〉の死後も平和的な政権委譲が続き,経済成長も続いています。
○197
9
年~現在のアフリカ 中央アフリカ
中央アフリ
カ
...現在の①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン
・
197
9
年~現在のアフリカ 中央アフリカ
現①
チャド
チャドは北部のイスラーム住民による反政府運動が,北部のウラン鉱山
(
アオゾウ地
帯
)をねらうリビアの介入と結びつき,内戦がリビアとチャドの戦闘に発展していました。1975年に初代大統領が暗殺され,軍事政権が成立しましたが,反政府勢力を含めた暫定政権が1979年に立てられると,南北の和平が進みます。元・反政府勢力であった〈ハブレ〉(任1982~90)の下で,1981年にリビアはチャドから撤退し,大統領に就任して権力を強めました。その後も北部をめぐるリビアとの戦闘は続きましたが,フランスが日本のトヨタ製の自動車をチャド側に援助した,いわゆる「トヨタ戦争」によりリビアとの休戦がなり,1988年にはリビアとの国交を回復させました。
反〈ハブレ〉派の〈デビ〉(大統領任1990~)は,リビアの支援を受けてスーダンで反政府組織「愛国救済運動」を立ち上げ,1990年には〈ハブレ〉を追放して自ら大統領に就任しました。
2000年代に入ると,隣国スーダン西部
で
ダルフール紛
争
が激化すると,難民が大量に流入し,両国の関係は悪化。2005~2010年には,スーダンの支援する反政府勢力との内戦が起きますが,フランスの支持を得ている〈デビ〉大統領は政権を維持しています。
・
197
9
年~現在のアフリカ 中央アフリカ
現②
中央アフリカ
1979年にクーデタが起きて中央アフリカ帝国は崩壊し,初代大統領〈ダッコ〉(任1960~66,1979~81)が大統領に再任しました。しかし1981年のクーデタで〈ダッコ〉は国外に亡命。軍人〈コリンバ〉政権(任1981~1993)は1993年の選挙で落選し,〈パタセ〉(任1993~2003)が大統領に就任しますが内戦となり,1998年には国連の介入を受けています。
ところが,2003年には,隣国チャドの〈デビ〉大統領の支援を受けた〈ボジゼ〉(任2003~13)がクーデタで大統領に就任します。しかし,2012年に反政府勢力の攻勢により〈ボジゼ〉は国外脱出,イスラーム教徒としては中央アフリカ共和国で初となる〈ジョトディア〉大統領(任2013~14)による軍事政権となりました。しかし首都ではイスラーム教徒とキリスト教徒の対立が高まる中,混乱収拾のためにキリスト教徒で,中央アフリカ共和国で初の女性元首となる〈パンザ〉(任2014~2016)が大統領に就任。フランス主体のPKO部隊派遣による治安維持を進めました。次の〈トゥアデラ〉大統領(任2016~)も,反政府勢力の武装解除を進めています。
・
197
9
年~現在のアフリカ 中央アフリカ
現③
コンゴ民主共和国
中央アフリカの
③
ザイー
ル
(1971年にコンゴ民主共和国から改名。
改名の経緯については⇒1953~1979の中央アフリカを参照
)では,クーデタで一党独裁体制を確立した
〈
モブ
ツ
〉(1930~1997)が中華人民共和国との提携を進め,中華人民共和国との関係の悪化してい
た
ソ
連
や,ソ連と提携してい
た
リビ
ア
と敵対する政策をとりました。
1996年に〈モブツ〉の体調が悪化すると,隣国で起きてい
た
ルワンダ内
戦
の影響がザイールにも及びます。ルワンダ内戦に敗れコンゴに逃げ込ん
だ
フツ
人
を掃討するため,ルワンダのツチ人の政権がザイール国内(東部に古くから分布)
の
ツチ
人
を「バニャムレンゲ」として組織して反乱を起こさせ,首都キンシャサに向かわせたのです。反乱を指揮した〈カビラ〉は第3代大統領(任1997~2001)に就任し国名
を
コンゴ民主共和
国
に戻しましたが,「バニャムレンゲ」を排除する政策をとったことからツチ人が政権を握る国家(ルワンダ,ウガンダ)から批判が高まり,コンゴの豊富な天然資源の利権もめぐる周辺諸国や先進国の思惑も重なっ
て
第二次コンゴ内
戦
(1998~2003)が勃発しました。その間,〈カビラ〉大統領は2001年に暗殺されています。
・
197
9
年~現在のアフリカ 中央アフリカ
現④
アンゴラ
アンゴラは資源の利権を巡り外国の介入を受ける
1975年の独立後から続いてい
た
アンゴラ内
戦
は,豊富な鉱産資源をねらうアフリカ諸国やアメリカ,中国,ソ連,キューバ,南アフリカなどを巻き込む熾烈な代理戦争と化していました。1991年にようやく和平合意が成り,1992年の総選挙でMPLA(旧東側諸国が支持)が勝利しましたが,ダイヤモンド商社デ=ビアス社と結びついた反政府勢力UNITA(かつてアメリカ合衆国や南アフリカから支援を受けて成長していました)の〈ザヴィンビ〉が内戦を再開。MPLA政府
は
民間軍事会
社
と契約をしてUNITAの掃討作戦を展開し,1994年にルサカ合意で停戦となりました。しかし,かつて旧ソ連やキューバの支援を受けていたMPLA政府が有利になることを嫌ったアメリカ政府は国連の介入を主張して国連平和維持活動(PKO)が開始されました。しかし結果として内戦は長期化することになります。
この間,ダイヤモンド鉱山を握ったUNITAから流れた
"
紛争ダイヤモン
ド
"の多くが,デ=ビアス社から世界各地の市場に流れました。2002年に〈ザヴィンビ〉が亡くなると休戦し,ここに41年間の内戦が終結します。また,UNITAを掃討し
た
民間軍事会
社
(PMC)は,かつての南アフリカ共和国の国防軍の元兵士や武器を利用して構成されたもので,のちに西アフリカ
の
シエラレオネ内
戦
(1991~2002)でも投入されました
(⇒1979~現在の西アフリカ)
。このような戦争に従事する民間企業の存在は,国際社会でも問題視されるようになっています。
・
197
9
年~現在のアフリカ 中央アフリカ
現⑤
コンゴ共和国
独立後のコンゴ共和国は,マルクス=レーニン主義(共産主義)を採用して1969年に「コンゴ人民共和国」と改名していました。しかし,クーデタが起き軍事政権が成立すると,権力闘争の末に〈サスヌゲソ〉が大統領に就任(1979~92)しました。〈サスヌゲソ〉は西側諸国に接近する政策をとり,1991年には社会主義路線を改め「コンゴ人民共和国」を「コンゴ共和国」に改名。しかし,1992年の選挙で野党〈リスバ〉(大統領任1992~97)に敗れると,〈リスバ〉派と〈サスヌゲソ〉派との間の内戦に発展します。
第一次内戦は1995年に和平合意によっていったん終結しましたが,1997年に再開され〈サスヌゲソ〉派が勝利。1997年に大統領に就任し,現在に至ります。
・
197
9
年~現在のアフリカ 中央アフリカ
現
⑥
ガボン
ガボンでは初代大統領〈ムバ〉(任1961~67)を継いだ〈オンディンバ〉(任1967~2009)が2009年まで長期政権を維持しました。後任には,息子の〈オンディンバ〉が就任しています。
・
197
9
年~現在のアフリカ 中央アフリカ
現⑦
サント
メ=
プリンシペ
1975年にポルトガルから独立し
た
サント
メ=
プリンシ
ペ
では,初代大統領〈コスタ〉(任1975~1991)の下で,社会主義国に接近した国づくりを進めます。しかし経済が行き詰まると,西側諸国に接近し,1990年には国民投票により複数政党制に移行し,1991年に野党が勝利して一党独裁体制は終わりました。〈トロボアダ〉大統領(任1991~2001)は1995年のクーデタで一時打倒されましたが,実業家の〈メネセズ〉が後任(任2001~2011)となりました。その後〈コスタ〉が再任(任2011~16)し,2016年の選挙で〈カルバリョ〉(任2016~)が当選しました
(〈コスタ〉側の不正選挙が疑われましたが,決選投票で〈カルバリョ〉が当選し,平和的に権限が委譲されました)
。
・
197
9
年~現在のアフリカ 中央アフリカ
現⑧
赤道ギニア
赤道ギニ
ア
の大統領〈ンゲマ〉は1979年のクーデタで処刑され,甥の〈ンゲマ〉が大統領に就任して軍事政権を始めましたが,不安定な情勢が続きます。1991年には複数政党制を定める憲法が定められましたが,1993年の選挙では与党が勝利し,野党に対する弾圧は続きました。しかし〈ンゲマ〉(任1979~)は依然として政権を維持し続けています。1992年にはビオコ島で原油の採掘が始まって産油国となり,2017年に
は
石油輸出国機
構
(
OPEC
)(注)に加盟していますが,国民の所得格差はきわめて高い水準となっています。
(注)OPEC加盟国は,イラク,イラン,クウェート,サウジアラビア,ベネズエラの原加盟国(1960)に加え,カタール(1961),リビア(1962),アラブ首長国連邦(1967),アルジェリア(1969),ナイジェリア(1971),アンゴラ(2007),エクアドル(2007,以前1973~93に加盟),ガボン(2016,以前1975~95に加盟)
,
赤道ギニ
ア
(2017)。インドネシアは1962加盟・2008脱退,2016加盟・脱退。
・
197
9
年~現在のアフリカ 中央アフリカ
現⑨
カメルーン
〈アヒジョ〉大統領(任1960~82)は一党支配制を築き上げましたが,1982年に辞任。後任の〈ビヤ〉大統領(任1982~)の政権が続いています。カメルーンは従来は農産物の輸出に依存していましたが,1970年代後半からは原油の採掘も始まり,経済を支えるようになっています。
○197
9
年~現在の西アフリカ
西アフリ
カ
...①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ
2014年にギニア,リベリア,シエラレオネ
で
エボラ出血
熱
の大流行(パンデミック)が起き,世界保健機関(WHO)の発表では合わせて約1万人が死亡する事態に発展しました
。
ギニ
ア
南東部に端を発したとされ,医療インフラが乏しいことや,葬儀の風習
(注
)
なども関係し,爆発的な感染拡大をみました。
(注)加藤康幸「1)エボラ出血熱:西アフリカにおける過去最大の流行」『日本内科学会雑誌』106(3),p.405~408, 2017。
・
197
9
年~現在のアフリカ 西アフリカ
現①
ニジェール
①ニジェールでは1974年のクーデタ以降〈クンチェ〉陸軍参謀長による軍事政権(1974~87まで実権)が続いていましが,1987年に彼が亡くなると〈セブ〉(1987~1989まで実権,大統領任1989~1993)が民主的な新憲法に基づき大統領に就任しました。しかし,国内にはトゥアレグ人が中央政府の政治・経済の独占に対し反発を強め,1995年に和平が合意されるまで反政府運動が続きました。1990年に複数政党制が導入され,1993年に野党連合が勝利し,大統領には野党の〈ウスマン〉(任1993~96)が当選しました。しかし軍のクーデタ(1996)と民政移管(1996),再度のクーデタ(1999)が繰り返され,野党勢力の〈ママドゥ〉大統領が就任(1999~2010)し民政移管が成りました。しかし政情は不安定であり,2000年代初めのサバクトビバッタの大発生と食糧危機が深刻化すると,2010年には再度軍のクーデタが起き,憲法が停止されました。
2011年に左派の〈イスフ〉大統領(任2011~)が選出されています。
・
197
9
年~現在のアフリカ 西アフリカ
現②
ナイジェリア
②
ナイジェリ
ア
では断続的に軍政が続いていましたが,1999年に民政移管が行われました。しかし,軍に影響力を及ぼしてきた北部の勢力は民政移管された政府との対立を深め,南部のニジェール川下流域でも反政府組織が支持を集めるようになりました。
ニジェール川下流の三角州地帯での油田開発は,国庫に富をもたらしている反面,環境破壊の悪化や国民への再配分の失敗などから,政府に対する住民の不満が高まっているのです。
イスラーム過激派組織であ
る
ボ
コ=
ハラ
ム
も,過激な反政府勢力の受け皿の一つとなり,国際テロ組織のアル=カーイダやイスラーム国との関連を示唆しながらナイジェリア北部での影響力を増しています。特にボコ=ハラムは西洋式の教育の弊害を指摘し,キリスト教の集落や女子教育施設(2014に発生。に2016年以降,一部の生徒が解放されています)を襲撃するなどの凶行におよんでいます。
・
197
9
年~現在のアフリカ 西アフリカ
現③
ベナン
,④
トーゴ
③
ベナ
ン
(英語名はベニン)は,1960年の独立当初の「ダホメー(ダオメー)共和国」から1975年にベナン人民共和国と改称し,中華人民共和国に接近して社会主義国家を建設しようとしました。しかし,1990年には国際情勢に合わせてベナン共和国に戻し,複数政党制が導入されました。
④
トー
ゴ
ではクーデタ後の軍事政権から,1979年に民政移管されましたが,1991年にクーデタが再発します。1993年に複数政党制の下で,かつて1967年にクーデタを起こした〈エヤデマ〉が大統領(1935~2005,任1967~2005)に選出され,野党の抵抗を受けながらも長期に渡り影響力を残し続けます。後継には息子の〈エヤデマ〉(任2005,2005~)が就任し,事実上の世襲となっています。
・
197
9
年~現在のアフリカ 西アフリカ
現⑤
ガーナ
⑤
ガー
ナ
は,輸出の大部分をチョコレートの原料であ
る
カカ
オ
に依存していましたが,工業化計画に失敗して財政が悪化し,その資金確保のためにカカオの政府買上げ価格を低く設定したことで,生産が停滞してしまいます。コートジボワールは,価格政策に成功し,カカオの生産量・輸出量はガーナを抜きました。
2010年代以降,沿岸で油田が発見されたことを受け,高い経済成長率を記録しています。
・
197
9
年~現在のアフリカ 西アフリカ
現⑥
コートジボワール
⑥
コートジボワー
ル
では〈ボワニ〉大統領(任1960~1993)の下で長期にわたる政権が維持され,経済発展が実現されました。彼の死去にともない〈ベディエ〉(任1993~1999)が後任となりますが,1999年に軍がクーデタを起こし元参謀長〈ゲイ〉が大統領(任1999~2000)が就任。強権的な支配に対して反政府運動が起き野党の〈バグボ〉(任2000~2011)が大統領に就任しました。
しかし,2003年に軍を主体とする反政府組織が反乱を起こすとコートジボワール内戦に発展。停戦が合意されましたが,2010年の大統領選挙をきっかけに,〈ワタラ〉大統領(任2010~)も大統領就任を宣言する二重政府状態となり,再度内戦に突入。
〈バグボ〉派は〈ワタラ〉がブルキナファソ生まれなので「"純粋"なコートジボワール人ではない」から「大統領になる資格がない」と主張したのです。この内戦は2011年まで続きました。
2018年9月の中国・アフリカ協力フォーラムでは,〈ワタラ〉大統領は中華人民共和国の「一帯一路」構想に協力する覚書を取り交わしています
(注
)
。
(注)「ワタラ大統領が習国家主席と会談,「一帯一路」協力の覚書
(コートジボワール,中国)」,https://www.jetro.go.jp/biznews/2018/09/df48cb92c937aafa.html
・
197
9
年~現在のアフリカ 西アフリカ 現⑦リベリア
,⑧
シエラレオネ
"
血のダイヤモン
ド"
が内戦を深刻化させる
⑦
リベリ
ア
では1980年に先住民出身の軍人によるクーデタが起き,主導したクラン人出身の〈ドウ〉(任1986~90)が,アメリカ系黒人の政権を倒して,大統領に就任しました。彼は反対派の他民族(ギオ人やマノ人など)を掃討しつつ実権を握ったため,反政府組織「リベリア国民愛国戦線(NPFL)」との内戦がはじまりました。愛国戦線のリーダーは,ギオ人とアメリカ系黒人の子として生まれた〈チャールズ=テーラー〉(1948~,大統領任1997~2003)です。彼は,ギオ人やマノ人とともに,〈ドウ〉のクラン人政権と戦い,結局1990年に〈ドウ〉大統領は処刑されました。
こ
の
第一次リベリア内
戦
には,隣国の
⑧
シエラレオ
ネ
の反政府組織〈サンコー〉の指導する統一革命戦線
(
RU
F
,アールユーエフ)も提携し,ガーナやナイジェリアなどの西アフリカ諸国の多国籍部隊も介入したため,もはやリベリア一国の問題ではなくなります。内戦には多くの少年兵が用いられ,戦争終結後にも深い心の傷を残すことになります。シエラレオネのRUF政権からリベリアに密輸されたダイヤモンドは,「リベリア産」として国際市場に出回り,見返りとして自動小
銃
AK-4
7
(
カラシニコ
フ
,子どもでも扱えるほどの操作性・携帯性・耐久性を備え,史上最悪の発明品,大量殺戮兵器ともいわれます。1947年にソ連の〈カラシニコフ〉により発明され,20世紀後半に世界各地に出回り,特にゲリラ戦で用いられました)
に代表される武器がシエラレオネの反政府勢力に供与され,少年兵の手に渡りました。こうしたダイヤモンドは
"
血のダイヤモン
ド
"(ブラッドダイヤモンド)と呼ばれ,アメリカ合衆国はのちにリベリア産ダイヤモンドの禁輸措置をとっています。
1997年に〈テーラー〉が大統領に就任しましたが,彼の頭を支配していたのは,シエラレオネ東部のリベリア国境付近にあるダイヤモンドの利権と,国庫の私物化でした。反政府勢力が再び2003年に首都を攻撃し
,
第二次リベリア内
戦
が勃発しました。反政府軍をアメリカ合衆国が支援する形で,国際連合安全保障理事会によりリベリア行動党の暫定政権が建てられました(〈テーラー〉はナイジェリアに国の資金を持ち逃げして亡命)。2005年におこなわれた選挙では,国連開発計画(UNEP)のアフリカ局長を務めた
〈
サーリー
フ
〉(1938~,2006~2018,2011年にノーベル平和賞を受賞しました)が,アフリカ大陸では初めた選挙によって大統領となった女性となりました。彼女の下で〈テーラー〉元大統領がオランダの国際刑事裁判所シエラレオネ国際戦犯法廷で裁かれ,2012年に有罪判決が出されています。
なお,2018年の選挙では元・国民的サッカー選手〈ウェア〉(任2018~)が後を継いでいます。
・
197
9
年~現在のアフリカ 西アフリカ
現⑨
ギニア
,⑩
ギニアビサウ
⑨
ギニ
ア
はボーキサイトやダイヤモンドを初めとする鉱産資源の輸出が主要産業で,経済発展は遅れています。
1979年に独立の父
〈
セ
ク=
トゥー
レ
〉(任1958~1979)が亡くなると,軍人〈コンテ〉(任1984~2008)は無血クーデタを実施し後任となり,長期政権を維持しました。2008年に政権をクーデタで奪った軍人〈カマラ〉(任2008~2009)は2009年に部下による銃撃を受けて退任し,暫定政権に移行しましたが,2010年にはギニア史上初の民主的な選挙で〈コンデ〉が当選しました。
⑩
ギニアビサ
ウ
は,1974年
に
ポルトガ
ル
から独立すると,沖合
の
カーボベル
デ
(やはりポルトガルから独立)との独立を計画しましたが,かないませんでした。長らく軍事政権が続きましたが,1991年に複数政党制に移行し,1994年の大統領選挙で〈ヴィエイラ〉(任1980~84,84~99)が大統領に就任しました。しかし,1998年以降は反政府派との間に内戦が勃発し,〈ヴィエイラ〉は辞任。その後も軍の影響力は残され混乱しますが,2005年の〈ヴィエイラ〉(任2005~09)が帰国して大統領に再任します。しかし,その後も首脳への攻撃やクーデタが多発し,以前として不安定な情勢となっています。
・
197
9
年~現在のアフリカ 西アフリカ 現⑪セネガル
,⑫
ガンビア
⑪
セネガ
ル
では親西欧(フランス)路線をとっていた建国の父
〈
サンゴー
ル
〉(任1960~80)から,第2代〈ディウフ〉(任1980~2000)に平和的に政権が移行しました。1982年には,領土がセネガルに取り囲まれた形になっている旧イギリス植民地の
⑫
ガンビ
ア
との国家連合(セネガンビア国家連合)が実現しましたが,言語問題などの関係悪化にともない1989年に解消されました。〈ディウフ〉以降も,〈ワッド〉(2000~12),〈サル〉(2012~)と,安定的な政権交代が続いています。
・
197
9
年~現在のアフリカ 西アフリカ 現⑬モーリタニア
⑬モーリタニアは1975年
に
西サハ
ラ
の領有を主張し,アルジェリアの支援するポリサリオ戦線(モロッコ南部の西サハラ独立派)と戦いますが,軍部がクーデタを起こし〈ダッダ〉大統領(任1960~78)は失脚しました。1979年にはポリサリオ戦線と和平を結び,手を引いています。
1984年にはクーデタで軍事政権となりますが,政権をとった〈タヤ〉大統領(任1984~2005)の長期政権が続きます。2005年にクーデタで〈タヤ〉政権は倒れた後も,クーデタが続く不安定な情勢です。
・
197
9
年~現在のアフリカ 西アフリカ
現⑭
マリ
⑭
マリ共和
国
の独立にともない,トゥアレグ人がニジェールやアルジェリアなどの国民国家に分断されてしまったため,統一をのぞむ運動が断続的に起きていました。
1968年に成立した軍事政権は1979年に民政移管されましたが,再度クーデタが起きています。1992年の大統領選挙で軍政は終わりますが,トゥアレグ人の独立運動は続き,2011年
の
リビア内
戦
の結果,リビアの保有していた兵器・兵員がサハラ地域に拡散したことから,地域が一気に不安定化し,2012年以降はマリ北部で遊牧生活を送
る
トゥアレグ人による反
乱
が起きました。同年には軍事クーデタも起きる中,北部の3州が独立宣言を発表し,アル=カーイダ系イスラーム過激派のアンサル=ディーンがトンブクトゥにあるジンガレイベル=モスクなどが破壊されました。この事態を受け,フランスは軍事介入を実施しています。
・
197
9
年~現在のアフリカ 西アフリカ
現⑮
ブルキナファソ
⑮ブルキナファソ(当時の濃く見え
は
オー
ト=
ボル
タ
共和国)では軍事政権が続いていましたが,1983年に〈サンカラ〉(任1983~87)が大統領に就任すると,社会主義国家の建設を目指し,種々の改革をしました。彼は国名を
「
ブルキ
ナ=
ファ
ソ
」(清廉潔白な人々の国)に変更し,国民の人気を博しました。しかし1987年のクーデタで〈コンパオレ〉が実権を握ると,社会主義路線を修正し,1992年には複数政党制による選挙で大統領(任1987~2014)に選出され,長期政権を実現しました。しかし,2014年に反政府運動が盛り上がるとクーデタにより政権は倒れ,〈コンパオレ〉は辞任し国内に逃れます。同年には元外務大臣による暫定政府が樹立されますが,この動きに反対する勢力による攻撃を克服し,2015年には〈カボレ〉大統領(任2015~)が選出され,内戦の危機は回避されています。
○197
9
年~現在のアフリカ 北アフリカ
北アフリ
カ
...
①
エジプト
,②
スーダン
,③
南スーダン
,④
モロッコ
,⑤
西サハラ
,⑥
アルジェリア
,⑦
チュニジア
,⑧
リビア
・
197
9
年~現在のアフリカ 北アフリカ
現①
エジプト
エジプ
ト=
アラブ共和
国
では,〈ナーセル〉大統領の後任
〈
サーダー
ト
〉(任1970~81)がイスラエル寄りの政策をおこない,1979年にイスラエル国交正常化を行いました。それに対し急進的なイスラーム組織であるジハード団は1981年に〈サーダート〉を暗殺しました。
代わって就任した〈ムバーラク〉(任1981~2011)は強権的な手法で長期独裁政権を維持し,"ファラオ"の異名を持ちました。1982年にシナイ半島がイスラエルから返還され,西側諸国と接近しつつ東側諸国,アラブ諸国との関係改善にも取り組むと,1990年には除名されてい
た
アラブ連
盟
に復帰しました。
しかし湾岸戦争が起きるとエジプトはアメリカ合衆国を主体とする多国籍軍に参加し,イラクを攻撃し,2001年のアメリカ同時多発テロ事件以降はイスラーム過激派に対する弾圧にも協力しました。〈ムバラク〉政権下では外資が積極的に導入され,国内総生産が上昇して中間層が育っていました。一方で,国民の権利や福祉は軽視され〈ムバラク〉大統領の周りにはコネによる人事がはびこり,国民による不満は高まっていました。貧困率は1990年の21%から1995年には44%に,2003/04年度の失業率は9.85%で,優秀な大卒者でもコネがなければ就職できないという雇用慣行から,人口の増加する15~25歳の若年層の失業者は3人に1人
(注
)
。
(注)山口直彦『エジプト近現代史―ムハンマド=アリ朝成立から現在までの200年』明石書店,2006,p.339。
こうした若年人口の相対的増加(ユース=バルジ)と閉塞感が広まりを見せる中,2010年12月
に
チュニジ
ア
で始まっ
た
ジャスミン革
命
と呼ばれることになる反政府運動が起きました。
これに刺激を受け,エジプトでも政権に批判的な国民たち
が
SN
S
(ソーシャル=ネットワーキング=サービス,特にアメリカ合衆国の〈ザッカーバーグ〉(1984~)の立ち上げた
Facebook
)
を駆使して大規模な政治的集会を催すと,〈ムバーラク〉は2月に辞任を余儀なくされました。
その後,エジプト共和国初の民主的な選挙が行われ,穏健なイスラーム主義を掲げ
る
ムスリム同胞
団
の〈ムルシー〉(任2012~13)が大統領に就任。
〈ムルシー〉大統領は国民投票でイスラーム色の強い憲法を採択しましたが,イスラーム主義的な政策は世俗派からの反発を生み,反政府デモが頻発して政権運営が困難になると,2013年7月には軍部の〈シーシー〉国防大臣(1954~)らによるクーデタが起き,〈ムルシー〉は失脚されました(2013年エジプト=クーデタ)。憲法は停止されて,軍による暫定政権が発足してムスリム同胞団を含む反体制派を弾圧。
2014年に〈シーシー〉は大統領 (任2014~) に選出されると,前大統領〈ムルシー〉派のムスリム同胞団は弾圧の対象となっています(2018年9月には前大統領派75名に死刑判決)。
・
197
9
年~現在のアフリカ 北アフリカ
現②
スーダン
,③
南スーダン
スーダン内戦が,ダルフール紛争に発展
スーダ
ン
(1956~スーダン共和国,1969~スーダン民主共和国,1985~スーダン共和国)
では1983年にイスラーム教の世俗法であるシャリーアを全国に適用することが決まり,イスラーム教徒ではない住民(伝統的な宗教やキリスト教)の多い南部の黒人による抵抗が強まり
,
第二次スーダン内
戦
が勃発しました。
南部の黒人系のディンカ人は,ソ連や隣国エチオピアの支援を受けた〈ガラン〉大佐率いるスーダン人民解放運動(SPLM) に加わり,反政府運動を起こしました。
一方,北部の政権内部では1985年にクーデタが起き〈ヌメイリ〉が,国防大臣の〈アル=ダハブ〉により打倒され,スーダ
ン
人
民
共和国からスーダン共和国に国名が戻されました。その後選挙により政権を握ったのは,ウンマ党首〈マハディ〉でしたが,1989年には〈バシール〉大佐が無血クーデタで政権を獲得して強権を発動し,1993年には自ら大統領に就任しました。前後して1991年には隣国エチオピアで社会主義政権が崩壊し〈メレス〉政権が成立したため,スーダン南部のSPLMは重要な支援元を失うことになりました(のち,ウガンダが支援国になっていきます)。
南北の第二次スーダン内戦は,〈バシール〉が態度を軟化させ,2005年に包括的な和平合意が結ばれました。こうして〈バシール〉を大統領とし,SPLAの〈ガラン〉を第一副大統領とした暫定政府が成立しました。
しかし,この成立直後に〈ガラン〉の乗ったヘリコプターが墜落し,死去。さらにこうした南北和平の裏で今度はスーダン西部
の
ダルフール地
方
で,北部に多いアラブ系に対し,非アラブ系の住民(遊牧民のザガワ人や,定住民のフール人)との対立が激しくなっていました
(
ダルフール紛
争
)。〈バシール〉大統領はこのうちアラブ系を軍事支援し,アラブ系の民兵組織(「ジャンジャウィード」と呼ばれました)を組織・利用して,非アラブ系の住民の集落を焼き払ったり虐殺したりいった民族浄化(ジェノサイド)を行っていたことが国際社会に明るみになっていきます。ダルフール地方の住民はチャドに難民として流入し,同じくザガワ人であったチャドの〈デビ〉大統領とスーダンとの関係も悪化しました。2006年にダルフール和平合意(DPA)が成立するも人道危機は止まらず(死者約30万人,難民・国内避難民約200万人),政府側をソ連・中国,反政府側をアメリカ合衆国が援助する代理戦争の構図が生まれました。
2009年
に
国際刑事裁判
所
(ICC)が〈バシール〉大統領に逮捕状を出し,人道に対する犯罪と戦争犯罪の容疑をかけています。2013年にはスーダン政府とダルフールの反政府勢力との間に停戦が合意されましたが,紛争は続いています。
なお,南北関係について2005年に包括的な和平合意が締結されてから6年がたち,2011年7月に住民投票が行われ,アメリカ合衆国による支援も背景として,同年同月に南部スーダン
は
南スーダンとして分離独
立
しました。しかし,南北の国境付近の油田地帯アビエイをめぐる対立は深刻で,独立直後の2012年に国境紛争,2013年のクーデタ未遂以降は内戦状態となり,2016年には首都ジュバでも戦闘が行われる状況にまで発展しました。
・
197
9
年~現在のアフリカ 北アフリカ
現④
モロッコ
,⑤
西サハラ
サハラ沙漠
の"
砂の
壁"
マグリブ地方の代理戦争
モロッコではアラウィー朝モロッコ王国による立憲君主制が続いています。
モロッコ王国は1975年にモーリタニアとともに西サハラを分割して併合し,1979年にモーリタニアが西サハラを放棄すると,これをも併合し,アルジェリアの支援する西サハラの勢力(ポリサリオ戦線)との戦争となりました。1991年に停戦が実現しましたが,以前として西サハラの領有問題には決着がついていません
(
西サハラ問
題
)。ポリサリオ戦線に対してイランが支援をしているとされ,モロッコとイランは対立関係にあります。
1989年にアラブ=マグレブ連合条約が調印し,北アフリカのマグレブ地域の5か国,(モーリタニア,モロッコ,アルジェリア,チュニジア,リビア)の地域的なまとまりの強化が目指されています。
1999年には〈ムハンマド6世〉(位1999~)が即位しました。
スペイン撤退後
の
モロッコ南
部
が1976年にモーリタニアとモロッコによって分割・併合されたことに対し,アルジェリアの支援する独立勢
力
ポリサリオ戦
線
がモーリタニアと戦
う
西サハラ紛
争
が起きました。モーリタニアが1979年にモロッコ南部の領有をあきらめ,ポリサリオ戦線によ
る
サハ
ラ=
アラブ民主共和
国
を承認すると,それに対しモロッコが抗議します(1984~2017年までアフリカ統一機構(OAU(2002年以降はアフリカ連合;AU)を脱退
(注)
)。
国連事務総長による和平案が1991年にモロッコとポリサリオ宣言によって受け入れられて住民投票が実施されることになり,国連西サハラ住民投票監視団 (MINURSO)が派遣されましたが,未だに選挙は実施されていません。なお,ポリサリオ戦線はサハラ沙漠に総延長約2000kmの"砂の壁"を建設し,実効支配している領域を主張しています。
(注)大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』「アフリカ統一機構」の項目、岩波書店、2002年、p.61。
・
197
9
年~現在のアフリカ 北アフリカ
現⑥
アルジェリア
アルジェリアでは1965年以降,反フランス独立闘争の中心となったアルジェリ
ア
民族解放戦
線
(
FLN
)
【追H30アフリカ民族会議ではない】
のメンバーであった〈ブーメディエン〉(任1965~1979)が,社会主義的な独裁体制をしいていました。しかし,1979年に亡くなると〈ベンジェディード〉が後任となりましたが,自由化や仕事・食糧を求める運動が多発して社会不安は収まらず,1989年には憲法が改正されて複数政党制が導入されました。政府に失望する国民の中には,イスラーム主義を支持する者も増えていきます。
厳格なイスラームの規範に従おうとするイスラム救国戦線(FIS)が国民の間に支持を広げると,軍部はクーデタを起こし,軍事政権を樹立。FISを弾圧した政府のトップは暗殺され,FISは1992年に武装イスラーム集団(GIS)に発展して,テロ行為を繰り返しました。
そんな中,1999年に軍部の支援を受けたFLNの〈ブーテフリカ〉大統領(任1999~)が,アルジェリア独立後初めての文民として選出され,混乱をおさめます。
非常事態宣言は2010~2011年の「アラブの春」をきっかけに解除されましたが,隣国リビアの政権が崩壊すると,リビアの兵力や大量の武器がサハラ沙漠一帯に拡散し,マリ共和国からのトゥアレグ人の独立組織の活動が活発化する結果を招きました。マリ北部で2012年で内戦が起きると,旧宗主国のフランス軍が派兵しましたが,これを「異教徒の進出」とみるイスラーム過激派の活動を刺激し,2013年に
は
アルジェリア人質事
件
が発生しています。
・
197
9
年~現在のアフリカ 北アフリカ
現⑦
チュニジア
チュニジアでは一党独裁体制がしかれていましたが,1980年代に入ると経済がふるわず,
〈
ベ
ン=
アリ
ー
〉(任1987~2011)が〈ブルギーバ〉(任1957~87)大統領を解任する形で,大統領に就任しました。彼は複数政党制を導入し経済の再建に取り組みましたが,事実上一党体制は維持されました。しかし,2010年末に反政府運動が過激化し,〈ベン=アリー〉政権は崩壊しました
(
ジャスミン革
命
)。この政変はアラブ地域に影響を与え,メディアによって
「
アラブの
春
」と命名される動きの火種となりました。
「アラブの春」後の情勢が不安定化する周辺諸国と比べると,チュニジアの情勢は穏やかに進み,"アラブの春の優等生"とも呼ばれます。イスラーム主義(イスラーム主義政党の「ナフダ」単独では過半数を担うことができませんでした)と世俗主義の勢力との協力関係の下で暫定政権を経て,2014年にイスラーム色を含まない憲法が制定されました。同年の選挙では,〈ベン=アリー〉前大統領に近い〈セブシー〉(任2014~)率いる「チュニジアの呼びかけ」がナフダを押さえて勝利し,2015年には民主化が完了しました。しかし国内ではイスラーム過激派の活動もみられ,世俗主義の指導者が暗殺される事態が発生しますが,労働組合のチュニジア労働総同盟(UGTT)などがイスラーム・世俗の両派の間をとりもったことで,危機は回避されました(UGTTなどの4グループは2015年にノーベル平和賞を受賞しています)。
エジプト同様チュニジアでも,いったんはイスラーム主義の政党が台頭したものの,その後は世俗主義の政党や旧来の支配層が復権する状況がみられます。
・
197
9
年~現代のアフリカ 北アフリカ
現⑧
リビア
リビアでは
〈
カッザーフィ
ー
〉(カダフィ,任1969~2011)"大佐"率い
る
リビ
ア=
アラブ共和
国
が,1970年代に外国資本の石油企業を国有化して輸出産業で利益を上げていました。その思想はイスラーム教・アラブ民族主義・社会主義をあわせた「ジャマーヒリーヤ」と呼ばれるもので,その普及に合わせて1977年には国号を社会主義リビア=アラブ=ジャマーヒリーヤ国,1986年には大リビア=アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国と改称しています。前後して1979年には形式的に公職を退き,それ以降は「革命指導者」として隠然たる力を残しました。
1978年に従来は非同盟中立政策をとっていたエジプトが,アメリカ合衆国・イスラエルに接近すると,ソ連はこれに危機感を抱きます。そこで,ソ連はアフガニスタンからシリア,南イエメン,エチオピア
,
リビ
ア
を支援し,ソ連側の外交政策をとるように働きかけました(これらの国家を結ぶラインがソ連旗にみえる「鎌」の図案に似ているため,"赤い鎌"ともいわれます)。1979年にリビアの隣国エジプトがイスラエルとの友好条約
(
エジプ
ト=
イスラエル平和条
約
)を結ぶと,関係が悪化。欧米諸国との関係も悪化し,アメリカ合衆国の〈レーガン〉大統領はリビアを空爆する強硬手段に出ました。
2001年のアメリカ同時多発テロ事件以降は,アメリカ合衆国との関係を修復させ,核兵器の放棄を宣言して査察を受け入れた結果,2006年にはアメリカ合衆国との国交を回復させました。2009年~2010年にはアフリカ連合(AU)の議長を務めています。
しかし,2010年末に隣国チュニジアでジャスミン革命が起きると,2011年2月にリビアでも反政府デモが起きると,政府軍は王党派と結びついた反〈カッザーフィー〉派を空爆しました。しかし,反政府軍によって首都が陥落し,リビア全土で内戦が勃発しました(第一
次
リビア内
戦
)。安保理は〈カッザーフィー〉が人道に対する罪を犯している容疑を国際刑事裁判所に申し入れ,その結果〈カッザーフィー〉は国際手配されることになり,同年10月には反政府勢力やNATOの攻撃の中で殺害されています
(殺害当時の状況には,不明な点も多い)
。その後,リビア国民評議会による暫定政権(2011~12)を経て,2012年に国民議会が成立しました。
しかし,民主的なプロセスを経て成立した国民議会がイスラーム主義を掲げていたことから,このリビア西部
の
トリポリ政
府
をリビアの政府と認めない勢力・国家も多く,世俗主義を掲げるリビア東部のトブルク政府や,イスラーム国の関与しているといわれるリビア中部のシルトの勢力などが割拠する状況が続き,2014年以降は内戦が継続しています(第二
次
リビア内
戦
)。
リビアの内戦により政府の保有していた武器や兵員がサハラ地域一帯に拡散することとなり,2012年以降,特に南み位置す
る
マ
リ
北部における反政府勢力の活動を刺激しています。
1979年以降の西ヨーロッパでは,従来の福祉国家的な政策から一転,国があれこれ手出しをするのではなく市場の競争原理を重視する
「
新自由主
義
」をとる政権が現れました。
1981年にはEC(ヨーロッパ共同体)にギリシア
【早政H30】
,1986年にスペイン
【早政H30】
,ポルトガル
【早政H30】
が加盟し,加盟国が南ヨーロッパにも広がりました。
1991年12月末
に
ソ連が崩
壊
し,東ヨーロッパが自由主義経済圏に転換すると,相互の取引も始まっていきました。冷戦中の1975年にヨーロッパの安全保障のためにヘルシンキで開催されたCSCE
(
全欧安全保障協力会
議
)は,1995年には常設のOSCE
(
欧州安全保障協力機
構
)に発展し,地域の安全保障機構に発展しています(本部はウィーンに置かれました)。
1992年に
は
マーストリヒト条
約
【東京H22[1]指定語句「マーストリヒト」】
が調印され,1993年に
は
ヨーロッパ連
合
(
E
U
)が成立しています。
冷戦後のヨーロッパでは,各地で少数民族や少数言語を話す人の権利を向上させようとする運動も活発化します。
オランダ語系のフラマン語を使用する北部と,フランス語系のワロン語を使用する南部とで長年対立の続いてい
た
ベルギー王
国
は,1993年の憲法改正で,地域と言語の両方を考慮した地域区分による連邦制を採用しています。
ヨーロッパ連合(EU)は,2002年に共通通貨
の
ユー
ロ
【本試験H26ドル,ポンド,マルクではない】
を導入しましたが,イギリスは通過のポンドを維持しています。21世紀に入ると,EUは徐々にその市場を東側に拡大していくようになりました
(
EUの東方拡
大
)。新たに加盟したのは,かつて共産主義圏に属していたバルト三国(エストニア,ラトビア,リトアニア),ポーランド,チェコスロヴァキア,ハンガリーや,地中海上のマルタとキプロスです。
2007年にはルーマニア,ブルガリアが加盟。2013年にはクロアチアが加盟するなど,拡大は続きますが
,
ウクライ
ナ
は加盟の賛否を巡り国内に深刻な対立を生むことになりました。
同時にアメリカ合衆国の主導するNATOの拡大も進み,1982年にスペイン,1999年にチェコ,ハンガリー,ポーランド,2004年にエストニア,ラトビア,リトアニア,スロバキア,スロヴェニア,ルーマニア,ブルガリア,2009年にアルバニア,クロアチア,2017年にはモンテネグロが加盟しました。なお1966年の〈ド=ゴール〉大統領のときにNAT
O
軍事機構を脱
退
していたフランスは,親米の〈サルコジ〉大統領のもと,2009年に復帰しています。
EUが経済的な統合をさらに政治的な統合へとレベルアップさせようと,2004年にはヨーロッパ憲法条約(EU新憲法)が調印され,政治的な統合をも目指しましたが,2005年にフランスとオランダが批准を拒否。「『憲法』が定められてしまうと,EU全体の都合で,国家の主権が制限されてしまう」というのが理由です。EUの旗や歌まで定められていたこのヨーロッパ憲法条約を再検討したもの
が
リスボン条
約
です。2007年に調印され,2009年に発効しました。
そんな中,ヨーロッパもアメリカ発
の
世界同時不
況
(
リーマ
ン=
ショッ
ク
)のあおりを受けるとともに,ギリシアやイタリアの財政危機によって,ユーロの信用が低下。財政支援をするかいなかを巡り,加盟国間で対立が起きています。
イギリスでは不況の影響で貧困層(アンダークラス)の就労支援が急務となりますが,2004年に相次いで加盟したポーランドを始めとす
る
東ヨーロッパからの出稼ぎ移
民
が増加し,貧困層の外国人労働者に対する不満が高まっていきました。彼らの不満を吸収し,EU(ヨーロッパ連合)からの脱退を主張するイギリス独立党が,2014年に欧州議会選挙で第一党となるなど
,
欧州懐疑主
義
(EUに対する疑問を唱える主張)が目立つようになっていきました。2014年に
は
スコットランドで独立の賛否を問う住民投
票
が行われ,賛成55%・反対44%で否決されています。2016年にはイギリスでEUからの脱退を問う国民投票が行われ,僅差で脱退派が上回ると〈キャメロン〉首相は辞任し,保守党の〈メイ〉首相(2016~)に交替しました。イギリスのEUからの脱退は,イギリス(Britain)+脱退(Exit)をあわせ
て
ブリグジッ
ト
(
Brexit
)とメディアにより表現されています。〈メイ〉首相はEU脱退に向けた手続きを進めています。
また,2015年には,シリア内戦を逃れた難民100万人以上が,ヨーロッパに押し寄せ
(
欧州難民危
機
),その対応策を巡っても温度差が生じています。増える移民の対応策をめぐって,排外的な政党が議席をのばしたり,特定の文化を禁止する国も出ています。2005年にはデンマークで「ムハンマド風刺画事件」が起き,世界各地で抗議行動が起きました。2009年にスイスでは住民投票で,ミナレットの付いているモスクの建設が禁止されています。
○197
9
年~現在のヨーロッパ 東ヨーロッパ
東ヨーロッ
パ
...冷戦中に「東ヨーロッパ」といえば,ソ連を中心とする東側諸国を指しました。ここでは以下の現在の国々を範囲に含めます。バルカン半島と,中央ヨーロッパは別の項目を立てています。 現
①
ロシア連
邦
(旧ソ連),
②
エストニ
ア
,
③
ラトビ
ア
,
④
リトアニ
ア
,
⑤
ベラルー
シ
,
⑥
ウクライ
ナ
,
⑦
モルドバ
・
197
9
年~現在のヨーロッパ 東ヨーロッパ
現①
ソ連/ロシア
①
ソ
連
では
〈
ブレジネ
フ
〉第一書記(のち書記長)(任1964~82)
【慶商A H30記】
のもとで急増した軍事費や政策の失敗により経済の低迷が続き,1979年6月には軍事費削減のため
,
第二次戦略兵器制限交
渉
(
SAL
T
Ⅱ
,ソルトツー)を締結しました。しかし,同年12月24日
に
アフガニスタンに侵
攻
【本試験H29フルシチョフのときではない】
すると,アメリカ合衆国の議会は批准を拒否し(結局,発効はしませんでした),
「
新冷
戦
」と呼ばれる事態に発展しました。
ソ連で侵攻を批判した物理学者の〈サハロフ〉("水爆の父")は,〈ブレジネフ〉によって流刑となっています。1980年のモスクワ=オリンピックは,日本も含めソ連に反対する西側各国がボイコットする事態となりました
【H29共通テスト試行 題材】
。
1979年の中華人民共和国とヴェトナム社会主義共和国と
の
中越戦
争
【追H21「ヴェトナムがビルマ(ミャンマー)に侵攻したため」起きたか問う】
と合わせ,"社会主義国どうしは戦争をしない""社会主義国は平和な体制である"というイメージをくつがえすことにもなりました。
しかし,増大する軍事費は財政を圧迫し社会不安が高まると,1985年には
〈
ゴルバチョ
フ
〉が書記長に就任し,
「
ペレストロイ
カ
」(改革)
【東京H28[3]】
【本試験H10世界恐慌への対策ではない】
を打ち立て難局を乗り切ろうとしました。1986年には反体制派〈サハロフ〉の流刑も解除します。
しかし,1986年に起きた
⑥
ウクライ
ナ
の
チェルノブイリ原子力発電所の爆発事
故
【本試験H17時期,本試験H26,本試験H31時期を問う】
が明るみに出ると,ウクライナだけでなくベラルーシ南部にも被害が及びました。
政府はこの事実を当初国民に隠したため,〈ゴルバチョフ〉政権に対する批判が高まります。
すでに「正確な情報と問題点の自由な論議」は求められるようになっていましたが,この事故によって一層情報公開が進展していくことになりました。情報公開を進展させる政策のことを
「
グラスノス
チ
」
【追H26ポーランドではない】
【本試験H31】
といいます。以前は隠されていたような統計の数字や,事故,社会問題もちゃんと報じられるようになり,さまざまな「意見」が飛び交うようになっていきます
(注
)
。
(注)『角川世界史辞典』「グラスノスチ」の項目。
1989年にはバルト三国
の
エストニ
ア
,
ラトビ
ア
,
リトアニ
ア
が,国境を超え南北600kmにわたり参加者が手をつなぐ
「
人間の
鎖
」デモがおこなわれ,ソ連からの独立を訴えるようになっていました。
ヨーロッパの社会主義圏でも,共産党以外の政党も含めた自由選挙を求める動きが高まると〈ゴルバチョフ〉は新たな国際体制を樹立する必要性に迫られ,1989年12月にはアメリカ合衆国の〈ブッシュ(父)〉とソ連の〈ゴルバチョフ〉が地中海のマルタ島
【本試験H25モスクワではない】
で会談し,冷戦が終結が宣言されました
(
マルタ会
談
)
【本試験H14時期(湾岸戦争の終結後ではない)】
【追H9】
。
〈ゴルバチョフ〉は1990年
に
ソ連の大統
領
に就任し
【本試験H25スターリンではない】
,複数政党制が認められました(1990年のノーベル平和賞を受賞)。しかし,市場経済をいきなり導入したことで,ソ連の人々の生活が苦しくなり,批判も出てきました。〈ゴルバチョフ〉は冷戦を終結に持ち込んだものの,国内の体制を確立することに失敗していくのです。
1990年に
は
バルト三
国
(
エストニ
ア
,
ラトビ
ア
,
リトアニ
ア
)
【本試験H16フィンランドではない】
がソ連から
の
独立を宣
言
すると,〈ゴルバチョフ〉は武力を投入して放送局を占拠するなど,鎮圧しようとしました(1991年の血の日曜日事件)。
〈ゴルバチョフ〉を批判していたグループは,主に2つありました。今まで通りの社会主義路線を進めようとする「保守派」と,もっと市場経済を本格的に導入するべきだとする「改革派」です。
〈ゴルバチョフ〉は1991年7月には
,
第一次戦略兵器削減条
約
(STARTⅠ(スタート・ワン)。RはReduction(リダクション=削減)のRです)をアメリカ合衆国の〈ブッシュ(父)〉大統領と結ぶことにも成功しました。また,同年7月に
は
ワルシャワ条約機
構
(WTO,1955発足)
も
解
散
されました
【本試験H14時期(1950年代~60年代ではない)】
。
しかし8月,「改革派」の
〈
エリツィ
ン
〉(任1991~99)
【セA H30】
がロシア共和国の大統領に選ばれます。
これに対し
て
「保守派
」
【セA H30エリツィンは保守派ではない
】
がクーデ
タ
(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること)
【追H9この失敗後ソ連は消滅したか問う】
を起こしました。このとき〈ゴルバチョフ〉が軟禁されましたが,国民はクーデタ(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること)を支持することはありませんでした。この直後,
②
エストニ
ア
,
③
ラトビ
ア
,
④
リトアニ
ア
の
バルト三
国
は正式にソ連からの離脱が認められました
(
バルト三国の独
立
)。なお,このとき〈ゴルバチョフ〉を救出した〈エリツィン〉はテレビ放送を通じて,そのたくみな弁舌により国民からの人気を博すようになっていきます。
8月に〈ゴルバチョフ〉はソ連共産党の中央委員会(最高意思決定機関です)を解散し,12月にはソ連から全ての共和国が離脱し
て
ソ連共産党を解
散
しました
(
ソ連の消
滅
【本試験H26時期】
【追H9】
)。
もともとソ連だった領土は
,
ロシア連
邦
が引き継ぎ,ソ連の構成国はバルト三国を除い
て
CI
S
(
独立国家共同
体
)に参加し,協力関係が維持されましたが,しだいに形式化していきました。
1992年からは物価や生産・流通が自由化されてインフレが起き,国民生活は打撃を受けました。その中で新興富裕層が台頭。2000年には
〈
プーチ
ン
〉(任2000~08,12~)が
「
強いロシ
ア
」
【慶文H30問題文】
の再建を目指して大統領に就任し,資源を輸出して高い成長率を確保し,BRICs(ブリックス)の一つに数えられるまでになりました。彼はソ連時代にKGB(国家保安委員会)の職員で,強権的な手法で長期政権を維持しています。
2008年
の
世界金融危
機
を受けてヨーロッパを不況の波が襲いました。とりわけ南ヨーロッパへの影響が大きく,2010年にギリシア危機が起きてユーロの価値は下落しました。
2014年には
,
ウクライ
ナ
の政府がEUとNATOへの加盟を目指すことを表明すると,ロシアの〈プーチン〉大統領はこれを阻止するために
,
クリミア半
島
【慶文H30】
や
ウクライナ東
部
のロシア系住民による分離運動を支援し,クリミア半島を住民投票の形をとって事実上独立させ,ロシアに併合しました
【慶文H30「分離運動を支持し,「強いロシア」の復活を首長するロシア大統領は誰か】
。これにともない,ロシアはG8(ジーエイト,主要国首脳会議)への参加を停止されましたが,新興国を含む
G20
(ジー=トゥウェンティ,主要20か国・地域)には参加を継続させています。
・
197
9
年~現在のヨーロッパ
現①
ソ連/ロシア カフカス地方
チェチェン
黒海とカスピ海に挟まれ
た
カフカ
ス
地方にあ
る
チェチェ
ン
は,ロシア革命後にロシア共和国に編入されましたが,第二次世界大戦時にドイツにより占領。戦後にドイツに協力したとして住民は強制移住させられましたが,1957年に名誉回復され,チェチェン=イングーシ自治共和国として復活していました。1991年の時点で,チェチェンとイングーシを分離することは認められていましたが,ソ連崩壊後にチェチェンがロシア連邦から離脱する動きを見せたことから1994年に〈エリツィン〉大統領(任1991~99)が軍事介入し
,
第一次チェチェン紛
争
が始まりました
【追H27時期を問う(1970年代ではない)】
【本試験H29時期】
。96年に停戦合意し,翌97年に撤退しましたが,99年に暴力的なグループがモスクワで爆弾テロを起こしたこと
で
第二次チェチェン紛
争
となりました。2000年にロシア軍はチェチェンから撤退しましたが,2002年にモスクワ劇場占拠事件が起きるなど,暴力的グループによる抵抗運動は続いています。ロシアがチェチェンの独立を認めないのは,カスピ海の石油を黒海の積出港に運ぶパイプラインが通っていることや,他の少数民族の独立運動を刺激するのを恐れているからです。
・
197
9
年~現在のヨーロッパ 東ヨーロッパ
現②
エストニア
,③
ラトビア
,④
リトアニア
エストニ
ア
=ソビエト社会主義共和国
,
ラトビ
ア
=ソビエト社会主義共和国
,
リトアニ
ア
=ソビエト社会主義共和国では,1986年に起きた
⑥
ウクライ
ナ
の
チェルノブイリ原子力発電所の爆発事
故
【本試験H17時期,本試験H26】
が明るみに出ると,〈ゴルバチョフ〉政権に対する批判が高まりました。
1986年にはラトビアで,ソ連による水力発電所建設に対する反対運動が起き,1987年に環境保全同志会が設立。その後も独立を目指す運動が盛り上がっていきます。
1988年にリトアニアで「サユディス」という政治組織が結成され,独立に向けて動き出します。
1989年8月23日にはバルト三国
の
エストニ
ア
,
ラトビ
ア
,
リトアニ
ア
が,国境を超え南北600kmにわたり参加者が手をつなぐ
「
人間の
鎖
」デモがおこなわれ,ソ連からの独立を訴えるようになっていました。8月23日は,バルト三国がソ連の支配下となるきっかけとなった
,
独ソ不可侵条
約
の秘密協定(モロトフ=リッベントロップ協定)が締結された日にあたります。
この運動は「バルトの道」と呼ばれ,独立への機運を高めました。
ソ連の〈ゴルバチョフ〉は1990年
に
ソ連の大統
領
に就任し
【本試験H25スターリンではない】
,複数政党制が認められました(1990年のノーベル平和賞を受賞)。しかし,市場経済をいきなり導入したことで,ソ連の人々の生活が苦しくなり,批判も出てきました。〈ゴルバチョフ〉は冷戦を終結に持ち込んだものの,国内の体制を確立することに失敗していくのです。
ラトビアでは1990年3月の自由選挙で独立派が勝利し,1990年5月に新政府がラトビア共和国の成立と1922年憲法の復活を採択。
リトアニアでも1990年3月の自由選挙で独立派のサユディスが勝利し,独立を宣言します。
1990年5月に
は
バルト三
国
(
エストニ
ア
,
ラトビ
ア
,
リトアニ
ア
)
【本試験H16フィンランドではない】
の首脳が会談し,事実上ソ連から
の
独立を宣
言
しました。
この一連の動きに対しソ連の維持をねらう〈ゴルバチョフ〉は武力を投入。
ラトビアで1991年1月にソ連軍が新政府を打倒しようとしましたが,失敗します(「1991年の血の日曜日事件」)
エストニアでは,1991年8月に首都タリンの放送局を占拠するなど,鎮圧しようとしましたが失敗します。
リトアニアでは,1991年1月にソ連軍が投入され,首都ヴィリニュスの放送塔や国会議事堂などで流血沙汰となりました(「血の日曜日」)。
ソ連で起きた8月クーデタを受けて,ソ連政府の権威は失墜。
1991年8月にアメリカ合衆国
が
バルト三国の独
立
を承認すると,同月にソ連もこれを認めざるをえなくなり,国際連合にも加盟します。
ロシア連邦は1993~1994年にかけてバルト三国から軍を撤退させました。バルト三国は2004年にEUとNATOに加盟して西ヨーロッパに接近。その結果,この3か国の領空警備は2004年3月以来NATO加盟国が順次担当している状態です。
一方,ソ連離脱後にバルト三国が共通して抱える問題として,領内に残るでロシア系住民との関係があります。
エストニ
ア
その後は西ヨーロッパとの連携を目指し,2004年に北大西洋条約機構(NATO)と欧州連合(EU)に加盟します。
歴史的にバルト海を取り囲む北ヨーロッパとのつながりの深いエストニアは,1992年にバルト海諸国理事会に加盟しています。
エストニアはIT技術先進国であり,"電子国家"とも評されます。2007年には議会選挙として世界初
の
インターネットを利用した電子投
票
が行われています。
ラトビア
ラトビアは1992年にバルト海諸国理事会に加盟。
2004年に北大西洋条約機構(NATO)と欧州連合(EU)に加盟しました。
その後は西ヨーロッパとの連携を目指し,2004年に北大西洋条約機構(NATO)と欧州連合(EU)に加盟します。
脚注
・
197
9
年~現在のヨーロッパ 東ヨーロッパ
現⑤
ベラルーシ
ベラルーシは強権的な支配体制に
1986年にウクライナ北部
で
チェルノブイリ原子力発電所事
故
【本試験H31年代を問う】
が発生すると,ベラルーシは南東部で大きな被害を受けました。
1990年7月に独立を宣言し,1991年8月末に独立承認されました。しかしロシアにとって黒海にのぞむウクライナを失うのは大きな打撃です。そこで同年12月に,すでに,ソ連の構成国の一つにであるロシアの大統領となっていた〈エリツィン〉(大統領任1991年7月~1999)が,ウクライナとベラルーシとの間に会議を開き,ベラルーシにおい
て
独立国家共同
体
(
CI
S
)の創設に関するベロヴェーシ合意が宣言されました。独立国家共同体というのは,これからはソ連を構成していた国家が,ヨーロッパ共同体(EC)を参考に,対等な主権国家同士の関係を形成しましょうという組織です。そんな大事なことをスラヴ系の3国だけで決めるのは「おかしい」という声もあがり,カザフスタンのアルマ=アタでバルト三国以外の全構成国が集まって,アルマ=アタ宣言を発表しました。〈ゴルバチョフ〉はこの動きに反発し続けたものの,12月25日にソ連大統領を辞任し,翌26日
に
ソ連は消
滅
,独立国家共同体(CIS)が創設されることになりました。
なお,1991年9月には国名
を
白ロシ
ア
=ソヴィエト社会主義共和国か
ら
ベラルーシ共和
国
としています。
1994年に憲法が制定され〈ルカシェンコ〉が当選しましたが,彼は1996年に新憲法を制定して権限を強化し,2015年に五選されるまでの長期政権を築いています。
1999年にはベラルーシとロシア連邦を統合することを目指す協定が〈エリツィン〉大統領との間で締結されましたが,〈プーチン〉政権以降は関係が悪化し,その後の〈メドベージェフ〉政権,〈プーチン〉政権でも統合の動きは下火となっています。
・
197
9
年~現在のヨーロッパ 東ヨーロッパ
現⑥
ウクライナ
ロシアはウクライナ東部に南下する
ウクライナでは独立後から,ロシア人の多い東部と少ない西部との間で,国づくりをめぐる対立が起きていました。東部のロシア人の政治勢力を支援しているのは,当然ながらロシア連邦です。西部の住民はヨーロッパ連合への加盟を希望し,東西の対立が高まる中,2004年に大統領選挙が行われました。与党の〈ヤヌコーヴィチ〉首相はロシアの支援を受け,投票結果で勝利が宣言されましたが,野党〈ユシチェンコ〉派がこれに疑義を唱えると,イメージカラーのオレンジ色を掲げた
"
オレンジ革
命
"と呼ばれる反政府運動が盛り上がり,最高裁判所によって再選挙が実施されました。再選挙で〈ユシチェンコ〉(52%)が〈ヤヌコーヴィチ〉(44%)に勝利し,大統領(任2005~2010)に就任しました。2010年の選挙で,元〈ユシチェンコ〉派の〈ティモシェンコ〉が出馬しましたが,〈ヤヌコーヴィチ〉(任2010~14)が勝利し大統領に就任しました。
すでにウクライナは〈ユシチェンコ〉政権の下で欧州連合(EU)との間に政治・貿易協定(ウクライナ=EU協定)を仮調印していました。しかし〈ヤヌコーヴィチ〉がこの正式署名を拒否すると,野党が大規模な反政府運動を起こしました。混乱を収拾することができず〈ヤヌコーヴィチ〉は2014年2月にロシアに亡命しました。調印拒否にはロシアの圧力があったものとみられます。
ウクライナでは暫定政府が樹立されましたが,この動きに対しロシアは同年3月
に
クリミア半
島
(自治共和国,セヴァストポリ特別市)での住民投票を経て,これを併合。
これにともない,ロシアはG8(ジーエイト,主要国首脳会議)への参加を停止されましたが,新興国を含む
G20
(ジー=トゥウェンティ,主要20か国・地域)には参加を継続させています。
さらに,同年4月には親ロシア派のデモ隊がドネツク州の議会を占領し,ドネツク人民共和国の建国を宣言しました。同様に東部のルガンスク自治州でも建国が宣言されました。この2州ではウクライナ政府の支配が及ばなくなっています。2014年7月には,マレーシア航空の民間旅客機がウクライナ東部で墜落しており,親ロシア派による撃墜によるものとの調査結果も出ています。
・
197
9
年~現在のヨーロッパ 東ヨーロッパ
現⑦
モルドバ
ドニエストル川下流域に位置するモルダビア=ソビエト社会主義共和国は,1991年にソ連から離脱。
同年
,
ルーマニア
人
の住民によ
り
モルドバ共和
国
が成立しますが,ドニエストル川東岸
の
ロシア
人
の多く住む地域は
「
沿ドニエストル共和
国
」として主権が及ばない地域となっています。沿ドニエストル共和国は,グルジア〔ジョージア〕からの独立を宣言するアブハジアと南オセチア,アゼルバイジャンからの独立を宣言するアルツァフ〔旧称はナゴルノ=カラバフ〕の3つの未承認国家からのみ承認を受けており,事実上
「
未承認国家
」
となっています。
○197
9
年~現在のヨーロッパ バルカン半島
バルカン半
島
...①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア
・
197
9
年~現在のヨーロッパ バルカン半島 現①ルーマニア
ルーマニア社会主義共和
国
では,
〈
チャウシェス
ク
〉大統領夫妻(夫1918~89,妻1916~89)が,ソ連から距離を置き西側諸国に接近する独自路線をとることで,長年独裁政権を維持してきました。しかし1980年代に入ると対外債務が積み上がり国民の生活水準も下がる中,〈チャウシェスク〉らの支配層の豪遊ぶり(首都ブカレストには宮殿"国民の館"が建築されていました)に批判が集まり,1989年
に
ルーマニア革
命
【本試験H15ユーゴスラヴィアの一部ではない,本試験H21ユーゴスラヴィアではない,H24・H29ポーランドではない(ともに同じひっかけ)】
が起こると,公開処刑されました。新たな国名は「ルーマニア」になります。
市場経済への復帰後には混乱もみられましたが,2000年以降には安価な労働力が注目され海外からの投資が増加して経済成長を遂げ,2004年に
は
NATOに加
盟
,2007年に
は
EUに加
盟
しました。
・
197
9
年~現在のヨーロッパ バルカン半島
現②
ブルガリア
ブルガリア人民共和
国
では1989年に共産党による一党独裁体制が終わり,1991年に民主的な憲法が定められました。ブルガリア共和国は,2004年に
は
NATOに加
盟
,2007年に
は
EUに加
盟
しました。
・
197
9
年~現在のヨーロッパ バルカン半島
現④
ギリシャ
ギリシャはEC加盟も,財政危機でEU離脱危機に
ヨーロッパ共同体にとって,「ヨーロッパ文明"発祥"の地」であるギリシャは,いかに経済的に立ち遅れていようともヨーロッパ統合の象徴として必要な存在として考えられていました
(注
)
。
1974年に民政に復帰したギリシャでは,ヨーロッパ共同体(EC)の加盟を目指して経済政策への国家の介入を強めた,新民主主義党(ND)の〈カラマンリス〉(共和国首相任1974~80大統領任1980~85,90~95)は最低賃金の改定,公務員基本給の増額などを実施。EC加盟に反対する野党の全ギリシャ社会主義運動(PASOK)の〈パパンドレウ〉を押さえ,ギリシャは1981年
に
ヨーロッパ共同
体
(EC)への加盟を果たします。
しかし,1981年の総選挙で〈パパンドレウ〉のPASOKが"変革"を訴えて勝利をおさめると,"ギリシャ人のためのギリシャ"を掲げ,社会保障や補助金を充実させるとともに,公務員職や国営企業の職を国民に提供することで,幅広い大衆の支持を集めました。こうした政府の支出はECからの資金によってまかなわれ,次第に財政が赤字化し,市場競争力も低下していきました。1990年~1993年には新民主主義党(ND)政権となりますが,EU成立前にはPASOK政権(1993~2004)となりあす。1996年に〈パパンドレウ〉の死後,後任となった〈シミティス〉首相(任1996~2004)の下で国家財政が再建され,財政赤字は2000年にGDPの1%にまでおさえられました(この数字は後に粉飾であったことが明らかになります)。こうして2001年にはユーロが導入されました。
2004年に新民主主義党(ND)政権となり,〈カラマンリス〉(1956~,〈カラマンリス〉(1907~98)の甥)が首相となりました。同年,アテネ=オリンピックが開催されています(第一回近代オリンピックは1896年にアテネで開催されました)。
その後,2009年に政権に就いたPASOKの〈ヨルゴス=パパンドレウ〉首相は,2010年に,前の政権である新民主主義党(ND)がギリシャの財政赤字を実際よりも過小に報告していたことを明らかにしました。これが元となりギリシャ国債の格付けは急落,ギリシャに多額の資金を貸し付けていたドイツやフランスにも影響が及ぶと,欧州ソブリン危機(いわゆる
「
ユーロ危
機
」)へと発展しました。〈パパンドレウ〉のPASOK政権はEU・IMF・ヨーロッパ中央銀行に支援(第一次支援プログラム)を要請しましたが,これには公務員給与の引き下げなど
の
緊縮政
策
が伴ったため,ギリシャ全土でデモやストライキが発生。2011年にヨーロッパ連合理事会で追加支援(第二次支援プログラム)が発表されると,〈パパンドレウ〉は突如,国民投票の実施を表明。これに対して内外の反発が強まると〈パパンドレウ〉は退陣し,2011~2012年に〈パパディモス〉を首相とするPASOK,ND,国民正統派運動による連立政権が成立しました。〈パパディモス〉政権は2012年に追加支援を合意しましたが,同年の総選挙の結果,緊縮に発展する野党の支持が拡大したため連立が崩壊し,同年の再選挙の結果,NDの〈サマラス〉首相によるND,PASOK,民主左派(~2013)の連立政権(2012~2015)となります。
しかし,2015年の総選挙で反緊縮を掲げる急進左派連合(SYRIZA,スィリザ)が第一党となり,反緊縮を主張する「独立ギリシャ人」党(ANEL)との連立政権になり,SYRIZAの〈ツィプラス〉(1974~,任2015~)が首相に就任しました。〈ツィプラス〉政権は当初はEUによる追加支援を拒否し,ユーロ圏離脱の可能性
(いわゆる
"
グレグジッ
ト
",Greece+Exitをあわせた造語)
も高まりましたが,2015年の国民投票後に公約に反して第3次支援プログラムの受け入れを妥協し,内閣総辞職となりました。しかし,同年の総選挙で再びSYIRIZAとANELの連立政権(ツィプラス首相)となり,緊縮策とシリア難民対策に追われています。
(注)村田奈々子『物語 近現代ギリシャの歴史 - 独立戦争からユーロ危機まで』中央公論新社,2012年,p.264。
・
197
9
年~現在のヨーロッパ バルカン半島
現③
マケドニア
,⑥
コソヴォ
,⑦
モンテネグロ
,⑧
セルビア
,⑨
ボスニ
ア=
ヘルツェゴヴィナ
,⑩
クロアチア
,⑪
スロヴェニア
ユーゴスラヴィア解体時に,民族紛争が勃発する
"七つの国境,六つの共和国,五つの民族,四つの言語,三つの宗教,二つの文字,一つの国家"を持つといわれ
た
ユーゴスラヴィア連
邦
では,枢軸国との武装闘争を率いた独立の父
〈
チト
ー
〉(ティトー,1892~1980)
【本試験H12内戦によって退陣したわけではない】
が死去すると求心力を失い,連邦の結束が揺らいでいきました
【追H19ユーゴスラヴィアは平和的に解体していない】
。
1991年6月に
⑪
スロヴェニ
ア
【本試験H15セルビアではない】
が10日間の戦争(十日間戦争)で独立。1991年6月には
⑩
クロアチ
ア
【本試験H15セルビアではない】
が独立宣言し,クロアチア内戦が勃発,1995年まで続きますが独立を達成しました。1991年9月には
③
マケドニ
ア
もマケドニア共和国として独立を宣言します。マケドニアは国際連合加盟をめぐり「マケドニア」という国名がギリシャによる反発を生み,「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」という国名での登録となりました
(「マケドニア」の名称は,かつて〈フィリッポス2世〉(前382~前336)とその子〈アレクサンドロス3世(大王)〉(前356~前323)のマケドニア王国による支配の歴史を思い起こさせ,ギリシャ政府が「マケドニアがギリシャ内の領土を主張するのではないか」と恐れたのです)
。
そんな中,1992年3月に
⑧
ボスニ
ア=
ヘルツェゴヴィ
ナ
が独立宣言
【本試験H27青年トルコ革命のときではない】
を出すと,複雑な民族構成が原因で内戦が深刻化し,従来は共存していたイスラーム教徒とクロアチア人とセルビア人たちの対立が政治的に生み出され,三つ巴(どもえ)の構図となりました
(
ボスニア内
戦
,1992年4月~1995年12月)。
対立構図が生まれる過程でマス=メディアを通した広告の果たした役割が大きいことが指摘されており,国際社会においてセルビア=悪玉という構図が支持された背景にはアメリカ合衆国の企業の関与があったといわれます
(注
)
。元・サッカー日本代表監督でドイツ系の〈オシム〉(1941~)は1992年のセルビアの侵攻以前に国外に移動していますが,妻子はサライェヴォに残すことになり,1994年に再会するまで別離を余儀なくされます。1995年7月にはスレブレニカでセルビア人が8000人のムスリムを虐殺。同年12月にはアメリカ合衆国の仲介でデイトン合意(和平合意)が結ばれました。
独立後には,民族紛争中に崩落したネレトヴァ川のイスラーム教徒地区とクロアチア人地区を結ぶ橋が修復され,2005年に「モスタル旧市街の石橋と周辺」として世界文化遺産(負の遺産)」に登録され"和解の象徴"となっています。
アルバニア系住民の多い
⑥
コソヴ
ォ
は1991年に独立宣言を出しますが,セルビアは独立を認め
ず
コソヴォ紛
争
に発展しました。1999年に
は
NATO
軍
【追H30】
が国連安全保障理事会の決議のないま
ま
セルビアを空
爆
【追H30】
する事態となり,ユーゴスラヴィア側に立つロシア・中華人民共和国との対立を生みました
。
コソヴォ共和
国
は2008年に独立宣言しましたが,ロシア・中国などは承認せず,セルビアの一部とみなしています。
なお,2001年にマケドニアでは,コソヴォ紛争の影響を受けて国内北部のアルバニア系住民が蜂起す
る
マケドニア紛
争
が起きています。
(注)高木徹『戦争広告代理店』講談社,2005。
○197
9
年~現在のヨーロッパ 中央ヨーロッパ
中央ヨーロッパ...
①
ポーラン
ド
,
②
チェ
コ
,
③
スロヴァキ
ア
,
④
ハンガリ
ー
,
⑤
オーストリ
ア
,
⑥
スイ
ス
,
⑦
ドイ
ツ
(旧・西ドイツ,東ドイツ)
共産党の一党独裁が崩れ市場経済が導入される
1989年には,
①
ポーラン
ド
,②・
③
チェコスロヴァキ
ア
,
④
ハンガリ
ー
でも民主化運動が激化し,共産党の独裁体制が崩壊していきます。
・
197
9
年~現在のヨーロッパ 中央ヨーロッパ
現①
ポーランド
①
ポーラン
ド
では
〈
ワレ
サ
〉(ヴァウェンサ,1943~2016,任1990~95)
(注)
【本試験H22コシューシコではない】
を中心とする自主管理労組
「
連
帯
」(ソリダルノスチ)
【追H26ポーランドか問う】
【セA H30ルーマニアではない】
が組織されましたが,1981年に解散させられていました
【本試験H24時期(社会主義体制下)】
。しかし,彼は1983年にノーベル平和賞を受賞し,当時のローマ教皇
〈
ヨハ
ネ=
パウロ2
世
〉(ポーランド出身です)が公然と〈ワレサ〉の「連帯」を支持する中,1986年には復活し,1989年6月に議会選挙で勝利したことで,共産党ではない政権に移行しました。これらの国では複数政党制と議会制民主主義が導入されて,市場経済に移行しました。
(注)ポーランド語の「Ł」の発音は「w」に近く,「ロー」よりも「ウォ」のほうが正しい発音に近いです。「w」のつづりは「ヴ」になるので,〈Wałęsa〉の場合,「ワレサ」よりも「ヴァウェ
ン
サ」のほうがポーランドに近い発音になります。
・
197
9
年~現在のヨーロッパ 中央ヨーロッパ 現②
・③
チェコスロヴァキア/
現②
チェコ
,③
スロヴァキア
②・
③
チェコスロヴァキ
ア
では,共産党独裁体制が無血で倒されたことから
,
ビロード革
命
とよばれます。〈ゴルバチョフ〉は,かつてのハンガリー事件(1956年)やプラハの春(1968年のように,東欧革命に武力介入することはありませんでした。
なおチェコスロヴァキアは1993年
に
チェコ共和国とスロヴァキア共和国に分離独
立
し,こちらもスムーズな展開であったことから"ビロード離婚"といわれます。
・
197
9
年~現在のヨーロッパ 中央ヨーロッパ
現④
スイス
1815年
の
ウィーン議定
書
以来永世中立主義をとっていたスイスですが,2002年に国民投票の結果
,
国際連
合
に加盟しました。しかし,EU(ヨーロッパ連合)には加盟していません。
・
197
9
年~現在のヨーロッパ 中央ヨーロッパ
現⑤
オーストリア
1955年以降
永世中立国
【追H18】
となっている
⑤
オーストリ
ア
は,1995年に
は
EUに加
盟
しています。
・
197
9
年~現在のヨーロッパ 中央ヨーロッパ 東・西ドイツ/
現⑦
ドイツ
⑦
東
ドイ
ツ
の国家元首は1960年以降「国家評議会議長」でした。ドイツ社会主義統一党の一党制で,ソ連の"衛星国家"となっていました。しかし,1976年に国家評議会議長(首相)に就任した,ドイツ社会主義統一党書記長(任1971~89)の〈ホーネッカー〉(任1976~89)は,当初は西側諸国との緊張緩和に努めますが,次第にシュタージという秘密警察による国内の取締を強化させていきます。国際社会の変化に対する対応が迫られる一方で,東ドイツ経済は停滞を続け,1987年には西ドイツを訪問し〈コール〉首相と会談しています。しかし,経済政策の自由化には踏み切ることはなく中央集権的な政策を取り続け,1980年にポーランドの政権が自由選挙で大敗して崩壊すると,東ドイツ国民は隣国チェコスロバキアからハンガリーへ脱出
(
汎ヨーロッ
パ=
ピクニッ
ク
)。すでにハンガリーでは自由化に向けた改革を進めていましたので,逃げてきた東ドイツ国民をオーストリア経由で西ドイツに出国させていきました。
このような事態に陥っても〈ホーネッカー〉は強硬な社会主義路線を変えることがなく,そんな中で〈ゴルバチョフ〉が10月7日に東ドイツに訪問し〈ホーネッカー〉を批判,その後副議長〈クレンツ〉らは〈ホーネッカー〉批判をすすめ,10月18日に〈クレンツ〉が国家評議会議長(首相)に就任しました。〈クレンツ〉は体制維持に奔走しますが,ベルリン地区委員会の第一書記をつとめていた〈クレンツ〉派の〈シャボフスキー〉がベルリンの壁の開放を誤って発表すると,壁に押し寄せた群衆を止めることはもはや不可能となり,11月9日に本当
に
「ベルリンの壁」が開
放
【追H30時期:ソ連解体後ではない】
されてしまったのです。〈クレンツ〉は12月に退陣し,小勢力であったドイツ自由民主党の〈ゲルラッハ〉が国家評議会議長に就任。彼の下で1990年に史上初めて自由選挙がおこなわれ,新憲法が制定されました。
しかし,同年10月には西ドイツ
の
コー
ル
首相(任1982~1998)のもとで,西ドイツが東ドイツを吸収する形
で
東西ドイツ再統
一
が実現されました
【本試験H16時期1970年代ではない】
(映画「グッバイ,レーニン!」(ドイツ2003)は東西ドイツ統一をはさんで,東ベルリンで社会主義体制が崩壊を目の当たりにした家族を描いています)
。初代大統領は西ドイツ首相のキリスト教民主同盟(CDU)の
〈
ヴァイツゼッカ
ー
〉(任1984~1994)です。この再統一ドイツの大統領は形式的なもので,実権は連邦首相のキリスト教民主同盟の
〈
コー
ル
〉(任1982~1998)が握っています。〈コール〉による長期政権は,1998年に
〈
シュレーダ
ー
〉(任1998~2005)に継がれました。2005年からは初の女性首相にキリスト教民主同盟の
〈
メルケ
ル
〉(任2005~)が就任しています。
○197
9
年~現在のヨーロッパ 西ヨーロッパ
西ヨーロッ
パ
...①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ
ここではイベリア半島を除き,イタリアを含めた国々を西ヨーロッパに区分しています。
・
197
9
年~現在のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現①
イタリア
イタリア共和国では南北の経済格差や犯罪組織(マフィア)の暗躍などを乗り越え,経済成長を実現させていきました。1990年代に入るとEU(ヨーロッパ連合)の発足を受けてグローバル化の波に覆われる中,統一通貨ユーロに参加するために民営化や金融制度改革を実施し,財政赤字を縮小させました(1999年にGDP比約2%)。特に,実業家出身の
〈
ベルルスコー
ニ
〉首相(1994~95,2001~06,08~11)がフォルツァ=イタリア(FI,1994~2009)を率いて新自由主義的な政策をおこないましたが,国内では新自由主義に反対し中道左派連合
「
オリーブの
木
」を結成していた〈プローディ〉首相が政権を獲得しました。その後2001年に〈ベルルスコーニ〉率いる中道右派連合「自由の家」政権に戻った後,〈ベルルスコーニ〉の汚職や買春スキャンダルとともに
,
ギリシャ危
機
(⇒1979~現在のヨーロッパ バルカン半島 ギリシャ)
の影響からイタリアを含む南ヨーロッパ諸国
(メディアや金融機関によりポルトガル,イタリア,ギリシャ,スペインをあわせてPIGS(ピッグス)と呼ばれました。アイルランドを含めPIIGSと呼ぶこともあります)
経済に対する信用が低下する中で退陣を迫られました。後継の〈モンティ〉挙国一致内閣(任2011~13)は緊縮政策を進めましたが,反緊縮派の〈ベルルスコーニ〉派の人民の自由や,新勢力の
「
五つ星運
動
」が台頭するなど政党再編がすすみます。
以降,民主党の〈レッタ〉(任2013~14),〈レンツィ〉(任2014~16),〈ジェンティローニ〉(任2016~)の短命内閣が続く中,「五つ星運動」は着実に支持を伸ばし,2018年には既成政党に反対する「五つ星運動」の〈ディマイオ〉党首(1986~)が,移民に反対する政党「同盟」の〈サルビーニ〉書記長(1973~)と連立に向けた交渉に合意し,減税や貧困層向け政策がとられる見込みとなりました。
・
197
9
年~現在のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現②
サンマリノ
サンマリノ共和
国
は周囲をイタリアに囲まれた主権国家で,キリスト教民主党と社会党中心の左派勢力が連立する政権が続いていましたが,2000年以降は政界再編が進んでいます。
・
197
9
年~現在のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現③
ヴァチカン市国
教皇は他宗派との融和を図る方針を推進している
ヴァチカン市
国
は周囲をイタリアに囲まれた主権国家で,ローマ教皇(いわゆるローマ法王)が三権を掌握する体制をとっています。
ポーランド出身の
〈
ヨハ
ネ=
パウ
ロ2世
〉(位1978~2005)は,1980年代~1990年初めの東ヨーロッパ諸国での民主化運動に影響力を及ぼしました。異なる宗教や宗派との和解にも努め,2000年には
,
十字
軍
を含む過去2000年のローマ=カトリック教会による行いを謝罪するミサをおこなっています。
次代のドイツ出身の〈ベネディクト16世〉(位2005~13)は,ローマ教皇として初めてイギリスの
〈
エリザベス女
王
〉と会談しています。1534年の首長令以来,イギリスでは国教会が成立していましたから,歴史的な和解の始まりといえます。
また,彼は教皇として史上初めて,みずからの意志で退位しています。
2013年には,史上初の南アメリカ大陸出身の教皇〈フランシスコ〉(位2013~)が即位しています。
・
197
9
年~現在のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現④
マルタ
マルタ共和
国
では1971年から1987年まで労働党政権が続きましたが,国民党政権は西側諸国への友好関係を重視する政策に転換し,1989年にはアメリカ合衆国とソ連が冷戦の終結を表明し
た
マルタ会
談
の開催地となりました。
その後,国民党政権の下で2003年にはEU(ヨーロッパ連合)に加盟します。2013年には労働党政権に交替しています。
2017年には,労働党〈ムスカット〉首相(任2013~)の
「
パナマ文
書
」への関与について調査報道を行っていた女性記者が爆弾で殺害され,報道の自由が脅かされているのではないかと波紋を呼んでいます。
・
197
9
年~現在のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現⑤
モナコ
モナコ公国は周囲をフランスに囲まれた小国で,立憲君主制をとっています。フランス=モナコ保護友好条約によりフランスの保護下に置かれ,外交関係は制限されていました。観光業(カジノとF1が有名)や化学工業を中心に経済発展を遂げ,1993年には国際連合に加盟,2005年に〈レーニエ3世〉公(位1949~2005)が亡くなり,〈アルベール2世〉(任2005~)が後を継ぎました。
同年にはフランス=モナコ友好協力条約が締結され,外交面での制限が緩和。軍事的には領土の防衛をフランスが担当していますが,2005年の条約によりフランス軍の出動にはモナコの要請・同意を要することになっています。EUには加盟していませんが,ユーロを導入しています。
・
197
9
年~現在のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現⑥
アンドラ
アンドラ公
国
は,フランスとスペインの国境地帯に位置する小国で,歴史的な経緯を背景に,フランス大統領
(注
)
とスペインのウルヘル司教を共同の元首とする主権国家です。1993年に新憲法が承認されたことでアンドラ公国は主権国家として国際的に承認され,同年には国際連合に加盟しました。
(注)かつては司教からアンドラの領地を与えられていたフォア伯爵が領主でしたが,フォア伯爵がブルボン朝〈アンリ4世〉として即位して以来,フランス共和国に引き継がれていったのです。
・
197
9
年~現在のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現⑦
フランス
フランス共和
国
(第五共和制)
【東京H30[3]】
では,中道右派の
〈
ジスカー
ル=
デスタ
ン
〉(任1974~1981)が石油危機後の経済危機への対処に尽力します。アフリカでは,中央アフリカ帝国を建国した皇帝〈ボカサ1世〉(位1977~79)を承認しましたが,1979年に追放されフランスに亡命した〈ボカサ1世〉による贈賄が発覚すると〈ジスカール=デスタン〉への批判が高まりました
(⇒1979~現在のアフリカ 中央アフリカ)
。
1981年の選挙で勝利したフランス社会党の
〈
ミッテラ
ン
〉大統領(任1981~1995)は,有給休暇(ヴァカンス)制度の拡大や法定労働時間の縮小,死刑制度の廃止などの改革をおこない,長期政権を実現させました。1984年まではフランス共産党との連立内閣を組んでいました。〈ミッテラン〉は欧州統合にも積極的で,1985年に加盟国間の国境での審査をなく
す
シェンゲン協
定
に署名,1986年
に
単一欧州議定
書
を採択(1987年発効),1992年に
は
マーストリヒト条
約
を採択・署名(1993年発効)し
,
E
U
(ヨーロッパ連合)を発足させます。しかし,1986~1988年はUDRの〈シラク〉が,1993~1995年にはUDRの〈バラデュール〉が首相を務めたことから,大統領と首相の支持政党が異なり政権運営が困難な状態(コアビタシオン)となっています。
1995年には共和国連合(RPR)の
〈
シラ
ク
〉(任1995~2002)が大統領に選出されました。彼は包括的核実験禁止条約 (CTBT)を締結する前に,太平洋のフランス領ポリネシアのムルロア環礁で核実験を実施しています
(⇒1979~現在のオセアニア ポリネシア)
。1997~2002年にはフランス社会党の〈ジョスパン〉が首相を務めコアビタシオンとなっています。1999年には,性別を問わず事実婚をしているカップルに結婚に準じた扱いをする制度PACS(連帯市民協約)が導入されています。
2002年に〈シラク〉(任2002~2007)は,国民運動連合(UMP)を率いて大統領に再任しました(このとき,移民排斥やEUからの脱退を唱えた国民戦線の〈ル=ペン〉(1928~)を破っています)。2003年
の
イラク戦
争
に際しては,ドイツとともに派兵を拒否しました。欧州統合に積極的な政策を推進しましたが,移民の増加にともないフランス国内には統合の進展に反対する世論も台頭していきました。
2004年にはフランス的な政教分離(非宗教性
(
ライシ
テ
)といいます)の立場から,公立学校で女子生徒がスカーフを着用することを禁止する法律を制定
(注
)
。この宗教的標章法(宗教シンボル禁止法)
【東京H24[1]指定語句「注」が付いている】
は,大きな議論を呼びました。2005年にはパリ郊外で北アフリカ出身の移民が警察に追われて亡くなったことをきっかけに,貧困地区の若年層を中心に暴動に発展。〈シラク〉は引退を表明しました。
2007年に後任に選出されたのは,国民運動連合(UMP)の
〈
サルコ
ジ
〉(任2007~2012)です。2011年,公共の場で顔を覆うものを身につけることを禁止する法律(ブルカ禁止法)が制定され,イスラーム教徒の女性の着用するヒジャーブに対する規制として波紋を呼びました。2011年にはギリシャへの財政支援をドイツの〈メルケル〉首相とともに主導しますが,緊縮財政が国内で批判を呼び,2012年の選挙ではフランス社会党の
〈
オラン
ド
〉(任2012~2017)が勝利しました。〈オランド〉政権下では,2015年1月にシャルリ=エブド事件,同年11月
に
パリ同時テロ事
件
が発生し,国家非常事態を宣言。アメリカ合衆国やロシアとともに「イスラーム国」に対する軍事作戦に参加しました。
〈オランド〉は再選を目指さず,2017年には〈オランド〉政権の経済相を務めた
〈
マクロ
ン
〉(任2017~)が,既成の政党の枠を超えた"革新"を目指すとして共和国前進(EM,当初は「前進!」)を立ち上げて大統領に就任。新自由主義な政策を進めています。〈マクロン〉は西アフリカのマリ共和国の支援にも積極的で,EU(ヨーロッパ連合)におけるドイツとの連携も進めています。なお,〈ル=ペン〉(1968~,父(1928~)も政治家)は,大統領選では決選投票で〈マクロン〉に破れたものの,〈ル=ペン〉のイスラーム教徒に敵対的な発言はしばしば波紋を呼んでいます。
(注)伊東俊彦「フランスの公立学校における「スカーフ事件」について」『東京大学大学院人文社会系研究科・文学部哲学研究室応用倫理・哲学論集 (3)』 2006年,pp88-101。
・
197
9
年~現在のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現⑧
アイルランド
北アイルランド紛争が終結する
この時期、〈ブレア〉政権が多文化主義も推進し,1998年には北アイルランド問題の和平に関す
る
ベルファスト合
意
を実現させました。和平プロセスに尽力した北アイルランドの政治家〈ジョン=ヒューム〉(1937~)と〈トリンブル〉(1944~)は同年のノーベル平和賞を受賞しています。
アイルランド共和国では憲法でアイルランド語が第一公用語(英語が第二公用語)となっており、アイルランド語教育がおこなわれ、アイルランド語ができないと政界・官界入りができません。しかし、日常語としてアイルランド語を使用しているのは、大西洋岸の西部県(ゲール語使用地域;ゲールタハトと呼ばれます)の一部にすぎません
(注)
。
(注) 山本正『図説 アイルランドの歴史』(ふくろうの本)、河出書房新社、2017年、p.94。
・
197
9
年~現在のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現⑨
イギリス
「鉄の女」〈サッチャー〉が新自由主義的政策進める
イギリスでは"鉄の女"の異名をも
つ
保守
党
【本試験H8】
の
〈
サッチャ
ー
〉首相(任1979~1990)
【本試験H8時期(1970年代末から)】
が,大規模な規制緩和をともなう新自由主義的な改革をおこないました。
〈チャールズ〉王太子と〈ダイアナ〉(1961~1997)との結婚式が行われたのは,彼女の任期中の1981年のことです。〈サッチャー〉はアルゼンチンと
の
フォークランド紛
争
(1982~84年)
【東京H28[1]指定語句】
を通して愛国心を高めるとともに,1980年から90年にかけて石油・石炭・ガス・電気・航空・通信・水道・鉄鋼・自動車の国営企業
を
民営
化
していきました。これに対しては炭鉱でのストライキも起きています。
また「ビッグバン」と称して金融に関する規制を大幅に撤廃し,海外からの投資を活性化させようとしました。こうした政策によりイギリスにはヤッピーと呼ばれる都市部で専門職に従事する若者が出現。1988年には教育改革を行い,イギリスの威信を高める歴史教育など全国的なカリキュラムをつくり,共通学力テストも導入しました。
1991年にソ連が崩壊し,東ヨーロッパが自由主義経済圏になると,相互の取引も始まっていきました。イギリスの〈サッチャー〉首相は,EC(ヨーロッパ共同体)が各国の主権に対して口出しができるようになることを恐れ,通貨統合にも反対でした。その一方,1992年
に
マーストリヒト条
約
が調印され,1993年11月にEC12か国によっ
て
ヨーロッパ連
合(
E
U
)
が成立しました。
イギリスでは〈サッチャー〉首相を継いだ保守党の〈メイジャー〉(任1990~1997年)首相が,通貨統合に加わらない条件で,EU(ヨーロッパ連合)への加盟に踏み切りました。
労働党〈ブレア〉首相が「第三の道」政策をとる
イギリスでは保守党の〈メイジャー〉首相に代わり,労働党でスコットランド人の
〈
ブレ
ア
〉首相(任1997~2007)が政権を獲得しました。彼はブレーンに社会学者の〈ギデンズ〉を登用し,グローバル化の波に対して市場主義でも社会民主主義でもない
「
第三の
道
」に基づく政策を実行していきました。
〈ブレア〉は多文化主義も推進し,1998年には北アイルランド問題の和平に関す
る
ベルファスト合
意
を実現させました。和平プロセスに尽力した北アイルランドの政治家〈ジョン=ヒューム〉(1937~)と〈トリンブル〉(1944~)は同年のノーベル平和賞を受賞しています。
しかし,アメリカ合衆国との同盟関係を重視した結果,イラク戦争への参戦は国際的な批判も浴び,2007年に労働党〈ブラウン〉(任2007~2010)首相に引き継ぎました。しかし2008年に世界金融危機のあおりを食らい,2010年には保守党の〈キャメロン〉政権(任2010~2016)に交替しました。
ヨーロッパ連合(EU)は,2002年に共通通貨
の
ユー
ロ
【本試験H26ドル,ポンド,マルクではない】
を導入しましたが,イギリスは通過のポンドを維持しています。
EUが経済的な統合をさらに政治的な統合へとレベルアップさせようと,2004年にはヨーロッパ憲法条約(EU新憲法)が調印され,政治的な統合をも目指しましたが,2005年にフランスとオランダが批准を拒否。「『憲法』が定められてしまうと,EU全体の都合で,国家の主権が制限されてしまう」というのが理由です。EUの旗や歌まで定められていたこのヨーロッパ憲法条約を再検討したもの
が
リスボン条
約
です。2007年に調印され,2009年に発効しました。
EU離脱問題
(Brexit)
が波紋を呼んでいる
そんな中,ヨーロッパもアメリカ発
の
世界同時不
況
(
リーマ
ン=
ショッ
ク
)のあおりを受けるとともに,ギリシアやイタリアの財政危機によって,ユーロの信用が低下。財政支援をするかいなかを巡り,加盟国間で対立が起きています。
イギリスでは不況の影響で貧困層(アンダークラス)の就労支援が急務となりますが,2004年に相次いで加盟したポーランドを始めとす
る
東ヨーロッパからの出稼ぎ移
民
が増加し,貧困層の外国人労働者に対する不満が高まっていきました。彼らの不満を吸収し,EU(ヨーロッパ連合)からの脱退を主張するイギリス独立党が,2014年に欧州議会選挙で第一党となるなど
,
欧州懐疑主
義
(EUに対する疑問を唱える主張)が目立つようになっていきました。2014年に
は
スコットランドで独立の賛否を問う住民投
票
が行われ,賛成55%・反対44%で否決されています。2016年にはイギリスでEUからの脱退を問う国民投票が行われ,僅差で脱退派が上回ると〈キャメロン〉首相は辞任し,保守党の〈メイ〉首相(2016~)に交替しました。イギリスのEUからの脱退は,イギリス(Britain)+脱退(Exit)をあわせてブリグジット(
Brexit
)とメディアにより表現されています。〈メイ〉首相はEU脱退に向けた手続きを進めています。
・
197
9
年~現在のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現⑩
ベルギー
冷戦後のヨーロッパでは,各地で少数民族や言語をめぐる対立が活発化していきました。
オランダ語系のフラマン語を使用する北部と,フランス語系のワロン語を使用する南部とで長年対立の続いてい
た
ベルギー王
国
は,1993年の憲法改正で,地域と言語の両方を考慮した地域区分による連邦制を採用しました。2016年3月には首都ブリュッセルで連続テロ事件が発生し,イスラーム国との関連があるとされています。
・
197
9
年~現在のヨーロッパ 西ヨーロッパ
現⑪
オランダ
オランダ王国は立憲君主制をとっており,1980年に〈ユリアナ〉女王(位1948~80)が譲位し,〈ベアトリクス〉女王(位1980~2013)が即位しています。1973年の第一次石油危機後には不況に見舞われます(いわゆる
"
オランダ
病
")が,労使が協力関係をとってワークシェアリングを普及させ,1990年代には失業率が低下し経済成長を果たしました。ライン川の河口に位置するロッテルダム港(ユーロポート)は,ヨーロッパ最大の港に発展し,国際貿易の中心の一つとなっています。
オランダはNATO参加国として,アメリカ合衆国との関係を重視してきました。また,ヨーロッパ連合の発足を定め
た
マーストリヒト条
約
の調印地でもあります。しかし,EUと距離を置く世論も台頭し,2005年の欧州憲法条約をめぐる国民投票は,フランスに続いて否決の選択をしています。
2000年代以降は,イスラーム教徒の移民に対する排斥を掲げる極右政党である自由党(2006年創立)が議席を伸ばし,2010年には自由民主国民党の〈ルッテ〉(任2010~)に閣外協力を果たし,2011年にはイスラーム教徒の女性が身につけるブルカを禁止する法案を成立させています。
○197
9
年~現在のヨーロッパ イベリア半島
イベリア半
島
...
①
スペイ
ン
,
②
ポルトガル
・
197
9
年~現在のヨーロッパ イベリア半島
現①
スペイン
スペインでは独裁者〈フランコ〉(1892~1975)が1975年に死去すると,同年
に
ブルボン
朝
の
〈
フア
ン=
カルロス1
世
〉(位1975~2014)が復位し
,
スペイン王
国
が復活していました。
1977年に民主化後、初の総選挙が実施されます。
民主化のプロセスの中で、「スペインが真の民主主義国家となるまで」、〈ピカソ〉の以来によりアメリカ合衆国のMoMAに"亡命"させられていた「ゲルニカ」が1981年にプラド美術館に返還されました(返還先はバスク地方とはなりませんでした)
(注)
。
1986年に
は
E
C
(
ヨーロッパ共同
体
)に加盟
【早政H30】
し,1992年にはバルセロナでオリンピックを開催しています。2014年には国王が生前退位し〈フェリペ6世〉(位2014~)が即位しました。
スペインでは歴史的に独自の文化・言語を持つバスク地方,カタルーニャ地方の自治・独立運動が盛んで,バスク地方を拠点とする暴力的な
「
バスク祖国と自
由
」(ETA)の反政府テロが1959年以降続いていましたが,2011年には休戦し,現在は武装解除されています。
一方,カタルーニャ州では2015年の州議会選挙で独立派が過半数の議席を獲得し,独立の手続きを開始しました。この動きは憲法裁判所により違憲とされたものの,2017年には独立を問う州民投票の結果,独立賛成派が9割以上を獲得したため州議会は独立を宣言
(
カタルーニャ州の独立宣
言
)。これに対して政府は州議会を解散しましたが,同年末の州議会でも独立派が議席の過半数を占め,政府との対立は続いています。
なお,バルセロナのサグラダ=ファミリア大聖堂は2026年の完成を目指して建設がすすめられています。
主任彫刻家は日本の〈外尾悦郎〉(そとおえつろう,1956~)です
。
(注)原田マハ『暗幕のゲルニカ』新潮社、2016年。「ゲルニカ」を題材とした小説。
・
197
9
年~現在のヨーロッパ イベリア半島
現②
ポルトガル
独立後の経済危機に苦しんだ
②
ポルトガル共和
国
は,1976年にEC(ヨーロッパ共同体)への加盟申請をおこない,1985年に加盟条約に調印(発効は1986年)しました
【早政H30】
。ポルトガルは援助金を獲得し,従来の"お得意様"であったイギリスに代わって大陸諸国(フランス,ドイツ,スペイン)との貿易が盛んとなりました。
社会党の〈ソアレス〉大統領は1986年に再選,1991年に再々選され,1987年・1991年には社会民主党が勝利して〈シルヴァ〉首相が就任しました。
1992年にはマーストリヒト条約を批准しEU(ヨーロッパ連合)に加盟することになりましたが,ポルトガルの経済は経済自由化の波にさらされ,停滞します。
1996年には,ポルトガルと旧植民地のアンゴラ,モザンビーク,カボ=ヴェルデ,サン=トメ=プリンシペ,ギニアビサウ,ブラジルにより「ポルトガル語諸国共同体」が創設されました(2002年に東ティモール。2014年に赤道ギニアが加盟)。和和平プロセスが続いていた東南アジア
の
東ティモー
ル
で1999年に住民投票がおこなわれ,2002年に独立しました。和平に尽力した〈ベロ〉司教(1948~)と第二代大統領〈ラモス〉(任2007~15)は1996年にノーベル平和賞を受賞しています。
・
197
9
年~現在のヨーロッパ 北ヨーロッパ
現③
アイスランド
アイスラン
ド
では,漁業資源を保護するための経済水域の設定をめぐり,1973年以降イギリスとの対立が深まりました。1974年には国連の国際海洋法会議で200カイリ経済水域の設定が提唱されると,アイスランドは1975年に経済水域の拡大を宣言し,イギリスがアイスランドのトロール船創業に対し軍艦を出動させる事態に発展しました
(
タラ戦
争
)。タラ戦争は1976年に終結し,アイスランドは漁業資源をイギリスから守りました。
・
197
9
年~現在のヨーロッパ 北ヨーロッパ
現④
デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島
グリーンラン
ド
はデンマークの「一地方」とされていましたが,1973年にデンマークEC(ヨーロッパ共同体)に加盟すると自治の要求が高まり,1979年の住民投票で自治政府が成立しました。1982年の住民投票で離脱派が上回ると1984年に自治議会は離脱を可決し,翌1985年にはグリーンランドはECから有利な条件で離脱しました。同年にはグリーンランドの地名がデンマーク語からイヌイット語(グリーンランドは
,
カラーリッ
ト=
ヌナー
ト
)に変更されるなど,イヌイット友愛党による独立に向けた運動は続けられています。
フェロー諸
島
はデンマーク領です。国家元首はデンマーク国王ですが,行政には自治が認められています。独立運動も起こっています。
・
197
9
年~現在のヨーロッパ 北ヨーロッパ
現⑤
ノルウェー
ノルウェ
ー
はビートルズの「ノルウェーの森」(「森」の原義は「家具」であるようです)で知られるように,林業や漁業,海運,鉄鉱石などの鉱業とその関連産業が主要な産業でした。
しかし,1969年に北海で巨大な油田(エコフィスク油田)が発見されたことが,石油危機にともなう経済低調の救世主となりました。
ただ,その後の1980年代後半の石油国際価格の暴落にともない,ノルウェー経済も打撃を受けています。
1970年後半以降は保守党が躍進していきました。1981年に労働党が敗北し保守党内閣が成立しました。1985年以降は急進右派の進歩党が台頭し,1989年の総選挙で第三党になります。
1990年には保守連立内閣が分裂し
,
労働
党
政権の下で1994年のEU加盟を問う国民投票は否決され,EU加盟には至りませんでした。
1993年には,ノルウェー首相が中東問題を仲介し,パレスチナの自治を認め
る
オスロ合
意
が成立しています。その後も世界各地の紛争の和平プロセスに関与し,独自の位置を占めるようになっています(注)。
(注)「ノルウェーの中東関与」,放送大学,
http://www.takahashi-seminar.jp/books/20100921.html
・
197
9
年~現在のヨーロッパ 北ヨーロッパ
現⑥
スウェーデン
スウェーデンでは反移民の政党が躍進している
スウェーデンでは,社会主義政党ではない政党による連立政権が続き,その中で原子力発電所の設置は大きな争点となりました(1988年の国会決議では2010年までに全原子炉の廃炉を決定しましたが,その後政策が転換されました)。1982年には社会民主党が政権に復帰しましたが,86年に〈パルメ〉首相が暗殺され〈カールソン〉副首相があとを継ぎ,88年には〈カールソン〉が政権を維持しました。しかし1990年代の不況はスウェーデンを直撃し,EUに加盟する機運が高まりました。
1991年の総選挙で社会民主党が敗北し,保守中道連立政権となりましたが,1992年には通貨危機が起き,社会民主党政権が復活しました。
1992年にはバルト海諸国理事会の本部
が
ストックホル
ム
に置かれています。
〈カールソン〉首相の下,1994年に
は
E
U
(ヨーロッパ連合)に国民投票の結果,1995年に加盟しています。
社会民主党はスウェーデン型の福祉国家づくりのため改革を続けますが,2006年には中道右派連合に敗れます。その後,2014年に社会民主党が政権を回復しますが,2018年には移民受け入れに反対する右派のスウェーデン民主党が議席を伸ばしています(第三党)。
南極は「どこの国でもない」ことになっている
1959年締結
の
南極条
約
により,締結国間の平和的利用や科学的調査の自由と国際協力などが定められています。しかし,これ以前の主張された各国の領有権が,完全に否定されたわけではありません。
以上
書籍
・『世界各国史 全28巻』山川出版社
・『世界の歴史 全30巻』中央公論新社
・『シリーズ世界史への問い 全10巻』岩波書店
・『岩波講座 世界歴史 全29巻』新版 岩波書店
・『世界史史料 全12巻』岩波書店
・『世界歴史大系』シリーズ,山川出版社
・『物語○○の歴史』シリーズ 中公新書,中央公論新社。
・木村靖二他編『詳説世界史研究』山川出版社,2017
・全国歴史教育研究協議会『世界史用語集』(山川出版社)
・亀井高孝他『世界史年表・地図』吉川弘文館,2017
・『~を知るための...章 エリア・スタディーズ』各巻 明石書店
・『ニューステージ世界史詳覧』浜島書店
・『山川 詳説世界史図録 第2版』山川出版社,2017
・『最新世界史図説 タペストリー 十六訂版』帝国書院,2018
・『新世紀図説 世界史のパサージュ』とうほう
他(邦書の近刊を中心に)
全般,グローバル・ヒストリー
W.H.マクニール『疾病と世界史』新潮社,1985 / 大江一道『新物語世界史への旅』山川出版社,2003 / 梅棹忠夫『文明の生態史観』中央公論社,1967 / 川勝平太『文明の海洋史観』中央公論社,1997 / 水島司編『グローバル・ヒストリーの挑戦』山川出版社,2008 / カール・ポランニー『経済の文明史』筑摩書房,2003 / 神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年 / ウィリアム・H・マクニール『世界史(上下)』中公文庫,2008 / 伊藤章治『ジャガイモの世界史―歴史を動かした「貧者のパン」』中公新書,2008 /川島真・貴志俊彦編『資料で読む世界の8月15日』山川出版社、2008 / 濱下武志『朝貢システムと近代アジア』岩波書店,2013 / ケネス・ポメランツ『大分岐』名古屋大学出版会,2015 / ユヴァル・ノア・ハラリ,柴田裕之『サピエンス全史 上・下』河出書房新社,2016 / 羽田正『グローバル・ヒストリーの可能性』山川出版社,2017 / 角山栄『茶の世界史』中公新書,(1980)2017 / 岡本隆司『世界史序説』筑摩書房,2018 / 秋田茂『大分岐を超えて:アジアから見た19世紀論再考』ミネルヴァ書房,2018パミラ・カイル・クロスリー『グローバル・ヒストリーとは何か』岩波書店,2012,川北稔『砂糖の世界史』岩波書店,1996 / 山田篤美『真珠の世界史』中公新書,2013 / 石弘之・石紀美子『鉄条網の歴史―自然・人間・戦争を変貌させた負の大発明』洋泉社、2013 / ティモシー・ブルック『フェルメールの帽子――作品から読み解くグローバル化の夜明け』岩波書店、2014 / ジャレド・ダイアモンド,秋山勝訳『若い読者のための第三のチンパンジー』草思社文庫,2017 / 山本紀夫『トウガラシの世界史』中公新書,2016 / 藤原辰史『トラクターの世界史』中公新書,2017 / 桃木至朗他『市民のための世界史』 大阪大学出版会,2014 / 秋田茂『「世界史」の世界史』ミネルヴァ書房,2016 /川北稔『世界システム論講義: ヨーロッパと近代世界 (ちくま学芸文庫)』筑摩書房,2016 / チャールズ・マン,鳥見真生訳『1493〔入門世界史〕』あすなろ書房,2017 / ウィリアム・H・マクニール,ジョン・R・マクニール,福岡洋一訳『世界史 I ── 人類の結びつきと相互作用の歴史』楽工社,2015 /妹尾達彦『グローバル・ヒストリー』中央大学出版部,2018 / 長谷川修一・小澤実『歴史学者と読む高校世界史: 教科書記述の舞台裏』勁草書房,2018 / 北村厚『教養のグローバル・ヒストリー:大人のための世界史入門』ミネルヴァ書房,2018
思想・宗教
青木健『古代オリエントの宗教』講談社,2012 / 青木健『ゾロアスター教』講談社,2008 / 阿部美哉『比較宗教学』大法輪閣,2014 / 本村凌二『多神教と一神教―古代地中海世界の宗教ドラマ』岩波新書,2005 / ロバート・ルイス・ウィルケン,大谷哲他訳『キリスト教一千年史(上・下)地域とテーマで読む』白水社,2016 / 市川裕『ユダヤ人とユダヤ教』岩波新書,2019 /中田考・橋爪大三郎『クルアーンを読む』太田出版、2015
経済・人類・社会
フィオレンツォ・ファッキーニ,片山 一道訳『人類の起源』同朋社,1993 / 山本紀夫「植物の栽培化と農耕の誕生」『アメリカ大陸の自然誌3:新大陸文明の盛衰』岩波書店,1993 / マーシャル・サーリンズ,山内昶訳『石器時代の経済学』法政大学出版局,2012 / 山本紀夫『中央アンデス農耕文化論―とくに高地部を中心として―』人間文化研究機構国立民族学博物館,2014 / 金井雄一他編『世界経済の歴史―グローバル経済史入門』名古屋大学出版会,2010 / 中村生雄他編『狩猟と供犠の文化誌 (叢書・文化学の越境)』森話社,2007年 / 山内昶『経済人類学への招待』ちくま新書,1994 / 伊藤亜人他編『現代の社会人類学3 国家と文明への過程』東京大学出版会,1987 / 嶋田義仁『牧畜イスラーム国家の人類学―サヴァンナの富と権力と救済』世界思想社,1995 / 鶴見良行『ナマコの眼』筑摩書房,1993 / 『講座 世界の先住民族―ファースト・ピープルズの現在)』明石書店,2005~2007 / 橋口尚武『黒潮の考古学 (ものが語る歴史シリーズ)』同成社,2001 / ジャン=ジグレール(勝俣誠監訳,たかおまゆみ訳)『世界の半分が飢えるのはなぜ? ―ジグレール教授がわが子に語る飢餓の真実』合同出版,2003
南北アメリカ大陸
大西直樹『ピルグリム・ファーザーズという神話―作られた「アメリカ建国」』講談社,1998年 / 増田義郎,島田泉,ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS,2000 / 青山和夫『古代メソアメリカ文明――マヤ・テオティワカン・アステカ』講談社,2007 / 網野徹哉『インカとスペイン帝国の交錯』講談社,2008 / アーヴィング=ラウス,杉野目康子訳『タイノ人―コロンブスが出会ったカリブの民』法政大学出版局,2004 / 実松克義『驚異のアマゾン文明』講談社,2004 / 青山和夫『古代メソアメリカ文明――マヤ・テオティワカン・アステカ』講談社,2007 / 大貫良夫『古代アンデス 神殿から始まる文明』朝日新聞出版,2010 / 川島浩平・島田法子編 『地図でよむアメリカ―歴史と現在』雄山閣出版,1999(先住民の分布等) / 堀坂浩太郎『ブラジル―飛躍の奇跡』岩波書店,2012 /山本紀夫『中央アンデス農耕文化論―とくに高地部を中心として―』人間文化研究機構国立民族学博物館,2014 / 実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館,2016 /芝崎みゆき『古代マヤ・アステカ不可思議大全』草思社,2010 / 綾部恒雄・富田虎男(『講座世界の先住民族 ファースト・ピープルズの現在 北米』明石書店,2005
オセアニア
春日直樹『オセアニア・オリエンタリズム』世界思想社,1999 / ブロニスワフ・マリノフスキ,増田義郎訳『西太平洋の遠洋航海者』(講談社学術文庫,2010年 / 矢野將編 『オセアニアを知る事典』 平凡社,1990
中央ユーラシア
大林太良『中央ユーラシアの世界』山川出版社, 1990/ 間野英二他編『内陸アジア』(地域からの世界史6)朝日出版社,1998 / 藤川繁彦『中央ユーラシアの考古学』同成社,1999 /小松久男他編『中央ユーラシアを知る事典』平凡社,2005 / 岩村忍『文明の十字路=中央アジアの歴史』 講談社,2007 / 杉山正明『遊牧民から見た世界史 増補版』日本経済新聞社,2011 / 小松久男他編『中央ユーラシア史研究入門』山川出版社,2018 / クリストファー・ベックウィズ『ユーラシア帝国の興亡: 世界史4000年の震源地』筑摩書房,2017
▽東アジア
貝塚茂樹『中国の歴史 上』岩波書店,1964 / 山田慶児『授時暦の道―中国中世の科学と国家』みすず書房,1980 / 渡辺信一郎『中国古代社会論』青木書店,1986 / 西嶋定生『中国古代国家と東アジア世界』東京大学出版会,1983 / 中村圭爾『魏晋南北朝隋唐時代史の基本問題』汲古書院,1997 /阪倉篤秀『長城の中国史 中華VS.遊牧 六千キロの攻防』2004,講談社 / 柿沼陽平『中国古代の貨幣――お金をめぐる人びとと暮らし』吉川弘文館,2015 / 『概説中国史〈上〉古代―中世』『概説中国史〈下〉近世―近現代』昭和堂,2016 / 『シリーズ中国近現代史』岩波書店,2010~2017(近現代史) / 濱下武志『香港―アジアのネットワーク都市』筑摩書房,1996 / 濱下武志『朝貢システムと近代アジア』岩波書店,2013 / ルシオ=デ=ソウザ,岡美穂子『大航海時代の日本人奴隷』中央公論新社,2017 / 入間田宣夫・斉藤利男・小林真人編『北の内海世界―北奥羽・蝦夷ヶ島と地域諸集団』山川出版社,1999 / 村井章介『世界史のなかの戦国日本』筑摩書房,2012 /平川新 『戦国日本と大航海時代―秀吉・家康・政宗の外交戦略』 中央公論新社,2018/曺喜昖, 李泳釆・監訳,牧野波・訳『朴正煕 動員された近代化: 韓国,開発動員体制の二重性』彩流社,2013 / ドイツ館史料研究会編『「どこにいようと そこがドイツだ」―板東俘虜収容所入門(第4版)』鳴門市ドイツ館、2017年
▽東南アジア
桃木至朗『歴史世界としての東南アジア』山川出版社,1996 / 石澤良昭『アンコールからのメッセージ』山川出版社,2002 / 石澤良昭『アンコール・王たちの物語―碑文・発掘成果から読み解く』NHKブックス,2005 / 末廣昭『タイ―中進国の模索』岩波書店,2009 /岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年
▽南アジア
クシティ・モーハン・セーン『ヒンドゥー教』講談社,1999 /竹中千春『盗賊のインド史 帝国・国家・無法者(アウトロー)』有志舎,2010
▽西アジア
後藤健『メソポタミアとインダスのあいだ─知られざる海洋の古代文明』筑摩書房,2015 /加藤博『イスラム世界の経済史』NTT出版,2005 / アブドルバーリ=アトラーン『イスラーム国』集英社,2015 / 蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018
アフリカ
古代オリエント学会編『古代オリエント事典』岩波書店,2004年 / 宮本正興他『新書アフリカ史』講談社,1997 / 福井勝義他『アフリカの民族と社会』中公文庫,2010 / 前川一郎『イギリス帝国と南アフリカ―南アフリカ連邦の形成 1899~1912』ミネルヴァ書房,2006 / 山口直彦『エジプト近現代史―ムハンマド=アリ朝成立から現在までの200年』明石書店,2006
ヨーロッパ
北村暁夫『イタリア史10講』岩波書店、2019年 / 橋場弦『民主主義の源流 古代アテネの実験』講談社,2016 / 尚樹啓太郎『ビザンツ帝国の政治制度 (東海大学文学部叢書)』東海大学出版会,2005 / 角谷英則『ヴァイキング時代』京都大学学術出版会,2006 / 樺山紘一『パリとアヴィニョン―西洋中世の知と政治』人文書院,1990 / リチャード・キレーン,岩井淳他訳『図説 スコットランドの歴史』彩流社,2002 / 菊池良生 『傭兵の二千年史』講談社,2002 / 高木徹『戦争広告代理店』講談社,2005 / 玉木俊明『北方ヨーロッパの商業と経済―1550~1815年』知泉書館,2008 / 玉木俊明『海洋帝国興隆史 ヨーロッパ・海・近代世界システム』講談社,2014 / 玉木俊明『近代ヨーロッパの形成:商人と国家の近代世界システム 』創元社,2012 /南直人『〈食〉から読み解くドイツ近代史』ミネルヴァ書房,2015年 / ウィリアム・マリガン,赤木完爾・今野茂充訳『第一次世界大戦への道:破局は避けられなかったのか』慶應義塾大学出版会,2017 / 長谷川貴彦『イギリス現代史』岩波書店,2017 /高木徹『戦争広告代理店』講談社,2005
検定教科書
・三浦徹ほか『新選世界史B』東京書籍,2017検定
・福井憲彦ほか『世界史B』東京書籍,2016検定
・松本宣郎・木畑洋一ほか『世界史B 新訂版』実教出版,2016検定
・川北稔ほか『新詳 世界史B』帝国書院,2016検定
・岸本美緒・羽田正・久保文明・南川高志ほか『新世界史 改訂版』山川出版社,2017検定
・木村靖二・岸本美緒・小松久男ほか『高校世界史 改訂版』山川出版社,2017検定
・木村靖二・岸本美緒・小松久男ほか『詳説世界史 改訂版 』山川出版社,2016検定
・加藤晴康ほか 『世界史A』東京書籍,2016検定
・平田雅博・飯島渉ほか『世界史A 新訂版』実教出版,2016検定
・木畑洋一ほか『新版世界史A 新訂版』実教出版,2016検定
・上田信・大久保桂子・設樂國廣・原田智仁・山口昭彦ほか『高等学校 世界史A 新訂版』清水書院,2016検定
・岡崎勝世ほか『明解 世界史A』帝国書院,2016検定
・木村靖二・岸本美緒・小松久男ほか『要説世界史 改訂版』山川出版社,2017検定
・近藤和彦・岸本美緒・中野 隆生・林佳世子ほか『現代の世界史 改訂版』山川出版社,2016検定
・近藤和彦・羽田正ほか『世界の歴史 改訂版』山川出版社,2016検定
・曽田三郎ほか『高等学校 改訂版 世界史A』第一学習社,2016検定
地図
・地図データは,「世界の地図・世界の国旗」(http://www.abysse.co.jp/world/link.html)を使用。
上記参考文献のほかに,以下を参照。
・『最新世界史図説 タペストリー』帝国書院,2017
・『山川 詳説世界史図録 第2版』山川出版社,2016
・ジョン・ヘイウッド,蔵持不三也(日本語版監修),松平俊久・松田俊介訳『世界の民族・国家興亡歴史地図年表』柊風舎,2013
・ジェレミー・ブラック,牧人舎訳『世界史アトラス』集英社,2001
世界遺産
・世界遺産検定事務局『くわしく学ぶ世界遺産300<第2版>世界遺産検定2級公式テキスト』マイナビ出版,2017
・世界遺産検定事務局『すべてがわかる世界遺産大事典<上><下> 世界遺産検定1級公式テキスト』マイナビ出版,2016。(内容には誤記も多い)
その他,本文内に(注)を付して示した。
年号,在位年などは,西川正雄『角川世界史辞典』(角川書店,2001),ブリタニカ国際百科事典電子版を参照した。
終